目次
281 関係: A・T・スティール、A級戦犯、AP通信、加藤清正、原剛 (軍事史家)、原田棟、偕行社、南京 (戦線後方記録映画)、南京 (映画)、南京 引き裂かれた記憶、南京!南京!、南京1937、南京城攻略要領、南京の真実、南京安全区国際委員会、南京市、南京市 (中華民国)、南京事件、南京事件の被害者数、南京事件の証言、南京事件論争、南京事件論争史、南京軍事法廷、南京戦、南満洲鉄道、反日主義、否認主義、向井敏明、吉住良輔、吉田裕 (歴史学者)、堅壁清野、堀田善衛、塚田攻、多田駿、夏淑琴、大月書店、外務省、宣戦布告、宮崎周一、守山義雄、宇垣一成、小藤恵、小林よしのり、尼港事件、山室宗武、山河燃ゆ、山本弘 (作家)、岡村寧次、岩波現代文庫、岩波新書、... インデックスを展開 (231 もっと) »
A・T・スティール
A・T・スティール(Archibald Trojan Steele,1903年6月25日 - 1992年2月28日)はアメリカ合衆国のジャーナリスト。1937年の南京戦における南京大虐殺(南京事件)を報道したことで知られるSuping Lu,They Were in Nanjing: The Nanjing Massacre Witnessed by American and British Nationals,2004,Hong Kong University Press p345-346.。
A級戦犯
護送中のA級戦犯指名された人物ら。最前列通路側左が荒木貞夫、その斜め後ろが東條英機 A級戦犯(Aきゅうせんぱん、Class-A war criminal)は、ニュルンベルク裁判と極東国際軍事裁判の被告に対する呼称。戦犯は戦争犯罪人の略。 第二次世界大戦における枢軸国のドイツの降伏後、1945年(昭和20年)8月8日にイギリス、フランス、アメリカ合衆国、ソビエト連邦の連合国4ヵ国が調印した国際軍事裁判所憲章では、通例の戦争犯罪に加えて、平和に対する罪と人道に対する罪が新たに規定された。国際軍事裁判所憲章では、a.平和に対する罪、b.(通例の)戦争犯罪、c.人道に対する罪の3つが英語原文でabc順になっているため、項目aの平和に対する罪で訴追された者を「A級戦犯」、項目b、項目cで訴追されたものをそれぞれB級戦犯、C級戦犯と呼ぶ。
見る 南京事件とA級戦犯
AP通信
AP通信(Associated Press、AP)は、ニューヨークに本部を置くアメリカの非営利通信社。1846年に設立され、法人格を持たない協同組合として運営されている。ロイター通信、フランス通信社(AFP)と並んで世界最大の通信社のひとつである。 ニュースレポートは、英語、スペイン語、アラビア語で作成され、会員や顧客に配布されている。ピューリッツァー賞が1917年に創設されて以来、APは32の写真部門を含む54の同賞を受賞している。
見る 南京事件とAP通信
加藤清正
加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後国熊本藩初代藩主。
見る 南京事件と加藤清正
原剛 (軍事史家)
原 剛 (はら たけし、1937年(昭和12年) - )は、日本の軍事史研究者、陸上自衛官。防衛省防衛研究所図書館調査員、軍事史学会副会長。最終階級は1等陸佐。専攻は日本軍事史(特に国土防衛史)。
原田棟
原田 棟(はらだ むなぎ、1893年(明治26年)9月24日『日本陸軍将官辞典』602頁。 - 1982年(昭和57年)2月28日『現代物故者事典 1980〜1982』264頁。)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
見る 南京事件と原田棟
偕行社
公益財団法人偕行社(かいこうしゃ)は、日本の公益財団法人。大日本帝国陸軍元将校・士官候補生・将校生徒・軍属高等官および、陸上自衛隊・航空自衛隊元幹部の親睦組織。
見る 南京事件と偕行社
南京 (戦線後方記録映画)
『南京』(なんきん)は、1938年2月20日、東宝映画により公開された映画である。制作中に陸軍省、海軍省の後援を得たものであり、企画意図からして,必ずしも自覚的に国家宣伝。
南京 (映画)
『南京』(英:NANKING)は、アメリカ合衆国製作で2007年に公開された南京事件に関するドキュメンタリー映画。中国で『南京』、台湾で『被遺忘的1937』(忘れられた1937)の題名でも公開された。 日本では2009年12月13日の「南京・史実を守る映画祭2009」で上映された。
見る 南京事件と南京 (映画)
南京 引き裂かれた記憶
『南京 引き裂かれた記憶』(なんきん ひきさかれたきおく)は、2007年制作の日本のドキュメンタリー映画。
南京!南京!
『南京!南京!』(なんきん!なんきん!)(英題 City of Life and Death)は、陸川(ルー・チューアン)監督によって製作された中国映画。日中戦争の南京戦とその後に起こったとされる南京事件を題材にした作品。モノクロで制作されており、南京戦の一連の様子が一日本兵の視点から描かれている。
見る 南京事件と南京!南京!
南京1937
『南京1937』(なんきん1937、発表時のタイトル: 南京大屠殺)は、1995年に製作された中国・香港・台湾合作の映画。 日中戦争中の1937年に起こった南京事件を描いた作品。日本人俳優も出演している。日本での公開は1998年5月2日。
見る 南京事件と南京1937
南京城攻略要領
南京城攻略要領(なんきんじょうこうりゃくようりょう)は、支那事変中の1937年(昭和12年、民国25年)12月7日、中支那方面軍が南京攻略戦にあたり隷下の部隊へ示達した文である。不法行為を厳禁し、諸外国の権益の保護することなどを求めている。
見る 南京事件と南京城攻略要領
南京の真実
『南京の真実』(なんきんのしんじつ)は、日本の映画作品。監督は水島総。全三部作を予定。2008年1月、第1部「七人の死刑囚」を公開した。
見る 南京事件と南京の真実
南京安全区国際委員会
南京安全区国際委員会(なんきんあんぜんくこくさいいいんかい、)は、日中戦争初期の南京戦に際し、南京から避難できない貧しい市民の救済を目的に掲げ、南京城内の一角に(難民区)を設定した組織。ドイツ人ジョン・ラーベを委員長とし、メンバーの多くはアメリカ人宣教師だった。 南京安全区は第二次上海事変の上海南市安全区に倣って設置されたが、上海の安全区と異なり、非公認であった。池田悠は、宣教師たちの安全区設置の目的は、区内で中国軍の支援保護を実施し、中国軍・政府から布教の便宜を得たいというものであり。その為、約束された中立化・非軍事化は果たされず、戦闘中は安全区内に中国軍の砲台の存在を許し、戦闘後は中国兵の潜伏を許していたと主張している。また、南京安全区が日本から承認されず、非公式なものであったのは、上海安全区とは異なり中立性に疑義があったためとしている(池田は、ラーベの日記や国際委員会のメンバーであったシールズの証言により、実際に安全区内の砲台が使用されていたことを示している)。
南京市
南京市(ナンキンし、、、/Nanking、南京官話:Lang2jin1)は、中華人民共和国江蘇省の省都。
見る 南京事件と南京市
南京市 (中華民国)
南京市(ナンキンし)は、かつて中華民国に設置されていた院轄市。現在の中華人民共和国江蘇省南京市の玄武区、鼓山区、建鄴区、秦淮区の全域と浦口区、棲霞区、雨花台区、江寧区の一部に相当する。
南京事件
南京事件(ナンキンじけん)は、日中戦争中の1937年12月に日本軍が南京戦において中華民国の首都である南京市を占領した後(もしくはその前後)、数か月にわたって多数の一般市民、捕虜、敗残兵、便衣兵を虐殺した事件である笠原 (1997)、214-215頁世界戦争犯罪事典、78-87頁、「南京虐殺事件」の項目より。南京虐殺事件や南京大虐殺フォーゲル (2000)とも呼ばれる。事件の規模、虐殺の存否、戦時国際法違反か否かは南京事件論争、犠牲者数をめぐる論争は南京事件の被害者数にて詳細が論じられている。 (なお、本稿での記述内容は、日本での日中戦争に係る代表的な研究者(秦郁彦・笠原十九司)の著作、日本陸軍の親睦団体であった偕行社が戦後にまとめた「南京戦史資料集」、事件当時のニューヨーク・タイムズ、シカゴ・デイリー・ニューズ等の海外の新聞、現地在住の欧米人の記録(ジョン・ラーベやミニー・ヴォートリンの日記やルイス・S・C・スマイスのスマイス調査等)、戦後明らかになった日本陸軍軍人や従軍関係者の発言や記録などをもとに一次資料やそれを研究した内容を主にまとめたものである。可能な限り中立になるように記述するために、所謂、否定派といわれる意見は積極的に網羅し、日本側の研究者に対する中国側の意見についても述べている)。
見る 南京事件と南京事件
南京事件の被害者数
南京事件の被害者数では、南京事件論争のうち被害者数について解説する。
南京事件の証言
南京事件の証言では、南京事件の証言について解説する。
見る 南京事件と南京事件の証言
南京事件論争
南京事件論争(ナンキンじけんろんそう)とは、日中戦争(支那事変)中の1937年(昭和12年)12月に遂行された南京戦において発生したとされる南京事件における虐殺の存否や規模などを論点とした論争である。論争は日中関係を背景に政治的な影響を受け続けた。
見る 南京事件と南京事件論争
南京事件論争史
南京事件論争史(ナンキン じけんろんそうし)では、南京事件論争の歴史について解説する。また日中政府の対応などについても解説する。
見る 南京事件と南京事件論争史
南京軍事法廷
南京軍事法廷(なんきんぐんじほうてい)は、1946年に蒋介石率いる中国国民党政府によって開かれた戦犯裁判。中国で戦争犯罪を犯したと目された日本軍関係者が日中戦争中の行為をもとに石美瑜裁判長によるこの法廷で裁かれた。
見る 南京事件と南京軍事法廷
南京戦
南京戦(ナンキンせん、、英語:Battle of Nanking)は、日中戦争における戦闘の1つで、1937年(昭和12年)8月以降の上海戦の戦線が拡大し、12月に中華民国の首都南京市で展開した。日本軍は国民革命軍(中国軍)を追撃し、南京を陥落させた。日本軍からは南京攻略戦。中国側からみて上海戦と南京戦を併せて上海南京保衛戰とする研究もある。 この戦闘の最中に南京事件が発生したとされ、戦後南京軍事法廷や東京裁判で認定され、訴追された。ただし、事件の内実については論争がある(南京事件論争)。
見る 南京事件と南京戦
南満洲鉄道
南満洲鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどう、)は、南満洲の鉄道会社。日露戦争に勝利した後、1905年(明治38年)に締結されたポーツマス条約に基づき、東清鉄道南満洲支線(長春・旅順間鉄道)やその支線はロシアから日本に譲渡され、鉄道事業および付属事業を経営する目的で1906年(明治39年)に設立された半官半民企業であり、日本の満洲経略において重要な位置を占めた企業へと発展した。略称は満鉄(まんてつ、)。
見る 南京事件と南満洲鉄道
反日主義
'''鬼子'''、'''小日本'''など侮蔑用語を記載したプラカードを掲げる台湾台北のデモ隊 反日主義(はんにちしゅぎ、Anti-Japanism)とは、日本に対して敵対または嫌悪する思想、主張、政策、行動をいう鄭大均『韓国が「反日」をやめる日は来るのか』 新人物往来社 2012年12月。
見る 南京事件と反日主義
否認主義
否認主義(ひにんしゅぎ、Denialism)とは、心理的に不快な真実を回避するために、現実を否認するという人間の選択を指す。 そのひとつに歴史否定主義(Historical negationism)、ネガシオニスム(Négationnisme、Negationism)があり、具体的には過去に行われていたとされる大量虐殺、ホロコーストの存在を否定する立場のことを指し、とりわけ第2次世界大戦にナチス・ドイツによって実施されたホロコースト(希:Shoah)に関して用いられることが多い。ドイツなどヨーロッパの国ではホロコースト否認・ナチス賛美に関する主張・出版・公開について非合法化されている国もある(ドイツ刑法第130条第3項:民衆煽動罪)。ホロコースト否認の言論活動と、国境を越えた法規制の問題については戦う民主主義を参照。
見る 南京事件と否認主義
向井敏明
向井 敏明(むかい としあき、1912年6月3日 - 1948年1月28日)は、日本の陸軍軍人。敗戦時の階級は陸軍少佐。 山口県出身。日中戦争に参加、南京攻略戦の際に実施されたとされる「百人斬り競争」の容疑者として逮捕され、南京にて処刑された。
見る 南京事件と向井敏明
吉住良輔
吉住 良輔(よしずみ りょうすけ、1884年11月27日 - 1963年2月18日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
見る 南京事件と吉住良輔
吉田裕 (歴史学者)
吉田 裕(よしだ ゆたか、1954年11月2日 - )は、日本の歴史学者。一橋大学名誉教授、東京大空襲・戦災資料センター館長、同時代史学会代表。専攻は日本近代軍事史、日本近現代政治史。
堅壁清野
堅壁清野(けんぺきせいや)は、焦土作戦の一種。清野作戦ともいう笠原十九司『南京事件』岩波書店、1997年、120頁。。城壁に囲まれた市街地内に人員を集中させ(堅壁)、城外は徹底して焦土化する(清野)ことで、進攻してきた敵軍は何も接収できないようにして疲弊させ、持久戦を有利に運ぶ狙いで行われる。
見る 南京事件と堅壁清野
堀田善衛
堀田 善衛(ほった よしえ、1918年(大正7年)7月17日 - 1998年(平成10年)9月5日)は、日本の小説家、評論家。中国国民党宣伝部に徴用された経験をもとにした作品で作家デビューし、1951年に芥川賞受賞。 慶應義塾大学仏文科卒業。上海で敗戦を迎えた体験から『広場の孤独』(1951年)を発表し、芥川賞受賞。スペイン内戦から民族問題を考える国際的視野をもつ作家。代表作に『方丈記私記』(1971年)のほか、『海鳴りの底から』(1960年 - 1961年)など。
見る 南京事件と堀田善衛
塚田攻
塚田 攻(つかだ おさむ、1886年7月14日 - 1942年12月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。殉職により陸軍中将から進級。
見る 南京事件と塚田攻
多田駿
多田 駿(ただ はやお林茂 『日本の歴史25 太平洋戦争』 中公文庫新版 [S-2-25] ISBN 978-4122047426、60pでは「駿」に「しゅん」とルビが振られている。、1882年(明治15年)2月24日 - 1948年(昭和23年)12月18日)は、日本の陸軍軍人。陸士15期・陸大25期。最終階級は陸軍大将。宮城県仙台市出身。 陸軍きっての中国通(支那通)として知られ、田代皖一郎、橋本群と共に対中穏健派であった。日中戦争が始まると参謀次長に就任。蔣介石政権よりもソ連の脅威を重視する立場から、戦線不拡大を唱えていた。 日中戦争を終わらせる最大かつ最後の機会であった、ドイツ仲介による中国との和平工作(トラウトマン和平工作)を推進し、和平を主張して、日中戦争の無用と、この戦争が如何に日中両国民にとって不幸かを涙ながらに説いた。しかし、中国側の回答が遷延する中、「和平工作の打ち切り」を唱える政府側(近衛文麿首相・廣田弘毅外相・杉山元 陸相・米内光政海相)に対し、参謀本部を代表して「和平工作の継続」を唱え続けるも、力及ばなかった。
見る 南京事件と多田駿
夏淑琴
夏淑琴(か・しゅくきん、シア・シュウチン、1929年5月5日 - )は、南京事件の一事件とされる新路口事件の生存者を名乗る中華人民共和国の女性。この事件では2家族13人が住んでいた家屋内で、0歳の幼児を含む11人が殺害され、その内、女性3人は強姦された後、殺害されたとされる。
見る 南京事件と夏淑琴
大月書店
株式会社大月書店(おおつきしょてん)は、日本の出版社。主に、社会・政治・人文・思想などを中心とした図書を刊行する。マルクス主義関連の図書については多くの刊行数を誇る。 人文会会員。草文会会員。平和の棚の会会員。
見る 南京事件と大月書店
外務省
外務省(がいむしょう、Ministry of Foreign Affairs、略称: MOFA)は、日本の行政機関のひとつ。日本の外交を所管する「平和で安全な国際社会の維持に寄与するとともに主体的かつ積極的な取組を通じて良好な国際環境の整備を図ること並びに調和ある対外関係を維持し発展させつつ、国際社会における日本国及び日本国民の利益の増進を図ること」(外務省設置法第3条)。
見る 南京事件と外務省
宣戦布告
宣戦布告(せんせんふこく、declaration of war)とは、紛争当事者である国家が相手国に対して戦争行為(hostilities)を開始する意思を表明する宣言である。開戦に関する条約によれば、宣戦布告は戦争行為の開始前に行わなければならない。
見る 南京事件と宣戦布告
宮崎周一
宮崎 周一(みやざき しゅういち、1895年(明治28年)2月6日 - 1969年(昭和44年)10月16日)は、昭和期日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵科は歩兵。
見る 南京事件と宮崎周一
守山義雄
守山 義雄(もりやま よしお、1910年(明治43年)11月21日 - 1964年(昭和39年)8月27日)は、日本のジャーナリストである。
見る 南京事件と守山義雄
宇垣一成
宇垣 一成(うがき かずしげ、、1868年8月9日〈慶応4年6月21日〉- 1956年〈昭和31年〉4月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。位階勲等は正二位勲一等功四級。 大正末期から昭和初期にかけて長州出身者に代わって陸軍の実権を握り、宇垣閥と称される勢力を築いた。陸軍大臣として宇垣軍縮を断行した。予備役入り後に組閣の大命が下ったが陸軍の反対で頓挫し、以後も幾度か首相に擬せられたがいずれも実現しなかった。短期間外相を務めた後公職から引退し、戦後になり参議院議員となったが在職中に死去した。
見る 南京事件と宇垣一成
小藤恵
小藤 恵(こふじ さとし『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』258頁では「めぐむ」。、1888年(明治21年)7月25日『日本陸海軍総合事典』第2版、65頁。『日本陸軍将官辞典』313-314頁。 - 1943年(昭和18年)10月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。陸軍中将久納誠一(18期)は義兄弟、陸軍中佐高木作之(45期)は久納の娘婿にあたる。
見る 南京事件と小藤恵
小林よしのり
小林 よしのり(こばやし よしのり、本名:小林 善範(読み同じ)小林善紀、1953年〈昭和28年〉8月31日 - )は、日本の漫画家・評論家。「よしりん企画」社長、「ゴー宣道場」主宰者、「大東亜青年塾」名誉塾長。血液型O型。
見る 南京事件と小林よしのり
尼港事件
廃墟となったニコラエフスク(尼港) ニーナ・レペデワ(レベジェワ)・キャシコ。 その隣、左端の椅子に座った人物が副司令のラプタ。背後には日本人から略奪した屏風が見え、撮影時期は1920年4月と推定されている。 尼港事件(にこうじけん、Николаевский инцидент Nikoláyevskiy Intsidyént, Nikolayevsk Massacre『尼港事件と日本社会、一九二〇年』p.
