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特設護衛船団司令部

索引 特設護衛船団司令部

特設護衛船団司令部(とくせつごえいせんだんしれいぶ)とは、日本海軍が太平洋戦争中に大規模な護送船団の指揮のために編成した部隊である。司令官のほかに固有の幕僚・戦闘兵力を持たない点が特色で、船団の運航に際して臨時の参謀を加え、適宜集められた護衛艦艇を指揮下に入れた。本項目では、固有の戦闘兵力を有する発展的な護衛専門部隊として編成された部隊番号100番台の戦隊についても述べる。

目次

  1. 82 関係: 占守 (海防艦)占守型海防艦南号作戦南西方面艦隊参謀多号作戦大井篤大佐大東 (海防艦)大湊警備府大日本帝国海軍太平洋戦争宗谷海峡小笠原諸島少将将官巡洋艦丁型海防艦丙型海防艦幕僚伊集院松治佐官御蔵 (海防艦)御蔵型海防艦北海道空襲マリアナ諸島バーニー作戦トリガー (SS-237)ヒ40船団ヒ71船団ヒ72船団ヒ86船団ヒ船団ニューギニア島アメリカ海軍オホーツク海グラティテュード作戦シーレーンスカベンジャー作戦八丈 (海防艦)国後 (海防艦)福江 (海防艦)竹一船団第3503船団第3606船団第三十一戦隊第九〇一海軍航空隊第五十一戦隊群狼作戦絶対国防圏... インデックスを展開 (32 もっと) »

占守 (海防艦)

軍艦占守(しむしゅ)は、日本海軍の海防艦補助艦艇奮戦記242-244頁『占守(しむしゅ)』#達昭和14年11月p.10『達第百九十號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十三年度及昭和十四年度ニ於テ建造ニ着手ノ海防艦一隻及驅逐艦一隻ニ左ノ通命名ス 昭和十四年十一月六日 海軍大臣 吉田善吾 株式會社玉造船所ニ於テ建造 海防艦 占守(シムシユ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 浦風(ウラカゼ)』。

見る 特設護衛船団司令部と占守 (海防艦)

占守型海防艦

占守型海防艦(しむしゅがたかいぼうかん)は、大日本帝国海軍の海防艦海防艦発達史,田村尚也,帝国陸海軍補助艦艇―総力戦に必要とされた支援艦艇群の全貌〈歴史群像〉太平洋戦史シリーズ(37),P102-109,学習研究社,2002年, ISBN 9784056027808。オホーツク海など北方海域での行動に最適化して建造された。太平洋戦争中は船団護衛にも用いられた。同型艦は4隻。基本計画番号E15、甲型海防艦とも呼ばれる。

見る 特設護衛船団司令部と占守型海防艦

南号作戦

南号作戦(なんごうさくせん)は、太平洋戦争末期に日本海軍の実施した資源輸送作戦のことである#叢書79中国方面海軍作戦(2)459-460頁『南号作戦』。1945年(昭和20年)1月下旬から3月下旬まで、シンガポール方面から日本本土へ向けて、10隊以上の護送船団を航行させたが、撃沈された船舶や艦艇も多い。

見る 特設護衛船団司令部と南号作戦

南西方面艦隊

南西方面艦隊(なんせいほうめんかんたい)は戦史叢書102巻、530頁「南西方面艦隊」、大日本帝国海軍によって1942年(昭和17年)4月10日戦史叢書102巻、115頁「昭和17年(1942年)4月10日」に編制された艦隊である戦史叢書102巻、524-526頁「付録第77 陸海軍の組織・編制関係概見表(昭和12年~20年)」「(7)大東亜戦争間における艦隊の新設・解隊」。 軍隊符号はGKF。 連合艦隊軍隊区分では、南西方面部隊(昭和17年5月20日、南方部隊より改称)となる。担当地域は前線から離れていたものの、太平洋戦争後半の連合軍フィリピン反攻の際は最前線部隊として交戦した。

見る 特設護衛船団司令部と南西方面艦隊

参謀

参謀(さんぼう、、、)とは、作戦・用兵などに関して計画・指導にあたる将校。幕僚(ばくりょう)とも呼ばれるが、大日本帝国軍の「参謀」は「幕僚」の下位概念であり、自衛隊では「参謀」の語は用いず「幕僚」に統一されている。

見る 特設護衛船団司令部と参謀

多号作戦

多号作戦(たごうさくせん)は、大東亜戦争末期のフィリピンの戦いで戦史叢書54巻445頁「一 全般経過の概要」「米軍レイテ、ミンドロに上陸」、日本陸軍と日本海軍が協同で実施したレイテ増援輸送作戦のこと戦史叢書93巻51頁「レイテ戦局の悪化と第一師団の緊急輸送/レイテ増援輸送作戦を多号作戦と呼称」日本水雷戦史548-549頁「多号第二~四次船団」。 主な揚陸地の名をとりオルモック輸送作戦とも呼ばれる。 1944年(昭和19年)10月末から12月上旬まで、レイテ島地上戦にともなうレイテ島西岸オルモックへの増援部隊輸送を第1次(当初は鈴二号作戦と呼称)から第9次作戦まで繰り返された戦史叢書54巻448-449頁「増援兵力の輸送」。第10次作戦も予定していたが、12月15日の連合軍ミンドロ島上陸にともなうミンドロ島地上戦の生起により、多号作戦は中止された。

