262 関係: 名門、吉田城 (三河国)、吉田氏好、吉良義定、吉良義安、吉良義弥、吉良義継、吉良義昭、吉良長氏、吉良満氏、堀越氏、大宮城 (駿河国)、大井氏、大内義弘、大高城、大沢基胤、天野景貫、太原雪斎、奉公衆、孕石元泰、定恵院、宝飯郡、室町幕府、家制度、家系、守護、宇津山城、安城合戦、安祥城、安部元真、寿桂尼、富士信忠、小原鎮実、小豆坂の戦い、小鹿範満、小手指原の戦い、尾張国、山口教継、山名氏、山田景隆、岡崎城、岡部久綱、岡部元信、岡部親綱、岡部正綱、嶺松院、川中島の戦い、上杉謙信、上杉氏、上杉氏定、...、上杉憲定、中先代の乱、丹後国、三河国、三河牧野氏、三浦義就、三浦正俊、一宮宗是、一色氏、九州探題、幡豆郡、幕末、久野元宗、京極氏、二俣城、庵原忠胤、庵原元政、庵原氏、井伊直盛、井伊直親、今川 (杉並区)、今川基氏、今川仮名目録、今川仲秋、今川彦五郎、今川国氏、今川範叙、今川範将、今川範主、今川範以、今川範彦、今川範忠、今川範国、今川範高、今川範氏、今川範政、今川義彰、今川義忠、今川義元、今川義用、今川義順、今川義泰、今川直房、今川貞世、今川貞延、今川貞相、今川貞臣、今川氏堯、今川氏兼、今川氏睦、今川氏真、今川氏親、今川氏豊、今川氏輝、今川泰範、建武の新政、伊丹康直、引両紋、但馬国、征夷大将軍、侍所、御一家、徳川家康、徳川家光、徳川家綱、徳川秀忠、徳川氏、応永の乱、土屋貞綱、土岐氏、北川殿、北条高家、北条氏平、北条早雲、北条時行、北条時政、分国法、和田 (杉並区)、品川伊氏、品川高久、品川氏、冷泉為和、因幡国、石川家成、玄広恵探、碧海郡、管領、築山殿、細川頼之、細川氏、織田信長、織田氏、田原城 (三河国)、田中城、由比正信、甲相同盟、甲相駿三国同盟、畠山氏、牧野保成、牧野成定、狐橋の戦い、瀬名一秀、瀬名信輝、瀬名氏俊、瀬名氏貞、花倉の乱、鎌倉幕府、鎌倉公方、遠江国、荻清誉、菅沼定盈、飯尾乗連、飯尾連龍、西尾市、親族、観応の擾乱、観泉寺、駿府城、駿河侵攻、駿河国、高天神城、高家 (江戸時代)、鳴海城、越相同盟、足利尊氏、足利将軍家、足利義兼、足利義氏 (足利家3代目当主)、足利義満、足利氏、足利氏満、足利泰氏、近藤景春、近江国、赤松氏、鵜殿長照、鵜殿長持、関口親永、関口氏経、薩た峠の戦い (戦国時代)、葛山氏元、蒲原氏、蒲原氏徳、肥前国、野洲市、野洲郡、臨済寺 (静岡市)、長延寺、長谷川元長、若年寄、掛川城、東京都、松平広忠、松平氏、松井宗信、村木砦の戦い、杉並区、桶狭間の戦い、武家、武田信玄、武田勝頼、武田義信、武田氏、永享の乱、江戸城、江戸幕府、河内源氏、河東の乱、沓掛城、清和源氏、源義家、源義康、源義国、源氏、滋賀県、持船城、持永氏、服部友貞、朝比奈信置、朝比奈元長、朝比奈元智、朝比奈氏、朝比奈泰勝、朝比奈泰能、朝比奈泰長、朝比奈泰朝、本姓、本貫、惣領、戦国大名、戦国時代 (日本)、戸部政直、明治維新、浜松城、浅井政敏、斯波氏、新野親矩、日根野弘就、日本、早川殿、旗本、愛知県、曹洞宗、1536年、1560年、1561年、1565年、1567年、1568年、15世紀、1645年、1887年。 インデックスを展開 (212 もっと) »
名門
名門(めいもん)とは、由緒ある門地・門閥のことをいう。.
吉田城 (三河国)
吉田城(よしだじょう)は、三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町、豊橋公園内)にあった日本の城。 戦国時代の16世紀初頭にその前身が築城され、16世紀末に大改築が行われた。戦国時代には三河支配の重要拠点の1つとして機能し、江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たした。別の城名としては、築城当初に今橋城と呼ばれ、明治維新後には、吉田から豊橋の改名に伴い豊橋城とも呼ばれた。.
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吉田氏好
吉田 氏好(よしだ うじよし、生年不詳 - 没年不詳(永禄3年5月19日(1560年6月12日)?))は、戦国時代の武将、武蔵守。 今川氏家臣、桶狭間の戦いでは軍奉行として参加していたが織田軍の突撃を受け総大将。.
吉良義定
吉良 義定(きら よしさだ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。徳川氏の家臣。.
吉良義安
吉良 義安(きら よしやす)は、戦国時代の三河国の武将。2つに分かれた三河吉良氏のうち西条吉良氏の出身で、養子に迎えられて東条吉良氏の当主となり、のちに徳川家康に仕えて西条吉良氏の家督も併せた。.
吉良義弥
吉良 義弥(きら よしみつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武士。江戸幕府の高家旗本。吉良義定の長男。.
吉良義継
吉良 義継(きら よしつぐ)は、鎌倉時代の武将。奥州(武蔵)吉良氏(前期東条吉良氏)・蒔田氏の祖。 足利義氏の三男または四男。名乗りからみると四男である説がある。一方、室町時代後期に編纂されたとされる『見聞諸家紋』という書物には「義氏之次男義継号東条、三男長氏号西条」とあり、また吉良氏が惣領の庶兄であることから御一家に加えられた経緯からして泰氏・長氏の兄であるとする説がある。また、「長瀬」を名乗っていたことから、初めは碧海郡長瀬(現岡崎市森越町)に住んでおり、吉良東条に移ったのは後年のことと推測されている。 『尊卑分脈』には「渡唐」したと記されているが、大陸渡航に至る経緯は不明。帰国後、出家したとされるが、岡崎市滝山寺に伝わる『滝山寺縁起』には、建長7年(1255年)、滝山寺で足利義氏の一周忌法要が営まれた際、法華堂が新たに建てられ、その本尊である阿弥陀仏を高野山より迎えたのが、出家し尊観と名乗っていた義継であることが記されている。.
吉良義昭
吉良 義昭(きら よしあき、生没年不詳)は、戦国時代の武将。三河西条吉良氏の当主。吉良義堯の三男。.
吉良長氏
吉良 長氏/足利 長氏(きら おさうじ/あしかが おさうじ)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。足利氏の有力一門・吉良氏の祖。.
吉良満氏
吉良 満氏/足利 満氏(きら みつうじ/あしかが みつうじ)は、鎌倉時代後期の武将・御家人。三河国西条領主。越前国守護。.
堀越氏
堀越氏(ほりこしし)は、清和源氏義国流、足利氏の一門今川氏の一派で、初代は今川貞世(了俊)である。遠江を本拠地とし当初は遠江守護職であったため、駿河今川氏に対して遠江今川氏とも呼ばれる。 また、瀬名氏(せなし)も堀越氏と同じ系統の一族のため本稿で合わせて記述する。.
大宮城 (駿河国)
大宮城(おおみやじょう)は駿河国大宮(現在の静岡県富士宮市)に存在した日本の城である。別名富士城。.
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大井氏
大井氏(おおいし).
大内義弘
大内 義弘(おおうち よしひろ)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊守護。大内家の第25代当主。 第24代当主・大内弘世の嫡子。弟に満弘、盛見(第26代当主)、弘茂など。子に持世(第27代当主)、持盛、教祐がいる。幼名は孫太郎、のち元服して室町幕府第2代将軍・足利義詮より偏諱を受け義弘と名乗る。 室町幕府に従って多くの功績を立てた名将で、大内家の守護領国を6か国にまで増加させて大内家最初の全盛期を築く。しかし功を立てすぎ、さらに領国を増やしすぎた事が有力守護大名を危険視する足利義満に目をつけられ、応永の乱を起こすも敗死した。.
大高城
大高城(おおだかじょう)は、名古屋市緑区大高町にあった日本の城。 桶狭間の戦いの前哨戦として、当時今川義元の配下であった松平元康(徳川家康)が「兵糧入れ」をおこなったことで名高い。現在は国の史跡に指定され、公園として整備されている。.
大沢基胤
大沢 基胤(おおさわ もとたね、大永6年(1526年) - 慶長10年6月28日(1605年8月12日)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。大沢基相の長男。子に大沢基宿。官位は左衛門佐。.
天野景貫
天野 景貫(あまの かげつら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。犬居城主。.
太原雪斎
太原 雪斎/太原 崇孚(たいげん せっさい/たいげん そうふ)は、戦国時代の武将・政治家。臨済宗の僧侶(禅僧)で今川家の家臣。諱は崇孚。雪斎の号は居住した場所に「雪斎」と書かれた扁額があったことが由来。大塚勲『戦国大名今川氏四代』P48。 父は庵原城主・庵原政盛(左衛門尉)。母は興津横山城主・興津正信の娘。父方の庵原氏は駿河庵原(現在の静岡市清水区)周辺を治める一族。母方の興津氏は横山城を本拠に海運を掌握し海賊(水軍)も率いていた。両家とも今川氏の譜代の重臣。今川義元に仕えて義元の家督相続に尽力。相続後は義元を補佐して内政・外交・軍事に敏腕を発揮して今川家の全盛期を築き上げた。 後奈良天皇から宝珠護国禅師を諡された。.
