476 関係: 加納藩、城長茂、南北朝時代 (日本)、南部重直、名神大社、向日市、吉川真司、坂井政尚、堀尾忠晴、大垣藩、大名、大坂城代、大山崎町、大久保常春、大久保忠卿、大久保忠喜、大久保忠胤、大久保氏、大伴犬養、大和国、大内義興、大田原庸清、大田原光清、大田原高清、大田原藩、大田原氏、大谷吉継、大極殿、大正、天平、天皇、天領、奥平昌敦、女官、嫡流、室町時代、宮家、宮中・京中の式内社一覧、家老、守護、守護所、守谷藩、宇喜多秀家、宇都宮藩、宇陀松山藩、宇治川の戦い、宇治郡、安中藩、安土桃山時代、安東定季、...、安東恒季、寺社領、小笠原忠知、小笠原長庸、小笠原長矩、小笠原長煕、小笠原氏、小畠虎盛、小野好古、小松藩、小泉藩、小早川秀秋、尾張藩、山城 (戦艦)、山城国の式内社一覧、山城国一揆、山城国分寺跡、山城町上狛、山口恵一郎、山名宗全、山名氏清、山名是豊、山名政豊、山崎の戦い、山川出版社、山中長俊、山科本願寺の戦い、山田重忠、岡藩、岩槻藩、岩成友通、左京区、上山藩、上国、上総国、上野国、上条上杉家、上条政繁、上杉謙信、上杉景勝、中川久清、中川久慶、中京区、中津藩、常陸府中藩、常陸国、丹波国、三好三人衆、三好康長、三好義興、三好長慶、三河吉田藩、三河国、三浦胤義、下総国、下野国、一宮、一色義貫、一色教親、一柳直治、一柳頼寿、平城山丘陵、平城京、平安京、平安時代、平知盛、平等院、平重衡、幕府陸軍、久世郡、乙訓郡、京田辺市、京都守護、京都守護職、京都市、京都府、京都代官、京極高詮、京極高数、京極持高、京極持清、庭瀬藩、庄内藩、井上正森、井伊直弼、今尾藩、令制国、令制国一覧、以仁王、以仁王の挙兵、延喜式、延喜式神名帳、延暦、建仁の乱、廃藩置県、伊予国、伊予松山藩、伊勢平氏、伊勢国、伊勢貞宗、伊勢貞陸、会津藩、伏見城、伏見城の戦い、伏見藩、佐々木道誉、佐倉藩、佐竹義久、佐貫藩、佐野綱正、侍所、御牧藩、徳川義直、後鳥羽天皇、後村上天皇、信濃国、応仁の乱、土岐定義、土岐定政、土岐頼功、土岐頼布、土岐頼行、土岐頼潤、土岐氏、土井利徳、土井利祐、土井利謙、土井利意、土井氏、土方雄隆、地下家、地方知行、北区 (京都市)、北畠親房、北面武士、北条泰時、北日本、刈谷藩、和名類聚抄、備中国、唐、内藤学文、内藤氏、内藤政峻、内藤政森、内藤政成、内藤政文、出羽国、出雲国、八幡の戦い、八幡市、公家、六角義賢、六波羅探題、国分寺、四堺、皆川広照、皆川隆庸、皆川藩、皇室財産、石川藩、社家、禁門の変、秋月種弘、秋月種徳、秋月種政、秋月氏、稲葉氏、窪田藩、竹腰勝起、竹腰正信、竹腰正武、竹腰正映、篠山藩、節用集、細川幽斎、細川勝元、細川高国、細川政元、細川晴元、紀今守、紀伊郡、綴喜郡、継体天皇、総社、織田信守、織田信休、織田信長、織田信民、織田信旧、織田高長、織田氏、美濃国、烏山藩、生実藩、田沼意知、田沼意次、畠山基国、畠山義就、畠山高政、畠山満家、畠山持国、畠山政長、畿内、直江兼続、相楽郡、盛岡藩、鎌倉幕府、鎌倉時代、遠江国、聖武天皇、道南十二館、蝦夷地、飯塚一幸、飯山藩、飛地、西尾忠移、西尾藩、首都、香西元長、高富藩、高岡藩、高田藩、高鍋藩、高槻藩、豊後国、豊前国、豊臣秀吉、豪族、貞観 (日本)、鳥居元忠、鳥羽・伏見の戦い、賀茂御祖神社、賀茂別雷神社、賀茂神社、越後国、足利義詮、足利義昭、鶴牧藩、龍造寺隆信、蜂屋頼隆、興福寺、興留藩、阿部重次、阿部正あきら、阿部正興、赤穂藩、赤松義則、赤松満祐、赤松政則、閏、薩摩藩、薬師寺元一、薬師寺長忠、門跡、藤原保昌、藤原秀康、藤原種継、藤原継彦、藤原親通、藤原長岡、藤原棟世、藤原敦信、藤井松平家、藩庁、葛野郡、肥前国、長安、長岡京、長岡京市、長州藩、長男、酒井忠休、酒井重澄、若年寄、離宮八幡宮、雑色、老中、陸奥国、柏原藩、柳生藩、柴田勝家、掛川藩、恭仁京、東山区、東京堂出版、松平定喬、松平忠国 (播磨国明石藩主)、松平信古 (上山藩主)、松平信宝 (上山藩主)、松平信将、松平信亨、松平信庸 (上山藩主)、松平信行、松平信通、松平信愛、松平重治、松永久秀、松江藩、桑名藩、桓武天皇、棚倉藩、森可成、森忠興、楠木正儀、槇島城の戦い、横須賀藩、武将、武田の五名臣、武田信玄、武田信虎、武蔵国、水野忠順、水本邦彦、永井尚佐、永井尚典、永井氏、江戸幕府、江戸時代、沼田藩、法観寺、泉藩、津藩、淀城、淀藩、源勤、源等、源範頼、源義仲、源義経、源直、源頼朝、源頼政、朝尾直弘、木下頼継、木津川市、末寺、本多忠利 (挙母藩主)、本多忠次 (挙母藩主)、本多正信、本多政重、本庄道揚、本能寺の変、挙母藩、戦国大名、戦国時代 (日本)、戸田忠真、戸田忠温、戸田氏、明石藩、明治、明治天皇、明智光秀、昭和、昌泰、斎藤道三、斎藤氏、新選組、日向国、日本、日本の首都、旧高旧領取調帳、摂津国、播磨国、改易、愛宕郡、慶応、承久の乱、拾芥抄、10月、1180年、1184年、11世紀、11月22日 (旧暦)、11月8日 (旧暦)、1201年、1221年、12世紀、12月4日、1352年、1467年、1477年、1504年、1532年、1561年、1568年、1573年、1582年、1600年、1607年、1616年、1617年、1619年、1623年、1633年、1649年、1669年、1711年、1717年、1723年、1864年、1868年、1870年、1871年、1872年、1925年、1927年、1980年、1999年、1月2日、2月19日 (旧暦)、2月4日、3月12日、4月25日 (旧暦)、5月20日 (旧暦)、6月15日、6月18日、746年、794年、797年、7月14日 (旧暦)、861年、863年、882年、8世紀、8月29日。 インデックスを展開 (426 もっと) »
加納藩
加納藩(かのうはん)は、江戸時代の日本で、美濃国厚見郡加納(現在:岐阜県岐阜市加納)を本拠地にして、美濃国中部(現在の岐阜県中南部)を領土とした藩である。藩庁は加納城。.
城長茂
城 長茂(じょう ながもち)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての越後国の武将。初諱は助茂で後に長茂に改称した。越後平氏の一族で城資国の子、資永(助長)の弟。.
南北朝時代 (日本)
南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.
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南部重直
南部 重直(なんぶ しげなお)は、南部氏第28代(盛岡南部家第3代)当主。陸奥盛岡藩の第2代藩主。.
名神大社
名神大社(みょうじんたいしゃ)とは、日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。古代における社格の1つとされ、その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列していることから「名神大社」と呼ばれる。『延喜式』巻3の「臨時祭」の「名神祭」の条下(以下「名神祭式」という)と、同巻9・10の「神名式」(「延喜式神名帳」)に掲示され、後者の記載に当たっては「名神大」と略記されている。.
向日市
向日市(むこうし)は、京都府の市。.
吉川真司
吉川 真司(よしかわ しんじ、1960年 - )は、日本の歴史学者、京都大学教授。専攻は日本古代史。奈良県出身。.
坂井政尚
坂井 政尚(さかい まさひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。.
堀尾忠晴
堀尾 忠晴(ほりお ただはる)は、江戸時代前期の大名。出雲松江藩第2代藩主。堀尾忠氏の長男。江戸初期の書物『寧固斎談叢』では前田利常との恋愛関係が取りざたされている。.
大垣藩
大垣藩(おおがきはん)は、美濃国大垣周辺を支配した藩。藩庁は大垣城(現在の岐阜県大垣市郭町2丁目)に置かれた。 江戸時代初期には短期間で藩主として4家が交替したが、寛永12年(1635年)以降は戸田氏が10万石で入り、幕末・明治維新期まで存続した。.
大名
大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.
大坂城代
大坂城代(おおさかじょうだい)は、江戸幕府の役職の一つ。将軍直属で有力な譜代大名が任じられ、大坂城主である将軍に代わり大坂城を預かった。.
大山崎町
天王山からの景色、大阪方面 宝寺、殉国十七烈士墓 宝寺、羽柴秀吉出世石 大山崎瓦窯跡 農作業用モノレール、天王山ハイキング道 大山崎町(おおやまざきちょう)は、京都府乙訓郡の町。大阪府三島郡島本町との府境に位置する。京都府下で最も面積の小さい町である。旧山城国乙訓郡。河の南という意味で「河陽(かや、かよう)」の別名がある。.
大久保常春
大久保 常春(おおくぼ つねはる)は、江戸時代中期の大名。下野烏山藩初代藩主。江戸幕府の若年寄、老中。烏山藩大久保家2代。.
大久保忠卿
大久保忠卿(おおくぼ ただあき、延享3年5月19日(1746年7月7日) - 明和6年2月10日(1769年3月17日))は、江戸時代中期の大名。下野烏山藩3代藩主。烏山藩大久保家4代。 2代藩主大久保忠胤の次男。母は奥崎氏。正室は本多正珍の娘。官位は従五位下山城守。 生年は寛保3年(1743年)とも。宝暦9年(1759年)、父の隠居に伴い家督を相続する。明和6年(1769年)、父に先立って24歳で死去した。嗣子がなかったため、弟の忠喜が跡を継いだ。墓所は東京都世田谷区太子堂の教学院。 たたあき Category:烏山藩主 Category:譜代大名 Category:1746年生 Category:1769年没.
大久保忠喜
大久保 忠喜(おおくぼ ただよし、延享3年6月26日(1746年8月12日) - 文化9年8月10日(1812年9月15日))は、江戸時代中期から後期の大名。下野烏山藩の第4代藩主。烏山藩大久保家5代。 第2代藩主大久保忠胤の三男。正室は堀田正亮の娘。子に娘(大久保忠成正室)、娘(内藤政峻正室)、娘(成瀬正壽正室)、娘(大久保親知正室)。養子に大久保忠邦、大久保忠成。官位は従五位下山城守。 生年は延享2年(1745年)とも。明和6年(1769年)、先代藩主の兄忠卿が死去し、嗣子がなかったため末期養子となって家督を継承した。はじめ養子とした忠邦が早世したため、文化2年(1805年)に次いで養子とした家督を忠成に譲って隠居した。文化9年(1812年)、67歳で死去した。 たたよし Category:烏山藩主 Category:譜代大名 Category:1746年生 Category:1812年没.
大久保忠胤
大久保 忠胤(おおくぼ ただたね、宝永7年7月3日(1710年7月28日) - 安永8年8月2日(1779年9月11日))は、江戸時代中期の大名。下野烏山藩2代藩主。烏山藩大久保家3代。 初代藩主大久保常春の長男。母は小林氏。正室は京極高或の娘(安藤信友の養女)。子に大久保忠卿(次男)、大久保忠喜(三男)、大久保忠定(四男)、娘(阿部正興継室)、娘(大久保忠寛室)。官位は従五位下、山城守。 享保13年(1728年)、父・常春が死去したため家督を相続し、弟の伝三郎忠篤に新墾田2000石を分知した。宝暦9年(1759年)に次男の忠卿に家督を譲って隠居した。安永8年(1779年)に70歳で死去した。墓所は東京都世田谷区太子堂の最勝寺教学院。 たたたね Category:烏山藩主 Category:譜代大名 Category:1710年生 Category:1779年没.
大久保氏
大久保氏(おおくぼし)は、日本の氏族。.
大伴犬養
大伴 犬養(おおとも の いぬかい、生年不詳 - 天平宝字6年10月9日(762年10月30日))は、奈良時代の貴族。姓(カバネ)は宿禰。官位は従四位下・右大弁。.
大和国
大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.
大内義興
大内 義興(おおうち よしおき)は、室町時代後期から戦国時代にかけての周防(山口)の戦国大名。周防の在庁官人・大内氏の第15代当主。 父は周防守護で大内氏の第14代当主・大内政弘。弟(一説に庶兄とも)に大内高弘(隆弘とも、初めは出家して大護院尊光)がいる。正室は長門守護代・内藤弘矩の娘。子に義隆(第16代当主)、娘(大友義鑑正室、後に大友義鎮(宗麟)や大内義長(第17代当主)がこの間に生まれる)。室町幕府の管領代となって将軍の後見人となり、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ねた。.
大田原庸清
大田原 庸清(おおたわら つねきよ)は、下野大田原藩の第9代藩主。 宝暦元年(1751年)、第8代藩主・大田原友清の次男として生まれる(生年は宝暦3年(1753年)6月12日説がある)。長兄の寿清が宝暦6年(1756年)に早世したため、12月24日に世子となる。明和7年(1770年)12月16日に従五位下・飛騨守に叙位・任官する。安永4年(1775年)2月8日、父の隠居で家督を継ぎ、3月2日に飛騨守に遷任する。 享和2年(1802年)8月5日に江戸で死去した。享年52。跡を長男・光清が継いだ。 つねきよ つねきよ Category:1751年生 Category:1802年没.
大田原光清
大田原 光清(おおたわら みつきよ)は、下野大田原藩の第10代藩主。 安永5年(1776年)5月1日、第9代藩主・大田原庸清の長男として生まれる。幼少の頃から和歌を好むなど、文才があったといわれる。享和2年(1802年)、父の死去により家督を継いだ。 文化9年(1812年)11月22日、弟で養子の愛清に家督を譲って隠居する。文政4年(1821年)1月25日、江戸藩邸で死去した。享年46。 みつきよ みつきよ Category:1776年生 Category:1821年没.
大田原高清
大田原 高清(おおたわら たかきよ)は、下野大田原藩の第3代藩主。 寛永14年(1637年)、第2代藩主・政清の長男として生まれる。万治4年(1661年)、父の死去により家督を継いだ。このとき、弟の為清に1000石を分与したため、大田原藩は1万1400石となる。同年12月28日に叙任する。しかし延宝5年(1677年)9月25日、家臣の大田原主水との対立を将軍・徳川家綱より咎められて、命令により半ば強制的に養子の典清に家督を譲って隠居することとなった。同年、官位を山城守から織部正に改める。元禄3年(1690年)、材庵電染を開山として全超寺を創建する。 元禄11年(1698年)6月11日に死去した。享年62。 たかきよ たかきよ Category:1637年生 Category:1698年没.
大田原藩
大田原城址 大田原藩(おおたわらはん)は、下野国那須郡に存在した藩。藩庁は大田原城(現在の栃木県大田原市)に置かれた。.
大田原氏
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大谷吉継
大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って指揮し奮戦するが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して果てた。.
大極殿
大極殿(だいごくでん)は、古代の日本における朝廷の正殿。.
大正
大正(たいしょう)は日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。.
天平
天平(てんぴょう)は、日本の元号の一つ。神亀の後、天平感宝の前。729年から749年までの期間を指す。この時代の天皇は聖武天皇。 奈良時代の最盛期にあたるため、東大寺、唐招提寺などに残るその時代の文化を天平文化と呼ぶことが多い。.
天皇
天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.
天領
天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地の俗称で、このほか幕府直轄領、徳川幕府領、徳川支配地、幕府領、幕領など様々な呼称があり、必ずしも絶対的な単一の歴史用語ではない村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。幕府直轄領は元禄以降、全国で約400万石あった。その領地は日本全国に散らばっており、江戸時代を通じて何らかの形で幕府直轄地が存在した国は51ヶ国と1地域(蝦夷地)に及び、年貢収取の対象となる田畑以外に交通・商業の要衝と港湾、主要な鉱山、城郭や御殿の建築用材の産出地としての山林地帯が編入され江戸幕府の主要な財源であった村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。 幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代である。大政奉還後に幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのがはじまり。その後、この呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。よって、江戸時代に使われていた呼称ではない。江戸幕府での正式名は御料・御領(ごりょう)であり、その他、江戸時代の幕府法令には御料所(ごりょうしょ、ごりょうじょ)、代官所、支配所(しはいしょ、しはいじょ)とある。江戸時代の地方書では大名領や旗本領を私領としたのに対して公領・公料、また公儀御料所(こうぎごりょうしょ)とある。 大政奉還後の慶応4年(1868年、同年明治元年)には徳川支配地を天領と呼んだ布告があるが、同時期の別の布告では「これまで徳川支配地を天領と称し居候は言語道断の儀に候、総て天朝の御料に復し、真の天領に相成候間」とある。 幕府の直轄地についての呼称については、従来は「天領」と表記していたが、この「天領」という呼称が明治以降の俗称であるという点から、近年では「幕領」と呼ぶ傾向になっており、全国の歴史教科書なども「幕領」への表記の変更が進められている。.
奥平昌敦
奥平 昌敦(おくだいら まさあつ)は、豊前中津藩の第2代藩主。中津藩奥平家6代。.
女官
女官(にょかん/にょうかん)とは、官職を持ち宮廷に仕える女性のこと。官女(かんじょ)・宮女(きゅうじょ)ともいう。.
