ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

徳川家康

索引 徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

1237 関係: 加太越加藤清正劉邦城塞 (小説)城代原田眞人お亀の方おんな城主 直虎お鷹の道・真姿の池湧水群側室偽書ふんどしから揚げ博労淵の戦い千姫南宗寺南蛮貿易南蛮胴古武道古河公方古河藩史記右大臣右筆司馬遼太郎参勤交代参議叙位叙爵名護屋名護屋城吐血吾妻鏡向井忠勝向井正綱吉川広家吉川弘文館吉井藩堀尾吉晴堀忠俊堀秀治塚原卜伝塙直之増上寺増田長盛多羅尾氏多胡藩夏目吉信大名...大坪流大坂城大坂の陣大多喜藩大奥大川透大久保忠世大久保忠隣大久保忠職大久保忠朝大久保忠教大久保長安大久保氏大井川大仏大御所 (江戸時代)大内義興大砲大筒大納言大隅国大草松平家大須賀忠政大高城大谷吉継大賀弥四郎大胡藩大般若長光大阪大野治長大老大樹寺大橋宗桂 (初代)大河ドラマ大政所天ぷら天台宗天崇院天下人天地人 (NHK大河ドラマ)天王寺・岡山の戦い天竜川天領天野康景天正天正壬午の乱天海天文 (元号)太原雪斎太宗 (唐)太平洋戦争太田康資太田牛一太田資宗太田重正太閤太陰暦太政大臣奥平定能奥平家昌奥平忠政奥平信昌女官姉川の戦い嫡男学研プラス孕石元泰宝飯郡宣戦布告宣明暦宣旨室町幕府宮宿宮内庁書陵部宮津市宮本義己家系家老守谷藩官位官職宗義智宗教的迫害宇喜多秀家宇都宮城宇治茶安土城安土桃山時代安国寺恵瓊安倍川安祥城安芸国安房国安房正木氏寺社寺請制度寺部城寺院対馬国寛永の大飢饉寛永寺寛政重修諸家譜小姓小学館小山城 (下野国)小川祐忠小幡藩小幡景憲小出吉英小笠原忠真小笠原忠脩小笠原信嶺小笠原秀政小笠原権之丞小田原城小田原城の戦い (1560年)小田原市小田原征伐小田原藩小牧山小牧・長久手の戦い小袖小西行長小野忠明小松姫小早川秀秋尾上松之助尾張国尾藤正英将棋山家三方衆山岡荘八山内康豊山内忠義山科言経山田氏山田景隆岐阜城岡崎城岡崎市岡崎市役所岡部長盛岡部正綱岡本大八事件岩富藩岩村城岩村城の戦い岩槻藩岩波新書岩波書店島田市島津忠恒島津義久島津義弘島清興崇源院川崎桃太川中島川越藩上総国上田城上野国上杉謙信上杉氏上杉憲政上杉景勝上杉景虎上泉信綱上洛上方不受不施派中央公論新社中山道中山氏中庸中公新書中国地方中納言中道往還中村又五郎 (3代目)中村孝也中村一忠中村一栄中根正照常山紀談常陸国丸根砦丹後国丹党丹羽基二七里岩布施世阿弥世良田氏市場姫市姫市川右太衛門万喜城三つ葉葵三好三人衆三島市三中老三井記念美術館三要元佶三英傑三条氏 (徳川家康側室)三河一向一揆三河国三河国司三河物語三河武士三浦為春三浦重成三浦氏三方ヶ原の戦い下山殿下総山崎藩下総国下野国一向一揆一刀流一国一城令一言坂の戦い一揆一条信龍九条兼孝九戸政実の乱平塚八幡宮平岩親吉平氏平清盛平戸平手汎秀年忌幸若舞幾何学幕府幕藩体制幕末久保田藩久留里藩久能山久能山御蔵金銀久能山東照宮久野宗能享保の改革京職京都京都五山京橋 (大阪市)庶子府中二俣城二俣城の戦い二条城二条家二条康道広橋兼勝五大老五奉行五島美術館五郎八姫井上正就井伊直孝井伊直虎井伊直政亀姫 (徳川家康長女)今川義元今川直房今川貞世今川氏今川氏真今出川晴季今福の戦い今谷明代官以心崇伝延喜式任官仙台東照宮仙北一揆伊奈忠次伊奈昭綱伊丹康勝伊丹康直伊勢国伊達政宗伊豆国伊賀国伊賀越え伊賀流伊藤大輔 (映画監督)伊東一刀斎伊東潤会津会津征伐伏見城伏見城の戦い伏見版弾劾張良弓術位階佐久間信盛佐和山城佐々成政佐倉藩佐竹義宣 (右京大夫)佐竹氏佐貫藩佐渡金山彦坂元正影武者役所広司作事奉行当代記征夷大将軍侍女侍従依田康勝依田康国依田信蕃御館の乱御法度御所徳川十六神将徳川吉宗徳川実紀徳川家宣徳川家康 (1965年の映画)徳川家康 (1988年のテレビドラマ)徳川家康 (山岡荘八)徳川家康 (NHK大河ドラマ)徳川家康と三人の女徳川家康の影武者説徳川家康の馬印徳川家光徳川家綱徳川将軍家徳川御三家徳川忠長徳川和子徳川光圀徳川四天王徳川秀忠徳川綱吉徳川綱重徳川美術館徳川義宣徳川義直徳川頼宣徳川頼房徳川氏徳川慶喜後北条氏後藤基次後藤庄三郎後陽成天皇得川氏従三位従一位従二位従五位従四位忍藩保科正光保科正直信寿院信仰信長包囲網信長公記信濃国応仁の乱土岐定政土岐氏土井利勝土佐国土豪土浦城土方雄久北大路欣也北島正元北信地方北畠家北条氏康北条氏勝北条氏照北条氏直北条氏規北条氏治北条氏政マウリッツ (オラニエ公)ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件ポルトガルポータブルトイレメノウメキシコヤン・ヨーステンユリウス暦リーフデ号ルイス・フロイスルイス・ソテロロドリゴ・デ・ビベロヌエバ・エスパーニャテレビ朝日フロイス日本史フェリペ3世 (スペイン王)ドン・ロドリゴ日本見聞録初花初陣別当切腹喜連川氏周公旦呪い呂尚和剤局方和製大砲和賀・稗貫一揆和暦和泉国アマダイイギリス商館イギリス東インド会社ウィリアム・アダムスオランダオランダ商館オランダ総督オランダ東インド会社オットセイキリシタングネッキ・ソルディ・オルガンティノグレゴリオ暦ゲリラコンパスジョン・セーリスジェームズ1世 (イングランド王)セバスティアン・ビスカイノ唐名唐物唐梅院円照院内大臣内藤家長内藤信成内藤清成内野聖陽出羽国准如八幡山藩八味地黄丸六角義賢六条河原元寇元亀元和 (日本)元服兵糧前田利家前田利長前田氏前橋藩剣術副将軍勧修寺光豊勅令勅使囲碁囲碁殿堂国史大辞典国人国盗り物語CAPCOM犬山城皆川広照皆川藩皇室皇族将軍矢作藩知立神社知行知恩院石山本願寺石川家成石川康通石川数正石火矢石田三成石田正澄石高石鹸石清水八幡宮玉縄藩督姫砲術砂時計碓氷峠磐田市神 (神道)神君神階神職神龍院梵舜神格化神沢杜口神戸町禁中並公家諸法度禁忌福島正之福島正則福井藩秋山虎繁秋元泰朝秋田書店穴山信君空城計竹阿弥竹腰正信笠谷和比古管領箱根箕輪藩篠田達明築山殿節句節約粛清系図納豆紫衣事件細川忠興細川高国細川氏細川政元細川晴元紀州藩紀州東照宮紀伊国紀氏継室総社藩総構え織田信広織田信秀織田信長織田信雄織田勝長織田秀信織田長孝織田長益織田氏織田政権美濃国羽織真宗大谷派真田丸 (NHK大河ドラマ)真田丸の戦い真田幸道真田信之真田信繁真田昌幸真言宗眼鏡猿楽烏丸光広結城秀康結城藩生薬田原城 (三河国)田中城田中康政田中忠政田中氏甲州征伐甲相同盟甲賀流甲斐国町衆牧野康成 (大胡藩主)牧野省三物部氏片桐且元牛久保城狩野探幽独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)狭山藩直江兼続相模国白井藩百人一首花井吉成花押芳春院韓信蟄居鎌倉市鎌倉府鎖国聚楽第遠山直景 (左衛門大夫)遠江国遺産鍋島勝茂菩提寺菅沼定利菅沼定盈菅沼定芳落胤青山忠成青木一矩青木貞治静岡県衣冠束帯顕如風日祈宮食中毒飛騨山脈養儼院養珠院館林藩西上作戦西国西郡局西郷家員西郷局西郷氏西暦西本願寺親藩馬寮馬術覇王の家見附宿香道駿府駿府城駿府政事録駿河侵攻駿河国角川学芸出版角川書店騎射騎西藩設楽郡言経卿記諏訪原城諏訪頼忠諏訪頼水高力清長高台院高天神城高天神城の戦い高崎藩高野山高橋泥舟高源院 (鍋島勝茂正室)論語謀反魚類魏徴譜第鰐淵寺谷中霊園豊後国豊國神社 (大阪市)豊国神社 (京都市)豊臣秀吉豊臣秀頼豊臣秀長豊臣秀次豊臣政権豪族貞観政要貞松院 (小出吉英正室)貨幣貨幣経済賤ヶ岳の戦い鳥居忠広鳥居元忠鴫野の戦い贈位越中国越後国越前国足利義稙足利義輝足利義満足利義澄足利義昭足利義晴鷲津砦鷹司信尚鷹狩麦飯軍師転封黒田孝高黒田長政黒田氏輪王寺辞世近衛大将近衛府近衛前久近藤康用近江国茶屋四郎次郎茶道茶阿局蜂須賀家政蜂須賀至鎮能楽胃癌鈴木かほる鈴木一蔵興正寺蘭奢待阿姫阿保藩阿部サダヲ赤座直保赤飯赤松政則鵜殿長照鵜殿長持鵜殿氏関口親永関宿藩関ヶ原 (小説)関ヶ原 (テレビドラマ)関ヶ原 (映画)関ヶ原の戦い関ケ原町関東地方関東管領薩摩国薬師如来間宮康俊薄田兼相開眼法要門跡藤原定家藤原氏藤堂高虎藤田信吉藤野保藤枝市藤沢市藤波畷の戦い葵 徳川三代葛西大崎一揆蒲生秀行 (侍従)蒲生氏郷蒔絵那波藩肖像蓮姫蓮華院 (徳川家康側室)蔵人蔵入地脇坂安治野一色助義野田城 (三河国)野菜重陽臨済宗臼井藩里見義康里見氏金山金ヶ崎の戦い金谷宿金沢区長宗我部元親長宗我部氏長崎奉行長久手市長勝院長篠城長篠の戦い長谷川秀一長谷川藤広長谷川長綱酒井家次酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)酒井忠次酒井重忠良純入道親王良雲院鉱山若神子城英勝院鋸挽き雲光院雑賀衆陸奥国TBS大型時代劇スペシャルTBSテレビ抹香暗殺柳屋本店 (化学)柳生宗厳柳生宗矩柴田勝家柴田顕正柿田川柘植氏柘植清広林羅山掛川城恵最揖斐川李氏朝鮮来島長親杭瀬川の戦い東宝東京国立博物館東国東福寺東照宮東条松平家東本願寺東海道松姫松岡則方松平健松平定勝松平家乗松平家広松平家忠松平家忠 (東条松平家)松平家元松平家次松平家治松平家清松平康俊松平康忠松平康元松平康直松平康親松平康重松平康長松平広忠松平仙千代松平伊忠松平張忠松平忠吉松平忠直松平忠輝松平忠明松平忠昌松平信一松平信康松平状松平重吉松平松千代松平氏松平民部松平清宗松平成重松代藩松前慶広松田毅一松方弘樹板倉重昌板部岡江雪斎杵築藩村川浩平村正栗田国時栄姫栄寿院桶狭間の戦い桜井松平家森忠政森繁久彌森長可検地榊原康勝榊原康政権現横須賀城樋口清之欠落正室正三位正一位正二位正五位正保正四位正親町天皇正栄院正清院正木頼忠武家執奏武家諸法度武将武川衆武徳編年集成武光誠武王 (周)武田信吉武田信玄武田勝頼武田氏武蔵小室藩武蔵七党武蔵国武蔵国府跡武蔵松山藩歴史群像歴名土代死刑毛利勝永毛利秀元毛利秀頼毛利輝元毛利氏水墨画水野忠重水野忠政水野信元水野氏水戸市水戸藩永禄永見貞愛永見氏江〜姫たちの戦国〜江戸江戸城江戸幕府江戸重通江戸時代池宮彰一郎池田輝政池田恒興河尻秀隆河内国沼田市沼田藩沈香泰栄院法光院法相宗津川城津川雅彦津軽信枚深谷藩深溝松平家淀殿渡辺守綱渡辺幸庵渡邊大門清和源氏清華家清雲院 (徳川家康側室)清洲城清洲同盟清浄院 (加藤清正室)減封源義家源義光源義重源頼朝源氏源氏物語源氏長者満天姫滝川一益滝田栄服部英雄服部正成服部氏朝廷朝倉義景朝鮮半島朝鮮通信使朝野旧聞ホウ藁朝臣朝比奈泰能朝比奈泰朝朝日姫木版印刷木村重成木津川口の戦い (1614年)木曾義昌本多康重本多広孝本多忠刻本多忠勝本多忠政本多隆成本多正信本多正純本姓本丸本庄藩本地垂迹本光国師日記本因坊算砂本草綱目本能寺の変朱印状朽木元綱指物有馬康純有馬直純有馬豊氏最上家親最上義俊最上義光惣無事令戎光祥出版成瀬正一 (戦国武将)成瀬正義戦国大名戦国BASARA戦国遺文戦国時代 (日本)戸田康光戸田勝成戸田氏明石全登明神明治明治維新明智城明智光秀春日局浪人海道一の弓取り浜名湖浜松浜松城浄土宗浄土真宗浄土真宗本願寺派浅井三姉妹浅井長政浅野幸長浅野長重浅野長政浅野長晟斎藤道三新史太閤記新府城新井白石新田氏新陰流新潮新書方広寺於大の方文王 (周)文禄文系と理系文英清韓日奥日下部定好日光市日光東照宮日経日蓮宗日本人日本テレビ放送網日本泳法日本放送協会日時計旗本旗本先手役摂家摂家将軍摂津国支城改姓改易攻城戦愛知県敬台院数学教如慶長手形・足形手続き的知識曲輪曳馬町書経普照院時計12月26日 (旧暦)1543年1547年1549年1555年1558年1560年1562年1564年1566年1567年1568年1569年1570年1571年1572年1573年1574年1575年1578年1579年1580年1581年1582年1583年1584年1585年1586年1587年1588年1589年1590年1591年1592年1593年1594年1595年1596年1597年1598年1599年1600年1601年1602年1603年1605年1607年1609年1610年1611年1612年1613年1614年1615年1616年1617年1620年1645年1798年1964年1965年1970年1983年1987年1988年1992年1月21日 (旧暦)1月31日2000年2005年2005年日本国際博覧会2008年2009年2011年2012年2016年2017年2月18日3月4月17日 (旧暦)5月5月6日6月1日6月20日 (旧暦) インデックスを展開 (1187 もっと) »

加太越

名阪国道加太トンネル(上り線入口) 関西本線中在家信号場 加太越(かぶとごえ)は三重県伊賀市と同県亀山市の間にある峠。鈴鹿山脈南嶺南にあり、鈴鹿峠が開かれる前は東海道が走るなど、古から人の往来があった。 現在でも名阪国道(国道25号)、西日本旅客鉄道(JR西日本)関西本線などが通っている。比較的緩やかな峠である。また、関西本線柘植駅・加太駅間にはスイッチバック方式の中在家信号場がある。 かつて徳川家康が本能寺の変によって危機に晒されたとき、命辛々、山越えを果たした神君伊賀越えの逸話がある。.

新しい!!: 徳川家康と加太越 · 続きを見る »

加藤清正

加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。通称は虎之助(とらのすけ)。熊本などでは現代でも清正公さん(せいしょうこうさん、せいしょこさん)と呼ばれて親しまれている(清正公信仰)。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。.

新しい!!: 徳川家康と加藤清正 · 続きを見る »

劉邦

劉 邦(りゅう ほう、、)は、前漢の初代皇帝。 沛県の亭長(亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと)であったが、反秦連合に参加した後に秦の都咸陽を陥落させ、一時は関中を支配下に入れた。その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢王となるも、東進して垓下に項羽を討ち、前漢を興した。正式には廟号が太祖、諡号が高皇帝であるが、通常は高祖と呼ばれることが多い。.

新しい!!: 徳川家康と劉邦 · 続きを見る »

城塞 (小説)

『城塞』(じょうさい)は、司馬遼太郎の歴史小説。天下無双の城塞・大坂城を舞台に、徳川家康と豊臣家の最終決戦となった大坂の陣を描く。 『週刊新潮』誌上で、1969年(昭和44年)7月から1971年(昭和46年)10月まで連載された。.

新しい!!: 徳川家康と城塞 (小説) · 続きを見る »

城代

城代(じょうだい)とは、中世から近世の日本で大名から城郭及び周辺の領土の守備を任された家臣をいう。城主の留守中に代理として城を管理した者。近世には留守居頭(るすいがしら)・大留守居(おおるすい)などの別称でも呼ばれる。.

新しい!!: 徳川家康と城代 · 続きを見る »

原田眞人

原田 眞人(はらだ まさと、1949年7月3日 - )は、日本の映画評論家、映画監督、脚本家。 静岡県沼津市出身。スカイホーク所属(業務提携:つばさプロジェクト)。ビーエス朝日番組審議会委員。.

新しい!!: 徳川家康と原田眞人 · 続きを見る »

お亀の方

清涼院蔵) お亀の方(おかめのかた、天正元年(1573年) - 寛永19年9月16日(1642年10月9日))は、徳川家康の側室。石清水八幡宮の祀官家・田中氏(紀姓田中氏)の分家である京都正法寺・志水宗清の娘。.

新しい!!: 徳川家康とお亀の方 · 続きを見る »

おんな城主 直虎

『おんな城主 直虎』(おんなじょうしゅ なおとら)は、2017年1月8日から同年12月17日まで放送されたNHK大河ドラマ第56作。 戦国時代、後に徳川四天王の一人に数えられ彦根藩の藩祖となった井伊直政を育てた遠州井伊谷の女領主・井伊直虎を主人公とした物語である。主演は柴咲コウ。.

新しい!!: 徳川家康とおんな城主 直虎 · 続きを見る »

お鷹の道・真姿の池湧水群

お鷹の道 真姿の池 お鷹の道・真姿の池湧水群(おたかのみち・ますがたのいけゆうすいぐん)とは東京都国分寺市西元町の武蔵野台地国分寺崖線によって形成されるママがハケに沿って用水となっている、武蔵野台地の代表的な景観の場所であり1985年(昭和60年)名水百選に選定された。.

新しい!!: 徳川家康とお鷹の道・真姿の池湧水群 · 続きを見る »

側室

側室(そくしつ)とは、一夫多妻制の下の身分の高い階層における夫婦関係において、夫たる男性の本妻である正室に対する概念で、本妻以外の公的に認められた側妻や妾にあたる女性を指す。.

新しい!!: 徳川家康と側室 · 続きを見る »

偽書

偽書(ぎしょ)とは、製作者や製作時期などの由来が偽られている文書・書物のこと。主として歴史学において(つまりはその文献の史的側面が問題とされる場合に)用いられる語である。単に内容に虚偽を含むだけの文書は偽書と呼ばれることはない。 偽書という概念は、美術的な書の贋作も含んでいる。ちなみに英語でもforgeryは偽書、贋作どちらの意味もある。 本項目では、偽書全般について記述する。 (註:なお、例示には偽書として評価の定まっているもののほか、「専門家によって偽書の疑いを提示されたことがあるもの」も含む。偽書としての疑いの程度やその根拠については、リンクされている各記事を参照のこと。).

新しい!!: 徳川家康と偽書 · 続きを見る »

ふんどし

褌(ふんどし)は、日本の伝統的な下着。褌には概ね帯状の布を身体に巻き付けて身体後部で完結するものと、紐を用いて輪状として用いて完結するものに大別されている。同様のものは世界各地に見られる。.

新しい!!: 徳川家康とふんどし · 続きを見る »

から揚げ

鶏のから揚げ から揚げ定食 から揚げ(からあげ、空揚(げ)、唐揚(げ))とは、食材に小麦粉や片栗粉を薄くまぶす程度で、衣をつけずに高温の油で揚げること小学館デジタル大辞泉「からあげ」。また、その料理。英語では「fry」(フライ)で料理名ではフライドチキン、フライドポテトなど「fried〜」となる。中国語では揚げものは「油炸」(ヨウチャ)と呼ばれて何もつけず揚げるから揚げは「清炸」(チンチャ)、衣をつけるのは「乾炸」(カヌチャ)。いわゆる揚げ物の一種。.

新しい!!: 徳川家康とから揚げ · 続きを見る »

博労淵の戦い

博労淵の戦い(ばくろうぶちのたたかい)は、江戸幕府と豊臣家の間の大坂の陣(大坂の役)のうち、1614年(慶長19年)末に発生した大坂冬の陣において行われた戦いの一つ。.

新しい!!: 徳川家康と博労淵の戦い · 続きを見る »

千姫

千姫(せんひめ)は、安土桃山時代から江戸時代の女性。豊臣秀頼・本多忠刻の正室。父は徳川秀忠、母は継室の江。号は天樹院。.

新しい!!: 徳川家康と千姫 · 続きを見る »

南宗寺

枯山水庭園 (国の名勝) 南宗寺(なんしゅうじ)は大阪府堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院で三好氏の菩提寺。山号は龍興山。開山は大林宗套、中興は沢庵宗彭、本尊は釈迦三尊である。茶人の武野紹鴎、千利休が修行をした縁の寺であり、堺の町衆文化の発展に寄与した寺院である。古田織部作と伝わる枯山水庭園は、国の名勝に指定されている。.

新しい!!: 徳川家康と南宗寺 · 続きを見る »

南蛮貿易

南蛮貿易(なんばんぼうえき)とは、日本の商人、南蛮人、明時代の中国人、およびヨーロッパとアジアの混血住民との間で行われていた貿易である。南蛮人とは、ポルトガル人とスペイン人を指す。時期は16世紀半ばから17世紀初期、場所は東南アジアから東アジアの海域にかけて行われた。.

新しい!!: 徳川家康と南蛮貿易 · 続きを見る »

南蛮胴

徳川家康所用南蛮胴具足 南蛮胴(なんばんどう)は、ヨーロッパの胴鎧を16世紀から17世紀の日本において日本風に改造した鎧。またはそれを模して作られた鎧。.

新しい!!: 徳川家康と南蛮胴 · 続きを見る »

古武道

薙刀を持っている僧兵(僧衆) 弓術 流鏑馬 柳生新陰流 二天一流 F・ベアト撮影) 畑六良左エ門」。『太平記』では、時能が犬の「犬獅子」と二人の従者「所大夫房快舜」、「悪八郎」とともに足利氏の砦を落としたというhttp://www.oidenense.net/stories/hata/ 勝山物語(畑時能物語) 古武道(こぶどう)とは、日本の伝統的な、徒手もしくは鈍器や刃物、火器などの武具の使用法や、水泳、乗馬など戦闘に関わる技術を体系化したものの総称。古流武術、古武術もほぼ同義。武芸、武術、兵法などの類義語もある。対義語は現代武道。.

新しい!!: 徳川家康と古武道 · 続きを見る »

古河公方

古河公方(こがくぼう)は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった。(享徳の乱) その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。御所は主に古河城。古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。.

新しい!!: 徳川家康と古河公方 · 続きを見る »

古河藩

古河藩(こがはん)は、下総(現在の茨城県古河市)に存在した藩。藩庁は古河城。.

新しい!!: 徳川家康と古河藩 · 続きを見る »

史記

『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。正史の第一に数えられる。二十四史のひとつ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までである。このような記述の仕方は、中国の歴史書、わけても正史記述の雛形となっている。 二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価を得ているものであり、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。 日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。.

新しい!!: 徳川家康と史記 · 続きを見る »

右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

新しい!!: 徳川家康と右大臣 · 続きを見る »

右筆

右筆(ゆうひつ)は、中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。.

新しい!!: 徳川家康と右筆 · 続きを見る »

司馬遼太郎

司馬 太郎(しば りょうたろう、1923年(大正12年)8月7日 - 1996年(平成8年)2月12日)は、日本の小説家、ノンフィクション作家、評論家。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。大阪府大阪市生まれ。筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。 産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』など多くがあり、戦国・幕末・明治を扱った作品が多い。『街道をゆく』をはじめとする多数のエッセイなどでも活発な文明批評を行った。.

新しい!!: 徳川家康と司馬遼太郎 · 続きを見る »

参勤交代

参勤交代(さんきんこうたい)とは、各藩の藩主を一年おきに江戸に出仕させる江戸幕府の法令のことである。参勤交替、参覲交代、参覲交替などとも書く。 藤堂様御国入行列附版画/伊賀文化産業協会蔵.

新しい!!: 徳川家康と参勤交代 · 続きを見る »

参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

新しい!!: 徳川家康と参議 · 続きを見る »

叙位

叙位(じょい)とは、位階を授けること、およびその儀式。授位(じゅい)ともいう。本項では前近代の日本における叙位について解説する。.

新しい!!: 徳川家康と叙位 · 続きを見る »

叙爵

叙爵(じょしゃく)とは、.

新しい!!: 徳川家康と叙爵 · 続きを見る »

名護屋

名護屋(なごや) 地名.

新しい!!: 徳川家康と名護屋 · 続きを見る »

名護屋城

テレオ空中写真(1977年)国土航空写真 肥前名護屋城図屏風 名護屋城(なごやじょう)は、肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市(旧東松浦郡鎮西町・呼子町)、東松浦郡玄海町)にあった日本の城。豊臣秀吉の文禄・慶長の役に際し築かれた。国の特別史跡に指定されている。平成18年(2006年)には日本100名城(87番)に選定された。.

新しい!!: 徳川家康と名護屋城 · 続きを見る »

吐血

吐血(とけつ)とは、消化器が疾患や損傷によって出血し、口から血を吐く事。重大な疾患により引き起こされている場合があり多量の出血の場合は、緊急的に専門医の診察と治療が必要となる 慶應義塾大学病院 KOMPAS。.

新しい!!: 徳川家康と吐血 · 続きを見る »

吾妻鏡

『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。 編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。.

新しい!!: 徳川家康と吾妻鏡 · 続きを見る »

向井忠勝

向井 忠勝(むかい ただかつ、天正10年5月15日(1582年6月5日) - 寛永18年10月14日(1641年11月16日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本。向井正綱の子。官位は左近衛将監。妻は長谷川長綱の娘で、後妻と合わせて11男7女に恵まれた。.

新しい!!: 徳川家康と向井忠勝 · 続きを見る »

向井正綱

向井 正綱(むかい まさつな、弘治2年(1556年) - 寛永元年3月26日(1624年5月2日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。向井正重の子。子に向井忠勝、向井正通ら。名は政綱とも。通称は兵庫助。なお「向井」と名乗ったのは正綱からで、それ以前は「向」であった。.

新しい!!: 徳川家康と向井正綱 · 続きを見る »

吉川広家

吉川 広家(きっかわ ひろいえ)は、戦国時代後期から江戸時代前期にかけての武将。周防国岩国領初代領主長州藩の主張によれば広家はあくまでも毛利氏の家老であるため、岩国藩主と呼ぶのは誤りであるとしている。。毛利氏の家臣。.

新しい!!: 徳川家康と吉川広家 · 続きを見る »

吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

新しい!!: 徳川家康と吉川弘文館 · 続きを見る »

吉井藩

吉井藩(よしいはん)は、上野多胡郡吉井(現在の群馬県高崎市吉井町吉井)に存在した藩。藩府は吉井陣屋に営まれた。.

新しい!!: 徳川家康と吉井藩 · 続きを見る »

堺(さかい)は、大阪湾に面し、大阪市(大坂)の南に位置する都市。また、その市街地を中心とする地域。 地名は、方違神社付近がかつて摂津国・河内国・和泉国の3国の「境(さかい)」であったことに由来する。市街地はその西方に形成され、大小路通を境に摂津国住吉郡と和泉国大鳥郡に跨っていた。.

新しい!!: 徳川家康と堺 · 続きを見る »

堀尾吉晴

堀尾 吉晴(ほりお よしはる)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将・大名。豊臣政権三中老の1人。.

新しい!!: 徳川家康と堀尾吉晴 · 続きを見る »

堀忠俊

堀 忠俊(ほり ただとし、1596年(慶長元年)- 1622年2月2日(元和7年12月22日))は、江戸時代初期の大名。越後福嶋藩第2代藩主。初代藩主堀秀治の長男。母は長谷川秀一の娘。正室は姫路藩主・本多忠政の娘(徳川家康の養女)国姫。子は堀秀俊(長男)。.

新しい!!: 徳川家康と堀忠俊 · 続きを見る »

堀秀治

堀 秀治(ほり ひではる)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。越後福嶋藩の初代藩主。堀秀政の長男。.

新しい!!: 徳川家康と堀秀治 · 続きを見る »

塚原卜伝

塚原 卜伝(つかはら ぼくでん)は、日本の戦国時代の剣士、兵法家。父祖伝来の鹿島古流(鹿島中古流)に加え、天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新当流を開いた。.

新しい!!: 徳川家康と塚原卜伝 · 続きを見る »

塙直之

塙 直之(ばん なおゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。諱は直次、尚之とも。通称は長八、後に団右衛門に改めた。一時、出家した際には鉄牛と号した。 後世、『難波戦記』などの軍記物や岩見重太郎の講談などで有名になったため、塙 団右衛門(ばん だんえもん)の名でも知られる。.

新しい!!: 徳川家康と塙直之 · 続きを見る »

増上寺

大殿の扁額 増上寺(ぞうじょうじ)は、東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗の寺院。山号は三縁山。三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)と称する。.

新しい!!: 徳川家康と増上寺 · 続きを見る »

増田長盛

増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位は従五位下・右衛門少尉。.

新しい!!: 徳川家康と増田長盛 · 続きを見る »

多羅尾氏

多羅尾氏(たらおし)は、鎌倉時代に近江国甲賀郡信楽荘多羅尾に発祥し、江戸時代末までこの地を治めた武家である。.

新しい!!: 徳川家康と多羅尾氏 · 続きを見る »

多胡藩

多胡藩(たこはん)は、下総国(現在の千葉県香取郡多古町)に存在した藩。.

新しい!!: 徳川家康と多胡藩 · 続きを見る »

夏目吉信

夏目 吉信(なつめ よしのぶ)は、戦国時代の武将。松平氏(徳川氏)の譜代家臣。一次史料上で確認できる実名は広次である。.

新しい!!: 徳川家康と夏目吉信 · 続きを見る »

大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

新しい!!: 徳川家康と大名 · 続きを見る »

大坪流

大坪流(おおつぼりゅう)は、室町時代に大坪慶秀(大坪式部大輔広秀、剃髪後は道禅)が開いたと伝える、日本の古典馬術の流派の一つである。小笠原流、八条流、内藤流とともに古流とされる。.

新しい!!: 徳川家康と大坪流 · 続きを見る »

大坂城

大坂城/大阪城(おおさかじょう)は、安土桃山時代に摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれ、江戸時代に修築された日本の城。現在の大阪府大阪市中央区大阪城に所在する。別称は錦城(きんじょう。金城とも表記)。「大坂城跡」として国の特別史跡に指定されている。.

新しい!!: 徳川家康と大坂城 · 続きを見る »

大坂の陣

大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれる。.

新しい!!: 徳川家康と大坂の陣 · 続きを見る »

大多喜藩

大多喜藩(おおたきはん)は、上総国に存在した藩。藩庁を大多喜城(現在の千葉県夷隅郡大多喜町大多喜四八一)に置いた。.

新しい!!: 徳川家康と大多喜藩 · 続きを見る »

大奥

大奥(おおおく)は、江戸城に存在した将軍家の子女や正室、奥女中(御殿女中)たちの居所。あるいは、江戸時代の大大名家の奥向の別称でもある東海道二川宿の「御休泊記録」には、薩摩藩の奥女中を「薩州奥女中」や「薩州大奥女中」などと記している。一説によれば、中奥あるいはそれに類する空間が存在する場合、それと区分するために「大奥」という名称が用いられたと唱えられている。。 本項では、江戸城大奥について述べる。 千代田之大奥 歌合 橋本(楊洲)周延画.

新しい!!: 徳川家康と大奥 · 続きを見る »

大川透

大川 透(おおかわ とおる、1960年2月28日 - )は、日本の男性声優、舞台俳優、ナレーターである。 マウスプロモーション所属。鹿児島県出身。日本大学藝術学部演劇学科中退マウスプロモーションWebラジオ「テイスティング・マウス」第10回。.

新しい!!: 徳川家康と大川透 · 続きを見る »

大久保忠世

大久保 忠世(おおくぼ ただよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。松平氏(徳川氏)の家臣。三河国額田郡上和田(愛知県岡崎市)の大久保氏の支流である大久保忠員の長男。蟹江七本槍、徳川十六神将の1人に数えられる。.

新しい!!: 徳川家康と大久保忠世 · 続きを見る »

大久保忠隣

大久保 忠隣(おおくぼ ただちか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・譜代大名。相模小田原藩の初代藩主。父は大久保忠世、母は近藤幸正の娘。講談で有名な旗本の大久保忠教の甥にあたる。小田原藩大久保家初代。.

新しい!!: 徳川家康と大久保忠隣 · 続きを見る »

大久保忠職

大久保 忠職(おおくぼ ただもと)は、江戸時代前期の大名。武蔵騎西藩第2代藩主、美濃加納藩、播磨明石藩、肥前唐津藩の初代藩主。相模小田原藩大久保家2代。 大久保忠常の長男。母は奥平信昌と亀姫(徳川家康の長女)の娘。大久保忠隣の嫡孫に当たる。.

新しい!!: 徳川家康と大久保忠職 · 続きを見る »

大久保忠朝

大久保 忠朝(おおくぼ ただとも)は、江戸時代の大名・老中。肥前唐津藩第2代藩主、下総佐倉藩主、相模小田原藩主。小田原藩大久保家3代。.

新しい!!: 徳川家康と大久保忠朝 · 続きを見る »

大久保忠教

大久保 忠教(おおくぼ ただたか)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。江戸幕府旗本。徳川氏家臣・大久保忠員の八男。通称の彦左衛門で有名。幼名は平助。一時忠雄とも名乗った。兄に大久保忠世、大久保忠佐、大久保忠為ら。子に大久保忠名、大久保包教、大久保政雄らがいる。妻は馬場信成の娘。『三河物語』の著者としても知られる。.

新しい!!: 徳川家康と大久保忠教 · 続きを見る »

大久保長安

大久保 長安(おおくぼ ながやす/ちょうあん)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。甲斐武田氏、次いで徳川氏の家臣。後に江戸幕府勘定奉行、老中となった。.

新しい!!: 徳川家康と大久保長安 · 続きを見る »

大久保氏

大久保氏(おおくぼし)は、日本の氏族。.

新しい!!: 徳川家康と大久保氏 · 続きを見る »

大井川

大井川(おおいがわ)は、静岡県を流れる河川。一級水系大井川の本流。.

新しい!!: 徳川家康と大井川 · 続きを見る »

大仏

大仏(だいぶつ)とは、大きな仏像を指す通称。中国などアジアの仏教圏では、天然の岩壁を彫刻した磨崖仏などが古くから造られてきた。日本においては、奈良時代に聖武天皇が、国家の安寧と民の幸福を祈願して東大寺に奈良の大仏(東大寺大仏)を造立したのを嚆矢とする。以降、現代に至るまで、大きな功徳を求めた願主によって各地に大きな仏像が造られてきた。 釈迦の背丈が1丈6尺あったという伝説から、その高さで造られた仏像を丈六仏(じょうろくぶつ)という。背丈を基準としているため坐像の場合は、約半分の大きさになる。一般的には「丈六仏」より大きい仏像を「大仏」というが、その定義より小さくても「大仏」と称するものもある。 また、大仏を安置する仏堂を大仏殿(だいぶつでん)と呼ぶことがあり、東大寺の大仏殿(金堂)が有名である。.

新しい!!: 徳川家康と大仏 · 続きを見る »

大御所 (江戸時代)

大御所(おおごしょ)とは、江戸幕府において征夷大将軍職を退いて隠居した前将軍の敬称。.

新しい!!: 徳川家康と大御所 (江戸時代) · 続きを見る »

大内義興

大内 義興(おおうち よしおき)は、室町時代後期から戦国時代にかけての周防(山口)の戦国大名。周防の在庁官人・大内氏の第15代当主。 父は周防守護で大内氏の第14代当主・大内政弘。弟(一説に庶兄とも)に大内高弘(隆弘とも、初めは出家して大護院尊光)がいる。正室は長門守護代・内藤弘矩の娘。子に義隆(第16代当主)、娘(大友義鑑正室、後に大友義鎮(宗麟)や大内義長(第17代当主)がこの間に生まれる)。室町幕府の管領代となって将軍の後見人となり、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ねた。.

新しい!!: 徳川家康と大内義興 · 続きを見る »

大砲

大砲(たいほう)は、火薬の燃焼力を用いて大型の弾丸(砲弾)を高速で発射し、弾丸の運動量または弾丸自体の化学的な爆発によって敵および構造物を破壊・殺傷する兵器(武器)の総称。火砲(かほう)、砲とも称す。.

新しい!!: 徳川家康と大砲 · 続きを見る »

大筒

抱え大筒を持つ男(歌川国芳画) 大筒(おおづつ、熕とも書く)は、日本の戦国時代後期から江戸時代にかけての大砲の呼称であり、その一種の事。.

新しい!!: 徳川家康と大筒 · 続きを見る »

大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

新しい!!: 徳川家康と大納言 · 続きを見る »

大隅国

大隅国(おおすみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と大隅国 · 続きを見る »

大草松平家

大草松平家(おおくさまつだいらけ)は、三河国額田郡大草郷(現在の愛知県額田郡幸田町)出身の松平氏。岩津の松平信光五男・松平光重を祖とする。十四松平・十八松平の一つとされる。初めは岡崎松平家と称した。 宗家に対抗的で、3代・松平昌安(信貞・弾正左衛門)の時に松平清康に叛したが敗れ、4代・松平昌久は三河一向一揆で一揆側に付いた。このため大草松平家は一時追放されたが、再び一門に復し、7代・松平康安の時、徳川家康に忠を尽くして旗本(6千石)となった。しかし9代・松平正永の代で無嗣のため絶家した。.

新しい!!: 徳川家康と大草松平家 · 続きを見る »

大須賀忠政

大須賀 忠政(おおすが ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。上総久留里藩主、後に遠江横須賀藩の初代藩主。.

新しい!!: 徳川家康と大須賀忠政 · 続きを見る »

大高城

大高城(おおだかじょう)は、名古屋市緑区大高町にあった日本の城。 桶狭間の戦いの前哨戦として、当時今川義元の配下であった松平元康(徳川家康)が「兵糧入れ」をおこなったことで名高い。現在は国の史跡に指定され、公園として整備されている。.

新しい!!: 徳川家康と大高城 · 続きを見る »

大谷吉継

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って指揮し奮戦するが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して果てた。.

新しい!!: 徳川家康と大谷吉継 · 続きを見る »

大賀弥四郎

大賀 弥四郎(おおが やしろう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。姓は正しくは大岡氏であったとする説もある柴裕之「長篠合戦再考」『織豊期研究』12号、2010/柴『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年。.

新しい!!: 徳川家康と大賀弥四郎 · 続きを見る »

大胡藩

大胡城跡 大胡藩(おおごはん)は、上野国(現在の群馬県前橋市河原浜町)に存在した藩。.

新しい!!: 徳川家康と大胡藩 · 続きを見る »

大般若長光

大般若長光(だいはんにゃながみつ)は、鎌倉時代の備前国(岡山県)の刀工・長光作の太刀。国宝に指定されている。 国宝指定名称は「太刀 銘長光(大般若長光)(たち めいながみつ(だいはんにゃながみつ)」。.

新しい!!: 徳川家康と大般若長光 · 続きを見る »

大阪

大阪(おおさか、Ōsaka)は、日本の近畿地方(関西地方)の地名である。日本第二の都市・西日本最大の都市である大阪市(狭義の大阪)と、大阪市を府庁所在地とする大阪府を指す地域名称であり、広い意味では大阪市を中心とする京阪神(近畿地方、大阪都市圏、近畿圏)を漠然と総称することにも使われる。近畿の経済・文化の中心地で、古くは大坂と表記し、古都・副都としての歴史を持つ。.

新しい!!: 徳川家康と大阪 · 続きを見る »

大野治長

大野 治長(おおの はるなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。豊臣氏の家臣。兄弟に、治房・治胤・治純、子は大野治徳、治安(弥十郎)ほか。官位は従四位下修理大夫。知行15,000石。.

新しい!!: 徳川家康と大野治長 · 続きを見る »

大老

大老(たいろう)は、江戸幕府の職制で、将軍の補佐役、臨時に老中の上に置かれた最高職である。より広義には、大名家・執政機関の最高責任者群を指す(豊臣政権の五大老などがよく知られる)。.

新しい!!: 徳川家康と大老 · 続きを見る »

大樹寺

大樹寺(だいじゅじ/だいじゅうじ)は、愛知県岡崎市(三河国)にある浄土宗の寺院。山号は成道山。正式には成道山松安院大樹寺(じょうどうさん しょうあんいん だいじゅじ)と称する。 徳川氏(松平氏)の菩提寺であり、歴代当主の墓や歴代将軍(大樹公)の位牌が安置されている。大樹寺から岡崎城が眺望でき、直線上にマンション等の高層建築物を建てることはできない。.

新しい!!: 徳川家康と大樹寺 · 続きを見る »

大橋宗桂 (初代)

初代 大橋 宗桂(しょだい おおはし そうけい、弘治元年(1555年) - 寛永11年3月9日(1634年4月6日))は、将棋指し、一世名人。子に、二世名人・大橋宗古、初代大橋宗与がいる。近年の研究によると、初代宗桂の生前にはまだ大橋姓はなかったともいわれている。.

新しい!!: 徳川家康と大橋宗桂 (初代) · 続きを見る »

大河ドラマ

『大河ドラマ』(たいがドラマ)は、1963年(昭和38年)から放送されているNHKのテレビドラマシリーズ。略称は大河。 1984年から1986年にかけて放送されたNHK新大型時代劇と2009年から2011年にかけて放送されたスペシャルドラマ『坂の上の雲』についてもこの項で述べる。.

新しい!!: 徳川家康と大河ドラマ · 続きを見る »

大政所

大政所(おおまんどころ)は、本来「大北政所」の略で、摂政・関白職にある者の母親に対して天皇の宣旨によって贈られる尊称であるが、一般的には特に太閤・豊臣秀吉の生母をさす。 この人物は戦国時代から安土桃山時代にかけての女性で、名は仲(なか、永正13年(1516年) -天正20年7月22日(1592年8月29日))と伝えられる。法名は春岩(春巌)。院号は天瑞院。官位は二位尼君、従一位。秀吉、秀長、瑞龍院日秀、朝日姫の生母である。彼女について正しくは天瑞院春岩と呼ぶべきであるが、現在ではこの大政所の称で呼ばれることが主である。.

新しい!!: 徳川家康と大政所 · 続きを見る »

天ぷら

天ぷらの食事様式 天ぷら(てんぷら・天麩羅・天婦羅)は、魚介類や野菜等の食材を小麦粉を主体とした衣で包み、油で揚げて調理する日本料理である。 「江戸の三味」の一つあとの二つは寿司と蕎麦である。であり、江戸料理、江戸(東京)の郷土料理となっている。現代では、天ぷらは日本国内外に広がっている。.

新しい!!: 徳川家康と天ぷら · 続きを見る »

天台宗

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる - コトバンク/世界大百科事典。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられ、多くの日本仏教の宗旨がここから展開した。.

新しい!!: 徳川家康と天台宗 · 続きを見る »

天崇院

天崇院(てんすういん、慶長6年5月12日(1601年6月12日) - 寛文12年2月21日(1672年3月20日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。徳川秀忠の三女で徳川家康の内孫。母は継室の江。松平忠直の正室。忠直とは従兄妹同士でもある。名は勝姫(かつひめ)、通称は高田様、高田の御方。完子は異父姉、千姫・珠姫は実姉、徳川家光・徳川忠長は実弟、保科正之は異母弟、初姫・東福門院(和子)は実妹、徳川家綱・徳川綱吉は甥にあたる。.

新しい!!: 徳川家康と天崇院 · 続きを見る »

天下人

天下人(てんかびと / てんかにん)とは、天下の政権を掌握した人のことをいう。主に戦国時代から江戸時代初期にかけて、琉球(沖縄県)と蝦夷地(北海道)の大半を除く日本全土を自らの支配下に置き、日本全土を統一した者を指す。.

新しい!!: 徳川家康と天下人 · 続きを見る »

天地人 (NHK大河ドラマ)

『天地人』(てんちじん)は、2009年1月4日から同年11月22日まで放送されたNHK大河ドラマ第48作。全47話。原作・火坂雅志、脚本・小松江里子、音楽・大島ミチル、 音楽プロデュース・伊藤圭一(Kim Studio)。.

新しい!!: 徳川家康と天地人 (NHK大河ドラマ) · 続きを見る »

天王寺・岡山の戦い

天王寺・岡山の戦い(てんのうじ・おかやまのたたかい)は、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣における戦いである。.

新しい!!: 徳川家康と天王寺・岡山の戦い · 続きを見る »

天竜川

諏訪湖より流れ出た天竜川(長野県岡谷市) 天竜川(てんりゅうがわ)は、長野県から愛知県、静岡県を経て太平洋へ注ぐ天竜川水系の本流で、一級河川のひとつ。流路延長は213km(日本全国9位)、流域面積は5,090km2(日本全国12位)。.

新しい!!: 徳川家康と天竜川 · 続きを見る »

天領

天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地の俗称で、このほか幕府直轄領、徳川幕府領、徳川支配地、幕府領、幕領など様々な呼称があり、必ずしも絶対的な単一の歴史用語ではない村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。幕府直轄領は元禄以降、全国で約400万石あった。その領地は日本全国に散らばっており、江戸時代を通じて何らかの形で幕府直轄地が存在した国は51ヶ国と1地域(蝦夷地)に及び、年貢収取の対象となる田畑以外に交通・商業の要衝と港湾、主要な鉱山、城郭や御殿の建築用材の産出地としての山林地帯が編入され江戸幕府の主要な財源であった村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。 幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代である。大政奉還後に幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのがはじまり。その後、この呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。よって、江戸時代に使われていた呼称ではない。江戸幕府での正式名は御料・御領(ごりょう)であり、その他、江戸時代の幕府法令には御料所(ごりょうしょ、ごりょうじょ)、代官所、支配所(しはいしょ、しはいじょ)とある。江戸時代の地方書では大名領や旗本領を私領としたのに対して公領・公料、また公儀御料所(こうぎごりょうしょ)とある。 大政奉還後の慶応4年(1868年、同年明治元年)には徳川支配地を天領と呼んだ布告があるが、同時期の別の布告では「これまで徳川支配地を天領と称し居候は言語道断の儀に候、総て天朝の御料に復し、真の天領に相成候間」とある。 幕府の直轄地についての呼称については、従来は「天領」と表記していたが、この「天領」という呼称が明治以降の俗称であるという点から、近年では「幕領」と呼ぶ傾向になっており、全国の歴史教科書なども「幕領」への表記の変更が進められている。.

新しい!!: 徳川家康と天領 · 続きを見る »

天野康景

天野 康景(あまの やすかげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。駿河国興国寺藩主。.

新しい!!: 徳川家康と天野康景 · 続きを見る »

天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

新しい!!: 徳川家康と天正 · 続きを見る »

天正壬午の乱

天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)は、天正10年(1582年)に甲斐・信濃・上野で繰り広げられた戦いである。大まかには徳川家康と北条氏直の戦いとして説明されるが、上杉景勝の他、在郷の諸勢力(特に木曾義昌や真田昌幸)も加わっている広い範囲の戦役であった。「壬午」は天正10年の干支で、同時代の文書では「甲斐一乱」と呼称され、近世期には「壬午の役」「壬午ノ合戦」と呼ばれた。.

新しい!!: 徳川家康と天正壬午の乱 · 続きを見る »

天海

喜多院山門前にある銅像 天海(てんかい、天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日(1643年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。大僧正。諡号は。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。.

新しい!!: 徳川家康と天海 · 続きを見る »

天文 (元号)

天文(てんぶん、てんもん)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝。.

新しい!!: 徳川家康と天文 (元号) · 続きを見る »

太原雪斎

太原 雪斎/太原 崇孚(たいげん せっさい/たいげん そうふ)は、戦国時代の武将・政治家。臨済宗の僧侶(禅僧)で今川家の家臣。諱は崇孚。雪斎の号は居住した場所に「雪斎」と書かれた扁額があったことが由来。大塚勲『戦国大名今川氏四代』P48。 父は庵原城主・庵原政盛(左衛門尉)。母は興津横山城主・興津正信の娘。父方の庵原氏は駿河庵原(現在の静岡市清水区)周辺を治める一族。母方の興津氏は横山城を本拠に海運を掌握し海賊(水軍)も率いていた。両家とも今川氏の譜代の重臣。今川義元に仕えて義元の家督相続に尽力。相続後は義元を補佐して内政・外交・軍事に敏腕を発揮して今川家の全盛期を築き上げた。 後奈良天皇から宝珠護国禅師を諡された。.

新しい!!: 徳川家康と太原雪斎 · 続きを見る »

太宗 (唐)

太宗(たいそう)は、唐朝の第2代皇帝。高祖李淵の次男で、李淵と共に唐朝の創建者とされる。隋末の混乱期に李淵と共に太原で挙兵し、長安を都と定めて唐を建国した。太宗は主に軍を率いて各地を転戦して群雄を平定し、626年にクーデターの玄武門の変にて皇太子の李建成を打倒して皇帝に即位し、群雄勢力を平定して天下を統一した。 広い人材登用で官制を整えるなど諸制度を整えて唐朝の基盤を確立し、貞観の治と呼ばれる太平の世を築いた。対外的には、東突厥を撃破して西北の遊牧民の首長から天可汗の称号を贈られた。騎兵戦術を使った武力において卓越し、文治にも力を入れるなど文武の徳を備え、中国史上有数の名君の一人と称えられる。.

新しい!!: 徳川家康と太宗 (唐) · 続きを見る »

太平洋戦争

太平洋戦争(たいへいようせんそう、Pacific War)は第二次世界大戦の局面の一つで、大日本帝国やドイツ国など枢軸国と、連合国(主にイギリス帝国、アメリカ合衆国、オランダなど)の戦争である。日本側の名称は1941年(昭和16年)12月12日に東条内閣が閣議で「大東亜戦争」と決定し、支那事変も含めるとされた(昭和16年12月12日 閣議決定)、国立国会図書館リンク切れ --> - 国立国会図書館リサーチ・ナビ(2012年12月20日版/2016年9月16日閲覧)。 日本軍のイギリス領マレー半島攻撃により始まり、その後アメリカ西海岸、アラスカからタヒチやオーストラリアを含む太平洋のほぼ全域から、東南アジア全域、インド洋のアフリカ沿岸までを舞台に、枢軸国と連合国とが戦闘を行ったほか、日本と英米蘭の開戦を機に蒋介石の中華民国政府が日本に対して正式に宣戦布告し、日中戦争(支那事変)も包括する戦争となった。.

新しい!!: 徳川家康と太平洋戦争 · 続きを見る »

太田康資

太田 康資(おおた やすすけ、1531年(享禄4年) - 1581年11月8日(天正9年10月12日)?)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。太田資高の嫡男(次男)。母は北条氏綱の娘・浄心院。兄(資高の庶長子)に太田景資(かげすけ)、弟に太田輝資。太田駒千代、太田重正の父とされる。母方の伯父にあたる北条氏康から偏諱を賜って康資と名乗り、またその養女を妻に迎えた。.

新しい!!: 徳川家康と太田康資 · 続きを見る »

太田牛一

太田 牛一(おおた ぎゅういち / うしかず / ごいち)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、官僚。『信長公記』などの軍記と伝記の著者。官位は和泉守。通称は又助(又介)あるいは和泉を用いた。.

新しい!!: 徳川家康と太田牛一 · 続きを見る »

太田資宗

太田 資宗(おおた すけむね)は、江戸時代前期の譜代大名、六人衆。下野山川藩主、三河西尾藩主、遠江浜松藩初代藩主。官位官職は従五位下・備中守。掛川藩太田家初代。 太田重正の次男として生まれる。母は都築秀綱の娘。正室は板倉重宗の娘。子に資政(長男)、資次(次男)、資良(三男)、娘(加藤泰義正室)、娘(稲葉正吉正室)、娘(永井尚庸継室)、娘(一柳末礼正室)、娘(土井利益正室)、娘(角倉玄恒室)ら。.

新しい!!: 徳川家康と太田資宗 · 続きを見る »

太田重正

太田 重正(おおた しげまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。太田氏の一族という説もある。.

新しい!!: 徳川家康と太田重正 · 続きを見る »

太閤

太閤(たいこう)、正式名称太閤下は、摂政または関白の職を子弟に譲った人物を指す。敬称は「殿下」であり、呼びかけの場合は「太閤殿下」となる。 また出家した太閤のことを禅定太閤(ぜんじょう たいこう)、略して禅閤(ぜんこう)という。.

新しい!!: 徳川家康と太閤 · 続きを見る »

太陰暦

太陰暦(たいいんれき、、)は、月の満ち欠けの周期を基にした暦(暦法)である。その周期を朔望月といい、1朔望月を1月とする。なお、「太陰」は「(天体の)月」の意味である。陰暦(いんれき)とも言われる。「太陽暦」(陽暦)の対義語である。 閏月などを入れて季節のずれを調整する太陰太陽暦と、季節のずれを調整しない純粋太陰暦がある。単に「太陰暦」と言った場合、日本や中国などの東アジアでは通常は太陰太陽暦を指し、イスラム圏などでは純粋太陰暦を指す。本稿では、特に断らない限り純粋太陰暦について述べるが、純粋太陰暦を採用している暦はほぼイスラム暦(ヒジュラ太陰暦)に限定されることに留意されたい。.

新しい!!: 徳川家康と太陰暦 · 続きを見る »

太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

新しい!!: 徳川家康と太政大臣 · 続きを見る »

奥平定能

奥平 定能(おくだいら さだよし)は、戦国時代の武将。奥三河の国衆で、奥平定勝(貞勝、道文入道)の嫡男。母は水野忠政の妹。子に奥平信昌・仙千代・奥平昌勝。娘に本多重純(本多広孝の次男)室がいる。幼名は仙千代。監物丞、通称は美作守。諱は近世の家譜・編纂物では「貞能」とするが、文書上からは「定能」であることが確認される。.

新しい!!: 徳川家康と奥平定能 · 続きを見る »

奥平家昌

奥平 家昌(おくだいら いえまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。下野宇都宮藩主(第26代宇都宮城主)。.

新しい!!: 徳川家康と奥平家昌 · 続きを見る »

奥平忠政

奥平 忠政(おくだいら ただまさ、天正8年(1580年)- 慶長19年7月2日(1614年8月7日))は、江戸時代初期の武将、大名。上野吉井藩第2代藩主、後に美濃加納藩第2代藩主。加納藩初代藩主・奥平信昌の三男。母は徳川家康の長女・亀姫。奥平家昌、松平家治の弟、松平忠明の兄。正室は里見義頼の娘。子に奥平忠隆(長男)。幼名は千松丸。官位は従五位下侍従、飛騨守、摂津守。外祖父家康の養子となって松平姓を許されたため、松平忠政とも呼ばれている。 三河生まれで慶長2年(1597年)、菅沼定利の養子となり、菅沼忠政を名乗った。しかし定利が死去すると養子縁組を解消され、慶長7年(1602年)の父の隠居により、跡を継いで美濃加納藩主となった。しかし生来からの病弱であったため、父が実権を握って藩政を担った。 豊臣氏と徳川将軍家との関係悪化から、大坂への出陣も危惧されていた慶長19年7月2日(1614年)、父に先立って死去した。享年35。跡を幼少の忠隆が継いだ。法号は雄山宝永光国院。 たたまさ たたまさ たたまさ Category:戦国武将 Category:加納藩主 Category:吉井藩主 Category:1580年生 Category:1614年没.

新しい!!: 徳川家康と奥平忠政 · 続きを見る »

奥平信昌

奥平 信昌(おくだいら のぶまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野小幡藩初代藩主、後に美濃加納藩初代藩主。初名は貞昌(さだまさ)。徳川家康の長女・亀姫を正室とし、家康に娘婿として重用された。亀姫との間に家昌など4男1女を儲けた。.

新しい!!: 徳川家康と奥平信昌 · 続きを見る »

女官

女官(にょかん/にょうかん)とは、官職を持ち宮廷に仕える女性のこと。官女(かんじょ)・宮女(きゅうじょ)ともいう。.

新しい!!: 徳川家康と女官 · 続きを見る »

姉川の戦い

姉川の戦い(あねがわのたたかい)は、戦国時代の元亀元年6月28日(1570年7月30日/グレゴリオ暦8月9日)に近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた合戦である。「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼んだ。.

新しい!!: 徳川家康と姉川の戦い · 続きを見る »

嫡男

嫡男(ちゃくなん)とは、嫡子(嫡嗣、ちゃくし)とも呼ばれ、一般に正室(正嫡)の生んだ男子のうち最も年長の子を指す。女子の場合は嫡女となる。長男と同一視されることもあるが、たとえ長男であっても側室の生んだ子である場合、正室の生んだ弟が嫡男となることもあることから、嫡男と長男は必ずしも同一ではない。特に嫡男ではない長男は庶長子、長庶子、庶子とも称される。嫡男の嫡男は嫡孫(ちゃくそん)と呼ばれる。また、代々嫡男の家系である血筋を嫡流という。また、内孫(うちまご)とも称される。 ただし、正室が生んだ男子全員を指す場合もある。日本における現行の皇室典範の「嫡男」の語はこの意である。更に明治以後の民法では、かつての正室に相当する妻が生んだ子供を女子を含めて嫡出子と呼称している。.

新しい!!: 徳川家康と嫡男 · 続きを見る »

学研プラス

株式会社 学研プラス(がっけんプラス、Gakken Plus Co.,Ltd.)は、日本の出版社。.

新しい!!: 徳川家康と学研プラス · 続きを見る »

孕石元泰

孕石 元泰(はらみいし もとやす、生年不詳 - 天正9年(1581年)3月23日)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏、武田氏の家臣。通称は藤六、主人。主水佑・和泉守を自称。諱の「元」は今川義元の偏諱と思われる。.

新しい!!: 徳川家康と孕石元泰 · 続きを見る »

宝飯郡

*.

新しい!!: 徳川家康と宝飯郡 · 続きを見る »

宣戦布告

宣戦布告(せんせんふこく、declaration of war)とは、紛争当事者である国家が相手国に対して戦争行為(hostilities) を開始する意思を表明する宣言である。開戦宣言、戦争宣言とも呼ばれる。.

新しい!!: 徳川家康と宣戦布告 · 続きを見る »

宣明暦

宣明暦(せんみょうれき)は中国暦の一つで、かつて中国や日本などで使われていた太陰太陽暦の暦法である。正式には長慶宣明暦(ちょうけいせんみょうれき)と言う。特に日本においては中世を通じて823年間継続して使用され、史上最も長く採用された暦となった。 以下、和暦の日付は旧暦表示である。また、西暦の日付は1582年10月4日まではユリウス暦表示、1582年10月15日以降はグレゴリオ暦表示となっている。.

新しい!!: 徳川家康と宣明暦 · 続きを見る »

宣旨

宣旨(せんじ)は、律令期以降の日本において天皇・太政官の命令を伝達する文書の形式名。朝廷が出す文書の形態の一つ。詔勅の変体。.

新しい!!: 徳川家康と宣旨 · 続きを見る »

室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

新しい!!: 徳川家康と室町幕府 · 続きを見る »

宮宿

宮宿(みやしゅく、みやじゅく、宮の宿、熱田宿)は、東海道五十三次の41番目の宿場である。中山道垂井宿にいたる脇街道美濃路や佐屋街道との分岐点でもあった。一般には宮の宿と呼ばれることが多かったが、幕府や尾張藩の公文書では熱田宿と書かれている。.

新しい!!: 徳川家康と宮宿 · 続きを見る »

宮内庁書陵部

書陵部(しょりょうぶ)は、皇室関係の文書や資料などの管理と編修、また陵墓の管理を行う、宮内庁の内部部局の一つ。図書課、編修課、陵墓課と、5つの区域にわけて陵墓を管理している陵墓監区事務所に大きく分かれる。 元は明治17年(1884年)に設置された図書寮と、明治19年(1886年)に設置された諸陵寮の職務を引き継ぎ、現在の書陵部が誕生したのは昭和24年(1949年)である。図書課、編修課、陵墓課の三課体制で、資料の公開や皇室制度や文化の研究をし、その成果を刊行物や機関誌での刊行、三課交代で行う展示会で一般に広める活動を行っている。.

新しい!!: 徳川家康と宮内庁書陵部 · 続きを見る »

宮津市

宮津市(みやづし)は、京都府北部に位置する市。日本海の若狭湾に面しており、日本三景の天橋立がある。.

新しい!!: 徳川家康と宮津市 · 続きを見る »

宮本義己

宮本 義己(みやもと よしみ、1947年 - )は、日本の日本史学者。 茨城県生まれ。國學院大學大学院日本史学専攻博士課程満期退学。帝京大学講師、鳩山町史編集委員会専門調査員を経て、國學院大學文学部・芝浦工業大学システム工学部講師。日本中世・近世史を専攻するかたわら、独自の日本医道史の研究を進め、学会誌に多くの論文を発表している。.

新しい!!: 徳川家康と宮本義己 · 続きを見る »

家系

家系(かけい)または血統(けっとう)とは、親子・兄弟・婚姻・養子など様々な関係性で結ばれる特定の家族、血族集団を指す。一定の血族集団の中で同一の階級または地位、氏、家名、家格、家業、家財を世襲で継承する場合に使われることが多い。類似概念に家柄などがある。.

新しい!!: 徳川家康と家系 · 続きを見る »

家老

家老(かろう)は、武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。.

新しい!!: 徳川家康と家老 · 続きを見る »

守谷藩

守谷藩(もりやはん)は、下総国相馬郡守屋(現在の茨城県守谷市)に存在した藩。藩庁は守谷城。下総相馬藩とも呼ばれる。.

新しい!!: 徳川家康と守谷藩 · 続きを見る »

官位

日本における官位(かんい)は、日本史では人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称、古代朝鮮史(高句麗・百済・新羅)においては人の貴賤の序列として定められた位のことである。ともに中国の影響を受けたものだが、中国史では官位という言葉は用いない。 官職と位階との相当関係を定めたものを官位相当といい、各官職には相当する位階(品階)に叙位している者を任官する制度を官位制(官位制度、官位相当制)という『日本歴史大事典 1』小学館、2000年(平成12年)、768頁。日本において、官職と位階は律令法(律令制)によって体系的に整備された。位階制度については「位階」の項目を、官職については「日本の官制」を参照のこと。以下、日本における官位制について概説する。.

