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日本後紀

索引 日本後紀

『日本後紀』(にほんこうき)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『続日本紀』に続く六国史の第三にあたる。承和7年(840年)に完成し、延暦11年(792年)から天長10年(833年)に至る42年間を記す。編者は藤原緒嗣ら。編年体、漢文、全40巻(現存10巻)。.

56 関係: 吉川弘文館坂上今継坂本太郎 (歴史学者)塙保己一天理大学附属天理図書館天長小野岑守山田古嗣島田清田三条西家平城天皇平安時代仁明天皇延暦弘仁応仁の乱嵯峨天皇和歌六国史国史大系続日本紀編年体直世王類聚国史講談社学術文庫黒板伸夫黒板勝美藤原吉野藤原冬嗣藤原緒嗣藤原貞嗣藤原良房重要文化財良岑安世集英社柳原紀光桓武天皇森田悌歴史書一覧淳和天皇清原夏野源常漢文朝野鹿取新羅の入寇日本紀略日本逸史承和 (日本)15世紀1970年...1月5日792年819年833年840年841年 インデックスを展開 (6 もっと) »

吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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坂上今継

坂上 今継(さかのうえ の いまつぐ)は、平安時代初期の官人。姓は忌寸。官位は従五位下・大外記。.

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坂本太郎 (歴史学者)

坂本 太郎(さかもと たろう、1901年(明治34年)10月7日 - 1987年(昭和62年)2月16日)は、日本の歴史学者。東京大学・國學院大學名誉教授。文学博士(1937年・東京帝国大学)。専門は日本古代史。静岡県出身。 太平洋戦争終戦直後の混乱した東京大学国史学研究室の再建と、東京大学史料編纂所での史料編纂事業の復活および興隆に尽力した。.

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塙保己一

塙 保己一(はなわ ほきいち、延享3年5月5日(1746年6月23日) - 文政4年9月12日(1821年10月7日))は、江戸時代の国学者。幼名は丙寅にちなみ寅之助(とらのすけ)、失明後に辰之助(たつのすけ)と改める。また、一時期、多聞房(たもんぼう)とも名乗る。雨富検校に入門してからは、千弥(せんや)、保木野一(ほきのいち)、保己一(ほきいち)と改名した。『群書類従』『続群書類従』の編纂者である。総検校。贈正四位。 四男は、国学者の塙忠宝である。.

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天理大学附属天理図書館

天理大学附属天理図書館(てんりだいがくふぞく てんりとしょかん)は、奈良県天理市に所在する、日本有数の規模をもつ図書館である。天理大学附属の施設であるが、同大学関係者、天理教教団関係者に限らず一般利用者にも公開されており、原則として15歳(中学生不可)以上の者であれば入館・利用が可能である。蔵書は約200万冊で、国宝、重要文化財、重要美術品を含む和漢洋の貴重書、古典籍も多数収蔵されている。.

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天長

天長(てんちょう)は、日本の元号の一つ。弘仁の後、承和の前。824年から834年までの期間を指す。この時代の天皇は淳和天皇、仁明天皇。.

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小野岑守

小野 岑守(おの の みねもり)は、平安時代初期の貴族・文人。征夷副将軍・小野永見の三男。.

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山田古嗣

山田 古嗣(やまた の ふるつぐ、延暦17年(798年) - 仁寿3年12月21日(854年1月24日))は、平安時代初期の貴族。姓は造のち宿禰。越後介・山田益人の長男。官位は従五位上・相模権介。 能吏として知られ、内記・外記を歴任して文筆をもって朝廷に仕えたのち、地方官としても治績を挙げた。『日本後紀』の編纂にも携わっている。.

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島田清田

島田 清田(しまだ の きよた、宝亀10年(779年) - 斉衡2年9月18日(855年11月1日))は、平安時代初期の貴族。姓は臣のち朝臣。正六位上・島田村作の子。孫に島田忠臣がいる。官位は従五位上・伊賀守。.

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三条西家

三条西家(さんじょうにし け)は、藤原北家 閑院流 嫡流・転法輪三条家の分家である正親町三条家のそのまた分家で、大臣家の家格を持つ公家。西三条家(にしさんじょう け)ともいう。正親町三条家の分家でありながら家格は本家のそれをしのぎ、三大臣家の中でも別格とみなされていたばかりか、室町時代から江戸時代初期にかけて右大臣をたびたび出したため、その家格は清華家とほぼ同格とみなされていた。閑院家嫡流の転法輪三条家にもたびたび養子を出したため、戦国時代以後の転法輪三条家の直接の血統は三条西家のものとなっている。江戸時代の家禄は502石。 維新までは三条西と西三条の双方を比較的自由に使っており、明治になって17代公允が伯爵に授爵されたのを機にこれを西三条に一本化したが、しばらくしてこれを三条西に替えている。通字は「公」「実」「季」。分家に押小路家・武者小路家・高松家がある。.