見る 南京事件と尼港事件
山室宗武
山室 宗武(やまむろ そうぶ、1880年10月21日 - 1963年10月31日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
見る 南京事件と山室宗武
山河燃ゆ
『山河燃ゆ』(さんがもゆ)は、1984年(昭和59年)1月8日から12月23日まで放送されたNHK大河ドラマ第22作。主演は九代目松本幸四郎。副題は「祖国は緑なる山河あたたかくもやさしき母なる大地」。原作は山崎豊子作の『二つの祖国』。
見る 南京事件と山河燃ゆ
山本弘 (作家)
は、日本のSF作家、ファンタジー作家、ゲームデザイナー、漫画原作者、アンソロジー編集者など、幅広い分野で活動。オカルトなどを扱う「トンデモ本」を研究する「と学会」初代会長をつとめ、トンデモ本ブームの先駆者でもある。「山本 弘」はペンネームで、本名は「山本 浩」(読みは同じ)奇想天外1977年8月号によれば、「ネオ・ヌル」主催者筒井康隆の論敵山野浩一に似た名であることをはばかったためである。角川書店『ザ・スニーカー』1995年12月5日発売号の158頁において本名を公開している。。日本SF作家クラブ元会員。 1956年に京都府で生まれ、1978年に「スタンピード!」で奇想天外SF新人賞佳作を受賞、1988年に「ラプラスの魔」で本格的に小説家デビュー。1987年にゲーム創作集団「グループSNE」の一員として、RPG『ソード・ワールド』の立ち上げに参画、「サーラの冒険」シリーズなど「ソード・ワールド」を題材とした小説の執筆、テーブルトークRPG『ガープス』から派生した『妖魔夜行』『百鬼夜翔』シリーズの小説版を手がけた。
岡村寧次
岡村 寧次(おかむら やすじ、1884年(明治17年)5月15日 - 1966年(昭和41年)9月2日)は、日本の陸軍軍人。官位は陸軍大将勲一等功一級に昇る。支那派遣軍総司令官、北支那方面軍司令官、第11軍司令官等を歴任。 父は江戸幕府に仕えた岡村寧永。元妻の星野理枝と死別した後、貴族院議員・加藤宇兵衛の娘と再婚する。陸軍三羽烏の一人。
見る 南京事件と岡村寧次
岩波現代文庫
岩波現代文庫(いわなみげんだいぶんこ)は、岩波書店が刊行する文庫シリーズ。2000年に創刊。内容によって、学術(青)、文芸(赤)、社会(緑)の3つに分類される。
見る 南京事件と岩波現代文庫
岩波新書
岩波新書(いわなみしんしょ)は、岩波書店が刊行する新書シリーズである。
見る 南京事件と岩波新書
岩波書店
株式会社岩波書店(いわなみしょてん、)は、日本の出版社である。 文芸・学術の幅広い分野における専門書から一般啓蒙書までを広く扱い、国内外の古典的著作を収めた「岩波文庫」や「岩波新書」などの叢書や、国語百科事典『広辞苑』の刊行でも有名。
見る 南京事件と岩波書店
上村利道
上村 利道(うえむら としみち、1889年(明治22年)2月10日『日本陸海軍総合事典』第2版、26頁。『日本陸軍将官辞典』119頁。 - 1947年(昭和22年)9月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
見る 南京事件と上村利道
上海市
上海市(シャンハイし)は、中華人民共和国の直轄市である。 中国東南沿海部の江蘇省・浙江省に隣接し、長江河口と杭州湾に南北を挟まれ、東シナ海に突き出す長江デルタに位置する。改革開放政策以降、同国の経済発展の象徴として高い経済成長を続け、商業・工業・金融・貿易・交通などの中心地である。2022年時点の常住人口は2,400万人を超え、2022年市内総生産は約4兆4652億8000万元(約85兆円)である。 中華人民共和国国務院により国家中心都市の一つに指定されており、森記念財団都市戦略研究所が発表した2023年の「世界の都市総合力ランキング」(Global Power City Index, GPCI)によると世界15位の都市と評価され、首都北京や国際金融センター香港を上回る同国最大の世界都市である。
見る 南京事件と上海市
上海派遣軍
上海派遣軍(シャンハイはけんぐん)は、大日本帝国陸軍の軍の一つ。第一次上海事変・第二次上海事変の双方に際して編成、上海に派遣された。
見る 南京事件と上海派遣軍
中央公論新社
株式会社中央公論新社(ちゅうおうこうろんしんしゃ)は、日本の出版社である。読売新聞グループ本社の傘下。略称は中公(ちゅうこう)。 本項では、旧法人の株式会社中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)についても述べる。
見る 南京事件と中央公論新社
中央日報
は、韓国の朝鮮語の日刊新聞(朝刊)である。1965年創刊。本社をソウル特別市中区におく。時事通信社、日本経済新聞社と友好関係にあり、東京総局を東京都中央区銀座の時事通信ビルに置く。
見る 南京事件と中央日報
中島今朝吾
中島 今朝吾(なかしま けさご, 1881年 (明治14年)6月15日 - 1945年(昭和20年)10月28日)は、日本の陸軍軍人。第16師団師団長、第4軍司令官、階級は陸軍中将。
見る 南京事件と中島今朝吾
中川広
中川 広(なかがわ ひろし、1888年(明治21年)1月31日 - 1954年(昭和29年)10月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
見る 南京事件と中川広
中公新書
中公新書(ちゅうこうしんしょ)は、中央公論新社(読売新聞グループ)が発行している新書レーベル9の1つ。現行の新書レーベルでは岩波新書に次ぐ歴史がある。サブレーベルとして中公PC新書、中公新書ラクレがある。
見る 南京事件と中公新書
中国之怒吼
撃たれているのは中国共産党員であり、撃っているのは蔣介石中国国民党軍である。ロシアの『上海ドキュメント』の映像を流用し、日本軍の兵士によって射殺されている映像として『中国之怒吼』で使っている 『中国之怒吼』(中國之怒吼、ちゅうごくのどこう、中国の怒吼)は、1945年(昭和20年)秋頃に、アメリカ製の映画『ザ・バトル・オブ・チャイナ』を編集・追加して中国(国民政府)で作られたプロパガンダ映画である。南京事件の証拠写真・映像として、この映画のシーンが使用されることもある。 長崎原爆資料館では長崎の中国総領事館が「南京大虐殺の写真」を展示することを要求したことで、資料館は圧力に屈してこの宣伝映画の1コマをプリントして「泣き叫ぶ婦人の連行写真」として展示していたことがあったが、結果的に「信憑性に乏しい」と判断され撤去するに至っている産経新聞2000年1月19日。
見る 南京事件と中国之怒吼
中国国民党
中国国民党(ちゅうごくこくみんとう、繁体字: 中國國民黨、拼音: Zhōngguó Guómíndǎng、Chinese Nationalist Party、Kuomintang、略称: KMT)は、中華民国(台湾)の政党。略称は国民党(こくみんとう)。イメージカラーは藍色で、ニュース報道等では、民主進歩党(以下、民進党)の「緑」に対して「藍」と呼ばれることがある。民進党と共に二大政党制を形成している。2024年1月現在は野党かつ立法院第1党である。
見る 南京事件と中国国民党
中立法
中立法(ちゅうりつほう、Neutrality Act)は、1935年にアメリカで制定された法律。大統領が戦争状態にある国が存在していること、または内乱状態にある国が存在していることを宣言した場合には、その国に対して武器や軍需物資の輸出を禁じるというものである。
見る 南京事件と中立法
中華人民共和国
中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく、)、通称中国(ちゅうごく、)は、東アジアに位置する社会主義共和制国家。首都は北京市。
見る 南京事件と中華人民共和国
中華民国
中華民国(ちゅうかみんこく、中華民國、、ウェード式: Chung-hua Min-kuo、Republic of China)は、東アジアに位置する共和制国家。実効支配している領土の大半が台湾島であることと、中華人民共和国が「一つの中国」原則を唱えている政治情勢により、台湾(たいわん、臺灣/台灣、Taiwan)が通称として国際的にしばしば使用されている。現在(1949年以降)の首都は台北市。 アジアで2番目の共和国アジア初の共和国はフィリピン第一共和国であると見なす場合。ただし、当時のフィリピンはスペインの植民地支配からアメリカの植民地支配下への移行期間にあり、アメリカの支配下から脱し切れていなかったため異論がある。
見る 南京事件と中華民国
中華民国 (1912年-1949年)
中華民国(ちゅうかみんこく、中華民國; Republic of China)は、1912年から1949年まで中国大陸に拠点を置いた、東アジアの共和制国家である。現在は、国共内戦の結果台湾と周辺の島々のみ(通称「台湾地区」)を統治している。
中華民国の首都
中華民国の首都(ちゅうかみんこくのしゅと)は、1912年の建国以来、多くの都市に移されてきた。直近の首都移転は1949年12月7日の台北市への遷都である。それ以前の大陸統治時代は、北京または南京が大半の期間首都が置かれた。この他、国民政府時代に第一次上海事変が勃発した際には洛陽に「行都」が置かれた。日中戦争の際の臨時首都は重慶に置かれ、「」であった。中華民国政府が台北に移って以降、台湾のその他の都市に遷都する議題が提出されている(:zh:中華民國在臺遷都議題)。 中華民国の歴史を見渡すと、明確に首都の位置を定める法令は存在せず、政府の公文書においても常に首都が所在する都市が明確に記されている訳では無い。一般的には中央政府所在地が首都とみなされている。
見る 南京事件と中華民国の首都
中華民国維新政府
中華民国維新政府(ちゅうかみんこくいしんせいふ)は、1938年3月28日に南京で成立し、江蘇省、浙江省、安徽省の三省と、南京及び上海の両直轄市を統括していた政権。 北洋軍閥系の要人であった梁鴻志が行政院院長として政権のトップにあった。日本の中支那派遣軍が日中戦争時に樹立した地方傀儡政権である。 国旗には、中華民国の旧国旗である五色旗が使用されていた。他に「和平建國」の字の入った旗があったという。また、独自の通貨として華興商業銀行券(華興券)を発行し、支配地域で流通させた。
中村粲
中村 粲(なかむら あきら、1934年4月24日 - 2010年6月23日)は、日本の英文学者、近代史研究家、元獨協大学名誉教授。
見る 南京事件と中村粲
中沢三夫
中沢 三夫(なかざわ みつお、1891年11月23日 - 1980年11月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
見る 南京事件と中沢三夫
中支那派遣軍
中支那派遣軍(なかしなはけんぐん)は、大日本帝国陸軍の方面軍の一つ。
見る 南京事件と中支那派遣軍
中支那方面軍
中支那方面軍(なかシナほうめんぐん)は、大日本帝国陸軍の方面軍の一つ。
見る 南京事件と中支那方面軍
常州市
常州市(じょうしゅうし、Changzhou)は中華人民共和国江蘇省南部に位置する地級市。二千五百年の歴史を誇る風光明媚な街で、名所・旧跡が多くある。また近年は、モデル工業都市として発展している。また大阪府高槻市及び埼玉県所沢市と姉妹都市である。中国近代化の中で工業が盛んになり、紡績、軽工業、電子機械、化学工業などがめざましい発展を遂げている。気候は、温暖湿潤気候に属し、四季の区別もはっきりしており、年間平均気温は、15℃となっている。
見る 南京事件と常州市
常石敬一
常石 敬一(つねいし けいいち、1943年10月26日 - 2023年4月24日)は、日本の科学史・科学論研究者。 神奈川大学名誉教授。主な専門は科学史、科学社会学、STS(科学技術と社会)、生物化学兵器軍縮、731部隊の研究。
見る 南京事件と常石敬一
世界紅卍字会
世界紅卍字会(せかいこうまんじかい、The World Red Swastika Society)は、道教系の宗教団体「道院」に付随する修養慈善団体。戦前の中華民国及び満州において赤十字社に準ずる組織として活動した。略称として「紅卍会」とも呼ばれる。
見る 南京事件と世界紅卍字会
市民
フランス革命後、公的な場所に掲げられたパネルの一例(1799年)。 「Ici on s'honore du titre de citoyen.(ここに、我々は(我々自身を)市民という称号によって称揚する。)」(「我々は、市民という偉大なる存在なのだ!」といったニュアンスのフランス語風の表現。民衆を苦しめ続けてきた王や王族を打倒し処刑することに成功し、自分たちの主体性や主権をついに手に入れた人々の喜び・高揚感・誇らしさが表れている。) とは、政治的共同体、国政の(主権的な、主体的な)構成員。個々の人間を指す場合と、人間集団をまとめて指す場合とがある。 構成員全員が主権者であることが前提となっている議論では、構成員を主権者として見たものである(現代社会の「市民」について述べるときはこの意味合いのことが多い)。市民の語源は、都市である(citizenとcityは同語源である)。
見る 南京事件と市民
三島由紀夫
三島 由紀夫(みしま ゆきお、1925年〈大正14年〉1月14日 - 1970年〈昭和45年〉11月25日)は、日本の小説家、劇作家、随筆家、評論家、政治活動家。本名は平岡 公威(ひらおか きみたけ)「第一章」()「大正14年」()。 戦後の日本の文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、日本国外においても広く認められた作家である「第一回 三島由紀夫の誕生」()「十四 ノーベル文学賞の有力候補」()松永尚三「ヨーロッパ・フランス語圏における三島劇」()。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもある「三島由紀夫」()。
見る 南京事件と三島由紀夫
下関区
下関区(かかん-く)は中華人民共和国江蘇省南京市にかつて存在した市轄区。2013年2月8日から鼓楼区の一部となった。
見る 南京事件と下関区
下野一霍
下野 一霍(しもの いっかく、1889年(明治22年)9月11日『日本陸軍将官辞典』378-379頁。 - 1969年(昭和44年)6月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓、松原。
見る 南京事件と下野一霍
下村定
下村 定(しもむら さだむ、1887年(明治20年)9月23日 - 1968年(昭和43年)3月25日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は正三位勲一等功三級。 陸軍大臣(第56・57代)、教育総監(第27代)、参議院議員(1期)などを歴任した。
見る 南京事件と下村定
九カ国条約
九カ国条約(きゅうかこくじょうやく、Nine-Power Treaty)は、1922年(大正11年)のワシントン会議に出席した9か国、すなわちアメリカ合衆国・イギリス・オランダ・イタリア・フランス・ベルギー・ポルトガル・日本・中華民国の間で同年2月6日に締結された条約。列国は中国の独立と行政的、領土的保全を約し、門戸開放と機会均等の原則を承認した。なお、9か国条約と表記することもある。
見る 南京事件と九カ国条約
平野卿子
平野 卿子(ひらの きょうこ、1945年2月23日 - )は、日本の翻訳家。 神奈川県横浜市生まれ。お茶の水女子大学卒業、東京都立大学大学院独文科中退後、ドイツのテュービンゲン大学留学。児童文学、小説、ノンフィクションを翻訳。『キャプテン・ブルーベアの13と1/2の人生』(でドイツからレッシング翻訳賞を受賞。
見る 南京事件と平野卿子
幕府山
幕府山(ばくふさん)は、中国南京市鼓楼区の北端と棲霞区の西端を横切る長江の南岸に位置する丘陵山脈で、西は上元門から東は燕子磯に至る。金陵の48の景観では、幕府の山には、幕府の登頂、達摩古洞窟、永済川流、化龍麗地、嘉善文経、燕吉夕日の6つの景観がある。
見る 南京事件と幕府山
広田弘毅
広田 弘毅(ひろた こうき、、1878年〈明治11年〉2月14日 - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の外交官、政治家。勲等は勲一等。旧名は丈太郎(じょうたろう、)。 外務大臣(第49・50・51・55代)、内閣総理大臣(第32代)、貴族院議員などを歴任した。石屋の倅から立身出世して位を極めたが、戦後の極東軍事裁判で文官としては唯一のA級戦犯として有罪判決を受け死刑となった。
見る 南京事件と広田弘毅
井上久士
井上 久士(いのうえ ひさし、1950年 - )は、日本の歴史学者。専門は中国近現代史・日中関係史。駿河台大学名誉教授。日本中国友好協会会長。 一橋大学大学院社会学研究科修士課程修了、同博士後期課程単位取得退学。指導教官は増淵龍夫。駿河台大学法学部助教授を経て、2001年から駿河台大学法学部法律学科教授。駿河台大学比較法研究所長、日中友好協会副会長等を歴任。 平頂山事件研究の第一人者である。「中国人戦争被害者の要求を支える会」運営委員長、平頂山事件の勝利をめざす実行委員会委員長、日本平頂山事件研究会会長を務める。
見る 南京事件と井上久士
事変
事変(じへん)とは、広範の非常事態や騒乱のこと。「事件」よりも規模が大きい。宣戦布告なしの戦争状態や、小規模・短期間の国家間紛争にも用いられる。 狭義では、警察力で静め得ない騒乱をさす。
見る 南京事件と事変
伊東政喜
伊東 政喜(いとう まさよし、1881年〈明治14年〉9月7日『日本陸海軍総合事典』第2版、14頁。『日本陸軍将官辞典』86頁。 - 1959年〈昭和34年〉12月13日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。陸軍軍人としては主に砲兵畑を歩む。大分県日田市長を務めた。
