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フィレンツェとヨハネス23世 (対立教皇)

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フィレンツェとヨハネス23世 (対立教皇)の違い

フィレンツェ vs. ヨハネス23世 (対立教皇)

フィレンツェ(Firenze)は、イタリア共和国中部にある都市で、その周辺地域を含む人口約36万人の基礎自治体(コムーネ)。トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県都である。 中世には毛織物業と金融業で栄え、フィレンツェ共和国としてトスカーナの大部分を支配した。メディチ家による統治の下、15世紀のフィレンツェはルネサンスの文化的な中心地となった。 市街中心部は「フィレンツェ歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されている。1986年には欧州文化首都に選ばれた。. ヨハネス23世(Ioannes XXIII (antipapa)、1370年頃 - 1419年12月22日、在位:1410年 - 1415年)は教会大分裂(シスマ)の時期の対立教皇である。当時、ヨハネス23世とローマ教皇グレゴリウス12世(在位:1406年 - 1415年) 、アヴィニョンの対立教皇ベネディクトゥス13世(在位:1394年 - 1417年)の3人の教皇が並び立っていた。 ナポリ出身、本名はバルダッサレ・コッサ(Baldassare Cossa)。経歴は怪しく海賊、軍人であったとも言われる。ピサ教会会議で選出されたアレクサンデル5世(対立教皇、在位:1409年 - 1410年)の急死後、メディチ家当主ジョヴァンニ・ディ・ビッチの支援でコッサが教皇位に就く。アレクサンデル5世はコッサに殺されたとの噂もあったという。メディチ銀行は教皇庁との取引で莫大な利益を上げた。 1411年、ルイ2世・ダンジューと共にローマを占拠するが、1413年、ローマ派のナポリ王ラディズラーオにローマを追われ、フィレンツェに逃亡する。教会大分裂の事態を解消する為、神聖ローマ帝国皇帝ジギスムントの圧力で1414年、ドイツにコンスタンツ公会議(ヤン・フスの断罪でも知られる)を召集するが、ヨハネス23世はコンスタンツから逃亡。公会議で3人の教皇は廃位され、1417年に新たにマルティヌス5世が選出される。 ヨハネス23世はこの公会議で、異端、聖職売買をはじめ、海賊、殺人、強姦、男色、近親相姦など様々な罪状で告発、拘禁されるが、ジョヴァンニの尽力で釈放された。これらの罪状は恐らく捏造されたものだと考えられている。その死後、サン・ジョヴァンニ洗礼堂(フィレンツェ大聖堂に隣接)にヨハネス23世の墓碑が造られた。 対立教皇ヨハネス23世の死後500年以上に渡って、歴代最多の人数が名乗った教皇ヨハネスの名は使用されないままであった。この名前のうち、16世はこのヨハネス23世と同じ対立教皇と見做されるが、次のヨハネスが17世を名乗ったために歴代の代数にそのまま組み込まれている。また15・17・18・19世及び16世は、14世と15世との間にもう一人教皇ヨハネスが存在したという11世紀時点での認識に基づき、このヨハネス23世の時代に至るまで一つずつずれて序数計上がされていた。従ってヨハネス20世という教皇が存在しないまま、この時代に至るまで誤った序数計上が続いていたのである。 1958年、正規の教皇としてヨハネス23世が選出された。この時も序数修正は成されなかったが、結果的にこの対立教皇ヨハネス23世を含めると、教皇ヨハネスの数は序数と同じ23人となる。.

フィレンツェとヨハネス23世 (対立教皇)間の類似点

フィレンツェとヨハネス23世 (対立教皇)は(ユニオンペディアに)共通で10ものを持っています: ナポリ王国メディチ家ローマピサ教会会議アレクサンデル5世 (対立教皇)ジョヴァンニ・ディ・ビッチサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂神聖ローマ帝国1406年1410年

ナポリ王国

ナポリ王国(ナポリおうこく、Regno di Napoli)は、13世紀から19世紀にかけて、ナポリを中心に南イタリアを支配した国家。 13世紀末にシチリア島とイタリア半島南部を支配していた中世シチリア王国が分裂した際、半島側の領土を支配下に置いた王国である。19世紀初頭、シチリア島のシチリア王国とナポリ王国は正式に統合され「両シチリア王国」となった。.

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メディチ家

メディチ家(メディチけ、Casa de' Medici)は、ルネサンス期のイタリア・フィレンツェにおいて銀行家、政治家として台頭、フィレンツェの実質的な支配者(僭主)として君臨し、後にトスカーナ大公国の君主となった一族である。その財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ヴァザーリ、ブロンツィーノ、アッローリなどの多数の芸術家をパトロンとして支援し、ルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たしたことでも知られている。歴代の当主たちが集めた美術品などはウフィツィ美術館などに残され、また、ピッティ宮殿などのメディチ家を称える建造物も多数フィレンツェに残された。これらは、メディチ家の直系で最後の女性アンナ・マリア・ルイーザの遺言により、メディチ家の栄華を現代にまで伝えている。一族のマリー・ド・メディシスはブルボン朝の起源となった。.

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ローマ

ーマ(Roma、Roma)は、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。.

