683 関係: 劉復亨、劉邦、執権、原田氏、厳島神社、たかぎ七彦、偵察、うきは市、博多、博多区、博多湾、千葉頼胤、千葉氏、南宋、南禅寺、南浦紹明、南海道、叡尊、古代、台風、史跡、名乗り、吉田経長、堯、塙保己一、壱岐島、壱岐国、壱岐神社、夏貴、大友頼泰、大友氏、大宰府、大山祇神社、大徳、大和国、大隅国、大韓民国、大鎧、大都、大般若波羅蜜多経、大橋訥庵、大正、大日本史、天人相関説、天皇、天照大神、天野純希、天正、天智天皇、太宰府市、...、太宗、太平記、太鼓、外山幹夫、奥富敬之、女真、姪浜、孫子 (書物)、定海、定海区、宣明暦、室町時代、宸翰、守護、守護代、宗助国、宗像、宗性、宇佐、宇都宮貞綱、安土桃山時代、安国寺 (壱岐市)、安達盛宗、宋 (王朝)、寧波市、寺社、対馬、対馬国、寛喜、封建制、小城郡、小呂島、小茂田浜神社、少弐経資、少弐資能、少弐資時、少弐氏、少弐景資、屠寄、屯田、山城国、山口修 (歴史学者)、山陰道、山陽道、島津久経、川添昭二、巨福呂坂、巨済島、丞相、帝国書院、師守記、中央区 (福岡市)、中央アジア、中国、中国大陸、中国地方、中統、中村登、中書省、常立寺、丘陵、市舶司、三井資長、三別抄、三韓征伐、一山一寧、一代要記、一遍、一遍聖絵、一騎討ち、九州、九州千葉氏、九州大学総合研究博物館、九州国立博物館、干支、平成、平戸島、平景隆、幕府、幕末、交趾、享保、京都、京都大学総合博物館、二月騒動、広橋兼仲、予章記、五代帝王物語、五輪塔、井上靖、亀山天皇、今宿 (福岡市)、今谷明、今津村 (福岡県)、仏教、延宝、延祐、延暦寺、建長寺、建治、建文、伊原敏郎、伊万里湾、伊予国、伊勢神宮、伊豆国、弥生時代、弦、弩、伯耆国、弘安、弘安四年日記抄、張世傑、引付衆、住吉大社、佐志房、佐藤次高、征東等処行中書省、御家人、御家人領、徳川光圀、徳政令、後宇多天皇、後嵯峨天皇、後深草天皇、侵攻、得宗、従属国、忠州市、忠烈王、修禅寺、忻都、忽敦、応仁の乱、念仏、志賀島、地租、地頭、北原白秋、北京市、北面武士、北条定宗、北条実政、北条貞時、北条氏、北条時定 (時氏流)、北条時宗、北条時宗 (NHK大河ドラマ)、北条時輔、ナヤン、ペルシア語、ミニアチュール、マムルーク朝、マルコ・ポーロ、マジャパヒト王国、マスト、チャンパ王国、チャシ、チンギス・カン、ハラージュ、ハーン、バガトル、ポール・ペリオ、モンケ、モンゴル (曖昧さ回避)、モンゴルの高麗侵攻、モンゴルの樺太侵攻、モンゴル帝国、モウコウマ、ユリウス暦、僧兵、ルスティケロ・ダ・ピサ、ワールシュタットの戦い、トレビュシェット、パスパ文字、テムル、フランス国立図書館、フレグ、ニワトリ、ニヴフ、ホムス、ダマスカス、ダイゴ (曖昧さ回避)、ベトナム、刀伊の入寇、嘉元、嘉靖帝、善隣国宝記、呉、呉ライ、呉澄、呉服町、咸安、和弓、和暦、アバカ、アムール川、アレッポ、アントン (ジャライル部)、アンゴルモア 元寇合戦記、アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン、アフリカ大陸、アイン・ジャールートの戦い、アイヌ、インド、イブン・バットゥータ、イギリス帝国、イクター、エドワード・ギボン、オロモウツ、オケアノス、オゴデイ、カチウン、カラーウーン、カラコルム、カン州市、カイドゥ、カタパルト (投石機)、クビライ、ジャワ島、ジパング、スルターン、タタール、サッカーパンチプロダクションズ、むくりこくり、唐、円覚寺、出雲国、全羅道、八幡神、八幡愚童訓、公卿、公家、公主、六波羅探題、元 (王朝)、元史、元号、元宗 (高麗王)、元寇、元寇 (軍歌)、元寇史料館、元寇防塁、元朝秘史、兵衛次郎、前漢、回回砲、因幡国、国号、国宝、倭寇、皇太子、皇帝、皇代暦、短弓、石川賢 (漫画家)、石見国、石清水八幡宮、玄界灘、玄武岩、王国、王雍 (高麗)、火薬、珍島、琉球大学、神功皇后、神功皇后神社 (豊北町)、神国、神聖ローマ帝国、神領興行、神風、神風特別攻撃隊、祥興帝、福岡城、福岡市、秦、稀音家浄観、端宗 (宋)、竹崎季長、竜骨 (船)、立正安国論、第一次世界大戦、第二次世界大戦、筥崎宮、筑後川、筑後国、筑前国、筑波大学、箱崎 (福岡市)、続文献通考、網野善彦、縁起、群書類従、翼祖、習慣、烏江、爵位、終末論、瑞渓周鳳、甑島列島、無学祖元、異国警固番役、異称日本伝、牒、相田二郎、瀬戸内海、白石通泰、白藤江の戦い (1288年)、白村江の戦い、百道、隆興、銅鑼、隋、韓信、鎧、鎮西、鎮西奉行、鎮西探題、鎌倉、鎌倉年代記、鎌倉幕府、鎌倉幕府の高麗遠征計画、鎌倉遺文、鎌倉時代、遊牧民、遷都、遼、遼陽市、聖福寺、荘園、荘園領主、荘穆王后、菊池神社、菊池神社 (菊池市)、菊池武房、菊池氏、鏑矢、鐙、蝦夷地、頼山陽、領家、項籍、行幸、飛脚、西区 (福岡市)、西園寺実氏、西園寺公衡、西牟田永家、西暦、西新、襄州区、襄陽・樊城の戦い、親征、馬山市、角川書店、騎射、騎兵、読売新聞、読売文学賞、誉田八幡宮、諏訪大社、諏訪春雄、高句麗、高宗 (高麗王)、高麗、高麗史、高麗史節要、高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻、高橋克彦、豊後国、豊前国、豊田有恒、豊浦郡、鳴弦の儀、趙良弼、鷹島 (長崎県)、軍国主義、軍歌、黒山島、黒田俊雄、辞世、龍谷大学、龍造寺氏、近世、近衛基平、錨、霜月騒動、范文虎、能古島、能仁寺、舩原三郎、般若心経、阿塔海、阿片戦争、蘇秦、赤坂 (福岡市)、関東、関東申次、薩摩国、開城市、開封市、薙刀、蒲寿庚、蒙古、蒙古襲来絵詞、肥後国、肥前国、鄭舜功、重要文化財、至元、至元 (元世祖)、臼杵氏、金 (王朝)、金剛仏子叡尊感身学正記、金海市、金方慶、長崎事件、長崎県、長崎県立上対馬高等学校、長府、長弓、長唄、長門国、艦隊、色目人、鉄砲、雲南、集英社、耽羅、虞集、院政、陳聖宗、陳舜臣、陳朝、陸秀夫、暦、投石器、柯劭ビン、柳成龍、恭帝 (宋)、揚州市、李行里、李氏朝鮮、杭州、杭州市、東大寺、東夷、東寧府、東寺、東京国立博物館、東国、東国通鑑、東道諸王、東洋文庫 (平凡社)、東方見聞録、松浦市、松浦市立鷹島歴史民俗資料館、松浦党、松浦郡、杜世忠、村井章介、杉山正明、楚 (春秋)、槍、樊城区、樺太、橘守部、櫛田神社 (福岡市)、正安、正応、正元 (日本)、武士、武士団、武士道、武具、武臣政権、歴史小説、歌舞伎、殿上人、毒矢、水城、永井建子、永仁、永楽帝、気象学、江の島、江南、江戸時代、江浙等処行中書省、池内宏、河野通有、法華経、泉州市、洞院公賢、洪茶丘、洪鈞、深心院関白記、渡辺邦男、温州市、済州島、清、清水書院、清浄光寺、湖南省、満願寺 (熊本県南小国町)、漢、漢籍、潘阜、服部英雄、朝廷、朝鮮半島、朝鮮王朝実録、朝鮮通信使、朝貢、本州、本所、朱元璋、戦中、戦後、戦前、戦国時代 (中国)、戦艦、明、明史、明応、明治、昭和、海の中道、海南島、海音寺潮五郎、浄土教、浙江大学、新城神社、新元史、文保、文応、文永、文春文庫、日向 (日蓮宗)、日向国、日元貿易、日蓮、日蓮 (映画)、日蓮と蒙古大襲来、日蓮宗、日清戦争、日澄、日朝、日本、日本外史、日本一鑑、日本在来馬、日本刀、日本文教出版、日本書籍出版協会、日本書紀、日意、旧唐書、早良区、早良郡、旗田巍、悪党、愛宕松男、懐良親王、懲ヒ録、故宮博物院、故事、慶尚道、扁額、扶余豊璋、扶桑社、時宗、10月20日 (旧暦)、10月5日 (旧暦)、11月11日、11月26日、1231年、1241年、1259年、1260年、1264年、1265年、1266年、1268年、1269年、1271年、1272年、1273年、1274年、1275年、1276年、1279年、1280年、1281年、1282年、1283年、1284年、1285年、1286年、1287年、1291年、1292年、1294年、1298年、1299年、1301年、1304年、1307年、1317年、13世紀、1402年、1478年、1494年、1585年、1732年、1886年、1891年、1892年、1910年、1913年、1916年、1925年、1937年、1940年、1943年、2001年、2011年、2014年、5月21日 (旧暦)、662年、6月16日、8月29日、8月7日 (旧暦)。 インデックスを展開 (633 もっと) »
劉復亨
劉復亨(りゅう ふくこう、生年不詳 - 至元20年(1283年))は、元の漢人武将。.
劉邦
劉 邦(りゅう ほう、、)は、前漢の初代皇帝。 沛県の亭長(亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと)であったが、反秦連合に参加した後に秦の都咸陽を陥落させ、一時は関中を支配下に入れた。その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢王となるも、東進して垓下に項羽を討ち、前漢を興した。正式には廟号が太祖、諡号が高皇帝であるが、通常は高祖と呼ばれることが多い。.
執権
執権(しっけん)は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け政務を統轄した。元来は、政所の別当の中心となるものの呼称であった。 ただし、朝廷においても用いられた語であり、鎌倉幕府独自の職名ではないことに注意を要する。.
原田氏
原田氏(はらだし)は、日本の氏族の一つ。.
厳島神社
境内 全景(弥山中腹より) 2016年G7広島外相会合における平舞台での雅楽。 厳島神社(いつくしまじんじゃ、公式表記:嚴島神社)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社。式内社(名神大社)、安芸国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」。 古くは「伊都岐島神社」とも記された。全国に約500社ある厳島神社の総本社である。ユネスコの世界文化遺産に「厳島神社」として登録されている。.
たかぎ七彦
たかぎ 七彦(たかぎ ななひこ)は、日本の漫画家。『モーニング』で短編作品を発表した後、『アンゴルモア 元寇合戦記』を発表。連載中。.
偵察
様々な事柄についての情報を、目視観測などの手段を通じて能動的にかつひそかに収集する活動。.
うきは市
うきは市(うきはし)は、福岡県の南東部に位置する市である。.
博多
博多総鎮守櫛田神社 博多(はかた)は、九州北部筑前国、現在の福岡県福岡市の地域。 博多湾に面する港町・港湾都市で、博多津などとも呼ばれた。古代からの歴史を持ち、中世には、大商人達による合議制で治められた日本史上初の自治都市として栄えた。江戸時代に黒田氏が入国し那珂川を挟んで城下町福岡を築き、二極都市の性格を持った。明治時代には博多・福岡をまとめて1つの市・福岡市として市制施行されて現在に至り、博多の地名は博多区として残るが同義ではない。.
博多区
博多区(はかたく)は、福岡市を構成する7区の行政区の一つである。 博多区には福岡県庁が置かれている。博多駅や博多港・福岡空港を抱え、国道3号が区内を縦断しており、交通の中枢となる区でもある。 九州の経済の根幹を担う事業所が多数立地しており、卸売業販売額は九州内シェア27%である(2014年商業統計)。.
博多湾
博多湾(はかたわん)は、福岡県北西部にある玄界灘に面した湾。福岡湾とも。特定重要港湾の博多港、和白干潟などを抱える。福岡市の市域拡張による埋立が繰り返し行われてきた。.
千葉頼胤
千葉 頼胤(ちば よりたね)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。千葉氏の第8代当主。第7代当主・千葉時胤の子。.
千葉氏
千葉氏(ちばし、ちばうじ)は、坂東八平氏・関東八屋形の一つに数えられる下総の豪族で、守護大名・戦国大名となった一族である。桓武平氏良文流。通字は「胤」。.
南宋
南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝) で解説することとする。 この項目では全般にわたって山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。.
南禅寺
南禅寺 (なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)である。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。.
南浦紹明
南浦 紹明(なんぽ しょうみょう、嘉禎元年(1235年) - 延慶元年12月29日(1309年2月9日))は、鎌倉時代の臨済宗の僧。出自については不詳であるが、駿河国安倍郡の出身。諱は紹明(「しょうみょう」とも「じょうみん」ともよむ)、道号は南浦。勅諡号は円通大応国師。.
南海道
南海道(なんかいどう、みなみのみち)は、五畿七道の一つ。紀伊半島、淡路島、四国ならびにこれらの周辺諸島の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。.
叡尊
叡尊(えいそん、えいぞん、建仁元年〈1201年〉 - 正応3年8月25日〈1290年9月29日〉)は、鎌倉時代中期の日本の人物で、真言律宗の僧。字は思円(しえん)。謚号は興正菩薩(こうしょうぼさつ)。興福寺の学僧・慶玄の子で、大和国添上郡箕田里(現・奈良県大和郡山市内)の生まれ。廃れかけていた戒律を復興し、衰退していた勝宝山西大寺(南都西大寺)を再興したことで知られる。.
古代
古代(こだい、)とは、世界の歴史の時代区分で、文明の成立から古代文明の崩壊までの時代を指す。「歴史の始まり」を意味する時代区分である。古典的な三時代区分の一つであり、元来は古代ギリシア・古代ローマを指した(古典古代)。歴史家にとっては語ることのできる歴史の始まり(書き出し)を意味した。考古学の発達が歴史記述の上限を大幅に拡大したと言える。.
台風
宇宙から見た台風(平成16年台風第18号) 日本の南にある3つの台風(平成18年台風7, 8, 9号)。2006年8月7日。 台風(たいふう、颱風)は、北西太平洋に存在する熱帯低気圧のうち、低気圧域内の最大風速が約17m/s(34ノット、風力8)以上にまで発達したものを指す呼称 気象庁 2016年9月3日閲覧。。強風域や暴風域を伴って強い雨や風をもたらすことが多く、しばしば気象災害を引き起こす。.
史跡
特別史跡「姫路城跡」(兵庫県姫路市) 史跡(しせき、非常用漢字:史蹟)とは、貝塚、集落跡、城跡、古墳などの遺跡のうち歴史・学術上価値の高いものを指し、国や自治体によって指定されるものである。この語は一般には遺跡全般と同義で現在においてもその意味で使用される場合も多いが、日本においては1919年(大正8年)の史蹟名勝天然紀念物保存法以降、特に法律で指定保護されている遺跡を指すようになり、現在では狭義の「史跡」は文化財の種別の一つとして文化財保護法第109条第1項に規定されている。.
名乗り
# 人の名前に使われる漢字の通常の音読み・訓読み以外の読み方。.
吉田経長
吉田 経長(よしだ つねなが)は鎌倉時代前期から後期にかけての公卿。中納言・吉田為経の三男。日記『吉続記』が伝わる。.
堯
堯(尭、ぎょう)は中国神話に登場する君主。姓は伊祁(いき)、名は放勲(ほうくん)。陶、次いで唐に封建されたので陶唐氏ともいう。儒家により神聖視され、聖人と崇められた。.
塙保己一
塙 保己一(はなわ ほきいち、延享3年5月5日(1746年6月23日) - 文政4年9月12日(1821年10月7日))は、江戸時代の国学者。幼名は丙寅にちなみ寅之助(とらのすけ)、失明後に辰之助(たつのすけ)と改める。また、一時期、多聞房(たもんぼう)とも名乗る。雨富検校に入門してからは、千弥(せんや)、保木野一(ほきのいち)、保己一(ほきいち)と改名した。『群書類従』『続群書類従』の編纂者である。総検校。贈正四位。 四男は、国学者の塙忠宝である。.
壱岐島
壱岐島(いきのしま)は、九州北方の玄界灘にある南北17km・東西14kmの島である。九州と対馬の中間に位置する。『古事記』によれば、別名を天比登都柱(あめひとつばしら)という。 周囲には23の属島(有人島4・無人島19)が存在し、まとめて壱岐諸島と呼ぶ。ただし、俗にこの属島をも含めて壱岐島と呼び、壱岐島を壱岐本島と呼ぶこともある。官公庁の定義では「壱岐島」と呼ぶ場合、周囲の属島は含めない。 現在は長崎県壱岐市の1市体制で、長崎県では島内に壱岐振興局(旧・壱岐支庁、壱岐地方局)を置いている。また、全域が壱岐対馬国定公園に指定されている。.
壱岐国
壱岐国(いきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
壱岐神社
壱岐神社(いきじんじゃ)は、長崎県壱岐市に鎮座する神社である。.
夏貴
夏貴(か き、1198年 - 1280年)は、南宋末期の将軍。 1260年以後、モンゴル帝国(後の元)の南下が始まり、淮南を守っていた夏貴はモンゴル軍の攻勢の前にたびたび苦戦を強いられた。しかし敗れたとは言え、郭侃・バヤンといったモンゴル側の名将をたびたび危機に陥れるなどして、武名は広く知られるようになった。 呂文煥が守る襄陽への援軍として派遣されるが、中央では権力者・賈似道の妨害を受けた上に、モンゴル軍によって水軍が壊滅させられたこともあって、十分な目的を達することが出来なかった。1275年、賈似道による元討伐軍に参加するが、元軍の前に蕪湖の戦いで大敗してしまい、都・臨安への道を元軍により絶たれたために、淮西に逃れて徹底抗戦をする。 しかし、翌年臨安が陥落して恭帝が降伏したと知ると、恭帝の身の上を案じていた夏貴はバヤンの説得を受けて元軍に降伏した。 降伏後は元の官職を授けられ、弘安の役の蛮子軍(降伏した南宋の軍勢)司令官として任命されるなど重用されたようであるが、出兵前に心ここに在らずの状態で、失意のうちに病死した。人々は、「なぜ、(彼のような忠臣が)79歳で無くして83歳で逝ってしまったのか(降伏した時の年齢が79歳であった)」とその死を惜しんだと言う。 Category:南宋の人物 Category:元代の人物 Category:1198年生 Category:1280年没.
大友頼泰
大友 頼泰(おおとも よりやす安田、1990年、P.104 「大友頼泰」の項(執筆:外山幹夫)より。)は鎌倉時代中期の武将・御家人。大友氏3代当主。.
大友氏
大友氏(おおともし)は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、九州の豊後国(現大分県)を本拠とした一族。豊後・筑後など北九州を支配した守護職・守護大名で、戦国時代には戦国大名に成長し、最盛期には豊後・筑後に加え豊前・肥前・肥後・筑前の6ヶ国と日向・伊予の各半国を領有したが、豊臣政権期に除封された。江戸時代には江戸幕府の旗本(高家)や大名家の家臣となって存続した。.
大宰府
大宰府(だざいふ)は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。多くの史書では太宰府とも記され、おもに8世紀の大和朝廷内部で作られた史書で「大宰府」と記されている。.
大山祇神社
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神社。式内社(名神大社)、伊予国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社である。また、主祭神の大山祇神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する。.
大徳
大徳(だいとく).
大和国
大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.
大隅国
大隅国(おおすみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
大韓民国
大韓民国(だいかんみんこく、대한민국、漢字: 大韓民國)、通称韓国(かんこく)は、朝鮮半島(韓半島)南部を実効支配する東アジアの共和制国家であり、戦後の冷戦で誕生した分断国家。 憲法上は鴨緑江、豆満江以南の「朝鮮半島及び付属島嶼」全域を領土とするが、現在、北緯38度付近の軍事境界線以北は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の統治下にあり施政権は及んでいない。朝鮮戦争で争った北朝鮮とは1953年に休戦したが、その後も断続的に軍事的対立や小規模な衝突が発生している。 政治面は1980年代半ばまで独裁体制が取られていたが、1987年の民主化宣言によって成立し、現在まで続いている第六共和国憲法に基づく体制は民主主義政体と評価される。 経済面は1960年代前半まで世界最貧国グループにあったため朝鮮戦争で荒廃した韓国は、当時1人あたりの国民所得が日本の5分の1に満たず世界の最貧国に数えられていた。一方、北朝鮮は経済の5カ年計画(*)に成功し、1人あたりの国民所得が韓国の2倍を超えていた。NHKスペシャル 戦後70年 ニッポンの肖像 -世界の中で- 第1回「信頼回復への道」2015年6月19日放送。(*)北朝鮮はソ連型の計画経済を導入した。当時の韓国の一人あたりの国民所得は、日本の五分の一に満たない82ドルで、朝鮮戦争の荒廃から立ち直っておらず、世界の最貧国のひとつだった。NHK さかのぼり日本史「戦後“経済外交”の軌跡」第三回 経済援助 積み残された課題 2012年4月17日放送、キャスター 石澤典夫、解説 学習院大学教授 井上寿一。、独自に資金や技術を調達できなかった岩田勝雄,, 立命館大学コラム「あすへの話題」2006年7月(第44回).
大鎧
大鎧を着用した男性。 大鎧(おおよろい)は、日本の甲冑・鎧の形式の1つ。馬上で弓を射る騎射戦が主流であった平安 - 鎌倉時代、それに対応すべく誕生・発達し、主に騎乗の上級武士が着用した。 その成り立ちから格の最も高い正式な鎧とされ、室町時代ごろには式の鎧、式正の鎧(しきしょうのよろい)、江戸時代には本式の鎧と呼ばれた。あるいは胴丸や腹巻などと区別して、単に鎧ともいう。また古くから着背長(きせなが)という美称もあった。.
大都
大都(だいと)は、モンゴル帝国(元朝)のクビライ・カアンが1267年から26年を費やして現在の北京の地に造営した都市で、元朝の冬の都(冬営地)である。現在の中華人民共和国の首都、北京の直接の前身であり旧市街に匹敵するほどの規模を持つ、壮大な都市だった。.
大般若波羅蜜多経
『大般若波羅蜜多経』(だいはんにゃはらみったきょう)とは、唐代の玄奘三蔵が大乗仏教の基礎的教義が書かれている長短様々な「般若経典」を集大成した経典。通称は『大般若経』(だいはんにゃきょう)で、『般若経』(はんにゃぎょう)と略称することもある。全16部(会)600巻に及ぶ膨大な経典群である。大正蔵220。.
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大橋訥庵
大橋 訥庵(おおはし とつあん、文化13年(1816年) - 文久2年7月12日(1862年8月7日)は、江戸時代後期の儒学者、尊王論者。諱は正順、通称は順蔵、字は周道、訥庵は号『国史大辞典』678頁『明治維新人名辞典』206頁。幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を及ぼした。.
大正
大正(たいしょう)は日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。.
大日本史
『大日本史』(だいにほんし)は、日本の歴史書。江戸時代に御三家のひとつである水戸徳川家当主徳川光圀によって開始され、光圀死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、明治時代に完成した。神武天皇から後小松天皇まで(厳密には南北朝が統一された1392年(元中9年/明徳3年)までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱う。紀伝体の史書で、本紀(帝王)73巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られる)170巻、志・表154巻、全397巻226冊(目録5巻)。携わった学者たちは水戸学派と呼ばれた『大思想エンサイクロペヂア』28巻 (春秋社, 1930) p187。 『大日本史』は光圀死後の1715年(正徳5年)、藩主徳川綱條による命名で、同時代には『本朝史記』や『国史』『倭史』と呼ばれている。質の高い漢文体で書かれ、記事には出典を明らかにし、考証にも気を配っている。.
天人相関説
天人相関説(てんじんそうかんせつ)とは儒教で主張される教義の一で、天と人とに密接な関係があり、相互に影響を与えあっているという思想。 董仲舒 (紀元前176年? - 紀元前104年?)) 前漢の儒学者、董仲舒は『春秋繁露』で森羅万象と人の営みには密接な関係があると説き、それを1年の月数は人体の12節に、五行は五臓に、昼夜は覚醒と睡眠に対応すると論じた。天文で人の運命を読むのも即ち天人が相関関係にあるがゆえであり、帰する所、人体は全宇宙の縮図にして小宇宙であると説いた。天子が行う政治も天と不可分のものであり、官制や賞罰も天に則って行うべきであるという。.
天皇
天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.
天照大神
天照大神(あまてらすおおみかみ、あまてらすおおかみ)は、日本神話に登場する神。皇室の祖神で、日本国民の総氏神ともされる。『延喜式』では自然神として神社などに祀られた場合の「天照」は「あまてる」と称されている。 天岩戸の神隠れで有名であり、記紀によれば太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)とされる。神社としては伊勢神宮が特に有名『八百万の神々』。.
天野純希
天野 純希(あまの すみき、1979年9月19日 - )は日本の小説家。 愛知県名古屋市出身。東邦高等学校普通科卒業。愛知大学文学部史学科卒業。2007年「桃山ビート・トライブ」で第20回小説すばる新人賞、2013年「破天の剣」で第19回中山義秀文学賞を受賞。.
天正
天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.
天智天皇
天智天皇(てんじてんのう/てんぢてんのう、推古天皇34年(626年) - 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は、第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日(668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日))。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。.
太宰府市
太宰府市(だざいふし)は、福岡県中西部の筑紫地域に位置する市である。 九州地区の統治組織「大宰府」が置かれた事により栄えた。太宰府天満宮などの史跡が多くあり、毎年700万余りもの観光客が訪れる観光都市でもある。.
太宗
太宗(たいそう)は、東アジア世界における皇帝・国王などの廟号。太祖(おもに初代皇帝)に次ぐ第2代皇帝などに当てられることが多い。.
太平記
『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。 全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。 第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。.
太鼓
太鼓(たいこ)は、動物の皮などで作った薄い膜を枠(胴)に張り、それをたたいて音を出す楽器である。楽器分類学では「膜鳴楽器」と呼ぶが、実用上の楽器分類では「体鳴楽器」とともに打楽器に分類される。太鼓は古くから存在する楽器のひとつで、世界各地に広く分布し、その地域によって特色ある太鼓が存在している。楽器として使用されるほか、かつて西アフリカにおいては太鼓によって遠距離通信を行う、いわゆるトーキングドラムという使用法が広く行われていた。 胴と膜の枚数によって、以下のように分類される。.
外山幹夫
外山幹夫(とやま みきお、1932年10月16日-2013年4月26日)は、日本の日本史学者。 長崎市生まれ。長崎県立大村高等学校卒。広島大学大学院文学研究科国史学修了、78年「大名領国形成過程の研究 大友氏の場合」で文学博士。佐世保工業高等専門学校助教授、長崎大学助教授、教授。1998年定年退官、名誉教授、長崎県立女子短期大学教授、99年県立長崎シーボルト大学教授、2002年退職。県文化財保護審議会長、長崎市史編纂委員会委員長などを務めた。.
奥富敬之
奥富 敬之(おくとみ たかゆき、1936年9月2日 - 2008年7月7日)は、日本の歴史学者、日本医科大学名誉教授。日本中世史・日本医学史専攻。.
女真
女真(女眞、じょしん、ᠵᡠᡧᡝᠨ 転写:jušen)は、女直(じょちょく)ともいい、満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけて居住していたツングース系民族。民族の聖地を長白山とする。10世紀ごろから記録に現れ、17世紀に「満洲」(「マンジュ」と発音)と改称した。「女真」の漢字は女真語の民族名「ジュシェン」(または「ジュルチン」)の当て字である。「女直」は遼興宗の諱(耶律宗真)に含まれる「真」の字を避けた(避諱)ため用いられるようになったたんに「真」の字を「直」と書き誤った、という説もある。。金朝を滅ぼしたモンゴル帝国および元朝時代の漢文資料では「女直」の表記が多く見受けられ、同じくモンゴル帝国時代に編纂されたペルシア語の歴史書『集史』などでも金朝や女真人について言及される場合、「女直」の音写である جورچه jūrcha で呼ばれている。.
姪浜
姪浜(めいのはま)は、福岡市西区にある地名。旧筑前国早良郡。.
孫子 (書物)
孫子の著者とされる孫武の像。鳥取県湯梨浜町の燕趙園に立つ 『孫子』(そんし)は、紀元前500年ごろの中国春秋時代の軍事思想家孫武の作とされる兵法書。武経七書の一つ。古今東西の兵法書のうち最も著名なものの一つである。紀元前5世紀中頃から紀元前4世紀中頃あたりに成立したと推定されている。 『孫子』以前は、戦争の勝敗は天運に左右されるという考え方が強かった。孫武は戦争の記録を分析・研究し、勝敗は運ではなく人為によることを知り、勝利を得るための指針を理論化して、本書で後世に残そうとした。.
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定海
定海(じょうかい、承保元年1月3日(1074年2月1日) - 久安5年4月12日(1149年5月20日))は、平安時代後期の真言宗の僧。俗姓は源氏で、村上源氏の出身。父は右大臣源顕房。藤原賢子(白河天皇中宮)・太政大臣源雅実・源師子(藤原忠実室)らの異母弟。三宝院大僧正・上生僧正とも称された。.
定海区
定海区(ていかい-く)は中華人民共和国浙江省舟山市に位置する市轄区。区人民政府の所在地は解放路106号。.
宣明暦
宣明暦(せんみょうれき)は中国暦の一つで、かつて中国や日本などで使われていた太陰太陽暦の暦法である。正式には長慶宣明暦(ちょうけいせんみょうれき)と言う。特に日本においては中世を通じて823年間継続して使用され、史上最も長く採用された暦となった。 以下、和暦の日付は旧暦表示である。また、西暦の日付は1582年10月4日まではユリウス暦表示、1582年10月15日以降はグレゴリオ暦表示となっている。.
室町時代
室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.
宸翰
嵯峨天皇宸翰 光定戒牒(延暦寺) 後宇多天皇宸翰御手印遺告(大覚寺) 高倉天皇宸翰消息(仁和寺) 後嵯峨天皇宸翰消息(仁和寺) 宸翰(しんかん)は、天皇自筆の文書のこと。宸筆(しんぴつ)、親翰(しんかん)ともいう。鎌倉時代以降、室町時代までの宸翰を特に宸翰様と呼ぶ。中世以前の天皇の真跡で現存するものは数が少なく、国宝や重要文化財に指定されているものが多い。.
守護
守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.
守護代
守護代(しゅごだい)とは、鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職である。.
宗助国
宗 助国(そう すけくに、承元元年(1207年)? - 文永11年10月5日(1274年11月4日))は、鎌倉時代中期の武将。対馬国の地頭代(守護代でもある)。宗氏の一族。長兄の宗重尚(宗氏初代当主)の養嗣子となる。右馬允、贈従三位。宗資国とも。子は盛明(右馬太郎)、右馬次郎。 『八幡愚童訓』によると、文永11年(1274年)の文永の役で、10月5日に対馬国府の八幡宮仮殿からおびただしい炎が上がり、人々が焼け失せるかと驚いたがそれは幻であった。その日の午後、対馬の西の海は一面に蒙古の軍船に覆われた。午後4時頃、蒙古の船は対馬下島西岸の佐須浦(現対馬市厳原町小茂田浜)に接岸し、船450艘、3万人の軍勢が来襲した。6時頃に国府の地頭所に連絡があり、対馬の地頭で守護少弐景資の代官でもある宗助国は、80余騎を率いて岩山の夜道を佐須浦へ馳せ向かった。翌朝、通事(通訳)を使者として蒙古人に事情を尋ねたところ、蒙古軍は7、8艘の船から1千人ばかりが下り立ち、激しく矢を射かけて攻撃を始めた。助国らは急遽陣を立て直して応戦したものの、助国をはじめ子息の右馬次郎、養子の弥次郎、他に庄の太郎入道、肥後国の御家人田井藤三郎など全員が戦死した。 蒙古軍は佐須浦に火をかけて焼き払った。小太郎と兵衛次郎という2人が博多へ船をはしらせ、事の顛末を知らせた。 助国主従の亡骸を埋めた場所は「お首塚」「お胴塚」として現存している。 対馬市厳原町小茂田の小茂田浜神社に祭られている。この神社では毎年11月12日の小茂田浜神社大祭において、鎧冑姿で練り歩き、海に向かって弓を放ち島の平和を祈願する「鳴弦の儀」が行われている。 1896年(明治29年)11月2日には、対馬島民らの請願を受けて、従三位が贈位された。.
