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太初 (漢)

索引 太初 (漢)

太初(たいしょ)は、中国、前漢の武帝の治世に使われた元号。紀元前104年 - 紀元前101年。元年夏5月に太初暦への改暦が行われ、元封7年を太初元年とした。太初暦では、それまでの顓頊暦の10月歳首を正月歳首に改めたので、太初元年は前年の10月から12月までの15月間存在することになった。またそれに干支(十干十二支)をあてはめた。.

25 関係: 史記大宛天漢 (漢)太初太初暦己卯中国干支庚辰フェルガナセンギョク暦元号元号一覧 (中国)元封 (漢)前漢紀元前101年紀元前102年紀元前103年紀元前104年西暦李広利武帝 (漢)汗血馬漢書戊寅

史記

『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。正史の第一に数えられる。二十四史のひとつ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までである。このような記述の仕方は、中国の歴史書、わけても正史記述の雛形となっている。 二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価を得ているものであり、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。 日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。.

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大宛

大宛(呉音:だいおん、漢音:たいえん、)は、紀元前2世紀頃より中央アジアのフェルガナ地方に存在したアーリア系民族の国家。大宛(だいえん)とは固有名詞を漢字に転写したものではなく、広大なオアシスという意味らしい。しばらく中国史書では大宛という名を使用したが、『魏書』以降はフェルガナの転写と思われる洛那国、破洛那国、鏺汗国、拔汗那国、㤄捍国「㤄」の字は「忄+巿(ふつ)」。などが使用された。 紀元前1世紀の西域諸国。.

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天漢 (漢)

天漢(てんかん)は、中国、前漢代の元号(紀元前100年-紀元前97年)。武帝の第8元。.

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太初

太初(たいしょ)は、中国の年号。.

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太初暦

太初暦(たいしょれき)は中国暦の一つで、漢の武帝、太初元年(紀元前104年)の改暦によって採用された太陰太陽暦の暦法。治暦者の鄧平や方士の落下閎らによって編暦され、秦代から使われていた顓頊暦を改めた。太初暦は三統暦の補修を経ながら、後漢の章帝元和二年(85年)の改暦に至るまで190年間、施行された。 19年7閏月の章法を採用し、1太陽年を(≒)日とし、1朔望月を(≒)日とする八十一分法を採用している。 太初暦の特徴は、音律と暦を結びつけて理論構築されている点にあり、黄鍾(音程名)の律管(音程を調律する竹管)の容積81寸から、日法である1朔望月の日数の分母81が導き出されている。よって、太初暦を八十一分律暦とも言う。 また顓頊暦が10月を年始としていたのを、太初暦では立春正月を年始とすることに改め、冬至を11月に固定して中気のない月を閏月とする歳中閏月法を採用した。 なお『史記』の著者、司馬遷も初期の改暦議論に参加しており、『史記』暦書・暦術甲子篇に載せられている四分暦は、この時、司馬遷が編纂して採用されなかった暦ではないかと考えられている。.

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己卯

己卯(つちのとう、きぼう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの16番目で、前は戊寅、次は庚辰である。陰陽五行では、十干の己は陰の土、十二支の卯は陰の木で、相剋(木剋土)である。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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干支

干支(かんし、えと、中国語:干支、ピンイン:gānzhī)は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。暦を始めとして、時間、方位などに用いられる。六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。.

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庚辰

庚辰(かのえたつ、こうしん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの17番目で、前は己卯、次は辛巳である。陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の辰は陽の土で、相生(土生金)である。.

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フェルガナ

フェルガナまたはフェルガーナ(Fergana、Фергана、Farg‘ona / Фарғона、Фарғона、فرغانه)は、ウズベキスタン共和国東部の都市。フェルガナ州の州都。人口は214,000人。アラル海に注ぐシルダリア川の上流とカラテギン(フェルガナ)山地に挟まれたフェルガナ盆地の南端に位置する。 タジキスタン・キルギスの国境地帯に位置している。アンディジャンの西75km、タシュケントの東420kmに位置する。.

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センギョク暦

顓頊暦(せんぎょくれき)は中国暦の一つで、秦から前漢の元封6年(紀元前105年)まで使われていた太陰太陽暦の暦法。顓頊は古代の帝王の名。漢に伝わっていたとされる古暦、古六暦の一つ。 秦のいつから施行されたかには諸説あり、戦国時代末期から始皇帝による統一(紀元前221年)の間であると考えられている。前漢王朝でも太初の改暦に至るまで102年間、踏襲して使用された。 19年7閏月の章法を採用し、1太陽年を(=365.25)日、1朔望月を(≒)日とする四分暦であった。 また10月を年始とし、閏月を年末である9月の後(後9月)に置く歳末置閏法をとっていた。ただし、10月は10月と呼び、正月と呼んだりしなかった。正月は立春の月であり、二十四節気の起点とした。また正確には始皇帝の諱である政を避諱して端月と呼んでいた。 従来、顓頊暦には不明な点が多かった。例えば『新唐書』歴志には一行の言として「顓頊暦上元甲寅歳正月甲寅晨初合朔立春」と述べ、甲寅歳の正月(夏正では寅月)甲寅の朔日、寅の刻に太陽と月が合朔する年が暦元(基準年)であるとして紀元前366年が暦元であると述べてこの説が長年信じられてきたが、実際の同年の正月甲寅の日の合朔は巳の刻に発生する計算となり、この説は成立しない。 1972年、山東省臨沂県(りんぎけん)から出土した銀雀山漢簡によって多くのことが解明された。.