見る 特設護衛船団司令部と多号作戦

大井篤

大井 篤(おおい あつし、1902年(明治35年)12月11日 - 1994年(平成6年)12月27日)は、日本の海軍軍人。海兵51期・海大34期。最終階級は海軍大佐。 大東亜戦争(太平洋戦争)中に海上護衛総司令部参謀を務め、戦後に『海上護衛戦』(日本出版共同、1953年)を上梓したことで知られる。

見る 特設護衛船団司令部と大井篤

大佐

大佐(たいさ)は、軍隊の階級のひとつ。軍階級上では佐官に区分され、少将または准将の下、中佐の上に位置する。 昭和期の日本海軍では「だいさ」とも呼ばれた(#旧日本軍参照)。

見る 特設護衛船団司令部と大佐

大東 (海防艦)

大東(だいとう)は、日本海軍の海防艦。普遍的には日振型海防艦の2番艦とされており、本艦を鵜来型海防艦に含める文献も存在するが、海軍省が定めた艦艇類別等級では御蔵型海防艦の9番艦。

見る 特設護衛船団司令部と大東 (海防艦)

大湊警備府

大湊警備府(おおみなとけいびふ)は、青森県大湊に所在した大日本帝国海軍の警備府。現在の海上自衛隊大湊地方隊に相当する(ただし地方隊は鎮守府相当)。 この項では前身の大湊要港部を含めて記述する。

見る 特設護衛船団司令部と大湊警備府

大日本帝国海軍

大日本帝国海軍(だいにっぽんていこくかいぐん、だいにほんていこくかいぐん、、Imperial Japanese Navy、IJN)は、1872年(明治5年) - 1945年(昭和20年)まで日本に存在していた海軍である。通常は、単に海軍や帝国海軍、日本海軍と呼ばれた。 解体後は、海上自衛隊との区別などのため、旧日本海軍もしくは旧帝国海軍または旧海軍とも呼ばれている。第二次世界大戦の後、残存部隊は改組を経て現在、海上自衛隊のほか関連する国家機関等になっている。

見る 特設護衛船団司令部と大日本帝国海軍

太平洋戦争

太平洋戦争(たいへいようせんそう、Pacific War)は、1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)まで行われた戦争であり、第二次世界大戦の局面の一つである。 日本などの枢軸国とアメリカ、イギリス、中国などの連合国の間で行われた戦争であった。1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃とマレー作戦によって始まったが、実際には以前から日中戦争(支那事変)が続いており、その継続としての側面もある。1945年(昭和20年)8月14日、日本政府はポツダム宣言の無条件受諾による降伏を連合国に通告、翌8月15日の玉音放送で日本国民に終戦が伝えられた。同年9月2日、日本政府が降伏文書に署名し、戦争は正式に終結した。なお、これ以降もソ連軍の侵攻などにより戦闘状態は一部で継続した。

見る 特設護衛船団司令部と太平洋戦争

宗谷海峡

宗谷岬から宗谷海峡をはさんで樺太を望む 宗谷海峡(そうやかいきょう)は、北海道の宗谷岬と、帰属未定地:樺太の西能登呂岬(ロシア名:サハリン島・クリリオン岬)との間にある海峡。東西方向の海峡であり、日本海とオホーツク海を結んでいる。海峡幅は最狭部で約42 km。

見る 特設護衛船団司令部と宗谷海峡

小笠原諸島

黒字は'''小笠原諸島'''。 小笠原諸島(おがさわらしょとう)は、東京都小笠原村の行政区域を指す。東京都特別区の南南東約1,000キロメートルの太平洋上にある30余の島々からなる。総面積は104平方キロメートル。南鳥島、沖ノ鳥島を除いて伊豆・小笠原・マリアナ島弧(伊豆・小笠原弧)の一部をなす。小笠原諸島は別名をボニン諸島(Bonin Islands)という。

見る 特設護衛船団司令部と小笠原諸島

少将

少将(しょうしょう)は、日本ではもともとは律令制における官職の一つ。転じて軍隊の階級の一。将官に区分され、中将の下、大佐、上級大佐、准将または代将の上に位置する。 北大西洋条約機構の階級符号(NATO階級符号)では、OF-7に相当する。また、陸海空軍でそれぞれ呼称の異なる少将を総称しtwo-star rankと呼ぶこともある。 将官のなかでは、最下級、又は准将がある場合には下から2番目の階級となる。英呼称は、陸軍:major general(メイジャー ジェネラル)、海軍:rear admiral(リア アドミラル)、ただし、他国の海軍は基本的にcounter admiralと呼ぶ。空軍は通常陸軍と同一の呼称を用いるが、イギリス連邦方式 (Commonwealth system)ではエアー・ヴァイス・マーシャル (air vice-marshal) と呼ぶ。なお、フランス革命方式を使用する国々では補職制度により「師団将軍」(divisional general) あるいは「旅団将軍」(brigade general) と呼称する。アメリカ軍やフランス陸軍および空軍(海軍は中将)では、正規階級(regular rank)における最高位とされ、それよりも上の二階級は役職に応じた臨時階級(temporary rank)である。

見る 特設護衛船団司令部と少将

将官

将官(しょうかん)は、軍隊の階級区分の一。佐官の上に位置する。陸軍や空軍では将軍、海軍では提督と総称される。 その区分は複雑で、国により軍種により多岐に亘るが、2階級制を採るものから4階級制を採るものなどがある。 階級としての元帥は、一般的には将官に含めないことも多い。