宗像
宗像(むなかた)とは、宗像市郡とその郊外の事を指す地名。 郊外の範囲も明確ではないが、飛鳥時代の宗像郡に鞍手郡北西部(宮若市西部・鞍手町)の範囲が古代の広域宗像である。古代の広域宗像の範囲は、宗像市郡と鞍手郡北西部(宮若市西部地域・鞍手町)と旧遠賀郡一部地域と東部糟屋郡(古賀市・新宮町)である。戦国時代の宗像とは現在の宗像市・福津市・遠賀郡の遠賀川より鞍手郡北西部と古賀浜を含む新宮海岸である(遠賀川以東の遠賀郡も豪族である麻生氏が宗像氏との戦争後、宗像氏に従属していたため、支配地域として宗像と呼ぶこともあった)。ただし、歴史上では宗像氏の領土を指すことが多く、最後まで一貫して宗像氏の領土だったのは、宗像市と西郷の地を除く福津市と旧若宮町・旧宮田町北部・岡垣町・遠賀町のごく一部である。 またこの地域は、古くから中国大陸や朝鮮半島との繫がりは深く、貿易が活発だったことも有名である。 Category:宗像地方 *.
宗性
宗性(そうしょう、建仁2年(1202年)- 弘安元年6月8日(1278年6月29日))は、鎌倉時代前期から中期にかけての東大寺の僧。父は藤原隆兼。.
宇佐
宇佐(うさ).
宇都宮貞綱
宇都宮 貞綱(うつのみや さだつな)は、鎌倉時代中・後期の武将。鎌倉幕府御家人宇都宮氏第8代当主。宇都宮景綱の子。母は安達義景の娘。興禅寺を開基したことで知られる。北条氏得宗家(鎌倉幕府第9代執権)の北条貞時の偏諱を受けて貞綱と名乗る。 弘安4年(1281年)の元寇の弘安の役では8代執権・北条時宗の命を受けて山陽、山陰の6万もの御家人を率いて総大将として九州に出陣した。その功績により戦後、引付衆の一人に任じられた。 時宗の死後は北条貞時に仕えて嘉元3年(1305年)、嘉元の乱では貞時の命を受けて北条宗方誅殺に協力した。 正和元年(1312年)、亡母の13回忌に全国的にも珍しい巨大鉄製塔婆を奉納した(宇都宮市清巌寺蔵:国の重要文化財)と言われている。 正和5年(1316年)7月25日、51歳にて死去した。法名は蓮昇、法号は興禅寺。.
安土桃山時代
安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。.
安国寺 (壱岐市)
安国寺(あんこくじ)は、長崎県壱岐市芦辺町深江栄触にある臨済宗大徳寺派の寺院。.
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安達盛宗
安達 盛宗(あだち もりむね)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。安達氏の一族で、安達泰盛の子。.
宋 (王朝)
宋(そう、拼音 Sòng、960年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。国号の宋は趙匡胤が宋州(河南省商丘県)の帰徳軍節度使であったことによる。通常は、金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋、南宋もともに、宋、宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分し易い歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区別し難い分野を本記事で解説する。.
寧波市
寧波市(ねいはし、ニンポーし、、、、呉語寧波弁:Ning Pou)は、中華人民共和国浙江省に位置する副省級市、計画単列市に指定されている。長江デルタ南翼経済中心、浙江省経済中心。 沿海部の港湾都市として商工業が発達しているが、同時に古い歴史を誇り国務院から国家歴史文化名城に指定されている。年間貨物取扱量が世界一の港ー寧波港の所在地。.
寺社
寺社(じしゃ)は、日本における寺院と神社の総称である。社寺(しゃじ)あるいは神社仏閣(じんじゃ ぶっかく)とも呼ばれる。 寺社という言葉は江戸時代までの仏主神従の考えによるもので、一方、社寺という言葉は平安時代頃から使われた形跡があるが、主に神社優先の考えに基づいた明治期以降に多く使われた。.
対馬
対馬(つしま)は、日本の九州の北方の玄界灘にある、長崎県に属する島である。面積は日本第10位である国立天文台編『平成19年 理科年表』p.565 ISBN 4621077635。島内人口は3万1105人である(2018年4月現在)。.
対馬国
対馬国(つしまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
寛喜
寛喜(かんぎ、かんき)は、日本の元号の一つ。安貞の後、貞永の前。1229年から1231年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.
封建制
封建制(ほうけんせい)は、君主の下にいる諸侯たちが土地を領有してその土地の人民を統治する社会・政治制度。諸侯たちは、領有統治権のかわりに君主に対して貢納や軍事奉仕などといった臣従が義務づけられ、領有統治権や臣従義務は一般に世襲される。日本史においては主に、鎌倉時代から江戸時代にかけての「武家の世」の社会・政治制度を表す言葉として用いられている。封建制は、中国古代の統治制度に由来する概念であるとともに、ヨーロッパ中世の社会経済制度であるフューダリズムの訳語でもあり、2つの意味が相互に影響している面もある。 中国では、封建制と郡県制の是非について「歴千百年」の議論が続いた。日本では中国古典とともに封建制の概念も持ち込まれ、頼山陽など江戸時代の知識人は、鎌倉幕府成立以来の武家政権体制を中国古代と似たものと考え、封建制の概念を用いて日本史を論じた。明治維新で実施された版籍奉還や廃藩置県には、こうした頼山陽らの封建制についての議論が影響している。一方、ヨーロッパ特にドイツでは、中世を特徴づける社会経済制度としてフューダリズム(ドイツ語:Feudalismus、英語:Feudalism)やレーエン(ドイツ語:Lehen)が盛んに研究されていた。明治時代半ばにレーエンを中心にフューダリズムが日本に紹介されると、フューダリズムと封建制は類似しているとされ、フューダリズムの訳語として封建制が用いられるようになった。その後、ドイツの歴史学派による経済発展段階説やマルクス経済学の唯物史観が日本に紹介されると、封建制(フューダリズム)は農奴制に結びつく概念となった。.
小城郡
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小呂島
小呂島(おろのしま)は、玄界灘上にある福岡県福岡市西区の島(離島)である。.
小茂田浜神社
小茂田浜神社(こもだはまじんじゃ)は、長崎県対馬市厳原に鎮座する神社である。対馬西南海岸に位置し、元寇(文永の役)の際に元・高麗連合軍が上陸した地にあたる。.
少弐経資
少弐 経資(しょうに つねすけ)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。少弐資能の子。少弐氏3代当主。.
少弐資能
少弐 資能(しょうに すけよし)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将・御家人。少弐氏2代当主。.
少弐資時
少弐 資時(しょうに すけとき)は、鎌倉時代中期の武将。少弐経資の長男。壱岐国守護代。.
少弐氏
少弐氏(しょうにし)は、日本の氏族の一つ。筑前、肥前など北九州地方の御家人・守護大名。藤原北家秀郷流と称した武藤氏の一族。.
少弐景資
少弐 景資(しょうに かげすけ)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。少弐資能の三男。.
屠寄
屠 寄(と き、Tu Ji、1856年 - 1921年)。字は敬山または景山。清末から中華民国にかけての歴史家、地理学者。 江蘇省武進出身。1888年、張之洞の幕下に入り、広東輿図局総纂となって『広東輿地図』を編集し、併せて広雅書局編審となった。1892年に進士となり、翰林院庶吉士、浙江省淳安県知県、工部候補主事を歴任した。1895年、欽差大臣延茂之の招きに応じて黒龍江に赴き、10月にはチチハルに到着した。1896年、延茂之は北京に戻ることとなったが、会典館に黒龍江の地図の製作の必要性を訴えた。黒龍江将軍の恩沢は屠寄を黒龍江輿図総纂として留め置き、測量事業にあたらせることを上奏した。間もなくして輿図総局は通志局と改められ、屠寄が通志局総纂となった。1898年に略図が完成し、2年後に『黒龍江図説』が完成した。しかし『黒龍江通志』は諸々の事情で完成しなかった。辛亥革命後には武進県民政長となり、後には北京大学国史館総纂となった。著作には『常州駢体文録』『蒙兀児史記』がある。後者は『元朝秘史』や西方の史料を参照して『元史』の本紀・列伝・世系表・地理志を補ったものである。 Category:清代の人物 き Category:中華民国の学者 category:中国の歴史学者 Category:常州出身の人物 Category:1856年生 Category:1921年没.
屯田
屯.
山城国
山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.
山口修 (歴史学者)
山口 修(やまぐち おさむ、1924年2月22日 - 1998年9月13日)は、日本の東洋史学者、聖心女子大学名誉教授。.
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山陰道
山陰道(さんいんどう、せんいんどう、そとものみち)は、五畿七道の一つ。本州日本海側の西部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。.
山陽道
山陽道(さんようどう、かげとものみち)は、五畿七道の一つである。 本州西部の瀬戸内海側の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。 行政区分としては、影面道、光面道(かげとものみち)、または中国(ちゅうごく)とも称された。 街道においては江戸時代を中心に、.
島津久経
島津 久経(しまづ ひさつね)は鎌倉時代中期の武将。島津氏の第3代当主。鎌倉幕府御家人。第2代当主・島津忠時の嫡男(次男)。初名は久時。.
川添昭二
川添 昭二(かわぞえ しょうじ、1927年3月10日 -2018年3月22日)は、日本の歴史学者、九州大学名誉教授。.
巨福呂坂
巨福呂坂(旧道)を南側(鎌倉方面)から望む(2004年11月9日撮影) - このすぐ奥は、私有地のため通行できなくなっている 巨福呂坂洞門(新道)を南側(鎌倉方面)から望む(2004年11月9日撮影) - 1993年5月に竣工した落石防護施設。 巨福呂坂(こぶくろざか)は、神奈川県鎌倉市に存在する切通しで鎌倉七口のひとつ。小袋坂とも書く。鶴岡八幡宮裏手の雪ノ下から山之内(現在のJR北鎌倉駅付近)を結ぶ道。.
巨済島
巨済島(きょさいとう、コジェド)は大韓民国の慶尚南道巨済市に属し、同市の大部分を占める島。釜山広域市の南西に位置する。面積は約 400 km2 で、韓国では済州島に次いで2番目に大きな島である。巨済島と日本の対馬との間は朝鮮海峡(対馬海峡西水道)が最も狭隘になる場所で、日本との関係も深い。 主な産業は造船と漁業。.
丞相
丞相(じょうしょう)は、古代中国の戦国時代以降のいくつかの王朝で、君主を補佐した最高位の官吏を指す。今日における、元首が政務を総攬する国(大統領制の国や君主が任意に政府要職者を任命できる国)の首相に相当する。.
帝国書院
株式会社帝国書院(ていこくしょいん)は、地図帳、社会科、地理歴史科用教科書などを主力商品とする出版社。.
師守記
師守記(もろもりき)は、日本の南北朝時代の日記。筆者は公家の中原師守。紙背は全て紙背文書。国立国会図書館に64巻が所蔵されている。 記述は暦応2年(1339年)から応安7年(1374年)にまで及んでいるが、所々に欠落があり、貞和5年(1349年)以降は顕著となる。また筆者の師守は応安3年(1370年)前後に没したと言われており、文脈や筆跡もその前後で相違が見られるので、応安以降の記述は別人の手によるものである可能性がある。 中原氏は代々外記を世襲した家柄で、筆者の師守も北朝で権少外記の役職にあったため、北朝の朝議や記録所関係の記述が精細である。 師守は外記に就任する前は大炊頭にあり、役職の関係から大炊寮領を統治しており、大炊寮を中心に、公領の経営やそこで起こった出来事に関する記述も多々ある。 師守の兄中原師茂は権大外記の役職にあり、師守は兄師茂を「家君」と称し、師茂の視点から書かれたような記述が多く散見される。そのため「師茂記」とも呼ばれることがある。 南北朝の戦争、公武間の軍事、また巷間での出来事に関する記述まで豊富な情報が収められているので、『園太暦』と並び、南北朝時代の一級史料として、貴重な扱いを受けている。『太平記』の研究においても、『園太暦』と並び貴重、有用な史料として重用される。.
中央区 (福岡市)
中央区(ちゅうおうく)は、福岡市を構成する7区の行政区の一つである。 福岡市役所所在地。ただし福岡県庁は博多区にある。.
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中央アジア
東南アジア 中央アジアのいくつかの定義。狭い順に濃茶: ソ連の定義+茶: 現代的な定義+淡茶: UNESCOの定義 中央アジアの位置 中央アジア(ちゅうおうアジア)は、ユーラシア大陸またアジア中央部の内陸地域である。18世紀から19世紀にかけては一般にトルキスタンを指したが、現在でも使用される。トルキスタンとは「テュルクの土地」を意味し、テュルク(突厥他)系民族が居住しており、西トルキスタンと東トルキスタンの東西に分割している。 西トルキスタンには、旧ソ連諸国のうちカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5か国が含まれる(以下、中央アジア5か国と記す)。 東トルキスタンは中華民国に併合されて以降、新疆省と成り、中華人民共和国に併合されて以降は新疆ウイグル自治区と成った。中国領トルキスタン、ウイグルスタンともいう。 広義には、「アジアの中央部」を意味し、東西トルキスタンのほか、カザフステップ、ジュンガル盆地、チベット、モンゴル高原、アフガニスタン北部、イラン東部、南ロシア草原を含む。UNESCOはトルキスタン以外にも、モンゴル地域、チベット地域、アフガニスタン、イラン北東部、パキスタン北部、インド北部、ロシアのシベリア南部などを中央アジア概念の中に含めている。.
中国
中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.
中国大陸
中国大陸(ちゅうごくたいりく、Mainland China)とは、台湾(中華民国)・香港・マカオを除いて、中華人民共和国が実際支配及び直接統治するアジア大陸(ユーラシア大陸東部)の広い陸地(亜大陸)である。古くは日本列島と地続きであった。本項では、中華人民共和国成立以前の日本語圏の中国関連分野と今の中国語圏での政治的な意味合い、この二つの事を含む用法について詳述する。.
中国地方
中国地方(ちゅうごくちほう)は、本州の西部に位置する、日本の地域のひとつ。 鳥取県・島根県・岡山県・広島県・山口県の5県より構成される『日本地名大百科』、小学館、1996年、p.730 ISBN 4-09-523101-7。なお、行政上の管轄としては気象庁は山口県を除き、海上保安庁は山口県西北部、国土交通省海事事務所は下関市を除く。.
中統
中統(ちゅうとう)は、モンゴル帝国の大ハーン・クビライ(元の世祖)の治世で用いられた元号。1260年旧5月 - 1263年(1264年旧8月)。.
中村登
中村 登(なかむら のぼる、1913年8月4日 - 1981年5月20日)は、東京府東京市下谷区根岸(現東京都台東区)出身の映画監督。.
中書省
中書省(ちゅうしょしょう)は、中国で魏代から明代初期まで存在した中央官庁の名称。主に詔勅の立案・起草を司った。.
常立寺
常立寺(じょうりゅうじ)は神奈川県藤沢市片瀬に建つ日蓮宗の寺。山号は龍口山。北条時宗の命により処刑された杜世忠ら元国使の塚がある事で知られる。また枝垂れ梅の名所としても知られ、梅がほころぶ初春には多くの観光客が訪れる。旧本山は身延山久遠寺。潮師法縁。.
丘陵
丘陵(きゅうりょう)とは、なだらかな起伏や小山(丘)の続く地形のことである。地形学では高度や起伏が山より小さく、台地より大きいものを指す。.
市舶司
市舶司(しはくし)は、中国において唐代から明代の間設置された、海上貿易関係の事務を所管する官署のこと。 唐代玄宗の開元2年(714年)に貿易港として栄えていた広州に設置されたのが始まりで、市舶使や押蕃舶使などを長とし、刺史や節度使が兼任することもあった。宋代に入って南海貿易が発展すると、それに伴って制度の改革整備が進み、広州に加えて泉州や明州(現在の寧波)などにも置かれるようになった。 職務は内外商人の出入国の手続きや保護・取り締まり、貨物の検査、徴税、禁制品の取り締まり、官買品の買い上げ、外国使節の接待など、非常に広範なものであった。 元代には市舶提挙司と呼ばれ、明代にも広州、泉州、寧波に市舶提挙司が置かれた。ただ、明は朝貢制度をとり、一方で倭寇を防ぐ意味もあって外国人との貿易や海外渡航を禁止する海禁政策を採っていた。そのために市舶司の貿易に果たす役割は小さくなり、貿易の多くは密貿易によって行われていた。清代にも初期には市舶司が置かれていたが、1685年に海関が設置されると海関に機能を統合、市舶司は廃止される。.
三井資長
三井 資長(みい/みつい すけなが、生没年不詳)は、鎌倉時代中期の武将。通称は三郎。長門国の守護代三井氏の一族と見られる。妻は『蒙古襲来絵詞』で知られる竹崎季長の姉。 文永の役で義弟の竹崎季長と共に蒙古軍と戦い、資長・季長と郎従3人の総勢わずか五騎で赤坂から敗走する蒙古兵を追い、祖原山から出撃した蒙古軍に突入して矢傷を負った。 季長が鎌倉の安達泰盛邸で戦功を訴えた際に、季長・資長と郎従が手傷を負った事が述べられている。 『蒙古襲来絵詞』前巻【絵六】右側の騎馬武者が三井資長.
三別抄
三別抄(さんべつしょう、朝:삼별초)は、高麗王朝の軍事組織。崔氏政権(武臣政権)において、林衍(イム・ヨン)ら時々の実権を握った者の私兵として、しばしば政敵の暗殺や現代でいう所のクーデターのための武力として用いられた。後に、高麗のモンゴル軍の襲撃に際しては事実上の国軍に発展したとも言われる。.
三韓征伐
三韓征伐(さんかんせいばつ)は、神功皇后が新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争を指す。神功皇后は、仲哀天皇の后で応神天皇の母である。経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されているが、朝鮮や中国の歴史書にも関連するかと思われる記事がある。新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐と言う場合もある。吉川弘文館の『国史大辞典』では、「新羅征討説話」という名称で項目となっている。ただし三韓とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示し高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられる。.
一山一寧
一山一寧(いっさん いちねい、宝治元年(南宋の淳祐7年、1247年) - 文保元年10月24日(1317年11月28日))は元の渡来僧。寧一山ともいう。.
一代要記
一代要記(いちだいようき)は、年代記の一つ。著者不詳。後宇多天皇の時に成立し、鎌倉時代末から南北朝時代初期まで書き継がれた。水戸徳川家による『大日本史』の史料探索中、延宝年間に金沢文庫本を発見し、10冊に書写して世間に流布した。 春夏秋冬の全4冊から成り(流布本は10巻)、その内訳は春冊が神代~醍醐天皇、夏冊が朱雀天皇~高倉天皇、秋冊が安徳天皇~後嵯峨天皇、冬冊が後深草天皇~花園天皇となっているが、中間及び尾部を欠くため最後は明らかではない。内容は書名のとおり、各天皇ごとに諡号あるいは追号を掲げて、略歴や在位中の出来事の摘要を編年体で記し、さらに上皇・皇太子・後宮・斎宮・摂関・大臣・大納言・参議・蔵人頭・皇子女などの各項を設けて、該当者の人名を記している。各天皇と皇子女が系線で結ばれ、一大皇室系図になっている特徴があるが、流布本の中には系線が略されているものもある。流布本の祖本である金沢文庫本は東山文庫に現存し、その断簡は高松宮が所蔵する。なお、高松藩主松平頼恕は国学者の友安三冬らに命じて、本書の後を継ぐ『歴朝要紀』を編纂させ、朝廷に献上した。.
一遍
一遍(いっぺん、延応元年(1239年) - 正応2年(1289年))は鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。.
一遍聖絵
一遍聖絵」第7巻 四条釈迦堂 一遍聖絵(いっぺんひじりえ)または、一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん) は、伊予国(現在の愛媛県)に生まれ浄土宗を修めたのち、新しく独自の宗旨である時宗を興した開祖一遍(遊行上人)を描いた絵巻。国宝。.
一騎討ち
一騎討ち 一騎討ち(いっきうち)とは、戦争状態にある戦場において戦士同士が一対一を原則として決着をつける戦闘手法である。一騎打ち(いっきうち)とも表記される。.
九州
九州(きゅうしゅう)は、日本列島を構成する島の一つで島国 (領土がすべて島から成る国)である日本を構成する6,852の島に対する『国土交通省』による区分け ⇒ 6,852島(本土5島・離島6,847島)。<出典>『国土交通省』サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識) 2009年11月27日閲覧。ただし、島について地理学上はこのような分類・区分けはない。、その南西部に位置する。 北海道・本州・四国とともに主要4島の一つでもあり、この中では3番目に大きい島で【参考】 日本の島の面積順に上位10島 ⇒ 本州、北海道、九州、四国、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬。 国立天文台 (編)理科年表 平成19年版 P565、ISBN 4621077635。、世界の島の中では、スピッツベルゲン島(ノルウェー)に次ぐ第37位の大きさである。 地質学や考古学などでは九州島という名称も使用される。 九州とその付随する島を合わせて九州地方(きゅうしゅうちほう)と言う。九州の最高標高は1,791メートル (m) で、大分県の九重連山・中岳の標高である。また、九州地方の最高標高は1,936 mで、鹿児島県の屋久島・宮之浦岳の標高である。(「#地理」および「日本の地理・九州」を参照) 九州には7つの地方公共団体(県)があり、7県総人口は13,108,027人、沖縄県を含めた8県総人口は14,524,614人である。都道府県の人口一覧#推計人口(右表 九州地方のデータ参照) 九州の古代の呼称は、「筑紫島」・「筑紫洲」(つくしのしま)である(#歴史書における呼称)。.
九州千葉氏
九州千葉氏(きゅうしゅうちばし)は、桓武平氏の末裔の一族である千葉氏の支族の一つ。.
九州大学総合研究博物館
九州大学総合研究博物館(きゅうしゅうだいがくそうごうけんきゅうはくぶつかん)は、学内共同教育研究施設として九州大学が設置・運営している博物館である。.
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九州国立博物館
九州国立博物館(きゅうしゅうこくりつはくぶつかん)は、福岡県太宰府市石坂にある歴史系の博物館。独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館の1つで、2005年10月16日に開館。太宰府天満宮裏で、同宮所有の丘陵地に建設された。通称「九博」(きゅうはく)。館長は島谷弘幸。.
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干支
干支(かんし、えと、中国語:干支、ピンイン:gānzhī)は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。暦を始めとして、時間、方位などに用いられる。六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。.
平成
平成(へいせい)は日本の元号の一つ。昭和の後。今上天皇在位中の1989年(平成元年)1月8日から現在に至る。2001年(平成13年)の始まりには西暦における20世紀から21世紀への世紀の転換もあった。2019年(平成31年)4月30日に今上天皇退位により終了する予定であり、予定通り終了した場合、30年113日間(=11,070日間)にわたることとなる。なお、日本の元号では昭和(64年)、明治(45年)、応永(35年)に次いで4番目の長さである(5番目は延暦の25年)。 西暦2018年(本年)は平成30年に当たる。本項では平成が使われた時代(平成時代)についても記述する。.
平戸島
平戸島(ひらどじま)は、長崎県北部、北松浦半島の西海上にある島。全域が長崎県平戸市に属する。面積163.42kmは、島としては日本で20番目、長崎県で4番目の面積である。.
平景隆
平 景隆(たいら の かげたか、? - 文永11年10月15日(1274年11月14日))は、鎌倉時代中期の九州の武士。壱岐国の守護代。贈正四位。通称は内佐衛門。平経高、平景高とも。 壱岐国の守護は少弐氏で、景隆はその家人であったと考えられる。『八幡愚童訓』によれば、文永の役の文永11年(1274年)10月14日申の刻(午後4時から6時頃) 、蒙古軍が壱岐島の西岸に上陸すると、景隆は百余騎の武士を率いて馳せ向かい、庄三郎という者の城の前で矢を射かけて蒙古軍を迎え撃った。しかし圧倒的大軍で押し寄せる蒙古軍にたちまち追い詰められ、景隆らは守護所の詰城である樋詰城に立て籠もった。日没とともに蒙古軍は船団に引き上げ、翌日景隆が篭る樋詰城を攻撃、景隆一同は城中で自害した。景隆の下人の宗三郎が博多へ渡ってこのことを報告した。景隆の自害により蒙古軍は壱岐を制圧し、多数の島民が殺害された。 明治維新後、全国的に忠臣の顕彰運動が高まり、刀伊の入寇、弘安の役の戦死者とともに新城神社(長崎県壱岐市勝本町)に祀られた。 1896年(明治29年)11月2日には、正四位が追贈された。.
幕府
幕府(ばくふ)は、日本の中世及び近世における征夷大将軍などの武家の最高権力者を首長とする武家政権のことをいう。あるいはその武家政権の政庁、征夷大将軍の居館・居城を指す名称としても用いられる。近衛大将の唐名。.
幕末
幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.
交趾
交趾(こうち、こうし).
享保
享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.
京都
京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.
京都大学総合博物館
京都大学総合博物館(きょうとだいがくそうごうはくぶつかん) は、京都大学の学内共同教育研究施設で、1997年(平成9年)に過去100年にわたり蓄積されてきた学術標本、教育資料260万点を、分類登録し、その基礎研究を行うとともに、それをデータベース化し、また広く教育に活用するとともに一般にも公開するという目的で設置された。教官9名、事務官4名でスタートしたが、現在教官は2人減の7名で運営されている。.
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二月騒動
二月騒動(にがつそうどう)は、鎌倉時代中期の文永9年(1272年)2月、蒙古襲来の危機を迎えていた鎌倉と京で起こった北条氏一門の内紛。鎌倉幕府8代執権・北条時宗の命により、謀反を企てたとして鎌倉で北条氏名越流の名越時章・教時兄弟、京では六波羅探題南方で時宗の異母兄北条時輔がそれぞれ討伐された。 北条氏の嫡流を争う名越流と異母兄時輔を討伐した事で、執権時宗に対する反抗勢力が一掃され、得宗家の権力が強化された。.
広橋兼仲
広橋 兼仲(ひろはし かねなか)は、鎌倉時代後期の公卿。『民経記』の著者広橋経光の次男。勘解由小路 兼仲(かでのこうじ かねなか)の名で知られている。日記『勘仲記』の著者。.
予章記
『予章記』(よしょうき)とは、中世に伊予の国を根拠として栄えた越智氏一族の河野氏が、自らの氏族の来歴を記した文書である。.
五代帝王物語
『五代帝王物語』(ごだいていおうものがたり)は、鎌倉時代後期に書かれた編年体の歴史物語。『五代記』・『五代王記』・『五代帝王記』などの異名がある。作者は未詳である。 題名の「五代」とは、後堀河・四条・後嵯峨・後深草・亀山の各天皇を指す。『六代勝事記』の後を継ぐ形式で執筆されているが、実際には最初の2代の天皇の記事が少なく、最後の亀山天皇の記事も後嵯峨法皇の葬儀に関する一連の行事とともに終えていることから、後嵯峨天皇(法皇)の側近による作品だと言う説もある。また、のちに伏見天皇となる熈仁親王の存在(後深草天皇の子、亀山天皇の皇太子(後宇多天皇)の即位後、後深草上皇の働きかけで皇太子に立てられた)を知りながら、その存在を過小に書いていることから、著者を亀山天皇とその子孫である大覚寺統を支持していたと見る向きもある。 なお、のちに『増鏡』が執筆された折に『五代帝王物語』を参照して描かれたと考えられる部分が存在する。 Category:歴史物語 Category:鎌倉時代の歴史書 Category:鎌倉時代の文学.
五輪塔
西大寺奥の院) 五輪塔(ごりんとう)は、主に供養塔・墓として使われる塔の一種。五輪卒塔婆とも呼ばれる。 一説に五輪塔の形はインドが発祥といわれ、本来舎利(遺骨)を入れる容器として使われていたといわれるが、インドや中国、朝鮮に遺物は存在しない。日本では平安時代末期から供養塔、供養墓として多く見られるようになる。このため現在では経典の記述に基づき日本で考案されたものとの考えが有力である。 教理の上では、方形の地輪、円形の水輪、三角の火輪、半月型の風輪、団形の空輪からなり、仏教で言う地水火風空の五大を表すものとする。石造では平安後期以来日本石塔の主流として流行した。五輪塔の形式は、石造では、下から、地輪は方形(六面体)、水輪は球形、火輪は宝形(ほうぎょう)屋根型、風輪は半球形、空輪は宝珠型によって表される。密教系の塔で、各輪四方に四門の梵字を表したものが多い。しかし早くから宗派を超えて用いられた。 石造のものは石造美術の一分野として重要な位置を占める。.
井上靖
井上 靖(いのうえ やすし、1907年(明治40年)5月6日 - 1991年(平成3年)1月29日)は、日本の小説家。文化功労者、文化勲章受章。.
亀山天皇
亀山上皇像(福岡市博多区、東公園) 亀山天皇(かめやまてんのう、建長元年5月27日(1249年7月9日) - 嘉元3年9月15日(1305年10月4日))は、鎌倉時代の第90代天皇(在位:正元元年11月26日(1260年1月9日) - 文永11年1月26日(1274年3月6日))。諱は恒仁(つねひと)。 後嵯峨天皇の第七皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。后腹では後深草天皇に次ぐ次男。大覚寺統の祖。父母から鍾愛され、兄の後深草天皇を差し置いて治天の君となり、やがて亀山系の大覚寺統と後深草系の持明院統との対立が生じる端緒となった。.
今宿 (福岡市)
今宿(いまじゅく)は、福岡市西区の地名。旧筑前国志摩郡、福岡県糸島郡。.
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今谷明
今谷 明(いまたに あきら、 1942年 - )は、日本の歴史学者。帝京大学文学部特任教授、国際日本文化研究センター名誉教授。専門は中世日本史。 京都市出身。官僚を経験した後に歴史学者に転じた。戦国時代における天皇の権威が、従来の説で論じられていたよりも強かったと主張する一連の著作で知られる。近年は、ヨーロッパ・オリエントの封建制と日本中世の封建制との比較研究もおこなっている。.
今津村 (福岡県)
今津村(いまづむら)は、福岡県糸島郡にあった村。旧・筑前国。福岡市へ編入され、現在は西区の一部となっている。.
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仏教
仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.
延宝
延宝(えんぽう、旧字体: 延寳)は日本の元号の一つ。寛文の後、天和の前。1673年から1681年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱、徳川綱吉。.
延祐
延祐(えんゆう)は、中国・元の仁宗アユルバルワダの治世で用いられた元号。1314年 - 1320年。.
延暦寺
延暦寺(えんりゃくじ、正字: 延曆寺)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。.
建長寺
建長寺(けんちょうじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山。山号を巨福山(こふくさん)と称し、寺号は詳しくは建長興国禅寺(けんちょう こうこく ぜんじ)。 鎌倉時代の建長5年(1253年)の創建で、本尊は地蔵菩薩。開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼、開山(初代住職)は南宋の禅僧・蘭渓道隆で、第二世は同じく南宋の兀庵普寧である。鎌倉五山の第一位。境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定。.
建治
建治(けんじ)は、日本の元号の一つ。文永の後、弘安の前。1275年から1277年までの期間を指す。この時代の天皇は後宇多天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、執権は北条時宗。.
建文
建文(けんぶん)は中国、明代の元号(1399年 - 1402年)。第2代皇帝恵帝(恵宗)の在位中に使われた。このため恵宗は建文帝と呼ばれる。 建文の元号は、建文帝から帝位を簒奪した永楽帝によって非公式化されていた時期があった。すなわち、永楽帝の即位後、建文4年7月1日に、建文元年を洪武32年、建文2年を洪武33年、建文3年を洪武34年、建文4年を洪武35年とし、洪武35年の翌年を永楽元年とした。その後、万暦帝によって万暦23年(1595年)に建文の年号が復活された。.
伊原敏郎
伊原 敏郎(いはら としお)、1870年5月24日(明治3年4月24日) - 1941年(昭和16年)7月26日)は、日本の演劇評論家、劇作家。青々園(せいせいえん)という筆名を使用したため、伊原青々園としても知られる。.
伊万里湾
伊万里湾(いまりわん)は、玄界灘の南西部、佐賀県と長崎県に跨る湾である。沿岸は佐賀県伊万里市・唐津市および長崎県松浦市に属する。.