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ピサ教会会議

ピサ教会会議(ピサきょうかいかいぎ)またはピサ公会議(ピサこうかいぎ)は、ローマ・アヴィニョンの教皇が並び立つ教会大分裂という事態収拾のため、1409年にピサで開かれたカトリック教会の会議。現在のローマ・カトリック教会の立場としては正式な公会議ではない。 ローマ・アヴィニョン双方の枢機卿が招集し、グレゴリウス12世とベネディクトゥス13世の廃位を決め、全会一致でアレクサンデル5世の選出を決める。しかし、2人の教皇(会議は欠席)は納得せず、ついに3人の教皇が鼎立する事態になった。この会議自体は失敗に終わったが、以後公会議主義への流れが強くなり、1414年からのコンスタンツ公会議につながっていく。.

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アレクサンデル5世 (対立教皇)

アレクサンデル5世(Alexander V 1339年 - 1410年5月3日、在位:1409年 - 1410年)は教会大分裂の時期の教皇の1人。ピサ教会会議で教皇に選出されるが、正式な選出とはみなされず、カトリック教会では対立教皇とされている。但し、1492年に教皇に選出されたロドリゴ・ボルジアはアレクサンデルを名乗ったが、彼はアレクサンデル6世となっている。 クレタ島生まれのギリシャ人で本名はピーター・フィランジェ・デ=カンディア(Peter Philarges de Candia) 、イタリアではピエトロ・フィラルゴ(Pietro Filargo)と呼ばれていた。神学者であり、1402年にミラノ大司教になっている。当時の教会大分裂という事態収拾の為、1409年ピサ教会会議が開催されるが、2人の教皇(グレゴリウス12世・ベネディクトゥス13世)が廃位された後、全会一致で新たに教皇に選出される。しかし、2人の教皇は納得せず、3人の教皇が鼎立する事態になった。なお、アレクサンデル5世がピサ教会会議で選出された背景として、ギリシャ正教会と合一への期待があったという。 教皇選出の翌年、ボローニャで逝去。バルダッサレ・コッサ(後継者のヨハネス23世)に毒殺されたとも噂された。 あれくさんてる5 あれくさんてる5 あれくさんてる5.

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ジョヴァンニ・ディ・ビッチ

ョヴァンニ・ディ・ビッチ像 フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂にあるジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ夫妻の棺 ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ(Giovanni di Bicci de' Medici, 1360年 - 1429年2月20日)は、15世紀始めのフィレンツェのメディチ家当主で、一族の繁栄を築いた人物。ローマ教皇庁とのつながりを深め、銀行業で成功した。 父は羊毛商のアヴェラルド・ディ・メディチ(1383年没)。一族の銀行家ヴィエーリ・ディ・カンビオ(1323年 - 1395年)のもとで実力を付けていった。1386年にはヴェローナ出身のピッカルダ・ブエリと結婚し、4人の子をもうけた。 ジョヴァンニは教会大分裂(シスマ)期の1397年、ローマにあったカンビオの遺した銀行の一つを出身地のフィレンツェに移す。これが、事実上の(1397年 - 1494年)の創設となる。ローマ・ヴェネツィアなどへ支店網を広げてゆき、ローマとアヴィニョンに分裂し対立の続くカトリック界に介入して、枢機卿バルダッサーレ・コッサ(元は海賊ともいわれる醜聞に包まれた人物)を支援し、対立教皇ヨハネス23世として即位させた。これによって1410年にはローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、教皇庁の金融業務で優位な立場を得て、莫大な収益を手にすることに成功した。ヨハネス23世はコンスタンツ公会議で廃位となったが、メディチ銀行は引き続きローマ教皇庁での地位を保った。 この間、フィレンツェの「正義の旗手」や外交大使なども歴任し、社会的な地位を高めた。その一方、1422年にローマ教皇マルティヌス5世は「モンテ・ヴェルデ伯」の称号を授けようとしたが、ジョヴァンニは政治的な配慮から爵位を辞退し、「一市民」の立場にとどまった。 1429年に死去した時、離散したメディチ家の一族、教皇代理、諸外国の大使、フィレンツェの有力者達が参列し、メディチ家の社会的威信、一族の統合を知らしめたと言う。フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂(メディチ家礼拝堂が隣接する)に妻と共に埋葬されている。 ジョヴァンニの長男コジモの代に、フィレンツェにおけるメディチ家の実質的な支配体制が確立する。また、コジモの血統が断絶した後、次男のロレンツォの子孫がトスカーナ大公国を興した。.

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サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

左から洗礼堂・大聖堂・鐘楼(西からの眺め) サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレだいせいどう、)は、イタリアのフィレンツェにあるキリスト教・カトリックの教会である。フィレンツェの大司教座聖堂であり、ドゥオーモ(大聖堂)、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼の三つの建築物で構成される。教会の名は「花の(聖母)マリア」の意である。.

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神聖ローマ帝国

聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、,,, Holy Roman Empire)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家。9~10世紀に成立し、1806年まで続いた。西ローマ帝国の後継国家を称した。.

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1406年

記載なし。

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1410年

記載なし。

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フィレンツェとヨハネス23世 (対立教皇)の間の比較

ヨハネス23世 (対立教皇)が54を有しているフィレンツェは、336の関係を有しています。 彼らは一般的な10で持っているように、ジャカード指数は2.56%です = 10 / (336 + 54)。

参考文献

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