見る 南京事件と伊東政喜
佐々木到一
佐々木 到一(ささき とういち、1886年1月27日 - 1955年5月30日)は、日本の陸軍の軍人。陸士18期、陸大29期。最終階級は陸軍中将。陸軍きっての中国通で、蔣介石以下国民党領袖のほとんどと親しく、国民党の革命にも理解をよく示した。人民服(中山装)の考案、デザインを行ったともされる。
見る 南京事件と佐々木到一
佐瀬昌盛
佐瀬 昌盛(させ まさもり、1934年〈昭和9年〉12月21日 - )は、日本の国際政治学者。防衛大学校名誉教授、拓殖大学客員教授。専門はヨーロッパの国際政治、安全保障論で、米ソ東西冷戦研究の第一人者。
見る 南京事件と佐瀬昌盛
佐藤和男 (法学者)
佐藤 和男(さとう かずお、1927年 - )は日本の法学者。国際法専攻。青山学院大学名誉教授。大平善梧らとともに国際経済法学を提唱し、植草学園短期大学学長、国際経済法学会理事、日本会議代表委員等を歴任。第1回安達峰一郎記念賞受賞。
徐淑希
徐 淑希(じょ しゅくき)は、中華民国の法学者・外交官。
見る 南京事件と徐淑希
便衣兵
便衣兵(べんいへい)とは、一般市民と同じ私服・民族服などを着用し民間人に偽装して、各種敵対行為をする軍人のことである。
見る 南京事件と便衣兵
侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館
"万人坑"遺址 遺骨 70年記念式典 犠牲者のモニュメント 侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館(しんかにちぐんナンキンだいとさつぐうなんどうほうきねんかん)は、中華人民共和国の博物館であり、1937年の南京事件を追悼する施設でもある。日本のマスメディアからは南京大虐殺紀念館(なんきんだいぎゃくさつきねんかん)とも呼ばれる。 中国共産党により第1次愛国主義教育模範基地に指定されている。2014年から、ここは南京大虐殺犠牲者国家追悼の指定場所である。
信夫淳平
信夫 淳平(しのぶ じゅんぺい、明治4年9月1日(1871年10月14日) - 昭和37年(1962年)11月1日)は、日本の外交官・法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(東京帝国大学・論文博士・1925年)。早稲田大学教授、学士院会員、中華民国顧問等を歴任。1943年学士院恩賜賞受賞、従三位勲一等瑞宝章『日本近現代人物履歴事典』(東京大学出版会、2002年)。
見る 南京事件と信夫淳平
北岡伸一
北岡 伸一(きたおか しんいち、1948年〈昭和23年〉4月20日 - )は、日本の政治学者、歴史学者。奈良県立大学理事長、政策研究大学院大学客員教授、東京大学名誉教授、立教大学名誉教授。学位は法学博士(東京大学・1976年)。専門は日本政治外交史。 国連次席大使(2004年4月 - 2006年8月)、国際大学学長、国際協力機構(JICA)理事長を歴任。
見る 南京事件と北岡伸一
北支那方面軍
北支那方面軍(きたしなほうめんぐん)は、日中戦争勃発後の1937年(昭和12年)8月31日に編成された大日本帝国陸軍に於ける最初の方面軍である。司令部は北京に置かれ、一貫して華北方面を作戦地域とし終戦時まで北京に在った。
見る 南京事件と北支那方面軍
ナチス・ドイツ
ナチス・ドイツ(Nazi-Deutschland、NS-Deutschland、Nazi Germany)は、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)政権下の、1933年から1945年までのドイツ国の通称である。 この時期のドイツは、社会のほぼ全ての側面においてナチズムの考え方が強要される全体主義国家と化し、ナチズムに基づいて様々な対外膨張政策を実行した。その一つであった1939年9月1日のポーランド侵攻が英仏からの対独宣戦布告を招き、第二次世界大戦を引き起こすこととなった。一時期は欧州のほぼ全土を支配下に置いたものの次第に戦況は悪化し、1943年の後半には連合国に対して完全な劣勢に立たされるようになった。
見る 南京事件とナチス・ドイツ
ミニー・ヴォートリン
ウィルヘルミナ(ミニー)・ヴォートリン(1886年9月27日 - 1941年5月14日)は、アメリカ人の宣教師。1919年より中国・南京の金陵女子大学で教師・教務主任を務めた。1937年、日中戦争初期の南京攻略戦の際に南京安全区の設営に関わり、同区内にあった金陵女子文理学院で多数の女性や子供の難民を保護した。第二次上海事変が始まる直前の1937年8月12日から1940年4月14日まで、南京での様子を日記に残しているイェール大学神学図書館にのページが開設されており、1937年の南京事件に関わったアメリカ人宣教師を中心とした人々や、事件に関する文献・資料が閲覧できる。このうち、 から、『DIARY OF WILHELMINA VAUTRIN 1937-1940』(英語PDF資料Vautrin.pdf:33.81MB、全555ページ)From papers of Minnie Vautrin in Record Groups No.
マイナー・シール・ベイツ
マイナー・シール・ベイツ(Miner Searle Bates、1897年5月28日 - 1978年10月)は、アメリカ合衆国オハイオ州ニューアーク出身の歴史学者。イェール大学で博士号を取得、金陵大学(現:南京大学)副学長を歴任。中華民国政府の顧問であった。1937年12月、南京攻略戦において、南京安全区国際委員会の一員として中国市民を保護する活動に従事した。
チャハル作戦
チャハル作戦(ちゃはるさくせん)とは、1937年(昭和12年)8月9日から10月17日にかけて行われた察哈爾省・綏遠省(現在の内モンゴル自治区)における日本軍の作戦である。 7月7日の盧溝橋事件から始まった日中戦争で、日本軍は7月末には北平・天津地方を制圧し、華北分離工作を完成させるため、8月には北支那方面軍を編成して河北省保定(パオティン)以北の制圧を実行に移そうとしたが、河北省南部に集結しつつある中国軍と衝突する恐れがあったため準備期間が必要となり一時延期され、代わりに行われた作戦である。「察哈爾作戦」とも表記される。
見る 南京事件とチャハル作戦
チルドレン・オブ・ホァンシー 遥かなる希望の道
『チルドレン・オブ・ホァンシー 遥かなる希望の道』(-はるかなるきぼうのみち、原題: The Children of Huang Shi、中国語題: 黄石的孩子)は、2008年制作のオーストラリア・中国・ドイツ合作映画。ロジャー・スポティスウッド監督。
見る 南京事件とチルドレン・オブ・ホァンシー 遥かなる希望の道
ハロルド・J・ティンパーリ
ハロルド・J・ティンパーリ(Harold John Timperley、中国表記:田伯烈、1898年 - 1954年)は、オーストラリア・バンバリー出身のジャーナリスト。中国国民党国際宣伝処の顧問を務めた田伯烈 廷珀利・哈罗德・约翰 澳大利亚人。第一次世界大战后来华,任路透社驻北京记者,后又任《曼彻斯特卫报》 (Manchester Guardian) 及美国联合报 (即美联社) 驻北京记者。1937年芦沟桥事变后,国民党政府派他往英美做宣传工作,嗣任国民党中央宣传部顾问。编有《日人在华的恐怖》(The Japanese Terror in China) (1938) 一书。(中国社会科学院近代史研究所翻译室, 《近代来华外国人名辞典》, 中国社会科学出版社, 1981年, 第477页。) 産経新聞 2015年4月23日。
ハーグ陸戦条約
ハーグ陸戦条約(ハーグりくせんじょうやく)は、1899年にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議において採択された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(英: Convention respecting the Laws and Customs of War on Land, 仏: Convention concernant les lois et coutumes de la guerre sur terre)」並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」のこと。戦時国際法に関するハーグ条約の一つであり、1907年の第2回万国平和会議やジュネーヴ条約等で改定・拡張され、今日に至る。ハーグ陸戦協定、ハーグ陸戦法規などとも言われる。
見る 南京事件とハーグ陸戦条約
バージニア大学
バージニア大学(バージニアだいがく、University of Virginia、通称UVA ユーヴィーエー)は、アメリカ合衆国バージニア州シャーロッツビルに本部を置くアメリカ合衆国の州立大学で設立は1819年。パブリック・アイビーに列するアメリカ屈指の名門大学である。経済学・法学系では、アメリカの州立大学のトップクラスであり、カリフォルニア大学バークレー校(UC Berkeley)、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)、ミシガン大学(UM)と共に名門校として知られている。法科大学院のバージニア大学ロースクール(Virginia Law)は全米上位10位前後で国際的に名高い。経営大学院のダーデン・スクール・オブ・ビジネス(Darden School of Business)も同じく上位15位前後で高評価である。
見る 南京事件とバージニア大学
ラストエンペラー
『ラストエンペラー』(、、)は、1987年公開のイタリア・中華人民共和国・イギリス・フランス・アメリカ合衆国の合作による、清朝最後の皇帝で後に満洲国皇帝となった愛新覚羅溥儀の生涯を描いた叙事詩的映画・歴史映画である。
ルイス・S・C・スマイス
ルイス・S・C・スマイス (Lewis Strong Casey Smythe, 1901年1月31日 - 1978年SUPING LU,They Were in Nanjing: The Nanjing Massacre Witnessed by American and British Nationals, Hong Kong University Press,2004,p137-138.) は、アメリカ合衆国の宣教師。中華民国に派遣された。南京戦時に発生したとされる南京事件に関する調査、報告書でも知られる。
トラウトマン和平工作
トラウトマン和平工作(トラウトマンわへいこうさく)とは、1937年(昭和12年)11月から1938年(昭和13年)1月16日までの期間にドイツの仲介で行われた、日本と中華民国国民政府間の和平交渉である。当時のオスカー・トラウトマン駐華ドイツ大使の名を取って、こう呼称される。 和平交渉の期間は、日中戦争時の上海陥落直前から南京陥落1ヶ月後の間にあたる。実際には7月に起こった盧溝橋事件直後より和平の道は探られていたが、具体的な和平交渉が始まったのは、11月初旬である。
ブリティッシュコロンビア大学
ブリティッシュコロンビア大学(ブリティッシュコロンビアだいがく、、略称:UBC)は、カナダ・ブリティッシュコロンビア州が設置した公立大学。バンクーバー市西端、オカナガン地方のケロウナに所在する研究総合大学。1908年創立。カナダ屈指の名門大学。
パナイ (砲艦)
パナイ(USS Panay (PR-5))は、アメリカ海軍の。艦名はフィリピンのパナイ島に因む。その名を持つ艦としては2隻目。1937年、日本軍により沈められた(パナイ号事件)。邦訳は「パネー」と表記されることもある。
パナイ号事件
パナイ号事件(パナイごうじけん、Panay incident)は、日中戦争初期の1937年12月12日、揚子江上において、米国民間人を南京から避難させるために乗せたアメリカ合衆国アジア艦隊河川砲艦「パナイ」を日本海軍機が攻撃して沈没させ、同艦に護衛されていたスタンダードオイル社のタンカー3隻を破壊し、さらにその際に機銃掃射を行ったとされる事件。パネー号事件とも表記される。同日にレディバード号事件も発生している。
見る 南京事件とパナイ号事件
ティルマン・ダーディン
フランク・ティルマン・ダーディン(Frank Tillman Durdin, 1907年3月30日 - 1998年7月7日)は、アメリカ合衆国のジャーナリスト、ニューヨーク・タイムズ海外特派員。日中戦争の南京戦における南京事件について報道したことでも有名。インドシナのヨーロッパ植民地の崩壊や、中華人民共和国の成立なども報道し、1971年にはアメリカ人で初の入国ビザを得た。
フランス
フランス共和国(フランスきょうわこく、)、通称フランス()は、西ヨーロッパに位置する共和制国家。首都はパリ 日本国外務省(2022年12月7日閲覧)。フランス・メトロポリテーヌ(本土)のほか、フランス植民地帝国の名残で世界各地にフランスの海外県・海外領土が点在する。独立した旧フランス領諸国とはフランコフォニー国際機関を構成している。 フランス本土は、北は北海、イギリス海峡、大西洋(ビスケー湾)に、南は地中海に面する。陸上では、東はベルギー、ルクセンブルク、ドイツ、スイス、イタリアと、西ではピレネー山脈でスペイン及びアンドラと国境を接するほか、地中海沿岸にミニ国家のモナコがある。 国際政治や安全保障、経済、文化において世界的な影響力を持つ民主主義の大国、先進国の一つである。
見る 南京事件とフランス
ニュルンベルク裁判
ニュルンベルク裁判の被告席(前列奥からヘルマン・ゲーリング、ルドルフ・ヘス、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、ヴィルヘルム・カイテル、後列奥からカール・デーニッツ、エーリヒ・レーダー、バルドゥール・フォン・シーラッハ、フリッツ・ザウケル) ニュルンベルク裁判の被告席(後列手前から、デーニッツ、レーダー、シーラッハ、ザウケル、アルフレート・ヨードル、フランツ・フォン・パーペン、アルトゥール・ザイス=インクヴァルト、アルベルト・シュペーア、コンスタンティン・フォン・ノイラート、ハンス・フリッチェ。 前列手前から、ゲーリング、ヘス、リッベントロップ、カイテル、エルンスト・カルテンブルンナー、アルフレート・ローゼンベルク、ハンス・フランク、ヴィルヘルム・フリック、ユリウス・シュトライヒャー、ヴァルター・フンク、ヒャルマル・シャハト) ニュルンベルク国際軍事裁判(ニュルンベルクこくさいぐんじさいばん)は、第二次世界大戦において連合国によって行われたナチス・ドイツの戦争犯罪を裁く国際軍事裁判である(1945年11月20日 - 1946年10月1日)。
ニューヨーク・タイムズ
ニューヨーク・タイムズ(The New York Times)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市に本社を置くニューヨーク・タイムズ・カンパニーが発行している高級日刊新聞紙。アメリカ合衆国内での発行部数はUSAトゥデイ(162万部)、ウォール・ストリート・ジャーナル(101万部)に次いで第3位(48万部)。
ベルギー
ベルギー王国(ベルギーおうこく、、、)、通称 ベルギーは、西ヨーロッパに位置する連邦立憲君主制国家。隣国のオランダ、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。 首都ブリュッセル首都圏地域は欧州連合(EU)の主要機関の多くが置かれているため「EUの首都」とも言われており、その通信・金融網はヨーロッパを越えて地球規模である。憲法上の首都は、19の基礎自治体からなるブリュッセル首都圏の自治体のひとつ、ブリュッセル市である。
見る 南京事件とベルギー
嘉興
嘉興(かこう)とは、。
見る 南京事件と嘉興
アメリカ海軍
アメリカ海軍(アメリカかいぐん、、USN)は、アメリカ合衆国の海軍である。アメリカ軍の6つの軍種の1つ。アメリカ合衆国に8個ある武官組織の1つ。
見る 南京事件とアメリカ海軍
アドルフ・ヒトラー
アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler (アードルフ・ヒトゥラ), 1889年4月20日 - 1945年4月30日)は、ドイツの政治家興雄, 村瀬 コトバンク. 2019年1月9日閲覧。ドイツ国首相、および国家元首(総統)であり、国家と一体であるとされた国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者。 1933年に首相に指名され、1年程度で指導者原理に基づく党と指導者による一極集中独裁指導体制を築いたため、独裁者の代表例とされる。ドイツ民族至上主義者であり、その冒険的な外交政策と人種主義に基づく政策は、全世界を第二次世界大戦へと導き、ユダヤ人などに対する組織的な大虐殺「ホロコースト」を引き起こした。
アイリス・チャン
代替文。
アジア
アジアを中心とする地域の衛星写真 アジア(英語, ラテン語, ギリシャ語) は、世界の大州の一つ。現在では一般的にヨーロッパを除くユーラシア大陸全般を指すが、政治的・経済的な立場の違いにより、さまざまな定義がなされる場合がある。漢字表記は亜細亜で、亜州(亜洲、あしゅう)とも呼ぶ。省略する場合は亜の一字を用いる。 古代メソポタミアのアッカド語 “ 出る ” が語源で、本来は “東、東方” を意味する言葉である。現在の一般的な定義は、ヨーロッパの人たちから見た東・西の区分を反映したものになっている。
見る 南京事件とアジア
アジア歴史資料センター
