227 関係: 城下町、千島国、千歳郡、参勤交代、吾川郡、吉田東洋、坂本龍馬、堺事件、大名、大多喜藩、大石神影流、大政奉還、天領、天明、太閤検地、夷隅郡、外様、外様大名、夕張郡、子爵、定府、宝暦、宝永、宮谷県、宿毛市、宇摩郡、安芸市、安芸郡 (高知県)、安永 (元号)、寛永、寛文、小野派一刀流、小栗流、山内可氏、山内定氏、山内容堂、山内一豊、山内康豊、山内保氏、山内忠義、山内忠直、山内忠豊、山内倫氏、山内節氏、山内豊定、山内豊常、山内豊福、山内豊秋、山内豊策、山内豊範、...、山内豊産、山内豊熈、山内豊隆、山内豊誠、山内豊賢、山内豊資、山内豊興、山内豊雍、山内豊武、山内豊泰、山内豊惇、山内豊房、山内豊明、山内豊昌、山内豊敷、山内豊景、山内郷俊、山内氏、山内氏固、山内氏睦、山内氏篤、山内政豊、山内晴氏、岩崎弥太郎、上総国、中岡慎太郎、中村城 (土佐国)、一領具足、一揆、幡多郡、乾和宣、乾和三、乾和信、乾正行、乾氏、幕末、京都、五藤為重、廃藩置県、仙台藩、伊予国、伊予松山藩、伊賀陽太郎、伊賀氏広、伊賀氏理、伺候席、佐川町、征夷大将軍、侯爵、徳島藩、徳川綱吉、徳川氏、徳川慶喜、後藤象二郎、土佐堀川、土佐山内氏、土佐勤王党、土佐国、土佐稲荷神社、土佐郡、北島正元、児玉幸多、八幡和郎、元和 (日本)、元禄、光文社新書、勇払郡、国主、四万十市、四万十町、四国、石狩国、祖父江一秀、祖父江勘左衛門、福岡孝弟、福岡孝茂、福岡干孝、筆山公園、美濃安藤氏、男爵、無双直伝英信流、無外流、無雙神傳英信流、遠江国、菩提寺、華族、青松寺、表高、風早郡、馬淵嘉平、香美郡、高岡郡、高知城、高知市、高知県、越智郡、郷士、胆振国、阿波国、蘂取郡、関ヶ原の戦い、薩長土肥、藩、藩の一覧、野中兼山、長宗我部盛親、長宗我部氏、長岡郡、長州藩、若年寄、林一吉、林勝久、掛川城、松尾藩、板垣退助、桑村郡、橋本博、武射郡、武市瑞山、永原一照、江戸、江戸幕府、江戸藩邸、江戸時代、淡路国、深尾繁寛、深尾繁峯、深尾隆太郎、深尾茂澄、深尾重世、深尾重先、深尾重照、深尾重良、深尾重昌、深尾重方、深尾重愛、深尾重教、渡部淳、本山町、戦国時代 (日本)、明暦、明治、明治維新、浦戸城、浦戸藩、新居郡、新人物往来社、新田、文春新書、改易、慶長、承応、曹洞宗、1600年、1601年、1605年、1613年、1615年、1629年、1655年、1656年、1669年、1672年、1689年、16世紀、1702年、1705年、1751年、1764年、1780年、1870年、1871年、1884年、1977年、1989年、2003年、2004年。 インデックスを展開 (177 もっと) »
城下町
山城(波賀城)と城下町 熊本城の城下町 龍野城の城下町 和歌山城の城下町 城下町(じょうかまち)とは、日本における都市の形態の一つ。領主の居城を中心に成立した都市である。江戸時代以降は、必ずしも城が中心とは限らず、戦闘を想定しない行政施設としての陣屋を中心とした陣屋町もあるが、広義ではそれらも含めて城下町と呼ぶ。 城下(じょうか)とも呼ばれ、近世以前はこの呼称が一般的であった。.
千島国
千島国(ちしまのくに)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つで、五畿八道のうち北海道 (令制)に含まれた。領域は最初国後島と択捉島のみであったが、後に得撫島以北の千島列島と色丹島が加わった。現在の根室振興局管内の東部にあたる。.
千歳郡
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参勤交代
参勤交代(さんきんこうたい)とは、各藩の藩主を一年おきに江戸に出仕させる江戸幕府の法令のことである。参勤交替、参覲交代、参覲交替などとも書く。 藤堂様御国入行列附版画/伊賀文化産業協会蔵.
吾川郡
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吉田東洋
吉田 東洋(よしだ とうよう)は、江戸時代後期(幕末)の土佐藩士・参政。諱は正秋。東洋は号。後藤象二郎は義理の甥にあたる。.
坂本龍馬
坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日〈新暦・1836年1月3日〉 - 慶応3年11月15日〈新暦・1867年12月10日〉)は、江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。 諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬「りゅうま」「りょうま」「りゅうめ」などと読み得るが、岩崎弥太郎など同時代人の日記や書簡に「良馬」と記されているし、龍馬自身も書簡の中で「りよふ」と自署しているので「りょうま」と読まれていたと考えられている。なお、「竜」は「龍」の常用漢字表に採用された字体で、江戸時代以来一般には「龍」の略字として認識されていたが、本は古字である。学校教育では、「坂本龍馬」という表記と、「坂本竜馬」という表記の両方が使われているが、どちらでもよい。前者の例としては、平成11年(1999年)3月実施北海道 公立高校 入学試験の社会の大問4問5(2)の選択肢: 「ア 木戸孝允 イ 坂本龍馬 ウ 西郷隆盛 エ 徳川慶喜」などがあり、後者は、『中学社会 歴史』(教育出版。平成8年2月29日文部省検定済。教科書番号: 17教出・歴史762)p.181, 『社会科 中学生の歴史』(帝国書院。平成17年3月30日文部科学省検定済。教科書番号:46帝国 歴史-713)p.144, 『新しい社会 歴史』(東京書籍。平成13年3月30日検定済。教科書番号: 2 東書 歴史702)p.120などで使われている。 。 他に才谷 梅太郎(さいたに うめたろう、さいだに うめたろう)などの変名がある (手紙と変名の項を参照)。 土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に関与した。大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。.
堺事件
堺事件(さかいじけん、)は、慶応4年2月15日(旧暦。太陽暦では1868年3月8日)に和泉国堺町内で起きた、土佐藩士によるフランス帝国水兵殺傷(攘夷)事件、及びその事後処理を指す。泉州堺事件(せんしゅうさかいじけん)、妙国寺において処刑が行われたため、妙国寺事件(みょうこくじじけん)とも呼ばれる。 慶応4年に近畿で起こった外国人殺傷事件は三度ある(神戸事件、堺事件、パークス英公使襲撃事件)が、外国側・日本側ともに最も多くの犠牲者を出した。.
大名
大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.
大多喜藩
大多喜藩(おおたきはん)は、上総国に存在した藩。藩庁を大多喜城(現在の千葉県夷隅郡大多喜町大多喜四八一)に置いた。.