伊予国
伊予国(いよのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。.
伊勢神宮
伊勢神宮(いせじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社。なお「伊勢神宮」とは通称であり、正式名称は地名の付かない「神宫(じんぐう)」法人としての名称も「神宮」であり、事務をつかさどる機関として「神宮司庁」がある。主たる事務所の所在地は伊勢市宇治館町1番地(神宮司庁の所在地)。。他の神宮と区別するため「伊勢の神宮」と呼ぶこともあり、親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称される。神社本庁の本宗(ほんそう)である。 二十二社(上七社)の一社。また、神階が授与されたことのない神社のひとつ神宮で神階が無いのは、伊勢神宮と日前神宮、國懸神宮の3宮だけである。。古代においては宇佐神宮、中世においては石清水八幡宮と共に二所宗廟のひとつとされた。明治時代から太平洋戦争前までの近代社格制度においては、すべての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされた。.
伊豆国
伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
弥生時代
弥生時代(やよいじだい)は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる。 2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があった。しかし、その後研究がすすめられた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきている。 弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海、北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内に倭国が成立。3世紀中頃古墳時代に移行した。.
弦
弦(げん)とは.
弩
西安市から出土した秦代の弩(陝西省歴史博物館所蔵) 弩(ど、おおゆみ)は、東アジア、特に中国において古代から近世にかけて使われた射撃用の武器の一種。「いしゆみ」と訓ずることも少なくないが、これは厳密には正しくはなく、石弓と混同されたものと思われる。.
伯耆国
伯耆国(ほうきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
弘安
弘安(こうあん)は、日本の元号の一つ。建治の後、正応の前。1278年から1287年までの期間を指す。この時代の天皇は後宇多天皇、伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、執権は北条時宗、北条貞時。.
弘安四年日記抄
弘安四年日記抄(こうあん4ねんにっきしょう)は、壬生官務家旧蔵の弘安4年(1281年)の日記の写し。原題などは不詳。壬生官務家日記抄(みぶかんむけにっきしょう)とも。壬生顕衡の日記を子孫の兼治が書写したものと推定されている。全1巻。.
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張世傑
張 世傑(ちょう せいけつ、生年不詳 - 1279年)は、南宋末期の軍人。文天祥や陸秀夫と共に南宋の三忠臣(亡宋の三傑)の一人。.
引付衆
引付衆(ひきつけしゅう)は、鎌倉幕府の職名の一つ。.
住吉大社
住吉大社(すみよしたいしゃ)は、大阪府大阪市住吉区住吉にある神社。式内社(名神大社)、摂津国一宮、二十二社(中七社)の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 全国にある住吉神社の総本社である。本殿4棟は国宝に指定されている。.
佐志房
佐志 房(さし ふさし、生年未詳 - 文永10年(1274年)10月)は鎌倉時代中期の武将。松浦党。肥前国松浦郡佐志村の地頭。 鎌倉幕府より将軍家下文を受け、東国御家人に準ずる存在として地頭を務める。元寇において、文永10年(1274年)10月16日、文永の役で佐須浦に3万数千人の蒙古軍が現れた。松浦党は松浦郡で蒙古軍と戦ったと見られ、数百人が犠牲となり、佐志房と子息の直(なおす)、留(とむる)、勇(いさむ)も討ち死にした。その後、遺領をめぐって直の子熊太丸と勇の娘久曽(くそ)が争っている。(『有浦文書』弘安2年10月8日関東下知状).
佐藤次高
佐藤 次高(さとう つぎたか、1942年8月 - 2011年4月11日)は、歴史学者。専門はアラブ・イスラム史。2000年恩賜賞・日本学士院賞受賞。1973年流沙海西奨学会賞。東京大学名誉教授。(財)東洋文庫研究部長、(財)史学会理事長、早稲田大学文学学術院教授などを歴任。.
征東等処行中書省
征東等処行中書省(せいとうとうしょこうちゅうしょしょう、征東行省ともいう)は、モンゴル帝国(後の元)が高麗を従属させた後に、政治と軍事を統括するために設置した機関で、行中書省の一つ。日本攻略の前線機構とされたことから日本行省または征日本行省とも称される。1次2次の征東行省では次官の行省左丞相に高麗王が就き税賦も行省内で運用された。1290年前後に行省が常設組織へ変わると、税賦を中央に納め他の行中書省と同じく高麗地区の行政と統治を担うこととなった。高麗は第23代高宗の1258年に元の属国となり、その後、元の支配が更に強まり元朝の領土となった。恭愍王時代の1356年に元の衰退とともにその支配を脱して高麗国が再興されたが、その間の時代は征東等処行中書省が置かれ、3代の高麗王が元朝の行政官によって廃位させられている。.
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御家人
御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.
御家人領
御家人領(ごけにんりょう)は、中世日本、特に鎌倉幕府における御家人の所領・所職を指す。.
徳川光圀
徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。 諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。.
徳政令
徳政令(とくせいれい)とは、日本の中世、鎌倉時代から室町時代にかけて、朝廷・幕府などが土倉などの債権者・金融業者に対して、債権放棄(債務免除)を命じた法令である。.
後宇多天皇
後宇多天皇(ごうだてんのう、文永4年12月1日(1267年12月17日) - 元亨4年6月25日(1324年7月16日)は、鎌倉時代の第91代天皇(在位:文永11年1月26日(1274年3月6日) - 弘安10年10月21日(1287年11月27日 ))。諱は世仁(よひと)。.
後嵯峨天皇
後嵯峨天皇(ごさがてんのう、承久2年2月26日(1220年4月1日) - 文永9年2月17日(1272年3月17日))は、鎌倉時代の第88代天皇(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日) - 寛元4年1月29日(1246年2月16日))。諱は邦仁(くにひと)。 土御門天皇の皇子。母は、源通宗の娘、通子。.
後深草天皇
後深草天皇(ごふかくさてんのう)は、鎌倉時代中期の第89代天皇(在位:寛元4年1月29日(1246年2月16日) - 正元元年11月26日(1260年1月9日))。諱は久仁(ひさひと)。 後嵯峨天皇の皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。持明院統の祖。父母が自身より弟の亀山天皇を寵愛し、亀山天皇を治天の君としたことに不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立が生じる端緒となった。.
侵攻
侵攻(しんこう、invasion)とは、ある国家・武装勢力が別の国家・武装勢力に対して攻撃を仕掛けて、その領土・勢力圏を侵す行為を指す軍事学上の用語。 自衛の対義語である国際法用語としての侵略(aggression)とは異なり、必ずしも相手方の主権や政治的独立を一方的に侵す目的とは限らない、価値中立的な概念である。戦争自体が自衛目的かどうかとは関わらないので、たとえ戦争全体が侵略戦争にあたる場合であっても、その中で行われる個別の軍事行動について敵国領土への攻撃かどうかによって判断して、侵攻と呼ぶこともできる。なお、「侵略」の語についても、純軍事学的観点から、侵攻と同義に用いることもある。 侵攻の手段としては、陸海空の様々な手段が用いられる。これら侵攻に対して相手方が行う抵抗としての対応を、広くは防衛と呼んでいる。.
得宗
得宗(とくそう)は、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。徳崇、徳宗とも(読みは同じ)。幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える。「得宗」とは2代義時に関係する言葉で、研究者によって義時の別称、戒名、追号など意見が異なる。近年では「徳崇」の当て字・略字で、禅宗に帰依した5代時頼が、浄土宗系の宗派を信仰していた義時に贈った禅宗系の追号の可能性が指摘されている。義時流、得宗家という呼び方もある。史料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。.
従属国
従属国(じゅうぞくこく、Client state)は、事実上、政治的、経済的に従属関係にある国。 狭義では、付庸国と被保護国を意味する。属国(ぞっこく)ともいう。.
忠州市
忠州市(チュンジュし)は大韓民国忠清北道の市。道庁所在地の清州市に続く道内第2の都市である。朝鮮王朝時代には忠清道の中心であった。忠清は忠州と清州を意味する。市のブランドイメージは「Good Chungju」で、Goodの部分はGreat Opportunity Open Developmentを意味する。.
忠烈王
忠烈王(ちゅうれつおう、1236年4月3日 - 1308年7月30日)は第25代高麗王(在位1274年 - 1298年、復位1298年 - 1308年)。 第24代高麗王元宗の子。諱は昛、初名は諶、賰、諡号は忠烈景孝大王。1260年に世子となり、1271年6月に元に婚姻の許諾を得て、クビライの公主忽都魯掲里迷失(クトゥルク=ケルミシュ)斉国大長公主。『元史』巻109・諸公主表では「斉国大長公主忽都魯堅迷失」とある。後の荘穆王后。『高麗史』巻89・后妃伝巻2によると、皇帝クビライと阿速真可敦という皇后との娘。生母である阿速真可敦については、現在『集史』クビライ・カアン紀に記載されているクビライの第8皇子アヤチ(アバチ)と第9皇子ココチュの生母であったフウシン部族のボロクル(ムカリをはじめとするいわゆる「チンギス・カンの四駿(Dörben Külü'üd)」のひとり)の娘、フウシジン皇后 Hūshījīn Khātūn との比定が試みられているが、確定には至っていない。(森平雅彦「高麗王家とモンゴル皇族の通婚関係に関する覚書」『東洋史研究』67-3、2008年)旧妃は始安公絪娘 貞和宮主と淑昌院妃であるが、荘穆王后との婚姻後には王は旧妃に近寄らなくなったという。(『高麗史』巻89・后妃伝巻2「貞和府主」条および「淑昌院妃」条)を娶り、翌年に帰国。再び元に戻り、元宗死後に再び帰国し、王位についた。 文永の役・弘安の役においては元に日本侵攻を進言し、兵力と経費を提供する「高麗史」に詳細に記述されている。『高麗史』 巻27・世家27・元宗世家3 元宗十三年 三月己亥 条の中書省牒に載る世子 諶の言葉に、「吾父子相継朝覲、特蒙恩宥小邦人民(中略) 既諶連年入覲毎荷皇恩区区之忠益切致効。惟彼日本 未蒙聖化 故発詔。使継糴軍容、戦艦兵糧、方在所須。儻以此事委臣、勉尽心力、小助王師」 『高麗史』 巻29・世家29・忠烈王世家6 忠烈王六年八月辛卯〜乙未(1280年9月17日 - 21日) 条 「(辛卯:公主宴愛牙赤于新殿。)王至上都。時帝在闍干那兀。王遂如行在。乙未:謁帝。帝宴王仍命從臣赴宴。先是、王使朴義奏曰:『東征之事臣請入朝禀旨。』帝許之。」 『高麗史』『高麗史』巻104・列伝17 金方慶伝「(元宗)十五年、帝欲征日本、詔方慶與茶丘、監造戰艦。造船若依蠻様、則工費多、将不及期、一国憂之。 方慶、爲東南道都督使、先到全羅、遣人咨受省檄、用本國船様督造。」『元史』 卷12・本紀12・世祖本紀9 至元十九年七月壬戌(1282年8月9日) 条 「高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本」 とともに毎年元に莫大な貢物、人員一例として『高麗史』巻16・世家28・忠列王1 忠烈王元年冬十月壬子(1275年11月4日)条に「壬子:以将献処女于元、禁国中婚嫁」とあり、忠烈王元年10月に元朝に処女を献ずるため国中で婚姻を一時禁じている。また、同十一月癸未(同年11月25日) 条に「癸未:遣僉議賛成事俞千遇、如元賀正、告改官制、献処女十人」とあり、元朝宮廷への賀正使として僉議賛成事の俞千遇を派遣し、官制改めたことを報告し、併せて処女 10人を献じたことを記している。等を頻繁に送り忠義を示した。これにより国内経済は疲弊し、これを憂いた臣下によって廃位となったが元の力により復位した。この後更に親元政策を貫き、胡服辮髪の令忠烈王は後述のように即位前に質子(トルカク)として出されたクビライの宮廷にてケシクの一員として近侍していたため、モンゴル人と同じ服装や髪型をしていた。そのため、『高麗史』によれば、彼が高麗に帰着したときにその容姿をみた高麗の廷臣たちは、「国人、世子の弁髪・胡服を見、皆な歎息して、泣く者すらあるにいたる。」(『高麗史』 巻27・世家27・元宗世家3 元宗十三年二月己亥「二月己亥、世子諶還自元。帝遣斷事官不花馬(中略) 世子辮髮胡服而來國人見之皆涕泣」)と述べている。これは彼自身がモンゴル宮廷での庶務に従事する必要上、モンゴル宮廷の慣習に従っていただけであったが、当初、高麗宮廷では王国の後継者がモンゴル人と同じ恰好をしていたことは歓迎されていなかった。(1278年)を出すほか、以降の王は元の宮廷で育ち、忠宣王は「益知礼普花」(イジリブカ)、忠粛王は「阿剌忒訥失里」(アラトナシリ)、忠恵王は「普塔失里」(ブダシリ)というモンゴル風の名を持っている。.
修禅寺
修禅寺(しゅぜんじ)は、静岡県伊豆市修善寺にある曹洞宗の寺院。山号は福地山。正式名称は「福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)」で、略して福地山修禅寺と呼んでいる(宗教法人としての名称は「修禅寺」)。修善寺温泉街の中心にある。夏目漱石の「修善寺の大患」、岡本綺堂の「修禅寺物語」でも名高い。.
忻都
忻都(きんと、生没年不詳)は、元のモンゴル人武将。名前の原音はモンゴル語、テュルク諸語でインドを意味する「ヒンドゥー」が近いとされている。 日本遠征の準備のために高麗に設けられた屯田を監督する鳳州計略使に任じられ、洪茶丘とともに遠征の準備と並行して三別抄の反乱を鎮圧する。至元11年(1274年)、都元帥として高麗を経て日本に侵攻する(文永の役)。北九州に上陸したものの日本軍によって進撃を阻止され、夜に入って撤退、帰途は暴風雨のため多大の被害を蒙った。 至元17年(1280年)、日本再征を具申し、日本行省右丞に任ぜられ、翌至元18年(1281年)、征東元帥として東路軍を率いて北九州に侵攻するも、元寇防塁によって上陸を阻止され敗退した。その後も忻都率いる東路軍は志賀島を占領し軍船の停泊地とするも、日本軍の総攻撃により大敗し志賀島を放棄して壱岐島へと逃れた。続いて日本軍は壱岐島の東路軍に総攻撃を敢行した。日本軍との戦闘による苦戦と江南軍が到着した報せに接した忻都は壱岐島を放棄して、江南軍の待つ平戸島を目指した。平戸島近海で江南軍と合流するも、暴風雨に遭い、大損害を被り、辛うじて高麗へ逃れた(弘安の役)。.
忽敦
忽敦(こつとん、クドゥン、生没年不詳)は、元のモンゴル人武将。 『元史』、『高麗史』などによれば、至元11年(1274年)八月に日本征討都元帥として高麗に派遣され、日本に侵攻した(文永の役)。北九州に上陸したものの日本軍によって進撃を阻止され、夜に入って撤退、帰途は暴風雨のため多大の被害を蒙った。十一月に高麗へ戻り、十二月には高麗の忠烈王夫妻へ捕虜の少年少女200人を奴隷として献上し、翌年一月に元へ帰還した。 恐らくモンゴル系と考えられるが漢文化の知識があったようで、『高麗史』金方慶伝(及び『高麗史節要』)によると高麗側の主将である金方慶の進軍すべしとの意見に対し、「兵法(『孫子』)」を引用して撤兵を決めている。 弘安の役で元・高麗軍を率いた忻都は文永の役以前から高麗で日本征服の準備を行っており、突如派遣された忽敦が総司令官となっていることから、日本の歴史研究者の間では両者を同一人物視する場合が多いが、両者の十分な検証はまだ行われていない。.
応仁の乱
応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.
念仏
念仏(ねんぶつ)とは、仏教における行のひとつで、仏の姿や功徳を思い描いたり、その名号を口に出して呼ぶこと。サンスクリット語では"buddha-anusmRti"で、仏陀に対する帰敬、礼拝、讃嘆、憶念などの意。日本では一般的には、浄土教系の宗派において合掌礼拝時に「南無阿弥陀仏」と称える「称名念仏」を指すことが多い。.
志賀島
志賀島の位置(赤色が東区) 海ノ中道上空からの志賀島(右)。他に能古島(左)と玄界島(右奥)も見える。 志賀島(しかのしま)は、福岡県福岡市東区に所属する島である。博多湾の北部に位置し、海の中道と陸続きである。 古代日本(九州)の大陸・半島への海上交易の出発点として、歴史的に重要な位置を占めていた。また島内にある志賀海神社は綿津見三神を祀り、全国の綿津見神社の総本宮であり、4月と11月の例祭において「君が代」の神楽が奉納される全国的にも珍しい神社である。.
地租
地租(ちそ)は、明治6年(1873年)の地租改正法によって制定された土地を対象に賦課された租税である。近代日本の国税の中軸を占める存在であったが、昭和22年(1947年)に地方税とされ、昭和25年(1950年)に廃止されて新設の固定資産税に継承された。.
地頭
地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。 平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。.
北原白秋
北原 白秋(きたはら はくしゅう、1885年(明治18年)1月25日 - 1942年(昭和17年)11月2日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人。本名は北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。 詩、童謡、短歌以外にも、新民謡(「松島音頭」・「ちゃっきり節」等)の分野でも傑作を残している。生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表し、活躍した時代は「白露時代」と呼ばれ、三木露風と並んで評される、近代の日本を代表する詩人である。 弟はそれぞれ出版人となり、北原鉄雄は写真・文学系出版社アルスを、北原義雄は美術系のアトリエ社を創業し、従弟の北原正雄も写真系の玄光社を創業した。.
北京市
北京市(ペキンし、、)は、中華人民共和国の首都である。 行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2152万(2014年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。.
北面武士
北面武士(ほくめんのぶし)とは、院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと。11世紀末に白河法皇が創設した。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。.
北条定宗
伝北条時宗像、実際には定宗像とも。 北条 定宗(ほうじょう さだむね、文永5年(1268年) - 永仁3年8月19日(1295年9月29日))は、鎌倉時代後期の武将。北条氏の一門。阿蘇流2代当主。鎌倉幕府8代執権・北条時宗の甥にあたる。 時宗の異母弟で、得宗家傍流である桜田時厳の子。阿蘇家の祖・北条時定の養子。阿蘇定宗とも呼ばれる。肥前国守護、修理亮、大友左近大夫将監。 元寇に際して鎮西に下向した大叔父である北条時定の養子となり、阿蘇家の家督を継ぐが、時定の死去から5年後の永仁3年(1295年)8月19日、現地で死去。享年28。 家督は子の随時が継いだ。墓所は熊本県阿蘇郡満願寺。 北条時宗像として知られる満願寺所蔵の肖像画は、各史料から実際には定宗の肖像と見られている。.
北条実政
北条 実政(ほうじょう さねまさ)は、鎌倉時代中・後期の武将、元寇(弘安の役)の日本軍の現地総司令官。北条家の一門。父は金沢流の祖・北条実時。金沢実政とも称される。.
北条貞時
北条 貞時(ほうじょう さだとき)は、鎌倉時代後期の北条氏一門の武将。北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第9代執権(在職:弘安7年(1284年) - 正安3年(1301年))。 第8代執権・北条時宗の嫡男。母は安達義景の娘・堀内殿(覚山尼)。.
北条氏
北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。.
北条時定 (時氏流)
北条 時定(ほうじょう ときさだ)は、鎌倉時代中期の北条氏の一門。北条時氏の三男。母は松下禅尼で、第4代執権・北条経時、第5代執権・北条時頼の同母弟にあたる。得宗家から鎮西に下向した阿蘇家の祖。諱はのちに為時(ためとき)と改名している。.
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北条時宗
北条 時宗(ほうじょう ときむね)は、鎌倉時代中期の武将・政治家。鎌倉幕府第8代執権。 鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれ、世界帝国であったモンゴル帝国(大元朝)の圧力が高まるなかで執権に就任。内政にあっては得宗権力の強化を図る一方、モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻を退け(元寇)、戦前までは日本の国難を救った英雄と評された。官位は、正五位下相模守。贈従一位。.
北条時宗 (NHK大河ドラマ)
『北条時宗』(ほうじょうときむね)は、2001年1月7日から12月9日にNHKで放送された第40作目の大河ドラマ。全49回。12月16日・23日に総集編が放送された。.
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北条時輔
北条 時輔(ほうじょう ときすけ)は、鎌倉時代中期の北条氏の一門。鎌倉幕府の第5代執権・北条時頼の長男で庶長子。8代執権・北条時宗の異母兄。 第6代将軍・宗尊親王の側近として将軍御所に仕え、上洛して六波羅探題南方を務めるが、二月騒動で謀反の疑いを受け、異母弟・時宗の命により誅殺された。.
ナヤン
ナヤン(1258年 - 1287年)は、東方三王家の一つであるテムゲ・オッチギン家の当主。チンギス・カンの弟テムゲ・オッチギンの玄孫で、祖父はモンケ・クビライに仕えた有力重臣のタガチャルで、父はアジュルである。 クビライに仕えていたが、1287年春にオゴデイ・カン国のカイドゥと通じ、同じ東方三王家の(カチウン家当主)やシクドゥル(ジョチ・カサル家当主)らと手を組んで反乱を起こした。しかしカラコルムはクビライ配下の名将・バヤンに守られてカイドゥは封じ込められ、ナヤンに至ってはクビライ自らが直属の5衛軍を率いて親征を始める。皇帝自らの親征だったため元軍の士気は高く、ナヤンはわずか1日で敗れて逃走を図るも捕らえられた。そして、クビライの命令で2枚の毛布に包まれた上で、激しく振り回される方法で処刑されたという。 ナヤンはキリスト教徒で、反乱のときも軍旗に十字架を掲げていたといわれているが、それを語るエピソードがある。クビライが凱旋して勝利の宴会を開いていると、キリスト教徒に対して配下の将軍が「お前達の神の十字架は何をしていた。ナヤンを護ってやれなかったではないか」とからかった。それを聞いたクビライは「キリストなる神がナヤンに加護を与えなかったのは当然のことだ。神は公正であり、罪と不正を行なった者に恩恵は与えぬ。ましてやナヤンは反逆者であり、誤った行為による神の加護を願っていたのだから、善良にして公正なるキリストが邪悪な企みを保護しようと欲しなかったのは当然である」と答えて、キリスト教徒を感嘆させたという。 ナヤンの死後も、カダアンらは生き延びて反乱を続けたが、1288年までにテムルによって全て平定され、東方三王家は当主を全て交替させられることになった。 Category:モンゴル帝国の皇族 Category:東方三王家 Category:刑死した人物 Category:1258年生 Category:1287年没.
ペルシア語
ペルシア語のファールシー ペルシア語(ペルシアご、فارسی, پارسی; Fārsī, Pārsī)は、イランを中心とする中東地域で話される言語。ペルシャ語、ファールシー語、パールシー語ともいう。 言語学的にはインド・ヨーロッパ語族-インド・イラン語派-イラン語群に分類される。ペルシア語は高度な文明を持っていた古代ペルシア帝国から現在に至るまでイラン高原を中心に使われ続けてきた言語であり、文献によって非常に古くまで系統をさかのぼることができる。ただし、現在のペルシア語にはアラビア語からの借用語が非常に多く、その形態は古代ペルシア語とはかなりの断絶がある。.
ミニアチュール
ミニアチュール(フランス語:miniature)または彩画(さいが)・細密画(さいみつが)とは、古代・中世の絵付き写本に収録された挿絵である。語源はラテン語のminium(鉛丹)。初期の写本の赤色インクに鉛丹が使われていたことにちなむ。中世のミニアチュールは小さいものが多かったため、「minute(微細な)」などが語源であると誤解され、小さいサイズのイラストを指してミニアチュールと呼ばれるようになった。ミニアチュールの翻訳語として細密画という表現が採用されたのもこれに由来する。.
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マムルーク朝
マムルーク朝(マムルークちょう、دولة المماليك Dawla al-Mamālīk)は、エジプトを中心に、シリア、ヒジャーズまでを支配したスンナ派のイスラム王朝(1250年 - 1517年)。首都はカイロ。そのスルターンが、マムルーク(奴隷身分の騎兵)を出自とする軍人と、その子孫から出たためマムルーク朝と呼ばれる。一貫した王朝ではあるが、いくつかの例外を除き王位の世襲は行われず、マムルーク軍人中の有力者がスルターンに就いた。.
マルコ・ポーロ
マルコ・ポーロ(Marco Polo、1254年 - 1324年1月9日)は、ヴェネツィア共和国の商人であり、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』(写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界の記述 (Devisement du monde)』) を口述した冒険家でもある。.
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マジャパヒト王国
マジャパヒト王国(マジャパヒトおうこく、Kerajaan Majapahit)は、1293年から1478年までジャワ島中東部を中心に栄えたインドネシア最後のヒンドゥー教王国。最盛期にはインドネシア諸島全域とマレー半島まで勢力下に置いたとの説があるが一方で、実際にはジャワ島中東部を支配したにすぎないとする説もある。なお、表記に「マジャパイト」と書くこともある。綴りは"Majapahit"であるが、ジャワ語では、h音を発音しないからである。.
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マスト
マスト(mast)とは、帆船の甲板に帆を張るために立てられた垂直棒のことである。日本語ではそのままマスト、あるいは帆柱と訳す。「檣」の漢字で表記することもある。軍艦で、マストが発展した檣楼や、上構(セイル)と区別するため"信号檣"という呼称が使われる場合もある。.
チャンパ王国
チャンパ王国(、192年 - 1832年)は、ベトナム中部沿海地方(北中部及び南中部を合わせた地域)に存在したオーストロネシア語族を中心とする王国。その主要住民の「古チャム人」は今日のベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされる。中国では唐代まで林邑と呼び、一時環王国と自称したが、宋代以降は占城と呼んだ。.
チャシ
埋蔵文化財包蔵地として周知されているチャシの山﨑岬。(2006年7月・山﨑山林) チャシとは主に近世にアイヌが築造したある種の施設であって、高い場所に築かれ、壕や崖などで周囲と切り離された施設である。.
チンギス・カン
チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。 死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。1155年説については、主にイルハン朝でガザン、オルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年1月6日 - 2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛の年であったことが説明されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者忞(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。。.
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ハラージュ
#イランの都市ハラージュー(Kharājū、خراجو:東アーザルバーイジャーン州マラーゲ郡)。.
ハーン
ハーン(可汗、合罕、qaġan/qaγan、khaan)は、北アジア、中央アジア、西アジア、南アジアにおいて、主に遊牧民の君主や有力者が名乗る称号。古い時代の遊牧民の君主が名乗った称号カガン(古テュルク語: - qaġan/qaγan)はその古形である。.
バガトル
バガトル(baγatur; 中世モンゴル語: ba'atur; 現代モンゴル語: баатар (baatar); 近世ペルシア語: بهادر (bahādur);近世テュルク語: bahadur;中国語:拔都兒)は、テュルク語やモンゴル語における称号のひとつ。「勇者」を意味する。中世モンゴル語ではバアトル(バートル)、現代モンゴル語ではバータル。中央アジア以西において近世ペルシア語およびチャガタイ語、オスマン語などではバハードゥル(バハードル)という。.
ポール・ペリオ
敦煌の莫高窟蔵経洞で文書・経典などを調査するポール・ペリオ(30歳)。 ポール・ペリオ(Paul Pelliot, 1878年5月28日 - 1945年10月26日)はフランスの著名な東洋学者で、中央アジアの探検家である。有名な敦煌文献をフランスにもたらした。.
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モンケ
モンケ(Möngke、、 1209年1月10日 - 1259年8月11日)は、モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、大ハーン)(在位1251年7月1日 - 1259年8月11日)。漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記では منگو قاآن (mankū qā'ān) または مونگكه قاآن (mūngke qā'ān) 。元から贈られた廟号は憲宗、諡は桓粛皇帝。モンケ(メンゲ)という名は、中世モンゴル語で「永遠」を意味する。チンギス・ハーンの四男トルイとその正妃ソルコクタニ・ベキの長男。子にシリギがいる。.
モンゴル (曖昧さ回避)
モンゴル (Монгол) 民族.
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モンゴルの高麗侵攻
モンゴルの高麗侵攻(モンゴルのこうらいしんこう)は、朝鮮半島を統治していた高麗王朝に対して、モンゴル帝国が1231年から1273年にわたり繰り返し行った戦争を指す。この間、主要な戦いは6度行われ、高麗の国土は荒廃した。戦争の結果、その後約80年間にわたり高麗はモンゴル/元朝の支配下に置かれることとなる。.
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モンゴルの樺太侵攻
樺太とその周辺の地形 モンゴルの樺太侵攻(モンゴルのからふとしんこう)とは、13世紀半ばから14世紀初頭にかけて断続的に行われたモンゴル帝国(元朝)による樺太(サハリン)アイヌ(骨嵬)への攻撃を指す。史料が少ないこともあり、その実体には不明な点が多い。同時期にモンゴルによって日本の九州北部に対して行われた元寇(文永の役・弘安の役)と比較されて「北からの蒙古襲来」「もうひとつの蒙古襲来」「北の元寇」などと呼ばれるが、両者の間に関連性があるかどうかは疑わしい(後述)。.
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モンゴル帝国
モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.
モウコウマ
テュルク・モンゴル系の騎馬軍同士の会戦(『集史』) モウコウマ(蒙古馬、Mongolian horse)モンゴル周辺の中央アジア原産の馬。ポニーに分類され、体高は120cmから140cm程度と比較的小さい。モンゴルに古くから伝わる品種で、遊牧民によって多数が群れで飼育され、牧畜の管理、移動、伝令、輓用などに用いられた。乳はそのままでは飲めず馬乳酒(アルコール度の低い発酵酒)に加工される。毛色は青毛、鹿毛、河原毛が多い。たてがみが豊富で頸は短く太い。野生の馬と飼育馬を交配する伝統が見られたが野生種は現在では絶滅したと推定される。.
ユリウス暦
ユリウス暦(ユリウスれき、、、)は、共和政ローマの最高神祇官・独裁官・執政官ガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日から実施された、1年を365.25日とする太陽暦である。もともとは共和政ローマおよび帝政ローマの暦であるが、キリスト教の多くの宗派が採用し、西ローマ帝国滅亡後もヨーロッパを中心に広く使用された。 ローマ教皇グレゴリウス13世が1582年、ユリウス暦に換えて、太陽年との誤差を修正したグレゴリオ暦を制定・実施したが、今でもグレゴリオ暦を採用せずユリウス暦を使用している教会・地域が存在する。グレゴリオ暦を導入した地域では、これを新暦(ラテン語: Ornatus)と呼び、対比してユリウス暦を旧暦と呼ぶことがある。 なお、天文学などで日数計算に用いられるユリウス通日があるが、これはユリウス暦とは全く異なるものである。.
僧兵
僧兵(そうへい)とは、日本の古代後期から中世、近世初頭にかけて存在した僧形の武者である。.
ルスティケロ・ダ・ピサ
ルスティケロ・ダ・ピサ(ルスティケッロ・ダ・ピーザ、Rustichello da Pisa)は、13世紀後半、ピサ出身のイタリア人小説家。マルコ・ポーロが口述した『東方見聞録』("Il Milione"または"La Description du Monde")、アーサー王の『アーサー王の円卓騎士物語』(またはアーサー王伝説)などを翻訳)が有名な著作である。 第八次十字軍において、エドワード1世の廷臣であったルスティケロは、エドワード1世の所有するアーサー王伝説を元に、フランス語でアーサー王や円卓の騎士、聖杯伝説についての著作『アーサー王の円卓騎士物語』を記した。1284年に故国であるピサとジェノヴァ共和国が戦争し、メロリアの戦いで捕虜になると、1298年捕虜になったマルコ・ポーロと獄中で知り合い、『東方見聞録』を書いた。 なお、アーサー王伝説を書いたルスティケロと東方見聞録の共同編集者であるルスティケロが別人であるという説もある。.
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ワールシュタットの戦い
ワールシュタットの戦い(Schlacht bei Wahlstatt)またはレグニツァの戦い(Легницийн тулалдаан; Bitwa pod Legnicą)は、1241年、4月9日にモンゴル帝国のヨーロッパ遠征軍と、ポーランド・ドイツ連合軍が激突した戦いである。 世界的には会戦場であったポーランド西部のレグニツァ(Legnicą、もしくはリーグニッツ-Liegnitz)の地名を用いることが一般的である。ドイツでは「ワールシュタットの戦い」(Schlacht bei Wahlstatt)が用いられることもあるが、現代ドイツの歴史でも「リーグニッツの戦い」(Schlacht bei Liegnitz)を用いる。ワールシュタットとはドイツ語で「死体の山」を意味する。.
