448 関係: 垂仁天皇、ため池、南あわじ市、南河内郡、反正天皇、古墳時代、可愛山陵、合葬、吉備津彦命、吉野、吉野山、吉野町、吉野郡、坂出市、堺市、堺区、堀河天皇、墓、壬申の乱、大原野西嶺上陵、大塚 (文京区)、大宝律令、大仙陵古墳、大化、大和国、大内裏、大王 (ヤマト王権)、大覚寺、大阪府、大正、大正天皇、大津市、天子、天平、天皇、天皇の一覧、天理市、天龍寺、天武天皇、天智天皇、太子町 (大阪府)、太子西山古墳、太皇太后、太田茶臼山古墳、外池昇、外戚、奈良市、奈良県、奈良時代、如意輪寺、...、孝安天皇、孝徳天皇、孝元天皇、孝謙天皇、孝霊天皇、孝明天皇、孝昭天皇、学者、宝来山古墳、宣化天皇、宮司、宮崎県、宮中三殿、宮内庁治定陵墓の一覧、宮内庁書陵部、宮内省、宇多天皇、宇都宮藩、安寧天皇、安康天皇、安徳天皇、安閑天皇、寺社、寺院、富山県、尊王論、履中天皇、山城国、山口県、山形県、山科区、山田上ノ山古墳、山田高塚古墳、岐阜県、岡山県、岡ミサンザイ古墳、島根県、島泉丸山古墳、崩御、崇峻天皇、崇徳天皇、崇光天皇、崇神天皇、嶋田神社、巫女、上円下方墳、上石津ミサンザイ古墳、中尾山古墳、中御門天皇、中国、丸山古墳 (橿原市)、常照皇寺、丹波国、市庭古墳、市ノ山古墳、万治、三重県、三条天皇、下関市、一条天皇、平城天皇、平城京、平安京、平安時代、平成、年貢、幕末、享保、享和、京都、京都市、京都府、二条天皇、広島県、井沢元彦、亀山天皇、亀山市、今城塚古墳、今上天皇、仁孝天皇、仁徳天皇、仁賢天皇、仁明天皇、仏教、以仁王、仲哀天皇、仲恭天皇、延宝、延喜式、廃帝、式年祭、伏見天皇、伏見区、伏見桃山陵、弘文天皇、住職、佐紀石塚山古墳、佐紀高塚古墳、佐賀県、彦五瀬命、御廟山古墳、御廟野古墳、御所市、徳島県、徳川光圀、便所、後堀河天皇、後奈良天皇、後宇多天皇、後小松天皇、後三条天皇、後一条天皇、後二条天皇、後亀山天皇、後伏見天皇、後土御門天皇、後嵯峨天皇、後冷泉天皇、後円融天皇、後光厳天皇、後光明天皇、後白河天皇、後花園天皇、後西天皇、後鳥羽天皇、後醍醐天皇、後陽成天皇、後柏原天皇、後村上天皇、後桜町天皇、後桃園天皇、後水尾天皇、後深草天皇、後朱雀天皇、律令、律令制、応神天皇、念仏寺山古墳、土御門天皇、土葬、地方公共団体、北葛城郡、ヤマトタケル、ヤマト王権、僧、ボケ山古墳、ニニギ、ホオリ、嘉禎、嵯峨天皇、命日、和歌山県、和泉国、ウガヤフキアエズ、冷泉天皇、円墳、円融天皇、允恭天皇、入水、八幡神、八王子市、八角墳、六条天皇、元禄、元正天皇、元明天皇、兵庫県、光厳天皇、光孝天皇、光仁天皇、光格天皇、光明天皇、前方後円墳、剣璽、勅使、国立公文書館、四条天皇、皇后、皇后美智子、皇太后、皇太子、皇室令、皇室喪儀令、皇室典範、皇室陵墓令、石川県、石仏、王寺町、火葬、灌漑、砕屑物、神奈川県、神代三陵、神社、神社建築、神祇省、神輿、神武天皇、祭、祭神、福岡県、称光天皇、稚瑞照彦尊、竈山神社、細井広沢、綏靖天皇、継体天皇、羽曳野市、爪、用明天皇、田出井山古墳、熊本県、畿内、牽牛子塚古墳、盗掘、発掘調査、白髪山古墳、白鳥陵、白河天皇、百舌鳥八幡宮、花山天皇、花園天皇、遺詔、聖武天皇、静岡県、頭髪、順徳天皇、行燈山古墳、顕宗天皇、風岡典之、飯豊青皇女、飛鳥、養老律令、西太后、西区 (堺市)、親王、観心寺、香川県、香芝市、誉田御廟山古墳、誉田八幡宮、諡、諸陵寮、諸陵式、高取町、高屋城、高屋築山古墳、高市郡、高倉天皇、高知県、護国寺、谷森善臣、豊島岡墓地、貴族、鳥取県、鳥屋ミサンザイ古墳、鳥羽天皇、賽銭、鹿児島県、龍安寺、近衛天皇、霊元天皇、茨木市、舒明天皇、赤坂天王山古墳、赤間神宮、薄葬令、開化天皇、門跡、藤原定家、藤原氏、藤井寺市、藩、葬儀、蒲生君平、醍醐天皇、醍醐寺、野口王墓、重祚、長岡京、長岡京市、長崎県、長野県、長慶天皇、雄略天皇、院政、陽成天皇、陵墓参考地、附則、KADOKAWA、推古天皇、東山天皇、東山区、東京都、村上天皇、栃木県、桜井市、桜町天皇、桃園天皇、桓武天皇、梅山古墳、植山古墳、橿原市、欽明天皇、正平 (日本)、正親町天皇、武烈天皇、武蔵陵墓地、歯、歴史読本、殯、段ノ塚古墳、水戸藩、民間信仰、江戸幕府、江戸時代、河内大塚山古墳、河内国、河内長野市、治部省、法住寺 (京都市)、法律、泉涌寺、淡路島、淳仁天皇、淳和天皇、渡御、清寧天皇、清和天皇、渋谷向山古墳、湯立神楽、滋賀県、持統天皇、本居宣長、朱雀天皇、成務天皇、戦国大名、明仁、明正天皇、明治、明治天皇、明月記、明日香村、春日向山古墳、昭和、昭和天皇、流罪、新田神社 (薩摩川内市)、新潟県、方墳、文久、文京区、文徳天皇、文暦、文武天皇、斉明天皇、日本書紀、早良親王、旗本、摂津国、改葬、愛媛県、愛知県、懿徳天皇、敏達天皇、散骨、所領、思文閣出版、景行天皇、11月14日、1235年、1238年、1350年、1697年、1699年、1772年、1801年、1862年、1870年、1912年、1925年、1936年、1955年、1986年、1995年、1997年、2004年、2005年、2007年、2010年、2011年、2012年、2013年、47NEWS、4月26日、620年、7世紀、8世紀。 インデックスを展開 (398 もっと) »
垂仁天皇
垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月14日)は第11代天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月14日)。 伊勢神宮の建立や大規模な灌漑事業を行った。相撲、埴輪など著名な神事の起源もこの天皇の治世にあるとされる。活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)・活目尊等と称され、『古事記』には「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」、『常陸国風土記』には「伊久米天皇」、『令集解』所引「古記」に「生目天皇」、『上宮記』逸文に「伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王」と見える。『日本書紀』、『古事記』に見える事績は総じて起源譚の性格が強いとして、その史実性を疑問視する説もあったが、近年においてはその実在を認めることが多い。.
ため池
ため池(ためいけ、溜池、溜め池)とは主に農業(灌漑)用水を確保するために水を貯え、取水設備を備えた人工の池のことである。その目的のために新設したり、天然の池沼を改築した池を指す。.
南あわじ市
南あわじ市(みなみあわじし)は、兵庫県最南端に位置する市。.
南河内郡
大阪府南河内郡の位置(1.太子町 2.河南町 3.千早赤阪村 薄黄:後に他郡に編入された区域) 南河内郡(みなみかわちぐん)は、大阪府の郡。 下記の2町1村を含む。.
反正天皇
反正天皇(はんぜいてんのう、仁徳天皇24年? - 反正天皇5年1月23日)は、第18代天皇(在位:反正天皇元年1月2日 - 同5年1月23日)。多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)・水歯別命(古事記)。 『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」のうち珍(彌)に比定する説が有力視される。.
古墳時代
古墳時代(こふんじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つである。古墳、特に前方後円墳が盛んに造られた時代を意味する。縄文時代、弥生時代に次ぐ考古学上の時期区分である。ほぼ同時代を表している「大和時代」は日本書紀や古事記による文献上の時代区分である。現在は研究が進んだこともあって、この時代の呼び方は「古墳時代」がより一般的となっている。 古墳時代の時期区分は、古墳の成り立ちとその衰滅をいかに捉えるかによって、僅かな差異が生じる。例えば、前方後円墳が造営され始めた年代に関しても、議論が大きく揺れ動いてきた。現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方南部から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。 前方後円墳が造られなくなった7世紀に入っても、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられるが、この時期を古墳時代終末期と呼ぶこともある。 西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できないため、この間は「空白の4世紀」とも呼ばれている。日本国家の成立を考察すれば、倭国のヤマト王権が拡大し、王権が強化統一されていった時代と考えられている。古墳時代終末期に倭国から日本国へ国名を変更した。.
可愛山陵
可愛山陵 可愛山陵(えのみささぎ)はニニギ(天津日高彦火瓊瓊杵尊)の陵。高屋山上陵、吾平山上陵とともに神代三山陵の一つ。明治政府により1874年(明治7年)、新田神社(現・鹿児島県薩摩川内市宮内町)境内の神亀山を「可愛山陵」と治定した。 可愛山陵である新田神社では、神亀山の5分の4が御陵の領域となっている。.
合葬
『合葬』(がっそう)は、杉浦日向子による日本の漫画、およびそれを原作とした映画作品(後述)。 漫画作品は、雑誌『ガロ』で連載され、1984年に第13回日本漫画家協会賞・優秀賞を受賞。.
吉備津彦命
吉備津彦命(きびつひこのみこと)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。 第7代孝霊天皇皇子である。四道将軍の1人で、西道に派遣されたという。.
吉野
吉野(よしの)は、大和国南部(現在の奈良県南部)一帯を指す地名である。特に吉野山から大峰山にかけての山岳地帯をいう。狩りに適した良い野という意味である。吉野は口吉野と奥吉野に分かれる。奥吉野は山々が連なる山岳地帯で、古くは大峰とよばれ、厳密には吉野に含まれなかった。大峰の山々は熊野まで連なる。大峰への道は修験者によって、熊野から開かれた。 記紀には応神や雄略の吉野での狩りの伝承が載せられている。.
吉野山
吉野山(よしのやま)は奈良県の中央部・吉野郡吉野町にある吉野川(紀の川)南岸から大峰山脈へと南北に続く約8キロメートルに及ぶ尾根続きの山稜の総称、または金峯山寺を中心とした社寺が点在する地域の広域地名である。 古くから花の名所として知られており、その中でも特に桜は有名で、かつては豊臣秀吉が花見に来た事がある(後述)。現代でも桜が咲く季節になると花見の観光客で賑わう。地域ごとに下千本(しもせんぼん)、中千本(なかせんぼん)、上千本(かみせんぼん)、奥千本(おくせんぼん)と呼ばれている。 1924年(大正13年)12月には国の名勝・史跡に指定され、1936年(昭和11年)2月 には吉野熊野国立公園に指定された。また2004年(平成16年)7月には吉野山・高野山から熊野にかけての霊場と参詣道が『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。1990年(平成2年)には日本さくら名所100選に選定された。.
吉野町
吉野山の紅葉 吉野町(よしのちょう)は、奈良県中部に位置する町。桜で有名な吉野山があり、近隣の吉野山地(紀伊山地)から切り出される吉野杉・檜の集散地でもある。2012年に「日本で最も美しい村」連合に加盟。.
吉野郡
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坂出市
山から坂出市内を望む 北備讃瀬戸大橋・南備讃瀬戸大橋 坂出市(さかいでし)は、香川県北部のほぼ中央に位置する市。 瀬戸内海に面し、瀬戸大橋の四国側玄関口に当たる。沿岸部にはかつて塩田も広がっていたが、塩業整理により廃止された。塩田の廃止と前後して、番の州工業地帯、林田工業地帯などが造成され沿岸部には工業地帯が広がる。.
堺市
堺市(さかいし)は大阪府泉北地域に位置する日本の政令指定都市。 大阪府による地域区分では泉北地域とされるが、市制施行時の堺市域や南河内郡の旧郡域など歴史的に泉北郡ではなかった地域が多く含まれており、他の泉北地域3市1町とは区別されることもある。大阪府内で人口・面積ともに第2の都市であり、人口は2015年4月時点で山梨県・佐賀県・福井県・徳島県・高知県・島根県・鳥取県を上回る。一方、居住人口に比べて昼間人口の割合が低く、大阪市の衛星都市としての特徴も併せ持っている。.
堺区
堺区(さかいく)は、堺市を構成する7行政区のうちのひとつ。中世以来の環濠都市であった地域を含み、市役所、裁判所などの官庁やシティホテル、商店などが集積している堺市の中心部である。.
堀河天皇
堀河天皇内裏跡 堀河天皇(ほりかわてんのう、承暦3年7月9日(1079年8月8日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))は平安時代後期の第73代天皇(在位:応徳3年11月26日(1087年1月3日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))。諱は善仁(たるひと)。 白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子。准母に同母姉媞子内親王(郁芳門院)。.
墓
墓(はか)は遺体または遺骨を収めて故人を弔う構造物 亘徳、2017年2月6日閲覧。墳墓(ふんぼ)、墳塋(ふんえい)ともいう。一般に墓石・墓碑などの目印を置き、これを墓標(ぼひょう)という。また、この墓石・墓碑を指して墓ということもある。.
壬申の乱
壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日)に起こった古代日本最大の内乱である。 天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。 名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる。.
大原野西嶺上陵
大原野西嶺上陵(おおはらののにしのみねのえのみささぎ)は、京都府京都市西京区の小塩山山頂にある淳和天皇の陵。.
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大塚 (文京区)
大塚(おおつか)は、東京都文京区の町名。現行行政地名は大塚一丁目から大塚六丁目。郵便番号は112-0012。.
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大宝律令
大宝律令(たいほうりつりょう)は、701年(大宝1年)に制定された日本の律令である。「律」6巻・「令」11巻の全17巻。唐の律令を参考にしたと考えられている。大宝律令は、日本史上初めて律と令が揃って成立した本格的な律令である。.
大仙陵古墳
大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)または大山古墳(だいせんこふん)は、大阪府堺市堺区大仙町にある古墳。形状は前方後円墳。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」として第16代仁徳天皇の陵に治定されている。名称は「仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)」や「仁徳陵古墳」とも。 全国で第1位の規模の巨大古墳であり、同古墳を擁する堺市は、クフ王ピラミッド及び秦の始皇帝墓陵に並ぶ「世界三大墳墓」と称している。.
大化
大化(たいか)は、日本で最初の元号。西暦でいう645年から650年までの期間を指す。.
大和国
大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.
大内裏
平安京大内裏の位置 平安京大内裏(平安宮) 大内裏(だいだいり)とは、平安京の宮城である。別名平安宮。.
大王 (ヤマト王権)
大王(おおきみ/だいおう)とは、古墳時代のヤマト王権(倭国)の首長を指す歴史用語。「おおきみ」との和訓については、主人や貴人を表す“キミ”に偉大さや特別に尊いことを表す接頭語“オオ/オホ”を当てて“オオキミ/オホキミ”とするものであるが、他方で、これは“キミ”の尊称としての和語に過ぎず、「大王」(ダイオウ)は中国からの王号賜与を根源とする漢語の称号とするものもある。「大王」と記されている用例は多く、ヤマト王権の天皇や皇族の敬称と解されている。5世紀後半までに大王、治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)の称号が成立し、この称号が飛鳥浄御原令の編纂が始まった680年代まで日本国内で用いられた。なお、初期においては統一王権の王とするかどうかで学説が分かれる。.
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大覚寺
大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇を流祖と仰ぐ華道嵯峨御流の総司所(家元)である。 時代劇の撮影所が多い太秦の近くということもあり、寺の境内(大沢池や明智門など)は(特に時代劇の)映画やテレビなどの撮影によく使われている (#舞台となった作品)。.
大阪府
大阪府(おおさかふ)は、近畿地方に属する日本の都道府県の一つ。府庁所在地は大阪市。.
大正
大正(たいしょう)は日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。.
大正天皇
大正天皇(たいしょうてんのう、1879年(明治12年)8月31日 - 1926年(大正15年)12月25日)は、日本の第123代天皇。諱は嘉仁(よしひと)。幼少時の御称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)。 明治以降で初の一夫一妻制を採った天皇。.
大津市
大津市(おおつし)は、滋賀県の南西端に位置する市で、同県の県庁所在地である。中核市に指定されている。.
天子
天子(てんし)とは、中国や日本で用いられた君主の称号。天命を受けて天下を治める者の意。中国の周王や漢代以降の皇帝、日本の大王・天皇の別号として用いられた。 王は天(天帝)の子であり天命により天下を治めるとする古代中国の思想を起源とする。周代、周公旦によって「天帝がその子として王を認め王位は家系によって継承されていく。王家が徳を失えば新たな家系が天命により定まる」という「天人相関説」が唱えられ、天と君主の関係を表す語として「天子」が用いられるようになったという。秦の始皇帝により、天下を治める者の呼称が神格化された皇帝へと変わると、天子の称は用いられなくなったが、漢代にいたり儒教精神の復活をみると、再び天子の称が用いられるようになり、それは皇帝の別名となった。 皇帝の支配は、空間(領土)の支配と時間(暦と年号)に及び、皇帝以外の者の支配は許されなかった。前漢の武帝は、太陰暦と太陽暦を合体した太初暦を制定。皇帝の下した暦を用いるのが、皇帝の主権を認めた証拠となり、これを「正朔を奉ずる」と言った。皇帝は天帝に対しては天の子=天子として天を祭る儀礼を司り、それは皇帝だけに許された神聖儀礼として清朝に至るまで連綿と引き継がれた。密教における十二天の日天子・月天子としても用いられそれらが支配する太陽と月の世界のことを指す。 中国の影響を多く受けた日本でも、天子は大王・天皇の別名として用いられ、聖徳太子は「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」と記した国書を隋の煬帝に送っている。律令においては天皇が祭祀において用いる称号として規定されているが、天皇を指す語の1つとして広く使われるようになる。.
天平
天平(てんぴょう)は、日本の元号の一つ。神亀の後、天平感宝の前。729年から749年までの期間を指す。この時代の天皇は聖武天皇。 奈良時代の最盛期にあたるため、東大寺、唐招提寺などに残るその時代の文化を天平文化と呼ぶことが多い。.
天皇
天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.
天皇の一覧
天皇の一覧(てんのうのいちらん)は、日本の歴代天皇およびその他の天皇の一覧である。.
天理市
天理市(てんりし)は、奈良県北中部に位置する市。中心部に天理教関連の施設が集中していることなどから、宗教都市として知られている。.
天龍寺
亀山天皇陵 後嵯峨天皇陵 天龍寺(てんりゅうじ)は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。寺号は正しくは霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。.
天武天皇
天皇系図38~50代 天武天皇(てんむてんのう、? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。.
天智天皇
天智天皇(てんじてんのう/てんぢてんのう、推古天皇34年(626年) - 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は、第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日(668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日))。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。.