大石神影流
大石神影流(おおいししんかげりゅう)は、大石種次(進、後に七太夫、武楽)が開いた剣術の流派。大石流とも呼ばれる。福岡県の大牟田市・柳川市に現存する。 開祖は大石進種次(武楽)、2代は大石進種昌といずれも「大石進」と名乗っており、またいずれの大石進も江戸に出ているので、この両者を混同して大石進という一人の剣客と誤解されていることが多い。 大石進種次は、吊した鞠を竹刀で突いて、突き技を磨いたと伝えられる。その後、父親から神影流剣術と大島流槍術を継承した後に、大石神影流を開いたとされる。 1832年(天保3年)、種次は江戸に出て、5尺3寸の長竹刀を遣い、突きと胴切りで、江戸の名だたる剣術師家を倒した。この時に、『一刀流極意』によれば白井亨のみが種次に勝ったとも、千葉周作が樽の蓋を鍔にして引き分けたともいわれる。翌1833年(天保4年)には男谷信友に突き技で勝ったという。勝海舟も当時のことを「御一新以上の騒ぎ」と記しており、その後長竹刀が流行した。 種次の子である種昌も、大石神影流を継承した後、江戸に出て、5尺3寸の長竹刀で江戸の名だたる剣術師家を倒した。 種次、種昌二人ともに江戸で目覚ましい戦績を残したことによって、剣術修行の目的地に大石道場のある筑後柳河藩を目指す者が多く出て、大石神影流は多くの地域に伝わった。大石道場で修行した他藩の者の中に土佐藩士・樋口真吉、甚内兄弟がいた。 樋口真吉は土佐藩で無外流剣術と高木流槍術を修行していたが、独自に竹刀や防具の工夫や技の改良を行い、他流試合を行ったので破門された。1837年(天保8年)、樋口は廻国修行に出て、柳河の大石道場に入門した。樋口真吉は剣術だけではなく槍術も大石進に学び、入門後28日で皆伝を授けられた。この後も樋口真吉は何度も柳河へ赴き大石進のもとで修行した。樋口兄弟が皆伝を得て土佐に帰ったことにより、大石神影流が土佐藩に伝えられた。また、大石進が高知に招かれ、大石神影流が土佐藩の藩校で指導されるようになった。 流儀の特徴としては、剣尖を敵の喉に向け、左肘を曲げて水平に構えるという、まるで槍術の構えを思わせる「附」(つけ)という構えから、左片手突きを繰り出すのが得意な流派である。これは大石種次が大島流槍術の指南でもあったことから、槍術から発案したものと思われる。大石進は5尺3寸の長竹刀を遣ったが、流儀の定寸は各自の胸の高さまで(これでも当時の基準では長い竹刀だが)である。二刀の形や「鞘之内」と称する居合、小太刀術も含み、すべての剣技は型の応用変化であるとして、その数は80ほどある。 大石種次の墓は恵日寺にある。第6代宗家は大石英一、第7代宗家は平成26年4月20日、大石馨に継承された。.
大政奉還
大政奉還(たいせいほうかん)とは、江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許した政治的出来事である。 「大政奉還図」これは「10月13日に二条城において将軍・徳川慶喜が諸藩重臣に大政奉還を諮問した様子を描いた絵」であり「慶喜が明治天皇に大政を奉還している様子を描いた絵」ではない。 邨田丹陵.
天領
天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地の俗称で、このほか幕府直轄領、徳川幕府領、徳川支配地、幕府領、幕領など様々な呼称があり、必ずしも絶対的な単一の歴史用語ではない村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。幕府直轄領は元禄以降、全国で約400万石あった。その領地は日本全国に散らばっており、江戸時代を通じて何らかの形で幕府直轄地が存在した国は51ヶ国と1地域(蝦夷地)に及び、年貢収取の対象となる田畑以外に交通・商業の要衝と港湾、主要な鉱山、城郭や御殿の建築用材の産出地としての山林地帯が編入され江戸幕府の主要な財源であった村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。 幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代である。大政奉還後に幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのがはじまり。その後、この呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。よって、江戸時代に使われていた呼称ではない。江戸幕府での正式名は御料・御領(ごりょう)であり、その他、江戸時代の幕府法令には御料所(ごりょうしょ、ごりょうじょ)、代官所、支配所(しはいしょ、しはいじょ)とある。江戸時代の地方書では大名領や旗本領を私領としたのに対して公領・公料、また公儀御料所(こうぎごりょうしょ)とある。 大政奉還後の慶応4年(1868年、同年明治元年)には徳川支配地を天領と呼んだ布告があるが、同時期の別の布告では「これまで徳川支配地を天領と称し居候は言語道断の儀に候、総て天朝の御料に復し、真の天領に相成候間」とある。 幕府の直轄地についての呼称については、従来は「天領」と表記していたが、この「天領」という呼称が明治以降の俗称であるという点から、近年では「幕領」と呼ぶ傾向になっており、全国の歴史教科書なども「幕領」への表記の変更が進められている。.
天明
天明(てんめい)は日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。.
太閤検地
太閤検地(たいこうけんち)は、羽柴秀吉が日本全土で行なった検地(田畑(山林は除く)の測量及び収穫量調査)。天正の石直し、文禄の検地ともいう。.
夷隅郡
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外様
外様(とざま)とは、主君(上位権力者)を中心とした人間関係において、主君の親族・一門や累代にわたって仕えてきた譜第(譜代)と比較して疎遠にある者(家臣)を指す。 鎌倉幕府において実権を掌握した執権北条氏(特に得宗家)の直臣を御内人と呼んだのに対して、将軍と主従関係を持つ一般の御家人のことを指して「外様」と称した。御内人平頼綱と幕府御恩奉行安達泰盛との対立に端を発する霜月騒動は、御内人と安達氏を中心とする外様勢力との抗争としての一面を有した。 室町幕府においては、足利将軍家と元々関係が希薄であった守護大名(相伴衆や国持衆に列していない)を「外様衆」と称した。また、この頃から朝廷においても天皇との親疎によって譜代に相当する「内々」と「外様」に分類されるようになり、役職や宮中行事において格差を付けられたとされている。 また、南北朝や戦国の内乱を通じて、大名が周辺の有力な地頭や国人を自発的あるいは軍事的に取り込んでいく過程において、家臣団に編入された者たちも「外様」と称するようになった。 江戸幕府においては、関ヶ原の戦い後に徳川氏に臣従した上方衆と呼ばれる旧織田・豊臣系大名や地方の名門・旧家の大名を指して外様大名と称した。 現代の日本においては、組織や団体に後から参加した個人や集団を「外様」と呼ぶことがある。同様に日本のプロ野球などのチームスポーツにおいては、そのチーム(球団)における生え抜き選手に対して移籍してきた選手を外様と呼ぶ。生え抜きの人材が重宝される慣習がいまだ根強く残ってる現代の日本において、この用法には、一定の差別的な意味が含まれている場合がある。 Category:武士.
外様大名
外様大名(とざまだいみょう)は、譜代大名に対して、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川氏の支配体系に組み込まれた大名を指す。.
夕張郡
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子爵
子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.
定府
定府(じょうふ)とは、江戸時代において参勤交代を行わずに江戸に定住する将軍や藩主およびそれに仕える者の状態を示す。.
宝暦
宝暦(ほうれき、ほうりゃく、旧字体: 寶曆)は日本の元号の一つ。寛延の後、明和の前。1751年から1764年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。.
宝永
宝永(ほうえい、旧字体: 寶永)は日本の元号の一つ。元禄の後、正徳の前。1704年から1711年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇、中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉、徳川家宣。.
宮谷県
宮谷県(みやざくけん)は、1869年(明治2年)に安房国・上総国・下総国・常陸国内の旧幕府領の管轄のために明治政府によって設置された県。現在の千葉県南部・東部、茨城県南東部を管轄した。.
宿毛市
宿毛湾の航空写真 宿毛市(すくもし)は、高知県の南西部に位置し愛媛県と境を接する市。.
宇摩郡
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安芸市
安芸市(あきし)は、高知県の東部に位置し太平洋を臨む市。 三菱グループの前身である三菱財閥の創立者である岩崎弥太郎の出身地であり、阪神タイガースのキャンプ地としても知られる市で、県東部の中心都市である。.
安芸郡 (高知県)
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安永 (元号)
安永(あんえい)は日本の元号の一つ。明和の後、天明の前。1772年から1781年までの期間を指す。この時代の天皇は後桃園天皇、光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。.
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寛永
寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.
寛文
寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.
小野派一刀流
小野派一刀流(おのはいっとうりゅう)は、日本の剣術の流派。.
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小栗流
小栗流(おぐりりゅう)は、小栗仁右衛門正信が開いた日本武術の一流派。.
山内可氏
山内 可氏(やまうち よしうじ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士。土佐藩の家老。.
山内定氏
山内 定氏(やまうち さだうじ)は、江戸時代前期の武士。土佐藩の重臣。.