嫡流
嫡流(ちゃくりゅう)とは、氏族の本家を継承する家筋・家系のことをいう。正嫡、正系、嫡系ともいう。対義語は庶流という。敬って「御嫡々の家系」という場合もある。嫡流の家を宗家、総本家、嫡家、大本家、本家という。 ちなみに、「直系」を嫡流の意味で用いるのは誤用で、直系とは正しくは親の親もしくは子の子といった関係の連鎖で結ばれる生物学的関係をいい、直系・傍系はあくまで純粋な生物学的血統上の語であり家筋・家系とは関係がない。例えば、ある人物から見たときその子孫はすべて直系卑属であるから、分家・庶流の子孫も直系であるし、また、傍系は相対的な系統上の関係をいうから、分家からみた本家は傍系である。詳しくは、 親族を参照。 あくまで当家の祭祀を継承する家系を意味するのであるから、長男が継承者となることが多いものの、必ずしも長男が継承するとは限らず、次男以下あるいは養子の子孫が嫡流となる場合もある点に注意。.
室町時代
室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.
宮家
宮家(みやけ)とは、日本において、宮号を賜った皇族の一家のことである。親王および諸王の家を指すこともある。 宮(みや)とは、元々、天皇および皇族の邸の事を指し、転じて住んでいる皇族のことを指すに至った。さらに、親王の身位とともに「○○宮」との称号(宮号)を世襲することが認められる例が生じ、これが「宮家」と呼ばれるものであり、個別には宮号に応じて「○○宮家」と呼ばれることがある。ただし、現行法上はいずれも法的な根拠を持つものではない。「○○宮」の称号は宮家の当主たる(あるいは生前当主であった)親王個人の称号であり、その家族は用いない。 宮家のうち天皇の子女や兄弟が創設した宮家を直宮家という。 当今の天皇との血統の遠近にかかわらず、代々親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続けた宮家を世襲親王家という。.
宮中・京中の式内社一覧
宮中・京中の式内社一覧(きゅうちゅう・きょうちゅうのしきないしゃいちらん)は、『延喜式』第9巻・第10巻「神名帳上下」(延喜式神名帳)に記載のある神社、いわゆる「式内社」およびその論社のうち、宮中および京中に分類されている神社の一覧。 また『延喜式』神名帳の編纂当時に存在したが同帳に記載の無い神社、いわゆる「式外社」についても付記する。.
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家老
家老(かろう)は、武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。.
守護
守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.
守護所
守護所(しゅごしょ)とは、中世日本において守護が居住した館の所在地のこと。守護の政治的権限の拡大とともに政庁所在地としての機能が国衙より移されていった。.
守谷藩
守谷藩(もりやはん)は、下総国相馬郡守屋(現在の茨城県守谷市)に存在した藩。藩庁は守谷城。下総相馬藩とも呼ばれる。.
宇喜多秀家
宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣政権下(の末期)の五大老の一人で、家督を継いだ幼少時から終始秀吉に重用されていた。通称は備前宰相。父・直家の代に下克上で戦国大名となった宇喜多氏の、大名としての最後の当主であり、関が原の戦いで西軍について敗れ所領を失うまで岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領していた。.
宇都宮藩
宇都宮藩(うつのみやはん)は、下野国宇都宮周辺を支配した藩である。藩庁は宇都宮城に置かれた。.
宇陀松山藩
宇陀松山藩(うだまつやまはん)は、大和国に存在した藩。藩庁として松山(奈良県宇陀市大宇陀)に陣屋が置かれた。 松山西口関門(国の史跡).
宇治川の戦い
宇治川の先陣争い 宇治川の戦い(うじがわのたたかい)は、平安時代末期の寿永3年(1184年)1月に源義仲と鎌倉の源頼朝から派遣された源範頼、源義経とで戦われた合戦。治承・寿永の乱の戦いの一つ。.
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宇治郡
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安中藩
安中藩(あんなかはん)は、上野に存在した藩。藩庁は安中城(現在の群馬県安中市安中3丁目)。.
安土桃山時代
安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。.
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安東定季
安東 定季(あんどう さだすえ、生没年不詳)は、室町時代の武将で蝦夷地の豪族。下国山城守定季と称した。安藤康季の子で義季の弟とも伝えられ、いずれ檜山系安東氏の一門と推定されている。子に恒季がいる。 『新羅之記録』によれば、安東氏宗家である下国家当主安東政季は1456年(康正2年)、分家で秋田郡の領主であった秋田城介安東尭季(惟季)の招きに応じ、秋田小鹿島(現秋田県男鹿市)に移る際に、茂別館主の安東家政(下国守護)、大館館主の定季(松前守護)、花沢館館主の蠣崎季繁(上国守護)の3名を「守護」に任じたとされているが、実態は安東家政或いは定季が一人守護として統括していたとする見解(入間田他 1999)も出されている。これらの館は、道南十二館と呼ばれた蝦夷地における和人地の中心の一つであった。 翌1457年(長禄元年)5月、コシャマインの戦いにおいて、大館の出城の小館館主であった相原政胤とともにアイヌ側に捕らわれるが、翌月武田信広により救出された。 定季の死後恒季が大館館主となるが、粗暴で行状が極めて悪かったため配下の館主らにより宗家檜山安東忠季に訴えられた。恒季は1496年(明応5年)11月、忠季の手勢により攻められ自害し、大館は政胤の子相原季胤に預けられた。.
安東恒季
安東 恒季(あんどう つねすえ、生年不詳 - 1496年(明応5年))は、日本の戦国時代の武将で蝦夷地の豪族。下国山城守と称した。安東定季の子。 父の死後、松前守護大館館主になる。大館は、道南十二館と呼ばれた蝦夷地における和人地の中心の一つであった。 恒季は粗暴で行状が極めて悪かったと伝えられており、無辜の民を殺戮することもあったという。このため配下の館主らにより宗家檜山安東忠季に訴えられた。恒季は1496年(明応5年)11月、忠季の手勢により攻められ自害し、大館は相原彦三郎季胤に預けられ、村上三河守政儀が補佐することとなった。.
寺社領
寺社領(じしゃりょう)とは、かつて日本にあった領地区分のひとつ。.
小笠原忠知
小笠原 忠知(おがさわら ただとも、慶長4年7月21日(1599年9月10日)- 寛文3年7月29日(1663年8月31日))は、豊後杵築藩主、のち三河吉田藩の初代藩主。忠知系小笠原家初代。 信濃松本藩主・小笠原秀政の三男。母は登久姫(松平信康の娘)。正室は多賀光定の娘。子は長矩(長男)、長敦(次男)、長定(三男)、長秋(四男)。官位は従五位下、壱岐守。幼名は虎松丸。 慶長15年(1614年)から寛永8年(1631年)まで旗本として信濃国高井郡5000石に入封した。寛永2年(1625年)に書院番頭、翌年12月に大番頭、寛永9年(1632年)4月には奏者番となった。同年9月、兄の小笠原忠真が豊前小倉藩主になったとき、杵築に4万石を与えられ大名に列した。以後、竹中重義改易時の府内藩在番、寛永14年(1637年)の島原の乱出陣と島原城在番などで功を挙げた。藩政においても植林政策に功を挙げている。正保2年(1645年)7月14日、5,000石加増の上で三河吉田に加増移封された。侘び茶を求め「茶の湯」の千家を再興させた千宗旦を招請したが、明暦元年(1655年)、高齢の宗旦に代わって遣わされた「千宗旦四天王」と言われる高弟で後に茶道宗徧流を興した山田宗徧を小笠原家に召し抱える。 三河吉田藩主時代、豊橋向山の大池を郡代長谷川太郎左衛門に掘削させ、この大池より水を引いて吉田城の惣濠(外堀)を水堀にした。その水は堀を通り、豊橋吉田方地区の灌漑用にも用いたと言う。 寛文3年(1663年)7月29日、65歳で死去し、跡を長男・長矩が継いだ。法号は一峰定水天真院。墓所は豊橋市の臨済寺。 たたとも Category:三河吉田藩主 小 Category:松本藩の人物 Category:1599年生 Category:1663年没.
小笠原長庸
小笠原 長庸(おがさわら ながつね、享保7年(1722年)- 延享元年7月6日(1744年8月13日))は、遠州掛川藩の第2代藩主。忠知系小笠原家6代。 小笠原家一門で5000石を領した旗本・小笠原長丘の次男。母は姉小路公量の娘。正室は小笠原長煕の次女。子に小笠原長恭(長男)、鍋姫(小笠原貞顕正室)、娘(北条氏彦正室)、娘(九鬼隆貞継々室)。官位は従五位下。山城守。幼名は久次郎。 元文2年(1737年)6月8日、先代藩主・小笠原長煕の婿養子となる。元文4年(1739年)4月16日、養父・長煕の隠居により後を継いだ。延享元年(1744年)7月6日、掛川にて23歳の若さで死去し、跡を長男の長恭が継いだ。法号は竜山崇吟詳雲院。墓所は愛知県豊橋市の臨済寺。 なかつね Category:譜代大名 Category:掛川藩主 Category:1722年生 Category:1744年没.
小笠原長矩
小笠原 長矩(おがさわら ながのり)は、三河吉田藩の第2代藩主。忠知系小笠原家2代。.
小笠原長煕
小笠原 長煕(おがさわら ながひろ)は、武蔵岩槻藩の第2代藩主。のち遠州掛川藩の初代藩主。忠知系小笠原家5代。.
小笠原氏
小笠原氏(おがさわらし、おがさわらうじ)は、日本の氏族。清和源氏の河内源氏の流れをくみ、武家の有職故実を伝える一族としても知られる。通字は、「長」・「貞」・「忠」などである。.
小畠虎盛
小畠 虎盛(おばた とらもり)は、戦国時代の武将。武田信虎、武田信玄の2代に仕える。父は小畠日浄(盛次)。 武田の五名臣、武田二十四将の一人としてそれぞれ数えられる。なお小幡姓とするのは誤り(小幡氏は上野国の武家の名で、子の昌盛が信玄に許されて名乗ったもの。なお、虎盛は上野小幡氏の遠縁とする系図もある)。 娘婿に市川等長(梅隠斎)の子・平右衛門、原与左衛門尉(『甲陽軍鑑』)。.
小野好古
小野 好古(おの の よしふる、884年(元慶8年) - 968年3月20日(康保5年2月14日))は平安時代中期の公卿。参議・小野篁の孫で、大宰大弐・小野葛絃の子。弟に三蹟の一人小野道風がいる。異名は「野大弐」。官位は従三位・参議。.
小松藩
小松藩(こまつはん)は、伊予国東部に所在した藩。藩庁は周布郡新屋敷村(現・愛媛県西条市小松町)の小松陣屋に置かれた。 石高1万石の小藩で、江戸時代初期の1636年から廃藩置県まで、外様大名の一柳氏が9代約230年にわたって治めた。.
小泉藩
小泉藩(こいずみはん)は、大和国に存在した藩。藩庁は小泉陣屋(現在の奈良県大和郡山市小泉町)。.
小早川秀秋
小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)は、安土桃山時代の大名。丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山城主。名は関ヶ原の戦いの後に秀詮(ひであき)と改名した「秀詮」が終の名だが、改名の翌年に本人が死去してその使用期間がきわめて短かったため、一般にはより認知された「秀秋」と書き表すことがほとんどである。。 豊臣秀吉の正室・高台院の甥。秀吉の親族として豊臣家では重きをなし、小早川隆景と養子縁組した後には、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返り、豊臣家衰退の契機を作った。.
尾張藩
尾張名古屋藩屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 名古屋城(1979年) 尾張藩(おわりはん)は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。.
山城 (戦艦)
山城(やましろ)は、大日本帝国海軍(日本海軍)の戦艦。扶桑型戦艦の2番艦。.
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山城国の式内社一覧
山城国の式内社一覧(やましろのくにのしきないしゃいちらん)は、『延喜式』第9巻・第10巻「神名帳上下」(延喜式神名帳)に記載のある神社、いわゆる「式内社」およびその論社のうち、山城国に分類されている神社の一覧。 また『延喜式』神名帳の編纂当時に存在したが同帳に記載の無い神社、いわゆる「式外社」についても付記する。.
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山城国一揆
山城国一揆(やましろのくにいっき)は、文明17年(1485年)、山城国(現在の京都府南部)南半の上三郡(久世郡、綴喜郡、相楽郡)で国人や農民が協力し、守護大名畠山氏の政治的影響力を排除し、以後8年間自治を行った事をいう。 一般的に国人が起こした一揆のことを国一揆というが、山城国一揆は惣の農民らが参加している点で惣国一揆ともいうことができる。 ○国人・・・室町時代の「在地領主」で多くの場合、守護の家臣になっていない、その国「はえぬきの武士」(地侍など).
山城国分寺跡
山城国分寺跡(やましろこくぶんじあと、山背国分寺跡)は、京都府木津川市加茂町にある古代寺院跡。恭仁宮跡と重複し、合わせて国の史跡に指定されている(指定名称は「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」)。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、山城国(当時は山背国)国分僧寺の寺院跡にあたる。本項では山城国分尼寺(山背国分尼寺)の推定地についても解説する。.
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山城町上狛
山城町上狛(やましろちょうかみこま)は、京都府木津川市の町丁。2017年5月末の人口は2,509人。郵便番号は619-0204。本項ではかつて同区域に存在した上狛村(かみこまむら)、上狛町(かみこまちょう)についても記す。.
山口恵一郎
山口 恵一郎(やまぐち けいいちろう、1921年(大正10年)1月18日 - 1991年(平成3年)10月9日)は、日本の地理学者、地名研究家。.
山名宗全
山名宗全公之墓、南禅寺在真乗院、京都市左京区 山名 宗全 / 山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ)は、室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。.
山名氏清
山名 氏清(やまな うじきよ)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人、丹波国・和泉国・山城国・但馬国守護。.
山名是豊
山名 是豊(やまな これとよ)は、室町時代の武将、守護大名。備後・安芸・山城守護。山名持豊(宗全)の次男。子に頼忠(よりただ)がいる。 父とは不仲であり、寛正元年(1460年)に兄の教豊が父と対立して播磨へ下向した時に家督を譲られることを望んだが却下されたこと、寛正3年(1462年)に細川勝元から備後・安芸守護職に任じられて河内嶽山城で畠山義就と戦ったこと(嶽山城の戦い)、寛正5年(1464年)に山城守護職にも任命されたことなどが原因で応仁の乱では東軍の細川勝元方につき、父の率いる西軍と争った。 猛将として知られる吉川経基や毛利豊元を従え上洛、応仁2年(1468年)に備後へ戻り西軍勢力と交戦、翌文明元年(1469年)に再上洛して摂津で大内政弘軍を迎撃し破り、西軍の拠点の1つ船岡山を攻撃し奪取、摂津神呪寺や山城西岡・勝竜寺城で西軍と戦うなど在京中の戦いにおいては活躍するが、文明2年(1470年)に備後に西軍が乱入したため12月23日に再度備後に戻り西軍と戦う。文明7年(1475年)に東軍である小早川煕平が篭もる高山城への援護にむかったものの遅参し、備後に到着時には既に東西両軍が和睦をした後であるなど失態を演じ人望を失い、備後を追放された。以後の消息は不明、甥とも弟ともされる山名政豊が備後・安芸・山城守護となった。 備後山名氏は政豊の子である山名俊豊が継承するも、俊豊は父と対立し、度重なる内訌を見た傘下の国人領主は続々と山名氏から離反、備後における山名氏の力はその後急速に衰退した。戦国時代、山名理興に滅ぼされたとされる山名忠勝(氏政)は備後山名氏の末裔とされるがその系譜ははっきりとはしない。.
山名政豊
山名 政豊(やまな まさとよ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名。山城・安芸・但馬・備後守護。応仁の乱の西軍総大将で知られる山名宗全の後継者。「政」の字は8代将軍足利義政より偏諱を賜ったものと思われる。.
山崎の戦い
山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変を受け、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉軍が、6月13日(西暦7月2日)に摂津国と山城国の境に位置する山崎(大阪府三島郡島本町山崎、京都府乙訓郡大山崎町)において、織田信長を討った明智光秀の軍勢と激突した戦い。 古来天王山の戦いと呼ばれてきた合戦の現代的表現で、山崎合戦とも呼ばれる。.
山川出版社
山川出版社(やまかわしゅっぱんしゃ)は、高校教科書(地歴公民科)・参考書・歴史関係の一般書などを刊行する日本の出版社である。.
山中長俊
山中 長俊(やまなか ながとし、天文16年(1547年) - 慶長12年2月24日(1607年3月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。山中為俊の子。官位は従五位下山城守。山中橘内(やまなか きちない)を名乗り、通称:山きち。橘内は吉内とも書く。子は山中信俊、山中友俊(俊友)、山中盛俊。近江六人衆の一人。.
山科本願寺の戦い
山科本願寺の戦い(やましなほんがんじのたたかい)は、天文元年(1532年)8月23日 - 24日にかけて行われた細川晴元・六角定頼・京都の法華一揆の連合軍と浄土真宗本願寺勢力(一向一揆)との戦い。山科本願寺合戦(やましなほんがんじかっせん)ともいう。.
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山田重忠
山田 重忠(やまだ しげただ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。山田重満の次男。仮名は二郎。史料によっては重広、重定、重貞と記されるほか、泉重忠とも呼ばれる。承久の乱で宮方の武将として活躍した。尾張国星崎城主。.
岡藩
岡藩(おかはん)は、江戸時代の豊後国(現在の大分県の一部)にあった藩。藩庁は岡城(現在の大分県竹田市)。領地は豊後国の大野郡・直入郡・大分郡にまたがり、小藩が分立した豊後国内では石高が最大の藩であった。竹田藩と呼ばれることもある。.
岩槻藩
岩槻藩(いわつきはん)は、武蔵国埼玉郡(現在の埼玉県さいたま市岩槻区大字太田)に存在した藩。居城は岩槻城。.