新しい!!: 徳川家康と官位 · 続きを見る »

官職

官職(かんしょく)とは、官吏の職のことをいう。具体的には以下の通りに分類される。また、官職の名称のことを官名(かんめい)という。.

新しい!!: 徳川家康と官職 · 続きを見る »

宗義智

宗 義智(そう よしとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。対馬領主宗氏の20代当主。対馬府中藩の初代藩主。.

新しい!!: 徳川家康と宗義智 · 続きを見る »

宗教的迫害

宗教的迫害(しゅうきょうてきはくがい)とはある個人もしくは集団がもつ信仰を理由に、その個人や集団を差別することに始まり、社会権の制限などの軽微なものから、強制改宗・虐殺などを加えることである。迫害の対象となる信仰の内容は、諸宗教、無神論、その他の無宗教的有神論など多様で、多岐にわたっている。 近代に至って世界の各国で信教の自由が保障されるに至り、宗教的迫害は許されないものであるという合意が出来上がっているが、現在でも発展途上国、社会主義国家、イスラーム国家などでの宗教的迫害が問題になっている。近代と比較して穏健化したキリスト教諸国においても散発的に迫害が起きており、宗教的迫害の解決策は見えていない。.

新しい!!: 徳川家康と宗教的迫害 · 続きを見る »

宇喜多秀家

宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣政権下(の末期)の五大老の一人で、家督を継いだ幼少時から終始秀吉に重用されていた。通称は備前宰相。父・直家の代に下克上で戦国大名となった宇喜多氏の、大名としての最後の当主であり、関が原の戦いで西軍について敗れ所領を失うまで岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領していた。.

新しい!!: 徳川家康と宇喜多秀家 · 続きを見る »

宇都宮城

宇都宮城(うつのみやじょう)は栃木県宇都宮市本丸町にあった日本の城。関東七名城の一つ。江戸時代は宇都宮藩の藩庁となった。.

新しい!!: 徳川家康と宇都宮城 · 続きを見る »

宇治茶

宇治茶(うじちゃ)は、日本の緑茶。京都府・奈良県・滋賀県・三重県の4府県産茶を、京都府内業者が京都府内において、京都府南部の宇治地域に由来する製法により仕上加工したもの(ただし京都府内産を優先する)。 静岡茶、狭山茶と並んで日本三大茶といわれ、生産量の少ない狭山茶を除いて、静岡茶とともに日本二大茶ともいわれている。.

新しい!!: 徳川家康と宇治茶 · 続きを見る »

安土城

安土城(あづちじょう)は、琵琶湖東岸の安土山(現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)にあった日本の城(山城)。城址は国の特別史跡で、琵琶湖国定公園第1種特別地域になっている。.

新しい!!: 徳川家康と安土城 · 続きを見る »

安土桃山時代

安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。.

新しい!!: 徳川家康と安土桃山時代 · 続きを見る »

安国寺恵瓊

安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗の僧で、武将および外交僧。道号(字)は瑶甫、法諱(諱)は恵瓊、号は一任斎または正慶。一般に広く知られる“安国寺恵瓊”の名は、住持した寺の名に由来する別名であり、禅僧としての名乗りは瑶甫 恵瓊(ようほ えけい)という。 毛利氏に仕える外交僧として豊臣(羽柴)秀吉との交渉窓口となり、豊臣政権においては秀吉からも知行を貰って大名に取り立てられたとするのが通説だが、異説もある。.

新しい!!: 徳川家康と安国寺恵瓊 · 続きを見る »

安倍川

安倍川(あべかわ)は、静岡県静岡市葵区および駿河区を流れる河川。一級水系安倍川の本流である。清流としても有名で、その伏流水は静岡市の水道水にも使われている。大河川でありながら本流・支流にひとつもダムが無い珍しい川である。 よく見聞きする表記として「安部川」や「あべがわ」があるが、これらは誤りである。 安倍川のたもとで売られている名物に「安倍川もち」があるが、地元以外では餅に黄な粉をまぶして食べる食べ方を単に「安倍川」と呼ぶことがある。.

新しい!!: 徳川家康と安倍川 · 続きを見る »

安祥城

二の丸跡に建てられた東尾八幡社 安祥城(あんじょうじょう)は、三河国碧海郡安城(現在の愛知県安城市安城町)にあった日本の城。 舌状台地の先端に位置し周囲を森と深田に囲まれていて、その内側に土塁や堀があり、天守を持たない平山城だった。室町時代中期に築城され、織田氏、今川氏、松平氏との間で激しい戦闘が繰り広げられた。 『岡崎領主古記』に、安祥森城。三河国二葉松に、安條古城、云城森。という記載があるが、徳川の同時代史料(家忠日記や大久保の三河物語)には、別名の森城なる記載はない。 現在では、碑・塚・切岸・堀・一部曲輪などが残るだけとなっている。本丸は大乗寺、二の丸は八幡社、三の丸は大乗寺の裏手あたりになる。 また、徳川最古参の三河安祥之七御普代の発祥の地でもある。三河安祥之七御普代とは、酒井左衛門尉・大久保・本多・阿部・石川・青山・植村、または酒井・大久保・本多・大須賀・榊原・平岩・植村を指す(『柳営秘鑑』)。 『信長公記』に「三川の内あん城と云ふ城」と記載される。織田氏が保有していた時代には三河進出の牙城となった。.

新しい!!: 徳川家康と安祥城 · 続きを見る »

安芸国

安芸国(あきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と安芸国 · 続きを見る »

安房国

安房国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と安房国 · 続きを見る »

安房正木氏

安房正木氏(あわまさきし)は、日本の氏族である。三浦氏の庶流であるが、具体的な系譜については相模三浦氏の後裔とされるなど諸説がある。中世においては現在の東京湾から房総半島沿岸を舞台に水軍・交易の任にあたっていた。.

新しい!!: 徳川家康と安房正木氏 · 続きを見る »

寺社

寺社(じしゃ)は、日本における寺院と神社の総称である。社寺(しゃじ)あるいは神社仏閣(じんじゃ ぶっかく)とも呼ばれる。 寺社という言葉は江戸時代までの仏主神従の考えによるもので、一方、社寺という言葉は平安時代頃から使われた形跡があるが、主に神社優先の考えに基づいた明治期以降に多く使われた。.

新しい!!: 徳川家康と寺社 · 続きを見る »

寺請制度

寺請制度(てらうけせいど)は、江戸幕府が宗教統制の一環として設けた制度。寺請証文を受けることを民衆に義務付け、キリシタンではないことを寺院に証明させる制度である。必然的に民衆は寺請をしてもらう寺院の檀家となったため、檀家制度や寺檀制度とも呼ばれるが、厳密には檀家制度と寺請制度は異なる(詳しくは檀家制度を参照)。 その目的において、邪宗門とされたキリスト教や不受不施派の発見や締め出しを狙った制度であったが、宗門人別改帳など住民調査の一端も担った。.

新しい!!: 徳川家康と寺請制度 · 続きを見る »

寺部城

寺部城(てらべじょう)は、現在の愛知県豊田市寺部町にあった日本の城(平城)。.

新しい!!: 徳川家康と寺部城 · 続きを見る »

寺院

日本の寺院の地図記号 寺院(じいん、梵、)は、仏像が祀られ、仏教の出家者が起居し、修行を行う施設である。寺(てら)、仏閣(ぶっかく)ともいう。 本来は仏教用語であるが、神道を除く諸宗教の教会・神殿を指す語としても広く用いられている(ごく稀に神社にも用いられることがある)。.

新しい!!: 徳川家康と寺院 · 続きを見る »

対馬国

対馬国(つしまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と対馬国 · 続きを見る »

right 寅(とら、いん)は十二支のひとつ。通常十二支の中で第3番目に数えられる。前は丑、次は卯である。.

新しい!!: 徳川家康と寅 · 続きを見る »

寛永の大飢饉

寛永の大飢饉(かんえいのだいききん)は江戸時代初期の1640年から1643年にかけて起こった飢饉。江戸初期においては慶長から元和年間にもしばしば凶作から飢饉が発生しているが、そのなかでも最大の飢饉。島原の乱とともに江戸幕府の農政転換にも影響した。.

新しい!!: 徳川家康と寛永の大飢饉 · 続きを見る »

寛永寺

広重『名所江戸百景』より寛永寺清水観音堂が描かれた「上野清水堂不忍ノ池」。 寛永寺(かんえいじ)は、東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山(とうえいざん)。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。 徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、慶応4年(1868年)の上野戦争で主要伽藍を焼失した。.

新しい!!: 徳川家康と寛永寺 · 続きを見る »

寛政重修諸家譜

『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)は、寛政年間(1789年 - 1801年)に江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集である。1,530巻。文化9年(1812年)10月に完成した。『寛政譜』と略称される。.

新しい!!: 徳川家康と寛政重修諸家譜 · 続きを見る »

小姓

小姓(こしょう)とは、武士の職の一つで、武将の身辺に仕え、諸々の雑用を請け負う。「扈従」に由来し、「小性」とも表記される。.

新しい!!: 徳川家康と小姓 · 続きを見る »

小学館

株式会社小学館(しょうがくかん)は、東京都千代田区にある日本の総合出版社。系列会社グループの通称「一ツ橋グループ」の中核的存在である。.

新しい!!: 徳川家康と小学館 · 続きを見る »

小山城 (下野国)

小山城(おやまじょう)は栃木県小山市城山町(下野国都賀郡小山)にあった日本の城。別名は祇園城(ぎおんじょう)。地元では主に祇園城と呼ばれている。城跡は、祇園城跡の名称で中久喜城跡、鷲城跡とともに小山氏城跡として、国の史跡に指定されている。 また、関東の富士見百景の一つに選ばれている。.

新しい!!: 徳川家康と小山城 (下野国) · 続きを見る »

小川祐忠

小川 祐忠(おがわ すけただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。伊予国分城主。通称は佐平次、孫一郎。官位は土佐守、左近太夫。別名で小川 宗氏(おがわ むねうじ)とも言う。.

新しい!!: 徳川家康と小川祐忠 · 続きを見る »

小幡藩

藩邸御殿跡 楽山園 小幡藩(おばたはん)は、上野甘楽郡小幡に存在した藩。藩庁は小幡陣屋(のち小幡城、現在の群馬県甘楽郡甘楽町小幡)に営まれた。.

新しい!!: 徳川家康と小幡藩 · 続きを見る »

小幡景憲

小幡 景憲(おばた かげのり、1572年(元亀3年)- 1663年4月3日(寛文3年2月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・軍学者。小幡昌盛の三男。養子に小幡景松(かげとし)。幼名は熊千代、別名を孫七郎、勘兵衛。法名は道牛。.

新しい!!: 徳川家康と小幡景憲 · 続きを見る »

小出吉英

小出 吉英(こいで よしひで/よしひさ)は、江戸時代前期の大名。但馬出石藩2代および4代藩主、出石藩小出氏3代。和泉岸和田藩3代藩主。.

新しい!!: 徳川家康と小出吉英 · 続きを見る »

小笠原忠真

小笠原 忠真(おがさわら ただざね)は、江戸時代前期の大名、茶人。信濃松本藩2代藩主、播磨明石藩主、豊前小倉藩の初代藩主。.

新しい!!: 徳川家康と小笠原忠真 · 続きを見る »

小笠原忠脩

小笠原 忠脩(おがさわら ただなが)は、江戸時代初期の武将。信濃松本藩の世嗣。小笠原秀政の長男。徳川家康の外曾孫に当たる。.

新しい!!: 徳川家康と小笠原忠脩 · 続きを見る »

小笠原信嶺

小笠原 信嶺(おがさわら のぶみね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。信濃国伊那郡の松尾小笠原氏当主・伊那郡松尾城城主。十郎三郎・掃部大夫。.

新しい!!: 徳川家康と小笠原信嶺 · 続きを見る »

小笠原秀政

小笠原 秀政(おがさわら ひでまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。信濃守護小笠原氏の末裔。下総古河藩主、信濃飯田藩主を経て、信濃松本藩の初代藩主となる。小笠原宗家初代。.

新しい!!: 徳川家康と小笠原秀政 · 続きを見る »

小笠原権之丞

小笠原 権之丞(おがさわら ごんのじょう、1589年(天正17年)? - 1615年6月3日(慶長20年5月7日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。徳川家康の落胤とされる。母は三条氏。本来ならば六男の松平忠輝の兄にあたるともいう。洗礼名はディエゴ。妻は近藤秀用の娘。息子は早世し、娘2人は間宮信勝と中川飛騨守(年代から中川忠幸と思われる)に嫁いだ。 以下は全て、伝承に基づく。.

新しい!!: 徳川家康と小笠原権之丞 · 続きを見る »

小田原城

小田原城(おだわらじょう)は、神奈川県小田原市にあった、戦国時代から江戸時代にかけての日本の城(平山城)で、北条氏の本拠地として有名である。江戸時代には小田原藩の藩庁があった。城跡は国の史跡に指定されている。.

新しい!!: 徳川家康と小田原城 · 続きを見る »

小田原城の戦い (1560年)

小田原城の戦い(おだわらじょうのたたかい)は、永禄3年(1560年)から永禄4年(1561年)に、関東の上野、武蔵、相模において、上杉氏、長尾氏の連合軍と後北条氏によって行われた一連の合戦である。大槻合戦ともいう同時代史料でもその名が見られる(「北条氏政判物、大藤式部丞宛感状」『神奈川県史 資料編2』)。。この合戦は、その後10年余にわたる上杉謙信による関東遠征の端緒である。本項では、合戦の経緯として、上杉軍の越山から小田原城包囲戦前後の緒城攻防戦、関連事項についても併せて解説する。.

新しい!!: 徳川家康と小田原城の戦い (1560年) · 続きを見る »

小田原市

小田原市(おだわらし)は、神奈川県西部の市である。施行時特例市に指定されている。.

新しい!!: 徳川家康と小田原市 · 続きを見る »

小田原征伐

小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており 、関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ下山(1996) pp.91-96。。ここでは小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。 小田原合戦、小田原攻め、小田原の役、北条征伐、小田原の戦い、小田原の陣、小田原城の戦い(天正18年)とも呼ばれた。.

新しい!!: 徳川家康と小田原征伐 · 続きを見る »

小田原藩

小田原藩(おだわらはん)は、江戸時代に相模国足柄下郡を治めた藩。藩庁は小田原城(神奈川県小田原市)。.

新しい!!: 徳川家康と小田原藩 · 続きを見る »

小牧山

小牧山(こまきやま)は、愛知県小牧市にある標高86mの山。 かつて織田信長の居城であった、小牧山城(日本の城)があった。現在は山全体が公園となっており、桜の名所としても知られる。公園の分類は「史跡公園」。 なお現在、山頂にある天守閣風建物は、1967年(昭和42年)に建てられたものである(小牧市歴史館(小牧城)参照)。.

新しい!!: 徳川家康と小牧山 · 続きを見る »

小牧・長久手の戦い

小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正(てんしょう)12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。尾張北部の小牧城、犬山城、楽田城を中心に、尾張南部、美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津の各地で合戦が行なわれた。また、この合戦に連動した戦いが北陸、四国、関東でも起きており、全国規模の戦役であった。名称に関しては、江戸時代の合戦記では「小牧」や「長久手」を冠したものが多く、明治時代の参謀本部は「小牧役」と称している。ほかに「小牧・長久手の役」、「天正十二年の東海戦役」という名も提唱されている。.

新しい!!: 徳川家康と小牧・長久手の戦い · 続きを見る »

小袖

菱川師宣筆「見返り美人」 江戸時代(17世紀)東京国立博物館蔵 女性は緋色地に花輪模様の元禄小袖を着用する。模様は綸子地に刺繍で表したものとみられる長崎巌『染と織を訪ねる』、p.67。 小袖(こそで)は、日本の伝統的衣装の一つ。現代日本で一般的に用いられている、和服(着物)の元となった衣類である。袖口の開きが大きく、袖丈一杯まで開いている袖の形状を、大袖(おおそで)と言うのに対し、「小袖」は袖口の開きが狭いことから付いた名称である。.

新しい!!: 徳川家康と小袖 · 続きを見る »

小西行長

小西 行長(こにし ゆきなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。肥後宇土城主。アウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名でもある。 当初は宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となる。文禄・慶長の役では女婿・宗義智らと共に主要な働きをし、序盤の漢城府占領の際には加藤清正と先陣の功を争った。関ヶ原の戦いでは西軍の将として奮戦したが、敗北して捕縛された。自殺を禁じられたキリシタンであったので、切腹を拒否して斬首された。.

新しい!!: 徳川家康と小西行長 · 続きを見る »

小野忠明

小野 忠明(おの ただあき、永禄12年(1569年)(永禄8年(1565年)とも)- 寛永5年11月7日(1628年12月2日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、剣豪、旗本。徳川将軍家指南役。前名は『寛政呈譜』では神子上 典膳(みこがみ てんぜん、『寛永系図』では御子神)で、後に母方の小野姓を名乗った。子に忠常。吉明ともいう。子孫は明治維新まで江戸幕府旗本として至る。.

新しい!!: 徳川家康と小野忠明 · 続きを見る »

小松姫

小松姫(こまつひめ、天正元年(1573年) - 元和6年2月24日(1620年3月27日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。上田藩および松代藩の初代藩主・真田信之(信幸)の正室。徳川氏譜代家臣の本多忠勝の娘。幼名は於子亥(おねい)信濃史料刊行会 1977、105頁。小松殿(こまつどの)、稲姫(いなひめ)とも称される丸島 2015、263-265頁。徳川家康または徳川秀忠の養女として真田信之に嫁ぎ、信政、信重、まん(高力忠房室)、まさ(佐久間勝宗室)らを生んだ黒田 2016、34頁。.

新しい!!: 徳川家康と小松姫 · 続きを見る »

小早川秀秋

小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)は、安土桃山時代の大名。丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山城主。名は関ヶ原の戦いの後に秀詮(ひであき)と改名した「秀詮」が終の名だが、改名の翌年に本人が死去してその使用期間がきわめて短かったため、一般にはより認知された「秀秋」と書き表すことがほとんどである。。 豊臣秀吉の正室・高台院の甥。秀吉の親族として豊臣家では重きをなし、小早川隆景と養子縁組した後には、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返り、豊臣家衰退の契機を作った。.

新しい!!: 徳川家康と小早川秀秋 · 続きを見る »

尾上松之助

二代目 尾上 松之助(にだいめ おのえ まつのすけ、1875年(明治8年)9月12日 - 1926年(大正15年)9月11日)は、日本の歌舞伎役者、映画俳優、映画監督。本名は中村 鶴三(なかむら かくぞう)。 日本映画草創期に活躍した時代劇スターであり、日本初の映画スターといわれる。旅役者から牧野省三に認められて映画界に入り、『碁盤忠信 源氏礎』でデビュー。牧野とのコンビで横田商会、日活の2社で1000本以上の映画に出演、大きな目玉を向いて見得を切る演技が評判を呼び「目玉の松ちゃん」の愛称で大衆に親しまれた。立川文庫や講談でおなじみの英雄・豪傑・義人・侠客のほとんどに扮しており、トリック撮影を駆使した忍術映画では年少ファンのアイドル的存在となった。後年には、日活大将軍撮影所所長、日活取締役などを兼任して重役スターとなり、公木 之雄(きみき ゆきお)の名で監督作も発表。晩年は社会福祉事業にも貢献した。.

新しい!!: 徳川家康と尾上松之助 · 続きを見る »

尾張国

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と尾張国 · 続きを見る »

尾藤正英

尾藤 正英(びとう まさひで、1923年9月1日 - 2013年5月4日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。.

新しい!!: 徳川家康と尾藤正英 · 続きを見る »

将棋

将棋(しょうぎ)は、2人で行うボードゲーム(盤上遊戯)の一種で、一般に「将棋」というときは特に本項で述べる本将棋(ほんしょうぎ、古将棋や現代の変形将棋類、変則将棋などと区別するための名称)を指す。 チェスなどと同じく、古代インドのチャトランガが起源と考えられている。 以下、本項では主に本将棋について解説する(本将棋以外の将棋及び将棋に関連する遊戯については将棋類の一覧を参照)。.

新しい!!: 徳川家康と将棋 · 続きを見る »

山家三方衆

山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)は、大久保忠教の『三河物語』に記載される「山ケ(家)三方作手・長問(長篠)・段嶺」に割拠した作手の奥平氏、長篠の菅沼氏、田峰の菅沼氏を指す。 愛知県の三河国の山間部(設楽郡を中心とした、いわゆる奥三河)の土着有力勢力である。上記3家の他にも野田城の菅沼定盈の野田菅沼氏などが、徳川家康により信濃国から南下する、対武田信玄・武田勝頼との合戦に備えて、重要な役割を担わされていた。 ところが、元亀2年(1571年)以降は武田氏の三河侵攻を阻むどころか、逆に切り崩され、奥平・田峰菅沼・長篠菅沼の3家が揃って家康から離反した。以後は山県昌景の寄騎に編入され、武田軍として三河・遠江を転戦する。奥平氏はともかく、田峰と長篠の菅沼氏は同族で、田峰の方が総領家にあたる。それでも武田氏を上に戴くもの同士として3家の間に上下は無く、同列の関係を築いていたと考えられている。 その後の元亀4年(1573年)には、3家の転属に同調しなかった定盈を屈服させた野田城の戦いにも攻城方として参戦。玉砕を覚悟していた籠城中の定盈に翻意を促し、開城降伏に導いたともいわれている。定盈の身柄と交換で彼等が浜松城に差し出していた人質を取り戻したものの、改めて武田氏に差し出すという立場は依然として弱いままであった。それでも武田氏を戴き続ける決意は変わらなかったが、武田軍本隊が本国へ撤退すると、その夏には菅沼正貞の長篠城が家康の反撃に晒された。これを機に3家の関係は次第に揺らいでゆく。 元亀4年が改元された天正元年(1573年)8月、奥平貞能の武田離反・徳川再属によって解消されてしまうと、その後の3家の運命は大きく分かれたのだった。 天正3年(1575年)5月の長篠の戦いにおいて、奥平氏・菅沼氏はともに徳川方につく者と武田方につく者に分かれ、敗北した武田方は三河を追われた。宗家当主の奥平貞能が徳川方についた奥平氏に対して、長篠・田峰両家がともに武田方として追われて野田家など庶流のみが残った菅沼氏は振るわなくなる。 奥平氏は江戸期に三河譜代の大名として存続。宇都宮藩などを経て、中津藩で明治維新を迎えた。一方、菅沼氏は菅沼定盈の野田菅沼氏が大名になったものの、後の所領分割で交代寄合となって大名の資格を失っている。.

新しい!!: 徳川家康と山家三方衆 · 続きを見る »

山岡荘八

山岡 荘八(やまおか そうはち、1907年1月11日 - 1978年9月30日)は、日本の小説家・作家。歴史小説を中心に活躍。本名は藤野 庄蔵(ふじの しょうぞう)。従四位勲二等瑞宝章叙勲。 自由党元衆議院議員の山岡賢次は養子。国民民主党衆議院議員の山岡達丸は孫。.

新しい!!: 徳川家康と山岡荘八 · 続きを見る »

山内康豊

山内 康豊(やまうち やすとよ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。初代土佐藩主・山内一豊の同母弟。.

新しい!!: 徳川家康と山内康豊 · 続きを見る »

山内忠義

山内 忠義(やまうち ただよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。土佐藩の第2代藩主。山内康豊の長男で、伯父の山内一豊の養嗣子。.

新しい!!: 徳川家康と山内忠義 · 続きを見る »

山科言経

山科 言経(やましな ときつね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての公卿。正二位権大納言・山科言継の子。官位は正二位・権中納言。山科家13代当主。『言経卿記』の著者。.

新しい!!: 徳川家康と山科言経 · 続きを見る »

山田氏

山田氏(やまだし/やまだうじ)は、日本の氏族。.

新しい!!: 徳川家康と山田氏 · 続きを見る »

山田景隆

山田 景隆(やまだ かげたか)は、戦国時代の武将。今川家の重臣で同家の三河奉行人とも。今川軍侍大将及び中陣左翼副大将。弘治~永禄初期には松平広忠が早世して城主不在となった岡崎城の城代を勤めた。家紋は丸に二つ引(引両紋)。.

新しい!!: 徳川家康と山田景隆 · 続きを見る »

岐阜城

岐阜城(ぎふじょう)は、岐阜県岐阜市(旧・美濃国井之口)の金華山(稲葉山)にあった日本の城(山城跡)。織田信長が、斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したものが岐阜城である。城跡は岐阜城跡(ぎふじょうあと)として金華山と、その山塊の2,091,602.74平方メートルが国の史跡に指定されている。その範囲は、現在の国有林の範囲に符合する。 『信長公記』に、「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されている。稲葉山(井口山)からの続きが瑞龍寺山という。.

新しい!!: 徳川家康と岐阜城 · 続きを見る »

岡崎城

岡崎城(おかざきじょう)は、愛知県岡崎市康生町にある日本の城。徳川家康の生地である。別名、龍城。岡崎公園の中にある。 戦国時代から安土桃山時代には松平氏の持ち城、江戸時代には岡崎藩の藩庁であった。 岡崎城は当初、「岡竒城」と記された。また、『三河国名所図会』には、「岡崎は享禄(1528年(享禄元年) - 1531年(享禄4年))以来の名號にして、其以前は菅生郷なり、」と記載されている。.

新しい!!: 徳川家康と岡崎城 · 続きを見る »

岡崎市

乙川と岡崎市街地遠景 岡崎市中心部(康生地区) 西康生通り 岡崎市中心部を通る国道1号 岡崎市(おかざきし)は、愛知県の旧三河国のほぼ中央に位置する市。全国的には「八丁味噌」の産地として知られ、豊田市とともに西三河を代表する都市。中核市に指定されている。.

新しい!!: 徳川家康と岡崎市 · 続きを見る »

岡崎市役所

岡崎市役所(おかざきしやくしょ)は、日本の地方公共団体である岡崎市の組織が入る施設(役所)である。.

新しい!!: 徳川家康と岡崎市役所 · 続きを見る »

岡部長盛

岡部 長盛(おかべ ながもり)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。下総山崎藩主、丹波亀山藩主、丹波福知山藩主、美濃大垣藩初代藩主。岸和田藩岡部家初代。武勇に優れ、「岡部の黒鬼」と称された。.

新しい!!: 徳川家康と岡部長盛 · 続きを見る »

岡部正綱

岡部 正綱(おかべ まさつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏、武田氏、徳川氏の家臣。岡部久綱の子、岡部長盛の父。次郎右衛門尉。 『武徳編年集成』には、少年時代の正綱は人質として駿府に連れてこられた徳川家康と仲良くなり、岡部家は日常生活面で助力するなど家康に対して今川家の重臣の中では最も好意的な態度をとっていたことが記されている。 最初は今川家に仕えており、弘治3年(1557年)に初陣、兜首2つを獲って名を馳せた。その後、武田信玄の侵攻(駿河侵攻)で駿河国を失うなどして、今川家が勢力を失った後も、今川館に籠もって頑強に抵抗した。今川氏の滅亡後は、その武勇を高く評価され、武田氏の家臣として仕えた。 その後は武田家臣として、三方ヶ原の戦いなど数多の戦で活躍したが、天正9年(1581年)に高天神城が徳川家の侵攻で陥落し、一門の岡部元信らが討ち死にする。その後は徳川家康の家臣となり、天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が死去して家康が甲斐国に侵攻すると、旧武田家臣の調略などを行って、家康の甲斐平定に尽力した。徳川氏の甲斐支配においては、平岩親吉と同格に置かれていたとする説もある。 しかし翌年、戦傷が原因で死去したとも、武田旧臣達を調略する際に毎度酒宴を催していたため、急性アルコール中毒で身体を壊して死去したともいわれ、没年・死因ともに異説がある。 正綱の孫・岡部宣勝は祖父の功績を賞されて、和泉国岸和田に6万石を与えられた。.

新しい!!: 徳川家康と岡部正綱 · 続きを見る »

岡本大八事件

岡本大八事件(おかもとだいはちじけん)は、慶長14年(1609年)から慶長17年(1612年)にかけて発生した江戸時代初期の疑獄事件。.

新しい!!: 徳川家康と岡本大八事件 · 続きを見る »

岩富藩

岩富藩(いわとみはん)は、下総国岩富(現在の千葉県佐倉市岩富字城手)に存在した藩。藩庁は弥富城(岩富城)。.

新しい!!: 徳川家康と岩富藩 · 続きを見る »

岩村城

岩村城(いわむらじょう)は岐阜県恵那市岩村町にある中世の日本の城(山城跡)で、江戸時代には岩村藩の藩庁であった。付近は霧が多く発生するため、別名・霧ヶ城とも呼ばれる。岐阜県指定史跡。.

新しい!!: 徳川家康と岩村城 · 続きを見る »

岩村城の戦い

岩村城の戦い(いわむらじょうのたたかい)は、元亀3年(1572年)から天正3年(1575年)に美濃国恵那郡で起こった武田氏と織田氏の岩村城をめぐる戦い。.

新しい!!: 徳川家康と岩村城の戦い · 続きを見る »

岩槻藩

岩槻藩(いわつきはん)は、武蔵国埼玉郡(現在の埼玉県さいたま市岩槻区大字太田)に存在した藩。居城は岩槻城。.

新しい!!: 徳川家康と岩槻藩 · 続きを見る »

岩波新書

岩波新書(いわなみしんしょ)は、1938年(昭和13年)11月20日に岩波書店が創刊した新書赤版として。創刊の辞は、「岩波新書創刊50年、新版の発足に際して」(1998年1月)に「道義の精神に則らない日本の行動を深慮し、権勢に媚び偏狭に傾く風潮と他を排撃する驕慢な思想を戒め、批判的精神と良心的行動に拠る文化日本の躍進を求めての出発である」と引用されている。シリーズである。.

新しい!!: 徳川家康と岩波新書 · 続きを見る »

岩波書店

株式会社岩波書店(いわなみしょてん、Iwanami Shoten, Publishers. )は、日本の出版社。.

新しい!!: 徳川家康と岩波書店 · 続きを見る »

島田市

島田市(しまだし)は、静岡県中部、大井川の両岸に位置する都市。.

新しい!!: 徳川家康と島田市 · 続きを見る »

島津忠恒

島津 忠恒(しまづ ただつね) / 島津 家久(しまづ いえひさ)は、安土桃山時代の武将、江戸時代の外様大名。初代薩摩藩主。通称又八郎。『絵本太閤記』には島津亦七郎忠常とある。 戦国大名として島津氏を成長させた島津貴久の孫にあたり、島津義弘の子で、最初の妻の亀寿は兄から引き継いだ島津義久の娘。後に家久(いえひさ)と改名するが、同名の叔父が存在する区別のために初名の忠恒で呼ばれることが多い。.

新しい!!: 徳川家康と島津忠恒 · 続きを見る »

島津義久

島津 義久(しまづ よしひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。 島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。その後も耳川の戦いにおいて九州最大の戦国大名であった豊後国の大友氏に大勝し、また沖田畷の戦いでは九州西部に強大な勢力を誇った肥前国の龍造寺氏を撃ち破った。 義久は優秀な3人の弟(島津義弘・歳久・家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収め、島津氏の最大版図を築いた。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅2ヶ国と日向諸県郡を安堵される。豊臣政権・関ヶ原の戦い・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。.

新しい!!: 徳川家康と島津義久 · 続きを見る »

島津義弘

島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名。戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主(後述)。島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。後に剃髪して惟新斎と号したため、との敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く、「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。朝鮮出兵では鬼島津と言われた.

新しい!!: 徳川家康と島津義弘 · 続きを見る »

島清興

島(嶋) 清興(しま きよおき)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。筒井氏、石田三成の家臣。通称は左近で、一般には島 左近(しま さこん)の名で広く知られるが、平成28年(2016年)7月1日に発表された自筆の書状によると島左ではなく嶋左と署名しており、少なくとも左近本人は島ではなく嶋と名乗っていたことが分かる。実名は勝猛(かつたけ)などの俗称が広まってはいるが、自筆文書においても「清興」の花押を使用しており、正確には清興であると考えられる。なお、本項目では特に断りが無い限り「左近」と記す。 三成に三顧の礼をもって迎えられ破格の高禄を食む側近として仕え、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われるほどの逸材だった(『古今武家盛衰記』)。 娘の珠は柳生利厳の継室となっており、剣豪として名高い柳生厳包は左近の外孫にあたる。。.

新しい!!: 徳川家康と島清興 · 続きを見る »

崇源院

崇源院(すうげんいん、天正元年〈1573年〉8月 - 寛永3年9月15日〈1626年11月3日〉)は、安土桃山時代から江戸時代初期の人物。一般には江(ごう)、小督 (おごう)、江与(えよ)として知られる。位階は従一位。浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘・市(織田信長の妹)。いわゆる浅井三姉妹の一人で、長姉の淀殿(茶々)は豊臣秀吉側室、次姉・常高院(初)は京極高次正室。猶女に鷹司孝子がいる。 最初の婚姻相手は佐治一成だが、秀吉によって離縁させられる。2度目の婚姻相手は秀吉の甥・豊臣秀勝で、娘の完子は、姉茶々の猶子となる。3度目の婚姻相手が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠である。.

新しい!!: 徳川家康と崇源院 · 続きを見る »

川崎桃太

川崎 桃太(かわさき ももた、1915年3月3日 - )は、日本の言語学者、歴史学者。山口県大津郡俵山村(現・長門市)出身。京都外国語大学名誉教授。.

新しい!!: 徳川家康と川崎桃太 · 続きを見る »

川中島

川が合流する 犀川(右) 川中島(かわなかじま)は、長野県長野市の犀川と千曲川に囲まれた三角地帯の地名。.

新しい!!: 徳川家康と川中島 · 続きを見る »

川越藩

川越藩(かわごえはん)は、武蔵国入間郡(現在の埼玉県川越市)周辺を領した藩。武蔵国一の大藩。藩庁は川越城に置かれた。.

新しい!!: 徳川家康と川越藩 · 続きを見る »

上総国

上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。.

新しい!!: 徳川家康と上総国 · 続きを見る »

上田城

上田城(うえだじょう)は長野県上田市二の丸(旧・信濃国小県郡上田)にあった日本の城である。なお、現在残っている城は、仙石忠政によって寛永年間に再建築城されたものである。.

新しい!!: 徳川家康と上田城 · 続きを見る »

上野国

上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.

新しい!!: 徳川家康と上野国 · 続きを見る »

上杉謙信

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。最強の戦国武将の1人といわれ、後世、軍神や越後の虎、越後の龍と称された。 越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾 景虎(ながお かげとら)。1561年(景虎31歳)、関東管領・上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職関東管領を引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。 内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に宿敵武田信玄との5回にわたる川中島の戦いはよく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが48歳で志半ばで死去した。兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発した。 謙信は、「義」を重んじ、戦乱の世にあっても侵略のための戦いはしない一方、他国から救援を要請されると出兵し、「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す」(私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)『白河風土記』と述べている。また、謙信が敵将武田信玄の領国甲斐が塩不足に苦しんでいるのを知り、塩を送った逸話から、「敵に塩を送る」という故事も生まれた。.

新しい!!: 徳川家康と上杉謙信 · 続きを見る »

上杉氏

上杉氏(うえすぎし / うえすぎうじ)は、公家である藤原家の支族の一つ。1252年、公家である藤原重房が、宗尊親王の鎌倉幕府・将軍(皇族初の征夷大将軍)就任に従って京都から鎌倉へ下向して、武家化し「上杉」姓を賜われたのが上杉氏の祖。室町時代には関東管領を世襲し、越後・上野・武蔵・相模の守護を務める有力守護大名として栄えた。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母は上杉家出身。鎌倉時代、室町時代から江戸時代にかけて栄えた武家の一族(山内上杉家)が著名。山内上杉家15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった山内上杉家17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いにて西軍に付いて敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。本貫地は丹波国何鹿郡上杉荘(現在の京都府綾部市上杉)。 江戸時代には、大名2家、旗本4家(うち高家1家)があり、子孫は現代まで続いている。.

新しい!!: 徳川家康と上杉氏 · 続きを見る »

上杉憲政

上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての上野国の大名。関東管領(1531年-1561年)。山内上杉家15代当主。北条氏康に敗北した後、長尾家の長尾景虎(のちの上杉謙信)を養子とし、上杉家の家督と関東管領職を譲った。 上杉謙信の死後、上杉家の家督相続をめぐり争われた御館の乱で戦死。 ※憲当(読み同じ、旧字体:憲當)、光徹とも名乗っているが、よく知られた憲政の名で統一する。.

新しい!!: 徳川家康と上杉憲政 · 続きを見る »

上杉景勝

上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権の五大老の一人。米沢藩の初代藩主。上杉宗家(山内上杉家)17代目で、同家16代目上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目。 上田長尾家出身で、初名は長尾顕景。同じ長尾家出身の叔父・上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めた。実子のいない謙信の死後、上杉家の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となった。 豊臣秀吉に仕え、豊臣家五大老の1人として、会津藩120万石を領した。秀吉の死後、徳川家康が景勝討伐に向かい関ヶ原の戦いが幕開け。景勝は、石田三成ら西軍に付き敗北。戦後に、徳川家康から上杉氏の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となった。.

新しい!!: 徳川家康と上杉景勝 · 続きを見る »

上杉景虎

上杉 景虎(うえすぎ かげとら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。北条氏康の七男。母は遠山康光の妹。初めは北条 三郎(ほうじょう さぶろう)と名乗ったと推定される。のちに上杉謙信の養子になる。.

新しい!!: 徳川家康と上杉景虎 · 続きを見る »

上泉信綱

上泉 信綱(かみいずみ のぶつな、永正5年(1508年)? - 天正5年1月16日(1573年2月3日)?)または上泉伊勢守(かみいずみ いせのかみ)は、上州出身の戦国時代の兵法家、武将。生年は推測(後述)、没年は天正10年(1582年)など諸説あり。.

新しい!!: 徳川家康と上泉信綱 · 続きを見る »

上洛

上洛(じょうらく)とは、主に京都に入ることを意味する言葉である。入洛とも言った。.

新しい!!: 徳川家康と上洛 · 続きを見る »

上方

上方(かみがた・かみかた)は、江戸時代に京都や大阪を初めとする畿内を呼んだ名称である。広義では、畿内を初めとする近畿地方一帯を指す語としても使われる。.

新しい!!: 徳川家康と上方 · 続きを見る »

不受不施派

不受不施派(ふじゅふせは)とは、日蓮の教義である法華経を信仰しない者から施し(布施)を受けたり、法施などをしないという不受不施義を守ろうと、かつて存在した宗派の名称である。.

新しい!!: 徳川家康と不受不施派 · 続きを見る »

中央公論新社

株式会社中央公論新社(ちゅうおうこうろんしんしゃ)は、日本の出版社である。読売新聞グループ本社の傘下。略称は中公(ちゅうこう)。 本項では、旧法人の株式会社中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)についても述べる。.

新しい!!: 徳川家康と中央公論新社 · 続きを見る »

中山道

五十五里塚跡、下諏訪宿 福島宿) 一里塚(岐阜県垂井町) 中山道(なかせんどう)は、江戸時代の五街道の一つで、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道である。「中仙道板橋駅の北側にある踏切が「中仙道踏切」という名称である。」、「仲仙道」とも表記するほか、「木曾街道」や「木曽路」の異称も有した。.

新しい!!: 徳川家康と中山道 · 続きを見る »

中山氏

中山氏(なかやまし)は、日本の氏族の一つ。.

新しい!!: 徳川家康と中山氏 · 続きを見る »

中庸

中庸(ちゅうよう)とは、儒教において、「四書」の一つであり、またその中心的概念の一つである。.

新しい!!: 徳川家康と中庸 · 続きを見る »

中公新書

中公新書(ちゅうこうしんしょ)は、中央公論新社(読売新聞グループ)が発行している新書レーベルの1つ。現行の新書レーベルでは岩波新書に次ぐ歴史がある。サブレーベルとして中公PC新書、中公新書ラクレがある。.

新しい!!: 徳川家康と中公新書 · 続きを見る »

中国地方

中国地方(ちゅうごくちほう)は、本州の西部に位置する、日本の地域のひとつ。 鳥取県・島根県・岡山県・広島県・山口県の5県より構成される『日本地名大百科』、小学館、1996年、p.730 ISBN 4-09-523101-7。なお、行政上の管轄としては気象庁は山口県を除き、海上保安庁は山口県西北部、国土交通省海事事務所は下関市を除く。.

新しい!!: 徳川家康と中国地方 · 続きを見る »

中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

新しい!!: 徳川家康と中納言 · 続きを見る »

中道往還

中道往還(なかみちおうかん)は、甲斐国(山梨県)と駿河国(静岡県)を結ぶ街道のひとつ。駿州往還(河内路)と若彦路の中間に位置することから「中道」と呼ばれる(『甲斐国志』による)。山梨県甲府市の右左口宿(うばくち、姥口)を通過することから、右左口路とも呼ばれる。「中道往還」は甲州側からの呼称であり、静岡方面からは甲駿街道や甲州街道の呼称が使われる。.

新しい!!: 徳川家康と中道往還 · 続きを見る »

中村又五郎 (3代目)

三代目 中村又五郎(さんだいめ なかむら またごろう、1956年(昭和31年)4月26日 - )は、俳優、歌舞伎役者。本名は小川 光照(おがわ みつてる)。屋号は播磨屋。定紋は揚羽蝶、替紋は蔓片喰。東京都出身。暁星高等学校卒業。.

新しい!!: 徳川家康と中村又五郎 (3代目) · 続きを見る »

中村孝也

中村 孝也(なかむら こうや、1885年(明治18年)1月2日 - 1970年(昭和45年)2月5日)は、大正・昭和期の日本の歴史学者。東京帝国大学名誉教授。専門は日本近世史。文学博士(東京帝国大学、1926年)。群馬県出身。.

新しい!!: 徳川家康と中村孝也 · 続きを見る »

中村一忠

中村一忠墓(米子市感応寺) 中村 一忠(なかむら かずただ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の大名。伯耆米子藩主。中村一氏の子。徳川秀忠より偏諱を受け、忠一(ただかず)と改名した。.

新しい!!: 徳川家康と中村一忠 · 続きを見る »

中村一栄

中村 一栄(なかむら かずしげ、 ? - 慶長9年(1604年))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。中村氏の家臣。中村一氏の弟。通称は彦右衛門。別名に氏次。子に栄忠(伊豆守)。.

新しい!!: 徳川家康と中村一栄 · 続きを見る »

中根正照

中根 正照(なかね まさてる)は、戦国時代の武将。徳川氏の家臣。松平信康の家老・二俣城主を務めた。.

新しい!!: 徳川家康と中根正照 · 続きを見る »

常山紀談

『常山紀談』(じょうざんきだん)は、江戸時代中期に成立した逸話集。簡潔な和文で書かれており、本文25巻、拾遺4巻、それと同じ内容を持った付録というべき「雨夜燈」1巻よりなっている。著者は備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒学者・湯浅常山。.

新しい!!: 徳川家康と常山紀談 · 続きを見る »

常陸国

常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.

新しい!!: 徳川家康と常陸国 · 続きを見る »

丸根砦

丸根砦(まるねとりで)は、名古屋市緑区にあった砦。織田信長によって築かれ、桶狭間の戦いの前哨戦が行われた。 奥の森林が丸根砦址.

新しい!!: 徳川家康と丸根砦 · 続きを見る »

丹後国

丹後国(たんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と丹後国 · 続きを見る »

丹党

丹党(たんとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国入間郡・秩父郡・および児玉郡西部(旧賀美郡)にわたって繁栄した武蔵七党の一つである武士団。.

新しい!!: 徳川家康と丹党 · 続きを見る »

丹羽基二

丹羽 基二(にわ もとじ、1919年9月5日 - 2006年8月7日)は、日本の民俗学者、苗字・家紋研究家。イタリアのオリエンタル大学名誉教授、文学博士。日本家系図学会会長。.

新しい!!: 徳川家康と丹羽基二 · 続きを見る »

七里岩

七里岩(しちりいわ)は、山梨県の峡北地方にある台地。広義には、長野県諏訪郡富士見町から、山梨県の北杜市の小淵沢町、長坂町、大泉町、高根町と須玉町の一部を経て、韮崎市の中心地まで達する台地のことを指す。.

新しい!!: 徳川家康と七里岩 · 続きを見る »

布施

布施(ふせ)は、梵語では「檀那(旦那)(ダーナ、दान、dāna)」といい、他人に財物などを施したり、相手の利益になるよう教えを説くことなど、「与えること」を指す。すべての仏教における主要な実践項目のひとつである。六波羅蜜のひとつでもある。 布施には「財施」「法施」「無畏施」の三種がある(大智度論)。布施をする人をダーナパティ(dānapati)といい、施主(せしゅ)、檀越(だんおつ、だんえつ、だんのつ)、檀徒(だんと)などと訳される。なお、菩提寺にお布施をする家を檀家(だんか)という言葉も、檀那、檀越から来たものである。また、古くは皇族などが自らの領地(荘園)などを寺院に寄せる(寄付する)ことを施入(せにゅう)(する)ということがある。.

新しい!!: 徳川家康と布施 · 続きを見る »

世阿弥

世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛、正平18年/貞治2年(1363年)? - 嘉吉3年8月8日(1443年9月1日)?)は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽(申楽とも。現在の能)を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。 幼名は鬼夜叉、そして二条良基から藤若の名を賜る。通称は三郎。実名は元清。父の死後、観世大夫を継ぐ。40代以降に時宗の法名(時宗の男の法名(戒名)は阿弥陀仏(阿彌陀佛)号。ちなみに世は観世に由来)である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになった。世の字の発音が濁るのは、足利義満の指示によるもの。正しくは「世阿彌」。.

新しい!!: 徳川家康と世阿弥 · 続きを見る »

世良田氏

世良田(せらた、せらだ)氏は、鎌倉時代に清和源氏の新田氏から分立した上野国新田郡(新田荘)世良田郷(現在の群馬県太田市世良田町)の豪族。.

新しい!!: 徳川家康と世良田氏 · 続きを見る »

市場姫

市場姫(いちばひめ、? - 文禄2年5月2日(1593年6月1日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。松平広忠の娘。徳川家康の異母妹。.

新しい!!: 徳川家康と市場姫 · 続きを見る »

市姫

市姫(いちひめ、慶長12年1月1日(1607年1月28日) - 慶長15年2月12日(1610年3月7日))は、伊達政宗の嫡男・伊達忠宗と婚約していた女性。父は徳川家康(市姫は五女)。母は側室のお梶の方(遠山氏)。 徳川家康が66歳のときに生まれた五女である。家康はかつて、織田信長の妹で絶世の美女と謳われたお市の方のように美女になってほしいと願っていたらしく、市姫と命名した。 慶長12年(1607年)2月8日、家康は当時、最大の勢力を誇っていた外様大名の伊達政宗と関係をさらに深めるため、政宗の嫡男・虎菊丸(のちの忠宗)と婚約させている。しかし慶長15年(1610年)2月12日、市姫は3歳で夭折した。野苺を摘んでいた際、毒虫に刺され、それが原因でこの世を去ったと言われている。追号は清雲院、または一照院。 家康は市姫の夭折に嘆き悲しむと同時に、忠宗に対して孫娘の振姫(実父は池田輝政で、生母が家康の次女・督姫)を徳川秀忠の養女として婚約させている。.

新しい!!: 徳川家康と市姫 · 続きを見る »

市川右太衛門

市川 右太衛門(いちかわ うたえもん、1907年2月25日 - 1999年9月16日)は、日本の映画俳優。本名は淺井 善之助(あさいぜんのすけ)。愛称は「右太さん」。次男は俳優の北大路欣也。 戦前・戦後期の時代劇スターとして活躍し、同時代の時代劇スターである阪東妻三郎、大河内伝次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。歌舞伎役者から映画俳優となり、美剣士役で人気を得た。当たり役は『旗本退屈男』の早乙女主水之介で、30本のシリーズ作品を生み出している。戦後は片岡と共に東映の重役スターとなった。1966年に引退。映画主演総数は300本を超える。.

新しい!!: 徳川家康と市川右太衛門 · 続きを見る »

万喜城

万喜城(まんぎじょう)は、上総国夷隅郡(現在の千葉県いすみ市万木)にあった日本の城。万木城・満喜城・万騎城とも表記された。.

新しい!!: 徳川家康と万喜城 · 続きを見る »

三つ葉葵

三つ葉葵・三つ葵(みつばあおい・みつあおい)は日本の家紋「葵紋」の一種で、葵の葉を3つ描いた図案の家紋のことである。通常「三つ葉葵」といえば徳川家の用いた「丸に三つ葉葵」のたぐいの紋を指すことが多い。.

新しい!!: 徳川家康と三つ葉葵 · 続きを見る »

三好三人衆

三好三人衆(みよしさんにんしゅう)は、戦国時代に三好長慶の死後に三好政権を支えて畿内で活動した三好長逸・三好宗渭・岩成友通の3人を指す。いずれも三好氏の一族・重臣であり、『言継卿記』や『多聞院日記』などの同時代の記録でも「三人衆」と表記されている。.

新しい!!: 徳川家康と三好三人衆 · 続きを見る »

三島市

三島市中心部周辺の空中写真。1988年撮影の8枚を合成作成。国土航空写真。 三島市(みしまし)は、静岡県東部の、伊豆半島の中北端に位置する市。.

新しい!!: 徳川家康と三島市 · 続きを見る »

三中老

三中老(さんちゅうろう)は、豊臣政権末期に制定されたとされる役職。小年寄あるいは小宿老とも呼ばれる。 政事に参与し、五大老と五奉行との意見が合わないときの仲裁役であった。生駒親正(讃岐高松17万石)、堀尾吉晴(遠江浜松12万石)、中村一氏(駿河府中14万石)の三人が任命された、とされる。 ただ、この三人はたしかに豊臣家の重臣ではあったが、「三中老」という制度が実際に存在したか疑問の声もある。江戸時代に成立した小瀬甫庵『太閤記』と山鹿素行『武家事紀』などに記述があるが、それらの記述には同時代史料の裏付けがない。 『徳川実紀』にも三中老の記述はあるが、慶長4年(1599年)1月、前田利家・石田三成らが徳川家康と対立したときの三人の行動については、「奉行方の詰問使を務めたが家康に恫喝されて引きあげた」ものの、「細川忠興に説かれて両派の和解に尽力し、のち忠興と吉晴は家康から加増に与った」としている。 会津征伐の直前、慶長5年(1600年)5月7日付で、吉晴・親正・一氏と、前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行が連署し、井伊直政に宛てて「会津征伐延期を勧告する書状」(実質は家康に対する諌止状)を発しており、これは三中老が実在し機能していたことを示す同時代史料とされるが、この古文書は写しであり原本は確認されていない。.

新しい!!: 徳川家康と三中老 · 続きを見る »

三井記念美術館

三井記念美術館 (みついきねんびじゅつかん) は、東京都中央区日本橋室町にある、旧財閥三井家の伝来品を収蔵展示するために設立された私立美術館である。1985年、東京都中野区上高田に「三井文庫別館」(三井文庫本館は史料館)として開館し、2005年10月8日より、東京都中央区日本橋室町の三井本館(重要文化財建造物)7階に移転し、「三井記念美術館」と改称した。運営は、公益財団法人三井文庫。.

新しい!!: 徳川家康と三井記念美術館 · 続きを見る »

三要元佶

三要 元佶(さんよう げんきつ、天文17年(1548年) - 慶長17年5月20日(1612年6月19日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての臨済宗の僧。号は閑室。佶長老、閑室和尚。現在、一般的には閑室元佶とよばれている。.

新しい!!: 徳川家康と三要元佶 · 続きを見る »

三英傑

三英傑(さんえいけつ)、もしくは郷土三英傑、戦国三英傑は、現在の愛知県(当時は尾張国と三河国)出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた下記3人の戦国大名について、主に後世(#成立を参照)において中部地方や愛知県で顕彰する呼称。口語では戦国の三傑が用いられる。名古屋まつりでは毎年、この3人にちなんで郷土英傑行列が行われている。.

新しい!!: 徳川家康と三英傑 · 続きを見る »

三条氏 (徳川家康側室)

三条氏(さんじょうし、生没年不明)は、徳川家康の側室。三条家の娘とされるが、殆どの経緯が不明である。小笠原権之丞の生母。.

新しい!!: 徳川家康と三条氏 (徳川家康側室) · 続きを見る »

三河一向一揆

大樹寺御難戦之図 三河後風土記之内」 月岡芳年筆 明治6年(1873年) 三河一向一揆(みかわいっこういっき)は、戦国時代に三河国の西三河全域で永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)まで半年ほど行われた一向一揆である。曹洞宗の勢力が強かった東三河は該当しない。.

新しい!!: 徳川家康と三河一向一揆 · 続きを見る »

三河国

三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.

新しい!!: 徳川家康と三河国 · 続きを見る »

三河国司

三河国司(みかわこくし)は、三河国の国司のことである。養老律令の職員令で三河国は守、介、掾、目の各1人の構成である。三河国は上国であり、養老律令の官位令が定める上国の官位相当は守が従五位下、介が従六位上、少掾が従七位上、少目が従八位下である。但し、宝亀6年(775年)には大目1名・少目1名として大目を増員している。。.

新しい!!: 徳川家康と三河国司 · 続きを見る »

三河物語

『三河物語』(みかわものがたり)は、大久保忠教(彦左衛門)によって書かれた、徳川氏と大久保氏の歴史と功績を交えて武士の生き方を子孫に残した家訓書である。.

新しい!!: 徳川家康と三河物語 · 続きを見る »

三河武士

三河武士(みかわぶし)とは、徳川家康に仕えて、江戸幕府創業に貢献した譜代の三河出身の家臣の総称。三河衆(みかわしゅう)ともいう。酒井忠次や本多忠勝ら家康の主な家臣は三河武士で構成されていた。一般的に精強で家康への忠誠心が強いとされ、鳥居元忠らがその典型とされる。.

新しい!!: 徳川家康と三河武士 · 続きを見る »

三浦為春

三浦 為春(みうら ためはる)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。三浦長門守家初代当主。妹に徳川家康の側室・養珠院(於万)。紀州藩祖・徳川頼宣と水戸藩祖・徳川頼房の伯父に当たる。.

新しい!!: 徳川家康と三浦為春 · 続きを見る »

三浦重成

三浦 重成(みうら しげなり)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。後に「下総三浦藩」と称される藩の初代藩主となった。.

新しい!!: 徳川家康と三浦重成 · 続きを見る »

三浦氏

三浦氏(みうらし)は、平安時代の相模国の武家。三浦党(みうらとう)とも呼ばれる。.

新しい!!: 徳川家康と三浦氏 · 続きを見る »

三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(西暦1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を、徳川 ・織田の連合軍が迎え撃ったが敗退した。.

新しい!!: 徳川家康と三方ヶ原の戦い · 続きを見る »

下山殿

下山殿(しもやまどの、永禄7年(1564年)? - 天正19年10月6日(1591年11月21日))は、戦国時代の人物で徳川家康の側室。名は都摩、津摩。秋山夫人とも称される。.

新しい!!: 徳川家康と下山殿 · 続きを見る »

下総山崎藩

下総山崎藩(しもうさやまざきはん)は、下総国(現在の千葉県野田市)に存在した藩。.

新しい!!: 徳川家康と下総山崎藩 · 続きを見る »

下総国

下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と下総国 · 続きを見る »

下野国

下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と下野国 · 続きを見る »

一向一揆

三河一向一揆 六字名号(蓮如筆)/本願寺所蔵 一向一揆(いっこういっき)とは、戦国時代に浄土真宗本願寺教団(一向宗)の信徒たちが起こした、権力に対する抵抗運動の一揆の総称。.

新しい!!: 徳川家康と一向一揆 · 続きを見る »

一刀流

一刀流(いっとうりゅう)とは、戦国時代末期に鐘捲流の流れを汲む伊藤一刀斎によって創始された剣術の流儀である。弟子の小野忠明(神子上典膳)が徳川将軍家の剣術指南役になったことから隆盛した。 流名である「一刀流」は、伊藤一刀斎の死後に命名されたとも考えられており、一刀斎自身は生前に一度も流儀名を名乗ったことは無いとも言われているがその真偽は不明である。主に剣術の中太刀(現在は大太刀と呼ばれる)、小太刀に特徴があるが、一刀斎の弟子の古藤田俊直は剣術と槍術を伝えていたため、一刀斎の武術は剣術だけではないという説もある。 一刀斎は鐘捲流の鐘捲自斎より授けられた中条流の極意の形とされる「五点」(五天、五典ともいう)を以て弟子などに指導したと考えられているが、後代の弟子達によって新たな形や教授法が次々と編まれていった。 その後「五点」は小野派一刀流の系統の流派では修行が高度に達した者に伝えられ、伊藤派一刀流(忠也派一刀流)の系統の流派では最初から学ぶ形となっていった。 一刀流系統に共通する教えには、前述の「五点」の他に、「切落」「卍」「拂捨刀」「無想剣」などがある。.

新しい!!: 徳川家康と一刀流 · 続きを見る »

一国一城令

伊予国 松山城本壇(天守丸) 一国一城令(いっこくいちじょうれい)は慶長20年閏6月13日(1615年8月7日)に江戸幕府が制定した法令である。諸大名に対し、居城以外のすべての城の破却を命じたもの。.

新しい!!: 徳川家康と一国一城令 · 続きを見る »

一言坂の戦い

一言坂の戦い(ひとことざかのたたかい)は、元亀3年(1572年)10月13日に遠江国二俣城をめぐり、武田信玄と徳川家康の間で行われた戦い。家康の退却戦である。 信玄の西上作戦の過程で行われた戦いであり、二俣城の戦い(あるいはそれを含めて三方ヶ原の戦い)の前哨戦である。.

新しい!!: 徳川家康と一言坂の戦い · 続きを見る »

一揆

一揆(いっき)とは、日本において何らかの理由により心を共にした共同体が心と行動を一つにして目的を達成しようとすること、またはそのために盟約、契約を結んで、政治的共同体を結成した集団及び、これを基盤とした既成の支配体制に対する武力行使を含む抵抗運動。ドイツ語のPutschの訳語としても使われる(カップ一揆や、アドルフ・ヒトラーらが起こしたミュンヘン一揆など)。.

新しい!!: 徳川家康と一揆 · 続きを見る »

一条信龍

一条 信龍(いちじょう のぶたつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐国武田氏当主・武田信虎の八男(九男とする説もある 柴辻俊六 著『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.40)。武田信玄の異母弟。武田二十四将の1人。甲斐市川郷上野城(山梨県市川三郷町上野)主。.

新しい!!: 徳川家康と一条信龍 · 続きを見る »

九条兼孝

九条 兼孝(くじょう かねたか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての関白。九条家第17代目当主。同家第15代当主の九条尚経は曽祖父にあたる。後月輪と号した。.

新しい!!: 徳川家康と九条兼孝 · 続きを見る »

九戸政実の乱

九戸政実の乱(くのへまさざねのらん)は天正19年(1591年)、南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直および奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱である。近年では「九戸政実の決起」などと称することもある。.

新しい!!: 徳川家康と九戸政実の乱 · 続きを見る »

平塚八幡宮

平塚八幡宮(ひらつかはちまんぐう)は、神奈川県平塚市浅間町(せんげんちょう)に鎮座する神社で、古くは鶴峯山八幡宮(つるみねさんはちまんぐう)と呼ばれていた。毎年5月5日に大磯町国府本郷の神揃山(かみそろいやま)で行われる国府祭(こうのまち)に参加する相模五社の1社であるが、相模国における式内社ではあらず、また一国一社の八幡宮、鎮地大神と称えられている。 境内にはいくつかの末社があるが、西の池に鎮座する平塚弁財天は、「」のひとつとされている。また、あまり知られていないが、8月15日に行われる例大祭(例祭)では早朝に扇の松(おおぎのまつ)海岸(平塚海岸扇の松下)にて大神輿が砂浜を練り海に入る浜降祭(はまおりさい)、その後、浜祭典(はまさいてん)が行われている。.

新しい!!: 徳川家康と平塚八幡宮 · 続きを見る »

平岩親吉

平岩 親吉(ひらいわ ちかよし)は、戦国時代から江戸時代初期の武将・大名。徳川氏の家臣。上野厩橋藩(前橋藩)、のちに尾張犬山藩の藩主。徳川十六神将の一人に数えられる。『三河後風土記』の著者というが、著者不詳ともされはっきりしない。.

新しい!!: 徳川家康と平岩親吉 · 続きを見る »

平氏

平氏(へいし、たいらうじ)は、「平」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。家紋は揚羽蝶、鱗など。 日本において皇族が臣下に下る(臣籍降下)際に名乗る氏の一つで、有名な桓武平氏を含め4つの流派がある。.

新しい!!: 徳川家康と平氏 · 続きを見る »

平清盛

平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将・公卿。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。.

新しい!!: 徳川家康と平清盛 · 続きを見る »

平戸

平戸 特記以外の読みは「ひらど」。; 長崎県の地名.

新しい!!: 徳川家康と平戸 · 続きを見る »

平手汎秀

平手 汎秀(ひらて ひろひで、天文22年1月2日(1553年1月15日) - 元亀3年12月22日(1573年1月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。幼名は秀千代。通称は甚左衛門。 官位は監物。平手政秀の三男、もしくは政秀の嫡男とされる久秀の嫡男(つまり政秀の孫)ともいわれる。母は加藤清正の姉とされる。.

新しい!!: 徳川家康と平手汎秀 · 続きを見る »

年忌

年忌(ねんき)とは、祥月命日、また、その日に営まれる仏事のこと。日本の仏教において、定められた年に故人に対して営まれる法要を、年忌法要(年回法要)という。追善供養のために営まれる。 浄土真宗では追善供養だとはいわず、仏法にふれる機縁の法要としている。.

新しい!!: 徳川家康と年忌 · 続きを見る »

幸若舞

幸若舞(こうわかまい)は、室町時代に流行した語りを伴う曲舞の一種。福岡県みやま市瀬高町大江に伝わる重要無形民俗文化財(1976年指定)の民俗芸能として現存している。、七百年の伝統を持ち、毎年1月20日に大江天満神社で奉納される。.

新しい!!: 徳川家康と幸若舞 · 続きを見る »

幾何学

最先端の物理学でも用いられるカラビ-ヤウ多様体の一種。現代幾何学では図も書けないような抽象的な分野も存在する。 幾何学(きかがく、)は、図形や空間の性質について研究する数学の分野である広辞苑第六版「幾何学」より。イエズス会マテオ・リッチによる geometria の中国語訳である。以前は geometria の冒頭の geo- を音訳したものであるという説が広く流布していたが、近年の研究により否定されている。 もともと測量の必要上からエジプトで生まれたものだが、人間に認識できる図形に関する様々な性質を研究する数学の分野としてとくに古代ギリシャにて独自に発達しブリタニカ国際大百科事典2013小項目版「幾何学」より。、これらのおもな成果は紀元前300年ごろユークリッドによってユークリッド原論にまとめられた。その後中世以降のヨーロッパにてユークリッド幾何学を発端とする様々な幾何学が登場することとなる。 幾何学というとユークリッド幾何学のような具体的な平面や空間の図形を扱う幾何学が一般には馴染みが深いであろうが、対象や方法、公理系などが異なる多くの種類の幾何学が存在し、現代においては微分幾何学や代数幾何学、位相幾何学などの高度に抽象的な理論に発達・分化している。 現代の日本の教育では、体系的な初等幾何学はほぼ根絶されかけたが、近年、中・高の数学教育で線型幾何/代数幾何を用いない立体を含む、本格的な綜合幾何は見直されつつある。.

新しい!!: 徳川家康と幾何学 · 続きを見る »

幕府

幕府(ばくふ)は、日本の中世及び近世における征夷大将軍などの武家の最高権力者を首長とする武家政権のことをいう。あるいはその武家政権の政庁、征夷大将軍の居館・居城を指す名称としても用いられる。近衛大将の唐名。.

新しい!!: 徳川家康と幕府 · 続きを見る »

幕藩体制

幕藩体制(ばくはんたいせい)とは、近世日本の社会体制のあり方を、幕府(将軍)と藩(大名)という封建的主従関係を基点にとらえた歴史学上の概念である。戦前段階には狭義に政治体制自体を指していたが、戦後の歴史学の進展に伴い、近世日本の社会体制全体の特色を示す概念として使われるようになった。幕藩制(ばくはんせい)ともいう。.

新しい!!: 徳川家康と幕藩体制 · 続きを見る »

幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

新しい!!: 徳川家康と幕末 · 続きを見る »

久保田藩

『天保国絵図』より「出羽国秋田領」 久保田藩(くぼたはん)は、江戸時代の藩の一つである。秋田藩(あきたはん)とも呼ばれる「秋田市史 第四巻」7頁。。久保田城を居城とした。藩主は佐竹氏で、室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封された。石高は約20万石(実高は約40万石)。家格は大広間詰国持大名。 支藩として、新田分知された家が2家有る他、2代義隆の実家亀田藩(岩城氏)が事実上の支藩となっていた時期もあった。.

新しい!!: 徳川家康と久保田藩 · 続きを見る »

久留里藩

久留里藩(くるりはん)は、上総国望陀郡久留里(現在の千葉県君津市久留里)に存在した藩。.

新しい!!: 徳川家康と久留里藩 · 続きを見る »

久能山

久能山(くのうざん).

新しい!!: 徳川家康と久能山 · 続きを見る »

久能山御蔵金銀

久能山御蔵金銀(くのうさんおくらきんぎん)とは、元和2年(1616年)に徳川家康が死去した際に隠居城であった駿府城に遺した金銀のこと。死去後に東照宮が造営された駿河国久能山にて保管された。.

新しい!!: 徳川家康と久能山御蔵金銀 · 続きを見る »

久能山東照宮

久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)は、日本の静岡市駿河区根古屋に所在する神社である。 晩年を駿府で過ごした徳川家康が元和2年(1616年)に死去した後、遺命によってこの地に埋葬された。 江戸時代には20年に一度、明治時代以降では50年に一度、社殿を始めとした諸建造物の漆塗り替えが行われており、近年では2006年(平成18年)に社殿の塗り替えが完了した。 2010年(平成22年)12月に、本殿、石の間、拝殿が国宝に指定された。2015年(平成27年)には鎮座400年を迎え、様々な催し物が企画、開催された。.

新しい!!: 徳川家康と久能山東照宮 · 続きを見る »

久野宗能

久野 宗能(くのう むねよし、大永7年(1527年)-慶長14年10月8日(1609年11月4日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。久野忠宗の子。子に久野宗朝。.

新しい!!: 徳川家康と久野宗能 · 続きを見る »

享保の改革

享保の改革(きょうほうのかいかく)は、江戸時代中期に第8代将軍徳川吉宗によって主導された幕政改革。名称は吉宗が将軍位を継いだ時の年号である享保に由来する。開始に関しては享保元年(1716年)で一致しているが、終わりに関しては複数説がある。 主としては幕府財政の再建が目的であったが、先例格式に捉われない政策が行われ、文教政策の変更、法典の整備による司法改革、江戸市中の行政改革など、内容は多岐に渡る。江戸時代後期には享保の改革に倣って、寛政の改革や天保の改革が行われ、これら3つを指して「江戸時代の三大改革」と呼ぶのが史学上の慣例となっている。.

新しい!!: 徳川家康と享保の改革 · 続きを見る »

京職

京職(きょうしき)とは、日本の律令制において京(みやこ)の司法、行政、警察を行った行政機関である。古訓はミサトヅカサ。京は碁盤の目状に大路・小路が整備され(条坊制)、京内の東側を「左京(さきょう=南面する玉座より見て左)」、西側を「右京(うきょう=南面する玉座より見て右)」と呼び、「左京職(さきょうしき)」・「右京職(うきょうしき)」に分かれていた。なお、京職(きょうしょく)は京都所司代の別称。.

新しい!!: 徳川家康と京職 · 続きを見る »

京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

新しい!!: 徳川家康と京都 · 続きを見る »

京都五山

'''南禅寺'''(三門) '''天龍寺'''(大方丈) '''相国寺'''(法堂) 京都五山(きょうとござん)とは、五山の制のうち京都の禅宗(臨済宗)の寺格、官寺制度である。.

新しい!!: 徳川家康と京都五山 · 続きを見る »

京橋 (大阪市)

京橋駅(右上)の位置関係。 京橋(きょうばし)は、大阪府大阪市にある橋、旧町名、地域名。.

新しい!!: 徳川家康と京橋 (大阪市) · 続きを見る »

庶子

庶子(しょし)は、正室ではない女性から生まれた子供を指す語。結婚(婚姻)制度の確立により生じた概念である。そのような制度が確立していない社会においては、母親の身分や両親の関係によって区別を受けた以外に嫡出庶出といった区別は意味を持たなかった。 結婚制度は、(1)相続権、親族関係の明確化といった世俗的な要求と、(2)性交渉に拘わるモラルの確立といった道徳的、宗教的な要求から生じて来たものであり、その枠外である庶子は、世俗的権利とモラルの両面において嫡子と差別をこうむることになる。 大小の差別を受けるにも拘わらず、庶子が存在したのは次のような理由が考えられる。.

新しい!!: 徳川家康と庶子 · 続きを見る »

府中

府中(ふちゅう).

新しい!!: 徳川家康と府中 · 続きを見る »

二俣城

二俣城(ふたまたじょう)は、遠江国豊田郡二俣(現在の静岡県浜松市天竜区二俣町二俣)にあった日本の城。山城。天竜川と二俣川に挟まれた天嶮に恵まれた中世城郭として名高く、武田信玄・勝頼親子と徳川家康がこの城を巡って激しい攻防を繰り広げた。また、家康の嫡男信康が悲劇の切腹をとげた城としても知られる。城跡は国の史跡に指定されている(指定名称は「二俣城跡及び鳥羽山城跡」)。 本項では二俣城攻略の際に付城として築かれた鳥羽山城についても記述する。.

新しい!!: 徳川家康と二俣城 · 続きを見る »

二俣城の戦い

二俣城の戦い(ふたまたじょうのたたかい)は、元亀3年(1572年)10月16日から12月19日にかけて行われた武田信玄軍と徳川家康軍による遠江北部の二俣城攻防戦である。.

新しい!!: 徳川家康と二俣城の戦い · 続きを見る »

二条城

二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある、江戸時代に造営された日本の城である。京都市街の中にある平城で、後述する足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがあるが、現在見られるものは徳川氏によるものである。また、後の近代において二条城は京都府の府庁や皇室の離宮として使用された。城内全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。 徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終わりの場所でもある。.

新しい!!: 徳川家康と二条城 · 続きを見る »

二条家

二条家(にじょうけ)は、五摂家のひとつで公家である。.

新しい!!: 徳川家康と二条家 · 続きを見る »

二条康道

二条 康道(にじょう やすみち)は、江戸時代前期の公卿・藤氏長者。藤原氏摂関家二条家の第16代当主。摂政・左大臣に昇った。関白九条幸家の長男。母は豊臣完子。養父は大叔父二条昭実。九条道房、松殿道基らの兄。幼名は松鶴。 慶長18年(1613年)、正五位下に叙せられて元服し、徳川家康より「康」の字を贈られて康道と名乗る(これ以降斉敬の代まで徳川将軍家から偏諱を賜るようになった)。 寛文6年(1666年)、薨去。享年60。 正室は貞子内親王(後陽成天皇皇女、後水尾天皇同母妹)。子女に二条光平、瑞照院日通(瑞龍寺三世)、華山仙禅師(慈受院五世)がいた。.

新しい!!: 徳川家康と二条康道 · 続きを見る »

広橋兼勝

広橋 兼勝(ひろはし かねかつ、永禄元年10月23日(1558年12月2日) - 元和8年12月18日(1623年1月18日))は、安土桃山時代、江戸時代初期の公家、歌人。藤原北家日野流、家格は名家で、広橋国光の子。母は高倉永家の娘。兄に日野輝資、弟に日禎(本圀寺16世、常寂光寺開山)がおり、兄が本家筋の日野家を継いだことで兼勝が広橋家の嫡子(跡取り)となった。子に広橋総光(- ふさみつ)、油小路隆基(あぶらのこうじ たかもと)、鷲尾隆量、新遍、観助、広橋局、樋口信孝室、中御門宗保室、裏辻季福室。号は後是称院。一字名は貢。法名は快寂。官位は権大納言(慶長2年叙任)、従一位内大臣(元和4年叙任)。勧修寺光豊とともに江戸幕府初代の武家伝奏(慶長8年(1603年) - 元和5年(1619年))。 慶長8年(1603年)、徳川家康に征夷大将軍の内示を与えた。大坂冬の陣でも両軍の和睦を尽力する。武家伝奏として朝廷と幕府の融和に努め、「出頭無双」といわれその権勢は大きかったが、幕府に譲歩も強いられ「奸佞の残賊」と罵られる存在でもあったという。 また1609年には、猪熊事件に関与した娘の広橋局が、伊豆新島に配流されている。.

新しい!!: 徳川家康と広橋兼勝 · 続きを見る »

五大老

五大老(ごたいろう)とは、末期の豊臣政権の政務にあたった徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元の五大名を指す。五奉行の顧問として、政務を統括した。豊臣秀吉の死後、家康に実権が集中していき、関ヶ原の戦いにいたって崩壊した。.

新しい!!: 徳川家康と五大老 · 続きを見る »

五奉行

五奉行(ごぶぎょう)は、安土桃山時代の豊臣政権末期に秀吉遺言覚書体制に基き、主に政権の実務を担った浅野長政、石田三成ら5人の政治家(奉行職にあたる)的人物達を指して呼ばれる言葉。ただし当時は「五奉行」などの特定の呼称は存在せず、「奉行」「年寄」などと呼ばれており、秀吉は三成らの側近を政権運営の要とするため、奉行を「年寄」として名目的に重みを加えておく必要性を感じ、反対に家康以下の宿老を「御奉行」とよばせることで勢威の減殺を図ったのではないかと指摘されている。.

新しい!!: 徳川家康と五奉行 · 続きを見る »

五島美術館

五島美術館(ごとうびじゅつかん)は、東京都世田谷区上野毛(かみのげ)にある美術館。1960年(昭和35年)4月18日に開館し、所蔵品は日本・東洋の古美術を中心に国宝5件、重要文化財50件を含む約5000件にのぼる。運営主体は公益財団法人五島美術館で、同法人は五島美術館および大東急記念文庫の運営を行っている。.

新しい!!: 徳川家康と五島美術館 · 続きを見る »

五郎八姫

五郎八姫(いろはひめ、文禄3年6月16日(1594年8月2日)- 寛文元年5月8日(1661年6月4日))は、徳川家康の六男・松平忠輝の正室。伊達政宗の長女。母は正室の愛姫(田村清顕の娘)。出家後の院号は天麟院(てんりんいん)。.

新しい!!: 徳川家康と五郎八姫 · 続きを見る »

井上正就

井上 正就(いのうえ まさなり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、譜代大名、江戸幕府老中。遠江国横須賀藩初代藩主。浜松藩井上家初代。.

新しい!!: 徳川家康と井上正就 · 続きを見る »

井伊直孝

井伊 直孝(いい なおたか)は、江戸時代前期の武将・譜代大名。上野国白井藩主、近江国彦根藩2代藩主。.

新しい!!: 徳川家康と井伊直孝 · 続きを見る »

井伊直虎

井伊 直虎(いい なおとら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての遠江井伊谷の領主。「井伊直虎」という名の人物についての同時代史料は一通の書状しか存在しないが、通説では江戸時代に書かれた井伊氏の家伝、『井伊家伝記』において女性ながら井伊家当主になったと記載された井伊直盛の娘、次郎法師(じろうほうし)と同一人物とされる。その存在については、様々な考察がなされている(#「直虎」と「次郎法師」との関係に関する議論参照)。 次郎法師は曾祖父は井伊直平、祖父は井伊直宗で、井伊直親と婚約したといわれるが、生涯未婚であった。徳川四天王・井伊直政(虎松)の養母と伝わる。 『井伊年譜』などでは「築山殿は井伊直平の孫娘」と記されており、その場合、築山殿は従叔母(いとこおば)に当たる。.

新しい!!: 徳川家康と井伊直虎 · 続きを見る »

井伊直政

井伊 直政(いい なおまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。井伊氏第17代または24代当主。 上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。 徳川氏の家臣(家臣になった当時は外様)。遠江国井伊谷の出身で、『柳営秘鑑』では榊原氏や鳥居氏と並び、「三河岡崎御普代」として記載されている。また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となり、現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている。その一例として、滋賀県彦根市では、直政が現在の彦根市の発展の基礎を築いたということを顕彰して、「井伊直政公顕彰式」という祭典が毎年行われている。.

新しい!!: 徳川家康と井伊直政 · 続きを見る »

亀姫 (徳川家康長女)

亀姫(かめひめ、永禄3年6月4日(1560年6月27日) - 寛永2年5月27日(1625年7月1日))は、徳川家康の長女。母は築山御前(瀬名今川氏)で、松平信康は同母兄。奥平信昌の正室。.

新しい!!: 徳川家康と亀姫 (徳川家康長女) · 続きを見る »

今川義元

今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。.

新しい!!: 徳川家康と今川義元 · 続きを見る »

今川直房

今川 直房(いまがわ なおふさ)は、江戸時代初期の旗本。今川氏13代当主家祖・国氏から数えた代数。。今川範以の子。江戸幕府に仕え、高家今川氏初代当主となった。初名は範英(のりひで)。.

新しい!!: 徳川家康と今川直房 · 続きを見る »

今川貞世

今川 貞世(いまがわ さだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、守護大名。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねた。歌人としても名高い。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれる事も多い。没年は異説あり。.

新しい!!: 徳川家康と今川貞世 · 続きを見る »

今川氏

今川氏(いまがわうじ)は、日本の武家。本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。.

新しい!!: 徳川家康と今川氏 · 続きを見る »

今川氏真

今川 氏真(いまがわ うじざね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名、文化人。今川氏12代当主。 父・今川義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、今川家の当主を継ぐが武田信玄と徳川家康による駿河侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は後北条氏を頼り、最終的には桶狭間の戦いで今川家を離反した徳川家康(松平元康)と和議を結んで臣従し庇護を受けることになった、氏真以後の今川家の子孫は、徳川家と関係を持ち続け、家康の江戸幕府(徳川幕府)で代々の将軍に仕えた。.

新しい!!: 徳川家康と今川氏真 · 続きを見る »

今出川晴季

今出川 晴季(いまでがわ はるすえ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての公卿。菊亭 晴季(きくてい はるすえ)としても知られる。.

新しい!!: 徳川家康と今出川晴季 · 続きを見る »

今福の戦い

今福の戦い(いまふくのたたかい)は、江戸幕府と豊臣家の間の大坂の陣(大坂の役)のうち、1614年 (慶長19年)末に発生した大坂冬の陣において行われた戦いの一つ。 大坂城東北、大和川の北岸に今福村、南岸に鴫野村がある。この地域は低湿地帯になっており、軍隊が展開できるのは堤防上のみ、まわりは田圃という地形だった。豊臣方は今福村に三カ所の堀切と四重の柵を設置し、矢野正倫および飯田家貞 にそれぞれ兵300で守備させていた。徳川家康は今福村に付け城を築くため、今福・鴫野の両柵の奪取を命じた。今福へは佐竹義宣指揮下の兵1,500を送った。 11月26日夜明け、佐竹勢が今福を攻撃、佐竹麾下の渋江政光、戸村義国らにより第四柵まで占拠され、矢野と飯田は討死した。豊臣軍は木村重成が来援し、反撃に転じたため佐竹勢はやや後退したがその後膠着状態になった。その様子を大坂城天守から見ていた豊臣秀頼は、後藤基次に救援を命じた。後藤が駆けつけ木村を支援しながら突撃を指揮し、佐竹勢を押し戻した。渋江政光は第一柵で防戦していたが、木村重成の指示で狙撃され討死したため佐竹勢先鋒隊が潰走、佐竹義宣は大和川対岸にいた上杉勢に救援を求めた。それを受けた上杉景勝、堀尾忠晴および榊原康勝の軍勢が大和川の中州まで出て銃撃を加えたため、豊臣軍は撤退した。 この戦いにおいて、将軍徳川秀忠から、佐竹家中の5名に感状と褒美が与えられている(『大日本史料』元和元年正月十七日条)金子(2011)pp.207-220。.

新しい!!: 徳川家康と今福の戦い · 続きを見る »

今谷明

今谷 明(いまたに あきら、 1942年 - )は、日本の歴史学者。帝京大学文学部特任教授、国際日本文化研究センター名誉教授。専門は中世日本史。 京都市出身。官僚を経験した後に歴史学者に転じた。戦国時代における天皇の権威が、従来の説で論じられていたよりも強かったと主張する一連の著作で知られる。近年は、ヨーロッパ・オリエントの封建制と日本中世の封建制との比較研究もおこなっている。.

新しい!!: 徳川家康と今谷明 · 続きを見る »

代官

代官(だいかん)とは、君主ないし領主に代わって任地の事務を司る者又はその地位をいう。日本では、武家政権における役職の1つとなった。.

新しい!!: 徳川家康と代官 · 続きを見る »

以心崇伝

以心崇伝(いしんすうでん、永禄12年(1569年) - 寛永10年1月20日(1633年2月28日))は、安土桃山時代から江戸時代の臨済宗の僧。字は以心、法名が崇伝で、南禅寺金地院に住したため、金地院崇伝(こんちいん すうでん)とも呼ばれる。本光国師の称は、寛永3年(1626)に後水尾天皇の師となり授けられたもの。俗姓は一色氏。徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け、その権勢から黒衣の宰相の異名を取った。 起草した武家諸法度は老中以下諸大名の前で崇伝により布告された。徳川家光、徳川忠長の諱は崇伝により名付けられた。.

新しい!!: 徳川家康と以心崇伝 · 続きを見る »

延喜式

延喜式(えんぎしき)は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。.

新しい!!: 徳川家康と延喜式 · 続きを見る »

任官

任官(にんかん)とは、官職に任用されることをいう。古くは奈良時代の律令制導入の際より日本の官制において用いられた用語であり、今日の政府や国家機関等においても使用されている。今日では国家公務員の職、特に裁判官、検察官、自衛官(即応予備自衛官、予備自衛官を含む)、警察官、海上保安官、刑務官、労働基準監督官などに任ぜられる場合に用いられる。対義語は「免官」、「退官」。 なお、関連用語として、「任官拒否」という用語もある。用法としては、司法試験合格者のうち、裁判官等への任官を拒否するために用いられ、その他には防衛大学校卒業者が自衛官への任官を拒否する場合にも用いられる。なお、国家公務員が異なる官庁・職種に転じる場合、転官ともいう。.

新しい!!: 徳川家康と任官 · 続きを見る »

仙台東照宮

仙台東照宮(せんだいとうしょうぐう)は、宮城県仙台市青葉区東照宮にある徳川家康をまつる神社。承応3年(1654年)に仙台藩2代藩主伊達忠宗が創建した。正式名称は東照宮。 明暦元年(1655年)より神輿渡御を斎行しており、2018年(平成30年)には御遷座365年を記念して行われた。.

新しい!!: 徳川家康と仙台東照宮 · 続きを見る »

仙北一揆

仙北一揆(せんぼくいっき)は、天正18年(1590年)9月下旬ころ、出羽国北部(いまの秋田県地方)の横手盆地(仙北三郡当時の「仙北」は現在の仙北郡地方(大仙市・仙北市ふくむ)よりもさらに広域地名で、それより南の横手市・湯沢市一帯も含む、仙北・平鹿・雄勝3郡の総称で現在の秋田県内陸南部全体を指す。中世にあっては仙北のうち、戸沢氏領は「北浦郡」、本堂氏・六郷氏領は「中郡」、小野寺氏領は「上浦郡」と称されていた。)で発生した、豊臣政権に対する検地反対一揆。.

新しい!!: 徳川家康と仙北一揆 · 続きを見る »

伊奈忠次

伊奈 忠次(いな ただつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。武蔵小室藩初代藩主。.

新しい!!: 徳川家康と伊奈忠次 · 続きを見る »

伊奈昭綱

伊奈 昭綱(いな あきつな)は、安土桃山時代の武将。徳川氏の家臣。一般には伊奈 図書(いな ずしょ)で知られる。 伊奈昭忠の次男。嗣子のない兄・昭応の養子となって家督を相続する。天正18年(1590年)、小田原征伐に従軍し、徳川家康の関東入国と共に2,500石を与えられる。慶長5年(1600年)の会津征伐に際しては、家康との対立を深める上杉景勝の下へ問罪使として派遣された。 関ヶ原の戦いの後、山城国日岡の関の守衛となる。その際に、福島正則が家老・佐久間嘉右衛門を伏見城の家康の下へ使者として派遣した。しかし昭綱の家人は嘉右衛門が通行証を所持していないことから関の通過を認めず、嘉右衛門は正則の下へ戻り、面目を失ったとして自害した。正則は嘉右衛門の首を家康に送りつけ、関の責任者である昭綱の切腹を要求した。家康は昭綱に命じて嘉右衛門を追い返した家人を処刑させてその首を届けさせたものの、正則は要求を取り下げなかったため、家康は昭綱を切腹させ、その首を差し出すことで解決をみた。 この事件はその後に福島正則が改易される遠因となったともいわれる。.

新しい!!: 徳川家康と伊奈昭綱 · 続きを見る »

伊丹康勝

伊丹 康勝(いたみ やすかつ)は、江戸時代前期の旗本、大名、勘定奉行。甲斐徳美藩の初代藩主。.

新しい!!: 徳川家康と伊丹康勝 · 続きを見る »

伊丹康直

伊丹 康直(いたみ やすなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏、武田氏、徳川氏の家臣。.

新しい!!: 徳川家康と伊丹康直 · 続きを見る »

伊勢国

伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と伊勢国 · 続きを見る »

伊達政宗

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。 幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。.

新しい!!: 徳川家康と伊達政宗 · 続きを見る »

伊豆国

伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と伊豆国 · 続きを見る »

伊賀国

伊賀国(いがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と伊賀国 · 続きを見る »

伊賀越え

伊賀越え(いがごえ)は、畿内より東国へ行く際に伊賀国を経由して行くことを指す。.

新しい!!: 徳川家康と伊賀越え · 続きを見る »

伊賀流

伊賀流(いがりゅう)は、伊賀国の地に伝わっていた忍術流派の総称。甲賀流と並んで忍術の中で最も有名な流派の一つである。 根拠地は、現在の三重県伊賀市と名張市にあった。普段は農業や行商をして各地の情報を探る一方、指令が下ると戦場やその後方へ出向き、工作活動に励んだ。.

新しい!!: 徳川家康と伊賀流 · 続きを見る »

伊藤大輔 (映画監督)

伊藤 大輔(いとう だいすけ、1898年10月12日 - 1981年7月19日)は、日本の映画監督、脚本家である。時代劇映画の基礎を作った名監督の一人であり、「時代劇の父」とも呼ばれる。.

新しい!!: 徳川家康と伊藤大輔 (映画監督) · 続きを見る »

伊東一刀斎

伊東 一刀斎(いとう いっとうさい、生没年不詳)は戦国時代から江戸初期にかけての剣客。名字は伊藤とも。江戸時代に隆盛した一刀流剣術の祖であるが、自身が「一刀流」を称したことはなかったという。諱は景久、前名、前原弥五郎。弟子に小野善鬼、古藤田俊直、神子上吉明ら。 英雄かく生まれり 過去世物語 英傑編(リバティ編集部)2006年(平成18年)6月29日発行 ISBN4-87688-549-4。 -->.

新しい!!: 徳川家康と伊東一刀斎 · 続きを見る »

伊東潤

伊東 潤(いとう じゅん、1960年6月24日- )は、日本の歴史小説作家、ノンフィクション作家。神奈川県横浜市生まれ。日本推理作家協会会員。.

新しい!!: 徳川家康と伊東潤 · 続きを見る »

会津

会津(あいづ)は、福島県の西部に当たり、西に越後山脈と東に奥羽山脈に挟まれた日本海側内陸の地域である。福島県は、奥羽山脈と阿武隈高地によって区切られており、西から順に「会津」と「中通り」と「浜通り」の三地域に区分されている。 なお、イントネーションについて、福島県内では、「あいづ」と、いにアクセントを置く。.

新しい!!: 徳川家康と会津 · 続きを見る »

会津征伐

会津征伐(あいづせいばつ)は、慶長5年(1600年)に徳川家康によって行なわれた会津の大名上杉景勝征伐のことである。上杉征伐、会津攻めとも称される。この会津征伐が関ヶ原の戦いの幕開けとなった。.

新しい!!: 徳川家康と会津征伐 · 続きを見る »

伏見城

伏見城(ふしみじょう)は、現在の京都市伏見区桃山地区にあった日本の城。.

新しい!!: 徳川家康と伏見城 · 続きを見る »

伏見城の戦い

伏見城の戦い(ふしみじょうのたたかい)は、1600年8月26日(慶長5年7月18日)から1600年9月8日(8月1日)まで行なわれた関ヶ原の戦いの前哨戦。.

新しい!!: 徳川家康と伏見城の戦い · 続きを見る »

伏見版

伏見版(ふしみばん)とは、江戸時代初頭に、徳川家康の命により、山城伏見の伏見学校の一角に建立された円光寺(現在地は、京都市左京区一乗寺)において開版された木活字版のことである。円光寺版ともいう。 伏見学校は、足利学校第9世の三要元佶を招請して創建したものである。 元佶が出版した書籍は、1599年の『孔子家語』、『六韜』、『三略』が最初である。 1600年には、西笑承兌により、『貞観政要』が出版されている。 1605年には、やはり西笑承兌により、『吾妻鏡』と『周易』が出版されている。 1606年には、元佶によって、武経七書が開版された。この間に刊行された書籍は、8部80冊である。 1612年の、開山である元佶の没後、臨済宗に属する円光寺は、相国寺の境内に移り、その後、寛文年間(1661年 - 1673年)には、愛宕郡修学院村(現在地)に移転している。 「円光寺由緒書」によると、伏見版に使用された木活字は家康から拝領したものとされる。1815年に皆川允が亡父の遺稿集(『淇園文集』)などを出版した折に、活字を拝借し不足を補ったことから新旧二種の活字が現存している。.

新しい!!: 徳川家康と伏見版 · 続きを見る »

弾劾

弾劾(だんがい、Impeachment)とは、身分保障された官職にある者を、義務違反や非行などの事由で、議会の訴追によって罷免し、処罰する手続き。.

新しい!!: 徳川家康と弾劾 · 続きを見る »

張良

円山應擧筆 『張子房圖』 張 良(ちょう りょう、? - 紀元前186年)は、秦末期から前漢初期の政治家・軍師。字は子房。諡は文成。劉邦に仕えて多くの作戦の立案をし、劉邦の覇業を大きく助けた。蕭何・韓信と共に漢の三傑とされる。劉邦より留(現在の江蘇省徐州市沛県の南東)に領地を授かったので留侯とも呼ばれる。子には嗣子の張不疑と少子の張辟彊がいる。.

新しい!!: 徳川家康と張良 · 続きを見る »

弓術

弓術(きゅうじゅつ)は、弓を用いて矢で的を射る技術、武術である。以降は日本古来の武術、弓の中でも長弓に分類される和弓を用いて矢を射る日本の弓術のことを述べ、またこれを指して弓術とする。 日本の弓術は独自の発展を遂げ、ヨーロッパでの短弓を用いる技術体系を元に成立した現代スポーツのアーチェリー等とは全く異なり、日本独特の技法・文化・歴史を持つ。歴史的にはほぼ同義語的に弓術、射術、射芸等とも呼ばれていたが、現在では日本における伝統的な弓射文化を総称して「弓道」と呼称されており、「弓術」とは「弓道」へ改称する以前の古武術との意味合いで使われることが多い。ただし現在でも「弓術」を名乗り古流を厳格に維持する流派や、また古流を維持しながらも「弓道」とする流派・団体も有り、「弓道」「弓術」の境界は必ずしも明確にあるものではなく、思想・技術面から見ても明確に分類できるものではない。本項では、現代武道としての弓道の母体となった日本古来の弓射技術・文化を指して「弓術」とし、明治維新までを中軸とした一部弓道改称時点までの事情を記述する。.

新しい!!: 徳川家康と弓術 · 続きを見る »

位階

位階(いかい)とは、国家の制度に基づく個人の序列の標示である。位(くらい)ともいう。「位階」という語は、基本的には地位、身分の序列、等級といった意味広辞苑 第五版 p.121「位階」である。制度としての「位階」は、元は古代中国の政治行政制度である律令制や、それを継受した国における官僚・官吏の序列の標示(身分制度)である。後には、位階は、長く官職にあった者や特に功績のあった者などに与えられる栄典の一となった。位階を授与することを「位階に叙する」または叙位(じょい)という日本においては平安時代以後、宮中で例年正月5日頃に行われる五位以上の位階を授ける儀式のことも叙位(例の叙位)と言った。。.

新しい!!: 徳川家康と位階 · 続きを見る »

佐久間信盛

佐久間 信盛(さくま のぶもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。平手政秀自害から主君の織田信長による折檻状で織田氏を離れるまでの約30年間、織田氏家臣団の筆頭家老として家中を率いた。佐久間氏の当主。通称は出羽介、右衛門尉。子に信栄・信実。従兄弟に佐久間盛次(佐久間盛政・佐久間安政・柴田勝政・佐久間勝之の父)がいる。.

新しい!!: 徳川家康と佐久間信盛 · 続きを見る »

佐和山城

佐和山城(さわやまじょう)は、中世中期から近世初期にかけて、近江国坂田郡(現・滋賀県彦根市)の佐和山に存在した日本の城(山城)である。現・佐和山城址。 坂田郡および直近の犬上郡のみならず、織豊政権下において畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも重要な拠点であり、16世紀の末には織田信長の配下の丹羽長秀、豊臣秀吉の奉行石田三成が居城とし、関ヶ原の合戦後は井伊家が一時的に入城したことでも知られる。.

新しい!!: 徳川家康と佐和山城 · 続きを見る »

佐々成政

佐々 成政(さっさ なりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。佐々成宗(盛政とも)の子。通称は内蔵助。家紋は棕櫚。馬印は金の三階菅笠。鷹司孝子(本理院・徳川家光正室)の外祖父。.

新しい!!: 徳川家康と佐々成政 · 続きを見る »

佐倉藩

佐倉藩(さくらはん)は、下総国印旛郡佐倉に存在した藩である。藩庁は佐倉城(現在の千葉県佐倉市)。石高はおおむね11万石。.

新しい!!: 徳川家康と佐倉藩 · 続きを見る »

佐竹義宣 (右京大夫)

太田城址 佐竹 義宣(さたけ よしのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。佐竹氏19代当主。出羽久保田藩(秋田藩)の初代藩主。佐竹義重の長男。母は伊達晴宗の娘。伊達政宗は母方の従兄にあたる。.

新しい!!: 徳川家康と佐竹義宣 (右京大夫) · 続きを見る »

佐竹氏

佐竹氏(さたけし)は、日本の氏族のひとつ。日本の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れをくみ、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流。武田氏に代表される甲斐源氏と同族である。通字は「義」。佐竹氏は家紋として定紋の「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)の他に、源氏香(花散里)・笹竜胆・佐竹桐・丸に釘貫・丁子巴・鉄線を加えた七つの家紋を「御当家七ッ御紋」としている。源氏から中近世大名、華族として明確な系譜として現代まで残った中ではもっとも大きな流れの一つである。.

新しい!!: 徳川家康と佐竹氏 · 続きを見る »

佐貫藩

佐貫藩(さぬきはん)は、江戸時代の上総国に存在した藩。藩庁は天羽郡佐貫(現在の千葉県富津市佐貫字城山)の佐貫城に置かれた。 徳川家康の関東入部時に内藤氏が佐貫を与えられて以降、幕府領となった時期を挟みつつ譜代大名が交代して治めた。1710年以降は阿部氏が藩主となり、廃藩置県を迎えている。.

新しい!!: 徳川家康と佐貫藩 · 続きを見る »

佐渡金山

佐渡金山の入り口 佐渡金山のシンボル「道遊の割戸」 佐渡金山(さどきんざん)は、新潟県佐渡市にある金山である。鉱石は主に銀黒(ぎんぐろ)と呼ばれる石英中に輝銀鉱および自然金の微粒子が脈状に存在するものであった。金山遺跡のうち相川鉱山関係遺跡が「佐渡金山遺跡」として国の史跡に指定されている。.

新しい!!: 徳川家康と佐渡金山 · 続きを見る »

彦坂元正

彦坂 元正(ひこさか もとまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士・代官頭。.

新しい!!: 徳川家康と彦坂元正 · 続きを見る »

影武者

影武者(かげむしゃ)は、権力者や武将などが、敵を欺いたり味方を掌握するため、自分とよく似た風貌や服装の人物を身代わりとさせること。また、その身代わりの人物そのものを言う。日本の戦国時代の武将の事例がよく知られるが、古代メソポタミアの身代わり王のように、古今東西を問わず似た事例が見られる。「替え玉」とも言い、英語では、political decoy(英語版)と呼ばれる。.

新しい!!: 徳川家康と影武者 · 続きを見る »

役所広司

役所 広司(やくしょ こうじ、1956年1月1日 - )は、日本の俳優。本名、橋本 広司(はしもと こうじ)。 長崎県諫早市出身。ワイ・ケイ事務所所属。身長179cm。俳優・仲代達矢主宰の無名塾出身。.

新しい!!: 徳川家康と役所広司 · 続きを見る »

作事奉行

作事奉行(さくじぶぎょう)とは、江戸時代に江戸幕府や諸藩に置かれた役職の1つ。.

新しい!!: 徳川家康と作事奉行 · 続きを見る »

当代記

『当代記』(とうだいき)は、寛永年間(1624年〜1644年)頃に成立したとされる史書。編纂者は姫路藩主松平忠明と言われるが不詳。全九巻九冊。太田牛一の『信長公記』を中心に他の記録資料を再編した二次史料である。史籍雑纂第2に収録。.

新しい!!: 徳川家康と当代記 · 続きを見る »

征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

新しい!!: 徳川家康と征夷大将軍 · 続きを見る »

侍女

侍女(じじょ、handmaid)は、王族・貴族または上流階級の婦人に個人的に仕えて雑用や身の回りの世話をする女性である。.

新しい!!: 徳川家康と侍女 · 続きを見る »

侍従

服をまとった侍従(大阪歴史博物館) 侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味するため、この項目ではこれについて解説する。なお、武官による侍従武官や皇太子に付される東宮侍従については、それぞれ項目を参照のこと。.

新しい!!: 徳川家康と侍従 · 続きを見る »

依田康勝

依田 康勝(よだ やすかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。別名の康貞と康真に関しては「貞」と「真」の読み書き間違いの可能性が考えられる。兄の跡を継いで「松平」姓を名乗っていたとも。また、のちには加藤康寛(宗月、加藤四郎兵衛)と名乗ったともされる(後述)。以下の文中ではおおよそ「康勝」として扱う。.

新しい!!: 徳川家康と依田康勝 · 続きを見る »

依田康国

依田 康国(よだ やすくに)は、安土桃山時代の武将。徳川氏の家臣。.

新しい!!: 徳川家康と依田康国 · 続きを見る »

依田信蕃

依田 信蕃(よだ のぶしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏、徳川氏の家臣。.

新しい!!: 徳川家康と依田信蕃 · 続きを見る »

御館の乱

御館の乱(おたてのらん)は、天正6年(1578年)3月13日の上杉謙信急死後、上杉家の家督の後継をめぐって、謙信の養子である上杉景勝(長尾政景の実子)と上杉景虎(北条氏康の実子)との間で起こった越後のお家騒動。景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となり、米沢藩の初代藩主となった。敗北した景虎、景虎に加担した山内上杉家元当主・上杉憲政らは戦死。 御館とは、謙信が関東管領上杉憲政を迎えた時にその居館として建設した関東管領館のことで、春日山城下に設けられ、後に謙信も政庁として使用した。現在の直江津駅近くに当時の御館の跡が御館公園として残っている。.

新しい!!: 徳川家康と御館の乱 · 続きを見る »

御法度

御法度(ごはっと).

新しい!!: 徳川家康と御法度 · 続きを見る »

御所

御所(ごしょ)とは、主に天皇など特に位の高い貴人の邸宅、またはその人を指す、歴史上の称号のひとつ。そのいくつかは現代にも名称を残している。.

新しい!!: 徳川家康と御所 · 続きを見る »

徳川十六神将

徳川十六神将(とくがわじゅうろくしんしょう)は、徳川家康に仕えて江戸幕府の創業に功績を立てた16人の武将を顕彰した呼称。江戸時代には家康と十六神将の姿を描いた図像が東照宮信仰において好まれた。.

新しい!!: 徳川家康と徳川十六神将 · 続きを見る »

徳川吉宗

徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。 徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康は曾祖父に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の血をひく徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍)と呼ばれた。 この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれる。年貢率を引き上げるなど農民を苦しめた上で成り立った改革だったため、百姓一揆の頻発を招いた。また、庶民にも倹約を強いたため、景気は悪化し、文化は停滞した。.

新しい!!: 徳川家康と徳川吉宗 · 続きを見る »

徳川実紀

『徳川実紀』(とくがわじっき)は、19世紀前半に編纂された江戸幕府の公式記録。国史大系に収録されている。徳川実記という表記は誤りである。.

新しい!!: 徳川家康と徳川実紀 · 続きを見る »

徳川家宣

徳川 家宣(とくがわ いえのぶ)は、江戸幕府第6代将軍(在職:1709年 - 1712年)である。 甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相)の長男で、母はお保良の方(長昌院)。正室は近衛基熙の娘・熙子(天英院)。子に徳川家継ほか。第3代将軍・徳川家光の孫に当たる。同母弟に松平清武、その子で甥に松平清方がいる。幼名は虎松。初名は綱豊(つなとよ)。.

新しい!!: 徳川家康と徳川家宣 · 続きを見る »

徳川家康 (1965年の映画)

『徳川家康』(とくがわいえやす)は、東映が製作し、1965年(昭和40年)1月3日に公開された日本の時代劇映画。総天然色、143分。東映京都撮影所作品。家康の出生前から桶狭間の戦いまで描かれている。.

新しい!!: 徳川家康と徳川家康 (1965年の映画) · 続きを見る »

徳川家康 (1988年のテレビドラマ)

『徳川家康』(とくがわいえやす)は、日本の時代劇。TBS大型時代劇スペシャルの第二作として、1988年1月1日にTBS系列で放送された。製作 : 東映 / ''TBS''。.

新しい!!: 徳川家康と徳川家康 (1988年のテレビドラマ) · 続きを見る »

徳川家康 (山岡荘八)

『徳川家康』(とくがわいえやす)は、1950年3月から1967年4月まで北海道新聞・東京新聞・中日新聞・西日本新聞に連載された山岡荘八の歴史小説。ソフトカバー版、講談社文庫版を経て、現在は講談社の山岡荘八歴史文庫(いずれも全26巻)のロングセラーとなっている。.

新しい!!: 徳川家康と徳川家康 (山岡荘八) · 続きを見る »

徳川家康 (NHK大河ドラマ)

『徳川家康』(とくがわいえやす)は、NHKで1983年1月9日から12月18日にかけて放送された大河ドラマ第21作。主人公は徳川家康。.

新しい!!: 徳川家康と徳川家康 (NHK大河ドラマ) · 続きを見る »

徳川家康と三人の女

『徳川家康と三人の女』(とくがわいえやすとさんにんのおんな)は、2008年3月15日にテレビ朝日系で放送された、松平健主演の時代劇テレビドラマ。放送時間は21:00-23:11(JST)。約50年続いた連続時代劇枠終了後、「吉原炎上」、「天と地と」に続く時代劇スペシャルドラマ第3弾になる。視聴率は12.0%(関東地区,ビデオリサーチ調べ) 『三人の女』とは、瀬名(築山御前)、朝日姫、淀の方の3人を指す。.

新しい!!: 徳川家康と徳川家康と三人の女 · 続きを見る »

徳川家康の影武者説

徳川家康の影武者説(とくがわいえやすのかげむしゃせつ)は、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯は通説で考えられているものと異なり、人生のいずれかの段階で別人と入れ替わったという仮説(別人説)。入れ替わった段階をいつと捉えるかによって説の内容は異なるが、いずれの説も史料批判の誤りが多いため、フィクションとしてはともかく、アカデミズムにおいては否定的見解が強い。この項では明治時代の地方官であった村岡素一郎が唱えた桶狭間の戦い直後に入れ替わったという説を主に扱い、その他の説を付記する。.

新しい!!: 徳川家康と徳川家康の影武者説 · 続きを見る »

徳川家康の馬印

徳川家康の馬印(とくがわいえやすのうまじるし)は、徳川家康が、主に戦場や行軍で自分の位置を示したり、味方の士気を鼓舞するため、軍旗のほかに用いた、木や竹などの柄を付けた装飾物のこと。家康は金扇(きんおうぎ、きんせん)の馬印を好んで用いた。.

新しい!!: 徳川家康と徳川家康の馬印 · 続きを見る »

徳川家光

徳川 家光(とくがわ いえみつ)は、江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。2代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。乳母は春日局(福)、乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいる。 15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。.

新しい!!: 徳川家康と徳川家光 · 続きを見る »

徳川家綱

徳川 家綱(とくがわ いえつな)は、江戸幕府の第4代将軍である(在職:慶安4年(1651年) - 延宝8年(1680年))。 父は第3代将軍徳川家光、母は側室のお楽の方(宝樹院)で、竹千代の幼名を与えられ、世子とされた。.

新しい!!: 徳川家康と徳川家綱 · 続きを見る »

徳川将軍家

徳川将軍家の略系図 徳川将軍家(德川將軍家、とくがわしょうぐんけ)は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家(徳川宗家、とくがわそうけ)。明治維新後の1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。.

新しい!!: 徳川家康と徳川将軍家 · 続きを見る »

徳川御三家

徳川御三家(とくがわごさんけ)は、江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた3家のこと。単に御三家(ごさんけ)とも呼ばれる。.

新しい!!: 徳川家康と徳川御三家 · 続きを見る »

徳川忠長

徳川 忠長(とくがわ ただなが)は、江戸時代前期の大名。極位極官が従二位大納言で、領地が主に駿河国だったことから、通称は駿河大納言(するがだいなごん)。徳川家康の孫にあたる。.

新しい!!: 徳川家康と徳川忠長 · 続きを見る »

徳川和子

徳川 和子(とくがわ まさこ・かずこ、慶長12年10月4日(1607年11月23日) - 延宝6年6月15日(1678年8月2日))は、江戸時代前期の女性。徳川秀忠の娘(五女)で、徳川家康の内孫。後水尾天皇の中宮。明正天皇の生母。また女院として東福門院(とうふくもんいん)。.

新しい!!: 徳川家康と徳川和子 · 続きを見る »

徳川光圀

徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。 諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。.

新しい!!: 徳川家康と徳川光圀 · 続きを見る »

徳川四天王

徳川四天王(とくがわしてんのう)は、安土桃山時代から江戸時代初期に、徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人の武将を顕彰した呼称。仏教の四天王に準えている。類似の概念として更に12人を加えた徳川十六神将がある。 本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人は1590年の徳川氏の関東移封から1600年の関ヶ原の戦いまでの時代に徳川氏の家政と関ヶ原の戦いに関わる大名工作・戦後処理に中心となって活躍して幕府の基礎固めに功績があり、特に彼らを指して徳川三人衆もしくは徳川三傑と呼ぶ場合もある。「徳川四天王」の名称はいつから使われたかは定まらない。例えば歴史学者の中村達夫は、「徳川四天王」の名称の使用開始年代は不明とし、「徳川三傑」については『榊原家譜』を出典として1586年9月に使われ始めたとしている。中村によれば、1586年9月に徳川家康の名代として上洛した三名を上方の武将たちが「徳川三傑」と言い出したのが始まりだという。その後、本多・榊原・井伊の三名は翌月、徳川家康上洛に随行して何れも叙位され、これに酒井を加えた四名の「徳川四天王」の名が巷間もてはやされるようになったと上越市文化財審議委員の村山和夫は考えている。 四天王はその後、1589年の家康関東移封時に家康配下の大名としていずれも万石以上となり、徳川家の重臣としての地位を確立する。既に徳川家臣団中、当主一門を除いては最高の官位・官職にあった井伊は家中最高の12万石を与えられて高崎藩を立藩、榊原は関東総奉行兼勘定方支配(後の関東郡代兼勘定奉行)に任じられて館林藩10万石を立藩、本多は年寄(後の老中)に任ぜられて大多喜藩10万石を立藩した。酒井忠次は1588年に既に隠居しており、後継の酒井家次が下総臼井藩を立藩したが、わずか3万7000石という低い待遇を与えられ、他の四天王とは明確に格差が開いていた。これについて国学院大教授の根岸茂夫は、酒井は元々三河譜代筆頭であったが、家康の関東転封時の家臣団統制強化策の一環として、新参の武将を抜擢する方針があり、新しく台頭してきた本多・榊原・井伊の三名が家中で重きをなし、旧支配地の三河では東三河衆の旗頭として古い権力を持っていた酒井は、以前の松平信康自刃事件の責任を取らされて低い禄高に甘んじたとしている。.

新しい!!: 徳川家康と徳川四天王 · 続きを見る »

徳川秀忠

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.

新しい!!: 徳川家康と徳川秀忠 · 続きを見る »

徳川綱吉

徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、江戸幕府の第5代将軍である。.

新しい!!: 徳川家康と徳川綱吉 · 続きを見る »

徳川綱重

徳川 綱重(とくがわ つなしげ)は、甲斐甲府藩主。江戸幕府第3代将軍・徳川家光の三男。母は側室の夏(順性院)、養母は天樹院(千姫)、乳母は松坂局。.

新しい!!: 徳川家康と徳川綱重 · 続きを見る »

徳川美術館

徳川美術館(とくがわびじゅつかん)は、愛知県名古屋市東区徳川町の徳川園内にある、公益財団法人 徳川黎明会が運営する私立美術館。1935年に開設された。収蔵品は駿府御分物(徳川家康の遺品)など尾張徳川家伝来の大名道具や他の大名家の売立てでの購入品、名古屋の豪商らからの寄贈品など。2016年現在で、国宝9件、重要文化財59件を収蔵する。国宝・源氏物語絵巻のほか、西行物語絵巻、豊国祭図屏風、「初音の調度」などの所蔵品で知られる。.

新しい!!: 徳川家康と徳川美術館 · 続きを見る »

徳川義宣

徳川 義宣(とくがわ よしのぶ、1933年12月24日 - 2005年11月23日)は、尾張徳川家第21代当主。美術史家、財団法人徳川黎明会会長、徳川美術館長。養子のため徳川家の直系の血筋ではないが、多数の著作や講演でのアピールで、他の御三家以上に露出度を高めた。徳川家康の遺訓だとされていた「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし」は、家康のものではなく、徳川光圀のものであると確認した。.

新しい!!: 徳川家康と徳川義宣 · 続きを見る »

徳川義直

徳川 義直(とくがわ よしなお)は、江戸時代初期の大名。徳川家康の9男。尾張藩の初代藩主で、尾張徳川家の始祖である。新陰流第4世。.

新しい!!: 徳川家康と徳川義直 · 続きを見る »

徳川頼宣

徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)は、徳川家康の十男で、紀州徳川家の祖。常陸国水戸藩、駿河国駿府藩を経て紀伊国和歌山藩の藩主となった。母は側室の養珠院(お万の方)である。8代将軍徳川吉宗の祖父にあたる。幼名は長福丸、元服に伴い頼将(よりのぶ)と名乗り、元和年中に頼信、さらに頼宣に表記を改める諱の一文字目については徳川家が源氏の末裔であることを示すために、その通字の一つである「頼」の字を用いたものとみられる。。初任官が常陸介であったため、子孫も代々常陸介に任官した。.

新しい!!: 徳川家康と徳川頼宣 · 続きを見る »

徳川頼房

徳川 頼房(とくがわ よりふさ)は、常陸水戸藩の初代藩主。水戸徳川家の祖。徳川家康の十一男。.

新しい!!: 徳川家康と徳川頼房 · 続きを見る »

徳川氏

徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.

新しい!!: 徳川家康と徳川氏 · 続きを見る »

徳川慶喜

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:慶応2年12月5日(1867年1月10日) ‐ 慶応3年12月9日(1868年1月3日))。江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。 徳川将軍の中で、在任中に江戸入城を果たさなかった唯一の将軍であり、また家康を上回って最も長命だった将軍である。 御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務めた。徳川宗家を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任。大政奉還や新政府軍への江戸開城を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。.

新しい!!: 徳川家康と徳川慶喜 · 続きを見る »

後北条氏

後北条氏(ごほうじょうし/ごほうじょううじ、旧字体表記:後北條氏)は、関東の戦国大名の氏族。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる「北条早雲」こと伊勢盛時(1432年/1456年 - 1519年)をその祖とする。正式な名字は「北条(北條)」だが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とは傍系の遠い血縁関係にあるとされるものの直接の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢氏流北条家には「後」を付して「後北条」と呼ぶようになった。また居城のあった相模国小田原の地名から小田原北条氏(おだわら ほうじょうし/おだわら ほうじょううじ)あるいは相模北条氏とも呼ばれる。最大時(氏政)には関八州で240万石の一大版図を支配していた。 通字は「氏(うじ)」。代々の家督は御本城様(ごほんじょうさま)と呼ばれ、「祿壽應穏(禄寿応穏)」と刻銘された「虎の印章」を使用した。これは「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という政治宣言であった。 近代には、初代・早雲(盛時)の素性が伊勢の素浪人と誤認され、下克上を初めて現実のものとして伊豆一国の主となり、そこから戦国大名にまでのし上がったとされていたが、後述のように近年の研究で否定されている。.

新しい!!: 徳川家康と後北条氏 · 続きを見る »

後藤基次

後藤 基次(ごとう もとつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は後藤 又兵衛(ごとう またべえ)。黒田孝高(如水)、黒田長政、豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」、また大坂の陣の講談や軍記物語などで豪傑な英雄として描かれ、「大坂城五人衆」の一人に数えられた。.

新しい!!: 徳川家康と後藤基次 · 続きを見る »

後藤庄三郎

後藤 庄三郎(ごとう しょうざぶろう)は、近世日本の金座の当主、すなわち御金改役に与えられた名称である。初代の後藤庄三郎光次に始まり、以後世襲制の家職となった。.

新しい!!: 徳川家康と後藤庄三郎 · 続きを見る »

後陽成天皇

後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日) - 元和3年8月26日(1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての第107代天皇(在位:天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日))。諱は初め和仁(かずひと)、慶長3年(1598年)12月に周仁(かたひと)と改めた。.

新しい!!: 徳川家康と後陽成天皇 · 続きを見る »

得川氏

得川氏(えがわし、とくがわし)は、平安時代末から鎌倉時代初め頃の上野国の豪族。清和源氏新田氏の一族。新田義重の四男・義季とその子である得川頼有(下野守、下野四郎太郎)を祖とする。新田郡(新田荘)得川郷(現在の群馬県太田市徳川町)を本貫とした。書によっては得河・徳河・徳川とも表記される。 「得川」は本来は「えがわ」と読んでいたが、後に「とくがわ」と読むようになる。同族の世良田氏とは、始祖の義季の名乗りの関係から系譜上の位置づけに諸説ある。.

新しい!!: 徳川家康と得川氏 · 続きを見る »

従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

新しい!!: 徳川家康と従三位 · 続きを見る »

従一位

従一位(じゅいちい)は、日本の位階及び神階の位の一つ。正一位の下に位し、正二位の上位にあたる。.

新しい!!: 徳川家康と従一位 · 続きを見る »

従二位

従二位(じゅにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。正二位の下、正三位の上に位する。.

新しい!!: 徳川家康と従二位 · 続きを見る »

従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

新しい!!: 徳川家康と従五位 · 続きを見る »

従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

新しい!!: 徳川家康と従四位 · 続きを見る »

忍藩

忍藩(おしはん)は、武蔵国埼玉郡に存在した藩の一つ。藩庁は忍城(現在の埼玉県行田市本丸)に置かれた。.

新しい!!: 徳川家康と忍藩 · 続きを見る »

保科正光

保科 正光(ほしな まさみつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。下総多胡藩主、後に信濃高遠藩の初代藩主となる。.

新しい!!: 徳川家康と保科正光 · 続きを見る »

保科正直

保科 正直(ほしな まさなお、天文11年(1542年阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P688)- 慶長6年9月29日(1601年10月24日))は、戦国時代の武将。信濃国衆。甲斐武田氏の家臣で先方衆。後に徳川家康の家臣となる。父は保科正俊。正室は久松俊勝の娘・多劫姫。武田家臣で上野箕輪城代内藤昌月の実兄。子に保科正光、保科正重、保科正貞、北条氏重、栄姫(黒田長政継室)、娘(安部信盛室)、貞松院(小出吉英室)、娘(加藤明成室)、娘(小日向源太左衛門室)など。通称は甚四郎。官職は越前守、弾正忠。法名は天関透公建福寺。.

新しい!!: 徳川家康と保科正直 · 続きを見る »

信寿院

信寿院(しんじゅいん、生年不詳 - 寛永5年7月8日(1628年8月7日))は、徳川家康の側室。名は富子。父は山田氏とされるが、殆どの出自は不明である。.

新しい!!: 徳川家康と信寿院 · 続きを見る »

信仰

信仰(しんこう、英語 faith)とは、.

新しい!!: 徳川家康と信仰 · 続きを見る »

信長包囲網

信長包囲網(のぶながほういもう)とは、戦国時代末期より安土桃山時代初頭にかけて発生した反織田信長連合のことを言う。.

新しい!!: 徳川家康と信長包囲網 · 続きを見る »

信長公記

信長公記/陽明文庫所蔵 『信長公記』(しんちょうこうき / のぶながこうき)は、戦国大名である織田信長の一代記で、戦国時代から安土桃山時代にかけての史料。著者は信長旧臣の太田牛一。原本は江戸時代初期に成立した。 信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛する前までを首巻とし、上洛(永禄11年(1568年))から本能寺の変(天正10年(1582年))まで15年の記録を1年1巻とし、全16巻(16冊)にまとめている。 読みに関しては米沢藩上杉氏旧蔵本である個人蔵十冊本の内題に「しんちやうき」とあることから、音読みで「しんちょうき」と読まれていたと考えられている。また、森銑三は江戸時代にはその人に敬意を表する意味で人名を音読みする習慣があったことを指摘し(有職読み)、同様の事例に『義経記(ぎけいき)』を挙げている。.

新しい!!: 徳川家康と信長公記 · 続きを見る »

信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

新しい!!: 徳川家康と信濃国 · 続きを見る »

応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.

新しい!!: 徳川家康と応仁の乱 · 続きを見る »

土岐定政

土岐 定政(とき さだまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。土岐氏流明智氏の系統であり、祖父頼明の兄で大伯父・頼典を明智光秀の祖父とされる光継と同一人物とする説もある。また明智光秀を伯父(定明の兄)とする説もあり、真偽の程は定かではない。.

新しい!!: 徳川家康と土岐定政 · 続きを見る »

土岐氏

土岐氏(ときし)は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏流摂津源氏系美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた軍事貴族の系統。 南北朝時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務めるとともに室町幕府の侍所頭人として五職家の一角を占め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の3か国の守護大名となった。戦国時代には近江の六角氏、京極氏、越前の朝倉氏・尾張の織田氏・伊勢の北畠氏など周辺大名と争うも、斎藤道三の下克上により没落した。庶流にあたる明智光秀・浅野長政・土岐定政(菅沼藤蔵)らは戦国武将として各地の大名に仕え頭角を現し、江戸時代には浅野家、土岐定政家が大名として存続した。.

新しい!!: 徳川家康と土岐氏 · 続きを見る »

土井利勝

土井 利勝(どい としかつ)は、安土桃山時代の武将・政治家。江戸時代前期の譜代大名であり、江戸幕府の老中・大老である。下総国小見川藩主、同佐倉藩主、同古河藩初代藩主。土井家宗家初代。徳川秀忠政権における老中として、絶大な権勢を誇った『江戸お留守居役の日記』 42ページ。その事績や資料については原念斎が編纂した『賢相野史』に詳しい。.

新しい!!: 徳川家康と土井利勝 · 続きを見る »

土佐国

土佐国(とさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と土佐国 · 続きを見る »

土豪

土豪(どごう)とは、広義には広域を支配する領主や在地の大豪族に対して、特定の「土地の小豪族」を指す。 土豪という用語は、室町・戦国期に頻出する歴史用語であるが、大和朝廷時代の歴史用語として、地方首長である国造層を指す語としても使用されている。 下記は日本、特に中世期の土豪を中心とした説明である。.

新しい!!: 徳川家康と土豪 · 続きを見る »

土浦城

土浦城(つちうらじょう)は、常陸国新治郡(現:茨城県土浦市)にあった日本の城。室町時代に築かれ、江戸時代に段階的に増改築されて形を整えた。幅の広い二重の堀で守る平城である。天守は作られなかった。太鼓櫓門が現存し、東西二か所の櫓が復元されている。土浦は度々水害に遭っているが、その際にも水没することがなく、水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことから亀城(きじょう)の異名を持つ。茨城県指定史跡第1号。.

新しい!!: 徳川家康と土浦城 · 続きを見る »

土方雄久

土方 雄久(ひじかた かつひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。越中布市藩主、のち能登石崎藩主、下総田子藩初代藩主。土方信治(のぶはる)の長男。 主として織田信雄に仕え、その1字を拝領して初め雄良(かつよし)、のち雄久と名乗った。 一説によれば前田利長・前田利政は雄久の従兄弟にあたるとされ、実際に弟の太田長知(ながとも、但馬守)が利長に仕えている。.

新しい!!: 徳川家康と土方雄久 · 続きを見る »

北大路欣也

北大路 欣也(きたおおじ きんや、1943年2月23日 ‐ )は、日本の俳優。本名は淺井 将勝(あさい まさかつ)。京都府京都市出身。身長174cm、血液型A型。事務所はホリプロ・ブッキング・エージェンシー所属。 父は戦前の時代劇から戦後の東映時代劇全盛時代の映画俳優・市川右太衛門。芸名の由来は右太衛門の邸宅が京都市内の北大路に在ったことから、右太衛門が「北大路の御大」と呼ばれていたため。同世代の俳優仲間からは「きんやちゃん」と呼ばれている。 京都市立紫竹小学校、同志社香里中学校から暁星中学校に編入、暁星高等学校を卒業後、早稲田大学第二文学部演劇専修卒業。学位は文学士。.

新しい!!: 徳川家康と北大路欣也 · 続きを見る »

北島正元

北島 正元(きたじま まさもと、1912年8月7日 - 1983年11月1日)は、日本の歴史学者。専門は日本近世史。.

新しい!!: 徳川家康と北島正元 · 続きを見る »

北信地方

■緑系色:南信地方(薄緑:諏訪地域、抹茶色:上伊那地域、黄緑:飯伊地域) 北信地方(ほくしんちほう)とは、長野県の北部を指す。地方中心地は長野市。.

新しい!!: 徳川家康と北信地方 · 続きを見る »

北畠家

北畠家(きたばたけけ、または北畠氏(きたばたけし))は、公家の一つ。村上源氏中院家庶流。武家としての通字は「具(とも)」。 南北朝時代に南朝の忠臣として重きをなし、伊勢国に進出して南北朝合一後も国司として勢力を保ち、公家大名、戦国大名として戦国時代まで命脈を保った「三国司家」『世界大百科事典』。また、大名化しても公家としての意識は持ち続け、伊勢国司家の歴代当主の花押は武家ではなく公家のものであった (三重県HP)。 なお、明治維新後、北畠家の家名は中院流久我家の分家として再興され、男爵に叙されている。.

新しい!!: 徳川家康と北畠家 · 続きを見る »

北条氏康

北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院佐脇栄智「北条氏康」『国史大辞典』吉川弘文館。。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した「北条氏康」『日本人名大辞典』講談社。。.

新しい!!: 徳川家康と北条氏康 · 続きを見る »

北条氏勝

北条 氏勝(ほうじょう うじかつ)は、後北条氏の一族。江戸時代初期の大名。下総国岩富藩初代藩主。北条氏繁の次男。北条綱成の孫で、北条氏舜の弟に当たる。.

新しい!!: 徳川家康と北条氏勝 · 続きを見る »

北条氏照

八王子城付近に建つ北条氏照の墓。墓の左右は北条氏照家臣中山家範とその孫、中山信治の墓。背後の石塔群は氏照の家臣団の墓とされている 北条 氏照(ほうじょう うじてる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。北条氏康の三男。 宗家の虎に呼応し、「如意成就」と刻まれた龍の印章を使用した。.

新しい!!: 徳川家康と北条氏照 · 続きを見る »

北条氏直

北条 氏直(ほうじょう うじなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第5代当主である。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、外交の失敗で豊臣秀吉による小田原征伐を招き、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。.

新しい!!: 徳川家康と北条氏直 · 続きを見る »

北条氏規

北条 氏規(ほうじょう うじのり)は、戦国時代、安土桃山時代の武将。北条氏康の四男で、氏政、氏照、氏邦の同母弟。相模三崎城主、伊豆韮山城城代。妻は北条綱成の娘高源院。.

新しい!!: 徳川家康と北条氏規 · 続きを見る »

北条氏治

北条 氏治(ほうじょう うじはる)は、河内狭山藩の第4代藩主。.

新しい!!: 徳川家康と北条氏治 · 続きを見る »

北条氏政

北条 氏政(ほうじょう うじまさ)は、戦国時代の相模国の戦国大名・武将。後北条氏の第4代当主。父は北条氏康、母は今川氏親の娘・瑞渓院。子に北条氏直など。正室の黄梅院は武田信玄の娘で、武田義信や武田勝頼とは義兄弟にあたる。通称は新九郎で、官位の左京大夫または相模守も同様に称した。号は截流斎。 氏康の後を継いで北条氏の勢力拡大に務め最大版図を築くが、豊臣秀吉が台頭すると小田原征伐を招き、数ヶ月の籠城の末に降伏して切腹し、後北条氏による関東支配は終結した。.

新しい!!: 徳川家康と北条氏政 · 続きを見る »

マウリッツ (オラニエ公)

マウリッツ・ファン・ナッサウ(Maurits van Nassau, 1567年11月13日 - 1625年4月23日)は、オランダ総督、オラニエ公。ウィレム1世の次男で、フィリップス・ウィレムの弟、フレデリック・ヘンドリックの兄。父の死後、スペインとの八十年戦争において中心的な役割を果たした。 死に臨んで、「2プラス2は4である」ということを自己の信条にしたほどの合理主義者であったとされる。また、自らの軍隊に徹底した訓練を行うと共にそのマニュアル化を行った。これがヨーロッパ各国の軍隊に多大な影響を与えたことから、「軍事革命」とも評価される。.

新しい!!: 徳川家康とマウリッツ (オラニエ公) · 続きを見る »

ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件

ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサごうじけん)は、江戸時代初期の1608年から1610年に起きた、ポルトガル貿易船の爆沈事件。マードレ・デ・デウス号 (Madre de Deus) 事件とも呼ばれるが、ポルトガルの原史料における船名は「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号 (Nossa Senhora da Graça)」である。.

新しい!!: 徳川家康とノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件 · 続きを見る »

ポルトガル

ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく、República Portuguesa、República Pertuesa)、通称ポルトガルは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家である。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島とマデイラ諸島を領有している。首都はリスボン。 ポルトガルはユーラシア大陸最西端の国家である。ヨーロッパで最初に海路で中国や日本など東アジアとの接触を持った。.

新しい!!: 徳川家康とポルトガル · 続きを見る »

ポータブルトイレ

ポータブルトイレとは、トイレが無いところで便意や尿意を催した時に使用する小型の便器(トイレ)。道路における交通渋滞や登山、災害時などに使用したり、怪我や病気で移動が困難な人が用便などする場合などにも使用する。携帯トイレ(けいたい-)とも言う。また災害時の緊急用の設備にも、簡単に組み立てて設置できるタイプのものが見られる。 防災用の簡易トイレ(組み立て式)テント式の個室と、ダンボール製の組み立て式便器からなり、大小双方に対応する。適時凝固剤を投入して、汚物を固形化して処分できる。なおテント内は臭気がこもらないよう、側面にメッシュの通気窓がある。.

新しい!!: 徳川家康とポータブルトイレ · 続きを見る »

メノウ

メノウ(瑪瑙、碼碯、、アゲート、アゲット)は、縞状の玉髄の一種で、オパール(蛋白石)、石英、玉髄が、火成岩あるいは堆積岩の空洞中に層状に沈殿してできた、鉱物の変種である。.

新しい!!: 徳川家康とメノウ · 続きを見る »

メキシコ

メキシコ合衆国(メキシコがっしゅうこく、)、通称メキシコは、北アメリカ南部に位置する連邦共和制国家。北にアメリカ合衆国と南東にグアテマラ、ベリーズと国境を接し、西は太平洋、東はメキシコ湾とカリブ海に面する。首都はメキシコシティ。メキシコの総人口は約1億3千万人(2016年時点)で、スペイン語圏においては最も人口の多い国で、GDPは中南米2位である。しかし、人口の40%が貧困層である。.

新しい!!: 徳川家康とメキシコ · 続きを見る »

ヤン・ヨーステン

ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン(Jan Joosten van Lodensteyn (Lodensteijn), 1556年? - 1623年)は、オランダの航海士、朱印船貿易家。日本名は耶楊子(やようす)。 教科書などで知られている「ヤン・ヨーステン」は名で、姓は「ファン・ローデンステイン」である。.

新しい!!: 徳川家康とヤン・ヨーステン · 続きを見る »

ユリウス暦

ユリウス暦(ユリウスれき、、、)は、共和政ローマの最高神祇官・独裁官・執政官ガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日から実施された、1年を365.25日とする太陽暦である。もともとは共和政ローマおよび帝政ローマの暦であるが、キリスト教の多くの宗派が採用し、西ローマ帝国滅亡後もヨーロッパを中心に広く使用された。 ローマ教皇グレゴリウス13世が1582年、ユリウス暦に換えて、太陽年との誤差を修正したグレゴリオ暦を制定・実施したが、今でもグレゴリオ暦を採用せずユリウス暦を使用している教会・地域が存在する。グレゴリオ暦を導入した地域では、これを新暦(ラテン語: Ornatus)と呼び、対比してユリウス暦を旧暦と呼ぶことがある。 なお、天文学などで日数計算に用いられるユリウス通日があるが、これはユリウス暦とは全く異なるものである。.

新しい!!: 徳川家康とユリウス暦 · 続きを見る »

リーフデ号

リーフデ号(リーフデごう、)は、慶長5年3月16日(1600年4月19日)に、豊後国(現大分県)に漂着したオランダの商船。300トン。船長はクワッケルナック。漂着地は臼杵湾の黒島ともされるが、豊後国のどの地点かは不明。.

新しい!!: 徳川家康とリーフデ号 · 続きを見る »

ルイス・フロイス

ルイス・フロイス( 、1532年 - 1597年7月8日(慶長2年5月24日))は、ポルトガルのカトリック司祭、宣教師。イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記したことで有名。.

新しい!!: 徳川家康とルイス・フロイス · 続きを見る »

ルイス・ソテロ

ルイス・ソテロ(Luis Sotelo, 1574年9月6日 - 1624年8月25日)は、スペイン帝国セビリア生まれのフランシスコ会宣教師である。.

新しい!!: 徳川家康とルイス・ソテロ · 続きを見る »

ロドリゴ・デ・ビベロ

ドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルサ(、1564年 - 1636年)は、エスパーニャ貴族、植民地政治家。江戸時代初期に日本を訪れた人物でもあり、日本ではドン・ロドリゴ()の呼び名で知られる。 村上直次郎訳『ドン・ロドリゴ日本見聞録』をはじめ、『国史大辞典』や『世界大百科事典』など、姓をビベロ・イ・ベラスコとする文献が多いが、これは父親のロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコ()との混同によるもので、誤りである。.

新しい!!: 徳川家康とロドリゴ・デ・ビベロ · 続きを見る »

ヌエバ・エスパーニャ

ヌエバ・エスパーニャ副王領(ヌエバ・エスパーニャふくおうりょう、)は、1519年から1821年までの、北アメリカ大陸、カリブ海、太平洋、アジアにおけるスペイン帝国の副王領を指す名称。スペイン語で「新スペイン」という意味。 江戸時代の日本では、「ノビスパン(濃毘数般)」、「新イスパニア(新意斯巴尼亜)」などと呼ばれた。.

新しい!!: 徳川家康とヌエバ・エスパーニャ · 続きを見る »

テレビ朝日

株式会社テレビ朝日(テレビあさひ、英称:)は、関東広域圏を放送対象地域としてテレビジョン放送を行う特定地上基幹放送事業者である(地上アナログテレビジョン放送の放送区域には、本来は沖縄県の放送対象地域である大東諸島が含まれていた)。また、スカパー!をプラットフォームとしてテレ朝チャンネルの2つのチャンネルの放送を行う衛星一般放送事業者でもある。 2014年4月1日、株式会社テレビ朝日(旧会社)は「株式会社テレビ朝日ホールディングス」へ商号変更、同時に地上波テレビジョン放送免許を含む現業全てを2013年10月15日に設立した完全子会社「テレビ朝日分割準備株式会社」に承継し「株式会社テレビ朝日(現行会社)」に商号変更、放送持株会社体制に移行した。本項では2014年3月31日までの旧会社と2014年4月1日以降の現行会社について述べる。.

新しい!!: 徳川家康とテレビ朝日 · 続きを見る »

フロイス日本史

『フロイス日本史』(フロイスにほんし)、正式には『日本史』(にほんし、)は、戦国時代末期の日本でキリスト教の布教活動を行ったイエズス会宣教師ルイス・フロイスによる編年体歴史書。.

新しい!!: 徳川家康とフロイス日本史 · 続きを見る »

フェリペ3世 (スペイン王)

フェリペ3世(Felipe III, 1578年4月14日 - 1621年3月31日)は、スペイン、ナポリ・シチリア、ポルトガルの王(在位:1598年 - 1621年)。フェリペ2世と最後の妻である神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の娘アナとの間に生まれた末子である。ポルトガル王としてはフィリペ2世。.

新しい!!: 徳川家康とフェリペ3世 (スペイン王) · 続きを見る »

ドン・ロドリゴ日本見聞録

『ドン・ロドリゴ日本見聞録』(-にほんけんぶんろく)とは、スペインのフィリピン臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロが執筆した書物。江戸時代初期に遭難して日本に漂着した際の見聞をまとめたものである。.

新しい!!: 徳川家康とドン・ロドリゴ日本見聞録 · 続きを見る »

初花

初花(はつはな)は、楢柴肩衝・新田肩衝と並んで天下三肩衝と呼ばれた茶器の一。一般的には初花肩衝と呼ばれる。徳川将軍家伝来の陶製茶入である。古来「大名物」として名高い茶入で、中国の南宋または元時代の作と推定され、戦国時代に日本に渡来した。初花という命名は室町幕府8代将軍・足利義政とされ、その形状釉色が優美婉麗で春の先駆けする初番の名花に似るためだという。 重要文化財指定名称は、唐物肩衝茶入 銘初花(からものかたつきちゃいれ めいはつはな)で、現在は東京の徳川記念財団が所蔵している。.

新しい!!: 徳川家康と初花 · 続きを見る »

初陣

初陣(ういじん)は日本における武士階級の子弟が初めて戦闘行為に参加することをいう。 初陣の年齢は個人差があるが多くの場合、元服前後の10代前半が多く、親は子供の将来の安寧を願い必ず勝てる戦いに参加させる傾向があった。例外的に遅い例としては毛利元就の20歳、長宗我部元親の22歳などがある。 現代では転じて、武士以外の軍人・兵士などが初めて戦闘に参加することや、選手やチームが初めて挑むスポーツなどの試合・競技、未経験の事柄に臨むこと全般を指して使われることもある。.

新しい!!: 徳川家康と初陣 · 続きを見る »

別当

別当(べっとう)は、本来、律令制において本官を持つ者が他の官司の職務全体を統括・監督する地位に就いた時に補任される地位。後に官司の長官一般を指すようになり、このことから転じて、以下のような複数の意味を持つ。.

新しい!!: 徳川家康と別当 · 続きを見る »

切腹

切腹(せっぷく)は、自分の腹部を短刀で切り裂いて死ぬ自殺の一方法。腹切り(はらきり)・割腹(かっぷく)・屠腹(とふく)ともいう。主に武士などが行った日本独特の習俗。 外国でも日本の風習としてよく知られ、hara-kiriやseppukuとして辞書に載っている。.

新しい!!: 徳川家康と切腹 · 続きを見る »

喜連川氏

喜連川氏(きつれがわし)は、足利氏の後裔。足利尊氏の次男で室町将軍代理家だった鎌倉公方の足利基氏を祖とする。その鎌倉公方から敵対独立した小弓公方系足利氏が直接の先祖にあたる。豊臣秀吉から下野国喜連川(現・栃木県さくら市)に所領を扶持された際に、喜連川を苗字としたのが興りである。 喜連川藩藩主家として、江戸時代を生き抜き、5千石の旗本交代寄合ではあるが、10万石格の大名としての格式を与えられていた。明治維新をへて華族令で子爵の爵位を授けられた。。.

新しい!!: 徳川家康と喜連川氏 · 続きを見る »

周(しゅう、、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる。.

新しい!!: 徳川家康と周 · 続きを見る »

周公旦

周公旦(しゅうこう たん)は、中国周王朝の政治家。姓は姫、諱は旦。魯の初代の公である伯禽の父。呂尚(太公望)や召公奭と並ぶ、周建国の功臣の一人である。.

新しい!!: 徳川家康と周公旦 · 続きを見る »

呪い

呪い(のろい)とは、人または霊が、物理的手段によらず精神的あるいは霊的な手段で、悪意をもって他の人や社会全般に対し災厄や不幸をもたらせしめようとする行為をいう。 特に人が人を呪い殺すために行うものは、古来日本では呪詛(じゅそ/ずそ/しゅそ)、あるいは調伏(ちょうぶく/じょうぶく)と言われることもあった。.

新しい!!: 徳川家康と呪い · 続きを見る »

呂尚

呂尚(りょ しょう)は、紀元前11世紀ごろの古代中国・周の軍師、後に斉の始祖。 姓は姜、氏は呂、字は子牙劉, 尹『文明の原点』、148頁もしくは牙叢『中国五千年の物語』1巻、156-159頁、諱は尚とされる貝塚「呂尚」『アジア歴史事典』9巻、313頁。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれる貝塚茂樹は『詩経』大明編より、字を尚父とし、尚は「尚父」の略称だと指摘している。(貝塚「呂尚」『アジア歴史事典』9巻、313頁)。謚は太公。斉太公、姜太公の名でも呼ばれる。一般には太公望(たいこうぼう)という呼び名で知られ、釣りをしていた逸話から、日本ではしばしば釣り師の代名詞として使われる。.

新しい!!: 徳川家康と呂尚 · 続きを見る »

和剤局方

『和剤局方』(わざいきょくほう、)は、大観年間(1107年 - 1110年)に国家機関の関与のもと中国にて発行された医薬品の処方集の名称。 その後の増補版である1151年発行の『太平恵民和剤局方』(たいへいけいみんわざいきょくほう、)を指す場合もある。.

新しい!!: 徳川家康と和剤局方 · 続きを見る »

和製大砲

和製大砲(わせいたいほう)は、江戸時代初期より日本で製造された青銅製前装式の大砲の、後世においての呼称である。.

新しい!!: 徳川家康と和製大砲 · 続きを見る »

和賀・稗貫一揆

和賀・稗貫一揆(わが・ひえぬきいっき)は、天正18年(1590年)、奥州仕置に反発した陸奥国の国人領主が仕置軍に対して起こした反乱のことである。慶長の和賀氏の一揆については「岩崎一揆」を参照とのこと。.

新しい!!: 徳川家康と和賀・稗貫一揆 · 続きを見る »

和暦

和暦(われき)は、元号とそれに続く年数によって年を表現する、日本独自の紀年法である。邦暦(ほうれき)とも。 この手法自体は東アジアで広く行われてきたが、日本独自の元号を用いているため日本固有の紀年法となる。飛鳥時代の孝徳天皇によって西暦645年に制定された「大化」がその始まりであり、以来15世紀に亘って使われ続けてきている。 たとえば、西暦2000年は平成12年に当たる。 また暦法について、明治改暦(明治6年/西暦1873年)で天保暦に代えてグレゴリオ暦を採用して以降は、月日についてはグレゴリオ暦と一致している。.

新しい!!: 徳川家康と和暦 · 続きを見る »

和泉国

和泉国(いずみのくに/いづみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

新しい!!: 徳川家康と和泉国 · 続きを見る »

アマダイ

アマダイ(甘鯛、尼鯛)は、スズキ目キツネアマダイ科アマダイ属 Branchiostegus に分類される魚の総称。おもにインド太平洋の大陸棚を中心に生息する底生肉食魚である。日本では南日本近海で5種が見られ、このうちアカアマダイ、シロアマダイ、キアマダイの3種が重要な食用種となっている。.

新しい!!: 徳川家康とアマダイ · 続きを見る »

イギリス商館

イギリス商館(イギリスしょうかん)とは、江戸時代初期(1613年-1623年)にイギリス東インド会社が日本の肥前国平戸に設置した商館。 なお、当時はイギリス(グレートブリテン王国)と呼ばれる国家は存在せず、イングランド王国とスコットランド王国の同君連合であったが、便宜上「イギリス」の呼称を用いる。また、当時のイギリスはユリウス暦を用いており、括弧内の日付はユリウス暦/グレゴリオ暦の併記によるものとする。.

新しい!!: 徳川家康とイギリス商館 · 続きを見る »

イギリス東インド会社

ユニオンジャックとなる イギリス東インド会社(イギリスひがしインドがいしゃ、East India Company(EIC))は、アジア貿易を目的に設立された、イギリスの勅許会社である。アジア貿易の独占権を認められ、イングランド銀行から貸付を受けながら、17世紀から19世紀半ばにかけてアジア各地の植民地経営や交易に従事した。 当初は香辛料貿易を主業務としたが、次第にインドに行政組織を構築し、徴税や通貨発行を行い、法律を作成して施行し、軍隊を保有して反乱鎮圧や他国との戦争を行う、インドの植民地統治機関へと変貌していった。セポイの乱(インド大反乱)の後、インドの統治権をイギリス王室に譲渡し、1858年に解散した。.

新しい!!: 徳川家康とイギリス東インド会社 · 続きを見る »

ウィリアム・アダムス

ウィリアム・アダムス(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年5月16日(元和6年4月24日))は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士・水先案内人・貿易家。三浦 按針(みうら あんじん)の日本名でも知られる。.

新しい!!: 徳川家康とウィリアム・アダムス · 続きを見る »

オランダ

ランダ(Nederland 、; Nederlân; Hulanda)は、西ヨーロッパに位置する立憲君主制国家。東はドイツ、南はベルギーおよびルクセンブルクと国境を接し、北と西は北海に面する。ベルギー、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。憲法上の首都はアムステルダム(事実上の首都はデン・ハーグ)。 カリブ海のアルバ、キュラソー、シント・マールテンと共にオランダ王国を構成している。他、カリブ海に海外特別自治領としてボネール島、シント・ユースタティウス島、サバ島(BES諸島)がある。.

新しい!!: 徳川家康とオランダ · 続きを見る »

オランダ商館

ランダ商館(オランダしょうかん)は、オランダ東インド会社によって設けられた貿易の拠点。.

新しい!!: 徳川家康とオランダ商館 · 続きを見る »

オランダ総督

ランダ総督(オランダそうとく、stadhouder, stadtholder)は、広義には16世紀から18世紀にかけてのネーデルラント連邦共和国(オランダ王国の前身)における各州の首長。狭義にはその中でも特に有力で、ゼーラント州など他の州の総督も兼ね、事実上の世襲君主として君臨したホラント州の総督を指す。 ただしこのstadtholderの訳語に、植民地の長官を意味するgovernorの訳語としてすでに定着している「総督」を充てるのは、意味上の混乱を招きやすく不都合なため、今日ではオランダ総督に代えてオランダ統領と表現することも見られるようになった。.

新しい!!: 徳川家康とオランダ総督 · 続きを見る »

オランダ東インド会社

historicalオランダ東インド会社の旗 オランダ東インド会社(オランダひがしインドがいしゃ、正式には連合東インド会社、オランダ語: Vereenigde Oostindische Compagnie、略称VOC)は、1602年3月20日にオランダで設立され、世界初の株式会社といわれる。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられた勅許会社であり、帝国主義の先駆け。アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。 資本金約650万ギルダー、重役会は17人会(Heeren XVII)と呼ばれた。これには同国の銀行のホープ商会も参加した。本社はアムステルダムに設置され、支店の位置づけとなるオランダ商館は、ジャワや長崎出島などに置かれた。18世紀末の1799年12月31日にオランダ政府により解散させられた。 江戸時代の日本では「こんぱんにあ」「こんぱんや」と呼ばれた。.

新しい!!: 徳川家康とオランダ東インド会社 · 続きを見る »

オットセイ

ットセイ(膃肭臍、英:Fur seal)は、鰭脚類アシカ科のうちキタオットセイ属(キタオットセイ)とミナミオットセイ属(ミナミオットセイ)の総称である。 アシカ科にはアシカとオットセイが属する。アシカ亜科・オットセイ亜科に分類されることもあるが、系統的には認められていない。.

新しい!!: 徳川家康とオットセイ · 続きを見る »

キリシタン

リシタン(吉利支丹、Cristão)は、日本の戦国時代から江戸時代、更には明治の初めごろまで使われていた日本語(古語口語)である。.

新しい!!: 徳川家康とキリシタン · 続きを見る »

グネッキ・ソルディ・オルガンティノ

ニェッキ・ソルディ・オルガンティノ(オルガンティーノ・ニェッキ・ソルド/ニェッキ・ソルディ、Organtino Gnecchi‐Soldo/ Gnecchi‐Soldi, 1533年 - 1609年4月22日)は、戦国時代末期の日本で宣教活動を行ったイタリア人宣教師。カトリック司祭。イエズス会員。人柄が良く、日本人が好きだった彼は「宇留岸伴天連(うるがんばてれん)」と多くの日本人から慕われ、30年を京都で過ごす中で織田信長や豊臣秀吉などの時の権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者となった。.

新しい!!: 徳川家康とグネッキ・ソルディ・オルガンティノ · 続きを見る »

グレゴリオ暦

レゴリオ暦(グレゴリオれき、、、)は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。現行太陽暦として世界各国で用いられている。グレゴリオ暦を導入した地域では、ユリウス暦に対比して新暦()と呼ばれる場合もある。紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。 大辞林 第三版、など。、暦法と紀年法とが混同されている。--> グレゴリオ暦の本質は、平年では1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を、365日 + (97/400)日.

新しい!!: 徳川家康とグレゴリオ暦 · 続きを見る »

ゲリラ

リラ(guerrilla)は、ゲリラ戦(遊撃戦)と呼ばれる不正規戦闘を行う民兵またはその組織のことでパルチザンとも呼ばれる。ゲリラ戦とは、予め攻撃する敵を定めず、戦線外において小規模な部隊を運用して、臨機応変に奇襲、待ち伏せ、後方支援の破壊といった、攪乱や攻撃を行う戦法、またはその戦法が用いられた戦闘を指す。 なお日本の警察用語では、上記と異なる定義がなされる。警察庁が発行する警察白書では、施設などを攻撃する対物テロを「ゲリラ」、個人を標的とする対人テロを「テロ」と区分している。もっとも、事件の中にはどちらに該当するか区分付きがたいケース(例:警視庁独身寮爆破事件)もあり、一般国民に対する広報では、「テロ・ゲリラ」と一括して取り扱っている。.

新しい!!: 徳川家康とゲリラ · 続きを見る »

コンパス

ンパス コンパス(蘭: 、英: )は、円を描いたり、線分の長さを移すのに用いる文房具・製図器具である 文部科学省。中心機構で接し自由な角度に開閉できる2本の脚からなる。ぶんまわし(規、ぶん回し)、両脚器(りょうきゃくき)、円規(えんき)ともいう。また、かつて根発子(コンハッス)と宛字されたこともある。 「コンパス」の原語はオランダ語の kompas であるが、これは現代オランダ語で方位磁針のことを示す。近代オランダでは passer と言う。 コンパスは円周を描くために必須の道具ではなく、『支点とそこから等しい距離を維持したまま移動できる状態の筆記具』(例: 輪になった紐とペン、それから針もしくはあるいは棒、画鋲など)があれば代用ができる。 日本の学習指導要領では小学校第3学年で扱い始める。.

新しい!!: 徳川家康とコンパス · 続きを見る »

ジョン・セーリス

ョン・セーリス(John Saris, 1579年か1580年 - 1643年12月11日)は、イギリス船として初めて日本に来航したイギリス東インド会社の貿易船「クローブ号」の指揮官。.

新しい!!: 徳川家康とジョン・セーリス · 続きを見る »

ジェームズ1世 (イングランド王)

ェームズ6世(James VI)およびジェームズ1世(James I)、チャールズ・ジェームズ・ステュアート(Charles James Stuart, 1566年6月19日 - 1625年3月27日)は、スコットランド、イングランド、アイルランドの王。スコットランド王としてはジェームズ6世(在位:1567年7月29日 - 1625年3月27日)であり、イングランド王・アイルランド王としてはジェームズ1世(在位:1603年7月25日 - 1625年3月27日)である。非公式にはグレートブリテン王の称号も用いた。スコットランド女王メアリーと2番目の夫であるダーンリー卿ヘンリー・ステュアートの一人息子である。.

新しい!!: 徳川家康とジェームズ1世 (イングランド王) · 続きを見る »

セバスティアン・ビスカイノ

バスティアン・ビスカイノ(Sebastián Vizcaíno, 1548年 - 1624年)は、スペインの探検家。.

新しい!!: 徳川家康とセバスティアン・ビスカイノ · 続きを見る »

唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

新しい!!: 徳川家康と唐 · 続きを見る »

唐名

唐名(とうめい、とうみょう、からな)は、日本の律令制下の官職名・部署名を、同様の職掌を持つ中国の官称にあてはめたものである。.

新しい!!: 徳川家康と唐名 · 続きを見る »

唐物

唐物(からもの)とは、中世から近世にかけて尊ばれた中国製品の雅称である。狭義には宋、元、明時代の美術作品を指す場合もある。なおこの場合の「唐」は広く中国のことを指し、唐時代に作られたという意味ではない。 また、江戸時代以後「唐物屋」など長崎貿易で扱う舶来品全般を唐物とする場合がある。.

新しい!!: 徳川家康と唐物 · 続きを見る »

唐梅院

唐梅院(とうばいいん、? - 寛永16年7月3日(1639年8月2日))は、戦国時代から江戸時代にかけての女性。松平康親の娘。井伊直政の正室。名は花。.

新しい!!: 徳川家康と唐梅院 · 続きを見る »

円照院

円照院(えんしょういん、慶長2年(1597年) - 寛永20年10月18日(1643年11月29日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。姫路藩主本多忠政の次女。母は松平信康の次女・熊姫。小笠原忠脩正室、後に小倉藩主・小笠原忠真正室。実名は亀姫(かめひめ)。 曽祖父徳川家康の養女となり、松本藩の世嗣・小笠原忠脩に嫁いだが、元和元年(1615年)4月、夫が大坂夏の陣で戦死した。 家康の命により、元和2年(1616年)12月、忠脩の同母弟・忠真に再嫁した。 寛永20年(1643年)に47歳で死去し、浅草海禅寺に葬られた。法名は円照院華陽宗月大姉。.

新しい!!: 徳川家康と円照院 · 続きを見る »

内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.

新しい!!: 徳川家康と内大臣 · 続きを見る »

内藤家長

内藤 家長(ないとう いえなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。字は金一郎。.

新しい!!: 徳川家康と内藤家長 · 続きを見る »

内藤信成

内藤 信成(ないとう のぶなり)は、戦国時代から江戸時代前期の武将、譜代大名。一説に松平広忠の庶子で徳川家康の異母弟とされる。.

新しい!!: 徳川家康と内藤信成 · 続きを見る »

内藤清成

内藤 清成(ないとう きよなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。後の高遠藩内藤家初代。内藤氏は岡崎譜代。.

新しい!!: 徳川家康と内藤清成 · 続きを見る »

内野聖陽

内野 聖陽(うちの せいよう、1968年9月16日 - )は、日本の俳優。神奈川県横浜市出身。身長177cm、血液型AB型。本名読みは「うちの まさあき」で、2013年7月までは芸名としても使われていた。元妻は女優の一路真輝。.

新しい!!: 徳川家康と内野聖陽 · 続きを見る »

出羽国

出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と出羽国 · 続きを見る »

准如

准如(じゅんにょ)は、安土桃山時代から江戸時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第12世宗主。西本願寺住職。諱は光昭。院号は信光院。法印大僧正。父は第11世顕如。母は如春尼(三条公頼の娘・細川晴元の養女)。妻は祇園宝光院の息女、寿光院准勝。兄は真宗大谷派第12代教如、真宗興正派第17世顕尊。第13世良如は次男。.

新しい!!: 徳川家康と准如 · 続きを見る »

八幡山藩

八幡山藩(はちまんやまはん)とは、武蔵国児玉郡八幡山(現在の埼玉県本庄市児玉町八幡山)に存在した藩。居城は雉岡城(竹谷松平家の時代では八幡山城と呼ばれる)。児玉郡北部に所在した本庄藩に対し、八幡山藩は児玉郡南部に所在した。.

新しい!!: 徳川家康と八幡山藩 · 続きを見る »

八味地黄丸

八味地黄丸(はちみじおうがん)とは、漢方薬の一つ。出典は『金匱要略』。別名、八味丸、腎気丸、八味腎気丸ともいう。.

新しい!!: 徳川家康と八味地黄丸 · 続きを見る »

六角義賢

六角 義賢 / 六角 承禎(ろっかく よしかた / ろっかく じょうてい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・守護大名。近江国守護。南近江の戦国大名。六角氏15代当主。観音寺城主。.

新しい!!: 徳川家康と六角義賢 · 続きを見る »

六条河原

六条河原(ろくじょうがわら)は、京都市内を流れる鴨川の河原に存在した刑場。古戦場(六条河原の戦い)。現在の五条通(五条大橋)から正面通(正面橋)の辺り。.

新しい!!: 徳川家康と六条河原 · 続きを見る »

元寇

元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。 特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であった村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 126頁。 主に九州北部が戦場となった。.

新しい!!: 徳川家康と元寇 · 続きを見る »

元亀

元亀(げんき)は、日本の元号の一つ。永禄の後、天正の前。1570年から1573年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義昭。.

新しい!!: 徳川家康と元亀 · 続きを見る »

元和 (日本)

元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.

新しい!!: 徳川家康と元和 (日本) · 続きを見る »

元服

元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。 「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われる。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と言う。民間においては褌親(へこおや・ふんどしおや)の元で、初めてふんどしを付け、性に関する知識を授かる褌祝(ふんどしいわい)と呼ばれる儀式がある。.

新しい!!: 徳川家康と元服 · 続きを見る »

兵糧

兵糧(ひょうろう、兵粮、軍糧とも)とは、戦争時における軍隊の食糧のこと。日本においては主食である米について論じられる事が多く、兵糧米(ひょうろうまい・兵粮米)などとも呼ばれている。米の他にも塩や大豆(馬の食糧(馬糧)としても重要視された)なども含まれている。.

新しい!!: 徳川家康と兵糧 · 続きを見る »

前田利家

前田 利家(まえだ としいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。.

新しい!!: 徳川家康と前田利家 · 続きを見る »

前田利長

前田 利長(まえだ としなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。加賀藩初代藩主。加賀前田家2代。藩祖である前田利家の長男(嫡男)。母は篠原一計の娘のまつ(芳春院)。正室は織田信長の娘の永姫(玉泉院)。初名は利勝、天正17年(1589年)頃に利長と改名する。若年より織田信長・豊臣秀吉旗下の指揮官として転戦した。秀吉死後から江戸幕府成立に至る難局を、苦渋の政治判断により乗り越え、加賀藩の礎を築いた。.

新しい!!: 徳川家康と前田利長 · 続きを見る »

前田氏

前田氏(まえだし)は、日本の氏族の一つ。戦国時代に尾張の前田家が台頭し、江戸時代には大名家となった。通字は「利」(とし)。.

新しい!!: 徳川家康と前田氏 · 続きを見る »

前橋藩

前橋藩(まえばしはん)は、上野国群馬郡厩橋(現在の群馬県前橋市)に置かれた藩。はじめ厩橋藩(うまやばし/まやばし はん)といい、藩庁は厩橋城に置かれた。後に酒井家第5代藩主・酒井忠挙の時代に地名・藩名・城名を一括して前橋・前橋藩・前橋城と改めた。.

新しい!!: 徳川家康と前橋藩 · 続きを見る »

剣術

剣術(けんじゅつ)は、日本における刀剣(日本刀)で戦う武術である。.

新しい!!: 徳川家康と剣術 · 続きを見る »

副将軍

副将軍(ふくしょうぐん)は、日本において大将軍あるいは将軍の次席に位する武官の職である。.

新しい!!: 徳川家康と副将軍 · 続きを見る »

勧修寺光豊

勧修寺 光豊(かじゅうじ みつとよ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての公卿。.

新しい!!: 徳川家康と勧修寺光豊 · 続きを見る »

勅(ちょく)は、皇帝、天皇の命令、または、その命令が書いてある文書。勅が書いてあるものを勅書(ちょくしょ)と言う。なお、秘密裏に行われるものを密勅(みっちょく)という。.

新しい!!: 徳川家康と勅 · 続きを見る »

勅令

勅令(ちょくれい).

新しい!!: 徳川家康と勅令 · 続きを見る »

勅使

勅使(ちょくし)とは、天皇・皇帝・王など国の元首が出す使者のこと。 上皇の使者は院使(いんし)、皇后の使者は皇后宮使(こうごうぐうし)、中宮の使者は中宮使(ちゅうぐうし)、皇太后の使者は皇太后宮使(こうたいごうぐうし)、女院の使者は女院使(にょいんし)と呼ばれる。.

新しい!!: 徳川家康と勅使 · 続きを見る »

囲碁

囲碁(いご)とは、2人で行うボードゲームの一種。交互に盤上に石を置いていき、自分の石で囲んだ領域の広さを争う。単に碁(ご)とも呼ばれる。.

新しい!!: 徳川家康と囲碁 · 続きを見る »

囲碁殿堂

囲碁殿堂(いごでんどう)は、囲碁の普及と発展に貢献した人物を顕彰するために設立された殿堂。 日本棋院が2004年、創立80周年記念事業の一環として、野球殿堂を参考に設立した。 有識者や棋士らで構成する囲碁殿堂表彰委員会によって選考され、2004年5月の第1回では対象が江戸時代の人物に限定された。 殿堂入りした人物は、2004年11月15日に日本棋院内に開館する囲碁殿堂資料館(資料館内の研究室は「大阪商業大学アミューズメント産業研究所東京分室」となっている)に胸像と功績を掲げて顕彰される。.

新しい!!: 徳川家康と囲碁殿堂 · 続きを見る »

国史大辞典

国史大辞典(こくしだいじてん)は、吉川弘文館が明治時代と昭和時代に2度にわたって刊行した日本史の辞典である。.

新しい!!: 徳川家康と国史大辞典 · 続きを見る »

国人

国人(こくじん、くにびと、くにゅうど)とは、広くその国の国民、住民のこと大辞泉(小学館)。 六国史(日本後紀および三代実録)において国衙領の国民または住民を指す言葉として用いられ、越前国人、大和国人、河内国人などが見える日本後紀三代実録。 また、国人領主(こくじんりょうしゅ)は中世の史料において、在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主を指す言葉として用いられ(国人領主制)、国衆(くにしゅう)や在国衆(ざいこくしゅう)とほぼ同義ないし明確な違いは無い。.

新しい!!: 徳川家康と国人 · 続きを見る »

国盗り物語

『国盗り物語』(くにとりものがたり)は、司馬遼太郎の歴史小説。戦国時代、一介の油売りから身を起こし美濃国の国主になった斎藤道三と、隣国の尾張国に生まれ破天荒な政略・軍略で天下布武を押し進めた織田信長を扱った作品である。 『サンデー毎日』誌上で、1963年8月から1966年6月まで連載された。.

新しい!!: 徳川家康と国盗り物語 · 続きを見る »

CAPCOM

*カプコン:日本のゲーム会社。.

新しい!!: 徳川家康とCAPCOM · 続きを見る »

犬山城

山城(いぬやまじょう)は、愛知県犬山市にあった日本の城である。現在は天守のみが現存し、江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひとつである。また天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、松本城、彦根城、松江城)。城跡は「犬山城跡」として、国の史跡に指定されている。.

新しい!!: 徳川家康と犬山城 · 続きを見る »

皆川広照

川 広照(みながわ ひろてる)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。下野皆川城主。下野栃木城主、下野皆川藩主、信濃飯山藩主、常陸府中藩初代藩主。 皆川俊宗の次男。水谷正村は伯父にあたる。処世術に優れ、小勢力ながらも上杉、北条、織田、徳川などのときの権力者を渡り歩き、江戸時代の譜代大名として生き残りに成功した。 山上宗二が関東へ下っていた際に秘伝書である『山上宗二記』を託された1人である事、皆川領内で狂言を催したことから茶道をはじめ、文化的にも造詣が深かった人物と推測される。.

新しい!!: 徳川家康と皆川広照 · 続きを見る »

皆川藩

川藩(みながわはん)は、下野都賀郡皆川(現在の栃木県栃木市皆川城内町)に存在した藩。.

新しい!!: 徳川家康と皆川藩 · 続きを見る »

皇室

皇室(こうしつ)は、天皇および皇族の総称。 狭義には内廷皇族、広義には天皇とその近親である皇族を意味するが、皇族の範囲は時期によって異なる。 近代(明治維新)以降は、天皇と内廷皇族を家族とする内廷と皇太子以外の皇族男子及びその家族で構成される宮家を意味する。 皇室典範第五条に定める、天皇の配偶者である皇后、先代の天皇の未亡人である皇太后、先々代の天皇の未亡人である太皇太后、また、皇太子(皇太孫)、皇太子妃(皇太孫妃)、皇族男子たる親王、王、さらには生まれながらの皇族女子である内親王、女王がある。親王妃、王妃は親王、王の配偶者となることをもって、皇族とされる。戦前(大日本帝国憲法下、日本国憲法施行まで)においては、帝室(ていしつ)とも呼ばれていた。 一般国民の女性は、皇族男子との婚姻により皇族になることができる。また、15歳以上の内親王、王、女王はその意思により、皇太子、皇太孫を除く親王、内親王、王、女王は、その意思によるほかにやむをえない特別の事由があるとき、皇室会議の議決を経て皇族の身分を離脱できる。なお、皇族女子は天皇、皇族以外の者と婚姻したとき皇族の身分を離れる(臣籍降下・臣籍降嫁)。.

新しい!!: 徳川家康と皇室 · 続きを見る »

皇族将軍

皇族将軍(こうぞくしょうぐん).

新しい!!: 徳川家康と皇族将軍 · 続きを見る »

矢作藩

作藩(やはぎはん)は、下総国(現在の千葉県香取市本矢作)に存在した藩。藩庁は大崎城(通称:矢作城、ただし支城の岩ヶ崎城とする説もある)。.

新しい!!: 徳川家康と矢作藩 · 続きを見る »

知立神社

知立神社(ちりゅうじんじゃ/ちりふじんじゃ)は、愛知県知立市西町にある神社。式内社、三河国二宮で、旧社格は県社。 旧称は「池鯉鮒大明神」。江戸時代には「東海道三社」の1つに数えられた。.

新しい!!: 徳川家康と知立神社 · 続きを見る »

知行

知行(ちぎょう)とは、日本の中世・近世において、領主が行使した所領支配権を意味する歴史概念。平安時代から「知行」の語が使用され始め、以降、各時代ごとに「知行」の意味する範囲は微妙に変化していった。日本の歴史上の領主はヨーロッパの農奴制における領主のように無制限に所領の土地と人民を私有財産として所有したのではなく、徴税権・支配権にかかわる一定の権利義務の体系を所持した存在であった。この体系が知行であり、日本史における領主階層のあり方を理解する上で、知行の概念の理解は欠かせない。.

新しい!!: 徳川家康と知行 · 続きを見る »

知恩院

遠景(左三門、右本堂、後方比叡山) 知恩院(ちおんいん)は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然である。 浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。 なお他流で門跡に当たる当主住職を、知恩院では浄土門主(もんす)と呼ぶ。.

新しい!!: 徳川家康と知恩院 · 続きを見る »

石山本願寺

石山本願寺(いしやまほんがんじ)は、戦国時代初期から安土桃山時代にかけて、摂津国東成郡生玉荘大坂にあった浄土真宗の寺院である。戦国の当時は「大坂本願寺」「大坂城」と呼ばれており、後世「石山本願寺」というようになった。 他の本願寺と比較した際の特徴は、本山・石山本願寺を中心に防御的な濠や土居 - 中世,城郭や屋敷地の周囲に防御のためにめぐらした土塁。(『大辞林』第三版、他。)で囲まれた「寺内町」を有する点である教学研究所 編『教如上人と東本願寺創立』第一部「教如上人とその周辺」第二節「大坂本願寺」P.14。。.

新しい!!: 徳川家康と石山本願寺 · 続きを見る »

石川家成

石川 家成(いしかわ いえなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。徳川氏の家臣。美濃大垣藩の第2代藩主で、徳川家康の母方の従兄、石川数正の叔父に当たる。伊勢亀山藩石川家2代。徳川十六神将の1人に数えられる川口素生『戦国軍師人名事典』P302。.

新しい!!: 徳川家康と石川家成 · 続きを見る »

石川康通

石川 康通(いしかわ やすみち)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。美濃大垣藩初代藩主。伊勢亀山藩石川家初代。石川家成の長男。石川数正は従兄に当たる。.

新しい!!: 徳川家康と石川康通 · 続きを見る »

石川数正

石川 数正(いしかわ かずまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 徳川家康の片腕として酒井忠次と共に活躍したが、小牧・長久手の戦いの後に出奔して豊臣秀吉に臣従した。深志城主10万石となり、信濃松本藩の初代藩主と見なすことが通説となっている。.

新しい!!: 徳川家康と石川数正 · 続きを見る »

石火矢

石火矢(いしびや)とは、室町時代末期に伝来した火砲の一種。元来弩の一種を指した語であったが、同様に火薬を用い、石を弾丸とする「stein buchse」の訳語としてこの名が使われた。フランキ(仏朗機・仏郎機・仏狼機)、ハラカン(破羅漢)、国崩ともいう。 但し、江戸時代では棒火矢(ぼうびや)と呼ばれる矢状の飛翔物を大筒で発射する術が登場するにおよび、それと区別する意味で、単に球状の金属弾を打つ砲を石火矢ということが多いため、江戸時代の記録に「石火矢」とあってもフランキを指すとは限らない。.

新しい!!: 徳川家康と石火矢 · 続きを見る »

石田三成

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。 豊臣政権の奉行として活動し五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。.

新しい!!: 徳川家康と石田三成 · 続きを見る »

石田正澄

石田 正澄(いしだ まさずみ)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣氏の家臣。別名に重成、一氏。通称は木工頭。石田正継の子で、石田三成は実弟。 参議院議員石田昌宏は正澄の子孫を称するが、系譜は不明。.

新しい!!: 徳川家康と石田正澄 · 続きを見る »

石高

石高(こくだか)とは、近世の日本において、土地の生産性を石という単位で表したもの。太閤検地以降、地租改正まで、大名・旗本の収入および知行や軍役等諸役負担の基準とされ、所領の規模は面積ではなく石高で表記された。また農民に対する年貢も石高を元にして徴収された。.

新しい!!: 徳川家康と石高 · 続きを見る »

石鹸

石鹸(石鹼、せっけん、せきけん)とは一般に汚れ落としの洗浄剤を指し、より化学的には高級脂肪酸の塩の総称である。 工業的に動植物の油脂から製造され、特に純石鹸(じゅんせっけん)と呼ぶ場合は、脂肪酸ナトリウムや脂肪酸カリウムだけで、添加物を含まない石鹸を指すが、多くは炭酸塩や香料などの添加物を含む。 界面活性剤であり、油や油を含む汚れを水に分散させる作用により洗浄能力を持つ。また、細菌の細胞膜やウイルスのエンベロープを破壊するため、一部の病原体に対して消毒効果を発揮する。 水を溶媒として溶かして使用するが、水なしで使えるよう工夫されたドライシャンプーが介護や災害時に使われているほか、宇宙ステーションでも使用されている。 マルセイユ石鹸(サヴォン・ド・マルセイユ).

新しい!!: 徳川家康と石鹸 · 続きを見る »

石清水八幡宮

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、京都府八幡市にある神社。旧称は「男山八幡宮」。二十二社(上七社)の1つで、伊勢神宮(三重県伊勢市)とともに二所宗廟の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 宇佐神宮(大分県宇佐市)・筥崎宮(福岡市東区)または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つ。また宮中の四方拝で遥拝される神社の1つである。本殿を含む建造物10棟が国宝に指定されている。.

新しい!!: 徳川家康と石清水八幡宮 · 続きを見る »

玉縄藩

玉縄藩(たまなわはん)は、相模国鎌倉郡玉縄(現在の神奈川県鎌倉市)を中心としていた藩。藩庁は玉縄城に置かれた。甘縄藩とも呼ばれる。.

新しい!!: 徳川家康と玉縄藩 · 続きを見る »

督姫

督姫(良正院)像(東京国立博物館蔵) 督姫(とくひめ、永禄8年11月11日(1565年12月3日)- 慶長20年2月4日(1615年3月3日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の次女。母は家康最初の側室・西郡局(鵜殿長持の娘)。別名は於普宇、富子、播磨御前、良正院。.

新しい!!: 徳川家康と督姫 · 続きを見る »

砲術

術(ほうじゅつ).

新しい!!: 徳川家康と砲術 · 続きを見る »

砂時計

時計 砂時計(すなどけい)は、時計の原理の1つである。 透明な中空の管に入れた砂の落下で経過時間を計る。時刻は計れず、測定開始から一定の時間を計測するタイマーとしてのみ機能する。.

新しい!!: 徳川家康と砂時計 · 続きを見る »

碓氷峠

碓氷峠(うすいとうげ)は、群馬県安中市松井田町坂本と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある日本の峠である。標高は約960メートル (m) 。信濃川水系と利根川水系とを分ける中央分水嶺である。峠の長野県側に降った雨は日本海へ、群馬県側に降った雨は太平洋へ流れる。 古代には碓氷坂(うすひのさか)、宇須比坂、碓日坂などといい、中世には臼井峠、臼居峠とも表記された。近世以降は碓氷峠で統一されている。「碓井峠」「碓水峠」は誤表記。.

新しい!!: 徳川家康と碓氷峠 · 続きを見る »

磐田市

市(いわたし)は、静岡県西部地区の市。旧磐田郡の一部。.

新しい!!: 徳川家康と磐田市 · 続きを見る »

神 (神道)

道における神(かみ)とは、自然現象などの信仰や畏怖の対象である。「八百万の神」(やおよろずのかみ)と言う場合の「八百万」(やおよろず)は、数が多いことの例えである。.

新しい!!: 徳川家康と神 (神道) · 続きを見る »

神君

君(しんくん)は、偉大な君主を称えて呼ぶ名である。これは、「神々の君主」という意味ではなく「神格化された君主」という意味に当たる。 日本の場合、江戸時代は、特に徳川家康を意味したが源頼朝を指すこともあり家康を東照神君、頼朝を鎌倉神君と呼び分けることもある。古代ローマ帝国においては、カエサルやアウグストゥスらが神格化された。中国などでは、歴代の皇帝たちが信仰の対象となった。.

新しい!!: 徳川家康と神君 · 続きを見る »

神階

階(しんかい)または神位(しんい)は、日本において神道の神に授けられた位階。.

新しい!!: 徳川家康と神階 · 続きを見る »

神職

職(しんしょく)とは、神道、神社において神に奉仕し祭儀や社務を行う者のことである。.

新しい!!: 徳川家康と神職 · 続きを見る »

神龍院梵舜

龍院 梵舜(しんりゅういん ぼんしゅん、天文22年(1553年) - 寛永9年11月18日(1632年12月29日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての神道家。吉田兼右の子で吉田兼見の弟。別名を龍玄とも。豊国廟の社僧として有名。徳川家康の葬儀にも携わった。30歳から約半世紀を記した『梵舜日記』を遺したことでも知られる。.

新しい!!: 徳川家康と神龍院梵舜 · 続きを見る »

神格化

格化(しんかくか)とは、天体や自然、何らかの実在、個人、集団といった具体的な対象を神、もしくは神の域にあるものとして扱ったりみなしたりすること。 英語では"divinization"、"deification"、"apotheosis"(アポテオーシス、語源はギリシア語の ἀποθεόων (apotheoun)『キリスト教大事典 改訂新版』33頁、教文館、昭和52年 改訂新版第四版)。日本語ではいずれの単語も「神格化」と訳されるが、キリスト教神学において"apotheosis"は否定される事にもみられるように、語義に若干の差がある。英文において「キリストが人間性を神格化(deification)した」というような記述においては、"apotheosis"は使われない。また"theosis"は別概念である(後述)。 アポテオーシスは芸術における1つのジャンルを指す用語でもあり、個人や集団や場所やモチーフやメロディを特に雄大または称揚した形で扱うことを指す。.

新しい!!: 徳川家康と神格化 · 続きを見る »

神沢杜口

沢杜口(かんざわ とこう、宝永7年(1710年) - 寛政7年2月11日(1795年3月11日))は江戸時代中期の随筆家、歴史家、俳人。通称は与兵衛、諱は貞幹。別号に可々斎、其蜩庵、静坐百六十翁など。京都町奉行所の与力を務めた後、晩年『翁草』200巻を書き上げた。.

新しい!!: 徳川家康と神沢杜口 · 続きを見る »

神戸町

戸町(ごうどちょう)は、岐阜県の南西に位置する町。 バラやアルストロメリア等の花卉、小松菜等の野菜の生産で知られる。現在では大垣市や岐阜市の郊外、あるいは中京圏(大名古屋圏)の端的性格を濃くしており、その意味では「濃尾平野の西北端」という表現が妥当といえる。.

新しい!!: 徳川家康と神戸町 · 続きを見る »

禁中並公家諸法度

禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)は、江戸幕府が、天皇及び公家に対する関係を確立するために定めた制定法。禁中并公家中諸法度、禁中竝公家諸法度、禁中方御条目ともいう。.

新しい!!: 徳川家康と禁中並公家諸法度 · 続きを見る »

禁忌

禁忌(きんき)とは、「してはいけないこと」の意。タブーとしての禁忌には道徳的な含みがあるのに対して、他の用例では、技術的、科学的な根拠によって禁じられている。.

新しい!!: 徳川家康と禁忌 · 続きを見る »

福島正之

福島 正之(ふくしま まさゆき)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。.

新しい!!: 徳川家康と福島正之 · 続きを見る »

福島正則

福島 正則(ふくしま まさのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍、七将の一人。.

新しい!!: 徳川家康と福島正則 · 続きを見る »

福井藩

松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型 福井城(現在は福井県庁) 福井藩(ふくいはん)は、越前国にあって現在の福井県嶺北中心部を治めた藩。藩庁は福井城(福井市)。藩主は越前松平家(福井藩主家)。家格は親藩・御家門で、32万石。越前藩(えちぜんはん)とも呼ばれる。また、北の庄(北ノ荘)という地名が「福井(福居)」と改称される以前の、つまり第3代忠昌以前の結城(松平)秀康・忠直時代を故に北ノ荘藩(きたのしょうはん)と称することがある。.

新しい!!: 徳川家康と福井藩 · 続きを見る »

秋山虎繁

秋山 虎繁(あきやま とらしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐国武田氏家臣で譜代家老衆。武田信玄・武田勝頼期に活動が見られる。武田二十四将にも数えられる。 諱は『甲斐国志』による「信友(のぶとも)」や、近世の軍記物に拠る「春近(はるちか)」「晴近(はるちか)」「信近(のぶちか)」とする説もあったが、近年は『戦国遺文』『山梨県史』の編纂事業に伴う文書調査によって武田家臣の実名の確定作業が行われ、確実な諱は署判部分の写により「虎繁」であることが指摘されている。「虎」は武田信虎からの偏諱であると考えられている。また、実名の誤伝のうち「晴近」は虎繁の同心である「春近衆」が訛伝したと考えられている。.

新しい!!: 徳川家康と秋山虎繁 · 続きを見る »

秋元泰朝

秋元 泰朝(あきもと やすとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。館林藩秋元家2代。徳川家康の近習出頭人と呼ばれた。.

新しい!!: 徳川家康と秋元泰朝 · 続きを見る »

秋田書店

株式会社秋田書店(あきたしょてん、)は日本の出版社。.

新しい!!: 徳川家康と秋田書店 · 続きを見る »

穴山信君

山 信君(あなやま のぶただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏の家臣で御一門衆の一人。穴山氏7代当主。 壮年期(永禄8年頃)に剃髪して梅雪斎不白と号したので、穴山 梅雪(あなやま ばいせつ)の名でも知られる。後代には武田二十四将の一人に含まれており、南松院所蔵本では信玄の傍らに配置されている。信玄末期より仕え勝頼期にも重臣として仕えたが、織田信長の甲州征伐が始まると武田氏を離反した.

新しい!!: 徳川家康と穴山信君 · 続きを見る »

空城計

城計(くうじょうけい)または空城の計(くうじょうのけい)は兵法三十六計の第三十二計にあたる戦術。 あえて自分の陣地に敵を招き入れることで敵の警戒心を誘う計略のこと。敵方に見破られた場合は全滅の危険性があり、心理戦の一種である。 野戦で敵に敗れた場合、既にして敵軍が圧倒的に優勢な状況であることが多い。その状態で城に逃げ込んでも結局最後には補給を断たれ、降伏することを余儀なくされる。自軍が圧倒的に数が少ない場合、敵軍が攻城戦や包囲戦に移ることを防ぐためには、敵将に自軍の戦闘能力を錯覚させることが重要である。例えば、敵軍に攻め寄せられた際に城門を開け放ち自ら敵を引き入れようとすれば、優秀で用心深い指揮官ほど逆に警戒する。『追うこと百里ならば将を失い、五十里ならば兵の伴ばを失う』とある通り、敵が罠を仕掛け待ち構えているところに入るというのは、全滅もありえるほど危険だからである。 『三国志演義』では蜀の諸葛亮が野戦で魏に敗れた際、蜀軍は魏軍と比べて圧倒的に兵力が少なかった。諸葛亮は一計を案じ、城に引きこもって城内を掃き清め、城門を開け放ち、兵士たちを隠して自らは一人楼台に上って琴を奏でて魏軍を招き入れるかのような仕草をした。魏の司馬懿は諸葛亮の奇策を恐れてあえて兵士に城内に踏み込ませなかったという。 史書においては三国志に付けられた注釈で魏の郭沖が語った故事として前述のモデルとなった諸葛亮が城門を開け放ち司馬懿を退けた話が記録される他、漢中争奪戦の際、蜀の将軍・趙雲が空城計を使って曹操軍を撤退させたのが初である。敵の食糧を奪いに行った黄忠が帰陣の時間を過ぎても戻って来ないので、趙雲は残った少数の部下を率いて黄忠の応援に向かった。ところが黄忠の軍が見つからないうちに突然、趙雲軍は曹操軍の大軍に遭遇したが、無謀にも馬を敵の大軍の中に突入させたところ、驚いた曹操軍は乱れて退却し始めた。暴れ回っていた趙雲は、これを見ると馬の首を反転させるや、今度はまっしぐらに自分の陣に向かって退却した。それを見ていた曹操軍は一斉に追い始め、趙雲の陣近くまで達するも、急に指揮官が馬上から手を上げて、全軍を静止した。不気味にも趙雲の陣の門が開かれ、中が静まりかえっているからだった。指揮官は「おそらく伏兵がいるに違いない」と考え、退却を命じた時、突然後方から石や矢が飛んできた。やはり趙雲軍は陣の外に伏兵を配置しており、曹操軍は散々な目にあって逃げ去って行ったとされている。 北斉の北徐州刺史・祖珽は陳の攻撃を受けた際、城門を開放し、守備兵を降ろして城内を静めさせ、人や鶏・犬の往来を禁じた。陳の軍勢は城内が無人ではないかと考えて備えを設けなかった。祖珽が兵に叫ばせ鼓を響かせたところ、陳の軍勢は驚いて遁走した。 唐代、吐蕃が河西に侵攻し瓜州を陥落させた。瓜州刺史・張守珪が州城を再建しようとした際にもまた吐蕃軍が襲撃してきた。城中に防御の備えはほとんど無く、みな闘志を失っていた。張守珪は「敵は多勢、我々は無勢、被害は甚大で矢石を以て持ち応えることもできない。臨機の手段によるべきである」と言い、城上で将士との宴席を設けた。吐蕃の軍勢は城中に備えがあるのではないかと疑い、敢えて攻めずに去った。 日本では、戦国時代において、徳川家康が窮地を逃れた際の事例がある。1573年、三方ヶ原の戦いで徳川軍は武田信玄率いる武田軍に大敗し、壊滅状態で浜松城に逃げ帰った。武田軍はこれを追撃するが、家康は「あえて大手門を開き、内と外にかがり火をたかせ、太鼓を叩かせた」ところ、それに警戒した武田軍は兵を引き挙げ、浜松城は落城を免れた。これは武田軍の指揮官の山県昌景や馬場信春が、信玄の教えによって中国古来の孫子・六韜・三略などの兵法に通じており、「空城計」(及び関門捉賊や欲擒姑縦)をよく知っていたためであるとされる。.

新しい!!: 徳川家康と空城計 · 続きを見る »

竹阿弥

竹阿弥(ちくあみ)は、戦国時代の人物。太閤豊臣秀吉(藤吉郎)の生母仲(大政所)の再婚相手で、通説では秀吉の継父、小一郎(豊臣秀長)と旭(駿河御前)の実父である。ただし後述するように通説には矛盾点がある。名前は筑阿弥とも書く。.

新しい!!: 徳川家康と竹阿弥 · 続きを見る »

竹腰正信

竹腰 正信(たけのこし まさのぶ、天正19年1月21日(1591年2月14日) - 正保2年4月30日(1645年5月25日))は、江戸時代初期の武将。山城守。尾張藩附家老を務めた竹腰家の祖。美濃国今尾藩初代当主。初代尾張藩主・徳川義直の異父兄。 竹腰正時の長男で、母は志水宗清の娘(お亀の方)。正室は大久保忠隣の養女(孫)の春。子女は、竹腰成方(長男)、竹腰正晴(次男)、竹腰正辰(三男)、石川正光継室。幼名は万丸、小伝次。別名は正次、正徳。 文禄3年(1594年)に実母・お亀の方が徳川家康の側室となり、翌文禄4年(1595年)に仙千代(早世)、慶長5年(1600年)に五郎太丸(後の徳川義直)を生むと、異父兄である正信も召し出されて近仕し、翌年に甲斐国に5,000石を与えられる。家康が大御所となって駿府に移ると本多正純・安藤直次・成瀬正成とともに側近となり、慶長12年(1607年)には成瀬と共に義直の後見に任じられる。尾張に5,000石を加増されて1万石を領し、慶長16年(1611年)には従五位下山城守に叙任されたほか、継嗣のいないまま死去した当時の尾張藩執政・平岩親吉に代わって22歳の若さで執政に任じられ、名古屋城の普請を監督。翌年には将軍・徳川秀忠の御前で砲術の腕前を披露し、褒美として1万石を賜ったほか、元和5年(1619年)には義直から1万石を加増されて都合3万石を領し、美濃の今尾を居所とした。以降、竹腰家は成瀬家とともに、幕末まで尾張藩の附家老を務める家柄となる。.

新しい!!: 徳川家康と竹腰正信 · 続きを見る »

笠谷和比古

谷 和比古(かさや かずひこ、1949年8月15日 - )は、日本の歴史学者。国際日本文化研究センター名誉教授。専攻は日本近世史・武家社会論。博士(文学)(京都大学、1994年)(学位論文「近世武家社会の政治構造」)。.

新しい!!: 徳川家康と笠谷和比古 · 続きを見る »

管領

管領(かんれい)は、以下の役職・地位およびその座にあった者を指す名称。.

新しい!!: 徳川家康と管領 · 続きを見る »

箱根

箱根駒ヶ岳山頂より見た芦ノ湖と箱根峠 芦ノ湖と富士山 広重に描かれた箱根峠 箱根(はこね、古くは「函根」とも)は、静岡県に近い神奈川県南西部の一角、箱根カルデラ近辺の一帯を指す地名。 地図の上では、行政区画としての箱根町におおむね重なる概念である。 古来東海道の要衝であり、「天下の険」と謳われた難所箱根峠のふもとには宿場や関所が置かれた。近代以降は保養地・観光地として発展。各所に湧く温泉や、芦ノ湖、大涌谷、仙石原などがとりわけ有名である。1936年に「富士箱根国立公園」(現・富士箱根伊豆国立公園)に指定されている。.

新しい!!: 徳川家康と箱根 · 続きを見る »

箕輪藩

箕輪藩(みのわはん)は、上野国(現在の群馬県高崎市箕郷町)に存在した藩。藩庁は箕輪城。.

新しい!!: 徳川家康と箕輪藩 · 続きを見る »

篠田達明

達明(しのだ たつあき、1937年10月7日 - )は、日本の作家、医師。医学博士。愛知県心身障害者コロニー名誉総長。 愛知県一宮市生まれ。名古屋大学医学部卒業。心身障害児医療を専門とし医師として愛知県心身障害者コロニー中央病院に勤務、1983年、45歳の時に「にわか産婆・漱石」で歴史文学賞受賞。以後、歴史小説、医事小説、エッセイなどを執筆。荻野久作を描いた「法王庁の避妊法」は飯島早苗により劇化され、自転車キンクリートが上演して話題を呼んだ。.

新しい!!: 徳川家康と篠田達明 · 続きを見る »

築山殿

築山殿(つきやまどの、生年不詳夫の徳川家康と同じ歳とする説。2歳年上とする説や12歳近く年上の1廻り歳上だったとする説がある。 - 天正7年8月29日(1579年9月19日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。徳川家康の正室。名は未詳中村孝也『徳川家康公傳』(東照宮社務所、1965年、91頁)。一般的には築山殿、築山御前(つきやまごぜん)、または駿河御前(するがごぜん)ともいわれる中村孝也『徳川家康公傳』(東照宮社務所、1965年、92頁)。「築山」の由来は岡崎市の地名である。 父は関口親永。 母は今川義元の伯母とも妹ともいわれ、もし妹ならば築山殿は義元の姪に当たる。『井伊年譜』や『系図纂要』『井家粗覧』の系図によると井伊直平の孫娘で、先に今川義元の側室となり、後にその養妹として親永に嫁したという。その場合だと井伊直盛とはいとこ、井伊直虎は従姪に当たる。.

新しい!!: 徳川家康と築山殿 · 続きを見る »

節句

句(せっく)は、中国の陰陽五行説に由来して定着した日本の暦(「暦」も参照)における、伝統的な年中行事を行う季節の節目(ふしめ)となる日。日本の文化・風習。節供(せっく)、古くは節日(せちにち)とも。.

新しい!!: 徳川家康と節句 · 続きを見る »

節約

約(せつやく)あるいは倹約(けんやく)とは、無駄遣いを極力なくするように努めること。 行動科学においては、より長期的な目標を達成するために、抑制して財を取得するその傾向および都合をつけながら既得財を利用することと定義されている。.

新しい!!: 徳川家康と節約 · 続きを見る »

粛清

粛清(しゅくせい)とは、原義では「厳しく取り締まって、不純・不正なものを除き、整え清めること」、または「不正者・反対者などを厳しく取り締まること」。政治的には、政党や政治結社において、理論上あるいは政策上の対立を、一方が他方を組織から排除、追放して政治的に抹殺し組織の純化をはかること。英語ではパージ(purge)、フランス語ではエピュラシオン(Épuration)、ロシア語ではチーストカ(чистка)と呼ばれる。しばしば同音異義語の「粛正」と混同されるが、こちらは「綱紀粛正」などに見られるように、厳しく取り締まって、不正を正すことを意味する。.

新しい!!: 徳川家康と粛清 · 続きを見る »

系図

系図(けいず)は、ある一族の代々の系統を書き表した図表。系譜(けいふ)ともいうが、系譜と言った場合は血縁関係のみならず、学芸の師匠から弟子への師承関係を表した図表をいう場合も多い。特定の家の家督相続の継承の系統(家系)を記した系図は家系図(かけいず)、家譜(かふ)ともいう。.

新しい!!: 徳川家康と系図 · 続きを見る »

納豆

納豆(なっとう)は、大豆を納豆菌によって発酵させた日本の発酵食品。各種が存在するが、現在では一般的に「糸引き納豆」を指す伊藤寛記、 日本釀造協會雜誌 Vol.71 (1976) No.3 P.173-176, 。菓子の一種である甘納豆とは別物である。 骨にカルシウムを与えて強固にするビタミンK2などのビタミン類やミネラル(マグネシウムなど)、食物繊維、腸に良い乳酸菌、蛋白質が含有されている。骨にも良く、免疫力を高める健康食である。長寿国日本の長生きの秘訣として、各国の健康志向の高まりに伴い、国外でも臭いを弱めたものなども含めて人気を博している。.

新しい!!: 徳川家康と納豆 · 続きを見る »

紫衣事件

紫衣事件(しえじけん)は、江戸時代初期における、江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件。江戸時代初期における朝幕関係上、最大の不和確執とみなされる事件。後水尾天皇はこの事件をきっかけに幕府に何の相談もなく譲位を決意したとも考えられており、朝幕関係に深刻な打撃を与える大きな対立だった。.

新しい!!: 徳川家康と紫衣事件 · 続きを見る »

細川忠興

九曜紋 細川 忠興(ほそかわ ただおき)/長岡 忠興(ながおか ただおき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩の初代藩主。肥後細川家初代。 足利氏の支流・細川氏の出身である。正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。 足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人(細川三斎(さんさい))としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。.

新しい!!: 徳川家康と細川忠興 · 続きを見る »

細川高国

細川 高国(ほそかわ たかくに)は、戦国時代の武将、大名。第31代室町幕府管領。摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護。第15代細川京兆家当主。 細川氏一門・野州家の細川政春の子に生まれ、細川氏嫡流(京兆家)当主で管領の細川政元の養子となった。室町幕府第11代将軍足利義高(のちの義澄)より偏諱(「高」の字)を与えられ、高国と名乗った。弟に晴国(高国の実子とも)、通政(輝政)。実子に稙国ほか、養子に氏綱がいる。 養父政元が暗殺された後の混乱(永正の錯乱)を経て、同じく政元の養子であった阿波守護家出身の細川澄元を結果的に排除し、京兆家の家督を手中にした。澄元とは両細川の乱と呼ばれる抗争を長期にわたって継続したが、管領として幕政の掌握を続けた。ところが、細川氏の権力構造の基礎である「内衆」とよばれる分国の重臣達が、京兆家の抗争に伴って各々対立し大いに疲弊。外様である大内氏を頼ったが、大内勢の帰国後は圧倒的な支持基盤を構築できず、最終的には澄元の嫡男・晴元に敗れて自害に追い込まれた。.

新しい!!: 徳川家康と細川高国 · 続きを見る »

細川氏

細川氏(ほそかわし)は、本姓は源氏、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏の名門足利氏の支流。名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来する。 南北朝時代に足利尊氏に従って発展し、嫡流は室町幕府の管領家に列する有力守護大名となる。また江戸時代には、傍流から肥後熊本藩54万石の藩主家を出した。.

新しい!!: 徳川家康と細川氏 · 続きを見る »

細川政元

細川 政元(ほそかわ まさもと)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、室町幕府守護大名であり、第24、26、27、28代管領。細川氏の第12代当主。丹波・摂津・土佐守護。足利将軍家の在職将軍10代義材を追放して11代義澄を擁立し、政権を掌握。事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ばれた。 室町幕府の三管領(足利一門の斯波、畠山、細川)である細川氏本家・京兆家の生まれ。父は応仁の乱時に東軍を率いた細川勝元。母は勝元の正室・山名熙貴の娘(養父は山名宗全)とされるが、根拠となる史料は無い。修験道に没頭して女性を近づけず独身を貫いたため実子はおらず、政元をもって細川家の嫡流は途絶え、養子に澄之、澄元、高国がいる。 将軍を挿げ替え(明応の政変)、管領として幕政を牛耳り(京兆専制)、比叡山焼き討ちを行ったり畿内周辺にも出兵するなど、細川京兆家の全盛期を築き当時日本での最大勢力に広げたが、3人の養子を迎えたことで家督争いが起こり、自らもその争いに巻き込まれる形で家臣に暗殺された(永正の錯乱)。応仁の乱の混乱以来、実力者政元の登場によって小康状態にあった京・畿内周辺は、その死と澄元・高国両派の争いによって再び長期混迷していくこととなる。.

新しい!!: 徳川家康と細川政元 · 続きを見る »

細川晴元

細川 晴元(ほそかわ はるもと)は、室町時代後期(戦国時代)の武将・戦国大名。.

新しい!!: 徳川家康と細川晴元 · 続きを見る »

紀州藩

紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 和歌山城 紀州藩(きしゅうはん)は、江戸時代に紀伊国一国と伊勢国の南部(現在の和歌山県と三重県南部)を治めた藩。紀伊藩(きいはん)とも呼ばれる。 版籍奉還後に定められた正式名称は和歌山藩(わかやまはん)。藩庁は和歌山城(和歌山県和歌山市)。藩主は紀州徳川家。紀州家は徳川御三家の一つで、石高は55万5千石。紀伊一国37万石のほか、伊勢国内の17万9千石を統括するために松坂城に城代を置いた。その他、大和国に約1千石の所領があった(石高には御附家老の水野家新宮領と安藤家田辺領を含む)。.

新しい!!: 徳川家康と紀州藩 · 続きを見る »

紀州東照宮

鳥居 108段の階段「侍坂」 楼門 参道 弁財天社 紀州東照宮(きしゅうとうしょうぐう)は、和歌山県和歌山市和歌浦に鎮座する神社。江戸幕府初代将軍徳川家康を神格化した東照大権現と紀州藩初代藩主徳川頼宣を神格化した南龍大神を祀る。.

新しい!!: 徳川家康と紀州東照宮 · 続きを見る »

紀伊国

紀伊国(きいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と紀伊国 · 続きを見る »

紀氏

紀氏(きうじ)は、「紀」を氏の名とする氏族。 大和国平群県紀里(現在の奈良県生駒郡平群町上庄付近)を本拠とした古代豪族である。姓は初め臣(おみ)であり、天武天皇13年(684年)八色の姓制定に伴い朝臣へ改姓した。.

新しい!!: 徳川家康と紀氏 · 続きを見る »

継室

継室(けいしつ)は、後妻のこと。 正室と同じく、日本の歴史において身分の高い者が継室となる場合が多い。一般的に誤解されがちだが、寵愛深かった側室が正室の死後(もしくは離婚後)継室として格上げされるという例は、日本の奥方のありようから可能性が低く事例としては少ない。.

新しい!!: 徳川家康と継室 · 続きを見る »

総社藩

総社藩(そうじゃはん)は、上野(現在の群馬県前橋市元総社町、もしくは総社町植野)に存在した藩。.

新しい!!: 徳川家康と総社藩 · 続きを見る »

総構え

江戸城総構え 総構え(そうがまえ)は、城や砦の外郭(がいかく)、またはその囲まれた内部のこと。特に、城のほか城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ、日本の城郭構造をいう。惣構(そうがまえ)、総曲輪(そうぐるわ)、総郭(そうぐるわ)ともいう。.

新しい!!: 徳川家康と総構え · 続きを見る »

織田信広

織田 信広(おだ のぶひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田信秀の子。織田信長の庶兄。.

新しい!!: 徳川家康と織田信広 · 続きを見る »

織田信秀

織田 信秀(おだ のぶひで)は、戦国時代の尾張国の武将、戦国大名。織田信長の父。.

新しい!!: 徳川家康と織田信秀 · 続きを見る »

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

新しい!!: 徳川家康と織田信長 · 続きを見る »

織田信雄

織田 信雄(おだ のぶかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。大和宇陀松山藩の初代藩主。初め伊勢北畠家の第10代当主として具豊(ともとよ)、信意(のぶおき)を名乗り、国司を継いだため御本所と敬称された。法名は常真。.

新しい!!: 徳川家康と織田信雄 · 続きを見る »

織田勝長

織田 勝長(おだ かつなが)は、安土桃山時代の武将。織田信長の五男(もしくは四男)。幼名は御坊丸。「勝長」は『甲陽軍鑑』において見られる名で、史料で確認できる実名は、津田源三郎、織田源三郎信房。「勝長」というのは系図作成者が信長と武田勝頼それぞれの一字をとって創作したものなのかもしれないとされる。法名は林庭宗松。.

新しい!!: 徳川家康と織田勝長 · 続きを見る »

織田秀信

織田 秀信(おだ ひでのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、キリシタン大名。織田信忠の嫡男、織田信長の嫡孫。岐阜城主。官位は正三位中納言で岐阜中納言とも呼ばれた。公卿補任においては本姓で平 秀信(たいら の ひでのぶ)と記載されている。洗礼名はペトロ。.

新しい!!: 徳川家康と織田秀信 · 続きを見る »

織田長孝

織田 長孝(おだ ながたか、生年不詳 - 慶長11年7月5日(1606年8月8日))は、安土桃山時代の武将、江戸時代初期の大名。美濃野村藩の初代藩主。織田長益(有楽斎)の長男で、織田信長の甥に当たる。 正室はいない。子は長則(長男)、長政(次男。織部、加賀藩前田家家臣。人持組席次18番、2600石)、織部(三男。加賀藩の支藩大聖寺藩前田利治に仕え三千石)、村井長光(四男、加賀藩家臣(人持組頭「加賀八家」)村井長次の養子)、娘五人(不破光昌室、岡田善同正室、木村重成室、津田某室、本多景次正室)など4男5女。別名は長一。幼名は赤千代。通称は源二郎。官位は従五位下河内守。.

新しい!!: 徳川家康と織田長孝 · 続きを見る »

織田長益

織田 長益(おだ ながます)は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人。長益系織田家嫡流初代。 織田信秀の十一男で、有楽斎如庵(うらくさいじょあん、有樂齋如庵)と号し、後世では有楽、有楽斎と称される。 千利休に茶道を学び、利休十哲の一人にも数えられる。後には自ら茶道有楽流を創始した。また、京都建仁寺の正伝院を再興し、ここに立てた茶室如庵は現在、国宝に指定されている。.

新しい!!: 徳川家康と織田長益 · 続きを見る »

織田氏

家紋あげはちょう'''揚羽蝶''' 織田氏(おだし)は、日本の氏族・武家。斯波氏の家臣の家柄。家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は嫡流・伊勢守家の「広」、大和守家の「定」、後に近世大名となる弾正忠家の「信」など。.

新しい!!: 徳川家康と織田氏 · 続きを見る »

織田政権

織田政権(おだせいけん)は、織田信長が政権を獲得していた天正元年(1573年)〔実質的には永禄11年(1568年)〕から天正13年(1585年)まで成立していた日本の武家政権である。.

新しい!!: 徳川家康と織田政権 · 続きを見る »

美濃国

美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と美濃国 · 続きを見る »

羽織

羽織 羽織(はおり)は、丈の短い着物の一種 特許庁。防寒・礼装などの目的から、長着・小袖の上にはおって着る。室町時代後期頃から用いられたが、現在のような形が一般的になったのは近世に入ってからである。 動詞「はおる」の連用形が名詞化したものが語源で、羽織は当て字。.

新しい!!: 徳川家康と羽織 · 続きを見る »

真宗大谷派

真宗大谷派(しんしゅうおおたには)は、浄土真宗の宗派の1つで、宗教法人法による宗教法人(包括宗教法人)である『真宗大谷派宗憲 宗教法人法』、p.17。。 阿弥陀如来一佛を本尊とし『真宗大谷派宗憲 宗教法人法』、p.2、親鸞を宗祖とする『真宗大谷派宗憲 宗教法人法』「『宗憲』前文」、p.1。。大谷派の根本道場である「真宗本廟」(通称:東本願寺)を、所属するすべての寺院および教会の本山とする『真宗大谷派宗憲 宗教法人法』、p.4。。2014年12月31日現在の被包括宗教団体数は8,705。「大谷派」・「大派」・「谷派」と略称される。.

新しい!!: 徳川家康と真宗大谷派 · 続きを見る »

真田丸 (NHK大河ドラマ)

『真田丸』(さなだまる)は、2016年1月10日から同年12月18日まで放送されたNHK大河ドラマ第55作。.

新しい!!: 徳川家康と真田丸 (NHK大河ドラマ) · 続きを見る »

真田丸の戦い

真田丸の戦い(さなだまるのたたかい)は、江戸幕府と豊臣家の間の大坂の陣(大坂の役)のうち、慶長19年(1614年)に発生した大坂冬の陣における戦いの一つ。戦闘は真田丸だけでなく、大坂城南側全面で発生した。.

新しい!!: 徳川家康と真田丸の戦い · 続きを見る »

真田幸道

真田 幸道(さなだ ゆきみち)は、信濃松代藩の第3代藩主。.

新しい!!: 徳川家康と真田幸道 · 続きを見る »

真田信之

真田 信之(さなだ のぶゆき)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。信濃上田藩の初代藩主、後に信濃松代藩の初代藩主。.

新しい!!: 徳川家康と真田信之 · 続きを見る »

真田信繁

真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。 豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるなどした。後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。.

新しい!!: 徳川家康と真田信繁 · 続きを見る »

真田昌幸

真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。 甲斐国の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。 軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像として現在でもよく知られ、武田二十四将の一人にも数えられることがある。子に真田信之(上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)ほかがいる。.

新しい!!: 徳川家康と真田昌幸 · 続きを見る »

真言宗

右 真言宗(しんごんしゅう)は、空海(弘法大師)によって9世紀(平安時代)初頭に開かれた、大乗仏教の宗派で日本仏教のひとつ。真言陀羅尼宗(しんごんだらにしゅう) - コトバンク/世界大百科事典、曼荼羅宗(まんだらしゅう)、秘密宗(ひみつしゅう)とも称する。 空海が長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ密教を基盤としている。.

新しい!!: 徳川家康と真言宗 · 続きを見る »

眼鏡

鏡(めがね、メガネ)とは、目の屈折異常を補正したり、目を保護したり、あるいは着飾ったりするために、目の周辺に装着する器具。.

新しい!!: 徳川家康と眼鏡 · 続きを見る »

猿楽

猿楽(さるがく、猿樂)は、平安時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである。.

新しい!!: 徳川家康と猿楽 · 続きを見る »

烏丸光広

烏丸 光広(からすまる みつひろ)は、江戸時代前期の公卿・歌人・能書家。准大臣烏丸光宣の長男。官位は正二位権大納言。細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、歌道の復興に力を注いだ。.

新しい!!: 徳川家康と烏丸光広 · 続きを見る »

結城秀康

結城 秀康(ゆうき ひでやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。越前北ノ庄藩初代藩主。越前松平家宗家初代。.

新しい!!: 徳川家康と結城秀康 · 続きを見る »

結城藩

結城藩(ゆうきはん)は、江戸時代の藩の一つで、下総国結城(現在の茨城県結城市)にある結城城を本拠とした。.

新しい!!: 徳川家康と結城藩 · 続きを見る »

生薬

生薬(しょうやく、きぐすり、Crude Drugs)は、天然に存在する薬効を持つ産物から有効成分を精製することなく体質の改善を目的として用いる薬の総称である。世界各地の伝統医学では多くの生薬が用いられている。 漢方薬は、生薬であるが漢方医学に基づいたものであり同一ではない。日本において、生薬は、医薬品医療機器等法によって医薬品として扱われるものと、食品として扱われるものの2種類に分類される。前者の製剤化されたものは生薬製剤であり、後者は健康食品である。.

新しい!!: 徳川家康と生薬 · 続きを見る »

田原城 (三河国)

原城(たはらじょう)は、三河国渥美郡田原(現在の愛知県田原市田原町巴江)にあった戦国期から江戸期の日本の城。江戸時代には田原藩1万2千石の藩庁であった。.

新しい!!: 徳川家康と田原城 (三河国) · 続きを見る »

田中城

中城(たなかじょう)は静岡県藤枝市田中にあった日本の城。形式は平城。江戸時代には田中藩の藩庁が置かれた。.

新しい!!: 徳川家康と田中城 · 続きを見る »

田中康政

中 康政(たなか やすまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。筑後国初代国主・田中吉政の子。.

新しい!!: 徳川家康と田中康政 · 続きを見る »

田中忠政

中 忠政(たなか ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。筑後の第2代国主。 供養塔が千光寺(久留米市山本町)にある。 また、お位牌が浄土宗 大本山 善導寺(福岡県久留米市善導寺町飯田)に祀られている。.

新しい!!: 徳川家康と田中忠政 · 続きを見る »

田中氏

中(たなか)は、日本の苗字のひとつ。 明治新姓として農民身分が多く名乗ったことから、非常に多くの地域に亘って存在する。 神主による一括姓名拝領式における、「すすきが転じて鈴木」と同様に、「田んぼの仕事してるから田中」、となったことが多数である苗字である。.

新しい!!: 徳川家康と田中氏 · 続きを見る »

甲州征伐

州征伐(こうしゅうせいばつ)は、1582年(天正10年)、織田信長とその同盟者の徳川家康、北条氏政が長篠の戦い以降勢力が衰えた武田勝頼の領地である駿河・信濃・甲斐・上野へ侵攻し、甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦である。武田征伐とも言われる。.

新しい!!: 徳川家康と甲州征伐 · 続きを見る »

甲相同盟

同盟(こうそうどうめい)は、戦国時代の軍事同盟。ともに戦国大名である甲斐・武田氏と相模・北条氏との間で結ばれた同盟。.

新しい!!: 徳川家康と甲相同盟 · 続きを見る »

甲賀流

賀流(こうかりゅう)とは、近江国甲賀の地に伝わっていた忍術流派の総称。山を一つ隔てた場所に存在する伊賀流と並び、最も有名な忍術の一派として知られる。甲賀流伊賀流ともに伝系に関しては仮託の説が多く信用できるものはあまりない。しかし、民家で史料が発見されるなど研究も進み、少なくとも江戸時代には確実に存在したとされている。なお、「甲賀流」という名称の単一の流派は存在せず、あくまで甲賀に伝わる複数の流派があわさって甲賀流と呼ばれているにすぎない。 甲賀は「こうか」と読むが、「こうが」と誤った読み方をされることが多い。.

新しい!!: 徳川家康と甲賀流 · 続きを見る »

甲斐国

斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と甲斐国 · 続きを見る »

町衆

衆(まちしゅう/ちょうしゅう)とは、室町時代から戦国時代にかけての、特に土倉などの京都の裕福な商工業者である。応仁の乱後の京都復興においての重要な階層である。自治と団結を進め、文化を作った。主に法華経を信仰する。その本山が本能寺である。 平安時代の京童などを継承する概念で近世、江戸時代の町人へと継承される。 今日では「まちしゅう」と読まれることが多いが、『節要集』『日葡辞書』などの同時代史料によれば「ちょうしゅう」と発音されていたようである。.

新しい!!: 徳川家康と町衆 · 続きを見る »

牧野康成 (大胡藩主)

牧野 康成(まきの やすなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・譜代大名。徳川氏の家臣、はじめ三河国牛久保城主、のち上野大胡藩主初代藩主。.

新しい!!: 徳川家康と牧野康成 (大胡藩主) · 続きを見る »

牧野省三

牧野 省三(まきの しょうぞう、1878年9月22日 - 1929年7月25日)は、日本の映画監督、映画製作者、脚本家、実業家である。 日本最初の職業的映画監督であり、日本映画の基礎を築いた人物である。「映画の父」と呼ばれたD・W・グリフィスになぞらえて「日本映画の父」と呼ばれた。千本座の経営者から映画製作に乗り出し、300本以上の時代劇映画を製作。尾上松之助とコンビを組み、彼の忍術映画でトリック撮影を駆使した。歌舞伎や講談、立川文庫から題材を求め、「スジ、ヌケ、動作」を三大原則とした映画製作で大衆から支持を得た。その後マキノ・プロダクションを設立し、阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、高木新平、月形龍之介、市川右太衛門といったスター俳優や、監督の衣笠貞之助、二川文太郎、井上金太郎、内田吐夢ら、脚本家の寿々喜多呂九平、山上伊太郎らを育て上げた。.

新しい!!: 徳川家康と牧野省三 · 続きを見る »

物部氏

物部氏(もののべうじ)は、「物部」を氏の名とする氏族。姓(かばね)は、始め物部連、後に物部朝臣。 大和国山辺郡・河内国渋川郡あたりを本拠地とした有力な豪族で、神武天皇よりも前に大和入りをした饒速日命が祖先と伝わる神別氏族。穂積氏や采女氏とは同族の関係にある。饒速日命は登美夜須毘売を妻とし物部氏の初代の宇摩志麻遅命(可美真手命)をもうけた。.

新しい!!: 徳川家康と物部氏 · 続きを見る »

片桐且元

片桐 且元(かたぎり かつもと)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。賤ヶ岳の七本槍の一人。 豊臣家の直参家臣で、豊臣姓を許される。関ヶ原の戦い以降も、傅役として豊臣秀頼に仕えていたが、徳川家康に協力的な立場で、方広寺鐘銘事件で大坂城を退出して徳川方に転じた。且元系片桐家初代で、大和国竜田藩初代藩主となる。弟に同国小泉藩主となった片桐貞隆がいる。.

新しい!!: 徳川家康と片桐且元 · 続きを見る »

牛久保城

牛久保城(うしくぼじょう)は三河国宝飯郡牛久保(はじめ牛窪、後に牛久保に改称、愛知県豊川市牛久保町)にあった日本の城(平城)。.

新しい!!: 徳川家康と牛久保城 · 続きを見る »

狩野探幽

狩野 探幽(かのう たんゆう、慶長7年1月14日(1602年3月7日) - 延宝2年10月7日(1674年11月4日))は、江戸時代初期の狩野派の絵師。狩野孝信の子。法号は探幽斎、諱は守信。早熟の天才肌の絵師、と評されることが多いが、桃山絵画からの流れを引き継ぎつつも、宋元画や雪舟を深く学び、線の肥痩や墨の濃淡を適切に使い分け、画面地の余白をに生かした淡麗瀟洒な画風を切り開き、江戸時代の絵画の基調を作った。.

新しい!!: 徳川家康と狩野探幽 · 続きを見る »

独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)

政宗(どくがんりゅうまさむね)は、NHKが1987年(昭和62年)1月4日から12月13日に放送した大河ドラマ。 NHKの行ったアンケート調査では、最も好きな大河ドラマに輝いている。 原作は山岡荘八の小説『伊達政宗』で、伊達家を題材にした大河ドラマとしては江戸時代の伊達騒動を描いた『樅ノ木は残った』(1970年)以来17年ぶりとなる。己の知恵と才覚によって仙台藩62万石の礎を一代で築いた奥州の戦国武将・伊達政宗の生涯を描いた。.

新しい!!: 徳川家康と独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ) · 続きを見る »

狭山藩

狭山藩(さやまはん)は、河内国に存在した藩。藩主家は外様大名の後北条氏(北條氏)。藩庁として丹南郡池尻村および半田村(現・大阪府大阪狭山市狭山)に狭山陣屋を構えた。.

新しい!!: 徳川家康と狭山藩 · 続きを見る »

直江兼続

江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。米沢藩(主君 上杉景勝)の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 立物は「愛字に端雲の立物」。.

新しい!!: 徳川家康と直江兼続 · 続きを見る »

相模国

模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と相模国 · 続きを見る »

白井藩

白井藩(しろいはん)は、上野国に存在した藩。藩庁は白井城(現在の群馬県渋川市白井)にあった。.

新しい!!: 徳川家康と白井藩 · 続きを見る »

百人一首

人一首のかるた読み札(天智天皇) 百人一首(ひゃくにんいっしゅ、ひゃくにんしゅ)とは、100人の歌人の和歌を、一人一首ずつ選んでつくった秀歌撰(詞華集)。 中でも、藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる小倉百人一首(おぐら-ひゃくにんいっしゅ)は歌がるたとして広く用いられ、通常、百人一首といえば小倉百人一首を指すまでになった。本記事では主に、この小倉百人一首について解説する。.

新しい!!: 徳川家康と百人一首 · 続きを見る »

花井吉成

花井 吉成(はない よしなり、? - 慶長18年8月21日(1613年9月25日))は、江戸時代初期の武将。松平忠輝の家老。通称三九郎、後に松平遠江守の名を許される。室は徳川家康の側室茶阿局の前夫との子於八(忠輝の異父姉)。子に娘(村上忠勝室)、娘(大久保長安六男の大久保権六郎(右京長清)室)、玄芳院(服部仲保後妻)、花井義雄(主水正、よしたけ)、花井義賢(のちに松下に復姓)、花井義房。 三河国東部に松下氏傍流の家に生まれる。若くして徳川家康の近習として仕えた。関東転封(1590年)の直前、家康が遠江の鷹狩で見初めた茶阿には当時3歳になる娘(於八)がおり、これを後に妻とした。慶長8年(1608年)、家康の命により家康と茶阿の子である六男の忠輝が、川中島藩主で海津城(のちの松代城)城主松平忠輝の家臣となる。慶長15年に忠輝は加増され、越後国高田藩主となったが、松代を含む北信四郡もそのまま領したので、吉成が城代を務めた。吉成父子は北国街道の改修や、裾花川の瀬直しおよび犀川より川中島平へ用水路を引き水田開発をするなどの政策を行った。そして、これらの土木事業は領民に感謝され、今でも花井神社として祀られている。.

新しい!!: 徳川家康と花井吉成 · 続きを見る »

花押

花押(かおう、華押)は、署名の代わりに使用される記号・符号をいう。 元々は、文書へ自らの名を普通に自署していたものが、署名者本人と他者とを明確に区別するため、次第に自署が図案化・文様化していき、特殊な形状を持つ花押が生まれた。花押は、主に東アジアの漢字文化圏に見られる。中国の斉(5世紀ごろ)において発生したと考えられており、日本では平安時代中期(10世紀ごろ)から使用され始め、判(はん)、書判(かきはん)などとも呼ばれ、江戸時代まで盛んに用いられた。世界各地においても、花押の類例(イスラム圏でのトゥグラなど)が見られる。.

新しい!!: 徳川家康と花押 · 続きを見る »

芳春院

芳春院(ほうしゅんいん、天文16年7月9日(1547年7月25日) - 元和3年7月16日(1617年8月17日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。加賀国(石川県)の戦国大名・前田利家の正室。名はまつ。篠原一計の子。戒名は芳春院殿花巖宗富大禅宗定尼。母が利家の母の姉であるため、利家とは従兄妹関係にあたる。学問や武芸に通じた女性であった。.

新しい!!: 徳川家康と芳春院 · 続きを見る »

韓信

韓 信(かん しん)は、中国秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた。張良・蕭何と共に漢の三傑の一人。 なお、同時代に戦国時代の韓の王族出身の、同じく韓信という名の人物がおり、劉邦によって韓王に封じられているが、こちらは韓王信と呼んで区別される。.

新しい!!: 徳川家康と韓信 · 続きを見る »

蟄居

蟄居(ちっきょ)とは、中世から近世(特に江戸時代)武士または公家に対して科せられた刑罰のひとつで、閉門の上、自宅の一室に謹慎させるもの。 幕府や領主などから命じられて行う場合と、命じられる前などに自発的に自宅で謹慎する場合もあった。江戸時代には蟄居・蟄居隠居・永蟄居(解除なし)などに分けられていた。また、減封などが付加される場合もあった。.

新しい!!: 徳川家康と蟄居 · 続きを見る »

鎌倉市

鎌倉大仏(高徳院) 建長寺 鎌倉宮(大塔宮) 荏柄天神社 鎌倉市(かまくらし)は、神奈川県、三浦半島西側の付け根に位置し、鎌倉を中心部とする市である。.

新しい!!: 徳川家康と鎌倉市 · 続きを見る »

鎌倉府

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉府管轄国 浄妙寺〈鎌倉市〉) 鎌倉府(かまくらふ)は、室町時代(南北朝時代)に、室町幕府が関東10か国を統治するために設置した機関である。長官の鎌倉公方は足利基氏とその子孫、それを補佐する関東管領は上杉氏が世襲した。.

新しい!!: 徳川家康と鎌倉府 · 続きを見る »

鎖国

鎖国(さこく)とは、江戸幕府が、キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航、及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策であり、ならびに、そこから生まれた日本の孤立状態及び、日本を中心とした経済圏を指す。幕末に「開国」を主導した井伊直弼は、「鎖国」のことを閉洋之御法とも呼んでおり、籠城と同じようなものだと見做していた『』 P.183 小林庄次郎 1915年。 対外関係は朝鮮王朝(朝鮮国)及び琉球王国との「通信」(正規の外交)、中国(明朝と清朝)当初は倭寇対策として「海禁」政策を採る明・清政府の正式な交流許可はなく、福建省をはじめとする南方中国の商人の私貿易であった。1684年に康煕帝により海禁が解除された後は寧波商人の貿易船が日本との交易を行うようになる。及びオランダネーデルラント連邦共和国、但し国際法上その独立をヨーロッパ諸国に承認されたのは、1648年のヴェストファーレン条約においてであった。さらにフランス革命戦争で本国がフランスに占拠され、1795年その衛星国バタヴィア共和国となり、併合を経て再独立したのは1815年であった。(オランダ東インド会社本国がバタヴィア共和国となっても、アメリカ合衆国の商船を雇用し、オランダの国旗を掲げて通商を行なっていた。なお、東インド会社自体は1799年に解散させられている)との間の通商関係に限定されていた。鎖国というとオランダとの貿易が取り上げられるが、実際には幕府が認めていたオランダとの貿易額は中国の半分であった。 一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼ぶ。しかし、「鎖国」という用語が広く使われるようになったのは明治以降で、近年では制度としての「鎖国」はなかったとする見方が主流である。 なお海外との交流・貿易を制限する政策は江戸時代の日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東北アジア諸国でも「海禁政策」が採られていた清は1684年に海禁を解いているが、その後も長崎貿易に類似した管理貿易制度を維持した(広東システム)。。.

新しい!!: 徳川家康と鎖国 · 続きを見る »

聚楽第

聚楽第(じゅらくてい、じゅらくだい)は、安土桃山時代、豊臣秀吉が「内野(うちの)」(平安京大内裏跡、現在の京都市上京区)に建てた政庁・邸宅・城郭。竣工後8年で取り壊されたため、不明な点が多い。.

新しい!!: 徳川家康と聚楽第 · 続きを見る »

遠山直景 (左衛門大夫)

遠山 直景(とおやま なおかげ、生年不詳 - 天正15年(1587年)?)は、安土桃山時代の武将。後北条氏(以降、北条氏と略す)の家臣。遠山政景の子。氏政、氏直の二代に仕える。左衛門大夫。右衛門大夫とも伝わる。子に乙松、直勝、景吉。.

新しい!!: 徳川家康と遠山直景 (左衛門大夫) · 続きを見る »

遠江国

遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と遠江国 · 続きを見る »

遺産

遺産(いさん)とは、.

新しい!!: 徳川家康と遺産 · 続きを見る »

鍋島勝茂

鍋島 勝茂(なべしま かつしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。肥前国佐賀藩初代藩主。.

新しい!!: 徳川家康と鍋島勝茂 · 続きを見る »

菩提寺

菩提寺(ぼだいじ)は、代々その寺の宗旨に帰依して、(先祖の)位牌を納めてある寺。菩提所とも呼ばれる。ここでいう菩提とは「死後の冥福」を指し、菩提を弔う寺院という意味である。例えば、徳川家の寛永寺や増上寺が有名。古代・中世では一般的に氏寺と呼ばれていた。 香華院(こうげいん)は、仏前に香や花を供える役割を担う寺院のこと。香華寺(こうげじ)や香華所(こうげしょ)とも呼ばれる。陵墓・霊廟・墓所などに隣接して置かれる。例えば、皇室の陵墓に隣接する泉涌寺、伊達政宗の霊廟「瑞鳳殿」に隣接する瑞鳳寺などがこれにあたる。 檀那寺、旦那寺(だんなでら)は、檀信徒(檀家)の布施、すなわち檀那(旦那)によって運営される寺のこと。本来の意味では信徒と寺との経済的関係を示しているに過ぎないが、江戸時代に寺請制度によって個人は必ず1つの寺に管理されるようになり、多くの庶民は経済的支援をする寺と先祖の墓を管理してもらうそれが一致する。.

新しい!!: 徳川家康と菩提寺 · 続きを見る »

菅沼定利

菅沼 定利(すがぬま さだとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上野吉井藩の初代藩主。 三河国設楽郡に地盤を持つ菅沼氏の総領家である田峯菅沼氏に生まれ、菅沼定吉の子とも、定吉の叔父・定直の子とも言われている。『明知物語』には、菅沼藤蔵(後の土岐定政)の母の弟と伝えられるが、これは藤蔵の養父・定仙の事が誤伝されている為、該当しない。元亀2年(1571年)に定吉が武田信玄に与すると、これに反対して田峯から離反し、支族である野田菅沼氏の菅沼定盈を頼って徳川家康に仕えた。菅沼定吉は天正3年(1575年)の長篠の戦い後に菅沼定直らの離反と徳川氏の侵攻を受けて武節城を奪われて信濃国伊那郡に落ち延び、翌年には同郡を拠点として反撃して菅沼定直らを殺害したとされ、この間定利は一貫して徳川方として戦っている。天正10年(1582年)に織田信長の甲州征伐で武田氏が滅亡したとき、定吉も織田軍の追討を受けて殺された(一説には、赦免を嘆願した定吉の要求は退けられ、誅殺されたとも)ため、田峯菅沼氏の後継に任命された。なお、定利の官途名は小大膳もしくは大膳亮であるが、これは田峯菅沼氏宗家の当主代々の官途名であり、同氏の後継者であることを明らかにしたとみられている。 武田氏の滅亡後、かつて菅沼定吉がいた伊那郡は知久氏・保科氏・下条氏・木曽氏によって分割されたが、保科氏以外は羽柴秀吉への内通や内紛による没落してしまう。このため、徳川家康は天正12年(1584年)、菅沼定利を伊那郡に派遣して同郡の田峯菅沼氏の勢力を継承させるとともに、同郡の安定化を命じる。定利は知久氏の知久平城に入った後、下条氏の飯田城に移って徳川方に残った国衆を統率した。また、信濃国の領有を巡って対立していた徳川家康と上杉景勝がともに秀吉の傘下に入ると両者の国境確定が課題となり、飯田城にいた菅沼定利と上杉氏から海津城に派遣されていた須田満親が現地における交渉が行われている。 小田原征伐後、家康が関東に移ると上野国吉井に2万石を与えられた。伊那郡の代官的存在であった菅沼定利が、諏訪郡の諏訪頼忠、佐久郡の依田康勝とともに上野国に移封されたのは、徳川氏の信濃方面に対する備えとしての役割を有していたとみられる。定利は領内で検地を実施し、六斎日六斎市を催すなど、治政の安定化に努めた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠軍として、真田昌幸の信濃上田城攻めに参加した。 慶長7年(1602年)に死去。田峯菅沼氏の血統は断絶したが、死後の家督は盟友・奥平氏から迎えた養嗣子の忠政が継いだ。 菩提寺として吉井神保の仁叟寺に葬られたが、150年後に三河新城3代領主菅沼定用により、墓石塔を玄太寺に移された。現在、墓石塔は高崎市史跡に指定されている。.

新しい!!: 徳川家康と菅沼定利 · 続きを見る »

菅沼定盈

菅沼 定盈(すがぬま さだみつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。野田菅沼氏3代目当主。上野阿保藩主。.

新しい!!: 徳川家康と菅沼定盈 · 続きを見る »

菅沼定芳

菅沼 定芳(すがぬま さだよし)は、江戸時代前期の譜代大名。伊勢長島藩の第2代藩主。後に近江膳所藩主を経て、丹波亀山藩の初代藩主となる。.

新しい!!: 徳川家康と菅沼定芳 · 続きを見る »

落胤

落胤(らくいん)とは父親に認知されない庶子、私生児のこと。歴史上では高貴な人物の出自でそれが話題になることが多い。落とし胤(だね)、落とし子とも。正式な血統の一族とはみなされないので、正当な系図には記載されていないことが多い。 このような子は一般民衆に混じって生活している。当時の実力者によって、正当な血統を継承する者とされて権力に利用されることがあるが、歴史の表舞台に出てくる人物の多くがそのような確証に乏しく(さらには天一坊改行のように落胤を自称した例もある)、研究上疑問視されている例が多数みられる。.

新しい!!: 徳川家康と落胤 · 続きを見る »

青山忠成

青山 忠成(あおやま ただなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。江戸幕府町奉行、老中。常陸国江戸崎藩初代藩主。青山家宗家初代。.

新しい!!: 徳川家康と青山忠成 · 続きを見る »

青木一矩

青木 一矩(あおき かずのり)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣秀吉の従兄弟。豊臣家の一門衆。越前大野城、府中城、次いで北ノ庄城の城主。千利休に師事した茶人としても知られ、名物の所持者でもあった。.

新しい!!: 徳川家康と青木一矩 · 続きを見る »

青木貞治

青木 貞治(あおき さだはる)は、戦国時代の武将。徳川氏の家臣。 永禄11年(1568年)、徳川家康が今川氏真の領地である遠江国に侵攻し、松井宗恒の守る二俣城を奪った。当初は鵜殿氏長が城代として置かれていたが、甲斐武田氏から攻撃される危険性が高まると、中根正照が城主となり、貞治も松平康安と共に入城する。元亀3年(1572年)10月、二俣城は武田信玄に攻められ、貞治らは奮戦するが降伏・開城した(二俣城の戦い)。開城後、貞治は正照と共に浜松城に帰還した。 元亀3年12月22日(1573年1月25日)の三方ヶ原の戦いにおいて、貞治は二俣城開城の恥を雪ごうとし奮戦し、討ち死にした。 さたはる Category:戦国武将 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1573年没.

新しい!!: 徳川家康と青木貞治 · 続きを見る »

静岡県

静岡県(しずおかけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は静岡市。中部地方及び東海地方に含まれる。2017年(平成29年)現在、県の人口は約367万人であり都道府県別で第10位である。.

新しい!!: 徳川家康と静岡県 · 続きを見る »

衣冠束帯

衣冠束帯(いかんそくたい)とは、衣冠と束帯をつなげていうことばで、江戸時代以降、両者を公家の正装としてまとめて、あるいは混同して言ったもの。鈴木敬三はまた、平安時代末期以降、宮中での束帯の着用機会が減少し、衣冠や直衣の着用が拡大した結果、これらを束帯の代わりに参内に用いることを「衣冠束帯」(いかんのそくたい)や「直衣束帯」というようになったとしている。ただし、鈴木敬三が根拠とする『明月記』等の公家の日記にみられる「衣冠束帯」、「直衣束帯」などの表記は、丁寧に解釈すると「衣冠や束帯を着た者がいる」あるいは「直衣や束帯を着た者がいる」の意味である場合もあるため、上記の説については厳密な検証が必要と思われる。.

新しい!!: 徳川家康と衣冠束帯 · 続きを見る »

顕如

顕如(けんにょ、顯如)は、戦国時代から安土桃山時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第11世宗主、真宗大谷派第11代門首。石山本願寺住職。 顕如は号で、諱は光佐(こうさ)、法主を務めた寺号「本願寺」を冠して本願寺光佐(ほんがんじ こうさ)とも呼ばれる。院号は信楽院(しんぎょういん、信樂院)。法印大僧正、准三宮。父は第10世宗主の証如、関白内大臣九条稙通の猶子。室は左大臣三条公頼三女の如春尼。長男に真宗大谷派第12代門首の教如、次男に真宗興正派第17世門主の顕尊、三男に浄土真宗本願寺派第12世宗主の准如がいる。 神仏をないがしろにし武力による天下統一を狙う織田信長を仏敵とみなし、全国の本願寺門徒に信長打倒を呼びかけて決戦を挑んだ。軍事的にも経済的にも圧倒的に有利な織田軍相手に、調略を巡らせて信長包囲網を築き10年以上にわたって激しい攻防を繰り広げたことで知られる。.

新しい!!: 徳川家康と顕如 · 続きを見る »

風日祈宮

日祈宮(かざひのみのみや)は三重県伊勢市宇治館町にある内宮(皇大神宮)の境内別宮である。.

新しい!!: 徳川家康と風日祈宮 · 続きを見る »

食中毒

食中毒(しょくちゅうどく)とは、有害・有毒なや化学物質等毒素を含む飲食物を人が口から摂取した結果として起こる下痢や嘔吐や発熱などの疾病(中毒)の総称である。.

新しい!!: 徳川家康と食中毒 · 続きを見る »

飛騨山脈

'''飛驒山脈'''南部鳥瞰写真。常念岳、大天井岳などの常念山脈があるため、上高地の奥側にある飛騨山脈主稜線上の穂高岳などは松本盆地からはほとんど見えない。 飛騨山脈(ひださんみゃく)は、富山県、新潟県、岐阜県、長野県に跨って連なる山脈である。 通称は北アルプスで、木曽山脈(中央アルプス)、赤石山脈(南アルプス)を合わせ日本アルプスと呼ばれる。なお、日本アルプスという呼び名は、イギリス人鉱山技師ウィリアム・ゴーランド(ガウランド)による命名である。 山脈の主要部分は、中部山岳国立公園に指定されている。山脈の最高峰は、標高3,190mの奥穂高岳で、富士山と北岳に次いで日本で3番目に高い山である。.

新しい!!: 徳川家康と飛騨山脈 · 続きを見る »

養儼院

養儼院(ようげんいん、慶長2年(1597年) - 寛永2年3月28日(1625年5月4日))は、徳川家康の側室。駿河今川氏の家臣・黒田直陣の娘。お六の方と称した。.

新しい!!: 徳川家康と養儼院 · 続きを見る »

養珠院

千葉県勝浦市八幡岬公園(勝浦城跡)にある養珠院像 養珠院(ようじゅいん、天正8年(1580年) - 承応2年8月22日(1653年10月13日))は、徳川家康の側室。紀州徳川家の家祖徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖徳川頼房の母。名は万(まん、旧字体:萬)。実父は勝浦城主・正木頼忠。義父は蔭山長門守氏広。実兄は紀州藩(紀州徳川家)家老の三浦為春。 以下の呼称は実名の万で統一する。.

新しい!!: 徳川家康と養珠院 · 続きを見る »

館林藩

林藩(たてばやしはん)は、上野邑楽郡にあった徳川家と関わりが深い藩。石高は、短い一時期を除いておおむね5万石から11万石の中藩で、御両典のひとつとして御三家に継ぐ高い家格を持った徳川綱吉とその子・徳松の時代は例外的に25万石だった。藩庁は館林城(現在の群馬県館林市城町)。.

新しい!!: 徳川家康と館林藩 · 続きを見る »

西上作戦

青崩峠。手前側が遠江国(現在の静岡県)、奥が信濃国(現在の長野県)であり、武田軍はここを越えて徳川方へ攻め入った(兵越峠の説あり) 西上作戦(せいじょうさくせん)とは、元亀3年(1572年)9月から元亀4年(1573年)4月にかけて行なわれた甲斐武田氏による遠征。.

新しい!!: 徳川家康と西上作戦 · 続きを見る »

西国

近畿地方 九州地方 西国(さいごく、せいごく、さいこく、せいこく)とは、日本西部の諸地域である。.

新しい!!: 徳川家康と西国 · 続きを見る »

西郡局

西郡局(にしごおりのつぼね、生年不詳 - 慶長11年5月14日(1606年6月19日))は、徳川家康の側室。西郡城主・鵜殿長持の娘(鵜殿長祐の娘、または鵜殿長忠の娘とする説もある)。西郡の方とも呼ばれた。 鵜殿長持は徳川家康に居城を攻められて死亡。 永禄7年(1564年)、家康の側室となり、家康の次女・督姫を産んだ。督姫は北条氏直正室、後に豊臣秀吉の周旋で池田輝政の継室となった。西郡局は慶長11年(1606年)に伏見城で没し、京都の本禅寺に葬られた。法名は蓮葉院日浄。.

新しい!!: 徳川家康と西郡局 · 続きを見る »

西郷家員

西郷 家員(さいごう いえかず、弘治2年(1556年) - 慶長2年8月18日(1597年9月29日))は、戦国時代、安土桃山時代の武将。西郷清員の嫡子。母は酒井忠次の妹か。通称、孫九郎。弾正左衛門。はじめ員好。西郷局は従姉妹。 元亀2年(1571年)、総領の従兄・西郷義勝の戦死により西郷氏の家督を継がされた。徳川家康の厳命であった。 天正18年(1590年)、奥州仕置に従軍した。 慶長2年(1597年)8月18日に死去。長男・忠吉を近藤秀用の養子に出して、次男・忠員を跡目としている。 いえかす Category:戦国武将 Category:三河国の人物 Category:1556年生 Category:1597年没.

新しい!!: 徳川家康と西郷家員 · 続きを見る »

西郷局

西郷局肖像(宝台院蔵) 西郷局(さいごうのつぼね、天文21年(1552年)(永禄4年(1561年)説もあり) - 天正17年5月19日(1589年7月1日))は、戦国時代・安土桃山時代の女性。父は戸塚忠春という。母は西郷氏(源姓土岐氏流三河西郷氏)。通称はお愛の方。徳川家康の側室であり、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠、松平忠吉の生母として知られている。院号は宝台院。.

新しい!!: 徳川家康と西郷局 · 続きを見る »

西郷氏

西郷氏(さいごうし)は、日本の姓氏。「西郷」という全国各地に所在する地名を名字とした典型的な地名姓であり、複数の家系の武家が歴史に名を残している。.

新しい!!: 徳川家康と西郷氏 · 続きを見る »

西暦

西暦(せいれき)とは、キリスト教でキリスト(救世主)と見なされるイエス・キリストが生まれたとされる年の翌年を元年(紀元)とした紀年法である。ラテン文字表記はヨーロッパ各国で異なるが、日本語や英語圏では、ラテン語の「A.D.」又は「AD」が使われる。A.D.またADとは「アンノドミニ (Anno Domini)」の略であり、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味。西暦紀元、キリスト紀元ともいう。 今年は2018年 (JST) である。西ヨーロッパのキリスト教(カトリック教会、および後のプロテスタント)地域から徐々に普及し(後述)、西欧諸国が世界各地で進めた植民活動などによって伝わった結果、現在において世界で最も広く使われている紀年法となっている。 しかし、19世紀以降においては、非キリスト教徒との関係から、ADをCommon Era(略:CE、「共通紀元」の意)へ、同時に紀元前(BC)をBefore Common Era(BCE)に切り替える動きが広まっている。.

新しい!!: 徳川家康と西暦 · 続きを見る »

西本願寺

西本願寺(にしほんがんじ)は、京都市下京区にある仏教寺院。浄土真宗本願寺派の本山である。山号は龍谷山(りゅうこくざん)。 西本願寺は通称であり、正式名称は「龍谷山 本願寺」、宗教法人としての名称は「本願寺」である。京都市民からは「お西さん」の愛称でも親しまれている。真宗大谷派の本山である「東本願寺」(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。文永7年(1272年)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建されたがその後比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591年)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転した(詳細は後述「歴史」の項参照)。 境内は国の史跡に指定され、「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されている。「本願寺」のローマ字表記は、ヘボン式ローマ字では「Hongan-ji」であり、世界遺産「古都京都の文化財」登録時の英文名称も「Hongan-ji」であるが(参照:)、西本願寺自身は「Hongwan-ji」の綴りを採用しており(参照:)、URLもその綴りを採用している。 本願寺住職が浄土真宗本願寺派の門主となる。.

新しい!!: 徳川家康と西本願寺 · 続きを見る »

親藩

親藩しんぱんは、江戸時代の藩の分類の一つで、徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を指す。特に、徳川姓を名乗った御三家・御三卿の当主は家康の男系男子・子孫に限られ、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った。その他の家は松平姓を名乗った。 下記以外に、家康の女系男子・子孫である奥平松平家、家康の異父弟・子孫である久松松平家(伊予松山藩主と、伊勢桑名藩主の系統)、徳川家光・徳川綱吉の正室の実家鷹司家の出身である鷹司松平家も親藩に準じて扱われることもある。なお、狭義の親藩には御三家・御三卿は含まれない。.

新しい!!: 徳川家康と親藩 · 続きを見る »

馬寮

寮(めりょう/うまのつかさ)は、律令制における官司の一つ。唐名では典厩(てんきゅう)。左馬寮(さめりょう/さまりょう)と右馬寮(うめりょう/うまりょう)に分かれていた。.

新しい!!: 徳川家康と馬寮 · 続きを見る »

馬術

場馬術 馬術(ばじゅつ)は馬に騎乗して運動の正確さ、活発さ、美しさなどを目指すスポーツ、技術体系、また競技種目である。.

新しい!!: 徳川家康と馬術 · 続きを見る »

覇王の家

『覇王の家』(はおうのいえ)は、司馬遼太郎の歴史小説。徳川家康の幼少期から天下を取るまでを描く。1970年から翌年にかけ「小説新潮」に連載された。なお司馬は、同時期に「週刊新潮」で、大坂の役を扱った『城塞』を連載していた。 初版単行本は1973年に新潮社から全2巻で刊行された。のち1997年に装丁・活字を改め全1巻で刊行されている。新潮文庫では1979年に全1巻で刊行され、2002年に上・下巻に改版された。他に『司馬遼太郎全集 34巻』(文藝春秋)に収録されている。.

新しい!!: 徳川家康と覇王の家 · 続きを見る »

見附宿

歌川広重『東海道五十三次・見附』 見附宿(みつけしゅく、みつけじゅく) は、東海道五十三次の28番目の宿場である。.

新しい!!: 徳川家康と見附宿 · 続きを見る »

香道

香道(こうどう)とは、沈水香木と言われる東南アジアでのみ産出される天然香木の香りを鑑賞する芸道である。近年、文化の復興目覚ましい中国や台湾、韓国などで「中国香道」「台湾香道」「韓国香道」などと「香道」という文言を使用しているが、「香道」自体は日本独自の芸道である。香道は禅の精神を大事にし、礼儀作法・立居振舞など約束事の多い世界であり、上達するにつれ古典文学や書道の素養も求められる。しかし、香道の原点は何よりも、香りそのものを楽しむことにある。 香道においては香を「聞く」と表現するのが正式であり、「嗅ぐ」という表現は不粋とされる。香木の香りを聞き、鑑賞する聞香(もんこう)と、香りを聞き分ける遊びである組香(くみこう)の二つが主な要素である。香木は生き物、その一つ一つに魂が宿ると考え、この稀少な天然香木を敬い大切に扱う。大自然の恵み、地球に感謝し、そして彼らが語りかけてくる事を聞き取らなければならないと考えるのである。.

新しい!!: 徳川家康と香道 · 続きを見る »

駿府

駿府(すんぷ)は、駿河国(するがのくに)の国府が置かれた都市である。駿河国府中の略であるが、律令時代以後も近世まで長く駿府又は府中と言われ、江戸期、単に府中と言えば駿府を指した。明治になり徳川宗家ゆかりの地であるがゆえに新政府に恭順の意を示すため、市内の賤機山(しずはたやま)にちなみ静岡に改称。現在の静岡市葵区のほぼ中心市街地を形成している地域に当たる。.

新しい!!: 徳川家康と駿府 · 続きを見る »

駿府城

駿府城の航空写真(1988年撮影)国土航空写真 城郭図 駿府城(すんぷじょう)は駿河国安倍郡府中、現在の静岡県静岡市葵区にあった日本の城である。別名は府中城や静岡城など。 江戸時代には駿府藩や駿府城代が、明治維新期には再び駿府藩(間もなく静岡藩に改称)が置かれた。.

新しい!!: 徳川家康と駿府城 · 続きを見る »

駿府政事録

駿府政事録(すんぷせいじろく)は慶長16年(1611年)8月1日~元和1年(1615年)12月29日までの、駿府城における漢文で記した政治録・日記。全9巻。ほぼ同様の内容のものとして、別に『駿府記』がある。 幕府御金改役の後藤庄三郎光次の著作と記載があるが、儒学者の林羅山という説もある。安永6年(1777年)写本、龍谷大学図書館蔵。 慶長18年(1613年)8月に、「二之丸立花火」という記述があり、徳川家康が駿府城で花火を見たという事が伝えられている。信頼できる史料での花火の初見と言われる。.

新しい!!: 徳川家康と駿府政事録 · 続きを見る »

駿河侵攻

駿河侵攻(するがしんこう)は、戦国時代の合戦。永禄11年(1568年)に行われた甲斐国の戦国大名である武田信玄による駿河国今川領への侵攻を端緒とする。.

新しい!!: 徳川家康と駿河侵攻 · 続きを見る »

駿河国

駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と駿河国 · 続きを見る »

角川学芸出版

角川学芸出版(かどかわがくげいしゅっぱん)は、日本の出版社・KADOKAWAと角川文化振興財団の共通ブランド。 本項では、ブランドカンパニー化以前の株式会社角川学芸出版についても解説する。.

新しい!!: 徳川家康と角川学芸出版 · 続きを見る »

角川書店

角川書店(かどかわしょてん)は、日本の出版社・KADOKAWAのブランドの一つ。東京都千代田区に事業所を置く。 本項では、ブランドカンパニー化以前の株式会社角川書店についても解説する。.

新しい!!: 徳川家康と角川書店 · 続きを見る »

騎射

イルハン朝の弓騎兵画は15世紀ティムール朝時代 騎射(きしゃ)は、騎上(馬の上)から弓で矢を射ること。大陸では狩りには欠かせない技術であるため、遊牧民にこれを得意とするものが多い。 紀元前8世紀頃にスキタイ人により始められる。騎馬遊牧民の彼らは牧草を求め常に移動しながら生活、また屢々馬に跨がり他民族と闘っていたが、彼らのこういった生活文化の中で自然的必要性から騎射は開発・発展して来たものと考えられる。騎射はすぐに中央アジアの遊牧民の間に波及し、フン人、アヴァール人、マジャル人など同様の騎馬遊牧民に次々と取り入れられ、後にモンゴル人にも及び、古代世界に普及して行った。古代において彼ら騎馬遊牧民の騎射術が定住民に及ぼした影響は大きいが、しかし常に移動を繰り返すために当時の彼らの実体は詳しく解っていない。.

新しい!!: 徳川家康と騎射 · 続きを見る »

騎西藩

騎西藩(きさいはん)は、武蔵国(現在の埼玉県加須市根古屋)に存在した藩。私市藩とも。.

新しい!!: 徳川家康と騎西藩 · 続きを見る »

設楽郡

*.

新しい!!: 徳川家康と設楽郡 · 続きを見る »

言経卿記

『言経卿記』(ときつねきょうき)は、安土桃山時代の公家の山科言経による日記。天正4年(1576年)から慶長13年(1608年)まで30年以上書かれたが、天正年間に一部欠落がある。詰将棋に関する最古の記録もある。『大日本古記録』(東京大学史料編纂所)に所収している。 Category:安土桃山時代の文化 Category:室町時代の日記 Category:江戸時代の日記 書ときつねきようき Category:16世紀の書籍 Category:17世紀の書籍.

新しい!!: 徳川家康と言経卿記 · 続きを見る »

諏訪原城

諏訪原城(すわはらじょう)は、遠江国榛原郡金谷(現在の静岡県島田市金谷)にあった戦国時代の日本の城(山城)である。諏訪之原城とも書く。甲斐の武田氏が築城。城内に諏訪大明神を祀ったことからこの名が付いたとされる。徳川氏時代の城名は牧野城。『家忠日記』には牧野城のほか牧野原城とも記載。東照宮御実紀(徳川実紀)に、牧野の城(諏訪原をいふ)と記載。 現在は建築物は残っていないものの、堀・曲輪・馬出などの遺構がはっきりと残り、戦国時代の武田氏・徳川氏の築城様式を知る上で貴重なものとなっている。国の史跡に指定されている。.

新しい!!: 徳川家康と諏訪原城 · 続きを見る »

諏訪頼忠

諏訪 頼忠(すわ よりただ)は戦国時代から江戸時代初期の武将。.

新しい!!: 徳川家康と諏訪頼忠 · 続きを見る »

諏訪頼水

諏訪 頼水(すわ よりみず)は、江戸時代前期の大名。信濃諏訪藩の初代藩主。諏訪頼忠の長男。.

新しい!!: 徳川家康と諏訪頼水 · 続きを見る »

諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

新しい!!: 徳川家康と諱 · 続きを見る »

高力清長

力 清長(こうりき きよなが)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。徳川氏の家臣。三河高力城主。のち武蔵岩槻藩主。島原藩高力家初代。高力安長の長男。.

新しい!!: 徳川家康と高力清長 · 続きを見る »

高台院

台院(こうだいいん、生年は諸説あり - 寛永元年9月6日(1624年10月17日))は、戦国時代(室町時代後期)から江戸時代初期の女性で、豊臣秀吉の正室である。杉原(木下)家定の実妹であるが浅野家に養女として入る。秀吉の養子となって後に小早川家を継いだ小早川秀秋(羽柴秀俊)は、兄・家定の子で彼女の甥にあたる。.

新しい!!: 徳川家康と高台院 · 続きを見る »

高天神城

天神城(たかてんじんじょう)は、遠江国城東郡土方(ひじかた)(現在の静岡県掛川市上土方・下土方)にあった日本の城。 小規模ながら、山城として堅固さを誇り、戦国時代末期には武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた。優美な山の形から鶴舞城の別称を持つ。国の史跡に指定されている。 2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(147番)に選定された。.

新しい!!: 徳川家康と高天神城 · 続きを見る »

高天神城の戦い

天神城の戦い(たかてんじんじょうのたたかい)は、武田勝頼と徳川家康の間で戦われた高天神城の2度の攻城戦を指す。.

新しい!!: 徳川家康と高天神城の戦い · 続きを見る »

高崎藩

崎城 高崎藩(たかさきはん)は、上野群馬郡(群馬県高崎市)周辺を領した藩。藩庁は高崎城に置かれた。.

新しい!!: 徳川家康と高崎藩 · 続きを見る »

高野山

壇場伽藍 壇場伽藍 不動堂(国宝) 高野山(こうやさん)は、和歌山県北部、和歌山県伊都郡高野町にある周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地を指す。平安時代の弘仁7年(816年)に嵯峨天皇から空海(弘法大師)が下賜され、修禅の道場として開いた日本仏教における聖地の1つである。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)、大本山宝寿院のほか、子院が117か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている。 2004年(平成16年)7月7日、高野山町石道と金剛峯寺境内(6地区)、建造物12件が熊野、吉野・大峯と共に『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。さらに2016年(平成28年)10月24日、高野参詣道(町石道を含み登録名称変更)として黒河道、女人道、京大坂道不動坂、三谷坂が世界遺産に追加登録された。.

新しい!!: 徳川家康と高野山 · 続きを見る »

高橋泥舟

橋 泥舟(たかはし でいしゅう、天保6年2月17日(1835年3月15日) - 明治36年(1903年)2月13日)は、日本の武士・幕臣。.

新しい!!: 徳川家康と高橋泥舟 · 続きを見る »

高源院 (鍋島勝茂正室)

源院(こうげんいん、天正16年(1588年) - 寛文元年9月6日(1661年10月28日))は、安土桃山時代から江戸時代にかけての女性。佐賀藩主・鍋島勝茂の継室。山崎藩主・岡部長盛の娘。母は松平清宗の娘。名は菊姫(きくひめ)。 慶長14年(1609年)4月、徳川家康と雲光院の養女となり、佐賀藩主・鍋島勝茂に嫁いだ。 寛文元年(1661年)、74歳で死去。麻布賢崇寺に葬られた。法名は高源院乾秀正貞大姉。.

新しい!!: 徳川家康と高源院 (鍋島勝茂正室) · 続きを見る »

論語

『論語』(ろんご、)とは、孔子と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物である。『孟子』『大学』『中庸』と併せて儒教における「四書」の1つに数えられる。 四書のひとつである『孟子』はその言行の主の名が書名であるが、『論語』の書名が(たとえば「孔子」でなく)『論語』であるその由来は明らかでない。(『漢書』巻30芸文志に「」と門人たちが書き付けていた孔子の言葉や問答を、孔子死後に取り集めて論纂し、そこで『論語』と題したとある。) 別名、「倫語(りんご)」、「輪語」、「円珠経」とも言う。これは、六朝時代の学者、皇侃(おうがん)の著作『論語義疏』によると、漢代の鄭玄(じょうげん)という学者が論語を以て世務を経綸することが出来る書物だと言った所から、「倫語」という語が出現し、又その説く所は円転極まりないこと車輪の如しというので、「輪語」というと注釈し、「円珠経」については鏡を引用して、鏡はいくら大きくても一面しか照らし出さないが、珠(玉)は一寸四方の小さいものでも上下四方を照らすものであり、諸家の学説は鏡の如きもので一面しか照らさないが、論語は正に円通極まりないものである、という所から「円珠経」と言うと説かれている。.

新しい!!: 徳川家康と論語 · 続きを見る »

(とき)とは、中世の戦(いくさ、戦争や衝突)などの勝負事で勝ちを収めたときの勝ち鬨や、戦場で上げる声である。士気を高める目的で多数の人が一緒に叫ぶ声。凱歌(がいか。勝負事に勝ちを収めたときに歌う喜びの歌)とは同義あるいは一部同義とされるほど近いが、勝鬨は歌ではなく、武家作法の一つ。 本項目では、戦闘時に上げる喊声(かんせい、英語:Battle cry)や楽器音などを一括して扱う。こういった声をあげて士気と団結を高め、敵を威嚇する行為は、制服が始まる以前から行われていたFeldgeschrei.

新しい!!: 徳川家康と鬨 · 続きを見る »

謀反

謀反(むほん、むへん、ぼうへん)は、国家・君主・主君・時の為政者にそむくことである『大辞泉』小学館。謀叛とも表記するが、厳密には後述のように表記や読み方、また時代によって差異がある。特に武力・軍事力を動員して反乱を起こすことを指すことが多いが、少人数で君主・主君を暗殺する行為を謀反ということもある。ただし、近代の事件を指して謀反の語を使うことはまれであり、基本的に前近代の事件を指す言葉である。東アジアの人々に浸透した儒教の観念では大変重い罪であるととらえられた。.

新しい!!: 徳川家康と謀反 · 続きを見る »

魚類

魚類(ぎょるい)は、脊椎動物亜門 から四肢動物を除外した動物群。日常語で魚(さかな)。脳や網膜など神経系の発達にも関与するといわれている。流行歌のおさかな天国には「魚を食べると頭が良くなる」というフレーズがあるが、上記の健康影響を考えると無根拠とも言えない。 村落単位で見た生活習慣では、労働が激しく、魚又は大豆を十分にとり、野菜や海草を多食する地域は長寿村であり、米と塩の過剰摂取、魚の偏食の見られる地域は短命村が多いことが指摘されている。 魚介類の脂肪酸にて、魚介類100g中の主な脂肪酸について解説。.

新しい!!: 徳川家康と魚類 · 続きを見る »

魏徴

魏 徴(ぎ ちょう、580年 - 643年)は、唐の政治家。字は玄成。祖父の魏釗は北周に仕え、父の魏琬は隋に仕えた。子に魏叔玉、魏叔瑜、魏叔琬、魏叔璘、娘(霍王李元軌夫人)などがいる。.

新しい!!: 徳川家康と魏徴 · 続きを見る »

譜第

譜第(ふだい・譜代)は、父から子へ、子から孫へというように同一血統の中で正しく継承が行われてきた家系及び、その族姓・系統の正しさを証明する系譜類などを指す。また、特定の主家に代々仕えてきた家臣の系統を指して「譜第の臣」「譜第の者」などとも称した。なお、中世以後には譜代という表記も用いられた。なお、『令集解』職員令治部省条には『古記』を引用して、“譜第”を「天下人民の本姓の札名(ふだな)也」と定義している。.

新しい!!: 徳川家康と譜第 · 続きを見る »

鯛(タイ、英: sea bream)とは、広義にはスズキ目タイ科の総称、狭義にはタイ科のマダイを指す。.

新しい!!: 徳川家康と鯛 · 続きを見る »

鰐淵寺

淵寺(がくえんじ)は、島根県出雲市にある天台宗の寺院。山号は浮浪山。中国観音霊場第25番札所、出雲観音霊場第3番札所、出雲國神仏霊場第2番札所。開山は智春上人、本尊は千手観世音菩薩と薬師如来の二体。.

新しい!!: 徳川家康と鰐淵寺 · 続きを見る »

谷中霊園

谷中霊園(やなかれいえん)は、東京都台東区谷中7丁目にある都立霊園。旧称の谷中墓地(やなかぼち)と呼ばれることも多い。面積は約10万平方メートル、およそ7,000基の墓がある。徳川家15代目将軍慶喜や鳩山一郎・横山大観・渋沢栄一などが眠る。 「谷中墓地」と称される区域には、都立谷中霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれており、神道式葬儀と埋葬を希望した徳川慶喜を除く徳川氏の墓は寛永寺墓地に属する。.