見る 特設護衛船団司令部と将官

巡洋艦

巡洋艦(じゅんようかん、)は、遠洋航行能力・高速性などを活かした攻撃力を持たせた軍艦の艦種。ただし定義は国や年代によって多岐にわたる。

見る 特設護衛船団司令部と巡洋艦

丁型海防艦

沈没寸前の134号海防艦。 丁型海防艦(ていがたかいぼうかん)は、日本海軍が第二次世界大戦において運用した海防艦の艦級である。主に船団護衛に用いられた。基本計画番号はE22。量産性を最重視し、丙型海防艦と同じく、それまでの日振型・鵜来型より、一層の小型化・簡略化が進められている。なお「丁型」の名称は計画時の呼称であり各書籍などで普遍的に用いられているものだが、海軍が定めた艦型名は第二号型海防艦である。同型艦は67隻が竣工した。

見る 特設護衛船団司令部と丁型海防艦

丙型海防艦

丙型海防艦(へいがたかいぼうかん)は、日本海軍が第二次世界大戦において運用した海防艦の艦級である。主に船団護衛に用いられた。基本計画番号はE21b。量産性を最重視し、それまでの日振型・鵜来型よりも、さらに小型化・簡略化を推し進めた艦級である。なお「丙型」の名称は計画時の呼称であり各書籍などで普遍的に用いられているものだが、海軍が定めた艦型名は第一号型海防艦である。同型艦は56隻が竣工した。

見る 特設護衛船団司令部と丙型海防艦

幕僚

幕僚(ばくりょう)とは、指揮官を補佐する高等武官又はそれに準ずる者をいう。参謀に近い意味で用いられることが多いが、必ずしも参謀又はそれに相当する者のみを指すわけではない。英語にいう staff とは若干異なる。 語源としては幕とは司令官の陣地をさし(幕府の幕と同義)、「司令官の側に侍る者」の意である。

見る 特設護衛船団司令部と幕僚

伊集院松治

伊集院 松治(いじゅういん まつじ、1893年(明治26年)4月21日 - 1944年(昭和19年)5月24日)は、日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍中将。男爵。

見る 特設護衛船団司令部と伊集院松治

佐官

佐官(さかん)は、軍隊の階級区分の一。将官の下、尉官の上に位置する。

見る 特設護衛船団司令部と佐官

御蔵 (海防艦)

御蔵本来の艦名表記は御藏。 (みくら)は、日本海軍の海防艦。御蔵型海防艦の1番艦。艦名は東京都の御蔵島にちなむ。

見る 特設護衛船団司令部と御蔵 (海防艦)

御蔵型海防艦

御蔵型海防艦(みくらがたかいぼうかん/Imperial Japan Navy Mikura Class Escort Ship)は、日本海軍が第二次世界大戦において運用した海防艦帝国陸海軍補助艦艇―総力戦に必要とされた支援艦艇群の全貌〈歴史群像〉太平洋戦史シリーズ(37) 学習研究社 ISBN 9784056027808 P102-109 「海防艦 発達史」田村尚也。主に南方航路の船団護衛に用いられた。公式には、起工時は乙型海防艦に分類されたが、丙型海防艦・丁型海防艦の建造決定後は甲型に分類が変更されている。基本計画番号はE20。1943年から1944年にかけて同型艦8隻が就役している。

見る 特設護衛船団司令部と御蔵型海防艦

北海道空襲

北海道空襲(ほっかいどうくうしゅう)は、第二次世界大戦(太平洋戦争、大東亜戦争)末期の1945年7月14日から15日にかけて、アメリカ海軍空母機動部隊の艦載機が北海道各地で行った空襲の総称。

見る 特設護衛船団司令部と北海道空襲

マリアナ諸島

マリアナ諸島の島々(地図タイトルは北マリアナ諸島だが諸島全体が描かれている) マリアナ諸島の位置 マリアナ諸島(マリアナしょとう、Islas Marianas, Mariana Islands)は、ミクロネシア北西部の列島。伊豆・小笠原・マリアナ島弧の一部を成す。東の北西太平洋と西のフィリピン海の境界に位置し、北には小笠原諸島、南にはカロリン諸島、東にはマリアナ海溝がある。南北約800キロメートルに連なる約15の島から構成され、北緯13度から21度、東経144度から146度の間に弧状に広がっている。 南端のグアム島を除く島々を北マリアナ諸島、サイパン島より北の島々を北部諸島(Northern Mariana Islands)と呼ぶ。

見る 特設護衛船団司令部とマリアナ諸島

バーニー作戦

バーニー作戦(バーニーさくせん, Operation Barney)は、太平洋戦争末期の1945年6月にアメリカ海軍の潜水艦部隊が行った日本海での通商破壊作戦。対馬海峡から日本軍の機雷を回避して潜入し、日本に残された数少ないシーレーンを襲って複数の商船を撃沈することに成功したものの損失も受けた。

見る 特設護衛船団司令部とバーニー作戦

トリガー (SS-237)

トリガー (USS Trigger, SS-237) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級。艦名はモンガラカワハギ科の魚の総称、トリガーフィッシュに因む。なお、戦没から7年後にタング級潜水艦2番艦として2代目「トリガー (SS-564)」が就役している。

見る 特設護衛船団司令部とトリガー (SS-237)

ヒ40船団

ヒ40船団(ヒ40せんだん)は、太平洋戦争中の1944年2月に運航された日本の護送船団。日本本土へ石油を輸送するためタンカーを中心に編成された重要船団だったが、アメリカ海軍の潜水艦の攻撃で全てのタンカーを撃沈された。ヒ40船団の壊滅は日本海軍に衝撃を与え、日本が海上護衛戦術を大船団主義に転換するきっかけとなった。