太子町 (大阪府)
太子町(たいしちょう)は、大阪府南河内地域に位置する町。.
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太子西山古墳
太子西山古墳(たいしにしやまこふん、奥城古墳)は、大阪府南河内郡太子町太子にある古墳。形状は前方後円墳。磯長谷古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)」および「磯長原陵(しながのはらのみささぎ)」として第30代敏達天皇・石姫皇女(欽明天皇皇后)の合葬陵に治定されている。.
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太皇太后
太皇太后(たいこうたいごう、Grand Empress Dowager)は、先々代の帝王の正妻(皇后)もしくは、当代の帝王の祖母に対して用いる尊称である。.
太田茶臼山古墳
太田茶臼山古墳(おおだちゃうすやまこふん)は、大阪府茨木市太田にある古墳。形状は前方後円墳。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ、三島藍野陵)」として第26代継体天皇の陵に治定されている。 全国では第21位の規模の古墳で、5世紀中頃(古墳時代中期半ば)の築造と推定される。.
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外池昇
外池 昇(といけ のぼる、1957年7月24日 - )は、日本の歴史学者。専門は日本近世・近代史特に天皇陵の研究。成城大学大学院文学研究科教授。.
外戚
外戚(がいせき)とは、皇帝、王の母親または妃の一族のことである。.
奈良市
奈良市(ならし)は、日本の奈良県の北部に位置する市で、同県の県庁所在地である。中核市に指定されている。.
奈良県
奈良県(ならけん)は、日本の都道府県の一つ。本州中西部、紀伊半島内陸部、近畿地方の中南部に位置する県である。 令制国の大和国の領域を占め、県庁所在地は奈良市。北西部の盆地部を除き、険しい山々がそびえている。都道府県面積は全国で8番目に狭く内陸8県では最も狭いが、最小の香川県の約2倍でもある。.
奈良時代
奈良時代(ならじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つで、平城京(奈良)に都が置かれた時代である。平城時代(へいじょうじだい)ともいう。日本仏教による鎮護国家を目指して、天平文化が花開いた時代である。.
如意輪寺
如意輪寺(にょいりんじ)は、奈良県吉野郡吉野町にある浄土宗の寺である。山号は塔尾山(とうのおさん)。本尊は如意輪観音。本堂の背後には、吉野の地で崩御した後醍醐天皇の陵・塔尾陵(とうのおのみささぎ)、世泰親王墓がある。.
孝安天皇
孝安天皇(こうあんてんのう、孝昭天皇49年 - 孝安天皇102年1月9日)は、日本の第6代天皇(在位:孝安天皇元年1月7日 - 孝安天皇102年1月9日)。 和風諡号は、『日本書紀』では「日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)」、『古事記』では「大倭帯日子国押人命」。 『日本書紀』・『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。.
孝徳天皇
孝徳天皇(こうとくてんのう、推古天皇4年(596年) - 白雉5年10月10日(654年11月24日))は、日本の第36代天皇(在位:孝徳天皇元年6月14日(645年7月12日) - 白雉5年10月10日(654年11月24日))。諱は軽(かる)。和風諡号は天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)。その在位中には難波宮に宮廷があったことから、後世その在位時期をその政策(後世でいうところの大化の改新)などを含めて難波朝(なにわちょう)という別称で称されることがあった。.
孝元天皇
孝元天皇(こうげんてんのう、孝霊天皇18年 - 孝元天皇57年9月2日)は、日本の第8代天皇(在位:孝元天皇元年1月14日 - 孝元天皇57年9月2日)。 和風諡号は、『日本書紀』では「大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)」、『古事記』では「大倭根子日子国玖琉命」。 『日本書紀』・『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。.
孝謙天皇
孝謙天皇(こうけんてんのう)、重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう;稱德天皇、養老2年(718年) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日))は、日本の第46代・第48代天皇。 在位期間は、孝謙天皇として天平勝宝元年7月2日(749年8月19日) - 天平宝字2年8月1日(758年9月7日)、称徳天皇として天平宝字8年10月9日(764年11月6日) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日)。 父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」とも称された。 史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 - 1643年)に至るまで、850余年、女帝が立てられることはなかった。.
孝霊天皇
孝霊天皇(こうれいてんのう、正字体:孝靈天皇、孝安天皇51年 - 孝霊天皇76年2月8日)は、日本の第7代天皇(在位:孝霊天皇元年1月12日 - 孝霊天皇76年2月8日)。 和風諡号は、『日本書紀』では「大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)」、『古事記』では「大倭根子日子賦斗邇命」。 『日本書紀』・『古事記』ともほぼ系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。.
孝明天皇
孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日(1831年7月22日) - 慶応2年12月25日(1867年1月30日))は、第121代天皇(在位:弘化3年2月13日(1846年3月10日)‐ 慶応2年12月25日(1867年1月30日))。諱は統仁(おさひと)。仁孝天皇の皇子、明治天皇の父。.
孝昭天皇
孝昭天皇(こうしょうてんのう、懿徳天皇5年 - 孝昭天皇83年8月5日)は、日本の第5代天皇(在位:孝昭天皇元年1月9日 - 孝昭天皇83年8月5日)。 和風諡号は、『日本書紀』では「観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)」、『古事記』では「御真津日子訶恵志泥命」。 『日本書紀』・『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。.
学者
学者(がくしゃ)とは、何らかの学問の研究や教授を専門職とする人、およびその職業人の総称である。研究者(けんきゅうしゃ)とも言う。学問の専門家。.
宝来山古墳
宝来山古墳(ほうらいさんこふん/ほうらいやまこふん、蓬莱山古墳)は、奈良県奈良市尼ヶ辻町(尼辻町)にある古墳。形状は前方後円墳。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「菅原伏見東陵(すがはらのふしみのひがしのみささぎ)」として第11代垂仁天皇の陵に治定されている。 全国では第20位の規模の古墳で、4世紀後半頃(古墳時代前期)の築造と推定される。.
宣化天皇
宣化天皇(せんかてんのう、雄略天皇11年?(467年?) - 宣化天皇4年2月10日(539年3月15日?))は、第28代天皇(在位:宣化天皇元年12月(536年1月?) - 宣化天皇4年2月10日(539年3月15日?))。.
宮司
宮司(ぐうじ、みやづかさ)とは神職や巫女をまとめる神社の長(おさ)である神職の職階(職名・職称)である。.
宮崎県
宮崎県(みやざきけん)は、九州地方南東部に位置する日本の県である。県庁所在地は宮崎市。 県木である「フェニックス」に代表される南国情緒豊かな気候から、1960年代には日南地区を中心とした新婚旅行のメッカだった。現在も春季のプロ野球などのキャンプ地として知られる。.
宮中三殿
宮中三殿(きゅうちゅうさんでん)は、皇居にある、賢所(かしこどころ、けんしょ)、皇霊殿(こうれいでん)、神殿(しんでん)の総称。吹上御苑の東南にある。.
宮内庁治定陵墓の一覧
宮内庁治定陵墓の一覧(くないちょうじじょうりょうぼのいちらん)では、宮内庁が治定する陵墓の一覧を示す。.
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宮内庁書陵部
書陵部(しょりょうぶ)は、皇室関係の文書や資料などの管理と編修、また陵墓の管理を行う、宮内庁の内部部局の一つ。図書課、編修課、陵墓課と、5つの区域にわけて陵墓を管理している陵墓監区事務所に大きく分かれる。 元は明治17年(1884年)に設置された図書寮と、明治19年(1886年)に設置された諸陵寮の職務を引き継ぎ、現在の書陵部が誕生したのは昭和24年(1949年)である。図書課、編修課、陵墓課の三課体制で、資料の公開や皇室制度や文化の研究をし、その成果を刊行物や機関誌での刊行、三課交代で行う展示会で一般に広める活動を行っている。.
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宮内省
宮内省(くないしょう)は、1947年(昭和22年)まで日本に存在した官庁名。古代のものと近代のものがあり、近代のものが1949年(昭和24年)以降の宮内庁の前身となる。.
宇多天皇
宇多天皇(うだてんのう、貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月19日(931年9月3日))は、日本の第59代天皇(在位:仁和3年8月26日(887年9月17日) - 寛平9年7月3日(897年8月4日))。 諱は定省(さだみ)。後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にもあたる(詳細は皇子女の欄参照)。.
宇都宮藩
宇都宮藩(うつのみやはん)は、下野国宇都宮周辺を支配した藩である。藩庁は宇都宮城に置かれた。.
安寧天皇
安寧天皇(あんねいてんのう、綏靖天皇5年 - 安寧天皇38年12月6日)は、日本の第3代天皇(在位:綏靖天皇33年7月15日 - 安寧天皇38年12月6日)。 和風諡号は、『日本書紀』では「磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)」、『古事記』では「師木津日子玉手見命」。 神武天皇(初代天皇)の孫。『日本書紀』・『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。.
安康天皇
安康天皇(あんこうてんのう、履中天皇2年? - 安康天皇3年8月9日)は、第20代天皇(在位:允恭天皇42年12月14日 - 安康天皇3年8月9日)。穴穂天皇・穴穂皇子(あなほのみこ)。中国の『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王興に比定されている。.
安徳天皇
安徳天皇(あんとくてんのう、安德天皇、治承2年11月12日(1178年12月22日) - 寿永4年3月24日(1185年4月25日))は、第81代天皇(在位:治承4年4月22日(1180年5月18日) - 寿永4年3月24日(1185年4月25日))。 諱は言仁(ときひと)歴代天皇総覧200-202頁『第八十一代 安徳天皇 一一七八~一一八五(在位一一八〇~一一八五)』。 高倉天皇の第一皇子名前で読む天皇歴史207-208頁『安徳天皇【あんとくてんのう】在位 治承四(一一八〇)-承永四(一一八五)年』。母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)国史大系14巻コマ209(原本402頁)〔安徳―後鳥羽〕『安德。三年。 諱言トキ仁。治承四年二月廿一日受禪。。同二年十二月日立坊。高倉院長子。母中宮徳子。 攝政基通。内大臣平宗盛。 養和一年。七月十四日改元。壽永二年。五月廿七日改元。此時遷都ノ事有ケリ。委在二別帖一。此天皇ハコノ壽永二年七月廿五日ニ、外祖ノ清盛入道殿反逆ノ後。外舅内大臣宗盛。源氏ノ武士東國北陸等攻上リシカバ。城ヲ落テ西國ヘ具シマイラセテ後。終ニ元暦二年三月廿四日ニ。長門國文字ノ關壇ノ浦ニテ。海ニ入テ失サセ給ヒンケリ。七歳。寶劒ハ沈ミテ失ヌ。神璽ハ筥浮テ返リマイリヌ。又内侍所ハ時忠取テ参リニケリ。此不思議ドモ細在二別帖一。』。.
安閑天皇
安閑天皇(あんかんてんのう、雄略天皇10年?(466年?) - 安閑天皇2年12月17日(536年1月25日?))は、第27代天皇(在位:継体天皇25年2月7日(531年3月10日?) - 安閑天皇2年12月17日(536年1月25日?))。.
寺社
寺社(じしゃ)は、日本における寺院と神社の総称である。社寺(しゃじ)あるいは神社仏閣(じんじゃ ぶっかく)とも呼ばれる。 寺社という言葉は江戸時代までの仏主神従の考えによるもので、一方、社寺という言葉は平安時代頃から使われた形跡があるが、主に神社優先の考えに基づいた明治期以降に多く使われた。.
寺院
日本の寺院の地図記号 寺院(じいん、梵、)は、仏像が祀られ、仏教の出家者が起居し、修行を行う施設である。寺(てら)、仏閣(ぶっかく)ともいう。 本来は仏教用語であるが、神道を除く諸宗教の教会・神殿を指す語としても広く用いられている(ごく稀に神社にも用いられることがある)。.
富山県
富山県(とやまけん)は、日本の都道府県の一つ。中部地方の日本海側、北陸地方のほぼ中央に位置する。県庁所在地は富山市。.
尊王論
錦旗。 尊王論(そんのうろん)とは、王者を尊ぶ思想のこと。もとは中国の儒教に由来し、日本にも一定の変容を遂げたうえで持ち込まれた。.
履中天皇
履中天皇(りちゅうてんのう、仁徳天皇24年? - 履中天皇6年3月15日)は、第17代天皇(在位:履中天皇元年2月1日 - 同6年3月15日)。名は大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)、大江之伊邪本和気命。中国の『宋書』に見える「倭の五王」中の倭王讃に比定する説がある(応神天皇もしくは仁徳天皇とする説もあり)。また古事記には「壬申年正月三日」に64歳で崩ずとの記事が見え、これが正しければ、在位期間が427年から432年となり、生年が逆算して369年という事になるが、定かではない。.
山城国
山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.
山口県
山口県(やまぐちけん)は、日本の県の一つ。本州最西端に位置する。中国地方を構成する五県のうちの一つで、九州地方との連接点の地域となっている。県庁所在地は山口市。.
山形県
山形県の地形図 山形県(やまがたけん)は、日本の東北地方南西部の県。日本海に面する。県庁所在地は山形市。.
山科区
山科区(やましなく)は、京都市を構成する11の行政区の一つ。京都市の東側にある山科盆地の北部と、周辺の山地を区の範囲としている。 本項ではかつて同一地域に所在した宇治郡山科町(やましなちょう)、同町の町制前の名称である山科村(やましなむら)についても述べる。.
山田上ノ山古墳
山田上ノ山古墳(やまだうえのやまこふん)は、大阪府南河内郡太子町山田にある古墳。形状は円墳。磯長谷古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)」として第36代孝徳天皇の陵に治定されている。.
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山田高塚古墳
山田高塚古墳(やまだたかつかこふん、高松古墳)は、大阪府南河内郡太子町山田にある古墳。形状は方墳(または長方形墳)。磯長谷古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)」および「竹田皇子墓(たけだのみこのはか)」として第33代推古天皇・竹田皇子(敏達天皇皇子)の合葬陵墓に治定されている。.
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岐阜県
岐阜県(ぎふけん)は、日本の中部地方に位置する県で内陸県の一つ。 日本の人口重心中央に位置し、その地形は変化に富んでいる。県庁所在地は岐阜市。.
岡山県
岡山県(おかやまけん)は、日本の都道府県のひとつ。中国地方南東部に位置し、瀬戸内海に面する県。県庁所在地は岡山市である。.
岡ミサンザイ古墳
岡ミサンザイ古墳(おかみさんざいこふん)は、大阪府藤井寺市藤井寺にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ、惠我長野西陵)」として第14代仲哀天皇の陵に治定されている。 全国では第16位の規模の古墳で、5世紀末葉(古墳時代中期)頃の築造と推定される。第21代雄略天皇、倭王武(倭の五王の1人)の真陵とする説がある。.
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島根県
島根県(しまねけん)は、日本の中国地方の日本海側である山陰地方の西部をなす県。県庁所在地は松江市。離島の隠岐島、竹島なども島根県の領域に含まれる。旧国名は出雲国・石見国・隠岐国であり、現在でも出雲地方・石見地方・隠岐地方の3つの地域に区分されることが多い。全国では鳥取県に次いで2番目に人口が少ない。.
島泉丸山古墳
島泉丸山古墳(しまいずみまるやまこふん)または高鷲丸山古墳(たかわしまるやまこふん)は、大阪府羽曳野市島泉にある古墳。形状は円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により島泉平塚古墳と合わせて「丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)」として第21代雄略天皇の陵に治定されている。 本項では隣接する島泉平塚古墳(高鷲平塚古墳)についても解説する。.
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崩御
崩御(ほうぎょ)は、天皇、皇帝、国王、太皇太后、皇太后、皇后、君主等の死亡を表す敬語。.
崇峻天皇
崇峻天皇(すしゅんてんのう、欽明天皇14年(553年?) - 崇峻天皇5年11月3日(ユリウス暦592年12月12日?))は、第32代天皇(在位:用明天皇2年8月2日(587年9月9日?) - 崇峻天皇5年11月3日(592年12月12日?))。諱は泊瀬部(はつせべ)、即位前は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)と称した。『古事記』には長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)とある。.
崇徳天皇
崇徳天皇(すとくてんのう、元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))は日本の第75代天皇(在位保安4年2月19日(1123年3月18日) - 永治元年12月7日(1142年1月5日))。譲位後は新院、 配流後は讃岐院とも呼ばれた。諱を顕仁(あきひと)という。 鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。.
崇光天皇
崇光天皇(すこうてんのう、建武元年4月22日(1334年5月25日) - 応永5年1月13日(1398年1月31日))は、南北朝時代の北朝第3代天皇(在位:正平3年10月27日(1348年11月18日) - 正平6年11月7日(1351年11月26日))。諱を益仁(ますひと)といい、後に興仁(おきひと)と名乗った。.
崇神天皇
崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年 - 崇神天皇68年12月5日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日)。 和風諡号は『日本書紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)。四道将軍を派遣して支配領域を広げ、課税を始めて国家体制を整えたことから御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『古事記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)。.
嶋田神社
嶋田神社(しまだじんじゃ)は、奈良県奈良市八島町にある神社。式内小社、旧社格は村社、神饌幣帛料供進社。.
巫女
巫女(みこ、ふじょ)は、主として日本の神に仕える女性のこと。神子(みこ)、舞姫(まいひめ)、御神子(みかんこ)と呼称される場合もある。.
上円下方墳
上円下方墳(じょうえんかほうふん)とは日本列島でかつて築造された古墳の一類型、及び近代に築造された皇室の陵墓の一形式である。.
上石津ミサンザイ古墳
上石津ミサンザイ古墳(かみいしづみさんざいこふん)は、大阪府堺市西区石津ヶ丘にある古墳。形状は前方後円墳。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)」として第17代履中天皇の陵に治定されている。 名称は「石津ヶ丘古墳(いしづがおかこふん)」や「百舌鳥陵山古墳(もずみささぎやまこふん)」とも。全国で大仙陵古墳(大阪府堺市)、誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市)に次ぐ第3位の規模の巨大古墳である。.
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中尾山古墳
中尾山古墳(なかおやまこふん)は、奈良県高市郡明日香村大字平田に所在する終末期の八角墳である。.
中御門天皇
中御門天皇(なかみかどてんのう、 元禄14年12月17日(1702年1月14日) - 元文2年4月11日(1737年5月10日))は、江戸時代の第114代天皇(在位:宝永6年6月21日(1709年7月27日) - 享保20年3月21日(1735年4月13日))。幼名を長宮(ますのみや)、諱を慶仁(やすひと)という。追号の「中御門」は、平安京大内裏の門の一つである待賢門の別称に因む。.
中国
中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.
丸山古墳 (橿原市)
丸山古墳(まるやまこふん、五条野丸山古墳/大軽丸山古墳/見瀬丸山古墳)は、奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町にある古墳。形状は前方後円墳。 実際の被葬者は明らかでないが、後円部墳頂は宮内庁により「畝傍陵墓参考地」(被葬候補者:第40代天武天皇・第41代持統天皇)として陵墓参考地に治定されている。また宮内庁治定部分を除く古墳全域は国の史跡に指定されている(指定名称は「丸山古墳」)。 奈良県では最大、全国では第6位の規模の巨大古墳で、大王墓としては最後の前方後円墳になる。.
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常照皇寺
常照皇寺(じょうしょうこうじ)は、京都府京都市右京区京北井戸町にある臨済宗天龍寺派の寺院。本尊は釈迦如来。詳名は大雄名山万寿常照皇寺(だいおうめいざん まんじゅじょうしょうこうじ)。かつては常照寺(じょうしょうじ)と呼ばれていた。.
