ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

完史と第1回十字軍

ショートカット: 違い類似点ジャカード類似性係数参考文献

完史と第1回十字軍の違い

完史 vs. 第1回十字軍

完史(かんし、الكامل في التاريخ アル・カーミル・フィイル・ターリーフ、The Complete History)は、イブン・アル=アスィールによる、イスラム世界の古典歴史書である。完史は1231年頃に編纂され、イスラム世界の歴史作品の中でも有数の貴重な歴史書と評価を受けている。. 中世の写本に描かれた第1回十字軍のエルサレム攻撃 第1回十字軍(だいいっかいじゅうじぐん、1096年 – 1099年)は、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、キリスト教の聖地エルサレムの回復のために始められた軍事行動。クレルモンにおける教会会議の最後に行われた聖地回復支援の短い呼びかけが、当時の民衆の宗教意識の高まりとあいまって西欧の国々を巻き込む一大運動へと発展した。 十字軍運動においては、一般に考えられているような騎士たちだけではなく一般民衆もエルサレムへ向かった。彼らは戦闘の末にイスラム教徒を破って、同地を1099年7月15日に占領した。そして、エルサレム王国など「十字軍国家」と呼ばれる一群の国家群がパレスティナに出現した。西欧諸国が初めて連携して共通の目標に取り組んだという点で、十字軍運動は欧州史における重大な転換点となった。そしていわゆる「十字軍」を名乗った運動で当初の目的を達成することができたのは、この第1回十字軍が最初で最後となる。.

完史と第1回十字軍間の類似点

完史と第1回十字軍は(ユニオンペディアに)共通で17ものを持っています: 十字軍ペトルス・バルトロメオヌールッディーンボードゥアン1世 (エルサレム王)ファーティマ朝アナトリア半島アレクシオス1世コムネノスアンティオキアエルサレムケルボガザンギーシチリアセルジューク朝サラーフッディーン聖槍東ローマ帝国1071年

十字軍

1回十字軍によるアンティオキア攻囲戦 十字軍(じゅうじぐん、cruciata、crusade)とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。 一般には、上記のキリスト教による対イスラーム遠征軍を指すが、キリスト教の異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)などにも十字軍の名称は使われている。 実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当て嵌まるものではなく、中東に既にあった諸教会(正教会・東方諸教会)の教区が否定されてカトリック教会の教区が各十字軍の侵攻後に設置されたほか、第4回十字軍や北方十字軍などでは、正教会も敵として遠征の対象となっている。また、目的地も必ずしもエルサレム周辺であるとは限らず、第4回以降はイスラム最大勢力であるエジプトを目的とするものが多くなり、最後の十字軍とされることもある第8回の十字軍は北アフリカのチュニスを目的としている。.

十字軍と完史 · 十字軍と第1回十字軍 · 続きを見る »