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元号

元号(げんごう)とは、日本を含むアジア東部における紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は一年の途中でも行われ、一年未満で改元された元号もある。日本においては年号(ねんごう)とも呼ばれることもある。公称としては、江戸時代まで「年号」が多く使われ、明治時代以降は一世一元の制が定着し、「元号」が法的用語となった。現代では元号法が制度の裏付けとなっている。.

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元号一覧 (中国)

元号一覧(げんごういちらん)は、中国における元号の一覧。なお歴史書の紀年では、年内途中で改元された場合、その年はすべて新しい元号に従っている。しかし、ここではその元号が使用された年までを記載した。また中国の暦は太陰太陽暦であり、12月はユリウス暦に換算すると、翌年の1月・2月になるが、ここでは翌年までは含めていない。名称に諸説ある場合があるが、正史や『資治通鑑』といった歴史書の紀年に使われているものに限らず、歴史学や考古学の考証に基づき当時、実際に使われていたと考えられるものを代表として載せている。.

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元封 (漢)

元封(げんぽう)は、中国、前漢代の元号。武帝の第6元。紀元前110年 - 紀元前105年。泰山で封禅の儀を行ったことを理由に改元した。.

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前漢

前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖.

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紀元前101年

紀元前101年は、ローマ暦の年である。当時は、「マリウスとアキリウスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元653年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前101年と表記されるのが一般的となった。.

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紀元前102年

紀元前102年(きげんぜん102ねん)は、ローマ暦の年である。.

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紀元前103年

紀元前103年は、ローマ暦の年である。.

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紀元前104年

紀元前104年は、ローマ暦の年である。.

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西暦

西暦(せいれき)とは、キリスト教でキリスト(救世主)と見なされるイエス・キリストが生まれたとされる年の翌年を元年(紀元)とした紀年法である。ラテン文字表記はヨーロッパ各国で異なるが、日本語や英語圏では、ラテン語の「A.D.」又は「AD」が使われる。A.D.またADとは「アンノドミニ (Anno Domini)」の略であり、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味。西暦紀元、キリスト紀元ともいう。 今年は2018年 (JST) である。西ヨーロッパのキリスト教(カトリック教会、および後のプロテスタント)地域から徐々に普及し(後述)、西欧諸国が世界各地で進めた植民活動などによって伝わった結果、現在において世界で最も広く使われている紀年法となっている。 しかし、19世紀以降においては、非キリスト教徒との関係から、ADをCommon Era(略:CE、「共通紀元」の意)へ、同時に紀元前(BC)をBefore Common Era(BCE)に切り替える動きが広まっている。.

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李広利

李 広利(り こうり、? - 紀元前88年)は、中国前漢代の軍人。中山郡(現在の河北省定州市)の人、妹に武帝の寵妃李夫人と兄に武帝の寵臣の李延年がいる。なお、李広の名と似ているが別人である。.

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武帝 (漢)

武帝(ぶてい)は、前漢の第7代皇帝。ら3人の同母姉がいる。彼の治世下で、前漢は最盛期を迎える。.

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汗血馬

汗血馬(かんけつば)は、中国の歴史上で名馬といわれた馬の種類。「血のような汗を流して走る馬」という意味で「汗血馬」と呼ばれる。.

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漢書

天一閣に保管されている、明の時代の版である漢書 『漢書』(かんじょ)は、中国後漢の章帝の時に班固、班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。「本紀」12巻、「列伝」70巻、「表」8巻、「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。後漢書との対比から前漢書ともいう。 『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)の形式をとった歴史書である。『漢書』の形式は、後の正史編纂の規範となった。 『史記』と並び、二十四史の中の双璧と称えられ、故に元号の出典に多く使われた。史記と重なる時期の記述が多いので、比較される事が多い。特徴として、あくまで歴史の記録に重点が多いので、史記に比べて物語の記述としては面白みに欠けるが、詔や上奏文をそのまま引用しているため、正確さでは史記に勝る。また思想的に、儒教的な観点により統一されている。.

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戊寅

戊寅(つちのえとら、ぼいん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの15番目で、前は丁丑、次は己卯である。陰陽五行では、十干の戊は陽の土、十二支の寅は陽の木で、相剋(木剋土)である。.

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