岩成友通
岩成 友通(いわなり ともみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。三好氏の家臣で、三好三人衆の1人。姓は石成とも書く。 元亀元年から「長信」の名乗りを使用している天野(2014)、P176。。三好長慶の奉行人として頭角を現し、三好政権の中枢を占めるに至った。三好政権における出世頭ともいえる人物である今谷・天野監修『三好長慶』P195 - P196。。.
左京区
左京区(さきょうく)は、京都市を構成する11区のうちのひとつ。.
上山藩
上山藩(かみのやまはん)は、江戸時代,出羽国(羽前国)村山郡の上山(現在の山形県上山市)周辺を領有した藩。藩庁は上山城に置かれた。.
上国
上国(じょうこく、じょうごく)とは、律令国の等級区分の一つである。.
上総国
上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。.
上野国
上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.
上条上杉家
上条上杉家(じょうじょううえすぎけ)は、室町時代に発生した上杉氏の支族。江戸時代には上杉姓を名乗り、旗本となる。単に上条氏とも言われる。 戦国時代(室町時代)の居城は上条城(じょうじょうじょう・現新潟県柏崎市)。.
上条政繁
上条 政繁(じょうじょう まさしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。上条上杉家当主。上杉氏の家臣。越後国上条城主。一説に上条上杉家の一族で越後守護・上杉定実の舎弟といわれる。.
上杉謙信
上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。最強の戦国武将の1人といわれ、後世、軍神や越後の虎、越後の龍と称された。 越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾 景虎(ながお かげとら)。1561年(景虎31歳)、関東管領・上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職関東管領を引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。 内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に宿敵武田信玄との5回にわたる川中島の戦いはよく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが48歳で志半ばで死去した。兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発した。 謙信は、「義」を重んじ、戦乱の世にあっても侵略のための戦いはしない一方、他国から救援を要請されると出兵し、「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す」(私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)『白河風土記』と述べている。また、謙信が敵将武田信玄の領国甲斐が塩不足に苦しんでいるのを知り、塩を送った逸話から、「敵に塩を送る」という故事も生まれた。.
上杉景勝
上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権の五大老の一人。米沢藩の初代藩主。上杉宗家(山内上杉家)17代目で、同家16代目上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目。 上田長尾家出身で、初名は長尾顕景。同じ長尾家出身の叔父・上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めた。実子のいない謙信の死後、上杉家の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となった。 豊臣秀吉に仕え、豊臣家五大老の1人として、会津藩120万石を領した。秀吉の死後、徳川家康が景勝討伐に向かい関ヶ原の戦いが幕開け。景勝は、石田三成ら西軍に付き敗北。戦後に、徳川家康から上杉氏の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となった。.
中川久清
中川 久清(なかがわ ひさきよ、慶長20年1月10日(1615年2月7日)- 天和元年11月20日(1681年12月29日))は、豊後国岡藩の第3代藩主。.
中川久慶
中川 久慶(なかがわ ひさよし)は、豊後岡藩の第7代藩主。 宝永5年(1708年)3月8日、安芸広島藩主・浅野綱長の四男として生まれる。元文2年(1737年)閏11月25日、第6代藩主・中川久忠の養子となる。元文3年(1738年)12月18日、従五位下山城守に叙任する。寛保2年(1742年)12月19日、養父久忠の死去により、家督を継いだ。 藩政刷新を目指して目安箱を設置しようとするなど、藩政改革に意欲を示していたが、久忠の後を追うように寛保3年(1743年)10月30日に死去した。享年36。跡を養子の久貞が継いだ。 Category:浅野氏 ひさよし *07 Category:1708年生 Category:1743年没.
中京区
中京区(なかぎょうく)は、京都市を構成する11区のうちのひとつである。 2005年(平成17年)国勢調査における推計人口が1985年(昭和60年)以来20年ぶりに10万人の大台を回復した。特に南部の明倫学区や本能学区での人口増加が著しい。.
中津藩
中津藩(なかつはん)は、豊前国下毛郡中津(現在の大分県中津市)周辺を領有した藩。藩庁は中津城に置かれた(一時、藩庁は小倉城に移る)。.
常陸府中藩
常陸府中藩(ひたちふちゅうはん)は、常陸国(現在の茨城県石岡市)に存在した藩。別名は石岡藩(いしおかはん)、長沼藩(ながぬまはん)。藩庁は府中陣屋。.
常陸国
常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.
丹波国
丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。.
三好三人衆
三好三人衆(みよしさんにんしゅう)は、戦国時代に三好長慶の死後に三好政権を支えて畿内で活動した三好長逸・三好宗渭・岩成友通の3人を指す。いずれも三好氏の一族・重臣であり、『言継卿記』や『多聞院日記』などの同時代の記録でも「三人衆」と表記されている。.
三好康長
三好 康長(みよし やすなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。阿波岩倉城主、河内高屋城主。三好長秀の子で元長の弟、康俊の実父。三好長慶の叔父。 諱は康慶ともする。剃髪して咲岩(しょうがん)と号した。.
三好義興
三好 義興(みよし よしおき)は、戦国時代の武将。三好長慶の嫡男で嗣子。将来を有望されたが、父より先に早世した。.
三好長慶
三好 長慶(みよし ながよし)は、戦国時代の武将。畿内・阿波国の戦国大名。室町幕府の摂津国守護代、相伴衆。 細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍・足利義晴、足利義輝共々京都より放逐し、三好政権を樹立する。その後は足利義輝、六角義賢、畠山高政らと時に争い、時に和議を結び畿内の支配者として君臨した。.
三河吉田藩
三河吉田藩(みかわよしだはん)は、三河国吉田(現在の愛知県豊橋市今橋町)を領した藩。藩庁は吉田城。明治維新後に豊橋藩(とよはしはん)と改称された。譜代大名が歴代藩主を務め、吉田藩に入部することは、幕閣になるための登竜門のひとつであった。.
三河国
三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.
三浦胤義
三浦 胤義(みうら たねよし)は、鎌倉時代前期の三浦一族の武将。三浦義澄の末子(九男)。鎌倉幕府の御家人。.
下総国
下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
下野国
下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
一宮
一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮・一之宮などとも書く。.
一色義貫
一色 義貫(いっしき よしつら)は、室町時代の武将、守護大名。丹後一色氏の当主。 室町幕府第4代将軍・足利義持より偏諱を受け、初めは父の1字と合わせて義範を名乗り、のち義貫と改名する。尚、上の「義」の字を与えられていることから、下の「持」の字を与えられた兄・持範、弟・持信に比べ、良い待遇を受けていたものと推測される。.
一色教親
一色 教親(いっしき のりちか)は、室町時代中期の武将、守護大名。.
一柳直治
一柳 直治(ひとつやなぎ なおはる)は、江戸時代前期の大名。伊予小松藩の第2代藩主。.
一柳頼寿
一柳 頼寿(ひとつやなぎ よりかず)は、江戸時代中期の大名。伊予小松藩の第5代藩主。.
平城山丘陵
平城山丘陵(ならやまきゅうりょう)は、奈良県奈良市と京都府木津川市の県境を東西に延びる丘陵。また、西部を佐紀丘陵、東部を佐保丘陵と独立して呼ぶことがある角川地名大百科辞典編纂委員会編「角川日本地名大辞典29 奈良県」、角川書店、1990年3月、ISBN 9784040012902平凡社地方資料センター編「日本歴史地名大系30 奈良県の地名」平凡社、1981年6月23日、ISBN 9784582490305奈良市史編集審議会編「奈良市史 地理編」堀井甚一郎奈良教育大学名誉教授・千田正美奈良県立畝傍高等学校教諭・西田和夫奈良教育大学教授・野崎清孝奈良大学地理学研究員・藤本寅雄奈良県立生駒高等学校教諭・堀内義隆奈良文化女子短期大学助教授著、奈良市発行、吉川弘文館出版販売、1970年3月31日、ISBN 464201571X。 平城山は多くの別表記を持つ。古綴では、平城山の他に那羅山、平山があり三省堂編修所編「コンサイス日本地名事典 第5版」谷岡武雄監修、三省堂、2007年11月20日、ISBN 9784385160511、さらに奈良山、乃楽山とも平凡社地方資料センター編「日本歴史地名大系26 京都府の地名」平凡社、1981年3月13日、ISBN 9784582490268国史大辞典編集委員会「国史大辞典 第十巻」吉川弘文館、1989年9月30日、ISBN 9784642005104秋庭隆編「日本地名大百科 ランドジャポニカ」小学館、1996年12月20日、ISBN 9784095231013。国境にあったことから手向山ともいった。 奈良の地名の語源の一とされる。.
平城京
平城宮跡 平城京(へいじょうきょう/へいぜいきょう)は、奈良時代の日本の首都。唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣して建造されたとされ、現在の奈良県奈良市及び大和郡山市近辺に位置していた。.
平安京
平安京復元模型写真(大内裏付近) 平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)は、延暦13年10月22日(西暦794年11月22日)から、一説には明治2年(1869年)まで日本の首都であった都市である。平安城ともいい、桓武天皇によって長岡京からの遷都地に選ばれ、唐の首都長安城に倣って計画都市として建設された。現在の京都府京都市・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している。明治2年(1869年)に政府(太政官)が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失った。平安京が置かれてから鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を日本史では「平安時代」という。.
平安時代
平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.
平知盛
平 知盛(たいら の とももり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の四男。母は継室の平時子で、時子の子としては次男となる。同母兄に平宗盛、同母妹に平徳子がいる。世に新中納言と称された。.
平等院
平等院(びょうどういん)は、京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院。平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園等を今日に伝え、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。山号を朝日山と称する。宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。本尊は阿弥陀如来、開基は藤原頼通、開山は明尊である。.
平重衡
東大寺盧舎那仏像 神戸市須磨区にある平重衡捕らわれの遺跡 平 重衡(たいら の しげひら)は、平安時代末期の平家の武将・公卿。平清盛の五男。母は清盛の継室・平時子。三位中将と称された。 平氏の大将の一人として各地で戦い、南都焼討を行って東大寺大仏や興福寺を焼亡させた。墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送された。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首された。その将才は「武勇の器量に堪ふる」(『玉葉』治承5年閏2月15日条)と評される一方、その容姿は牡丹の花に例えられたという。.
幕府陸軍
幕府陸軍(ばくふりくぐん)は、幕末に江戸幕府が整備した陸上戦闘を任務とした西洋式軍備の陸軍である。文久2年(1862年)、幕府の軍制改革で対外防衛と国内体制維持を目的として創設された。長州征討や天狗党の乱などで実戦を経験し、大政奉還により幕府が消滅した後も所属部隊の多くが戊辰戦争で戦闘を続けた。簡略化して単に幕府軍と呼称される場合もある。.
久世郡
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乙訓郡
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京田辺市
京田辺市(きょうたなべし)は、京都府南部の大阪府・奈良県との府県境近くに位置する市。.
京都守護
京都守護(きょうとしゅご)は、鎌倉幕府の役職の一つ。 最初は上洛時に、北条時政が任命され京都の御家人を統率、洛中の警護・裁判を行い、朝廷と幕府の間の連絡の任に当たっていたが、承久の乱後に六波羅探題が設置されたことで消滅した。.
京都守護職
京都守護職(きょうとしゅごしょく)は、幕末の文久2年(1862年)に政事総裁職等とともに設けられた江戸幕府の役職である。.
京都市
京都タワーと京都中心部 京都市中心部四条河原町 京都市(きょうとし )は、京都府南部に位置し、同府最大の市で、府庁所在地である。政令指定都市に指定されており、11区を置く。日本の市で8番目の人口を有する。延暦十三年(794年)から明治二年(1869年)までの1,000年以上にわたって日本の都が置かれていたため、古都として認識されている。.
京都府
京都府(きょうとふ)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。延暦13年(794年)の平安京遷都以来、天皇の御所がある。令制国でいう山城国の全域、丹波国の東部および丹後国の全域を府域とする。府庁所在地は京都市。.
京都代官
京都代官(きょうとだいかん)は、江戸時代に京都に設置された役職で、京都所司代の支配下に置かれて京都周辺の天領・皇室領・公家領の支配を行うなど畿内における江戸幕府・朝廷の財政を主として管轄した。当初の名称は京都郡代(きょうとぐんだい)。 寛永11年(1635年)、五味豊直が京都の代官奉行に任じられ、二条城の西側に陣屋を設置したために「京都郡代」と呼称されたのが最初と言われている。当初は伏見奉行とともに畿内の訴訟を扱い、また所司代と共同で京都の市政なども管轄していたが、職務が繁忙となってきた。このため、万治3年(1660年)の五味豊直死去後に後任となった五味豊旨(豊直の子)と伏見奉行の小出尹貞の間で代官奉行の職務の分割が行われ、五味豊旨が代官業務専任となる。これが「京都代官」の始まりとされる(ただし、寛文4年(1664年)に五味豊旨の後を受けた鈴木重辰が代官に任じられた時を「京都代官」の始期とする説もある)。続いて4年後に所司代を含めた職務の再編成が行われて、新たに京都町奉行が発足した。その後、再び五味豊旨が継いだが、延宝8年(1680年)に五味豊旨の死去によって就任した小堀正憲以後は小堀氏による世襲となった。 小堀氏時代には知行高600石・役料1,000俵・躑躅間詰の格式が定められていた。二条城や朝廷の職務も掌ったことから属僚が多く、常時20-30名、最も多い時期には60名余が在籍していた。 役職としては、.
京極高詮
京極 高詮(きょうごく たかのり)は、室町時代前期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、近江・飛騨・出雲・隠岐・山城・石見守護。.
京極高数
京極 高数(きょうごく たかかず)は、室町時代中期の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人兼山城国守護、出雲国・隠岐国・飛騨国守護。.
京極持高
京極 持高(きょうごく もちたか)は、室町時代中期の武将、守護大名。出雲・隠岐・飛騨・山城守護。京極高光の嫡男で弟に持清、妹に細川持之室。 持高の「高」の字は京極氏の通字であるものを父・高光から取ったものであるが、高光のもう片方の1字(「光」の字)により持光(もちみつ)を別名とするものもある。いずれにせよ、「持」の字は室町幕府第4代将軍足利義持から偏諱を賜ったものである。 応永20年(1413年)に父が亡くなり出雲・隠岐・飛騨3ヶ国の守護職を継ぐ。応永31年(1424年)から正長元年(1428年)まで山城守護にも補任された。 永享6年(1434年)に6代将軍足利義教から反抗する延暦寺への攻撃を命じられ、六角満綱と共に山門を囲み降伏させる。さらに近江国内に多くあった延暦寺領の差し押さえを命じられている。 永享11年(1439年)に子を残さないまま亡くなった。享年は39とされる。後を継いだのは薩戎記によれば叔父の高数とされ、西讃府史によれば弟の持清とされる。.
京極持清
京極 持清(きょうごく もちきよ)は、室町時代中期から後期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人兼山城守護、出雲・隠岐・飛騨・近江守護。京極高光の次男。兄弟に持高、細川持之室。子に勝秀、政光、政経、娘(畠山政長室)。細川勝元は甥にあたる。官位は従四位上中務少輔、大膳大夫。.
庭瀬藩
庭瀬陣屋跡(石垣と堀) 庭瀬藩(にわせはん)は、備中国賀陽郡庭瀬村(岡山県岡山市北区庭瀬)に藩庁(庭瀬陣屋)を構えた藩である。庭瀬陣屋は旧庭瀬城二の丸を使用して築かれた。.
庄内藩
庄内藩または荘内藩(しょうないはん)は、江戸時代の日本で、出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)を本拠地として、現在の庄内地方を知行した藩である。 譜代大名の酒井氏が一貫して統治した。明治時代初頭に大泉藩(おおいずみはん)と改称した。 藩庁は鶴ヶ岡城。枝城として酒田市に亀ヶ崎城を置おいた。支藩に大山藩・松山藩がある。.
井上正森
井上 正森(いのうえ まさもり)は、下総国高岡藩5代藩主。 宝永7年(1710年)、3代藩主・井上政蔽の六男として生まれる。享保15年(1730年)2月3日、4代藩主で兄・政鄰の養子となる。享保16年(1731年)8月7日、兄の隠居により家督を継ぎ、12月に従五位下、山城守に叙位・任官する。享保20年(1735年)に大坂加番に任じられた。 実子は早世していたため、宝暦5年(1755年)、尾張藩主・徳川宗勝の十男である正国を養子に迎える。宝暦10年(1760年)12月7日に隠居した。 寛政12年(1800年)5月13日、死去。享年91。 まさもり *05 Category:1710年生 Category:1800年没.
井伊直弼
井伊 直弼(いい なおすけ)は、幕末の譜代大名。近江彦根藩の第15代藩主(16代藩主、13代当主という数え方もあるノートページ参照)。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。 幼名は鉄之介(てつのすけ)、のち、鉄三郎(てつさぶろう)。諱は直弼(なおすけ)。雅号には、埋木舎(うもれぎのや)、柳王舎(やぎわのや)、柳和舎(やぎわのや)、緑舎、宗観(そうかん)、無根水(むねみ、異字体:无根水)がある。大獄を行って以降は井伊の赤鬼(いいのあかおに)の渾名でも呼ばれた。.
今尾藩
今尾藩(いまおはん)は、美濃国安八郡(現在の岐阜県海津市平田町今尾)に存在した藩。藩庁は今尾陣屋に置かれた。.
令制国
北海道11か国(ただし、千島を除く)追加を反映した。 令制国(りょうせいこく)とは、日本の律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である。律令国(りつりょうこく)ともいう。奈良時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位だった。 令制国の行政機関を国衙(こくが)または国庁(こくちょう)といい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府(こくふ)といった。また、国府は府中と呼ばれることもあった。.
令制国一覧
大宝元年)から702年(大宝2年)まで。黄色で示す地域が制度の及ぶ範囲。 鎌倉時代から1868年(明治元年)まで 明治初期の令制国の配置 令制国一覧(りょうせいこくいちらん)は、7世紀後半からの日本国内の地方行政区分、国(令制国)の一覧である。 令制国の改廃は、奈良時代までと明治時代になされ、その間の平安時代から江戸時代には長期にわたって変更がなかった。.
