30 関係: 大正新脩大蔵経、小南一郎、岩波書店、中央公論新社、中国、常盤大定、仏典、仏教、後漢、経典、経録、目録、荒牧典俊、西域、高僧伝、興膳宏、釈道安、陳垣、東京、梁 (南朝)、法苑珠林、文心雕龍、慧皎、1937年、1941年、1955年、1979年、1993年、2008年、6世紀。
大正新脩大蔵経
大正新脩大藏經(たいしょうしんしゅうだいぞうきょう、大正一切経刊行会)は、大正13年(1924年)から昭和9年(1934年)の10年間をかけて、北宋代に蜀(四川省)で開版された漢訳大蔵経である『開宝蔵』を最もよく保存していた韓国海印寺の高麗大蔵経再彫本を底本としつつ、日本にあった各地・各種の漢訳仏典をすべて調査校合した、民間人の手による、「漢訳仏典の総集」とも言える大蔵経である。大正大蔵経、大正蔵とも。 プロデューサー(編纂責任者)は、高楠順次郎・渡辺海旭・小野玄妙(おの げんみょう、1883-1939年、浄土宗僧侶)の3名。当時の仏教関係の大学研究者が一致協力し、校訂作業に当たった。 出版・刊行は、大蔵出版が担っており、この出版社からは、大正蔵を底本として新たな学術研究の成果を踏まえた現代日本語訳の大蔵経である『新国訳大蔵経』も、1990年代から刊行中である。大正蔵を底本とした日本語訳の大蔵経としては、他には、大東出版社から「印度撰述部155巻」と「和漢撰述部100巻」が刊行されている、より文量・翻訳量が多く網羅性が高い『国訳一切経』がある。(なお、その他の日本語訳大蔵経としては、日本の各宗派の需要が高い仏典だけに的を絞った、比較的小部の『国訳大蔵経』『昭和新纂国訳大蔵経』などがある。).
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小南一郎
小南 一郎(こみなみ いちろう 1942年3月13日 - )は、日本の研究者。専門は中国文学及び中国史。京都大学人文科学研究所名誉教授、泉屋博古館館長。.
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岩波書店
株式会社岩波書店(いわなみしょてん、Iwanami Shoten, Publishers. )は、日本の出版社。.
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中央公論新社
株式会社中央公論新社(ちゅうおうこうろんしんしゃ)は、日本の出版社である。読売新聞グループ本社の傘下。略称は中公(ちゅうこう)。 本項では、旧法人の株式会社中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)についても述べる。.
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中国
中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.
常盤大定
常盤 大定(ときわ だいじょう、1870年5月8日(明治3年4月8日) - 1945年(昭和20年)5月5日)は、仏教研究者、浄土真宗大谷派の僧。 磐城国伊具郡大張村(現宮城県伊具郡丸森町)出身。号・榴邱。1898年東京帝国大学文科大学哲学科卒業。真宗大谷派講師。1907年東京帝大印度哲学講師、1921年文学博士、1925年教授。1931年定年退官、東洋大学教授、東方文化学院東京研究所研究員・評議員。晩年は浅草本願寺の輪番を務めた。 1917年から1929年の間に五度中国に渡り、仏教・儒教・道教に関する文化史跡を踏査、関野貞との共著『支那仏教史蹟』『支那文化史蹟」を著した。.
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仏典
仏典(ぶってん)とは、仏教典籍の略称で、仏教の聖典の総称である。『律蔵』『経蔵』『論蔵』という分類形態から三蔵とも呼ばれる。.
仏教
仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.
後漢
後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.
経典
経典(きょうてん、きょうでん、sūtra, スートラ、sutta, スッタ、経)とは、仏教において釈迦が説いた教えを記録した聖典のこと。.
経録
経録(きょうろく)は、仏教用語で、主に中国で編纂された仏教経典(仏典)目録のことを言う。.
目録
録(もくろく)とは、物の所在を明確にする目的あるいは物の譲渡や寄進が行われる際に作成される品名や内容、数量などを書き並べて見やすくした文書。.
荒牧典俊
荒牧 典俊(あらまき のりとし、1936年10月14日 - )は、仏教学者、京都大学名誉教授。.
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西域
西域(さいいき、拼音:xīyù)は、古来、中国人が中国の西方にある国々を呼んだ総称である。本来は東トルキスタンを指したが、拡張されて西トルキスタン、さらに地中海沿岸に至る西アジアをもいう。 紀元前1世紀の西域諸国(タリム盆地).
高僧伝
『高僧伝』(こうそうでん)とは、一般名詞として、高僧の伝記、あるいは列伝を指して言う場合もあるが、固有名詞としては、中国の梁の慧皎(497年 - 554年)の撰した中国伝来以来、梁代までの高僧の伝記を集めたものを指す。全14巻、519年(天監18年)成立。また「梁高僧伝(梁伝)」ともいう。.
興膳宏
興膳 宏(こうぜん ひろし、1936年10月25日 - )は、日本の中国文学者。京都大学名誉教授、日本学士院会員。.
釈道安
釈 道安(しゃく どうあん、 314年 - 385年)は、五胡十六国時代の僧であり、中国仏教の基礎を築いた大功労者である。.
陳垣
陳垣(ちん えん)は清末から中華民国、中華人民共和国にかけて活躍した歴史学者。中国宗教史研究の第一人者とされる。字は援庵 青年期は科挙を目標にしたが及第せず、1905年以降は広州で『時事画報』を創刊し、革命思想の宣伝に尽力した。 1907年、博済医学院に入学する。1911年の辛亥革命後、1913年には衆議院議員に当選、1921年には、中華民国教育部次長に任命されるが、後に政治腐敗に失望し政界を引退、北京に留寓して歴史研究と教育に従事することとなる。その時期に発表した『元也里可温考』は、宗教史・校勘学・考古学の各方面において等しく評価される名著とされている。 1926年から1952年まで、北京の輔仁大学の校長を務め、1952年から没するまでは(輔仁大学が統合・改組された)北京師範大学の校長であった。 1959年に中国共産党に入党、しかし文化大革命中には自宅軟禁された時期もあった。1971年6月21日に北京で死去。享年91。.