丹波国
丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。.
市庭古墳
市庭古墳(いちにわこふん)は、奈良県奈良市佐紀町塚本・市庭にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀盾列古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「楊梅陵(やまもものみささぎ)」として第51代平城天皇の陵に治定されている。 佐紀盾列古墳群の東群に属し、その中でも西端に位置する。前方後円墳であるが前方部は消滅し、現在残っているのは後円部の一部のみである。.
市ノ山古墳
市ノ山古墳(いちのやまこふん、市野山古墳)は、大阪府藤井寺市にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)」として第19代允恭天皇の陵に治定されている。.
万治
万治(まんじ)は日本の元号の一つ。明暦の後、寛文の前。1658年から1661年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.
三重県
三重県(みえけん)は、日本の都道府県の一つで紀伊半島の東側に位置する。県庁所在地は県中部の津市。.
三条天皇
三条天皇(さんじょうてんのう、天延4年1月3日(976年2月5日) - 寛仁元年5月9日(1017年6月5日))は第67代天皇。諱は居貞(おきさだ / いやさだ)。享年42。在位は寛弘8年6月13日(1011年7月16日)から長和5年1月29日(1016年3月10日)まで。 冷泉天皇の第二皇子。母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇太后超子。花山天皇の異母弟。.
下関市
火の山から下関市中心部を望む 下関市(しものせきし)は、山口県西部に位置する中核市。本州の最西端に位置し、関門海峡北岸に面する。山口県最大の人口を擁する都市である。.
一条天皇
一条天皇(いちじょう てんのう、天元3年6月1日(980年7月15日) - 寛弘8年6月22日(1011年7月25日))は、平安時代中期の第66代天皇(在位:寛和2年6月23日(986年8月1日) - 寛弘8年6月13日(1011年7月16日))。諱は懐仁(やすひと)。 円融天皇の第1皇子。母は藤原兼家の娘、詮子。兄弟姉妹はない。.
平城天皇
平城天皇(へいぜいてんのう、宝亀5年旧8月15日(774年9月25日) - 弘仁15年旧7月7日(824年8月5日))は第51代天皇(在位:延暦25年旧3月17日(806年4月9日) - 大同4年旧4月1日(809年5月18日))。小殿(おて)親王、後に安殿親王(あてのみこ)。 桓武天皇の第1皇子。母は皇后・藤原乙牟漏。同母弟に嵯峨天皇。.
平城京
平城宮跡 平城京(へいじょうきょう/へいぜいきょう)は、奈良時代の日本の首都。唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣して建造されたとされ、現在の奈良県奈良市及び大和郡山市近辺に位置していた。.
平安京
平安京復元模型写真(大内裏付近) 平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)は、延暦13年10月22日(西暦794年11月22日)から、一説には明治2年(1869年)まで日本の首都であった都市である。平安城ともいい、桓武天皇によって長岡京からの遷都地に選ばれ、唐の首都長安城に倣って計画都市として建設された。現在の京都府京都市・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している。明治2年(1869年)に政府(太政官)が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失った。平安京が置かれてから鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を日本史では「平安時代」という。.
平安時代
平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.
平成
平成(へいせい)は日本の元号の一つ。昭和の後。今上天皇在位中の1989年(平成元年)1月8日から現在に至る。2001年(平成13年)の始まりには西暦における20世紀から21世紀への世紀の転換もあった。2019年(平成31年)4月30日に今上天皇退位により終了する予定であり、予定通り終了した場合、30年113日間(=11,070日間)にわたることとなる。なお、日本の元号では昭和(64年)、明治(45年)、応永(35年)に次いで4番目の長さである(5番目は延暦の25年)。 西暦2018年(本年)は平成30年に当たる。本項では平成が使われた時代(平成時代)についても記述する。.
年貢
年貢(ねんぐ)は、日本史上の租税の一形態。律令制における田租が、平安時代初期-中期に律令制が崩壊・形骸化したことにともなって、年貢へと変質したが、貢租(こうそ)という別称に名残が見られる。その後、中世・近世を通じて、領主が百姓(農民でなく普通の民をいう。)を始めとする民衆に課する租税として存続した。主に、米で納めるため、その米を年貢米(ねんぐまい)と呼ばれた。.
幕末
幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.
享保
享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.
享和
享和(きょうわ)は日本の元号の一つ。寛政の後、文化の前。1801年から1804年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.
京都
京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.
京都市
京都タワーと京都中心部 京都市中心部四条河原町 京都市(きょうとし )は、京都府南部に位置し、同府最大の市で、府庁所在地である。政令指定都市に指定されており、11区を置く。日本の市で8番目の人口を有する。延暦十三年(794年)から明治二年(1869年)までの1,000年以上にわたって日本の都が置かれていたため、古都として認識されている。.
京都府
京都府(きょうとふ)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。延暦13年(794年)の平安京遷都以来、天皇の御所がある。令制国でいう山城国の全域、丹波国の東部および丹後国の全域を府域とする。府庁所在地は京都市。.
二条天皇
二条天皇(にじょうてんのう、康治2年6月18日(1143年7月31日) - 永万元年7月28日(1165年9月5日))は第78代天皇(在位:保元3年8月11日(1158年9月5日) - 永万元年6月25日(1165年8月3日))。諱は守仁(もりひと)。 後白河天皇の第一皇子。母は、大炊御門経実の娘で、源有仁の養女・贈皇太后懿子。.
広島県
広島県(ひろしまけん)は、日本の中国地方に位置する都道府県の一つ。瀬戸内海に面する。県庁所在地は広島市。.
井沢元彦
井沢 元彦(いざわ もとひこ、1954年2月1日 - )は、日本の歴史小説作家・推理作家・歴史研究家。元TBS報道記者。愛知県名古屋市出身。.
亀山天皇
亀山上皇像(福岡市博多区、東公園) 亀山天皇(かめやまてんのう、建長元年5月27日(1249年7月9日) - 嘉元3年9月15日(1305年10月4日))は、鎌倉時代の第90代天皇(在位:正元元年11月26日(1260年1月9日) - 文永11年1月26日(1274年3月6日))。諱は恒仁(つねひと)。 後嵯峨天皇の第七皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。后腹では後深草天皇に次ぐ次男。大覚寺統の祖。父母から鍾愛され、兄の後深草天皇を差し置いて治天の君となり、やがて亀山系の大覚寺統と後深草系の持明院統との対立が生じる端緒となった。.
亀山市
亀山市(かめやまし)は、三重県中北部に位置する市。.
今城塚古墳
航空写真より全景 今城塚古墳(いましろづかこふん)は、大阪府高槻市郡家新町(ぐんげしんまち)にある前方後円墳。国の史跡に指定されている。 造営時の6世紀前半では最大級の古墳である。宮内庁の治定は受けていないが第26代継体天皇の真の陵とする説が有力で、発掘調査が可能な大王陵になる。.
今上天皇
今上天皇(きんじょうてんのう)とは、在位中の天皇を示す呼称である。聖上(せいじょう)とも呼ばれる。.
仁孝天皇
仁孝天皇(にんこうてんのう、寛政12年2月21日(1800年3月16日) - 弘化3年1月26日(1846年2月21日))は、第120代天皇(在位:文化14年9月21日(1817年10月31日) - 弘化3年1月26日(1846年2月21日))。諱は恵仁(あやひと)。幼称は寛宮(ゆたのみや)。.
仁徳天皇
仁徳天皇(にんとくてんのう、神功皇后摂政57年 - 仁徳天皇87年1月16日)は、日本の第16代天皇(在位:仁徳天皇元年1月3日 - 同87年1月16日)。善政を敷き、大規模な土木事業を行ったと伝わる。 名は大雀命(おほさざきのみこと)(『古事記』)、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)・大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)・聖帝(『日本書紀』)・難波天皇(『万葉集』)。.
仁賢天皇
仁賢天皇(にんけんてんのう、允恭天皇38年 - 仁賢天皇11年8月8日)は、古墳時代の第24代天皇(在位:仁賢天皇元年1月5日 - 同11年8月8日)。名は億計天皇(おけのすめらみこと)・大石尊(おおしのみこと)、意祁命・意富祁王(おおけのみこ)。諱は大脚(おおし)または大為(おおす)、字は嶋郎(しまのいらつこ)。.
仁明天皇
仁明天皇(にんみょうてんのう、弘仁元年(810年) - 嘉祥3年3月21日(850年5月6日)、在位:天長10年3月6日(833年3月30日) - 嘉祥3年3月19日(850年5月4日))は、平安時代初期の第54代天皇。諱は正良(まさら)。 嵯峨天皇の第二皇子。母は橘清友の娘、皇后橘嘉智子(檀林皇后)。正子内親王は同父母の妹でありかつ同年の生まれのため、双子の妹と推測される。.
仏教
仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.
以仁王
以仁王(もちひとおう、仁平元年(1151年) - 治承4年5月26日(1180年6月20日))は、平安時代末期の皇族。後白河天皇の第三皇子。「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促した事で知られる。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。.
仲哀天皇
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、成務天皇18年? - 仲哀天皇9年2月6日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第14代天皇(在位:仲哀天皇元年1月11日 - 同9年2月6日)。日本武尊命を父に持ち、皇后は三韓征伐を行った神功皇后であり、応神天皇の父である。熊襲を討とうとした橿日宮に至ったが果たせず、即位9年で死去したと伝わる。和風諡号は足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、帯中日子天皇(古事記)。容姿端正、身長一丈。.
仲恭天皇
仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう、建保6年10月10日(1218年10月30日) - 天福2年5月20日(1234年6月18日))は、鎌倉時代の第85代天皇(在位:承久3年4月20日(1221年5月13日) - 承久3年7月9日(1221年7月29日))。諱は懐成(かねなり)。 順徳天皇の第四皇子。母は、九條良経の娘、中宮・立子(東一条院)。.
延宝
延宝(えんぽう、旧字体: 延寳)は日本の元号の一つ。寛文の後、天和の前。1673年から1681年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱、徳川綱吉。.
延喜式
延喜式(えんぎしき)は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。.
廃帝
廃帝(漢音:はいてい、呉音:はいたい)は、東アジアの王朝において、内部抗争などにより廃位されたため、諡号や廟号を持たない皇帝の呼称。.
式年祭
式年祭(しきねんさい)は、決められた期間ごとに行われる祭祀のことであり、神社の祭礼や祖先祭祀において見られる祭祀形態である。 由緒ある神社の一部では、定まった年ごとに行われる祭祀がある。例えば、鹿島神宮、香取神宮では12年ごとの午の年に、盛大な神幸祭を行 うこととなっている。また、諏訪大社でも7年ごと(開催年を1年と数えるため実際の周期は6年)の寅もしくは申の年に御柱祭が行われることは有名である。これらの祭りは毎年行われる祭り(例祭)よりも大規模であることが多く、重視されている祭りといえる。 神社には、一定の年ごとに社殿の建て直し(式年遷宮)をするところがみられるが、社殿の建て直し自体が祭祀の一環だという見方をしたとき、これも式年祭の一種と言える。最も有名なのは伊勢神宮式年遷宮で、20年ごとに全ての社殿を建て直し、大規模な祭礼を行うことになっている。あまり注目されないが、諏訪大社の御柱祭もその儀礼の中には社殿の建て直しが含まれており、御柱祭も式年遷宮に含めることができる。なお、式年祭は大社に限らず、氏神レベルでの神社においても、その神社独自の由緒に基づいて、式年祭を行っているところがある。 一方、祖先祭祀においても、決められた年ごとに祭祀を行うことが多い。一般に仏教行事として行われる年忌では、1年忌・3年忌・7年忌・13年忌・17年忌・23年忌などと特定の年(等間隔ではない)に、通常の祭祀とは違った特別な祭祀が行われる。 宮中祭祀における式年は、3年・5年・10年・20年・30年・40年・50年・以後100年ごとと規定され、祖先祭祀に関するものにおいて式年の大祭と小祭が神式で行われている。 人物を祀る日光東照宮や北野天満宮では50年ごとに大祭が行われており、これは両者の結合ともいうことができるかもしれない。.
伏見天皇
伏見天皇(ふしみてんのう、文永2年4月23日(1265年5月10日) - 文保元年9月3日(1317年10月8日))は日本の第92代天皇(在位:弘安10年10月21日(1287年11月27日) - 永仁6年7月22日(1298年8月30日))。諱は熈仁(ひろひと)。書道の伏見院流の祖、京極派の有力歌人としても知られる。 後深草天皇の第二皇子。母は、左大臣洞院実雄の娘、愔子(玄輝門院)。.
伏見区
伏見区(ふしみく)は、京都市を構成する11の行政区の一つで、京都市の南部に位置する。.
伏見桃山陵
伏見桃山東陵 伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ、ふしみももやまりょう)は、京都府京都市伏見区の桃山丘陵にある明治天皇の陵。桃山御陵(ももやまごりょう)。.
弘文天皇
弘文天皇(こうぶんてんのう、大化4年(648年) - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))は、第39代天皇(在位:天智天皇10年12月5日(672年1月9日) - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))。諱は大友(おおとも)または伊賀(いが)。明治3年(1870年)に諡号を贈られ、天皇として認められたが、即位したかどうか定かではなく、大友皇子と表記されることも多い。.
住職
住職(じゅうしょく)は、本来「住持職」と呼ばれている仏教の職名(宗教上の地位)を省略した呼称で、一寺院を管掌する僧侶のこと。.
佐紀石塚山古墳
佐紀石塚山古墳(さきいしづかやまこふん)は、奈良県奈良市山陵町字御陵前にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀盾列古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ、狹城盾列池後陵)」として第13代成務天皇の陵に治定されている。.
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佐紀高塚古墳
佐紀高塚古墳(さきたかつかこふん)は、奈良県奈良市山陵町(みささぎちょう)にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀盾列古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「高野陵(たかののみささぎ)」として第48代称徳天皇(第46代孝謙天皇重祚)の陵に治定されている。.
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佐賀県
佐賀県(さがけん)は、日本の九州地方の北西部にある県である。県庁所在地は佐賀市。 唐津・伊万里・有田などは古くから陶磁器の産地として有名。玄界灘と有明海の2つの海に接する。令制国の肥前国東部に相当する。明治の府県制成立の際、同国は佐賀県と長崎県の2県として分立した。.
彦五瀬命
彦五瀬命(ひこいつせのみこと)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。 『日本書紀』では「彦五瀬命」や「五瀬命(いつせのみこと)」、『古事記』では「五瀬命」と表記される。 神武天皇(初代天皇)の長兄である。 関係略系図(表記・記載は『日本書紀』本文による).
御廟山古墳
御廟山古墳(ごびょうやまこふん)は、大阪府堺市北区百舌鳥本町にある古墳。形状は前方後円墳。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「百舌鳥陵墓参考地」(被葬候補者:第15代応神天皇)として陵墓参考地に治定されている。.
御廟野古墳
御廟野古墳(ごびょうのこふん)は、京都府京都市山科区にある古墳。形状は八角墳。古墳時代終末期の古墳である。 宮内庁により「山科陵(やましなのみささぎ)」として第38代天智天皇の陵に治定されている。.
御所市
御所市(ごせし)は、近畿・奈良県の中部に位置する市。都市名の由来は諸説あり、確定はされていない。奈良県内で一番人口が少ない市である。.
徳島県
徳島県(とくしまけん)は、日本の県の一つ。四国の東部に位置する。県庁所在地は徳島市。.
徳川光圀
徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。 諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。.
便所
便所(べんじょ)とは、大小便の排泄の用を足すための設備を備えている場所。さまざまな名称がある。 この施設は、悪臭を放ち周辺の環境を汚損するおそれのある汚物(主に糞・尿・吐瀉物)を衛生的に処分するための機能を持っている。近年の文明社会の多くでは、これら施設の多くは水洗だが、中には乾燥させたり、燃焼させたり、乾燥地帯では砂を掛けて糞便を乾燥させて処分する様式も見られ、衛生的に処理できればその方法は問わない。 最新の水洗トイレ 便所内は臭気が発生するため、換気扇や換気筒などの換気設備を使い、他の室よりも負圧になるように工夫されている。また、便所の壁にはトイレットペーパーを掛けるペーパーホルダーのほか、タオル掛け、手摺などが設置されることもある。水洗式の場合は、個室内に便器洗浄用のタンクやフラッシュバルブが設置される。 気候・風土・生活習慣によって、求められる機能も様々で、世界各地には様々な便所が存在する。 札幌駅に隣接するJRタワーの展望男子便所.
後堀河天皇
後堀河天皇(ごほりかわてんのう、建暦2年2月18日(1212年3月22日) - 天福2年8月6日(1234年8月31日))は、鎌倉時代の第86代天皇(在位:承久3年7月9日(1221年7月29日) - 貞永元年10月4日(1232年11月17日))。諱は茂仁(とよひと)。 高倉天皇の第二皇子の守貞親王(後高倉院)の第三皇子。母は、持明院基家の娘、北白河院・陳子。.
後奈良天皇
後奈良天皇(ごならてんのう、明応5年12月23日(1497年1月26日) - 弘治3年9月5日(1557年9月27日))は、室町時代・戦国時代の第105代天皇(在位:大永6年4月29日(1526年6月9日)- 弘治3年9月5日(1557年9月27日))。諱は知仁(ともひと)。.
後宇多天皇
後宇多天皇(ごうだてんのう、文永4年12月1日(1267年12月17日) - 元亨4年6月25日(1324年7月16日)は、鎌倉時代の第91代天皇(在位:文永11年1月26日(1274年3月6日) - 弘安10年10月21日(1287年11月27日 ))。諱は世仁(よひと)。.
後小松天皇
後小松天皇(ごこまつてんのう、天授3年6月27日(1377年8月1日) - 永享5年10月20日(1433年12月1日))は、室町時代北朝最後の第6代、歴代第100代の天皇(在位:弘和2年4月11日(1382年5月24日) - 応永19年8月29日(1412年10月5日))。諱は幹仁(もとひと)。.
後三条天皇
大炊御門万里小路殿址、源高房、後三条天皇はこの地で崩御、京都府京都市中京区富小路通夷川上る西側 後三条天皇(ごさんじょうてんのう、長元7年7月18日(1034年9月3日) - 延久5年5月7日(1073年6月15日))は、第71代天皇(在位:治暦4年4月19日(1068年5月22日) - 延久4年12月8日(1073年1月18日))。諱は尊仁(たかひと)。宝算40。 後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇第三皇女・皇后禎子内親王(陽明門院)。後冷泉天皇の異母弟。宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇である(ただし、生母の禎子内親王は藤原道長の外孫である)。.
後一条天皇
後一条天皇(ごいちじょうてんのう、寛弘5年9月11日(1008年10月12日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))は、平安時代中期の第68代天皇(在位:長和5年2月7日(1016年3月18日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))。諱は敦成(あつひら)。一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母弟に後朱雀天皇。.
後二条天皇
後二条天皇(ごにじょうてんのう、弘安8年旧2月2日(1285年3月9日) - 徳治3年旧8月25日(1308年9月10日))は、鎌倉時代の第94代天皇(在位:正安3年旧1月21日(1301年3月2日) - 徳治3年旧8月25日(1308年9月10日))。諱は邦治(くにはる)。大覚寺統の天皇である。 後宇多天皇の第一皇子。母は太政大臣堀川基具の養女で実孫の基子(西華門院)。後醍醐天皇の異母兄にあたる。 後二条天皇の即位は鎌倉幕府が朝廷に治天と天皇の交代を要求したことから実現したものだったが、ここまで半世紀以上にわたって持明院統と大覚寺統による両統迭立を重ねてきた結果、この天皇の即位後3年半にわたって史上最多となる5代の上皇(後深草院・亀山院・後宇多院・伏見院・後伏見院)が同時に存在することになった。.