以仁王
以仁王(もちひとおう、仁平元年(1151年) - 治承4年5月26日(1180年6月20日))は、平安時代末期の皇族。後白河天皇の第三皇子。「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促した事で知られる。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。.
以仁王の挙兵
以仁王の挙兵(もちひとおうのきょへい)は、治承4年(1180年)に高倉天皇の兄宮である以仁王と、源頼政が打倒平氏のための挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した事件。 計画は準備不足のために露見して追討を受け、以仁王と頼政は宇治平等院の戦いで敗死、早期に鎮圧された。しかしこれを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である治承・寿永の乱が始まる。以仁王の乱、源頼政の挙兵とも呼ばれる。.
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延喜式
延喜式(えんぎしき)は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。.
延喜式神名帳
延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である。.
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延暦
延暦(えんりゃく、正字体:延曆)は、日本の元号の一つ。昭和、明治、応永、平成に次いで、歴代で5番目に長い元号である。天応の後、大同の前。782年から806年までの期間を指す。この時代の天皇は桓武天皇。 1418年(応永25年)までの600年以上にわたって、最も長い日本の元号であった。その後1892年(明治25年)まで、日本で2番目に長い元号であった。1950年(昭和25年)までは3番目、2013年(平成25年)までは4番目に長い日本の元号であり、2014年(平成26年)以降は歴代で5番目に長い元号となっている。.
建仁の乱
建仁の乱(けんにんのらん)は、鎌倉時代前期、建仁元年(1201年)正月23日から5月にかけて、城長茂ら城氏一族が起こした鎌倉幕府への反乱。城長茂の乱とも。 正治2年(1200年)正月、梶原景時の変によって源頼朝の寵臣であった梶原景時が滅ぼされると、景時の庇護を受けていた城長茂は変の1年後に上洛し、京において幕府打倒の兵を挙げ、同時期に本領である越後国で甥の城資盛・姉妹の坂額御前ら城一族が反乱を起こすが、いずれも幕府軍によって鎮圧された。.
廃藩置県
廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.
伊予国
伊予国(いよのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。.
伊予松山藩
伊予松山藩(いよまつやまはん)は、江戸時代、伊予国温泉郡(現在の愛媛県松山市)を中心に久米郡・野間郡・伊予郡などを知行した藩。藩庁は松山城。 松山城大天守(国の史跡・重要文化財).
伊勢平氏
伊勢平氏(いせへいし)は、承平天慶の乱に功のあった平貞盛の四男平維衡よりはじまる平氏一族の一つ、高望王流坂東平氏の庶流である。平氏の中でも伊勢平氏、特に平正盛の系統(六波羅家あるいは六波羅流)を平家(へいけ)と呼ぶ場合がある。.
伊勢国
伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
伊勢貞宗
伊勢 貞宗(いせ さだむね)は、室町時代中期から戦国時代の幕臣。政所執事を務めた。伊勢貞親の子。北条早雲とは従兄弟同士とされている(諸説あり)。伊勢流故実の大成者でもある。.
伊勢貞陸
伊勢 貞陸(いせ さだみち)は、室町時代中期から戦国時代の幕臣。伊勢貞宗の子。山城守護、政所執事を務めた。.
会津藩
若松城 会津藩(あいづはん)は、陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩。藩庁は若松城(会津若松市)。最大版図は陸奥国北会津郡、耶麻郡、河沼郡、大沼郡及び越後国東蒲原郡、下野国塩谷郡の一部(三依村)。.
伏見城
伏見城(ふしみじょう)は、現在の京都市伏見区桃山地区にあった日本の城。.
伏見城の戦い
伏見城の戦い(ふしみじょうのたたかい)は、1600年8月26日(慶長5年7月18日)から1600年9月8日(8月1日)まで行なわれた関ヶ原の戦いの前哨戦。.
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伏見藩
伏見藩(ふしみはん)は、山城国伏見(現在の京都府京都市伏見区)にあった藩。居城は伏見城。.
佐々木道誉
佐々木 道誉/佐々木 高氏(ささき どうよ/- たかうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護。 一般的に佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)や佐々木道誉の名で知られる。後者の道誉(導誉とも)は法名であり、諱(実名)は高氏(たかうじ)という。鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれたことから、京極 道誉(導誉)(きょうごく どうよ)または 京極 高氏(きょうごく たかうじ)とも呼ばれる。.
佐倉藩
佐倉藩(さくらはん)は、下総国印旛郡佐倉に存在した藩である。藩庁は佐倉城(現在の千葉県佐倉市)。石高はおおむね11万石。.
佐竹義久
佐竹 義久(さたけ よしひさ、天文23年(1554年) - 慶長6年11月28日(1601年12月22日))は日本の戦国時代の武将。家系は清和源氏の一家系・河内源氏の新羅三郎義光の孫・佐竹昌義を祖とする佐竹氏。常陸国の戦国大名佐竹氏の一門。佐竹東家の当主佐竹義堅の次男。東義久とも。受領名は山城守、中務大輔従五位下。武熊城城主。.
佐貫藩
佐貫藩(さぬきはん)は、江戸時代の上総国に存在した藩。藩庁は天羽郡佐貫(現在の千葉県富津市佐貫字城山)の佐貫城に置かれた。 徳川家康の関東入部時に内藤氏が佐貫を与えられて以降、幕府領となった時期を挟みつつ譜代大名が交代して治めた。1710年以降は阿部氏が藩主となり、廃藩置県を迎えている。.
佐野綱正
佐野 綱正(さの つなまさ、天文23年(1554年) - 慶長5年7月29日(1600年8月27日))は、安土桃山時代の武将。通称、重右衛門。従五位下、肥後守。室は京都御所北面武士竹内氏の娘。父は佐野綱重、子に佐野吉綱、雀部重政室。.
侍所
侍所(さむらいどころ)は、鎌倉幕府と室町幕府において、軍事・警察を担った組織。 侍所は古く「さぶらいどころ」ともいわれ、「侍(さぶら)い」、すなわち貴人の傍に控え、家政を取り仕切ったり、その身辺を警護する従者の詰所という意味であった。平安時代末期には親王、内親王、摂関家の邸宅に置かれ、家人や東国武士などが常駐した。.
御牧藩
御牧藩(みまきはん)は、山城国久世郡御牧(現在の京都府久世郡久御山町)に存在した藩。.
徳川義直
徳川 義直(とくがわ よしなお)は、江戸時代初期の大名。徳川家康の9男。尾張藩の初代藩主で、尾張徳川家の始祖である。新陰流第4世。.
後鳥羽天皇
後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日) - 建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、この承久の乱で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。.
後村上天皇
後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、南北朝時代の第97代天皇にして、南朝の第2代天皇(在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日) - 正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日))。諱は初め義良(のりよし / のりなが)、後に憲良に改めた。名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。父・後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都回復を図り、大和(奈良県)の吉野・賀名生、摂津(大阪府)の住吉などを行宮とした。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定されるようになった。.
信濃国
信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.
応仁の乱
応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.
土岐定義
土岐 定義(とき さだよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。沼田藩土岐家初代。 土岐定政の次男。長兄が早世したため、慶長2年(1597年)の父の死後、家督を継いだ。所領は下総国守谷1万石。徳川秀忠に仕え、関ヶ原の戦いでは秀忠軍に従って真田昌幸が守る信州上田城攻めに参加した。 慶長7年(1602年)、常陸国の佐竹義宣が秋田に減封されたとき、水戸城の守備を務めた。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、冬の陣では秀忠軍に従って参戦したが、夏の陣では江戸城の守備を任じられた。元和3年(1617年)、摂津国高槻2万石に加増移封され、元和5年(1619年)1月8日、40歳で死去。死後、家督は長男の頼行が継いだ。.
土岐定政
土岐 定政(とき さだまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。土岐氏流明智氏の系統であり、祖父頼明の兄で大伯父・頼典を明智光秀の祖父とされる光継と同一人物とする説もある。また明智光秀を伯父(定明の兄)とする説もあり、真偽の程は定かではない。.
土岐頼功
土岐 頼功(とき よりかつ、寛政12年(1800年)10月 - 天保14年4月24日(1843年5月23日))は、上野沼田藩の第9代藩主。沼田藩土岐家12代。 信濃飯田藩主堀親長の九男。正室は土岐頼潤の次女。子に鈴子(土岐頼之正室、土岐頼寧養女)、養女(西尾忠受正室、土岐頼布の娘)。官位は従五位下、山城守。 享和3年(1803年)10月11日生まれともされるが、江戸で生まれる。文政9年(1826年)11月16日、先代の頼潤が死去したため、その末期養子となって跡を継いだ。同年12月1日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従五位下山城守に叙任する。文政11年9月1日、奏者番となった。天保11年(1840年)4月12日、病気を理由に奏者番を辞める。 天保の大飢饉では、領内に大被害を受けている。天保11年6月7日、隠居して養子の頼寧(頼潤の実子)に家督を譲る。天保14年(1843年)4月24日、44歳で江戸にて死去した。墓所は萬松山東海寺春雨庵。 よりかつ Category:堀氏 Category:沼田藩主 Category:信濃飯田藩の人物 Category:譜代大名 Category:1800年生 Category:1843年没.
土岐頼布
土岐 頼布(とき よりのぶ、安永4年12月4日(1775年12月26日) - 天保8年3月8日(1837年4月12日))は、上野国沼田藩の第7代藩主。沼田藩土岐家10代。 第3代藩主土岐定経の七男。正室は深溝松平忠祇の娘。子は娘(西尾忠受正室)。官位は従五位下、山城守、美濃守。 父の死後、天明2年(1782年)から寛政2年(1790年)までの間に頼寛、定吉、定富と3人の兄が次々に家督を継いだがいずれも早世し、頼布がその跡を継いだ。 文化10年(1813年)3月19日、養嗣子の頼潤に家督を譲って隠居し、天保8年(1837年)3月8日に63歳で死去した。墓所は萬松山東海寺の春雨庵。 よりのふ Category:沼田藩主 Category:譜代大名 Category:1775年生 Category:1837年没.
土岐頼行
土岐 頼行(とき よりゆき)は、摂津高槻藩の第2代藩主。後に下総相馬藩主を経て、出羽上山藩の初代藩主となる。沼田藩土岐家2代。松本一指に学び、自得記流を創始した槍術家でもある。.
土岐頼潤
土岐 頼潤(とき よりみつ)は、上野沼田藩の第8代藩主。沼田藩土岐家11代。.
土岐氏
土岐氏(ときし)は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏流摂津源氏系美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた軍事貴族の系統。 南北朝時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務めるとともに室町幕府の侍所頭人として五職家の一角を占め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の3か国の守護大名となった。戦国時代には近江の六角氏、京極氏、越前の朝倉氏・尾張の織田氏・伊勢の北畠氏など周辺大名と争うも、斎藤道三の下克上により没落した。庶流にあたる明智光秀・浅野長政・土岐定政(菅沼藤蔵)らは戦国武将として各地の大名に仕え頭角を現し、江戸時代には浅野家、土岐定政家が大名として存続した。.
土井利徳
土井 利徳(どい としなり)は、三河刈谷藩の第2代藩主。刈谷藩土井家5代。.
土井利祐
土井 利祐(どい としすけ)は、三河刈谷藩の第7代藩主。刈谷藩土井家10代。 文政4年(1821年)、下野佐野藩主堀田正衡の次男として生まれる。堀田正衡は、第2代刈谷藩主土井利徳の実弟堀田正敦の長男であった。天保9年(1838年)に第6代刈谷藩主土井利行が死去したため、末期養子として家督を継ぐ。利祐は一応は血のつながった縁者であるが、他家からの養子が続いたために家中で反発・対立も起こり、藩内は騒擾した。11月15日に第12代将軍徳川家慶に拝謁し、12月16日に従五位下・山城守に叙位・任官する。 天保14年(1843年)に大坂加番に任じられ、11月に淡路守に遷任する。弘化3年(1846年)12月13日、刈谷城で死去した。享年26。しかし後継ぎ問題などから、死は弘化4年(1847年)2月3日に発表された。跡は末期養子の利善が継いだ。 Category:堀田氏 としすけ Category:刈谷藩主 Category:1821年生 Category:1847年没.
土井利謙
土井 利謙(どい としかた)は、三河刈谷藩の第4代藩主。刈谷藩土井家7代。 天明7年(1787年)11月29日、第2代藩主土井利徳の次男として生まれる。兄で第3代藩主の利制に嗣子がなかったために養子となり、寛政6年(1794年)の兄の死去により家督を継いだ。 享和3年(1803年)12月26日に奏者番に任じられ、同時に従五位下・伊予守に叙位・任官する。文化5年(1808年)4月に大坂加番に任じられる。文化10年(1813年)2月6日に山城守に遷任されるが、直後の5月20日に刈谷城で死去した。享年27。 跡を弟で養子の利以が継いだ。 としかた Category:刈谷藩主 Category:1788年生 Category:1813年没.
土井利意
土井 利意(どい としもと)は、三河西尾藩の第2代藩主。刈谷藩土井家2代。.
土井氏
土井氏(どいし)は、日本の姓氏のひとつ。著名なのは、土井利勝に始まる江戸時代の大名一族である。以下これにつき詳述する。.
土方雄隆
土方 雄隆(ひじかた かつたか)は、江戸時代前期の大名。陸奥窪田藩の第3代(最後)の藩主。.
地下家
地下家(じげけ)は、昇殿が許されない廷臣の家格。江戸時代には約460余家あった。.
地方知行
地方知行(じがたちぎょう)とは、江戸時代に将軍あるいは大名が家臣に対して禄として与える知行を、所領(地方と呼ばれる土地)及びそこの付随する百姓の形で与え、支配させること。将軍が大名に土地を与える場合には特に大名知行(だいみょうちぎょう)と呼ばれている。 ここにおける地方知行の解説に大名知行は含めないが、必要に応じて大名知行の例についても言及するものとする。.
北区 (京都市)
北区(きたく)は、京都市を構成する11区のひとつである。住宅地を中心とした平野部と、北部の山間地で構成される。区内には金閣寺や大徳寺、上賀茂神社といった洛北の寺社のほか、立命館大学、佛教大学、大谷大学、京都産業大学などいくつかの大学がある。北大路駅付近と北野白梅町駅付近に商業施設が多い。.
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北畠親房
北畠 親房(きたばたけ ちかふさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。著書の『神皇正統記』で名高い。.
北面武士
北面武士(ほくめんのぶし)とは、院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと。11世紀末に白河法皇が創設した。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。.
北条泰時
北条 泰時(ほうじょう やすとき)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男。鎌倉幕府第3代執権(在職:貞応3年(1224年) - 仁治3年6月15日(1242年7月14日))。鎌倉幕府北条家の中興の祖として、御成敗式目を制定した人物で有名である。.
北日本
北日本(きたにほん、きたにっぽん)とは、日本を大きく分ける時に使用される語で、日本の北部を指す汎称である。対義語は南日本。ただし、法令などで定められているものではない。 一般的には、北海道と東北地方である。北陸地方を北日本に含む場合もある。.
刈谷藩
刈谷藩(かりやはん)は、三河国に存在した藩の一つ。江戸時代の名称は刈屋藩。藩庁は刈谷城(亀城。現在の愛知県刈谷市城町)に置かれた。.
和名類聚抄
和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)。.
備中国
備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
唐
唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.
内藤学文
内藤 学文(ないとう さとふみ)は、三河挙母藩の第2代藩主。挙母藩内藤家6代。初名は政養(まさもち)だが、天明2年(1782年)に政文と改名する。.
内藤氏
内藤氏(ないとうし、ないとううじ)は、日本の氏族。中世から近世まで栄えた豪族・大名の一族。.
内藤政峻
内藤 政峻(ないとう まさみち)は、三河挙母藩の第3代藩主。挙母藩内藤家7代。.
内藤政森
内藤 政森(ないとう まさもり、1683年(天和3年)- 1738年6月28日(元文3年5月12日))は、陸奥国泉藩の第3代藩主、上野国安中藩の初代藩主。挙母藩内藤家3代。 泉藩第2代藩主内藤政親の三男。正室は柳沢吉保の娘、継室は柳沢吉保の養女(曽雌定秋の娘)。子に内藤政里(次男)、内藤政則(三男)、娘(大田原建清正室のち佐竹義道継室)ら。官位は従五位下、丹波守、山城守。 幼名は金一郎。通称は右近。元禄9年(1696年)、跡を継いで泉藩主となる。元禄14年(1701年)に御小姓となる。元禄15年(1702年)7月、泉から安中に移封された。宝永2年(1705年)1月、城主格となり、安中城を改修する。正徳4年(1714年)1月11日に奏者番となった。しかし安中藩の藩政においては新田開発を行いながら百姓に重税を強いたため、享保12年(1727年)4月に百姓一揆が起こった。享保18年(1733年)4月6日、家督を次男の政里に譲って隠居し、元文3年(1738年)5月12日に56歳で死去した。法号は惣持院大誉得法向山。墓所は東京都港区高輪の光台院。 著作に「臣軌」上下2巻がある。.
内藤政成
内藤 政成(ないとう まさしげ)は、三河挙母藩の第4代藩主。挙母藩内藤家8代。井伊直弼の実兄である。.
内藤政文
内藤 政文(ないとう まさふみ)は、三河挙母藩の第6代藩主。挙母藩内藤家10代。井伊直弼の甥である。.
出羽国
出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.
出雲国
出雲国(いずものくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
八幡の戦い
八幡の戦い(はちまんのたたかい、男山の戦い、男山八幡の戦いとも)は、南北朝時代の観応の擾乱における合戦の一つ。1352年(南朝:正平7年/北朝:文和元年)閏2月から5月にかけて、山城国京都から男山八幡(京都府八幡市の石清水八幡宮)において、後村上天皇ら南朝方の軍勢と、足利義詮ら北朝方の軍勢との間で行われた合戦である。.
八幡市
八幡市(やわたし)は、京都府の南部に位置する人口約7万人の市である。市名は市内に鎮座する日本三大八幡宮の一社、石清水八幡宮に由来する。.
公家
公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.
