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富山県と富樫昌家

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富山県と富樫昌家の違い

富山県 vs. 富樫昌家

富山県(とやまけん)は、日本の都道府県の一つ。中部地方の日本海側、北陸地方のほぼ中央に位置する。県庁所在地は富山市。. 富樫 昌家(とがし まさいえ)は、南北朝時代の武将・守護大名。富樫氏12代当主。加賀国守護。 富樫氏11代当主・富樫氏春の長男として誕生。 父氏春が病死すると、その後継として加賀守護を継いだが幼少であったために一族の富樫用家の補佐を受けた。古典『太平記』によると、竹童丸が幼少であることに乗じて近江国の佐々木道誉が婚姻関係のある斯波氏に加賀の守護職を奪わせることを画策し、細川清氏によって阻止されたとある。 正平21年/貞治5年(1366年)に元服し、昌家と名乗る。元服後は加賀の経営を守護代・英田四郎次郎に一任し、上洛して2代将軍・足利義詮やその子・義満に仕えた。正平24年/応安2年(1369年)、反幕府勢力の桃井直和が越中国で挙兵すると、昌家は幕命を受けて吉見氏頼と共に鎮圧に当たった。 1370年代になると、幕府内部では細川頼之派と斯波義将派の抗争が激化したが、その中で昌家は家督相続時の一件もあり細川派に属していたようである。天授5年/永和5年/康暦元年(1379年)に義将派によるクーデターが起こり頼之が追放されると(康暦の政変)、昌家も討伐されるという噂が流れた。実際これ以上兵乱が起きることはなく、昌家も失脚は免れたようだが、この一件により幕府の要職が斯波派に改められたこともあって、昌家の幕府内における立場も微妙なものとなっていった。 元中4年/嘉慶元年(1387年)、死去。死後、弟・満家が後継となったが、昌家の死に乗じて管領・斯波義将が加賀の守護職を剥奪し、弟の義種に与えてしまった。以降約30年間、加賀は富樫氏の手から離れることとなった。 昌家の子・詮親は足利義詮から偏諱を受けて以来、幕府の信任を受けていたが、元中8年/明徳2年(1391年)の明徳の乱に乗じて幕府に反抗して滅ぼされたため、以降の富樫氏の嫡流は弟・満家の系統に移った。.

富山県と富樫昌家間の類似点

富山県と富樫昌家は(ユニオンペディアに)共通で9ものを持っています: 加賀国太平記室町幕府守護征夷大将軍国司越中国斯波義将1369年

加賀国

加賀国(かがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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太平記

『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。 全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。 第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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国司

国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。.

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越中国

越中国(えっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。北陸道に属する。現在の富山県にあたる地域である。.

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斯波義将

斯波 義将(しば よしゆき「義将」の読みに関しては、一般的には「よしまさ」と読まれる(平将門などと同様)ことが多いが、実際は「よしゆき」のようである。偏諱(「将」の字)を賜った人物についても同様のことが言える。)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。斯波氏5代当主。室町幕府創業の元勲である斯波高経の4男で室町幕府初代、3代、5代、7代管領。越前・越中・信濃守護。 幼少より父・高経の偏愛を受け、父の後見と推薦もあって13歳にして幕府管領職に就任する。後に父の失脚と同じくして自身も都を追われたが、まもなく復権し、政敵の細川頼之を康暦の政変にて失脚させると管領に再任。以後、足利義満・足利義持と2代の室町将軍を補佐し、およそ30年間にわたって幕府の重鎮であり続け、斯波氏の最盛期を築いた。.

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1369年

記載なし。

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富山県と富樫昌家の間の比較

富樫昌家が44を有している富山県は、1161の関係を有しています。 彼らは一般的な9で持っているように、ジャカード指数は0.75%です = 9 / (1161 + 44)。

参考文献

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