ペトルス・バルトロメオ

聖槍の発見(19世紀の絵画) ペトルス・バルトロメオ(ピエール・バルテルミー、Pierre Barthélemy, ? - 1099年)は、南フランス出身の修道士・兵士。第1回十字軍のアンティオキア攻囲戦の際、「聖槍」を発見したという逸話が残っている。 彼が最初に幻視を体験したのは、十字軍がアンティオキアを包囲していた1097年12月であった。ペトルスが体験した幻は、ほとんどが聖アンデレの現れるものであった。ペトルスは後に、幻視の中で自分は聖アンデレに連れられてアンティオキア城内の聖ペテロ教会へと向かい、聖遺物の一つで十字架上のイエス・キリストの脇腹を突いたという「聖槍」が見つかるであろう場所を示されたと述べている。聖アンデレはペトルスに、十字軍の指導者である諸侯にこのことを伝え、もし聖槍が見つかったらトゥールーズ伯レーモン(レーモン・ド・サン・ジル)に渡すよう教えたという。 ペトルスはこれをすぐさまレーモンや他の諸侯に伝えることはしなかった。アンティオキアが陥落する翌1098年6月までの間に、聖アンデレはペトルスの前にさらに4度現れた。アンティオキア包囲が続いていた1098年2月には、彼の眼は視力を失い始めた。これは十字軍を襲った飢餓による症状と考えられるが、彼自身は聖アンドレにより与えられた罰と考えていた。 1098年6月3日未明に十字軍はアンティオキア城内に押し入り、これを陥落させたが、6月9日には逆にケルボガ率いるセルジューク軍に包囲されてしまった。再び飢えと絶望が十字軍を襲った。このとき、ペトルスは諸侯の前に進み出て、幻視を見たことを主張した。諸侯の中でもレーモンは彼の言葉を信じ、レーモンをはじめ、年代記作者レーモン・ダジール(Raymond of Aguilers)、オランジェ司教ギヨーム(William, Bishop of Orange)らは聖ペテロ教会の地下を掘り始めた。6月14日、中から何も出ないかと思われたその時、ペトルスは自ら穴の底に下りて、土の中にあった槍の頭を見つけ出して見せた。「聖槍」はこうして発見され、十字軍内に熱狂を起こし、兵士らの士気を大いに高めた。ペトルスによれば、その夜、彼のもとを再び聖アンデレが訪れ、聖槍の発見を讃えて祝日を設けるよう命じたという。 神明裁判(火による試練)にかけられるペトルス・バルトロメオ。ギュスターヴ・ドレの版画 十字軍の中には、教皇使節ル・ピュイのアデマールのように、「聖槍の発見」を疑わしいと感じ、ペトルスのこともペテン師だと考える者もいた。彼らによれば、ペトルスは単に自分が持っていた鉄のかけらを穴の底で取り出して、「聖槍を発見した」と言っただけであった。しかし多くの者はこれを吉兆ととらえ、ムスリムに対する勝利を神が保証したのだと考えた。6月28日には十字軍は聖槍を先頭に城外へ出撃し、セルジューク軍と衝突してこれを撃破することに成功した。教皇使節アデマールは攻囲戦終了直後の8月にアンティオキアを襲った疫病で没したが、ペトルスによれば、アデマールは死後にペトルスのもとを訪れて聖槍が本物であることを確証しにきたという。 しかしながら、レーモンを除く諸侯や貴族の多くがペトルスの言うことを信じなかったため、ペトルスの評判は次第に色あせてきた。ペトルスはイエス・キリストが彼のもとを訪れて、十字軍に対し裸足でエルサレムへ行軍するよう命じた、と主張したが、これはほとんど無視された。ほかに見た幻視では、キリスト、聖アンデレ、アデマールらが彼のもとに現れて、十字軍の様々な罪や悪徳に対して聖なる怒りをあらわしたともいう。 ペトルスに対して、聖書の国に来たのだから聖書の国らしく神明裁判を行おうという声も上がり始めた。エルサレムへ進軍中の1099年4月8日、ペトルスは自らの真実を証明するため、「火による試練」を受けることになった。これは燃える板壁と板壁の間の隙間を歩くというものだった。彼が嘘をついておらず聖なるものに導かれていたとすれば、この試練を無傷でこなすことができるはずだった。しかし彼は大火傷を負う結果になった。なおも彼は、火の中でキリストが現れたために炎の中でも無傷で済んだ、しかしその後で群衆が押し寄せてきたせいで大けがをしたのだ、と言い続けた。しかし苦悶の末、ペトルスは4月20日に没した。 レーモンの後ろ盾を受けたペトルスの発見した聖槍は、十字軍内のレーモンに対する権威を高めるものでもあった。そのペトルスが神明裁判に敗れ聖槍も偽物だという話が広まると、レーモンの権威も損なわれた。しかし西欧では、ペトルス・バルトロメオは真に幻視を見、本物の聖槍を発見したという話が伝わることになった。.

ペトルス・バルトロメオと完史 · ペトルス・バルトロメオと第1回十字軍 · 続きを見る »

ヌールッディーン

ヌールッディーン・マフムード(Nūr al-Dīn Maḥmūd b. Senkī、1118年 - 1174年5月15日)はシリア等を支配したセルジューク朝系のアタベク政権であるザンギー朝の第2代君主(在位:1146年 - 1174年5月15日)。アタベク・イマードゥッディーン・ザンギーの子で十字軍国家やエジプト(ファーティマ朝)、ダマスクス(ブーリー朝)と戦い領土を広げ、イスラム勢力の統一を計った。ヌレディンまたはヌール・アッディーンと表記されることが多い。十字軍側の史料では「Noradinus」などと称されていた。名前の語義は「宗教/信仰の光」を意味する。.