見る 特設護衛船団司令部とヒ40船団

ヒ71船団

ヒ71船団(ヒ71せんだん)は、太平洋戦争後期の1944年8月-9月に日本からシンガポールへ航海した日本の護送船団である。高速タンカー中心の優秀輸送船20隻を空母を含む艦隊で護衛した、日本としては最大級の護送船団であったが、アメリカ海軍潜水艦の襲撃で大損害を出した。日本側の死者は乗船中の陸軍将兵ら約8000人に上った。

見る 特設護衛船団司令部とヒ71船団

ヒ72船団

ヒ72船団(ヒ72せんだん)は、大東亜戦争後期の1944年9月にシンガポールから門司へ航海した日本の護送船団である。アメリカ軍の潜水艦と陸上航空機による攻撃を繰り返し受けたため、輸送船のほとんどが脱落し、護衛艦にも大きな損害が出た。撃沈された輸送船には捕虜移送中の船が2隻含まれ、捕虜多数が遭難した。

見る 特設護衛船団司令部とヒ72船団

ヒ86船団

ヒ86船団(ヒ86せんだん)は、太平洋戦争後期の1945年1月に運航された、日本の護送船団。連合国軍のフィリピン反攻で南方航路が閉塞に向かうなか、有力な護衛の下に日本本土への石油輸送を試みたが、アメリカ海軍の機動部隊による空襲と遭遇し、護衛艦の一部を残して全滅した。日本の護送船団で最悪の被害を出した事例の一つに数えられ、日本が大規模船団方式の護衛戦術を放棄する転換点となった。

見る 特設護衛船団司令部とヒ86船団

ヒ船団

当時の日本の典型的な大型タンカーだった「極東丸」。同様の1万トン級タンカーがヒ船団の主力で、「極東丸」もヒ71船団に参加している。 ヒ船団(ヒせんだん) / ヒ号船団(ヒごうせんだん)は、日本(大日本帝国)が大東亜戦争において、日本本土とシンガポール間で運航した一連の護送船団である。主な任務は、日本占領下のオランダ領東インドから産出する石油を、日本本土に輸送することであった。大型高速のタンカーを中心に構成され、フィリピン方面へ増援部隊を送る軍隊輸送船も多く加入した。戦略的に重要な船団として優先的に護衛されたが、アメリカ海軍の潜水艦や航空機による攻撃で大きな損害を受け、沖縄へのアメリカ軍上陸が迫った1945年(昭和20年)3月に運航停止となった。

見る 特設護衛船団司令部とヒ船団

ニューギニア島

ニューギニア島とメラネシア ニューギニア島(ニューギニアとう、New Guinea、Nugini)は、太平洋南部に位置する島であり、インドネシアとパプアニューギニアの2カ国の領土である。島の西半分を領有するインドネシアは東南アジアの国家であるが、島はオセアニアに含まれる。また、メラネシアの島々の一つである。 オーストラリアとはトレス海峡を隔てその北側にある。パプア島 (Papua)・イリアン島 (Irian)とも呼ぶ。 面積は約78.6万km2で日本の国土の約2倍の大きさである。世界の島の中では、グリーンランドに次ぐ面積第2位の島であり、大陸を含めても8番目に広い陸塊である。

見る 特設護衛船団司令部とニューギニア島

アメリカ海軍

アメリカ海軍(アメリカかいぐん、、USN)は、アメリカ合衆国の海軍である。アメリカ軍の6つの軍種の1つ。アメリカ合衆国に8個ある武官組織の1つ。

見る 特設護衛船団司令部とアメリカ海軍

オホーツク海

オホーツク海とその周辺地図。 オホーツク海(オホーツクかい、Охо́тское мо́ре、Sea of Okhotsk)は、樺太(サハリン)・千島列島・カムチャツカ半島などに囲まれた海で、北海道の北東に位置する。 太平洋の縁海であり、カムチャツカ半島・千島列島によって太平洋と、また、樺太・北海道によって日本海と隔てられている。

見る 特設護衛船団司令部とオホーツク海

グラティテュード作戦

グラティテュード作戦(グラティテュードさくせん、Operation Gratitude)#ASTORIA (1)は、太平洋戦争中の1945年(昭和20年)1月10日から1月25日にかけて、ルソン島の戦いの支援のためにアメリカ海軍第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)が南シナ海を中心に繰り広げた作戦である。これまでアメリカ艦隊が入らなかった南シナ海に進入して一方的な空襲作戦を展開し、日本側にヒ86船団の悲劇的な壊滅を含む多大な艦船の喪失を生み出した。作戦は南方からの資源ルート切断という危機が間近に迫ったことを日本側に知らしめる結果となり、艦艇による北号作戦および輸送船団による南号作戦が発動されて南方資源地帯からの重要物資の還送が促されることとなった。また、1944年8月28日から中部太平洋方面で作戦行動に入っていた第3艦隊(ウィリアム・ハルゼー大将)の行動は、この作戦でいったん締めくくられることとなった。

見る 特設護衛船団司令部とグラティテュード作戦

シーレーン

シーレーンとは、一国の通商上・戦略上、重要な価値を有し、有事に際して確保すべき海上交通路のことである。英語の類義語はSLOCs(Sea Lines of Communication)である。

見る 特設護衛船団司令部とシーレーン

スカベンジャー作戦

スカベンジャー作戦(スカベンジャーさくせん, Operation Scavenger)は、第二次世界大戦中の1944年8月初旬にアメリカ海軍機動部隊が行った、小笠原諸島に対する攻撃作戦である。第4804船団(だい4804せんだん)の壊滅など日本軍の艦船や航空機に相当の損害を与えた。

見る 特設護衛船団司令部とスカベンジャー作戦

八丈 (海防艦)

