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六角氏

索引 六角氏

六角氏(ろっかくし)は、日本の氏族。宇多源氏佐々木氏の流れで、鎌倉時代から戦国時代にかけて近江国南部を中心に勢力を持った武家(守護大名)。藤原北家流の公家・六角家とは血の繋がりは無い。佐々木六角氏とも言う。.

161 関係: 加賀国加賀藩偽書吉川弘文館大原氏大坂の陣大和国太田亮奉公衆嫡流室町幕府室町時代守護守護大名守護代守護使不入宇多源氏宇陀松山藩寛元寛永諸家系図伝寛政重修諸家譜山岡家山中俊好山内就綱山内氏山内政綱丹波国布施公雄三好氏三雲定持三雲賢持三雲成持下坂守平井定武京都京極氏京極持清建部氏伊庭貞隆伊庭氏伊勢国伊賀国佐々頼起佐々木定賢佐々木信綱佐々木哲佐々木道誉佐々木頼綱佐々木重綱佐々木氏...佐々木氏信佐々木泰綱征夷大将軍侍従後藤高治後藤賢豊後藤氏応仁の乱土岐氏出雲国公家六角定頼六角家六角久頼六角義定六角義実六角義信六角義秀六角義賢六角義郷六角義治六角高頼六角通六角氏式目六角氏綱六角氏頼六角満綱六角満高六角持綱六角政堯六角政頼六角時信六角時綱六波羅探題前田氏管領代系図纂要織田信長織田信雄猪飼昇貞猶子甲賀五十三家甲賀郡鎌倉幕府鎌倉時代青地氏飛騨国観音寺城観音寺城の戦い観音寺騒動角川書店高島氏鯰江貞景豊臣秀頼豊臣秀次足利将軍家足利義尚足利義稙近江国近江源氏藤原北家蒲生定秀蒲生秀紀蒲生秀行 (刑部大輔)蒲生高郷蒲生貞秀蒲生賢秀蒲生郡蒲生氏蒲生氏郷野良田の戦い長享長享・延徳の乱進藤貞治進藤賢盛柏原藩東洞院通梅戸高実梅戸氏武家比叡山氏族永禄江源武鑑江戸幕府江戸時代沢田源内法華一揆源満季朽木氏戦国大名戦国時代 (日本)浅井長政断家譜日本旗本思文閣出版1243年1467年1470年1487年1560年1563年1568年1963年1980年1996年2006年2012年2015年 インデックスを展開 (111 もっと) »

加賀国

加賀国(かがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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加賀藩

金沢城石川門(重文) 加賀藩(かがはん)は、江戸時代に加賀、能登、越中の3国の大半を領地とした藩。藩祖前田利家の妻である芳春院(まつ)の死後、芳春院の化粧料(婦女に対して生活補助として与えられた領地(石高))だった近江弘川村(現在の滋賀県高島市今津町)を飛び地として加える。.

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偽書

偽書(ぎしょ)とは、製作者や製作時期などの由来が偽られている文書・書物のこと。主として歴史学において(つまりはその文献の史的側面が問題とされる場合に)用いられる語である。単に内容に虚偽を含むだけの文書は偽書と呼ばれることはない。 偽書という概念は、美術的な書の贋作も含んでいる。ちなみに英語でもforgeryは偽書、贋作どちらの意味もある。 本項目では、偽書全般について記述する。 (註:なお、例示には偽書として評価の定まっているもののほか、「専門家によって偽書の疑いを提示されたことがあるもの」も含む。偽書としての疑いの程度やその根拠については、リンクされている各記事を参照のこと。).

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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大原氏

大原氏(おおはらし)は、敏達天皇後裔である古代氏族と、他に宇多源氏佐々木氏の支流の大原氏がある。.

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大坂の陣

大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれる。.

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大和国

大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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太田亮

太田 亮(おおた あきら、1884年7月1日 - 1956年5月27日)は、日本の歴史学者。氏族制度の研究で知られる。.

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奉公衆

奉公衆(ほうこうしゅう)は、室町幕府に整備された幕府官職の1つである。将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた。番衆(小番衆)とも。 鎌倉時代の御所内番衆の制度を継承するもので、一般御家人や地頭とは区別された将軍に近侍(御供衆)する御家人である。奉行衆が室町幕府の文官官僚であるとすれば、奉公衆は武官官僚とも呼ぶべき存在であった。後年、豊臣秀吉も奉公衆の制度を設けている。.

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嫡流

嫡流(ちゃくりゅう)とは、氏族の本家を継承する家筋・家系のことをいう。正嫡、正系、嫡系ともいう。対義語は庶流という。敬って「御嫡々の家系」という場合もある。嫡流の家を宗家、総本家、嫡家、大本家、本家という。  ちなみに、「直系」を嫡流の意味で用いるのは誤用で、直系とは正しくは親の親もしくは子の子といった関係の連鎖で結ばれる生物学的関係をいい、直系・傍系はあくまで純粋な生物学的血統上の語であり家筋・家系とは関係がない。例えば、ある人物から見たときその子孫はすべて直系卑属であるから、分家・庶流の子孫も直系であるし、また、傍系は相対的な系統上の関係をいうから、分家からみた本家は傍系である。詳しくは、 親族を参照。  あくまで当家の祭祀を継承する家系を意味するのであるから、長男が継承者となることが多いものの、必ずしも長男が継承するとは限らず、次男以下あるいは養子の子孫が嫡流となる場合もある点に注意。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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守護大名

守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。.

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守護代

守護代(しゅごだい)とは、鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職である。.

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守護使不入

如意輪寺) 守護使不入(しゅごしふにゅう)とは、鎌倉時代・室町時代において幕府が守護やその役人に対して犯罪者追跡や徴税のために、幕府によって設定された特定の公領や荘園などに立ち入る事を禁じたこと。守護不入(しゅごふにゅう)とも。 戦国時代には幕府による権限は否定され、代わりに戦国大名が守護・国主の権限の一環としてこれを付与するようになった。.

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宇多源氏

宇多源氏(うだげんじ)は、第59代宇多天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。源姓では清和源氏や嵯峨源氏などと並び称されて著名である。.

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宇陀松山藩

宇陀松山藩(うだまつやまはん)は、大和国に存在した藩。藩庁として松山(奈良県宇陀市大宇陀)に陣屋が置かれた。 松山西口関門(国の史跡).

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寛元

寛元(かんげん)は、日本の元号の一つ。仁治の後、宝治の前。1243年から1247年までの期間を指す。この時代の天皇は後嵯峨天皇、後深草天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、藤原頼嗣、執権は北条経時、北条時頼。.

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寛永諸家系図伝

寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)は、江戸時代の寛永18-20年(1641年-1643年)に江戸幕府により編纂された、諸大名と旗本以上諸士の系譜集。.

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寛政重修諸家譜

『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)は、寛政年間(1789年 - 1801年)に江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集である。1,530巻。文化9年(1812年)10月に完成した。『寛政譜』と略称される。.

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山岡家

山岡家(やまおかけ/やまおかや).

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山中俊好

山中 俊好(やまなか としよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。六角氏の家臣。.

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山内就綱

山内 就綱(やまうち なりつな)は、室町時代後期の武将・守護大名。後に六角氏当主となり近江国守護に任じられた。.

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山内氏

山内氏(やまうちし、やまのうちし)は、日本の氏族の一つ。山内首藤氏(やまのうち すどう)や土佐藩藩主となった山内氏が知られる。.

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山内政綱

山内 政綱(やまうち まさつな)は、室町時代後期の武将。六角氏の家臣。.

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丹波国

丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。.

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布施公雄

布施 公雄(ふせ きみお)は、戦国時代の武将。六角氏、織田氏の家臣。.

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三好氏

三好氏(みよしし)は、日本の氏族の一つ。信濃源氏の一族で鎌倉時代の阿波守護・小笠原氏の支流。室町時代には阿波守護細川氏の守護代を務め、戦国時代に細川氏に対して下剋上を起こし、阿波をはじめとする四国東部のみならず畿内一円に大勢力を有し、三好政権を築いた。.

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三雲定持

三雲 定持(みくも さだもち)は、戦国時代の武将。六角氏の家臣。.

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三雲賢持

三雲 賢持(みくも かたもち)は、戦国時代の武将。六角氏の家臣。.

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三雲成持

三雲 成持(みくも しげもち)は、戦国時代の武将。三雲城城主。当初は六角氏に属し、六角六宿老の一人で、父の三雲定持(さだもち)は六角定頼から、兄の三雲賢持(かたもち)は六角義賢からそれぞれ偏諱の授与を受けている。.

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下坂守

下坂 守(しもさか まもる、1948年 - )は、日本の歴史学者。奈良大学文学部史学科教授。専門は日本中世史。石川県金沢市出身。.

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平井定武

平井 定武(ひらい さだたけ)は、戦国時代の武将。六角氏の家臣。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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京極氏

京極氏(きょうごくし)は、日本の武家の一つ。本姓は源氏。宇多源氏の流れを汲む近江源氏、佐々木氏の別家である。.

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京極持清

京極 持清(きょうごく もちきよ)は、室町時代中期から後期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人兼山城守護、出雲・隠岐・飛騨・近江守護。京極高光の次男。兄弟に持高、細川持之室。子に勝秀、政光、政経、娘(畠山政長室)。細川勝元は甥にあたる。官位は従四位上中務少輔、大膳大夫。.

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建部氏

建部氏(たけべうじ)は、「建部」を氏の名とする氏族。.

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伊庭貞隆

伊庭 貞隆(いば さだたか)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。近江国神崎郡伊庭の領主。.

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伊庭氏

伊庭氏(いばし)は、日本の氏族の1つ。.

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伊勢国

伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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伊賀国

伊賀国(いがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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佐々頼起

佐々頼起(さっさ よりおき)は、鎌倉時代中期の人物。.

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佐々木定賢

佐々木 定賢(ささき さだかた)は、江戸時代前期から中期にかけての武士。加賀藩士。佐々木左近大夫家3代当主。1000石を有した。.

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佐々木信綱

佐々木 信綱(ささき のぶつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将・御家人。.

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佐々木哲

佐々木 哲(ささき とおる、1961年 - 12月1日)は、博士(学術)。佐々木哲学校経営者。近江守護佐々木六角氏出身。東京都吉祥寺出身。.

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佐々木道誉

佐々木 道誉/佐々木 高氏(ささき どうよ/- たかうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護。 一般的に佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)や佐々木道誉の名で知られる。後者の道誉(導誉とも)は法名であり、諱(実名)は高氏(たかうじ)という。鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれたことから、京極 道誉(導誉)(きょうごく どうよ)または 京極 高氏(きょうごく たかうじ)とも呼ばれる。.

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佐々木頼綱

佐々木 頼綱(ささき よりつな)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。近江国守護。近江源氏庶流佐々木氏の本家六角氏2代当主。六角頼綱とも呼ばれる。.

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佐々木重綱

佐々木 重綱(ささき しげつな)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将・御家人。近江国大原氏の祖であることから大原重綱ともいわれる。.

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佐々木氏

佐々木氏(ささきし)は、日本の氏族のひとつ。家系は宇多天皇の第8皇子・敦実親王の流れをくむ宇多源氏、源成頼の孫・佐々木経方を祖とする一族。近江国蒲生郡佐々木荘を発祥に、軍事貴族として繁栄した。後に源平合戦(治承・寿永の乱)で活躍し全国に勢力を広げた。.

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佐々木氏信

佐々木 氏信(ささき うじのぶ)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。佐々木氏支流京極氏の始祖。京極氏信とも。鎌倉の桐ヶ谷にも住しており、桐谷氏とも呼ばれた。.

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佐々木泰綱

佐々木 泰綱(ささき やすつな)は、鎌倉時代中期の武将・御家人、近江国守護。六角氏の祖ともいわれており、六角泰綱ともいわれる。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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侍従

服をまとった侍従(大阪歴史博物館) 侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味するため、この項目ではこれについて解説する。なお、武官による侍従武官や皇太子に付される東宮侍従については、それぞれ項目を参照のこと。.

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後藤高治

後藤 高治(ごとう たかはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。六角氏、織田氏の家臣。.

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後藤賢豊

後藤 賢豊(ごとう かたとよ)は、戦国時代の武将。六角氏の家臣。.

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後藤氏

後藤氏(ごとうし、ごとううじ)は、日本の氏族の一つ。.

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応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.

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土岐氏

土岐氏(ときし)は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏流摂津源氏系美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた軍事貴族の系統。 南北朝時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務めるとともに室町幕府の侍所頭人として五職家の一角を占め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の3か国の守護大名となった。戦国時代には近江の六角氏、京極氏、越前の朝倉氏・尾張の織田氏・伊勢の北畠氏など周辺大名と争うも、斎藤道三の下克上により没落した。庶流にあたる明智光秀・浅野長政・土岐定政(菅沼藤蔵)らは戦国武将として各地の大名に仕え頭角を現し、江戸時代には浅野家、土岐定政家が大名として存続した。.

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出雲国

出雲国(いずものくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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六角定頼

六角 定頼(ろっかく さだより)は、戦国時代の武将・守護大名。室町幕府管領代、近江国守護。南近江の戦国大名。六角氏14代当主。.

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六角家

六角家(ろっかくけ)は、藤原北家中御門流の公家。江戸時代に成立した家系。また系統は異なるが、江戸幕府の高家となった藤原北家日野流の武家についても本項で扱う。.

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六角久頼

六角 久頼(ろっかく ひさより)は、室町時代の武将・守護大名。近江国守護。六角氏11代当主。.

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六角義定

六角 義定(ろっかく よしさだ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。南近江の戦国大名。六角氏17代当主。佐々木次郎とも。別名に高定、賢永、佐々木哲によれば高盛。なお、本項では義定で統一して解説する。.

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六角義実

六角 義実(ろっかく よしさね)は、戦国時代の武将。六角氏13代当主・六角氏綱の子として、沙沙貴神社所蔵の「佐々木系図」や『江源武鑑』などに見られる人物。ただし、同時代史料に義実が存在したという記録はない。.

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六角義信

六角 義信(ろっかく よしのぶ)は、南北朝時代の守護大名。近江国守護。六角氏5代当主。.

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六角義秀

六角 義秀(ろっかく よしひで)は、戦国時代の武将。六角義実の子(または義実の父・六角氏綱の子)とされているが、歴史学の一般的な通説においては、氏綱の弟の六角定頼が家督を継承し、以降定頼の子孫が六角氏の家督を継いだと考えられており、義秀の系統は信頼性は高くない近世の系図類と江源武鑑などの偽書にしかなく、子孫を称した沢田源内による江戸期の系図改変のなかで創作されたものとされている。.

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六角義賢

六角 義賢 / 六角 承禎(ろっかく よしかた / ろっかく じょうてい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・守護大名。近江国守護。南近江の戦国大名。六角氏15代当主。観音寺城主。.

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六角義郷

六角 義郷(ろっかく よしさと)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。六角氏嫡流の六角義実の孫で、六角義秀の長男(義秀の弟とする説もある)。歴史学の一般的な通説においては、氏綱の弟・六角定頼が家督を継承し、以降定頼の子孫が六角氏の家督を継いだと考えられている。以下の記述は六角氏の家督は氏綱の子孫に受け継がれたとする異説を前提とした上のものになっている。.

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六角義治

六角 義治(ろっかく よしはる)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。南近江の戦国大名。六角氏16代当主。六角 義弼(ろっかく よしすけ)と呼ばれることもある。.

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六角高頼

六角 高頼(ろっかく たかより)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将・守護大名。近江国守護、南近江の戦国大名。六角氏12代当主。.

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六角通

六角通(堺町通との交差点から東方向を望む) 六角通 六角通(ろっかくどおり)は京都市内の東西の通りの一つ。.

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六角氏式目

六角氏式目(ろっかくししきもく)は、戦国時代の分国法の一つ。南近江の六角家で制定された。義治式目ともいう。全67条。 制定は永禄10年(1567年)。この制定の背景には、永禄6年(1563年)に起こった観音寺騒動により、権力拡大を目指していた六角氏が逆に権威を失墜させていたことがあった。六角氏の権威が弱まる中で、蒲生定秀ら有力家臣が式目を起草し、六角義賢(承禎)・義治(義弼)父子が承認することで成立した。また承禎・義弼父子と20名の家臣との間で、式目の遵守を誓う起請文を相互に取り交わす形式を取っている。 他の分国法と異なり、大名の権力を制限するものとなっている。これは畿内近隣における国人層の強い自立性を示している。 また、67か条からなる内容は民事規定が中心である。原則として在地の慣習法を尊重しているが、一方で領主の結束を図る手段も規定されている。領民に対しては、領主層の恣意的収奪を規制する体裁をとる一方、打ち壊しなど惣村の反領主行動を禁止するものとなっている。 Category:分国法 *ろつかくししきもく Category:1567年の法 Category:1567年の日本.

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六角氏綱

六角 氏綱(ろっかく うじつな)は、戦国時代の武将・守護大名。近江国守護。南近江の戦国大名。六角氏13代当主。.

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六角氏頼

六角 氏頼(ろっかく うじより)は、南北朝時代の武将・守護大名。六角氏4代・6代当主。.

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六角満綱

六角満綱(ろっかく みつつな)は、室町時代前期から中期にかけての武将・守護大名。近江国守護。六角氏9代当主。.

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六角満高

六角 満高(ろっかく みつたか)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての守護大名。近江国守護。六角氏8代当主。.

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六角持綱

六角 持綱(ろっかく もちつな)は、室町時代中期の武将・守護大名。近江国守護。六角氏10代当主。.

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六角政堯

六角 政堯(ろっかく まさたか)は、室町時代後期の武将・守護大名。近江国守護。.

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六角政頼

六角 政頼(ろっかくまさより)は、室町時代後期の人物。系譜の諸説のなかで、六角久頼と六角高頼の間にいたと推測される人物。ただし、成人後の名前は確定されておらず、政勝、高貞ともされ、はっきりしない。近江国守護。事蹟は六角高頼の前半生が想定されている。 室町時代後期から戦国時代初期の六角氏の系図は、六角氏が内紛を起こしていたため、はっきりしない部分が多い。このうち、応仁の乱の際に活動した「六角亀寿」(六角亀寿丸)と記録のある人物がどのような人物か推測した見解の一つが、六角政頼である。 六角久頼の没後、久頼の次兄・時綱の子である六角政堯と、久頼の子とみられる「六角亀寿」の間で守護職を巡り対立があった。政堯の後見で亀寿が守護となるが、政堯が亀寿を追い守護職を得る。のち幕府によって六角政堯が失脚させられ、亀寿が守護に返り咲くが、まもなく応仁の乱が勃発し、亀寿は西軍に所属した。戦乱により領内も混乱し、六角氏も、北近江の京極氏の力を背景に政堯、政信(久頼の長兄持綱の子)が東軍につくなど分裂状態となった。亀寿は文明3年(1471年)に政堯を自刃させ六角家家督を確保している。『応仁記』においては「六角四郎高頼」という名前がみえ、『滋賀県史』などは亀寿が元服して行高と名乗り、のち高頼と改めたとする。 しかし高頼の生年には諸説あり、このうちで久頼の没後の生まれとなるものがあった。この久頼没後の生年説を採ったときの矛盾を解決するため、久頼の子で高頼の父に当たる人物が想定された。これが「六角政頼」である。「政頼」は「甲賀二十一家之由来」にみえる。佐々木哲によれば、古文書に出る「政勝」が政頼だという。 また、義尚に討伐を受けた際(長享・延徳の乱)に伊賀に逃れたのは高頼とその嫡男の六角氏綱とされる。一方、佐々木哲は、氏綱は当時まだ出生していないとし、高頼と共に伊賀に逃れたのは高頼の父の政頼(政勝)とする。.

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六角時信

六角 時信(ろっかく ときのぶ)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将・守護大名。近江国守護。佐々木氏嫡流六角氏3代当主。佐々木時信とも呼ばれる。.

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六角時綱

六角 時綱(ろっかく ときつな)は、室町時代中期の武将。.

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六波羅探題

六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。.

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前田氏

前田氏(まえだし)は、日本の氏族の一つ。戦国時代に尾張の前田家が台頭し、江戸時代には大名家となった。通字は「利」(とし)。.

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管領代

管領代(かんれいだい)とは室町幕府の職名。 永正5年(1508年)、室町幕府10代将軍足利義稙が将軍に再任された時、管領細川高国とは別に山城守護大内義興が管領代に任ぜられたとの記録がある。 戦国時代には実質上管領家は細川氏のみであったため、管領は将軍の就位儀式時以外は補任されず、その時管領に故障があった場合、管領代が指定されて管領の職務を代行した。史料的には天文15年(1546年)、13代将軍足利義輝が近江坂本で将軍に就任した時、近江守護六角定頼がこの職に補任されたのが唯一の例である。 なお、応仁の乱後に細川政元が明応の政変を引き起こし、細川氏が事実上幕府を壟断するようになって、同氏の内衆が幕府奉行人と並んで重要政務に奉書を発給するようになるが、これら細川氏奉行人は幕府から右京兆代(京兆は細川氏の極官である右京大夫の唐名を指す)と呼ばれたため、細川氏奉行人を管領代、その発給文書を管領代奉書と呼ぶ研究者もある。 Category:室町幕府の職制 Category:中世日本の称号.

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系図纂要

『系図纂要』(けいずさんよう)は、江戸時代末期の系譜集成。全102巻(103冊)。著者は『大日本野史』の著者でもある飯田忠彦とみられる。既存の系譜集や記録などを広く集めて再編纂しており、史料価値が高いとされる。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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織田信雄

織田 信雄(おだ のぶかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。大和宇陀松山藩の初代藩主。初め伊勢北畠家の第10代当主として具豊(ともとよ)、信意(のぶおき)を名乗り、国司を継いだため御本所と敬称された。法名は常真。.

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猪飼昇貞

昇貞(いかい のぶさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。別名に定尚、正勝が伝わるが署名によって確かめられるのは昇貞である。姓は猪飼野とも。.

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猶子

子(ゆうし)とは、兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度。漢文訓読では「なほ子のごとし」(訳:あたかも実子のようである)という意味。 中国における本義は兄弟の子の意味。養子との違いは、家督や財産などの相続を必ずしも目的の第一義とはせず、実力や「徳」に優れた仮親の権勢を借りたり、一家・同族内の結束を強化するために行われた。具体的には、官位などの昇進上の便宜、婚姻上の便宜、他の氏族との関係強化が図られる場合に組まれるようである。そのため、子供の姓は変わらない場合があったり、単なる後見人としての関係であるなど、養子縁組と比べて単純かつ緩やかで擬制的な側面が大きい。 ただし、相続に関しての実際は明確な区別はなく、猶子であっても相続がなされる場合も多い。ときに両者をまったく同義で使用している場合がある。.

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甲賀五十三家

賀五十三家(こうかごじゅうさんけ)は、「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。.

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甲賀郡

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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青地氏

青地氏(あおちし)は、日本の氏族。宇多源氏の流れをくむ佐々木氏の支流。.

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飛騨国

飛騨国(ひだのくに、)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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観音寺城

観音寺城(かんのんじじょう)は、滋賀県近江八幡市安土町にあった日本の城(山城)である。支城に和田山城、佐生城、箕作城、長光寺城などがある。城跡は国の史跡に指定されている。.

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観音寺城の戦い

観音寺城の戦い(かんのんじじょうのたたかい)は、永禄11年(1568年)9月12日、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた戦い。支城の箕作城(みつくりじょう)が主戦場だったため、別名「箕作城の戦い」とも云われている。 信長の天下布武が実践された最初の戦いであり、直後の京都・畿内平定に影響を与え、事実上の天下人として名乗りを上げる契機となった。この上洛以降を安土桃山時代と区分するならば、観音寺城の戦いは戦国時代最後の合戦といえる。一夜で箕作城が落城すると、観音寺城は無血開城し、六角氏は甲賀郡に落ち延びた。.

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観音寺騒動

観音寺騒動(かんのんじそうどう)は、戦国時代の永禄6年(1563年)に、南近江の戦国大名・六角氏の家中で起こったお家騒動。.

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角川書店

角川書店(かどかわしょてん)は、日本の出版社・KADOKAWAのブランドの一つ。東京都千代田区に事業所を置く。 本項では、ブランドカンパニー化以前の株式会社角川書店についても解説する。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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高島氏

島氏(たかしまし)は、日本の武家。宇多源氏の一派近江源氏 佐々木氏流。佐々木信綱の次男高島高信を祖とする。近江国高島郡より発祥。居城は清水山城。.

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鯰江貞景

江 貞景(なまずえ さだかげ)は、戦国時代の武将。六角氏の家臣。近江国愛知郡鯰江城主。.

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豊臣秀頼

豊臣 秀頼(とよとみ ひでより / とよとみ の ひでより、)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。太閤・豊臣秀吉の三男。 秀吉の側室であった茶々(淀殿)の第二子。子は側室・和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に国松と、小石の方(おいわのかた。成田氏)との間に天秀尼(彼女の生母については異説がある)。位階は正二位、官職は右大臣。幼名は拾丸(ひろいまる)。なお、豊臣とは名字ではなく、本姓である。乳母は宮内卿局・右京大夫局(一説に両者は同一人物共)・正栄尼が伝わる。また、淀殿の乳母である大蔵卿局も養育係を務めた。.

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豊臣秀次

豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ / とよとみ の ひでつぐ)または羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の2代目関白。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。 幼少時、戦国大名・浅井長政の家臣・宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉とし、宮部 吉継(みやべ よしつぐ)と名乗った。次いで畿内の有力勢力だった三好一族の三好康長(笑岩)の養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称は孫七郎とし、三好 信吉(みよし のぶよし)と名乗って三好家の名跡を継いだ。 秀吉が天下人の道を歩み始めると、羽柴姓に復氏して、名も秀次と改名。豊臣姓も下賜された。鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子・秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺に蟄居となった後に切腹となった。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑された。.

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足利将軍家

足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。.

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足利義尚

足利 義尚(あしかが よしひさ)は、室町時代後期の室町幕府第9代将軍(在職:文明5年(1473年) - 1489年)。 『尊卑分脈』や『足利家官位記』により、晩年に足利義煕(- よしひろ)と改名したことが確認できるが、一般的には義尚の名で知られる。応仁の乱では、叔父の足利義視と将軍職をめぐる対立候補として擁立された。乱後は衰退した幕府権力を回復すべく、六角征伐などの積極的な幕政改革を行なったが、在陣していた近江国の陣中にて病死した。.

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足利義稙

足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府第10代将軍。父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘(日野富子の妹に当たる人物であるが名は伝わらない)。 初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。 将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は永正5年7月1日(1508年7月28日)から大永元年12月25日(1522年1月22日)まで在職した。.

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近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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近江源氏

近江源氏(おうみげんじ)とは、中世に近江国に土着し本拠とした源氏の流れを汲む一族の呼称。以下の数流がある。最も著名な佐々木氏一族については佐々木源氏などとも呼ばれる。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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蒲生定秀

蒲生 定秀(がもう さだひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。六角氏、織田氏の家臣。近江国日野城城主。.

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蒲生秀紀

蒲生 秀紀(がもう ひでのり)は、戦国時代の武将。蒲生氏16代当主。.

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蒲生秀行 (刑部大輔)

蒲生 秀行(がもう ひでゆき)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。蒲生氏15代当主。.

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蒲生高郷

蒲生 高郷(がもう たかさと)は、戦国時代の武将。六角氏の家臣。.

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蒲生貞秀

蒲生 貞秀(がもう さだひで)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将・歌人。.

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蒲生賢秀

蒲生 賢秀(がもう かたひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。六角氏、織田氏の家臣。近江国日野城主。.

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蒲生郡

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蒲生氏

蒲生氏(がもうし/かもうし)は、日本の氏族の一つ。代表的な一族に下記が挙げられる。.

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蒲生氏郷

蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。 蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(やすひで)または教秀(のりひで)。キリシタン大名であり、洗礼名はレオン(またはレオ)。子に蒲生秀行。.

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野良田の戦い

野良田の戦い(のらだのたたかい)とは、永禄3年(1560年)8月中旬に近江野良田(現在の滋賀県彦根市野良田町及び肥田町で行なわれた北近江の戦国大名・浅井長政軍と南近江の戦国大名・六角承禎軍の合戦。この合戦で浅井長政が勝利し、浅井家の北近江における覇権が確立した。 戦場の場所から野良田(野羅田)表の戦い、肥田の戦い、宇曾川の戦いとも称される。.

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長享

長享(ちょうきょう)は、日本の元号の一つ。文明の後、延徳の前。1487年から1488年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義尚。.

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長享・延徳の乱

長享・延徳の乱(ちょうきょう・えんとくのらん)とは、室町時代後期の長享元年(1487年)と延徳3年(1491年)の2度に亘って室町幕府が行った近江守護・六角行高(後の六角高頼)に対する親征で、六角征伐とも称される。なお、1度目の出陣は近江国栗太郡鈎(まがり)(滋賀県栗東市)に在陣したため、別に鈎の陣とも称される。.

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進藤貞治

進藤 貞治(しんどう さだはる)は、戦国時代の武将。六角氏の家臣。木浜城主。.

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進藤賢盛

進藤 賢盛(しんどう かたもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。木浜城主。.

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柏原藩

柏原藩(かいばらはん)は、丹波国氷上郡柏原(現在の兵庫県丹波市柏原)に存在した藩。藩庁は柏原陣屋に置かれた。 柏原藩織田家旧邸長屋.

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東洞院通

東洞院通(蛸薬師通付近から北方向を望む) 東洞院通(ひがしのとういんどおり)は京都市の南北の通りの一つ。 北は丸太町通から南は京都駅まで。京都駅を挟んで南側の延長線上に竹田街道がある。.

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梅戸高実

梅戸 高実(うめど たかざね)は、戦国時代の武将。.

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梅戸氏

梅戸氏(うめどし)は、日本の氏族。伊勢国の国人で北勢四十八家の一つ。.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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比叡山

比叡山(ひえいざん)は、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称である。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄した。東山三十六峰に含まれる場合も有る。別称は叡山、北嶺、天台山、都富士など。.

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氏族

氏族(しぞく、うじぞく、clan)とは、共通の祖先を持つ血縁集団、または、共通の祖先を持つという意識・信仰による連帯感の下に結束した血縁集団のこと。 単系出自集団(unilineal descent group。特定の祖先から男性または女性のみを通じて親子関係がたどれる子孫の作る集団)の一つ。特定の男性祖先から男性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を父系出自集団といい、特定の女性祖先から女性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を女系出自集団という。 これらの集団のうち、成員が互いの系譜関係、あるいは共通祖先との系譜関係を把握している集団はリニエッジ(lineage)といい、伝説上・神話上の共通祖先を持っているという意識・信仰があるのみで、系譜関係がはっきりしない集団をクラン(clan)と呼んで、両者を区別する。 同じ氏族の男女の結婚を禁じる結婚規制が広く見られる(氏族外婚)。これは、互いの系譜関係がたどれぬ場合であっても同じ氏族であれば血縁関係を擬制して規制することから、必ずしも近親婚の禁止とは重ならない。.

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永禄

永禄(えいろく)は、日本の元号の一つ。弘治の後、元亀の前。1558年から1570年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝、足利義栄、足利義昭。.

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江源武鑑

『江源武鑑』(こうげんぶかん)は、「佐々木氏郷」が著者とされている近江の戦国大名・六角氏に関する日次記形式の歴史書。天文6年7月(1537年)から元和9年7月(1623年)までを記している。全18巻。18世紀に至り世に知られたが、一般的には偽書と見られている。また佐々木氏郷とは沢田源内の偽名であると本書を偽書とする立場の者からは、『江源武鑑』そのものを疑問視されている。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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沢田源内

沢田 源内(さわだ げんない、1619年 - 1688年)は、江戸時代前期の著述家。幼名を喜太郎。近江国雄琴村(現・滋賀県大津市雄琴地区周辺)の人。六角氏郷と同一人物とされる。一方、佐々木哲によると本名は「郷重(さとしげ)」で六角氏郷とは別人という。.

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法華一揆

法華一揆(ほっけいっき)は、日本の戦国時代の京都における天文年間に起きた宗教一揆である。「天文法乱(てんぶんほうらん、てんもんほうらん)」「天文法華の乱(てんぶんほっけのらん、てんもんほっけのらん)」「天文法難(てんぶんほうなん、てんもんほうなん)」などと呼ばれる一連の出来事についてもここで解説する。.

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源満季

源 満季(みなもと の みつすえ)は、平安時代中期の武将。清和源氏の初代・源経基の三男。満仲・満政の同母弟。兄満仲・満政らと同様に、武力をもって朝廷・上級貴族に仕えた「武勇輩」であった。.

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朽木氏

朽木氏(くつきし)は、日本の氏族の一つ。近江源氏佐々木氏の分流である高島氏の有力庶家。高島郡の中でも、安曇川上流域(高島郡北部)である朽木谷を領した。鎌倉時代から江戸時代にかけて活動した。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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浅井長政

浅井 長政(あざい ながまさ、旧字体表記:淺井 長政)は、戦国時代の武将。北近江の戦国大名。浅井氏の3代目にして最後の当主。 浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、北東部に勢力をもっていた。妻の兄・織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害。浅井氏は滅亡した。官位は贈従二位中納言(徳川家光の外祖父にあたるため、死後の寛永9年(1632年)9月15日に贈られた)。.

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断家譜

断家譜(だんかふ)は、江戸時代の系譜集成。30巻。著者は田畑喜右ヱ門吉正。大名・旗本・官医の絶家となった880余の家をいろは順に掲載する。文化6年(1809年)成立で、慶長年間から文化年間までの間に断絶した家が対象である。 ただし旗本の家は全て収録されるわけではなく、御目見以上が原則記載、それ以下の御家人では菊の間で襲封した者を収録している。また次男以下で分家して一代で絶家となった場合は省略されている。 絶家ではないが、改易などで減封されながら子孫存続となった家も載せている。 大名・旗本別で分類され、それぞれの家の系図を示すほか、譜伝を記載している。武家の廃絶の様子を示す史料であり、また『寛政重修諸家譜』など断絶した家を欠くような系譜史料を補う役割もある。特に断絶家のみだが『寛政重修諸家譜』が記載しない寛政10年(1798年)以降から文化年間までの系譜が収録されており、貴重な系図史料となっている。 武家の廃絶の様子を示す類似の史料に『廃絶録』『徳川除封録』がある。ただし廃絶大名の年次別単独記載であり、断家譜とは記述方法が異なる。 昭和43年(1968年)以降、続群書類従完成会から斎木一馬・岩沢愿彦校訂の全3冊で刊行された。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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旗本

旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。.

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思文閣出版

思文閣出版(しぶんかくしゅっぱん)は、京都府京都市左京区にある出版社。美術商思文閣の出版部で、人文系・美術系の書籍を刊行している。絶版となった古書や花道、歴史、国文、芸術などのオリジナル企画書を刊行している。ベストセラーにならなくても、命の長い本を出版していく方針を取っている[こんな出版社]思文閣出版 命の長い本作る 読売新聞 2007年9月27日 大阪夕刊7頁。所在地同ビルに企画展をメインとする美術館・思文閣美術館(しぶんかくびじゅつかん、2011年4月10日より休館中)、京都市東山区古門前通大和大路東入元町386にぎゃらりぃ思文閣を運営する。.

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1243年

記載なし。

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1467年

記載なし。

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1470年

記載なし。

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1487年

記載なし。

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1560年

記載なし。

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1563年

記載なし。

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1568年

記載なし。

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1963年

記載なし。

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1980年

この項目では、国際的な視点に基づいた1980年について記載する。.

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1996年

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2006年

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2012年

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2015年

この項目では、国際的な視点に基づいた2015年について記載する。.

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