後亀山天皇
後亀山天皇(ごかめやまてんのう)は、南北朝時代の第99代天皇にして、南朝最後の第4代天皇(在位:弘和3年/永徳3年(1383年)冬 - 元中9年/明徳3年閏10月5日(1392年11月19日))。諱は熙成(ひろなり)。 北朝を擁護する将軍足利義満が提示した講和条件を受諾して、三種の神器を北朝・後小松天皇に伝えて譲位し、南北朝合一を実現した。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として公認されるようになった。.
後伏見天皇
後伏見天皇(ごふしみてんのう、弘安11年3月3日(1288年4月5日)- 延元元年4月6日(1336年5月17日))は、鎌倉時代の第93代天皇(在位:永仁6年7月22日(1298年8月30日)- 正安3年1月21日(1301年3月2日))。諱は胤仁(たねひと)。 伏見天皇の第一皇子。母は、参議左近衛中将五辻経氏の娘、経子。持明院統。.
後土御門天皇
後土御門天皇(ごつちみかどてんのう、嘉吉2年5月25日(1442年7月3日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))は、室町時代の第103代天皇(在位寛正5年7月19日(1464年8月21日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))。諱は成仁(ふさひと)。.
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後嵯峨天皇
後嵯峨天皇(ごさがてんのう、承久2年2月26日(1220年4月1日) - 文永9年2月17日(1272年3月17日))は、鎌倉時代の第88代天皇(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日) - 寛元4年1月29日(1246年2月16日))。諱は邦仁(くにひと)。 土御門天皇の皇子。母は、源通宗の娘、通子。.
後冷泉天皇
後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう、万寿2年8月3日(1025年8月28日) - 治暦4年4月19日(1068年5月22日))は、日本の第70代天皇(在位:1045年 - 1068年)。後朱雀天皇の第一皇子。母は藤原道長女藤原嬉子(贈皇太后)。諱を親仁(ちかひと)。紫式部の娘大弐三位が乳母である。.
後円融天皇
後円融天皇(ごえんゆうてんのう、延文3年12月12日(1359年1月11日) - 明徳4年4月26日(1393年6月6日))は、南北朝時代の北朝第5代天皇(在位:応安4年3月23日(1371年4月9日) - 永徳2年4月11日(1382年5月24日))。諱は緒仁(おひと)という。.
後光厳天皇
後光厳天皇(ごこうごん てんのう、建武5年3月2日(1338年3月23日)- 応安7年1月29日(1374年3月12日))は、南北朝時代の北朝第4代天皇(在位:観応3年8月17日(1352年9月25日)- 応安4年3月23日(1371年4月9日))。諱は弥仁(いやひと、旧字体:彌仁)。.
後光明天皇
後光明天皇(ごこうみょうてんのう、寛永10年3月12日(1633年4月20日) - 承応3年9月20日(1654年10月30日))は、江戸時代前期の第110代天皇(在位:寛永20年10月3日(1643年11月14日) - 承応3年9月20日(1654年10月30日))。幼名を素鵞宮(すがのみや)、諱を紹仁(つぐひと)という。儒学に傾倒して典礼を重んじ、朝儀再興を目指した。.
後白河天皇
後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.
後花園天皇
後花園天皇(ごはなぞのてんのう)は、室町時代の第102代天皇である(在位:正長元年7月28日(1428年9月7日) - 寛正5年7月19日(1464年8月21日))。諱は彦仁(ひこひと)。 本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、称光天皇の死後に皇位を継いだ。8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代658年ぶりである(称徳天皇→光仁天皇以来)。以後、この天皇の系統が今上天皇をはじめとする現在の皇室に連なっている。.
後西天皇
後西天皇(ごさいてんのう、寛永14年11月16日(1638年1月1日) - 貞享2年2月22日(1685年3月26日)は、江戸時代の第111代天皇(在位:承応3年11月28日(1655年1月5日) - 寛文3年1月26日(1663年3月5日))。幼名を秀宮、諱を良仁(ながひと)という。花町宮。花町殿。.
後鳥羽天皇
後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日) - 建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、この承久の乱で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。.
後醍醐天皇
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.
後陽成天皇
後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日) - 元和3年8月26日(1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての第107代天皇(在位:天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日))。諱は初め和仁(かずひと)、慶長3年(1598年)12月に周仁(かたひと)と改めた。.
後柏原天皇
後柏原天皇(ごかしわばらてんのう、寛正5年10月20日(1464年11月19日)- 大永6年4月7日(1526年5月18日))は、室町時代、戦国時代の第104代天皇(在位:明応9年10月25日(1500年11月16日) - 大永6年4月7日(1526年5月18日))。諱は勝仁(かつひと)。.
後村上天皇
後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、南北朝時代の第97代天皇にして、南朝の第2代天皇(在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日) - 正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日))。諱は初め義良(のりよし / のりなが)、後に憲良に改めた。名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。父・後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都回復を図り、大和(奈良県)の吉野・賀名生、摂津(大阪府)の住吉などを行宮とした。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定されるようになった。.
後桜町天皇
後桜町天皇(ごさくらまちてんのう、元文5年8月3日(1740年9月23日) - 文化10年閏11月2日(1813年12月24日))は第117代天皇(在位:宝暦12年7月27日(1762年9月15日)- 明和7年4月28日(1770年5月23日))。江戸時代、また今上天皇までで最後の女性天皇。幼名を以茶宮(いさのみや)・緋宮(あけのみや)、諱を智子(としこ)はじめ智子を“さとこ”と訓じたが、霊元天皇諱の識仁(さとひと)と音が通うため、践祚後の宝暦12年7月29日“としこ”に改めた。という。.
後桃園天皇
後桃園天皇(ごももぞのてんのう、宝暦8年7月2日(1758年8月5日) - 安永8年10月29日(1779年12月6日))は、江戸時代の第118代天皇(在位:明和7年4月28日(1770年5月23日) - 安永8年11月9日(1779年12月16日))。諱は英仁(ひでひと)。 なお、急逝による後継の準備のため、実際よりも後の日付で崩御が発表されており、在位日が崩御後も続いている(宮内庁所蔵「後桃園院御凶事前後記」)。.
後水尾天皇
後水尾天皇(ごみずのおてんのう、文禄5年6月4日(1596年6月29日) - 延宝8年8月19日(1680年9月11日))は第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日) - 寛永6年11月8日(1629年12月22日))。諱は政仁(ことひと)。.
後深草天皇
後深草天皇(ごふかくさてんのう)は、鎌倉時代中期の第89代天皇(在位:寛元4年1月29日(1246年2月16日) - 正元元年11月26日(1260年1月9日))。諱は久仁(ひさひと)。 後嵯峨天皇の皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。持明院統の祖。父母が自身より弟の亀山天皇を寵愛し、亀山天皇を治天の君としたことに不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立が生じる端緒となった。.
後朱雀天皇
後朱雀天皇(ごすざくてんのう、寛弘6年11月25日(1009年12月14日) - 寛徳2年1月18日(1045年2月7日))は、平安時代中期の第69代天皇(在位:長元9年4月17日(1036年5月15日) - 寛徳2年1月16日(1045年2月5日))。諱は敦良(あつなが)。 一条天皇の第三皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母兄に後一条天皇。.
律令
律令(りつりょう)とは、東アジアでみられる法体系である。律は刑法、令はそれ以外(主に行政法。その他訴訟法や民事法も。)に相当する。律令国家の基本となる法典。成文法。日本統治下の台湾において台湾総督が法律に代わるものとして制定した律令については律令(日本統治下の台湾法制)を参照。.
律令制
律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである山内昌之・古田博司。日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない菊池秀明p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある廣瀬薫雄『秦漢律令研究』2010年、汲古書院、第一部第一章「律令史の時代區分について」。.
応神天皇
応神天皇(おうじんてんのう、仲哀天皇9年12月14日 - 応神天皇41年2月15日)は、第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日 - 同41年2月15日)。諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)。誉田天皇(ほむたのすめらみこと/ほんだのすめらみこと)、胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)とも称される。麛坂皇子と忍熊皇子は異母兄にあたる。.
念仏寺山古墳
念仏寺山古墳(ねんぶつじやまこふん)は、奈良県奈良市油阪町字山ノ寺にある古墳。形状は前方後円墳。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)」として第9代開化天皇の陵に治定されている。名称は「弘法山古墳(高坊山古墳)」や「坂上山古墳(さかがみやまこふん)」などとも。.
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土御門天皇
土御門天皇(つちみかどてんのう、建久6年11月1日または12月2日(1195年12月4日または1196年1月3日) - 寛喜3年10月11日(1231年11月6日))は、鎌倉時代の第83代天皇(在位:建久9年1月11日 (1198年2月18日) - 承元4年11月25日(1210年12月12日))。諱は為仁(ためひと)。 後鳥羽天皇の第一皇子。母は、源通親の養女(法勝寺執行法印能円の女)承明門院・源在子。.
土葬
土葬(どそう)は、遺体をそのまま埋葬することである。.
地方公共団体
地方公共団体(ちほうこうきょうだんたい、local public entity)は、日本の地方自治体(地方政府)。.
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北葛城郡
奈良県北葛城郡の範囲(1.上牧町 2.王寺町 3.広陵町 4.河合町) 北葛城郡(きたかつらぎぐん)は、奈良県の郡。 以下の4町を含む。.
ヤマトタケル
ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。 『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される宮内庁治定墓(能褒野墓・大和白鳥陵・河内白鳥陵)での公式表記、および『国史大辞典』(吉川弘文館)の項目名、『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館)の項目名、『日本人名大辞典』(講談社)の項目名において、「日本武尊」の用字が採用される。。 第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。.
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ヤマト王権
ヤマト王権(ヤマトおうけん)とは、大伴氏が本拠を置いた難波 (なにわ) に都を定めた仁徳天皇など、3世紀から始まる古墳時代に「王」「大王」(おおきみ)などと呼称された倭国 (わこく) の王を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織である。今の大阪平野や奈良盆地を中心とする大倭地方の国がまわりの国を従えたことからこう呼ばれる。旧来より一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語等が用いられはじめた。 本記事では、これら「大和朝廷」および「ヤマト王権」について、解説をする。 呼称については、古墳時代の前半においては近年「倭王権」「ヤマト政権」「倭政権」などの用語も用いられている(詳細は「名称について」の節を参照)。古墳時代の後、飛鳥時代での天皇を中心とした日本国の中央集権組織のことは「朝廷」と表現するのが歴史研究でも世間の多くでも、ともに一般的な表現である。 ヤマト王権の語彙は「大阪平野や奈良盆地などの近畿地方中央部を念頭にした王権力」の意であるが、一方では出雲を代表格とする「地域国家」と称せられる日本列島各地の多様な権力(王権)の存在を重視すべきとの見解がある。.
僧
僧(そう、संघ Saṃgha)はサンガを音写した「僧伽」の略で仏教の戒律を守る、男性の出家修行者である「比丘(びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと。仏教の三宝の一つ。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という。衆あるいは和合衆と訳される。.
ボケ山古墳
ボケ山古墳(ぼけやまこふん、野中ボケ山古墳)は、大阪府藤井寺市青山3丁目にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「埴生坂本陵(はにゅうのさかもとのみささぎ)」として第24代仁賢天皇の陵に治定されている。.
ニニギ
ニニギ(アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギ)は、日本神話に登場する神戸部民夫 『八百万の神々 日本の神霊たちのプロフィール』 新紀元社、25,92,94,286頁。。.
ホオリ
火遠理命(ほおりのみこと)は、日本神話や記紀に登場する人物。別名は、彦火火出見尊・日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)、虚空津日高(そらつひこ)。正しくは、天津日高日子穂穂手見命(あまつひこ(たか)ひこほほでみのみこと)と言う。「海幸山幸(うみさちやまさち)」の説話に登場し、一般には山幸彦(やまさちひこ)(山佐知毘古、やまさちびこ)の名で知られる。神武天皇の祖父とされる。.
嘉禎
嘉禎(かてい)は、日本の元号の一つ。文暦の後、暦仁の前。1235年から1237年までの期間を指す。この時代の天皇は四条天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.
嵯峨天皇
嵯峨天皇(さがてんのう、延暦5年9月7日(786年10月3日) - 承和9年7月15日(842年8月24日))は、日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月18日) - 弘仁14年4月16日(823年5月29日))。 諱は神野(賀美能・かみの)。 桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。 嵯峨天皇宸翰『哭澄上人詩』部分(最澄の死を悼む詩)釈文:(香煙は)像爐に(続く) 蒼生橋梁に少なく 緇侶(しりょ)律儀疎(うと)し 法軆何ぞ久しく住(とど)まらん 塵心傷みて餘り有り.
命日
命日(めいにち)とは、ある人が死亡した日をいう。忌日(きにち)ともいう。対義語は誕生日。死亡した年月日を歿(没)年月日(ぼつねんがっぴ)という。 通常は、死亡した月を指す祥月と組み合わせて、一周忌以後の当月の命日である祥月命日(しょうつきめいにち)を指すことが多い。祥月にかかわらない月ごとの命日を月命日(つきめいにち)という。 日本の仏教では、年12回の月命日に故人の供養を行い、一定の年数の命日には年忌法要(法事)が営まれる(年忌法要一覧を参照)。仏教に深く帰依したとされる光明皇后は、月命日ごとに法要が行われている。 50回忌以降は、50年毎に行っていたが、近年では、31回忌、33回忌、50回忌のいずれかをもって「弔い上げ」(戒名を過去帳に移し、お骨を土に返す)とするのが一般的になってきた。.
和歌山県
和歌山県(わかやまけん)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。県庁所在地は和歌山市。日本最大の半島である紀伊半島の西側に位置し、県南部には大規模な山地を有する。.
和泉国
和泉国(いずみのくに/いづみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.
ウガヤフキアエズ
ウガヤフキアエズ(日子波限建鵜草葺不合命・彦波瀲武盧茲草葺不合尊)は、日本神話の神。神武天皇の父にあたる。.
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冷泉天皇
冷泉天皇(れいぜいてんのう、天暦4年5月24日(950年6月12日)- 寛弘8年10月24日(1011年11月21日)、在位:康保4年10月11日(967年11月15日) - 安和2年8月13日(969年9月27日))は、日本(平安時代中期)の第63代天皇。村上天皇の第二皇子で、諱は憲平(のりひら)。母は藤原師輔の娘・中宮安子。円融天皇の同母兄。.
円墳
八幡山古墳は野球場のグラウンドほどの面積がある。国土航空写真 円墳(えんふん)は、古墳の墳丘形式の一種であり、平面が円形の古墳をいう。.
円融天皇
円融天皇(えんゆうてんのう、天徳3年旧3月2日(959年4月12日) - 正暦2年旧2月12日(991年3月1日); 在位:安和2年旧9月23日(969年11月5日) - 永観2年旧8月27日(984年9月24日))は、第64代天皇。諱は守平(もりひら)。 村上天皇の第五皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・中宮安子。冷泉天皇の同母弟。.
允恭天皇
允恭天皇(いんぎょうてんのう、仁徳天皇64年? - 允恭天皇42年1月14日)は、第19代天皇(在位:允恭天皇元年12月 - 同42年1月14日)。5世紀の天皇。雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)、男浅津間若子宿禰王(古事記)。中国の歴史書『宋書』・『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されている。.
入水
入水(じゅすい)とは、水中に飛び込んで自殺すること。身投げ。にゅうすい。基本的に水死であり、苦痛が大きい。 入水は、泳げない人専用の自殺手段とは限らない。ここに至って内耳の奥にある三半規管が狂いを生じ、バランス感覚を失ってそのまま溺れてしまうことがある。 溺れた場合はまず底に沈むが、死亡したら体内に腐敗ガスが溜まり、やがて浮上する。.
八幡神
八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)は、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られた。.
八王子市
八王子市(はちおうじし)は、東京都の多摩地域南部にある市である。東京都唯一の中核市に指定されている。.
八角墳
掘中の八角墳(中山荘園古墳) 八角墳(はっかくふん)は古墳時代の終末期(7世紀中葉〜)につくられた正八角形の古墳。京都市の御廟野古墳(現・天智天皇陵)や奈良県高市郡明日香村の野口王墓古墳(現・天武・持統合葬陵)などが有名。.
六条天皇
六条天皇(ろくじょうてんのう、長寛2年旧11月14日(1164年12月28日) - 安元2年旧7月17日(1176年8月23日))は日本の第79代天皇(在位:永万元年旧6月25日(1165年8月3日) - 仁安3年旧2月19日(1168年4月9日))。諱を順仁(のぶひと)という。.
元禄
元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.
元正天皇
元正天皇(げんしょうてんのう、天武天皇9年(680年) - 天平20年4月21日(748年5月22日))は日本(奈良時代)の第44代天皇。女帝(在位:霊亀元年9月2日(715年10月3日) - 養老8年2月4日(724年3月3日))。父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高(ひたか)・日高、又は新家(にいのみ)。和風諱号は日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみこと)である。日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。.
元明天皇
元明天皇(げんめいてんのう、斉明天皇7年(661年) - 養老5年12月7日(721年12月29日))は、日本(飛鳥時代 - 奈良時代)の第43代天皇。女帝(在位:慶雲4年7月17日(707年8月18日) - 和銅8年9月2日(715年10月3日))。名は阿閇皇女(あへのひめみこ)。阿部皇女とも。和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと、旧字体:−豐國成姬−)である。 天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。 藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。.
兵庫県
兵庫県(ひょうごけん)は、日本の都道府県の一つ。本州の中西部に位置し、近畿地方に属する。県庁所在地は神戸市。.
光厳天皇
光厳天皇(こうごんてんのう 正和2年7月9日(1313年8月1日) - 正平19年7月7日(1364年8月5日))は、鎌倉時代末期の持明院統の天皇(在位:元弘元年9月20日(1331年10月22日) - 元弘3年5月25日(1333年7月7日))。諱を量仁(かずひと)という。 後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に就いたが、鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐が自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇125代の内には含まれず、北朝初代として扱われている。ただし、実際には弟の光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇と合わせた2代15年の間、光厳上皇は治天(皇室の長)の座にあって院政を行った。.
光孝天皇
光孝天皇(こうこうてんのう、天長7年(830年) - 仁和3年8月26日(887年9月17日)は、第58代天皇(在位:元慶8年2月23日(884年3月23日) - 仁和3年8月26日(887年9月17日))。諱は時康(ときやす)。 仁明天皇の第三皇子。母は藤原総継の娘、贈皇太后沢子。.
光仁天皇
光仁天皇(こうにんてんのう、和銅2年10月13日(709年11月18日) - 天応元年12月23日(782年1月11日))は、第49代天皇(在位:宝亀元年10月1日(770年10月23日) - 天応元年4月3日(781年4月30日))。和風諡号は「天宗高紹天皇」(あまつむねたかつぎのすめらみこと)。天智天皇の第7皇子・施基親王(志貴皇子)の第6子で白壁王と称した。母は紀橡姫(贈太政大臣紀諸人の娘)。.