山内容堂
山内 容堂 / 豊信(やまうち ようどう / とよしげ)は、幕末の外様大名。土佐藩15代藩主(在任期間:嘉永元年12月27日(1848年1月21日) - 明治5年(1872年)2月)。官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進、明治時代には麝香間祗候に列し、生前位階は正二位まで昇った。薨去後は従一位を贈位された。諱は豊信。隠居後の号は容堂。 土佐藩連枝の山内南家当主・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男。母は側室・平石氏。正室は烏丸光政の娘・正子(三条実万の養女)。子は山内豊尹(長男)、光子(北白川宮能久親王妃)、八重子(小松宮依仁親王妃のち秋元興朝継室)。幼名は輝衛。酒と女と詩を愛し、自らを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称した。藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、当時の志士達からは、幕末の時流に上手く乗ろうとした態度を、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。.
山内一豊
山内 一豊(やまうち かつとよ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。土佐山内氏、土佐藩初代藩主。家紋は三つ柏紋。 父は岩倉織田氏の重臣・山内盛豊、母は法秀尼。祖父は久豊。兄に十郎、弟に康豊。妻は内助の功で知られる見性院。通称は伊右衛門もしくは猪右衛門(いえもん)。後に康豊の長男・忠義(第2代藩主)を養子とした。豊臣秀吉、徳川家康らに仕え、関ヶ原の戦いの小山評定において率先して徳川方に従った功績により、土佐国9万8千石を与えられた。その後、高直しにより20万2,600石に加増された。.
山内康豊
山内 康豊(やまうち やすとよ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。初代土佐藩主・山内一豊の同母弟。.
山内保氏
山内 保氏(やまうち やすうじ)は、江戸時代中期から後期にかけての武士。土佐藩の重臣。8代宿毛領主。.
山内忠義
山内 忠義(やまうち ただよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。土佐藩の第2代藩主。山内康豊の長男で、伯父の山内一豊の養嗣子。.
山内忠直
山内 忠直(やまうち ただなお)は、土佐中村藩の(再興後の)初代藩主。.
山内忠豊
山内 忠豊(やまうち ただとよ)は、江戸時代前期の大名。土佐高知藩の第3代藩主。 慶長14年(1609年)10月29日、第2代藩主・山内忠義の長男として生まれる。通称は伊(猪)右衛門。 明暦2年(1656年)7月3日、父の忠義が中風を患って隠居したため、その跡を継いだ。忠豊は父の命に従って引き続き野中兼山を登用し、伊予宇和島藩との境界線をめぐる争いにも決着をつけた。 ところが、忠豊は兼山のことをあまり快く思っていなかった。そのため、父が重病に倒れた頃から兼山の改革に対する反対派である生駒木工らと結託して兼山を弾劾した。そしてさらに叔父の伊予松山藩主・松平定行の助けを受けて、寛文3年(1663年)7月に兼山を失脚させた。これを「寛文の改替」という。ちなみに兼山は、わずか3か月後の10月、失意のうちに49歳で病死した。父の忠義も翌年に亡くなり、忠豊はいよいよ自らが政治を行なうようになる。 寛文9年(1669年)6月15日、長男の豊昌に家督を譲って隠居し、8月5日に死去した。享年61。 墓所は高知県高知市天神町の真如寺。 たたとよ たたとよ Category:日本の神 (人物神 江戸時代大名) Category:1609年生 Category:1669年没.
山内倫氏
山内 倫氏(やまうち ともうじ)は、江戸時代前期から中期にかけての武士。土佐藩の重臣。.
山内節氏
山内 節氏(やまうち ときうじ)は、江戸時代前期の武士。土佐藩の重臣。.
山内豊定
山内 豊定(やまうち とよさだ)は、土佐中村藩の(再興後の)第2代藩主。.
山内豊常
山内 豊常(やまうち とよつね)は、土佐藩の第7代藩主。.
山内豊福
山内 豊福(やまうち とよよし、1836年6月23日(天保7年5月10日)-1868年2月6日(慶応4年1月13日))は、土佐新田藩の第5代藩主。 筑前秋月藩主・黒田長元(土佐藩主・山内豊策の五男)の次男。母は黒田長韶の娘・慶子(慈海院)。正室は松平信庸の娘。継室は藤井松平信宝の娘・典子。子に娘(藤井松平忠礼継室)、娘(秋田映季正室のち立花寛治継室)など。官位は従五位下、遠江守、摂津守。 嘉永6年(1853年)、第4代藩主・豊賢の養嗣子となる。同年12月、将軍徳川家定に拝謁する。安政3年(1856年)6月6日、養父の隠居により家督を継いだ。同年12月16日、従五位下遠江守に叙任する。本家の山内豊信を助けて新田藩の軍制を洋式化し、軍備増強に努めた。急進的な佐幕派であったが武力行使には反対で、戊辰戦争では幕府に対して自重するように努めたが及ばなかった。その後は徳川慶喜に従って江戸に入り、抗戦派の意見には反対だったが徳川氏の幕府存続には賛成的であった。しかし本家の土佐藩などが新政府側に与して苦しい立場に立たされた豊福は、慶応4年(1868年)1月13日(1月14日説がある)に継室・典子と共に自害して果てた。享年33。新田藩の家督は先代豊賢の弟・豊充の長男・豊誠が継いだ。 *05 Category:幕末の大名 Category:幕末土佐藩の人物 Category:幕末秋月藩の人物 Category:黒田氏 とよよし Category:1836年生 Category:1868年没 Category:自殺した人物.
山内豊秋
山内 豊秋(やまうち とよあき、1912年 - 2003年9月29日)は、山内家第18代当主。妻は、黒田光子(黒田長禮侯爵の息女)。山内興業社長やテレビ高知副会長、靖国神社崇敬奉賛会初代会長を務めた。兄に豊春(1909年 - )、弟に豊材(1917年 - )、長男に豊功(とよこと)(1940年 - 、山内神社宮司)、孫に豊浩(1978年 - )、豊直(1979年 - )がいる。.
山内豊策
山内 豊策(やまうち とよかず)は、土佐藩の第10代藩主。.
山内豊範
山内 豊範(やまうち とよのり)は、江戸時代末期の大名。土佐藩の第16代(最後の)藩主。爵位は侯爵。三条実美の従弟にあたる。.
山内豊産
山内 豊産(やまうち とよただ、享保7年11月13日(1722年12月20日) - 寛政3年11月26日(1791年12月21日))は、土佐新田藩の初代藩主。 土佐中村藩嫡子だった山内豊成の四男。正室は池田政晴の娘。子は山内豊毅(長男)、山内豊秀(次男)、娘(有馬則満正室)。官位は従五位下。遠江守。通称は時五郎、松助、式部、頼母、式部。 享保10年(1725年)12月6日、叔父の旗本山内豊清(麻布山内家)の養子となる。元文5年(1740年)12月、将軍徳川吉宗に拝謁する。宝暦6年(1756年)11月4日、養父豊清の死去により、家督を相続する。安永8年(1779年)10月26日、山内豊敷の五男豊泰との養子縁組をすること、大名に格上げすることを本藩から申し入れられて同意する。安永9年12月11日、従来の3000石に加え、土佐藩主の山内豊雍から廩米1万俵を分与されて高知新田藩を立藩し、その初代藩主となった。天明元年12月18日、従五位下遠江守に叙任する。天明3年(1783年)5月21日、家督を養嗣子の豊泰に譲って隠居し、寛政3年(1791年)11月26日に70歳で死去した。法号は古松院半吹庭泉大居士。墓所は東京都港区麻布の曹渓寺。 *01 とよたた Category:1722年生 Category:1791年没.
山内豊熈
山内 豊熈(やまうち とよてる)は、江戸時代後期の大名。土佐藩の第13代藩主。.
山内豊隆
山内 豊隆(やまうち とよたか)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。土佐藩6代藩主。.
