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後朱雀天皇と斎院

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後朱雀天皇と斎院の違い

後朱雀天皇 vs. 斎院

後朱雀天皇(ごすざくてんのう、寛弘6年11月25日(1009年12月14日) - 寛徳2年1月18日(1045年2月7日))は、平安時代中期の第69代天皇(在位:長元9年4月17日(1036年5月15日) - 寛徳2年1月16日(1045年2月5日))。諱は敦良(あつなが)。 一条天皇の第三皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母兄に後一条天皇。. 斎院(さいいん)は、平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した皇女で、伊勢神宮の斎宮と併せて斎王(斎皇女)という。斎王の御所を指すこともある。賀茂斎王、賀茂斎院とも称する。 賀茂神社では祭祀として賀茂祭(現在の葵祭)を行い、斎王が奉仕していた時代は斎王が祭を主宰してきた。その後も葵祭は継続されたが室町、江戸、戦後と三度祭が断絶したという。その後、1953年に祭が復活したことを契機として、1956年の葵祭以降、祭の主役として一般市民から選ばれた未婚の女性を斎王代として祭を開催するようになった。斎王代に選ばれた女性は唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく)を着用し、舞台化粧と同様の化粧に加えお歯黒も施される。.

後朱雀天皇と斎院間の類似点

後朱雀天皇と斎院は(ユニオンペディアに)共通で15ものを持っています: ばい子内親王 (後朱雀天皇皇女)娟子内親王三条天皇平安時代京都市後三条天皇後一条天皇円融天皇藤原彰子醍醐天皇村上天皇正子内親王 (後朱雀天皇皇女)源俊房斎宮敦明親王

ばい子内親王 (後朱雀天皇皇女)

子内親王(ばいし(みわこ)ないしんのう、長暦3年8月19日(1039年9月10日) - 嘉保3年9月13日(1096年10月1日)は、後朱雀天皇の第4皇女。母は中宮・藤原嫄子、同母姉に祐子内親王。後冷泉天皇朝賀茂斎院、号六条斎院。.

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娟子内親王

娟子内親王(けんしないしんのう、長元5年9月13日(1032年10月19日) - 康和5年3月12日(1103年4月20日))は、第67代後朱雀天皇第2皇女。母は皇后・禎子内親王。賀茂斎院、のち源俊房の正室。同母姉に良子内親王(伊勢斎宮)、同母弟に第69代後三条天皇がいる。 父・後朱雀天皇の即位により、姉・良子内親王の伊勢斎宮卜定と同日の長元9年(1036年)11月28日、賀茂斎院に卜定され、翌長暦元年(1037年)4月13日初斎院入りする。この人事は姪の禎子内親王と不仲だった藤原頼通が禎子内親王をくじくために娘を遠方に引き離す戦略だったと説明されることが多い。だが、去ること長元4年(1031年)、当時の伊勢斎宮であった具平親王第3王女・嫥子女王が酒乱に乗じて「ご託宣」と称し「斎宮の冷遇は天皇の失政」として非難した事件があった。このため、伊勢・賀茂の祭祀を天皇家が怠っていないことを表明するため、天皇実娘を斎宮、斎院に任命したとする説が近年有力である。 寛徳2年(1045年)1月18日、後朱雀上皇の崩御により退下。その後は禎子内親王の下で生活していたが、天喜5年(1057年)、3歳年下の源俊房と密通し、遂に俊房の屋敷へ駆け落ちしてしまった。俊房は伯母・隆姫女王が藤原頼通の正妻、母は頼通の異母妹尊子という「摂関家よりの人物」であり、これを知った弟の東宮・尊仁親王(後の後三条天皇)は怒り狂ったが、俊房が摂関家の縁者であることもあり、除位などの具体的な処罰までには至らなかった。しかしこの事件で皇女らしからぬ軽率な行動をとった娟子内親王は、その後狂斎院と呼ばれるようになる。 俊房との間には子女に恵まれなかったが、その後は俊房正室として厚く遇された。しかし、甥の白河天皇が即位すると、「後三条天皇の遺言」を盾に白河天皇の異母弟・実仁親王、輔仁親王を東宮に推す夫・俊房と、自分の子孫を天皇に据えたい白河天皇は次第に対立するようになる。 康和5年(1103年)、白河天皇の息子・堀河天皇に皇子(後の鳥羽天皇)が生まれる。この皇子が生後間もなく東宮とされ、俊房は失脚、その後は失意の生涯を送った。娟子内親王は鳥羽天皇と入れ替わるようにこの年薨去、夫の零落を見ることはなかった。 Category:日本の内親王 category:平安時代の女性皇族 Category:斎院 Category:平安時代の公卿の妻室 Category:1032年生 Category:1103年没.