光格天皇
光格天皇御胞塚、光格天皇の胞衣を埋納した塚、京都市上京区荒神口通河原町西入清荒神内 光格天皇(こうかくてんのう、明和8年8月15日(1771年9月23日) - 天保11年11月18日(1840年12月11日))は、江戸時代の第119代天皇(在位:安永8年11月25日(1780年1月1日) - 文化14年3月22日(1817年5月7日))。幼名を祐宮(さちのみや)という。諱は初め師仁(もろひと)としたが、死人(しにん)に音が通じるのを忌み、践祚と同時に兼仁(ともひと)に改めた。傍系の閑院宮家から即位したためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。実父閑院宮典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。.
光明天皇
光明天皇(こうみょうてんのう、元亨元年12月23日(1322年1月11日) - 天授6年6月24日(1380年7月26日))(在位:延元元年8月15日(1336年9月20日)- 正平3年10月27日(1348年11月18日))は、南北朝時代の天皇で、諱を豊仁(ゆたひと)という。 その即位によって北朝が成立したので北朝最初の天皇ということになるが、鎌倉時代末期に在位した兄の光厳天皇が後醍醐天皇によって即位を否定され、歴代天皇125代に含まれない北朝初代天皇として扱われているため、光明は北朝第2代とされている。.
前方後円墳
前方後円墳 (ぜんぽうこうえんふん)は、古墳の形式の1つ。円形の主丘に方形の突出部が接続する形式で、双丘の鍵穴形をなす。 主に日本列島で3世紀中頃から7世紀初頭頃(畿内大王墓は6世紀中頃まで)にかけて築造され、日本列島の代表的な古墳形式として知られる。.
剣璽
剣璽(けんじ)は、三種の神器のうち、天叢雲剣と八尺瓊勾玉を併せた呼称。神器の勾玉を璽(あるいは神璽)とも呼ぶため、「剣璽」と称される。.
勅使
勅使(ちょくし)とは、天皇・皇帝・王など国の元首が出す使者のこと。 上皇の使者は院使(いんし)、皇后の使者は皇后宮使(こうごうぐうし)、中宮の使者は中宮使(ちゅうぐうし)、皇太后の使者は皇太后宮使(こうたいごうぐうし)、女院の使者は女院使(にょいんし)と呼ばれる。.
国立公文書館
国立公文書館(こくりつこうぶんしょかん)とは公文書を一般公開している国立機関。本頁では日本の国立公文書館について記述する。.
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四条天皇
四条天皇(しじょうてんのう)は、鎌倉時代の第87代天皇(在位:貞永元年10月4日(1232年11月17日) - 仁治3年1月9日(1242年2月10日))。諱は秀仁(みつひと)。 後堀河天皇の第一皇子。母は、九条道家の娘、中宮・竴子(藻璧門院、竴は「立尊」)。.
皇后
皇后(こうごう、Empress)は、天皇や皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。.
皇后美智子
皇后美智子(こうごう みちこ、1934年〈昭和9年〉10月20日 - )は、第125代天皇・今上天皇の皇后。皇族。旧姓は正田(しょうだ)。皇室典範に定める敬称は陛下。日本赤十字社名誉総裁、国際児童図書評議会名誉総裁。.
皇太后
皇太后(こうたいごう、Empress Dowager)は、先代の天皇・皇帝の皇后であった者、およびその称号。ただし必ずしもこの定義にあてはまらない事例もある。.
皇太子
皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.
皇室令
皇室令(こうしつれい)とは、旧皇室典範を根拠として、皇室典範に属する法体系いわゆる「宮務法」のもとで制定されていた、皇室に関係する一連の天皇の命令を指す。これは大日本帝国憲法に属する法体系いわゆる「国務法」とは異なり、皇室典範と同様、制定・改定には帝国議会は関与しない。 日本国憲法施行に伴い、1947年(昭和22年)5月2日を最後に廃止された。.
皇室喪儀令
皇室喪儀令(こうしつそうぎれい)は、1926年(大正15年)に制定された皇室令の一つ。.
皇室典範
皇室典範(こうしつてんぱん、昭和22年法律第3号)は、日本国憲法第2条及び第5条に基づき、皇位継承及び摂政に関する事項を中心に規律した皇室に関する法律である。 1947年(昭和22年)に、日本国憲法第100条及び第2条、第5条に基づき、日本国憲法施行前に、憲法に附属する法律の制定手続によって、枢密院の諮詢及び帝国議会(衆議院・貴族院)の協賛を経て、現在の「皇室典範」(昭和22年法律第3号)が制定された。.
皇室陵墓令
皇室陵墓令(こうしつりょうぼれい、大正15年10月21日皇室令第12号)は、1926年(大正15年)に公布された皇室の陵墓に関する法令である。皇室令及附属法令廃止ノ件(昭和22年5月2日皇室令第12号)により、1947年(昭和22年)5月2日限りで廃止された。.
石川県
石川県(いしかわけん)は、日本の都道府県の一つ。本州の中央部、日本海側の北陸地方に位置する。県域は令制国 の加賀国と能登国 に当たる。県庁所在地は金沢市。.
石仏
石仏(せきぶつ)とは、石に彫られた仏像である。日本ではかつて神仏習合が定着し、仏以外も篤く信仰する人が多かったため、道祖神などの石の神像も多く建てられた。その規模は寺院や神社の境内、路傍などで見られる小さな「野仏」から、臼杵磨崖仏、インドのアジャンター石窟、エローラ石窟、中国の雲岡石窟、龍門石窟などに代表されるような巨大な岩盤に彫られた磨崖仏まで多様である。以下は日本の石仏について記述する。 大日如来像(臼杵磨崖仏).
王寺町
王寺町(おうじちょう)は、奈良県葛城郡北端に位置する町。.
火葬
火葬(かそう)とは、葬送の一手段として遺体を焼却することである。また、遺体の焼却を伴う葬儀全体も指す。 火葬を行う施設や建築物を火葬場と呼ぶ。.
灌漑
管により畑に給水する灌漑施設(2000年) アメリカ合衆国ニュージャージー州での灌漑の様子 芝生に水を撒くスプリンクラー 灌漑(かんがい)とは、農地に外部から人工的に水を供給すること。農作物の増産、ランドスケープの維持、乾燥地帯や乾期の土壌で緑化する際などに利用される。他にも農業生産において、作物を霜害から守る、穀物の畑で雑草を抑制する、土壌の圧密を防ぐといった用途もある。対照的に直接的な降雨のみで行う農業を乾燥農業と呼ぶ。灌漑システムは、塵の飛散防止、下水処理、鉱業などにも使われる。灌漑と排水は組み合わせて研究されることが多い。 なお、「灌」「漑」は二文字とも常用漢字の表外字のため、報道では新聞常用漢字表により「かんがい」とひらがなで表示されるのが一般的である。学校の教材等も同様である。.
砕屑物
砕屑物(さいせつぶつ、、)とは、岩石が壊れてできた破片や粒子を指す地質学用語。泥や砂や礫がこれにあたるが、砂は粗砂と細砂、泥はシルトと粘土に大別することができる。 砕屑物によって構成されている堆積岩を砕屑岩と呼ぶ。 .
神奈川県
奈川県(かながわけん)は、日本の県の一つ。関東地方の南西端、東京都の南に位置する。県庁所在地は横浜市。県名は東海道筋に古くから栄えた宿場町神奈川宿(現・横浜市神奈川区)、および幕末に戸部町(現・横浜市西区紅葉ヶ丘)に置かれた神奈川奉行所に由来する。これら「神奈川」の由来は、京急仲木戸駅近くに流れていた長さ300メートル (m) ほどの小川の名前からで、現在は道路になっている。 都道府県別の人口は東京都に次ぐ第2位、人口密度は東京都、大阪府に次ぐ第3位である。県内総生産も東京都、大阪府、愛知県に次ぐ第4位となっている。県内の政令指定都市数は3つと日本最多で、面積は第43位の規模である(平成19年度面積)、国土地理院。。.
神代三陵
代三陵(かみよさんりょう)または神代三山陵は、可愛山陵(瓊瓊杵尊陵)・高屋山上陵(彦火火出見尊陵)・吾平山上陵(鸕鷀草葺不合尊陵)の総称。いずれも宮内庁により鹿児島県内に治定されている。.
神社
出雲大社(神代創建と言われる、島根県出雲市) 八坂神社(飛鳥時代創建)(京都府京都市東山区) 蒙疆神社(昭和時代創建、張家口。写真は1952年のもので、当時はもう廃社された) 神社(じんじゃ・かむやしろ)とは、日本固有の宗教である神道の信仰に基づく祭祀施設。産土神、天神地祇、皇室や氏族の祖神、偉人や義士などの霊などが神として祀られる。文部科学省の資料では、日本全国に約8万5千の神社がある。登録されていない数万の小神社を含めると、日本各地には10万社を超える神社が存在している。また、近畿地方には生国魂神社など創建が古い神社が多く存在する。.
神社建築
宇治上神社本殿覆屋(国宝・世界遺産)。五間社流造。康平3年(1060年)頃建立の現存最古の神社建築(京都府宇治市) 神社建築(じんじゃけんちく)は、神社の建築。社殿建築(しゃでんけんちく)ともいう。.
神祇省
祇省(じんぎしょう)は、明治4年8月8日(1871年9月22日)-明治5年3月14日(1872年4月21日)に神祇の祭祀と行政を掌る機関として律令制以来の神祇官に代わって設置された。 形式上のみとはいえ、太政官よりも上位とされた神祇官に対して、太政官の1機関に格下げられた神祇省は一見すると地位が低下したようにも見受けられるが、実際には大教宣布の理念に基づいた天皇による祭政一致、ひいては神道の国家宗教化を目指す方針のために政府の関与を強めるためのものであった。神祇卿は設置されず、神祇大輔に福羽美静が任命された。 その後、神祇官末期に設置された宣教使による大教宣布を強化するために、わずか半年で教部省に改称され(明治5年3月14日(1872年4月21日)第82号布告)、宮中祭祀の事務の部分は分離されて式部寮に移されることとなった(3月15日通達、同3月23日(1872年4月30日)第92号布告)。(このとき式部寮はまだ太政官直属で、宮内省に移管されたのは明治10年である。式部職#明治政府を参照。).
神輿
日吉大社の神輿 敏馬神社の神輿 神輿、御輿(みこし、しんよ)は、通常、神道の祭の際に、普段は神社にいる神霊が氏子町内、御旅所などへ渡御するに当たって一時的に鎮まるとされる輿である。輿であるから通常は担ぎ上げて移動するものを指して言うが、それを台車(御所車、牛車)に乗せて曳くものなど別形態のものも指すことがある。 祭りによっては、御輿の巡行に山車(山)、鉾(ほこ)、だんじり、などの屋台が随行することもある。 「御輿」は「輿」に「御」を付けたものであるが、さらに「御」をつけて「おみこし」と呼ばれる場合がある。神が乗る輿であるので「御神輿」とも書かれる。 神社の神輿を一般に「本社神輿」(神社神輿・宮神輿)と言い、神社に本社神輿が1基のみ存在する神社もあれば、三社祭で有名な浅草神社のように1社で3基の神社神輿を持つ神社もある。氏子町会が神輿を持っている場合はこれを「町会神輿」と呼び、この中で青壮年部が担ぐものを「大人神輿」、女性が担ぐ輿を「女神輿」子供は「子供神輿」と呼んでいる。 特に胴が箱型で内部が空洞の物を鳳輦(ほうれん)と呼び、実際に人間(主に天皇)や大きめの神器・依代が乗るものとして造られたのが起源とされるため小型の物は存在しない。神輿と鳳輦の定義で議論になるが、文字通りの意味を定義と捉えた場合、鳳凰(ほうおう)を付けた神輿全てが鳳輦(ほうれん)になってしまい、逆に鳳凰を冠してない鳳輦も存在するため、「皇族などの貴人が乗る輿」と定義としている書籍が多い 。 これに比べて神輿は諸説あるが、鳳輦から発展し、神霊が乗ることに特化したものであるという解釈ができ、後述のように成人男性が1人で持てそうな小型の物から、中に入れそうな大型のものまである。 神輿と鳳輦を合わせて「輦輿」(れんよ)と呼ぶが、定義もさることながら、外見では判断しにくいため(特に垂幕や瓔珞が付いている場合)、双方とも「神輿」と総称されているのが現状である。.
神武天皇
武天皇(じんむてんのう、庚午年1月1日 - 神武天皇76年3月11日『歴代天皇・年号事典』 吉川弘文館、2003年、p.
祭
祭(まつり)とは、感謝や祈り、慰霊のために神仏および祖先をまつる行為(儀式)である。供物そのほかが捧げられる。 祭祀(さいし)、祭礼(さいれい)、祭儀(さいぎ)。また、まつりの漢字の表記(祀り・祭り・奉り・政りなど)によって、用途や意味合いが少し異なってくる(詳細は後述)。.
祭神
祭神(さいじん)とは、ある神社について、そこに祀られている神を指す言葉である。.
福岡県
福岡県(ふくおかけん)は、日本の九州地方北部にある県。県庁所在地は福岡市。2017年現在の人口は約511万人で、全国の都道府県中9位である。.
称光天皇
光天皇(しょうこうてんのう、応永8年3月29日 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.59(1401年5月12日) - 正長元年7月20日(1428年8月30日)は、室町時代の第101代天皇(在位: 応永19年8月29日(1412年10月5日) - 正長元年7月20日(1428年8月30日)。諱ははじめ躬仁(みひと)、のち實仁(みひと)に改めた。.
稚瑞照彦尊
照彦尊(わかみつてるひこのみこと、1873年(明治6年)9月18日 - 同日)は、日本の皇族で明治天皇第一皇子。母は葉室光子。.
竈山神社
山神社(かまやまじんじゃ、釜山神社)は、和歌山県和歌山市和田にある神社。式内社、旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。.
細井広沢
細井 広沢 (ほそい こうたく、万治元年10月8日(1658年11月3日) - 享保20年12月23日(1736年2月4日))は、江戸時代中期の儒学者・書家・篆刻家。名は知慎(ともちか)、字は公謹。通称は次郎太夫(じろうだゆう)。広沢は号。別号に玉川、室号に思胎斎・蕉林庵・奇勝堂などがある。.
綏靖天皇
綏靖天皇(すいぜいてんのう、神武天皇29年 - 綏靖天皇33年5月10日)は、日本の第2代天皇(在位:綏靖天皇元年1月8日 - 綏靖天皇33年5月10日)。 和風諡号は、『日本書紀』では「神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)」、『古事記』では「神沼河耳命」。 神武天皇(初代天皇)の皇子。『日本書紀』・『古事記』ともほぼ系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。.
継体天皇
継体天皇(けいたいてんのう、允恭天皇39年(450年?) - 継体天皇25年2月7日(531年3月10日?))は、日本の第26代天皇。在位は継体天皇元年2月4日(507年3月3日?) - 同25年2月7日(531年3月10日?)。 諱はヲホド。『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。また、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(をほどのおおきみ)とある。 なお、隅田(すだ)八幡神社(和歌山県橋本市)蔵の人物画像鏡銘に見える「孚弟王(男弟王?)」は継体天皇を指すとする説がある(後述)別名として、『日本書紀』に彦太尊(ひこふとのみこと)とある。.
羽曳野市
羽曳野市(はびきのし)は、大阪府南河内地域に位置する市。ぶどう栽培が盛ん。また古墳などの古代史跡の多い地としても知られる。本項では市制前の名称である南大阪町(みなみおおさかちょう)、市制当日の名称である南大阪市(みなみおおさかし)についても述べる。.
爪
左足の爪 爪(つめ)は、有羊膜類の指の先端の背面にある表皮の角質が変化し硬化して出来た板状の皮膚の付属器官である。 体毛や歯と同じく鱗から派生した相同である。哺乳類では種によって特化している。ここでは主にヒトの爪について説明する。他の動物の爪等については後述の関連項目(蹄、扁爪、鉤爪などの項目)を参照。 表皮から変化して出来た点においては、爪と毛を総じて「角質器」とも呼ぶ。爪が指先を保護するおかげで、手足の動作において指先に力を加えたり、うまく歩いたりする事が出来る等、爪は動物にとって重要な役割を果たしている。爪の下部には毛細血管が集中しており、爪は血液の健康状態に影響され易い。.
用明天皇
明天皇(ようめいてんのう、生年不詳 - 用明天皇2年4月9日(587年5月21日?))は、日本の第31代天皇(在位:敏達天皇14年9月5日(585年10月3日?) - 用明天皇2年4月9日(587年5月21日?))。.
田出井山古墳
出井山古墳(たでいやまこふん)は、大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町にある古墳。形状は前方後円墳。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)」として第18代反正天皇の陵に治定されている。.
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熊本県
本県(くまもとけん)は、九州地方の中央に位置する県。 県庁所在地は熊本市(政令指定都市)。令制国の肥後国に当たる。有明海、不知火海、東シナ海に面していて、また日本第2位の阿蘇カルデラを持つ阿蘇山が知られる。.
畿内
畿内(きない、きだい、うちつくに)とは、.
牽牛子塚古墳
石槨入り口(2014年10月撮影) 牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村大字越にある古墳。形状は八角墳。国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。 指定時には「あさがおつかこふん」の読みが付されており、「牽牛子」はアサガオの別称である。「御前塚」と呼称されることもある奈良県明日香村。2009年(平成21年)から2010年(平成22年)にかけての発掘調査によって、八角墳(八角形墳)であることが判明し、飛鳥時代の女帝で天智天皇・天武天皇の母とされる第37代斉明天皇(第35代皇極天皇)の陵である可能性が高まっている。.
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盗掘
盗掘(とうくつ)とは一般に、正当な権利がないにもかかわらず土地(私有地・公有地を問わず)を掘削し、そこから得られた財物(埋蔵物、動植物など)を窃取する行為である。.
発掘調査
掘調査(はっくつちょうさ、)とは、.
白髪山古墳
白髪山古墳(しらがやまこふん)は、大阪府羽曳野市西浦6丁目にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群の南西端に位置する。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)」として第22代清寧天皇の陵に治定されている。.
白鳥陵
白鳥陵(しらとりのみささぎ)は、ヤマトタケルの陵。 奈良県御所市富田と大阪府羽曳野市軽里(軽里大塚古墳)の2ヶ所に治定されている。.
白河天皇
白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。.
百舌鳥八幡宮
舌鳥八幡宮(もずはちまんぐう)とは、大阪府堺市北区百舌鳥赤畑町にある神社である(宗教法人名は百舌鳥神社)。約一万坪の境内の中には大阪府の天然記念物に指定されている樹齢約800年の巨大なクスノキが茂る。.
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花山天皇
花山天皇(かざんてんのう/かさんてんのう、安和元年10月26日(968年11月29日) - 寛弘5年2月8日(1008年3月17日)、在位:永観2年10月10日(984年11月5日) - 寛和2年6月23日(986年8月1日))は、日本(平安時代中期)の第65代天皇。諱は師貞(もろさだ)。花山院(かさんいん)や花山法皇とも呼ばれる。 冷泉天皇の第一皇子。母は、摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子。三条天皇の異母兄。花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家、のち断絶)の祖。.
花園天皇
花園天皇(はなぞのてんのう、永仁5年7月25日(1297年8月14日) - 正平3年11月11日(1348年12月2日))は鎌倉時代の第95代天皇(在位:延慶元年11月16日(1308年12月28日)- 文保2年2月26日(1318年3月29日))。諱は富仁(とみひと)。 伏見天皇の第四皇子。母は、左大臣洞院実雄の娘、顕親門院・洞院季子。鎌倉時代の二つの皇統のうち持明院統に属する。.
遺詔
遺詔(ゆいしょう/いしょう/ゆいじょう/いじょう)は、天皇または上皇が、生前に死後のことについて指示した詔。.