ヌールッディーンと完史 · ヌールッディーンと第1回十字軍 · 続きを見る »

ボードゥアン1世 (エルサレム王)

ボードゥアン1世(Baudouin I, 1065年頃 - 1118年4月2日)は、第1回十字軍の指導者の一人。初代エデッサ伯となり、後に初代エルサレム王(在位:1100年 - 1118年)となった。.

ボードゥアン1世 (エルサレム王)と完史 · ボードゥアン1世 (エルサレム王)と第1回十字軍 · 続きを見る »

ファーティマ朝

ファーティマ朝(アラビア語: الدولة الفاطمية al-Dawla al-Fātimīya)は、シーア派の一派、イスマーイール派が建国したイスラム王朝である(909年 - 1171年)。その君主は、イスマーイール派が他のシーア派からの分裂時に奉じたイマーム、イスマーイールの子孫を称し、イスラム世界の多数派であるスンナ派の指導者であるアッバース朝のカリフに対抗してカリフを称した。王朝名のファーティマは、イスマーイールの先祖である初代イマーム、アリーの妻で預言者ムハンマドの娘であるファーティマに由来している。 ファーティマ朝は、北アフリカのイフリーキヤ(現在のチュニジア)で興り、のちにカイロに移ってエジプトを中心に支配を行った。イスマーイール派の信仰を王朝の原理として打ち出し、カリフを称するなどアッバース朝に強い対抗意識をもった。同じ時期にはイベリア半島のアンダルスでスンナ派の後ウマイヤ朝がカリフを称したのでイスラム世界には3人のカリフが鼎立した。そこから、日本ではかつては3人のカリフのうち地理的に中間に位置するファーティマ朝を「中カリフ国」と通称していた。.

ファーティマ朝と完史 · ファーティマ朝と第1回十字軍 · 続きを見る »

アナトリア半島

アナトリア半島(アナトリアはんとう、Ανατολία, Anatolia / Aνατολή, Anatolē、Anadolu)は、アジア大陸最西部で西アジアの一部をなす地域である。現在はトルコ共和国のアジア部分をなす。日本語ではアナトリア半島と呼ばれる事が多いが、英語圏では「半島」をつけない、単なるアナトリアであり、地形ではなく人文地理的な地域を表す言葉である。小アジア(Μικρά Ασία, Mikra Asia, Asia Minor)とも言う。.

アナトリア半島と完史 · アナトリア半島と第1回十字軍 · 続きを見る »