奉公衆
奉公衆(ほうこうしゅう)は、室町幕府に整備された幕府官職の1つである。将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた。番衆(小番衆)とも。 鎌倉時代の御所内番衆の制度を継承するもので、一般御家人や地頭とは区別された将軍に近侍(御供衆)する御家人である。奉行衆が室町幕府の文官官僚であるとすれば、奉公衆は武官官僚とも呼ぶべき存在であった。後年、豊臣秀吉も奉公衆の制度を設けている。.
孕石元泰
孕石 元泰(はらみいし もとやす、生年不詳 - 天正9年(1581年)3月23日)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏、武田氏の家臣。通称は藤六、主人。主水佑・和泉守を自称。諱の「元」は今川義元の偏諱と思われる。.
定恵院
定恵院(じょうけいいん、永正16年(1519年)- 天文19年6月2日(1550年7月15日))は、戦国時代の女性。甲斐国の戦国大名武田信虎の長女。今川義元の正室。武田信玄・武田信繁・武田信廉らの姉にあたる。実名は不明。.
宝飯郡
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室町幕府
花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.
家制度
家制度(いえせいど)とは、1898年(明治31年)に制定された民法において規定された日本の家族制度であり、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、戸主(こしゅ)と家族として一つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度である。江戸時代に発達した、武士階級の家父長制的な家族制度を基にしている。 女性参政権の施行と日本国憲法の制定に合わせて、1947年(昭和22年)には民法が大規模に改正され、親族編・相続編が根本的に変更された為に廃止された。.
家系
家系(かけい)または血統(けっとう)とは、親子・兄弟・婚姻・養子など様々な関係性で結ばれる特定の家族、血族集団を指す。一定の血族集団の中で同一の階級または地位、氏、家名、家格、家業、家財を世襲で継承する場合に使われることが多い。類似概念に家柄などがある。.
守護
守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.
宇津山城
宇津山城(うつやまじょう、うづやまじょう)は、遠江国に在る戦国時代の日本の城跡。現在の湖西市入出の浜名湖に突き出した正太寺鼻に位置する宇津山(49.5m)にあり、郭や土塁、武者走り、舟隠し場が残る。正太寺(遠州三十三観音25番札所)の敷地内にある。.
安城合戦
安城合戦(あんじょうかっせん)は、戦国時代に三河国の安祥城付近(現在の愛知県安城市東部)で織田氏と松平氏・今川氏が西三河南部の領有を巡って、天文9年(1540年)から天文18年(1549年)まで、3回または6回、計9年に渡って行われた戦闘である。 最初の戦闘は、織田氏が三河進出を企図したことから発生したものであり、最後の戦闘は、今川氏が西三河より織田氏の勢力を駆逐して、代わりに自らの勢力を扶植するため行われた。結果、織田氏は敗北して、三河における織田氏の勢力は著しく減退、尾張と三河の国境付近にある刈谷周辺の一角を保持するのみとなった。代わりに今川氏は松平宗家領押領によって勢力基盤確立に成功、一部地区を除く西三河南部地域のほぼすべてが今川領となった。 安城合戦の古戦場周辺には、討死にした者たちを弔った塚が数多くあり、それらの塚は十三塚と総称され、具体的には東条塚・千人塚・貴人塚・大道塚・鏡塚・玄塚・古見塚・姫塚・恋塚・貴人塚・金蔵塚・富士塚・大胴塚の計13の塚である。.
安祥城
二の丸跡に建てられた東尾八幡社 安祥城(あんじょうじょう)は、三河国碧海郡安城(現在の愛知県安城市安城町)にあった日本の城。 舌状台地の先端に位置し周囲を森と深田に囲まれていて、その内側に土塁や堀があり、天守を持たない平山城だった。室町時代中期に築城され、織田氏、今川氏、松平氏との間で激しい戦闘が繰り広げられた。 『岡崎領主古記』に、安祥森城。三河国二葉松に、安條古城、云城森。という記載があるが、徳川の同時代史料(家忠日記や大久保の三河物語)には、別名の森城なる記載はない。 現在では、碑・塚・切岸・堀・一部曲輪などが残るだけとなっている。本丸は大乗寺、二の丸は八幡社、三の丸は大乗寺の裏手あたりになる。 また、徳川最古参の三河安祥之七御普代の発祥の地でもある。三河安祥之七御普代とは、酒井左衛門尉・大久保・本多・阿部・石川・青山・植村、または酒井・大久保・本多・大須賀・榊原・平岩・植村を指す(『柳営秘鑑』)。 『信長公記』に「三川の内あん城と云ふ城」と記載される。織田氏が保有していた時代には三河進出の牙城となった。.
安部元真
安部 元真(あんべ もとざね、永正10年(1513年) - 天正15年10月10日(1587年11月10日))は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏、徳川氏の家臣。通称は大蔵尉。父は安部信真。子に信勝。姓は安倍とも表記される。本姓は神氏。 駿河の戦国大名今川氏に仕え、主君の今川義元より偏諱を賜り元真を名乗る。永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで義元が戦死して以降、弱体化しつつあった今川氏の領土に甲斐の武田信玄が侵攻してくると(駿河侵攻)、元真は駿府で迎え撃つが敗れ自領に退散した。今川氏滅亡後は流浪の末に徳川家康に仕え、遠江伯耆塚城に入城し、仇敵・武田氏と戦い、諸戦で戦功をあげた。 子の信勝も家康に仕え戦功を挙げ、孫の信盛以降安部氏は譜代大名として栄えた。 もとさね Category:戦国武将 Category:駿河国の人物 Category:1513年生 Category:1587年没.
寿桂尼
寿桂尼(じゅけいに、生年未詳 - 永禄11年3月14日(1568年4月11日))は、戦国時代の女性。駿河国の戦国大名今川氏親の正室。藤原北家、勧修寺流の中御門家(公家)の出自で、父は権大納言中御門宣胤。兄に中御門宣秀、姉は山科言綱の正室。子に今川氏輝、今川義元、瑞渓院(北条氏康室)など。名は不詳。夫・氏親の死後剃髪して瑞光院寿桂尼となり、大方殿と称された。氏親、氏輝、義元、氏真の四代に渡って今川氏の政務を補佐し「尼御台」と呼ばれた。.
富士信忠
富士 信忠(ふじ のぶただ)は戦国時代の武将、富士氏当主。大宮城(富士城)の城主。.
小原鎮実
小原 鎮実(おはら しずざね、生年不詳 - 永禄11年(1568年))は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。官途は肥前守を称す。三河国吉田城、遠江国宇津山城、駿河国花沢城の城代『徳川実紀』の編纂にも携わった成島司直の『改正三河後風土記』には、「小原肥前守鎮実」とあり、彼の動向の記述は詳細である。大久保忠教の『三河物語』には、「小原之備後守」とあり同一人物という説もある。。また、大原 資良(おおはら すけよし)と同一人物ともされる。 言継卿記には、今川氏真の歌会に大原伊豆守の記述あり。武田氏研究25(武田氏研究会)には、小原伊豆守鎮実 という記述があり、同一人物か?関口氏経判物・永禄六年には、大原肥前守とあり、同時代史料では大原肥前守が正しいか。.
小豆坂の戦い
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小鹿範満
小鹿 範満(おしか のりみつ)は、室町時代後期の武将。小鹿範頼(のりより)の子。.
小手指原の戦い
小手指原古戦場の碑(2008年10月) 小手指原の戦い(こてさしがはらのたたかい、小手指ヶ原の戦い・小手差原の戦いとも)は、南北朝時代に武蔵国入間郡小手指原(現在の埼玉県所沢市北野)で行われた合戦である。国木田独歩『武蔵野』の冒頭部分で触れられていることで知られている。.
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尾張国
尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
山口教継
山口 教継(やまぐち のりつぐ)は、戦国時代の武将。織田氏、今川氏の家臣。尾張国鳴海城主。.
山名氏
日本の氏族。幾つかの流れがある。.
山田景隆
山田 景隆(やまだ かげたか)は、戦国時代の武将。今川家の重臣で同家の三河奉行人とも。今川軍侍大将及び中陣左翼副大将。弘治~永禄初期には松平広忠が早世して城主不在となった岡崎城の城代を勤めた。家紋は丸に二つ引(引両紋)。.
岡崎城
岡崎城(おかざきじょう)は、愛知県岡崎市康生町にある日本の城。徳川家康の生地である。別名、龍城。岡崎公園の中にある。 戦国時代から安土桃山時代には松平氏の持ち城、江戸時代には岡崎藩の藩庁であった。 岡崎城は当初、「岡竒城」と記された。また、『三河国名所図会』には、「岡崎は享禄(1528年(享禄元年) - 1531年(享禄4年))以来の名號にして、其以前は菅生郷なり、」と記載されている。.
岡部久綱
岡部 久綱(おかべ ひさつな、生年不詳 - 天文17年(1547年))は、戦国時代の武将。駿河の大名である今川氏の家臣。出家後の法名は常慶(じょうけい)。 子に正綱、長秋(ながあき)、長教、娘(伊丹康直の正室)がいる。 天文10年(1541年)6月 今川義元の命により太原雪斎、久綱の両名が甲府へ派遣され武田信虎隠居の件について交渉を行ったとされる。.
岡部元信
岡部 元信(おかべ もとのぶ)は、戦国時代の武将。今川家の家臣。後に甲斐武田家の家臣。.
岡部親綱
岡部 親綱(おかべ ちかつな、生年不詳 - 永禄5年(1562年))は、戦国時代の武将。駿河の大名今川氏の家臣。通称・左京進、出家して玄忠。 今川氏輝の側近であった。氏輝没後の天文5年(1536年)花倉の乱に際しては栴岳承芳方に味方し、方上城を攻撃、落城せしめるなど大いに戦功を上げた。 ちかつな Category:戦国武将 Category:1562年没.