アジア歴史資料センター(アジアれきししりょうセンター、)は、日本国政府の機関が保管するアジア近隣諸国との関係に関わる歴史資料を提供する電子資料センター。インターネットを通じ、明治期から第二次世界大戦終結までの期間に関する情報提供を行っており、日本の国立公文書館によって運営されている。略称は「アジ歴」。アジア諸国との相互理解と相互信頼の構築、および他国と比べて遅れている歴史記録保存・公開を進める、といった目的を有している。これらの歴史記録は、例えば日本の近現代史に関する研究資料、近隣諸国との対話材料などに利用することが可能である。 2006年10月時点の公開画像は約1,270万画像であり、目録として85万3,000件のデータベースが公開されていた。アジア歴史資料センターによれば、毎年約15万件から20万件、画像数にして200万~300万画像ほどの資料が毎年追加公開されており、2011年4月の時点では、約2,246万画像、162万件の目録データを提供している。2016年3月末時点では、2,985万画像、206万件のデータを公開している。また、データ更新は四半期ごとを目処としている。
エドガー・スノー
エドガー・スノー(、1905年7月17日 - 1972年2月15日)は、アメリカのジャーナリスト。中国大陸の近代事情、特に親しかった中国共産党に関する作品『中国の赤い星』により著名である。
エクソダス (バンド)
エクソダス(EXODUS)は、アメリカ合衆国出身のスラッシュメタル・バンド。 サンフランシスコ産スラッシュメタル『ベイエリア・スラッシュ』を代表するバンドの一つ。同分野の草創期から活動し、業界からも高い評価を得ていたが一度解散。2000年代初頭に活動を再開した。
ガーディアン
ガーディアン(The Guardian)は、イギリスの大手一般新聞である。旧題号は『マンチェスター・ガーディアン』(The Manchester Guardian; 1821年 - 1959年)。 編集方針は中道左派・リベラル寄りとされ、読者の多くは労働党か自由民主党の支持者である。伝統的に労働党を支持しているが、2010年の総選挙では自由民主党を支持。 紙媒体の発行部数は約14万部(2018年現在)、紙媒体と電子版と合わせた定期購読者の数は50万人以上である。日曜日は休刊日だが、日曜版の『オブザーヴァー』(The Observer)を発行している。また、国際版雑誌の『ガーディアン・ウィークリー』(:en:The Guardian Weekly)も発行している。
見る 南京事件とガーディアン
ザ・バトル・オブ・チャイナ
『ザ・バトル・オブ・チャイナ』(The Battle of China, 「中国の戦闘」の意)は、フランク・キャプラが監督したプロパガンダ映画『我々はなぜ戦うのか』シリーズの6作目である。1944年(昭和19年)にアメリカで上映された。 戦争当事国の中華民国をはじめ、欧米や中華人民共和国などではニュースや報道番組において、現在でも日本軍による残虐行為の記録フィルムや記録写真として、これらの映画の一部が頻繁に使用されている。
ザ・レイプ・オブ・南京
『ザ・レイプ・オブ・南京』(ザレイプオブなんきん、原題:The Rape of Nanking: The Forgotten Holocaust of World War II)は、中国系アメリカ人作家アイリス・チャンが著した南京事件(南京大虐殺)に関する著作。原著は1997年に英語で発刊され、中国語、フランス語および日本語に翻訳された。
シベリア出兵
シベリア出兵(シベリアしゅっぺい、Siberian Intervention)とは、1918年から1922年までの間に、第一次世界大戦の連合国(イギリス・日本・フランス・イタリア・アメリカ・カナダ・中華民国)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」を名目にシベリアに共同出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つ。シベリア事変とも言う。 共産主義の封じ込めという目的のほかに帝政時代の外債と、露亜銀行などのさまざまな外資を保全する狙いもあった。 日本は1918年8月11日のウラジオストク上陸以来、増兵を繰り返して協定兵力を大きく超える兵力7万2,000人を派兵。ハバロフスクや東シベリア一帯を占領したが、日本の反ボルシェヴィキ政権樹立工作は酷寒とパルチザンの抵抗にあって不成功に終った。
見る 南京事件とシベリア出兵
ジョン・マギー
ジョン・ギレスピー・マギー(John Gillespie Magee、1884年 – 1956年)はアメリカ合衆国の米国聖公会牧師。日本軍による南京事件(南京虐殺)についての証言を東京裁判で行った。また事件の記録映像(マギーフィルム)は中国政府が世界の記憶へ申請し、2015年登録された。
見る 南京事件とジョン・マギー
ジョン・ムーア・アリソン
スカルノ大統領に着任の挨拶をするアリソン(1957年) ジョン・ムーア・アリソン(John Moore Allison, 1905年4月7日 - 1978年10月28日)は、アメリカ合衆国の外交官。駐日アメリカ合衆国大使、駐インドネシア大使、駐チェコスロヴァキア大使を歴任した。
ジョン・ラーベ
ジョン・ハインリヒ・デトレフ・ラーベ(John Heinrich Detlef Rabe, 1882年11月23日 - 1950年1月5日)は、ドイツ人商社員。シーメンス社の中国駐在員(のち中国支社総責任者)として約30年に渡って中国に滞在し、日中戦争の南京攻略戦時には民間人の保護活動に尽力した。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)南京支部副支部長。南京安全区国際委員会委員長。
見る 南京事件とジョン・ラーベ
ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜
『ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜』(ジョン・ラーベ なんきんのシンドラー、原題:John Rabe)は、2009年公開のドイツ・フランス・中華人民共和国合作による映画。
ジョージ・ワシントン大学
ジョージ・ワシントン大学(ジョージ・ワシントンだいがく、The George Washington University, 略: GWU)は、コロンビアン・カレッジ (The Columbian College in the District of Columbia)として1821年に設立されたアメリカ合衆国首都ワシントンD.C.にある私立総合大学である。米フォーリン・ポリシー誌によると、国際関係学では、エリオット国際関係大学院(Elliott School)が全米TOP10入りしており、高い評価を受けている。また、トラクテンバーグ公共政策行政学部(TSPPPA)も、公共政策大学院で全米TOP10となっている。
ジョージ・アシュモア・フィッチ
ジョージ・アシュモア・フィッチ(George Ashmore Fitch、1883年 - 1979年)は、中国・蘇州市生まれのアメリカ人宣教師。キリスト教青年会(YMCA)南京支部長。ハロルド・J・ティンパーリ(中国国民党国際宣伝処顧問)編集『戦争とは何か』の共著者の1人。極東国際軍事裁判(東京裁判)には出廷せず、口述書のみを提出した。
ジョシュア・フォーゲル
2014年の写真 ジョシュア・A・フォーゲル(Joshua A. Fogel, 1950年 - )は、アメリカ合衆国の東洋学者、歴史学者、日本・中国関係史研究者。 コロンビア大学で博士号取得。ハーバード大学、カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校、ヨーク大学、京都大学、関西大学 2008などで教育・研究に従事した。(Tier 1)。
ジョセフ・グルー
ジョセフ・クラーク・グルー(Joseph Clark Grew、1880年5月27日 - 1965年5月25日)は、アメリカ合衆国の外交官。日米開戦時の駐日アメリカ合衆国特命全権大使(第13代)。 日米開戦回避に努めた。開戦(1941年12月)後日本国内に抑留され、日本の外交官との交換船により帰国(1942年6月)。帰国後は国務次官となり、日本への原子爆弾投下に反対して天皇制存続を訴えたり、終戦交渉・占領政策立案に尽力した。終戦と同時に国務次官を辞任し、私人として講演活動などを通じ、日米両国の親善に尽した。 吉田茂は、グルーは「本当の意味の知日家で、『真の日本の友』であった」と高く評価した 他方、グルーの日本理解には限界があった、あるいは彼は政治的にきわめて保守的であったことを指摘する見方もある。
ジーメンス
ジーメンス(siemens, 記号: S)は、コンダクタンス・アドミタンス・サセプタンスの単位で、SI組立単位の一つである。 その名はドイツの物理学者ヴェルナー・フォン・ジーメンスにちなむ。1971年の第14回国際度量衡総会(CGPM)において、ジーメンスをSI組立単位に導入することが採択された。 コンダクタンスは電気抵抗の逆数であり、ジーメンスは電気抵抗の単位オーム (&Omega) の逆数として定義される。日本の計量単位令では「1アンペアの直流の電流が流れる導体の二点間の直流の電圧が1ボルトであるときのその二点間の電気のコンダクタンス」と定義している。 ジーメンスを他の単位で表すと以下のようになる。
見る 南京事件とジーメンス
内山英太郎
内山 英太郎(うちやま えいたろう、1887年(明治20年)12月16日『日本陸海軍総合事典』第2版、27頁。『日本陸軍将官辞典』127頁。 - 1973年(昭和48年)12月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
見る 南京事件と内山英太郎
国が燃える
『国が燃える』(くにがもえる)は本宮ひろ志の漫画である。『週刊ヤングジャンプ』で2002年49号より2005年9号まで連載された。
見る 南京事件と国が燃える
国崎登
国崎 登(くにさき のぼる、1886年(明治19年)8月20日 - 1960年(昭和35年)11月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
見る 南京事件と国崎登
国共内戦
国共内戦(こっきょうないせん、)は、20世紀前半の中国大陸において、中国国民党および中華民国国民政府率いる国民革命軍と中国共産党率いる中国工農紅軍との間で行われた内戦である。 第一次国共合作の破綻によって生じた第一次国共内戦(1927年 - 1937年)と、第二次国共合作の日中戦争終結に伴う国共の再対立によって生じた第二次国共内戦(:1946年 - 1950年代)とに大別されるが、単に「国共内戦」と言う場合には一般に第二次国共内戦を指すことが多い中嶋嶺雄「国共内戦」『日本大百科全書⑨』小学館、昭和61年5月1日 初版第一刷発行、1986年5月1日、407頁。。その為、本項では第二次国共内戦について記載し、第一次国共内戦については別項で記載する。
見る 南京事件と国共内戦
国立公文書館
独立行政法人国立公文書館(こくりつこうぶんしょかん、National Archives of Japan)は、歴史資料として重要な公文書等の適切な保存・利用を図ることを目的として設置された日本の独立行政法人(行政執行法人)。 内閣府が所管し、行政執行法人であるため、職員の身分は国家公務員である。
見る 南京事件と国立公文書館
国際軍事裁判所憲章
国際軍事裁判所憲章(こくさいぐんじさいばんしょけんしょう、Charter of the International Military Tribunal)は、第二次世界大戦末期の1945年8月8日にイギリス、フランス、アメリカ合衆国、ソビエト連邦の連合国4ヵ国がロンドンで調印した、国際軍事裁判所の構成や役割を規定した憲章である。従来の戦争犯罪概念が拡張され検討されたことに特徴がある。ニュルンベルク裁判はこれに基づいて実施された。ロンドン憲章またはニュルンベルク憲章とも略称される。日本では国際軍事裁判所条例ともよばれる。英語ではCharter of the International Military Tribunal。Constitution of the International Military Tribunalとも表記される。
国際連盟
国際連盟(こくさいれんめい、国際聯盟()、League of Nations(LON)、Société des Nations(SDN、SdN))は、第一次世界大戦後のの確保と国際協力の促進を目的として設立された国際組織であった「国際連盟」『国際法辞典』、145-146頁。。 当時のアメリカ合衆国大統領のウッドロウ・ウィルソンの提唱によって結成されたが、モンロー主義によって議会から否決された為にアメリカ合衆国は参加していない(後述)。第一次世界大戦を終結させたパリ講和会議の後、1920年1月10日に発足したが、第二次世界大戦後の1946年4月19日に活動を終了した。
見る 南京事件と国際連盟
国軍歴史文物館
国軍歴史文物館(こくぐんれきしぶんぶつかん、國軍歷史文物館)は、台湾台北市中正区貴陽街にある、中華民国国軍の歴史と装備品に関する軍事博物館である。略称は「軍史館」。
見る 南京事件と国軍歴史文物館
国民社会主義ドイツ労働者党
国民社会主義ドイツ労働者党(こくみんしゃかいしゅぎドイツろうどうしゃとう、Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei )は、かつて存在したドイツの政党。公式の略称は、NSDAP。別称は、ナチ、ナチ党、ナチス、ナチス党。
BC級戦犯
BC級戦犯(BCきゅうせんぱん)は、連合国によって布告された国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判条例における戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」またはC項「人道に対する罪」に該当する戦争犯罪または戦争犯罪人とされる罪状に問われた個人の総称。A項の平和に対する罪で訴追された者は「A級戦犯」と呼ぶ。 日本のBC級戦犯は、GHQにより横浜やマニラなど世界49カ所の軍事法廷で裁かれた。被告人は約5700人で約1000人が死刑判決を受けたとされる。 なお、極東国際軍事裁判(東京裁判)においてもA項目の訴追事由では無罪になったが、B項、C項の訴追理由で有罪になった者がいた(松井石根)。 なお、日本に対してはほとんどB項しか適用されていない林(2005) 3頁。
見る 南京事件とBC級戦犯
石原莞爾
石原 莞爾(いしわら かんじ、1889年(明治22年)1月18日〈戸籍の上では17日〉 - 1949年(昭和24年)8月15日)は、日本の陸軍軍人、軍事思想家。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲一等功三級『アジア歴史資料センター』「元京城帝国大学教授高楠栄外二十名特旨叙位ノ件/陸軍中将安岡正臣外十八名」(レファレンスコード A11115054700)『官報』第4576号「宮廷錄事・勲章親授式」1942年4月14日。。 帝国陸軍の異端児と呼ばれ、アジア主義や日蓮主義の影響を受けた。『世界最終戦論』で知られ、関東軍で板垣征四郎らとともに柳条湖事件や満洲事変を起こした首謀者。二・二六事件では反乱軍の鎮圧に貢献したが、宇垣内閣組閣は流産に追い込んだ。後に東條英機との対立から予備役に追いやられる。
見る 南京事件と石原莞爾
石川五右衛門
石川 五右衛門(いしかわ ごえもん、弘治4年〈1558年〉? - 文禄3年8月24日〈1594年10月8日〉、12月12日とも)は、安土桃山時代の盗賊の首長。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で煎り殺された。見せしめとして、彼の親族も大人から生後間もない幼児に至るまで全員が極刑に処されている。 従来、その実在が疑問視されてきたが、イエズス会の宣教師であるペドロの日記の中に、その人物の実在を思わせる記述が見つかっている。 江戸時代に創作材料として盛んに利用されたことで、高い知名度を得た。
見る 南京事件と石川五右衛門
石川達三
石川 達三(いしかわ たつぞう、1905年〈明治38年〉7月2日 - 1985年〈昭和60年〉1月31日)は、日本の小説家。社会性の濃い風俗小説の先駆者で、『蒼氓』により第1回芥川賞受賞。華中従軍から得た『生きてゐる兵隊』は発禁処分を受けた。戦後は、新聞小説や社会における個人の生活、愛、結婚をテーマにした作品でベストセラーを連発。書名のいくつかは流行語にもなった。記録的手法に拠る問題意識の明確な作風が特徴。社会的・文壇的活動も活発で、日本ペンクラブ会長、日本文芸家協会理事長、日本文芸著作権保護同盟会長、アジア・アフリカ作家会議東京大会会長などを務めた。日本芸術院会員。
見る 南京事件と石川達三
磯田三郎
磯田 三郎(いそだ さぶろう、1892年〈明治25年〉2月28日『日本陸海軍総合事典』第2版、19頁。『日本陸軍将官辞典』76頁では、2月18日。 - 1979年〈昭和54年〉10月26日『日本陸軍将官辞典』76頁。)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
見る 南京事件と磯田三郎
秦郁彦
秦 郁彦(はた いくひこ、1932年(昭和7年)12月12日 - )は、日本の歴史家、元大蔵官僚。自身の専門は日本近現代史、軍事史とする。拓殖大学教授、千葉大学教授、日本大学法学部教授を歴任秦郁彦『旧制高校物語』文藝春秋(文春新書)、2005年、著者紹介。。学位は、法学博士(東京大学・1974年)。
見る 南京事件と秦郁彦
稲葉四郎