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平城天皇

平城天皇(へいぜいてんのう、宝亀5年旧8月15日(774年9月25日) - 弘仁15年旧7月7日(824年8月5日))は第51代天皇(在位:延暦25年旧3月17日(806年4月9日) - 大同4年旧4月1日(809年5月18日))。小殿(おて)親王、後に安殿親王(あてのみこ)。 桓武天皇の第1皇子。母は皇后・藤原乙牟漏。同母弟に嵯峨天皇。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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仁明天皇

仁明天皇(にんみょうてんのう、弘仁元年(810年) - 嘉祥3年3月21日(850年5月6日)、在位:天長10年3月6日(833年3月30日) - 嘉祥3年3月19日(850年5月4日))は、平安時代初期の第54代天皇。諱は正良(まさら)。 嵯峨天皇の第二皇子。母は橘清友の娘、皇后橘嘉智子(檀林皇后)。正子内親王は同父母の妹でありかつ同年の生まれのため、双子の妹と推測される。.

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延暦

延暦(えんりゃく、正字体:延曆)は、日本の元号の一つ。昭和、明治、応永、平成に次いで、歴代で5番目に長い元号である。天応の後、大同の前。782年から806年までの期間を指す。この時代の天皇は桓武天皇。 1418年(応永25年)までの600年以上にわたって、最も長い日本の元号であった。その後1892年(明治25年)まで、日本で2番目に長い元号であった。1950年(昭和25年)までは3番目、2013年(平成25年)までは4番目に長い日本の元号であり、2014年(平成26年)以降は歴代で5番目に長い元号となっている。.

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弘仁

弘仁(こうにん)は、日本の元号の一つ。大同の後、天長の前。810年から824年までの期間を指す。この時代の天皇は嵯峨天皇、淳和天皇。.

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応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.

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嵯峨天皇

嵯峨天皇(さがてんのう、延暦5年9月7日(786年10月3日) - 承和9年7月15日(842年8月24日))は、日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月18日) - 弘仁14年4月16日(823年5月29日))。 諱は神野(賀美能・かみの)。 桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。 嵯峨天皇宸翰『哭澄上人詩』部分(最澄の死を悼む詩)釈文:(香煙は)像爐に(続く) 蒼生橋梁に少なく 緇侶(しりょ)律儀疎(うと)し 法軆何ぞ久しく住(とど)まらん 塵心傷みて餘り有り.

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和歌

和歌(わか)とは、短歌型式の古典詩。古典短歌。広義には『万葉集』に所収される歌体の総称。 「和歌」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「謌」、「哥」の字が宛てられたこともある。なお、歌謡と混同されるおそれがない文脈においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。 長連歌、俳諧、狂歌、川柳風狂句は定型の古典詩であるが、和歌には含まれない。また、明治の和歌革新家とその後継者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と称され、「和歌」とは称されない。近現代短歌はこの項では取り上げない。.

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六国史

六国史(りっこくし)とは、古代日本の律令国家が編纂した6つの一連の正史のことである。一部に紀伝体的要素をとりいれつつも、概ね編年体で記されている。.

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国史大系

国史大系(こくしたいけい)は、日本史を研究する上での基礎史料たる古典籍を集成し、校訂を加えて刊行した叢書である。その編纂は3次に亙って行われた。.

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続日本紀

『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。略称は続紀(しょっき)。.

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編年体

編年体(へんねんたい)とは歴史の記述法の一つで、起こった出来事を年代順に記してゆく方法を指す。対して、個人や一つの国に関しての情報をまとめて記述するのを紀伝体という。 日本の六国史のうち『日本書紀』を除くものは国史体とよばれる独特の記述法になっている。これは編年体を基本としつつ、重要人物の死亡記事があるごとに簡単な列伝(薨伝と呼ばれる)を挿入するものであるが、編年体の一種とされる。.

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直世王

世王(なおよおう、宝亀8年(777年) - 承和元年1月4日(834年2月15日))は、平安時代前期の皇族。名は真世王、猶世王とも記される。一品・長皇子の後裔。従五位上・清原王の子。官位は従三位・中納言。.