聖武天皇
聖武天皇(しょうむ てんのう、大宝元年(701年) - 天平勝宝8歳5月2日(756年6月4日)、在位:神亀元年2月4日(724年3月3日) - 天平勝宝元年7月2日(749年8月19日))は、日本(奈良時代)の第45代天皇。即位前の名は首皇子(おびとのみこ)。 尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。.
静岡県
静岡県(しずおかけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は静岡市。中部地方及び東海地方に含まれる。2017年(平成29年)現在、県の人口は約367万人であり都道府県別で第10位である。.
頭髪
頭髪(とうはつ)は、ヒトの頭部に生える毛である。毛髪(もうはつ)、髪の毛(かみのけ)、また単に髪(かみ)ともいう。.
順徳天皇
順徳天皇(じゅんとくてんのう)は、鎌倉時代の第84代天皇(在位:承元4年11月25日(1210年12月12日) - 承久3年4月20日(1221年5月13日)) - コトバンク - コトバンク 『秋山喜代子』 - コトバンク 『山本博也』。諱は守成(もりなり)。 後鳥羽天皇の第三皇子。母は、藤原範季の娘・重子(修明門院)。.
行燈山古墳
行燈山古墳(あんどんやまこふん、行灯山古墳)は、奈良県天理市柳本町にある古墳。形状は前方後円墳。柳本古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ、山邊道勾岡上陵)」として第10代崇神天皇の陵に治定されている。 全国では第16位の規模の古墳で、4世紀前半頃(古墳時代前期)の築造と推定される。.
顕宗天皇
顕宗天皇(けんぞうてんのう、正字体:顯宗天皇、允恭天皇39年 - 顕宗天皇3年4月25日)は、記紀・『播磨国風土記』に伝えられる第23代天皇(在位:顕宗天皇元年1月1日 - 同3年4月25日)。弘計天皇(をけのすめらみこと)・来目稚子(くめのわくご)、袁祁王・袁祁之石巣別命(をけのいわすわけのみこと、『古事記』)、袁奚天皇(『播磨国風土記』)とも。.
風岡典之
岡 典之(かざおか のりゆき、1946年(昭和21年)9月15日 - )は、日本の官僚。元宮内庁長官、元国土交通事務次官。新潟県出身。.
飯豊青皇女
飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ、允恭天皇29年? - 清寧天皇5年11月?)は、記紀に伝えられる5世紀末の皇族(王族)。履中天皇の皇女、または市辺押磐皇子の王女。 第22代清寧天皇の崩御後に一時政を執ったとされ、飯豊天皇とも呼ばれる。.
飛鳥
飛鳥(あすか)は、かつて大和国高市郡にあった地域である。現在の奈良県高市郡明日香村大字飛鳥周辺を指した。 上記の他に、河内国安宿郡に現在の大阪府羽曳野市及び太子町あたりを指した飛鳥という地名があり、両者を区別するために、河内国(大阪府)の飛鳥は「'''近つ飛鳥'''」「'''河内飛鳥'''」とよばれ、大和国(奈良県)の飛鳥は「遠つ飛鳥」「大和飛鳥」と呼ばれる。この場合の「近つ」「遠つ」はかつて都があった難波宮(大阪市中央区)からみて近いかと遠いかによるとする説もある(なお、遠つ飛鳥と近つ飛鳥を逆に解する説もある)。 現在では、単に「飛鳥」といった場合には、大阪府の飛鳥(河内飛鳥)ではなく奈良県の飛鳥(大和飛鳥)を指すのが一般的である。したがって、ここでは奈良県の飛鳥について記述している(大阪の飛鳥は「河内飛鳥」を参照)。.
養老律令
養老律令(ようろうりつりょう)は、古代日本で757年(天平宝字元年)に施行された基本法令。構成は、律10巻12編、令10巻30編。大宝律令に続く律令として施行され、古代日本の政治体制を規定する根本法令として機能したが、平安時代に入ると現実の社会・経済状況と齟齬をきたし始め、平安時代には格式の制定などによってこれを補ってきたが、遅くとも平安中期までにほとんど形骸化した。廃止法令は特に出されず、形式的には明治維新期まで存続した。制定内容の資料が未発見である大宝律令は、この養老律令から学者らが内容を推測して概要を捉えている。.
西太后
ランダの画家によって描かれた油絵 宦官に担がれた神輿に乗る西太后 西太后と外国の婦女 西太后(せいたいこう・せいたいごう、道光15年10月10日(1835年11月29日) - 光緒34年10月22日(1908年11月15日))は、清の咸豊帝の側妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州・旗人(鑲藍旗人)のイェヘナラ(Yehe nala、葉赫那拉、エホナラ)氏の出身。孝欽顕皇后(こうきんけんこうごう、満洲語:、転写:hiyoošungga gingguji iletu hūwangheo)、または慈禧太后(じきたいこう)。老仏爺(ラオフオイエ)とも呼ばれる。 中国語では「慈禧太后(Cíxǐ Tàihòu ツーシー・タイホウ)」ないし「那拉皇太后」、「西太后(Xī Tàihòu シータイホウ)」。英語では「Empress Dowager(皇太后)」という呼称がよく使われる。幼名は蘭児。 紫禁城内における3人の皇太后の住む場所によって、中宮、東宮(東太后)(第2婦人・ニオフル氏。慈安皇太后、母后皇太后)、西宮(西太后)(第3夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)と区別して呼ばれた。徽号と合わせた諡号は孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后。.
西区 (堺市)
おおとりウイングス 西区(にしく)は、堺市を構成する7行政区のうちのひとつ。.
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親王
親王(しんのう)は、東アジアにおいて、嫡出の皇子や最高位の皇族男子に与えられる称号。もともと中国諸王朝(晋以後)において用いられ、日本や、朝鮮(大韓帝国期)、ベトナムにおいても採用された。 これらに倣って、非漢字圏の君主の親族男子を親王と呼ぶことや、プリンスの訳語として用いることもままある。.
観心寺
観心寺(かんしんじ)は、大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院。山号を檜尾山と称し、遺跡本山である。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は実恵である。 仏塔古寺十八尊第十三番。奥河内の観光地の一つ。大阪みどりの百選に選定されている。.
香川県
香川県(かがわけん)は、瀬戸内海に面し四国の北東部に位置する日本の県の一つ。令制国の讃岐国に当たる。県庁所在地は高松市。県名は旧讃岐国のほぼ中央に存在し、かつて高松が属していた古代以来の郡である香川郡から採られた。面積が全国一小さい県だが、災害が少なくコンパクトな中に都市の利便性と豊かな自然が調和した生活環境を併せ持つ特徴を有するかがわ暮らしガイドブック(香川県発行)。.
香芝市
香芝市(かしばし)は、奈良県中西部に位置する市。.
誉田御廟山古墳
テレオ空中写真(1985年) 国土航空写真 誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん)または誉田山古墳(こんだやまこふん)は、大阪府羽曳野市誉田にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)」として第15代応神天皇の陵に治定されている。また外濠と外堤は1978年(昭和53年)に国の史跡に指定されている堀江門也「応神天皇陵古墳外濠外堤」 文化庁文化財保護部史跡研究会監修『図説 日本の史跡 第2巻 原始2』同朋舎出版 1991年 248ページ。 名称は「応神天皇陵」とも。全国で大仙陵古墳(大阪府堺市)に次ぐ第2位の規模の巨大古墳である。 2008年9月26日、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)を含む百舌鳥古墳群、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)を含む古市古墳群が世界遺産の国内暫定リストに追加されている。.
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誉田八幡宮
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)は、大阪府羽曳野市にある神社である。旧社格は府社。主祭神は応神天皇で、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の直ぐ南に鎮座する。.
諡
諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。.
諸陵寮
諸陵寮(しょりょうりょう/みささぎのつかさ)は、律令制において治部省に属した機関。明治政府初年にも諸陵寮は短い年間復活しいちど廃止されたが、再編改称などを経て、1886年再興をはたしている。その後身である宮内庁書陵部が現在、陵墓(天皇陵)を管理している。.
諸陵式
『諸陵式』(しょりょうしき)とは、『延喜式』の中で朝廷が管理すべき山陵諸墓に関する記述部分のこと。『延喜式』の巻第二十一に記載される。.
高取町
取町(たかとりちょう)は、奈良県の中部に位置する町。.
高屋城
屋城(たかやじょう)は、大阪府羽曳野市古市にかつてあった日本の城。三管領の畠山氏の本拠地である。本丸は天皇陵に治定されている古墳(高屋築山古墳)があり、立ち入りが禁止されている。二の丸、三の丸は住宅地となっている。.
高屋築山古墳
屋築山古墳(たかやつきやまこふん)は、大阪府羽曳野市古市5丁目にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群の最南端に位置する。「安閑天皇陵」とも。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ)」として第27代安閑天皇の陵に治定されているほか、合葬の神前皇女(継体天皇皇女)の墓に治定されている。.
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高市郡
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高倉天皇
倉天皇(たかくらてんのう、応保元年9月3日(1161年9月23日) - 治承5年1月14日(1181年1月30日))は、平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年4月9日) - 治承4年2月21日(1180年3月18日))。諱は憲仁(のりひと)という。 後白河天皇の第7皇子。母は皇太后平滋子(建春門院)。安徳天皇、後鳥羽天皇らの父。.
高知県
知県(こうちけん)は、日本の県の一つ。四国の太平洋側に位置する。県庁所在地は高知市。.
護国寺
月光殿入口(重要文化財の月光殿(旧日光院客殿)はこの建物の背後にあり、この画像では見えない) 護国寺(ごこくじ)は、東京都文京区大塚五丁目にある真言宗豊山派の寺。神齢山悉地院大聖護国寺と称する。.
谷森善臣
谷森 善臣(たにもり よしおみ、文化14年12月28日(1818年2月3日) - 1911年(明治44年)11月16日)は、幕末から明治時代にかけての国学者。陵墓・南朝史・皇室系譜の研究に業績を残した。本姓は平氏、初名は松彦だが、28歳の時に種松(種万都・種梥とも)へ改名。通称は二郎・外記。菫壺・靖斎とも号した。.
豊島岡墓地
豊島岡墓地(としまがおかぼち)は、東京都文京区大塚五丁目にある、皇族(天皇・皇后を除く)専用の墓地である。護国寺に隣接する。.
貴族
貴族(きぞく)とは、特権を備えた名誉や称号を持ち、それ故に他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団を指す。 その社会的特権はしばしば強大であるが、同時に国や地域により異なり、同じ国・地域であっても時代によって変遷する。また貴族階級は伝統的な概念ではあるものの、時に新たな人員を迎え入れ、常に人員は更新され続けている。 貴族階級は多くの場合は君主制の下に維持され、称号の付与や特権の保証なども君主によって行われる。一般的に、貴族などという特権階級を認めてしまうということは反民主主義とされている。フランスでは、貴族階級をものともしないヴォルテールの姿勢がフランス的民主主義の基礎となり、フランス革命でそうした考え方は公認のもの、正統なものとなり、ここに民主主義が実現したとされている。しかし共和制など君主の存在を持たない制度においても貴族制度が存在した場合もある。 西洋では特に青い血という言葉が貴族の血筋を意味する慣用句として用いることがある。ただし、これはあくまでもスペイン語由来のものであるため限定的ではある。日本の場合、貴族の起源について穀物の貯蔵が貴族制度の遠因となったと考える論者もある。.
鳥取県
鳥取県(とっとりけん)は、日本の県の一つである。中国地方の日本海側、いわゆる山陰地方の東側を占め、東は兵庫県、西は島根県、南は中国山地を挟んで岡山県・広島県に隣接し、西日本または中国地方有数の豪雪地帯でもある。また鳥取県は全国47都道府県中面積は7番目に小さく、人口は最も少ない。市の数も最も少なく、4市である。県庁所在地は県東部の鳥取市である。.
鳥屋ミサンザイ古墳
鳥屋ミサンザイ古墳(とりやミサンザイこふん、鳥屋見三才古墳)は、奈良県橿原市鳥屋町にある古墳。形状は前方後円墳。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ、身狹桃花鳥坂上陵)」として第28代宣化天皇・皇后橘仲皇女の合葬陵に治定されている。.
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鳥羽天皇
鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷いた。.
賽銭
賽銭(さいせん)とは、祈願成就のお礼として神や仏に奉納する金銭のこと。元は金銭ではなく幣帛・米などを供えた。 賽は「神から福を受けたのに感謝して祭る」の意味。.
鹿児島県
鹿児島県(かごしまけん)は、九州地方南部に位置する日本の都道府県。九州島の南側には離島(薩南諸島)が点在する。九州島の部分は県本土と表現され、2つの半島(薩摩半島・大隅半島)を有する。南北の距離は600km、海岸線は2,722kmに及ぶ。県庁所在地は鹿児島市。 世界遺産の屋久島や種子島宇宙センター、霧島山、桜島などがあり、自然・文化・観光・産業などの面において、豊富な資源を有している。.
龍安寺
山門 龍安寺(りょうあんじ)は、京都府京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院。妙心寺との関係が深く、山内塔頭と同様の扱いを受けている。山号は大雲山と号し、石庭で知られる。本尊は釈迦如来、開基(創建者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。.
近衛天皇
近衛天皇(このえてんのう、旧字体:近衞、保延5年5月18日(1139年6月16日)- 久寿2年7月23日(1155年8月22日))は、日本の第76代天皇(在位:永治元年12月7日(1142年1月5日) - 久寿2年7月23日(1155年8月22日))。諱は躰仁(なりひと)。 鳥羽天皇の第九皇子。母は藤原得子(美福門院)。.
霊元天皇
霊元天皇(れいげんてんのう、承応3年5月25日(1654年7月9日) - 享保17年8月6日(1732年9月24日))は、江戸時代前期の第112代天皇(在位:寛文3年1月26日(1663年3月5日)- 貞享4年3月21日(1687年5月2日))。幼名は高貴宮(あてのみや)、諱は識仁(さとひと)。「仙洞様」とよばれることが多い(譲位後の期間が長いため)。歌人、能書家でもある。.
茨木市
茨木市(いばらきし)は、大阪府北部の北摂三島地域に位置する市。施行時特例市に指定されている。大都市である大阪市と京都市の間にあり、大阪市のベッドタウンとしての性格を持つ。市内をJR・阪急・大阪モノレールが通る。.
舒明天皇
舒明天皇(じょめいてんのう、推古天皇元年(593年)? - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))は、日本の第34代天皇(在位:舒明天皇元年1月4日(629年2月2日) - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))。 諱は田村(たむら)。 和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。.
赤坂天王山古墳
250px 赤坂天王山古墳(あかさかてんのうざんこふん、赤坂天王山1号墳)は、奈良県桜井市倉橋にある方墳。国の史跡に指定されている(指定名称は「天王山古墳」)。 第32代崇峻天皇の真陵に比定する説がある。.
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赤間神宮
赤間神宮(あかまじんぐう)は、山口県下関市にある神社である。旧社格は官幣大社。壇ノ浦の戦いにおいて幼くして亡くなった安徳天皇を祀る。 江戸時代までは安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていた。平家一門を祀る塚があることでも有名であり、前身の阿弥陀寺は『耳なし芳一』の舞台であったが、廃仏毀釈により神社となり現在に至る。.
薄葬令
薄葬令(はくそうれい)は、大化2年(646年)、身分に応じて墳墓の規模などを制限した勅令。 『日本書紀』大化2年(646年)3月22日条によれば、大化の改新のなかで薄葬令が規定された。 中国の故事に習い、民衆の犠牲を軽減するため、王臣と庶民の身分に応じて作ってよい陵墓を制限し、人馬の殉死殉葬を禁止し、天皇の陵にかける時間を7日以内に制限するなどの制限が加えられた。 墳陵は小型簡素化され、前方後円墳の造営がなくなり、古墳時代は事実上終わりを告げる。.
開化天皇
開化天皇(かいかてんのう、孝元天皇7年 - 開化天皇60年4月9日)は、日本の第9代天皇(在位:孝元天皇57年11月12日 - 開化天皇60年4月9日)。 和風諡号は、『日本書紀』では「稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)」、『古事記』では「若倭根子日子大毘毘命」。 『日本書紀』・『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。.
門跡
跡(もんせき、もんぜき)は、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。寺格の一つ。元来は、日本の仏教の開祖の正式な後継者のことで「門葉門流」の意であった(この場合は門主とも)。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになった。 浄土宗の知恩院門跡は浄土門主(もんす)という。 浄土真宗本願寺派の本願寺住職は門主(もんしゅ)、真宗大谷派の僧侶及び門徒の代表者は門首(もんしゅ)と書き、いずれも親鸞の子孫の大谷家から出ている。.
藤原定家
藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、鎌倉時代初期の公家・歌人。諱は「ていか」と音読みされることが多い。小倉百人一首の撰者で権中納言定家を称する。.
藤原氏
藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.
藤井寺市
藤井寺市(ふじいでらし)は、大阪府南河内地域に位置する市である。.
藩
藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.
葬儀
葬儀(そうぎ)あるいは葬式(そうしき)とは、人の死を弔うために行われる祭儀、葬制の一部である。.
蒲生君平
蒲生 君平(がもう くんぺい、明和5年〈1768年〉 - 文化10年7月5日〈1813年7月31日〉)は、江戸時代後期の儒学者。尊王論者、海防論者。同時代の仙台藩の林子平・上野国の郷士高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられる(「奇」は「優れた」という意味)。生涯を赤貧と波乱に満ちながら、忠誠義烈の精神を貫いた。姓は、天明8年(17歳)に祖先が会津藩主蒲生氏郷であるという家伝(氏郷の子・蒲生帯刀正行が宇都宮から会津に転封の際、福田家の娘を身重のため宇都宮に残し、それから4代目が父の正栄という)に倣い改めた。君平は字で、諱は秀実、通称は伊三郎。号に修静庵。.
醍醐天皇
醍醐天皇(だいごてんのう、元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月29日(930年10月23日))は、平安時代の第60代天皇(在位:寛平9年7月13日(897年8月14日)- 延長8年9月22日(930年10月16日))。臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源 維城(みなもと の これざね)といった。のち父の即位とともに皇族に列し親王宣下ののちに敦仁(あつぎみ・あつひと)に改めた。 宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。.
醍醐寺
醍醐寺(だいごじ)は、京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある仏教寺院、真言宗醍醐派総本山で、山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝である。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持つ。豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られている。.
野口王墓
野口王墓(のぐちのおうのはか)は、奈良県高市郡明日香村にある古墳。形状は八角墳。古墳時代終末期の古墳である。 宮内庁により「檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)」として第40代天武天皇・第41代持統天皇の陵に治定されている。『日本書紀』には「大内陵」と記される。.
重祚
重祚(ちょうそ)は、一度退位した君主が再び即位することである。一般に中華文明圏の君主について用いられる。.
長岡京
長岡京(ながおかきょう)は、山城国乙訓郡(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区)にあった古代日本の都城。宮域跡は向日市鶏冠井町(かいでちょう)に位置し、「長岡宮跡」として国の史跡に指定されている。 延暦3年(784年)11月11日に平城京から遷都され、延暦13年(794年)10月22日に平安京に遷都されるまで機能した。.
長岡京市
長岡天満宮 長岡天満宮の霧島つつじ 光明寺「もみじ参道」 長岡京市(ながおかきょうし)は、京都府の南西に位置する市。.