山内豊誠
山内 豊誠(やまうち とよしげ、1842年3月15日(天保13年2月4日) - 1908年(明治41年)2月19日)は、土佐国土佐新田藩の第6代(最後の)藩主。 第4代藩主・豊賢の弟・豊充の長男。正室は正親町実徳の娘。継室は妻木頼黄の姉、綾小路有長の娘。子は内藤正愨(長男、内藤正誠養子)、山内豊英(三男)。官位は従五位下、侍従。 明治元年(1868年)6月10日、先代藩主・豊福の養子となる。新政府に対して、豊福の自殺を隠し、重病のためとしていた。同年9月16日、豊福の死が公表され、豊誠が正式に跡を継いだ。戊辰戦争では新政府側として武功を挙げたため、5000両の恩賞を与えられた。明治2年(1869年)、版籍奉還により藩知事となる。明治3年(1870年)9月25日、廃藩置県に先立ち、土佐新田藩は本藩に編入、廃藩となる。同3年11月10日、明治天皇の次侍従となる。明治4年(1871年)7月28日、次侍従を退任する。 その後、新政府の役人となって司法省や宮内省に出仕した。明治14年(1881年)、判事となる。明治17年(1884年)、子爵を授けられた。明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に選ばれた。亡くなるまで在任した。明治41年(1908年)2月19日、67歳で死去した。 *06 Category:幕末の大名 Category:幕末土佐藩の人物 Category:戦前日本の司法官僚 Category:日本の宮内省関係者 Category:貴族院子爵議員 とよしけ Category:1842年生 Category:1908年没.
山内豊賢
山内 豊賢(やまうち とよかた、文化4年2月7日(1807年3月15日) - 文久3年2月25日(1863年4月12日))は、土佐新田藩の第4代藩主。 第3代藩主・山内豊武の長男。母は逸見長祥の娘(溝口直侯の養女)。正室は山内豊道の娘。官位は従五位下。遠江守、右兵衛督。 文政8年(1825年)、父の死去により家督を継ぐ。安政3年(1856年)6月6日、隠居して家督を養嗣子の豊福に譲り、文久3年(1863年)2月25日に57歳で死去した。 *04 Category:幕末土佐藩の人物 とよかた Category:1807年生 Category:1863年没.
山内豊資
山内 豊資(やまうち とよすけ)は、土佐藩の第12代藩主。.
山内豊興
山内 豊興(やまうち とよおき、1793年6月24日(寛政5年5月16日) - 1809年5月3日(文化6年3月19日))は、土佐藩の第11代藩主。 第10代藩主・山内豊策の長男。母は児玉氏。官位は従五位下。土佐守。侍従。 文化5年(1808年)2月5日、父の隠居により家督を継ぐ。しかし翌文化6年(1809年)3月19日に17歳で早世した。嗣子がなく、跡を異母弟の豊資が継いだ。法号は寛邦院泰運源心。 とよおき とよおき Category:日本の神 (人物神 江戸時代大名) Category:1793年生 Category:1809年没.
山内豊雍
山内 豊雍(やまうち とよちか)は、土佐藩の第9代藩主。.
山内豊武
山内 豊武(やまうち とよたけ、天明6年6月25日(1786年7月20日) - 文政8年7月29日(1825年9月11日))は、土佐新田藩の第3代藩主。 第2代藩主・山内豊泰の長男。母は板倉勝武の娘。正室は逸見長祥の娘(溝口直侯の養女)。子は山内豊賢(長男)、山内豊充(次男)。官位は従五位下。遠江守。 享和3年(1803年)、父の死去により家督を継いだ。文政8年(1825年)7月29日、40歳で死去し、跡を長男・豊賢が継いだ。法号は清敬院仁峰宗徳。 とよたけ *03 Category:1786年生 Category:1825年没.
山内豊泰
山内 豊泰(やまうち とよやす、1765年6月25日(明和2年5月8日) - 1803年8月22日(享和3年7月6日))は、土佐新田藩の第2代藩主。 土佐藩第8代藩主・山内豊敷の五男。母は祥栄院。正室は板倉勝武の娘・貞操院。子は山内豊武(長男)、山内豊保(次男)、娘(永井尚監正室)。官位は従五位下。摂津守。 新田藩の初代藩主山内豊産の実子の豊毅や豊秀が早世していたため、天明元年(1781年)2月に豊産の養嗣子となり、天明3年(1783年)5月21日の養父の隠居により跡を継いだ。享和3年(1803年)7月6日、39歳で死去し、跡を長男・豊武が継いだ。法号は大慈院寂翁去定大居士。 *02 とよやす Category:1765年生 Category:1803年没.
山内豊惇
山内 豊惇(やまのうち とよあつ、1824年7月2日(文政7年6月6日)- 1848年10月14日(嘉永元年9月18日))は、土佐藩の第14代藩主。幼名は敏衛。通称は式部、兵部。第12代藩主・山内豊資の次男。母は美芳院。 嘉永元年(1848年)、先代藩主だった兄の豊熈が7月10日に死去したため、同年9月6日に家督を継いだが、2週間足らず後の9月18日に25歳で死去した。嗣子がなく、跡を従弟の豊信(豊資の弟・豊著の長男)が継いだ。あまりに早すぎる死と豊信擁立のため、その死は翌年2月まで隠されたという。法号は譲恭院篤信自省。 とよあつ とよあつ Category:日本の神 (人物神 江戸時代大名) Category:1824年生 Category:1848年没.
山内豊房
山内 豊房(やまうち とよふさ)は、土佐藩の第5代藩主。.
山内豊明
山内 豊明(やまうち とよあきら)は、土佐中村藩の(再興後の)第3代(最後)の藩主。.
山内豊昌
山内 豊昌(やまうち とよまさ)は、土佐高知藩(土佐藩)の第4代藩主。.
山内豊敷
山内 豊敷(やまうち とよのぶ)は、土佐藩の第8代藩主。.
山内豊景
山内 豊景(やまうち とよかげ、1875年(明治8年)9月9日 - 1957年(昭和32年)1月5日)は、日本の華族、陸軍軍人。侯爵。最終階級は陸軍少佐。.
山内郷俊
山内 郷俊(やまうち さととし)は、江戸時代中期の武士。土佐藩の重臣。6代宿毛領主。.
山内氏
山内氏(やまうちし、やまのうちし)は、日本の氏族の一つ。山内首藤氏(やまのうち すどう)や土佐藩藩主となった山内氏が知られる。.
山内氏固
山内 氏固(やまうち うじかた)は、江戸時代後期の武士。土佐藩の重臣。10代宿毛領主。.
山内氏睦
山内 氏睦(やまうち うじむつ)は、江戸時代後期の武士。土佐藩の重臣。9代宿毛領主。.
山内氏篤
山内 氏篤(やまうち うじあつ)は、江戸時代中期の武士。土佐藩の重臣。7代宿毛領主。.
山内政豊
山内 政豊(やまうち まさとよ)は、江戸時代前期の大名。土佐国中村藩2代藩主。.
山内晴氏
山内 晴氏(やまうち はるうじ)は、江戸時代中期の武士。土佐藩の重臣。5代宿毛領主。.
岩崎弥太郎
岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、天保5年12月11日(1835年1月9日) - 明治18年(1885年)2月7日)は、日本の実業家。三菱財閥の創業者で初代総帥。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。諱は敏(後に寛)、雅号は東山。別名を土佐屋善兵衛。彌太郎とも書く。.
上総国
上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。.
中岡慎太郎
円山公園の坂本龍馬と中岡慎太郎像(写真は戦後再建された2代目の像) 中岡 慎太郎(なかおか しんたろう、天保9年4月13日(新暦・1838年5月6日) - 慶応3年11月17日(新暦・1867年12月12日))は、日本の志士(活動家)。陸援隊隊長。名は道正。通称ははじめ福太郎(福五郎とも)、光次、のち慎太郎。号は遠山・迂山など。変名は石川清之助(誠之助)など。坂本龍馬らと共に薩長同盟の斡旋に尽力するも近江屋事件で横死した。贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。.
中村城 (土佐国)
中村城(なかむらじょう)は、高知県四万十市(旧中村市)丸の内に、中世から近世にかけて存在した日本の城(平山城跡)である。為松城の別名を持つ。.
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一領具足
一領具足(いちりょうぐそく)は、戦国時代の土佐国の戦国大名、長宗我部氏が兵農分離前の武装農民や地侍を対象に編成、運用した半農半兵の兵士および組織の呼称。『土佐物語』では、死生知らずの野武士なりと書かれている。.