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類聚国史

類聚国史(るいじゅこくし)は編年体である六国史の記載を中国の類書にならい分類再編集したもので、菅原道真の編纂により、892年(寛平4年)に完成・成立した歴史書である。中国の唐代では、詩文の作成や知識の整理のために、古典の中から必要な箇所を抜き書きして分類編纂することが広く行われ、これを類書と称した。この書もまた、類書の形態を踏襲しており、この書を類書として見ることも可能である。 本書の成立時期に言及すれば、『日本三代実録』の部分については、同書は901年(延喜元年)完成であり、その直前に道真が大宰府に流されているために同書部分は後世の加筆であるという説と「三代実録」の編纂には道真自身も関与していたために完成前にその草稿を保有しており、流罪前にその草稿を元にして加筆されたとする説がある。 もとは本文200巻目録2巻系図3巻の計205巻であったが、応仁の乱で散逸したとされ、現存するのは62巻のみである。神祇、帝王、後宮、人、歳時、音楽、賞宴、奉献、政理、刑法、職官、文、田地、祥瑞、災異、仏道、風俗、殊俗という18の分類(類聚)ごとにまとめられており、散逸した部には國學院大學教授の高田淳(出典明記)によれば、東宮、征討、地名など5つの分類があったという。特筆すべきは検索が容易な平安前期の史書で特に先例を調べるのに便宜を図っており、原文主義をとって余計な文章の改変を一切排している。『日本後紀』の多くが失われているため、復元する資料としても貴重である。.

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講談社学術文庫

講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)に発足。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多い。 2011年(平成23年)より、電子書籍版を購入できるiOS用のアプリケーション「選書メチエ&学術文庫」をApp Storeを配信している。.

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黒板伸夫

黒板 伸夫(くろいた のぶお、1923年(大正12年) - 2015年(平成27年)5月11日)は、日本の歴史学者。専門は日本古代史。妻は作家の永井路子。歴史学者の黒板勝美は叔父。画家渡辺幽香・五姓田義松は遠戚(黒板の母・井上さきの、兄の井上定次郎の妻が、渡辺幽香の娘)http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/378_2.html。.

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黒板勝美

黒板 勝美(くろいた かつみ、1874年9月3日 - 1946年12月21日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学名誉教授。文学博士。専門は、日本古代史、日本古文書学。号は虚心。エスペラントの普及に努める。.

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藤原吉野

藤原 吉野(ふじわら の よしの)は、平安時代初期の公卿。藤原式家、参議・藤原綱継の長男。官位は正三位・中納言。.

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藤原冬嗣

藤原 冬嗣(ふじわら の ふゆつぐ)は、平安時代初期の公卿・歌人。藤原北家、右大臣・藤原内麻呂の次男。官位は正二位・左大臣、贈正一位・太政大臣。閑院大臣と号す。.

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藤原緒嗣

藤原 緒嗣(ふじわら の おつぐ)は平安時代の政治家。藤原式家、参議・藤原百川の長男。官位は正二位・左大臣、贈従一位。山本大臣と号す。.

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藤原貞嗣

藤原 貞嗣(ふじわら の さだつぐ)は、平安時代初期の公卿。名は貞継とも記される。藤原南家、参議・藤原巨勢麻呂の十男。.

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藤原良房

東三条殿跡・藤原良房が創設、京都市中京区押小路通釜座西北角 藤原 良房(ふじわら の よしふさ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の次男。官位は従一位・摂政太政大臣、贈正一位。染殿、白河殿と称される。漢風諡号は忠仁公 、国公は美濃公。 皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就いた。また、藤原北家全盛の礎を築いた存在であり、良房の子孫達は相次いで摂関となった。.

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重要文化財

建造物の例(通潤橋) 歴史資料の例(123号機関車 京都・宮津海陸運輸所有) 彫刻の例(塑造金剛力士立像 法隆寺蔵) 考古資料の例(埴輪子持家 東京国立博物館蔵) 絵画の例(黒田清輝筆「湖畔」) 建造物(民家)の例:荒井家住宅(栃木県矢板市) 重要文化財(じゅうようぶんかざい)は、日本に所在する建造物、美術工芸品、考古資料、歴史資料等の有形文化財のうち、歴史上・芸術上の価値の高いもの、または学術的に価値の高いものとして文化財保護法に基づき日本国政府(文部科学大臣)が指定した文化財を指す。重文(じゅうぶん)と略称されることが多い。文化庁による英語表記はImportant Cultural Properties。 日本の地方公共団体(都道府県、市町村)がそれぞれの文化財保護条例に基いて指定する有形文化財についても「県指定重要文化財」「市指定重要文化財」等と呼称される場合があるが、文化財保護法に規定する「重要文化財」とは国(日本国文部大臣)が指定した有形文化財のことを指す。本項では特記なき限り、文化財保護法第27条の規定に基づき日本国(文部科学大臣)が指定した重要文化財(いわゆる「国の重要文化財」)について記述する。.