六角義賢
六角 義賢 / 六角 承禎(ろっかく よしかた / ろっかく じょうてい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・守護大名。近江国守護。南近江の戦国大名。六角氏15代当主。観音寺城主。.
六波羅探題
六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。.
国分寺
国分寺(こくぶんじ)は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。 正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられた。.
四堺
四堺(しさかい)とは、平安京のある山城国の四維(北西、南西、南東、北東の隅)にあたる大枝・山崎・逢坂・和邇の4つの地点の事。外部からの穢れが平安京へ侵入する進路と考えられていた。.
皆川広照
川 広照(みながわ ひろてる)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。下野皆川城主。下野栃木城主、下野皆川藩主、信濃飯山藩主、常陸府中藩初代藩主。 皆川俊宗の次男。水谷正村は伯父にあたる。処世術に優れ、小勢力ながらも上杉、北条、織田、徳川などのときの権力者を渡り歩き、江戸時代の譜代大名として生き残りに成功した。 山上宗二が関東へ下っていた際に秘伝書である『山上宗二記』を託された1人である事、皆川領内で狂言を催したことから茶道をはじめ、文化的にも造詣が深かった人物と推測される。.
皆川隆庸
川 隆庸(みながわ たかつね)は、安土桃山時代から江戸時代前期の旗本、大名。常陸府中藩第2代藩主。下野国の戦国大名皆川広照の子。 大坂夏の陣で井伊直孝隊に属し、活躍したことで知られる。.
皆川藩
川藩(みながわはん)は、下野都賀郡皆川(現在の栃木県栃木市皆川城内町)に存在した藩。.
皇室財産
皇室財産(こうしつざいさん)は、天皇の家産である。三種の神器など皇位とともに伝わるべき由緒ある物は、皇位とともに皇嗣が受けることが皇室経済法第7条に定められている。.
石川藩
石川藩(いしかわはん)は、陸奥国(後の磐城国)石川郡周辺(福島県石川郡)を支配した藩。.
社家
家(しゃけ)とは、日本の身分のひとつ。代々特定神社の神職や社僧の職を世襲してきた家(氏族)のことである。明治維新後、現代まで世襲している神職家のことをいう。.
禁門の変
蛤御門の門柱に残る弾痕(2005年10月) 禁門の変(きんもんのへん)は、元治元年7月19日(1864年8月20日)に、京都で起きた武力衝突事件。蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)とも呼ばれる。.
秋月種弘
秋月 種弘(あきづき たねひろ)は、日向高鍋藩の第5代藩主。第4代藩主・秋月種政の長男。母は松浦棟の娘。正室は中川久通の娘。側室は多数。.
秋月種徳
秋月 種徳(あきづき たねのり)は、日向高鍋藩の第8代藩主。第7代藩主・秋月種茂の長男。母は越前松平明矩の娘・盈子。正室は亀井矩貞の娘・誠子。継室は戸田光和の娘・安子。側室に岩崎氏。.
秋月種政
秋月 種政(あきづき たねまさ)は、日向高鍋藩の第4代藩主。第3代藩主・秋月種信の次男。母は松浦隆信の娘。正室は松浦棟(隆信の孫)の娘。側室は多数。.
秋月氏
秋月氏、龝月氏, 穐月氏(あきづきし)は、日本の氏族の1つ。.
稲葉氏
葉氏(いなばし)は、日本の氏族。.
窪田藩
藩(くぼたはん)は、陸奥国菊多郡(現在の福島県いわき市)に存在した藩。.
竹腰勝起
竹腰 勝起(たけのこし かつおき、元文3年9月6日(1738年10月18日)- 寛政元年8月19日(1789年10月7日))は、尾張藩の附家老、美濃今尾藩の第6代当主。 尾張藩主徳川宗勝の五男。母は妙観院。初名は勝紀(かつのり)。正室は脇坂安興の娘。子に竹腰睦群(長男)、井上正紀(次男)。官位は従五位下、山城守。 藩主の子として生まれたが竹腰正武の養子となり、宝暦4年(1754年)4月に将軍の徳川家重に初めて拝謁し、12月には従五位下壱岐守に叙任。先代の正武が宝暦9年(1759年)12月8日に死去したため、同年12月28日に3万石の跡を継ぎ、山城守に転任。明和2年(1765年)4月に徳川家康の150年忌のため、尾張藩主徳川宗睦の名代として日光山に参詣 。天明4年(1748年)8月、美濃国で3,000石を預けられる。天明5年(1785年)3月1日、長男の睦群に家督を譲って隠居し、寛政元年(1789年)8月19日に死去した。法号は映徳院殿朝散大夫諦誉豊堂聴音大居士。墓所は東京都港区虎ノ門の天徳寺。.
竹腰正信
竹腰 正信(たけのこし まさのぶ、天正19年1月21日(1591年2月14日) - 正保2年4月30日(1645年5月25日))は、江戸時代初期の武将。山城守。尾張藩附家老を務めた竹腰家の祖。美濃国今尾藩初代当主。初代尾張藩主・徳川義直の異父兄。 竹腰正時の長男で、母は志水宗清の娘(お亀の方)。正室は大久保忠隣の養女(孫)の春。子女は、竹腰成方(長男)、竹腰正晴(次男)、竹腰正辰(三男)、石川正光継室。幼名は万丸、小伝次。別名は正次、正徳。 文禄3年(1594年)に実母・お亀の方が徳川家康の側室となり、翌文禄4年(1595年)に仙千代(早世)、慶長5年(1600年)に五郎太丸(後の徳川義直)を生むと、異父兄である正信も召し出されて近仕し、翌年に甲斐国に5,000石を与えられる。家康が大御所となって駿府に移ると本多正純・安藤直次・成瀬正成とともに側近となり、慶長12年(1607年)には成瀬と共に義直の後見に任じられる。尾張に5,000石を加増されて1万石を領し、慶長16年(1611年)には従五位下山城守に叙任されたほか、継嗣のいないまま死去した当時の尾張藩執政・平岩親吉に代わって22歳の若さで執政に任じられ、名古屋城の普請を監督。翌年には将軍・徳川秀忠の御前で砲術の腕前を披露し、褒美として1万石を賜ったほか、元和5年(1619年)には義直から1万石を加増されて都合3万石を領し、美濃の今尾を居所とした。以降、竹腰家は成瀬家とともに、幕末まで尾張藩の附家老を務める家柄となる。.
竹腰正武
竹腰 正武(たけのこし まさたけ)は、尾張藩の御附家老、美濃今尾領の第5代領主。石川章長の四男。 尾張藩附家老の竹腰家とは別家の竹腰正辰家の養子となり正辰家を相続していたが、本家の正映が宝永6年(1709年)1月18日に死去したため、同年3月22日に跡を継いだ。 宝永7年(1710年)3月、将軍・家宣に初めて拝謁、12月に従五位下山城守に叙任、元文4年(1739年)4月に藩主・宗勝に従って尾張に帰藩、延享2年(1745年)には将軍代替わりに宗勝の名代として江戸に上った。 宝暦9年(1759年)12月8日に死去。 正武の長男・正方は家督相続前の元文5年(1740年)に29歳で死去、寛保元年(1741年)に養子として正喜(植村家包の弟)を迎えたが宝暦3年(1753年)に34歳で病没、結局尾張藩主・徳川宗勝の五男・勝起が養子となって竹腰家の家督を継いだ。.
竹腰正映
竹腰 正映(たけのこし まさてる、元禄2年(1689年)- 宝永6年1月18日(1709年2月27日))は、尾張藩の附家老、美濃国今尾藩の第4代当主。初代当主・竹腰正信の三男竹腰正辰の長男。官位は従五位下、山城守。 正辰は別家を立てていたが、元禄11年(1698年)に正映を本家友正の養子に出した(代わりに正辰家は石河正武を養子に迎えた)。宝永3年(1706年)4月19日に附家老竹腰家の先代で従兄の友正が死去したため、同年5月25日に正映が3万石の家督を継いだ。9月には将軍の徳川綱吉に初御目見得となり、12月には従五位下山城守に叙任した。 宝永6年(1709年)1月18日に21歳で死去し、跡を養子の正武が継いだ。墓所は東京都港区虎ノ門の天徳寺。.
篠山藩
再建された篠山城篠山藩(ささやまはん)は、丹波国(現在の兵庫県篠山市北新町城内)に存在した藩。藩庁は篠山城。.
節用集
集(せつようしゅう)は、室町時代から昭和初期にかけて出版された日本の用字集・国語辞典の一種。「せっちょうしゅう」とも。漢字熟語を多数収録して読み仮名をつける形式をとっている。.
細川幽斎
細川 幽斎(ほそかわ ゆうさい)/ 細川 藤孝(ほそかわ ふじたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。歌人。幽斎は雅号。法名を玄旨という。 初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は15代将軍・足利義昭の擁立に尽力するが、後に織田信長に従い、長岡 藤孝(ながおか ふじたか)を名乗って丹後宮津11万石の大名となった。本能寺の変の後、主君・信長の死に殉じて剃髪し、家督を忠興に譲るが、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎となった。また、二条流の歌道伝承者・三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあった。.
細川勝元
細川 勝元(ほそかわ かつもと)は、室町時代の武将・守護大名。第16、18、21代室町幕府管領。土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護。第11代細川京兆家当主。父は第14代室町幕府管領、細川持之。政元の父。応仁の乱の東軍総大将として知られている。.
細川高国
細川 高国(ほそかわ たかくに)は、戦国時代の武将、大名。第31代室町幕府管領。摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護。第15代細川京兆家当主。 細川氏一門・野州家の細川政春の子に生まれ、細川氏嫡流(京兆家)当主で管領の細川政元の養子となった。室町幕府第11代将軍足利義高(のちの義澄)より偏諱(「高」の字)を与えられ、高国と名乗った。弟に晴国(高国の実子とも)、通政(輝政)。実子に稙国ほか、養子に氏綱がいる。 養父政元が暗殺された後の混乱(永正の錯乱)を経て、同じく政元の養子であった阿波守護家出身の細川澄元を結果的に排除し、京兆家の家督を手中にした。澄元とは両細川の乱と呼ばれる抗争を長期にわたって継続したが、管領として幕政の掌握を続けた。ところが、細川氏の権力構造の基礎である「内衆」とよばれる分国の重臣達が、京兆家の抗争に伴って各々対立し大いに疲弊。外様である大内氏を頼ったが、大内勢の帰国後は圧倒的な支持基盤を構築できず、最終的には澄元の嫡男・晴元に敗れて自害に追い込まれた。.
細川政元
細川 政元(ほそかわ まさもと)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、室町幕府守護大名であり、第24、26、27、28代管領。細川氏の第12代当主。丹波・摂津・土佐守護。足利将軍家の在職将軍10代義材を追放して11代義澄を擁立し、政権を掌握。事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ばれた。 室町幕府の三管領(足利一門の斯波、畠山、細川)である細川氏本家・京兆家の生まれ。父は応仁の乱時に東軍を率いた細川勝元。母は勝元の正室・山名熙貴の娘(養父は山名宗全)とされるが、根拠となる史料は無い。修験道に没頭して女性を近づけず独身を貫いたため実子はおらず、政元をもって細川家の嫡流は途絶え、養子に澄之、澄元、高国がいる。 将軍を挿げ替え(明応の政変)、管領として幕政を牛耳り(京兆専制)、比叡山焼き討ちを行ったり畿内周辺にも出兵するなど、細川京兆家の全盛期を築き当時日本での最大勢力に広げたが、3人の養子を迎えたことで家督争いが起こり、自らもその争いに巻き込まれる形で家臣に暗殺された(永正の錯乱)。応仁の乱の混乱以来、実力者政元の登場によって小康状態にあった京・畿内周辺は、その死と澄元・高国両派の争いによって再び長期混迷していくこととなる。.
細川晴元
細川 晴元(ほそかわ はるもと)は、室町時代後期(戦国時代)の武将・戦国大名。.
紀今守
紀 今守(き の いまもり、生年不詳 - 貞観14年3月29日(872年5月10日))は、平安時代中期の貴族。鍼博士・紀今人または常陸守・紀真人の子。子に数雄がいる。官位は正四位下・播磨権守。.
紀伊郡
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綴喜郡
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継体天皇
継体天皇(けいたいてんのう、允恭天皇39年(450年?) - 継体天皇25年2月7日(531年3月10日?))は、日本の第26代天皇。在位は継体天皇元年2月4日(507年3月3日?) - 同25年2月7日(531年3月10日?)。 諱はヲホド。『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。また、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(をほどのおおきみ)とある。 なお、隅田(すだ)八幡神社(和歌山県橋本市)蔵の人物画像鏡銘に見える「孚弟王(男弟王?)」は継体天皇を指すとする説がある(後述)別名として、『日本書紀』に彦太尊(ひこふとのみこと)とある。.
総社
備中国総社宮(岡山県総社市)創祀当時に備中国にあった神社計304社を合祀する。 総社、惣社(そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)とは、日本で、特定地域内の神社の祭神を集めて祀った(.
織田信守
織田 信守(おだ のぶもり、安永元年(1772年) - 天保11年5月10日(1840年6月9日))は、丹波柏原藩第5代藩主。高長系織田家8代。 第4代藩主・織田信憑の長男。正室はなし。子女は織田信貞(長男、丹波柏原藩主)、津田長敦(次男)、安子(長女、織田信古正室)など7男5女。次男以下は津田姓を称し、柏原藩士となる。他に養子1人、養女1人。初名は長考。通称は瀬之助、大学。官位は従五位下山城守。.
織田信休
織田 信休(おだ のぶやす)は、江戸時代の大名。大和宇陀松山藩第5代藩主、のち丹波柏原藩初代藩主。高長系織田家4代。.
織田信長
織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.
織田信民
織田 信民(おだ のぶたみ、天保11年2月2日(1840年3月5日) - 慶応元年6月10日(1865年8月1日))は、丹波柏原藩第9代藩主。高長系織田家12代。 正室は水野忠央の娘。子女はいない。養子に織田信親、養女に俊子(公家伏原宣諭二女、柏原藩士生駒高令妻)がある。幼名は叙丸。官位は従五位上、山城守。.
織田信旧
織田信旧(おだ のぶひさ、宝永7年(1710年) - 天明3年4月29日(1783年5月29日))は、丹波柏原藩第3代藩主。高長系織田家6代。 初代藩主・織田信休の三男。生母は生田氏。正室は細川宣紀の十女岑。子女に織田信応(三男)、織田長貴(四男)ら4男。初名は長旧。通称は豊次郎、織部。官位は従五位下山城守。.
織田高長
織田 高長(おだ たかなが)は、宇陀松山藩の第2代藩主。高長系織田家初代。 織田信雄の五男。なお、「織田高長像」(氷上町公民館蔵)は、天保期に描かれたものである。.
織田氏
家紋あげはちょう'''揚羽蝶''' 織田氏(おだし)は、日本の氏族・武家。斯波氏の家臣の家柄。家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は嫡流・伊勢守家の「広」、大和守家の「定」、後に近世大名となる弾正忠家の「信」など。.
美濃国
美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
烏山藩
烏山藩(からすやまはん)は、下野国那須郡烏山(現在の栃木県那須烏山市城山)に存在した藩。藩庁は烏山城に置かれた。また、大久保家が藩主となった享保年間以降は相模国の鎌倉郡・高座郡・大住郡・愛甲郡の一部も支配し、愛甲郡厚木町(現神奈川県厚木市)に厚木役所(厚木陣屋)を置き、相模国内支配の拠点とした。.
生実藩
生実藩(おゆみはん)は、下総国千葉郡(現在の千葉県千葉市中央区生実町および同市緑区おゆみ野)に存在した藩。藩庁は生実陣屋に置かれた。房総の諸藩のうちで、転封がなかった数少ない藩の一つである。.
田沼意知
沼 意知(たぬま おきとも、1749年(寛延2年) - 1784年5月20日(天明4年4月2日))は、江戸幕府の若年寄。老中を務めた遠江国相良藩主田沼意次の嫡男。母は黒沢定紀の娘。正室は松井松平康福の娘。子に田沼意明(長男)、田沼意壱(次男)、田沼意信(四男)。官位は従五位下、大和守、播磨守、山城守。.
田沼意次
沼 意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の旗本、のち大名、江戸幕府老中。遠江相良藩の初代藩主である。相良藩田沼家初代。.
畠山基国
山 基国(はたけやま もとくに)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。家系は足利氏一門の畠山氏。畠山義深の嫡男。子に満家、満慶がいる。「基」の字は初代鎌倉公方足利基氏より偏諱の授与を受けたものとされているが、活動としては基氏の兄・義詮から続く足利将軍家に仕えて、室町幕府侍所頭人、第6代管領、越前・越中・能登・河内・山城・紀伊守護を歴任した。.
畠山義就
山 義就(はたけやま よしひろ/よしなり)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名である。河内・紀伊・山城・越中守護。足利氏(足利将軍家)の一門にて室町幕府の三管領家の1つである畠山氏出身。父は管領畠山持国、母は側室。幼名は次郎、初名は義夏(よしなつ)。子に修羅、義豊(基家)。猶子に政国。 家督相続を巡って、従兄弟の弥三郎政久・政長一派と対立、応仁の乱を引き起こす。.
畠山高政
山 高政(はたけやま たかまさ)は、戦国時代の紀伊・河内国の守護大名・戦国大名。畠山尾州家(畠山政長流)の当主。.
畠山満家
山 満家(はたけやま みついえ)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将、守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・伊勢・山城守護。畠山基国の嫡男で満慶の兄。子に持国、持永、持富。.
畠山持国
山 持国(はたけやま もちくに)は、室町時代の守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・山城守護。足利氏一門の畠山氏出身。畠山満家の嫡男。義就の父。 危機的状況を脱して管領に就任、勢力拡大を目指すも晩年にお家騒動を発生させ、畠山氏衰退の元を生み出してしまった。.
畠山政長
山 政長(はたけやま まさなが)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将・守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・山城守護。足利氏の一門畠山氏出身。畠山持富の次男で政久(弥三郎)の弟。妻は京極持清の娘。子に尚順(尚長)。お家騒動で従兄の畠山義就と争い、応仁の乱を引き起こした。.