アレクシオス1世コムネノス

アレクシオス1世コムネノス(ギリシア語:Αλέξιος Α' Κομνηνός (Alexios I Komnēnos)、1048年/1056年 - 1118年8月15日)は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)コムネノス王朝の初代皇帝(在位:1081年 - 1118年)。マケドニア王朝断絶後に皇帝となったイサキオス1世コムネノスの甥に当たる。24歳の若さで将軍となった。皇帝ミカエル7世の従弟アンドロニコス・ドゥーカスの娘エイレーネーと結婚した。 ドゥーカス王朝支配下の頃の東ローマ帝国は、内部では有力貴族の反乱が起こり、外部からはセルジューク朝やノルマン人に東西から侵攻を受け、まさに内憂外患の状態にあった。特に小アジアは大半が奪われ、首都コンスタンティノポリスの対岸にまでトルコ人が迫っていた。 このような中で1081年、アレクシオスは反乱を起こして時の皇帝ニケフォロス3世ボタネイアテスを退位させ、自ら皇帝となった。彼の子孫である皇帝たちをコムネノス王朝と称する。 即位後、アレクシオスは対外政策に力を注いだ。当時、11世紀半ばまで東ローマ帝国領であった南イタリア(マグナ・グラエキア)はノルマン人のロベルト・イル・グイスカルドによって征服され、その勢力はバルカン半島にまで及んできていた。しかし、アレクシオスはヴェネツィア共和国と同盟を結ぶことで海の守りを固め、ロベルトの子のボエモンを屈服させ、ロベルトの熱病死によって撃退させることに成功した。しかし、このときの同盟の代償としてヴェネツィアに関税特権などの様々な特権を与えたことが、のちに帝国内の商工業者の衰退、東ローマ帝国とヴェネツィア共和国との対立等を招く一因ともなってしまった。 帝国の西方ではクマン族などの異民族による侵攻もあったが、アレクシオス1世はクマン族をはじめとする異民族の討伐にも乗り出して、帝国西部の領土奪回を果たしている。また、東方のルーム・セルジューク朝に対しては、これを討つためにローマ教皇ウルバヌス2世に傭兵の提供を要請した。 ところが、これは第1回十字軍という思いもよらない事態を招いてしまった。1096年から開始されたこの十字軍遠征により、帝国は確かにイスラーム勢力の脅威から脱することはできたが、帝国領が十字軍遠征の通過地となった結果、十字軍の乱暴狼藉や略奪によって逆に苦しめられてしまった。 また内政面においては、通貨改革や爵位の再編を行ったほか、有力貴族と皇族との間に婚姻関係を結ぶことで関係を強化した。いわゆる「コムネノス一門」である。結果として1453年に帝国が滅亡するまで、すべての皇帝はコムネノス家・ドゥーカス家の血をひくこととなった。また大土地所有貴族たちに軍事力提供と引き換えに徴税権や土地を与えるプロノイア制を導入し、強力な私兵を抱える彼らの協力を得て帝国の軍事力を強化した。 これらの政策は孫のマヌエル1世の代になると帝国を窮地に陥れることになるが、ひとまずアレクシオス1世の統治によって再び安定の時代を迎えた。バシレイオス2世の没後衰退する一方だった帝国は、約100年の間衰退を食い止め、東地中海の強国の座を奪回・維持することに成功したのである。 Category:東ローマ皇帝 Category:コムネノス家 Category:十字軍 Category:1048年生 Category:1118年没.

アレクシオス1世コムネノスと完史 · アレクシオス1世コムネノスと第1回十字軍 · 続きを見る »

アンティオキア

アンティオキア(ギリシア語: Αντιόχεια)は、セレウコス朝のセレウコス1世が父アンティオコスを記念して建設し、各地に存続したギリシア語の都市名。シリアのアンティオキアが有名。『口語訳聖書』や、第三版までの『新改訳聖書』ではアンテオケと表記する。 シリアのアンティオキアは、古代の西シリア、オロンテス(現アシ川)河畔に建設された都市。ヘレニズム時代のセレウコス朝シリア王国の首都、ローマ時代のシリア属州の州都として栄えた。シルクロードの出発点として知られる。一般に用いられる「アンティオキア」はヘレニズム時代以降のギリシャ語発音で、古典ギリシャ語読みの「アンティオケイア」が用いられることもある。ローマ時代はAntiochiaアンティオキーアと呼ばれた。なお現代音では「アンディオヒア」という表記が近い。.

アンティオキアと完史 · アンティオキアと第1回十字軍 · 続きを見る »

エルサレム

ルサレムまたはイェルサレムは、イスラエルおよびパレスチナ自治区にある都市。 イスラエルはエルサレムが自国の「首都」であると宣言しているものの、国際連合など国際社会はこれを認めておらず、イスラエルの首都はテルアビブであるとみなしている。したがって、イスラエルと国交を持つ諸国も、大使館や領事館はエルサレムでなくテルアビブに置いてきた。ただし、2017年になってアメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領はエルサレムをイスラエルの首都であると明言し、さらにアメリカ大使館をテルアビブからエルサレムに移転する方針を明らかにした。.

エルサレムと完史 · エルサレムと第1回十字軍 · 続きを見る »

ケルボガ

ルボガ(カルブーカ、Kerbogha、アラビア語:كربغا, トルコ語:Kürboğa)は、11世紀末にモースル(イラク)のアタベク(領主)であった人物。第1回十字軍に対し戦った。.