新しい!!: 徳川家康と谷中霊園 · 続きを見る »

豊後国

豊後国(ぶんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と豊後国 · 続きを見る »

豊國神社 (大阪市)

豊國神社(ほうこくじんじゃ、新字体:豊国神社、旧字体:豐國神社)は、大阪府大阪市中央区大阪城に鎮座する神社。.

新しい!!: 徳川家康と豊國神社 (大阪市) · 続きを見る »

豊国神社 (京都市)

拝殿と本殿(奥) 豊国神社(とよくにじんじゃ)は、京都市東山区に鎮座する神社。神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る。豊臣家滅亡とともに徳川家の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の勅命により再興された。 主祭神の居城があった大阪市の大阪城公園(中央区)や滋賀県長浜市のほか、出身地の名古屋市中村区などにも豊臣秀吉を祀る豊国神社が存在している。.

新しい!!: 徳川家康と豊国神社 (京都市) · 続きを見る »

豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

新しい!!: 徳川家康と豊臣秀吉 · 続きを見る »

豊臣秀頼

豊臣 秀頼(とよとみ ひでより / とよとみ の ひでより、)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。太閤・豊臣秀吉の三男。 秀吉の側室であった茶々(淀殿)の第二子。子は側室・和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に国松と、小石の方(おいわのかた。成田氏)との間に天秀尼(彼女の生母については異説がある)。位階は正二位、官職は右大臣。幼名は拾丸(ひろいまる)。なお、豊臣とは名字ではなく、本姓である。乳母は宮内卿局・右京大夫局(一説に両者は同一人物共)・正栄尼が伝わる。また、淀殿の乳母である大蔵卿局も養育係を務めた。.

新しい!!: 徳川家康と豊臣秀頼 · 続きを見る »

豊臣秀長

豊臣 秀長(とよとみ ひでなが / とよとみ の ひでなが)または羽柴 秀長(はしば ひでなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 豊臣秀吉の異父弟(同父弟説もある)。豊臣政権において内外の政務および軍事面で活躍を見せ、天下統一に貢献した。 最終的には大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の大名となるに至る。また官位も従二位権大納言に栄進したことから、大和大納言と尊称された。秀吉は秀長を隣に配して重用し、また秀長も秀吉に異を唱え制御できる人物であった。短期間で成長を遂げ、徳川家康や伊達政宗など外様大名を抱える豊臣政権における調整役であり、政権の安定には欠かせぬ貴重な人物だった。.

新しい!!: 徳川家康と豊臣秀長 · 続きを見る »

豊臣秀次

豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ / とよとみ の ひでつぐ)または羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の2代目関白。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。 幼少時、戦国大名・浅井長政の家臣・宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉とし、宮部 吉継(みやべ よしつぐ)と名乗った。次いで畿内の有力勢力だった三好一族の三好康長(笑岩)の養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称は孫七郎とし、三好 信吉(みよし のぶよし)と名乗って三好家の名跡を継いだ。 秀吉が天下人の道を歩み始めると、羽柴姓に復氏して、名も秀次と改名。豊臣姓も下賜された。鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子・秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺に蟄居となった後に切腹となった。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑された。.

新しい!!: 徳川家康と豊臣秀次 · 続きを見る »

豊臣政権

豊臣政権(とよとみせいけん)は、天正18年(1590年)、(ただし、実質的には天正13年(1585年))から、慶長8年(1603年)まで成立していた豊臣氏による日本国の政権。豊臣氏政権(とよとみしせいけん)とも言われる。また羽柴氏政権とも言われる。.

新しい!!: 徳川家康と豊臣政権 · 続きを見る »

豪族

豪族(ごうぞく)とは、国家や諸侯などの広域政権の領域の内部に存在し、ある地方において多くの土地や財産や私兵を持ち一定の地域的支配権を持つ一族のこと。地域的支配権の源泉は自分自身の所有する財産や武力であり、広域政権の権威を権力の源泉とする地方官は豪族とは呼ばれない。ただし地方官と豪族は排他的なカテゴリーではなく、同一人物が双方を兼ねたり、カテゴリー間を移行したりするケースは多くある。広域政権側が政権安定のために豪族層の政権内への取り込みを行ったり、逆に広域政権の支配力が弱まると地方官が豪族化することがあるからである。.

新しい!!: 徳川家康と豪族 · 続きを見る »

貞観政要

貞観政要(じょうがんせいよう)は、唐代に呉兢呉兢(ごきょう、670年 - 749年)は、唐代の歴史家(中文)。が編纂したとされる太宗の言行録である。題名の「貞観」は太宗の在位の年号で、「政要」は「政治の要諦」をいう。全10巻40篇からなる。 中宗の代に上呈したものと玄宗の代にそれを改編したものと2種類があり、第4巻の内容が異なる。伝本には元の戈直(かちょく)が欧陽脩や司馬光による評を付して整理したものが明代に発刊されてひろまった「戈直本」と、唐代に日本に伝わったとされる旧本の2系がある。日本以外にも朝鮮・女真・西夏の周辺諸語に訳されるなど大きな影響を与えた。.

新しい!!: 徳川家康と貞観政要 · 続きを見る »

貞松院 (小出吉英正室)

貞松院(ていしょういん、天正19年(1591年) - 寛文4年6月19日(1664年8月10日))は、出石藩主・小出吉英の正室。保科正直の娘。母は多劫姫。名はヨウ。 母方の伯父である徳川家康の養女となり、小出吉英に嫁いだ。吉英との間に五男五女を儲けた。 寛文4年(1644年)、74歳で死去し、天徳寺に葬られた。.

新しい!!: 徳川家康と貞松院 (小出吉英正室) · 続きを見る »

貨幣

貨幣(かへい、money)とは、.

新しい!!: 徳川家康と貨幣 · 続きを見る »

貨幣経済

貨幣経済(かへいけいざい, Monetized Economy)とは、貨幣によって商品の交換を媒介している経済の一形態。.

新しい!!: 徳川家康と貨幣経済 · 続きを見る »

賤ヶ岳の戦い

賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)は、天正11年(1583年)4月、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦いである。この戦いは織田勢力を二分する激しいものとなり、これに勝利した秀吉は亡き織田信長が築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩がひらかれた。.

新しい!!: 徳川家康と賤ヶ岳の戦い · 続きを見る »

鳥居忠広

鳥居 忠広(とりい ただひろ、生年未詳 - 元亀3年12月22日(1573年1月25日))は、戦国時代の武将。徳川氏の家臣。 四郎左衛門。.

新しい!!: 徳川家康と鳥居忠広 · 続きを見る »

鳥居元忠

鳥居 元忠(とりい もとただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。下総矢作藩(千葉県香取市矢作)の藩祖。.

新しい!!: 徳川家康と鳥居元忠 · 続きを見る »

鴫野の戦い

鴫野の戦い(しぎののたたかい)は、江戸幕府と豊臣家の間の大坂の陣(大坂の役)のうち、1614年(慶長19年)末に発生した大坂冬の陣において行われた戦いの一つ。.

新しい!!: 徳川家康と鴫野の戦い · 続きを見る »

贈位

贈位(ぞうい)とは、生前に功績を挙げた者に対して、没後に位階を贈る制度。追贈、追賜ともいう。官職を贈る場合は贈官(ぞうかん)という(例:贈太政大臣)。 将棋や囲碁の世界では、大会での優勝や功績に応じてタイトルを贈られることを贈位と呼ぶこともある。就位ともいう。この際に贈られる賞状を贈位状とも呼ぶ。.

新しい!!: 徳川家康と贈位 · 続きを見る »

越中国

越中国(えっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。北陸道に属する。現在の富山県にあたる地域である。.

新しい!!: 徳川家康と越中国 · 続きを見る »

越後国

越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と越後国 · 続きを見る »

越前国

越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と越前国 · 続きを見る »

足利義稙

足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府第10代将軍。父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘(日野富子の妹に当たる人物であるが名は伝わらない)。 初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。 将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は永正5年7月1日(1508年7月28日)から大永元年12月25日(1522年1月22日)まで在職した。.

新しい!!: 徳川家康と足利義稙 · 続きを見る »

足利義輝

足利 義輝(あしかが よしてる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:天文15年(1546年) - 永禄8年5月19日(1565年6月17日))。.

新しい!!: 徳川家康と足利義輝 · 続きを見る »

足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

新しい!!: 徳川家康と足利義満 · 続きを見る »

足利義澄

足利 義澄(あしかが よしずみ)は、室町幕府第11代将軍。在任:明応3年12月27日(1495年1月23日) - 永正5年4月16日(1508年5月15日)。父は8代将軍・足利義政の異母兄である堀越公方・足利政知。はじめ法名を清晃(せいこう)といい、還俗して義遐(よしとお)、義高(よしたか)、そして義澄。正室は日野富子の姪にあたる日野阿子(富子の兄弟である僧永俊の娘)。 明応2年(1493年)に従兄の10代将軍・足利義材(義稙)が細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立された。しかし、永正5年(1508年)に前将軍・義稙を擁立する大内義興が上洛の軍を起こしたため、近江国へ逃れて将軍職を廃され、復帰できないまま死去した。.

新しい!!: 徳川家康と足利義澄 · 続きを見る »

足利義昭

足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代(最後)の将軍(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。 父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。 足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが三好三人衆らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。 信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。.

新しい!!: 徳川家康と足利義昭 · 続きを見る »

足利義晴

足利 義晴(あしかが よしはる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍(在職:1521年 - 1546年)。第11代将軍足利義澄の長男。母は日野永俊の娘で日野富子の姪とされるが、永俊娘は永正2年(1505年)に義澄と離縁しているため、義晴の生母としては疑問が残る。これに対して将軍家で御末を務めていた「阿与」という女性が母親であった『菅別記』とする説もあり、母親の身分が低くて記録に残さなかった可能性も高い。.

新しい!!: 徳川家康と足利義晴 · 続きを見る »

鷲津砦

鷲津砦(わしづとりで)は、名古屋市緑区にあった砦。織田信長によって築かれ、桶狭間の戦いの前哨戦が行われた。.

新しい!!: 徳川家康と鷲津砦 · 続きを見る »

鷹司信尚

鷹司 信尚(たかつかさ のぶひさ、天正18年4月14日(1590年5月17日) - 元和7年11月19日(1621年12月31日))は、江戸時代初期の公卿。父は鷹司信房。母は継室である佐々輝子。兄弟姉妹に鷹司孝子、松平信平、子は鷹司教平、娘(花山院定好室)。後陽成天皇第三皇女の清子内親王は室。従一位。号は景皓院。.

新しい!!: 徳川家康と鷹司信尚 · 続きを見る »

鷹狩

鷹狩(たかがり、falconry、)は、鷹などの鳥を使った狩猟の一種。鷹野、放鷹とも言う。タカ科のイヌワシ、オオタカ、ハイタカ、およびハヤブサ科のハヤブサ等を訓練し、鳥類や哺乳類(兎・狼・狐など)を捕らえさせ、餌とすりかえる。 こうして鷹を扱う人間は、と呼ばれる。日本語の古語においては、鷹田、放鷹、鷹野などとも称する。また、鷹を訓練する場所はと称される。.

新しい!!: 徳川家康と鷹狩 · 続きを見る »

麦飯

麦飯(むぎめし、むぎいい、ばくめし、ばくはん)は、大麦や裸麦などの麦だけで、あるいは米と混ぜて炊いた飯広辞苑第5版。麦ご飯(むぎごはん)、バクシャリともいう。夏の季語『俳句歳時記 第4版』角川学芸出版、2008年、ISBN 978-4-04-621167-5。.

新しい!!: 徳川家康と麦飯 · 続きを見る »

軍師

軍師(ぐんし)は、軍中において、軍を指揮する君主や将軍の戦略指揮を助ける職務を務める者のことである。このような職務を務める者は東アジアにおいては古代から軍中にみられたが、ヨーロッパでは近代的な軍制において参謀制度が確立するまで制度としては存在しなかった。 知将、策士などとも言われる。.

新しい!!: 徳川家康と軍師 · 続きを見る »

転封

転封(てんぽう)は、知行地、所領を別の場所に移すことである。国替(くにがえ)、移封(いほう)とほぼ同義である。 史料上は「国替」、「所替」(ところがえ)、「得替」(とくたい)等が使用された。.

新しい!!: 徳川家康と転封 · 続きを見る »

黒田孝高

黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。 諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。.

新しい!!: 徳川家康と黒田孝高 · 続きを見る »

黒田長政

黒田 長政(くろだ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前福岡藩初代藩主。 戦国武将・黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男。九州平定、文禄・慶長の役で活躍した。特に関ヶ原の戦いでは東軍につき大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前国名島に52万3千余石の大封を受け、福岡藩を立藩し、初代藩主となった。父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。.

新しい!!: 徳川家康と黒田長政 · 続きを見る »

黒田氏

黒田氏(くろだし)は、日本の氏族のひとつ。 江戸時代の大名家となった黒田氏には次の2氏がある。.

新しい!!: 徳川家康と黒田氏 · 続きを見る »

輪王寺

輪王寺 観音堂(旧四本龍寺所在) 輪王寺 大猷院廟唐門 輪王寺 慈眼堂 神橋(二荒山神社所属) 輪王寺 慈眼堂 天海墓 輪王寺(りんのうじ)は、栃木県日光市にある寺院で、天台宗の門跡寺院である。明治初年の神仏分離令以後、東照宮、二荒山神社とあわせて「二社一寺」と称される。近世まではこれらを総称して「日光山」と呼ばれていた。現在、「日光山」は輪王寺の山号とされている。また、「輪王寺」は日光山中にある寺院群の総称でもある。 輪王寺の境内は東照宮、二荒山神社の境内とともに「日光山内」として国の史跡に指定され、「日光の社寺」として世界遺産に登録されている。.

新しい!!: 徳川家康と輪王寺 · 続きを見る »

辞世

敗北の責任をとり、切腹を行おうとする武士(明石義太夫)。辞世の句を書き終えている。月岡芳年による画 黒木博司の辞世の句「国を思い死ぬに死なれぬ益良雄が 友々よびつ死してゆくらん」 辞世(じせい)とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈、和歌、発句またはそれに類する短型詩の類のことを指す。.

新しい!!: 徳川家康と辞世 · 続きを見る »

近衛大将

近衛大将(このえ の だいしょう)は、日本の律令官制における令外官の一つ。宮中の警固などを司る左右の近衛府の長官。左近衛府には左近衛大将(さこんえのだいしょう)、右近衛府には右近衛大将(うこんえのだいしょう)が置かれ、それぞれ略して「左大将」「右大将」ともいう。定員は各1名で、権官はない。官位相当は従三位。常設武官の最高職で、馬御監の兼任とされた。和訓は「ちかきまもりのつかさのかみ」。.

新しい!!: 徳川家康と近衛大将 · 続きを見る »

近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

新しい!!: 徳川家康と近衛府 · 続きを見る »

近衛前久

近衞 前久(このえ さきひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての公家。近衞家当主であり、動乱期に関白左大臣・太政大臣を務めた。初名は晴嗣。.

新しい!!: 徳川家康と近衛前久 · 続きを見る »

近藤康用

近藤 康用(こんどう やすもち、永正16年(1517年) - 天正16年3月12日(1588年4月7日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。近藤忠用の子。通称、勘助、平右衛門、石見守。はじめは信用。全功と号した。.

新しい!!: 徳川家康と近藤康用 · 続きを見る »

近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と近江国 · 続きを見る »

茶屋四郎次郎

茶屋 四郎次郎(ちゃや しろうじろう、ちゃや しろじろう)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての公儀呉服師を世襲した京都の豪商。当主は代々「茶屋四郎次郎」を襲名する習わしであった。.

新しい!!: 徳川家康と茶屋四郎次郎 · 続きを見る »

茶道

茶を点てる様子。写真は、盆と鉄瓶を使った簡略的な点茶の例。 茶道(さどう、ちゃどう)は、日本伝統の湯を沸かし、茶を点(た)て、茶を振る舞う行為(茶の儀式)。また、それを基本とした様式と芸道。 元来「茶湯」(ちゃとう)、「茶の湯」といった。千利休は「数寄道」、小堀政一(遠州)は「茶の道」という語も使っていたが、江戸時代初期には茶道と呼ばれた(『茶話指月集』『南方録』など)。「茶道」の英語訳としては tea ceremony のほか、茶道の裏千家と表千家ではそれぞれ the way of tea、chanoyu を用いている。岡倉覚三(天心)は英文の著書 The Book of Tea(『茶の本』)において、Teaism と tea ceremony という用語を使い分けている。 主客の一体感を旨とし、茶碗に始まる茶道具や茶室の床の間にかける禅語などの掛け物は個々の美術品である以上に全体を構成する要素として一体となり、茶事として進行するその時間自体が総合芸術とされる。 現在一般に、茶道といえば抹茶を用いる茶道のことだが、江戸期に成立した煎茶を用いる煎茶道も含む。 広間の茶室の例 道具は左から風炉と釜、建水、柄杓立と柄杓、水指、煙草盆と火入・灰吹。床の間には掛物(一行書「明月和水流」)と花入、香合を飾る。 草庵風茶室の例(高台寺遺芳庵) 草庵風茶室の例(如庵).

新しい!!: 徳川家康と茶道 · 続きを見る »

茶阿局

茶阿局(ちゃあのつぼね、生年不詳 - 元和7年6月12日(1621年7月30日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の側室。松平忠輝、松平松千代の母。名は久。本姓は河村。法名は朝覚院。.

新しい!!: 徳川家康と茶阿局 · 続きを見る »

蜂須賀家政

蜂須賀 家政(はちすか いえまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。蜂須賀正勝の子。父の代わりに阿波国の大名に任じられて徳島藩祖となる。.

新しい!!: 徳川家康と蜂須賀家政 · 続きを見る »

蜂須賀至鎮

蜂須賀 至鎮(はちすか よししげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。阿波国徳島藩初代藩主。.

新しい!!: 徳川家康と蜂須賀至鎮 · 続きを見る »

能(のう)は、日本の伝統芸能である能楽の一分野。江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治維新後のことである。 能(翁奉納 春日神社 (篠山市)).

新しい!!: 徳川家康と能 · 続きを見る »

能楽

中尊寺鎮守 白山神社の能舞台(重要文化財) 日牟禮八幡宮の能舞台 日牟禮八幡宮能舞台の橋がかり 能楽(のうがく)は、日本の伝統芸能であり、式三番(翁)を含む能と狂言とを包含する総称である。重要無形文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産に登録されている。.

新しい!!: 徳川家康と能楽 · 続きを見る »

胃癌

胃癌(いがん、英:Stomach cancer または gastric cancer、独:Magenkrebs)は、胃に生じる悪性腫瘍・癌の総称。.

新しい!!: 徳川家康と胃癌 · 続きを見る »

鈴木かほる

鈴木 かほる(すずき かほる、1946年 - )は、日本史研究家。三浦一族研究会特別研究員。専門は中世史。中世史をはじめ近世史に至るまでの幅広い著書がある。神奈川県出身。國學院大學文学部史学科卒。国家公務員(非常勤) 著者プロフィール。.

新しい!!: 徳川家康と鈴木かほる · 続きを見る »

鈴木一蔵

鈴木 一蔵(すずき いちぞう、弘治2年8月7日(1556年9月10日) - ?)は、松平元康(後の徳川家康)の庶長子という説がある人物。諱は重康。母親は遠江国磐田郡見附宿の旅籠の娘と言われる。雑賀党鈴木氏(または三河鈴木氏)の下で養育されたため、鈴木姓を称したという。 通説としては家康の長男は松平信康であるが、この人物の存在が事実とすれば信康は次男ということになる。 弘治3年(1557年)正月に家康が築山殿と結婚したことを考えると、築山殿の親類である今川家に取り入るため、一蔵は実子とされなかった可能性がある。 一般的な俗説として家康に庶長子がいたと語られているのみで、一次史料から確認することは一切できない人物であるため、著しく信憑性に乏しい。関ヶ原の戦いの後、徳川頼房(家康の十一男)に仕えた鈴木重朝と同一人物とされることがある。 いちそう Category:徳川家康の子女 Category:戦国時代の人物 (日本) Category:1556年生.

新しい!!: 徳川家康と鈴木一蔵 · 続きを見る »

興正寺

興正寺(こうしょうじ)は、京都府京都市下京区にある浄土真宗の寺院。山号は円頓山(えんとんざん)。西本願寺の南隣に位置する。 かつて西本願寺の脇門跡であったが、明治9年(1876年)に真宗興正派として独立した際に、同派の本山となる。住職は門主の華園家。本山だけあって大伽藍であるが、壮大な西本願寺の南に隣接しているため、一見西本願寺の伽藍の一部と見まがう。また西本願寺の御影堂があまりに大きいため、興正寺の伽藍が比較的小さく感じられるが、実際には堂々とした規模である。.

新しい!!: 徳川家康と興正寺 · 続きを見る »

蘭奢待

蘭奢待(らんじゃたい、蘭麝待とも表記)は、東大寺正倉院に収蔵されている香木。天下第一の名香と謳われる。 正倉院宝物目録での名は黄熟香(おうじゅくこう)で、「蘭奢待」という名は、その文字の中に"東・大・寺"の名を隠した雅名である。 その香は「古めきしずか」と言われる。紅沈香と並び、権力者にとって非常に重宝された。.

新しい!!: 徳川家康と蘭奢待 · 続きを見る »

阿姫

阿姫(くまひめ、文禄4年(1595年) - 寛永9年2月23日(1632年4月12日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。土佐藩主山内忠義の正室。掛川藩主松平定勝の次女。母は奥平貞友の娘たつ。 慶長10年(1605年)5月13日、伏見において伯父徳川家康の養女となり、忠義に嫁いだ。このとき家康より化粧料として豊後国山田郷1千石を賜っている。 夫との間に忠豊、忠直、喜与姫(松下長綱正室)の二男一女を儲けた。 寛永9年(1632年)、38歳で死去し、深川霊巌寺に葬られた。法名は光照院殿泰誉皓月大姉。.

新しい!!: 徳川家康と阿姫 · 続きを見る »

阿保藩

阿保藩(あぼはん)は、上野(現在の群馬県)に存在した藩。阿布藩ともいわれる。なお、阿保に関しては上野ではなく、武蔵児玉郡阿保との異説がある。.

新しい!!: 徳川家康と阿保藩 · 続きを見る »

阿部サダヲ

阿部 サダヲ(あべ サダヲ、1970年4月23日 - )は、日本の俳優、歌手。 千葉県松戸市出身。劇団大人計画所属。.

新しい!!: 徳川家康と阿部サダヲ · 続きを見る »

赤座直保

赤座 直保(あかざ なおやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。.

新しい!!: 徳川家康と赤座直保 · 続きを見る »

赤飯

赤飯(せきはん)は、もち米にアズキやササゲを混ぜて蒸したおこわである広辞苑第5版。.

新しい!!: 徳川家康と赤飯 · 続きを見る »

赤松政則

赤松 政則(あかまつ まさのり)は、室町時代後期の武将・大名。加賀半国・播磨・美作・備前の守護大名・戦国大名。赤松家の第9代当主(当主在職:長禄2年(1458年)9月 - 明応5年4月25日(1496年6月6日))。 嘉吉の乱で滅亡した赤松家を再興した中興の英主で、管領の細川家に接近して中央政界での影響力を高めて従三位まで登り詰めた。一方で赤松家の戦国大名化も務め、1代で赤松家の全盛期を築き上げた。.

新しい!!: 徳川家康と赤松政則 · 続きを見る »

鵜殿長照

殿 長照(うどの ながてる)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。三河国宝飯郡上ノ郷城(蒲郡市神ノ郷町、『三河物語』では、西之郡之城とある)主。.

新しい!!: 徳川家康と鵜殿長照 · 続きを見る »

鵜殿長持

鵜殿 長持(うどの ながもち)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。 三河国宝飯郡上ノ郷城(現在の愛知県蒲郡市神ノ郷町、『三河物語』では、西之郡之城とある)主で、今川義元の妹婿に当たる。弘治3年(1557年)に没して、嫡子・長照が家督を継いでいる。 『三河物語』では、その没年を永禄5年(1562年)としている。永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いでは、織田信長方に身動きを封じられた大高城の解放に協力、功を挙げた。しかし、後続の本隊が信長に襲われ、義元が討たれると、三河の自領に逃げ帰っている。その後も、義元の縁戚であった立場に忠実で、三河における今川氏の家臣として忠誠を尽くした。だが、周辺に在った鵜殿の分家は岡崎の家康に与する事となり、今川方の最前線で孤立していった。永禄5年(1562年)には、家康方の攻撃を受ける。先遣の松平清宗などの攻撃は防ぎきるものの、岡崎の本隊が加わった攻城軍には抗いきれず上ノ郷城は陥落。子の長照と共に戦死した。孫の氏長と氏次の兄弟は捕縛され、松平氏により人質とされた。 なかもち Category:戦国武将 Category:三河国の人物 Category:1513年生 Category:1557年没 .

新しい!!: 徳川家康と鵜殿長持 · 続きを見る »

鵜殿氏

殿氏(うどのし)は、日本の氏族のひとつ。嫡流は江戸幕府旗本になっている他、庶流には鳥取藩家老を勤めた一族などがある。.

新しい!!: 徳川家康と鵜殿氏 · 続きを見る »

関口親永

関口 親永・瀬名 義広(せきぐち ちかなが/せな よしひろ)は、戦国時代の武将。今川刑部少輔家(今川関口家)の当主で駿河今川氏の有力家臣。主君今川氏親から偏諱を受けて親永に改める。駿河持船城主。妻は今川義元の妹(養妹とも)であり、徳川家康の正室・築山殿の父に当たる。.

新しい!!: 徳川家康と関口親永 · 続きを見る »

関宿藩

関宿藩(せきやどはん)は、下総国(現在の千葉県野田市関宿三軒家)に存在した藩。藩庁は関宿城にあったが、現在の茨城県猿島郡境町にあたる地域をも城下町とした。 利根川と江戸川の分岐点にあたり、利根川水運の要衝であることから、江戸幕府にとっては重要拠点だった。そのため信頼の厚い譜代大名がその藩主に任じられた。.

新しい!!: 徳川家康と関宿藩 · 続きを見る »

関ヶ原 (小説)

『関ヶ原』(せきがはら)は、司馬遼太郎の歴史小説。徳川家康と石田三成の対立を軸に、天下分け目の決戦となった関ヶ原の戦いを描いた作品である。 『週刊サンケイ』誌上で、1964年(昭和39年)7月から1966年(昭和41年)8月にかけて連載された。.

新しい!!: 徳川家康と関ヶ原 (小説) · 続きを見る »

関ヶ原 (テレビドラマ)

『関ヶ原』(せきがはら)は、東京放送創立30周年記念番組として司馬遼太郎の小説『関ヶ原』を原作に、TBS系にて1981年1月2日から1月4日まで3夜連続で放映された大型時代劇。.

新しい!!: 徳川家康と関ヶ原 (テレビドラマ) · 続きを見る »

関ヶ原 (映画)

『関ヶ原』(せきがはら)は、2017年制作の日本映画。石田三成と徳川家康を主人公に、豊臣秀吉の死から天下分け目の関ヶ原の戦いに至るまでの過程を描いた司馬遼太郎原作の歴史小説『関ヶ原』の映画化作品。司馬遼太郎の小説の映画化は、1999年公開の『梟の城』以来18年振りとなる。 監督・脚本は原田眞人、主な出演は岡田准一、役所広司、有村架純、平岳大、東出昌大、松山ケンイチらで、有村架純は時代劇初挑戦となる。.

新しい!!: 徳川家康と関ヶ原 (映画) · 続きを見る »

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

新しい!!: 徳川家康と関ヶ原の戦い · 続きを見る »

関ケ原町

関ケ原町(せきがはらちょう)は、古代日本の壬申の乱や近世の関ヶ原の戦いの古戦場として有名な岐阜県不破郡の町。自治体名称の正式表記には小書きの「関ヶ原」ではなく「関ケ原」を採用している。.

新しい!!: 徳川家康と関ケ原町 · 続きを見る »

関東地方

関東地方(かんとうちほう)は、日本の地域区分のひとつであり、本州の東部に位置している。その範囲について法律上の明確な定義はないが、一般的には茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県の1都6県を指して関東地方と呼ぶ『日本地名大百科』p.350。。 首都・東京を擁する関東地方は日本の政治・経済の中心となっており、日本の総人口の3分の1が集中している。 首都圏整備法が定義する「首都圏」には、関東地方に山梨県を加えた1都7県が含まれる。また、「関東地方知事会」には、首都圏1都7県に加えて、中部圏知事会議にも加わっている静岡県、長野県の両県知事がオブザーバー参加している。関東地方は人口・面積が多数・広大なので、利根川を境界線に北を北関東(茨城県・栃木県・群馬県)地方、南を南関東地方(埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県)に分割することもある。.

新しい!!: 徳川家康と関東地方 · 続きを見る »

関東管領

関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した。.

新しい!!: 徳川家康と関東管領 · 続きを見る »

薩摩国

薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と薩摩国 · 続きを見る »

生薬(陳皮) 漢方薬(六君子湯) 化学薬品(レバミピド);人にもちいる薬.

新しい!!: 徳川家康と薬 · 続きを見る »

薬師如来

薬師如来(やくしにょらい、Bhaiṣajyaguru, バイシャジヤグル)、あるいは薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)は、大乗仏教における如来の一尊。大医王、医王善逝(いおうぜんぜい)とも称する。 三昧耶形は薬壺、または丸薬の入った鉢。種字は尊名のイニシャルのバイ(भै、)。.

新しい!!: 徳川家康と薬師如来 · 続きを見る »

間宮康俊

間宮 康俊(まみや やすとし、永正15年(1518年) - 天正18年3月29日(1590年5月3日))は、戦国時代の武将。後北条氏の家臣。豊前守、豊前入道を称す。法名は宗閑。父は間宮信元。子に間宮康次、間宮康信、間宮善十郎、間宮信高、間宮元重の男子と、徳川家康の侍女、足利義氏の家臣・豊前氏盛の室となった二人の娘がいる。 歴代相模玉縄城主の北条綱成・氏繁・氏舜・氏勝に仕えた。1532年から北条氏綱がはじめた鶴岡八幡宮の造営工事に天文5年(1536年)から奉行として参加している。以後、里見氏との関係が悪化してくると伊豆衆の水軍を管理し、江戸湾岸の監視警備も担当した。永禄2年(1559年)の役帳では698貫を知行されている。 天正18年(1590年)の秀吉による小田原征伐では、松田康長が守る山中城へ援軍として赴き、康俊の部隊は一柳直末を討ち取るなど奮戦したものの衆寡敵せず、最期は「白髪首を敵に供するのは恥」と墨汁で髪を染め、敵中に突撃して戦死した。享年73。.

新しい!!: 徳川家康と間宮康俊 · 続きを見る »

薄田兼相

薄田 兼相(すすきだ かねすけ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将である。通称は隼人正。豊臣秀頼に仕えた。仇討ちや狒々退治の伝説で知られる武芸者・岩見 重太郎(いわみ じゅうたろう)と同一視される。.

新しい!!: 徳川家康と薄田兼相 · 続きを見る »

開眼法要

開眼法要(かいげんほうよう)は、仏像、仏画、仏壇、墓などの完成の際に営まれる法要のこと。開眼供養、入魂式、魂入れとも言う。 例外として浄土真宗では、「開眼法要」・「入魂式」は営まない(詳細は#御移徙を参照)。.

新しい!!: 徳川家康と開眼法要 · 続きを見る »

門跡

跡(もんせき、もんぜき)は、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。寺格の一つ。元来は、日本の仏教の開祖の正式な後継者のことで「門葉門流」の意であった(この場合は門主とも)。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになった。 浄土宗の知恩院門跡は浄土門主(もんす)という。 浄土真宗本願寺派の本願寺住職は門主(もんしゅ)、真宗大谷派の僧侶及び門徒の代表者は門首(もんしゅ)と書き、いずれも親鸞の子孫の大谷家から出ている。.

新しい!!: 徳川家康と門跡 · 続きを見る »

藤原定家

藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、鎌倉時代初期の公家・歌人。諱は「ていか」と音読みされることが多い。小倉百人一首の撰者で権中納言定家を称する。.

新しい!!: 徳川家康と藤原定家 · 続きを見る »

藤原氏

藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.

新しい!!: 徳川家康と藤原氏 · 続きを見る »

藤堂高虎

津城址にある藤堂高虎像 藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。 何度も主君を変えた戦国武将として知られる。築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城し黒田孝高、加藤清正とともに名人として知られる。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。.

新しい!!: 徳川家康と藤堂高虎 · 続きを見る »

藤田信吉

藤田 信吉(ふじた のぶよし)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。下野西方藩初代藩主。.

新しい!!: 徳川家康と藤田信吉 · 続きを見る »

藤野保

藤野 保(ふじの たもつ、1927年(昭和2年)9月5日 - )は、日本の日本史学者。.

新しい!!: 徳川家康と藤野保 · 続きを見る »

藤枝市

藤枝市(ふじえだし)は、静岡県中部に位置する都市。静岡県中部では静岡市に次ぎ二番目に人口が多い。.

新しい!!: 徳川家康と藤枝市 · 続きを見る »

藤沢市

藤沢市(ふじさわし)は、神奈川県南部中央に位置する、相模湾に接した市である。「湘南」と呼ばれる地域の中では、最大の人口を有する。.

新しい!!: 徳川家康と藤沢市 · 続きを見る »

藤波畷の戦い

藤波畷の戦い(ふじなみなわてのたたかい)は、永禄4年(1561年)9月13日(旧暦)に行われた、東条吉良氏の居城東条城をめぐる吉良氏と松平元康(徳川家康)の一連の攻防戦の一つ。 この戦いで吉良義昭の家老富永忠元(伴五郎)が本多広孝に城下の藤波畷(愛知県西尾市吉良町瀬戸藤波付近)で討たれ、吉良義昭は防戦の望みを失い降伏したとされる。.

新しい!!: 徳川家康と藤波畷の戦い · 続きを見る »

葵 徳川三代

『葵 徳川三代』(あおい とくがわさんだい)は、NHKが2000年1月9日から12月17日に放送された39作目の大河ドラマ。.

新しい!!: 徳川家康と葵 徳川三代 · 続きを見る »

葛西大崎一揆

葛西大崎一揆(かさいおおさきいっき)は、天正18年(1590年)に発生した、豊臣秀吉の奥州仕置により改易された葛西氏・大崎氏らの旧臣による新領主・木村吉清・清久父子に対する反乱である。.

新しい!!: 徳川家康と葛西大崎一揆 · 続きを見る »

蒲生秀行 (侍従)

蒲生 秀行(がもう ひでゆき)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。陸奥会津藩主。.

新しい!!: 徳川家康と蒲生秀行 (侍従) · 続きを見る »

蒲生氏郷

蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。 蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(やすひで)または教秀(のりひで)。キリシタン大名であり、洗礼名はレオン(またはレオ)。子に蒲生秀行。.

新しい!!: 徳川家康と蒲生氏郷 · 続きを見る »

蒔絵

蒔絵(まきえ)は、漆工芸技法の一つである。 漆器の表面に漆で絵や文様、文字などを描き、それが乾かないうちに金や銀などの金属粉を「蒔く」ことで器面に定着させる技法である。金銀の薄板を定着させる「平文(ひょうもん)または、平脱(へいだつ)」や漆器表面に溝を彫って金銀箔を埋め込む「沈金(ちんきん)」、夜光貝、アワビ貝などを文様の形に切り透かしたものを貼ったり埋め込んだりする「螺鈿(らでん)」などとともに、漆器の代表的加飾技法の一つである。 日本国内に現存する最古の蒔絵資料は正倉院宝物の「金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうからたち)」の鞘に施された「末金鏤作(まっきんるさく)」であり、これは2009~2010年に行われた宮内庁正倉院事務所の科学的な調査研究によって、研出蒔絵であることが確認されている。.

新しい!!: 徳川家康と蒔絵 · 続きを見る »

那波藩

那波藩(なははん)は、上野(現在の群馬県伊勢崎市)に存在した藩。.

新しい!!: 徳川家康と那波藩 · 続きを見る »

肖像

肖像(しょうぞう)とは、特定の人間の外観を表現した絵画や写真、彫刻である。それぞれ肖像画(絵画)、肖像写真(写真)、肖像彫刻と呼ばれる。肖似性(類似)が求められる場合もあれば、理想化が求められる場合もある。芸術的な造形や精神性を示すこともある。.

新しい!!: 徳川家康と肖像 · 続きを見る »

蓮姫

蓮姫(れんひめ、天正10年(1582年) - 慶安5年7月21日(1652年8月24日)は、久留米藩初代藩主・有馬豊氏の正室。長沢松平家第9代当主・松平康直の長女。母は本多広孝の娘。 慶長5年(1600年)6月、徳川家康の養女となり、有馬豊氏に嫁いだ。このとき、筑後国内に化粧料として7000石賜った。 慶安5年(1652年)に死去し、渋谷祥雲寺に葬られた。法名は長寿院普光宗照大姉。.

新しい!!: 徳川家康と蓮姫 · 続きを見る »

蓮華院 (徳川家康側室)

蓮華院(れんげいん、天正14年(1586年) - 正保4年9月11日(1647年10月8日))は、徳川家康の側室。後に下野国小山藩主・本多正純の継室。名は梅(お梅の方)。父は豊臣家家臣である青木一矩。家康の外祖母である華陽院は叔母にあたる秋元茂陽『徳川将軍家墓碑総覧』(パレード、星雲社、2008年、p74)。.

新しい!!: 徳川家康と蓮華院 (徳川家康側室) · 続きを見る »

蔵人

蔵人(くろうど、藏人)は日本の律令制下の令外官の一つ。天皇の秘書的役割を果たした。唐名は侍中(じちゅう)、夕郎(せきろう)、夕拝郎(せきはいろう)。蔵人所は事務を行う場所のことで、内裏校書殿の北部に置かれた。また、蔵人は百官名或いは人名の一つでもあり、この場合は「くらんど」と読む。.

新しい!!: 徳川家康と蔵人 · 続きを見る »

蔵入地

蔵入地(くらいりち)は、戦国時代から江戸時代における領地区分の一つである。大名もしくは政権、幕府の直轄地のことである。所領のうち、家臣へ与える知行地に対するもの。蔵入地には、代官を派遣して直接支配を行い、年貢・諸役などの徴収にあたった。.

新しい!!: 徳川家康と蔵入地 · 続きを見る »

脇坂安治

脇坂 安治(わきざか やすはる)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍の一人。淡路国洲本藩主。後に伊予国大洲藩初代藩主。龍野藩脇坂家初代。家紋は「輪違い」。.

新しい!!: 徳川家康と脇坂安治 · 続きを見る »

野一色助義

野一色 助義(のいっしき すけよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。中村一氏の家臣。通称は頼母。.

新しい!!: 徳川家康と野一色助義 · 続きを見る »

野田城 (三河国)

野田城(のだじょう)は、愛知県新城市豊島にある日本の城。別名「根古屋城」、「三河野田城」とも呼ぶ。1505年(永正2年)に菅沼氏が築城した城である。最寄り駅はこの城の名より名付けられたJR飯田線野田城駅。下車徒歩15分。.

新しい!!: 徳川家康と野田城 (三河国) · 続きを見る »

野菜

様々な野菜。 野菜(やさい、vegetable)は、食用の草本植物の総称『健康・栄養学用語辞典』中央法規出版 p.636 2012年。水分が多い草本性で食用となる植物を指す。主に葉や根、茎(地下茎を含む)、花・つぼみ・果実を副食として食べるものをいう。.

新しい!!: 徳川家康と野菜 · 続きを見る »

重陽

重陽(ちょうよう)は、五節句の一つで、9月9日のこと。旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれる。 陰陽思想では奇数は陽の数であり、陽数の極である9が重なる日であることから「重陽」と呼ばれる。奇数の重なる月日は陽の気が強すぎるため不吉とされ、それを払う行事として節句が行なわれていたが、九は一桁の数のうち最大の「陽」であり、特に負担の大きい節句と考えられていた。後、陽の重なりを吉祥とする考えに転じ、祝い事となったものである 邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしていた。また前夜、菊に綿をおいて、露を染ませ、身体をぬぐうなどの習慣があった。現在では、他の節句と比べてあまり実施されていない。.

新しい!!: 徳川家康と重陽 · 続きを見る »

臨済宗

臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう)は、中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。 中国禅宗の祖とされる達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の1人である南嶽懐譲(677年 - 744年)から、馬祖道一(709 - 788年、洪州宗)、百丈懐海(749 - 814年)、黄檗希運(? - 850年)と続く法系を嗣いだ唐の臨済義玄(? - 867年)によって創宗された。彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。 宋代の大慧宗杲(1089 - 1163年)と曹洞宗の宏智正覚(1091 - 1157年)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。 日本には栄西(1141 - 1215年)以降、中国から各時代に何人もの僧によって持ち込まれ、様々な流派が成立した。黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派である。歴史的に鎌倉幕府・室町幕府と結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山・鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められている他、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。江戸時代の白隠慧鶴(1686 - 1769年)が中興の祖として知られる。.

新しい!!: 徳川家康と臨済宗 · 続きを見る »

臼井藩

臼井藩(うすいはん)は、下総国印旛郡臼井(現在の千葉県佐倉市臼井)に存在した藩。碓井藩と呼ばれることもある。藩庁は臼井城。.

新しい!!: 徳川家康と臼井藩 · 続きを見る »

里見義康

里見 義康(さとみ よしやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。里見義頼の長男。安房館山藩初代藩主。.

新しい!!: 徳川家康と里見義康 · 続きを見る »

里見氏

里見氏(さとみし)は、日本の氏族のひとつ。中世に日本の武家としてはじまった。本姓は源氏(河内源氏)。源(新田)義重の子・義俊を祖とする氏族で、新田氏の庶宗家である。戦国時代、一族からは房総地方を領する戦国大名・安房里見氏が出た。.

新しい!!: 徳川家康と里見氏 · 続きを見る »

金山

金山(きんざん、かなやま、かねやま).

新しい!!: 徳川家康と金山 · 続きを見る »

金ヶ崎の戦い

金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)は戦国時代の1570年(元亀元年)に起きた、織田信長と朝倉義景との戦闘のひとつ。金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)または金ヶ崎崩れとも呼ばれ、戦国史上有名な織田信長の撤退戦である。.

新しい!!: 徳川家康と金ヶ崎の戦い · 続きを見る »

金谷宿

葛飾北斎「東海道金谷の不二」 歌川広重「五十三次名所図会 廿五 金谷」 金谷宿(かなやしゅく、かなやじゅく) は、東海道五十三次の24番目の宿場である。遠江国最東端の宿場町である。 現在の静岡県島田市金谷。大井川の右岸(京都側)にあり、牧之原台地が迫る狭隘な場所であるが、増水で大井川の川越が禁止されると、江戸へ下る旅客が足止めされ、島田宿と同様、さながら江戸のような賑わいをみせた。.

新しい!!: 徳川家康と金谷宿 · 続きを見る »

金沢区

金沢区(かなざわく)は、日本の神奈川県横浜市を構成する18の行政区のうちの一つであり、横浜市18行政区の最南端に位置する。「金沢」はかつては「かねさわ」と読まれていたが、近世以降加賀藩の「かなざわ」が著名になったことから、読みが移り変わったとされている(はまれぽ.com 2014年11月13日).

新しい!!: 徳川家康と金沢区 · 続きを見る »

長宗我部元親

長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。位階は従五位下で死後に正五位、昭和3年(1928年)には正三位が贈られた。 長宗我部国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。 土佐国の守護職を兼ねる細川京兆家当主で管領の細川晴元より、京兆家の通字である「元」の一字を受けたため、かつて同じく細川氏より「元」の字を受けた15代当主(長宗我部元親 (南北朝時代))と同名を名乗ることとなった。 土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げる。しかし、その後に織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となった。豊臣政権時、戸次川の戦いで愛息・信親を亡くすと生活は荒れ、家中を混乱させたままこの世を去った。.

新しい!!: 徳川家康と長宗我部元親 · 続きを見る »

長宗我部氏

長宗我部氏(ちょうそかべし)は、日本の武家の一つ。平安時代末から戦国時代の武家。戦国時代に土佐を統一し四国に進出した戦国大名、長宗我部元親で有名。長曽我部・長曾我部とも記される。 本姓は秦氏を称した。家紋は「七つ酢漿草かたばみ」。室町時代以降、通字に「親」を用いた。 現・当主は長宗我部(ちょうそ'''が'''べ)友親。.

新しい!!: 徳川家康と長宗我部氏 · 続きを見る »

長崎奉行

長崎奉行(ながさきぶぎょう)は江戸幕府の遠国奉行の一つ。遠国奉行首座。.

新しい!!: 徳川家康と長崎奉行 · 続きを見る »

長久手市

長久手市(ながくてし)は、愛知県北西部にある市。名古屋市と豊田市の間に位置する。.

新しい!!: 徳川家康と長久手市 · 続きを見る »

長勝院

長勝院(ちょうしょういん、天文17年(1548年) - 元和5年12月6日(1620年1月10日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。江戸幕府の初代将軍・徳川家康の側室。物部姓永見氏の娘。通称おこちゃ、於万の方、小督局とも。結城秀康の生母。.

新しい!!: 徳川家康と長勝院 · 続きを見る »

長篠城

長篠城(ながしのじょう)は、三河設楽郡長篠(愛知県新城市長篠)にあった日本の城。特に天正3年(1575年)の長篠の戦いに先立つ長篠城をめぐる激しい攻防戦で知られる。 現在は国の史跡に指定され、城跡として整備されている。.

新しい!!: 徳川家康と長篠城 · 続きを見る »

長篠の戦い

長篠の戦い(ながしののたたかい、長篠の合戦・長篠合戦とも)は、戦国時代の天正3年5月21日(1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦。 決戦地が設楽原(設楽ヶ原、したらがはら)および有海原(あるみ原)(『藩翰譜』、『信長公記』)だったため長篠設楽原(設楽ヶ原)の戦い(ながしの したらがはら の たたかい)と記す場合もある。.

新しい!!: 徳川家康と長篠の戦い · 続きを見る »

長谷川秀一

長谷川 秀一(はせがわ ひでかず)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。.

新しい!!: 徳川家康と長谷川秀一 · 続きを見る »

長谷川藤広

長谷川 藤広(はせがわ ふじひろ、永禄10年(1567年) - 元和3年10月26日(1617年11月24日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本「長谷川藤広」『国史大辞典』第11巻、吉川弘文館、556頁。。江戸幕府の長崎奉行を勤めた。通称は左兵衛。長谷川藤直の子。子に広貞、広永、広直、広清がいる。.

新しい!!: 徳川家康と長谷川藤広 · 続きを見る »

長谷川長綱

長谷川 長綱(はせがわ ながつな、天文12年(1543年) - 慶長9年4月12日(1604年5月10日))は江戸時代初期の代官頭。今川義元に仕えた長谷川長久の子。兄に向井正勝、長谷川長盛、弟に長谷川長次ら。通称、七左衛門。 今川氏没落後に徳川家康に仕えた父と共に、代官として活躍した。天正12年(1590年)、北条氏滅亡後に関東に入府した家康に従い、検地などを行った。江戸幕府成立後、大久保長安、伊奈忠次、彦坂元正らと関東代官に任ぜられ、相模国浦賀(現神奈川県横須賀市)に陣屋を置き、主に三浦半島の幕府天領を管轄した。なお、この陣屋跡は陣屋山と呼ばれ、現在愛宕山公園(別名浦賀園)となっている。 また、特筆するべきは海運に長じていて、元武田氏の水軍で、後に家康に仕えて御召船奉行となった向井正綱と長く姻戚関係にあったこともあり、共に江戸湾・三浦半島の発展に大きく貢献した。 慶長9年(1604年)4月12日に62歳で没したと伝わる。墓所は神奈川県逗子市の海宝院。 Category:戦国武将 Category:江戸幕府の郡代・代官 Category:1543年生 Category:1604年没 なかつな.

新しい!!: 徳川家康と長谷川長綱 · 続きを見る »

様々な種類の酒 缶チューハイに記された点字"おさけ" 酒(さけ)は、エタノール(アルコールの一種)が含まれた飲料の総称で、抑制作用があるため飲むと酩酊を起こす。お酒という丁寧な呼び方もよく用いられ、酒類やアルコール飲料、またソフトドリンクに対して「ハードドリンク」とも呼ばれることがある。西洋ではワインに相当する語彙が総称として用いられることがある。 酒は人類史において最古から存在する向精神薬の一つである。人間には普遍的に「自分以外の存在になりたい」という潜在的願望があり、酒による酩酊はその願望を叶える有効な手段の一つだった。しかし、酩酊は往々にして混乱や無秩序をもたらし、社会から忌避される。「百薬の長とはいへど、よろづの病は酒よりこそ起これ」などと言われ、古来より酒は社会にとって両価値的存在だった。 酒の歴史は古く、有史以前から作られていたと見られている(→#歴史)。製造方法や原料等多種多様であるが、原材料から発酵によってエタノールを生成することで共通している。果実原料ではブドウを使ったワインやリンゴなど果実酒、穀物原料では大麦によるビールや米など、イモ類ではサツマイモを使った焼酎など。様々なアルコール度数を持った酒が作られる(→#種類)。 効用としては、俗にストレスの解消、コミュニケーションの円滑化、疲労回復が挙げられる(→#効用)。しかし脳を委縮させ、時に違法薬物を上回ると言われる最も有害な薬物であり、世界で毎年250万人の死亡につながり死因の4%を占める。作用量と致命的な量が近く急性アルコール中毒になりやすい薬物であり、アルコール乱用や、禁断症状が致命的な振戦せん妄となりうるアルコール依存症となることもあり、アルコール飲料はIARC発がん性でグループ1(発がん性あり)にも分類される。(→#健康への影響)判断力が低下し、交通事故などの事故、また一時的に記憶が完全になくなることもある。社会的には暴力や自殺が挙げられる(→#飲酒と社会)。 このように及ぼす影響が大きいため、2010年に世界保健機関のアルコールの有害な使用を低減するための世界戦略が採択されており、また政府の税収確保のため、酒の製造および流通(販売)は、多くの国において法律により規制されている(→#法律)。宗教ごとに酒の扱いは異なっており、儀式に用いられたり、神への捧げものであったり、また身を清め神との一体感を高めるための飲み物とされている。宗教によっては、飲酒を禁じているものもある(→#宗教と酒)。.

新しい!!: 徳川家康と酒 · 続きを見る »

酒井家次

酒井 家次(さかい いえつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。徳川氏の家臣。.

新しい!!: 徳川家康と酒井家次 · 続きを見る »

酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)

酒井 忠勝(さかい ただかつ)は、武蔵川越藩の第2代藩主、後に若狭小浜藩の初代藩主。第3代将軍・徳川家光から第4代将軍徳川家綱時代の老中・大老。.

新しい!!: 徳川家康と酒井忠勝 (若狭国小浜藩主) · 続きを見る »

酒井忠次

酒井 忠次(さかい ただつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。徳川氏の家臣。 徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられている。.

新しい!!: 徳川家康と酒井忠次 · 続きを見る »

酒井重忠

酒井 重忠(さかい しげただ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。武蔵川越藩初代藩主、後に上野厩橋藩初代藩主。雅楽頭系酒井家宗家初代。.

新しい!!: 徳川家康と酒井重忠 · 続きを見る »

良純入道親王

良純入道親王(りょうじゅんにゅうどうしんのう、慶長8年12月17日(1604年1月18日)-寛文9年8月1日(1669年8月27日))は、江戸時代初期の皇族。後陽成天皇の第8皇子で母は典侍庭田具子(権大納言庭田重具の娘)。当初は徳川家康の猶子として直輔親王と名乗った。知恩院初代門跡。通称は八宮。.

新しい!!: 徳川家康と良純入道親王 · 続きを見る »

良雲院

良雲院(りょううんいん、生年不明 - 寛永14年3月12日(1637年4月7日))は、徳川家康の側室。名は竹。父は武田家の旧臣である市川昌永とされる。.

新しい!!: 徳川家康と良雲院 · 続きを見る »

鉱山

鉱山(こうざん)とは、資源として有用な鉱物を採掘・選鉱・製錬し、主として工業用の原料として供給する事業所の事を指す。.

新しい!!: 徳川家康と鉱山 · 続きを見る »

若神子城

公園広場 若神子城(わかみこじょう)は山梨県北杜市須玉町若神子にあった日本の城。中世の山城で、現在は城跡が残る(若神子城跡)。.

新しい!!: 徳川家康と若神子城 · 続きを見る »

英勝院

英勝院(えいしょういん、天正5年11月9日(1578年12月7日) - 寛永19年8月23日(1642年9月17日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の側室。.

新しい!!: 徳川家康と英勝院 · 続きを見る »

鋸挽き

鋸挽き(のこぎりびき)は、死刑の一で、罪人の体を鋸で挽く刑罰である。中世および近世の日本で行われた。また、ヨーロッパや中国(『五車韻瑞』、『塵添壒嚢鈔』11、また『北斉書』文宣皇帝本紀(穆嵩)と薛嬪伝(薛嬪の姉))でも行なわれた。この項では、かつて日本で行われていた鋸挽きについて説明する。西洋の鋸引きについては刑罰の一覧を参照。 天暦(947年から957年)年間、厨子王丸(対王丸とも)が丹後の領主となって、由良の湊の山椒大夫を捕らえ、竹鋸でその首を断たせたという伝説がある(安寿と厨子王丸参照)。 復讐刑としての意味合いも強く、縛り付けた罪人の首に浅く傷をつけ、その血をつけた鋸を近くに置いて、被害者親族や通行人に一回か二回ずつ挽かせ、ゆっくりと死なせる刑罰であり、江戸時代より以前には実際に首を鋸で挽かせていた。 だが、江戸時代になると形式的なものになり、「御定書百箇条」において正刑のひとつ、且つ最も重い死刑として掲げられた。すなわち、その七十一に、とある。日本橋の南の広場に、方3尺、深さ2尺5寸の穴晒箱という箱をなかば土中に埋め、箱に罪人を入れ、首だけが地面から出るようにした上で3日間(2晩)見せ物として晒した(穴晒)。その際、罪人の首の左右にタケの鋸と鉄の鋸を立てかけておいたが実際に鋸で首を挽くことはなく、晒した後は市中引き回しをしたうえで磔とした。元禄時代に罪人の横に置かれた鋸を挽く者がおり、慌てた幕府はその後、監視の役人を置くようにしたという。 江戸時代に科されていた6種類の死刑の中で最も重い刑罰であり、主人殺しにのみ適用された。 この刑は明治元年(1868年)11月13日の達で、火刑とともに廃された。.

新しい!!: 徳川家康と鋸挽き · 続きを見る »

雲光院

雲光院像(徳川記念財団蔵) 雲光院(うんこういん、弘治元年2月13日(1555年3月16日) - 寛永14年1月22日(1637年2月16日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の側室。名は須和。号は阿茶局、雲光院、一位局、一位尼。父は飯田直政(久左衛門・筑後守とも)。子息として神尾守世・神尾守繁、養子として神尾元勝・高源院 (鍋島勝茂正室)がいる。.

新しい!!: 徳川家康と雲光院 · 続きを見る »

雑賀衆

雑賀衆(さいかしゅう)は、中世の日本に存在した鉄砲傭兵・地侍集団の一つである。また、史料に見られる「惣国」と同じと考えられているため、「紀州惣国」もしくは「雑賀惣国」とも呼ばれている。雑賀衆は紀伊国北西部(現在の和歌山市及び海南市の一部)の「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」の五つの地域(五組・五搦などという)の地侍達で構成されていた。高い軍事力を持った傭兵集団としても活躍し、鉄砲伝来以降は、数千挺もの鉄砲で武装した。また海運や貿易も営んでいた。「さいが」と読むのは誤読である。.

新しい!!: 徳川家康と雑賀衆 · 続きを見る »

陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

新しい!!: 徳川家康と陸奥国 · 続きを見る »

TBS大型時代劇スペシャル

『TBS大型時代劇スペシャル』(ティービーエスおおがたじだいげきスペシャル)は、時代劇のテレビ映画。TBSで1987年(昭和62年) - 1997年(平成9年)の間、元日18:00 - 22:24もしくは22:54にTBS系列で放送された。それぞれの作品に映画やテレビドラマなどで活躍する俳優・監督・スタッフが結集している。TBSと東映が制作しているが、最終作『竜馬がゆく』のみテレパックが担当。『坂本龍馬』を除き、JNNニュースが放送中に差し込まれた。『大忠臣蔵』『愛と野望の独眼竜 伊達政宗』以外の各作品はDVDで販売されている。.

新しい!!: 徳川家康とTBS大型時代劇スペシャル · 続きを見る »

TBSテレビ

株式会社TBSテレビ(ティービーエステレビ、Tokyo Broadcasting System Television, Inc.)は、関東広域圏を放送対象地域としてテレビジョン放送事業を行っている特定地上基幹放送事業者であり、スカパー!をプラットフォームとしてTBSニュースバード・TBSチャンネルの放送を行っている衛星一般放送事業者、赤坂サカスを業務区域とするエリア放送事業を行っている地上一般放送事業者でもある。また、東京放送ホールディングス(以下TBSHD)の連結子会社である。 略称はTBSであるが、ラテ兼営の過去からグループ会社の中波ラジオ単営局TBSラジオ(TBS R、旧TBSラジオ&コミュニケーションズ(TBS R&C))もしばしばそのように表記されるこのためTBSラジオの新サイトでTBSテレビは「TBS TV」と表記されている。。 本項目では、法人としての「株式会社TBSテレビ」、および地上基幹放送局としての「TBSテレビ」、「TBSテレビジョン」について記述する。 リモコンキーIDはアナログ親局6chから「6」。.

新しい!!: 徳川家康とTBSテレビ · 続きを見る »

抹香

抹香(まっこう)は、香のひとつで粉末状の香をいう。 かつては、沈香やセンダン(栴檀)などが用いられたが、現在は主にシキミ(樒)の樹皮と葉を乾燥して、粉末にしたものが用いられる。 古い時代には、仏塔などで蒔くように使われたが現在では主に焼香用に用いられる。 また、沈香などの抹香に貝殻などの甲香(こうこう)を混ぜて練ったものを練香(ねりこう、=煉香)といい、合香(あわせこう)、薫物(たきもの)などとも称される。.

新しい!!: 徳川家康と抹香 · 続きを見る »

暗殺

リンカーン大統領の暗殺を描いた絵画(米国) ガンディー・暗殺されたインドの政治家 金玉均・暗殺された李氏朝鮮の政治家 ジョン・レノン・イングランド出身の音楽家、銃弾を受け死去 坂本龍馬・幕末の英雄、盟友の中岡と共に死去 暗殺(あんさつ)は、主に政治的、宗教的または実利的な理由により、要人殺害を密かに計画・立案し、不意打ちを狙って実行する殺人行為(謀殺)のこと。 見せしめや弾圧、粛清の一種としても存在する。.

新しい!!: 徳川家康と暗殺 · 続きを見る »

柳屋本店 (化学)

株式会社 柳屋本店(やなぎやほんてん)は、東京都中央区日本橋馬喰町に本社を置く、ポマードなどの整髪料を中心とする化粧品メーカーである。 1615年(元和元年)に創業された老舗企業として、その名を知られている。 「柳屋」という名称の由来は、柳のごとく常に頭を低くし、幾多の苦難にも挫折することなく商売繁盛することを祈念したものである。.

新しい!!: 徳川家康と柳屋本店 (化学) · 続きを見る »

柳生宗厳

柳生 宗厳(やぎゅう むねよし/むねとし)、柳生 宗嚴、大永7年(1527年) – 慶長11年4月19日(1606年5月25日))は、剣術の新陰流継承者で武将、官位は但馬守。号は石舟斎、通称は新介、新次郎、新左衛門、右衛門。柳生家厳の子。新陰流第2世。 子に柳生厳勝(柳生利厳の父)、江戸幕府に仕えた柳生宗矩、柳生宗章ほか。.

新しい!!: 徳川家康と柳生宗厳 · 続きを見る »

柳生宗矩

柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)は、江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の兵法指南役。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。.

新しい!!: 徳川家康と柳生宗矩 · 続きを見る »

柴田勝家

柴田 勝家(しばた かついえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。.

新しい!!: 徳川家康と柴田勝家 · 続きを見る »

柴田顕正

柴田 顕正(しばた けんせい、1873年7月15日 - 1940年4月20日)は、日本の郷土史家、教育者。『岡崎市史』全8巻(1926年~1930年)とその別巻である『徳川家康と其周囲』全3巻(1934年~1935年)を半生を傾けて完成させた。正式には「柴田顯正」と表記。.

新しい!!: 徳川家康と柴田顕正 · 続きを見る »

柿田川

柿田川(かきたがわ『日本の地名がわかる事典』講談社)(コトバンク による)2016年1月2日閲覧。、かきだがわ)は、静岡県駿東郡清水町を流れる狩野川水系の一級河川。全長は約1.2kmで出典: - 沼津河川国道事務所日本で最も短い一級河川である。かつては泉川、周辺地域は泉郷と呼ばれていた。大量の湧水を水源とする日本でも稀有な川である。 本河川は、長良川・四万十川とともに日本三大清流に数えられている。1985年(昭和60年)柿田川湧水群として名水百選に選定された。さらに国の天然記念物にも「地質鉱物」の枠で指定された。これは民間の企画であるが、日本の秘境100選にも選定されている。.

新しい!!: 徳川家康と柿田川 · 続きを見る »

柘植氏

柘植氏(つげし)は、日本の氏族のひとつ。桓武平氏に端を発し、武家として戦国時代から江戸時代にかけて活動した。通字は「清」(きよ)、「宗」(むね)、「英」(ひで)。.

新しい!!: 徳川家康と柘植氏 · 続きを見る »

柘植清広

柘植 清広(つげ きよひろ、天文9年(1540年) - 寛永6年8月22日(1629年10月8日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての伊賀流忍者、旗本。柘植氏当主。通称は三之丞。法名は宗伯。父は柘植宗家、兄は柘植宗能。養子に柘植宗次。 鉄砲に秀で、威風流砲術を開く。天正伊賀の乱に際し、徳川家康に接近する。本能寺の変発生時、堺にいた家康が伊賀越えを決行すると、信楽と伊勢国白子間を一族で警護した。 関ヶ原の戦いで活躍して甲賀郡300石を賜り、慶長8年(1603年)には伏見城の城番を務める。慶長19年(1614年)の大坂の陣では、松平正綱の仰せにより鉄砲隊を率いた。後に幕府旗本となる。元和8年(1622年)に致仕し、寛永6年(1629年)に90歳で死去した。 Category:戦国武将 Category:江戸幕府旗本 Category:歴史上の忍者 きよひろ Category:1540年生 Category:1629年没.

新しい!!: 徳川家康と柘植清広 · 続きを見る »

林羅山

林 羅山(はやし らざん、天正11年(1583年) - 明暦3年1月23日(1657年3月7日))は、江戸時代初期の朱子学派儒学者。林家の祖。羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)。字は子信。通称又三郎。出家した後の号、道春(どうしゅん)の名でも知られる羅山、道春のほか、羅浮子・夕顔巷・胡蝶洞・梅花村その他の号がある。宮崎(1994)。.

新しい!!: 徳川家康と林羅山 · 続きを見る »

掛川城

天守及び太鼓櫓 掛川城(かけがわじょう)は、遠江国佐野郡掛川(現在の静岡県掛川市掛川)にあった日本の城である。.