畿内
畿内(きない、きだい、うちつくに)とは、.
直江兼続
江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。米沢藩(主君 上杉景勝)の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 立物は「愛字に端雲の立物」。.
相楽郡
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盛岡藩
盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。 同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。.
鎌倉幕府
鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.
鎌倉時代
伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).
遠江国
遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.
聖武天皇
聖武天皇(しょうむ てんのう、大宝元年(701年) - 天平勝宝8歳5月2日(756年6月4日)、在位:神亀元年2月4日(724年3月3日) - 天平勝宝元年7月2日(749年8月19日))は、日本(奈良時代)の第45代天皇。即位前の名は首皇子(おびとのみこ)。 尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。.
道南十二館
道南十二館 道南十二館(どうなんじゅうにたて)は、蝦夷地(後の渡島国、現北海道)渡島半島にあった渡党領主の館の総称。松前藩の歴史を記した『新羅之記録』に十二の館が記されていることから、この名がついた。東は函館市に所在する志苔館から西の上ノ国町の花沢館まで、渡島半島南端の海岸線に分布する。安東氏の被官である館主はこれらの館をアイヌ民族や和人商人との交易や領域支配の重要拠点とした。.
蝦夷地
蝦夷地(えぞち)は、日本人がアイヌの居住地を指して用いた言葉で、江戸時代に使われた。和人地の対語である。渡島半島周辺を除く現在の北海道を中心に、樺太と千島列島を含む。なお、アイヌ人はそれらの島々をアイヌモシリと呼んだ。.
飯塚一幸
飯塚 一幸 (いいづか かずゆき、1958年 -)は、日本の歴史学者。大阪大学教授。日本近代史が専門。.
飯山藩
飯山藩(いいやまはん)は、信濃国(現在の長野県飯山市飯山)を支配した藩。藩庁は飯山城。.
飛地
飛地(とびち、飛び地)とは、一つの国の領土や行政区画、町会等の内、地理的に分離している一部分である。土地の一部が「他所に飛んでいる」と見られることからこう呼ばれる。 オエクシ)が飛地にあたる。.
西尾忠移
西尾 忠移(にしお ただゆき)は、遠江横須賀藩の第4代藩主。横須賀藩西尾家7代。.
西尾藩
西尾藩(にしおはん)は、江戸時代に三河国に存在した藩。西尾城(現愛知県西尾市)を居城とした。藩主は、本多氏(膳所)、松平氏 (大給府内)、太田氏、井伊氏(与板)、増山氏、土井氏(刈谷)、三浦氏、松平氏(大給西尾)が就封した。.
首都
ブラジルの首都、ブラジリア ボリビアの憲法上の首都、スクレ オーストラリアの首都、キャンベラ 南アフリカ共和国の首都の一つ、プレトリア フィリピンの首都圏、マニラ首都圏 ベトナムの首都、ハノイ 首都(しゅと、Capital city)とは、一国の中心となる都市のことを指す。ほとんどの場合にはその国の中央政府が所在し、国家元首等の国の最高指導者が拠点とする都市のことである。ただ、場合によっては、中央政府の所在とは別に、その国のシンボル的存在として認められている都市が首都とされることもある。首府・国都・都などとも呼ばれ、また、帝制国家や王制国家の場合は帝都・王都等の称がある。.
香西元長
香西 元長(こうざい もとなが)は、戦国時代の武将。細川氏の家臣。山城国半国守護代。嵐山城主。.
高富藩
富藩(たかとみはん)は、美濃国(現在の岐阜県山県市高富)に存在した藩。藩庁は高富陣屋に置かれた。.
高岡藩
岡藩(たかおかはん)は、下総国高岡村(現在の千葉県成田市高岡)に存在した藩。.
高田藩
藩(たかだはん)は、越後国に存在した藩。福嶋藩(ふくしまはん)とも呼ばれる。藩庁は高田城(現在の新潟県上越市)にあった。 高田城三重櫓(新潟県上越市).
高鍋藩
鍋藩(たかなべはん)は、日向国に存在した藩。現在の宮崎県児湯郡の東部(高鍋町、川南町、木城町、都農町、日向市の美々津)と串間市、宮崎市(瓜生野・倉岡の一部)、国富町(木脇)を領有していた。藩庁は高鍋城(宮崎県児湯郡高鍋町)。高鍋の地は初期には財部といったため財部藩(たからべはん)とも呼ばれていた。.
高槻藩
槻藩(たかつきはん)は、摂津国に存在した藩の一つ。藩庁は高槻城(現在の大阪府高槻市)。本項目では関係のある山城長岡藩についても記述する。.
豊後国
豊後国(ぶんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
豊前国
豊前国(ぶぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
豊臣秀吉
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.
豪族
豪族(ごうぞく)とは、国家や諸侯などの広域政権の領域の内部に存在し、ある地方において多くの土地や財産や私兵を持ち一定の地域的支配権を持つ一族のこと。地域的支配権の源泉は自分自身の所有する財産や武力であり、広域政権の権威を権力の源泉とする地方官は豪族とは呼ばれない。ただし地方官と豪族は排他的なカテゴリーではなく、同一人物が双方を兼ねたり、カテゴリー間を移行したりするケースは多くある。広域政権側が政権安定のために豪族層の政権内への取り込みを行ったり、逆に広域政権の支配力が弱まると地方官が豪族化することがあるからである。.
貞観 (日本)
貞観(じょうがん)は、日本の元号の一つ。天安の後、元慶の前。859年から877年までの期間を指す。この時代の天皇は清和天皇、陽成天皇。.
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鳥居元忠
鳥居 元忠(とりい もとただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。下総矢作藩(千葉県香取市矢作)の藩祖。.
鳥羽・伏見の戦い
鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、明治元年/慶応4年1月3日 - 6日(1868年1月27日 - 30日))は、戊辰戦争の初戦となった戦いである。 戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)、橋本(京都府八幡市)で行われた。.
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賀茂御祖神社
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は、京都市左京区にある神社。通称は下鴨神社(しもがもじんじゃ)。式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。.
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賀茂別雷神社
賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は、京都市北区にある神社。通称は上賀茂神社(かみがもじんじゃ)。式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。.
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賀茂神社
賀茂神社(かもじんじゃ)とは、京都府京都市にある賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の2つの神社の総称である。 古代の賀茂氏の氏神を祀る神社で、古くは賀茂大神とも呼称した。両社の例祭である葵祭は特に有名で、天皇の勅使を迎える三勅祭のひとつで古来の格式が伝わっている。また、この賀茂神社から勧請を受けた、「加茂神社」・「賀茂神社」・「鴨神社」などといった神社が日本各地に約300社ある。.
越後国
越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.
足利義詮
足利 義詮(あしかが よしあきら)は、南北朝時代の室町幕府第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男足利竹若丸、足利直冬という二人の庶兄に次いで三男とされる。。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子。.
足利義昭
足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代(最後)の将軍(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。 父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。 足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが三好三人衆らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。 信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。.
鶴牧藩
牧藩(つるまきはん)は、上総国(現在の千葉県市原市椎津)に存在した藩。.
龍造寺隆信
龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前国の戦国大名。 仏門にいた時期は中納言円月坊を称し、還俗後は初め胤信(たねのぶ)を名乗り、大内義隆から偏諱をうけて隆胤(たかたね)、次いで隆信と改めた。 「五州二島の太守」の称号を自らは好んで用いたが、肥前の熊の異名をとった。少弐氏を下剋上で倒し、大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦い(沖田畷の戦い)で不覚をとり、敗死した。.
蜂屋頼隆
蜂屋 頼隆(はちや よりたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。敦賀城主。.
興福寺
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。.
興留藩
興留藩(おきどめはん)は、大和国(現在の奈良県生駒郡斑鳩町興留)に存在した藩。.
阿部重次
阿部 重次(あべ しげつぐ、慶長3年(1598年) - 慶安4年4月20日(1651年6月8日))は、武蔵岩槻藩第2代藩主。徳川家光のもとで老中をつとめる。阿部家宗家2代。 大坂城代を務めた初代藩主・阿部正次の次男。母は佐原義成の娘。正室は三浦重成の娘、継室は松平定勝の娘正寿院。子に定高(長男)、正春(次男)、娘(松平忠倶正室)、娘(松平近陳正室)。官位は山城守、対馬守。 初め、男子に恵まれなかった三浦重成(義次)の婿養子となったが、後に重成に男子(三浦重勝)が生まれたために、重成は重次にの近江国浅井郡3000石の所領を分与し、別家を立てさせた。大坂夏の陣の際には病気の重成に代わって、重次が三浦家を率いて出陣した。(のち、三浦家は重勝死去で断絶となり、重勝の弟の系統が阿部氏の家臣となっている。) 実兄で世嗣の阿部政澄が死去したため阿部家に戻り、相続した。同時期に老中を務めた阿部忠秋とは従兄弟同士で、重次が本家筋にあたる。 元和2年(1616年)7月6日に幕府から改易された松平忠輝(家光の叔父)の子・徳松を預かるが、重次に冷遇された徳松自身は寛永9年(1632年)に焼身自殺する事件を起こしている。 父正次は寛永3年(1626年)から死去する正保4年(1647年)まで大坂城代に任じられているが、その間に重次も寛永15年(1638年)に老中に任命されている。 主君の将軍家光はしばしば日光東照宮に社参しているが、江戸からの1泊目が岩槻にあたり、岩槻城主である重次が接待にあたっている。慶安4年(1651年)、家光が死去すると殉死した(同日、堀田正盛も殉職)。 家督は長男・定高が継いだ。.
阿部正あきら
阿部 正暠(あべ まさあきら)は、上総佐貫藩の第6代藩主。備後福山藩阿部家分家7代。 文化3年(1806年)3月9日、第5代藩主阿部正簡の三男として生まれる。文政5年(1822年)12月に従五位下・山城守に叙位・任官される。文政8年(1825年)、父の死去により家督を継いだ。ところが病弱で政務を執ることは困難であり、幕府より任命されかけた日光祭礼奉行も辞退しているほどである。このため、病気を理由に天保7年(1836年)3月23日、養子の正身に家督を譲って隠居した。 天保14年(1843年)12月に因幡守に遷任するが、嘉永5年(1852年)12月に山城守に還任された。嘉永6年(1853年)5月10日に死去した。享年48。 まさあきら Category:佐貫藩主 Category:1806年生 Category:1853年没.
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阿部正興
阿部 正興(あべ まさおき)は、上総佐貫藩の第2代藩主。備後福山藩阿部家分家3代。 享保18年(1733年)、福山藩主阿部正福の四男として生まれる(生年は享保19年(1734年)3月26日とも)。 延享3年(1746年)1月に佐貫藩の初代藩主阿部正鎮の養子となる。寛延2年(1749年)12月に従五位下・山城守に叙位・任官する。宝暦元年(1751年)の正鎮の死去により家督を継ぐ。宝暦7年(1757年)に因幡守に遷任する。 宝暦14年(1764年)3月11日に死去した。享年32。跡を養子の正賀が継いだ。 まさおき Category:佐貫藩主 Category:1733年生 Category:1764年没.
赤穂藩
赤穂城 赤穂藩(あこうはん)は、播磨国赤穂郡(兵庫県赤穂市、相生市、上郡町)周辺を領有した藩。藩庁は同郡加里屋の赤穂城。 浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、森氏でも攘夷派が敵対する家老の森主税を暗殺するという『文久赤穂事件』が起きている。 なお、武鑑では元禄以前は藩主居城を「播州加里屋」「播州かりや」「播州之内苅屋」と表記するものもあった。.
赤松義則
赤松 義則(あかまつ よしのり)は、室町時代前期の守護大名。赤松則祐の嫡男で、赤松満祐の父。.
赤松満祐
赤松 満祐(あかまつ みつすけ/まんゆう)は、室町時代中期の武将、守護大名である。室町幕府侍所頭人、播磨・備前・美作守護。赤松義則の嫡男。兄弟に義雅、祐尚(祐之)、則繁など。従兄弟に有馬持家、満政。子に教康。生年は文中2年/応安6年(1373年)説もある。.
赤松政則
赤松 政則(あかまつ まさのり)は、室町時代後期の武将・大名。加賀半国・播磨・美作・備前の守護大名・戦国大名。赤松家の第9代当主(当主在職:長禄2年(1458年)9月 - 明応5年4月25日(1496年6月6日))。 嘉吉の乱で滅亡した赤松家を再興した中興の英主で、管領の細川家に接近して中央政界での影響力を高めて従三位まで登り詰めた。一方で赤松家の戦国大名化も務め、1代で赤松家の全盛期を築き上げた。.
閏
閏(うるう、じゅん)とは、暦において一年の日数や月数が普段の年(平年)よりも多いこと、または一日の秒数が普段の日よりも多いことをいう。またはその余分な日・月・秒のこと。.
薩摩藩
薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代に薩摩・大隅の2か国及び日向国諸県郡の大部分を領有し、琉球王国を支配下に置いた藩。現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を領有したほか、間接的に沖縄県の大部分を服属させた。.
薬師寺元一
薬師寺 元一(やくしじ もとかず)は、戦国時代の武将。細川氏の重臣。摂津国守護代。.
薬師寺長忠
薬師寺 長忠(やくしじ ながただ)は、戦国時代の武将。細川氏(京兆家)の重臣で摂津守護代。 父元長の死後、薬師寺家当主の座と摂津守護代職は共に兄の薬師寺元一が継いでいた。しかし元一が永正元年(1504年)に細川政元の養子の一人である澄元を擁立すべく挙兵した際にこれを鎮定し、その功によって守護代職と家督は長忠が跡を継いだ。 永正4年(1507年)6月23日、香西元長・竹田孫七らと謀って政元を暗殺する(永正の錯乱)。そして政元の養子である細川澄之を擁立した。これは長忠が政敵である三好之長を排除するため、之長を重用する政元を殺害して細川家の権力を握ろうとしたとする説が有力である。 しかし約40日後の8月1日、細川高国方に属していた甥(元一の子)の万徳丸(薬師寺国長)に茨木城で攻撃を受けて敗北し、澄之や香西元長らと共に討死した。.
門跡
跡(もんせき、もんぜき)は、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。寺格の一つ。元来は、日本の仏教の開祖の正式な後継者のことで「門葉門流」の意であった(この場合は門主とも)。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになった。 浄土宗の知恩院門跡は浄土門主(もんす)という。 浄土真宗本願寺派の本願寺住職は門主(もんしゅ)、真宗大谷派の僧侶及び門徒の代表者は門首(もんしゅ)と書き、いずれも親鸞の子孫の大谷家から出ている。.
藤原保昌
藤原 保昌(ふじわら の やすまさ)は、平安時代中期の貴族。藤原南家巨勢磨流、右京大夫・藤原致忠の子。官位は正四位下・摂津守。摂津守となり同国平井に住したことから平井 保昌とも呼ばれる。.
藤原秀康
藤原 秀康(ふじわら の ひでやす)は、鎌倉時代前期の武将。承久の乱での後鳥羽上皇側の大将軍。.
藤原種継
藤原 種継(ふじわら の たねつぐ)は、奈良時代末期の公卿。藤原式家、参議・藤原宇合の孫。無位・藤原清成の長男。官位は正三位・中納言、贈正一位・太政大臣。.
藤原継彦
藤原 継彦(ふじわら の つぐひこ)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての貴族。藤原京家、参議・藤原浜成の三男。官位は従三位・刑部卿。.
藤原親通
藤原 親通(ふじわら の ちかみち)は、平安時代後期の公家。藤原北家為光流、長門守・藤原伊信の子。官位は従五位上・下総守。源頼朝に敗れた親政は孫、平資盛は曾孫にあたる。.
藤原長岡
藤原 長岡(ふじわら の ながおか)は、平安時代初期の貴族。藤原北家、右大臣・藤原内麻呂の六男『続日本後紀』嘉祥2年2月6日条。官位は従四位上・大和守。 .
藤原棟世
藤原 棟世(ふじわら の むねよ、生没年不詳)は、平安時代の貴族。藤原南家・巨勢麻呂流、伊賀守・藤原保方の子。官位は正四位下・左中弁。.
藤原敦信
藤原 敦信(ふじわら の あつのぶ)は、平安時代中期の貴族・歌人。概ね10世紀末頃から11世紀中頃までにかけて活動していた。藤原式家。因幡守・藤原令茂(合茂)の子。官位は正五位下(または正四位下)・山城守。.
藤井松平家
藤井松平家(ふじいまつだいらけ)は、松平長親の五男・利長を祖とする松平氏の庶流。十八松平のひとつ。.
藩庁
藩庁(はんちょう)とは、江戸時代の幕藩体制から明治初期の府藩県制にかけての、藩の役所を表す用語。語としては県の「県庁」等にあたる。 江戸時代の藩政の拠点のことを、明治時代以降に当てた用語である。類義語に藩府(はんぷ)があるが、この語は、江戸時代に藩が江戸に置いた役所をさすことがある。また、明治時代の府藩県三治制下で地方行政の区画として設置された、藩の知藩事が政務を行う役所のこと。 江戸時代の藩の藩庁は、大名の居城や居所のことで、城や屋敷に設置して大名が支配する領内の行政業務を執り行う。城持大名以上の藩は城に、城主格以下の城主格と無城大名の藩は城を構えることが許されなかったことから、領内に屋敷を置いて藩庁とした。こうした無城大名の屋敷のことを俗に陣屋というが、江戸時代では居所や在所と称した。なかには、藩庁を設けない藩もあった。藩庁を中心に栄えた町を陣屋町といい、城の場合は城下町と呼ばれた。.
葛野郡
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肥前国
肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
長安
長安(ちょうあん、、)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。 漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。やがて平安京は現在に至るまで洛陽に例えられるようになり、とりわけ南北朝頃からは、洛陽の西方にある副都になぞらえて、長安は平安京の右京(西京)の異称となった。.