岡部正綱
岡部 正綱(おかべ まさつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏、武田氏、徳川氏の家臣。岡部久綱の子、岡部長盛の父。次郎右衛門尉。 『武徳編年集成』には、少年時代の正綱は人質として駿府に連れてこられた徳川家康と仲良くなり、岡部家は日常生活面で助力するなど家康に対して今川家の重臣の中では最も好意的な態度をとっていたことが記されている。 最初は今川家に仕えており、弘治3年(1557年)に初陣、兜首2つを獲って名を馳せた。その後、武田信玄の侵攻(駿河侵攻)で駿河国を失うなどして、今川家が勢力を失った後も、今川館に籠もって頑強に抵抗した。今川氏の滅亡後は、その武勇を高く評価され、武田氏の家臣として仕えた。 その後は武田家臣として、三方ヶ原の戦いなど数多の戦で活躍したが、天正9年(1581年)に高天神城が徳川家の侵攻で陥落し、一門の岡部元信らが討ち死にする。その後は徳川家康の家臣となり、天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が死去して家康が甲斐国に侵攻すると、旧武田家臣の調略などを行って、家康の甲斐平定に尽力した。徳川氏の甲斐支配においては、平岩親吉と同格に置かれていたとする説もある。 しかし翌年、戦傷が原因で死去したとも、武田旧臣達を調略する際に毎度酒宴を催していたため、急性アルコール中毒で身体を壊して死去したともいわれ、没年・死因ともに異説がある。 正綱の孫・岡部宣勝は祖父の功績を賞されて、和泉国岸和田に6万石を与えられた。.
嶺松院
嶺松院(れいしょういん、生年不詳小和田哲男編『戦国大名閨閥事典』(新人物往来社、1996年)今川氏の章(執筆者:小和田美智子)は、天文10年(1541年)生まれとする。12歳で結婚、27歳で夫を失い、72歳で死去した計算になる。 - 慶長17年8月19日(1612年9月14日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。駿河国の戦国大名今川義元と正室定恵院の娘。甲相駿三国同盟の一環として、武田義信と結婚した。実名は不明。嶺松院殿。.
川中島の戦い
川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。.
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上杉謙信
上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。最強の戦国武将の1人といわれ、後世、軍神や越後の虎、越後の龍と称された。 越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾 景虎(ながお かげとら)。1561年(景虎31歳)、関東管領・上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職関東管領を引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。 内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に宿敵武田信玄との5回にわたる川中島の戦いはよく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが48歳で志半ばで死去した。兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発した。 謙信は、「義」を重んじ、戦乱の世にあっても侵略のための戦いはしない一方、他国から救援を要請されると出兵し、「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す」(私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)『白河風土記』と述べている。また、謙信が敵将武田信玄の領国甲斐が塩不足に苦しんでいるのを知り、塩を送った逸話から、「敵に塩を送る」という故事も生まれた。.
上杉氏
上杉氏(うえすぎし / うえすぎうじ)は、公家である藤原家の支族の一つ。1252年、公家である藤原重房が、宗尊親王の鎌倉幕府・将軍(皇族初の征夷大将軍)就任に従って京都から鎌倉へ下向して、武家化し「上杉」姓を賜われたのが上杉氏の祖。室町時代には関東管領を世襲し、越後・上野・武蔵・相模の守護を務める有力守護大名として栄えた。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母は上杉家出身。鎌倉時代、室町時代から江戸時代にかけて栄えた武家の一族(山内上杉家)が著名。山内上杉家15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった山内上杉家17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いにて西軍に付いて敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。本貫地は丹波国何鹿郡上杉荘(現在の京都府綾部市上杉)。 江戸時代には、大名2家、旗本4家(うち高家1家)があり、子孫は現代まで続いている。.
上杉氏定
上杉 氏定(うえすぎ うじさだ)は、室町時代前期の武士。扇谷上杉家当主。.
上杉憲定
上杉 憲定(うえすぎ のりさだ)は、室町時代前期の守護大名。関東管領、上野国・伊豆国守護。山内上杉家6代当主。.
中先代の乱
中先代の乱(なかせんだいのらん)は、1335年(建武2年)7月、北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれている。また、鎌倉支配が20日余りしか続かなかったことから、廿日先代(はつかせんだい)の異名もある。.
丹後国
丹後国(たんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
三河国
三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.
三河牧野氏
讃岐屋敷の門(牧野村牧野氏屋敷跡) 三柏紋(牧野柏)、讃岐屋敷門の瓦の拡大 三河牧野氏(みかわまきのし)は、三河国宝飯郡中條郷牧野村(愛知県豊川市牧野町)を発祥とする牧野氏の一族のことである。この族の中から越後長岡藩主をはじめとする5つの近世大名・牧野氏の流れが輩出した。.
三浦義就
三浦 義就(みうら よしなり、生年不明 - 永禄3年5月19日(1560年6月12日))は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。左馬助。 祖先は源頼朝に仕えて源平合戦で活躍した三浦氏で、駿河国に移住した一族が義就の家系となった。駿河の今川義元の家臣として仕える。天文20年(1551年)、義元から尾張笠寺砦の守将に任じられた。 永禄3年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いに従軍し、討死した。.
三浦正俊
三浦 正俊(みうら まさとし、生年不詳 - 1565年(永禄8年))は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。内匠助、備後守を名乗る。真俊は子。.
一宮宗是
一宮 宗是(いちのみや むねこれ)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。子に一宮元実(持舟城主)。 天文23年(1554年)、甲相駿三国同盟により甲斐国の武田氏と同盟を結んでいた今川氏は武田信玄が信濃国に侵攻した際に、宗是を援軍として信濃に派遣したとされている。 永禄3年(1560年)5月19日、桶狭間の戦いで討死した。 Category:戦国武将 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1560年没.
一色氏
一色氏(いっしきし)は、日本の氏族(武士)。清和源氏義国流で足利氏の一門。足利泰氏の子一色公深は、三河国吉良荘一色(愛知県西尾市一色町)を本貫とし、一色氏を名乗った。 室町幕府開府当初は九州探題として筑前国にあったが、後には侍所所司に任ぜられる四職の筆頭となり、また若狭国・三河国・丹後国などの守護職を世襲した。戦国時代にも丹後の大名として続いたが、安土桃山時代に至り細川藤孝・忠興らの侵攻によって滅亡した。 他に.
九州探題
九州探題(きゅうしゅうたんだい)とは、室町幕府の軍事的出先機関である。当初は鎮西管領(ちんぜいかんれい)とも称された。.
幡豆郡
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幕末
幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.
久野元宗
久野 元宗(くのう もとむね)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国久野城主。 今川氏の家臣として各地を転戦、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは先鋒を務めた。千秋季忠を討ち取るなど功を挙げたが、その後、織田軍本隊の突撃を受け総大将・今川義元や弟の宗経らと共に戦死した。 家督は三弟・宗能が継いだ。 もとむね Category:戦国武将 Category:遠江国の人物 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1560年没.
京極氏
京極氏(きょうごくし)は、日本の武家の一つ。本姓は源氏。宇多源氏の流れを汲む近江源氏、佐々木氏の別家である。.
二俣城
二俣城(ふたまたじょう)は、遠江国豊田郡二俣(現在の静岡県浜松市天竜区二俣町二俣)にあった日本の城。山城。天竜川と二俣川に挟まれた天嶮に恵まれた中世城郭として名高く、武田信玄・勝頼親子と徳川家康がこの城を巡って激しい攻防を繰り広げた。また、家康の嫡男信康が悲劇の切腹をとげた城としても知られる。城跡は国の史跡に指定されている(指定名称は「二俣城跡及び鳥羽山城跡」)。 本項では二俣城攻略の際に付城として築かれた鳥羽山城についても記述する。.
庵原忠胤
庵原 忠胤(いはら ただたね)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。駿河国庵原城主。.
庵原元政
庵原 元政(いはら もとまさ)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。之政とも記されるが、今川義元より偏諱を受ける以前の名乗りか。.
庵原氏
庵原氏(いはらし)は、駿河国の有力な豪族の1つである。出身に諸説あり、別の氏族とされるが不明。.
井伊直盛
井伊 直盛(いい なおもり)は、戦国時代の武将。遠江国引佐郡井伊谷城(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)城主・井伊直宗の子。井伊直平の孫。女領主となった井伊直虎の父。『井伊年譜』などでは「井伊直平の娘が築山殿を生んだ」と記されており、その場合、直盛と築山殿は従兄妹同士となる。.
井伊直親
井伊 直親(いい なおちか)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国の国人・井伊氏19代当主。.
今川 (杉並区)
今川(いまがわ)は、東京都杉並区の地名。現行行政地名は今川一丁目から今川四丁目。住居表示実施済み区域である。郵便番号は167-0035。.
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今川基氏
今川 基氏(いまがわ もとうじ、正嘉3年(1259年) - 元亨3年4月8日(1323年5月13日))は鎌倉時代の武将。三河国幡豆郡今川荘(愛知県西尾市今川町付近)に興った今川氏の第2代当主。今川国氏の嫡子。幼名は龍王丸「龍王丸」の訓みは文明期の史料『大館記』に「今河辰王」と表記され、「タツオウマル」ではないかとする説がある。名付けの由来は父・国氏が基氏の誕生に際して産屋に祈りを込めて源氏の宝剣「龍丸」を飾ったことに因むと云う。以後、「龍王丸」は今川宗家嫡子の幼名として相伝された。、元服後の通称は太郎。父より今川荘を継いだ。基氏までは今川荘に居住したが、やがて遠江国引間荘に移住したという。後に駿河国・遠江国で守護大名・戦国大名となる今川氏の発展の端緒を開いた。.
今川仮名目録
今川仮名目録(いまがわかなもくろく)は駿河国の戦国大名である今川氏が制定した分国法である。東国では最古の分国法。 大永6年(1526年)4月、今川氏親は33条からなる家法である『仮名目録』を制定する。このころ氏親は病床にあり、草案には家臣や、嫡子の今川氏輝への後継を望み政権を安定させたいという氏親の妻(後の寿桂尼)の意向も大きく反映されたと見られる。 天文22年(1553年)2月、今川義元は『仮名目録追加21条』を制定して補訂する。戦国時代の東国では比較的早い時期に制定された分国法で、甲斐国の戦国大名で、今川氏とは盟友関係にあった武田氏の分国法である『甲州法度次第』(1547年)にも影響を与えている。 今川氏は既に幕府の命令を待たずに遠江国へと進出した時点で守護大名から戦国大名へと立場を変えつつあったが、『今川仮名目録』の成立をもって名実ともに戦国大名としての立場を明らかにしたとされる。更に『追加21条』においては、室町幕府によって義務付けられていた守護不入を否認して完全に守護大名色を払拭した。 内容は、戦国大名の権力誇示というよりも、土地などに関する訴訟の裁定基準といった色合いが強いのが特徴である。.
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今川仲秋
今川 仲秋(いまがわ なかあき)は、南北朝時代後期から室町時代前期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、遠江・尾張守護。今川氏の分家・遠江今川氏の第2代当主。初名は国泰(くにやす)、後に頼泰(よりやす)、仲秋と名乗る。法名は仲高(ちゅうこう)。父は今川範国、兄に範氏、貞世(了俊)、氏兼。子に貞秋(さだあき)、氏秋(うじあき)、直秋(なおあき)、国秋(くにあき)。官位は中務少輔、右衛門佐。 正平23年/応安元年(1368年)に次兄了俊の後任として侍所頭人兼山城守護に就任。続く建徳2年/応安4年(1371年)には九州探題に就任した兄に従い長門から九州肥前に下向、翌文中元年/応安5年(1372年)2月に肥前に攻めてきた菊池武政を破って筑前に上陸していた兄の軍勢と合流、大宰府を落とした。以後は兄の代官として肥前に赴き、松浦党の結集と南朝勢力の駆逐に務めた。 元中3年/至徳3年(1386年)頃に帰京、元中5年/嘉慶2年(1388年)に遠江守護に任命、翌年の3代将軍足利義満の厳島神社参詣に同行、明徳4年(1393年)に尾張守護を務め、応永2年(1395年)の義満の出家にならい出家、同年に九州探題を解任された兄と遠江を半国守護として共同統治、後年は兄の養子となった。遠江今川氏当主となるも実権は兄にあったとされるが、甥で了俊の子貞臣の後見役として貞臣を養育している。但し、遠江はもう1人の甥泰範に取り上げられている。 在任中は目立った記録はないものの、堅実な中継ぎという評価がある。応永19年(1412年)、了俊の今川状は仲秋に与えられ、以後治世の教訓、手本となり継承されていく。 肥前に残された末子の国秋(くにあき、母は九州千葉氏)は、肥前佐嘉郡を幕府より与えられ、肥前今川家(今川佐賀家)の祖となった。.
今川彦五郎
今川 彦五郎(いまがわ ひこごろう)は、戦国時代の人物。今川氏親の次男、今川氏輝の弟。 当主である氏輝と同日に死亡という異様な出来事が記録に残されているにもかかわらず、不明な点の多い人物である。.
今川国氏
今川 国氏(いまがわ くにうじ、寛元元年(1243年) - 弘安5年2月23日(1282年4月3日))は鎌倉時代の武将。三河国幡豆郡今川荘(愛知県西尾市今川町)の地頭にして、守護大名・戦国大名今川氏の祖。吉良長氏の次男。通称は四郎。.
今川範叙
今川 範叙(いまがわ のりのぶ)は、江戸時代の高家旗本。今川義順の三男。後に国寛、国広を称した。通称は彦三郎。明治維新後は得多郎と称する。母は松浦静山の娘。今川氏最後の当主。今川氏23代当主家祖・国氏から数えた代数。。.
今川範将
今川 範将(いまがわ のりまさ、生年未詳 - 寛正5年(1464年))は、室町時代中期の武将。足利氏の一門吉良氏の分家・今川氏。遠江今川氏第5代当主。今川貞相の子。子に貞延、足利義政側室。官位は祖父貞臣、父に続いて伊予守。後に陸奥守、治部少輔。没年を長禄3年(1459年)とする説もある。 当初は遠江堀越郷(現在の静岡県袋井市)に居館があったとされる。永享9年(1437年)、今川氏宗家とされていた駿河守護の今川範忠が永享の乱の戦功によって、室町幕府6代将軍足利義教より「天下一苗字」(「今川」姓を範忠の直系子孫である今川氏宗家の独占とする)命令が出されたため、やむなく姓を「堀越」と改めたとされている(堀越改姓の時期については範将死後とする異説もある)。 嘉吉元年(1441年)、かねて対立していた遠江守護斯波氏との火種に加え、甲斐氏が守護所に立て篭もり抗争に発展した。この守護所は見付城となる。長禄3年(1459年)、範将側が起こした局地的な一揆がいよいよ大規模な合戦となり(中遠一揆)、斯波、狩野氏と見付の地で戦いを重ねた。斯波氏も鎮圧の為、朝倉孝景と甲斐敏光を派遣した(後に両者は関東に出陣、寛正2年(1461年)に上洛)。 しかし、決定的な戦果が無いまま膠着化、そのさなかの寛正5年(1464年)に範将が没すると、翌年から遠江で一揆が頻発するなど、東海の雄として長く君臨してきた遠江の今川政権にも弱体化が目立ち始めた。 混乱の中、範将の死をうけ後継は子と伝えられる今川貞延が継いだ。.
今川範主
今川 範主(いまがわ のりぬし)は、江戸時代の高家旗本。今川氏17代当主。家祖・国氏から数えた代数。.
今川範以
今川 範以(いまがわ のりもち)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武士。今川氏真の嫡男で、今川義元の孫にあたる。母は早川殿(北条氏康の娘)。.
今川範彦
今川 範彦(いまがわ のりひこ)は、江戸時代の高家旗本。今川範主の長男。今川氏18代当主家祖・国氏から数えた代数。。.
今川範忠
今川 範忠(いまがわ のりただ)は、室町時代中期の守護大名。駿河今川氏の第5代当主。 第4代当主範政の嫡男として生まれたが、父が晩年に範忠を廃嫡して末弟の千代秋丸に譲ろうとしたため、これが原因で兄弟間の間で家督争いが起こった。永享5年(1433年)、父が死去すると鎌倉公方足利持氏との対抗上から、幼年の千代秋丸よりも成人した範忠が後を継いだほうがよいと考えた6代将軍足利義教の裁定により、在洛中の範忠が家督を継いで当主となった。この時、狩野氏や富士氏など一部の反対派が持氏の支援を受けて蜂起したが、義教の強い支持を背景にこれを鎮圧している。 これらの経緯から幕府に対する忠誠心が強く、関東の監視役を務め、永享の乱や結城合戦では常に幕府方として参戦し、武功を挙げた。この功によって義教より今川姓を範忠の子孫のみに許して同族庶流の今川姓使用を禁じる「天下一苗字」(この世に一家だけの姓とする)の恩賞が与えられ、以後範忠の直系子孫を今川氏の宗家とする事が保障された。これにより分家遠江今川氏の範将は堀越氏を名乗ったとされる(異説あり)。 康正元年(1455年)には8代将軍足利義政から鎌倉公方足利成氏討伐を任じられて後花園天皇から御錦旗を受け取ると直ちに領国に戻って、上杉氏討伐に向かっていて留守となっていた鎌倉を攻め落とした。このため、成氏は古河に逃れて古河公方と名乗った(享徳の乱)。 寛正元年(1460年)正月に駿河に帰国、翌年の3月20日に子の義忠に家督を譲った事が確認できるが、程なく死去(没年には異説がある)。.
今川範国
今川 範国(いまがわ のりくに)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての守護大名。駿河今川氏の初代当主。.
今川範高
今川 範高(いまがわ のりたか)は、江戸時代の高家旗本。今川氏16代当主家祖・国氏から数えた代数。ただし、14代氏堯以降直系の子孫ではない。。.
今川範氏
今川 範氏(いまがわ のりうじ)は、南北朝時代前期の守護大名。駿河今川氏の第2代当主。.
今川範政
今川 範政(いまがわ のりまさ)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての守護大名・歌人。駿河今川氏の第4代当主。 武将として上杉禅秀の乱の鎮圧をはじめとする多くの功績を挙げた一方で、和歌や書にも秀でた才能を示した。『源氏物語提要』などの著書がある。.
今川義彰
今川 義彰(いまがわ よしあき)は、江戸時代の高家旗本。今川義泰の子で、父に続いて高家職(奥高家)に就いた。今川氏20代当主家祖・国氏から数えた代数。。.
今川義忠
今川 義忠(いまがわ よしただ)は室町時代から戦国時代の武将、守護大名。駿河国守護。駿河今川家第8代当主。義元の祖父にあたる。.
今川義元
今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。.
今川義用
今川 義用(いまがわ よしもち)は、江戸時代の高家旗本。今川義彰の長男。今川氏21代当主家祖・国氏から数えた代数。。.
今川義順
今川 義順(いまがわ よしより)は、江戸時代の高家旗本。今川氏22代当主家祖・国氏から数えた代数。。.
今川義泰
今川 義泰(いまがわ よしやす)は、江戸時代の高家旗本。今川家では氏睦以来約70年ぶりに高家職(奥高家)に就いた。今川氏19代当主家祖・国氏から数えた代数。。.
今川直房
今川 直房(いまがわ なおふさ)は、江戸時代初期の旗本。今川氏13代当主家祖・国氏から数えた代数。。今川範以の子。江戸幕府に仕え、高家今川氏初代当主となった。初名は範英(のりひで)。.
今川貞世
今川 貞世(いまがわ さだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、守護大名。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねた。歌人としても名高い。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれる事も多い。没年は異説あり。.
今川貞延
今川 貞延(いまがわ さだのぶ)は、室町時代中期の武将。遠江今川氏6代目当主。陸奥守、遠江守護。堀越貞延(ほりこし さだのぶ)とも。.
今川貞相
今川 貞相(いまがわ さだすけ、生没年不詳)は、室町時代初期から中期にかけての武将。遠江今川氏4代当主。官位・伊予守、治部大輔。 父・今川貞臣から家督を継承し、東海において最大規模の勢力を持ち、全盛期を築いた。 天竜川西域の広大な遠江領土を統治するため、佐鳴湖東部の丘陵地帯に曳馬城を築城(異説あり)。同時に、軍事・交易の流通を整備した。.
今川貞臣
今川 貞臣(いまがわ さだおみ)は、南北朝時代から室町時代初期の武将。遠江今川氏第3代当主。今川貞世(了俊)の嫡男。父の絶大な政治力と文化面での功績に加え、長期に君臨した存在に埋没しがちの人物だが、戦略、軍略に長けた名将という評価がある。 初めは今川義範(よしのり、「義」の字は足利将軍家(室町幕府第2代将軍・足利義詮か)より偏諱を受けたものとみられる)と名乗り、のちに父・貞世の1字により貞臣に改名するが、本項では後者に統一する。.
今川氏堯
今川 氏堯(いまがわ うじなり)は、江戸時代の高家旗本。 吉良家の一族である岡山弥清の長男で、生母は品川高久の娘。今川直房の養子に迎えられ、跡を継いだ。今川氏14代当主家祖・国氏から数えた代数。ただし、14代氏堯以降直系の子孫ではない。。.
今川氏兼
今川 氏兼(いまがわ うじかね)は、南北朝時代から室町時代初期の武将。源姓蒲原氏の祖となる。.
今川氏睦
今川 氏睦(いまがわ うじみち)は、江戸時代の高家旗本。一門の品川家から養子に迎えられて家督を継ぎ、高家職(奥高家)に就任した。今川氏15代当主家祖・国氏から数えた代数。ただし、14代氏堯以降直系の子孫ではない。。.
今川氏真
今川 氏真(いまがわ うじざね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名、文化人。今川氏12代当主。 父・今川義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、今川家の当主を継ぐが武田信玄と徳川家康による駿河侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は後北条氏を頼り、最終的には桶狭間の戦いで今川家を離反した徳川家康(松平元康)と和議を結んで臣従し庇護を受けることになった、氏真以後の今川家の子孫は、徳川家と関係を持ち続け、家康の江戸幕府(徳川幕府)で代々の将軍に仕えた。.
今川氏親
今川 氏親(いまがわ うじちか)は戦国時代の武将・守護大名・戦国大名である。駿河今川家9代当主。駿河・遠江守護。父は今川義忠、母は幕臣伊勢盛定の娘・北川殿で、北条早雲の甥、今川義元の父に当たる。.
今川氏豊
今川 氏豊(いまがわ うじとよ)は、戦国時代の武将。尾張国那古野城主。兄の今川彦五郎と同一人物とも考えられていたが、最近の研究では別人とされている。また、氏豊の名は今川氏の良質の文書には現れず、氏親の子ではなく傍流という説もある。.
今川氏輝
今川 氏輝(いまがわ うじてる)は、戦国時代の駿河の戦国大名。今川氏の第10代当主。.
今川泰範
今川 泰範(いまがわ やすのり)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、駿河・遠江守護。駿河今川氏の第3代当主。今川範氏の次男。.
建武の新政
建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。.
伊丹康直
伊丹 康直(いたみ やすなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏、武田氏、徳川氏の家臣。.
引両紋
引両紋(ひきりょうもん)は、引両を図案化した日本の家紋である。単数から複数の平行線を描いたもので、室町幕府を開いた足利氏使用の「丸に二つ引(足利二つ引)」は将軍家の権威の象徴ともなった。室町時代に編纂された『見聞諸家紋』(写本が現存)には、日本の皇室から下賜された五七桐と並べて足利将軍家の紋として掲載されている。.
但馬国
但馬国(たじまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
征夷大将軍
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.
侍所
侍所(さむらいどころ)は、鎌倉幕府と室町幕府において、軍事・警察を担った組織。 侍所は古く「さぶらいどころ」ともいわれ、「侍(さぶら)い」、すなわち貴人の傍に控え、家政を取り仕切ったり、その身辺を警護する従者の詰所という意味であった。平安時代末期には親王、内親王、摂関家の邸宅に置かれ、家人や東国武士などが常駐した。.
御一家
御一家(ごいっか)とは、足利将軍家の同族の中でも征夷大将軍継承権を有し、室町幕府においては管領と同格もしくは上の家格として扱われた吉良氏・渋川氏・石橋氏のこと。特に吉良氏は御一家の中でも筆頭に位置づけられて、管領よりも上位に位置づけられていた。.
徳川家康
徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.
徳川家光
徳川 家光(とくがわ いえみつ)は、江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。2代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。乳母は春日局(福)、乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいる。 15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。.
徳川家綱
徳川 家綱(とくがわ いえつな)は、江戸幕府の第4代将軍である(在職:慶安4年(1651年) - 延宝8年(1680年))。 父は第3代将軍徳川家光、母は側室のお楽の方(宝樹院)で、竹千代の幼名を与えられ、世子とされた。.
徳川秀忠
徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.
徳川氏
徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.
応永の乱
応永の乱(おうえいのらん)は、室町時代の応永6年(1399年)に、守護大名の大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱である。.
土屋貞綱
土屋 貞綱(つちや さだつな)は、戦国時代の武将。駿河国の今川氏、後に甲斐武田氏の家臣で海賊衆。『甲陽軍鑑』によれば駿河の岡部氏の一族で、通称は忠兵衛柴(2015)、p.501。後に姓を土屋に改める。豊前守。貞綱は「土屋備前守直規」と称したとする記録もあるが、これは誤りであることが指摘される平山(2008)、p.330。.
土岐氏
土岐氏(ときし)は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏流摂津源氏系美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた軍事貴族の系統。 南北朝時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務めるとともに室町幕府の侍所頭人として五職家の一角を占め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の3か国の守護大名となった。戦国時代には近江の六角氏、京極氏、越前の朝倉氏・尾張の織田氏・伊勢の北畠氏など周辺大名と争うも、斎藤道三の下克上により没落した。庶流にあたる明智光秀・浅野長政・土岐定政(菅沼藤蔵)らは戦国武将として各地の大名に仕え頭角を現し、江戸時代には浅野家、土岐定政家が大名として存続した。.
北川殿
北川殿(きたがわどの) / 桃源院殿(とうげんいんどの、生年月日不詳 - 享禄2年5月26日(1529年7月11日))は、戦国時代の女性。駿河の守護今川義忠の正室。戦国大名伊勢宗瑞(北条早雲)の姉(もしくは妹)と推定される。子に今川氏親、栄保(正親町三条実望室、北向殿)。.
北条高家
北条 高家(ほうじょう たかいえ)は、鎌倉時代末期の武将。北条氏の一門。名越流・北条時家の子。尾張守。名越 高家(なごえ たかいえ)とも表記される。.
北条氏平
北条 氏平(ほうじょう うじひら)は、江戸時代の旗本。 娘が今川氏睦の正室となっており、後北条氏と今川氏のつながりを示す上で重要な人物となっている。法名は常円。.
北条早雲
北条 早雲(ほうじょう そううん)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。.
北条時行
北条 時行(ほうじょう ときゆき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。 鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児。北条氏復興のため、鎌倉幕府の残党を糾合して中先代の乱を引き起こし、一時鎌倉を奪還した。その後、後醍醐天皇から朝敵を赦免されて南朝方の武将として戦い、武蔵野合戦で再び鎌倉を奪還したが、遂には足利方に捕らえられ処刑されたと伝わる。.
北条時政
北条 時政(ほうじょう ときまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。伊豆国の在地豪族の北条時家か北条時方(もしくは時兼)の子。源頼朝の正室・北条政子の父。鎌倉幕府の初代執権。 家系は桓武平氏平直方流を称する北条氏であるが、直方流は仮冒で伊豆国の土豪出身という説もある。.
分国法
分国法(ぶんこくほう)は、戦国時代に戦国大名が領国内を統治するために制定した基本的な法典である。 単行法と並んで戦国法を構成する。分国とは中世における一国単位の知行権を指す語であり、知行国に始まる概念であるが、室町時代中期以降に守護大名や国人一揆による一国単位の領国化が進み、分国支配が形成されていった。そうした分国支配の一環として、領国内の武士・領民を規制するために分国法が定められた。 分国法には、先行武家法である御成敗式目および建武式目の影響が見られるが、一方では自らの分国支配の実情を反映した内容となっている。分国法が規定する主な事項には、領民支配、家臣統制、寺社支配、所領相論、軍役、などがある。 また、分国法は、戦国大名の家中を規律する家法(かほう)と守護公権に由来し国内一般を対象とする国法(こくほう)に区別される。.
和田 (杉並区)
和田(わだ)は、東京都杉並区の地名。住居表示実施済み。現行行政地名は和田一丁目から和田三丁目。郵便番号は166-0012。.
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品川伊氏
品川 伊氏(しながわ これうじ)は、江戸時代の高家旗本。高家肝煎を務め、1500石まで加増された。.
品川高久
品川 高久(しながわ たかひさ)は、江戸時代の旗本。今川氏真の次男。高家品川氏の祖である。.
品川氏
品川氏(しながわし/しながわうじ)は、日本の氏族。.
冷泉為和
冷泉 為和(れいぜい ためかず)は、戦国時代の公卿・歌人。正二位権大納言・冷泉為広の子。上冷泉家7代当主。官位は正二位・権大納言。.
因幡国
因幡国(いなばのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
石川家成
石川 家成(いしかわ いえなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。徳川氏の家臣。美濃大垣藩の第2代藩主で、徳川家康の母方の従兄、石川数正の叔父に当たる。伊勢亀山藩石川家2代。徳川十六神将の1人に数えられる川口素生『戦国軍師人名事典』P302。.
玄広恵探
広 恵探(げんこう えたん)は、戦国時代の武将。今川義元の庶兄。今川良真(ながさね)を名乗ったとする説もある。.
碧海郡
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管領
管領(かんれい)は、以下の役職・地位およびその座にあった者を指す名称。.
築山殿
築山殿(つきやまどの、生年不詳夫の徳川家康と同じ歳とする説。2歳年上とする説や12歳近く年上の1廻り歳上だったとする説がある。 - 天正7年8月29日(1579年9月19日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。徳川家康の正室。名は未詳中村孝也『徳川家康公傳』(東照宮社務所、1965年、91頁)。一般的には築山殿、築山御前(つきやまごぜん)、または駿河御前(するがごぜん)ともいわれる中村孝也『徳川家康公傳』(東照宮社務所、1965年、92頁)。「築山」の由来は岡崎市の地名である。 父は関口親永。 母は今川義元の伯母とも妹ともいわれ、もし妹ならば築山殿は義元の姪に当たる。『井伊年譜』や『系図纂要』『井家粗覧』の系図によると井伊直平の孫娘で、先に今川義元の側室となり、後にその養妹として親永に嫁したという。その場合だと井伊直盛とはいとこ、井伊直虎は従姪に当たる。.
細川頼之
細川 頼之(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将、政治家。第2代室町幕府管領、中国管領、四国管領。阿波・伊予・備後・讃岐・土佐守護。第6代細川京兆家当主。幼名は弥九郎。はじめ武蔵守、後に相模守時野谷(1979)p.555。 足利氏の一門である細川氏の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方における南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属す。管領への就任で幕政を指導し、幼少の足利義満を補佐して半済令の施行や南朝との和睦などを行う。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変で失脚するが、その後は赦免されて幕政に復帰する。.
細川氏
細川氏(ほそかわし)は、本姓は源氏、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏の名門足利氏の支流。名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来する。 南北朝時代に足利尊氏に従って発展し、嫡流は室町幕府の管領家に列する有力守護大名となる。また江戸時代には、傍流から肥後熊本藩54万石の藩主家を出した。.
織田信長
織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.
織田氏
家紋あげはちょう'''揚羽蝶''' 織田氏(おだし)は、日本の氏族・武家。斯波氏の家臣の家柄。家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は嫡流・伊勢守家の「広」、大和守家の「定」、後に近世大名となる弾正忠家の「信」など。.
田原城 (三河国)
原城(たはらじょう)は、三河国渥美郡田原(現在の愛知県田原市田原町巴江)にあった戦国期から江戸期の日本の城。江戸時代には田原藩1万2千石の藩庁であった。.
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田中城
中城(たなかじょう)は静岡県藤枝市田中にあった日本の城。形式は平城。江戸時代には田中藩の藩庁が置かれた。.
由比正信
由比 正信(ゆい まさのぶ)は、戦国時代の武将。戦国大名・今川氏の配下だった。 今川義元に仕え、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いにおいて織田信長軍と交戦。今川義元と同じくこの戦いで戦没した。 由比正信の素性に関しては複数の説が存在する。駿河国益津郡の徳一色城主であったとされることが多いが、『由比町史』では駿河国庵原郡由比城(静岡県静岡市清水区由比町)の城主・由比光教が田中城(徳一色城)に異動したため、その後継として由比城主になったとしている。この「由比光教」は、由比氏の諸系図に従えば曾祖父が同人物である再従兄弟であるとされるものの、『駿河志料』『古代氏族系譜集成』では光教と正信を同一人物として扱っている。.
甲相同盟
同盟(こうそうどうめい)は、戦国時代の軍事同盟。ともに戦国大名である甲斐・武田氏と相模・北条氏との間で結ばれた同盟。.
甲相駿三国同盟
駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)とは、天文23年(1554年)に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定のひとつである。甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意によるもの。締結時に3者が会合したという伝説(後述)からとも呼ばれている。同盟の名としては、それぞれの国をあらわす甲、相、駿の順番は定まってはおらず、文献・研究者・機関などによっては順番が異なる。.
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畠山氏
山氏(はたけやまし/はたけやまうじ)は、武蔵国を本貫地とする武家の一族。主に桓武平氏系と清和源氏系の2家系があるが、両者は間接的な血縁関係である(後述)。読みには他に「はたやま」もある。 室町時代には畠山金吾家が大和宇智郡・河内・紀伊(管領就任時には山城も)などの畿内およびその周辺国に該当する重要な地域を守護として治め、また幕府の管領として国の政務を執った。しかし、家督争いにより、総州家と尾州家に分かれて、応仁の乱勃発の一因となり、その後も激しく争い続けた。 また、北陸の越中の守護も兼ね、分家は能登の守護を代々世襲する。著名な末裔として実業家の畠山一清がいる。.
牧野保成
牧野 保成(まきの やすしげ、? - 永禄6年(1563年)3月)は戦国時代の東三河地方の武将・国人領主。また、牛窪城主。通称は出羽守、田三郎。牧野成種の子。天文期に戦国大名今川氏に属して戸田氏に奪われていた所領を回復したが、永禄期半ばには徳川家康の東三河進出に抵抗して敗死。.
牧野成定
牧野 成定(まきの なりさだ、大永5年(1525年) - 永禄9年10月23日(1566年12月4日))は、三河国宝飯郡牛久保城の城主。牛久保城主牧野貞成(右馬允・民部丞)の養子となり、牛久保城主を継ぐ。牧野保成(出羽守)の義理の甥。実は牧野氏成(新九郎)の子(寛政重修諸家譜)。初代の越後長岡藩主・牧野忠成の祖父にあたる。 通称(仮名)は新次郎、右馬允、民部丞とも称したという。正室は未詳。母は某氏の女。.
狐橋の戦い
橋の戦い(きつねばしのたたかい)は第2次河東一乱初期の合戦で、天文14年(1545年)8月16日、駿河の今川義元軍が相模の北条氏康軍を駿河国狐橋で破った。この戦いに勝利した義元は勢いに乗って北条方の長久保城を攻略、武田信玄を仲介にすることで河東地域(駿東郡・富士郡)を後北条氏から取り戻した。.
瀬名一秀
名 一秀(せな かずひで)は、室町時代の武将。遠江今川氏の今川貞延(堀越貞延)の長男。駿河国庵原郡瀬名村に移り住み、瀬名を名字とした。 初名は今川義秀(いまがわ よしひで)。また、諱の本来の表記は旧字体で「弌秀」である(子孫である弌明以降の当主が「弌」の字を名前に用いている)。.
瀬名信輝
名 信輝(せな のぶてる)は、戦国時代の武将。今川氏の一族である。.
瀬名氏俊
名 氏俊(せな うじとし)は、戦国時代の武将。遠江今川氏の流れを汲む瀬名氏の当主で、駿河今川氏に仕えた。別名は貞綱と伝わる。.
瀬名氏貞
名 氏貞(せな うじさだ)は、戦国時代の武将。遠江今川氏の流れを汲む瀬名氏の当主。.
花倉の乱
花倉の乱(はなくらのらん、花蔵、はなぐらとも)は、戦国時代の天文5年(1536年)に起きた、駿河国の守護大名、戦国大名でもある今川氏のお家騒動。「花倉」とは、静岡県藤枝市の地名で、玄広恵探らが挙兵した地にちなむ、あるいは恵探は「花蔵殿」と呼ばれていたからとも云われる。嫡流の栴岳承芳(後の今川義元)らが勝利し終結。.
鎌倉幕府
鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.
鎌倉公方
明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国 新編鎌倉志-関東公方屋敷図 鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。関東十か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐。 鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。 ※鎌倉公方は歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。.
遠江国
遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.
荻清誉
荻 清誉(おぎ きよたか)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。駿河国松野城(北松野城)主。.
菅沼定盈
菅沼 定盈(すがぬま さだみつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。野田菅沼氏3代目当主。上野阿保藩主。.
飯尾乗連
飯尾 乗連(いのお のりつら、生年不明 - 永禄3年(1560年))は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。通称は善四郎、豊前守。父は飯尾賢連、子に松井宗親室、連竜。遠江国曳馬城主。 駿河飯尾氏は渡来人・三善氏の後裔で室町幕府の奉行衆の家柄とされる。祖父長連の代に駿河国へ下って駿河守護今川氏に仕え、父賢連の代になり今川氏譜代の重臣となった。 乗連は今川義元に仕え、永正年間に今川氏の支城曳馬城を築城(異説あり)し、城主となり同地に1万石を与えられた。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで織田軍の猛攻をうけ、戦死したとも、また落ち延びたとも言われる。静岡県浜松市東区の東漸寺に供養塔がある。 のりつら Category:戦国武将 Category:遠江国の人物 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1560年没.
飯尾連龍
飯尾 連龍(いのお つらたつ)/ 飯尾 致実(いのお むねざね)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国曳馬城主。飯尾氏(漢族系三善朝臣)最後の当主。『古事類苑』では飯尾能房と記されている。.
西尾市
西尾市(にしおし)は、愛知県にある市。愛知県中央部を北から南へ流れる矢作川流域の南端にある。抹茶の産地(西尾茶)として、また「三河の小京都」として知られる。.
親族
親族(しんぞく)とは、血縁関係または婚姻関係で繋がりを有する者の総称である。.
観応の擾乱
観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。 この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。.
観泉寺
観泉寺(かんせんじ)は、東京都杉並区今川にある曹洞宗の寺院。山号は宝珠山。.
駿府城
駿府城の航空写真(1988年撮影)国土航空写真 城郭図 駿府城(すんぷじょう)は駿河国安倍郡府中、現在の静岡県静岡市葵区にあった日本の城である。別名は府中城や静岡城など。 江戸時代には駿府藩や駿府城代が、明治維新期には再び駿府藩(間もなく静岡藩に改称)が置かれた。.
駿河侵攻
駿河侵攻(するがしんこう)は、戦国時代の合戦。永禄11年(1568年)に行われた甲斐国の戦国大名である武田信玄による駿河国今川領への侵攻を端緒とする。.
駿河国
駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
高天神城
天神城(たかてんじんじょう)は、遠江国城東郡土方(ひじかた)(現在の静岡県掛川市上土方・下土方)にあった日本の城。 小規模ながら、山城として堅固さを誇り、戦国時代末期には武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた。優美な山の形から鶴舞城の別称を持つ。国の史跡に指定されている。 2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(147番)に選定された。.
高家 (江戸時代)
家(こうけ)は、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職。また、この職に就くことのできる家格の旗本(高家旗本)を指す。 役職としての高家を「高家職」と記すことがある。高家旗本のうち、高家職に就いている家は奥高家、非役の家は表高家と呼ばれた。.
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鳴海城
海城の石碑 鳴海城(なるみじょう)は、かつて愛知県名古屋市緑区に存在した日本の城である。別名「根古屋城(ねごやじょう)」。.
越相同盟
越相同盟/越相一和(えつそうどうめい/えつそういちわ)は、戦国時代の永禄12年(1569年)に甲斐の武田信玄に対抗するために、越後の上杉謙信と相模の北条氏政が結んだ軍事同盟である。本項では、これに対抗するために武田信玄と安房の里見義弘が結んだ軍事同盟である甲房同盟(こうぼうどうめい)についても解説する。.
足利尊氏
足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.
足利将軍家
足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。.
足利義兼
足利 義兼(あしかが よしかね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府の御家人。足利氏2代当主。.
足利義氏 (足利家3代目当主)
足利 義氏(あしかが よしうじ)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府の御家人。足利義兼の三男。母は北条時政の娘時子。.
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足利義満
足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.
足利氏
足利氏(あしかがし)は、日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。 通字は、「義」(よし、足利将軍家ほか)または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主および鎌倉公方・古河公方家など)。.
足利氏満
足利 氏満(あしかが うじみつ)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将。第2代鎌倉公方(在職:正平22年/貞治6年5月29日(1367年6月26日) - 応永5年11月4日(1398年12月12日))。父は足利基氏、母は畠山家国の娘。.
足利泰氏
足利 泰氏(あしかが やすうじ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府の御家人。足利家3代目当主足利義氏の嫡男。足利宗家4代当主奥富、2008年、p.92-111。小谷、1980年。。室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏の高祖父。.
近藤景春
近藤 景春(こんどう かげはる、生年不明 - 永禄3年5月21日(1560年6月24日))は、戦国時代の武将。尾張国沓掛城主。九十郎。父は近藤伊景か。 藤原秀郷の後裔を称する沓掛近藤氏第9代。近藤氏は当初、三河国の松平広忠の傘下にあったが、後に尾張国で勢力を拡大していた織田氏に従った。 永禄2年(1559年)尾張侵攻を目論む今川義元に寝返っていた尾張鳴海城主山口教継によって今川氏に降った。永禄3年(1560年)沓掛城を今川家臣の浅井政敏に預け、支城の高圃城に移って織田軍に備えるが、桶狭間の戦いで今川義元が戦死して今川軍が駿河へ退いたため沓掛城に戻るが、直後に織田軍に攻められて戦死した。 かけはる Category:戦国武将 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1560年没.
近江国
近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
赤松氏
赤松氏(あかまつし)は、日本の氏族の1つ。鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した武家である。.
鵜殿長照
殿 長照(うどの ながてる)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。三河国宝飯郡上ノ郷城(蒲郡市神ノ郷町、『三河物語』では、西之郡之城とある)主。.
鵜殿長持
鵜殿 長持(うどの ながもち)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。 三河国宝飯郡上ノ郷城(現在の愛知県蒲郡市神ノ郷町、『三河物語』では、西之郡之城とある)主で、今川義元の妹婿に当たる。弘治3年(1557年)に没して、嫡子・長照が家督を継いでいる。 『三河物語』では、その没年を永禄5年(1562年)としている。永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いでは、織田信長方に身動きを封じられた大高城の解放に協力、功を挙げた。しかし、後続の本隊が信長に襲われ、義元が討たれると、三河の自領に逃げ帰っている。その後も、義元の縁戚であった立場に忠実で、三河における今川氏の家臣として忠誠を尽くした。だが、周辺に在った鵜殿の分家は岡崎の家康に与する事となり、今川方の最前線で孤立していった。永禄5年(1562年)には、家康方の攻撃を受ける。先遣の松平清宗などの攻撃は防ぎきるものの、岡崎の本隊が加わった攻城軍には抗いきれず上ノ郷城は陥落。子の長照と共に戦死した。孫の氏長と氏次の兄弟は捕縛され、松平氏により人質とされた。 なかもち Category:戦国武将 Category:三河国の人物 Category:1513年生 Category:1557年没 .
関口親永
関口 親永・瀬名 義広(せきぐち ちかなが/せな よしひろ)は、戦国時代の武将。今川刑部少輔家(今川関口家)の当主で駿河今川氏の有力家臣。主君今川氏親から偏諱を受けて親永に改める。駿河持船城主。妻は今川義元の妹(養妹とも)であり、徳川家康の正室・築山殿の父に当たる。.
関口氏経
関口 氏経(せきぐち うじつね)は、戦国時代の武将。今川氏真の家臣。.
薩た峠の戦い (戦国時代)
薩埵峠の戦い(さったとうげのたたかい、薩埵山の戦いとも)は、戦国時代の1568年(永禄11年)12月から翌月にかけて駿河国薩埵峠(静岡県静岡市清水区)において、武田信玄の軍勢と今川氏真・北条氏政の軍勢との間で2度にわたって行われた合戦である。.
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葛山氏元
葛山 氏元(かつらやま うじもと、永正17年(1520年) - 天正元年(1573年)?)は、戦国時代の武将。駿河国駿東郡の国衆で、葛山城城主。備中守。養父は葛山氏広。実父は葛山貞氏。子におふち(葛山信貞室)。.
蒲原氏
蒲原氏(かんばらし).
蒲原氏徳
蒲原 氏徳(かんばら うじのり、生年不明 - 永禄3年5月19日(1560年6月12日))は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。駿河国蒲原城主。蒲原満氏の子。 蒲原氏は今川氏の庶流。今川範国の三男・氏兼の次子である頼春を祖とする。 天文5年(1536年)、父・満氏が死去すると家督を継ぎ、蒲原城主となる。その後、今川氏第11代当主・今川義元に仕え、天文18年(1549年)の安城合戦で大将を務め戦功を上げたが、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで戦死した。 うしのり Category:戦国武将 category:駿河国の人物 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1560年没.
肥前国
肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
野洲市
野洲川対岸(栗東市側)から見た三上山 野洲市(やすし)は、近畿地方北東部、滋賀県南部にある市。琵琶湖の南岸に位置する。.
野洲郡
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臨済寺 (静岡市)
臨済寺(りんざいじ)は、静岡市葵区大岩町にある、臨済宗妙心寺派の禅寺。山号は大龍山、同派の専門道場である。駿河の戦国大名・今川家の菩提寺で、今川館(現在の駿府城)の北西に当たる賤機山(しずはたやま)の麓に位置する。.
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長延寺
長延寺(ちょうえんじ)は、東京都杉並区和田一丁目にある曹洞宗の寺院。山号は萬昌山(ばんしょうざん)。 かつては江戸市ヶ谷に所在した寺で、旧地には市谷長延寺町という地名が残る。境内に「ぼたもち地蔵」があり、「ぼたもち寺」の別称がある。.
長谷川元長
長谷川 元長(はせがわ もとなが)は、戦国時代の武将。駿河国小川(焼津市)小川城主長谷川氏当主、伊賀守。 今川氏家臣。今川義元に仕えた。 家督は長谷川正長が継いだ。.
若年寄
若年寄(わかどしより)とは.
掛川城
天守及び太鼓櫓 掛川城(かけがわじょう)は、遠江国佐野郡掛川(現在の静岡県掛川市掛川)にあった日本の城である。.
東京都
東京都シンボルマーク。1989年(平成元年)に旧東京市の成立100周年を記念して同年6月1日に制定。「東京都の頭文字の「T」を中央に秘めている『都政 2012』東京都生活文化局広報広聴部広報課 編集・発行、2012年3月発行。東京都が作成した、240ページほどの冊子。」と解説されている。(都の木はイチョウではあるが)イチョウの葉の形を象ったわけではない、という。 東京都(とうきょうと)は、日本の首都事実上の首都。詳細後述であり、関東地方に位置する東京都区部(東京23区)、多摩地域(市部、西多摩郡)、島嶼部(大島支庁・三宅支庁・八丈支庁・小笠原支庁)を管轄する広域地方公共団体(都道府県)の一つである。都庁所在地は新宿区(東京と表記する場合もある)。 都公認の英語の表記はTokyo Metropolis (Tokyo Met.) 。他にはTokyo PrefectureとTokyo Metropolitan Prefectureがある。.
松平広忠
松平 広忠(まつだいら ひろただ)は、戦国時代の武将。三河国額田郡岡崎城主。松平宗家8代当主。松平清康の子。母は青木氏(青木貞景もしくは青木弐宗)の娘。徳川家康の父。.
松平氏
松平氏(まつだいらし)は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、後に江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体である。室町時代は伊勢氏の被官として活躍した。江戸時代は徳川将軍家の一門、あるいは将軍家と祖先を同じくする譜代の家臣の姓となり、あるいは将軍家が勢力・格式ある外様大名に授けた称号としての役割をも果たした姓である。.
松井宗信
松井 宗信(まつい むねのぶ、永正12年(1515年) - 永禄3年5月19日(1560年6月12日))は、戦国時代の武将。遠江の国人。今川氏の家臣。遠江二俣城主。通称は五郎八郎、のち左衛門佐。松井貞宗の子。今川義元の近従を勤め、のちには三河・尾張方面の遠征軍指揮官として忠節を積むが、桶狭間の戦いにて戦死した。.
村木砦の戦い
村木砦の戦い(むらきとりでのたたかい)は、天文23年1月24日(1554年2月25日)、尾張国で起きた戦い。.
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杉並区
杉並区(すぎなみく)は、東京都の特別区のひとつで、23区西部に区分される。郵便番号(上3桁)166・167・168。.
桶狭間の戦い
今川義元の墓(明治9年(1876年)5月建立)桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市)内 桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国桶狭間で行われた合戦。.
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武家
武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.
武田信玄
武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。 甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。.
武田勝頼
武田 勝頼(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第20代当主。 通称は四郎。当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。.
武田義信
武田 義信(たけだ よしのぶ)は、戦国時代の武将。武田信玄の嫡男で武田氏を嗣ぐはずであったが、廃嫡された。.
武田氏
武田氏(たけだし)は、平安時代末から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家である。安芸国・若狭国に分派が存在し、上総国などにも庶流があったが、いずれも通字として「信」(のぶ)が使用されている。古代の国造である武田臣(皇別)の後裔が河内源氏義光流の棟梁と婚姻したという説も伝わっている。 河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化し、武田晴信(信玄)の頃には領国拡大し中央の織田・徳川勢力に対抗するが勝頼期には領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代には庶家だけがわずかに残った。 家宝は御旗(後冷泉天皇から下賜された日章旗)・楯無(楯無の鎧、源頼義が御旗とともに授けられたという)。.
永享の乱
永享の乱(えいきょうのらん)は、室町時代の永享10年(1438年)に関東地方で発生した戦乱。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する、室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件、戦いである。.
江戸城
江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。 江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。 徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。 国の特別史跡に指定されている。.
江戸幕府
江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.
河内源氏
河内源氏(かわちげんじ)は、河内国(現在の大阪府の一部)に根拠地を置いた清和源氏の一流。一般的に武士で「源氏」という場合、この系統を指す。また、「平家」と称される伊勢平氏と併称される場合には源家(げんけ)という呼称も古くは用いられていた。.
河東の乱
河東の乱(かとうのらん)とは、戦国時代の天文6年(1537年)から天文14年(1545年)までの間に、駿河国(静岡県中部および東部)で起こった駿河の今川氏と相模国の北条氏との戦いである。「河東」は争奪の対象となった富士川以東の地域を意味する。河東一乱とも呼ばれる。.
沓掛城
沓掛城(くつかけじょう)は、尾張国愛知郡沓掛(現・愛知県豊明市沓掛町)にあった日本の城。旧記には沓懸城とも書かれている。.
清和源氏
清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.
源義家
源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代後期の武将。伊予守・源頼義の長男。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。 比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。 その活動時期は摂関政治から院政に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下。.
源義康
源 義康(みなもと の よしやす/足利 義康 あしかが よしやす)は、平安時代末期の武将。足利氏の祖。陸奥判官とも称した。.
源義国
源 義国(みなもと の よしくに)は、平安時代後期の河内源氏の武将。源義家の子。新田・足利両氏の祖にあたる。.
源氏
源氏(げんじ、みなもとうじ)は、「源」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。 日本において皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に名乗る氏の1つで、多数の流派がある。清和天皇の子孫である清和源氏が有名である。.
滋賀県
こちら) 滋賀県(しがけん)は、琵琶湖を擁する日本国・近畿地方北東部の内陸県である。県庁所在地は大津市。.
持船城
持船城(もちぶねじょう)は、現在の静岡県静岡市駿河区用宗城山町の、JR東海道本線用宗駅裏の標高70mほどの小高い丘陵(城山)にあった日本の城。眼下に駿河湾を見下ろし、駿府の町も一望できることもあり、東海道の山越え側丸子城と並んで、海側の街道の要衝であった。 現在では「用宗城(もちむねじょう)」とも称されるが、これは現在の地名からで、現役時代に実際にそのように呼称されたことは無い。ただし「用船城」と記された資料は存在し、船を用いる城という意味にもとれるため、持船-用船-用宗という変遷が想像される。.
持永氏
持永氏(もちながし)は、肥前国に栄えた武家のひとつ。本姓は源氏。家系は清和源氏の1つ河内源氏の足利氏の流れをくむ吉良氏の庶流今川氏の一門。肥前今川氏とも。.
服部友貞
服部 友貞(はっとり ともさだ)は、戦国時代の武将。尾張国荷ノ上の土豪・服部党の当主。.
朝比奈信置
朝比奈 信置(あさひな のぶおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏、甲斐武田氏の家臣。庵原城主。名は元長、政貞とも言われる。.
朝比奈元長
朝比奈 元長(あさひな もとなが)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。駿河朝比奈氏2代当主。庵原城主。.
朝比奈元智
朝比奈 元智(あさひな もととも)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。三河国田原城代。.
朝比奈氏
朝比奈氏(あさひなうじ)は、日本の氏族。藤原氏または平氏を名乗る。.
朝比奈泰勝
朝比奈 泰勝(あさひな やすかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・旗本。今川氏、徳川氏の家臣。.
朝比奈泰能
朝比奈 泰能(あさひな やすよし)は、戦国時代の武将。今川氏の重臣。遠江国掛川城主。.
朝比奈泰長
朝比奈 泰長(あさひな やすなが)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国宇津山城主。朝比奈泰能は従弟にあたる。.
朝比奈泰朝
朝比奈 泰朝(あさひな やすとも)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏の家臣。掛川城主。.
本姓
本姓(ほんせい)は、日本において、古代以来の氏族名。氏を参照。名字(苗字)や家名とは異なる「本来の姓」という意味である。単純に姓(せい)とも言うが、「姓(かばね)」のことではない。.
本貫
本貫(ほんがん、ほんかん)は古代東アジアにおいて戸籍の編成(貫籍)が行われた土地をいう。転じて、氏族集団の発祥の地を指すようになった。 日本には律令制下の戸籍制度とともに概念が導入された。中世以降、武家の名字(苗字)の由来となった土地(名字の地, 一所懸命の土地)を「本貫」、「本貫地」(ほんがんち)と呼ぶようになった。 中国・朝鮮半島では、個人の戸籍の所在地の意味を離れ、氏族集団(宗族)の始祖の発祥地として使用された。とくに大韓民国では現在も家族制度上大きな意味を持つ。.
惣領
惣領(そうりょう・総領)とは、跡取り、家督相続予定者のこと。.
戦国大名
戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.
戦国時代 (日本)
日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.
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戸部政直
戸部 政直(とべ まさなお)は、戦国時代の武将。通称の戸部新左衛門(とべ しんざえもん)の名で知られる。尾張国戸部城主。.
明治維新
Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.
浜松城
浜松城(はままつじょう。旧字体表記は「濱松城」)は、静岡県浜松市中区にある日本の城跡。野面積みの石垣で有名。歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから「出世城」といわれた。.
浅井政敏
浅井 政敏(あざい まさとし)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。今川義元の妹婿とされる。 近江国の国人浅井氏出身ともいわれるが詳細不明。 主君・今川氏輝が急死し、それに続く花倉の乱で今川一族が淘汰された中で近縁者として重宝された。天文21年(1552年)の赤塚の戦いでは山口教吉の援軍として岡部元信、飯尾連竜、葛山長嘉らと共に笠寺に入り織田信長を牽制した。 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは、高圃城の守備へと回った沓掛城主近藤景春と入れ替わり本隊から転身、城代として沓掛城を守備していたが、今川義元が討たれると城を捨て駿河国へ戻ったとされる。 まさとし Category:戦国武将 Category:駿河国の人物 Category:生没年不詳.
斯波氏
斯波氏(しばし)は、日本の武家のひとつ。室町幕府将軍足利氏の有力一門であり、かつ細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名であった。越前・尾張・遠江などの守護を世襲し、また分家の大崎氏は奥州探題、最上氏は羽州探題を世襲した。明治維新後に男爵家となった源姓津田氏も、その末裔の一つである。.
新野親矩
新野 親矩(にいの ちかのり)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国新野新城(舟ケ谷城)主。.
日根野弘就
日根野 弘就(ひねの ひろなり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。美濃本田城主。.
日本
日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.
早川殿
早川殿/早河殿(はやかわどの、生年不詳 - 慶長18年2月15日(1613年4月5日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。相模国の戦国大名北条氏康の娘。甲相駿三国同盟の一環として、駿河国の戦国大名今川氏真の室となった。 実名は不明。法名から蔵春院殿、蔵春院とも称される。.
旗本
旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。.
愛知県
愛知県(あいちけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は名古屋市。.
曹洞宗
曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。本山は永平寺(福井県)・總持寺(横浜市鶴見区)。専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴とするが、仏陀つまり悟りを開いた人・目覚めた人の教えであるので、出家在家に拘らず、求道者各自が悟りを開くことを標榜する。 中国禅宗の祖である達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638 - 713年)の弟子の1人である青原行思(? - 740年)から、石頭希遷(700 - 790年、石頭宗)、薬山惟儼(745 - 828年))、雲巌曇晟(782 - 841年 )と4代下った洞山良价(807 - 869年)によって創宗された。.
1536年
ユリウス暦の.
1560年
記載なし。
1561年
記載なし。
1565年
記載なし。
1567年
記載なし。
1568年
記載なし。
15世紀
大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.
1645年
記載なし。
1887年
記載なし。