新しい!!: 徳川家康と掛川城 · 続きを見る »

恵最

恵最(えさい、生没年不詳)は、戦国時代の僧侶。正式名は樵暗恵最(しょうあんえさい)または樵臆恵最(しょうおくえさい)。岡崎城の城主・松平広忠の子、徳川家康の異母兄弟。生母は大給松平家松平乗正の娘「於久の方」。同母兄は松平忠政(1541年? - 1599年?)。初めの法名は穎新(えいしん)または恵新(けいしん)という。 天文10年(1541年)に於大の方の岡崎城輿入れの際に、広忠の側室・於久の方は長男勘六(忠政)を連れて、化粧田である近郊の桑谷村へと移り、そこで恵最を産んだ。恵最は天文11年(1542年)12月26日に誕生し、恵最は家康と同年同生だという。一説には家康と同年同生、於大の方の子で家康と双子の兄弟という。 永禄5年(1562年)に今川義元から独立して岡崎城に帰参した家康はこの母子の訪れて面会したという。この母子は故・広忠の位牌に参拝し、位牌に「道幹大禅正門尊霊」と自筆を認めた。このとき、於久の方は出家し尼となり「妙淋」と称し、広忠の菩提のため寺の建立を家康に請い、広忠の名前を寺号とした瑞雲山広忠寺(こうちゅうじ)を桑谷村に建立した。恵最がその住職になったと伝わる。 しかし、於久の方が天文10年(1541年)には40歳前後とする記録があることで、於久の方が当時15歳の広忠の側室とはするのは不自然であり、忠政・恵最兄弟は広忠の子としては不自然とし、これを否定する説もある。.

新しい!!: 徳川家康と恵最 · 続きを見る »

揖斐川

揖斐川(手前)・木曽川(奥)河口空撮 揖斐川(いびがわ)は、岐阜県、三重県を流れる木曽川水系の一級河川。いわゆる木曽三川のひとつである。.

新しい!!: 徳川家康と揖斐川 · 続きを見る »

李氏朝鮮

李氏朝鮮(りしちょうせん、朝鮮語ハングル表記:이씨조선)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。朝鮮王朝、朝鮮封建王朝とも呼ばれる。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。李朝(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。高麗の次の王朝にあたる。 1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。東人派や西人派、老論派、南人派など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。.

新しい!!: 徳川家康と李氏朝鮮 · 続きを見る »

来島長親

来島 長親(くるしま ながちか、天正10年(1582年)- 慶長17年3月15日(1612年4月15日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。豊後森藩初代藩主。.

新しい!!: 徳川家康と来島長親 · 続きを見る »

杭瀬川の戦い

杭瀬川の戦い(くいせがわのたたかい)は、慶長5年9月14日(1600年10月20日)に行なわれた戦い。関ヶ原の戦いの前哨戦にあたり、この戦いは局地戦であったが、西軍が勝利した。.

新しい!!: 徳川家康と杭瀬川の戦い · 続きを見る »

東宝

東宝株式会社(とうほう)は、映画・演劇の製作配給・興行や不動産賃貸を行う日本の企業。一般には映画会社として知られる。 阪急阪神ホールディングスの持分法適用会社で、2015年現在、2つの直営演劇劇場(帝国劇場、新館シアタークリエ)を保有する。阪急阪神ホールディングス(阪急電鉄、阪神電気鉄道)、エイチ・ツー・オー リテイリング(阪急百貨店、阪神百貨店)とともに、阪急阪神東宝グループの中核企業となっている。本社は東京都千代田区有楽町一丁目2番2号。 他の阪急阪神東宝グループ同様三和グループのメンバーであるが、阪急電鉄と異なり三水会には参加せず、みどり会のみに参加している。.

新しい!!: 徳川家康と東宝 · 続きを見る »

東京国立博物館

東京国立博物館(とうきょうこくりつはくぶつかん)は、日本と東洋の文化財(美術品、考古遺物など)の収集保管、展示公開、調査研究、普及などを目的として独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館である。館長は銭谷真美。 1872年(明治5年)に創設された、日本最古の博物館である。東京都台東区の上野恩賜公園内にある。本館、表慶館、 東洋館、平成館、法隆寺宝物館の5つの展示館と資料館その他の施設からなる。2017年3月31日時点で、国宝88件、重要文化財636件を含む収蔵品の総数は117,190件(2017年11月時点では国宝89件、重文640件)。これとは別に、国宝55件、重要文化財258件を含む総数3,075件の寄託品を収蔵している。2017年度の陳列総件数は約7,200件。2016年度の来館者数は約191万人である。.

新しい!!: 徳川家康と東京国立博物館 · 続きを見る »

東国

関東地方 東国(とうごく、あづまのくに)とは、近代以前の日本における地理概念の一つ。東国とは主に、関東地方(坂東と呼ばれた)や、東海地方、即ち今の静岡県から関東平野一帯と甲信地方を指した。実際、奈良時代の防人を出す諸国は東国からと決められており、万葉集の東歌や防人歌は、この地域の物である。尚、東北地方は蝦夷(えみし)や陸奥(みちのく)と呼ばれていた。.

新しい!!: 徳川家康と東国 · 続きを見る »

東福寺

京都名所之内 通天橋紅楓(歌川広重) 通天橋 東福寺(とうふくじ)は、京都市東山区本町十五丁目にある臨済宗東福寺派大本山の寺院。山号を慧日山(えにちさん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は、九条道家、開山(初代住職)は円爾である。京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭(山内寺院)を有する大寺院である。.

新しい!!: 徳川家康と東福寺 · 続きを見る »

東照宮

東照宮(とうしょうぐう)とは、東照大権現たる徳川家康を祀る神社である。.

新しい!!: 徳川家康と東照宮 · 続きを見る »

東条松平家

東条松平家(とうじょうまつだいらけ)は、清和源氏新田氏流松平氏の庶流。始祖は松平宗家5代目・松平長親の三男・義春。三河国の東条城を居城とし東条松平家と呼ばれた。青野松平家とも。十四松平・十八松平の1つに数えられる。.

新しい!!: 徳川家康と東条松平家 · 続きを見る »

東本願寺

東本願寺(ひがしほんがんじ、Higashi Hongan-ji)は、京都府京都市下京区烏丸七条にある真宗大谷派の本山の通称である。正式名称は、「真宗本廟正式名称…昭和62年(1987年)までは、「本願寺」が正式名称である。」である。 堀川七条に位置する「西本願寺」(正式名称「本願寺」)の東に位置するため、「東本願寺」と通称される。また、真宗大谷派(以降、大谷派)としても、「東本願寺」の通称を公式ホームページ・出版物などに用い、正式名称「真宗本廟」と併用している。他に、「お東」、「お東さん」とも通称される。 2016年現在の門首は、平成8年(1996年)に継承した大谷暢顯(淨如)である。.

新しい!!: 徳川家康と東本願寺 · 続きを見る »

東海道

東海道(とうかいどう、うみつみち)は、五畿七道の一つ。本州太平洋側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。.

新しい!!: 徳川家康と東海道 · 続きを見る »

松姫

松姫(まつひめ)は、日本の武家に見られた女性名。以下の人物が名乗った。.

新しい!!: 徳川家康と松姫 · 続きを見る »

松岡則方

松岡 則方(まつおか のりかた)は、戦国時代の鹿島神宮大祝職。塚原卜伝に始まる鹿島新当流の剣豪でもあり、松岡兵庫助の名で知られる。 大祝とは祭礼のときの祝詞奏上役で、『鹿島神宮誌』所載系図によると則方は天正年間の大祝となっている。 剣術の師は諸説あり塚原卜伝に学んだとも、卜伝の養子・塚原幹重と卜伝の弟子である川島卜平の二人に学んだともいわれる。『天真正伝新当流兵法伝脈』によると則方は子の時備とともに徳川家康に唯授一人(一の太刀)を含む新当流の兵法を残るところなく伝授し、「御直紙・御誓紙・御腰刀・御時服」といった褒賞と田野辺(現・鹿嶋市沼尾)の松岡屋敷近辺に知行40石、のち120石を得たという。その際の「一の太刀」伝授への謝意と、新当流を疎略にしない旨を記した家康の誓紙が松岡家に現存している。 卜伝は晩年を松岡家で過ごしたが、これは則方が弟子筋であると同時に卜伝の実兄・吉川常賢の娘婿であった関係にもよる。則方の新当流は時備以降も松岡派として受け継がれ、幕末まで存続した。.

新しい!!: 徳川家康と松岡則方 · 続きを見る »

松平健

松平 健(まつだいら けん、1953年11月28日 - )は、日本の俳優、歌手。本名は鈴木 末七(すずき すえしち)末七の由来は、7人兄弟の末っ子からきている。。愛称はマツケン、ケン様、上様。愛知県豊橋市出身。三喜プロモーション所属。.

新しい!!: 徳川家康と松平健 · 続きを見る »

松平定勝

松平 定勝(まつだいら さだかつ)は、戦国時代の武将、江戸時代前期の大名。徳川家康の異父弟。定勝系久松松平家宗家初代。.

新しい!!: 徳川家康と松平定勝 · 続きを見る »

松平家乗

松平 家乗(まつだいら いえのり、天正3年(1575年) - 慶長19年2月29日(1614年4月8日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。 大給松平家第5代・松平真乗の長男。母は戸田忠重の娘。正室は石川康通の娘。子に松平乗寿(長男)、松平知乗(次男)、娘(大久保教隆正室)、娘(知久直政室)らがいる。官位は従五位下、和泉守。幼名は源次郎。 天正10年(1582年)、父が37歳の若さで早世したため、家督を継ぐことになった。天正15年(1587年)、主君・徳川家康から偏諱を授かって家乗と名乗った。天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると、上野国那波郡内に1万石の所領を与えられる。慶長元年(1596年)には官位を叙任された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康に従って従軍し、三河国吉田城の守備を務めた。戦後、家康からそれを賞されて美濃国岩村藩2万石に加増移封された。慶長19年(1614年)死去。跡を長男の乗寿が継いだ。 いえのり Category:戦国武将 Category:岩村藩主 Category:恵那市の歴史 Category:1575年生 Category:1614年没.

新しい!!: 徳川家康と松平家乗 · 続きを見る »

松平家広

松平 家広(まつだいら いえひろ)は、安土桃山時代の武将。松平忠正の子。.

新しい!!: 徳川家康と松平家広 · 続きを見る »

松平家忠

松平 家忠(まつだいら いえただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。深溝松平家4代当主。 彼の記した日記(『家忠日記』)は、戦国武将の生活や当時の有力大名を知る上で貴重な史料となっている。.

新しい!!: 徳川家康と松平家忠 · 続きを見る »

松平家忠 (東条松平家)

松平 家忠(まつだいら いえただ、弘治2年(1556年) - 天正9年11月1日(1581年11月26日))は、戦国時代、安土桃山時代の人物。東条松平家第3代当主。幼名は亀千代。通称は甚太郎。松平忠茂の子。母は松平信長の娘。系譜上は松平忠吉の養父。別名、家次。深溝松平家の松平家忠の妹婿。三河国東条城主。 父・忠茂の戦死にともない、松平家康に家督相続・所領安堵を受けて仕えたが、生まれたばかりだったため、伯父である家臣の松井忠次(松平康親)が後見となり、元服後もその補佐を受けて活動した。東条吉良氏との戦いでは忠次と共に功績をあげ、東条城を領した。親戚である深溝松平家の松平家忠(主殿助)とは年齢も居城も近く、甚太郎家忠は主殿助家忠の妹を嫁に迎えて親交が深かった。その後も姉川の戦いや長篠の戦いなど、各地の戦いに参加したが病弱であり、1581年に病のため東条城で没した。後に家康は四男の忠吉に名跡を継がせている。残された妻は兄・主殿助家忠の元へ帰った。.

新しい!!: 徳川家康と松平家忠 (東条松平家) · 続きを見る »

松平家元

松平 家元( まつだいら いえもと、天文17年11月(1548年) - 慶長8年8月14日(1603年9月19日))は、戦国時代から江戸時代の人物。松平宗家8代目の三河国・岡崎城主・松平広忠の庶子で、徳川家康の異母弟とされる人物。後述のように架空人物説がある。.

新しい!!: 徳川家康と松平家元 · 続きを見る »

松平家次

松平 家次(まつだいら いえつぐ、? - 永禄6年7月29日(1563年8月17日))は、戦国時代の武将。桜井松平家当主。松平清定の嫡男。通称は監物丞。子に松平忠正、松平忠吉、菅沼定盈室(普厳院)。 天文14年(1545年)、広畔畷の戦いで、家次は父の清定、酒井忠尚、榊原長政らとともに松平広忠と戦うが敗れる。翌年には忠尚は許され、家次の居城・尾張品野城(愛知県瀬戸市品野町)は忠尚の居城となり、品野城を明け渡す。天文22年(1553年)三河・下和田(愛知県岡崎市下和田町)の領地を巡り、主君・今川義元に訴え、東条松平家の松平忠茂と争うが、弘治2年(1556年)家次の敗訴に終わる。松平元康(徳川家康)の命で品野城に攻めてきた織田軍を撃退し、功績をあげた。三河一向一揆が起きると一向衆側に味方した。 ※三河物語の記述。漸シタル処に、永禄五年壬戌に、野寺之寺内に徒者の有ケルヲ、坂(酒)井雅楽助押コみて検断シケレバ、永禄六年癸亥正月に、各々門徒衆寄合て、土呂・鍼崎・野寺・佐々き(崎)に取籠リて、一騎(揆)ヲヲコシて御敵ト成。(中略)。其耳弄、桜井之松平監物(家次)殿モ荒河(義広)殿ト仰被レ合て、別心ヲ被レ成けり。 いえつく Category:戦国武将 Category:1563年没.

新しい!!: 徳川家康と松平家次 · 続きを見る »

松平家治

松平 家治(まつだいら いえはる、天正8年(1579年)- 天正20年3月4日(1592年4月15日))は、安土桃山時代の武将。奥平信昌の次男で、徳川家康の長女・亀姫を生母に持つ。奥平家昌の弟、奥平忠政、松平忠明らの兄。幼名は亀松丸。官位は右京大夫。 天正16年12月24日(1589年2月9日)、駿府の外祖父・家康の養子に望まれたために、親元を離れることとなった。この時、生家の奥平氏では鳥居強右衛門、黒屋甚九郎といった長篠の戦いなどで壮烈な死に様を遂げた忠臣の子弟を亀松丸に付随させた。後の元服に際しては、外祖父の偏諱と松平姓を拝領する。 三河軍団の関東移封に伴い、上州長根7000石を拝領する。ところがわずか14歳で早世した。戒名は桃林院桃谿宗朔大禅定門。嗣子はおらず、別家を興していた家治系は1代で断絶した。死因は不明。 生家の奥平家へは新たに養子が望まれたため、末弟の鶴松丸(後の松平忠明)が家康の養子となった。 いえはる いえはる Category:戦国武将 Category:1579年生 Category:1592年没.

新しい!!: 徳川家康と松平家治 · 続きを見る »

松平家清

松平 家清(まつだいら いえきよ、永禄9年(1566年) - 慶長15年12月21日(1611年2月3日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。徳川氏の家臣で、三河吉田藩初代藩主。竹谷松平清宗の長男。母は深溝松平好景の娘。正室は久松俊勝の娘で家康の異父妹・天桂院。子は忠清(長男)、清昌(次男)、娘(浅野長重正室)、娘(本多康紀正室)、娘(深溝松平忠利正室)、娘(成田泰高室)。.

新しい!!: 徳川家康と松平家清 · 続きを見る »

松平康俊

松平 康俊(まつだいら やすとし、1552年(天文21年) - 1586年5月20日(天正14年4月2日)は、戦国時代の武将。 久松俊勝の三男。母は水野忠政の娘・伝通院(於大の方)。徳川家康の異父弟に当たる。松平康元の弟で松平定勝の兄。異母兄に久松信俊がいる。名は勝俊とも呼ばれる。.

新しい!!: 徳川家康と松平康俊 · 続きを見る »

松平康忠

松平 康忠(まつだいら やすただ)は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。長沢松平家第8代当主。江戸幕府旗本。徳川氏の家臣。徳川家康の従弟であり、義弟でもある。 永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いで父の政忠が討死。祖父にあたる松平親広が若年だった康忠を後見した。一方で母の碓井姫は、徳川家の重臣である酒井忠次へと再嫁し離別している。永禄5年 (1562年)に元服し、三河国宝飯郡小坂井ほか1,810貫文を知行した。康忠の叔父である松平信重や松平近清らも、家康から100貫文ずつを給わって補佐を拝命した。信重は翌年からの三河一向一揆で家康方として討死したものの、近清はのちも康忠を支えて天正16年(1588年)に死去している。 その後の康忠は元亀元年(1570年)、義父の忠次に属して姉川の戦いに参加。続いて天正3年(1575年)の長篠の戦いでも忠次に従った。武田信実が守る鳶の巣砦を徳川軍の別働隊として攻略し、長篠城を開放している。さらに家康の嫡男である信康のもとで老職を務めたが、天正7年(1579年)信康の自刃により蟄居した。 のちにそれを許されて家康のもとへ帰参し、本能寺の変の際には家康の伊賀越えに同伴。小牧・長久手の戦いに参戦している。天正16年(1588年)に嫡子の康直へ家督を譲り京都へ隠棲する。 ところが武蔵深谷藩の藩主となっていた康直が文禄2年(1593年)に24歳で病没。隠居していた康忠は、家康の七男の松千代を康直の養子とし、深谷藩1万石を相続をさせた。しかし松千代も慶長4年(1599年)に夭折したため、その兄の辰千代(後の松平忠輝)を迎えて名跡を継がせた。元和4年(1618年)8月10日に死去。享年73。 なお元和2年(1616年)に起きた忠輝の改易によって長沢松平家の嫡流は途絶えたが、康忠の系統は後世に伝わっている。 また、天文9年(1540年)の安城合戦で戦死した伝承のある同姓同名の松平康忠(甚六郎)が存在するが、こちらは松平宗家親忠系で松平張忠の子であって別人である。.

新しい!!: 徳川家康と松平康忠 · 続きを見る »

松平康元

松平 康元(まつだいら やすもと)は、戦国時代から江戸時代初期の武将、大名。 久松俊勝の次男。徳川家康の異父弟にあたる。.

新しい!!: 徳川家康と松平康元 · 続きを見る »

松平康直

松平 康直(まつだいら やすなお、永禄12年(1569年) - 文禄2年10月29日(1593年12月21日))は、戦国時代から安土桃山時代の武将。十八松平のひとつ長沢松平家第9代当主。父は徳川十六神将の一人の松平康忠、母は徳川家康の異母妹・矢田姫。娘に蓮姫(徳川家康養女、有馬豊氏室)がいる。 天正18年(1590年)、小田原征伐に参戦し岩槻城を攻撃する。戦後、その戦功により武蔵国深谷1万石と深谷城を与えられるが、1593年に父に先立って病没した。享年25。 やすなお Category:戦国武将 Category:1569年生 Category:1593年没.

新しい!!: 徳川家康と松平康直 · 続きを見る »

松平康親

松平 康親(まつだいら やすちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め松井 忠次(まつい ただつぐ)と称す。通称は金四郎、左近将監、左近尉、左近、後に松平周防守康親と改称したとされるが異説もある。松井忠直の子。松井松平家(三河松井氏)の祖。.

新しい!!: 徳川家康と松平康親 · 続きを見る »

松平康重

松平 康重(まつだいら やすしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。松井松平家初代。.

新しい!!: 徳川家康と松平康重 · 続きを見る »

松平康長

松平 康長(まつだいら やすなが)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。徳川氏の家臣。戸田宗家16代当主。松平氏の姓を賜り、戸田松平家の祖となる。 家紋は松平姓とともに下賜された三つ葉葵と戸田氏歴代の六曜紋である。なお、名前の表記について、書籍によっては戸田康長と載せるものもある。.

新しい!!: 徳川家康と松平康長 · 続きを見る »

松平広忠

松平 広忠(まつだいら ひろただ)は、戦国時代の武将。三河国額田郡岡崎城主。松平宗家8代当主。松平清康の子。母は青木氏(青木貞景もしくは青木弐宗)の娘。徳川家康の父。.

新しい!!: 徳川家康と松平広忠 · 続きを見る »

松平仙千代

松平 仙千代(まつだいら せんちよ、文禄4年3月13日(1595年4月22日) - 慶長5年2月7日(1600年3月21日))は、安土桃山時代の武家の人物。徳川家康の八男。母は側室の相応院(亀)で尾張徳川家始祖徳川義直の同母兄。徳川仙千代、平岩仙千代とも。.

新しい!!: 徳川家康と松平仙千代 · 続きを見る »

松平伊忠

松平 伊忠(まつだいら これただ)は、戦国時代の武将。松平好景の長男。子に『家忠日記』を著した松平家忠がいる。.

新しい!!: 徳川家康と松平伊忠 · 続きを見る »

松平張忠

松平 張忠(まつだいら はるただ、生没年不詳)は、戦国時代の西三河地方の武将。国人領主松平氏の庶流矢田松平家の初代当主。松平宗家第4代(安城松平家初代)親忠の子。通称は右京亮、助十郎。.

新しい!!: 徳川家康と松平張忠 · 続きを見る »

松平忠吉

松平 忠吉(まつだいら ただよし)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。東条松平家第4代当主・尾張国清洲藩主。 徳川家康の四男。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の同母弟。徳川四天王の一人・井伊直政の娘婿にあたる。.

新しい!!: 徳川家康と松平忠吉 · 続きを見る »

松平忠直

松平 忠直(まつだいら ただなお)は、江戸時代初期の大名。越前北ノ庄(福井)藩主。結城秀康の長男。徳川家康の孫、徳川家光や徳川光圀などの従兄にあたる。.

新しい!!: 徳川家康と松平忠直 · 続きを見る »

松平忠輝

松平 忠輝(まつだいら ただてる)は、安土桃山時代から江戸時代中期にかけての大名。.

新しい!!: 徳川家康と松平忠輝 · 続きを見る »

松平忠明

松平 忠明(まつだいら ただあきらデジタル版 日本人名大辞典+Plus)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。江戸幕府大政参与。奥平松平家の祖。三河国作手藩、伊勢国亀山藩、摂津国大坂藩、大和国郡山藩、播磨国姫路藩主。 同名の人物に、小姓組番頭・書院番頭・日光奉行・蝦夷地見分隊長などを務めた江戸時代の旗本(1765年 - 1805年)がいる。.

新しい!!: 徳川家康と松平忠明 · 続きを見る »

松平忠昌

松平 忠昌(まつだいら ただまさ)は、江戸時代前期の大名。越前国福井藩(北ノ庄藩)3代藩主公式には福井藩第3代に数える忠昌以降を(相続時の混乱から)別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えばその系統の初代となる。。初代藩主結城秀康の次男で、2代藩主松平忠直の同母弟。.

新しい!!: 徳川家康と松平忠昌 · 続きを見る »

松平信一

松平 信一(まつだいら のぶかず)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。藤井松平家嫡流の初代。松平長親の五男・松平利長(藤井松平家始祖)の長男。松平清康の従兄弟にあたる。.

新しい!!: 徳川家康と松平信一 · 続きを見る »

松平信康

松平 信康(まつだいら のぶやす) / 徳川 信康(とくがわ のぶやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男(嫡男)。母は瀬名義広の娘で今川義元の姪・築山殿。また、後に松平宗家の居城の岡崎城主(愛知県岡崎市)を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗った。.

新しい!!: 徳川家康と松平信康 · 続きを見る »

松平状

松平状(まつだいらじょう)あるいは松平氏下賜状(まつだいらうじかしじょう)は、松平の名字(苗字)を授与する機能をもつ文書。武家政権の大名支配策として、官位官職への叙位任官(口宣案など)、一字書出(一字状)などがあるが、日本近世においては名字(苗字)の授与もある。徳川将軍が松平氏を下賜(授与)する文書(もんじょ)が松平状である(以上、村川の論文による)。.

新しい!!: 徳川家康と松平状 · 続きを見る »

松平重吉

松平 重吉(まつだいら しげよし、明応7年(1498年 - 天正8年8月27日(1580年10月5日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。能見松平家当主。通称は二郎右衛門。松平重親の次男。松平玄鉄(重玄)は兄。室は松平親長女。子に松平重利、松平重勝、娘(石川康正室、後に松平康親室)、娘(倉橋政範室)。 永禄元年(1558年)、主君・今川氏に背いた鈴木日向守の居城・寺部城攻めの際は松平元信(後の徳川家康)に従って功績を立てた。三河一向一揆が起きると酒井忠尚の居城・上野城を攻め、戦功を挙げる。家康の嫡男・信康が武節・足助城攻めで初陣を飾った時は、鎧を身に付けさせる具足親となった。天正8年(1580年)死去、享年82。 しけよし Category:戦国武将 Category:1498年生 Category:1580年没.

新しい!!: 徳川家康と松平重吉 · 続きを見る »

松平松千代

松平 松千代(まつだいら まつちよ、文禄3年(1594年) - 慶長4年1月12日(1599年2月7日)は、安土桃山時代の大名。深谷藩2代藩主。徳川家康の七男。母は側室・茶阿局で松平忠輝の同母弟。 文禄2年(1593年)に長沢松平家当主で深谷藩主でもある松平康直が嗣子なくして没したため、その翌年、生後間もなく長沢松平家を継ぎ、深谷藩主となった。しかし、慶長4年(1599年)1月11日にわずか6歳で没。法名は栄昌院殿。跡を同母兄の忠輝が継いだ。 なお、上記の生没年は『徳川幕府家譜』に拠ったものであるが、『幕府祚胤伝』では「文禄元年(1592年)誕生、文禄3年(1594年)2月8日死去」とされており、忠輝とは双子の兄弟であったとする説もある。 まつちよ まつちよ Category:織豊政権の大名 Category:1594年生 Category:1599年没.

新しい!!: 徳川家康と松平松千代 · 続きを見る »

松平氏

松平氏(まつだいらし)は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、後に江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体である。室町時代は伊勢氏の被官として活躍した。江戸時代は徳川将軍家の一門、あるいは将軍家と祖先を同じくする譜代の家臣の姓となり、あるいは将軍家が勢力・格式ある外様大名に授けた称号としての役割をも果たした姓である。.

新しい!!: 徳川家康と松平氏 · 続きを見る »

松平民部

松平 民部(まつだいら みんぶ、1582年(天正10年) - 1616年(元和2年))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。徳川家康の落胤とされる。母は法光院(お松)。永見民部とも。 父家康が厄年の時に誕生したため、忌み子とされ、次兄の結城秀康の養子となったという。秀康の長男で甥の忠直のもとで大坂の陣にも参戦した。その後、35歳で病死したとされる。元和9年8月、秀康次男の忠昌の当時の領地、越後国高田において死去したとも伝わる。 みんふ Category:戦国武将 Category:徳川家康の子女 Category:1582年生 Category:1616年没.

新しい!!: 徳川家康と松平民部 · 続きを見る »

松平清宗

松平 清宗(まつだいら きよむね、天文7年(1538年) - 慶長10年11月10日(1605年12月19日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。松平清善の子。正室は深溝松平家好景の娘。松平家清の父。通称、與次郎。玄蕃允。.

新しい!!: 徳川家康と松平清宗 · 続きを見る »

松平成重

松平 成重(まつだいら なりしげ)は、江戸時代初期の大名。下野板橋藩2代藩主、三河西尾藩主、丹波亀山藩初代藩主。一生系大給松平家2代。.

新しい!!: 徳川家康と松平成重 · 続きを見る »

松代藩

松代城 旧松代藩藩邸。昭和初期に神奈川県藤沢市の竜口寺へ移築された(現在の竜口寺大書院) 松代藩(まつしろはん)は、江戸時代、信濃国埴科郡松代町(現在の長野県長野市松代町松代)にあった藩。信濃国内の藩では最高の石高を有した。長野県長野市の松代城を居城とし川中島四郡を領した。藩主は、酒井家(左衛門尉)、越前松平家、真田家が就封した。なお本項では、城地は異なるが同じ領地を支配した川中島藩についても記載する。.

新しい!!: 徳川家康と松代藩 · 続きを見る »

松前慶広

松前 慶広(まつまえ よしひろ)は、蝦夷地の戦国大名。松前藩の初代藩主。旧字での表記は慶廣。.

新しい!!: 徳川家康と松前慶広 · 続きを見る »

松田毅一

松田 毅一(まつだ きいち、1921年5月1日 - 1997年5月18日)は、日本の歴史学者。香川県高松市出身、大阪市育ち。.

新しい!!: 徳川家康と松田毅一 · 続きを見る »

松方弘樹

松方 弘樹(まつかた ひろき、1942年7月23日 - 2017年1月21日)は、日本の俳優・映画監督・映画プロデューサー。本名は目黒 浩樹(めぐろ こうじゅ)。東京市王子区(現在の東京都北区)出身。身長173cm、血液型はA型。左利き。個人事務所である株式会社MARE(マーレ)所属。明治大学付属中野高等学校卒業。.

新しい!!: 徳川家康と松方弘樹 · 続きを見る »

板倉重昌

板倉 重昌(いたくら しげまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。三河深溝藩主。.

新しい!!: 徳川家康と板倉重昌 · 続きを見る »

板部岡江雪斎

板部岡 江雪斎(いたべおか こうせつさい)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、外交僧。後北条氏、豊臣氏、徳川氏の家臣。執権北条氏(北条時行)の子孫とされる。.

新しい!!: 徳川家康と板部岡江雪斎 · 続きを見る »

杵築藩

杵築藩(木付藩、きつきはん)は、江戸時代の豊後国国東郡・速見郡内を領した藩。藩庁は杵築城(大分県杵築市)。.

新しい!!: 徳川家康と杵築藩 · 続きを見る »

村川浩平

村川 浩平(むらかわ こうへい、1968年- )は日本の歴史学者(日本近世政治史)。 1992年東京理科大学理学部応用数学科卒業。 松平状の発見などで注目される。1999年歴史情報学研究所所長。.

新しい!!: 徳川家康と村川浩平 · 続きを見る »

村正

村正(むらまさ)は、伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)で活躍した刀工の名。または、その作になる日本刀の名。同銘で数代あるとみられる。別称は「千子村正」(せんじむらまさ、せんごむらまさ)。 村正は、濃州赤坂左兵衛兼村の子で、赤坂千手院鍛冶の出と伝えられている。しかしながら活動拠点は伊勢であり、定かではない。他国の刀工と同様に、室町末期に流行した美濃伝を取り入れ本国美濃の刀工の作と見える刃を焼いた作もあり、技術的な交流(坂倉関の正吉・正利・正善など・「正」の字が村正に酷似する)をうかがわせる。しかし美濃だけではなく、隣国の大和伝と美濃伝、相州伝を組み合わせた、実用本位の数打ちの「脇物」刀工集団と見られている。その行動範囲は伊勢から東海道に及ぶ。 「村正」の銘は、桑名の地で代々受け継がれ、江戸時代初期まで続いた。同銘で少なくとも3代まで存在するというのが定説である。村正以外にも、藤村、村重等、「村」を名乗る刀工、正真、正重等、「正」を名乗る刀工が千子村正派に存在する。江戸時代においては「千子正重」がその「門跡」を幕末まで残している。 なお、4代目以降、「千子」と改称したと言われているが、これは徳川家が忌避する「村正」の帯刀を大名や旗本が避けるようになったことが原因と考えられている。.

新しい!!: 徳川家康と村正 · 続きを見る »

栗田国時

栗田 国時(くりた くにとき、生年不詳 - 慶長5年(1600年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上杉氏の家臣。信濃国善光寺別当・栗田永寿の子息である栗田鶴寿の弟。 栗田氏は元々北信濃の国人で、上田原の戦いのときは村上義清に従って武田信玄と戦っている。しかし武田氏の勢力が北信濃に及ぶと栗田氏は武田方に属する。 国時の武田時代の動向は不明であるが、『家忠日記』によれば兄の永寿は天正9年(1581年)3月22日に高天神城の戦いにおいて戦死している。『病間雑記』『信濃中世史考』によれば、国時は甥にあたる鶴寿が幼少であったため家政を指揮したという。 天正10年(1582年)3月に織田・徳川連合軍の甲州征伐により武田氏は滅亡し、国時は越後国へ逃れて上杉謙信・景勝に仕えた。景勝の会津移封に伴い、信夫郡大森城主となり8,300石を与えられた。しかし、慶長5年(1600年)に徳川家康が上杉景勝討伐へ出陣した際、国時は景勝を見限る藤田信吉と共謀し家康と内通するが露見、共に出奔した。大森城の南東・信夫郡伏拝(現在の福島市伏拝)の国境で一行150人余と共に追っ手によって殺害された。だが藤田ら250人余は脱出に成功し上杉景勝謀反を家康に訴えた。.

新しい!!: 徳川家康と栗田国時 · 続きを見る »

栄姫

栄姫(えいひめ、天正13年 (1585年) - 寛永12年1月12日(1635年3月1日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。福岡藩初代藩主・黒田長政の継室。別称に、ねね姫。出家後、大涼院と号した。.

新しい!!: 徳川家康と栄姫 · 続きを見る »

栄寿院

栄寿院(えいじゅいん、文禄4年(1595年) - 慶安2年2月29日(1649年4月10日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。姫路藩主本多忠政の長女。母は松平信康の次女・熊姫。福島藩主堀忠俊の正室、後に延岡藩主有馬直純の正室。実名は国姫(くにひめ)。 慶長10年(1605年)10月、曽祖父徳川家康の養女となり、堀忠俊に嫁いだが、慶長14年(1609年)春、忠俊が改易となったので離縁した。 慶長15年(1610年)11月、有馬直純に再嫁した。このとき美濃国北方に化粧料として1100石賜っている。直純との間に、康純、本多政勝室、本多政勝養妹、秋元富朝室、純政の二男三女を儲けた。 慶安2年(1649年)に死去した。享年55。江戸の天徳寺に葬られた。法名は栄寿院長覚秋岳祐円大姉。.

新しい!!: 徳川家康と栄寿院 · 続きを見る »

桶狭間の戦い

今川義元の墓(明治9年(1876年)5月建立)桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市)内 桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国桶狭間で行われた合戦。.

新しい!!: 徳川家康と桶狭間の戦い · 続きを見る »

桜井松平家

桜井松平家(さくらいまつだいらけ)は、松平宗家5代・松平長親の次男(三男とも)信定を祖とする松平氏の庶流。三河国碧海郡桜井(現在の愛知県安城市)を領したことから桜井松平家と称する。十八松平の一つ。.

新しい!!: 徳川家康と桜井松平家 · 続きを見る »

森忠政

森 忠政(もり ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。信濃川中島藩主、後に美作津山藩の初代藩主。.

新しい!!: 徳川家康と森忠政 · 続きを見る »

森繁久彌

森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 2009年11月10日)は、日本の俳優、歌手、コメディアン2009年11月11日『サンケイスポーツ』21面、元NHKアナウンサー。最終期はアクターズセブン所属。別表記に森繁久弥。身長168cm。 昭和の芸能界を代表する国民的俳優の一人であり (2009年11月11日)、映画・テレビ・舞台・ラジオ・歌手・エッセイストなど幅広い分野で活躍した。早稲田大学を中退後、NHKアナウンサーとなって満州国へ赴任。帰国後、舞台やラジオ番組の出演で次第に喜劇俳優として注目され、映画『三等重役』『社長シリーズ』『駅前シリーズ』で人気を博した。人よりワンテンポ早い軽快な演技に特色があり、自然な演技の中で喜劇性を光らせることができるユニークな存在として、後進の俳優たちにも大きな影響を与えた。また、『夫婦善哉』『警察日記』等の作品での演技が高く評価され、シリアスな役柄もこなした。映画出演総数は約250本を超える。舞台ではミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』で主演し、上演回数900回・観客動員約165万人の記録を打ちたてた。『知床旅情』の作詞・作曲者でもあり、歌手として紅白歌合戦に7年連続で出場している。語りのうまさには「森繁節」と言われるほど定評があり、ラジオ番組『日曜名作座』への出演のほか、朗読作も多い。先に亡くなっていく俳優たちへの弔辞を読む姿でも知られる。慈善活動にも尽力し、自身の寄付活動を伴淳三郎らとともにあゆみの箱として法人化している。著書に自伝『森繁自伝』、エッセイ『品格と色気と哀愁と』など多数。 1991年に大衆芸能分野で初の文化勲章を受章。ほかの栄典・称号に紫綬褒章、文化功労者、名誉都民、国民栄誉賞、従三位など。.

新しい!!: 徳川家康と森繁久彌 · 続きを見る »

森長可

森 長可(もり ながよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁・源義家の六男・義隆を祖とする森氏(仮冒の説あり)。父は森可成。兄に森可隆、弟に森成利ら。受領名は武蔵守。.

新しい!!: 徳川家康と森長可 · 続きを見る »

検地

検地(けんち)とは中世から近世にかけて行われた田畑の面積と収量の調査のことである。現在の課税台帳整備に当たるもの。.

新しい!!: 徳川家康と検地 · 続きを見る »

榊原康勝

榊原 康勝(さかきばら やすかつ)は、江戸時代前期の武将、大名。従五位下・遠江守。上野館林藩第2代藩主。榊原家2代当主。徳川四天王の一人・榊原康政の三男。大須賀忠政、榊原忠長の弟。正室は加藤清正の娘・本浄院(古屋)。子に勝政。.

新しい!!: 徳川家康と榊原康勝 · 続きを見る »

榊原康政

榊原 康政(さかきばら やすまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。.

新しい!!: 徳川家康と榊原康政 · 続きを見る »

権現

権現(ごんげん)は、日本の神の神号の一つ。日本の神々を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号である。権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す。 インドのバラモン教やヒンドゥー教の神々は「天」という神号で護法善神として大乗仏教の天部に取り入れられたが、日本の神々が日本仏教に取り入れられた際には本地垂迹思想に基づき権現という神号が多く用いられた。権現には山王神道(天台宗)・両部神道(真言宗)に基づくものや、自然崇拝(山岳信仰)と修験道が融合したもの等があり、民間信仰においては地域の名士や不慮の死を遂げた人物などが死後に権現として祀られる例も見られる。なお、「明神号」と「権現号」が区別されずに使用される例も少なくはない。(愛宕権現=愛宕明神、白山権現=白山明神など).

新しい!!: 徳川家康と権現 · 続きを見る »

横須賀城

横須賀城(よこすかじょう)は、遠江国城東郡横須賀(静岡県掛川市西大渕)に戦国時代から江戸時代にあった日本の城。平城。徳川家康は武田氏の高天神城を締め付ける付城群の中核として、大須賀康高に命じて築いた城郭である。大須賀家2代の後、渡瀬家1代、有馬家1代、その後、再び大須賀家2代となるが除封され、能見(松平)家2代、井上家2代、本多家1代とめまぐるしく藩主が代わり、西尾忠成が2万5千石で入封し、以後7代をもって明治維新を迎える。 西尾家歴代の藩主のなかで忠尚は名君の誉れ高く、若年寄を務め5千石加増され、都合3万5千石になり、老中も務めている。.

新しい!!: 徳川家康と横須賀城 · 続きを見る »

樋口清之

樋口 清之(ひぐち きよゆき、1909年1月1日 - 1997年2月21日)は日本の考古学者・歴史作家。國學院大學名誉教授。國學院大學文学博士。専門は考古学・民俗学。紫綬褒章受章。.

新しい!!: 徳川家康と樋口清之 · 続きを見る »

欠落

欠落(かけおち・闕落)とは、戦乱・重税・犯罪などを理由に領民が無断で住所から姿を消して行方不明の状態になること。江戸時代には走り(はしり)などとも称された黒田『歴史学事典』2003年。。武士の場合には出奔(しゅっぽん)・立退(たちのき)などと呼んで区別したが、内容的には全く同一である。.

新しい!!: 徳川家康と欠落 · 続きを見る »

正室

正室(せいしつ)は、高貴な人物の正式な妻のこと。正妻、本妻とも言う。律令制の元では嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれていた(原則一人)。これに対し、正室以外を側室(『大辞泉』)という。.

新しい!!: 徳川家康と正室 · 続きを見る »

正三位

正三位(しょうさんみ)とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおいみつのくらい」とも読む。.

新しい!!: 徳川家康と正三位 · 続きを見る »

正一位

正一位(しょういちい)は、位階及び神階のひとつ。諸王及び人臣における位階・神社における神階の最高位に位し、従一位の上にあたる。.

新しい!!: 徳川家康と正一位 · 続きを見る »

正二位

正二位(しょうにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。従一位の下、従二位の上に位する。.

新しい!!: 徳川家康と正二位 · 続きを見る »

正五位

正五位(しょうごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従四位の下、従五位の上に位する。贈位の場合、贈正五位という。.

新しい!!: 徳川家康と正五位 · 続きを見る »

正保

正保(しょうほう)は日本の元号の一つ。寛永の後、慶安の前。1645年から1648年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

新しい!!: 徳川家康と正保 · 続きを見る »

正四位

正四位(しょうしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。 従三位の下、従四位の上に位する。贈位の場合、贈正四位という。.

新しい!!: 徳川家康と正四位 · 続きを見る »

正親町天皇

正親町天皇(おおぎまちてんのう、永正14年5月29日(1517年6月18日) - 文禄2年1月5日(1593年2月6日))は、第106代天皇(在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日) - 天正14年11月7日(1586年12月17日))。諱は方仁(みちひと)。.

新しい!!: 徳川家康と正親町天皇 · 続きを見る »

正栄院

正栄院(せいえいいん、生年不詳 - 天正20年6月18日(1592年7月26日))は、徳川家康の側室。名は牟須(むす)。父は武田家の旧臣である三井吉正。.

新しい!!: 徳川家康と正栄院 · 続きを見る »

正清院

正清院(しょうせいいん、天正8年(1580年)- 元和3年8月28日(1617年9月27日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。名は振姫(ふりひめ)。徳川家康の三女で、母は側室・良雲院。.

新しい!!: 徳川家康と正清院 · 続きを見る »

正木頼忠

正木 頼忠(まさき よりただ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。安房正木氏の一族である勝浦正木氏の当主。正木時忠の五男『寛政重修諸家譜』857頁。。正木時通の弟。初名は時長(ときなが)戦国人名辞典編集委員会。 正室は『寛政重修諸家譜』などでは北条氏隆(北条氏尭の誤伝または田中泰行の娘で北条氏尭の養子とも)の娘とあり、『南紀徳川史』では田中泰行の娘(板部岡江雪斎の姉、氏隆養女)とある。継室は里見義堯の娘。.

新しい!!: 徳川家康と正木頼忠 · 続きを見る »

武家執奏

武家執奏(ぶけしっそう)とは、武家政権である室町幕府と公家政権である北朝(朝廷)の公武関係(朝幕関係)に関連する用語で次の2つの意味がある。.

新しい!!: 徳川家康と武家執奏 · 続きを見る »

武家諸法度

武家諸法度(ぶけしょはっと)は、江戸時代に江戸幕府が諸大名の統制のために制定した基本法。ここでいう武家とは天和令までは旗本御家人や藩士(幕府からみた陪臣)など広い意味での武家は含まず、大名のことを指す(幕臣については武家諸法度を照応した諸士法度で規定され、天和令において統合された)。 最初は元和元年(1615年)に発布されたもの(元和令)だが、徳川吉宗による享保2年(1717年)の享保令まで改訂が重ねられた。.

新しい!!: 徳川家康と武家諸法度 · 続きを見る »

武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

新しい!!: 徳川家康と武将 · 続きを見る »

武川衆

武川衆(むかわしゅう、武河衆、六河衆とも)は、甲斐国の辺境武士団。甲斐源氏の武田氏支流である甲斐一条氏に連なる一族で、戦国期には武田家臣化し国境防衛などを行った。「武川」は武川筋を意味する地理的呼称で、甲斐北西部(現北杜市域、旧北巨摩郡域)の釜無川以西、御勅使川以北地域にあたる。.

新しい!!: 徳川家康と武川衆 · 続きを見る »

武徳編年集成

武徳編年集成」(ぶとくへんねんしゅうせい)は、徳川家康の伝記。 成立年は元文5年(1740年)、著者は幕臣木村高敦。偽書の説、諸家の由緒、軍功の誤りなどの訂正が行われており、寛保元年(1741年)徳川吉宗に献上される。 「駿府政事録」や「宮中秘策」にある、慶長18年(1613年)の家康が花火を見た記録が、「武徳編年集成」にも引用されている。 天明6年(1786年)版(木活字本)全93巻が、国立国会図書館ほかに所蔵されている。.

新しい!!: 徳川家康と武徳編年集成 · 続きを見る »

武光誠

武光 誠(たけみつ まこと、1950年4月10日 - )は、日本の歴史学者、明治学院大学教授。.

新しい!!: 徳川家康と武光誠 · 続きを見る »

武王 (周)

武王(ぶおう、)は、周朝の創始者。殷を滅ぼし、周を立てた。文王の次子。 同母兄に伯邑考、同母弟に管叔鮮、周公旦、蔡叔度、霍叔処、康叔封らがいる。子は成王、(晋の開祖)、邘叔、応叔、韓叔ら。.

新しい!!: 徳川家康と武王 (周) · 続きを見る »

武田信吉

武田 信吉(たけだ のぶよし) / 松平 信吉(まつだいら のぶよし)は、江戸時代初期の大名。徳川家康の五男。妻は木下勝俊の娘。幼名は福松丸ちなみに福松丸は、信吉の兄・松平忠吉(忠康)の幼名である。、武田万千代丸。正しくは松平信吉であるが、同名の松平信吉がいるため、区別するため武田信吉と呼ばれる。.

新しい!!: 徳川家康と武田信吉 · 続きを見る »

武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。 甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。.

新しい!!: 徳川家康と武田信玄 · 続きを見る »

武田勝頼

武田 勝頼(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第20代当主。 通称は四郎。当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。.

新しい!!: 徳川家康と武田勝頼 · 続きを見る »

武田氏

武田氏(たけだし)は、平安時代末から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家である。安芸国・若狭国に分派が存在し、上総国などにも庶流があったが、いずれも通字として「信」(のぶ)が使用されている。古代の国造である武田臣(皇別)の後裔が河内源氏義光流の棟梁と婚姻したという説も伝わっている。 河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化し、武田晴信(信玄)の頃には領国拡大し中央の織田・徳川勢力に対抗するが勝頼期には領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代には庶家だけがわずかに残った。 家宝は御旗(後冷泉天皇から下賜された日章旗)・楯無(楯無の鎧、源頼義が御旗とともに授けられたという)。.

新しい!!: 徳川家康と武田氏 · 続きを見る »

武蔵小室藩

武蔵小室藩(むさしこむろはん)は、武蔵国小室(現在の埼玉県北足立郡伊奈町小室)に存在した藩。.

新しい!!: 徳川家康と武蔵小室藩 · 続きを見る »

武蔵七党

武蔵七党(むさししちとう)は、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称である。.

新しい!!: 徳川家康と武蔵七党 · 続きを見る »

武蔵国

武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.

新しい!!: 徳川家康と武蔵国 · 続きを見る »

武蔵国府跡

武蔵国府跡(武蔵国衙跡地区) 武蔵国府跡(むさしこくふあと)・国史跡 武蔵国府跡 国衙跡地区(国司館地区)は、東京都府中市に存在する武蔵国の国府に関する遺跡である。指定史跡として徳川家康の府中御殿跡、国司館地区も含む。本項目では、関連する「武蔵国府関連遺跡」についても記述する。 武蔵国府は、府中市に奈良時代の初め頃から平安時代の中頃にかけて置かれ、武蔵国の政治・文化・経済の中心地として栄えていた。 国府成立には、府中市内に古墳時代築かれた古墳群、特に武蔵府中熊野神社古墳が特に関わり合いが深いと推測されている。.

新しい!!: 徳川家康と武蔵国府跡 · 続きを見る »

武蔵松山藩

松山藩(まつやまはん)は、江戸時代前期、武蔵国松山(現・埼玉県東松山市、比企郡吉見町)周辺を領した藩。藩庁は松山城に置かれた。.

新しい!!: 徳川家康と武蔵松山藩 · 続きを見る »

歴史群像

『歴史群像』(れきしぐんぞう)は、学研プラスが発行する日本の歴史、軍事に関する隔月刊の専門雑誌である(1997年4月から2000年12月までの間は編集方針の変更により季刊となっていた)。 1992年6月に学習研究社(現・学研ホールディングス)より創刊され、2009年10月から2015年9月までは学研パブリッシングが発行していた。.

新しい!!: 徳川家康と歴史群像 · 続きを見る »

歴名土代

歴名土代(りゃくみょうどだい/れきめいどだい)とは、中世日本の四位・五位の位階補任(叙位)の記録簿である。元は2巻2冊であるが、現存本(東京大学史料編纂所所蔵本)は1冊。.

新しい!!: 徳川家康と歴名土代 · 続きを見る »

死刑

死刑(しけい)は、対象者(死刑囚)を死亡させる刑罰である。抽象的な表現として「極刑(きょっけい)」あるいは「処刑(しょけい)」とも表現される。刑罰の分類上は生命刑に分類される。.

新しい!!: 徳川家康と死刑 · 続きを見る »

毛利勝永

毛利 勝永(もうり かつなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣氏の家臣。大坂の陣で活躍。また大坂城入りを励ました妻は、戦前は銃後の守りの手本として、『婦女鑑』(明治20年)などに取り上げられている。 勝永という諱は一次史料で確認できない。発給文書は全て吉政(よしまさ)と署名しており、史料では毛利吉政(森吉政)。この吉政の「政」は龍造寺政家からの一字拝領である。.

新しい!!: 徳川家康と毛利勝永 · 続きを見る »

毛利秀元

毛利 秀元(もうり ひでもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。長門長府藩の初代藩主。毛利元就の四男である穂井田元清の次男。母は村上通康の娘・妙寿院。正室は豊臣秀長の娘・大善院、継室に徳川家康の養女(松平康元の娘)・浄明院。子に光広、元知など。一時期、従兄の毛利輝元の養嗣子となっていた。.

新しい!!: 徳川家康と毛利秀元 · 続きを見る »

毛利秀頼

毛利 秀頼(もうり ひでより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。信濃飯田城主。 諱は初めは長秀(ながひで)で、史料では毛利河内守長秀との署名が多数残る。その後、豊臣政権になって侍従の官位と豊臣の姓と羽柴の氏を下賜されたため、天正15年の九州の役の頃か同16年の聚楽第行幸の頃より羽柴河内侍従豊臣秀頼と名乗るようになった。.

新しい!!: 徳川家康と毛利秀頼 · 続きを見る »

毛利輝元

毛利 輝元(もうり てるもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった。長州藩の藩祖(輝元を初代藩主としていないのは、関ヶ原の戦い後の論功により秀就を初代として数えているため。後述)。.

新しい!!: 徳川家康と毛利輝元 · 続きを見る »

毛利氏

毛利氏(もうりし)は、日本の武家の氏族で、本姓は大江氏。家紋は一文字三星。.

新しい!!: 徳川家康と毛利氏 · 続きを見る »

水墨画

水墨画(すいぼくが)または墨絵(すみえ)は、「墨」一色で表現される絵画である。墨線だけでなく、墨を面的に使用し、ぼかしで濃淡・明暗を表す。 中国で唐代後半に山水画の技法として成立し、宋代には、文人官僚の余技としての、四君子(梅兰竹菊)の水墨画が行われた。また、禅宗の普及に伴い、禅宗的故事人物画が水墨で制作された。明代には花卉、果物、野菜、魚などを描く水墨雑画も描かれた。 日本には鎌倉時代に禅とともに伝わった。日本に伝わった絵画は、『達磨図』・『瓢鮎図』などのように禅の思想を表すものであったが、徐々に変化を遂げ、「山水画」も書かれるようになった。.

新しい!!: 徳川家康と水墨画 · 続きを見る »

水野忠重

水野 忠重(みずの ただしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。水野忠政の九男。母は華陽院。子に水野勝成、水野忠清、清浄院(加藤清正継室)。徳川家康の叔父にあたり、徳川二十将の一人に数えられている。法名は賢忠。道号は勇心『寛永諸家系図伝』。 水野忠重公墓所 (福山市若松町).

新しい!!: 徳川家康と水野忠重 · 続きを見る »

水野忠政

水野 忠政(みずの ただまさ)は、戦国時代の武将・戦国大名。幼名は牛息丸、通称「藤七郎」で、初め「妙茂(ただもと)」を名乗ったとされる他、「右衛門大夫」および「下野守」を称した。 娘に徳川家康の生母・於大の方(伝通院)がいる。.

新しい!!: 徳川家康と水野忠政 · 続きを見る »

水野信元

水野 信元(みずの のぶもと)は、戦国時代の大名。水野忠政の次男。母は松平信貞(昌安)の女。初名は忠次。通称は藤四郎(藤七郎)。受領名は下野守。妻は松平信定の女。.

新しい!!: 徳川家康と水野信元 · 続きを見る »

水野氏

水野氏(みずのし)は、清和源氏を称する日本の氏族。戦国時代には緒川城、刈谷城を中心に尾張国南部の知多半島と三河国西部に領地を広げ、織田氏や徳川氏と同盟を結び最盛期には24万石と称される勢力となった。 宗家のほか、大高水野氏、常滑水野氏などの諸氏があった。宗家は徳川家康の母・伝通院の実家にあたり、江戸時代には徳川氏の外戚家として遇された。『柳営秘鑑』では、岡崎譜代とされる。近世大名家を輩出した一族の一つであり、また江戸時代中期から後期には幕府の老中に人物を輩出し続け、享保の改革や天保の改革に関与するなど、国政を握った。 幕末期においては、下総結城藩、駿河沼津藩、上総鶴牧藩、出羽山形藩の各藩の藩主が水野氏であった。その他、寛文7年(1667年)に改易となった上野安中藩の藩主や紀州藩の附家老であった紀伊新宮城主もこの一族であった。.

新しい!!: 徳川家康と水野氏 · 続きを見る »

水戸市

水戸市(みとし)は、茨城県の中部に位置する県庁所在地で、施行時特例市である。.

新しい!!: 徳川家康と水戸市 · 続きを見る »

水戸藩

水戸藩邸跡石碑(京都市上京区下長者町通烏丸西入北側) 水戸藩(みとはん)は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。藩庁は水戸城(水戸市)に置かれた。.

新しい!!: 徳川家康と水戸藩 · 続きを見る »

永禄

永禄(えいろく)は、日本の元号の一つ。弘治の後、元亀の前。1558年から1570年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝、足利義栄、足利義昭。.

新しい!!: 徳川家康と永禄 · 続きを見る »

永見貞愛

永見 貞愛(ながみ さだちか、天正2年2月8日(1574年3月1日) - 慶長9年11月16日(1605年1月5日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の人物。知立神社32代神主。.

新しい!!: 徳川家康と永見貞愛 · 続きを見る »

永見氏

永見氏(ながみし/ながみうじ)は、永見貞連が創始した日本の氏族。知立神社の神主を代々継いでいた。.

新しい!!: 徳川家康と永見氏 · 続きを見る »

江〜姫たちの戦国〜

『江〜姫たちの戦国〜』(ごう ひめたちのせんごく)は、2011年1月9日から同年11月27日まで放送された、NHK大河ドラマ第50作。原作・脚本・田渕久美子、チーフ演出・伊勢田雅也、音楽・吉俣良。全46回。.

新しい!!: 徳川家康と江〜姫たちの戦国〜 · 続きを見る »

江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

新しい!!: 徳川家康と江戸 · 続きを見る »

江戸城

江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。 江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。 徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。 国の特別史跡に指定されている。.

新しい!!: 徳川家康と江戸城 · 続きを見る »

江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

新しい!!: 徳川家康と江戸幕府 · 続きを見る »

江戸重通

江戸 重通(えど しげみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。常陸江戸氏9代当主。常陸国水戸城主。.

新しい!!: 徳川家康と江戸重通 · 続きを見る »

江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

新しい!!: 徳川家康と江戸時代 · 続きを見る »

池宮彰一郎

池宮 彰一郎(いけみや しょういちろう、1923年5月16日 - 2007年5月6日)は、日本の脚本家、小説家。本名の池上 金男(いけがみ かねお)で脚本家として活動、『十三人の刺客』など数多くの映画・テレビドラマの制作に関わった。1992年に小説『四十七人の刺客』を発表して以降、池宮彰一郎のペンネームを用いて歴史小説を著したが、2002年に司馬遼太郎作品との類似問題により活動をほぼ停止した。 作家の池上司は息子。.

新しい!!: 徳川家康と池宮彰一郎 · 続きを見る »

池田輝政

池田 輝政(いけだ てるまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。美濃池尻城主、同大垣城主、同岐阜城主、三河吉田城主を経て、播磨姫路藩の初代藩主となる。姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られる。.

新しい!!: 徳川家康と池田輝政 · 続きを見る »

池田恒興

池田 恒興(いけだ つねおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。清洲会議に出席した4人の織田家重臣の一人。池田恒利の子。子に元助、輝政など。 尾張犬山城主、摂津兵庫城主、美濃大垣城主。通称は勝三郎。紀伊守を自称、晩年に入道し勝入と号した。諱を信輝としている軍記物もあるが、信頼できる同時代史料には見当たらない。.

新しい!!: 徳川家康と池田恒興 · 続きを見る »

河尻秀隆

河尻 秀隆(かわじり ひでたか)は、戦国時代の武将。織田氏の家臣。黒母衣衆筆頭で、のちに織田信忠の補佐役及び、美濃岩村城主や甲斐府中城(甲府城)城主も務めた。秀隆および河尻氏に関係する文書は少なく、事跡の多くは『信長公記』や『甲陽軍鑑』、徳川氏関係の記録に記されている。.

新しい!!: 徳川家康と河尻秀隆 · 続きを見る »

河内国

河内国(かわちのくに/かはちのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

新しい!!: 徳川家康と河内国 · 続きを見る »

沼田市

沼田市(ぬまたし)は、群馬県北部の市である。古くから木材の集積地であり、市場町として発達した。北毛の中心都市である。.

新しい!!: 徳川家康と沼田市 · 続きを見る »

沼田藩

沼田藩(ぬまたはん)は、上野利根郡(現在の群馬県沼田市西倉内町)に存在した藩。沼田城に藩庁を置いた。.

新しい!!: 徳川家康と沼田藩 · 続きを見る »

沈香

沈香(じんこう)は、代表的な香木の一つ。 東南アジアに生息するジンチョウゲ科ジンコウ属(学名:アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha)の植物である沈香木などが、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵されたとき、その防御策としてダメージ部の内部に樹脂を分泌、蓄積したものを乾燥させ、木部を削り取ったものである。原木は、比重が0.4と非常に軽いが、樹脂が沈着することで比重が増し、水に沈むようになる。これが「沈水」の由来となっている。幹、花、葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても微妙に香りが違うために、わずかな違いを利き分ける香道において、組香での利用に適している。 沈香は香りの種類、産地などを手がかりとして、いくつかの種類に分類される。その中で特に質の良いものは伽羅(きゃら)と呼ばれ、非常に貴重なものとして乱獲された事から、現在では、 沈香と伽羅を産するほぼすべての沈香属(ジンチョウゲ科ジンコウ属)及び(ジンチョウゲ科ゴニスティル属)全種はワシントン条約の希少品目第二種に指定されている。 「沈香」には上記のような現象により、自然に樹脂化発生した、天然沈香と、植樹された沈香樹を故意にドリルなどで、穴をあけたり、化学薬品を投入して、人工的に樹脂化したものを採集した、栽培沈香が存在する。 当然ながら、品質は前者が格段に優れている。稀に上記の製造過程から来たと思われる薬品臭の付いてしまっているものや、低品質な天然沈香に匹敵する栽培沈香も存在する。しかし、伽羅は現在のところ栽培に成功していない。 また栽培沈香は人工的に作ったものとして人工沈香ともよばれる。 栽培沈香は天然沈香資源の乱獲により、原産国でも一般的になりつつあり、国内でも安価な香の原材料として相当数が流通している、なお、香木のにおい成分を含んだオイルに木のかけらを漬け込んだものや、沈香樹の沈香になっていない部分を着色した工芸品は、そもそも沈香とは呼べず、香木でもない。したがって栽培沈香でもない。 「沈香」はサンスクリット語(梵語)でaguru(アグル)またはagaru(アガル)と言う。油分が多く色の濃いものをkālāguru(カーラーグル)、つまり「黒沈香」と呼び、これが「伽羅」の語源とされる。伽南香、奇南香の別名でも呼ばれる。沈香の分類に関しては香道の記事に詳しい。 また、シャム沈香とは、インドシナ半島産の沈香を指し、香りの甘みが特徴である。タニ沈香は、インドネシア産の沈香を指し、香りの苦みが特徴。 強壮、鎮静などの効果のある生薬でもあり、奇応丸などに配合されている。 ラテン語では古来aloeの名で呼ばれ、英語にもaloeswoodの別名がある。このことからアロエ(aloe)が香木であるという誤解も生まれた。勿論、沈香とアロエはまったくの別物である。 中東ではoud (عود) と呼ばれ、自宅で焚いて香りを楽しむ文化がある。.

新しい!!: 徳川家康と沈香 · 続きを見る »

泰栄院

泰栄院(たいえいいん、生年不詳 - 元和5年10月25日(1619年11月30日))は、徳川家康の側室。名は仙。父は武田家の旧臣である宮崎泰景。.

新しい!!: 徳川家康と泰栄院 · 続きを見る »

法光院

法光院(ほうこういん、生没不詳)は、徳川家康の側室。名は松。出自は不明である。.

新しい!!: 徳川家康と法光院 · 続きを見る »

法相宗

法相宗(ほっそうしゅう)は、インド瑜伽行派(唯識派)の思想を継承する、中国の唐時代創始の大乗仏教宗派の一つ。645年(唐代、貞観19年)中インドから玄奘が帰国し唯識説が伝えられることになる。その玄奘の弟子の慈恩大師基(一般に窺基と呼ぶ)が開いた宗派である。唯識宗・慈恩宗・中道宗とも呼ばれる。705年に華厳宗が隆盛になるにしたがい、宗派としてはしだいに衰えた。 日本仏教における法相宗は、玄奘に師事した道昭が法興寺で広め、南都六宗の一つとして、8-9世紀に隆盛を極めた。.

新しい!!: 徳川家康と法相宗 · 続きを見る »

津川城

津川城(つがわじょう)は、新潟県東蒲原郡阿賀町(越後国蒲原郡)にあった日本の城。.

新しい!!: 徳川家康と津川城 · 続きを見る »

津川雅彦

津川 雅彦(つがわ まさひこ、1940年1月2日 - )は、日本の男性俳優、映画監督、芸能プロモーター、評論家。京都府京都市中京区出身。別名義であるマキノ 雅彦(マキノ まさひこ)は映画監督をする際に名乗っている。芸能事務所グランパパプロダクションに所属し、同社の代表取締役を務める。 本名は加藤 雅彦(かとう まさひこ)。妻は朝丘雪路、娘は真由子、父は澤村国太郎、母はマキノ智子、兄は長門裕之、祖父は牧野省三。その他の身内についてはマキノ家を参照。.

新しい!!: 徳川家康と津川雅彦 · 続きを見る »

津軽信枚

津軽 信枚(つがる のぶひら)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。陸奥国弘前藩2代藩主。信牧(のぶひら)とも。.

新しい!!: 徳川家康と津軽信枚 · 続きを見る »

深谷藩

深谷藩(ふかやはん)は、武蔵国に存在した藩。居城は深谷城と言われているが、城跡が明らかになっていない。.

新しい!!: 徳川家康と深谷藩 · 続きを見る »

深溝松平家

深溝松平家(ふこうず(ふこうぞ)まつだいらけ)は、松平忠定を祖とする松平氏の分枝。十八松平の一つ。先祖を松平信光まで遡ると徳川家康と共通の祖となる家である。.