一揆
一揆(いっき)とは、日本において何らかの理由により心を共にした共同体が心と行動を一つにして目的を達成しようとすること、またはそのために盟約、契約を結んで、政治的共同体を結成した集団及び、これを基盤とした既成の支配体制に対する武力行使を含む抵抗運動。ドイツ語のPutschの訳語としても使われる(カップ一揆や、アドルフ・ヒトラーらが起こしたミュンヘン一揆など)。.
幡多郡
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乾和宣
乾 和宣(いぬい かずのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。.
乾和三
乾 和三(いぬい かずみつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。土佐藩家老。家格は知行4,500石。.
乾和信
乾 和信(いぬい かずのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。山内一豊の家臣。のち山内姓を賜り山内彦作と名乗る。.
乾正行
乾 正行(いぬい まさゆき、生年不詳 - 1650年1月20日(慶安2年12月18日)は、江戸時代初期の土佐藩士。土佐乾氏(板垣流)の2代目。前名山内平九郎、のち乾金右衛門と称す。家禄は300石。妻は毛利治郎右衛門の娘。家紋は「榧之内十文字」。.
乾氏
乾氏(いぬいし)は日本の氏族のひとつ。.
幕末
幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.
京都
京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.
五藤為重
五藤 為重(ごとう ためしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。土佐山内氏の家臣。.
廃藩置県
廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.
仙台藩
仙台藩(せんだいはん)は、江戸時代に陸奥国の仙台城(現・宮城県仙台市)に藩庁を置いた、表高62万石の藩である。現在の岩手県南部から宮城県全域までと福島県新地町の約60万石を一円知行で治め、現在の茨城県および滋賀県に合計約2万石の飛び地があった。 江戸時代を通じて外様大名の伊達氏本家が治めた藩であり、伊達藩(だてはん)と呼ばれることもある。.
伊予国
伊予国(いよのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。.
伊予松山藩
伊予松山藩(いよまつやまはん)は、江戸時代、伊予国温泉郡(現在の愛媛県松山市)を中心に久米郡・野間郡・伊予郡などを知行した藩。藩庁は松山城。 松山城大天守(国の史跡・重要文化財).
伊賀陽太郎
伊賀 陽太郎(いが ようたろう、1851年4月20日(嘉永4年3月19日『平成新修旧華族家系大成』上巻、87-88頁。) - 1897年(明治30年)5月3日)は、幕末の土佐藩家老、宿毛領主。諱は氏成。元の姓は山内で、明治維新後に父と共に改姓した。.
伊賀氏広
伊賀 氏広(いが うじひろ、1886年9月8日 - 1966年2月25日)は、日本の飛行機製作の先駆者。男爵。南部信俊の父。.
伊賀氏理
伊賀 氏理(いが うじさと)は、江戸時代後期(幕末)の武士。土佐藩の重臣。11代宿毛領主。.
伺候席
伺候席(しこうせき)とは、江戸城に登城した大名や旗本が、将軍に拝謁する順番を待っていた控席のこと。殿席、詰所とも。.
佐川町
虚空蔵山 佐川町(さかわちょう)は、高知県中西部にある町。.
征夷大将軍
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.
侯爵
侯爵(こうしゃく)とは、公爵の下位、伯爵の上位に相当する爵位。近代日本では華族の階級としても用いられたほか、英語でmarquessまたはmarquisと呼ばれるヨーロッパ各国の爵位や、ドイツの爵位としてのFürstの訳語にも充てられる。古代中国の爵位(五爵)の第2位。 公爵と発音が同じことから、俗に字体が似ている「候」から「そうろう-こうしゃく」と呼ばれ、区別される。.
徳島藩
徳島藩(とくしまはん)は、阿波国(徳島県)・淡路国(兵庫県淡路島)の2国を領有した藩。藩庁は徳島城(徳島県徳島市)に置かれた。藩主は外様大名の蜂須賀氏。支藩として一時、富田藩があった。.
徳川綱吉
徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、江戸幕府の第5代将軍である。.
徳川氏
徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.
徳川慶喜
徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:慶応2年12月5日(1867年1月10日) ‐ 慶応3年12月9日(1868年1月3日))。江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。 徳川将軍の中で、在任中に江戸入城を果たさなかった唯一の将軍であり、また家康を上回って最も長命だった将軍である。 御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務めた。徳川宗家を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任。大政奉還や新政府軍への江戸開城を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。.
後藤象二郎
後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、天保9年3月19日(1838年4月13日) - 明治30年(1897年)8月4日)は、日本の幕末から明治時代の武士(土佐藩士)、政治家、実業家。栄典は正二位勲一等伯爵。土佐三伯の1人(他に板垣退助・佐々木高行)。 幼名は保弥太、良輔。象二郎は通称。諱は正本(まさもと)、後に元曄(もとはる)。字は日曄、暢谷、雲濤、不倒翁など。雅号に暘谷、雲濤、光海、鷗公など。.
土佐堀川
土佐堀川(とさぼりがわ)は、大阪市内を流れる旧淀川の分流の一つである。 旧淀川は、上流の大川(おおかわ) から中之島をはさんで北の堂島川と南の土佐堀川に分かれ、中之島西端で再び合流して安治川(あじかわ)となる。.
土佐山内氏
土佐山内氏(とさやまうちし)は、日本の氏族。本家は山内を「やまうち」、各分家は「やまのうち」と称する。通字は「豊」。本来庶流の家ならば、読み仮名は変わらないが何故一説を持ってこのように、土佐山内氏の本家が備後山内氏の(庶流)を称して(やまうち)となって、その分家(支流の支流)が本流の(やまのうち)に回帰しているのか、不明である。.
土佐勤王党
土佐勤王党(とさきんのうとう)は、幕末の土佐藩において、尊王攘夷を掲げて結成された結社。土佐勤皇党と表記される場合もある。.
土佐国
土佐国(とさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.
土佐稲荷神社
土佐稲荷神社(とさいなりじんじゃ)は、大阪府大阪市西区にある神社。旧社格は郷社。.
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土佐郡
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北島正元
北島 正元(きたじま まさもと、1912年8月7日 - 1983年11月1日)は、日本の歴史学者。専門は日本近世史。.
児玉幸多
児玉 幸多(こだま こうた、1909年〈明治42年〉12月8日 - 2007年〈平成19年〉7月4日)は、「日本近世農村・交通史の泰斗」と呼ばれた文学博士。学習院大学名誉教授、学習院大学元学長、学習院女子短期大学元学長、品川区立品川歴史館名誉館長、千曲市名誉市民。.
八幡和郎
八幡 和郎(やわた かずお、1951年 - )は、日本の元官僚、評論家。徳島文理大学教授とコーポレートガバナンス協会理事を務める。.
元和 (日本)
元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.
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元禄
元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.
光文社新書
光文社新書(こうぶんしゃしんしょ)は、株式会社光文社が発行する新書レーベル。.
勇払郡
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国主
江戸幕藩体制における国主(こくしゅ)は、近世江戸時代の大名の格式のひとつで、領地が一国以上である大名を言い、国持大名ともいう。また、大名家をその居地・居城から格付けする国主(国持大名) - 準国主 - 城主 - 城主格 - 無城(陣屋)のうちの一つである。ここでは国主・準国主について記述する。大国守護でありながら管領や御相伴衆にならない家柄をさす中世室町時代の国持衆が語源。本国持10家(後12家)及び一国持ちではないが、大領を有した大身国持がある。 陸奥国・出羽国についてはその領域が広大であることから、一部しか支配していない仙台藩(伊達氏)・盛岡藩(南部氏)・秋田藩(佐竹氏)・米沢藩(上杉氏)を国主扱いにしている。また肥後国には熊本藩の他に人吉藩や天草諸島(唐津藩領、島原の乱以後は天領)があったが、熊本藩を国主扱いにしている。逆に、国の範囲が狭少であることから壱岐一国一円知行の松浦肥前守(平戸藩)、志摩一国一円知行の稲垣和泉守(鳥羽藩)はそれぞれ国主・国持とはされない。小浜藩(酒井氏)は若狭一国および越前敦賀郡を領するも本家である姫路藩酒井氏との釣り合いから国持とはされない(ただし酒井忠勝は徳川家光により一代限りの国持となったとされる)。 また、大身であっても徳川御三家、松平肥後守(会津藩)、松平讃岐守(高松藩)、井伊掃部頭(彦根藩)も国主・国持という家格には加えない。 また、一部に四品に昇任する家系を国主格ということもある。.