八丈(はちじょう/はちぢゃう)は、日本海軍の海防艦#達昭和15年2月pp.44-45『達第三十一號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十三年度及同十四年度ニ於テ建造ニ着手ノ敷設艦一隻、海防艦二隻、驅逐艦二隻、潜水艦二隻及驅潜艇一隻ニ左ノ通命名ス 昭和十五年二月二十三日 海軍大臣 吉田善吾 |横須賀海軍工廠ニ於テ建造 敷設艦 津輕(ツガル)|鶴見製鐵造船株式會社ニ於テ建造 海防艦 國後(クナシリ)|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 海防艦 八丈(ハチヂャウ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 嵐(アラシ)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 驅逐艦 萩風(ハギカゼ)|三菱重工業株式會社神戸造船所ニ於テ建造 伊號第二十五潜水艦|呉海軍工廠ニ於テ建造 伊號第二十七潜水艦|鶴見製鉄造船株式會社ニ於テ建造 第十三號驅潜艇』。艦名は東京都にある八丈島にちなむ。

見る 特設護衛船団司令部と八丈 (海防艦)

国後 (海防艦)

国後本来の艦名表記は國後。以下「国後」の表記部について同じ(くなしり)は、日本海軍の海防艦補助艦艇奮戦記243頁『国後(くなしり)』#達昭和15年2月pp.44-45『達第三十一號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十三年度及同十四年度ニ於テ建造ニ着手ノ敷設艦一隻、海防艦二隻、驅逐艦二隻、潜水艦二隻及驅潜艇一隻ニ左ノ通命名ス 昭和十五年二月二十三日 海軍大臣 吉田善吾 |横須賀海軍工廠ニ於テ建造 敷設艦 津輕(ツガル)|鶴見製鐵造船株式會社ニ於テ建造 海防艦 國後(クナシリ)|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 海防艦 八丈(ハチジャウ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 嵐(アラシ)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 驅逐艦 萩風(ハギカゼ)|三菱重工業株式會社神戸造船所ニ於テ建造 伊號第二十五潜水艦|呉海軍工廠ニ於テ建造 伊號第二十七潜水艦|鶴見製鉄造船株式會社ニ於テ建造 第十三號驅潜艇』。

見る 特設護衛船団司令部と国後 (海防艦)

福江 (海防艦)

福江(ふかえ) は、日本海軍の海防艦。普遍的には択捉型海防艦の10番艦とされているが、海軍省が定めた公式類別では占守型海防艦の14番艦。艦名は長崎県にある福江島にちなむ。

見る 特設護衛船団司令部と福江 (海防艦)

竹一船団

竹一船団(たけいちせんだん)は戦史叢書75巻、422-423頁「竹一船団の遭難と西部ニューギニア防備対策」、太平洋戦争中に存在した日本軍の護送船団のひとつである。

見る 特設護衛船団司令部と竹一船団

第3503船団

第3503船団(だい3503せんだん)は、大東亜戦争中の1944年5月3日に横浜沖からサイパン島へ出発した、日本の護送船団である。マリアナ諸島やパラオへ増援部隊や軍需物資などを輸送する任務を負っていた。サイパンまで軽い損害でたどり着いたが、その先さらにパラオに向かった輸送船はアメリカ海軍潜水艦の攻撃で全滅した。なお、船団命名方式の性質上、同一名の船団が別の年にも運航されている可能性があるが岩重(2011年)、71頁。、本項では1944年の船団を扱う。

見る 特設護衛船団司令部と第3503船団

第3606船団

第3606船団(だい3606せんだん)は、太平洋戦争中の1944年6月6日に館山湾からサイパン島へ出発した、日本の護送船団である。途中でアメリカ海軍潜水艦の攻撃を受けたうえ、サイパン島上陸の事前空襲が始まったため、運航中止となり引き返した。本船団の失敗を最後に、日本軍のマリアナ諸島への補給線は途絶した。 なお、命名方式の関係で同名の船団が別年度にも運航されている可能性があるが、本項では1944年の船団を解説する。

見る 特設護衛船団司令部と第3606船団

第三十一戦隊

第三十一戦隊(だい31せんたい)とは、日本海軍の戦隊の一つ。 太平洋戦争後期、敵潜水艦を積極的に発見・攻撃するための対潜機動部隊として、1944年(昭和19年)8月20日に編制された。レイテ沖海戦(エンガノ岬沖海戦)では小沢機動部隊に所属して戦闘に参加した。以後はフィリピン戦線における多号作戦や礼号作戦など#S1911第五艦隊日誌(1) p.9〔 (二)自十一月一日至十一月三十日 第二遊撃部隊麾下艦船部隊行動一覧表 〕(昭和19年11月)#S1911第五艦隊日誌(2) p.9〔 (二)自十二月一日至十二月三十一日 第二遊撃部隊麾下艦船部隊行動一覧表 〕(昭和19年12月)、通常の水雷戦隊任務にも投入された。戦争末期には本土決戦に備えて敵上陸船団に対する水上戦闘任務に転用された(海上挺進部隊)。

見る 特設護衛船団司令部と第三十一戦隊

第九〇一海軍航空隊

第九〇一海軍航空隊(だい901かいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。太平洋戦争中の1943年に、シーレーン防衛専門の航空部隊として編成された。太平洋戦争の終盤に本土と南方を結ぶ航路の防衛を担当し、戦線の縮小に合わせて内南洋航路・南シナ海航路・日本海航路と常に海上メインルートの護衛を担当したほか、沖縄戦に際しては本土および台湾からの艦船攻撃の一翼を担った。