稲葉 四郎(いなば しろう、1885年〈明治18年〉12月15日『日本陸海軍総合事典』第2版、22頁。『日本陸軍将官辞典』92頁。 - 1948年〈昭和23年〉3月13日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
見る 南京事件と稲葉四郎
立作太郎
立 作太郎(たち さくたろう、1874年(明治7年)3月15日 - 1943年(昭和18年)5月13日)は、日本の法学者(国際法)。東京帝国大学教授。
見る 南京事件と立作太郎
笠原十九司
笠原 十九司(かさはら とくし、1944年 - )は、日本の歴史学者。都留文科大学名誉教授。専門は中国近現代史。
見る 南京事件と笠原十九司
第101師団 (日本軍)
第101師団(だいひゃくいちしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。
第10軍 (日本軍)
第10軍(だいじゅうぐん)は、大日本帝国陸軍の軍の一つ。
第114師団 (日本軍)
第114師団(だいひゃくじゅうよんしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。
第11師団 (日本軍)
第11師団(だいじゅういちしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。
第13師団 (日本軍)
第13師団(だいじゅうさんしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。 日露戦争中の1905年(明治38年)と、日中戦争勃発後の1937年(昭和12年)に編成された。
第16師団 (日本軍)
第16師団(だいじゅうろくしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。兵団文字符は垣。軍隊符号は16D。
第18師団 (日本軍)
第18師団(だいじゅうはちしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の1つ。日露戦争後の1907年(明治40年)と、日中戦争勃発後の1937年(昭和12年)に編成された。通称号は皇室の紋章と同じ「菊」を与えられた。
第3師団 (日本軍)
ベイヘ川を渡る第三師団 1940年 第3師団(だいさんしだん)は、大日本帝国陸軍の師団のひとつ。 名古屋方面出身者から構成される師団で、その前身は1873年(明治6年)1月に設置された名古屋鎮台。1888年(明治21年)全国に6個あった鎮台が師団へ改編される中、第3師団へと名前を変えた。200個を数える陸軍師団の中でも最古の師団の一つである。
第6師団 (日本軍)
第6師団(だいろくしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。 第6師団は、1872年(明治5年)に設置された熊本鎮台を母体に1888年(明治21年)5月14日に編成された師団であり、熊本・大分・宮崎・鹿児島の九州南部出身の兵隊で編成され衛戍地を熊本とする師団である。なお1940年(昭和15年)には歩兵第47連隊(大分)を第48師団に転用し三単位編制に改編された。
第9師団 (日本軍)
第9師団(だいきゅうしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。 日清戦争の後、軍備増強の必要性から1898年(明治31年)に新設された6個師団の一つで、北陸の富山・石川・福井各県の兵士で構成され、衛戍地を金沢として編成された師団である。第18師団(久留米市)と、陸軍内部でその精鋭さでは双璧といわれた。1898年11月8日、師団司令部と師団監督部が開庁した。同年11月29日、監督部は旧金沢城内の新築庁舎に移転。 1940年(昭和15年)8月から師団の衛戍地は満洲となり、代替の常設師団として第52師団が編成された。またこの時、歩兵第36連隊を第28師団に転出させて三単位編制に改編された。
第二次世界大戦
第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、World War II、略称:WWII)は、1939年(昭和14年)9月1日から1945年(昭和20年)8月15日または9月2日まで約6年にわたって続いたドイツ・イタリア・日本などの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス・フランス・中華民国・アメリカ・ソビエト連邦などを中心とする連合国陣営との間で戦われた戦争である。また、中立国も存在した。最終的には連合国陣営の勝利に終わったが、第一次世界大戦以来の世界大戦となり、人類史上最大の死傷者を生んだ。 1939年8月23日の独ソ不可侵条約と付属の秘密議定書に基づいた、1939年9月1日に始まったドイツ軍によるポーランド侵攻が発端であり、終結後の2019年に欧州議会で「ナチスとソ連という2つの全体主義体制による密約が大戦に道を開いた」とする決議が採択されている。そして同月のイギリスとフランスによるドイツへの宣戦布告により、ヨーロッパは戦場と化した。
見る 南京事件と第二次世界大戦
紫金山
紫金山(しきんさん)は、中華人民共和国江蘇省南京市玄武区に位置する標高448メートルの山。旧名は鍾山、蔣山(しょうざん)。 中華人民共和国国家級風景名勝区(1982年認定)、中国の5A級観光地(2007年認定)。中山陵、明孝陵、霊谷寺などの観光地が位置する。紫金山には全長2350メートルの観光リフトが設置され、リフトからは明孝陵、中山陵、霊谷寺を見ることができる。徒歩で山頂に向かう場合は紫金山東西の麓を起点とする山道を利用する。山頂は山頂公園として整備されており、山頂からは南京市内が一望できる。 なお、麓の駅と山頂駅との間にある紫金山天文台駅からは、多くの彗星や小惑星を発見したことで有名な紫金山天文台に向かうことができる。この天文台が発見した小惑星(3494) Purple Mountainは紫金山にちなんで命名された。
見る 南京事件と紫金山
細菌
細菌(さいきん、真正細菌、bacterium、複数形 bacteria、バクテリア)とは、古細菌、真核生物とともに全生物界を三分する、生物の主要な系統(ドメイン)の一つである。語源はギリシャ語の「小さな杖」(βακτήριον)に由来する。細菌は大腸菌、枯草菌、藍色細菌(シアノバクテリア)など様々な系統を含む生物群である。通常1-10 µmほどの微生物であり、球菌や桿菌、螺旋菌など様々な形状が知られている。真核生物と比較した場合、非常に単純な構造を持つ一方で、はるかに多様な代謝系や栄養要求性を示す。細菌を研究する科学分野は微生物学(または細菌学)と呼ばれる。 細菌と古細菌は合わせて原核生物と呼ばれる。核を持たないという点で古細菌と類似するが、古細菌と細菌の分岐は古い。古細菌と比較して、遺伝システムやタンパク質合成系の一部に異なる機構を採用し、ペプチドグリカンより構成される細胞壁や、エステル型脂質より構成される細胞膜を持っているという点からも細菌は古細菌と区別される。1977年までは古細菌は細菌に含まれると考えられていたが、現在では両者はドメインレベルで別の生物とされる。 細菌の生息環境は非常に広く、例えば土壌、淡水・海水、酸性温泉、放射性廃棄物、そして地殻地下生物圏といった極限環境に至るまで、地球上のあらゆる環境(生物圏)に存在している。地球上の全細胞数は5×1030に及ぶと推定されており、その生物量は膨大である。また、その代謝系は非常に多様であり、細菌は光合成や窒素固定、有機物の分解過程など、物質循環において非常に重要な位置を占めている。熱水噴出孔や冷水湧出帯などの環境では、硫化水素やメタンなどの海水中に溶解した化学化合物が細菌によりエネルギーに変換され、近隣環境に生息する様々な生物が必要とする栄養素を供給している。植物や動物と共生・寄生の関係になる細菌系統も多く知られている。地球上に存在する細菌種の大半は、未だ十分に研究がされておらず、その生態や物質循環における役割が不明である。研究報告がなされた細菌種は全体の約2%に過ぎないとも推定され、実験室での培養系が確立していないものが大半である。 腸内細菌や発酵細菌、病原菌など、ヒト(人間)をはじめとする他の生物との関わりも深い。通常、ヒトなどの大型生物は、何百万もの常在菌と共存している。例えば腸内細菌群は、多くの動物において食物の消化過程に欠かすことのできない要素である。ヒト共生細菌の大半は無害であるか、免疫系の保護効果によって無害になっている。多くの細菌、特に腸内細菌は宿主となる動物にとって有益な存在である。共生細菌に限らず、細菌の大半は病気などを引き起こす存在とは考えられていない。 しかし極一部のものは病原細菌として、ヒトや動物の感染症の原因になる。例えばコレラ、梅毒、炭疽菌、ハンセン病、腺ペスト、呼吸器感染症など病原性を持ち感染症を引き起こす細菌が知られている。このような感染症を治療するために、ストレプトマイシンやクロラムフェニコール、テトラサイクリンなど、様々な細菌由来の抗生物質が探索され発見されてきた。抗生物質は細菌感染症の治療や農業で広く使用されている一方、病原性細菌の抗生物質耐性の獲得が社会的な問題となっている。 また、下水処理や流出油の分解、鉱業における金・パラジウム・銅等の金属回収などにも、細菌は広く応用利用されている。食品関係においては、微生物学が展開するはるか以前から、人類はチーズ、納豆、ヨーグルトなどの発酵過程において微生物を利用している。 細菌は対立遺伝子を持たず、遺伝子型がそのまま表現型をとり、世代時間が短く変異体が得られやすく、さらに形質転換系の確立によって遺伝子操作が容易である。このような理由から、近年の分子生物学を中心とした生物学は、細菌を中心に研究が発展してきた。特に大腸菌などは、分子生物学の有用なツールとして現在でも頻繁に使用されている。
見る 南京事件と細菌
真崎甚三郎
真崎 甚三郎(まさき じんざぶろう、、1876年(明治9年)11月27日 - 1956年(昭和31年)8月31日)は、日本の陸軍軍人。陸軍士官学校9期、陸軍大学校19期。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位勲一等功四級。 荒木貞夫と共に皇道派の頭目の一人。皇道派青年将校が起こした二・二六事件においては、犯人らの主張に沿って収束を図ったが、昭和天皇の強い反発を招き失敗した。事件後に設けられた軍法会議においては無罪となった。真崎の事件への関与の度合いについては意見が分かれている。 弟に海軍少将、衆議院議員の眞崎勝次。長男に外務省、宮内庁の官僚で昭和天皇の通訳を長く務めた真崎秀樹。
見る 南京事件と真崎甚三郎
真珠湾攻撃
大日本帝国海軍艦隊の航跡図 大日本帝国海軍攻撃隊の侵入経路図 真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき、、)は、日本時間1941年(昭和16年)12月8日未明(ハワイ時間12月7日)、第二次世界大戦において大日本帝国海軍が、アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して行った、航空母艦(空母)艦載機および特殊潜航艇による攻撃である。当時の日本側呼称は、布哇比(ハワイ)海戦、布哇比(ハワイ)作戦と言う。 太平洋戦争における南方作戦の一環として、イギリスに対するマレー作戦開始(太平洋戦争開戦)に次いで実施された。当初はマレー作戦と「同時」の予定だったが、一部の練度の低い戦隊に暗闇の中で編隊を組ませる危険を避けるために夜明けを待ち、攻撃予定が1時間半繰り下げられたためである。
見る 南京事件と真珠湾攻撃
絞首刑
ピサネロが描いた絞首刑の様子 絞縄 絞首刑(こうしゅけい)とは、死刑の一種で、絞殺する刑罰である。絞死刑(こうしけい)または絞殺刑(こうさつけい)ともいう。
見る 南京事件と絞首刑
生きてゐる兵隊
『生きている兵隊』(旧仮名づかい:生きてゐる兵隊、いきているへいたい)は、中国戦線に取材した石川達三の小説であり、作者自身の中公文庫『前記』によると、「この稿は実戦の忠実な記録ではなく、作者はかなり自由な創作を試みたものである」という。しかし、「あるがままの戦争の姿を知らせる」(初版自序)ともしており、モデルとなった第16師団33連隊の進軍の日程、あるいは、描写が歴史事実と一致する個所も少なくない。1938年発表。
見る 南京事件と生きてゐる兵隊
田尻利雄
田尻 利雄(たじり としお、1890年(明治23年)1月27日 - 1970年(昭和45年)2月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。
見る 南京事件と田尻利雄
田尻昌次
田尻 昌次(たじり しょうじ、1883年(明治16年)10月28日 - 1969年(昭和44年)6月21日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。陸軍の船舶輸送制度を整備し「船舶の神」と呼ばれたプレジデントオンライン 2021年10月10日。
見る 南京事件と田尻昌次
田中正明
田中 正明(たなか まさあき、明治44年(1911年)2月11日 - 平成18年(2006年)1月8日)は、日本の歴史研究家、政治思想家、近現代史評論家、著述家、新聞編集者、アジア植民地解放運動の活動家。 戦前・戦時中は松井石根の私設秘書としてアジア解放運動に従事した。大亜細亜協会編集責任者、戦後は、拓殖大学講師、世界連邦建設同盟事務局長、財団法人国際平和協会専務理事「南京事件の総括」小学館文庫、カバー紹介を務めるほか、近現代史評論家として著述活動を活発に行った。
見る 南京事件と田中正明
田中新一
田中 新一(たなか しんいち、1893年(明治26年)3月18日 - 1976年(昭和51年)9月24日)は、大正・昭和時代の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
見る 南京事件と田中新一
田辺盛武
田辺 盛武(たなべ もりたけ、1889年2月26日 - 1949年7月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
見る 南京事件と田辺盛武
畠奈津子
畠 奈津子(はたけ なつこ、1978年8月15日 - )は日本の漫画家。
見る 南京事件と畠奈津子
畑勇三郎
畑 勇三郎(はた ゆうざぶろう、1890年(明治23年)2月17日『日本陸海軍総合事典』第2版、126頁。『日本陸軍将官辞典』578頁。 - 1970年(昭和45年)11月25日『日本陸軍将官辞典』578頁では11月26日。)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
見る 南京事件と畑勇三郎
片村四八
片村 四八(かたむら しはち、1888年11月16日 - 1969年8月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
見る 南京事件と片村四八
牛島貞雄
牛島 貞雄(うしじま さだお、1876年(明治9年)1月30日『日本陸海軍総合事典』第2版、26頁。『日本陸軍将官辞典』123頁。 - 1960年(昭和35年)9月1日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
見る 南京事件と牛島貞雄
盧溝橋事件
盧溝橋事件(ろこうきょうじけん、)は、1937年(昭和12年)7月7日に中華民国北平市(現:北京市)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である。1937年7月7日夜、豊台に駐屯していた支那駐屯歩兵第一聯隊第三大隊第八中隊の将兵が盧溝橋付近の河原で夜間演習中、実弾を撃ち込まれ、点呼時に兵士の1人が所在不明だったため、中国側の攻撃があったと判断して起きたと言われる。比較的小規模な戦闘が繰り返された後、9日には中国側からの申し入れにより一時停戦状態となったが、その後も小競り合いが続き、幾つかの和平交渉が行われたものの(後述)、結果として日中戦争(支那事変)の発端となったとされる。中国では一般的に七七事変と呼ばれる。まれに、後述する英語名を直訳してマルコ・ポーロ橋事件と表記される場合もある。英語ではMarco Polo Bridge Incident、Battle of Marco Polo Bridgeと呼ばれる。
見る 南京事件と盧溝橋事件
発禁
とは、『発行禁止処分』または『発売頒布禁止処分』の略称であるとともに、両者の総称である。 本項では略称の「発禁」に統一して記述する。
見る 南京事件と発禁
百人斬り競争
百人斬り競争(ひゃくにんぎりきょうそう)とは、1937年11月から12月にかけての南京戦において、上海派遣軍 第16師団歩兵第9連隊第3大隊副官野田毅少尉と同大隊砲兵小隊長向井敏明少尉が敵兵百人斬りをどちらが先に達成するかを、競争していると報道された話原剛「百人斬りと二人の少尉」『世界戦争犯罪事典』文藝春秋、2002年8月10日 第1刷、ISBN 4-16-358560-5、87頁。。南京軍事法廷では、報道記事が証拠とされ両少尉は死刑の判決を受け、雨花台で処刑された。 戦中は前線勇士の武勇談として賞賛されたが、戦後は南京事件を象徴するものとして非難された『昭和史全記録 Chronicle 1926-1989』毎日新聞社、 1989年3月5日発行、ISBN 4-620-80210-7、178頁。
見る 南京事件と百人斬り競争
荻洲立兵
荻洲 立兵(おぎす りっぺい、1884年〈明治17年〉1月24日『日本陸海軍総合事典』第2版、42頁。『日本陸軍将官辞典』180-181頁。 - 1949年〈昭和24年〉12月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓:伊藤。