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良岑安世

良岑 安世(よしみね の やすよ)は、平安時代初期の皇族・貴族。桓武天皇の皇子。官位は正三位・大納言、贈従二位。.

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集英社

株式会社集英社(しゅうえいしゃ)は、日本の総合出版社。『週刊少年ジャンプ』『週刊プレイボーイ』『non-no』『すばる』 『Myojo』などの雑誌を発行している。社名は「英知が集う」の意味。.

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柳原紀光

柳原 紀光(やなぎわら もとみつ/のりみつ)は、江戸時代中期の公卿・歴史家。柳原光綱の子。官位は正二位権大納言。柳原家17代当主。柳原前光・愛子(大正天皇生母)兄妹は玄孫、柳原義光・柳原白蓮義兄妹は来孫にあたる。歴史書『続史愚抄』の著者。.

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桓武天皇

桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))は、日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))。.

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森田悌

森田 悌(もりた てい、1941年4月12日 - )は、日本の歴史学者、群馬大学名誉教授。日本古代史専攻。商法学者森田果の父。文学博士。 1965年、東京大学文学部国史学科を卒業。1967年、同法学部公法課程卒業。1971年金沢大学助教授、教授を経て、1995年群馬大学教育学部教授。2008年定年退任、名誉教授。上代から平安朝を研究著述し、『日本後紀』、『続日本後紀』を初めて現代語訳した。.

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歴史書一覧

歴史書一覧(れきししょいちらん)は歴史書の一覧。地域・年代順。一部厳密に分類すると「歴史物語」に属し、史料としては価値が劣るものも含むので取扱いについては注意する。なお、用語としての「歴史書」については歴史書の項目を参照。.

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淳和天皇

淳和天皇(じゅんなてんのう、延暦5年(786年) - 承和7年5月8日(840年6月11日)、在位:弘仁14年4月27日(823年6月9日) - 天長10年2月28日(833年3月22日))は、平安時代初期の第53代天皇。西院帝ともいう。諱は大伴(おおとも)。 桓武天皇の第七皇子。 母は、藤原百川の娘・旅子。平城天皇、嵯峨天皇は異母兄。.

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清原夏野

清原 夏野(きよはら の なつの)は、平安時代初期の宗室・貴族・政治家。舎人親王の孫である内膳正・小倉王の五男。.

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源常

源 常(みなもと の ときわ)は、平安時代初期の公卿。嵯峨天皇の子(嵯峨第三源氏)。官位は正二位・左大臣、贈正一位。東三条左大臣とも呼ばれる。.

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漢文

漢文(かんぶん)とは、古代中国の文語体の文章のこと。または近代中国人・朝鮮人・日本人・ベトナム人によって書かれる古典的な文章語のうち、漢字を用いて中国語の文法で書かれたものをいう。.

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朝野鹿取

朝野 鹿取(あさの の かとり)は、平安時代初期の公卿。氏姓は忍海原連のち朝野宿禰、朝野朝臣。正六位上・忍海原鷹取の子。.

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新羅の入寇

新羅の入寇(しらぎのにゅうこう)は、古代朝鮮半島に栄えた王国、新羅の流民や帰化人による犯罪及び新羅王の勅命による国家規模の海賊行為等の総称。かつては「新羅の賊」と呼ばれた。新羅寇とも言う。 新羅の国内の混乱により、811年から新羅が滅亡する935年までの間に、度々、新羅の賊が日本各地を侵した。本項では新羅滅亡以後の賊徒侵攻についても概説する。.

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日本紀略

日本紀略(にほんきりゃく)は、平安時代に編纂された歴史書で、六国史の抜粋と、六国史以後後一条天皇までの歴史を記す。範囲は神代から長元9年(1036年)まで。編者不詳。漢文、編年体、全34巻。.

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日本逸史

日本逸史(にほんいっし)は、歴史書。40巻。鴨祐之編。元禄5年成る。享保9年刊。 『日本後紀』の欠をおぎなうべく、『類聚国史』、『日本紀略』、『類聚三代格』、『政事要略』その他の記事を、延暦11年以降天長10年まで、原文のまま、編年体で記述する。 Category:江戸時代の歴史書 Category:17世紀の書籍.

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承和 (日本)

承和(じょうわ、しょうわ)は、日本の元号の一つ。天長の後、嘉祥の前。834年から848年までの期間を指す。この時代の天皇は仁明天皇。.

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15世紀

大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.

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1970年

記載なし。

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1月5日

1月5日(いちがついつか)はグレゴリオ暦で年始から5日目に当たり、年末まであと360日(閏年では361日)ある。誕生花はミスミソウ。.

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792年

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819年

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833年

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840年

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841年

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