見る 特設護衛船団司令部と第九〇一海軍航空隊

第五十一戦隊

第五十一戦隊(だい51せんたい)とは、日本海軍の戦隊の一つ。太平洋戦争中に、新造護衛艦艇の教育訓練部隊である対潜訓練隊を発展させるかたちで編成された。訓練のかたわら日本本土での実戦任務にも従事した。

見る 特設護衛船団司令部と第五十一戦隊

群狼作戦

群狼作戦(ぐんろうさくせん、Wolfsrudeltaktik)は、第二次世界大戦中にドイツ海軍潜水艦隊司令(BdU)カール・デーニッツ少将が考案した、複数の潜水艦が協同して敵輸送船団を攻撃する通商破壊戦術の一つである。ウルフパック(英: Wolfpack)ともいう。また、狼群戦術(ろうぐんせんじゅつ)と呼ぶ場合もある。

見る 特設護衛船団司令部と群狼作戦

絶対国防圏

絶対国防圏(ぜったいこくぼうけん)とは、太平洋戦争において、劣勢に立たされた大日本帝国が本土防衛上及び戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である。

見る 特設護衛船団司令部と絶対国防圏

響 (吹雪型駆逐艦)

響(ひびき、響)は、日本海軍の駆逐艦。特型駆逐艦の22番艦(特III・暁型の2番艦)である。この名を持つ日本海軍の艦船としては神風型駆逐艦 (初代)「響」に続いて2隻目。 太平洋戦争で戦火により3度の甚大な損傷を蒙ったにもかかわらず沈没せず、終戦まで生き残った強運ぶりと活躍から「不沈艦」、「不死鳥」、「戦争を生きのびる運命の艦」などと形容された。

見る 特設護衛船団司令部と響 (吹雪型駆逐艦)

運航指揮官

運航指揮官(うんこうしきかん)は、日本海軍が太平洋戦争中に護送船団を現場で指揮統制するために設置した役職である。主に予備役の大佐が任命され、数名の通信兵から成る運航指揮班を率いて乗船指揮した。初期には運航統制官と称した。

見る 特設護衛船団司令部と運航指揮官

香椎 (練習巡洋艦)

香椎(カシヒ/かしい)は、日本海軍の練習巡洋艦#達昭和15年8月 p.19〔 達第百六十七號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十四年度及同十五年度ニ於テ建造ニ着手ノ練習巡洋艦一隻、驅逐艦二隻、潜水艦二隻、測量艦一隻及驅潜艇一隻ニ左ノ通命名ス 昭和十五年八月三十日 海軍大臣 吉田善吾|三菱重工業株式会社横濱船渠ニ於テ建造 練習巡洋艦 香椎(カシヒ)|株式会社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 谷風(タニカゼ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 野分(ノワキ)|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 伊號第三十三潜水艦|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 伊號第三十九潜水艦|三菱重工業株式会社横濱船渠ニ於テ建造 測量艦 筑紫(ツクシ)|鶴見製鉄造船株式会社ニ於テ建造 第十六驅潜艇 〕。香取型練習巡洋艦の3番艦である#艦艇類別等級表(昭和16年12月31日) p.5〔 練習巡洋艦|香取、鹿島、香椎 〕。艦名は、福岡県の香椎宮に由来している。

見る 特設護衛船団司令部と香椎 (練習巡洋艦)

駆逐艦

駆逐艦(くちくかん、)は、多様な作戦任務につく重装備・高速の水上戦闘艦。当初は主力艦を護衛して敵の水雷艇を駆逐するための大型水雷艇として登場したが、まもなく水雷艇の代わりにそれ自体が敵艦隊への水雷襲撃を行うようになり、また潜水艦に対する攻撃や偵察・哨戒、船団護衛など、多岐にわたる任務に酷使される便利な艦種に成長していった。

見る 特設護衛船団司令部と駆逐艦

護送船団

護送船団(ごそうせんだん)または護衛船団(ごえいせんだん)、船団護衛(せんだんごえい)とは、軍艦、航空機や武装舟艇などに護衛されて航行する輸送船や商船の集団のことである。敵勢力からの妨害を排除し、味方勢力による海上輸送の維持を目的としている。戦時下において通商破壊に対抗するために生み出された戦法である。 英語ではコンボイ(Convoy)と呼ばれ、船舶だけでなくトラックなどの陸上輸送もコンボイと呼んでいる。ただし convoy の1語だけでは「船団」の意味であり、護衛兵力のない場合も含んでいるので注意が必要である。

見る 特設護衛船団司令部と護送船団

鹿島 (練習巡洋艦)

鹿島(かしま)は、日本海軍の練習巡洋艦#達昭和14年3月(2)p.23『達第四十八號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十三年度ニ於テ建造ニ着手ノ練習巡洋艦二隻、驅逐艦一隻及敷設艇一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十四年三月三十一日 海軍大臣 米内光政|三菱重工業株式會社横濱船渠ニ於テ建造 練習巡洋艦 香取(カトリ) 練習巡洋艦 鹿島(カシマ)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 驅逐艦 早潮(ハヤシホ)|株式會社石川島造船所ニ於テ建造 敷設艇 巨濟(キョサイ)』。香取型練習巡洋艦の2番艦#艦艇類別等級表(昭和17年6月30日)p.4『軍艦|練習巡洋艦|香取、鹿島、香椎』。艦名は茨城県の鹿島神宮に由来する。 ここでは、戦後海上自衛隊公称鹿島1号となった搭載内火艇についても説明する。

見る 特設護衛船団司令部と鹿島 (練習巡洋艦)