見る 南京事件と荻洲立兵
華中
華中(かちゅう)とは、中国の揚子江と黄河に挟まれた地域。春秋戦国時代には楚の領地であり、三国時代は荊州であった。北が華北、東が華東、南が華南、西は四川進出の入り口、古代からの戦略要衝であり、有名な赤壁の戦いもここで起された。 尚、第二次世界大戦頃まで日本国内では同地域を中支、中支那などの名称を用いていた。 亜熱帯の大陸性気候で、夏の気温と湿度が非常に高い。また地勢が低いため、毎年6、7月になると洪水災害が多発する。
見る 南京事件と華中
華北
華北(かほく、North China)とは、中国北部地域の呼称である。華北平原とは、多分に重なっているが、必ずしも完全に一致しない。
見る 南京事件と華北
華北分離工作
華北分離工作(かほくぶんりこうさく)とは、日本が北支五省(河北省・察哈爾省・綏遠省・山西省・山東省)で行った一連の政治的工作の総称である。 中国側の呼称は、華北事変で、『中華民国史大辞典』によれば、1935年5月以降の日本軍による一連の「華北自治運動」から、宋哲元をトップとする冀察政務委員会の設置までの期間が該当し、満洲事変・上海事変・盧溝橋事変(事件)と並ぶ「事変」として認識されている。
見る 南京事件と華北分離工作
青木書店
青木書店(あおきしょてん)は、東京都千代田区神田神保町1-60にある日本の出版社。英語表記は、Aoki Shoten Publishing Co。
見る 南京事件と青木書店
顧維鈞
顧 維鈞(こ いきん、1888年1月29日 - 1985年11月14日)は、中華民国の外交官出身の政治家。字は少川。西洋ではWellington Koo(ウェリントン・クー)の名で知られる。外交総長、北京政府国務総理代行、各国の公使、パリ講和会議、ワシントン会議、関税会議の各中国全権代表などの要職を歴任した。
見る 南京事件と顧維鈞
飯沼守
飯沼 守(いいぬま まもる、1888年(明治21年)11月25日『日本陸海軍総合事典』第2版、15頁。『日本陸軍将官辞典』48-49頁。 - 1978年(昭和53年)3月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
見る 南京事件と飯沼守
西山福太郎
西山 福太郎(にしやま ふくたろう、1889年(明治22年)7月17日 - 1961年(昭和36年)10月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。
見る 南京事件と西山福太郎
騎士団長殺し
『騎士団長殺し』(きしだんちょうごろし、)は、村上春樹の14作目の長編小説。新潮社から2017年2月24日に発行された。 妻に離婚を切り出された画家の「私」は、家を出て放浪の末、友人の父親宅を借りることになった。そこで「騎士団長殺し」という日本画を発見して以来、不思議な出来事に巻きこまれていく。
見る 南京事件と騎士団長殺し
講談社
株式会社講談社(こうだんしゃ、)は、東京都文京区音羽に本社を置く日本の大手総合出版社。系列企業グループ「音羽グループ」の中核企業。 「週刊少年マガジン」「モーニング」「週刊現代」「FRIDAY」「ViVi」「群像」など30を超える雑誌のほか、文芸書からコミック、実用書や学術書まで多様な書籍を発行している。 小学館・集英社(両社とも一ツ橋グループに所属)と並ぶ日本国内の出版業界最大手であり、一時は年間売上高が2000億円を超えていたこともあった。しかし、近年はいわゆる「出版不況」により売上が減少、2002年(平成14年)には戦後初の赤字決算となった。近年は紙の出版物への依存体質の改善に注力し、2015年(平成27年)以降は電子書籍などのデジタル関係、および国際や権利関係の収入が急増したことにより増収増益が続いている。
見る 南京事件と講談社
講談社現代新書
講談社現代新書(こうだんしゃげんだいしんしょ、Kodansha's new library of knowledge)とは、講談社が発行する教養新書のシリーズである。1964年(昭和39年)4月に創刊。
見る 南京事件と講談社現代新書
谷寿夫
谷 寿夫(たに ひさお、1882年(明治15年)12月23日 - 1947年(昭和22年)4月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 陸士15期、陸大24期(優等)。師団参謀長、旅団長、師団長を歴任し、第6師団師団長として第二次上海事変、南京攻略戦に参加した。第二次世界大戦後、南京軍事法廷で、南京事件の責任者とされ死刑判決、銃殺刑に処せられた。
見る 南京事件と谷寿夫
軍事史学会
軍事史学会(ぐんじしがっかい、The Military History Society of Japan)は、軍事史に関する学術的研究を行う日本の学会。1936年(昭和11年)、軍事史学会創立。終戦後解散した中断の後、1962年(昭和37年)に国防史学会が組織され、1965年(昭和40年)に軍事史学会が再結成され現在にいたる。
見る 南京事件と軍事史学会
黄河決壊事件
黄河決壊事件(こうがけっかいじけん)は、日中戦争(支那事変)初期の1938年6月に、国民革命軍が日本軍の進撃を食い止める目的で起こした焦土作戦である。国民革命軍が黄河の堤防を爆破して黄河を氾濫させ犠牲者は数百万人に達し、中国人住民を苦しめた。 事件当時は黄河決潰事件と表記された。中国語では花園口決堤事件と呼ばれる。
見る 南京事件と黄河決壊事件
近衛声明
近衛声明(このえせいめい)は、日中戦争(支那事変)中の1938年(昭和13年)に第1次近衛内閣が3回にわたって発表した、対中国政策関連の声明。3回目の第三次近衛声明は近衛三原則とも呼ばれる。
見る 南京事件と近衛声明
近藤英次郎
近藤 英次郎(こんどう えいじろう、、1887年(明治20年)9月12日 - 1955年(昭和30年)12月27日読売新聞社『昭和三十二年度版 読売年鑑』、1957年)は、日本の海軍軍人。階級は海軍中将。衆議院議員。
見る 南京事件と近藤英次郎
錦正社
株式会社錦正社(きんせいしゃ)は、日本史や民俗芸能、軍事・制度史など社会科学系統を軸にした出版社。出版方針は幕末維新から三代(明治・大正・昭和)にわたる大日本帝国の形成発展を弁えたものである。軍事史学会の機関誌『軍事史学』や、明治聖徳記念学会の紀要なども発行している。 1938年(昭和13年)、中藤正三(なかふじ しょうぞう、1914年2月6日 - 1966年2月4日)が創業。里見岸雄の著作などの出版を手掛ける。中藤は1966年(昭和41年)、さっぽろ雪まつりからの帰途、全日空羽田沖墜落事故に巻き込まれ死去した。
見る 南京事件と錦正社
船舶司令部
船舶司令部(せんぱくしれいぶ)は、戦時における軍隊・物資等の船舶輸送を指揮統率した大日本帝国陸軍の組織。帝国陸軍における軍隊符号は「SeC」。 船舶司令部が統括した陸軍船舶部隊は、各隊に与えられていた通称号の兵団文字符「暁」から「暁部隊」と通称された。
見る 南京事件と船舶司令部
阿南惟幾
阿南 惟幾(あなみ これちか、1887年(明治20年)2月21日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級。1945年(昭和20年)4月に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任。大東亜戦争(太平洋戦争)末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府で本土決戦への戦争継続を主張したが、昭和天皇の聖断によるポツダム宣言受諾が決定され、同年8月15日に割腹自決。日本の内閣制度発足後、現職閣僚が自殺したのはこれが初であった。 侍従武官、陸軍省兵務局長、人事局長、第109師団長、陸軍次官、第11軍司令官、第2方面軍司令官、陸軍航空総監部兼航空本部長、陸軍大臣を歴任。その人柄・人格には定評があり、昭和天皇からは信頼され、陸軍大学校同期の石原莞爾も認めるほどであった。また、最後の陸軍大臣と紹介されることが多いが、歴代最後の陸軍大臣は下村定(幣原内閣)である。
見る 南京事件と阿南惟幾
阿羅健一
阿羅 健一(あら けんいち、 1944年〈昭和19年〉 - )は、日本の文筆家・近現代史研究家。 1980年代まで著述の際に畠中秀夫というペンネームも使っていたとされ、秦郁彦は同一テーマについて本名とペンネームを使って書き分けていたことを奇妙に感じている。 「百人斬り訴訟を支援する会」会長を経て、「中国の抗日記念館の不当な写真の撤去を求める国民の会」会長、主権回復を目指す会顧問、「田母神論文と自衛官の名誉を考える会」顧問を務める。
見る 南京事件と阿羅健一
蘇州
蘇州(そしゅう)。
見る 南京事件と蘇州
関東軍
関東軍(かんとうぐん、)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ(1942年(昭和17年)10月1日以前は軍の一つ)。 関東都督府(関東州と南満洲鉄道附属地の行政府)の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれた。満洲事変を引き起こして満洲国を建国し、日満議定書(1932年9月15日)後は満洲国の首都である新京(現中華人民共和国吉林省長春市)に移転した。 現地の佐官級参謀陣が自らの判断で、政府の不拡大方針を無視して柳条湖事件や張作霖爆殺事件などの謀略事件を強行し、その後の日中戦争や太平洋戦争に至る日本の政治外交過程を大きく揺るがす要因となった。なお、満洲事変は参謀本部や陸軍省といった当時の陸軍中央の国防政策からも逸脱していた上、陸軍大元帥で統帥権を持つ天皇の許可なしに軍事行動をする事は明確な軍規違反であったが、首謀者達は処罰されるどころか出世した。以降、関東軍は規模を拡大させ、1941年(昭和16年)の最大規模時には総員74万人を数えるほどになり、1945年(昭和20年)8月9日のソ連侵攻で壊滅するまで、満洲国の実質的な統治を行った。
見る 南京事件と関東軍
閑院宮載仁親王
閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう、1865年11月10日(慶応元年9月22日) - 1945年〈昭和20年〉5月20日)は、日本の皇族、陸軍軍人、日本赤十字社総裁、東京地学協会総裁(1895年 - 1945年)、日露協会総裁(1911年 - )。伏見宮邦家親王第16王子。称号・階級並びに勲等功級は元帥陸軍大将大勲位功一級。世襲親王家の閑院宮第6代当主。 1900年以後から第二次世界大戦終了直前まで皇族軍人として活躍。親王宣下による親王では最後の生存者であり、また大日本帝国憲法下最後の国葬を行った人物である。 貴族院の創設に伴って皇族議員となり薨去まで54年6ヶ月間務めた。これは貴族院のみならず参議院まで含めても最長在任記録である。
見る 南京事件と閑院宮載仁親王
藤原彰
藤原 彰(ふじわら あきら、1922年7月2日 - 2003年2月26日)は、日本の歴史学者。日本近代史専攻。一橋大学名誉教授。1980年日本学術会議会員。元歴史学研究会委員長。
見る 南京事件と藤原彰
藤田進
は、日本の俳優である。 昭和期において、黒澤明監督作品の主演を多数務めるなど、日本映画界の大スターの一人であった。戦時中は戦意高揚映画に、戦後も戦争映画に多く出演した。
見る 南京事件と藤田進
蔣介石
蔣 介石(蒋 介石、しょう かいせき、チャン・チェシー、1887年10月31日〈光緒13年9月15日〉 - 1975年〈民国64年〉4月5日)は、中華民国の政治家、軍人。第3・5代国民政府主席、初代中華民国総統、中国国民党永久総裁。国民革命軍・中華民国国軍における最終階級は特級上将(大元帥に相当)。浙江省寧波府奉化県(現:寧波市奉化区)出身。日本や中華人民共和国では蔣介石の呼び名で知られているが、中華民国(台湾)では蔣中正(しょう ちゅうせい)の名称が一般的である。 孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となる。第二次世界大戦では同国を四大国の一角にさせ、連合国中国戦区最高統帥だった。しかし、戦後の国共内戦で毛沢東率いる中国共産党に敗れ、1949年、日中戦争後に接収していた台湾へ移り、1975年に死去するまで大陸支配を回復することなく同国の元首たる総統の地位にあった。
見る 南京事件と蔣介石
野田毅 (陸軍軍人)
野田 毅(のだ つよし、1912年 - 1948年1月28日)は、日本の陸軍軍人。敗戦時の階級は陸軍少佐。南京攻略戦の際に実施されたとされる「百人斬り競争」実行の容疑者として逮捕・処刑された。
重慶市
重慶市(じゅうけいし、チョンチンし、、、)は、中華人民共和国の直轄市。長江の上流地域経済の中心であり、西南圏総合交通拠点である。 人口は約3,205万人で、単独の市域では世界最多の人口である。2017年の都市圏人口は1962.66万人のメガシティである。 略称は渝で、重慶市内にある嘉陵江の古称「渝水」を由来とする。2019年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第105位の都市と評価されている。
見る 南京事件と重慶市
自虐史観
自虐史観(じぎゃくしかん)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)後の日本の社会や歴史学界、教育界における特定の歴史観を批判・否定的に評価する概念である。この言葉を使用する論者が何らかの歴史に関する記述が日本の歴史の負の部分をことさらに強調して日本を貶めていると批判する際に用いられる。ほぼ同種の造語として、日本悪玉史観、東京裁判史観がある。また、「自虐史観の病理」の著者である藤岡信勝は自虐史観の対義語として「自由主義史観」を提唱した。
見る 南京事件と自虐史観
臼井勝美
臼井 勝美(うすい かつみ、1924年11月4日 - 2021年9月24日)は、日本の歴史学者、筑波大学名誉教授。専攻は日本近代史。近代日中関係史。
見る 南京事件と臼井勝美
金陵十三釵
『金陵十三釵』(きんりょうじゅうさんさ、英語題:The Flowers Of War)は、2011年公開の中国映画。張芸謀(チャン・イーモウ)監督作品。日本未公開。題名は『紅楼夢』の『金陵十二釵』に由来する。 南京事件を題材とした映画で、中国映画史上最高額となる製作費6億元(約78億円)を投じた超大作であり、2011年の中国の年間総興行第1位(約71億円)と大ヒットし、中国社会に大きな影響を与えた 産経ニュース、2012年1月9日、2012年2月3日閲覧。第84回アカデミー賞外国語映画賞中国代表作品。
見る 南京事件と金陵十三釵
長江
長江(ちょうこう、长江、)は、中華人民共和国青海省のチベット高原を水源地域とし、中国大陸の華中地域を流れ東シナ海へと注ぐ川である。全長は6,300 kmで、中華人民共和国およびアジアで最長、世界でもナイル川、アマゾン川に次ぐ第3位の大河である。 中国国外では、最下流部の異称である「揚子江」(ようすこう、扬子江、、Yangtze River)の名で良く知られる。古語では江(こう)。音訳する場合は「長」のみを音訳しチャン川 (Chang River) とすることもあるが、「江」が本来の河川名であることから、(他の中国の河川を「片仮名+川」とする場合でも)チャンチアンとすることもある。 青海省のタンラ山脈からチベット高原、四川盆地、三峡を経て湖北省宜昌市に至るまでが長江上流(最上流の通天河、四川西部の金沙江、四川東部の川江)、宜昌から江西省湖口県までが中流(荊江)、湖口から上海市の東シナ海河口までが下流(揚子江)にあたる。
見る 南京事件と長江
集英社
株式会社集英社(しゅうえいしゃ)は、日本の総合出版社。『週刊少年ジャンプ』『週刊プレイボーイ』『non-no』『すばる』 『Myojo』などの雑誌を発行している。社名は「英知が集う」の意味。
見る 南京事件と集英社
通州事件
通州事件(つうしゅうじけん)は、日本軍への発砲により盧溝橋事件が発生したあとの1937年(昭和12年)7月29日に中華民国河北省通県(現:北京市通州区)において、日本が設立した冀東防共自治政府の中国人保安隊が反乱を起こし、日本軍の通州守備隊と通州特務機関および日本人・朝鮮人居留民を襲撃して200人以上を虐殺した事件(産経ニュース、2017年7月29日)。通州虐殺事件とも呼ばれる。 通州は北平(現:北京市)の東約30kmにあった通県(現:北京市通州区北部)の中心都市で、日本が政治的目的のため北支五省で行った華北分離工作の結果、殷汝耕が南京政府から離脱して設立した冀東防共自治政府が置かれていた。
見る 南京事件と通州事件
通化事件
通化事件(つうかじけん)とは、国共内戦時期の中国東北部(かつてのいわゆる「満洲国」通化省通化市)で、当時の中華民国政府(国民党)軍側と共闘した日本人らによる武装叛乱蜂起と赤十字病院襲撃の失敗事件である。多くの日本人が犠牲となり、最大で3000人以上が死んだとされる。 通化は1946年2月3日当時、すでに実質的に中国共産党軍側によって占領されていた。失敗後の鎮圧過程で中国共産党軍(八路軍)および朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊、新八路軍)による中国国民党員や日本人らに対する制圧・逮捕・取調べ・判決・刑執行において、多数の冤罪・虐待や虐殺があったとされる。日本人犠牲者数について諸説あるが、少ない説で武装叛乱戦闘とその後の「処分」との合計で約800人、多い説では約3000人の死者が出たとされ、その中には蜂起に参加さえしていなかった一般市民もいたとみられる。
見る 南京事件と通化事件