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トレビュシェット
トレビュシェ(仏: Trébuchet)は、固定式の攻城用兵器の一種。 南フランス・プロバンス地方、レ・ボー城塞のトレビュシェ 平衡錘投石機(へいこうすいとうせきき)とも訳される。巨大なおもりの位置エネルギーを利用して石を投げる。攻城用の投擲兵器としては後発にあたる。大型で威力と安全性に信頼の置ける火砲が出現するまで利用された。 動物の腱などの弾力を利用するバリスタなどの他の投擲兵器と違い、岩石などを詰めた箱の重量を利用するので、大きく造ればそれだけ威力が増した。また、詰め物の重量を変えることで射撃距離を自由に調整でき、精度も高かった。この投石器は最大のものは140キログラムの石を最大300メートルも飛ばすことができた。小型の物や原型となったマンゴネルはおもりではなく人力で投擲し、その際は竿にかけた何本かの紐を複数の人間が同時に引くことで投擲した。 石のほか、伝染病が当該地域に蔓延することを狙って、人や牛の死骸を目標に投下することもあった。 良く似た兵器としてカタパルトがある。こちらは威力や射程はトレビュシェに劣ってはいたが移動できたので、トレビュシェの登場後も併用して用いられた。 中国においては、三国時代に霹靂車と呼ばれた投石機が発明されていたが、マンゴネル同様に人力によるものであった。元軍による南宋の都市襄陽の包囲攻撃(襄陽・樊城の戦い)の際にトレビュシェットが導入された。ペルシアから来た回教徒の技術者により導入され使用されたので、襄陽砲もしくは回回砲と呼ばれる。霹靂車の石弾の投射能力が48kgが限界だったのに対し、襄陽砲は89kgの石弾の投射能力があった。 アルキメデスが発明したという伝説も伝わる。シラクサに侵攻した古代ローマ軍をアルキメデスの発明した新兵器が撃退したという逸話、アルキメデスがてこの原理を発見していることが根拠とされるが、その後の歴史を見るに信憑性はない。最古の記録は1165年東ローマによるものである。また、東ローマによる1097年のニケーア包囲戦で使用された投擲機が最初のトレビュシェである可能性がある.
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パスパ文字
パスパ文字(パスパもじ、八思巴文字、дөрвөлжин үсэг、dörvöljin üseg、〔モンゴル文字:〕 「方形文字」、ཧོར་ཡིག་གསར་པ་、hor yig gsar pa 「モンゴル新字」、中国語:蒙古新字 Měnggǔ xīnzì、八思巴字 Bāsībā zì)は、13世紀にモンゴル語など、大元ウルス(元朝)の各種言語表記に用いるために制定された表音文字。上から下へと縦に綴る。パクパ文字、方形文字(ほうけいもじ)とも呼ばれる。 パスパ文字は発明から100年間ほどしか使われなかったが、チベットでは1642年に発足したガンデンポタン政権のもとで、ダライ・ラマがチベット・ハルハ・オイラトなどの諸国のモンゴル人王公たちに称号を授与する際、印章に称号を刻むための文字として採用された。.
テムル
テムル(モンゴル語:、Temür、漢字:鐵穆耳、1265年10月15日 - 1307年2月10日)は、モンゴル帝国の第6代、大元ウルスの君主としては第2代の大ハーン。『集史』などのペルシア語表記では تيمور قاآن Tīmūr Qā'ān。テムルはモンゴル語で「鉄」を意味する名前で、ペルシャ語などのティムールに通じる。.
フランス国立図書館
フランス国立図書館(フランスこくりつとしょかん)(Bibliothèque nationale de France、略称:BnF)は、フランスのパリを中心とした国立図書館である。1367年にシャルル5世によって創立された王室文庫 を起源とする。フランス革命により国立図書館 となり、以後帝政期には帝国図書館 などとも呼ばれたが、1994年に現在の名称であるフランス国立図書館となった。 1区パレ・ロワイヤル北側至近に位置し、2区リシュリュー通りにあるリシュリュー館(旧館)を母体とし、2014年現在は7つの施設で構成される。その中でも1994年に完成した13区のベルシー地区(トルビアック地区)にあるフランソワ・ミッテラン館が中心的な施設となっている。このほか、世界中から閲覧できる電子図書館「ガリカ」も運営している。現在も有効な1537年の法令により、フランス国内で出版される全ての印刷物は、必ず1部この図書館に保存されることになっている。図書館には1000万を超える書籍と35万束の原稿・写本に加え、地図、コイン、文書、版画、レコードなどが所蔵されている。.
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フレグ
フレグ(Hülegü, Hülägü 生没年:1218年 - 1265年)、あるいはフラグ、またはフラクは、イルハン朝(フレグ・ウルス)の創始者(在位:1260年 - 1265年)。アバカ、テグデル・アフマドの父。『世界征服者史』『集史』等のペルシア語、アラビア語文献では 転写: Hūlākū Khān、『元史』等の漢語文献では旭烈兀 大王、『五族譜(Shu'`ab-i Panjgāna)』のウイグル文字モンゴル語表記では 'wl'kw(ulaku 『集史』トルイ・ハン紀ではトルイの(異母兄弟を含めた)五男(Rashīd al-Dīn Faḍl Allāh Hamadanī, Jāmi'al-Tawārīkh, (ed.)Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsawī, vol.2, Tehran,1373/1994, p.781)、『元史』宗室世系表ではトルイ(睿宗皇帝)の六男としている(『元史』巻107/表2 宗室世系表「睿宗皇帝、十一子:長憲宗皇帝、(中略)次六旭烈兀大王」)。。モンケ、クビライ、アリクブケは同母兄弟であり、チンギス・カンの孫にあたる。イル・ハン Īl-khān の尊称で呼ばれた。.
ニワトリ
ニワトリ(鶏、学名:Gallus gallus domesticus「仮名転写:ガルス・ガルス・ドメスティカス」)は、鳥類の種のひとつ。代表的な家禽として世界中で飼育されている。ニワトリを飼育することを養鶏と呼ぶ。.
ニヴフ
ニヴフ/ニブフ(Nivkh、ロシア語での複数形はニヴヒ(Nivkhi))は、樺太中部以北及び対岸のアムール川下流域に住むモンゴロイドの少数民族。古くはギリヤーク(Gilyak)(ロシア語での複数形はギリヤーキ(Gilyaki))と呼ばれた。アイヌやウィルタと隣り合って居住していたが、ウィルタ語の属するツングース諸語ともアイヌ語とも系統を異にする固有の言語ニヴフ語を持つ。アムール川流域のニヴフ語と樺太のニヴフ語は大きく異なる。.
ホムス
ホムス(Homs、アラビア語: حمص、Ḥimṣ、ヒムシュ、ヒムス)は、シリア(シリア・アラブ共和国)西部にある都市で、ホムス県の県都である。地中海から若干離れた内陸にあり、海抜はおよそ450m、オロンテス川沿いにある。現在の人口は650,000人という見積もりから1,200,000人という見積もりまで様々である。 シリアの二大都市、ダマスカスとアレッポの中間に位置し、ダマスカスからは北へ160km、アレッポからは南に190km。シリア第三の大都市であり、またタルトゥースなど地中海沿岸都市とダマスカスやアレッポなど内陸の都市を結ぶ結節点でもある。ホムスの西側には、地中海沿いに伸びるレバノン山脈が途切れヌサイリーヤ山脈が始まる大きな峠(Homs Gap)があり、この峠が古来から地中海側とオロンテス川流域・メソポタミア方面を結ぶ交易上・軍事上の重要な道となってきた。ホムスは古代から、この峠の東の入口を扼し地中海へとつながる拠点都市である。 古代ローマ時代はエメサ(Emesa)の名で知られた重要都市であったため多くの遺跡が残るほか、十字軍の拠点だったクラック・デ・シュヴァリエが近郊にあり、ホムスと地中海側のトリポリとをつなぐ峠を見張るように建てられている。イスラム初期の正統カリフ時代の武将、ハーリド・イブン=アル=ワリードの墓所もある。.
ダマスカス
ダマスカスはシリア(シリア・アラブ共和国)の首都。ダマスクスとも表記される。アラビア語ではディマシュク(دمشق Dimashq)で、別名をシャーム(الشام al-sham)という。日本語の聖書翻訳の慣行ではダマスコと表記する。「世界一古くから人が住み続けている都市」として知られる。カシオン山の山麓、バラダ川沿いに城壁で囲まれた古代から続く都市と新市街が広がる。現在の人口は約200万人といわれるが、都市圏全体では400万人に迫るといわれる。.
ダイゴ (曖昧さ回避)
ダイゴ、だいご、DAIGO、大悟、醍醐.
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ベトナム
ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく、)、通称 ベトナム()は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和国。首都はハノイ。ASEAN加盟国、通貨はドン、人口9,250万人(2014年末)。 国土は南北に細長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東は南シナ海に面し、フィリピンと相対する。.
刀伊の入寇
刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、寛仁3年(1019年)に、女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件。刀伊の来寇ともいう。.
嘉元
嘉元(かげん)は、日本の元号の一つ。乾元の後、徳治の前。1303年から1305年までの期間を指す。この時代の天皇は後二条天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条師時。.
嘉靖帝
嘉靖帝(かせいてい)は、明朝の第12代皇帝。諱は厚(こうそう)(の字は火偏+悤)。廟号は世宗(せいそう)。日本では治世の元号から一般的に嘉靖帝と称される。.
善隣国宝記
善隣国宝記(ぜんりんこくほうき)は京都相国寺の僧侶瑞渓周鳳によって著された漢文による外交資料集。日本最初の外交史の書として知られている。序文に文正元年(1466年)、後書に文明2年(1470年)の年号が記載されている。ただし、一部の文書の下限は文明18年(1486年)であり、文明5年(1473年)の瑞渓周鳳の没後に加筆が行われたと考えられている。全3巻。.
呉
呉(ご、くれ).
呉ライ
呉 莱(ご らい、1297年 - 1340年)は元代中国の文人、学者。字は立夫。.
呉澄
呉澄(ご・ちょう、1249年 - 1333年)は元代中国の学者。字は幼清。草盧先生と称せられる。.
呉服町
呉服町(くれはちょう、ごふくちょう、ごふくまち)とは、日本の各地にある地名。城下町において職業別集住制が行われ、呉服商が多く住んだ事に由来する名称である。.
咸安
咸安(かんあん).
和弓
竹弓 和弓(わきゅう)は、日本の弓道・弓術およびそこで使用される長弓の弓のこと。全長は七尺三寸(約221cm)が標準とされている。「和弓」とは洋弓(アーチェリー)に対する語。古来は大弓(だいきゅう、おおゆみ)と呼ばれており、全長およそ2m以上のものを大弓、それ以外に半弓(六尺三寸)半弓より短いものも存在する。なお、和弓において、弓を製作する人のことを弓師(ちなみに矢を作る人は矢師、ゆがけを作る人はかけ師)、弓を射る人のことを弓士と呼び、音(おん)が同一のためか、しばしば混同されている。.
和暦
和暦(われき)は、元号とそれに続く年数によって年を表現する、日本独自の紀年法である。邦暦(ほうれき)とも。 この手法自体は東アジアで広く行われてきたが、日本独自の元号を用いているため日本固有の紀年法となる。飛鳥時代の孝徳天皇によって西暦645年に制定された「大化」がその始まりであり、以来15世紀に亘って使われ続けてきている。 たとえば、西暦2000年は平成12年に当たる。 また暦法について、明治改暦(明治6年/西暦1873年)で天保暦に代えてグレゴリオ暦を採用して以降は、月日についてはグレゴリオ暦と一致している。.
アバカ
アバカ(Abaqa/阿八哈、اباقا خان Ābāqā khān、1234年2月27日 - 1282年4月1日)は、イルハン朝の第2代ハン(1265年 - 1282年)。父は初代ハーンのフレグ・ハン、母はフレグの第5位の妃でスルドゥス部族出身のイェスンジン・ハトゥン。.
アムール川
アムール川(アムールがわ、、ラテン文字転写: Amur)、あるいは黒竜江(こくりゅうこう、、、満州語:或いは、転写:sahaliyan ula或いはhelung giyang)は、ユーラシア大陸の北東部を流れる川である。中国では別に黒河、黒水などとも呼ばれる。上流部の支流を含めた全長4,368kmは世界8位、流域面積は185万5500km2で世界10位である。.
アレッポ
アレッポ(حلب(Halab), Halep、Alep, イタリア語・Aleppo)は、シリア(シリア・アラブ共和国)北部にある都市である。トルコとの国境に近い。人口は2008年現在で約167万人あり、シリア最大の都市である。 アラブ語では「新鮮な乳」の意味の「ハラブ」と呼ぶ。アレッポはシリア地方でも最古の都市の内の一つで、古代にはハルペ (Khalpe) の名で知られた。古代ギリシア人は、ユーフラテス川流域(メソポタミア)と地中海の中間に当たる戦略上の要地であるこの町を占領してベロエア (Beroea) と呼んだこともある。もともとは、クウェイク川両岸の広くて肥沃な谷にある、幾つかの丘の集まりの上に建てられた都市だった。 ハラブ県の領域は市の周辺16,000 km²に及びアル=バーブ、サフィラ、マンビジ、アイン・アル=アラブなどの近郊農村都市を抱え、住民は370万人にのぼる。2007年の推計では4,393,000人とシリア最大の県である。 かつてレバント貿易で賑わう国際市場であったが、列強の近代鉄道政策がイズミルを選好した。現在、アレッポ国際空港で中東や欧州各国と結ばれている。.
アントン (ジャライル部)
アントン(Anton, Antum, Hantun, 安童、1245年 - 1293年)は、大元朝時代にその初代でもある第5代モンゴル帝国皇帝(カアン)クビライに仕えた政治家、宰相(中書右丞相)。『元史』などでは安童、『集史』などのペルシア語史料では هنتون نويان Hatūn Nūyān、 انتون نويان Antūn Nūyān などと書かれる。チンギス・カンに仕えたジャアト・ジャライル部族出身の功臣、ムカリ国王家の出身で、ムカリの曾孫。ムカリの子・ボオルの3男・バアトルが父にあたる。母親はチンギス・カンの第一夫人ボルテの姪で、クビライの皇后チャブイの姉にあたる。息子にウドゥルタイ(兀都帯、バイジュの父)がいる。 13歳で宿衛(ケシク)に入る。クビライの信任が厚く、それに近侍した。クビライがモンゴル帝国帝位継承戦争に勝利した際にアリクブケ側に付いた者たちに対する寛大な処分を勧めてクビライに評価され、1265年には早くも光禄大夫、中書右丞相に抜擢され食邑四千戸まで加増を受けた。後に平章政事であるアフマド・ファナーカティーと対立するが、1274年に彼の不正行為をあばいて失脚させる。翌1275年には皇太子チンキムや北平王ノムガンとともにカイドゥ討伐に向かい、カラコルムに入ったノムガンとその庶弟である皇子ココチュに扈従し、カラコルム周辺を領していたモンケ家、アリクブケ家などの王族との調停に勤めた。しかし、1276年にノムガン率いる遠征軍がカイドゥの支配領域の面前であるアルマリクに駐留していた時、軍中のモンケ家の四男シリギが、モンケ、クビライらの庶弟ソゲトゥの息子(ないし孫)トク・テムルの先導によっての他のトルイ家をはじめてとする王族たちと共謀して反乱を起こした。(シリギの乱) このため、アントンはノムガンとココチュらととも捕縛され、トクテムルとシリギはノムガンとココチュの兄弟をジョチ・ウルスの当主モンケ・テムルに引き渡し、アントンはカイドゥに引き渡して両陣営に対して自らの反乱への参加を促した。しかし、カイドゥもモンケ・テムルもこの誘いをほぼ黙殺し、シリギの乱はバヤンの派遣などによって鎮圧された。1284年に大都に帰還すると、右丞相に復職し、翌1285年にはアントン不在中に専権を振るった盧世栄の不正行為をあばいて失脚させて、獄死に追い詰めた。ところが、1287年に新しく平章政事となったサンガと対立してその不正を糾弾するも、フビライに取り上げられなかったことから権威が失墜し、1291年に右丞相を退いた。この年、サンガの不正行為があばかれて失脚するものの、アントンは復権することができずに2年後に没した。.
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アンゴルモア 元寇合戦記
『アンゴルモア 元寇合戦記』(アンゴルモア げんこうかっせんき)は、たかぎ七彦による日本の漫画。元寇(文永の役・1274年)における対馬の戦いを描く。『サムライエース』(角川書店)にてvol.5(2013年2月26日発売)よりvol.10(2013年12月26日発売)まで連載されたのち、同誌の休刊に伴い『ComicWalker』(同社)に移籍し2014年7月11日よりweb連載中。.
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アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン
アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン 男爵(Abraham Constantin Mouradgea d'Ohsson、1779年11月26日 - 1851年12月25日)は、オスマン帝国におけるアルメニア系の外交官、歴史家。『チンギス・カンよりティムール・ベイすなわちタメルランに至るモンゴル族の歴史』(邦題:『蒙古史』、『モンゴル帝国史』)の著者として有名であった。.
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アフリカ大陸
アフリカ大陸(アフリカたいりく)は、アフロ・ユーラシア大陸のうちスエズ地峡の西側の部分を占める大陸をいう。ユーラシア大陸とは陸続きになり、インド洋・大西洋・地中海に囲まれている。単にアフリカというときは、大陸の周辺の島嶼(マダガスカル島など)や海域をも含んだ地域の総称になる。 大陸北部は非常に乾燥したサハラ砂漠で、赤道付近は広大な熱帯雨林が広がる。その南側もまた乾燥しており、サバナと砂漠が広がる。大陸東部には南北に大地溝帯があり大陸を東西に引き裂いていて、ビクトリア湖などを経て一年に数センチ単位で東西に分裂していっている。アラビア半島やマダガスカル島もかつては大陸と一体であったが、この地溝帯によって分裂した。大陸自体は北へ移動しており、地中海をはさんだヨーロッパへ接近している。アルプス山脈はこのために造山運動が起こっているが、アフリカ大陸自体も最北部はアトラス山脈が連なっている。 アフリカ 南部アフリカ.
アイン・ジャールートの戦い
アイン・ジャールートの戦い(英:Battle of Ain Jalut)は、1260年9月3日、シリア・パレスチナのアイン・ジャールート (عين جالوت ‘Ayn Jālūt) で行われた会戦。クトゥズ率いるマムルーク朝軍が、キト・ブカ率いるシリア駐留のモンゴル帝国軍およびキリスト教徒諸侯連合軍を破り、モンゴル帝国の西進を阻止した。.
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アイヌ
アイヌは、北海道・樺太・千島列島およびカムチャツカ半島南部にまたがる地域に居住していた民族。母語はアイヌ語。 1878年(明治11年)、イギリス人旅行家・イザベラ・バードが北海道の日高地方でスケッチしたアイヌ民族の男性。 アイヌは、元来は物々交換による交易を行う狩猟採集民族である。文字を持たない民族であったが1923年(大正12年)に出版された知里幸恵のアイヌ神謡集では、その発音を、ローマ字で表記するなどの工夫がされている。、生業の毛皮や海産物などをもって、アムール川下流域や沿海州そしてカムチャツカ半島、これらの地域と交易を行い、永く、このオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた。 1855年2月7日(安政元年12月21日)の当時のロシア帝国との日露和親条約での国境線決定により、当時の国際法の下、各々の領土が確定した以降は、大半が日本国民、一部がロシア国民となった。21世紀初頭の現在、日本国内では、北海道地方の他に首都圏等にも広く居住している。.
インド
インドは、南アジアに位置し、インド洋の大半とインド亜大陸を領有する連邦共和制国家である。ヒンディー語の正式名称भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ、Republic of India)を日本語訳したインド共和国とも呼ばれる。 西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカ、モルディブ、インドネシアに接しており、アラビア海とベンガル湾の二つの海湾に挟まれて、国内にガンジス川が流れている。首都はニューデリー、最大都市はムンバイ。 1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。.
イブン・バットゥータ
イブン・バットゥータ(、, アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・アブドゥッラー・アッ=ラワーティー・アッ=タンジー、1304年2月24日/25日 - 1368年/69年)は、マリーン朝のベルベル人の探検家である。彼の旅行記『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』(تحفة النظار في غرائب الأمصار وعجائب الأسفار 、通称Rihla)にまとめられた広範にわたる旅行で知られ、30年間をかけ既知のイスラム世界、そして非イスラムの地を旅した。彼の旅した地には北アフリカ、アフリカの角、西アフリカ、東ヨーロッパ、中東、南アジア、中央アジア、東南アジア、中国が含まれる。イブン・バットゥータは史上最も偉大な旅行家の一人と考えられている。.
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イギリス帝国
イギリス帝国(イギリスていこく、British Empire)は、イギリスとその植民地・海外領土などの総称である。大英帝国(だいえいていこく)ともいう。 帝国は時代ごとの性質により、以下のように区分できる。.
イクター
イクターあるいはイクター制(アラビア語: إقطاع Iqṭā')は、地方官に与えられる給与制度の一種で、徴税権を地方官に委任するという形式のもの。主にイスラーム圏の諸王朝で施行されていた関西学院大学『社会学部紀要 No.36』(1978年3月)に寄稿された春日雅司教授による論文「」。.
エドワード・ギボン
ドワード・ギボン エドワード・ギボン(Edward Gibbon, 1737年5月8日 - 1794年1月16日)は、イギリスの歴史家で、『ローマ帝国衰亡史』の著者である。.
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オロモウツ
聖ヴァーツラフ大聖堂 聖三位一体柱 オロモウツ(チェコ語:Olomouc、ポーランド語:Ołomuniec)は、チェコの都市。モラヴィア地方の中部に属するチェコ第5の都市。2014年当時の人口は99,489人稲野「オロモウツ」『東欧を知る事典』新版、73-74頁。ドイツ語ではオルミュッツ(Olmütz)。 オロモウツは上モラヴィア低地のハナー地方の中心都市でもあり、またモラヴィアのローマ・カトリック教会の中心地でもある林「オロモウツ」『世界地名大事典』4、755頁。ロマネスク様式、ゴシック様式の教会や市役所が建ち、記念物保護指定都市に定められている。オロモウツは首都プラハに次いで文化財を保有する都市であり、街の中心部にあるオロモウツの聖三位一体柱は、ユネスコの世界遺産に登録されている。.
オケアノス
アノス(Ωκεανός, Ōkeanos).
オゴデイ
デイ(Ögödei、Ögedei、20px)はモンゴル帝国の第2代モンゴル帝国皇帝(カアン、大ハーン)。モンゴル帝国の君主で初めて自らの君主号をカンに代えてカアン(Qa'an<Qaγan)と名乗った人物と考えられている。 漢語表記では窩闊台、月闕台など。資料によっては、哈罕皇帝/合罕皇帝(カアン皇帝)とも書かれる(後述)。モンゴル帝国時代のウイグル文字モンゴル語文や前近代の古典モンゴル語文では 'WYK'D'Y Q'Q'N/Ögedei Qaγan、パスパ文字モンゴル語文では "ö-kˋö-däḙ q·a-n/Öködeï Qa'an 。ペルシア語表記では『集史』などでは اوگتاى قاآن Ūgtāy Qā'ān 、『五族譜』では اوُكَدى خان Ūkaday Khān などと綴られる。オゴタイ、エゲデイは、日本語表記。元朝によって贈られた諡は英文皇帝、廟号は太宗。 チンギス・カンの三男。母はボルテ。ジョチ、チャガタイの弟、トルイの兄。.
カチウン
チウン(,,? - ?)はチンギス・カンの三弟で、モンゴル帝国の皇族である。.
カラーウーン
ラーウーン(アラビア語: قلاوون / Qalāwūn; الملك المنصور سيف الدين قلاوون الصالحي الألفي al-Malik al-Manṣūr Sayf al-Dīn Qalāwūn al-Ṣālihī al-Alfī, 1220年頃長谷部「カラーウーン」『岩波イスラーム辞典』、285頁 - 1290年11月10日ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、267頁大原『エジプト マムルーク王朝』、46頁)は、エジプトのマムルーク朝(バフリー・マムルーク朝)の第8代スルターン(在位:1279年 - 1290年)。即位名により略してマンスール・カラーウーン(الملك المنصور قلاوونal-Malik al-Manṣār Qalāwūn)とも呼ばれる。 カラーウーンより前のマムルーク朝ではマムルーク(軍人奴隷)出身の有力者がスルターンに就くことが多かったが、カラーウーン以降は原則的に彼の子孫がマムルーク朝のスルターン位に就くことになる。マムルーク朝の歴代スルターンの中で4代後の子孫までスルターン位を世襲したのはカラーウーンのみであり、バフリー・マムルーク朝最後のスルターン・サーリフ・ハーッジーはカラーウーンの曾孫にあたる。 カラーウーンは美しい容姿の屈強な体格の持ち主で伊藤『モンゴルvs.西欧vs.イスラム 13世紀の世界大戦』、200頁、アラビア語を話すことは少なかったと伝えられている。.
カラコルム
ラコルム( 転写:Qaraqorum)は、モンゴル高原中央部のモンゴル国首都ウランバートルから西へ230km、ウブルハンガイ県のオルホン河畔に位置する都市、かつてのモンゴル帝国の首都である。 カラコルムとはテュルク語・モンゴル語で「黒い砂礫」を意味する。ペルシア語資料では قراقوروم Qarā-qūrūm と表れ、漢語資料では哈剌和林、略して和林と表記される。また現代モンゴル語ではハラホリン(Хархорин)と表記される。 「黒い砂礫」の名前の通り、カラコルムの遺跡周辺は現在でも安山岩や玄武岩などの黒い河原石が一面に転がっており、雨水などで濡れると地面が黒っぽく見えるという。1260年に書かれたペルシア語資料『世界征服者史』によれば、カラコルムの名前の由来は都市の近くにある「カラコルム山」という黒色の石材が取れる山の名前に由来していると伝えられている。.
カン州市
贛州市(かんしゅうし)は、中華人民共和国江西省に位置する地級市。.
カイドゥ
イドゥ(Qaidu, Khaidu, ? - 1301年)は、13世紀の後半に中央アジアに独立王国を建設したモンゴル皇族。チンギス・ハーンの三男オゴデイの五男カシン(モンゴル語: 転写: Kašin)の子。『集史』などのペルシア語史料では قايدو Qāydū 、漢語史料では海都と書かれる。現代モンゴル語の発音に基づいてハイドゥあるいはハイドともいう。 30年以上にわたってモンゴル皇帝(大ハーン)、クビライ率いる大元朝と対立し、中央アジア以西のモンゴル諸勢力のモンゴル皇帝権力からの分離独立を決定づけた。このカイドゥの一連の行動は一般に「カイドゥの乱」と呼ばれる。.
カタパルト (投石機)
タパルト(Catapult)は、石などを投擲して敵の人馬もしくは城などの建築物を標的とし射出攻撃する兵器(攻城兵器)である。 カタパルトに改良を加えたものにオナガーやトレビュシェットがある。これらの兵器を総称してカタパルトと呼ぶ場合もある。日本では投石機(とうせきき)あるいは投石器とも表記される。後者のように表記すれば、Y字型の投石器(スリングショット、ぱちんこ)や紐状の投石器(スリング)と同じ表記となり、しばしば両者が混同される原因ともなっている。射程距離は大型のものでも数百メートルに留まった。.
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クビライ
ビライ(モンゴル語: Qubilai, Khubilai、1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、大元王朝の初代皇帝、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写では。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآن Qūbīlāī qā'ān など書かれる。死後に尊号を追諡され「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(Sečen Qa'an 薛禪皇帝)と号した。 大元ウルス時代に書かれたパスパ文字モンゴル語での表記や上述のペルシア語文献といった同時代における多言語資料の表記などによって、当時の発音により近い形への仮名転写として、クビライ・カアン(カーン)という表記がされる。一方、現代モンゴル語では (Khubilai khaan) と書かれ、また近現代のモンゴル文字文献の表記や発音に基づいてフビライ・ハーンと表記することも多く見られる。 その即位にあたる内紛からモンゴル帝国は皇帝であるカアン (Qa'an) を頂点とする緩やかな連合体となり解体が進んだ。これに対してクビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心をモンゴル高原のカラコルムから中国の大都(現在の北京)に移動させるなど様々な改革を打ち出した。クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌した。.
ジャワ島
18世紀初頭のジャワ島の地図 ジャワ島(ジャワとう、, )は、インドネシアを構成する島の一つ。スマトラ島などとともに、大スンダ列島を形成する。形状は東西に細長い。スマトラ島の東、カリマンタン島の南、バリ島の西に位置する。ジャワ島には4つの州と2つの特別州がある。.
ジパング
パング は、中世・近世ヨーロッパの地誌に現れていた東方の島国、日本のことである。.
スルターン
ルターン(سلطان sultān)は、イスラム世界における君主号(君主の称号)のひとつ。アラビア語で「権力(者)」、「権威(者)」を意味する。マレー語・トルコ語などの発音に準じてスルタンと書かれることも多く、「国王」、「皇帝」などとも訳される。古くは英語における発音の音訳によってサルタンとも書かれたが、近年では稀である。.
タタール
18世紀のタタールの女性 タタール(Tatar)は、北アジアのモンゴル高原とシベリアとカザフステップから東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、ツングース系およびサモエード系とフィン=ウゴル系の一部など様々な民族を指す語として様々な人々によって用いられてきた民族総称である。日本では、中国から伝わった韃靼(だったん)という表記も用いてきた。.
サッカーパンチプロダクションズ
ッカーパンチプロダクションズ(Sucker Punch Productions) は、アメリカ合衆国のテレビゲーム開発会社。ソニー・インタラクティブエンタテインメント(SIE)の子会社で、PlayStationプラットフォームのゲームソフト開発を行うSCEワールドワイド・スタジオの一つである。 1997年に設立。スタジオの所在地はワシントン州のベルビュー。1999年、最初のソフトとしてUbisoft販売のNINTENDO64用ソフト『Rocket: Robot on Wheels』(日本未発売)を開発。2000年以降はソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)販売のゲームソフトを開発。『怪盗スライ・クーパー』シリーズ(2002年-2005年)、『INFAMOUS』シリーズの開発を手掛けている。2011年、SCEに買収された。.
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むくりこくり
むくりこくりは、民俗語彙のひとつ。怖ろしいもののたとえ。もくりこくりとも。.
唐
唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.
円覚寺
円覚寺(えんがくじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある寺院。山号を瑞鹿山(ずいろくさん)と称し、正式には瑞鹿山 円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)と号する。臨済宗円覚寺派の大本山であり、鎌倉五山第二位に列せられる。本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗、開山は無学祖元である。なお、寺名は「えんがくじ」と濁音で読むのが正式である。 鎌倉時代の弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権・北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。 JR北鎌倉駅の駅前に円覚寺の総門がある。境内には現在も禅僧が修行をしている道場があり、毎週土曜・日曜日には、一般の人も参加できる土日坐禅会が実施されている。かつて夏目漱石や島崎藤村、三木清もここに参禅したことが知られる。.
出雲国
出雲国(いずものくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
全羅道
全羅道(チョルラド、ぜんらどう)は、李氏朝鮮の行政区分朝鮮八道の一つ。名前の由来は、現在全羅北道に属する全州と、全羅南道に属する羅州の頭文字。一時、全南道、全光道と呼ばれたこともある。 現在の韓国の行政区分、全羅北道・全羅南道・済州特別自治道・光州広域市に相当する。現在において全羅道地域という場合は、通常、上記から済州特別自治道を除いた全羅北道・全羅南道・光州広域市の1広域市2道を指す。 慶尚道出身が多い韓国の歴代大統領の中で、唯一金大中だけが全羅道出身である。金大中が結成した平和民主党の流れを汲む政党(現在は共に民主党)の強固な支持基盤である。2016年4月の総選挙では共に民主党の前身の新政治民主連合から分裂した政治家によって結成された国民の党に支持基盤を奪われる結果となったが、翌2017年5月の大統領選挙では、全羅北道・全羅南道・光州広域市いずれも共に民主党の文在寅が国民の党の安哲秀に大差をつけて圧勝した。.
八幡神
八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)は、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られた。.
八幡愚童訓
八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)は、鎌倉時代中期・後期に成立したとされている八幡神の霊験・神徳を説いた寺社縁起である「八幡愚童訓」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』ブリタニカ・ジャパン。「八幡愚童訓」『世界大百科事典』平凡社。「八幡愚童訓」『日本大百科全書』小学館。。 「愚童訓」とは八幡神の神徳を「童蒙にも理解出来るように説いた」の意味である。諸本に書かれた書名によって『八幡大菩薩愚童訓』及び『八幡愚童記』などともいい、江戸時代初期に作成されたものの表題に附された訓に基づいて「はちまんぐどうきん」とも呼ばれる。 元寇(文永の役、弘安の役)についての記録としても有名で、特に対馬・壱岐入寇について記された史料は他にないとされる。.