四万十市
四万十市(しまんとし)は、高知県南西部に位置する市。.
四万十町
四万十町(しまんとちょう)は、高知県西南部に位置する町。高岡郡に属する。.
四国
四国内の高速道路網(緑線)および本四架橋を含む県境をまたぐ大規模架橋(青線)。赤星および赤丸は人口上位10都市 四国(しこく)は、日本列島を構成する島の一つである島国 (領土がすべて島から成る国)である日本を構成する6,852の島に対する『国土交通省』による区分け ⇒ 6,852島(本土5島・離島6,847島)。<出典>『国土交通省』サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識) 2009年11月27日閲覧。 ただし、島について地理学上はこのような分類・区分けはない。。 北海道・本州・九州とともに主要4島の一つでもあり、この中では最も小さい 国土地理院(注:表中の「沖縄島 おきなわじま」は、通称名「沖縄本島」の正式名称)【参考】 日本の島の面積順に上位10島 ⇒ 本州、北海道、九州、四国、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬。 国立天文台 (編)理科年表 平成19年版 P565、ISBN 4621077635。。最高標高は石鎚山の1,982mで、福井・石川・岐阜県境の両白山地三ノ峰 (2128m) 以西の西日本では最も高い。面積は18,297.78km2で、世界の島の中では、バナナル島(ブラジル)に次ぐ第50位の大きさである世界の島の面積順位より抜粋、出典 List of islands by area(島:オーストラリア大陸の面積未満で、四方を水域に囲まれる陸地) ------------------------- ------------------------- ------------------------- ------------------------- 四国とその付随する島(小豆島、大三島、大島、中島、伯方島、豊島など)を合わせて「四国地方」と言う地方公共団体(都道府県)別では、徳島県、香川県、愛媛県、高知県の4県が所在する。 。これら付随する島を含めないことを強調したい場合、「四国本土」あるいは「四国島」と呼ぶこともある。(日本の地理・四国、日本の地域・四国地方も参照) 四国には、徳島県、香川県、愛媛県、高知県の4つの地方公共団体(県)があり、4県総人口は3,762,941人であり、概ね横浜市人口に匹敵する,。(表右下 四国地方も参照) 四国の古代の呼称は、「伊予之二名島」・「伊予二名洲」(いよのふたなのしま)である。.
石狩国
石狩国(いしかりのくに)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つである。五畿八道のうち北海道 (令制)に含まれた。道央の広大な領域を版図とし、現在の石狩振興局管内のうち千歳市・恵庭市を除いた部分、後志総合振興局管内のうち小樽市銭函4・5丁目相当区域、空知総合振興局管内の全域、上川総合振興局管内の塩狩峠以南のうち占冠村を除いた部分と幌加内町に相当する。 通常、北海道の令制国は「○州」と略されることは無いが、峠、鉄道線名などの名称に略称として用いられる場合には、石狩国は先に成立した石見国との重複を回避するため塩狩峠(天塩国との境界線)や狩勝峠(十勝国との境界線)のように「狩」と略される事が多い。.
祖父江一秀
江 一秀(そぶえ かつひで)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。土佐山内氏の家臣。正式な名乗りは藤原 一秀(ふじわら の かつひで)。.
祖父江勘左衛門
江 勘左衛門(そぶえ かんざえもん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。山内一豊の家臣。実名は不明。.
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福岡孝弟
福岡 孝弟(ふくおか たかちか、天保6年2月5日(1835年3月3日) - 大正8年(1919年)3月7日)は、日本の幕末から明治時代の土佐藩士、政治家。五箇条の御誓文を加筆、政体書を起草した人物である。通称は藤次、雅号は南蘋。栄典は勲一等子爵。.
福岡孝茂
福岡 孝茂(ふくおか たかしげ)は、江戸時代後期の武士。土佐藩重臣。福岡氏10代当主。.
福岡干孝
福岡 干孝(ふくおか ゆきたか)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。土佐山内氏の家臣。.
筆山公園
園内からの眺望 鏡川北岸から筆山を望む 筆山公園(ひつざんこうえん)は高知県高知市にある公園。夜景と桜の名所である。.
美濃安藤氏
美濃安藤氏(みのあんどうし)は日本の氏族。 藤原秀郷を遠祖とする。秀郷の九代末の子孫である伊賀朝光以来、伊賀氏と称していたが守就の代より安藤氏に改めた。.
男爵
男爵(だんしゃく、)は、爵位の一つである。古代中国と近代日本で用いられ、子爵の下位に相当する。ヨーロッパ諸国の最下位の貴族称号の日本語・中国語訳にも用いられ、イギリスのbaronの訳にはこの語が用いられる。.
無双直伝英信流
無双直伝英信流(むそうじきでんえいしんりゅう)とは、江戸時代に長谷川英信が開いた武術の流派である。土佐および信州で継承された。長谷川英信流ともいわれる。土佐長谷川流、長谷川英信流、無双直伝流、無雙神傳流等さまざまな流派名が名乗られていた。しかし近年、信州で見つかった英信の弟子であった荒井清哲が1668年に発行した伝書に無双直伝英信流の名が見られることから、すでに古くからこの流名であったことが確認されている。幾つもの分派があったと思われるが、明治以降残った二派を大江正路の門人達は谷村派、下村派と呼んだ。谷村派は無双直伝英信流を、下村派は無双神伝英信流を称している。現在では土佐に伝わったもののみ残っており、別名土佐居合とよばれている。 居合のみの流派と思われがちだがこれは現在の居合の系統が広まったことによるものである。江戸時代、初代英信から2代荒井清哲の頃には和術(捕手術、小具足、組討など)を表芸とし、剣術、小太刀術、棒術、さらには槍術や薙刀術も伝える総合武術として、数多くの弟子に教伝されていた。その後、3代林六大夫守政によって土佐に伝えられた系統からは居合が中心となっていった。さらに長谷川英信は修行時代にそれらを使った合戦術も学び、これに付随し馬術や弓術の存在も指摘されているがこれは一説の域を出ず定かではない。戦前まで、2代荒井清哲によって信州に伝えられた系統では、無双直伝(英信)流和術を中心に棒術、居合、捕縄の技法が色濃く伝わっていたと思われる。 現代では同流異派の夢想神伝流と並び、現代居合道界の流派のひとつである。.
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無外流
無外流(むがいりゅう)は、延宝8年(1680年)に辻月丹により開かれた剣術の流派である。.
無雙神傳英信流
無雙神傳英信流(むそうしんでんえいしんりゅう)は、土佐に伝わった居合を中心とした武術の流派。無双直伝英信流と元々は同じ流派である。無双直伝英信流(谷村派)に対し、俗に下村派と呼ばれる。.
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遠江国
遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.
菩提寺
菩提寺(ぼだいじ)は、代々その寺の宗旨に帰依して、(先祖の)位牌を納めてある寺。菩提所とも呼ばれる。ここでいう菩提とは「死後の冥福」を指し、菩提を弔う寺院という意味である。例えば、徳川家の寛永寺や増上寺が有名。古代・中世では一般的に氏寺と呼ばれていた。 香華院(こうげいん)は、仏前に香や花を供える役割を担う寺院のこと。香華寺(こうげじ)や香華所(こうげしょ)とも呼ばれる。陵墓・霊廟・墓所などに隣接して置かれる。例えば、皇室の陵墓に隣接する泉涌寺、伊達政宗の霊廟「瑞鳳殿」に隣接する瑞鳳寺などがこれにあたる。 檀那寺、旦那寺(だんなでら)は、檀信徒(檀家)の布施、すなわち檀那(旦那)によって運営される寺のこと。本来の意味では信徒と寺との経済的関係を示しているに過ぎないが、江戸時代に寺請制度によって個人は必ず1つの寺に管理されるようになり、多くの庶民は経済的支援をする寺と先祖の墓を管理してもらうそれが一致する。.
華族
華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.
青松寺
青松寺(せいしょうじ)は、東京都港区愛宕二丁目にある曹洞宗の寺院。山号は萬年山(ばんねんざん)。.