暴支膺懲
暴支膺懲(ぼうしようちょう)とは、支那事変(日中戦争。対米英開戦以降は大東亜戦争(太平洋戦争)に含まれる)中、日本の陸軍省などが中華民国・蔣介石政権に一撃を加えることで排日抗日運動に歯止めをかけようという意味で使用した合言葉である。言葉の意味は「ヲス」の短縮形で、「横暴(=暴戻)な中国(=支那)を懲らしめよ」を意味する標語である。
見る 南京事件と暴支膺懲
柏書房
柏書房(かしわしょぼう)は、日本の出版社。人文学、歴史学や図書館学に関する出版が多い。
見る 南京事件と柏書房
柳川平助
柳川 平助(やながわ へいすけ、1879年(明治12年)10月2日 - 1945年(昭和20年)1月22日)は、長崎県出身の日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将で、陸軍省事務次官、興亜院初代総務長官、司法大臣、国務大臣、大政翼賛会副総裁を歴任した。皇道派の重鎮。
見る 南京事件と柳川平助
捕虜
捕虜(ほりょ、Prisoner of war, POW)とは、武力紛争(戦争、内戦等)において敵の権力内に陥った者をさす。近代以前では、民間人を捕らえた場合でも捕虜と呼んだが、現在では捕虜待遇を与えられるための資格要件は戦時国際法により「紛争当事国の軍隊の構成員及びその軍隊の一部をなす民兵隊又は義勇隊の構成員」等定められている捕虜の定義は、1907年のハーグ陸戦条約附属規則では第1条 - 第3条、1929年の俘虜の待遇に関する条約では第1条、1949年のジュネーヴ第3条約では第4条にある。。 第二次世界大戦以前の日本においては、公式には俘虜(ふりょ)と呼ばれた。ただし明治以降、「捕虜」という用語も散見されている。日清・日露戦争以降は「捕虜」の頻度も徐々に上がり、史料名でこそ「俘虜」の方が圧倒的に多かったが、本文中では「俘虜」「捕虜」は併用されていた(最初に「捕虜」が登場するの明治時代の史料は、海軍は明治6年、陸軍は明治7年)。
見る 南京事件と捕虜
杭州湾
寧波。東に舟山群島が散らばり、中央に杭州湾海上大橋(赤い線)が架かる 東海大橋 杭州湾(こうしゅうわん、, Hangzhou Bay)は、中華人民共和国の東シナ海に面してラッパ状に開いた湾。湾の大部分は浙江省にあるが、湾の北岸の一部は上海市に属する。 上海市および浙江省嘉興市が北岸に面し、湾の奥には杭州市があり、湾の南岸には紹興市と寧波市が面する。上海市の揚子角から寧波市鎮海区を結ぶ線が湾の東の境界であり、そのすぐ外には非常に多くの島が集まる舟山群島(舟山市)、中国有数の港である北侖港(北侖区)がある。 湾の奥には銭塘江が注いでおり、杭州湾は銭塘江の大きな三角江になっている。銭塘江は世界でも最大級の海嘯が起こることで知られ、高さ9mほどの波が時速40kmほどで川の上流へとさかのぼる。特に中秋の名月のころに大きくなるとされ、大勢の観光客が集まる。
見る 南京事件と杭州湾
東中野修道
東中野 修道(ひがしなかの しゅうどう(おさみち)=本名・修(おさむ)、1947年10月19日 - )は、日本の歴史学者。亜細亜大学名誉教授。学位は博士(文学)(論題は「東ドイツ国家安全省に関する研究」立正大学、1995年)。鹿児島県出身。
見る 南京事件と東中野修道
松井石根
松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。荒尾精の信奉者として、「日支提携」「アジア保全」の運動に生涯をかけたが、ポツダム宣言受諾後、「南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判にてB級戦犯として死刑判決を受け、処刑された。
見る 南京事件と松井石根
板倉由明
板倉 由明(いたくら よしあき、1932年3月 - 1999年2月4日『現代物故者事典 1997~1999』(日外アソシエーツ、2000年)p.55)は、日本の経営者、南京事件研究家、戦史研究家。元南京戦史編集委員。
見る 南京事件と板倉由明
村上春樹
村上 春樹(むらかみ はるき、Haruki Murakami、1949年〈昭和24年〉1月12日 - )は、日本の小説家・翻訳家。京都府京都市伏見区生まれ、兵庫県西宮市・芦屋市育ち。 早稲田大学在学中にジャズ喫茶を開く。1979年、『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞しデビュー。1987年発表の『ノルウェイの森』は2009年時点で上下巻1000万部を売るベストセラーとなり、これをきっかけに村上春樹ブームが起きる。その他の主な作品に『羊をめぐる冒険』、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』、『1Q84』などがある。それらの作品は、50ヵ国語以上で翻訳されている。
見る 南京事件と村上春樹
杉山元
杉山 元(すぎやま げん/はじめ、1880年(明治13年)1月1日 - 1945年(昭和20年)9月12日)は、大日本帝国陸軍軍人。元帥陸軍大将。 福岡県出身。陸軍士官学校卒業(12期)、陸軍大学校卒業(22期)。陸軍大臣、教育総監、太平洋戦争開戦時の参謀総長。 陸軍大臣、参謀総長、教育総監の陸軍三長官を全て経験し元帥にまでなったのは二人しかいない(もう一人は上原勇作)。
見る 南京事件と杉山元
極東国際軍事裁判
陸軍士官学校講堂 公判中の法廷内 極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん、、The International Military Tribunal for the Far East、1946年(昭和21年)5月3日 - 1948年(昭和23年)11月12日)とは、広田弘毅・東条英機元内閣総理大臣など日本の指導者28名が「1928年(昭和3年)1月1日から1945年(昭和20年)9月2日」にかけて「侵略戦争」を起こす共同謀議を行い 、「平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損」したとして、極東高裁裁判起訴状。(国会図書館デジタルコレクションのオンライン版で)。、平和に対する罪(A級犯罪)、通常の戦争犯罪(B級犯罪)及び人道に対する罪(C級犯罪)の容疑で裁いたものである。
武藤章
武藤 章(むとう あきら、1892年(明治25年)12月15日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の昭和時代の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 日中戦争、対米交渉、フィリピン戦などに従事。一夕会メンバー。統制派だったが後に東條英機との対立で逆に皇道派の山下奉文の部下に転じた。第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり処刑された。
見る 南京事件と武藤章
歩兵第20連隊
歩兵第20連隊(ほへいだい20れんたい、歩兵第二十聯隊)は、大日本帝国陸軍の連隊のひとつ。
見る 南京事件と歩兵第20連隊
歩兵第33連隊
歩兵第33連隊(ほへいだい33れんたい、歩兵第三十三聯隊)は、大日本帝国陸軍の連隊のひとつ。
見る 南京事件と歩兵第33連隊
歩兵第38連隊
歩兵第38連隊(ほへいだい38れんたい、歩兵第三十八聯隊)は、大日本帝国陸軍の連隊のひとつ。
見る 南京事件と歩兵第38連隊
歩兵第41連隊
歩兵第41連隊(ほへいだい41れんたい、歩兵第四十一聯隊)は、大日本帝国陸軍にあった連隊のひとつ。
見る 南京事件と歩兵第41連隊
歩兵第45連隊
歩兵第45連隊(ほへいだい45れんたい、歩兵第四十五聯隊)は、大日本帝国陸軍の連隊のひとつ。
見る 南京事件と歩兵第45連隊
歩兵第65連隊
歩兵第65連隊(ほへいだい65れんたい、歩兵第六十五聯隊)は、大日本帝国陸軍の連隊のひとつ。 65連隊軍旗 (大正6年)。
見る 南京事件と歩兵第65連隊
歩兵第66連隊
歩兵第66連隊(ほへいだい66れんたい、歩兵第六十六聯隊)は、大日本帝国陸軍の連隊のひとつ。 本連隊の厨房関係施設の一部が栃木県立宇都宮中央女子高等学校の敷地内に残っており、現在も倉庫として利用されている。倉庫は2000年(平成12年)に「宇都宮中央女子高校赤レンガ倉庫(旧第六十六歩兵連隊倉庫)」として国の登録有形文化財に登録された。
見る 南京事件と歩兵第66連隊
歩兵第68連隊
歩兵第68連隊(ほへいだい68れんたい、歩兵第六十八聯隊)は、大日本帝国陸軍の連隊のひとつ。
見る 南京事件と歩兵第68連隊
歩兵第7連隊
歩兵第7連隊(ほへいだい7れんたい、歩兵第七聯隊)は、大日本帝国陸軍の連隊のひとつ。
見る 南京事件と歩兵第7連隊
歩兵第9連隊
歩兵第9連隊(ほへいだいくれんたい、歩兵第九聯隊)は、大日本帝国陸軍の連隊のひとつ。
見る 南京事件と歩兵第9連隊
歴史修正主義
歴史学において歴史修正主義(れきししゅうせいしゅぎ、historical revisionism)とは、歴史の再定義や再解釈の言説を指す用語である。一般に否定的・批判的な意味合いを込めて使用されることが多く、特に第二次世界大戦に関わる戦争犯罪・戦争責任に関わる議論で、それを否定または相対化する言説を指して歴史修正主義という用語が使用される。 確立された歴史を「修正」することそれ自体は歴史の記述を発展させ洗練させるための一般的なプロセスであり、特に議論を呼ぶものではないKrasner 2019,.。しかし、主流の歴史家が(例えば)正の力と捉えていたものが負の力として描かれるような、道徳的知見の逆転を含む議論は遥かに物議を呼ぶ。このような修正は、主流の見解の支持者から(特に激しい言葉で)異議を唱えられる。そして不適切な方法を用い、あるいは最初から事実と異なる言説を広めること、ジェノサイドの否定などを目的とする場合には、特に批判の対象とされる。欧米圏においてはホロコースト否認に代表されるような事実と異なる歴史像を広めることを意図して史実を否定する言説は「歴史修正主義」ではなく「否定論(denial)」と呼ぶようになっており武井 2021, p.
見る 南京事件と歴史修正主義
毒ガス
毒ガス(どくガス、poison gas、giftgas)は、生物に有害な気体やエアロゾルのこと。その毒性の程度・態様は、成分によって様々である。
見る 南京事件と毒ガス
水間政憲
水間 政憲(みずま まさのり、1950年(昭和25年) - )は、ジャーナリスト。北海道小樽市出身、慶應義塾大学法学部中退。
見る 南京事件と水間政憲
河辺虎四郎
河辺 虎四郎(かわべ とらしろう、1890年(明治23年)9月25日 - 1960年(昭和35年)6月25日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は中将。富山県出身。
見る 南京事件と河辺虎四郎
洞富雄
洞 富雄(ほら とみお、1906年〈明治39年〉11月14日 - 2000年〈平成12年〉3月15日)は、日本の歴史学者。専攻は日本史。学位は、文学博士(早稲田大学・論文博士・1960年)(学位論文『鉄砲伝来とその影響』)。元早稲田大学文学部教授。
見る 南京事件と洞富雄
渡洋爆撃
渡洋爆撃(とようばくげき)とは、総じて海洋を越えて実施する爆撃行のことであるが、特に1937年(昭和12年)8月13日夜に勃発した第二次上海事変において、大日本帝国海軍が上海租界の海軍陸戦隊や第三艦隊、現地居留民を支援するために行った14日、15日、16日の長距離爆撃は、渡洋爆撃の名でセンセーショナルに報道されて以後有名となった。 渡洋爆撃は台湾(当時の日本領)・九州・済州島(当時の日本領)の各基地から東シナ海を越えて上海を中心とした中国大陸に行われた。この際、長距離爆撃を実現するために電波航法が使用され注目された。
見る 南京事件と渡洋爆撃
済南事件
済南事件(さいなんじけん、中国では五・三惨案)は、1928年(昭和3年)5月3日午前9時半頃、中国山東省の済南における、国民革命軍の一部による日本人襲撃事件、および日本の権益と日本人居留民を保護するために派遣(第二次山東出兵)された日本軍と、北伐中であった蔣介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件小池聖一「済南事件」『世界戦争犯罪辞典』文藝春秋 (2002),p.62-63。事件の発端については日本と中国では見解が異なる。 また、日本軍により旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16名が殺害されたが、中国側はこれを重く見て、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。さらにこれを機に、日本軍は増派(第三次山東出兵)を決定した。
見る 南京事件と済南事件
満洲事変
満洲事変(まんしゅうじへん、、英語: Mukden incident)は、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国遼寧省瀋陽市郊外の柳条湖で、関東軍満洲駐留の大日本帝国陸軍がポーツマス条約により日本に譲渡された南満洲鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件石原莞爾と板垣征四郎は否定したが、極東国際軍事裁判の田中隆吉の証言と、当時関東軍司令部付であった花谷正の手記という形の原稿「満洲事変はこうして計画された」(別冊『知性』昭和31年12月号)により関東軍の関与が明らかとなった。ただし、南満洲鉄道の日本爆破説の真偽を確証できないと主張するものもある(中西輝政・北村稔『歴史通』2011年3月号『さきに「平和」を破ったのは誰か』))に端を発し、関東軍による満洲(中国東北部)全土の占領を経て、1933年(昭和8年)5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)のこと。中国側の呼称は九一八事変現在柳条湖の事件現場には九・一八歴史博物館が建てられている。この博物館には事件の首謀者としてただ2人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。関東軍は約6か月で満洲全土を占領した。
見る 南京事件と満洲事変
満洲国
満洲国の地図 満洲国(まんしゅうこく、、)は、満洲事変により日本軍が占領した満洲(現在の中国東北3省遼寧省、吉林省、黒竜江省)、内蒙古、熱河省を領土として1932年(昭和7年/大同元年)に成立した国家。一般に日本の傀儡国家と見做されている。 首都は新京(旧長春)。日本民族・満洲民族・漢民族・モンゴル民族・朝鮮民族の「五族協和」による「王道楽土」建設をスローガンとし、清朝の廃帝愛新覚羅溥儀を執政に迎え、1934年(昭和9年/康徳元年)から溥儀を皇帝とした帝制へ移行し、各大臣は満洲族で占められたが、要職は関東軍司令官のもと日本人が掌握した。1945年(昭和20年/康徳12年)8月に対日参戦したソ連軍に占領されたことで消滅した。ただし完全占領前の8月17日に重臣会議により満洲国の廃止が決定され、翌日に皇帝溥儀が退位を宣言している。
見る 南京事件と満洲国
漢口
漢口(かんこう/ハンコウ、簡体字:汉口、繁体字:漢口、、武漢語:/xan˧˥kʰəu˦˨/、英語:Hankou/Hankow)とは、漢水の北岸、長江の西岸に位置し、長江と支流の漢水が合流する所を指す地理名称である。
見る 南京事件と漢口
朝香宮鳩彦王
朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう、1887年〈明治20年〉10月2日 - 1981年〈昭和56年〉4月12日)、または朝香 鳩彦(あさか やすひこ)は、日本の旧皇族。旧陸軍軍人。久邇宮朝彦親王の第8王子「朝香宮鳩彦王」秦郁彦編『陸海軍総合事典 』東京大学出版会、2005年8月15日 第2版第1刷、ISBN 4-13-030135-7、8頁。。明治39年3月、朝香宮家を創設。妃は明治天皇第8皇女允子内親王。兄に久邇宮邦彦王、梨本宮守正王、弟に東久邇宮稔彦王。長男孚彦王、二男音羽正彦。1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱した。最終階級は陸軍大将。勲等は大勲位功一級。「ゴルフの宮様」と呼ばれた。第125代天皇明仁の大叔父にあたる。陸軍大将であったため、朝香大将宮殿下(あさかたいしょうのみやでんか)とも呼ばれた。
見る 南京事件と朝香宮鳩彦王
朝日新聞
大阪本社) 1944年5月27日の海軍記念日式典。頭上にはためく朝日新聞社の社旗が見える。 有楽町マリオン)の社屋が見える。 中之島にある朝日新聞大阪本社(朝日新聞社の登記上本店) 中央区築地にある朝日新聞東京本社 栄にある朝日新聞名古屋本社 北九州市小倉北区リバーウォーク北九州にある朝日新聞西部本社 福岡市博多区博多駅前にある朝日新聞福岡本部 朝日新聞(あさひしんぶん、The Asahi Shimbun)は、大阪府大阪市に登記上の本店を置く朝日新聞社が編集・発行する日本の新聞である。日刊、全国紙。
見る 南京事件と朝日新聞
未完の対局
『未完の対局』(みかんのたいきょく、中国語題:一盘没有下完的棋)は、日中国交正常化10周年記念映画として製作された、戦後初の日中合作映画。1982年公開。大正時代から日中戦争を挟んだ昭和時代にかけて、日本と中国の囲碁の天才棋士の交流を描いた作品。同名のノベライゼーションも出版されている。
見る 南京事件と未完の対局
末松茂治
末松 茂治(すえまつ しげはる、1882年(明治15年)5月15日『日本陸軍将官辞典』387-388頁。 - 1960年(昭和35年)8月6日)は、日本の陸軍軍人、小倉市長。最終階級は陸軍中将。政治家の迫水久常は甥。