新しい!!: 徳川家康と深溝松平家 · 続きを見る »

淀殿

淀殿(よどどの、永禄12年(1569年)? - 慶長20年5月8日(1615年6月4日))は、戦国時代から江戸時代初頭の人物。豊臣秀吉の側室。 位階は従五位下とされるが、諸説あり。本名は 浅井 茶々(あざい ちゃちゃ)および浅井 菊子(あざい きくこ)。浅井三姉妹の一人。.

新しい!!: 徳川家康と淀殿 · 続きを見る »

渡辺守綱

渡辺 守綱(わたなべ もりつな)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。徳川氏の家臣。江戸幕府旗本・尾張藩付家老。三河国寺部城主。徳川十六神将の一人。.

新しい!!: 徳川家康と渡辺守綱 · 続きを見る »

渡辺幸庵

渡辺 幸庵(わたなべ こうあん、天正10年(1582年) - 宝永8年(1711年))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。諱は茂、通称は久三郎、号は幸庵。柳生新陰流を修めた剣客ともいわれる。ただし、これらは事実と異なる可能性がある(後述)。.

新しい!!: 徳川家康と渡辺幸庵 · 続きを見る »

渡邊大門

渡邊 大門(わたなべ だいもん、1967年10月3日 - )は、日本史学者、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役、大阪観光大学観光学研究所客員研究員。神奈川県出身、のちに兵庫県、京都府、岡山県、埼玉県で過ごし、現在は、千葉県市川市に在住。専門は日本中世史。特に、赤松氏、宇喜多氏、浦上氏、山名氏、朝倉氏、波多野氏など西国大名の研究を専門とし、近畿、中国地方を研究のフィールドとしている。.

新しい!!: 徳川家康と渡邊大門 · 続きを見る »

清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

新しい!!: 徳川家康と清 · 続きを見る »

清和源氏

清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

新しい!!: 徳川家康と清和源氏 · 続きを見る »

清華家

清華家(せいがけ)とは、公家の家格のひとつ。最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる7家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)を指すが、のちに、広幡・醍醐を加えて9家となった。また、豊臣政権時に五大老だった徳川・毛利・小早川・前田・宇喜多・上杉らも清華成を果たしており、清華家と同等の扱い(武家清華家)を受けている。.

新しい!!: 徳川家康と清華家 · 続きを見る »

清雲院 (徳川家康側室)

清雲院(せいうんいん、天正9年(1581年) - 万治3年9月20日(1660年10月24日))は、徳川家康の側室。名は夏、又は奈津。父は伊勢北畠家の旧臣であった長谷川藤直。兄は長谷川藤広。.

新しい!!: 徳川家康と清雲院 (徳川家康側室) · 続きを見る »

清洲城

五条川の桜 清洲城と桜 清洲城(きよすじょう)は、尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった日本の城。尾張国の中心部に位置し、一時期尾張国の守護所として栄え、京鎌倉往還と伊勢街道が合流し中山道にも連絡する交通の要所として重視された。.

新しい!!: 徳川家康と清洲城 · 続きを見る »

清洲同盟

清洲同盟(きよすどうめい)は、戦国時代に尾張の戦国大名・織田信長と三河の戦国大名・徳川家康との間で結ばれた軍事同盟。それぞれの一文字から織徳同盟(しょくとくどうめい)、尾三同盟(びさんどうめい)ともよばれる。.

新しい!!: 徳川家康と清洲同盟 · 続きを見る »

清浄院 (加藤清正室)

清浄院(せいじょういん、しょうじょういん、正字:清淨院、天正10年(1582年) - 明暦2年9月17日(1656年11月3日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。加藤清正の継室。水野忠重の娘。名はかな。.

新しい!!: 徳川家康と清浄院 (加藤清正室) · 続きを見る »

減封

減封(げんぽう)は、江戸時代においては大名、旗本などの武士に課せられた刑罰を意味し、武士の身分を剥奪して所領と城・屋敷の一部を削減することをいう。また所領を分割相続することを分封、所領を没収されることを改易という。以下、江戸時代の減封について叙述する。.

新しい!!: 徳川家康と減封 · 続きを見る »

源義家

源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代後期の武将。伊予守・源頼義の長男。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。 比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。 その活動時期は摂関政治から院政に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下。.

新しい!!: 徳川家康と源義家 · 続きを見る »

源義光

源 義光(みなもと の よしみつ)は、平安時代後期の武将。河内源氏の2代目棟梁である源頼義の三男。兄に源義家(八幡太郎)や源義綱(賀茂次郎)がいる。近江国の新羅明神(大津三井寺新羅善神堂)で元服したことから新羅三郎(しんらさぶろう)と称した。.

新しい!!: 徳川家康と源義光 · 続きを見る »

源義重

源 義重(みなもと の よししげ / 新田 義重 にった よししげ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。新田氏の祖。武家の棟梁として名を馳せた八幡太郎義家の孫。新田氏本宗家(上野源氏)の初代であり、上野国新田荘を本拠としたため新田義重と称する。.

新しい!!: 徳川家康と源義重 · 続きを見る »

源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

新しい!!: 徳川家康と源頼朝 · 続きを見る »

源氏

源氏(げんじ、みなもとうじ)は、「源」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。 日本において皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に名乗る氏の1つで、多数の流派がある。清和天皇の子孫である清和源氏が有名である。.

新しい!!: 徳川家康と源氏 · 続きを見る »

源氏物語

土佐光起筆『源氏物語画帖』より「若紫」。飼っていた雀の子を逃がしてしまった幼い紫の上と、柴垣から隙見する源氏。 朝顔」。雪まろばしの状景。邸内にいるのは源氏と紫の上。 『源氏物語』(げんじものがたり)は、平安時代中期に成立した日本の長編物語、小説。文献初出は1008年(寛弘五年)。作者の紫式部にとって生涯で唯一の物語作品である物語の他には「紫式部日記」や和歌集の「紫式部集」があり「小倉百人一首」にも和歌が収められている(*)。後に、紫式部の「源氏物語」と「紫式部日記」の2作品は絵画化された。約150年後の平安時代末期に「源氏物語絵巻」、約200年後の鎌倉時代初期に「紫式部日記絵巻」が制作された。(*)「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」。主人公の光源氏を通して、恋愛、栄光と没落、政治的欲望と権力闘争など、平安時代の貴族社会を描いた上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。紫式部日記。。 下級貴族出身の紫式部は、20代後半で藤原宣孝と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始めた。これが『源氏物語』の始まりである。最初は、当時紙が貴重で紙の提供者がいれば、その都度書き江戸時代の松永貞徳の源氏物語の写本全54冊(54帖)の1冊1冊の厚みが示すように、紫式部は当初多くの分量は書けず1冊(1帖)の厚みは薄いが、支援者の藤原道長により安定した紙の供給が行なわれて以降は34帖「若菜」のように1冊(1帖)の厚みが急激に増した。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。(参考)『源氏物語』与謝野晶子訳、各帖の総ページ数より、1帖「桐壷」26、2帖「帚木」44、3帖「空蝉」12、そして、34帖「若菜」上192、下190。(角川文庫 1999年(平成11年)5月10日)所収、仲間内で批評し合うなどして楽しんでいたが紫式部日記より、当初、紫式部は仲間内で意見を言い合ったり手紙のやり取りで批評し合って楽しんでいたことから「最初は現代の同人誌のような楽しみ方だった」。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。、その物語の評判から藤原道長が娘の中宮彰子の家庭教師として紫式部を呼んだ。それを機に宮中に上がった紫式部は宮仕えをしながら藤原道長の支援の下で物語を書き続け、54帖からなる『源氏物語』を完成させた中宮彰子は一条天皇の妻であったが、一条天皇のもう一人の妻であり後に亡くなった藤原定子の家庭教師は清少納言だった。なお、藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部は、宮中の様子を中心に書いた「紫式部日記」を残している。。 なお、源氏物語は文献初出から150年ほど後の平安時代末期に「源氏物語絵巻」として絵画化された 五島美術館。現存する絵巻物の内、徳川美術館と五島美術館所蔵のものは国宝となっている。また現在、『源氏物語』は日本のみならず20ヶ国語を超える翻訳を通じ世界各国で読まれている 総合研究大学院大学教授 伊藤鉃也 日本文学研究専攻。2009年3月時点、刊行されたもの24種類、現在進行中のもの4種類、未確認(あるらしい、というもの)6種類。。.

新しい!!: 徳川家康と源氏物語 · 続きを見る »

源氏長者

源氏長者(げんじのちょうじゃ)は、源氏一族全体の氏長者の事を指す。原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる(現任上首)。源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。一般的には、奨学院・淳和院の両別当を兼任するといわれているが、自身も源氏長者だった北畠親房の『職原鈔』によれば、奨学院別当のみでも要件を満たす(その場合、次席が淳和院別当となる)と解説している。.

新しい!!: 徳川家康と源氏長者 · 続きを見る »

満天姫

満天姫(まてひめ、天正17年(1589年)? - 寛永15年3月22日(1638年5月5日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性で、徳川家康の異父弟・下総関宿藩主松平康元の娘。福島正之の正室として大道寺直秀をもうけ、のち津軽信枚の正室として津軽信英をもうけた。院号は葉縦院(ようじゅういん)。.

新しい!!: 徳川家康と満天姫 · 続きを見る »

滝川一益

滝川 一益(たきがわ いちます / かずます)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田信長の家臣。.

新しい!!: 徳川家康と滝川一益 · 続きを見る »

滝田栄

滝田 栄(たきた さかえ、1950年12月5日 - )は、日本の俳優・司会者。千葉県印西市出身『週刊文春』2000年8月5日号 p.88 - 90「新・家の履歴書」。近年は仏像彫刻家としての活動が多い。.

新しい!!: 徳川家康と滝田栄 · 続きを見る »

漢(かん、)は、中国の王朝である。通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)の二つの王朝(両漢)を総称して「漢王朝」と呼ばれる。また、ここから転じて中国全土や中国の主要民族を指す名称ともなった。以下の記事では王朝について記述する。 中国初の統一王朝だった秦王朝が紀元前206年に滅亡すると、中国は秦を討った各軍の将帥による群雄割拠の状態に戻っていた。こうした中、漢中及び巴蜀に封じられていた劉邦が紀元前202年に垓下の戦いで項羽を討って中国を再統一した。中国を統一した劉邦は、皇帝として即位するにあたって旧来の国号であった漢をそのまま統一王朝の国号として用いた。この劉邦が開いた前漢と、いったん滅亡したのち劉秀によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年の長きに渡った。初の統一王朝だった秦王朝が統一王朝としては実質的に一代で滅びたこともあり、漢王朝は中国の統一状態を実質的に確定した王朝となり、これから中国全土や中国の主要民族を指す名称として「漢」が用いられるようになった。 漢王朝の歴史の詳細については、前漢・後漢をそれぞれ参照。.

新しい!!: 徳川家康と漢 · 続きを見る »

服部英雄

服部 英雄(はっとり ひでお、1949年5月5日 - )は、日本の歴史学者、九州大学比較社会文化研究院名誉教授。専門は日本中世史。.

新しい!!: 徳川家康と服部英雄 · 続きを見る »

服部正成

服部 正成(はっとり まさなり/まさしげ)は戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。通称は半蔵(はんぞう)で、服部半蔵の名でよく知られている。 松平氏(徳川氏)の譜代家臣で徳川十六神将、鬼半蔵の異名を取る。実戦では、伊賀衆(伊賀同心組)と甲賀衆を指揮していた。.

新しい!!: 徳川家康と服部正成 · 続きを見る »

服部氏

服部氏(はっとりし)は、日本の氏族のひとつ。.

新しい!!: 徳川家康と服部氏 · 続きを見る »

朝廷

朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.

新しい!!: 徳川家康と朝廷 · 続きを見る »

朝倉義景

朝倉 義景(あさくら よしかげ) は、戦国時代の武将。越前国の戦国大名。越前朝倉氏第11代(最後)の当主。.

新しい!!: 徳川家康と朝倉義景 · 続きを見る »

朝鮮半島

朝鮮半島(ちょうせんはんとう、)は、ユーラシア大陸の中緯度の東端に位置する半島。 陸地の幅が最も狭くなるのは平壌のやや北の平安南道 - 咸鏡南道だが、とくに人文地理学で「朝鮮半島」と言った場合は半島最狭部より北の、豆満江や鴨緑江などによって隔てられる伝統的な中朝国境より南を指すのが普通であり、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)を擁する。済州島を含めた朝鮮地域全体を指して用いられることも多い。このように、自然地形の名称というよりは政治的・文化的・歴史的な文脈において、朝鮮の同義語として使われることが少なくない。1948年に建国された韓国における呼称は韓半島(かんはんとう、)である。.

新しい!!: 徳川家康と朝鮮半島 · 続きを見る »

朝鮮通信使

孝宗6年 朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)とは、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使と言う。 2017年10月、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が主催する事業「世界の記憶」(せかいのきおく、英: Memory of the World: MOW)遺産に登録された。.

新しい!!: 徳川家康と朝鮮通信使 · 続きを見る »

朝野旧聞ホウ藁

『朝野旧聞裒藁』(朝野舊聞裒藁、ちょうやきゅうぶんほうこう)は、徳川氏創業の事蹟を後世に伝えるため、江戸幕府によって編纂された史料の集大成。全1,093巻。.

新しい!!: 徳川家康と朝野旧聞ホウ藁 · 続きを見る »

朝臣

朝臣(あそん、あそみ)は、684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓(カバネ)で、上から二番目に相当する。一番上の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる。読みは「あそみ」が古い。古くは阿曽美、旦臣とも書いた。 この朝臣が作られた背景には、従来の臣(おみ)、連(むらじ)、首(おびと)、直(あたい)などの姓の上位に位置する姓を作ることで、姓に優劣、待遇の差をつけ、天皇への忠誠の厚い氏(うじ)を優遇し、皇室への権力掌握をはかったと思われる。 『日本書紀』には、684年(天武天皇13年)11月1日に初めて朝臣を賜った52氏として、大三輪氏、大春日氏、阿倍氏、巨瀬氏、膳氏、紀氏、波多氏、物部氏、平群氏、雀部氏、中臣氏、大宅氏、粟田氏、石川氏、桜井氏、采女氏、田中氏、小墾田氏、穂積氏、山背氏、鴨氏、小野氏、川辺氏、櫟井氏、柿本氏、軽部氏、若桜部氏、岸田氏、高向氏、宍人氏、来目氏、犬上氏、上毛野氏、角氏、星川氏、多氏、胸方氏、車持氏、綾氏、下道氏、伊賀氏、阿閉氏、林氏、波弥氏、下毛野氏、佐味氏、道守氏、大野氏、坂本氏、池田氏、玉手氏、笠氏が記されている。 朝臣は、主に壬申の乱で功績の有った主に臣の姓を持つ氏族(古い時代に皇室から分かれたものが多い)に優先的に与えられた。その次に位置する主に連の姓を持つ氏族には宿禰の姓を与えていた。しかしながら、その後も朝廷に功績が有った氏族には朝臣の姓を下賜していき、奈良時代にはほとんどの氏が朝臣の姓を持つようになった。 さらに時代が下ると、大半の貴族や武士は藤原朝臣、源朝臣、平朝臣などの子孫で占められてしまい、また、武家台頭による下級貴族の没落もあり、朝臣は、序列付けの為の姓としての意味を失ってしまい、公式文書で使う形式的なものになっていった。 平安時代以降、公卿(三位以上及び参議)は、氏の下に朝臣、諱の下に公(大臣)ないし卿という敬称を以って称した。四位以下の者は氏、諱の下に姓をつけて呼称した。氏ではなく諱の下に朝臣とつけた者は特に名乗り朝臣という。.

新しい!!: 徳川家康と朝臣 · 続きを見る »

朝比奈泰能

朝比奈 泰能(あさひな やすよし)は、戦国時代の武将。今川氏の重臣。遠江国掛川城主。.

新しい!!: 徳川家康と朝比奈泰能 · 続きを見る »

朝比奈泰朝

朝比奈 泰朝(あさひな やすとも)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏の家臣。掛川城主。.

新しい!!: 徳川家康と朝比奈泰朝 · 続きを見る »

朝日姫

朝日姫像(南明院蔵) 朝日姫 / 旭姫(あさひひめ、天文12年(1543年) - 天正18年1月14日(1590年2月18日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。豊臣秀吉の異父妹とされるが、同父妹とする指摘もある。徳川家康の正室(継室)。名は旭といわれる。家康との結婚後は駿河御前と呼ばれ、死後は法名の南明院でも呼ばれる。.

新しい!!: 徳川家康と朝日姫 · 続きを見る »

木版印刷

金剛経』の首部(大英図書館蔵) 木版印刷(もくはんいんさつ)は印刷技法の一つである。.

新しい!!: 徳川家康と木版印刷 · 続きを見る »

木村重成

木村 重成(きむら しげなり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。豊臣氏の家臣。知行3千石。.

新しい!!: 徳川家康と木村重成 · 続きを見る »

木津川口の戦い (1614年)

木津川口の戦い(きづがわぐちのたたかい)は、豊臣家の江戸幕府に対する最後の抵抗を鎮圧するために行われた大坂の陣のうち、1614年(慶長19年)末に発生した大坂冬の陣において初めて行われた本格的な戦い。 豊臣方は、大坂城から海に至る要衝である木津川口に砦を築き、明石全登を守将に兵800で守備させていた。 11月18日、幕府軍の蜂須賀至鎮はこの地を偵察し、徳川家康に攻略の許可を求めた。家康は浅野長晟および池田忠雄と協力し、兵を損じないことを条件にそれを許可した。 蜂須賀至鎮は共同作戦では手柄を独り占めできないことに不満を抱き、11月19日未明、抜け駆けして単独攻撃を行った。当時、明石全登は大坂城に伺候しており不在だったため守備兵は統制が取れず、砦は陥落した。 遅れて(予定の時刻どおりに)進軍していた浅野長晟は蜂須賀勢の抜け駆けを知り、進路上の河川を急いで渡河しようとして多数の溺死者を出してしまい、戦闘にも間に合わなかった。.

新しい!!: 徳川家康と木津川口の戦い (1614年) · 続きを見る »

木曾義昌

木曾 義昌(きそ よしまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。信濃国木曾谷の領主木曾氏の第19代当主。幼名は宗太郎。左馬頭、伊予守。木曾義康の長子。弟に上松義豊。正室は武田信玄の娘・真竜院(真理姫)。子に千太郎、義利、義春、義通、娘(毛利高政正室)などがいる。.

新しい!!: 徳川家康と木曾義昌 · 続きを見る »

本多康重

本多 康重(ほんだ やすしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。三河岡崎藩初代藩主。大名としての本多豊後守家初代。 本多広孝の長男。母は東条松平義春の娘。正室は大垣藩主・石川家成の娘。子に康紀(長男)、紀貞(三男)、重世(四男)、娘(諏訪頼水正室)、娘(飛鳥井雅庸室)、娘(堀利重正室)、娘(遠藤慶勝正室)ら。通称は彦次郎。官位は従五位下、豊後守。.

新しい!!: 徳川家康と本多康重 · 続きを見る »

本多広孝

本多 広孝(ほんだ ひろたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。.

新しい!!: 徳川家康と本多広孝 · 続きを見る »

本多忠刻

本多 忠刻(ほんだ ただとき)は、江戸時代前期の大名。播磨姫路新田藩の初代藩主。.

新しい!!: 徳川家康と本多忠刻 · 続きを見る »

本多忠勝

本多 忠勝(ほんだただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。.

新しい!!: 徳川家康と本多忠勝 · 続きを見る »

本多忠政

本多 忠政(ほんだ ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。伊勢桑名藩第2代藩主。後に播磨姫路藩初代藩主。忠勝系本多家宗家2代。正室は家康の孫の熊姫である郡 p.20。.

新しい!!: 徳川家康と本多忠政 · 続きを見る »

本多隆成

本多 隆成(ほんだ たかしげ、1942年 - )は、日本の歴史学者、静岡大学名誉教授。.

新しい!!: 徳川家康と本多隆成 · 続きを見る »

本多正信

本多 正信(ほんだ まさのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。徳川家康の家臣で、江戸幕府の老中。相模国玉縄藩主。正信系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。 徳川家康が抱える鷹匠から身を興したが、三河一向一揆に与して鎮圧後に三河を出奔。一時松永久秀に仕えた後に10年以上を流浪の身として送る。後に許されて家康のもとへ帰参し、江戸開府後は家康、2代将軍秀忠の側近として幕政の中枢にあり権勢を振るった。.

新しい!!: 徳川家康と本多正信 · 続きを見る »

本多正純

本多 正純(ほんだ まさずみ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。江戸幕府の老中。下野国小山藩主、同宇都宮藩主(第28代宇都宮城主)。本多正信の長男で正信系本多家宗家2代。 徳川家康の側近であったが、徳川秀忠の代に失脚した。.

新しい!!: 徳川家康と本多正純 · 続きを見る »

本姓

本姓(ほんせい)は、日本において、古代以来の氏族名。氏を参照。名字(苗字)や家名とは異なる「本来の姓」という意味である。単純に姓(せい)とも言うが、「姓(かばね)」のことではない。.

新しい!!: 徳川家康と本姓 · 続きを見る »

本丸

本丸(ほんまる)とは、日本の城の中核となる曲輪(くるわ)の名称である。一の曲輪・本曲輪・一の丸(『日葡辞書』)とも称される。中世城郭では、本城、実城(みじょう)、詰丸などと呼ばれ、城によって呼び名が異なる。日本の中世考古学においては主郭(しゅかく)と呼称される。 また、比喩的に、物事の本質、組織の中核を指すために用いることがある。.

新しい!!: 徳川家康と本丸 · 続きを見る »

本庄藩

本庄藩(ほんじょうはん)は、武蔵国児玉郡本庄(現在の埼玉県本庄市)に存在した藩。居城は本庄城。.

新しい!!: 徳川家康と本庄藩 · 続きを見る »

本地垂迹

飯綱権現を祀る高尾山薬王院の権現堂 本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。.

新しい!!: 徳川家康と本地垂迹 · 続きを見る »

本光国師日記

『本光国師日記』(ほんこうこくしにっき)は、禅僧で、江戸時代初期に活躍した金地院崇伝の日記。慶長15年(1610年)から寛永10年(1633年)まで20年以上に渡る。原題は『案紙』。全47巻47冊。原本は金地院が所蔵しており、『紙本国書本光国師日記』として国の重要文化財に指定されている。内容は書状の写しなどが多い 。 崇伝自身が幕府の政策決定に関わっていたことから、寺社や朝廷に対する幕府の政策などを知ることができる貴重な史料。のちに新井白石が、この日記の重要性に鑑み、正徳3年(1713年)、金地院に命じて写本を提出させた。このときの記録では全47冊となっているが、1904年(明治37年)2月18日付で古社寺保存法により丙種国宝(現行制度では重要文化財に該当)に指定された際の記録では46冊となっており、第47冊は内閣文庫所蔵の写本でしか確認できない。.

新しい!!: 徳川家康と本光国師日記 · 続きを見る »

本因坊算砂

本因坊 算砂 本因坊 算砂(ほんいんぼう さんさ、永禄2年(1559年) - 元和9年5月16日(1623年6月13日))は、安土桃山時代、江戸時代の囲碁の棋士。生国は京都。顕本法華宗寂光寺塔頭本因坊の僧で法名を日海と称し、後に本因坊算砂を名乗り、江戸幕府から俸禄を受けて家元本因坊家の始祖となるとともに、碁打ち・将棋指しの最高位、連絡係に任ぜられて家元制度の基礎となった。一世名人。本姓は加納、幼名は與三郎。.

新しい!!: 徳川家康と本因坊算砂 · 続きを見る »

本草綱目

本草綱目(ほんぞうこうもく)は、中国の本草学史上において、分量がもっとも多く、内容がもっとも充実した薬学著作である。作者は明朝の李時珍(1518年 - 1593年)で、1578年(万暦6年)に完成、1596年(万暦23年)に南京で上梓された。日本でも最初の出版の数年以内には初版が輸入され、本草学の基本書として大きな影響を及ぼした。中国では何度も版を重ねたが、日本でもそれらが輸入されるとともに和刻本も長期に亙って数多く出版され、それら和刻本は3系統14種類に及ぶ。 慶長12年(1607年)、林羅山が長崎で本草綱目を入手し、駿府に滞在していた徳川家康に献上している。これを基に家康が本格的に本草研究を進める契機となる。 2011年、ユネスコが主催する世界記録遺産にも登録された。.

新しい!!: 徳川家康と本草綱目 · 続きを見る »

本能寺の変

本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。。。。。 信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり館に火を放って自刃した。。。。2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われる。 光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。(各説については変の要因を参照).

新しい!!: 徳川家康と本能寺の変 · 続きを見る »

朱印状

織田信長朱印状/兵庫県立歴史博物館蔵 朱印状(しゅいんじょう)とは、日本において(花押の代わりに)朱印が押された公的文書(印判状)のことである。主に戦国時代から江戸時代にかけて戦国大名・藩主や将軍により発給された。 特に、江戸時代において将軍が公家・武家・寺社の所領を確定させる際に発給したものは、領地朱印状とも呼ばれる。.

新しい!!: 徳川家康と朱印状 · 続きを見る »

朽木元綱

朽木 元綱(くつき もとつな)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名、寄合旗本。父は朽木晴綱、母は飛鳥井雅綱の娘。子に宣綱、友綱、稙綱、娘(堀直政室)。.

新しい!!: 徳川家康と朽木元綱 · 続きを見る »

指物

指物(さしもの).

新しい!!: 徳川家康と指物 · 続きを見る »

有馬康純

有馬 康純(ありま やすずみ、慶長18年8月1日(1613年9月15日) - 元禄5年4月12日(1692年5月27日))は、江戸時代前期の大名。日向国延岡藩有馬家第2代藩主。晴信系肥前有馬氏第3代。嘉祥(かしょう)公。 延岡藩初代藩主・有馬直純の長男。母は国姫(本多忠政の娘、徳川家康の養女)。正室は水野忠清の娘。継室は阿部忠秋の養女(阿部政澄の娘)。側室に草野氏、樫沢氏、馬場氏、伊東氏、松木氏。子に有馬清純(長男、第3代藩主)、本多純親(次男)、平岡頼恒(三男)、有馬純息(四男)、有馬純富(七男)、有馬純珍(八男)、有馬純就(九男)、有馬純英(十男)、娘(大村純長継室)、娘(分部嘉高正室のち諏訪頼蔭正室)、娘(沼間清氏室)、娘(阿部正員正室)、娘(真田正房室)、娘(戸川安宣正室)。官位は従五位下左衛門佐。.

新しい!!: 徳川家康と有馬康純 · 続きを見る »

有馬直純

有馬 直純(ありま なおずみ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。晴信系肥前有馬氏2代。.

新しい!!: 徳川家康と有馬直純 · 続きを見る »

有馬豊氏

有馬 豊氏(ありま とようじ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。丹波国福知山藩主、のち筑後国久留米藩初代藩主。久留米藩有馬家2代。.

新しい!!: 徳川家康と有馬豊氏 · 続きを見る »

最上家親

最上 家親(もがみ いえちか)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・外様大名。出羽山形藩の第2代藩主。最上氏の第12代当主。.

新しい!!: 徳川家康と最上家親 · 続きを見る »

最上義俊

最上 義俊(もがみ よしとし)は、江戸時代前期の大名で、最上氏の第13代当主。出羽山形藩の第3代藩主、のちに近江大森藩主。最上家親の嫡子。.

新しい!!: 徳川家康と最上義俊 · 続きを見る »

最上義光

最上 義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。最上氏第11代当主。出羽山形藩の初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長させて全盛期を築き上げた。.

新しい!!: 徳川家康と最上義光 · 続きを見る »

惣無事令

惣無事令(そうぶじれい)は、豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令とされるもの。藤木久志によって提唱され定説化した。.

新しい!!: 徳川家康と惣無事令 · 続きを見る »

戎光祥出版

戎光祥出版株式会社(えびすこうしょうしゅっぱん)は、東京都千代田区にある神道、日本史、鉄道、銭湯などに関する書籍を刊行する出版社。.

新しい!!: 徳川家康と戎光祥出版 · 続きを見る »

成瀬正一 (戦国武将)

成瀬 正一(なるせ まさかず)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。徳川氏家臣。成瀬正頼の次男。 若い頃は武田氏や後北条氏に遊仕し、のちに徳川氏に帰参し徳川家康の旗本となる。兄の正義の死後、三河成瀬氏の家督を相続し、長篠の戦いなどで活躍。本能寺の変以後は甲州奉行として甲斐国の取り込みを円滑にした。鉢形城代官職を経て、旗奉行として関ヶ原の戦いに参陣。最後は伏見城留守居役に任ぜられた。.

新しい!!: 徳川家康と成瀬正一 (戦国武将) · 続きを見る »

成瀬正義

成瀬 正義(なるせ まさよし、天文4年(1535年) - 元亀3年12月22日(1573年1月25日))は、戦国時代の武将。徳川家康の家臣。通称は藤蔵。.

新しい!!: 徳川家康と成瀬正義 · 続きを見る »

戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

新しい!!: 徳川家康と戦国大名 · 続きを見る »

戦国BASARA

『戦国BASARA』(せんごくバサラ)は、カプコンから発売されているアクションゲームおよびそのシリーズ名。テレビアニメ化やアニメ映画化、舞台化やテレビドラマ化や実写映画化、その他ドラマCD化や漫画化や小説化もされている。シリーズ累計本数は2017年時点で400万本に達している。 伊達家家紋「竹に雀(仙台笹)」 ロゴタイプは、伊達家の家紋「竹に雀(仙台笹)」を背景に「戦国」と「BASARA」を二段に分けて書かれたものである。「BASARA(婆娑羅)」の意は「ばさら」を参照。.

新しい!!: 徳川家康と戦国BASARA · 続きを見る »

戦国遺文

戦国遺文(せんごくいぶん)は、東京堂出版から発行されている戦国時代の古文書を集めた史料集。.

新しい!!: 徳川家康と戦国遺文 · 続きを見る »

戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

新しい!!: 徳川家康と戦国時代 (日本) · 続きを見る »

戸田康光

戸田 康光(とだ やすみつ、? - 天文16年(1547年))は、戦国時代の三河国の武将。渥美半島・三河湾一帯に勢力を振るった。初名は宗光で、松平清康の偏諱を受けて康光と改める。弾正少弼を称する。子に戸田尭光、戸田宣光、戸田重真。.

新しい!!: 徳川家康と戸田康光 · 続きを見る »

戸田勝成

戸田 勝成(とだ かつしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。通称は半右衛門、武蔵守。名は重政・勝重ともいう。.

新しい!!: 徳川家康と戸田勝成 · 続きを見る »

戸田氏

戸田氏(とだし)は、日本の氏族、また名字の一つ。発祥を異にする複数の系統が存在する(次項を参照)。もと、三河国渥美郡に根拠地をもった戸田氏からは、徳川氏に属して多くの近世大名・旗本、大藩重臣を輩出した。 三つ葉葵(松本藩) 六星(松本藩)他 九曜(大垣藩).

新しい!!: 徳川家康と戸田氏 · 続きを見る »

明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

新しい!!: 徳川家康と明 · 続きを見る »

明石全登

明石 全登/景盛/守重(あかし たけのり / かげもり / もりしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。諱は複数伝わり、定かではないが、「明石全登」の名が一番有名。全登は法号で「ぜんとう」と読むとする説もある。通称は掃部(かもん)で、明石掃部とも言う。宣教師を自分の屋敷に住まわせて保護するほどの熱烈なキリシタンであった。.

新しい!!: 徳川家康と明石全登 · 続きを見る »

明神

明神(みょうじん)は、日本の神仏習合における仏教的な神の称号の一つ。.

新しい!!: 徳川家康と明神 · 続きを見る »

明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

新しい!!: 徳川家康と明治 · 続きを見る »

明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

新しい!!: 徳川家康と明治維新 · 続きを見る »

明智城

明智城(あけちじょう).

新しい!!: 徳川家康と明智城 · 続きを見る »

明智光秀

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも致命傷を受けて自害したともされる。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」ともいう。 光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守。朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。 領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。.

新しい!!: 徳川家康と明智光秀 · 続きを見る »

春日局

春日局(かすが の つぼね)/斎藤福(さいとう ふく、天正7年(1579年) - 寛永20年9月14日(1643年10月26日)は、安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。 父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であった斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)の娘である安、又は稲葉一鉄の姉の娘於阿牟(おあむ)宮本義己「春日の局-大奥の権化となった家光の乳母-」(『別冊歴史読本』13巻16号、1988年)、養父は稲葉重通。 稲葉正成の妻で、正勝、正定、正利の母。養子に堀田正俊。 江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。 また、朝廷との交渉の前面に立つ等、近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与した。.

新しい!!: 徳川家康と春日局 · 続きを見る »

浪人

浪人(ろうにん)は、古代においては、戸籍に登録された地を離れて他国を流浪している者のことを意味し、浮浪とも呼ばれた。身分は囚われず全ての民衆がなりうる。江戸時代中期頃より牢人を浪人と呼ぶようになった。したがって牢人と浪人は正確には別義である。 対して牢人は、主家を去って(あるいは失い)俸禄を失った者をいう。室町時代から江戸時代にかけての主従関係における武士や侍のみに当てられる、いわば狭義の身分語であった。江戸時代になり戦火が収まると、改易などにより各地を流浪する牢人が急増した。そのため浮浪する牢人を浪人と呼ぶようになった。.

新しい!!: 徳川家康と浪人 · 続きを見る »

海道一の弓取り

海道一の弓取り(かいどういちのゆみとり)は、以下の戦国武将の異名。海道とは東海道を指す。弓取りとは弓矢で戦うものから「武士」、転じて「国持大名」を指す。通常、以下の、東海道の国に拠点を置いた戦国大名を指す。;年齢順.

新しい!!: 徳川家康と海道一の弓取り · 続きを見る »

浜名湖

浜名湖(はまなこ)は、静岡県浜松市、湖西市にまたがる湖。.

新しい!!: 徳川家康と浜名湖 · 続きを見る »

浜松

浜松(はままつ)は、天竜川の西、浜名湖の東に位置する都市。また、その市街地を中心とする地域。もともと濱津に由来し、中世には濱松と呼ばれるようになった。 この地域以外にも東京都港区をはじめ、日本各地に浜松という地名や人名が存在する(後述)。.

新しい!!: 徳川家康と浜松 · 続きを見る »

浜松城

浜松城(はままつじょう。旧字体表記は「濱松城」)は、静岡県浜松市中区にある日本の城跡。野面積みの石垣で有名。歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから「出世城」といわれた。.

新しい!!: 徳川家康と浜松城 · 続きを見る »

浄土宗

#伝統宗派としての浄土宗。浄土宗諸派の総称としての浄土宗。鎮西派と西山派に分かれる。.

新しい!!: 徳川家康と浄土宗 · 続きを見る »

浄土真宗

浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、大乗仏教の宗派のひとつで、浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨である。鎌倉仏教のひとつ。鎌倉時代初期の僧である親鸞が、その師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え『岩波仏教辞典』第二版、P.541「浄土真宗」より引用。を継承し展開させる。親鸞の没後にその門弟たちが、教団として発展させる。「浄土真宗」の英訳は、浄土真宗本願寺派ではJodo Shinshuとし、真宗大谷派・真宗佛光寺派ではShin Buddhismとしている。.

新しい!!: 徳川家康と浄土真宗 · 続きを見る »

浄土真宗本願寺派

浄土真宗本願寺派(じょうどしんしゅうほんがんじは)は、浄土真宗の宗派の1つで、宗教法人法による宗教法人(包括宗教法人)である。宗祖親鸞の墓所である「大谷廟堂」を発祥とする「本願寺」(「西本願寺」)を本山とする。2014年12月31日現在の被包括宗教団体数は10,329被包括宗教団体数は、別院含む寺院の他、教会などを含んだ宗教団体(宗教法人を含む)の総数である。平成26年12月31日現在、寺院10,206(うち宗教法人10,185)、教会8(うち宗教法人2)、布教所2(うち宗教法人0)、その他94(うち宗教法人71)である。(を参照。)。.

新しい!!: 徳川家康と浄土真宗本願寺派 · 続きを見る »

浅井三姉妹

北ノ庄城址(柴田神社)に立つ「三姉妹像」。浅井三姉妹を象ったもの(向かって左より茶々、江、初)。 浅井三姉妹(あざいさんしまい)は、戦国時代の武将浅井長政と正室市との間に生まれた3人の娘、茶々、初、江を指す。それぞれ豊臣秀吉・京極高次・徳川秀忠の妻(正室・側室)となった。天下統一を進めた織田信長の姪という血筋に生まれ、2度の戦国大名家の没落・落城や両親の死を経験し、その後天下をめぐる豊臣家(羽柴家)と徳川家の天下の覇権争いに深く関わったことから、母・市と並んで戦国の女性の代名詞として語られることが多い。.

新しい!!: 徳川家康と浅井三姉妹 · 続きを見る »

浅井長政

浅井 長政(あざい ながまさ、旧字体表記:淺井 長政)は、戦国時代の武将。北近江の戦国大名。浅井氏の3代目にして最後の当主。 浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、北東部に勢力をもっていた。妻の兄・織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害。浅井氏は滅亡した。官位は贈従二位中納言(徳川家光の外祖父にあたるため、死後の寛永9年(1632年)9月15日に贈られた)。.

新しい!!: 徳川家康と浅井長政 · 続きを見る »

浅野幸長

浅野 幸長(あさの よしなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。紀伊国和歌山藩(紀州藩)初代藩主。浅野氏15代当主。.

新しい!!: 徳川家康と浅野幸長 · 続きを見る »

浅野長重

浅野 長重(あさの ながしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。.

新しい!!: 徳川家康と浅野長重 · 続きを見る »

浅野長政

浅野 長政(あさの ながまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。豊臣政権の五奉行筆頭。浅野氏14代当主。常陸国真壁藩初代藩主。 長政は晩年の改名で、初名の長吉(ながよし)を名乗っていた時期が長い。.

新しい!!: 徳川家康と浅野長政 · 続きを見る »

浅野長晟

浅野 長晟(あさの ながあきら)は、江戸時代前期の大名。備中足守藩主、紀伊和歌山藩の第2代藩主、安芸広島藩の初代藩主。浅野氏宗家2代。.

新しい!!: 徳川家康と浅野長晟 · 続きを見る »

斎藤道三

斎藤 道三/利政(さいとう どうさん/としまさ)は、戦国時代の武将。美濃の戦国大名。道三流斎藤氏初代当主。 名としては、長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)・斎藤利政(新九郎)・道三などが伝わるが、書状などに現れているのは、藤原(長井)規秀・斎藤利政・道三などのみである。 父は松波庄五郎または松波基宗(後述)、子に義龍実父は土岐頼芸という説があるが、これを裏付けるような史料はないため後世の創作というのが有力とされる。、孫四郎(龍元、龍重)、喜平次(龍之、龍定)、利堯(利堯、玄蕃助)『勢州軍記』では稲葉良通の甥とある。、長龍(利興、利治)、日饒(妙覚寺19世住職)、日覚(常在寺6世住職)。また、長井道利『岐阜軍記』にある「斎藤系図」では長弘の子とも は長井利隆(『美濃明細記』)の子で道三の弟(『武家事紀』)『美濃国雑事記』の中の「長井系図」には長井利隆の子で斎藤道三の弟とある。 とも、または道三が若い頃の子であるともされる横山住雄著『斎藤道三』によれば道利は長井長弘ではなく道三の一族で庶子であったため嫡男義龍に斎藤氏を、道利に長井氏を継がせたのではないとかとしている。。娘に姉小路頼綱正室、帰蝶(濃姫、織田信長正室)など。.

新しい!!: 徳川家康と斎藤道三 · 続きを見る »

新史太閤記

『新史 太閤記』(しんし たいこうき)は、司馬遼太郎の歴史小説。尾張国の貧農から身を起こして天下人となり、「戦国一の出世頭」と呼ばれた豊臣秀吉の壮年期を扱った作品である。 『小説新潮』誌上で、1966年(昭和41年)2月号から1968年(昭和43年)3月号まで連載された。.

新しい!!: 徳川家康と新史太閤記 · 続きを見る »

新府城

新府城(しんぷじょう)は、現在の山梨県韮崎市中田町にかつてあった日本の城である。1973年(昭和48年)には「新府城跡」として国の史跡に指定されており、保存のため公有地化された。本丸跡地には藤武稲荷神社が建立されている。.

新しい!!: 徳川家康と新府城 · 続きを見る »

新井白石

新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。一介の無役の旗本でありながら六代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の七代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折し八代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。 学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、諱は君美(きみよし、きんみ)。.

新しい!!: 徳川家康と新井白石 · 続きを見る »

新田氏

新田氏(にったし)は、上野国発祥の豪族(軍事貴族)。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の三男義国の長男新田義重を祖とする上野源氏の総称。義国流足利氏と同族である。上野国(群馬県)を本貫とした。家紋は「大中黒・新田一つ引(おおなかぐろ・にったひとつびき)」。.

新しい!!: 徳川家康と新田氏 · 続きを見る »

新陰流

新陰流(しんかげりゅう)は、上泉信綱により1560年代に成立した剣術の流派。上泉信綱は新陰流とも新影流とも書いている。.

新しい!!: 徳川家康と新陰流 · 続きを見る »

新潮新書

新潮新書(しんちょうしんしょ)は、新潮社が発行する新書レーベルである。2003年(平成15年)4月刊行開始。キャッチコピーは「現代を知りたい大人のために 700円で充実の2時間」。.

新しい!!: 徳川家康と新潮新書 · 続きを見る »

方広寺

方広寺(ほうこうじ)は、京都府京都市東山区にある天台宗の寺院。通称は「大仏」または「大仏殿」。豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として木食応其によって創建された。.

新しい!!: 徳川家康と方広寺 · 続きを見る »

於大の方

於大の方(おだいのかた、享禄元年(1528年) - 慶長7年8月28日(1602年10月13日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。松平広忠の正室で、徳川家康の母。晩年は伝通院と称した。実名は「大」、または「太」「たい」実名は江戸初期編纂『寛永諸家系図伝』「水野氏」の忠政の女子に「御太方(たいはう)」とあり、同時期寛永18年(1641年)に幕府に提出された「水野勝成覚書」には甥の勝成が「たいほう」と冒頭系図に書き記している。朝廷から贈られた名前「大子」も読みは「たいこ」であろう。。なお、嘉永3年(1850年)10月29日に従一位の贈位があり、その位記では、諱を「大子」としている。.

新しい!!: 徳川家康と於大の方 · 続きを見る »

文王 (周)

文王(ぶんのう、ぶんおう、紀元前1152年 - 紀元前1056年)は、中国の周朝の始祖。姓は姫、諱は昌。父は季歴、母は太任であり、虢仲および虢叔が兄である。周の創始者である武王の父にあたる。「寧王」とも呼ばれる。.

新しい!!: 徳川家康と文王 (周) · 続きを見る »

文禄

文禄(ぶんろく)は日本の元号の一つ。天正の後、慶長の前。1593年から1596年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、将軍は不在。.

新しい!!: 徳川家康と文禄 · 続きを見る »

文系と理系

文系(ぶんけい)と理系(りけい)とは、主に高等教育(あるいはその準備段階としての中等教育最後期)において学問を大まかに二分類する際に用いられる用語である。それぞれ文科系(ぶんかけい)、理科系(りかけい)とも呼ばれ、両者を合わせて文理(ぶんり)という。.

新しい!!: 徳川家康と文系と理系 · 続きを見る »

文英清韓

文英清韓(ぶんえいせいかん、永禄11年(1568年)- 元和7年3月25日(1621年5月16日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての臨済宗の僧。伊勢国の出身で、俗名は中尾重忠。諱は清韓石井清純「文英清韓」『朝日日本歴史人物事典』。「文英清韓」『世界大百科事典 』平凡社。。「文英」は字。号は不放子。.

新しい!!: 徳川家康と文英清韓 · 続きを見る »

日奥

日奥(にちおう、永禄8年6月8日(1565年7月5日) - 寛永7年3月10日(1630年4月22日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の法華宗(日蓮宗)の僧。字は教英。号は仏性院、安国院。不受不施派の祖。.

新しい!!: 徳川家康と日奥 · 続きを見る »

日下部定好

日下部 定好(くさかべ さだよし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・旗本。.

新しい!!: 徳川家康と日下部定好 · 続きを見る »

日光市

日光市(にっこうし)は、栃木県の北西部に位置する市。.

新しい!!: 徳川家康と日光市 · 続きを見る »

日光東照宮

日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は、日本の関東地方北部、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために、「日光東照宮」と呼ばれることが比較的多い。 その歴史は少なくとも源義朝による日光山造営までさかのぼり得るもので、源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて、東国の宗教的権威となっていた。こうした歴史を背景に、徳川氏は東照宮を造営したと考えられる。.

新しい!!: 徳川家康と日光東照宮 · 続きを見る »

日経

日経(にっきょう、永禄3年2月28日(1560年3月24日) - 元和6年11月22日(1620年12月15日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の法華宗(顕本法華宗)の僧。号は常楽院。.

新しい!!: 徳川家康と日経 · 続きを見る »

日蓮宗

日蓮宗(にちれんしゅう)は、.

新しい!!: 徳川家康と日蓮宗 · 続きを見る »

日本人

日本人(にほんじん、にっぽんじん、Japanese)は、日本の国籍(日本国籍)を持つ日本国民。または祖先が日本列島に居住していた民族集団を指す。.

新しい!!: 徳川家康と日本人 · 続きを見る »

日本テレビ放送網

日本テレビ放送網株式会社(にっぽんテレビほうそうもう、英称:)は、関東広域圏を放送対象地域としてテレビジョン放送を行う特定地上基幹放送事業者である。1953年8月28日に日本国内で初めての民間放送テレビ局として開局した。 一般的には日本テレビ(にほんテレビ)または日テレ(にっテレ、Nittele)と呼ばれる。他に「NTV」(エヌティーヴィー)、コールサイン「'''JOAX-DTV'''」(東京 25ch)からの「AX」(エーエックス、アックス)という略称もある。 リモコンキーIDは「4」。 スカパー!プレミアムサービスをプラットフォームとして日テレジータスの放送を行う衛星一般放送事業者でもある。 なお、認定放送持株会社制移行のために、2012年10月1日に(旧)日本テレビ放送網株式会社(現日本テレビホールディングス株式会社・旧会社)から新設分割され、移管・放送免許を承継した(新)日本テレビ放送網株式会社(現行会社)が現業を行なっている。.

新しい!!: 徳川家康と日本テレビ放送網 · 続きを見る »

日本泳法

日本泳法(にほんえいほう)は、古式泳法(こしきえいほう)とも呼ばれる、日本古来の泳ぎ方のことである。これらは明治以降の名称であり、「水術」「水練」「踏水術」「游泳術」「泅水術」等が本来の名称である。江戸時代初期より約400年の歴史を持つとされ、日本水泳連盟公認の流派は13ある 柴崎直人 - 中部学院大学・中部学院短期大学部 研究紀要 第10号(2009年)。.

新しい!!: 徳川家康と日本泳法 · 続きを見る »

日本放送協会

日本放送協会(にっぽんほうそうきょうかい、英称:Japan Broadcasting Corporation)は、日本の公共放送を担う事業者。よく誤解されるが国営放送ではない。日本の放送法(昭和25年法律第132号)に基づいて設立された放送事業を行う特殊法人。総務省(旧・郵政省)が所管する外郭団体である。 公式略称は、「NIPPON HOSO KYOKAI」の頭文字を取り「」と呼称・記される。 公共放送としての事業規模は、英国放送協会 (BBC) などと並び、国内にNHKエンタープライズ、NHKグローバルメディアサービス、NHK出版など13の連結子会社を持つ。また、関連会社として日本国外にNHKコスモメディアアメリカ、NHKコスモメディアヨーロッパが設立されている。1986年には子会社である株式会社NHKエンタープライズを出資母体として、NHKエンタープライズ25%、株式会社電通25%の共同出資による株式会社総合ビジョンを設立した。しかし、これは事業の縮小を経て2013年7月1日付けでNHKエンタープライズに吸収合併した。 愛宕山。 中継車(いすゞ・フォワード).

新しい!!: 徳川家康と日本放送協会 · 続きを見る »

日時計

日時計(ひどけい)は、影を利用して視太陽時を計測する装置。紀元前3000年、古代エジプトで使われていたが、起源はさらにその前の古代バビロニアにさかのぼると考えられる。日晷儀(にっきぎ)、晷針(きしん)ともいう。 古代ギリシア及び古代ローマで改良され完全なものができた。これはアラビアに伝えられた(アラビアの天文学ではこれをノーモン (en:gnomon) という)。のちに、機械時計が発明されると、それにとってかわられた。現在は、主に庭園や建造物の装飾の一部として設置される。.

新しい!!: 徳川家康と日時計 · 続きを見る »

旗本

旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。.

新しい!!: 徳川家康と旗本 · 続きを見る »

旗本先手役

旗本先手役(はたもとせんてやく)は徳川家康の時代にあった徳川家の軍制。旗本を自身の護衛のみではなく、積極的に戦闘に投入することを目的とした城下に常駐する部隊である。旗本一手役(はたもといってやく)とも言う。.

新しい!!: 徳川家康と旗本先手役 · 続きを見る »

摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

新しい!!: 徳川家康と摂家 · 続きを見る »

摂家将軍

摂家将軍(せっけしょうぐん)は、鎌倉幕府将軍のうち、摂家から迎えられた将軍のこと。源氏将軍が絶えた後を継いだ第4代・藤原頼経と、その嫡男の第5代・藤原頼嗣の2人がこれにあたる。藤原将軍あるいは公卿将軍とも呼ばれる。.

新しい!!: 徳川家康と摂家将軍 · 続きを見る »

摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

新しい!!: 徳川家康と摂津国 · 続きを見る »

支城

支城(しじょう)とは、本城を守るように配置された補助的役割を持つ出城・砦・陣屋などのことを指す。枝城(えだじろ)などとも呼ばれた。戦国時代には、本城・支城間に支城網(しじょうもう)と呼ばれる多彩な連絡網が形成されるようになった。.

新しい!!: 徳川家康と支城 · 続きを見る »

改姓

改姓(かいせい)とは姓を改める事を指す。.

新しい!!: 徳川家康と改姓 · 続きを見る »

改易

改易(かいえき)は、律令制度では現職者の任を解き新任者を補任することを、鎌倉時代・室町時代には守護・地頭の職の変更を意味した。江戸時代においては大名・旗本などの武士から身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること。除封ともいう。所領を削減されることを減封という。.

新しい!!: 徳川家康と改易 · 続きを見る »

攻城戦

ンスタンティノープルの陥落 攻城戦(こうじょうせん、英:siege)とは敵の砦、城、城壁都市を奪取するための戦闘のことである。.

新しい!!: 徳川家康と攻城戦 · 続きを見る »

愛知県

愛知県(あいちけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は名古屋市。.

新しい!!: 徳川家康と愛知県 · 続きを見る »

敬台院

敬台院(きょうだいいん、文禄元年(1592年)『幕府祚胤伝』では慶長17年(1612年)生まれ、元和2年(1616年)婚姻とあるが、それでは息子である忠英よりも年下になってしまうため誤記と思われる。なお、『徳川実紀』元和六年二月二十六日条では、嫁いだ時期を慶長5年(1600年)正月としており、相違は無い。 - 寛文6年1月4日(1666年2月7日))は、徳島藩初代藩主・蜂須賀至鎮の正室。父は小笠原秀政。養父は徳川家康。母は登久姫(松平信康の娘)。幼名は万姫、お虎。子に蜂須賀忠英、三保姫(池田忠雄正室)、正徳院(水野成貞正室)がいる。.

新しい!!: 徳川家康と敬台院 · 続きを見る »

数学

数学(すうがく、μαθηματικά, mathematica, math)は、量(数)、構造、空間、変化について研究する学問である。数学の範囲と定義については、数学者や哲学者の間で様々な見解がある。.

新しい!!: 徳川家康と数学 · 続きを見る »

教如

教如(きょうにょ、敎如)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての浄土真宗の僧。 東本願寺第12代法主 。.

新しい!!: 徳川家康と教如 · 続きを見る »

慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

新しい!!: 徳川家康と慶長 · 続きを見る »

手形・足形

久能山東照宮にある徳川家康の手形 クエバ・デ・ラス・マノスにある手形の洞窟壁画 手形・足形(てがた・あしがた)は、手のひらや足の裏を象ったものである。 通常、手のひらや足の裏に墨を塗り、紙の上に押して記録する。他にもさまざまな方式のものがある。 手型・足型とも書くが、この場合、粘土などで象りして凹みのあるレリーフ状にしたものを意味することが多い。.

新しい!!: 徳川家康と手形・足形 · 続きを見る »

手続き的知識

手続き的知識(てつづきてきちしき、Procedural Knowledge)とは、何かをする際のハウツー的な知識。普通はノウハウ(Know-how)ともいう。人工知能、認知心理学、知的財産権における意味も合わせて解説する。.

新しい!!: 徳川家康と手続き的知識 · 続きを見る »

曲輪

多数の曲輪で構成された中世山城(千早城) 曲輪(くるわ)は、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称である。郭(くるわ)とも書く。 主要な曲輪内には、曲輪の出入り口である虎口を封鎖する門を始め、最前線の塀、物見や攻撃を与える櫓が建てられる。主郭では司令本部となる城主の居所のほか、兵糧を備蓄する蔵、兵たちの食事を仕込む台所などの建造物が建てられていた。戦時、それぞれの曲輪には守備を担当する兵たちが駐屯した。.

新しい!!: 徳川家康と曲輪 · 続きを見る »

曳馬町

曳馬町(ひくまちょう)は浜名郡に属する自治体名・浜松市中区の地名。1983年9月に住居表示化されて現在の曳馬一丁目 - 六丁目となる。主に住宅地である。.

新しい!!: 徳川家康と曳馬町 · 続きを見る »

書経

『書経』(しょきょう)または『尚書』(しょうしょ)は、政治史・政教を記した中国最古の歴史書。堯舜から夏・殷・周の帝王の言行録を整理した演説集である。また一部、春秋時代の諸侯のものもあり、秦の穆公のものまで扱われている。甲骨文・金文と関連性が見られ、その原型は周初の史官の記録にあると考えられている。儒教では孔子が編纂したとし、重要な経典である五経のひとつに挙げられている。 古くは『書』とのみ、漢代以降は『尚書』と呼ばれた。『書経』の名が一般化するのは宋代以降である。 現行本『書経』58篇のテキストは「偽古文尚書」であり、その大半は偽作された偽書である。.

新しい!!: 徳川家康と書経 · 続きを見る »

普照院

普照院(ふしょういん、生年不詳 - 元和3年2月17日(1617年3月24日))は、徳川家康の側室。名は久。父は後北条氏の旧臣である間宮康俊。.

新しい!!: 徳川家康と普照院 · 続きを見る »

時計

山田訓氏所蔵「MADE IN JAPANの置時計 1960年代を中心に」展より 懐中時計 時計(土圭、とけい)とは、時刻を知るための、また時間を計るための器機・道具。.

新しい!!: 徳川家康と時計 · 続きを見る »

12月26日 (旧暦)

旧暦12月26日は旧暦12月の26日目である。六曜は先勝である。.

新しい!!: 徳川家康と12月26日 (旧暦) · 続きを見る »

1543年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1543年 · 続きを見る »

1547年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1547年 · 続きを見る »

1549年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1549年 · 続きを見る »

1555年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1555年 · 続きを見る »

1558年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1558年 · 続きを見る »

1560年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1560年 · 続きを見る »

1562年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1562年 · 続きを見る »

1564年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1564年 · 続きを見る »

1566年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1566年 · 続きを見る »

1567年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1567年 · 続きを見る »

1568年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1568年 · 続きを見る »

1569年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1569年 · 続きを見る »

1570年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1570年 · 続きを見る »

1571年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1571年 · 続きを見る »

1572年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1572年 · 続きを見る »

1573年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1573年 · 続きを見る »

1574年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1574年 · 続きを見る »

1575年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1575年 · 続きを見る »

1578年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1578年 · 続きを見る »

1579年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1579年 · 続きを見る »

1580年

金曜日から始まる。.

新しい!!: 徳川家康と1580年 · 続きを見る »

1581年

日曜日から始まる。.

新しい!!: 徳川家康と1581年 · 続きを見る »

1582年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1582年 · 続きを見る »

1583年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1583年 · 続きを見る »

1584年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1584年 · 続きを見る »

1585年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1585年 · 続きを見る »

1586年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1586年 · 続きを見る »

1587年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1587年 · 続きを見る »

1588年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1588年 · 続きを見る »

1589年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1589年 · 続きを見る »

1590年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1590年 · 続きを見る »

1591年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1591年 · 続きを見る »

1592年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1592年 · 続きを見る »

1593年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1593年 · 続きを見る »

1594年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1594年 · 続きを見る »

1595年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1595年 · 続きを見る »

1596年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1596年 · 続きを見る »

1597年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1597年 · 続きを見る »

1598年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1598年 · 続きを見る »

1599年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1599年 · 続きを見る »

1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

新しい!!: 徳川家康と1600年 · 続きを見る »

1601年

17世紀最初の年である。.

新しい!!: 徳川家康と1601年 · 続きを見る »

1602年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1602年 · 続きを見る »

1603年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1603年 · 続きを見る »

1605年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1605年 · 続きを見る »

1607年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1607年 · 続きを見る »

1609年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1609年 · 続きを見る »

1610年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1610年 · 続きを見る »

1611年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1611年 · 続きを見る »

1612年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1612年 · 続きを見る »

1613年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1613年 · 続きを見る »

1614年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1614年 · 続きを見る »

1615年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1615年 · 続きを見る »

1616年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1616年 · 続きを見る »

1617年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1617年 · 続きを見る »

1620年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1620年 · 続きを見る »

1645年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1645年 · 続きを見る »

1798年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1798年 · 続きを見る »

1964年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1964年 · 続きを見る »

1965年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1965年 · 続きを見る »

1970年

記載なし。

新しい!!: 徳川家康と1970年 · 続きを見る »

1983年

この項目では、国際的な視点に基づいた1983年について記載する。.

新しい!!: 徳川家康と1983年 · 続きを見る »

1987年

この項目では、国際的な視点に基づいた1987年について記載する。.

新しい!!: 徳川家康と1987年 · 続きを見る »

1988年

この項目では、国際的な視点に基づいた1988年について記載する。.

新しい!!: 徳川家康と1988年 · 続きを見る »

1992年

この項目では、国際的な視点に基づいた1992年について記載する。.

新しい!!: 徳川家康と1992年 · 続きを見る »

1月21日 (旧暦)

旧暦1月21日は旧暦1月の21日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 徳川家康と1月21日 (旧暦) · 続きを見る »

1月31日

1月31日(いちがつさんじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から31日目に当たり、年末まであと334日(閏年では335日)ある。1月の最終日である。.

新しい!!: 徳川家康と1月31日 · 続きを見る »

2000年

400年ぶりの世紀末閏年(20世紀および2千年紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年のままとなる(グレゴリオ暦の規定による)。。Y2Kと表記されることもある(“Year 2000 ”の略。“2000”を“2K ”で表す)。また、ミレニアムとも呼ばれる。 この項目では、国際的な視点に基づいた2000年について記載する。.

新しい!!: 徳川家康と2000年 · 続きを見る »

2005年

この項目では、国際的な視点に基づいた2005年について記載する。.

新しい!!: 徳川家康と2005年 · 続きを見る »

2005年日本国際博覧会

2005年日本国際博覧会(2005ねんにっぽんこくさいはくらんかい、英称:The 2005 World Exposition, Aichi, Japan)は、2005年3月25日から同年9月25日まで、長久手会場(愛知県愛知郡長久手町=現:長久手市と、豊田市東ゲート。現在知の拠点あいちのある辺りにまたがる場所)および瀬戸会場(同県瀬戸市)の2会場で開催された博覧会で、21世紀最初の国際博覧会 (EXPO) であり、日本では1970年に開催された大阪万博以来の2回目の総合的なテーマを取り扱う大規模な国際博覧会(General category:旧一般博、現登録博)である。略称は、博覧会協会が定めた正式な愛称として「愛・地球博」(あい・ちきゅうはく)がある他、開催地の名から「愛知万博」とも呼ばれる。英語愛称は、EXPO 2005 AICHI, JAPAN。1997年にモナコで開かれた博覧会国際事務局 (BIE) 総会でカナダのカルガリーを破り、開催地に選ばれた。.

新しい!!: 徳川家康と2005年日本国際博覧会 · 続きを見る »

2008年

この項目では、国際的な視点に基づいた2008年について記載する。.

新しい!!: 徳川家康と2008年 · 続きを見る »

2009年

この項目では、国際的な視点に基づいた2009年について記載する。.

新しい!!: 徳川家康と2009年 · 続きを見る »

2011年

この項目では、国際的な視点に基づいた2011年について記載する。.

新しい!!: 徳川家康と2011年 · 続きを見る »

2012年

この項目では、国際的な視点に基づいた2012年について記載する。.

新しい!!: 徳川家康と2012年 · 続きを見る »

2016年

この項目では、国際的な視点に基づいた2016年について記載する。.

新しい!!: 徳川家康と2016年 · 続きを見る »

2017年

この項目では国際的な視点に基づいた2017年について記載する。.

新しい!!: 徳川家康と2017年 · 続きを見る »

2月18日

2月18日(にがつじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から49日目にあたり、年末まであと316日(閏年では317日)ある。.

新しい!!: 徳川家康と2月18日 · 続きを見る »

3月

『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より3月 3月(さんがつ)は、グレゴリオ暦で年の第3の月に当たり、31日間ある。 日本では、旧暦3月を弥生(やよい)と呼び、現在でも新暦3月の別名としても用いる。弥生の由来は、草木がいよいよ生い茂る月「木草弥や生ひ月(きくさいやおひづき)」が詰まって「やよひ」となったという説が有力で、これに対する異論は特にない。 ヨーロッパ諸言語での呼び名であるmars,marzo,Marchなどはローマ神話のマルス (Mars) の月を意味するMartiusから取ったもの。 古代ローマの暦(ユリウス暦より前)においては、年の最初の月は現在の3月にあたる。閏年の日数調整を2月に行うのは、当時の暦での最後の月に日数調整を行っていたことの名残である。 3月はその年の11月と同じ曜日で始まり、平年には2月と同じとなる。.

新しい!!: 徳川家康と3月 · 続きを見る »

4月17日 (旧暦)

旧暦4月17日は旧暦4月の17日目である。六曜は友引である。.

新しい!!: 徳川家康と4月17日 (旧暦) · 続きを見る »

5月

『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より5月 5月(ごがつ)はグレゴリオ暦で年の第5の月に当たり、31日ある。.

新しい!!: 徳川家康と5月 · 続きを見る »

5月6日

5月6日(ごがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から126日目(閏年では127日目)にあたり、年末まではあと239日ある。誕生花はシャクナゲ。.

新しい!!: 徳川家康と5月6日 · 続きを見る »

6月1日

6月1日(ろくがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から152日目(閏年では153日目)にあたり、年末まであと213日ある。誕生花はマトリカリア、クレマチス。.

新しい!!: 徳川家康と6月1日 · 続きを見る »

6月20日 (旧暦)

旧暦6月20日は旧暦6月の20日目である。六曜は先勝である。.

新しい!!: 徳川家康と6月20日 (旧暦) · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

家康安國院安国院德川家康東照大権現松平家康松平元信松平元康江戸入府源家康狸爺狸親父

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »