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ノウァティアヌス (対立教皇)

索引 ノウァティアヌス (対立教皇)

ノウァティアヌス(Novatianus, ? - 258年)は、コルネリウス・ルキウス・ステファヌス1世・シクストゥス2世の4代にわたっての対立教皇である(在位:251年 - 258年)。.

18 関係: 対立教皇三交社ルキウス1世 (ローマ教皇)ローマ皇帝デキウスファビアヌス (ローマ教皇)ウァレリアヌスキリスト教コルネリウス (ローマ教皇)シクストゥス2世 (ローマ教皇)ステファヌス1世 (ローマ教皇)創元社第1ニカイア公会議教皇250年251年258年325年

対立教皇

対立教皇(たいりつきょうこう、Antipapa、Antipope)は、キリスト教の歴史において、正当な教皇に対抗してたてられた教皇のこと、あるいはローマ教皇であることを宣言しながらも、同時代人あるいは後世の人からその地位が正統なものであると認められなかった人々のこと。 通常、対立教皇というのは教皇選挙者たち(中世以降は枢機卿団)によって、ある人物が教皇に選ばれたあとでそれに反対する人々によって立てられることが多い。一般的に対立教皇ということばは古代から中世にかけての歴史用語であるが、近代以降であっても教皇空位主義者(後述)などで教皇を自称する人々を広義での対立教皇と呼ぶこともある。.

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三交社

三交社(さんこうしゃ)は、東京都台東区にある日本の出版社。主に宗教、思想、歴史、文化などに関する書籍を出版している。.

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ルキウス1世 (ローマ教皇)

ルキウス1世(Lucius I, ? - 254年3月5日)は、ローマ教皇(在位:253年6月25日 - 254年3月5日)。ローマ出身。父親の名前はポルフィリウスであったという。 トレボニアヌス帝の迫害下に教皇に選出され、前任者のコルネリウスと同じように逮捕された。しかし、後をついだウァレリアヌス帝が迫害の手をゆるめたため解放された。ルキウス1世はコルネリウスと同じような思想を持っていたことがキュプリアヌスの書簡から伺われる。結局、ヴァレリアヌス帝の迫害下で殉教することになったようであるが、くわしいことはわからない。 ルキウス1世の墓地は現在もローマのサン・カリストゥスのカタコンベにある。後に遺体は聖セシリアの遺体と共に聖チェチーリア教会に移されたという。さらに1100年頃、遺物がデンマークのロスキレに運ばれ、シェラン島の守護聖人であることからコペンハーゲンのアンスガリオ教会に安置されたという。しかし、デンマークに吹き荒れた宗教改革の嵐の中で、ルキウス1世関係の遺物はほとんどが失われてしまった。 カトリック教会の聖人であり、記念日は3月4日である。 Category:教皇 Category:3世紀の古代ローマ人 Category:カトリック教会の聖人 Category:254年没.

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ローマ皇帝

ーマ皇帝(ローマこうてい)とは、紀元前27年に元老院より「アウグストゥス(Augustus)」の尊称を授与されたオクタウィアヌスと、この尊称を帯びた彼の後継者をさす。「ローマ皇帝」というひとつの職位があるのではなく、多くの重要な職位を一人が集中して兼任した状態のことをいう。初代ローマ皇帝とされるオクタウィアヌスは、実際に様々な官職や権限を一身に集め、彼の後継者に同一の権限を与えた。オクタウィアヌス以降の歴代ローマ皇帝は、「Imperator Caesar Augustus」を自分の名前に付加することで、権限を集中した兼任者(つまり皇帝)が誰であるかを明確にしていた。.

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デキウス

デキウスの描かれた硬貨 ガイウス・メッシウス・クィントゥス・トラヤヌス・デキウス(Gaius Messius Quintus Trajanus Decius, 201年 - 251年7月1日)はローマ皇帝(249年 - 251年)。 息子には共同皇帝の長男ヘレンニウス・エトルスクスと次のローマ皇帝の次男ホスティリアヌスがいる。.

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ファビアヌス (ローマ教皇)

ファビアヌス ファビアヌス(Fabianus, ? - 250年1月20日)は、ローマ教皇(在位:236年1月 - 250年1月20日)。 歴史家エウセビオスは著書「教会史」6巻において、ファビアヌスが教皇に選ばれた次第について次のような話を伝えている。 ファビアヌスについては、ローマ皇帝フィリップス・アラブスとその息子に洗礼を授けた、カタコンベ内の施設の拡充を図った、ローマの教会組織を整備した、殉教者の事跡を調査するポストを創設した、などの話が伝えられている。デキウス帝の迫害時、250年1月20日に殉教したといわれる。 ファビアヌスについて伝えられていることで史実として証明できるものは少ないが、初期キリスト教において大きな働きをしたということは認めざるをえない。カルタゴの司教キプリアヌスはファビアヌスを高く評価しており、オリゲネスともつながりがあったようである。.

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ウァレリアヌス

プブリウス・リキニウス・ウァレリアヌス(Publius Licinius Valerianus,193年か195年か200年 - 260年から264年)は、軍人皇帝時代のローマ帝国皇帝である。.

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キリスト教

リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.

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コルネリウス (ローマ教皇)

ローマ教皇コルネリウス コルネリウス(Cornelius, ? - 253年6月)は、ローマ教皇(在位:251年3月6日/13日 - 253年6月)。 前教皇ファビアヌスの死から14ヶ月の空白を経て、コルネリウスは251年3月に教皇に選出された。この時期はデキウス帝の激しかった迫害が小休止している時期であった。コルネリウスの選出に対して激しく反対したのはノウァティアヌスとその一派であった。その理由は大罪のゆるしについて、コルネリウスらは司教であれば、殺人、姦通、背教といった大罪もゆるすことができると考えたが、ノウァティアヌスは人間にはその罪をゆるすことができず、最後の審判でのみ裁かれると考えたのだった。神学者キュプリアヌスの支援によって、なんとかコルネリウスは教皇職につくことができ、ノバティアヌス派はローマを追われたが、自らの正当性を主張しつづけた。 2年間の教皇職在位の後、トレボニアヌス帝の迫害によってチェントゥリチェッレに追放され、そこで死去した。カトリック教会の聖人であるコルネリウスの記念日は、キュプリアヌスと同じ9月16日であるが、それは彼の殉教の日ではない。 Category:3世紀の古代ローマ人 Category:カトリック教会の聖人 Category:教皇 Category:253年没.

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シクストゥス2世 (ローマ教皇)

トゥス2世(Sixtus II、? - 258年8月6日)は、ローマ教皇(在位:257年8月31日 - 258年8月6日)。カトリック教会の聖人であり、聖シクストゥス(St.)とも表記される。ローマ皇帝ウァレリアヌスの迫害のため殉教した。カタコンベでの儀式中に4人の助祭と共に捕らえられ、その場で斬首されたと伝えられる。.

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ステファヌス1世 (ローマ教皇)

ステファヌス1世(Stephanus I、?-257年8月2日)はローマ教皇(在位,254年-257年8月2日)。ギリシャ系の出身であった。彼が教皇に選ばれたころは、キリスト教への迫害もさることながら、それに伴って起こった問題に教会が揺れていたころであった。それはデキウス帝の迫害下で信仰を捨てた信徒が再び教会へ戻ることを望むとき共同体に向けてよいのか、また再び洗礼を受けさせるべきか、といった問題であった。これに関しては教皇はキプリアヌスと一致しており、ローマの伝統にしたがって異端者でも教会に戻ったものにはその洗礼の有効性を認め再洗礼の必要がないと全教会に指示したが、アフリカの諸教会はこれにしたがわなかった。また、ステファヌス1世に関して特筆すべきことは初めてローマ司教の持つ優越性を主張していたことにある。これが教皇意識の萌芽であるとみなすと教会史家は多い。カトリック教会の聖人であり、記念日は8月11日。 ステファヌスを殉教者とみなすのは、後代の伝承による。ヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』はその殉教のようすについて次のように伝える。 時の皇帝ウァレリアヌスとガリエヌスは、まず教皇の配下の聖職者10名を捕らえ裁判もなく斬首した。翌日には教皇自身も捕らえられマルス神殿に連行されたがステファヌスが「どうかこのこけおどしの建物を倒してください」と主に祈ったために、神殿の大部分が倒壊した。逃げまどう多くの人々を尻目に教皇はその足で聖女ルキアが葬られている教会に向かい、皇帝によってさらに多くの兵士を差し向けられたが少しも恐れず聖務を続け、そのまま斬首された。 Category:教皇 Category:257年没.

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創元社

創元社(そうげんしゃ)は、日本の出版社。大阪市に本社を置き、主に心理学、歴史学の書籍を出版している。 海外推理小説、SF小説の出版などで知られる東京創元社は、1954年にのれん分けで独立し別会社となったもの。.

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第1ニカイア公会議

1ニカイア公会議を画いたイコン。アリウスが下方の闇に画かれ断罪されている。(メテオラ・大メテオロン修道院所蔵) ニカイア公会議(ニカイアこうかいぎ、ニケア、ニケーアとも)は、325年5月20日から6月19日まで小アジアのニコメディア南部の町ニカイア(現トルコ共和国ブルサ県イズニク)で開かれたキリスト教の歴史で最初の全教会規模の会議(これを公会議という。正教会の一員たる日本正教会の訳語では全地公会であり、ニカイア公会議は第一全地公会と呼ばれる)。.

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教皇

教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.

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250年

記載なし。

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251年

記載なし。

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258年

記載なし。

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325年

記載なし。

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