表高
表高(おもてだか)は、江戸時代に大名や旗本が将軍によって与えられた所領の額面上の石高のことである。 表高は、多くの場合、江戸幕府公認の検地によって打ち出された石高の額面で、代替わりごとに新当主に対し主君である将軍が発給する所領安堵の朱印状に、所領の地名とともに記され、大名・旗本の格式や、参勤交代、手伝普請などの形で負担すべき軍役の算出基準となる。 表高に対し、実際に領民に課される年貢額の算定に用いられる石高を内高と言う。 表高は江戸時代初期に確定したまま使われていたことが多いので、多くの藩では、新田開発などにより実際には表高より大きな内高を持っていた。.
風早郡
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馬淵嘉平
淵 嘉平(まぶち かへい、寛政5年(1793年) - 嘉永4年11月11日(1851年12月3日))は、江戸時代後期の土佐藩士、心学者。.
香美郡
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高岡郡
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高知城
知城(こうちじょう)は、高知県高知市(土佐国土佐郡高知)にある日本の城。別名鷹城(たかじょう)。 江戸時代、土佐藩の藩庁が置かれた。江戸時代に建造された天守や本丸御殿(天守と本丸御殿が両方現存しているのは高知城のみ)、追手門等が現存し(天守と追手門が両方現存している城は全国で弘前城・丸亀城・高知城の3ヶ所)、城跡は国の史跡に指定されている。日本100名城に選定されている。.
高知市
知市(こうちし)は、四国の中南部に位置する都市で、高知県の県庁所在地である。中核市に指定されている。旧土佐郡・長岡郡・吾川郡。.
高知県
知県(こうちけん)は、日本の県の一つ。四国の太平洋側に位置する。県庁所在地は高知市。.
越智郡
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郷士
郷士(ごうし)は、江戸時代の武士階級(士分)の下層に属した人々を指す。江戸時代、武士の身分のまま農業に従事した者や、武士の待遇を受けていた農民を指す。平時は農業、戦時には軍事に従った。郷侍(ごうざむらい)とも。.
胆振国
胆振国(いぶりのくに)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つである。五畿八道のうち北海道 (令制)に含まれた。制定当初は膽振國とも表記された。国名の由来は、斉明天皇のころ阿倍臣が胆振鉏(いぶりさえ)の蝦夷(えみし)たちを饗応したという故事にちなむ。道南から道央にかけての地域に位置し、現在の胆振総合振興局管内の全域、渡島総合振興局管内の長万部町と八雲町のうち旧熊石町を除く部分、後志総合振興局管内の虻田郡、石狩振興局管内の千歳市・恵庭市、上川総合振興局管内の占冠村にあたる。.
阿波国
阿波国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.
蘂取郡
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関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.
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薩長土肥
薩長土肥(さっちょうどひ)は、江戸時代末期(幕末)に雄藩と呼ばれ、明治維新を推進して明治政府の主要官職に人材を供給した薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩4藩の総称。その主要人物たちは「元勲」「明治の元勲」「維新の元勲」と呼ばれた。 薩長土は、幕末期、志士たちの交流や薩長同盟・薩土同盟で連携関係を結んでおり、特に薩長は全国の他の諸藩よりも圧倒的に藩政改革が早く、不平等条約による開国という状況や幕末という時代変化にいち早く対応していたため、殉国者含め、倒幕の立役者となる人材を多く輩出していた。また、戊辰戦争の頃から、倒幕運動には不熱心だったが藩政改革が進んでおり開明的だった「雄藩」の肥前を仲間とみなし、肥前藩にも明治維新政府に人材を供給させた。 このため、明治政府の上位官職を薩長土肥で一時期ほぼ独占する状態となり、藩閥政治と非難された。しかし実際には、新政府発足以来、この4藩出身者の中で熾烈な権力闘争・路線闘争が展開されることによって明治政府が運営されていた。薩長出身者は政府・軍部の中核を占めたが、土肥出身者の一部は明治政府に残りつつも薩長政府を攻撃するという展開となった。明治の国政は、良くも悪くも、この薩長土肥主導による政治であったと言える。.
藩
藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.
藩の一覧
藩の一覧(はんのいちらん)では、江戸時代から明治時代の初期に日本の各地に存在した藩を地域ごとに一覧する。.
野中兼山
野中 兼山(のなか けんざん、元和元年(1615年) - 寛文3年12月20日(1664年1月18日))は、江戸時代初期の土佐藩家老・儒学者。谷時中に朱子学を学び、南学による封建道徳の実践に努めた。多くの改革で藩を助けたが、過酷な労働を強いたことから領民の不興を買い失脚、一族が絶えるまで家族全員幽閉された。 諱は良継(よしつぐ)、一名は止、尚字を良継とする史料もある。通称は初め伝右衛門、主計、伯耆と改め、最後に伝右衛門に復した。幼名は左八郎、兼山は号で、後に高山と改め、致仕して明夷軒と号した。 灌漑、築港、社会・風教改革、各種産業の奨励など活動は多岐にわたる。.
長宗我部盛親
長宗我部 盛親(ちょうそかべ もりちか)は、安土桃山時代から江戸時代前期の土佐国の大名・武将。長宗我部氏第22代当主。長宗我部元親の四男。戦国大名としての長宗我部氏の最後の当主。 父・元親の死後に長宗我部家の家督を継ぐ。関ヶ原の戦いで西軍に属すが、敗色濃厚と見て戦わず帰国し、徳川氏に謝意を表した。しかし、帰国直後に重臣たちが浦戸一揆を起こしたことをとがめられ、領国を没収され浪人となった。のち豊臣側から故郷の土佐一国の贈与を条件に旧臣と共に大坂城に入城、大坂の陣が勃発し、戦闘に参加したが敗北。再起を図るため、逃亡したが捕らえられた後、処刑された。.
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長宗我部氏
長宗我部氏(ちょうそかべし)は、日本の武家の一つ。平安時代末から戦国時代の武家。戦国時代に土佐を統一し四国に進出した戦国大名、長宗我部元親で有名。長曽我部・長曾我部とも記される。 本姓は秦氏を称した。家紋は「七つ酢漿草かたばみ」。室町時代以降、通字に「親」を用いた。 現・当主は長宗我部(ちょうそ'''が'''べ)友親。.
長岡郡
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長州藩
長州藩邸跡、碑文は屋敷址、京都河原町御池東入ル 長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。 藩庁は長く萩城(萩市)に置かれていたため、萩藩(はぎはん)とも呼ばれた。幕末には周防山口の山口城(山口政事堂)に移ったために、周防山口藩(すおうやまぐちはん)と呼ばれる事例もでてきた。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」と呼ばれている。 幕末には討幕運動・明治維新の中心となり、明治時代には明治新政府に政治家を多数輩出した(2014年8月5日時点のアーカイブ)。.
若年寄
若年寄(わかどしより)とは.
林一吉
林 一吉(はやし かつよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。土佐藩家老。土佐国高岡郡窪川城主。家禄は5,000石。.
林勝久
林 勝久(はやし かつひさ)は、江戸時代前期の武将。土佐藩家老。通称山内右近。.
掛川城
天守及び太鼓櫓 掛川城(かけがわじょう)は、遠江国佐野郡掛川(現在の静岡県掛川市掛川)にあった日本の城である。.
松尾藩
松尾藩(まつおはん)は、明治維新期の短期間、上総国に存在した藩。1868年に遠江掛川藩の太田家が5万3000余石で移封され、1871年の廃藩置県まで存続した。藩庁ははじめ上総国武射郡柴山(現在の千葉県山武郡芝山町)に置かれ「柴山藩(しばやまはん)」と称したが、のちに武射郡松尾(山武市松尾町)に松尾城を築いて移転した。.
板垣退助
板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日(1837年5月21日) - 大正8年(1919年)7月16日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家。幼名は猪之助。退助は元は通称。諱は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)。号は無形(むけい)。栄典は従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲。自由民権運動の主導者として知られ、「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受けていた。薨去後も民主政治の草分けとして人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。.