軍令部

1930年代の海軍省及び軍令部。 軍令部(ぐんれいぶ)は、大日本帝国海軍の軍令機関。海軍省が内閣に従属し軍政・人事を担当するのに対し、軍令部は天皇に直属し、その統帥を輔翼する立場から、海軍全体の作戦・指揮を統括する。旧正式名称は海軍軍令部(かいぐんぐんれいぶ)。

見る 特設護衛船団司令部と軍令部

舞鶴鎮守府

旧海軍機関学校大講堂 舞鶴鎮守府(まいづるちんじゅふ)は、京都府舞鶴市に所在した大日本帝国海軍の鎮守府。通称は舞鎮(まいちん)。

見る 特設護衛船団司令部と舞鶴鎮守府

鵜来 (海防艦)

鵜来(うくる)は、日本海軍の海防艦。

見る 特設護衛船団司令部と鵜来 (海防艦)

連合艦隊

連合艦隊(れんごうかんたい、聯合艦隊())は、大日本帝国海軍が二個以上の常設の艦隊で編成した艦隊。海軍部内での略称はGF。

見る 特設護衛船団司令部と連合艦隊

択捉 (海防艦)

択捉(えとろふ、旧字体:擇捉)は海防艦激闘記225頁「択捉(えとろふ)」、日本海軍の海防艦写真日本の軍艦7巻232頁「海防艦『占守型・擇捉型・御蔵型・鵜来型』行動年表 ◇擇捉◇」。普遍的には択捉型海防艦の1番艦とされているが海防艦激闘記81-84頁「占守型をほぼ踏襲した択捉型」、海軍省が定めた公式類別では占守型海防艦の5番艦。艦名は運送船択捉丸日露戦争時の鹵獲汽船アフロダイト号 に次いで2代目。艦名の由来は択捉島から。なお、常用漢字の制定後も資料(戦史叢書等)によっては、当時の命名時、その他法令令達上で使用された、旧字体の「擇捉」で表記されることも多い海上護衛戦(戦史叢書)211頁『海防艦』。

見る 特設護衛船団司令部と択捉 (海防艦)

択捉型海防艦

択捉型海防艦(えとろふがたかいぼうかん)は、日本海軍が第二次世界大戦において運用した海防艦である。占守型海防艦を原型とし、南方航路の船団護衛に用いられた。計画名は占守型とおなじく甲型であり、艦艇類別等級別表における公式類別上は占守型に属するが、基本計画番号はE19と異なる。1943年から1944年にかけて同型艦14隻が就役している。

見る 特設護衛船団司令部と択捉型海防艦

松 (松型駆逐艦)

松(まつ)は大日本帝国海軍の駆逐艦#達昭和18年12月、p.43。松型駆逐艦(一等駆逐艦松型)(丁型)の1番艦#内令昭和18年12月(4)、p.24。 日本海軍の艦名としては樺型駆逐艦「松」に続いて2代目である。舞鶴海軍工廠で1943年(昭和18年)8月上旬から1944年(昭和19年)4月末にかけて建造された。起工から竣工まで約8ヵ月であった。竣工後、小笠原諸島や硫黄島方面への護衛任務に従事する。同年8月4日、小笠原方面船団護衛中に米軍機動部隊の水上艦艇(巡洋艦、駆逐艦)と交戦、撃沈された p.5(19-8-4)(スカベンジャー作戦)。竣工してから約3ヵ月の艦歴であった。

見る 特設護衛船団司令部と松 (松型駆逐艦)

松風 (2代神風型駆逐艦)

松風(まつかぜ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦#陽炎型(2014)263-264頁『松風(まつかぜ)』。

見る 特設護衛船団司令部と松風 (2代神風型駆逐艦)

松輸送

松輸送(まつゆそう)は、太平洋戦争(大東亜戦争)中の1944年前半に日本軍が行った中部太平洋方面への増援部隊輸送作戦である。絶対国防圏と位置付けられたマリアナ諸島などの守備隊を強化するため、満州などから転用された地上部隊や軍需物資が松船団と総称される11回の護送船団で運ばれた。アメリカ海軍は潜水艦で妨害を試みたが、日本側の損害は少なく一応の成功を収めた。松輸送で運ばれた部隊が、サイパンの戦いやペリリューの戦いで日本軍守備隊の主力となった。

見る 特設護衛船団司令部と松輸送

梶岡定道

梶岡 定道(かじおか さだみち、1891年5月18日 - 1944年9月12日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。

見る 特設護衛船団司令部と梶岡定道

津軽海峡

津軽海峡(つがるかいきょう)は、北海道南端(道南)と本州北端(青森県)との間にあって、日本海と太平洋とを結ぶ海峡である。

見る 特設護衛船団司令部と津軽海峡

渡辺清七

渡辺 清七(わたなべ せいしち、1893年(明治26年)2月22日 - 1948年(昭和23年)2月15日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。

見る 特設護衛船団司令部と渡辺清七

渋谷紫郎

渋谷 紫郎(しぶや しろう、1893年(明治26年)11月18日 - 1945年(昭和20年)1月12日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争初期に第十六駆逐隊司令として南方攻略戦に参加し、のち第百一戦隊司令官として戦死した海軍中将である。

見る 特設護衛船団司令部と渋谷紫郎

朝凪 (駆逐艦)

朝凪(あさなぎ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦#達昭和3年6月 pp.7-8〔 達第八十號 驅逐艦及掃海艇中左ノ通改名ス 本達ハ昭和三年八月一日ヨリ之ヲ施行ス|昭和三年六月二十日 海軍大臣 岡田啓介|第十五號驅逐艦 ヲ 驅逐艦 朝凪アサナギ トス 〕。神風型(2代目)の8番艦である。