見る 南京事件と末松茂治
本多勝一
本多 勝一(ほんだ かついち、1932年1月28日 - )は、日本の新聞記者・ジャーナリスト・作家。元朝日新聞編集委員。
見る 南京事件と本多勝一
本宮ひろ志
本宮 ひろ志(もとみや ひろし、1947年〈昭和22年〉6月25日 - )は、日本の漫画家。千葉県千葉市出身。葛飾区立小松中学校卒業。埼玉県立浦和高等学校(通信制)中退。代表作は、『男一匹ガキ大将』、『俺の空』、『硬派銀次郎』、『サラリーマン金太郎』など多数。妻は、漫画家のもりたじゅん。
見る 南京事件と本宮ひろ志
本間雅晴
本間 雅晴(ほんま まさはる、1887年(明治20年)11月27日 - 1946年(昭和21年)4月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。栄典は従三位勲一等。陸士19期恩賜・陸大27期恩賜。 太平洋戦争においてフィリピン攻略戦を指揮した。英国通の人道主義者であったことは連合国にも知られていたが、バターン死の行進における部下の行為の責任を問われて戦後銃殺刑に処された。
見る 南京事件と本間雅晴
挹江門事件
挹江門事件(ゆうこうもんじけん)とは、1937年(昭和12年)12月12日夜の南京戦において、城内に進撃する日本軍の攻撃によって敗走して挹江門を通り抜けようとした中国国民政府軍87師、第88師および教導総隊の潰走兵と、それらを武力阻止するよう唐生智に命ぜられた督戦隊である国府軍第36師212団とが衝突して双方が発砲した結果、の中国軍兵士が死亡した事件。『南京戦史』 pp.274-275。
見る 南京事件と挹江門事件
戦史叢書
『戦史叢書』(せんしそうしょ、英題Senshi sôsho)は、防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)によって1966年(昭和41年)から1980年(昭和55年)にかけて編纂され、朝雲新聞社より刊行された公刊戦史。現在は改訂を行ったバージョンがオンラインで閲覧できる。
見る 南京事件と戦史叢書
戦争と人間 (映画)
『戦争と人間』(せんそうとにんげん)は、1970年(昭和45年)から1973年(昭和48年)にかけて公開された3部作の日本映画である。日活製作。監督は山本薩夫。 五味川純平の同名大河小説『戦争と人間』の映画化作品で、日本映画としては同じく五味川の小説を映画化した『人間の條件』の9時間31分に次ぐ9時間23分の長さを誇る、日活製作による戦争大河超大作である。
戦争犯罪
戦争犯罪(せんそうはんざい、War crime)とは、戦争における国際法に反する行為の中でも、狭義には第二次世界大戦以前より認められてきた戦時法規の違反者が敵国にとらえられた場合に処罰されるものであり、広義には第二次世界大戦後に認められた平和に対する罪と人道に対する罪を狭義の戦争犯罪に加えたものである「戦争犯罪」『国際法辞典』、219頁。。 狭義の戦争犯罪である戦時法規の違反とは、例えば捕虜虐待、毒ガスなど国際法上禁じられた武器の使用、文民による武力を用いた敵対行為、スパイ行為、戦時反逆といった、軍隊構成員が行う交戦法規違反である。広義の戦争犯罪のうち平和に対する罪とは侵略戦争の実行などで、また、人道に対する罪とはジェノサイドや人体実験に代表される非人道的行為である。
見る 南京事件と戦争犯罪
戦時国際法
戦時国際法(せんじこくさいほう、law of war)は、戦争状態においてもあらゆる軍事組織が遵守するべき国際法である。戦争法、戦時法とも言う。ここでは戦時国際法という用語を用いる。戦時国際法は、戦時のみに適用されるわけではなく、宣戦布告されていない状態での軍事衝突であっても、あらゆる軍事組織に対し適用されるものである。
見る 南京事件と戦時国際法
戸井田徹
戸井田 徹(といだ とおる、1951年11月25日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(当選2回)。中華人民共和国・河南省生まれで自身のウェブサイトや著作では戸井田とおる名義を使っており、首相官邸ホームページでもそのように記載されている。
見る 南京事件と戸井田徹
戸谷由麻
戸谷由麻(とたに ゆま、1972年?- )は、日本出身でアメリカ合衆国で活動する日本史学者、ハワイ大学教授。
見る 南京事件と戸谷由麻
昭和天皇
昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇(在位: 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。諱は裕仁(ひろひと)、御称号は迪宮(みちのみや)。お印は若竹(わかたけ)。 1921年(大正10年)11月25日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの5年余りにわたって、父帝・大正天皇の健康状態の悪化により、摂政となり、自身の天皇即位まで務めた。現在、日本で最後に摂政に就任した人物である。60年余りの在位中に第二次世界大戦を挟み、大日本帝国憲法下の「統治権の総攬者」としての天皇と日本国憲法下の「象徴天皇」の両方を経験した唯一の天皇である。大日本帝国憲法下においては最高司令官として大本営で実戦の指揮も執った。4 現在、天皇に在位する第126代今上天皇 (徳仁)の祖父。
見る 南京事件と昭和天皇
新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論
『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』(しんゴーマニズムせんげんスペシャル せんそうろん)は、小林よしのりによる日本の漫画作品。1995年9月より、雑誌『SAPIO』(小学館)に連載されている『新・ゴーマニズム宣言』の別冊版という体裁を取っている。
新聞紙法
新聞紙法(しんぶんしほう、明治42年5月6日法律第41号)は、戦前日本で制定された、日刊新聞および定期刊行雑誌を規制する法律。全45条と附則からなる。 1909年に公布・施行された法律で、帝国議会の初期議会で議員立法として成立したが、事実上は新聞紙条例を引き継ぐ法律となった。1949年に廃止。
見る 南京事件と新聞紙法
文藝春秋
株式会社文藝春秋(ぶんげいしゅんじゅう)は、日本の出版社。東京都千代田区紀尾井町に本社を置く。
見る 南京事件と文藝春秋
日中歴史共同研究
日中歴史共同研究(にっちゅうれきしきょうどうけんきゅう)とは、2006年から2009年にかけて、日本と中華人民共和国が共同で行った歴史研究のことである。ただし、研究結果である論文は、日中双方の執筆者の個人の認識に基づき執筆され、それぞれの執筆者の個人の意見として発表されており、政府見解ではない。
日中戦争
は、盧溝橋事件により発生した、1937年(昭和12年)7月7日から1945年(昭和20年)8月15日まで、大日本帝国と蔣介石率いる中華民国国民政府の間で行われた戦争である。支那事変(しなじへん)、日華事変(にっかじへん)、日支事変(にっしじへん)とも呼ばれる日支事変 (満洲事変と上海事変の総称として使用された例もある)や日華事変とも呼称される。英語圏では、1894年 - 1895年の日清戦争を「Sino-Japanese War of 1894-95」、「Sino-Japanese War of 1894-1895」、「First Sino-Japanese War ("第一次支那日本戦争")」などと称し、1937年 - 1945年の日中戦争は「Sino-Japanese War of 1937-45」、「Sino-Japanese War of 1937-1945」、「Second Sino-Japanese War ("第二次支那日本戦争")」などと呼称される。
見る 南京事件と日中戦争
日高信六郎
日高 信六郎(ひだか しんろくろう、1893年4月10日 - 1976年6月18日)は、日本の外交官、登山家。駐イタリア、イタリア社会共和国大使、日本山岳会会長。
見る 南京事件と日高信六郎
日露戦争
日露戦争(にちろせんそう、Русско-японская война〈ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー〉)は、1904年(明治37年)2月から1905年9月にかけて大日本帝国(日本)とロシア帝国との間で行われた戦争である。 三国干渉後、満洲(中国東北部)と朝鮮半島の支配権を巡る争いが原因となって引き起こされた。陸戦では満洲南部の遼東半島や奉天が主な戦場となり、海戦では日本近海にて大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国政府の斡旋の下で、講和条約としてポーツマス条約を締結した。 講和条約の中で日本の朝鮮半島における権益をロシアが認め、ロシア領であった樺太の南半分が日本に割譲された。また日本はロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権、東清鉄道の旅順 - 長春間支線の租借権も獲得した。しかし賠償金を獲得するには至らず、戦後に外務省に対する不満が軍人や民間人などから高まった。
見る 南京事件と日露戦争
日清戦争
日清戦争(にっしんせんそう、)は、1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本と清国の間で行われた戦争である。なお、正式に宣戦布告されたのは1894年8月1日で、完全な終戦は台湾の平定を終えた1895年11月30日とする見方もある。李氏朝鮮の地位確認と朝鮮半島の権益を巡る争いが原因となって引き起こされ、主に朝鮮半島と遼東半島および黄海で交戦し、日本側の勝利と見なす日清講和条約(下関条約)の調印によって終結した。 壬午軍乱以後、閔妃によって清国が李氏朝鮮に対する宗主権を一方的に主張していたため、講和条約の中で日本帝国は李氏朝鮮に対する清国の一方的な宗主権の放棄を承認させた他、清国から台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲され、巨額の賠償金も獲得した。しかし、講和直後の三国干渉により遼東半島は手放すことになった。戦争に勝利した日本は、アジアの近代国家と認められ、国際的地位が向上し、支払われた賠償金の大部分は軍備拡張費用、軍事費に充てられた。
見る 南京事件と日清戦争
日本の前途と歴史教育を考える議員の会
日本の前途と歴史教育を考える議員の会(にほんのぜんととれきしきょういくをかんがえるぎいんのかい)は、日本の自由民主党内で結成された議員連盟。1997年(平成9年)2月27日、設立。略称:教科書議連。
日本の国会議員
衆議院会派別勢力図(2021年(令和3年)12月22日現在 参議院会派別勢力図(2022年(令和4年)8月3日現在) 日本の国会議員(にほんのこっかいぎいん)では、日本国憲法下における日本の立法府である国会(衆議院、参議院)の議員である衆議院議員(しゅうぎいんぎいん)および参議院議員(さんぎいんぎいん)について解説する。 現職の国会議員一覧については、「衆議院議員一覧」および「参議院議員一覧」参照。
見る 南京事件と日本の国会議員
日本の戦争犯罪
日本の戦争犯罪(にほんのせんそうはんざい)は、日清戦争および太平洋戦争中に大日本帝国日本軍によって行われた戦争犯罪の一覧。これらはアジアのホロコーストと称されている。
見る 南京事件と日本の戦争犯罪
日本軍
日本軍(にほんぐん、にっぽんぐん)は、広義には日本が有する軍隊のことであるが、狭義には第二次世界大戦前の大日本帝国が保持していた軍隊(日本陸軍と日本海軍の両軍)を指す。
見る 南京事件と日本軍
旅団
旅団(りょだん、Brigade)は、陸軍編成上の単位のひとつで、師団よりも小さく、連隊と同等又はこれよりも大きい単位で、概ね1,500名から6,000名程度の兵員によって構成される部隊をいう。ただし、フランス陸軍のように小は6,500名(第27山岳歩兵旅団)から大は予備役軍人を含めて10,200名(第11落下傘旅団)という大規模な編制のものも存在する。 英軍のBrigadier(准将あるいは上級大佐)は本来は「旅団の長」そのものであった。よって、諸外国の陸軍では旅団長には伝統的には准将級(旧ロシア帝国軍や現在のロシア陸軍・ブラジル陸軍・中華民国陸軍等准将を置かない軍隊では少将)が充てられてきたが、アメリカ陸軍では大佐(独立旅団では准将)が充てられ、中国人民解放軍ではそれぞれ上級大佐・大佐に相当する大校・上校が充てられる。
見る 南京事件と旅団
支那方面艦隊
支那方面艦隊(しなほうめんかんたい、)とは、日中戦争(支那事変)初期の1937年(昭和12年)10月に編成された、大日本帝国海軍の艦隊。支那方面艦隊の略字はCSF、遣支艦隊はCF。
見る 南京事件と支那方面艦隊
憲兵
憲兵(けんぺい)とは、戦闘支援兵科の一種であり、主に軍隊内部の秩序維持と交通整理を任務とする。英語ではMilitary police(MP)と記され、軍警察、軍事警察とも呼ばれる。一般警察としての役割も兼ねている憲兵組織は国家憲兵と呼ばれる。 日本軍の憲兵については、英語文献にて特にkempeitaiと表記されることも多い。
見る 南京事件と憲兵
2015年
この項目では、国際的な視点に基づいた2015年について記載する。
見る 南京事件と2015年
2月10日
2月10日(にがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から41日目にあたり、年末まであと324日(閏年では325日)ある。
見る 南京事件と2月10日
南京アトロシティ、南京アトロシティー、南京事件 (1937年)、南京事件 (代表的なトピック)、南京大屠殺、南京大虐殺事件、南京暴行事件 別名。
、岩波書店、上村利道、上海市、上海派遣軍、中央公論新社、中央日報、中島今朝吾、中川広、中公新書、中国之怒吼、中国国民党、中立法、中華人民共和国、中華民国、中華民国 (1912年-1949年)、中華民国の首都、中華民国維新政府、中村粲、中沢三夫、中支那派遣軍、中支那方面軍、常州市、常石敬一、世界紅卍字会、市民、三島由紀夫、下関区、下野一霍、下村定、九カ国条約、平野卿子、幕府山、広田弘毅、井上久士、事変、伊東政喜、佐々木到一、佐瀬昌盛、佐藤和男 (法学者)、徐淑希、便衣兵、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館、信夫淳平、北岡伸一、北支那方面軍、ナチス・ドイツ、ミニー・ヴォートリン、マイナー・シール・ベイツ、チャハル作戦、チルドレン・オブ・ホァンシー 遥かなる希望の道、ハロルド・J・ティンパーリ、ハーグ陸戦条約、バージニア大学、ラストエンペラー、ルイス・S・C・スマイス、トラウトマン和平工作、ブリティッシュコロンビア大学、パナイ (砲艦)、パナイ号事件、ティルマン・ダーディン、フランス、ニュルンベルク裁判、ニューヨーク・タイムズ、ベルギー、嘉興、アメリカ海軍、アドルフ・ヒトラー、アイリス・チャン、アジア、アジア歴史資料センター、エドガー・スノー、エクソダス (バンド)、ガーディアン、ザ・バトル・オブ・チャイナ、ザ・レイプ・オブ・南京、シベリア出兵、ジョン・マギー、ジョン・ムーア・アリソン、ジョン・ラーベ、ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜、ジョージ・ワシントン大学、ジョージ・アシュモア・フィッチ、ジョシュア・フォーゲル、ジョセフ・グルー、ジーメンス、内山英太郎、国が燃える、国崎登、国共内戦、国立公文書館、国際軍事裁判所憲章、国際連盟、国軍歴史文物館、国民社会主義ドイツ労働者党、BC級戦犯、石原莞爾、石川五右衛門、石川達三、磯田三郎、秦郁彦、稲葉四郎、立作太郎、笠原十九司、第101師団 (日本軍)、第10軍 (日本軍)、第114師団 (日本軍)、第11師団 (日本軍)、第13師団 (日本軍)、第16師団 (日本軍)、第18師団 (日本軍)、第3師団 (日本軍)、第6師団 (日本軍)、第9師団 (日本軍)、第二次世界大戦、紫金山、細菌、真崎甚三郎、真珠湾攻撃、絞首刑、生きてゐる兵隊、田尻利雄、田尻昌次、田中正明、田中新一、田辺盛武、畠奈津子、畑勇三郎、片村四八、牛島貞雄、盧溝橋事件、発禁、百人斬り競争、荻洲立兵、華中、華北、華北分離工作、青木書店、顧維鈞、飯沼守、西山福太郎、騎士団長殺し、講談社、講談社現代新書、谷寿夫、軍事史学会、黄河決壊事件、近衛声明、近藤英次郎、錦正社、船舶司令部、阿南惟幾、阿羅健一、蘇州、関東軍、閑院宮載仁親王、藤原彰、藤田進、蔣介石、野田毅 (陸軍軍人)、重慶市、自虐史観、臼井勝美、金陵十三釵、長江、集英社、通州事件、通化事件、暴支膺懲、柏書房、柳川平助、捕虜、杭州湾、東中野修道、松井石根、板倉由明、村上春樹、杉山元、極東国際軍事裁判、武藤章、歩兵第20連隊、歩兵第33連隊、歩兵第38連隊、歩兵第41連隊、歩兵第45連隊、歩兵第65連隊、歩兵第66連隊、歩兵第68連隊、歩兵第7連隊、歩兵第9連隊、歴史修正主義、毒ガス、水間政憲、河辺虎四郎、洞富雄、渡洋爆撃、済南事件、満洲事変、満洲国、漢口、朝香宮鳩彦王、朝日新聞、未完の対局、末松茂治、本多勝一、本宮ひろ志、本間雅晴、挹江門事件、戦史叢書、戦争と人間 (映画)、戦争犯罪、戦時国際法、戸井田徹、戸谷由麻、昭和天皇、新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論、新聞紙法、文藝春秋、日中歴史共同研究、日中戦争、日高信六郎、日露戦争、日清戦争、日本の前途と歴史教育を考える議員の会、日本の国会議員、日本の戦争犯罪、日本軍、旅団、支那方面艦隊、憲兵、2015年、2月10日。