長岡京
長岡京(ながおかきょう)は、山城国乙訓郡(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区)にあった古代日本の都城。宮域跡は向日市鶏冠井町(かいでちょう)に位置し、「長岡宮跡」として国の史跡に指定されている。 延暦3年(784年)11月11日に平城京から遷都され、延暦13年(794年)10月22日に平安京に遷都されるまで機能した。.
長岡京市
長岡天満宮 長岡天満宮の霧島つつじ 光明寺「もみじ参道」 長岡京市(ながおかきょうし)は、京都府の南西に位置する市。.
長州藩
長州藩邸跡、碑文は屋敷址、京都河原町御池東入ル 長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。 藩庁は長く萩城(萩市)に置かれていたため、萩藩(はぎはん)とも呼ばれた。幕末には周防山口の山口城(山口政事堂)に移ったために、周防山口藩(すおうやまぐちはん)と呼ばれる事例もでてきた。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」と呼ばれている。 幕末には討幕運動・明治維新の中心となり、明治時代には明治新政府に政治家を多数輩出した(2014年8月5日時点のアーカイブ)。.
長男
長男(ちょうなん)とは、親から見て最も年長の男子をいう。長男についで親から二番目、三番目の男子を二男(次男)、三男という。 長子(ちょうし)ともいい、史的には「はじめに生まれた男子、総領」を長子と呼ぶ。.
酒井忠休
酒井 忠休(さかい ただよし)は、出羽松山藩3代藩主。左衛門尉酒井家分家3代。宗家初代・酒井家次の五男・酒井了次の子孫で、庄内藩士・酒井直隆の子。母は本多氏。.
酒井重澄
酒井 重澄(さかい しげずみ)は、江戸時代前期の大名。下総生実藩主。飛騨高山藩2代藩主金森可重の七男。 元和8年(1622年)、徳川秀忠に拝謁する。のち徳川家光の小姓となり堀田正盛とともに寵愛を受け、その命で酒井忠勝の家号を称するようになり、下総国生実に2万5,000石を与えられた(下総国関宿等3万石との説もあり)。 病気で屋敷で静養しているのにもかかわらず、4子をもうけたことから家光の勘気を受け、寛永10年(1633年)勤務怠慢との理由で改易となった。備後福山藩水野勝成にお預けとなり、寛永19年(1642年)に食を断って自殺した。自らの境遇を恥じた為といわれている。 長男の重知も重澄に連座して伯父の飛騨高山藩3代藩主金森重頼にお預けとなったが、承応2年(1653年)に許され、翌年2,000俵を給され、子孫は2,000石の旗本として存続した。 しけすみ しけすみ 酒 Category:自殺した人物 Category:餓死した人物 Category:1607年生 Category:1642年没.
若年寄
若年寄(わかどしより)とは.
離宮八幡宮
離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)は京都府乙訓郡大山崎町にある神社。旧社格は府社。石清水八幡宮の元社にあたる神社として知られる。.
雑色
雑色(ぞうしき).
老中
老中(ろうじゅう)は、江戸幕府の役職のひとつ。複数名がその職にあって月番制で政務を執った。名称は三河時代の徳川家でその家政を司った宿老の年寄(としより)に由来する。年寄りを「老」一字で表し、これに「〜の仲間一同」を意味する「中」(連中、氏子中、長屋中などに同じ)がついたものである。 老中の任用要件は、当初は家禄が2万5000石以上の譜代大名であることだった。しかしこの要件は薄禄の大名を排除するためのものではなく、家禄が要件に満たなくても譜代大名であれば才能次第で老中格(ろうじゅうかく)に登用される道が開かれていた。老中格は文字どおり老中より一段格が落ちるが、その職掌や責任はほとんど老中のそれと比べても遜色がないものだった。 なお諸藩では通常藩政を統括する者のことを家老といったが、藩によってはこれを老中と呼ぶところもあった。.
陸奥国
奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.
柏原藩
柏原藩(かいばらはん)は、丹波国氷上郡柏原(現在の兵庫県丹波市柏原)に存在した藩。藩庁は柏原陣屋に置かれた。 柏原藩織田家旧邸長屋.
柳生藩
柳生藩(やぎゅうはん)は、大和国添上郡柳生郷(現奈良市柳生地区)を治めた藩。石高1万石程度の小藩であったが、藩主家の柳生氏は代々将軍家の剣術指南役として幕閣に重きをなした。藩庁は柳生陣屋。.
柴田勝家
柴田 勝家(しばた かついえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。.
掛川藩
掛川藩(かけがわはん)は、遠江国掛川(現在の静岡県掛川市)に存在した藩。政庁は掛川城に置かれた。.
恭仁京
恭仁京(くにきょう/くにのみやこ)は、奈良時代の都城の1つ。山背国相楽郡(現在の京都府木津川市加茂地区)に位置する。正式名称は「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」。宮跡は山城国分寺跡と重複し、合わせて国の史跡に指定されている(指定名称は「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」)。.
東山区
東山区(ひがしやまく)は、京都市を構成する11区のうちのひとつ。 区内には祇園や三条京阪周辺などの繁華街がある。鴨川左岸の平野部は早くから市街化されているが、東山の西麓には大規模な寺社が林立する。景観条例等の規制が比較的厳しいこともあって、他の区で見られるような山間部の住宅開発は行われておらず、人口は11区中最も少ない。なお、当区の65歳以上の高齢者比率は11区中最も高く、全国の政令指定都市の行政区の中でも6番目に高い。.
東京堂出版
株式会社 東京堂出版(とうきょうどうしゅっぱん)は、東京都千代田区にある日本の出版社。.
松平定喬
松平 定喬(まつだいら さだたか、正徳6年6月9日(1716年7月27日) - 宝暦13年3月21日(1763年5月3日))は、伊予松山藩6代藩主。定勝系久松松平家宗家7代。 5代藩主松平定英の長男。母は島津綱貴の女、お菟(正室・信解院殿、お栄とも、2代藩主松平定頼の曾孫)。正室は久保田藩主・佐竹義峯の娘照。子に鉄(松平定国正室)。幼名は百助。官位官職は従四位下、隠岐守、侍従。.
松平忠国 (播磨国明石藩主)
松平 忠国(まつだいら ただくに)は、江戸時代前期の大名。丹波篠山藩主、播磨明石藩主。藤井松平家嫡流第4代当主。松平信吉の長男。.
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松平信古 (上山藩主)
松平 信古(まつだいら のぶふる)は、江戸時代後期の大名。出羽上山藩の第5代藩主。藤井松平家嫡流11代。.
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松平信宝 (上山藩主)
松平 信宝(まつだいら のぶみち)は、江戸時代後期から幕末の大名。出羽上山藩の第8代藩主。藤井松平家嫡流14代。.
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松平信将
松平 信将(まつだいら のぶまさ)は、出羽上山藩の第3代藩主。藤井松平家嫡流9代。.
松平信亨
松平 信亨(まつだいら のぶつら)は、江戸時代後期の大名。出羽上山藩の第4代藩主。藤井松平家嫡流10代。.
松平信庸 (上山藩主)
松平 信庸(まつだいら のぶつね、天保15年8月11日(1844年9月22日) - 大正7年(1918年)3月5日)は、江戸時代末期の大名。出羽上山藩第9代藩主。藤井松平家嫡流14代。松平信宝の長男。正室は小笠原長国の娘直子。子は松平信恭(長男)、松平信鑑(次男)、松平鉱(三男)、勝子(山内豊尹継室)、仲子(市橋長寿正室)。幼名は菊太郎。官位は従五位下、山城守。 文久元年(1861年)12月16日、従五位下安房守に叙任する。後に山城守に改める。文久2年(1862年)4月6日、父信宝の隠居により、家督を相続する。藩政としては、領内に灌漑用の堤(忠川堤)を築造した。慶応3年(1867年)9月、江戸市中取締を命じられる。同年12月、庄内藩とともに薩摩藩の江戸藩邸を攻撃する(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。この際、家老の金子清邦が死亡した。慶応4年(1868年)6月、戊辰戦争に際し奥羽越列藩同盟に参加した。明治元年(1868年)9月、明治政府に降伏し、同年10月、江戸の菩提寺・松光寺に入り謹慎した。同年12月7日、3000石を没収の上で隠居を命じられた。家督は異母弟の信安が相続した。明治3年(1870年)7月、知藩事信安の後見補佐を命じられた。大正7年(1918年)3月5日、75歳で死去した。 のふつね Category:上山藩主 Category:譜代大名 Category:幕末の大名 Category:1844年生 Category:1918年没.
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松平信行
松平 信行(まつだいら のぶゆき)は、江戸時代後期の大名。出羽上山藩の第7代藩主。藤井松平家嫡流13代。.
松平信通
松平 信通(まつだいら のぶみち)は、江戸時代中期の大名。大和興留藩主、のちに藤井松平家嫡流の家督を継ぎ備中庭瀬藩主、出羽上山藩の初代藩主。藤井松平家嫡流6代。.
松平信愛
松平 信愛(まつだいら のぶざね)は、江戸時代後期の大名。出羽上山藩の第6代藩主。藤井松平家嫡流12代。.
松平重治
松平 重治(まつだいら しげはる)は、上総佐貫藩の第2代藩主。.
松永久秀
松永 久秀(まつなが ひさひで)は、戦国時代の武将。大和国の戦国大名。官位を合わせた松永 弾正(まつなが だんじょう)の名で知られる。弟に長頼、嫡男に久通、養子に永種(貞徳の父)。.
松江藩
藩庁松江城 松江藩(まつえはん)は、出雲1国または隠岐国を加えた2国を領有した藩。藩庁は松江城(島根県松江市殿町)。藩主は外様大名の堀尾氏、京極氏と続き、親藩の越前系松平氏が廃藩置県まで支配した。.
桑名藩
桑名城の石垣 桑名藩(くわなはん)は、江戸時代に伊勢国に存在した藩。藩庁は桑名城(現在の三重県桑名市吉之丸)。.
桓武天皇
桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))は、日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))。.
棚倉藩
棚倉藩(たなぐらはん)は、陸奥国(磐城国)白河郡・菊多郡・磐前郡・磐城郡などを支配した藩。藩庁は白河郡棚倉城に置かれた(現在の福島県東白川郡棚倉町)。.
森可成
森 可成(もり よしなり)は、戦国時代の武将。土岐氏、後に織田氏の家臣。美濃国金山城主。.
森忠興
森 忠興(もり ただおき)は、播磨赤穂藩の第6代藩主。赤穂藩森家12代。 宝暦2年(1752年)1月3日、第5代藩主・森忠洪の長男として生まれる。明和5年(1768年)2月15日に第10代将軍・徳川家治と拝謁し、12月18日に従五位下・山城守に叙位・任官する。明和6年(1769年)7月23日、父の隠居で家督を継ぐ。 藩政では父の政治路線を受け継ぎ、文学の発展に尽くした。しかし明和・安永期の飢饉などで塩田が大被害を受け、藩財政は悪化した。安永9年(1780年)8月6日、家督を弟で養子の忠賛に譲って隠居する。天明元年(1781年)に出雲守に遷任する。天明4年(1784年)1月30日(1月29日とも)に死去した。享年33。 たたおき 森06 Category:1752年生 Category:1784年没.
楠木正儀
楠木 正儀(くすのき まさのり)は、南北朝時代の武将。南朝の有力武将楠木正成の三男。楠木正行、正時の弟。.
槇島城の戦い
槇島城の戦い(まきしまじょうのたたかい)は、元亀4年(1573年)2月から7月にかけて行なわれた織田信長と室町幕府第15代将軍足利義昭の戦い。義昭が敗れて京都から追放され、室町幕府は実質的に滅亡した。この戦の後の7月28日、元亀から天正への改元が行なわれた。.
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横須賀藩
横須賀藩(よこすかはん)は、遠江国に存在した藩。藩庁は横須賀城(静岡県掛川市西大渕)。.
武将
武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.
武田の五名臣
武田の五名臣(たけだのごめいしん)は、甲陽の五名臣ともいい、甲斐の戦国大名・武田信虎、晴信父子に仕えた武田家の直臣である。.
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武田信玄
武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。 甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。.
武田信虎
武田 信虎(たけだ のぶとら)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。武田信玄の父。甲斐源氏の宗家・武田氏第18代当主。.
武蔵国
武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.
水野忠順
水野 忠順(みずの ただより、文政7年9月17日(1824年11月7日) - 明治17年(1884年)12月9日)は|江戸時代後期(幕末)の上総鶴牧藩の第3代(最後)の藩主。忠位系水野家6代。従五位下、山城守、壱岐守、周防守、肥前守、子爵。正室は前田利之の三女・建子。養子に水野忠義、水野忠宝。.
水本邦彦
水本邦彦(みずもと くにひこ、1946年- )は、日本の歴史学者、京都府立大学・長浜バイオ大学名誉教授。日本近世史専攻。.
永井尚佐
永井 尚佐(ながい なおすけ、1783年(天明3年)- 1839年6月28日(天保10年5月18日))は、美濃加納藩の第4代藩主。尚庸系永井家7代。.
永井尚典
永井 尚典(ながい なおのり)は、美濃加納藩の第5代藩主。尚庸系永井家8代。 文化7年(1810年)8月25日、第4代藩主永井尚佐の三男として生まれる。幼名は銑之助。長兄陽之助、次兄大学の早世により、嫡子となる。文政10年(1827年)12月16日、従五位下伊豆守に叙任する。後に山城守、肥前守に改める。天保10年(1839年)7月10日、父の死去により家督を継いだ。 各門番や麻布山のアメリカ合衆国公使館警固などを務めたのち、文久元年(1861年)8月22日、奏者番に任ぜられる。文久2年(1862年)閏8月23日、免職となる。同年10月2日に隠居し、3人の男子はいずれも早世していたため、家督は養子の尚服に譲った。隠居後は松涛と号した。 明治18年(1885年)正月7日(異説として5月7日)に死去した。 なおのり Category:加納藩主 Category:幕末の大名 Category:1810年生 Category:1885年没.
永井氏
永井氏(ながいし)は、日本の氏族のうちのひとつ。松平氏・徳川氏に仕えた。.
江戸幕府
江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.
江戸時代
江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.
沼田藩
沼田藩(ぬまたはん)は、上野利根郡(現在の群馬県沼田市西倉内町)に存在した藩。沼田城に藩庁を置いた。.
法観寺
塔内部 法観寺(ほうかんじ)は京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は霊応山。観音霊場として知られる清水寺の近隣に位置する。街中にそびえ立つ五重塔は通称「八坂の塔」と呼ばれ、周辺のランドマークとなっている。境内は狭く、塔以外に目だった建築物がないことから、「八坂の塔」は寺自体を指す通称ともなっている。.
泉藩
泉藩(いずみはん)は、陸奥国南部(磐城国)菊多郡(現在の福島県いわき市泉)に存在した藩。藩庁は泉陣屋(ただし、歴代藩主は城主格に列せられた)。.
津藩
津藩(つはん)は伊勢安濃郡安濃津(現在の三重県津市)に置かれた藩。安濃津藩(あのつはん)と呼ばれることもある。藩庁は安濃津城(津城)。石高は伊勢・伊賀2国を合わせた22万石(大坂の陣後、32万3,000石に加増で大和国などにも飛び地領が存在)。.
淀城
淀城(よどじょう)は、京都府京都市伏見区淀本町にあった日本の城である。現在は本丸の石垣と堀の一部が残っている。江戸時代には久松松平家、戸田氏、稲葉氏など譜代大名が居城した。.
淀藩
淀藩(よどはん)は、山城国(現在の京都府京都市伏見区淀本町)に存在した藩。.
源勤
源 勤(みなもと の つとむ、天長元年(824年) - 元慶5年5月16日(881年6月16日))は、平安時代初期から前期にかけての貴族。嵯峨天皇の皇子(第十三源氏)。官位は従三位・参議。西七条宰相と号した。.
源等
源 等(みなもと の ひとし)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。嵯峨源氏、中納言・源希の次男。官位は正四位下・参議。小倉百人一首では参議等。.
源範頼
源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。 遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため、とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流された。 武蔵国横見郡吉見(現在の埼玉県比企郡吉見町)のあたりを領して吉見御所と尊称された。.
源義仲
源 義仲 (みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。.
源義経
源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名をと呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき判官とは義経が後白河法皇より任じられた左衛門尉・検非違使を兼ねた官職名。通常は「はんがん」だが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは「ほうがん」と読む。)という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。.
源直
源直(みなもと の すなお)は、日本の平安時代初期から前期にかけての貴族。左大臣・源常の三男。.
源頼朝
源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.
源頼政
源 頼政(みなもと の よりまさ)は、平安時代末期の武将・公卿・歌人。兵庫頭源仲政の長男。朝廷で平家が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては突出した従三位に叙せられたことから源三位(げんざんみ)と称された。また、父と同じく「馬場」を号とし馬場頼政(ばば の よりまさ)ともいう。 保元の乱と平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。だが、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害した(以仁王の挙兵)。.
朝尾直弘
朝尾 直弘(あさお なおひろ、 1931年12月17日 - )は、日本史学者、京都大学名誉教授、文化功労者。近世史。大阪府吹田市出身。住友史料館館長。.
木下頼継
木下 頼継(きのした よりつぐ)は、安土桃山時代の武将、大名。大谷吉継の次男とされるが、甥であるとも養子であるともいわれている奥村徹也「大谷刑部の家族・一族」、。官位は山城守。兄に吉治、弟に泰重。.
木津川市
木津川市(きづがわし)は、京都府南部の市。奈良時代に恭仁京が置かれた。京都府の市としては最南端に位置し、南は奈良県奈良市に接している。.
末寺
末寺(まつじ)とは、本山の支配下にある寺院のことを指すが、江戸時代の本末制度成立以前においては今日とはやや違った意味を持っている。.
本多忠利 (挙母藩主)
本多 忠利(ほんだ ただとし)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。陸奥国石川藩主、三河国挙母藩主。.
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本多忠次 (挙母藩主)
本多 忠次(ほんだ ただつぐ)は、三河挙母藩の第2代藩主。.