長崎県
長崎県(ながさきけん)は、日本の九州地方北西端に位置する県である。県庁所在地は長崎市。 五島列島、壱岐島、対馬など、数多くの島嶼を含み、47都道府県中最も島が多いことで知られる。また、多島であるうえにリアス式海岸を多く擁することから、海岸線の長さは47都道府県中第2位もしくは第1位である(※「地形」節にて詳説)。.
長野県
長野県空撮画像。長野盆地、富士山、浅間山、日本アルプスなどを望む。 長野県の地形図 長野県(ながのけん)は、本州内陸部に位置する日本の県の一つ。令制国名の信濃国に因み「信州」とも呼ばれている。海に面していないいわゆる内陸県であり、大規模な山岳地があるため可住地面積率は小さい。県庁所在地は長野市。善光寺の門前町として発展し第18回冬季オリンピックの開催地となった自治体でもある。.
長慶天皇
長慶天皇(ちょうけいてんのう)は、南北朝時代の第98代天皇にして、南朝の第3代天皇(在位:正平23年/応安元年(1368年) 3月鴨脚本『皇代記』によるが、日付を欠くため、3月11日の後村上天皇崩御を受けたものか、あるいは先だって行われた譲位を受けたものか、確認しがたい。 - 弘和3年/永徳3年(1383年)冬)。諱は寛成(ゆたなり)。 南朝関係史料の少なさから、近世以来諸家の間で天皇の在位・非在位をめぐる議論があり、明治44年(1911年)3月に明治天皇が南朝を正統とする勅裁を下した際も在位認定されないままであったが、大正時代に入って、八代国治・武田祐吉の実証的研究が決定的な在位説として評価される。これを受けて宮内省の調査が行われ、大正15年(1926年)10月21日に皇統加列についての詔書発布があり、ここにようやく長慶天皇の在位の事実が公認されるに至った。.
雄略天皇
略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年12月 - 雄略天皇23年8月7日)は、第21代天皇(在位:安康天皇3年11月13日 - 雄略天皇23年8月7日)。大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ、大泊瀬幼武尊 おおはつせわかたけるのみこと とも)、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇、有徳天皇とも。 また『宋書』、『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定される。その倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘や熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘を「獲加多支鹵大王、すなわちワカタケル大王と解して、その証とする説が有力である。 『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、まだ朝廷としての組織は未熟ではあったものの、雄略朝をヤマト王権の勢力が拡大強化された歴史的な画期であったと古代の人々が捉えていたとみられる。.
院政
院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.
陽成天皇
陽成天皇(ようぜいてんのう、貞観10年12月16日(868年1月2日) - 天暦3年9月29日(949年10月23日))は、平安時代前期の第57代天皇(在位:貞観18年11月29日(876年12月18日) - 元慶8年2月4日(884年3月4日))。諱は貞明(さだあきら)。.
陵墓参考地
陵墓参考地(りょうぼさんこうち)は、古記録・地域伝承・墳丘の形態や規模・出土品等により、宮内庁によって皇族の墳墓とされたが、被葬者を特定する資料に欠ける陵墓。2府16県に46箇所が所在する。 本項では、上記の宮内庁指定の陵墓参考地とともに、宮内庁指定ではないが学術上陵墓と見られている墳墓についても記述する。.
附則
則(ふそく)とは、法令において、付随的な事項を定めた部分のこと。これ以外の部分を本則という。付則と記述される場合もある。.
KADOKAWA
株式会社KADOKAWA(カドカワ、)は、日本の出版社および映画会社。カドカワ株式会社の完全子会社。法人格としては1954年(昭和29年)に設立した角川書店(初代)、旧角川ホールディングス、旧角川グループホールディングスと同一である。.
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推古天皇
推古天皇(すいこてんのう、欽明天皇15年(554年) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)『古事記』では戊子年3月15日)は、第33代天皇(在位:崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。(神功皇后を含まない)歴代天皇の中では最初の女帝(女性天皇)であるベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎(翻訳)、78頁。(第2章『女性統治者の出現』、5『最初の「天皇」は女性だった』、『日本で最初の「天皇」』)、また、女性君主は当時の東アジアではまだみられなかった。諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)。炊屋姫尊とも称される。『古事記』ではこの天皇までを記している。 天皇号を初めて用いた日本の君主という説もあるが、1998年の飛鳥池工房遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見された以後は、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有力となっている。また、容姿端麗であった。.
東山天皇
東山天皇(ひがしやまてんのう、延宝3年9月3日(1675年10月21日) - 宝永6年12月17日(1710年1月16日))は江戸時代の第113代天皇(在位:貞享4年3月25日(1687年5月6日) - 宝永6年6月21日(1709年7月27日))。幼名は五宮、諱は朝仁(あさひと)。追号の「東山」は陵所泉涌寺の山号に因む。.
東山区
東山区(ひがしやまく)は、京都市を構成する11区のうちのひとつ。 区内には祇園や三条京阪周辺などの繁華街がある。鴨川左岸の平野部は早くから市街化されているが、東山の西麓には大規模な寺社が林立する。景観条例等の規制が比較的厳しいこともあって、他の区で見られるような山間部の住宅開発は行われておらず、人口は11区中最も少ない。なお、当区の65歳以上の高齢者比率は11区中最も高く、全国の政令指定都市の行政区の中でも6番目に高い。.
東京都
東京都シンボルマーク。1989年(平成元年)に旧東京市の成立100周年を記念して同年6月1日に制定。「東京都の頭文字の「T」を中央に秘めている『都政 2012』東京都生活文化局広報広聴部広報課 編集・発行、2012年3月発行。東京都が作成した、240ページほどの冊子。」と解説されている。(都の木はイチョウではあるが)イチョウの葉の形を象ったわけではない、という。 東京都(とうきょうと)は、日本の首都事実上の首都。詳細後述であり、関東地方に位置する東京都区部(東京23区)、多摩地域(市部、西多摩郡)、島嶼部(大島支庁・三宅支庁・八丈支庁・小笠原支庁)を管轄する広域地方公共団体(都道府県)の一つである。都庁所在地は新宿区(東京と表記する場合もある)。 都公認の英語の表記はTokyo Metropolis (Tokyo Met.) 。他にはTokyo PrefectureとTokyo Metropolitan Prefectureがある。.
村上天皇
村上天皇(むらかみてんのう、延長4年旧6月2日(926年7月14日)- 康保4年旧5月25日(967年7月5日))、は、平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年(946年)旧4月28日 - 康保4年(967年)旧5月25日)。諱は成明(なりあきら)。 第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経女中宮穏子。第61代朱雀天皇の同母弟。.
栃木県
栃木県(とちぎけん)は、日本の都道府県の一つ。関東地方北部に位置する。県庁所在地は宇都宮市。県内には日光国立公園が立地し、日光・那須などの観光地・リゾート地を有する。.
桜井市
桜井市(さくらいし)は、奈良県中部、中和地域に位置する市。 縄文時代や弥生時代の土器の欠片が一般の畑などでも見られるなど歴史の深さを窺わせる。また、弥生時代や古墳時代の前方後円墳などの古墳が多く今日まで残る。そのためヤマト王権の中心的な地域であったと考えられ、その前期は三輪王権とも言われるが、今日の三輪地域を指しているとされる。 日本で最も古い神社の一つともいわれる三輪の大神神社、初瀬の長谷寺、多武峰の談山神社、等弥神社などの由緒ある社寺も数多く見られる。宗教的にも歴史が深く古代信仰の形体を知る上でも重要な地区である。また、土舞台(現桜井公園)は日本芸能発祥の地と言われ、“万葉のあけぼのの地”などと呼称されることもある。.
桜町天皇
桜町天皇(さくらまちてんのう、享保5年1月1日(1720年2月8日) - 寛延3年4月23日(1750年5月28日))は、江戸時代の第115代天皇(在位:享保20年3月21日(1735年4月13日) - 延享4年5月2日(1747年6月9日))。幼名を若宮、諱を昭仁(てるひと)という。.
桃園天皇
桃園天皇(ももぞのてんのう、寛保元年2月29日(1741年4月14日) - 宝暦12年7月12日(1762年8月31日))は、江戸時代の第116代天皇(在位:延享4年5月2日(1747年6月9日)- 宝暦12年7月12日(1762年8月31日))。幼名を八穂宮(やほのみや)または茶地宮(さちのみや)、諱を遐仁(とおひと)という。.
桓武天皇
桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))は、日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))。.
梅山古墳
左下に吉備姫皇女王墓・猿石(国土航空写真) 梅山古墳(うめやまこふん)は、奈良県高市郡明日香村にある古墳。形状は前方後円墳。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)」として第29代欽明天皇の陵に治定されている。.
植山古墳
植山古墳(うえやまこふん)は、奈良県橿原市に所在する終末期の古墳(長方墳)。2000年(平成12年)に橿原市教育委員会により発掘調査されている。磯長谷古墳群中の山田高塚古墳(伝推古天皇陵)へ改葬される前の、推古天皇とその子息竹田皇子の合葬墓であった古墳ではないかと言われている。2002年に国の史跡に指定されている。.
橿原市
橿原市(かしはらし)は、奈良県中部の市である。総人口約124,000人と奈良市に次ぐ県下第二の都市でもある。市名は神武天皇が磐余(いわれ)の地において磯城の首長の兄磯城(えしき)を破り、饒速日命も天津瑞を献じて仕えることとなり、神武天皇即位紀元辛酉の年の春正月の庚辰の朔日に畝傍山東南「橿原の宮」に即位し建国したことに由来する。市章(シンボルマーク)の金鵄は、神武天皇の弓弭(ゆはず・弓の端)に止まって光り輝き、長髄彦の兵を追い払った鳶から意匠された。.
欽明天皇
欽明天皇(きんめいてんのう、継体天皇3年(509年?) - 欽明天皇32年4月15日(571年5月24日?))は、第29代天皇(在位:宣化天皇4年12月5日(539年12月30日?) - 欽明天皇32年(571年?)4月15日)。和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)。別名、志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇(いずれも「しきしまのすめらみこと」と呼ぶ)。この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した。.
正平 (日本)
正平(しょうへい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。興国の後、建徳の前。1346年から1370年までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方が後村上天皇、長慶天皇。北朝方が光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮、足利義満。 昭和、明治、応永、平成、延暦に次ぎ、歴代で6番目に長い元号である。一世一元の制制定以前の元号では3番目に長い。.
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正親町天皇
正親町天皇(おおぎまちてんのう、永正14年5月29日(1517年6月18日) - 文禄2年1月5日(1593年2月6日))は、第106代天皇(在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日) - 天正14年11月7日(1586年12月17日))。諱は方仁(みちひと)。.
武烈天皇
武烈天皇(ぶれつてんのう、仁賢天皇2年 - 武烈天皇8年12月8日)は、古墳時代の第25代天皇(在位:仁賢天皇11年12月 - 武烈天皇8年12月8日)。 名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)・小泊瀬稚鷦鷯天皇(-のすめらみこと、以上『日本書紀』)、小長谷若雀命(『古事記』)。暴君として伝えられているが、実在した人物かどうかについては議論がある。.
武蔵陵墓地
武蔵陵墓地(むさしりょうぼち)は、東京都八王子市長房町にある皇室墓地。大正天皇陵・貞明皇后陵・昭和天皇陵・香淳皇后陵の4陵が造営されている。 昭和天皇陵が造営される以前は多摩御陵(たまごりょう)と称しており、現在でも通称として使われている。八王子八十八景のひとつ。宮内庁書陵部多摩陵墓監区事務所がある。.
歯
歯(は、tooth)は、口腔内にある咀嚼するための一番目の器官。人体でもっとも硬く、遺体ではその治療状況によって人物の特定の重要な手掛かりとなる。人工歯と区別する意味で天然歯と言うこともある。多くの種類の構造を持ち、それぞれが異なる目的を果たす。歯学では、過去には歯牙(しが)と言ったが、現在は使わない傾向にある。 また、それに似たものを歯ということがある。例えば歯車、鋸歯など。 歯の部位を示すために、歯の内側を舌側、口蓋側、外側を唇側、頬側、正中に近い方を近心、反対側を遠心、上端下顎の歯の場合。上顎の歯の場合は下端。を切縁、咬合面という。 多くの高等動物が持つ。人間は乳歯と永久歯の二組を持つが(二生歯性)、ネズミ目のように一組の歯が伸び続ける動物もいれば(一生歯性)、サメのように、二週間に一組ずつ新しい歯が作られていく動物もいる(多生歯性)。化石化した哺乳類においてもっとも特徴的な部位であり、古生物学者達は化石の種類や関係を鑑別するのにしばしば歯を使う。 歯は摂食の際の重要な構造であり、その形は餌のタイプと強く結びついている。.
歴史読本
『歴史読本』(れきしどくほん) は、KADOKAWAが発行する日本の歴史専門雑誌。2015年3月号までは月刊、同年4月より季刊。同年10月6日発売の2015年秋号を最後に休刊。略称は歴読・れきどく。編集はKADOKAWAのブランドカンパニーである中経出版。かつては新人物往来社が発行していた。.
殯
殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。その棺を安置する場所をも指すことがある。殯の期間に遺体を安置した建物を「殯宮」(「もがりのみや」、『万葉集』では「あらきのみや」)という。 天皇・皇后・太皇太后・皇太后の大喪儀の一つとして行われる。.
段ノ塚古墳
段ノ塚古墳(だんのづかこふん)は、奈良県桜井市忍坂にある古墳。形状は八角墳。古墳時代終末期の古墳である。 宮内庁により「押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)」として第34代舒明天皇の陵に治定されている(なお宮内庁の治定では墳形は上円下方墳になっている)。.
水戸藩
水戸藩邸跡石碑(京都市上京区下長者町通烏丸西入北側) 水戸藩(みとはん)は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。藩庁は水戸城(水戸市)に置かれた。.
民間信仰
民間信仰(みんかんしんこう)とは、教義や教団組織をもたずに地域共同体に機能する庶民信仰のことで、個人の自覚的入信にもとづく創唱宗教とは異なる世界大百科事典 第2版。民間宗教、民俗宗教、民衆宗教、伝承的信仰ともいう。フォークロアの訳語としての「民間信仰」は1897年に姉崎正治が初例とされる。.
江戸幕府
江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.
江戸時代
江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.
河内大塚山古墳
テレオ空中写真(1979年) 国土航空写真 大塚山古墳(おおつかやまこふん)は、大阪府羽曳野市・松原市にある古墳。形状は前方後円墳。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「大塚陵墓参考地」(被葬候補者:第21代雄略天皇)として陵墓参考地に治定されている。 全国で大仙陵古墳(大阪府堺市)、誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市)、上石津ミサンザイ古墳(大阪府堺市)、造山古墳(岡山県岡山市)に次ぐ第5位の規模の巨大古墳である。.
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河内国
河内国(かわちのくに/かはちのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.
河内長野市
河内長野市(かわちながのし)は、大阪府南河内地域に位置する市。 この市は、1954年(昭和29年)に長野町をはじめとする6町村が合併しており、市の中心部に対しては旧町名を用いて長野と呼称される。南部の山麓地域では奥河内という観光名称が使われ、滝畑四十八滝や岩湧山などの大自然、観心寺や金剛寺、高野街道などの歴史的価値のある史跡や建造物が残る。楠木氏ゆかりの地としても知られており国宝・重要文化財数に関しては全国の市町村のうち日光市に次いで12番目に多い自治体であることから「文化財のまち 河内長野」と称される。 大阪都心まで約30分、関西国際空港へは約1時間という交通至便の地にありながら、市を囲む山並みは壮観で、市内に居ながらにして大自然を満喫できることなどから、市制施行以降、市内各地にニュータウン(新興住宅地)が造成され、衛星都市として発展してきた。 週刊東洋経済の「日本のいい街ランキング」によると2012年発表の総合ランキングで全国788市中149位(大阪府内33市中8位)と2010年の288位より大きく順位を上げた。同誌の「安全・安心な街ランキング」においては、大阪府内で第1位を記録している。 市内全域において10月2週目にはだんじり祭が盛んに行われており、ぶんまわし(全地区)や、曳き歌(市町東、向野町、三日市地区)、やりまわし(三日市地区)などの泉州や南河内など様々な形態の祭りが盛んに行われている。 また、河内長野市は、爪楊枝(つまようじ)の産地としても知られており、全国の爪楊枝の生産の大半がここ河内長野で行われている。.
治部省
治部省(じぶしょう)は律令制における八省のうちのひとつ。和名は「おさむるつかさ」。.
法住寺 (京都市)
法住寺(ほうじゅうじ)は、日本の京都市東山区にある天台宗の仏教寺院である。.
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法律
法律(ほうりつ)は、以下のように様々な意味で用いられる。.
泉涌寺
泉涌寺 (せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内町(やまのうちちょう)にある真言宗泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。 平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)である。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれている。真言宗十八本山8番札所。洛陽三十三所観音霊場20番札所。京都十三仏霊場6番札所。泉山七福神巡り番外(楊貴妃観音)札所。.
淡路島
淡路島(あわじしま)は、瀬戸内海東部に位置し、瀬戸内海では最大の島で、人口は離島の中では最も多い。令制国の淡路国の主要国域を占める。近畿地方の兵庫県に属し、現在は北から淡路市・洲本市・南あわじ市の3市で区分される。.
淳仁天皇
淳仁天皇(じゅんにんてんのう、天平5年(733年) - 天平神護元年10月23日(765年11月10日))は、日本の第47代天皇(在位:天平宝字2年8月1日(758年9月7日) - 天平宝字8年10月9日(764年11月6日))。諡号は明治時代になってから付けられたもので、古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれる。諱は大炊(おおい)であり、践祚前は大炊王(おおいおう)と称された。.
淳和天皇
淳和天皇(じゅんなてんのう、延暦5年(786年) - 承和7年5月8日(840年6月11日)、在位:弘仁14年4月27日(823年6月9日) - 天長10年2月28日(833年3月22日))は、平安時代初期の第53代天皇。西院帝ともいう。諱は大伴(おおとも)。 桓武天皇の第七皇子。 母は、藤原百川の娘・旅子。平城天皇、嵯峨天皇は異母兄。.
渡御
渡御(とぎょ).
清寧天皇
清寧天皇(せいねいてんのう、允恭天皇33年? - 清寧天皇5年1月16日)は、第22代天皇(在位:清寧天皇元年1月15日 - 同5年1月16日)。御名は白髪皇子(しらかのみこ)。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)、白髪大倭根子命(古事記)。.
清和天皇
清和天皇(せいわてんのう、嘉祥3年3月25日(850年5月10日) - 元慶4年12月4日(881年1月7日))は、平安時代前期の第56代天皇。在位は天安2年11月7日(858年12月15日) - 貞観18年11月29日(876年12月18日)。諱は惟仁(これひと)。後世、武門の棟梁となる清和源氏の祖。 文徳天皇の第四皇子。母は太政大臣・藤原良房の娘、女御・明子。.
渋谷向山古墳
渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん)は、奈良県天理市渋谷町にある古墳。形状は前方後円墳。柳本古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ、山邊道上陵)」として第12代景行天皇の陵に治定されている。 全国では第8位の規模の古墳で、4世紀後半頃(古墳時代前期)の築造と推定される。.
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湯立神楽
佐男神社(兵庫県伊丹市)の湯立神楽(2014年7月23日撮影) 湯立神楽(ゆだてかぐら/ゆたてかぐら)は、日本の伝統的な神楽の形式のひとつ。 釜で湯を煮えたぎらせ、その湯を用いて神事を執り行い、無病息災や五穀豊穣などを願ったり、その年の吉兆を占う神事の総称である。別名を「湯神楽(ゆかぐら)」とも言う。 狭義には“神楽”の名が示すとおり、面や装束をつけた舞い手が釜湯を用いて奉納の舞いを踊る神事のみを指すが、広義には宮司や神職による釜湯を使った単純な儀式の形式をした湯立て神事も含んでいる。.