桑村郡
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橋本博
橋本 博(はしもと ひろし、1972年1月 - )は、日本の生物学者(構造生物学・タンパク質結晶学)。学位は博士(工学)(大阪大学・2000年)。静岡県立大学薬学部教授・大学院薬学研究院教授、大阪大学蛋白質研究所客員教授。 横浜市立大学大学院生命ナノシステム科学研究科准教授などを歴任した。.
武射郡
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武市瑞山
武市邸と道場跡の碑(高知市桜井町) 武市 瑞山(たけち ずいざん、文政12年9月27日(1829年10月24日) - 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日))は、日本の志士、武士(土佐藩郷士)。土佐勤王党の盟主。通称は半平太で、武市 半平太(たけち はんぺいた)と呼称されることも多い。幼名は鹿衛。諱は小楯(こたて)。号は瑞山または茗澗。変名は柳川左門。後に柳川左門と変名した際は雅号を吹山とした。 土佐藩郷士・武市正恒(白札格、51石)の長男。母は大井氏の娘。妻は土佐藩郷士・島村源次郎の長女・富子。子女はなし。坂本龍馬とは遠縁にあたる。 優れた剣術家であり、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政・吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功した。京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導し、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が一変すると前藩主・山内容堂によって投獄される。1年8か月20日の獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。.
永原一照
永原 一照(ながはら かつあき)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。土佐藩家老。滝山一揆を鎮定し善政により土佐山内氏の土佐治政に功績があった。.
江戸
江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.
江戸幕府
江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.
江戸藩邸
松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型 江戸藩邸(えどはんてい)は、江戸時代に江戸に置かれた藩邸(藩の屋敷)である。ただし、江戸時代当時の歴史的呼称ではなく、後世つくられた歴史用語である。当時は、単に武家屋敷もしくは江戸屋敷と呼ばれ、個別の屋敷は当該屋敷を使用する武家の家名を付して○○家屋敷などと呼ばれた。.
江戸時代
江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.
淡路国
淡路国(あわじのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.
深尾繁寛
深尾 繁寛(ふかお しげひろ)は、江戸時代中期から後期にかけての武士。土佐藩の家老。深尾氏7代当主。7代佐川領主。.
深尾繁峯
深尾 繁峯(ふかお しげみね)は、江戸時代中期の武士。土佐藩の家老。深尾氏5代当主。5代佐川領主。.
深尾隆太郎
深尾 隆太郎(ふかお りゅうたろう、1877年(明治10年)1月9日 - 1948年(昭和23年)4月17日)は、日本の実業家。貴族院議員。男爵。哲学者の小島威彦は娘婿。.
深尾茂澄
深尾 茂澄(ふかお しげずみ)は、江戸時代中期から後期にかけての武士。土佐藩の家老。深尾氏6代当主。6代佐川領主。.
深尾重世
深尾 重世(ふかお しげよ)は、江戸時代後期の武士。土佐藩家老。深尾氏8代当主。8代佐川領主。.
深尾重先
深尾 重先(ふかお しげもと)は、江戸時代後期の武士。土佐藩士。深尾氏10代当主。10代佐川領主。.
深尾重照
深尾 重照(ふかお しげてる)は、江戸時代前期の武士。土佐藩の家老。深尾氏3代当主。3代佐川領主。.
深尾重良
深尾 重良(ふかお しげよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。土佐山内氏の家臣。土佐藩首席家老。土佐藩佐川初代領主。.
深尾重昌
深尾 重昌(ふかお しげまさ)は、江戸時代前期の武士。土佐藩家老。深尾氏2代当主。佐川2代領主。.
深尾重方
深尾 重方(ふかお しげかた)は、江戸時代前期から中期にかけての武士。土佐藩の重臣。深尾氏4代当主。4代佐川領主。.
深尾重愛
深尾 重愛(ふかお しげよし)は、江戸時代後期の武士。土佐藩家老。深尾氏11代当主。11代佐川領主。.
深尾重教
深尾 重教(ふかお しげのり)は、江戸時代後期の武士。土佐藩家老。深尾氏9代当主。9代佐川領主。.
渡部淳
渡部 淳(わたなべ じゅん、1951年- )は、教育学者、日本大学教授。 秋田県生まれ。国際基督教大学大学院行政学研究科博士後期課程満期退学。ICU高校公民科教諭、2003年日本大学文理学部教授(教育内容・方法論・ドラマ教育)。2001年『教育における演劇的知』で演劇教育賞・特別賞受賞。2006年獲得型教育研究会を創設。日韓米の高校生が演劇的発表を創り出す「グローバル・クラス」など数々の実験的プログラムの運営に携わり、教育における演劇的手法の可能性を研究している。.
本山町
本山町(もとやまちょう)は、高知県北部中央にあり、長岡郡に属する町である。 板垣退助の先祖ゆかりの地。また、早明浦ダムの近辺にあり、四国の水源地にあたるため、近年は天空の郷とも呼ばれている。.
戦国時代 (日本)
日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.
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明暦
明暦(めいれき)は日本の元号の一つ。承応の後、万治の前。1655年から1658年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
明治維新
Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.
浦戸城
浦戸城(うらどじょう、Urado Castle, Urado-jo)は、高知県高知市浦戸(土佐国吾川郡浦戸)にあった日本の城。 戦国時代に長宗我部元親が居城とし、山内一豊も高知城に移るまで居城とした。現在は県の史跡に指定されている。.
浦戸藩
浦戸藩(うらどはん)は、土佐国(現在の高知県高知市浦戸)に存在した藩。藩庁は浦戸城。.
新居郡
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新人物往来社
株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.
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新田
新田(しんでん)とは、新たに田や畑などとするため開墾して出来た農地のことである。また、その地名。その開墾までの流れを新田開発といい、本項では新田開発も含めて解説する。.
文春新書
文春新書(ぶんしゅんしんしょ、Bunshun shinsho)は、1998年10月に創刊した文藝春秋発行の新書レーベルである。 創刊第1号は高橋紘・所功共著『皇位継承』である。通常月4点刊行だが、6点や8点の月もある。新書の中では比較的重版の率が高い。 2012年1月20日に発刊した阿川佐和子著『聞く力』は、160万部を超えるベストセラーとなった。通巻1000点目となる池上彰・佐藤優共著『新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方』は、2015年1月時点で31万部を突破している。2015年、ISILの組織の台頭を歴史的背景から解き明かした『イスラーム国の衝撃』(池内恵著)が話題になり、10万5000部を超えるヒット作となる。.
改易
改易(かいえき)は、律令制度では現職者の任を解き新任者を補任することを、鎌倉時代・室町時代には守護・地頭の職の変更を意味した。江戸時代においては大名・旗本などの武士から身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること。除封ともいう。所領を削減されることを減封という。.
慶長
慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.
承応
承応(じょうおう)は日本の元号の一つ。慶安の後、明暦の前。1652年から1655年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇、後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.
曹洞宗
曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。本山は永平寺(福井県)・總持寺(横浜市鶴見区)。専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴とするが、仏陀つまり悟りを開いた人・目覚めた人の教えであるので、出家在家に拘らず、求道者各自が悟りを開くことを標榜する。 中国禅宗の祖である達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638 - 713年)の弟子の1人である青原行思(? - 740年)から、石頭希遷(700 - 790年、石頭宗)、薬山惟儼(745 - 828年))、雲巌曇晟(782 - 841年 )と4代下った洞山良价(807 - 869年)によって創宗された。.
1600年
400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.
1601年
17世紀最初の年である。.
1605年
記載なし。
1613年
記載なし。
1615年
記載なし。
1629年
記載なし。
1655年
記載なし。
1656年
記載なし。
1669年
記載なし。
1672年
記載なし。
1689年
記載なし。
16世紀
16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.
1702年
記載なし。
1705年
記載なし。
1751年
記載なし。
1764年
記載なし。
1780年
記載なし。
1870年
記載なし。
1871年
記載なし。
1884年
記載なし。
1977年
記載なし。
1989年
この項目では、国際的な視点に基づいた1989年について記載する。.
2003年
この項目では、国際的な視点に基づいた2003年について記載する。.
2004年
この項目では、国際的な視点に基づいた2004年について記載する。.