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本多正信
本多 正信(ほんだ まさのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。徳川家康の家臣で、江戸幕府の老中。相模国玉縄藩主。正信系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。 徳川家康が抱える鷹匠から身を興したが、三河一向一揆に与して鎮圧後に三河を出奔。一時松永久秀に仕えた後に10年以上を流浪の身として送る。後に許されて家康のもとへ帰参し、江戸開府後は家康、2代将軍秀忠の側近として幕政の中枢にあり権勢を振るった。.
本多政重
本多 政重(ほんだ まさしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。本多正信の次男。子に榎本藩第2代藩主・本多政遂など。.
本庄道揚
本庄 道揚(ほんじょう みちあき)は、美濃高富藩第6代藩主。 宝暦3年(1753年)3月11日、三河吉田藩主・松平信復の五男として江戸の吉田藩谷中下屋敷で生まれる。明和3年(1766年)12月17日、先代・本庄道信の養子となる。道信は翌日に死去した。明和4年(1767年)2月11日に家督を相続する。明和5年(1768年)12月18日、山城守に叙任する。明和7年(1770年)4月、日光御祭礼奉行を勤める。明和8年(1771年)10月18日、江戸で死去。19歳。跡を養子の道利が継いだ。 みちあき Category:大河内松平氏 *06 Category:1753年生 Category:1771年没.
本能寺の変
本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。。。。。 信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり館に火を放って自刃した。。。。2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われる。 光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。(各説については変の要因を参照).
挙母藩
七州城復興隅櫓 挙母藩(ころもはん)は、三河国の北西部、現在の愛知県豊田市中心部を治めた2万石の譜代大名の小藩。藩庁は挙母城(別名七州城)。挙母藩の歴史は領主により大きく4つに分かれる。.
戦国大名
戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.
戦国時代 (日本)
日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.
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戸田忠真
戸田 忠真(とだ ただざね)は、江戸時代中期の大名、老中。下総佐倉藩主、越後高田藩主、下野宇都宮藩主。宇都宮藩戸田家4代。父は老中で佐倉藩主戸田忠昌、母は秋元富朝の娘。同じく老中の秋元喬知は兄に当たる。.
戸田忠温
戸田 忠温(とだ ただはる)は、江戸時代末期の大名、寺社奉行、老中。下野宇都宮藩第4代藩主。宇都宮藩戸田家10代。.
戸田氏
戸田氏(とだし)は、日本の氏族、また名字の一つ。発祥を異にする複数の系統が存在する(次項を参照)。もと、三河国渥美郡に根拠地をもった戸田氏からは、徳川氏に属して多くの近世大名・旗本、大藩重臣を輩出した。 三つ葉葵(松本藩) 六星(松本藩)他 九曜(大垣藩).
明石藩
明石藩(あかしはん)は、播磨国明石郡(兵庫県明石市、神戸市西区、神戸市垂水区など)を領した藩。藩庁は明石城に置かれた。 明石城跡.
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
明治天皇
明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)- 1912年(明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治大帝(Meiji the Great)・明治聖帝・睦仁大帝(Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。.
明智光秀
明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも致命傷を受けて自害したともされる。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」ともいう。 光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守。朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。 領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。.
昭和
昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.
昌泰
昌泰(しょうたい)は、日本の元号の一つ。寛平の後、延喜の前。898年から901年までの期間を指す。この時代の天皇は醍醐天皇。.
斎藤道三
斎藤 道三/利政(さいとう どうさん/としまさ)は、戦国時代の武将。美濃の戦国大名。道三流斎藤氏初代当主。 名としては、長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)・斎藤利政(新九郎)・道三などが伝わるが、書状などに現れているのは、藤原(長井)規秀・斎藤利政・道三などのみである。 父は松波庄五郎または松波基宗(後述)、子に義龍実父は土岐頼芸という説があるが、これを裏付けるような史料はないため後世の創作というのが有力とされる。、孫四郎(龍元、龍重)、喜平次(龍之、龍定)、利堯(利堯、玄蕃助)『勢州軍記』では稲葉良通の甥とある。、長龍(利興、利治)、日饒(妙覚寺19世住職)、日覚(常在寺6世住職)。また、長井道利『岐阜軍記』にある「斎藤系図」では長弘の子とも は長井利隆(『美濃明細記』)の子で道三の弟(『武家事紀』)『美濃国雑事記』の中の「長井系図」には長井利隆の子で斎藤道三の弟とある。 とも、または道三が若い頃の子であるともされる横山住雄著『斎藤道三』によれば道利は長井長弘ではなく道三の一族で庶子であったため嫡男義龍に斎藤氏を、道利に長井氏を継がせたのではないとかとしている。。娘に姉小路頼綱正室、帰蝶(濃姫、織田信長正室)など。.
斎藤氏
斉(セイ)」は「ととのえる」の意味で別の漢字であるが、江戸時代に「斎」の略字として「斉」が使用された(なお、簡体字ではそれぞれ「斋」と「斉」となり、共通性がさらに失われている)。 斎藤氏(さいとうし、)は、日本の姓氏のひとつ。。。 平安時代中頃の鎮守府将軍藤原利仁の子・叙用が齋宮頭であったことに由来する苗字とされる。藤原利仁の後裔は越前・加賀をはじめ、北陸各地に武家として発展した。斎藤氏は平安時代末から武蔵など各地に移住して繁栄した。。。 斎藤氏から出た苗字は大変多いが、有力なものとして、加藤氏、富樫氏、林氏等が挙げられる。.
新選組
新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織である。 なお、「選」の字は「撰」とも表記されることが有り、「新撰組」と表記された史料もある。新選組の局長の近藤勇を始め、隊士たちが残した手紙でも両方の字が表記に用いられている。隊の公印が押された文献は「選」の文字が使用されているため、2004年頃から高校日本史教科書では「新選組」の表記が増えてきている。.
日向国
日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
日本
日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.
日本の首都
この項では、日本の首都(にっぽんのしゅと、にほんのしゅと)について解説する。.
旧高旧領取調帳
旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)とは、明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳である。.
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摂津国
摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.
播磨国
播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.
改易
改易(かいえき)は、律令制度では現職者の任を解き新任者を補任することを、鎌倉時代・室町時代には守護・地頭の職の変更を意味した。江戸時代においては大名・旗本などの武士から身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること。除封ともいう。所領を削減されることを減封という。.
愛宕郡
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慶応
慶応(けいおう、旧字体: 慶應)は日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。日本での「一世一元の詔」発布以前では最後の元号。.
承久の乱
承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。 1185年に鎌倉幕府が成立した以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡した。その1219年以降、鎌倉は伊豆を収める世襲一族の北条氏が実権を握り、さらに北条氏は、幕府内で朝廷の代理人である執権であったが、幕府を実質的に手中に収めるに至り、日本を統治するのは朝廷であり朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きた承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも鎌倉幕府が影響力を持つようになった。.
拾芥抄
拾芥抄(しゅうがいしょう)は、中世日本にて出された類書(百科事典)。全3巻。元は拾芥略要抄とも呼ばれ、略要抄とも略されていた。.
10月
『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より10月 10月(じゅうがつ)はグレゴリオ暦で年の第10の月に当たり、31日ある。 日本では、旧暦10月を神無月(かんなづき、かみなしづき)と呼び、新暦10月の別名としても用いる。 英語での月名 October は、ラテン語表記に同じで、これはラテン語で「第8の」という意味の "octo" の語に由来している。一般的な暦では10番目の月であるが、紀元前46年まで使われていたローマ暦では、一般的な暦の3月が年始であり、3月から数えて8番目という意味である。.
1180年
記載なし。
1184年
記載なし。
11世紀
トスカーナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)。 ウィリアム1世になる。 マーストリヒト大聖堂宝物室の写本外装。聖遺物崇敬の高まりとともにモザン美術と呼ばれるマース川流域の低地地方で生み出された金銀やエナメルの細工も巧緻なものとなった。この11世紀に造られた写本外装は現在はルーヴル美術館にある。 藤原道長。御堂関白とも通称された道長の時代に摂関政治は頂点に達した。画像は『紫式部日記』藤田家本第5段から1008年の一条天皇の土御門邸行幸に備え、新造の竜頭鷁首の船を検分する道長。 紫式部と『源氏物語』。かな文字の発達は日本独特の女流文学の発展を促した。画像は12世紀初頭に描かれた『源氏物語絵巻』「竹河」(徳川美術館蔵)。 宇治の平等院鳳凰堂。末法思想の高まりとともに阿弥陀仏の極楽浄土に往生すること(浄土思想)が求められた。平等院は関白藤原頼通によって建てられたもので、中心の鳳凰堂には仏師定朝の手による阿弥陀仏が安置されている。 遼の応県木塔。山西省応県の仏宮寺釈迦塔のことで章聖皇太后の弟蕭孝穆により建立された中国最古の木造の塔とされる。 仁宗の時期までに北宋は国制を整え、遼や西夏とは和平関係を結び、安定期を現出した。画像は仁宗の皇后曹氏(慈聖光献曹皇后)の肖像(台湾故宮博物院蔵)。 北宋の宰相・王安石。慢性的な財政難を克服するため神宗皇帝の熙寧年間に大改革を行った王安石だったが、司馬光らとの党争を惹起し、国内を混乱させることともなった。 山水画の大成。唐末五代から著しい進展を見せた山水画は北宋の李成・范寛・郭熙らの名手により高い技術と深い精神性を得ることになった。画像は台北国立故宮博物院蔵の郭熙の「早春図」。 敦煌楡林窟第3窟壁画「文殊菩薩」。仏教信仰に熱心だった西夏支配の敦煌では最後の繁栄の時代を迎えていた。 チャンパ王国の発展。11世紀初頭にヴィジャヤに遷都した王国はこの地に独特の文化を花開かせた。画像はビンディン省タイソン県にあるズオン・ロン塔で「象牙の塔」の名でも知られている。 カジュラーホーのパールシュバナータ寺院の塔(シカラ)。チャンデーラ朝のダンガ王と続く歴代の王によって建立された。 マフムードの宮廷。 『シャー・ナーメ(王書)』。11世紀初めにフェルドウスィーによってまとめられた長大なペルシア民族叙事詩。画像はサファヴィー朝時代の『シャー・ナーメ』の写本。 イブン・スィーナー。『医学典範』を著した博学な医師であると同時に東方イスラム世界を代表する哲学者としても多くの仕事を残した。 「ハラガーン双子塔」。1067年に建てられたこの建築は、セルジューク朝の二人の王子の墓廟であり、二つの塔にわかれているのでこの名がある。この塔のあるガズヴィーンはイランのカスピ海南岸の街で、近郊には「暗殺教団」ニザール派のアラムート要塞もある。 商業都市フスタート。ファーティマ朝の政治的な首都はカイロであったが、その近郊にあったフスタートが商工業の中心地であり貿易の中心地でもあった。画像はフスタートの工房で造られたラスター彩陶器で独特な色彩と光沢が特徴的である(メリーランド州ボルチモアのウォルターズ美術館蔵)。 Astrolabio de al-Sahlî」(スペイン国立考古学博物館蔵)。 コンスタンティノス9世の肖像。この皇帝の時代に東西教会分裂につながる相互破門事件が発生している。 アレクシオス1世の戦略。混迷の帝国にあって軍事貴族から身を起こし、帝位に就いたのがアレクシオス1世である。ノルマン人やクマン人といった外敵を互いに競わせ、或いは懐柔する巧みな外交手腕を駆使したことで有名である。しかしセルジューク族を排除するため西欧諸国から援軍を募ろうとして大きな誤算を生むのである。 エルサレム攻囲戦の細密画。 トゥーラ・シココティトラン。10世紀から11世紀に栄えたメキシコの後古典期の遺跡で、伝承ではトルテカ帝国の都だとされている。 11世紀(じゅういちせいき、じゅういっせいき)とは、西暦1001年から西暦1100年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最初の世紀である。.
11月22日 (旧暦)
旧暦11月22日は旧暦11月の22日目である。六曜は友引である。.
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11月8日 (旧暦)
旧暦11月8日は旧暦11月の8日目である。六曜は赤口である。.
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1201年
記載なし。
1221年
記載なし。
12世紀
アンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世菩薩像)。 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。.
12月4日
12月4日(じゅうにがつよっか)はグレゴリオ暦で年始から338日目(閏年では339日目)にあたり、年末まであと27日ある。.
1352年
記載なし。
1467年
記載なし。
1477年
記載なし。
1504年
記載なし。
1532年
記載なし。
1561年
記載なし。
1568年
記載なし。
1573年
記載なし。
1582年
記載なし。
1600年
400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.
1607年
記載なし。
1616年
記載なし。
1617年
記載なし。
1619年
記載なし。
1623年
記載なし。
1633年
記載なし。
1649年
記載なし。
1669年
記載なし。
1711年
記載なし。
1717年
記載なし。
1723年
記載なし。
1864年
記載なし。
1868年
記載なし。
1870年
記載なし。
1871年
記載なし。
1872年
記載なし。
1925年
記載なし。
1927年
記載なし。
1980年
この項目では、国際的な視点に基づいた1980年について記載する。.
1999年
1990年代最後の年であり、1000の位が1になる最後の年でもある。 この項目では、国際的な視点に基づいた1999年について記載する。.
1月2日
1月2日(いちがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から2日目に当たり、年末まであと363日(閏年では364日)ある。誕生花は孟宗竹、または蝋梅。.
2月19日 (旧暦)
旧暦2月19日は旧暦2月の19日目である。六曜は友引である。.
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2月4日
2月4日(にがつよっか)はグレゴリオ暦で年始から35日目に当たり、年末まであと330日(閏年では331日)ある。.
3月12日
3月12日(さんがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から71日目(閏年では72日目)にあたり、年末まであと294日ある。.
4月25日 (旧暦)
旧暦4月25日は旧暦4月の25日目である。六曜は仏滅である。.
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5月20日 (旧暦)
旧暦5月20日は旧暦5月の20日目である。六曜は赤口である。.
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6月15日
6月15日(ろくがつじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から166日目(閏年では167日目)にあたり、年末まであと199日ある。誕生花はタチアオイ、アジサイ。大西歯科医院.
6月18日
6月18日(ろくがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から169日目(閏年では170日目)にあたり、年末まであと196日ある。誕生花はスイセンノウ、サギソウ。.
746年
記載なし。
794年
記載なし。
797年
記載なし。
7月14日 (旧暦)
旧暦7月14日(きゅうれきしちがつじゅうよっか)は、旧暦7月の14日目である。六曜は友引である。.
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861年
記載なし。
863年
記載なし。
882年
記載なし。
8世紀
イスラム帝国の拡大。ウマイヤ朝時代までにイスラム帝国は中央アジアからイラン・イラクを経て、エジプト・北アフリカを超えてイベリア半島まで拡がった。 ウマイヤド・モスク。ウマイヤ朝第6代カリフのワリード1世により705年にシリアのダマスカスに建築された現存する世界最古のモスクで、カアバ・預言者のモスク・岩のドームに次ぐイスラム教第4の聖地として巡礼者が絶えない。 イスラムの書法。すでに正統カリフ時代にはクルアーンの編纂が行われていたが、この世紀になると洗練された書体が生み出され用いられた。画像はアッバース朝初期に置かれた都クーファの名から「クーフィー体」と呼ばれた書体によるクルアーンの一節。 円城(ムダッワラ)都市バグダード。アッバース朝の第二代カリフ・マンスールによって766年に完成したこの都市はティグリス川に面した交通の要衝で最盛期にはその人口は100万人を擁した。アラビア語で「平安の都」を意味するマディーナ・アッ=サラームとも呼ばれる。画像はアッバース朝時代のバグダードの再現地図。 エローラ石窟群。画像は8世紀にインドのラーシュトラクータ朝の君主クリシュナ1世によりヒンドゥー教のシヴァ神の住むカイラス山(須弥山)になぞらえて建てられた第16窟のカイラサナータ寺院。 ボロブドゥール遺跡。インドネシアのジャワ島ケドゥ盆地にある大規模な仏教遺跡で、シャイレンドラ朝のダルマトゥンガ王時代に造営された。 唐の世界帝国。西域での覇権を確立した唐は華やかな異文化交流で知られることになる。画像は706年に造営された章懐太子李賢の墓の壁画「賓客図」で、黒衣で禿頭の人物は東ローマ帝国の使節と考えられている。 楊貴妃。絶世の美女として名高いばかりでなく、治世後半の玄宗皇帝の寵愛をほしいままにしたことで「傾城」とも「傾国」とも呼ばれる。安禄山の乱に巻き込まれ悲劇的な最期を遂げた。画像は日本の上村松園による歴史画。 大秦景教流行中国碑。781年にキリスト教ネストリウス派(景教)信者で中央アジア出身の伊斯がその伝来の経緯を記録した石碑。画像はその拓本の一部で、碑題の上に十字架があるのが読み取れる。 唐三彩の駱駝。8世紀前半まで唐は中央アジアの覇権を握り交通の要衝を保持していた。画像は駱駝に乗るソグド人と思われる西域の商人(上海博物館蔵)。 国立アジア美術館(ベルリン美術館)蔵)。 天平文化。遣唐使の頻繁な行き来により盛唐の文物が招来され、710年に遷都された平城京では国際色の豊かな文化が花開いた。画像はこの時代を代表する東大寺法華堂執金剛神。 平安遷都。桓武天皇により平城京から長岡京を経て平安京に都が遷った。平安京は長きにわたって都となり「千年の都」と呼ばれるようになる。画像は桓武天皇の肖像(延暦寺蔵)。 キー・ローのモノグラムの頁(Folio 34r)でトリニティ・カレッジ (ダブリン大学)図書館が所蔵している。 アーヘン大聖堂宝物館のカール大帝の胸像。カール大帝の800年の「西ローマ帝国復興」は東ローマ帝国との間に「二帝問題」の軋轢を生んだ。 8世紀(はちせいき、はっせいき)は、西暦701年から西暦800年までの100年間を指す世紀。.
8月29日
8月29日(はちがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から241日目(閏年では242日目)にあたり、年末まであと124日ある。.
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山州、山城の国、山城守、山城國、山城権守、山城権掾、山背、山背国、城州、雍尋城州。