滋賀県
こちら) 滋賀県(しがけん)は、琵琶湖を擁する日本国・近畿地方北東部の内陸県である。県庁所在地は大津市。.
持統天皇
持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、天武天皇の皇后で、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日) - 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。漢風諡号、持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという。.
本居宣長
本居 宣長(もとおり のりなが)は、江戸時代の国学者・文献学者・医師。名は栄貞。本姓は平氏。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵。自宅のにて門人を集め講義をしたことからと呼ばれた。また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「」の一人とされる。伊勢松坂の豪商・小津家の出身で、一族には日本の映画監督・脚本家の小津安二郎がいる。.
朱雀天皇
朱雀天皇(すざくてんのう、延長元年7月24日(923年9月7日) - 天暦6年8月15日(952年9月6日)、在位:延長8年11月22日(930年12月14日) - 天慶9年4月13日(946年5月16日))は第61代天皇。諱は寛明(ゆたあきら)。 第60代醍醐天皇の第十一皇子。母は藤原基経の娘、中宮藤原穏子。.
成務天皇
成務天皇(せいむてんのう、景行天皇14年 - 成務天皇60年6月11日)は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる第13代天皇(在位:成務天皇元年1月5日 - 同60年6月11日)。和風諡号は稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、『古事記』は若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと)とする。『日本書紀』にはこの天皇の事績として、日本全国に数多くの国造を任命したり、稲城を設置したり、国や郡の境を定めたりしたことが記されている。.
戦国大名
戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.
明仁
明仁(あきひと、1933年(昭和8年)12月23日 - )は日本の第125代天皇(在位: 1989年(昭和64年)1月7日 - )である代数は皇統譜による。。現時代においては「在位中の天皇」を意味する今上天皇(きんじょうてんのう)、または敬称をつけて天皇陛下(てんのうへいか)と呼ばれることが多い。 昭和天皇(第124代天皇)の第一皇子。母は香淳皇后。大正天皇の皇孫かつ明治天皇の皇曾孫。 御称号は継宮(つぐのみや)。皇室典範に定める敬称は陛下。お印は榮(えい、文字がお印)。 日本国憲法施行後初めて即位した天皇であり、また京都ではなく東京で即位の礼を執り行った初めての天皇である。.
明正天皇
明正天皇(めいしょうてんのう、元和9年11月19日(1624年1月9日) - 元禄9年11月10日(1696年12月4日))は、第109代天皇(在位:寛永6年11月8日(1629年12月22日) - 寛永20年10月3日(1643年11月14日))。女帝(女性天皇)。幼名は女一宮、諱は興子(おきこ)。母方の祖父に徳川秀忠、伯父に徳川家光がいる。.
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
明治天皇
明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)- 1912年(明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治大帝(Meiji the Great)・明治聖帝・睦仁大帝(Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。.
明月記
『明月記』(めいげつき)は、鎌倉時代の公家である藤原定家の日記。治承4年(1180年)から嘉禎元年(1235年)までの56年間にわたる克明な記録である。別名:『照光記』、『定家卿記』。.
明日香村
明日香村(あすかむら)は、奈良県の中央部付近に位置する村である。中央集権律令国家の誕生の地であることから飛鳥時代の宮殿や史跡が多く発掘されていることで知られ、「日本の心の故郷」とも紹介される。.
春日向山古墳
春日向山古墳(かすがむかいやまこふん)は、大阪府南河内郡太子町大字春日にある古墳。形状は方墳。磯長谷古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「河内磯長原陵(こうちのしながのはらのみささぎ)」として第31代用明天皇の陵に治定されている。.
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昭和
昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.
昭和天皇
昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇(在位: 1926年〈昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。 幼少時の称号は迪宮(みちのみや)・諱は裕仁(ひろひと)。お印は若竹(わかたけ)。.
流罪
ダンテ』 流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である。流刑(るけい、りゅうけい)、配流(はいる)とも言う。特に流刑地が島の場合には島流し(しまながし)とも呼ばれる事もある。 歴史的には、本土での投獄より、遠いところに取り残された方が自分一人の力だけで生きていかなければならなくなり、苦痛がより重い刑罰とされていた。ほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝、後醍醐天皇、ナポレオン・ボナパルトのように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた。 日本では離島への文化伝播に大きな役割を果たしたほか、海外ではシベリアやオーストラリアといった植民地に労働力を送り込む強制移民としても機能した。.
新田神社 (薩摩川内市)
参道の入り口 勅使殿 舞殿(左)と本殿(中央奥) 新田神社(にったじんじゃ/にいたじんじゃ)は、鹿児島県薩摩川内市宮内町にある神社。薩摩国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 かつては八幡五所別宮の一つとして八幡神を祀っていた為、別に「新田八幡宮」・「八幡新田宮」・「川内八幡宮」・「一宮八幡」・「新田明神」等とも呼ばれる。.
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新潟県
新潟県(にいがたけん)は、日本の県の一つ。中部地方の日本海側に位置する。県庁所在地は新潟市。.
方墳
方墳(ほうふん)とは墳丘の平面形が方形になる古墳のことで、古墳時代の全期間にわたって円墳についで数多く築かれている。.
文久
文久(ぶんきゅう)は日本の元号の一つ。万延の後、元治の前。1861年から1864年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。.
文京区
文京区(ぶんきょうく)は、東京都の特別区のひとつ。郵便番号(上3桁)は112・113。.
文徳天皇
文徳天皇(もんとくてんのう、天長4年8月(827年) - 天安2年8月27日(858年10月7日))は、平安時代前期の第55代天皇(在位:嘉祥3年3月19日(850年5月4日) - 天安2年8月27日(858年10月7日))。諱は道康(みちやす)。田邑帝とも。 仁明天皇の第一皇子。母は左大臣・藤原冬嗣の娘、皇太后・順子。.
文暦
文暦(ぶんりゃく)は、日本の元号の一つ。天福の後、嘉禎の前。1234年の期間を指す。この時代の天皇は四条天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.
文武天皇
文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))。 諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の707年(慶雲4年11月12日)に「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−豐祖父)と、『続日本紀』797年(延暦16年)に諡された「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−眞宗豐祖父)がある。 当時としては異例の14歳の若さで即位。祖母・持統太上天皇(史上初の太上天皇)のもとで政務を行っていた。後の院政形式の始まりである。.
斉明天皇
皇極天皇(こうぎょくてんのう)、重祚して斉明天皇(さいめいてんのう;齊明天皇、推古天皇2年(594年) - 斉明天皇7年7月24日(661年8月24日))は、日本の第35代・第37代天皇。 在位期間は、皇極天皇として皇極天皇元年1月15日(642年2月19日) - 4年6月14日(645年7月12日)、斉明天皇として斉明天皇元年1月3日(655年2月14日) - 7年7月24日(661年8月24日)。 舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から一代おいて即位した女帝(女性天皇)になる。.
日本書紀
日本書紀(平安時代の写本) 『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。.
早良親王
早良親王を祀った崇道天皇社(奈良市西紀寺町) 早良親王(さわらしんのう、天平勝宝2年(750年)? - 延暦4年9月28日(785年11月8日))は、奈良時代末期の皇族。光仁天皇の皇子。生母は高野新笠。桓武天皇、能登内親王の同母弟。追称は崇道天皇(すどうてんのう)であるが皇位継承をしたことはないため、歴代天皇には数えられていない。.
旗本
旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。.
摂津国
摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.
改葬
改葬(かいそう)とは、墳墓に埋葬されている遺体・遺骨を別の墳墓に移して供養することを言う。 転居で墓の管理ができない場合など、墓を自宅の近くの墓地に改葬して管理・供養を続けることができる。 改葬の手続きは、墓地、埋葬等に関する法律(墓埋法)第2章に定められており、自分の家の墓であっても自由に遺骨を持ち出すことはできない。 手続き上、改葬は以下の手順で行う.
愛媛県
愛媛県(えひめけん)は、日本の都道府県の一つで四国地方の北西部から北中部に位置する県。県庁所在地は松山市。令制国の伊予国に当たる。.
愛知県
愛知県(あいちけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は名古屋市。.
懿徳天皇
懿徳天皇(いとくてんのう、綏靖天皇29年 - 懿徳天皇34年9月8日)は、日本の第4代天皇(在位:懿徳天皇元年2月4日 - 懿徳天皇34年9月8日)。 和風諡号は、『日本書紀』では「大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)」、『古事記』では「大倭日子鉏友命」。 『日本書紀』・『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。.
敏達天皇
敏達天皇(びだつてんのう、宣化天皇3年?(538年?) - 敏達天皇14年8月15日(585年9月14日?)は、第30代天皇。 在位期間は、敏達天皇元年4月3日(572年4月30日?)から同14年8月15日(585年9月14日?)まで。和風諡号は渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと。『古事記』では沼名倉太珠敷命)。別名、他田天皇。.
散骨
散骨(さんこつ)とは、一般には、故人の遺体を火葬した後の焼骨を粉末状にした後、海、空、山中等でそのまま撒く葬送方法をいう。.
所領
所領(しょりょう/そりょう)とは、領主・地主によって私有され、支配(知行)権が行使されている土地のこと。 領主・地主に対して経済的利益を生み出す一定の領域の事を指し、主として家屋敷と田畑から構成されているが、山野や荒地・牧・浜なども含まれていた。律令法でも私有が認められた家地や園地、墾田などを除けば、本来は国衙領・荘園の一部であり、国衙・本所に年貢を納める義務があったが、領主らは彼らと対立と協調を繰り返しながらその支配権を強めていった。所領は謀反などの重大犯罪によって改易・闕所などに処せられない限り没収を免れ、売買や相続・寄進の対象となったが、その所有や権利を巡ってしばしば争いになった。 鎌倉幕府は領主を御家人として傘下に加えて軍役などの一定の奉公義務を課す代わりに安堵状を発給して、その知行権を保護することで支配体制の強化を図り、奉公の功績に応じて恩賞として新たな所領を与える事もあった。御成敗式目において様々な所領の争いに関する規定が定められる一方で、御家人としての義務を果たさないものに対しては所領の没収などの措置を取る事を規定した。以後、江戸幕府に至るまで所領の没収(改易)は武士に対する最大の威嚇・統制手段として機能していく事になった。.
思文閣出版
思文閣出版(しぶんかくしゅっぱん)は、京都府京都市左京区にある出版社。美術商思文閣の出版部で、人文系・美術系の書籍を刊行している。絶版となった古書や花道、歴史、国文、芸術などのオリジナル企画書を刊行している。ベストセラーにならなくても、命の長い本を出版していく方針を取っている[こんな出版社]思文閣出版 命の長い本作る 読売新聞 2007年9月27日 大阪夕刊7頁。所在地同ビルに企画展をメインとする美術館・思文閣美術館(しぶんかくびじゅつかん、2011年4月10日より休館中)、京都市東山区古門前通大和大路東入元町386にぎゃらりぃ思文閣を運営する。.
景行天皇
景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年 - 景行天皇60年11月7日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇(在位:景行天皇元年7月11日 - 同60年11月7日)。日本武尊(やまとたけるのみこと)の父。『日本書紀』には自ら九州に遠征して熊襲・土蜘蛛を征伐し、東国には日本武尊を遣わして蝦夷を征討させたと伝わる。和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)。常陸風土記には大足日足天皇。播磨風土記には大帯日子天皇、大帯日古天皇、大帯比古天皇。 「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、12,13,14代の称号は後世の造作と考える説があり、景行天皇の実在性には疑問が出されている。.
11月14日
11月14日(じゅういちがつじゅうよっか、じゅういちがつじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から318日目(閏年では319日目)にあたり、年末まであと47日ある。誕生花は松、アルストレメリア(百合水仙)、サフラン。.
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1235年
記載なし。
1238年
記載なし。
1350年
記載なし。
1697年
記載なし。
1699年
記載なし。
1772年
記載なし。
1801年
19世紀最初の年である。.
1862年
記載なし。
1870年
記載なし。
1912年
記載なし。
1925年
記載なし。
1936年
記載なし。
1955年
記載なし。
1986年
この項目では、国際的な視点に基づいた1986年について記載する。.
1995年
この項目では、国際的な視点に基づいた1995年について記載する。.
1997年
この項目では、国際的な視点に基づいた1997年について記載する。.
2004年
この項目では、国際的な視点に基づいた2004年について記載する。.
2005年
この項目では、国際的な視点に基づいた2005年について記載する。.
2007年
この項目では、国際的な視点に基づいた2007年について記載する。.
2010年
この項目では、国際的な視点に基づいた2010年について記載する。.
2011年
この項目では、国際的な視点に基づいた2011年について記載する。.
2012年
この項目では、国際的な視点に基づいた2012年について記載する。.
2013年
この項目では、国際的な視点に基づいた2013年について記載する。.
47NEWS
47NEWS(よんななニュース)は、全国の52新聞社と共同通信のニュースを束ねたウェブサイト。株式会社全国新聞ネット(ぜんこくしんぶんネット、Press Net Japan Co.,Ltd.)が運営し、所在地は共同通信社の本社がある汐留メディアタワーである。参加社は、いずれも共同通信社の加盟社か契約社である。.
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4月26日
4月26日(しがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から116日目(閏年では117日目)にあたり、年末まではあと249日ある。この日には地球が元日の時から2天文単位(地球の公転軌道の直径分)動いたことになる。誕生花はスカビオサ、ミヤコワスレ。.
620年
記載なし。
7世紀
ブリールから啓示を受けるムハンマドで、14世紀に描かれた『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画(エディンバラ大学蔵)。 聖地メッカ。ムハンマドはメッカからメディナに逃れた後、イスラム教共同体(ウンマ)を組織し、再びこの都市に現れてイスラム教の支配下に置いた。画像はメッカのカアバとそれを取り囲むマスジド・ハラーム。 岩のドーム。ユダヤ教徒やキリスト教徒にとって重要な聖地であるエルサレムはイスラム教徒にとっては預言者ムハンマドが「夜の旅(イスラー)」を行った場所であり、それを記念してこの建物が建てられた。 ハルシャ王に歓待された。旅の記録は『大唐西域記』にまとめられ、有名な伝奇小説『西遊記』のもとともなった。 ナーランダ寺院。創立はグプタ朝時代にさかのぼるが、この時代までにインド随一の仏教総合大学に発展し、唐僧玄奘もこの地で唯識派のシーラバドラ(戒賢)に学んでいる。画像は現在のビハール州に残るナーランダ寺院跡。 シュリーヴィジャヤ王国。スマトラ島を中心にマレー半島周辺に交易圏を築き上げた海洋王国で、唐僧義浄が『南海寄帰内法伝』で記録したように多くの寺院が立ち並ぶ大乗仏教の拠点でもあった。画像はシュリーヴィジャヤ様式の青銅鍍金四臂観世音菩薩像。 「天寿国繍帳」。飛鳥時代を代表する工芸の一つで聖徳太子の妃である橘大郎女の発願で作成されたとされ、斑鳩中宮寺に伝来した。 吐蕃の王ソンツェン・ガンポと二人の妃(唐から来た文成公主とネパールから来たチツン)。吐蕃はチベットを統一し唐に倣った律令体制を発展させた。 太宗。父李淵の後を継いで二代皇帝となった太宗李世民は、唐の律令体制を完成させ「貞観の治」と呼ばれる安定期をもたらした。画像は台湾国立故宮博物院が所蔵する太宗の肖像画。 洛陽郊外の龍門にある奉先寺大仏。則天武后の命で造営されたもので、大仏の顔は則天武后をモデルにしているといわれる。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 「ギリシア火」。イスラム軍の猛攻で劣勢に置かれた東ローマ帝国もこの新兵器を用いて帝都の防衛に成功する。画像は『スキュリツェス年代記(歴史概観)』の挿絵(マドリッド国立図書館蔵)。 スペイン国立考古学博物館蔵)。 7世紀(ななせいき、しちせいき)とは、西暦601年から西暦700年までの100年間を指す世紀。.
8世紀
イスラム帝国の拡大。ウマイヤ朝時代までにイスラム帝国は中央アジアからイラン・イラクを経て、エジプト・北アフリカを超えてイベリア半島まで拡がった。 ウマイヤド・モスク。ウマイヤ朝第6代カリフのワリード1世により705年にシリアのダマスカスに建築された現存する世界最古のモスクで、カアバ・預言者のモスク・岩のドームに次ぐイスラム教第4の聖地として巡礼者が絶えない。 イスラムの書法。すでに正統カリフ時代にはクルアーンの編纂が行われていたが、この世紀になると洗練された書体が生み出され用いられた。画像はアッバース朝初期に置かれた都クーファの名から「クーフィー体」と呼ばれた書体によるクルアーンの一節。 円城(ムダッワラ)都市バグダード。アッバース朝の第二代カリフ・マンスールによって766年に完成したこの都市はティグリス川に面した交通の要衝で最盛期にはその人口は100万人を擁した。アラビア語で「平安の都」を意味するマディーナ・アッ=サラームとも呼ばれる。画像はアッバース朝時代のバグダードの再現地図。 エローラ石窟群。画像は8世紀にインドのラーシュトラクータ朝の君主クリシュナ1世によりヒンドゥー教のシヴァ神の住むカイラス山(須弥山)になぞらえて建てられた第16窟のカイラサナータ寺院。 ボロブドゥール遺跡。インドネシアのジャワ島ケドゥ盆地にある大規模な仏教遺跡で、シャイレンドラ朝のダルマトゥンガ王時代に造営された。 唐の世界帝国。西域での覇権を確立した唐は華やかな異文化交流で知られることになる。画像は706年に造営された章懐太子李賢の墓の壁画「賓客図」で、黒衣で禿頭の人物は東ローマ帝国の使節と考えられている。 楊貴妃。絶世の美女として名高いばかりでなく、治世後半の玄宗皇帝の寵愛をほしいままにしたことで「傾城」とも「傾国」とも呼ばれる。安禄山の乱に巻き込まれ悲劇的な最期を遂げた。画像は日本の上村松園による歴史画。 大秦景教流行中国碑。781年にキリスト教ネストリウス派(景教)信者で中央アジア出身の伊斯がその伝来の経緯を記録した石碑。画像はその拓本の一部で、碑題の上に十字架があるのが読み取れる。 唐三彩の駱駝。8世紀前半まで唐は中央アジアの覇権を握り交通の要衝を保持していた。画像は駱駝に乗るソグド人と思われる西域の商人(上海博物館蔵)。 国立アジア美術館(ベルリン美術館)蔵)。 天平文化。遣唐使の頻繁な行き来により盛唐の文物が招来され、710年に遷都された平城京では国際色の豊かな文化が花開いた。画像はこの時代を代表する東大寺法華堂執金剛神。 平安遷都。桓武天皇により平城京から長岡京を経て平安京に都が遷った。平安京は長きにわたって都となり「千年の都」と呼ばれるようになる。画像は桓武天皇の肖像(延暦寺蔵)。 キー・ローのモノグラムの頁(Folio 34r)でトリニティ・カレッジ (ダブリン大学)図書館が所蔵している。 アーヘン大聖堂宝物館のカール大帝の胸像。カール大帝の800年の「西ローマ帝国復興」は東ローマ帝国との間に「二帝問題」の軋轢を生んだ。 8世紀(はちせいき、はっせいき)は、西暦701年から西暦800年までの100年間を指す世紀。.