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三条天皇

三条天皇(さんじょうてんのう、天延4年1月3日(976年2月5日) - 寛仁元年5月9日(1017年6月5日))は第67代天皇。諱は居貞(おきさだ / いやさだ)。享年42。在位は寛弘8年6月13日(1011年7月16日)から長和5年1月29日(1016年3月10日)まで。 冷泉天皇の第二皇子。母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇太后超子。花山天皇の異母弟。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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京都市

京都タワーと京都中心部 京都市中心部四条河原町 京都市(きょうとし )は、京都府南部に位置し、同府最大の市で、府庁所在地である。政令指定都市に指定されており、11区を置く。日本の市で8番目の人口を有する。延暦十三年(794年)から明治二年(1869年)までの1,000年以上にわたって日本の都が置かれていたため、古都として認識されている。.

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後三条天皇

大炊御門万里小路殿址、源高房、後三条天皇はこの地で崩御、京都府京都市中京区富小路通夷川上る西側 後三条天皇(ごさんじょうてんのう、長元7年7月18日(1034年9月3日) - 延久5年5月7日(1073年6月15日))は、第71代天皇(在位:治暦4年4月19日(1068年5月22日) - 延久4年12月8日(1073年1月18日))。諱は尊仁(たかひと)。宝算40。 後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇第三皇女・皇后禎子内親王(陽明門院)。後冷泉天皇の異母弟。宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇である(ただし、生母の禎子内親王は藤原道長の外孫である)。.

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後一条天皇

後一条天皇(ごいちじょうてんのう、寛弘5年9月11日(1008年10月12日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))は、平安時代中期の第68代天皇(在位:長和5年2月7日(1016年3月18日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))。諱は敦成(あつひら)。一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母弟に後朱雀天皇。.

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円融天皇

円融天皇(えんゆうてんのう、天徳3年旧3月2日(959年4月12日) - 正暦2年旧2月12日(991年3月1日); 在位:安和2年旧9月23日(969年11月5日) - 永観2年旧8月27日(984年9月24日))は、第64代天皇。諱は守平(もりひら)。 村上天皇の第五皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・中宮安子。冷泉天皇の同母弟。.

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藤原彰子

藤原 彰子(ふじわら の しょうし/あきこ、永延2年(988年) - 承保元年10月3日(1074年10月25日)は、第66代一条天皇の皇后(号は中宮)。第68代後一条天皇・第69代後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号を上東門院(じょうとうもんいん)といい、のちには大女院(おおにょいん)とも呼ばれた。 女房に『源氏物語』作者の紫式部、王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁、そして「古の奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬる哉」の一句が有名な歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸サロンを形成していた。.

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醍醐天皇

醍醐天皇(だいごてんのう、元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月29日(930年10月23日))は、平安時代の第60代天皇(在位:寛平9年7月13日(897年8月14日)- 延長8年9月22日(930年10月16日))。臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源 維城(みなもと の これざね)といった。のち父の即位とともに皇族に列し親王宣下ののちに敦仁(あつぎみ・あつひと)に改めた。 宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。.

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村上天皇

村上天皇(むらかみてんのう、延長4年旧6月2日(926年7月14日)- 康保4年旧5月25日(967年7月5日))、は、平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年(946年)旧4月28日 - 康保4年(967年)旧5月25日)。諱は成明(なりあきら)。 第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経女中宮穏子。第61代朱雀天皇の同母弟。.

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正子内親王 (後朱雀天皇皇女)

正子内親王(まさこないしんのう、寛徳2年4月20日(1045年5月9日) - 永久2年8月20日(1114年9月20日))は、第69代後朱雀天皇の第5皇女。母は女御・藤原延子(藤原頼宗の娘)。後冷泉、後三条両朝の賀茂斎院。押小路斎院、また土御門斎院とも号した。 後朱雀天皇の崩御から3ヶ月後に誕生。天喜6年(1058年)6月27日、異母姉・禖子内親王の後をうけて14歳で賀茂斎院に卜定。康平3年(1060年)4月12日、紫野院に入る。延久元年(1069年)7月24日、病のため25歳で退下、その後は尼となった(『中右記』)。永久2年、70歳で薨去。.

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源俊房

源 俊房(みなもと の としふさ、長元8年(1035年) - 保安2年11月12日(1121年12月23日))は、平安時代後期の公家。村上源氏、源師房の子。従一位・左大臣。堀川左大臣とも称される。.

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斎宮

斎宮の復元擬態(斎王まつり)三重県明和町 斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)は古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)であるが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する。.

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敦明親王

敦明親王(あつあきらしんのう、正暦5年5月9日(994年6月20日) - 永承6年1月8日(1051年2月21日))は、平安時代中期の皇族。第67代三条天皇の第一皇子。母は皇后・藤原娍子(大納言・藤原済時の女)。尊号は小一条院(こいちじょういん)。藤原道長の圧力の前に自ら皇太子の身位を辞退し、その見返りに准太上天皇としての待遇を得たことで知られる。.

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後朱雀天皇と斎院の間の比較

斎院が100を有している後朱雀天皇は、94の関係を有しています。 彼らは一般的な15で持っているように、ジャカード指数は7.73%です = 15 / (94 + 100)。

参考文献

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