公卿
公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.
公家
公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.
公主
公主(こうしゅ)は、中国において皇帝の娘のこと、またその称号をさす。.
六波羅探題
六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。.
元 (王朝)
元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.
元史
『元史』(げんし)は、中国元王朝について書かれた歴史書(正史)。二十四史の一。編纂者は宋濂・高啓など。本紀47、表8、志58、列伝97の計210巻からなる紀伝体。成立は明の1369年(洪武3年)。収録年代はモンゴル帝国チンギス・カンの1206年から順帝トゴン・テムルの1367年まで。拙速な編纂により、二十四史の中でも最も評判が悪く、20世紀になって『新元史』が編纂されることになった。.
元号
元号(げんごう)とは、日本を含むアジア東部における紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は一年の途中でも行われ、一年未満で改元された元号もある。日本においては年号(ねんごう)とも呼ばれることもある。公称としては、江戸時代まで「年号」が多く使われ、明治時代以降は一世一元の制が定着し、「元号」が法的用語となった。現代では元号法が制度の裏付けとなっている。.
元宗 (高麗王)
元宗(げんそう、1219年4月5日 - 1274年7月23日)は、第24代高麗王(在位:1260年 - 1274年)。姓は王、諱は禃、初名は倎、諡号は忠敬順孝大王。 太子のときに高麗がモンゴルに服属したため、人質としてモンゴルに赴くことになるが、1259年に父の高宗とモンゴル皇帝であったモンケが死去したため、帰国して江都で即位した(詳細はモンゴルの高麗侵攻を参照)。その後、帝位争いの末に即位したクビライに臣従して、国王の権力強化と親モンゴル政策を採る。 ところが、この親モンゴル政策に重臣はこぞって反発し、元宗は一時廃位されかけたが(淐の項参照)、モンゴルの力を借りて重臣たちの排除を図る。この時に100年ほど続いた高麗の武臣政権に終止符が打たれた。1270年には開京への還都を決行した。 還都に伴い反モンゴルの姿勢をとるゲリラ集団・三別抄の解散を図ったが、逆に三別抄は王の弱腰政策に怒り、高麗に対してまで反乱を起こさせることとなった。さらにはモンゴルから日本遠征の大規模負担を負わされて国民に重税を強いることとなるなど、失政を続けた。 1274年、文永の役直前に病死した。.
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元寇
元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。 特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であった村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 126頁。 主に九州北部が戦場となった。.
元寇 (軍歌)
元寇(げんこう)は、1892年(明治25年)に発表された軍歌。作詞・作曲共に永井建子。 元の襲来(元寇)をテーマにした歌で、人籟居士の歌として世に出た。永井建子は旧日本陸軍軍楽隊士官(男性)。 大正天皇も愛唱し、歌った後には側近に「お前、閉口か」と笑いかけたという。 黒澤明の監督第二作『一番美しく』で効果的に使用されている。 戦後も替え歌などでテレビなどでも使われ、メロディーは歌詞以上に有名である。 マンガ「はだしのゲン」の作中で主人公の元が繰り返し歌う「八百八州のこじき、ざる持って門に立ち…」もこの替え歌である。.
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元寇史料館
元寇史料館(げんこうしりょうかん)は福岡市博多区東公園内に存在する博物館である。.
元寇防塁
元寇防塁(げんこうぼうるい)は、鎌倉時代に北部九州の博多湾沿岸一帯に築かれた石による防塁。蒙古襲来(元寇)に備えて築かれた。弘安の役の際には防塁が築かれたところからはモンゴル・高麗軍は一切上陸することが出来なかった。昭和六年(1931年)に国の史跡に指定。 「元寇防塁」は中山平次郎の命名で、石築地(いしついじ)が本来の呼び名である。.
元朝秘史
『元朝秘史』(げんちょうひし)は、中世モンゴルの歴史書。『モンゴル秘史』と呼ばれることもある。チンギス・カンの一代記を中核に、その族祖伝承から後継者オゴデイの治世の途中までの歴史が記されている。作者は不明。成立年は諸説あるが、13世紀中とする見解が主流である一方、14世紀前半であるとする説得力ある仮説も存在する(後述)。.
兵衛次郎
兵衛 次郎(ひょうえ じろう)は、鎌倉時代の人物。.
前漢
前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖.
回回砲
回回炮(かいかいほう)、もしくは西域炮、巨石炮、襄陽炮とは、投石機の一種である。.
因幡国
因幡国(いなばのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
国号
国号(こくごう)とは、主に国の称号、あるいは名称のこと。2通りの意味において使用されており、1つは「帝国」、「王国」、「大公国」、「公国」、「首長国(土侯国)」、「共和国(民国)」などの統治体制(政体)を表す部分を含めた国の名称を指す場合と、もう1つは政体を除いた国の名称を「国号」ということがある。 政体を含めない用例としては「韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件」(明治43年勅令第318号)がある。同勅令は「韓国ノ国号ハ之ヲ改メ爾今朝鮮ト称ス」としており、政体(当時の韓国は帝政を布いていた帝国)を含めないで国号という語を用いている。なお、韓国併合ニ関スル条約(明治43年条約第4号)では互いの国名を「日本国・韓国」と表記しているが、それを遡る日韓議定書(1904年2月23日)では互いの国名を「大日本帝国・大韓帝国」としている。.
国宝
建築:宇治上神社本殿覆屋(宇治市) 寺院建築:法隆寺金堂・五重塔(斑鳩町) 城郭建築:姫路城連立天守(姫路市) 絵画:源氏物語絵巻(徳川美術館) 彫刻:臼杵磨崖仏(阿弥陀三尊像) 工芸品:天寿国繍帳(中宮寺) 書跡・典籍:秋萩帖(東京国立博物館) 弘法大師筆尺牘「風信帖」(東寺) 考古資料:人物画像鏡(隅田八幡神社) 歴史資料:慶長遣欧使節関係資料のうちローマ市公民権証書(仙台市博物館) 国宝(こくほう)とは、日本の文化財保護法によって国が指定した有形文化財(重要文化財)のうち、世界文化の見地から価値の高いものでたぐいない国民の宝たるものであるとして国(文部科学大臣)が指定したものである(文化財保護法第27条第2項)。建造物、絵画、彫刻、工芸品、書跡・典籍、古文書、考古資料および歴史資料が指定されている。 法的には、国宝は重要文化財の一種である。国宝・重要文化財の指定手続、指定制度の沿革などについては、重要文化財の項を参照。 なお、いわゆる「人間国宝」とは重要無形文化財に指定された芸能、工芸技術などの保持者として各個認定された者の通称であり、本項で解説する国宝とは異なる。.
倭寇
倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の中国・朝鮮側の呼称。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)、八幡(ばはん)とも呼ばれる。 倭寇.
皇太子
皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.
皇帝
皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.
皇代暦
皇代暦(こうだいれき)は、南北朝時代から室町時代にかけてに書かれた年代記。著者は洞院公賢。後に甘露寺親長の増補によって今日の姿になったとされる。江戸時代に徳川光圀によって、歴代皇紀(れきだいこうき)という表題が与えられている。 神代から後土御門天皇の文明9年(1477年)までを記述している。同年に甘露寺親長から後土御門天皇に献上された原本は全5巻で現存はしていないが、江戸時代に柳原紀光が当時まだ現存していた原本から写本したもの(「柳原本」)が宮内庁書陵部に蔵書されている。これとは別に尊経閣文庫には、加賀藩主前田綱利所蔵本が残されている。.
短弓
短弓(たんきゅう)とは、日本での弓の分類から作られた言葉で、日本の小弓(楊弓)と呼ばれる和弓以外の、丈の短いM字に屈曲した弓を指す。世界的には、中国の弓も西洋や東洋の多くの弓は短弓であるが、あくまでも「日本の大弓と呼ばれる和弓」が世界的な弓の大きさから逸脱しているので、日本以外では自ら「短い弓」とは呼ばない。半弓とも呼ばれる。.
石川賢 (漫画家)
石川 賢(いしかわ けん、KEN ISHIKAWA、本名:石川賢一、1948年6月28日 - 2006年11月15日)は、日本の漫画家。栃木県那須郡烏山町(現・那須烏山市)出身。血液型はAB型。 代表作に『ゲッターロボ』、『魔獣戦線』、『虚無戦記』、『極道兵器』などがある。バイオレンス描写をメインに、スペースオペラ、ヒーローロボット、時代劇・忍術、任侠、ゴルフなど多岐にわたる主題を扱った。.
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石見国
石見国(いわみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
石清水八幡宮
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、京都府八幡市にある神社。旧称は「男山八幡宮」。二十二社(上七社)の1つで、伊勢神宮(三重県伊勢市)とともに二所宗廟の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 宇佐神宮(大分県宇佐市)・筥崎宮(福岡市東区)または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つ。また宮中の四方拝で遥拝される神社の1つである。本殿を含む建造物10棟が国宝に指定されている。.
玄界灘
(げんかいなだ)は、九州の北西部に広がる海域である。大陸棚が広がり、対馬海流が流れて世界有数の漁場として知られる。.
玄武岩
火山岩のQAPF図; Q:石英、A:アルカリ長石、P:斜長石、F:準長石 玄武岩(げんぶがん、)は、苦鉄質火山岩の一種。深成岩の斑れい岩に対応する。 火成岩は全岩化学組成(特にSiO2の重量%)で分類され、そのうち玄武岩はSiO2が45 - 52%で斑状組織を有するもの。斑晶は肉眼で見えないほど小さい場合もある。肉眼での色は黒っぽいことが多いが、ものによっては灰色に見えることもあり、また含まれる鉄分の酸化によって赤 - 紫色のこともある。.
王国
王国(おうこく)は、君主制の国家のうち、国王を元首とする国家を指す。.
王雍 (高麗)
王雍(おう よう、? - 至元18年(1281年))は、13世紀高麗の宗室、元の武将。.
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火薬
無煙火薬 火薬(かやく)は、熱や衝撃などにより急激な燃焼反応をおこす物質(爆発物)のことを指す。狭義には最初に実用化された黒色火薬のことであり、ガン・パウダーの英名通り、銃砲に利用され戦争の歴史に革命をもたらした。また江戸時代には焔硝(えんしょう)の語がよくつかわれ、昭和30年代頃までは、玩具に使われる火薬を焔硝と言う地方も多かった。 GHSにおける火薬類とは、Explosives(爆発物)のことである。.
珍島
珍島(チンド)は朝鮮半島西南端付近に、半島本土と近接して存在する島。両者を隔てているのは幅約300mの鳴梁海峡である。大韓民国に属し、全域を全羅南道珍島郡が管轄している。韓国では済州島・巨済島に次いで3番目に大きな島である。人口は約3万2500人。郡名と同じ名の主島を特に区別する場合、体島(チェド/體島/체도、「本島」の意)と呼ばれる。.
琉球大学
沖縄県唯一、また、日本最南端かつ最西端の総合大学、国立大学である。.
神功皇后
功皇后(じんぐうこうごう、成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、仲哀天皇の皇后。『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高顙媛。応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫あり。 三韓征伐を指揮した逸話で知られる。.
神功皇后神社 (豊北町)
功皇后神社(じんごうこうごうじんじゃ)は、山口県下関市豊北町に鎮座する神社である。.
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神国
国(しんこく)とは、「神の国」を意味する語で、日本では「神である天皇が治める国」、「神明に加護された国」あるいは「神々の宿る国」という意味合いの語である。神州(しんしゅう)ともいう。.
神聖ローマ帝国
聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、,,, Holy Roman Empire)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家。9~10世紀に成立し、1806年まで続いた。西ローマ帝国の後継国家を称した。.
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神領興行
興行(しんりょうこうぎょう)とは、主に鎌倉時代中期以降に、天人相関思想に基づき、天皇、幕府が行った神事の興行を図る政策のことである。諸神社の儀式遂行とその財源たる所領等の保障を目的に、既売却地・質流れ地等の無償返付を内容とした法令を発布した。一円神領興行法ともいい、徳政の一類型として理解されている。.
神風
(かみかぜ、しんぷう、かむかぜ)は神道用語。神の威力によって吹く強い風を意味する。 古くは日本書紀の垂仁紀において、「神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の波の敷浪の帰する国なり。この国に居らむと思ふ」という倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が天照大神から受けた神託などに登場する。「神風の」は伊勢にかかる枕詞である(「神風や」は伊勢神宮に関係の深い五十鈴川などにもかかる)。.
神風特別攻撃隊
母エセックスに突入を試みる神風特攻隊の特攻機 空母エセックスに突入を試みる神風特攻隊の特攻機 神風特別攻撃隊(かみかぜとくべつこうげきたい、しんぷうとくべつこうげきたい)は、第二次大戦で旧日本軍陸海軍が体当たり戦法のため編制した、特別攻撃隊。略称は「神風」、「神風特攻隊」、「特攻隊」。.
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祥興帝
祥興帝(しょうこうてい)は、南宋最後の第9代皇帝。姓は趙、諱は。廟号、諡号を持たないために、在位中の元号から祥興帝と呼ばれる。また、即位以前に封じられた王号でと呼ばれることも多い。他に少帝、幼主、帝昺と称される場合もある。元代に編まれた『宋史』では永国公として、恭帝(瀛国公)、端宗(建国公)と共に本紀の最後の巻(第四十七)にまとめられている。度宗の七男で、端宗の異母弟、また恭帝とは同年生まれの異母兄弟である。.
福岡城
福岡城跡の航空写真国土航空写真 福岡城(ふくおかじょう)は、現在の福岡県福岡市中央区に築かれた江戸時代の日本の城。別名、舞鶴城、石城。国の史跡に指定されている。.
福岡市
福岡市(ふくおかし)は、福岡県の西部に位置し、西日本では2番目、全国では5番目の人口(157万人、2018年4月現在)を擁する市。福岡県の県庁所在地であり、政令指定都市である。.
秦
(しん、、紀元前778年 - 紀元前206年)は、中国の王朝。周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦朝、秦代と呼ぶ。国姓の本姓は、氏は趙。統一時の首都は咸陽。.
稀音家浄観
音家 浄観(きねや じょうかん)は、長唄三味線方の名跡。墓所は初代・2代ともに文京区護国寺。.
端宗 (宋)
端宗(たんそう)は、南宋の第8代皇帝。姓は趙、諱は昰(.
竹崎季長
竹崎 季長(たけさき/たけざき すえなが)は、鎌倉時代中期の武士。鎌倉幕府御家人。元寇における自身の戦いを描かせた『蒙古襲来絵詞』で知られる。.
竜骨 (船)
(りゅうこつ、keel キール)とは、おおむね2つの意味があり、 ひとつには、重船舶の構造材のひとつで、船底を船首から船尾にかけて通すように配置された構造材のことを指す。 また英語でkeel キールと言えば、船舶の下に配置された水中構造体も指す。 上記2つは古くは構造上深い関係があったので同一名称で呼ばれており、現在では別のものになったものの、現代の船でもタイプによっては部分的に重なることがある。.
立正安国論
『立正安国論』(巻頭部分、日蓮撰・筆、法華経寺蔵、国宝) 『立正安国論』(りっしょうあんこくろん)は日蓮が執筆し、文応元年7月16日(ユリウス暦1260年8月24日、グレゴリオ暦1260年8月31日)に時の最高権力者にして先の執権(得宗)である北条時頼(鎌倉幕府第5代執権)に提出した文書。.
第一次世界大戦
一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、World War I、略称WWI)は、1914年7月28日から1918年11月11日にかけて戦われた世界大戦である。.
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第二次世界大戦
二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、Zweiter Weltkrieg、World War II)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ 、などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。.
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筥崎宮
筥崎宮(はこざきぐう)は、福岡県福岡市東区箱崎にある神社。式内社(名神大社)、筑前国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 別称として筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)とも呼ばれる。京都府八幡市の石清水八幡宮、大分県宇佐市の宇佐神宮とともに三大八幡宮の一つ。.
筑後川
筑後川(ちくごがわ)は、阿蘇山を水源として九州地方北部を東から西に流れ有明海に注ぐ川である。河川法に基づき国土交通省政令によって1965年(昭和40年)に指定された一級水系・筑後川水系の本流で、一級河川に指定されている。 流路延長143.0キロメートル、流域面積約2,860平方キロメートルの河川で規模としては九州地方最大の河川である。利根川(坂東太郎)・吉野川(四国三郎)とともに日本三大暴れ川のひとつと言われ、筑紫次(二)郎(つくしじろう)の別名で呼ばれることもある。また、上流部では田の原川・杖立川・大山川・三隈川とも呼ばれる(詳細は後述)。.
筑後国
筑後国(ちくごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。7世紀末までに成立した。.
筑前国
筑前国(ちくぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
筑波大学
開かれた大学」、「柔軟な教育研究組織」、「新しい大学の仕組み」を基本理念として、以下の目標を掲げている。.
箱崎 (福岡市)
箱崎(はこざき)は福岡県福岡市東区の町名。現行行政地名は箱崎一丁目から箱崎七丁目。2011年5月末現在の人口は17,535人、世帯数は9,463世帯.。郵便番号は812-0053。.
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続文献通考
『続文献通考』(ぞくぶんけんつうこう)は、清の張廷玉等が編集を始め、後に嵇璜、劉墉等が引き継ぎ、紀昀等が校訂した政書。乾隆49年(1784年)に完成した。十通の1つ。全250巻、26考。体系は『文献通考』に倣っている。宋の寧宗の嘉定末年から明の崇禎末年までの典章制度に詳しい。 明代の学者王圻の『続文献通考』が底本になっている。清朝の康熙年間、朱奇齢が『続文献通考補』48巻を著し、王圻の『続文献通考』を補足している。本書はその改編である。 Category:十通 Category:1780年代の書籍.
網野善彦
網野 善彦(あみの よしひこ、1928年(昭和3年)1月22日 - 2004年(平成16年)2月27日)は、日本の歴史学者。専攻は中世日本史。.
縁起
縁起(えんぎ、pratītya-samutpāda, プラティーティヤ・サムトパーダ、paṭicca-samuppāda, パティッチャ・サムッパーダ)とは、他との関係が縁となって生起するということ。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す。仏教の根本的教理・基本的教説の1つであり、釈迦の悟りの内容を表明するものとされる。因縁生、縁生、因縁法、此縁性ともいう。 種々の縁起説は、〈煩悩(惑)→行為(業)→苦悩(苦)〉を骨格とするが、無明を根本原因とする12の項目からなる縁起説(十二因縁)が次第に定着した。後世には、縁起の観念を分けて、業感縁起や頼耶縁起などの諸説が立てられた。.
群書類従
『群書類従』(ぐんしょるいじゅう)は、塙保己一が編纂した国文学・国史を主とする一大叢書。 塙保己一が古書の散逸を危惧し、1779年(安永8年)、菅原道真を祀る北野天満宮に刊行を誓った。江戸幕府や諸大名・寺社・公家などの協力を得て、収集・編纂した。古代から江戸時代初期までに成った史書や文学作品、計1273種を収めている。寛政5年(1793年) - 文政2年(1819年)に木版で刊行された。 歴史学・国文学等の学術的な研究に、多大な貢献をしている。.
翼祖
翼祖(よくそ)は東アジアの宗室における廟号の一。;中国.
習慣
習慣(しゅうかん、)とは、.
烏江
烏江(うこう、Wu Jiang 、, )は、中華人民共和国の貴州省から重慶市へと流れる大きな川で、長江上流で南岸(右岸)から入る支流の中でも重要な川。雲貴高原を流れる、貴州省随一の大河でもある。長さ1,037km。古くは黔江(けんこう)、涪水(ふうすい)、延江。 南北二つの大きな支流が合わさって烏江になる。南の三岔河は、貴州省西端の畢節市威寧イ族回族ミャオ族自治県の烏蒙山東麓に発し、北の六沖河は同じく畢節市の赫章県に発する。慣習上、三岔河が本流とされる。 烏江 両川は合流して鴨池河となり、省都貴陽市の息烽県で烏江と名を変える。貴州省を東西に貫いた烏江は、銅仁市から重慶市に入り、湖北省恩施土家族苗族自治州からの支流を合せ、重慶市涪陵区で合流する。 主な支流は、芙蓉江、清水江、濯河、猫跳河、洪渡河など。流域には多数のダムが建設され、中国でも有数の水力発電地帯になっている。.
爵位
爵位(しゃくい、)とは主に古代から中世にかけての国家や現代における君主制に基づく国家において、貴族の血統による世襲または国家功労者への恩賞に基づき授与される栄誉称号のことである。別称として勲爵、爵号など。官職と爵位を総称して官爵ということもある。.
終末論
終末論(しゅうまつろん、英語: eschatology)は、歴史には終わりがあり、それが歴史そのものの目的でもあるという考え方。目的論という概念の下位概念。.
瑞渓周鳳
渓周鳳(ずいけいしゅうほう、明徳2年/元中8年12月8日(1392年1月2日)- 文明5年5月8日(1473年6月3日))は、室町時代中期の臨済宗夢窓派の僧。和泉国堺の出身で、俗姓は大伴氏。諱は周鳳。字は瑞渓。臥雲山人とも称される。諡号は興宗明教禅師(文明14年(1482年)勅諡)。.
甑島列島
甑島列島の位置 NASAによる撮影。 甑島列島(こしきしまれっとう)は、東シナ海にあり、鹿児島県薩摩川内市に属する列島。甑列島(こしきれっとう)ともいう。上甑島(かみこしきしま)、中甑島(なかこしきしま)、下甑島(しもこしきしま)の有人島3島と多数の小規模な無人島からなる三浦尚子「鹿の子百合の咲く島: 里町における鹿の子百合栽培の変遷資料」『お茶の水地理』47巻、2007年、54-58頁。中甑島北部にある「甑」(蒸籠)の形をした巨石を甑大明神として崇拝したことに由来し、かつては「古敷島」「小敷島」「子敷島」「古志岐島」などとも書いた日外アソシエーツ (1991)、221頁菅田編 (1995)、172頁薩摩川内市。列島全体では人口5,576人、面積117.56km2、海岸線延長183.3kmである『離島統計年報 2011年版』日本離島センター(CD-ROM)。 従来、「こしきじま」という呼称であったが、薩摩川内市は国土地理院に変更を申請し、2014年8月に「こしきしま」に呼称が変更された(#名称参照)。.
無学祖元
無学祖元(むがく そげん、嘉禄2年(1226年) - 弘安9年9月3日(1286年9月22日))は、中国明州慶元府(浙江省寧波市)出身の鎌倉時代の臨済宗の僧。諡は仏光国師・円満常照国師。日本に帰化して無学派(仏光派)の祖となる。字は子元。 建長寺・円覚寺に兼住して日本の臨済宗に影響を与える。その指導法は懇切で、老婆禅と呼ばれ、多くの鎌倉武士の参禅を得た。.
異国警固番役
国警固番役(いこくけいごばんやく)とは、鎌倉時代後期、幕府が九州の御家人に課した軍役。 文永の役後、元の再襲来に備え強化された。.
異称日本伝
日本伝(いしょうにほんでん)とは、1688年(元禄元年)成立、江戸時代の松下見林(まつしたけんりん)が書いた歴史研究書。.
牒
(ちょう)とは、律令制における公文書の様式の1つ。 本来は、主典以上の官人個人が諸司に上申する際に用いられたもので、その様式は書出に牒の字を記してから本文を記して、謹牒(つつしみてちょうす)の書止で締めくくり、最後の行に年月日と位署(官職・位階・氏名)を書いて位署の下に「牒」の一文字を入れたものである。大宝令の公式令の牒はこの文書のみを指していたと考えられている。更に令外官が設置されるようになると、令外官には所管・被管の上下関係が存在しない場合があるため、原則的に令外官が関わる(差出人・宛先人の片方もしくは双方が令外官)の場合には牒が用いられていた。 ところが、養老3年(719年)には、本来所管・被管関係にないために牒でやり取りが行われていたと見られる僧綱・三綱と俗官官司との文書のやり取りは、「移」とあるべきところを「牒」と置き換えた上で移の書式をもって作成することとされた。それは当時編纂中であった養老令の公式令にも反映され、もう1つの牒の書式として追加されたのである。なお、太政官や院庁が僧綱などに送る牒は、それぞれ特に太政官牒・院庁牒と称した。平安時代中期に入ると、太政官牒・院庁牒は請印が不要な官宣旨・院宣にその役目を取って代わられる一方で、蔵人所・検非違使庁をはじめとした令外官の増大で牒そのものの発給は増大した。特に蔵人所は国政の枢要の座したために多くの牒を発給し、次第に移や辞、符など本来は他の書式で出されるべき事例も牒で発給されるようになっていった。そのため、本来は移によって出されるべき律令官司間の平行文書や辞によって出されるべき個人からの上申文書や符によって出されるべき個人への下行文書(命令文書)も牒によって行われるようになっていった。.
相田二郎
二郎(あいだ にろう、1897年(明治30年)5月12日 - 1945年(昭和20年)6月22日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学史料編纂官。専門は日本中世史、日本古文書学で、生涯にわたって古文書学の研究・教育につとめた。.
瀬戸内海
戸内海(せとないかい)は、本州、四国、九州に挟まれた内海。山口県、広島県、岡山県、兵庫県、大阪府、和歌山県、徳島県、香川県、愛媛県、大分県、福岡県がそれぞれ海岸線を持つ。沿岸地域を含めて瀬戸内(せとうち)とも呼ばれている(ただし瀬戸内海の名称源ではない。瀬戸内海は「瀬戸の内海」の意である)。 古来、畿内と九州を結ぶ航路として栄えた。気候は瀬戸内海式気候と呼ばれ、温暖で雨量が少ない。.
白石通泰
鳥飼潟の戦いにおいて竹崎季長の後方より駆け、元軍に弓を射る肥前国御家人・'''白石通泰'''の手勢。墨書に「白石六郎通泰/其勢百余騎/後陣よりかく」。(『蒙古襲来絵詞』前巻・絵5・第17紙) 白石 通泰(しろいし/しらいし みちやす、道泰、生没年未詳)は、鎌倉時代中期の肥前国白石(現佐賀県杵島郡白石町)の武将。通称は六郎。鎌倉幕府御家人。.
白藤江の戦い (1288年)
白藤江の戦い(はくとうこうのたたかい、バクダンの戦い、)は、1288年にベトナムで行われた陳朝ベトナム軍と元軍との戦いである。.
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白村江の戦い
白村江の戦い(はくそんこうのたたかい、はくすきのえのたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。.
百道
道(ももち)は、福岡市早良区の地名。現行行政地名は百道一丁目から百道三丁目。2012年1月31日現在の人口は6,285人。 郵便番号〒814-0006。.
隆興
隆興(りゅうこう)は中国の南宋時代に孝宗の治世で用いられた元号。1163年 - 1164年。.
銅鑼
銅鑼(どら)は体鳴楽器に属する打楽器の一つ。青銅、真鍮、鉄などでできた金属製円盤を枠(ドラスタンド)に吊るして、桴で打ち鳴らす。仏教の法要 横須賀市教育研究所、民俗芸能の囃子、歌舞伎下座音楽、出帆の合図など広く用いられる。 はっきりした音程はないが、一定の音程に調律するものもある。 音を止めるときは尻を使うこともある。 全長100メートル以上の船舶には登載が義務付けられている。霧などによって視界が悪くなった時に停泊中の船舶は乗組員が船首にある鐘と同時に銅鑼を船尾で鳴らし、船の大きさを他の船舶に伝えることになっている。 英語では、東南アジア等で使われる音階のある伝統楽器や、格闘技などで試合の合図として打ち鳴らすものなどを含めてゴングと総称する。ゴング一般に関しては記事「ゴング」を参照。.
隋
隋(呉音: ずい、漢音: すい、 、581年 - 618年)は、中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。当時の日本である倭国からは遣隋使が送られた。.
韓信
韓 信(かん しん)は、中国秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた。張良・蕭何と共に漢の三傑の一人。 なお、同時代に戦国時代の韓の王族出身の、同じく韓信という名の人物がおり、劉邦によって韓王に封じられているが、こちらは韓王信と呼んで区別される。.
鎧
画像は当世具足の一形式。1 - 胴2 - 草摺(くさずり)3 - 佩楯(はいだて)4 - 袴5 - 脛当(すねあて)6 - 草鞋7 - 袖8 - 籠手(こて)9 - 手甲(てっこう)10 - 兜鉢(かぶとばち)11 - 腰巻(こしまき)12 - 眉庇(まびさし)13 - 吹返(ふきかえし)14 - 錏(しころ)15 - 脇立(わきだて)16 - 前立(まえだて)17 - 面具(めんぐ)18 - 垂(すが)19 - 襟廻(えりまわし) 鎧(甲、よろい)は、戦闘の際に装着者の身体を矢や剣などの武器による攻撃から防護する衣類・武具のこと。重要な臓器のある胴や胸の部分を守るのが主な目的である。'''兜'''('''冑'''、かぶと)や他の防具とセットで用いられ、あわせて甲冑とも呼ばれる。人間だけではなく、戦馬や象などの動物を保護するために使われることもあった。 鎧の素材は、革・青銅・鉄と実に様々で、また同じ鉄であっても板金を加工して用いたり鎖状にしたものを用いたりとバリエーションに富む。鋼材を打ち伸ばして作った鉄板を組み合わせた物や、鉄や青銅の小板を紐で繋げた物、鉄や青銅のリングを幾つも繋いだ鎖帷子がある。.
鎮西
鎮西(ちんぜい/ちんせい).
鎮西奉行
鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)とは、鎌倉幕府において、鎮西(九州)の御家人の指揮統制を行った職である。鎮西守護(ちんぜいしゅご)とも呼ばれる。.
鎮西探題
鎮西探題(ちんぜいたんだい)は、鎌倉時代に幕府が西国(九州)の統括のために設置した機関である。行政・訴訟(裁判)・軍事などを管轄した。.
鎌倉
鎌倉(かまくら)は、現在の神奈川県鎌倉市の中心部に当たる地域。源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時らによって鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。三方を山に、一方を海に囲まれている。 鎌倉大仏.
鎌倉年代記
鎌倉年代記(かまくらねんだいき)は、鎌倉時代の歴史書であり年表風の年代記である。元弘元年(1331年)頃に成立し、翌正慶元年(1332年)条および裏書が後に追加されたと考えられる。年賦は寿永2年(1183年)から元弘元年(1331年)まである。編者は不明だが鎌倉幕府の吏員と考えられる。底本は折本仕立てで一帖二十六折。書名は原本包紙による。 壬生官務家旧蔵書のひとつで、現在は京都大学附属図書館所蔵。幕府の要人などが政務時に過去の出来事を参照するため、携帯用の年表・ハンドブックとして利用されていたようである。同様の鎌倉時代の折本形式の年表としては『武家年代記』、『鎌倉大日記』などが知られている。鎌倉時代後期の鎌倉幕府の動向を知る貴重な資料。 後に写本や活字本にされたものは『北条九代記』と題され、同書の異本である。『続群書類従』や『改訂史籍集覧』にも『北条九代記』の名で収められている。 同書中には、『吾妻鏡』に見えない記事もあるという。また、正安3年(1301年)に地球に接近したハレー彗星についての記事がある。.
鎌倉幕府
鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.
鎌倉幕府の高麗遠征計画
鎌倉幕府の高麗遠征計画(かまくらばくふのこうらいえんせいけいかく)とは、文永の役以後に元軍の根拠地と考えられた高麗に遠征を行って日本侵攻の拠点を制圧しようとした構想のことである。 文永の役で元軍を撃退したものの、鎌倉幕府では再度の侵攻を予想して、元軍が行動を起こす前に日本侵攻軍が拠点とするであろう高麗を先に制圧することで遠征を阻止しようとする構想が浮上した。 1275年(建治元年)11月に金沢実政が異国征伐のために鎮西(九州)に下向したとされ、翌月には安芸国の守護である武田信時に異国征伐に関する関東御教書が出され、明年3月を目途に異国征伐を行うこと、鎮西で水手が不足した場合には山陰・山陽・南海各道から調達するため、御家人・本所(公家領・寺社領)を問わずに水手を募って博多への派遣準備を進めるようにという内容であった(建治元年(1275年)執権北条時宗・連署北条義政関東御教書案「東寺百合文書」京都府立総合資料館所蔵)。だが、この時は本来鎌倉幕府の支配が及ばない筈の本所にも動員がかけられたことに対する抵抗の動きや同時に行われていた博多湾での石塁構築との二重負担の問題があり、実施されることなく終わった。 その後、弘安の役が発生し、1281年(弘安4年)8月には再度高麗遠征論が唱えられ、九州の有力武士であった少弐経資と大友頼泰を大将とし、彼らが支配する九州北部の御家人たちを動員し、更に山城国や大和国の悪徒(僧兵)にも協力を要請するもであったが、これも実施されることなく終わり、以後幕府内の政争などもあって中断されたまま終わった。 なお、この出兵の背景には二度の元寇で恩賞が貰えなかった御家人たちに制圧した高麗の土地を与えようとしたとする見方もある。.
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鎌倉遺文
鎌倉遺文(かまくらいぶん)とは、鎌倉時代の古文書の網羅を目指して編集された史料集。竹内理三編。古文書編42巻、補遺4巻、索引編5巻。東京堂出版刊。 竹内がほぼ独力で昭和46年(1971年)から平成7年(1995年)の25年をかけて編纂した。本編である古文書編は文治元年(1185年)から正慶2年(1333年)までの文書3万5千通を収録、諸本からの引用部分や紙背文書・金石文などからも採録されている。 現存する鎌倉時代の古文書の大部分が年代順に収められている。年号のない文書はおよその年代を推測して挿入し、推定不可能な文書については内容から便宜合叙されている。 年号の無い文書(約9000通)については、別途『鎌倉遺文無年号文書目録』(瀬野精一郎編、東京堂出版、1993年)が刊行されている。 所収漏れの文書、竹内没後に発見された古文書などの蒐集・整理やデータベース化が進められている。2008年に『鎌倉遺文』全46巻のCD-ROM版が刊行された。また、46巻に未収録であった東寺文書約1000通について、2011年から鎌倉遺文研究会により「補遺編・東寺文書」が刊行されている(全4巻、2014年までに3巻刊行)。.
鎌倉時代
伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).
遊牧民
遊牧民族のサーミ人 遊牧民(ゆうぼくみん)あるいは遊牧民族(ゆうぼくみんぞく)は、人類の生活類型の二大区分である移動型と定住型のうちの移動型の牧畜(遊牧)を生業とする人々や民族を指す。.
遷都
遷都(せんと)は、都(みやこ)を他所へうつす(遷す)こと広辞苑 第五版。、都を替えることを意味する漢字文化圏の語。日本語では古くは都遷り大辞林 第三版。/都移り(みやこうつり)とも言った。反対に、かつて都であった場所に都を戻す(還す)ことは還都(かんと)と言い(cf. #還都の一覧)、日本語では古くは都還り(みやこがえり)とも言った。ただし、日本語に限っては、還都は遷都と同義で用いられることもある。現代では、首都機能の全部もしくは重要な一部を他に遷すことを指して首都機能移転という語も用いられる(後述)。.
遼
遼(りょう、簡体字:辽、拼音:Liáo)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝。916年から1125年まで続いた。中原に迫る大規模な版図(現在の北京を含む)を持ち、かつ長期間続いた最初の異民族王朝であり、いわゆる征服王朝(金、元、清が続く)の最初とされる。ただし、後の3つの王朝と異なって中原を支配下にはおいていない。.
遼陽市
遼陽市(りょうようし)は中華人民共和国遼寧省に位置する地級市。古代より遼東における中華帝国の中心であった軍事上の重要都市であり、また新興の工業都市である。.
聖福寺
聖福寺(しょうふくじ)は、寺院の名。日本各地にある。.
荘園
荘園(しょうえん)は、公的支配を受けない(あるいは公的支配を極力制限した)一定規模以上の私的所有・経営の土地である。なお、中世の西ヨーロッパ・中央ヨーロッパに見られたmanor(英語)、Grundherrschaft(ドイツ語)の訳語としても用いられている。.
荘園領主
荘園領主(しょうえんりょうしゅ)とは、荘園を支配する領主のこと。一般的には荘園支配の上層部に立つ本家・領家などを指す。ただし、これは歴史学において荘園現地の大土地所有者である「在地領主」との対比として用いられている用語であり、当時において実際に用いられていた用語ではない。.
荘穆王后
荘穆王后(そうぼくおうこう、1259年7月19日 - 1297年6月11日)は、高麗の第25代王忠烈王の正妃。モンゴル人で、本名は孛儿支斤 忽都魯掲里迷失(ボルジギン クトゥルク=ケルミシュ)。元の世祖の娘で、1274年5月に忠烈王に降嫁される。 1275年9月に生まれた長男の益知礼普花(イジリブカ)は高麗の第26代王となった忠宣王である。同年に高麗より元成公主、1294年に元より安平公主に封じられた。没後には、高麗より荘穆仁明王后、仁明王太后と追号され、1310年に元において斉国大長公主を追封された。.
菊池神社
菊池神社(きくちじんじゃ)は日本の神社。.
菊池神社 (菊池市)
菊池神社(きくちじんじゃ)は、熊本県菊池市に鎮座する神社である。南北朝時代に南朝側で戦った菊池氏の3代を祭る。建武中興十五社のうちの一社である。旧社格は別格官幣社で現在神社本庁の別表神社。 境内に菊池歴史館があり、菊池千本槍など菊池氏500年の歴史の遺物が展示されている。桜の名所としても知られている。.
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菊池武房
菊池 武房(きくち たけふさ)は、鎌倉時代中期の武将。菊池氏の第10代当主。第9代当主・菊池隆泰の次男。蒙古襲来に際して一族を挙げて戦い、その活躍が『蒙古襲来絵詞』に描かれている。.
菊池氏
菊池氏(きくち し)は、日本の氏族の一つ。本姓を藤原氏とし、九州の肥後国菊池郡(熊本県菊池市)を本拠としていた一族である。明治維新の立役者(維新の十傑の一人)西郷隆盛も菊池一族の末裔と伝わる。.
鏑矢
鏑矢(かぶらや、希に蕪矢とも書く)は矢の先端付近の鏃の根元に位置するように鏑(後述)が取り付けられた矢のこと。射放つと音響が生じることから戦場における合図として合戦開始等の通知に用いられた。 古くはユーラシア大陸に於いては、戦国時代の中原に於いて、荘子在宥篇に「嚆矢」の故事成語を成した話が記されている。また、北アジアの草原地帯に於いて遊牧国家匈奴を大帝国に発展させた冒頓単于が、親衛隊に冒頓の射る鏑矢の向けられた先を一斉に射るよう厳命し訓練をほどこし、クーデターに成功した逸話が前漢期に匈奴と全面戦争を永年にわたって展開した武帝の時代に編纂された史記に語られる。 日本列島に於いては鎌倉時代には既に記述が見られる(保元物語)が、初期の頃は名称も定まっておらず起源、いつ頃から使われていたのかは解っていない。.
鐙
鐙(あぶみ、英語:Stirrup)は、馬具の一種。乗馬で用いる。 鐙革(あぶみがわ)で鞍から左右1対を吊り下げ、騎乗時(馬に登るとき、および、乗っているとき)に足を乗せる(これを「鐙を履く」と言う)。ただし完全に足を深く通すのではなく、爪先を乗せるようにして使う。.
蝦夷地
蝦夷地(えぞち)は、日本人がアイヌの居住地を指して用いた言葉で、江戸時代に使われた。和人地の対語である。渡島半島周辺を除く現在の北海道を中心に、樺太と千島列島を含む。なお、アイヌ人はそれらの島々をアイヌモシリと呼んだ。.
頼山陽
書斎山紫水明處・京都市上京区 頼山陽の署名「頼襄」 頼 山陽(らい さんよう、安永9年12月27日(1781年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))は、大坂生まれの江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。幼名は久太郎(ひさたろう)、名は襄(のぼる)、字は子成。山陽、三十六峯外史と号した。主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。贈正四位。.
領家
家(りょうけ)は、日本の荘園制において、荘園を開発した開発領主(かいはつりょうしゅ)から寄進を受けた荘園領主である。中央の有力貴族や有力寺社が荘園寄進を受けて領家となっていた。.
項籍
項 籍(こう せき、Xiàng Jí、紀元前232年 - 紀元前202年)は、秦末期の楚の武将。秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時“西楚の覇王”(在位紀元前206年 - 紀元前202年)と号した。その後、天下を劉邦と争い(楚漢戦争)、当初は圧倒的に優勢であったが人心を得ず、次第に劣勢となって敗死した。 姓は項、名は籍、字が羽である。以下、一般に知られている項羽(こうう)の名で記す。.
行幸
行幸(ぎょうこう、みゆき)とは、天皇が外出することである。目的地が複数ある場合は特に巡幸(じゅんこう)と言う。 また、御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)と言う場合もあるが、これは上皇・法皇・女院に対しても使う。.
飛脚
飛脚(ひきゃく)は、信書や金銭、為替、貨物などを輸送する職業またはその職に従事する人のことである。佐川急便の商標でもある。単純な使い走りとは違い、事業が組織化されているのが特徴である。.
西区 (福岡市)
西区(にしく)は、福岡市を構成する7区の行政区の一つである。.
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西園寺実氏
西園寺 実氏(さいおんじ さねうじ)は、鎌倉時代前期の公卿。従一位太政大臣。常盤井相國と号す。父は准三宮太政大臣西園寺公経。旧字で實氏。.
西園寺公衡
西園寺 公衡(さいおんじ きんひら)は、鎌倉時代後期の公卿。従一位左大臣。竹林院左大臣、または竹中と号する。父は太政大臣西園寺実兼。母は内大臣中院通成の娘顕子。.
西牟田永家
西牟田 永家(にしむた ながいえ、生没年不詳)は、鎌倉時代の武将、御家人。通称は弥次郎。筑後の豪族・西牟田氏当主。.
西暦
西暦(せいれき)とは、キリスト教でキリスト(救世主)と見なされるイエス・キリストが生まれたとされる年の翌年を元年(紀元)とした紀年法である。ラテン文字表記はヨーロッパ各国で異なるが、日本語や英語圏では、ラテン語の「A.D.」又は「AD」が使われる。A.D.またADとは「アンノドミニ (Anno Domini)」の略であり、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味。西暦紀元、キリスト紀元ともいう。 今年は2018年 (JST) である。西ヨーロッパのキリスト教(カトリック教会、および後のプロテスタント)地域から徐々に普及し(後述)、西欧諸国が世界各地で進めた植民活動などによって伝わった結果、現在において世界で最も広く使われている紀年法となっている。 しかし、19世紀以降においては、非キリスト教徒との関係から、ADをCommon Era(略:CE、「共通紀元」の意)へ、同時に紀元前(BC)をBefore Common Era(BCE)に切り替える動きが広まっている。.
西新
西新(にしじん)は、福岡県福岡市早良区の地名。現行行政地名は西新一丁目から七丁目。2017年9月30日現在の人口は11,664人。郵便番号814-0002。.
襄州区
襄州区(じょうしゅう-く)は中華人民共和国湖北省襄陽市に位置する市轄区。古くから交通の要衝等の重要拠点として大きな都市が形成されていた。2010年12月、襄樊市が襄陽市に改名され、それに伴い襄陽区が襄州区に改名された。.
襄陽・樊城の戦い
襄陽・樊城の戦い(じょうよう・はんじょうのたたかい)は、1268年から1273年にわたってモンゴル帝国と南宋との間で行われた戦闘。襄陽・樊城は南宋にとって国土防衛の最重要拠点であり、40年近くにわたって行われたモンゴル・南宋戦争においてよくモンゴル軍の攻撃対象となったが、ここでは第3次モンゴル・南宋戦争において行われた戦いについて述べる。.
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親征
親征(しんせい)は、本来は漢語で「親(みず)カラ征ク」こと、すなわち天子が自ら遠征に出ることを言い、一般には、皇帝、天皇、王などの君主が、自ら軍を率いて戦争に出ることを広く指す。.
馬山市
山市(マサンし)は、大韓民国慶尚南道にかつて存在した市。 鎮海湾最奥部に位置し、古くから港を中心に発展した土地であり、近代には開港場となった。1970年に設定された馬山自由貿易地域は、韓国経済テイク・オフの導火線となった。 2010年7月に昌原市に編入され、かつて馬山市であった地域は昌原市の馬山合浦区と馬山会原区になった。.
角川書店
角川書店(かどかわしょてん)は、日本の出版社・KADOKAWAのブランドの一つ。東京都千代田区に事業所を置く。 本項では、ブランドカンパニー化以前の株式会社角川書店についても解説する。.
騎射
イルハン朝の弓騎兵画は15世紀ティムール朝時代 騎射(きしゃ)は、騎上(馬の上)から弓で矢を射ること。大陸では狩りには欠かせない技術であるため、遊牧民にこれを得意とするものが多い。 紀元前8世紀頃にスキタイ人により始められる。騎馬遊牧民の彼らは牧草を求め常に移動しながら生活、また屢々馬に跨がり他民族と闘っていたが、彼らのこういった生活文化の中で自然的必要性から騎射は開発・発展して来たものと考えられる。騎射はすぐに中央アジアの遊牧民の間に波及し、フン人、アヴァール人、マジャル人など同様の騎馬遊牧民に次々と取り入れられ、後にモンゴル人にも及び、古代世界に普及して行った。古代において彼ら騎馬遊牧民の騎射術が定住民に及ぼした影響は大きいが、しかし常に移動を繰り返すために当時の彼らの実体は詳しく解っていない。.
騎兵
騎兵(きへい、cavalry, Trooper)は、兵種の一つで、馬など動物に騎乗して戦闘行動を取る兵士である。最初はロバが使用されていたが、後に馬が主流になった。最古の騎兵は動物が曳行する戦車に乗った兵士であったが、後に動物に跨る騎兵に移行していった。 騎兵は相対的に高い機動力・攻撃力を誇り、作戦の幅を広げ、偵察、伝令、警戒など後方支援でも活躍した。また、軽騎兵・重騎兵と分類されることもあり、前者は機動力を、後者は攻撃力及び防御力を重視している。現代では騎兵から派生した、装甲車やヘリコプターに搭乗する部隊も「騎兵」と呼ぶことがある。.
読売新聞
読売新聞東京本社(千代田区大手町) 読売新聞旧東京本社(千代田区大手町、現存せず) 2010年10月から2014年1月まで読売新聞東京本社の仮社屋として使用されていた旧日産自動車本社ビル(中央区銀座) 読売新聞中部支社新社屋 読売新聞中部支社(旧中部本社)旧社屋 読売新聞大阪本社 読売新聞西部本社 読売新聞(よみうりしんぶん、新聞の題字および漢字制限前の表記は讀賣新聞、英語:Yomiuri Shimbun)は、株式会社読売新聞東京本社、株式会社読売新聞大阪本社および株式会社読売新聞西部本社が発行する新聞である。 題号は、江戸時代に瓦版を読みながら売っていた「読売」に由来する。.
読売文学賞
読売文学賞(よみうりぶんがくしょう)は読売新聞社が制定した文学賞で、1949年に第二次世界大戦後の文芸復興の一助として発足した。小説、戯曲・シナリオ、随筆・紀行(第19回より創設)、評論・伝記、詩歌俳句、研究・翻訳の6部門に分類し、過去1年間に発表された作品を対象とする。 受賞作品は選考委員の合議によって決定される。受賞者には正賞として硯、副賞として200万円が授与される。年度受賞者は翌年の2月1日に発表するため、受賞年度の表記で混乱が生じることがある。.
誉田八幡宮
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)は、大阪府羽曳野市にある神社である。旧社格は府社。主祭神は応神天皇で、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の直ぐ南に鎮座する。.
諏訪大社
上社神紋「諏訪梶の葉」神紋は上社が四根の梶、下社は五根の梶。 諏訪大社(すわたいしゃ)は、長野県の諏訪湖周辺4か所にある神社。式内社(名神大社)、信濃国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「梶の葉」。 全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社である。旧称は諏訪神社。通称として「お諏訪さま」「諏訪大明神」等とも呼ばれる。.
諏訪春雄
諏訪 春雄(すわ はるお、1934年3月30日 - )は、日本の近世文学・芸能史学者。学習院大学名誉教授。 新潟県新潟市生まれ。1956年新潟大学国文学科卒業、1961年東京大学大学院国文科博士課程単位取得退学、1958年中・高等科教諭、1970年学習院女子短期大学教授、1979年学習院大学教授。1966年「元禄歌舞伎の研究」で東京大学文学博士。2005年定年退職、名誉教授。 国際浮世絵学会理事長、歌舞伎学会監事、日本近世文学会代表など。1995年内山記念浮世絵賞、2004年安倍能成記念学術賞。2013年秋、瑞宝中綬章受勲。雑誌『GYROS』を編纂。 歌舞伎研究から出発したが、近世の浮世絵、民俗学等に関心が広まり、東アジアとの比較芸能、民俗、宗教等に展開、近年は時事問題に対しても活発に発言している。 1985年、丸谷才一が『忠臣蔵とは何か』を発表した際、これを厳しく批判し、丸谷と論争になった(『聖と俗のドラマツルギー』、丸谷『鳥の歌』)。.
高句麗
句麗(こうくり、、紀元前37年 - 668年)または高麗(こうらい、こま、)は、現在の中国東北部の南部から朝鮮民主主義人民共和国、韓国北部に存在した国家。しばしばツングース系民族によって建てられたとされるが*シロコゴロフ、川久保悌郎・田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。.
高宗 (高麗王)
宗(こうそう、1192年2月3日 - 1259年7月21日)は第23代高麗王(在位:1213年 - 1259年)。姓は王、諱は皞、諡号は忠憲安孝大王。 1218年、モンゴル帝国と同盟を結ぶことで親睦を深めようとしたが、モンゴルに従属国同然に扱われたことに激怒し、1225年に断交して対立する。そのため、高麗はモンゴル軍の侵攻を6度にわたって受けることになった。 このため、モンゴルの襲来を恐れた崔氏政権は高麗の首都を江華島に移したが、その結果として本土が壊滅状態となり、1258年、これを見かねた高宗は、皇太子(のちの元宗)を人質として差し出すことを条件にして降伏した。このモンゴルの侵攻で高麗は荒廃し、実質的には滅亡状態にあったという。 服属後の高麗国王は、皇帝号・天子の呼称をあらゆる場面において禁止され、詔などの字を用いることも禁止された。太子は世子と格下げされるなどの処置もこうむった。高麗滅亡後、朝鮮では皇帝号・天子の呼称は基本的に使用されず、全て国王号に統一されたため、高宗は朝鮮における皇帝としては、大韓帝国以前の最後の人物となった。 1236年にモンゴルが高麗に侵攻し、符仁寺にあった版木は戦災で焼失してしまった。高宗は江華島に避難していたが、大蔵経の製作を指示し、巨済島や南海から白樺の材木を運び、15年の歳月をかけて8万枚以上もの版木を彫り上げた。これが、今日に伝わる高麗八萬大蔵経である。.
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高麗
麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.
高麗史
『高麗史』(こうらいし)は、朝鮮の高麗王朝(918年 - 1392年)のことを記した紀伝体の官史。編纂は李氏朝鮮の鄭麟趾らによって行なわれ、文宗元年(1451年)に完成した。成立の際、高麗国王歴代の実録をはじめ多くの公私文書朝鮮王朝実録に相当する高麗王朝実録があったとされる。この実録の存在は、世宗実録からも存在が確認されるが、高麗史成立後の存在は不明となっている。具体的には、高麗の実録は世宗 22年までは忠州開川寺史庫に収蔵されてから 高麗史纂修のために京中に輸送されて、纂修が終わった後の行方ははっきりしない。 出典はである。 また史庫に関する詳細は、 を参照されたい。 なお、焚書された元天錫の「野史」6巻によれば、高麗史は高麗王朝実録の書き換えであり、「高麗実録」を「高麗史」に書き換えた事情が書かれ、高麗末の禑王は辛旽の子ではなく、恭愍王の子と書かれていたという。現存は転記の耘谷集等詩歌の部分と記録のみである。 ・書籍が参照されたが、すべて焚書または消失李氏朝鮮 太祖の時代に 「書雲觀」等の記録を焚書した。さらに一般民の史書の所持と輸入は厳しく禁止していた。具体的には明朝會典 皇明通紀 明紀輯略等多岐にわたる。 例えば、平安道の儒生 桂徳海が中国からの史書を所持していた事件(1771年)で断罪されている。し、大部分は現存しないので、この『高麗史』と独立に編纂された春秋館編纂の編年体形式の『高麗史節要』(1452年)が高麗時代の史書となる。.
高麗史節要
麗史節要(こうらいしせつよう)は、1452年に成立した朝鮮の歴史書。高麗(918年-1392年)の正史のひとつである。 朝鮮王朝の監春秋館事・金宗瑞らが、先代の王朝である高麗の歴史を編年体でまとめたもの。1451年に成立した鄭麟趾撰の『高麗史』の節要(ダイジェスト)という位置づけであるが、『高麗史』とは独立に編纂されたためにオリジナルの記事を多く含むほか、『高麗史』よりも詳細な部分もあり、貴重な史書である。35巻からなる。.
高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻
麗・李氏朝鮮の対馬侵攻は、14世紀末から15世紀初めにかけて行われた、高麗、李氏朝鮮正規軍による対馬への侵攻。倭寇の根拠地と目された対馬(壱岐も目標とされた)を攻撃し、その根絶を図るものとされた。.
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高橋克彦
橋 克彦(たかはし かつひこ、1947年8月6日 - )は、日本の小説家。 岩手県釜石市生まれ、盛岡市在住。岩手中学校・高等学校を経て早稲田大学商学部卒業。盛岡藩の御殿医の家系で開業医の家庭に育ち、医学部受験の経験がある。父は医師の高橋又郎(2002年没)。エッセイストの高橋喜平と、「どろ亀さん」の愛称で親しまれた東大名誉教授の高橋延清は伯父にあたる。.
豊後国
豊後国(ぶんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
豊前国
豊前国(ぶぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
豊田有恒
豊田 有恒(とよた ありつね、1938年5月25日 - )は、日本の作家。SF作家、推理作家、翻訳家、脚本家、評論家。本名の表記は同一だが、豊田の読みが「とよだ」と濁る(ただし、著者名に「とよだ」とルビがふられた著作もある)。日本SF作家クラブ会員。.
豊浦郡
*.
鳴弦の儀
弦の儀(めいげんのぎ)は弓を使用した日本の儀礼のひとつ。弦打の儀(つるうちのぎ)とも呼ばれる。.
趙良弼
趙良弼(ちょう りょうひつ、1217年 - 1286年)は、元の女真人官僚、政治家。.
鷹島 (長崎県)
鷹島(たかしま)は、九州北西部の伊万里湾口にある島。全島が長崎県松浦市に属する。.
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軍国主義
本記事では軍国主義(ぐんこくしゅぎ、militarism, Militarismus)について解説する。.
軍歌
軍歌(ぐんか)とは、広義には主に軍隊内で士気を高めるために作られた歌のことである。歴史的な出来事を扱ったものから、戦死した犠牲者を悼むことを目的とするものまで、内容は様々である。.
黒山島
黒山島(フクサンとう、こくさんとう)は、全羅南道新安郡黒山面にある島。木浦市の南西の方向97.2kmにある。面積は19.7km²で、人口は2001年現在3,133人。 黒山島南東部の沙里港 統一新羅時代の828年に張保皐が莞島に清海鎭を設置し、ここに城を築きながら村が形成され始めた。李氏朝鮮の肅宗の時に黒山鎭が設置されるなど西南海岸の国防基地だった。1969年に新安郡に編入された。 黒山島という名前は、遠くから見ると山と海が青黒く見えるといって付けられたといわれる。島全体が山地で成り立っている。近隣の紅島、多物島、大芚島、永山島などとともに黒山群島を成す。西24kmには紅島が、南30kmには上苔島、中苔島、下苔島などの苔島群島が、南50kmには小中間群島が、南西70kmには可居島(小黒山島)がある。 茫々たる大海にある島なので、古くから流配地として使われた。丁若銓がカトリック迫害問題でここに流配され、長い間とどまりながら『玆山漁譜』を書いた事実はよく知られている。李氏朝鮮末期の儒学者崔益鉉も黒山島で流配生活をした。崔益鉉と丁若銓の遺跡地が残っており、張保皐が築いたという伝説のある上羅山城は全羅南道指定文化財である。 石柱大門という象の形の岩は、海の上に石で建てた大門のような形状で、名所の一つである。多島海海上国立公園の一部に指定され、観光客たちがたくさん訪れている。海産物ではガンギエイが名物である。 李美子のヒット曲「黒山島娘」は黒山島を背景にした歌である。黒山島の本島である大黒山島にはこの歌の歌碑が建てられている。.
黒田俊雄
黒田 俊雄(くろだ としお、 1926年1月21日 - 1993年1月26日)は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。文学博士。『黒田俊雄著作集』全8巻(法藏館)がある。.
辞世
敗北の責任をとり、切腹を行おうとする武士(明石義太夫)。辞世の句を書き終えている。月岡芳年による画 黒木博司の辞世の句「国を思い死ぬに死なれぬ益良雄が 友々よびつ死してゆくらん」 辞世(じせい)とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈、和歌、発句またはそれに類する短型詩の類のことを指す。.
龍谷大学
記載なし。
龍造寺氏
龍造寺氏(りゅうぞうじし)は、日本の氏族。戦国時代に肥前国の東部の国人から、九州の北西部を支配する戦国大名に成長した一族である。.
近世
近世(きんせい、英語:early modern period)とは、歴史学における時代区分のひとつ。中世よりも後で、近代よりも前の時期を指す。.
近衛基平
近衛 基平(このえ もとひら)は、鎌倉時代中期の公卿。従一位、関白、左大臣。号に深心院、西谷がある。通称は深心院関白(しんしんいん かんぱく)。摂政近衛兼経の長男。 日記に「深心院関白記」がある。.
錨
錨(碇、いかり、アンカー、Anchor)とは船舶等を水上の一定範囲に止めておくために、鎖やロープを付けて海底や湖底、川底へ沈めて使う道具のこと。 爪などが底質に刺さる事で抵抗力(把駐力)を生む物をアンカー、それ自身の重さによって抵抗力を生むものをシンカーと分類している。アンカーとシンカーでは構造や使用方法が異なり、アンカー自体も使用される場所や船舶によって大きさ種類・使用方法が異なる。 船や航海を連想させるものとして、シンボル的に用いられることも多い。.
霜月騒動
月騒動(しもつきそうどう)とは、鎌倉時代後期の弘安8年11月17日(1285年12月14日)に鎌倉で起こった鎌倉幕府の政変。8代執権北条時宗の死後、有力御家人・安達泰盛と、内管領・平頼綱の対立が激化し、頼綱方の先制攻撃を受けた泰盛とその一族・与党が滅ぼされた事件である。弘安合戦、安達泰盛の乱、秋田城介(あきたじょうのすけ)の乱ともいう。 源頼朝没後に繰り返された北条氏と有力御家人との間の最後の抗争であり、この騒動の結果、幕府創設以来の有力御家人の政治勢力は壊滅し、平頼綱率いる得宗家被官(御内人)勢力の覇権が確立した。.
范文虎
范 文虎(はん ぶんこ、? - 1301年)は、南宋や元に仕えた政治家、軍人。南宋の宰相の賈似道の娘婿にあたる。同時に范友信の従父でもある。.
能古島
能古島の位置(紫色が西区) 能古島(のこのしま)は、福岡県福岡市西区に所属する島である。博多湾の中央に浮かんでいる。 大都市の目の前にありながら僅か10分の船旅で都会の喧噪を忘れられるとあって、福岡市民の身近な行楽地として親しまれる。福岡でも屈指の菜の花・桜・コスモス・水仙の名所で、満開のころは一年で最も混雑する。.
能仁寺
能仁寺(のうにんじ)は、仏教の寺院で各地にある。.
舩原三郎
舩原 三郎(ふなはら さぶろう)は、鎌倉時代後期の御家人。 弘安4年(1281年)8月10日付の肥前国守護北条時定書下(松浦山代文書)に2度目の元寇の弘安の役(1281年)の合戦の時の参加御家人6名の名があり、「舩原三郎」の名が残されている。 弘安の役で活躍した、薩摩の御家人・島津長久や比志島時範、松浦党の肥前の御家人・山代栄、舩原三郎らが奮戦し活躍した。舩原三郎はこの時の活躍により、肥前守護・北条時定から書下を与えられている。.
般若心経
『般若心経』(はんにゃしんぎょう)、正式名称『般若波羅蜜多心経』(はんにゃはらみったしんぎょう、、 プラジュニャーパーラミター・フリダヤ)は、大乗仏教の空・般若思想を説いた経典で、般若経の1つともされる。 僅か300字足らずの本文に大乗仏教の心髄が説かれているとされ、複数の宗派において読誦経典の一つとして広く用いられている。.
阿塔海
阿塔海(Ataγai, アタカイ、アタガイ、アタハイ、1234年 - 1289年)は大元朝に仕えた政治家・軍人。弘安の役の際の江南軍総司令官。.
阿片戦争
阿片戦争(アヘンせんそう、第一次鴉片戰爭、First Opium War)は、19世紀前半に清へのアヘン密輸販売で巨利を得ていたイギリスと、アヘンを禁止していた清の間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。 イギリスは、インドで栽培し製造したアヘンを、清に密輸して広く組織的に販売し収益を得ていたため、アヘンの流通販売や摂取を禁止していた清との間で戦争となり、イギリスの勝利に終わり、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲他、清にとって不平等条約となった。 なお、アロー戦争を第二次とみなして第一次アヘン戦争とも呼ばれる。.
蘇秦
蘇 秦(そ しん、? - 紀元前317年?)は、中国戦国時代の弁論家。張儀と並んで縦横家の代表人物であり、諸国を遊説して合従を成立させたとされる。.
赤坂 (福岡市)
赤坂(あかさか)は福岡県福岡市中央区の町名。郵便番号810-0042。.
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関東
関東(かんとう)とは、日本の中の、特定の地域・地方を指す言葉・概念である。.
関東申次
関東申次(かんとうもうしつぎ)は、関東執奏(かんとうしっそう)とも言い、鎌倉時代の朝廷に設けられた役職で、鎌倉幕府側の六波羅探題とともに朝廷・院と幕府の間の連絡・意見調整を行った。.
薩摩国
薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
開城市
開城市(ケソンし)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)南部にある都市。高麗の王都として、また商業の中心として栄えた古都である。 朝鮮戦争の休戦後、周辺部も含めて長らく北朝鮮の直轄市として扱われてきたが、南北共同の工業団地「開城工業地区」の建設とその特区としての運営が行われるに伴い、開城周辺地域の行政区画が再編成されている。中心部は現在、「開城市」として黄海北道に所属しているとみられる。推定人口は約35万人(1998年現在)。.
開封市
開封市(かいほうし、)は中華人民共和国河南省東部に位置する地級市。中国でも最も歴史が古い都市の一つであり、北宋の首都であった。11世紀から12世紀にかけて世界最大級の都市であった。.
薙刀
薙刀の拵黒漆塗家紋入(左)及び総螺鈿(右)のもの 薙刀(なぎなた)は、日本の長柄武器の一種で、平安時代に登場した武具である。.
蒲寿庚
蒲 寿庚(ほ じゅこう、生没年不詳)は、中国南宋末から元初期の商人、軍人、政治家。アラブ系イスラム教徒、元代の「色目人官僚」の嚆矢ともいえる人物。の弟。.
蒙古
蒙古(もうこ)は、モンゴル高原に居住する遊牧民や、彼らが居住する地域についての自称モンゴルに対する、中国語による音写の一種。鎌倉時代では、「もうこ」と共に「むくり」や「むこ」などとも呼んでいた。 地域名称としては、おおむねモンゴル人の居住するシベリアと万里の長城の間に位置する「モンゴル高原」を指す呼称で、清代には外蒙古(現モンゴル国)と内蒙古に大別されているが(中華人民共和国では「内蒙古」が現行の自治区名として使用続行中)、中華民国の一時期には、ジェプツンタンパ政権の自治モンゴルやモンゴル人民共和国の実効支配部分(旧・外蒙古)部分のみを指す地域名称としても使用された。 蒙古には「おろかで古い」という悪い意味合いがある漢民族による蔑称であるとして、日本ではモンゴル人と日本人の合同署名による広告活動で、使用をやめるように運動が起きている 。しかしながら元寇を指す「蒙古襲来」や蒙古斑など、定着している表現もある。.
蒙古襲来絵詞
蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)は、筆者不明の全2巻の絵巻物。竹崎季長絵詞、蒙古襲来絵巻とも。鎌倉時代後期の作で、肥後国の御家人竹崎季長が元寇における自分の戦いを描かせたものとされている。旧御物で、現在は宮内庁の所蔵となっており、東京都千代田区皇居東御苑内の三の丸尚蔵館に保管されている 高麗王国連合軍へ斬り込んでいく竹崎季長と応戦・逃亡する蒙古兵.
肥後国
肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
肥前国
肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
鄭舜功
鄭舜功(ていしゅんこう、生没年不詳)は、中国明後期の探検家。現在の広東省深圳市の出身。戦国時代の日本を調査し、日本の資料を分析して編纂された百科事典『日本一鑑』(または『日本一鑑 桴海図経』、中国のまたの名『捍海図経』)編者であり、後の写本が発見され、戦国時代日本の研究の重要資料とされている。 また、その一節が(軽重はともかく)尖閣諸島問題の話題の一つにもなっている。.