東京
西新宿東京スカイツリー/レインボーブリッジ渋谷/国会議事堂 東京(とうきょう、)は、日本の関東平野中央部の東京湾に面する都市、あるいは都市圏であり、江戸幕府の所在地・江戸が慶応4年7月(1868年9月)に「東京」に名称変更されたものである。 明治2年3月28日に、日本の都(みやこ)が京都から「東京」に遷された。そして現在の日本の事実上の首都である。 現在の東京は世界都市であり、都市圏として世界最大の人口・経済力を擁している。.
梁 (南朝)
梁(りょう、502年 - 557年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した王朝。蕭梁とも呼ばれる。.
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法苑珠林
『法苑珠林』(ほうおんじゅりん)は、唐代に道世が著した仏教典籍、類書。全100巻。668年(総章元年)成立。 659年(顕慶4年)、唐道世は『経律異相』に依拠し『諸経要集』を編纂、その後更に『法苑珠林』を撰文している。引用する典籍は仏教のみならず儒家、道教、讖緯、雜著など400種を超え、また現在は散逸した『仏本行経』、『菩薩本行経』、『観仏三昧経』、『西域誌』、『中天竺行記』などを引用し、インドの歴史地理研究の上で重要な史料となっている。 内容は劫量篇より傳記篇までの全100篇668部となっており、文体は駢文が採用されている。 本書は、前掲の南朝梁宝唱の『経律異相』50巻や、虞孝敬の『内典博要』30巻(亡佚)という先立つ仏教類書に続き、本書を撰した。ただ、先学の編撰したものと大きく異なるのは、当時の中国で人口に膾炙していたり、文献に残されていた仏教説話を盛んに取り入れて、経文類に著された観念の具体的な表れとして用いた点にある。具体的には、本書の各篇の構成は、「述意部」(駢文)・「引証部」(経文)という概要と経文の引用があり、その後に、「感応縁」という部分が来るというものである。この「感応縁」が具体的な仏教説話に相当する。.
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文心雕龍
文心雕龍(ぶんしんちょうりゅう)は、中国・南朝梁の劉勰(りゅうきょう)が著した文学理論書。全10巻。5世紀の末、南斉の末期に成立したと推測される。 中国文学史上で有数の体系的なおかつ総合的な文学理論の書として評価される。各巻は5篇からなり、全体で50篇から成る構成である。前半の25篇は「原道」(文学原理)以下、33種の各カテゴリーの文学に関して論じており、後半25篇では創作、修辞、文学環境や作者論などの諸問題を論述している。 六朝は中国文学史において、初めて文学が文学として自立した時代であるが、本書はその記念碑的な存在である。しかしながら、単なる文学理論にとどまらず、広く六朝時代の時代層を反映しており、この時代全般を考える上でも重要な書物である。.
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慧皎
慧皎(えこう、497年 - 554年)は中国南朝梁代の僧で、『高僧伝』の撰者である。.
1937年
記載なし。
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1941年
記載なし。
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1955年
記載なし。
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1979年
記載なし。
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1993年
この項目では、国際的な視点に基づいた1993年について記載する。.
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2008年
この項目では、国際的な視点に基づいた2008年について記載する。.
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6世紀
地中海の再統一。画像はラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世と随臣のモザイク。 Cabinet des Médailles所蔵のもの。 無明時代のアラビア語詩人たち。イスラム教勃興直前のこの時代にアラビアでは優れた詩人たちが活躍した。画像はその代表的な詩人アンタラ・イブン・シャッダードの細密画で、勇猛な戦士の姿で描いている。 前期チャールキヤ朝。デカン地方から南インドに展開した王朝で都はバーダーミにあった。画像はキールティヴァルマン1世の弟マンガレーシャにより建立されたバーダーミのヒンドゥー教石窟寺院第3窟でヴィシュヌ神の像が安置されている。 禅宗の祖師達磨。仏教の保護者として有名な梁の武帝との問答でも知られるが、経歴に不明な点も多い。画像は雪舟等楊の「慧可断臂図」(愛知県常滑市斉年寺蔵)。 建康。現在の南京であるこの地は中国南朝の歴代の都となり、貴族による文化が花開いた。画像は南京にある梁の武帝の異母弟蕭恢の墓を守る辟邪の石刻。 文帝。南北朝時代を終わらせて300余年ぶりに中国を統一し、「開皇の治」と呼ばれる安定期をもたらした。 関東の人物埴輪。6世紀に畿内での埴輪作成は減少するが、関東では最盛期を迎える。画像は「国宝武装男子立像(群馬県太田市出土)」で東京国立博物館蔵となっている。 東ゴート王国の盛衰。オドアケルを倒した東ゴート王テオドリックのもとイタリアはつかの間の平和を享受した。やがてこの国は6世紀半ばには東ローマ帝国の膝下に屈服することになる。画像はラヴェンナにあるテオドリック廟。 『ロッサーノの福音書』。古代末期の混乱で散逸した写本は数知れないが、この福音書は『ウィーン創世記』や『シノペの福音書』と並び現存するこの世紀に造られた数少ない写本で、「コデックス・プルプレウス」という紫染めの羊皮紙を用いた豪華なものである。 コプト織でエジプトで熱心に崇敬された「神の母(テオトコス)」がデザインされている。 6世紀(ろくせいき)とは、西暦501年から西暦600年までの100年間を指す世紀。.