見る 特設護衛船団司令部と朝凪 (駆逐艦)

指揮官

指揮官(しきかん、commanding officer)は、主に軍隊・警察などで部隊を指揮する任務を負う者。

見る 特設護衛船団司令部と指揮官

戦史叢書

『戦史叢書』(せんしそうしょ、英題Senshi sôsho)は、防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)によって1966年(昭和41年)から1980年(昭和55年)にかけて編纂され、朝雲新聞社より刊行された公刊戦史。現在は改訂を行ったバージョンがオンラインで閲覧できる。

見る 特設護衛船団司令部と戦史叢書

戦隊

戦隊(せんたい、英:Squadron〈陸軍〉、Flotilla〈海軍〉)は軍隊の編制・編成の単位の一つ。 陸軍・海軍・空軍のいずれの部隊においても用いられる単語であるが、その性質上、空軍(陸軍航空部隊・海軍航空部隊を含む)や臨時編成の頻繁な海軍において多く用いられ、空軍に限れば飛行隊とも訳される。

見る 特設護衛船団司令部と戦隊

春月 (駆逐艦)

春月(はるつき)は、日本海軍の駆逐艦で福井1993・日本駆逐艦物語、291頁「日本海軍駆逐艦艦名一覧/春月 Harutuki」、秋月型駆逐艦の9番艦。 艦名は片桐大自の研究によれば「春の月」の意味。

見る 特設護衛船団司令部と春月 (駆逐艦)

昭南 (海防艦)

昭南(しょうなん/せうなん)は、日本海軍の海防艦。普遍的には日振型海防艦の3番艦とされている。本艦を鵜来型海防艦に含める文献も存在するが、法令上は御蔵型海防艦の11番艦。1944年(昭和19年)7月に竣工し、8月から第一海上護衛隊に所属してヒ船団などの船団護衛任務に従事した。ヒ71船団や、ヒ81船団の護衛にも加わっている。南号作戦に従事中の1945年(昭和20年)2月25日、アメリカ潜水艦ホーの魚雷攻撃により沈没した。艦名は、当時日本が占領中であった昭南島(シンガポール島)にちなむ。

見る 特設護衛船団司令部と昭南 (海防艦)

海上護衛総司令部

海上護衛総司令部(かいじょうごえいそうしれいぶ、)とは大日本帝国海軍において太平洋戦争後期に通商護衛を司った部署である。設置は1943年11月15日、廃止は1945年8月25日。正式な呼称は「海上護衛総司令部」であったが、しばしば海上護衛総隊(かいじょうごえいそうたい、)とも呼ばれ、また海護総隊(かいごそうたい、)とも略称された。

見る 特設護衛船団司令部と海上護衛総司令部

海軍省

海軍省(かいぐんしょう、)は、かつて存在した日本の中央官庁の一つ。旧日本海軍の軍政を司った機関である。主任の大臣は海軍大臣。軍令は最高司令官である天皇に直属する軍令部が担当する。1945年(昭和20年)にアメリカの占領軍により廃止された。

見る 特設護衛船団司令部と海軍省

海防艦

海防艦(かいぼうかん)は、戦闘用艦艇の一種コマ55(原本58頁)『海コースト防デフェンス艦シップ 海防艦ハ海岸防禦ニ必要ナル軍艦ニシテ戰艦ト等シク攻撃防禦ノ兩力ヲ完全ニ備フルヲ要ス然レモ遠ク外國ニ派遣セラレザル爲メ石炭積載量及ビ速力ハ多キヲ要セズ而シテ喫水ヲ成ルベク淺ク製造スルハ之レヲ淺水中ニ利用シテ敵艦ニ當ラシムニアリ實ニ此艦ハ水雷艇、布設水雷及ビ海岸砲臺等ノ如キ防港機關ノ補助ヲ得テ自國ノ海岸ヲ防禦スルノ任務ヲ盡スベキモノトス』。

見る 特設護衛船団司令部と海防艦

日号作戦

日号作戦(にちごうさくせん)は、太平洋戦争末期に日本が陸海軍合同で行った日本海における戦略物資の海上輸送作戦のことである。食糧事情が悪化する中、本土決戦に備え、日本海航路の遮断前に満州及び朝鮮半島から日本本土へ可能な限りの食糧などを輸送するために実行された。

見る 特設護衛船団司令部と日号作戦

日本海

は、西太平洋の縁海で、日本列島、朝鮮半島、沿海州などに囲まれた海である。

見る 特設護衛船団司令部と日本海

日振型海防艦

日振型海防艦(ひぶりがたかいぼうかん)は、大日本帝国海軍が第二次世界大戦において運用した海防艦。主に南方航路の船団護衛に用いられた。艦艇類別等級別表における公式類別上は御蔵型に属するが、基本計画番号はE20bと異なっており、同じくE20bである鵜来型海防艦の準同型艦である。鵜来型からの振り替えにより、1944年から1945年にかけて同型艦9隻が就役している。

見る 特設護衛船団司令部と日振型海防艦

旗艦

旗艦(きかん、 flagship; フラグシップ)とは、司令官(司令・司令長官などを含む)やその幕僚が座乗し、指令・命令を発する艦を指す海軍用語「歴代旗艦物語」勝山拓 世界の艦船2011年11月号 P92-97 株式会社海人社。海上自衛隊ではとの混同を防ぐためか、「はたぶね」とも読む。

見る 特設護衛船団司令部と旗艦

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