重要文化財
建造物の例(通潤橋) 歴史資料の例(123号機関車 京都・宮津海陸運輸所有) 彫刻の例(塑造金剛力士立像 法隆寺蔵) 考古資料の例(埴輪子持家 東京国立博物館蔵) 絵画の例(黒田清輝筆「湖畔」) 建造物(民家)の例:荒井家住宅(栃木県矢板市) 重要文化財(じゅうようぶんかざい)は、日本に所在する建造物、美術工芸品、考古資料、歴史資料等の有形文化財のうち、歴史上・芸術上の価値の高いもの、または学術的に価値の高いものとして文化財保護法に基づき日本国政府(文部科学大臣)が指定した文化財を指す。重文(じゅうぶん)と略称されることが多い。文化庁による英語表記はImportant Cultural Properties。 日本の地方公共団体(都道府県、市町村)がそれぞれの文化財保護条例に基いて指定する有形文化財についても「県指定重要文化財」「市指定重要文化財」等と呼称される場合があるが、文化財保護法に規定する「重要文化財」とは国(日本国文部大臣)が指定した有形文化財のことを指す。本項では特記なき限り、文化財保護法第27条の規定に基づき日本国(文部科学大臣)が指定した重要文化財(いわゆる「国の重要文化財」)について記述する。.
至元
至元(しげん)は、中国元朝の元号の一つ。.
至元 (元世祖)
至元(しげん)は、モンゴル帝国の大ハーン・クビライ(元の世祖)の治世で用いられた元号。1264年 - 1294年。.
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臼杵氏
臼杵氏(うすきし、うすきうじ)は、日本の氏族の一つ。大神氏の一族で、大神惟盛が豊後国臼杵荘に入り、地名を取って臼杵氏と称した。戸次氏・佐伯氏・緒方氏(佐伯氏の庶家とする説もある)などの庶家が出た。.
金 (王朝)
金(きん、拼音:Jīn、女真語: 、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国の北半を支配した女真族の征服王朝。 国姓は完顔氏。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。『金史』、欽定満洲源流考には「金の始祖函普は高麗からやって来た」とある。『函普』は阿骨打(あこつだ、女真音:アクダ)の7代祖である。.
金剛仏子叡尊感身学正記
『金剛仏子叡尊感身学正記』(こんごうぶつしえいそんかんしんがくしょうき)は、鎌倉時代に真言律宗を開いた僧侶・叡尊の自伝で、感身学正記と略称する場合もある。 弘安8年(1285年)、85歳を迎え先が短いと捉え叡尊は、自己の信仰・事業について振り返って後事を門人に託すために同年11月14日に執筆を開始し翌年2月28日に完成され、翌3月までに校正を終えた。 出生から醍醐寺における出家と真言密教の修行、仏教界全体の堕落から、覚盛らとともに東大寺で自誓授戒を行ったこと、忍性ら弟子との出会いや西大寺を再興して戒律復興運動や非人・癩病患者救済活動などを行った経緯等を記している。 叡尊自身が保持していた諸資料を基にして書かれていること、内容が詳細明晰であること、当時の他の歴史・仏教史料と比べても大きな相違がないことから、鎌倉仏教とその時代における仏教史料として高く評価されている。 長谷川誠編『興正菩薩御教誡聴聞集・金剛仏子叡尊感身学正記』(原文校訂)が、没後700年の1990年(平成2年)に、西大寺より刊行。 平凡社東洋文庫で、細川涼一訳注『感身学正記 西大寺叡尊の自伝』(全2巻)が、1999年(平成11年)に1巻目のみ刊行(続刊は未刊)。 Category:日本の自伝・回顧録 Category:真言系仏教 Category:真言律宗 Category:鎌倉時代の仏教書 Category:鎌倉時代の文学 Category:13世紀の書籍.
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金海市
金海市(キメし)は大韓民国慶尚南道沿海部の市。釜山広域市と道庁所在地昌原市の間に位置する。市のスローガンは「Gimhae for you」。 区を持たない特定市、である。.
金方慶
金 方慶(きん ほうけい、キム・バンギョン、1212年 - 1300年)は、高麗王朝の将軍、都督使。字は本然、謚号は忠烈。安東(慶尚北道)の出身。 元側に通じた高麗の武将であり、元寇時の高麗軍の指揮者である。.
長崎事件
長崎事件(ながさきじけん)とは、1886年(明治19年)8月に長崎に来航した清国北洋艦隊水兵が起こした暴動事件。長崎清国水兵事件とも呼ぶ。 長崎港(1893年).
長崎県
長崎県(ながさきけん)は、日本の九州地方北西端に位置する県である。県庁所在地は長崎市。 五島列島、壱岐島、対馬など、数多くの島嶼を含み、47都道府県中最も島が多いことで知られる。また、多島であるうえにリアス式海岸を多く擁することから、海岸線の長さは47都道府県中第2位もしくは第1位である(※「地形」節にて詳説)。.
長崎県立上対馬高等学校
長崎県立上対馬高等学校(ながさきけんりつ かみつしまこうとうがっこう, Nagasaki Prefectural Kamitsushima High School)は、長崎県対馬市上対馬町大浦に位置する県立高等学校。 対馬最北端、つまり長崎県最北端にある高等学校である。日本で一番外国(韓国)に近い高校平成23年度 ハイスクールガイダンス 長崎県教育委員会でもある。.
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長府
霊鷲山からみた長府全景(2005年9月9日撮影) 長府(ちょうふ)は、山口県下関市の長府地区 (下関市役所支所設置条例で示された下関市役所長府支所の所管する区域) を指す地域名称。 本項では同地域にかつて所在した豊浦郡長府村(ちょうふむら)、長府町(ちょうふちょう)についても述べる。.
長弓
長弓(ちょうきゅう)は、弓の類型のうち、弓幹の長さが長大なものを指す。弓のもうひとつの類型である短弓が、遊牧民の騎馬弓射などの形でユーラシア大陸内陸部の乾燥地帯で多く用いられたのに対し、長弓は東アジアのモンスーン気候の湿潤地帯と、西ヨーロッパのメキシコ湾流の影響を受ける温暖な地域といわばユーラシア大陸の東西の極で発達した。アフリカ大陸や南米アマゾンの一部の先住民族にも原始的な造りではあるが、長尺の弓が見られる。歴史的には日本の和弓と、グレートブリテン島で発達したロングボウ(ウェールズなどで一部異なる場合がある)がよく知られている。.
長唄
長唄(ながうた)は、近世邦楽の一ジャンル、三味線音楽の一ジャンル、江戸の音曲の一つであり、正式名称は江戸長唄(えど ながうた)という。 またこれとは別に、地歌の一分類として上方長歌(かみがた ながうた)がある。.
長門国
長門国(ながとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
艦隊
ゆうぎりが写っている。 艦隊(かんたい、英:Fleet)は、海軍の部隊単位の一つ。英語の Fleet とは、古い英語のflēot(船)に由来する。.
色目人
色目人(しきもくじん)とは、中国の歴史上における人間集団の分類の一種で、元朝治下における西域(中央アジア・西アジア)諸国出身者を指したもの。色目人の語は、「諸色目人」の略で、さまざまな種目(諸色目)の人という意味。元朝においては支配階級である遊牧民出身のモンゴル人の下に色目人が置かれ、この2つの階級が金の遺民である華北の漢人、南宋の遺民である江南の南人の階級を支配していたとされる。.
鉄砲
火縄式鉄砲 火縄式鉄砲 日本陸軍の小銃の系譜(日露戦争以降)最上段1段目:三十年式歩兵銃2段目:三八式歩兵銃3段目:三八式騎銃4段目:四四式騎銃5段目:イ式小銃5段目:九九式短小銃(中期型)6段目:九九式短小銃(末期型) 鉄砲(てっぽう、鉄炮)とは、銃身を有し火薬の力で弾丸を発射する火器のこと。特に江戸時代以前、「銃」を意味する最も一般的な語が「鉄砲」であった。また広義において、大砲などを含めた火器全般を指して「鉄砲」と称する例もあった。本項では日本における「鉄砲」について述べる。銃、火縄銃も参照のこと。.
雲南
雲南(うんなん).
集英社
株式会社集英社(しゅうえいしゃ)は、日本の総合出版社。『週刊少年ジャンプ』『週刊プレイボーイ』『non-no』『すばる』 『Myojo』などの雑誌を発行している。社名は「英知が集う」の意味。.
耽羅
耽羅(たんら、ちんら『古事類苑』、神宮司庁、1903年、269頁、「耽羅ハ一二耽牟羅二作ル、或ハ度羅二作ル」とされ、同頁の和漢三才図会 十三 異国人物 耽羅 耽牟羅の記載において、耽羅のふりがなに「ちんら」がみえる。、탐라)は、朝鮮半島沖の済州島に古代から中世にかけて存在した王国である。百済、統一新羅、高麗に内属し、15世紀初め李氏朝鮮に完全併合された。耽牟羅(たむら)、屯羅(とんら)とも表記されるほかに、州胡(チュホ)、渉羅(ソムナ)、純羅(スルラ)、度羅(トラ)という表記も見られる。。.
虞集
虞集(ぐ しゅう、1272年 - 1348年)は、元代中国の儒学者。字は伯生、号は道園、邵庵先生と称された。 宋代に活躍した虞允文の五世の孫にあたる。柳貫・黄溍・掲傒斯とともに「儒林四傑」と称せられる。楊載・掲傒斯・范梈とともに元詩の四大家ともいわれる。.
院政
院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.
陳聖宗
陳聖宗(ちんせいそう、, 1240年10月12日 - 1290年7月3日)は、大越陳朝の第2代皇帝(在位1258年 - 1278年)。初代皇帝太宗の長子。聖宗は廟号である。.
陳舜臣
陳 舜臣(ちん しゅんしん、1924年(大正13年)2月18日 - 2015年(平成27年)1月21日)は、推理小説、歴史小説作家、歴史著述家。代表作に『阿片戦争』『太平天国』『秘本三国志』『小説十八史略』など。『ルバイヤート』の翻訳でも知られる。神戸市出身。本籍は台湾台北だったが、1973年に中華人民共和国の国籍を取得し、その後、1989年の天安門事件への批判を機に、1990年に日本国籍を取得している。中国籍同時保有。日本芸術院会員。長男は写真家の陳立人(1952年 - )。.
陳朝
陳朝(チャンちょう、ちんちょう、、)は、現在のベトナム北部を1225年から1400年まで支配した王朝。国号は大越。首都は昇龍(タンロン、現在のハノイ)。.
陸秀夫
深圳市にある幼君を背負う「陸秀夫最期」の像 陸 秀夫(りく しゅうふ、Lu Xiufu 1236年 - 1279年)は、中国の南宋末期の重臣である。.
暦
暦(こよみ、れき)とは、時間の流れを年・月・週・日といった単位に当てはめて数えるように体系付けたもの。また、その構成の方法論(暦法)や、それを記載した暦書・暦表(日本のいわゆる「カレンダー」)を指す。さらに、そこで配当された各日ごとに、月齢、天体の出没(日の出・日の入り・月の出・月の入り)の時刻、潮汐(干満)の時刻などの予測値を記したり、曜日、行事、吉凶(暦注)を記したものをも含める。 細分すると、.
投石器
投石器(とうせきき)は、片手で握れる程度の石を遠くへ投げるための紐状の道具。古くから羊飼が羊の群を誘導したり害獣を追い払ったりするのに使い、土地によってはその用途で現代まで使われている。鳥など小型の動物を対象とする猟にも使われた。また安価に作れて弓矢と同等以上の射程と十分な威力を持つことから、古代・中世には兵器としても使われ、現代でも暴動などの際に使われることがある。スリング、投石具、投石紐とも呼ばれる。.
柯劭ビン
柯 劭忞(か しょうびん)は清末民初の歴史家。輔仁大学教授・理事を務めた。字は鳳孫。 1886年、進士となり、翰林院庶吉士となった。中華民国成立後は、独力で『新元史』を著した。『新元史』は『元史』成立後500年間の各歴史家の研究を集大成し、新たな内容を補充し、誤謬を改めたとして学界から高く評価された。日本の東京帝国大学も柯劭忞に名誉博士号を贈っている。1919年、大総統徐世昌は『新元史』を正史の列に加えて二十五史とする大総統令を出した。 また1914年に袁世凱が清史館を設立して趙爾巽を館長とすると、柯劭忞も『清史稿』の編纂作業に加わり、「儒林伝」「文苑伝」「疇人伝」の整理にあたり、「天文志」を一人で書き上げた。『清史稿』は1920年に初稿が完成し、1926年に校訂作業が開始され、1928年に出版された。また晩年の1925年には、日本との関係が評価されたためか日中共同の東方文化事業の中国側委員に任命され、同事業総委員会の総裁に選出されたが、1928年日本軍による済南事件の勃発を理由に他の中国側委員とともに抗議の意をもって辞職した。 Category:清代の人物 しようひん Category:中国の歴史学者 Category:北京大学の教員 Category:輔仁大学の教員 Category:国史館の人物 Category:東方文化事業 Category:青島出身の人物 Category:1848年生 Category:1933年没 Category:清代の進士.
柳成龍
柳成龍(りゅう せいりゅう、朝鮮語読み:リュ・ソンニョン、1542年 - 1607年6月7日(大統暦万暦三十五年五月十三日))は、李氏朝鮮の宣祖に仕えた宰相で、文禄・慶長の役に活躍した。字は而見。号は西厓、諡は文忠。派閥は東人(分裂後南人)。柳仲郢の二男。.
恭帝 (宋)
恭帝(きょうてい)は、南宋の第7代皇帝(在位:1274年8月12日 - 1276年2月4日)。諱は㬎(けん。「㬎」は「顯」(「顕」の旧字体)の「頁」の代わりに「こざと偏を付けたもの」をつけた文字。資料によっては類似文字で代用されることもある)。度宗の四男。廟号はない。.
揚州市
揚州市(ようしゅうし)は、中華人民共和国江蘇省に位置する地級市。本来「楊州」と書かれ、漢代に置かれた13州の一つであった。それが唐代に表記を「揚州」と改められた。.
李行里
李 行里(り こうり、生没年不詳)は、元のダルガチ。李安社の四男。妻の貞淑王后崔氏の本貫は登州であり、登州で戸長を務めていた崔基烈(최기열)の娘である。曾孫の李成桂が朝鮮を建国すると翼王に追尊され、さらに太宗が廟号を翼祖(익조)、諡号を康恵聖翼大王(강혜성익대왕)に追尊した。.
李氏朝鮮
李氏朝鮮(りしちょうせん、朝鮮語ハングル表記:이씨조선)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。朝鮮王朝、朝鮮封建王朝とも呼ばれる。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。李朝(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。高麗の次の王朝にあたる。 1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。東人派や西人派、老論派、南人派など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。.
杭州
杭州(こうしゅう)は中国にかつて存在した行政区画名。隋代から清末にかけて設置された。現在の浙江省杭州市に相当する。.
杭州市
杭州市(こうしゅうし、中国語:杭州市、、英語:Hangzhou)は中華人民共和国浙江省の省都(副省級市)。浙江省の省人民政府の所在地。中国八大古都の一であり、国家歴史文化名城に指定されている。13世紀は世界最大の都市であった。 隋代以降、江南運河の終着点として経済文化が発達し、「上に天国あり、下に蘇州・杭州あり。(上有天堂、下有蘇杭。)」とたたえられた。また、五代十国の時代、呉越国の都となり、南宋時代には事実上の首都、臨安府が置かれた。市中心部の西には世界遺産の西湖という湖があり、国の内外より多くの観光客が訪れる。 一般に「こうしゅう」と日本語読みされるが、広州市との区別が必要な場合に「くいしゅう」と湯桶読みされることがある。.
東大寺
東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。 金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・222世)は狹川普文。 奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。 東大寺は1998年12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.
東夷
四夷の名称 東夷(とうい)は、古代中国東方の異民族の総称で、四夷の一つである。夷(い)。 「夷」という漢字は「大」(人の象形)と「弓」(「己」、縄の象形)と書いて、好戦的な民族として、蔑んだ意味合いを込めている。 本来は古代中国の東に位置する山東省あたりの人々に対する呼び名であったが、秦以降は朝鮮半島、日本列島などに住む異民族を指すようになった。後に日本でも異民族を意味する「エビス」という語と一体化し、朝廷(京)から見て東国や蝦夷の人々のことを「東夷(あずまえびす・とうい)」「夷(い・えびす)」と呼んだ。.
東寧府
東寧府(とうねい-ふ)は、元が平壌に設置した植民地日本大百科全書、コトバンク、吉田光男「慈悲嶺以北の平安道、黄海道一帯を占領して直轄植民地とした。翌年元は平壌に植民地統治機関として東寧府を設置」。双城総管府と共に高麗に対する支配の拠点とされた。.
東寺
東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある東寺真言宗の仏教寺院。東寺は真言宗の根本道場であり、東寺真言宗の見解では、真言宗全体の総本山としている。「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる(名称については「寺号」の節を参照)。山号は八幡山。本尊は薬師如来。寺紋は雲形紋(東寺雲)。 東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。昭和9年(1934年)に国の史跡に指定、平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。.
東京国立博物館
東京国立博物館(とうきょうこくりつはくぶつかん)は、日本と東洋の文化財(美術品、考古遺物など)の収集保管、展示公開、調査研究、普及などを目的として独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館である。館長は銭谷真美。 1872年(明治5年)に創設された、日本最古の博物館である。東京都台東区の上野恩賜公園内にある。本館、表慶館、 東洋館、平成館、法隆寺宝物館の5つの展示館と資料館その他の施設からなる。2017年3月31日時点で、国宝88件、重要文化財636件を含む収蔵品の総数は117,190件(2017年11月時点では国宝89件、重文640件)。これとは別に、国宝55件、重要文化財258件を含む総数3,075件の寄託品を収蔵している。2017年度の陳列総件数は約7,200件。2016年度の来館者数は約191万人である。.
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東国
関東地方 東国(とうごく、あづまのくに)とは、近代以前の日本における地理概念の一つ。東国とは主に、関東地方(坂東と呼ばれた)や、東海地方、即ち今の静岡県から関東平野一帯と甲信地方を指した。実際、奈良時代の防人を出す諸国は東国からと決められており、万葉集の東歌や防人歌は、この地域の物である。尚、東北地方は蝦夷(えみし)や陸奥(みちのく)と呼ばれていた。.
東国通鑑
『東国通鑑』(とうごくつがん)は、朝鮮半島の歴史書。.
東道諸王
東道諸王(東方諸王、左翼諸王)とは、モンゴル帝国におけるチンギス・カンの諸弟(ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギン、ベルグテイ)を始祖とする、モンゴル高原東方に領地を持つ諸王家の総称である。この内、ベルグテイ王家のみ始祖が庶出のため格式が低く、これを外して東方三王家と呼称する場合もある。これに対し、チンギス・カンの諸子(ジョチ、チャガタイ、オゴデイ、コルゲン)を始祖とする、モンゴル高原西方に領地を持つ諸王家を西道諸王、西方諸王、右翼諸王とも呼称する。 西道諸王が中央アジア・東欧に大規模な領土を得てそれぞれ独立した政権(ジョチ・ウルス、チャガタイ・ウルス、オゴデイ・ウルス)として振る舞うようになっていったのに対し、東道諸王はカーン(大ハーン)の勢力下に留まり続け、また政変に当たってはオッチギン王家を中心として一体的行動をとることが多かった。 東道諸王は北元時代を経て清代にまで存続し、「旗」に編制された。中華人民共和国の行政区分においても、東道諸王に由来する旗名が現在でも多く残っている。.
東洋文庫 (平凡社)
東洋文庫(とうようぶんこ; The Eastern Library)、別称で平凡社東洋文庫(へいぼんしゃとうようぶんこ)は、平凡社が刊行する叢書シリーズ。1963年に創刊。2013年秋の創刊50周年を機にファンクラブ「東洋文庫読者倶楽部」を発足している。.
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東方見聞録
『東方見聞録』(とうほうけんぶんろく)は、マルコ・ポーロがアジア諸国で見聞した内容口述を、ルスティケロ・ダ・ピサが採録編纂した旅行記である。マルコもルスティケロもイタリア人であるが、本書は古フランス語で採録された。.
松浦市
松浦市(まつうらし)は、長崎県北部、北松浦半島に位置する市。離島部も市域に含む。松浦党発祥の地として知られる。.
松浦市立鷹島歴史民俗資料館
松浦市立鷹島歴史民俗資料館(まつうらしりつたかしまれきしみんぞくしりょうかん)は、長崎県松浦市鷹島にある「元寇終焉の地」をテーマにした博物館で、鷹島周辺に沈んだ元寇の遺物などの展示施設である。.
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松浦党
松浦党(まつらとう)は、平安時代から戦国時代に肥前松浦地方で組織された松浦氏の武士団の連合。一族は48つに分かれており、松浦四十八党とも呼ばれた。水軍として有名。.
松浦郡
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杜世忠
杜 世忠(と せいちゅう/トゥー・シーチョン、1242年 - 建治元年9月7日(1275年9月27日))は、元朝の官僚である。.
村井章介
村井 章介(むらい しょうすけ、1949年3月12日 - )は、日本の歴史学者。専門は日本中世史・対外関係史。立正大学文学部史学科教授、東京大学名誉教授、大阪市出身。.
杉山正明
杉山 正明(すぎやま まさあき、1952年3月1日 - )は、静岡県生まれの日本の歴史学者。京都大学文学研究科名誉教授。主要研究テーマはモンゴル時代史、中央ユーラシア史。日本におけるモンゴル史研究の第一人者である。.
楚 (春秋)
楚(そ - 紀元前223年)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した王国。現在の湖北省、湖南省を中心とした広い地域を領土とした。首都は郢と称したが、名前が同じだけで場所は何度か変わっている。.
槍
宮本武蔵が槍で鵺と戦う画(画:歌川国芳) 槍(やり)は刺突を主目的とする猟具、武器・武具の一種。投擲することを目的としたものは投槍という。有史以前から人類が使用し続け、銃剣に代替されるまで長く戦場で使われ続けた。鎗、鑓とも書く。 現代中国語で、「槍」(qiang)という漢字は銃を表す(本来の槍と区別するために銃を「火槍」と表記することもある)。.
樊城区
樊城区(はんじょう-く)は、中華人民共和国湖北省襄陽市に位置する市轄区。.
樺太
樺太(からふと)、樺太島(からふととう、、)、サハリン、サハリン島は、ユーラシア大陸の東方、オホーツク海の南西部にあるロシア連邦サハリン州の島。広義の日本列島に含む場合もある。南北約948km、東西の幅最大約160kmで南北に細長い。面積76,400kmは世界第22位で21位の北海道(78,073km)より若干小さい。人口約50万人。最大都市はサハリン州の州都でもあるユジノサハリンスク(人口約18万人)。 樺太は、日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度線を境界に南北に分割され、それぞれ異なる沿革を経たため、ここでは北緯50度以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。 現在、サハリンプロジェクトが進められている。.
橘守部
橘 守部(たちばな もりべ、天明元年4月8日(1781年5月1日) - 嘉永2年5月24日(1849年7月13日))は、江戸時代後期の国学者。伊勢国朝明郡小向村(現在の三重県朝日町)の庄屋の家に生まれた。通称は飯田元輔・源助。号は池庵・椎本・生薬園など。 父の飯田元親は国学者谷川士清の門人であったが、守部自身はほとんど独学で国学を研究し、本居宣長を痛烈に批判し、『古事記』よりも『日本書紀』を重んじた。神話の伝説的な部分と史実の部分の区分の必要性を説いた。晩年は江戸に住んで肥前国平戸藩主松浦氏の知遇を得た。また晩年、死後安心論にも関心を寄せた。守部独自の国学の説は、武蔵国北部から上野国にかけて普及し機業家などに門人を広げた。 著書に『神風問答』『伊勢物語箋』『待門雑記』『山彦冊子』『稜威道別』『稜威言別』『神代直語』『難古事記伝』『湖月抄別記』『長歌撰格』『短歌撰格』『心の種』などがある。.
櫛田神社 (福岡市)
櫛田神社(くしだじんじゃ)は、福岡市博多区にある神社である。.
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正安
正安(しょうあん)は、日本の元号の一つ。永仁の後、乾元の前。1299年から1301年までの期間を指す。この時代の天皇は後伏見天皇、後二条天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条貞時、北条師時。.
正応
正応(しょうおう)は、日本の元号の一つ。弘安の後、永仁の前。1288年から1292年までの期間を指す。この時代の天皇は伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、久明親王、執権は北条貞時。.
正元 (日本)
正元(しょうげん)は、日本の元号の一つ。正嘉の後、文応の前。1259年から1260年までの期間を指す。この時代の天皇は後深草天皇、亀山天皇。鎌倉幕府将軍は宗尊親王、執権は北条長時。.
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武士
武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.
武士団
武士団(ぶしだん)とは主に平安時代後半から、鎌倉時代、南北朝時代を中心に室町時代までの武士の集団を指す。1930年代から日本中世史での学術用語として使用され始めた。中世史研究史上においては「武士」と同義語として扱われることもあるが、「武士」は中世から近世(江戸時代)までを対象とし、また「武士」論は「武士団」を率いる「侍」のみを対象とすることもあるに対し、「武士団」ではその郎党も含めた社会的実態が問題とされる。 『後三年合戦絵詞』「雁行の乱れ」の騎馬武者 『後三年合戦絵詞』の「雁行の乱れ.
武士道
武州忍藩士・吉田庸徳(慶応4年(1868年)、下岡蓮杖撮影) 武士道(ぶしどう)は、日本の近世以降の封建社会における武士階級の倫理・道徳規範及び価値基準の根本をなす、体系化された思想一般をさし、広義には日本独自の常識的な考え方をさす。これといった厳密な定義は存在せず、時代は同じでも人により解釈は大きく異なる。また武士におけるルールブック的位置ではない思想である。一口に武士道と言っても千差万別であり、全く異なる部分が見られる。.
武具
武具(ぶぐ)とは、戦いに使われる道具のうち、主に柄物、飛び道具(古来日本にある物)鎧、兜、甲冑、小手、手甲、具足などをいう。いわゆる武器に含まれるもので、兵器に対して武具であり、その中でも白兵戦や格闘戦などの戦闘の際に用いられる武器や防具ほか、シンボル的存在の軍旗、(幟旗等)軍艦旗や纏、指揮用具である軍配団扇、采配の他に火薬フラスコ(en)、馬具等、戦の身の回り品等を含め、特に日本語としての武具は歴史的軍装品のことをいう場合が多い。当記事では、歴史的軍装品について扱う。.
武臣政権
武臣政権(ぶしんせいけん、무신정권(ムシンヂョングォン)、武人政権とも書く)は、朝鮮半島における高麗王朝の統治下、1170年(明宗元年)から1270年(元宗11年)の100年間にわたり、国王や文臣ではなく武臣が朝廷の政治を掌握していた時代、およびその政権形態を指す。この期間のことを「武人時代(ぶじんじだい、ムインシデ)」ともいう。.
歴史小説
歴史小説(れきししょうせつ)は、主として歴史上に実在した人物を用い、ほぼ史実に即したストーリー、またはその時代を設定して、その中での空想上の物語が書かれたものが展開される小説のことである。.
歌舞伎
歌舞伎(かぶき)は、日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定同日文化財保護委員会告示第18号「無形文化財を重要無形文化財に指定する等の件」)。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。.
殿上人
殿上人(てんじょうびと)とは、9世紀以降の日本の朝廷において、天皇の日常生活の場である清涼殿の殿上間に昇ること(昇殿)を許された者である。狭義には、公卿を除いた四位以下の者を指す。またその中から更に蔵人も除いて指す場合もある。雲上人(くものうえびと、うんじょうびと)、上人(うえびと)、雲客(うんかく)、堂上(とうしょう)、簡衆(ふだのしゅう)などとも称す。殿上人に対する概念として、昇殿を許されない「地下」(じげ)がある。 狭義の殿上人は、蔵人とともに、殿上間に置かれた日給簡(殿上簡、仙籍)に登録され、蔵人頭の管理下に、交替で天皇の身辺に日夜、仕えた。昇殿制の始まった当初は数名の六位の殿上人もいたが、おおよそは四位・五位に限られた。これに対し、蔵人は六位からも任じられた。 また、院や東宮等にも昇殿の制度があり、昇殿を許されたものを「院殿上人」等と称した。院の殿上人と内裏の殿上人を区別して、後者を「内の殿上人」(うちのてんじょうびと)等とも言う。 昇殿を許されるのは、天皇や院、東宮の一代限りであり、代替わりにあたっては昇殿許可を失い、再び昇殿するには改めて勅許が必要であった。また殿上人本人の昇階の際にも、再度の勅許が必要であった。.
毒矢
毒矢(どくや)は、鏃(やじり)に様々な種類の毒素を塗りつけ、殺傷力を高めた矢の総称。弓矢を基本とするが、吹き矢・銛・槍などの射撃・投擲武器にも、毒を塗り使用する場合がある。また、これらの武器に塗布して使用される毒素は矢毒(やどく)と総称される。 毒矢は、狩猟・戦争・暗殺などの場面で標的をより確実に仕留めるために使用される。毒矢が標的に命中した際、鏃に塗布された毒素は血液を通じ全身に回り、速やかに麻痺などの症状を引き起こし、標的を行動不能に追い込む。矢が急所に当たらずとも標的の逃走や反撃を防ぐ効果があるなど利便性は高く、旧石器時代以来、人類に古くから使用されてきた。.
水城
水城(みずき)は、福岡県の太宰府市・大野城市・春日市にまたがり築かれた、日本の古代の城である。城跡は、1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡「水城跡」に指定されている。.
永井建子
永井 建子(ながい けんし、慶応元年9月8日(1865年10月27日) - 昭和15年(1940年)3月13日)は、日本の陸軍軍人、音楽家、作曲家。最終階級は陸軍一等軍楽長(大尉相当官)。陸軍戸山学校軍楽隊第6代楽長(隊長)。広島県佐伯郡石内村(現・広島市佐伯区五日市町)生まれ。 草分けと言われる軍歌のほかに歌劇や唱歌、校歌(崇徳高等学校、早稲田実業、拓殖大学、大谷大学ほか)も多く手掛けている。軍歌『元寇』、『雪の進軍』、『歩兵の本領』(原曲『小楠公』)は特に有名。長男・永井巴も作曲家。声楽家・川崎豊は甥(妹の子)。.
永仁
永仁(えいにん)は、日本の元号の一つ。正応の後、正安の前。1293年から1298年までの期間を指す。この時代の天皇は伏見天皇、後伏見天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条貞時。.
永楽帝
永楽帝(えいらくてい)は、明の第3代皇帝。姓は朱(しゅ)。諱は棣(てい)。廟号は太宗(たいそう)であったが、嘉靖帝の時に成祖と改称された。諡号は体天弘道高明広運聖武神功純仁至孝文皇帝、嘉靖帝の時に啓天弘道高明肇運聖武神功純仁至孝文皇帝と改称された。一般的に日本ではその在位中の元号から永楽帝と称される。.
気象学
気象学(きしょうがく、meteorology)は、地球の大気で起こる諸現象(気象)や個々の流体現象を研究する学問。自然科学あるいは地球科学の一分野。 気象を長期的な傾向から、あるいは地理学的観点から研究する気候学は、気象学の一分野とされる場合もあるが、並列する学問とされる場合もある。現代では気象学と気候学をまとめて大気科学(atmospheric science)と呼ぶこともある。 なお、将来の大気の状態の予測という実用に特化した分野を天気予報(気象予報)という。.
江の島
江の島(えのしま)は、神奈川県藤沢市にある湘南海岸から相模湾へと突き出た陸繋島。また、同島全体を指した地名。片瀬地区(旧片瀬町地域)に属する。現行行政町名は江の島一丁目及び江の島二丁目で、全域が住居表示実施地域。郵便番号は251-0036(藤沢郵便局管区)。.
江南
江南(日本語:こうなん、中国語:チャンナン、朝鮮語:カンナム).
江戸時代
江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.
江浙等処行中書省
江浙等処行中書省(こうせつとうしょ-こうちゅうしょしょう、以下江浙行省と略称する)は元が設置した1級行政区画の行中書省。.
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池内宏
池内 宏(いけうち ひろし 1878年9月28日 - 1952年11月1日)は、東洋史学者。祖父は儒学者の池内大学。.
河野通有
河野 通有(こうの みちあり)は鎌倉時代中期の伊予国久米郡石井郷(現在の愛媛県松山市)の武将。鎌倉幕府御家人。河野氏当主。元寇の役で活躍した伊予水軍の将。.
法華経
法華経の 現代の解説書にはしばしば、このような写真とこのような主旨の解説が添えられている。。 『法華経』(ほけきょう、ほっけきょう)は、大乗仏教の代表的な経典。大乗仏教の初期に成立した経典であり、誰もが平等に成仏できるという仏教思想の原点が説かれているNHK 100分de名著 法華経[新]第1回「全てのいのちは平等である」2018年4月2日放送。聖徳太子の時代に仏教とともに日本に伝来した聖徳太子によって著されたとされる法華経の注釈書「法華経義疏」は、三経義疏の1つである。。.
泉州市
泉州市(せんしゅうし)は中華人民共和国福建省に位置する地級市である。かつては海上交易の中心地として繁栄し、イブン・バットゥータやマルコ・ポーロはこの都市(ザイトン、イタリア語:Zaiton、閩南語:刺桐)の繁栄を記録に残している。ザイトンは街路樹のアブラギリがある街とアラビア人が命名、しヨーロッパに伝わった名前。.
洞院公賢
洞院 公賢(とういん きんかた、正応4年8月(1291年) - 延文5年/正平15年4月6日(1360年4月21日))は、南北朝時代の公家。正式な名乗りは藤原公賢。父は左大臣洞院実泰。母は実泰の叔父にあたる小倉公雄の娘・季子。洞院家は藤原氏北家閑院流西園寺家の庶流。通称は中園相国。出家して空元。また遍昭光院とも称された。.
洪茶丘
洪茶丘(こう ちゃきゅう / こう さきゅう、ホン・タグ、1244年 - 1291年)は、高麗王朝や大元朝に仕えた軍人。唐城の出身。洪福源の第2子で、本名は俊奇、茶丘(チャクゥ)はモンゴル名で小字(幼名)。主君のフビライ(クビライ)・ハーンから常に小字で呼ばれていた。.
洪鈞
洪 鈞(こう きん、Hong Jun、1839年 - 1893年)は、清末の外交官・歴史学者。字は陶士、号は文卿。 江蘇省蘇州府呉県出身。1868年、状元となり、翰林院修撰、兵部侍郎、内閣学士を歴任した。1887年、ドイツ・ロシア・オーストリア・オランダ公使に任命された。洪鈞は当時蘇州の名妓賽金花を身請けして妾としており、本妻のように一緒に出使した。洪鈞の堪能なドイツ語・英語に加え、賽金花の魅力が外交界を驚嘆させた。また、電報の字や数字を国外のものと統一させ、経費を節減した。さらに外国のモンゴル史の史料を集め『元史訳文証補』を著した。 1892年、パミール高原をめぐって清とロシアとの間に争議がおこったときに、ロシア語は不得手であったのにロシア側の地図を使ったことで、弾劾を受けた。そのことを悔やむあまり病を発し、北京で病死した。光緒帝はその死を深く悼んだという。 category:清代の人物 Category:中国の歴史学者 Category:19世紀の学者 Category:中国の外交官 category:清代の進士 Category:総理各国事務衙門大臣 Category:蘇州出身の人物 Category:1839年生 Category:1893年没.
深心院関白記
深心院関白記(じんしんいんかんぱくき)とは、鎌倉時代の公卿・近衛基平の日記。記述は基平が10歳であった建長7年(1255年)から関白在任中のまま死去する文永5年(1268年)までに及ぶが、所々欠落がある。「深心院基平公記」とも呼ばれる。陽明文庫に自筆の原本が6巻現存し、写本、伝本も複数存在する。 深心院とは基平の号であるが、その由来については判然としない。今日基平の号はほぼ深心院で固定しているが、この呼称は早くから使われていたものではなく、基平を深心院と呼ぶ史料の初見は1312年の玉葉和歌集である。 歴代の摂関家は、ゆかりのある寺院や、別荘の地名を号にすることが多い。基平の父、近衛兼経は、晩年を過ごした別邸から岡屋殿と呼ばれ、祖父近衛家実もまた、晩年を過ごした猪隈の別邸から猪隈殿と呼ばれた。 しかし、基平は関白在任中のまま若くして病没した為、晩年を過ごした別邸はない。京都・嵯峨の西谷に別邸があったらしいが、正確な場所は分かっていない。京都府長岡市栗生光明寺の境内に深心院と呼ばれる場所があるが、基平の号の由来となっているかは不明。.
渡辺邦男
渡辺 邦男(わたなべ くにお、1899年(明治32年)6月3日 - 1981年(昭和56年)11月5日)は、大正・昭和期の俳優、映画監督。.
温州市
温州市(おんしゅうし/うんしゅうし、Wenzhou、温州語:)は中華人民共和国浙江省東南沿海に位置する地級市。商才に長けた温州人は「中国のユダヤ人」と称されることがある。.
済州島
済州島(チェジュとう、さいしゅうとう)は、朝鮮半島の西南、日本海、東シナ海、黄海の間にある火山島。その付属島嶼と併せて大韓民国済州特別自治道を構成する。人口は約66万人、面積は1,845km2。 15世紀初め頃までは耽羅という独立した王国があった。以前の西洋では、オランダ統治時代の台湾から長崎に向かう途中に難破したオランダの商船に因んで、Quelpart(귤밭、橘밭、「みかん畑」の意)と呼ばれていた。 なお、朝鮮語では「島」と「道」は同じ音のため、「済州島」と「済州道」の区別に注意を要する。.
清
清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.
清水書院
清水書院(しみずしょいん、Shimizu Shoin co.,Ltd)は、東京都千代田区に本社を置く出版社。1946年の創業以降、主に教科書及び教育関連の書籍の出版・販売を行っているほか、辞典などの発行も行っている。.
清浄光寺
清浄光寺(しょうじょうこうじ)は、神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院。藤沢山無量光院清浄光寺と号す。近世になって遊行寺(ゆぎょうじ)と通称され、明治時代より法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるために通称の遊行寺の方が知られている。藤沢道場ともいう。.
湖南省
湖南省(こなんしょう、中国語:湖南省、拼音:Húnán Shěng、湘語(雙峰語):/ɣəu13 læ̃ 13/、英語:Hunan)は、中華人民共和国の省の一つ。省都は長沙市。略称は湘。.
満願寺 (熊本県南小国町)
満願寺(まんがんじ)は、熊本県阿蘇郡南小国町にある高野山真言宗の寺院である。山号は立護山。本尊は地蔵菩薩。九州観音霊場三十三ヶ所第16番。.
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漢
漢(かん、)は、中国の王朝である。通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)の二つの王朝(両漢)を総称して「漢王朝」と呼ばれる。また、ここから転じて中国全土や中国の主要民族を指す名称ともなった。以下の記事では王朝について記述する。 中国初の統一王朝だった秦王朝が紀元前206年に滅亡すると、中国は秦を討った各軍の将帥による群雄割拠の状態に戻っていた。こうした中、漢中及び巴蜀に封じられていた劉邦が紀元前202年に垓下の戦いで項羽を討って中国を再統一した。中国を統一した劉邦は、皇帝として即位するにあたって旧来の国号であった漢をそのまま統一王朝の国号として用いた。この劉邦が開いた前漢と、いったん滅亡したのち劉秀によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年の長きに渡った。初の統一王朝だった秦王朝が統一王朝としては実質的に一代で滅びたこともあり、漢王朝は中国の統一状態を実質的に確定した王朝となり、これから中国全土や中国の主要民族を指す名称として「漢」が用いられるようになった。 漢王朝の歴史の詳細については、前漢・後漢をそれぞれ参照。.
漢籍
漢籍(かんせき)とは、漢文で書かれた中国の書籍を指す言葉である。狭義には中国人の著作のみを指すが、場合によっては、日本人の書いたものも含め、漢文で書かれたものは漢籍と総称される場合がある。.
潘阜
潘阜(はん ふ / パン プ(반부))は、中国の元朝の文官であり、朝鮮の氏族の巨済潘氏の始祖である。 中国の南宋の理宗時代に文科に首席で及第、翰林学士となり、吏部尚書を務めたが、忠烈王に降嫁された荘穆王后の師父として高麗に入国、政堂文学を歴任した。また、金方慶に従い、元寇にも参戦した。 その後、官職は侍中、岐城府院君にまで達し、65歳になると官職を辞職、巨済に定住し、余生を終えた。.
服部英雄
服部 英雄(はっとり ひでお、1949年5月5日 - )は、日本の歴史学者、九州大学比較社会文化研究院名誉教授。専門は日本中世史。.
朝廷
朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.
朝鮮半島
朝鮮半島(ちょうせんはんとう、)は、ユーラシア大陸の中緯度の東端に位置する半島。 陸地の幅が最も狭くなるのは平壌のやや北の平安南道 - 咸鏡南道だが、とくに人文地理学で「朝鮮半島」と言った場合は半島最狭部より北の、豆満江や鴨緑江などによって隔てられる伝統的な中朝国境より南を指すのが普通であり、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)を擁する。済州島を含めた朝鮮地域全体を指して用いられることも多い。このように、自然地形の名称というよりは政治的・文化的・歴史的な文脈において、朝鮮の同義語として使われることが少なくない。1948年に建国された韓国における呼称は韓半島(かんはんとう、)である。.
朝鮮王朝実録
『朝鮮王朝実録』(ちょうせんおうちょうじつろく)は李氏朝鮮の初代太祖の時から純宗に至るまで27代519年間の歴史を編年体で編纂した1967巻948冊の実録。かつては『李朝実録』(りちょうじつろく)と呼ぶことが多かった。なお、現在の朝鮮民主主義人民共和国での正式的な呼び名は『朝鮮封建王朝実録』(ちょうせんほうけんおうちょうじつろく)である。 李氏朝鮮時代の政治、外交、軍事、経済など各方面の史料を記載しているといわれる。1997年(平成9年)にはユネスコの世界の記憶 (Memory of the World) 計画に登録された。.
朝鮮通信使
孝宗6年 朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)とは、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使と言う。 2017年10月、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が主催する事業「世界の記憶」(せかいのきおく、英: Memory of the World: MOW)遺産に登録された。.
朝貢
朝貢(ちょうこう)は、皇帝に対して周辺諸国(君主)が貢物を献上し、皇帝側は恩恵として返礼品をもたせて帰国させることで外交秩序を築くもので、使節(朝貢使)による単なる儀礼的外交にとどまらず、随行する商人による経済実体(朝貢貿易)を伴うこともあり経済秩序としての性格を帯びることもある。.
本州
本州(ほんしゅう)は、島国である日本の最大の島である島国(領土がすべて島から成る国)である日本を構成する6,852の島に対する『国土交通省』による区分け 6,852島(本土 5島 ・ 離島 6,847島)。 『国土交通省』サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識)2009年11月27日閲覧。ただし、島について地理学上はこのような分類・区分けはない。(島 :オーストラリア大陸の面積未満で、四方を水域に囲まれる陸地)。極東そして東アジアの沿岸沖に位置し、最高標高3,776m、面積227,942.85km2。世界の島の中では、面積はインドネシアのスマトラ島に次ぐ第7位、人口はジャワ島に次ぐ第2位である。 地質学や考古学などでは本州島という名称も使用される。 本州には34の地方公共団体がある(1都2府31県)。日本国内では、本州とその付随する島を合わせて「本州地方」と言うが、単に「本州」と呼称する場合もある。 「本州」という名は、日本の主要な島であることに由来し、古代の呼称は「'''秋津島'''」・「'''秋津洲'''」(あきつしま、あきづしま)などが知られる(本州#歴史書における呼称)。.
本所
本所(ほんじょ)は、日本荘園制の荘園領主である本家および領家のうち、荘務を行う権限、すなわち荘園の実効支配権を有した者をいう。.
朱元璋
朱 元璋(しゅ げんしょう)は、明の始祖であり、初代皇帝である。廟号は太祖(たいそ)。その治世の年号を取って、洪武帝(こうぶてい)と呼ばれる。また、生まれた頃の名は、朱重八(しゅ じゅうはち)といい、後に朱興宗(しゅ こうそう)と改名し、紅巾(こうきん)軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞(こくずい)とした。.
戦中
戦中(せんちゅう)とは、戦争が起こっている最中を指す語。.
戦後
戦後(せんご)は、戦争の終結後の短期または長期的な期間を指す言葉・概念。戦争では多くの破壊や社会システムの大変革が行われるため、戦争が終結した後は社会体制などが新しく作り直され、価値観まで変化する。このため、大きな戦争を一つの時代の区切りとして、戦前・戦中・戦後という区分をする。「戦後」はしばしば、戦争による混乱を抜けきっていない時代という意味合いをもつ。しかし終わりを設けず現在までを含めることもある韓国人慰安婦問題や沖縄の米軍基地問題など、第二次世界大戦によって生じた問題が解決を見ていないため、右翼、左翼問わず現在を戦後に含めることがある。。一時は流行語となった。.
戦前
戦前(せんぜん、antebellum、prewar、Vorkriegszeit)とは、ある戦争が始まる前の時代。対義語は戦後。.
戦国時代 (中国)
中国の戦国時代(せんごくじだい)は、春秋時代に続く時代で、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の3つの国に分かれてから、紀元前221年に秦による中国統一がなされるまでをいう。この名前は『戦国策』から取られている。 どの時点をもって春秋と戦国の境目とするかは、歴史家の間でも意見が分かれている。詳しくは春秋戦国時代の項目を参照。.
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戦艦
アイオワ」1958年に現役を退いた本艦であったが、ロナルド・レーガンの掲げる「力による平和」戦略の一環として生まれた600隻艦隊構想のもと、同型艦とともにミサイル艦として近代化改装を受け、1984年に現役復帰を果たした(2006年除籍)。 戦艦(せんかん、battleship)とは、軍艦の艦種の一つである。強大な艦砲と堅牢な装甲を備え、海戦が主に砲撃戦に頼った時代に、海上決戦の主力となることに特化していた。第二次世界大戦頃までは、各国家の軍事力の象徴的存在であり、世界のパワーバランスを左右する戦略兵器ともされていた。しかし第二次世界大戦において航空戦力の威力が高まり、艦隊主力の地位を航空母艦に譲った。 第二次世界大戦後は、戦艦は運用機会や存在意義自体が失われ、現在では戦艦と呼ばれる艦種を運用する国はない。.
明
明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.
明史
『明史』(みんし、拼音:Míngshǐ)は、中国清代に編纂された歴史書。二十四史の一つ。「本紀」24巻、「列伝」220巻、「表」13巻、「志」75巻、「目録」4巻の計332巻から校正される紀伝体で、明朝の成立から滅亡までについて記述される。編纂開始は順治年間、完成は1739年(乾隆4年)であるが、大部分は康熙年間に編纂されている。.
明応
明応(めいおう)は、日本の元号の一つ。延徳の後、文亀の前。1492年から1501年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇、後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義材、足利義澄。.
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
昭和
昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.
海の中道
(地図) 志賀島から撮影した海の中道。手前の海が玄界灘、奥の海が博多湾 奈多海岸 海の中道(うみのなかみち)は、福岡県福岡市東区にある、志賀島と九州本土とを繋ぐ陸繋砂州である。全長約8 km、最大幅約2.5 kmの巨大な砂州で、この砂州の北は玄界灘、南は博多湾となっている。うみなかとも略称される。福岡市内のリゾート地域として多くの施設を抱える。.
海南島
海南島(かいなんとう、)は、南シナ海北部の島である。.
海音寺潮五郎
海音寺 潮五郎(かいおんじ ちょうごろう、1901年(明治34年)11月5日 - 1977年(昭和52年)12月1日、戸籍上は3月13日生)は、日本の小説家・作家。本名は末冨 東作(すえとみ とうさく)。鹿児島県伊佐郡大口村(現・伊佐市)生まれ。次女は日本テレワークの社長を務めた末冨明子(2011年6月19日没)。.
浄土教
浄土教(じょうどきょう)とは、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教え。浄土門、浄土思想ともいう。阿弥陀仏の本願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教え。.
浙江大学
紫金港キャンパス 之江キャンパス 浙江大学(せっこうだいがく、ピンイン:Zhèjiāng Dàxué, 英称:Zhejiang University)は、中国で最も歴史がある副部級大学の一つである。浙江省の省都である杭州市の西湖区に位置する。1897年に求是書院(ピンイン:Qíushì Shūyuàn)として設立された。略称はZJUおよびZheda.
新城神社
新城神社(しんじょうじんじゃ)は、長崎県壱岐市に鎮座する神社である。.
新元史
『新元史』(しんげんし)は、中華民国成立後に、柯劭忞(1850-1933、清史稿編纂メンバーでもある)が編纂して1919年に成立した元朝1代の紀伝体歴史書。従来の『元史』の不備を補うものとされて、1921年に当時の中華民国大総統・徐世昌によって正史に加えられて、従来の二十四史を「二十五史」と改めた。.
文保
文保(ぶんぽう)は、日本の元号の一つ。正和の後、元応の前。1317年から1318年までの期間を指す。この時代の天皇は花園天皇、後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.
文応
文応(ぶんおう)は、日本の元号の一つ。正元の後、弘長の前。1260年の期間を指す。この時代の天皇は亀山天皇。鎌倉幕府将軍は宗尊親王、執権は北条長時。.
文永
文永(ぶんえい)は、日本の元号の一つ。弘長の後、建治の前。1264年から1274年までの期間を指す。この時代の天皇は亀山天皇、後宇多天皇。鎌倉幕府将軍は宗尊親王、惟康親王、執権は北条長時、北条政村、北条時宗。.
文春文庫
文春文庫(ぶんしゅんぶんこ)は、株式会社文藝春秋が発行している文庫レーベル。毎月の刊行が新潮文庫と同様に多い。.
日向 (日蓮宗)
日向(にこう、建長5年2月16日(1253年3月16日) - 正和3年9月3日(1314年10月12日))は、日蓮六老僧の一人。佐渡公日向、また後には民部阿闍梨日向(みんぶあじゃりにこう)、安立院とも名乗った。現在の日蓮宗の宗史上においては、総本山身延山久遠寺第二世に列せられている。.
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日向国
日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
日元貿易
日元貿易(にちげんぼうえき)とは、日本と元の間で行われた貿易関係のこと。.
日蓮
妙傳寺 本蓮寺 日蓮(にちれん、貞応元年(1222年)2月16日には、「その誕生日の2月16日については自ら記すところではないが、『本門宗要抄』の下巻と、この書と大体同時代の成立と思われる日道の『御伝土代』に誕生を2月16日と記している」とある(但し、漢数字は算用数字に改めた)。なお、『本門宗要抄』には偽書説があるが、それについてはで「日蓮の事蹟・生涯についてはおそらく日蓮の直弟たちの間の周知のこと、またその伝承されていたことがつづられたもので、この両書は日蓮宗の初期の伝承を伝える珍重すべきものである。したがって2月16日の誕生は真を伝えているとみて良い。」としている。 - 弘安5年(1282年)10月13日)ユリウス暦では1222年3月30日 - 1282年11月14日、グレゴリオ暦に換算すると1222年4月6日 - 1282年11月21日。グレゴリオ暦の施行は1582年で日蓮はそれ以前に亡くなっているが、日蓮宗諸派では日蓮の事跡をグレゴリオ暦換算の日付で祝うため、グレゴリオ暦の日付を併記している。なお、換算はによる。は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗後に十三宗のひとつとなる。(法華宗)の宗祖。滅後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。.
日蓮 (映画)
『日蓮』(にちれん)は、日蓮の生涯を描いた1979年の日本映画。 大映社長時代に『日蓮と蒙古大襲来』(1958年、大映京都)を製作した永田雅一が、再び日蓮を題材に製作したスペクタクル時代劇大作である。なお、元寇のシーンには『日蓮と蒙古大襲来』の特撮シーンが一部流用されている。.
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日蓮と蒙古大襲来
『日蓮と蒙古大襲来』(にちれんともうこだいしゅうらい)は、1958年10月1日に公開された大映京都製作の映画作品。.
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日蓮宗
日蓮宗(にちれんしゅう)は、.
日清戦争
日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月25日(光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)にかけて行われた主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と大清国の戦争である。前者がイギリス帝国に接近し、治外法権を撤廃させる実質的な外交材料となった。日清講和条約を結ばせた日本は戦勝国であったが、多くの兵を病死させている。また、利率の高い国内軍事公債も戦後に借り替えた。条約により台湾を譲り受けた日本は、台湾総督府や台湾製糖を設置し、民間からは大日本製糖などの製糖会社が台湾に進出した。また日清汽船(大阪商船)などの水運会社が上海に進出した。.
日澄
日澄(にっちょう、弘長1年(1261年) - 延慶3年3月14日(1310年4月14日))は、鎌倉時代中期から後期にかけての日興門流の僧。 富木常忍の子、日頂の弟。寂仙房と号す。日興の弟子で新六の一人。六老僧の一人である日朗の弟子に九老僧の中の一人に大乗坊日澄がいるがこの人物とは別人。.
日朝
日朝(にっちょう、応永29年1月5日(1422年1月27日) - 明応9年6月25日(1500年7月21日))は、室町時代の日蓮宗の僧。字は鏡済、号は行学院。朝善の子。 12世の日意、13世の日伝とともに身延中興の三師と位置づけられている。.
日本
日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.
日本外史
『日本外史』(にほんがいし)は、江戸時代後期に頼山陽が著した国史の史書(外史とは民間による歴史書の意)。源平2氏から徳川氏までの武家盛衰史で、すべて漢文体で記述されている。文政10年(1827年)、山陽と交流があった元老中首座の松平定信に献上され、2年後に大坂の秋田屋など3書店共同で全22巻が刊行された。明治以後、日本語口語体に訳された本も数社から刊行されている。幕末から明治にかけてもっとも多く読まれた歴史書である。.
日本一鑑
日本一鑑(にほんいっかん)とは、明の鄭舜功が戦国時代の日本に関して情報を収集し編纂した研究書で、日本百科全書である。全3部16巻。.
日本在来馬
日本在来馬(にほんざいらいば)は、日本の在来馬、すなわち、洋種馬等の外来の馬種とほとんど交雑することなく残ってきた日本固有の馬、及び、その馬種の総称である。 略して単に在来馬と言うことも多く、また、和種馬、在来和種(馬)とも呼ばれる。また、その馬種を日本在来種・日本在来馬種、その馬を日本在来種馬と言うこともある。 現存のものは8種に分かれるが、その多くは個体数がたいへん少なく、絶滅が危ぶまれている。また、南部馬、三河馬等、中型、大型在来馬は近代化の過程で絶滅した。(日本)在来家畜の1つである。.
日本刀
日本刀(にほんとう)は、日本固有の鍛冶製法によって作られた刀類の総称である。 刀剣類は、日本では古墳時代以前から製作されていたが、一般に日本刀と呼ばれるものは、平安時代末期に出現してそれ以降主流となった反りがあり刀身の片側に刃がある刀剣のことを指す。 寸法により刀(太刀・打刀)、脇差(脇指)、短刀に分類される。広義には、長巻、薙刀、剣、槍なども含まれる。.
日本文教出版
日本文教出版(にほんぶんきょうしゅっぱん).
日本書籍出版協会
一般社団法人日本書籍出版協会(にほんしょせきしゅっぱんきょうかい、Japan Book Publishers Association)は、書籍を刊行する出版社による業界団体。略称は「書協」、「JBPA」。会員出版社462社。 会員出版社のみならず、非会員出版社に対しても、データベース「日本書籍総目録」の出版物の登録や「東京国際ブックフェア」への共同出展を受け入れるなど日本の出版文化に貢献する公益的な事業を展開している。 2017年12月現在の理事長は小学館の代表取締役である相賀昌宏で、役員も講談社社長の野間省伸など出版関係者が名を連ねている。 加盟している出版社は423社。.
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日本書紀
日本書紀(平安時代の写本) 『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。.
日意
日意(にちい、1444年(文安元年) - 1519年3月3日(永正16年2月3日))は、戦国時代の日蓮宗の僧。号は円教院。.
旧唐書
『旧唐書』(くとうじょ )は、中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉昫、張昭遠、王伸らによって編纂された歴史書。二十四史の1つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。 当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。.
早良区
早良区(さわらく)は、福岡市を構成する7つの行政区の1つ。 1972年4月1日に福岡市が政令指定都市となった時は西区だったが、1982年5月10日に早良区、西区、城南区の3つに分割されて発足。.
早良郡
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旗田巍
旗田 巍(はただ たかし、1908年11月7日 - 1994年6月30日)は、日本の東洋史学者、東京都立大学名誉教授。 朝鮮の慶尚南道馬山生まれ。1931年東京帝国大学東洋史学科卒業。卒業後満鉄調査部に所属し華北農村慣行調査に参加した。東京都立大学助教授、教授、72年定年退官、名誉教授、専修大学教授。79年退職。戦後、人間不在の東洋史学の克服、植民地支配否定の立場からの研究などでの朝鮮史研究で中心的役割を果たした。.
悪党
悪党(あくとう)は、.
愛宕松男
愛宕 松男(おたぎ まつお、1912年2月8日 - 2004年6月)は、東洋史学者、東北大学名誉教授。 京都府出身。京都帝国大学卒業。1951年東北大学教授。1959年「キタイ部族制社会の研究」で京大文学博士。1974年定年退官、名誉教授、京都女子大学教授。専攻は元朝史など中国の征服王朝史。また陶磁器を中心とした産業史、戯曲・演劇史研究もある。 マルコ・ポーロの「東方見聞録」の翻訳で知られる。子息愛宕元も東洋史学者(京大名誉教授)。.
懐良親王
懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう、元徳元年(1329年)? - 弘和3年/永徳3年3月27日(1383年4月30日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。官位は一品・式部卿。征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。 南朝の征西大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。.
懲ヒ録
『懲毖録』(ちょうひろく)は、17世紀前後に書かれた李氏朝鮮の史書で、著者は同王朝の宰相柳成龍。文禄・慶長の役を記録したもので、重要な資料として、韓国の国宝第132号に指定されている。.
故宮博物院
故宮博物院 中国の歴代の皇帝らによって収集され、北京の紫禁城(故宮)に保管されていた歴史的文化財を保存、展示する博物館。.
故事
故事(こじ)とは、大昔にあった物や出来事。また、遠い過去から今に伝わる、由緒ある事柄。特に中国の古典に書かれている逸話のうち、今日でも「故事成語」や「故事成句」として日常の会話や文章で繁用されるものをいう。 故事成語/故事成句(こじ せいご/こじ せいく)とは、故事をその語源とする一群の慣用語句の総称。本来の中国語ではただ「成語」というが、日本では故事を語源とするものをその他の熟語や慣用句と区別するために、このような呼び方となった。 ものごとのいわれ(由来)や、たとえ(比喩)、おもい(観念)、いましめ(標語)など、面と向かっては言い難いことを婉曲に示唆したり、複雑な内容を端的に表したりする際に便利な語句で、中には日本語の単語として完全に同化したもの(「完璧」「矛盾」など)や、日本語のことわざとして定着したもの(「井の中の蛙大海を知らず」「虎の威を借る狐」など)も多い。 以下には日本でも繁用される主な故事成語を五十音順にあげた。.
慶尚道
慶尚道(キョンサンどう、日本読み:けいしょうどう)は、朝鮮八道の一つ。1896年に慶尚南道と慶尚北道に分かれた。現在は慶尚北道に属する慶州と尚州から頭文字を取って命名された。古代の遺跡や古都がある点は日本の近畿地方に似ている。韓国の歴代大統領12人(代行は除く)のうち8人が慶尚道出身であるなど、有名政治家、実業家を輩出している。広域市も釜山、蔚山、大邱の3つがある。慶尚道地域のうち、現在の大邱広域市と慶尚北道の領域はTK地域、釜山広域市と蔚山広域市と慶尚南道の領域はPK地域と呼ばれる。 韓国の主要政党で、李明博政権(2008年2月25日~2013年2月24日)、朴槿恵政権(2013年2月25日~2017年3月10日)時代に与党だった自由韓国党(大邱市と慶尚北道を地盤としていた民主正義党と、釜山市と慶尚南道を地盤としていた統一民主党などが合同して1990年に結成された民主自由党の流れを汲む保守政党)はこの慶尚道を強固な支持基盤としていたが、2017年の大統領選挙では、自由韓国党の洪準杓が共に民主党の文在寅にPK地域で敗れるなど、近年は慶尚道地域の政党支持に変化がみられる。.
扁額
小諸城三の門とその扁額 土佐神社の神額 扁額(へんがく)は、建物の内外や門・鳥居などの高い位置に掲出される額(がく)、看板であり、書かれている文字はその建物や寺社名であることが多いが、建物にかける創立者の思いなどを記すことがある。扁額は神社、寺院、城門、茶室などの伝統建築のみでなく、学校、体育館、トンネルなどの近代建築においても掲げられる。特に神社に掲げられている額を「神額」、寺社に掲げられている額を「寺額」という。扁額の文字は著名人が揮毫することがあり、扁額そのものが書跡としての文化財の扱いを受けることがある。扁額は奉納したものが掲げられることがあり、特に区別して奉納額ということもある。 扁額は中国に由来し、日本、ベトナム、韓国などでも見られる。図案(意匠)としては神職であった氏族や家(いえ)が家紋として用いることがあるほか、小出氏の使用した紋として有名である。 皇帝や天皇が与える扁額を勅額という。.
扶余豊璋
扶余 豊璋(ふよ ほうしょう、扶余豐璋、生没年不詳)は、百済最後の王である義慈王(在位:641年 - 660年)の王子。『日本書紀』での表記は扶余豊璋もしくは徐豊璋であるが、『三国史記』では余豊璋もしくは徐豊璋、『旧唐書』では余豊もしくは徐豊である。また、『日本書紀』にも登場する百済の王族翹岐を豊璋と同一人物とする説もある鈴木靖民「七世紀中葉の百済の政変」『日本の古代国家の形成と東アジア』吉川弘文館 2011年 ISBN 9784642024846。 倭国滞在中、百済本国が唐・新羅に滅ぼされたため、百済を復興すべく帰国した。.
扶桑社
株式会社扶桑社(ふそうしゃ)は、東京都港区芝浦一丁目に本社を置く、フジサンケイグループ傘下の出版社である。.
時宗
時宗(じしゅう)は、鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教。開祖は一遍。鎌倉仏教のひとつ。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)。 時宗の開祖・一遍像。藤沢市清浄光寺。.
10月20日 (旧暦)
旧暦10月20日(きゅうれきじゅうがつはつか)は、旧暦10月の20日目である。六曜は大安である。.
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10月5日 (旧暦)
旧暦10月5日(きゅうれきじゅうがついつか)は旧暦10月の5日目である。六曜は友引である。.
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11月11日
11月11日(じゅういちがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から315日目(閏年では316日目)にあたり、年末まであと50日ある。.
11月26日
11月26日(じゅういちがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から330日目(閏年では331日目)にあたり、年末まであと35日ある。.
1231年
記載なし。
1241年
記載なし。
1259年
記載なし。
1260年
記載なし。
1264年
記載なし。
1265年
記載なし。
1266年
記載なし。
1268年
記載なし。
1269年
記載なし。
1271年
記載なし。
1272年
記載なし。
1273年
記載なし。
1274年
記載なし。
1275年
記載なし。
1276年
記載なし。
1279年
記載なし。
1280年
記載なし。
1281年
記載なし。
1282年
記載なし。
1283年
記載なし。
1284年
記載なし。
1285年
記載なし。
1286年
記載なし。
1287年
記載なし。
1291年
記載なし。
1292年
記載なし。
1294年
記載なし。
1298年
記載なし。
1299年
記載なし。
1301年
記載なし。
1304年
記載なし。
1307年
記載なし。
1317年
記載なし。
13世紀
チンギス・ハーン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。.
1402年
記載なし。
1478年
記載なし。
1494年
記載なし。
1585年
記載なし。
1732年
記載なし。
1886年
記載なし。
1891年
記載なし。
1892年
記載なし。
1910年
記載なし。
1913年
記載なし。
1916年
記載なし。
1925年
記載なし。
1937年
記載なし。
1940年
記載なし。
1943年
記載なし。
2001年
また、21世紀および3千年紀における最初の年でもある。この項目では、国際的な視点に基づいた2001年について記載する。.
2011年
この項目では、国際的な視点に基づいた2011年について記載する。.
2014年
この項目では、国際的な視点に基づいた2014年について記載する。.
5月21日 (旧暦)
旧暦5月21日は旧暦5月の21日目である。六曜は先勝である。.
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662年
記載なし。
6月16日
6月16日(ろくがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から167日目(閏年では168日目)にあたり、年末まであと198日ある。誕生花はチューベローズ、カンパニュラ。.
8月29日
8月29日(はちがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から241日目(閏年では242日目)にあたり、年末まであと124日ある。.
8月7日 (旧暦)
旧暦8月7日(きゅうれきはちがつなのか)は、旧暦8月の7日目である。六曜は友引である。.
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