ケルボガと完史 · ケルボガと第1回十字軍 · 続きを見る »

ザンギー

イマードゥッディーン・ザンギー(أبو المظفر عماد الدين زنكي ابن قسيم الدولة آق سنقر ابن ايلترغان、1087/8年 - 1146年9月14日)は、セルジューク朝傘下のモースルとアレッポの太守(在位:1127年 - 1146年)で、ザンギー朝の創始者。彼の政権はいわゆるアタベク政権のひとつで、父親はセルジューク朝のスルターン、マリク・シャーのテュルク系マムルーク、アーク・スンクルであった。十字軍と組織的・継続的に戦ったムスリム最初の武将で、1144年に十字軍国家群からエデッサ伯領を奪い、第二回十字軍を呼び寄せることになった。.

ザンギーと完史 · ザンギーと第1回十字軍 · 続きを見る »

シチリア

チリア島(Sicilia, シチリア語: Sicìlia)は、イタリア半島の西南の地中海に位置するイタリア領の島。地中海最大の島である。 周辺の島を含めてシチリア自治州を構成している。この州はイタリアに5つある特別自治州のひとつである。州都はパレルモ。.

シチリアと完史 · シチリアと第1回十字軍 · 続きを見る »

セルジューク朝

ルジューク朝 (سلجوقیان, 現代トルコ語: Büyük Selçuklu Devleti) は、11世紀から12世紀にかけて現在のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に存在したイスラム王朝。大セルジューク朝は1038年から1157年まで続き、最後の地方政権のルーム・セルジューク朝は1308年まで続いた。.

セルジューク朝と完史 · セルジューク朝と第1回十字軍 · 続きを見る »

サラーフッディーン

ラディン(サラーフ・アッ=ディーン、الملك الناصر أبو المظفّر صلاح الدين يوسف بن أيّوب 、クルド語:Selaheddînê Eyûbî、1137年または1138年 - 1193年3月4日)は、エジプト、アイユーブ朝の始祖。現イラク北部のティクリート出身で、アルメニアのクルド一族の出自である。 本名をユースフ(・ブン・アイユーブ)(アイユーブの息子ユースフの意。ユースフはヨセフの、アイユーブはヨブのアラビア語形。)。サラーフッディーン とは「宗教/信仰()の救い()」を意味するラカブである。同時代の十字軍側のラテン語資料などでは Salahadinus(サラハディヌス)または Saladinus(サラディヌス)などと称し、これを受けて欧米では慣習的に Saladin(サラディン)と呼ばれる。.

サラーフッディーンと完史 · サラーフッディーンと第1回十字軍 · 続きを見る »

聖槍

リストの脇腹を槍で刺すロンギヌス。15世紀のフレスコ画 聖槍(せいそう、、Sainte Lance、Heilige Lanze、Holy Lance)は、磔刑に処せられた十字架上のイエス・キリストの死を確認するため、わき腹を刺したとされる槍である。 イエスの血に触れたものとして尊重されている聖遺物のひとつ。新約聖書の「ヨハネによる福音書」に記述されている(19章34節)。ヨハネ伝の作者は、仮現説論者に対し、この箇所で、イエスが一度死んだことを強調しているとも考えられる。またキリスト受難の象徴でもある。槍を刺したローマ兵の名をとって、「ロンギヌスの槍」(伊:Lancia di Longinus, 仏:lance de Longin, 独:Longinuslanze, 英:Lance of Longinus)とも呼ばれる。 聖遺物崇敬が高まった時代にいくつかの「聖槍」が発見され、現在も複数が保存されている。.

完史と聖槍 · 第1回十字軍と聖槍 · 続きを見る »

東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

完史と東ローマ帝国 · 東ローマ帝国と第1回十字軍 · 続きを見る »

1071年

記載なし。

1071年と完史 · 1071年と第1回十字軍 · 続きを見る »

上記のリストは以下の質問に答えます

完史と第1回十字軍の間の比較

第1回十字軍が194を有している完史は、47の関係を有しています。 彼らは一般的な17で持っているように、ジャカード指数は7.05%です = 17 / (47 + 194)。

参考文献

この記事では、完史と第1回十字軍との関係を示しています。情報が抽出された各記事にアクセスするには、次のURLをご覧ください:

ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »