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エジプト第19王朝とカデシュ

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エジプト第19王朝とカデシュの違い

エジプト第19王朝 vs. カデシュ

プト第19王朝(紀元前1293年頃 - 紀元前1185年頃)は、新王国時代の古代エジプト王朝。第18王朝時代の繁栄を引き継ぎ、古代エジプト最大のファラオとも言われるラムセス2世を出し、エジプトがオリエント最大の国家の一つとして栄えた時代であった。. デシュ(Qadesh、Kadeshの表記もあり)は古代のシリアにあった都市。オロンテス川に面していた。現在のシリア西部の大都市ホムスから24km南西にあるテル・ネビ・メンド(Tell Nebi Mend)という遺跡がカデシュの跡とされる。 カデシュは、エジプト第18王朝のファラオ・トトメス3世の遠征に対抗してレバントの都市国家群が連合を組んだ際、連合を指揮したカナン人の二つの都市国家のうちの一つとして歴史に登場する(もう一つはメギド)。エジプトに対抗する連合を組むにあたり、カデシュ(アッカド語のアマルナ文書では「Qidshu」の名で現れる)はおそらく、エジプトとレバントを争う北の大国ミタンニの王に指揮されていたと考えられる。 メギドの戦いでカナン連合軍が大敗すると、カデシュ含めシリア南部の都市国家群の上にエジプトの覇権が広がった。カデシュの王とエジプトのファラオアメンホテプ4世の間に交わされた書簡もアマルナ文書の中に残っている。アマルナ文書など同時代の記録には、スッタルナ(Suttarna、紀元前1350年頃)、エタッカマ(Etakkama、紀元前1340年代頃)、アリ=テシュブ(Ari-Teshub、紀元前1330年 - 1325年頃)という3人のカデシュ王の名が伝わっており、自らをエジプト王の臣下と述べている。 アメンホテプ4世の後はカデシュはエジプトに属さず、ツタンカーメンとホルエムヘブは両方ともヒッタイトからカデシュを奪回するのに失敗した。第19王朝のセティ1世のシリア遠征では、都市を防衛しようとするヒッタイト軍を破りカデシュを攻め落とした。セティ1世は息子ラムセス2世とともに意気揚々と市内へ入り、勝利の記念碑を建てた。しかしこの勝利は一時のもので、セティ1世がエジプトに帰るとすぐにヒッタイトの王ムルシリ2世が南へ進軍しカデシュを占領した。ヒッタイトは、カルケミシュに置いた副王を通じてカデシュを支配したものの、カデシュははシリアにおけるヒッタイトの要塞と化した。 こうしてカデシュは、古代世界の戦争の中で最も多くの文献が残っている戦争であり、紀元前13世紀の大国同士の決戦である「カデシュの戦い」の舞台となる。およそ150年にわたりエジプトの臣下であったカデシュはヒッタイトの宗主権の下へと離反したため、カデシュは対立する二大国の間の前線となった。ヒッタイトの台頭と南下に対し、エジプトのファラオラムセス2世は軍事力での反撃を選んだ。 カデシュでの戦いは、エジプト側の大敗であるかに見えた。ヒッタイトのスパイはエジプト側にヒッタイト軍が実際より遠方にいるように信じさせたため、ヒッタイトはエジプト軍の陣地に奇襲することに成功した。エジプト軍ははるか遠方にいるはずのヒッタイト軍が出現したことに驚き総崩れになろうとしたが、ヒッタイトへの敵意に満ちるエジプト側は踏みとどまった。ラムセス2世は主導権を握り返し、戦闘は膠着状態のまま、双方が勝利を主張する中引き分けとなり記録に残る最古の平和条約が結ばれた。しかし、カデシュは、この戦い以後もヒッタイトの支配下に置かれた。 遠方にいると思われていたヒッタイトの軍勢に襲撃され苦戦、援軍が駆けつけたことにより(ラムセス2世は)窮地から脱した。記録では双方が(相手国に)勝利したと記されているという。 その後もシリアの有力都市国家であったが、紀元前12世紀にレバントやアナトリアの他の都市同様「海の民」の侵略を受け破壊され、その後再建されなかった。.

エジプト第19王朝とカデシュ間の類似点

エジプト第19王朝とカデシュは(ユニオンペディアに)共通で13ものを持っています: 平和条約ミタンニラムセス2世ヒッタイトファラオホルエムヘブアメンホテプ4世エジプト第18王朝カデシュの戦いシリアセティ1世紀元前12世紀海の民

平和条約

平和条約(へいわじょうやく、peace treaty)とは戦争状態を終結させるための条約。講和条約(こうわじょうやく)、和約(わやく)ともいう。二つの敵対する勢力(通常は国家や政府)が、戦争や武力紛争の公式な終結を合意するものである。平和条約は、敵対状態の一時的な停止を合意する休戦協定(armistice)や、軍隊が武装を放棄することを合意する降伏(surrender)とは異なるものである。.

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ミタンニ

'''ミタンニ'''の版図 ミタンニ(ヒッタイト語:Mi-ta-an-niあるいはMi-it-ta-ni、アッシリア語: Ḫa-ni-gal-bat - 「ハニガルバト」)はフルリ人が紀元前16世紀頃メソポタミア北部のハブル川上流域を中心に建国した王国である。多民族社会で戦士階級に支配される封建的国家であり、支配階級はインド・アーリア語派の出自を持つと推定される(後述)。.

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ラムセス2世

ラムセス2世(Ramesses II、紀元前1314年頃 - 紀元前1224年、または紀元前1302年頃 - 紀元前1212年)、エジプト新王国第19王朝のファラオ(在位:紀元前1290年 - 紀元前1224年、または紀元前1279年 - 紀元前1212年)。 その治世において、エジプトはリビア・ヌビア・パレスチナに勢力を伸張した。 ラムセ2世、ラメセス2世とも表記される。ラムセスという名は、ラーによって生まれたという意味の「ラー・メス・シス」のギリシア語読みである。なお、ラムセス3世以降のラムセスを称する第20王朝のファラオとの血縁関係は無いとされる。 即位名はウセルマアトラー・セテプエンラー(User-maat-Ra Setep-en-Ra)。これは「ラーのマート(正義、真理、宇宙の秩序などの意)は力強い、ラーに選ばれし者」を意味し、これをギリシア語訳した「オジマンディアス(Ozymandias)」とも呼ばれる。.

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ヒッタイト

ヒッタイト(英:Hittites)は、インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト語を話し、紀元前15世紀頃アナトリア半島に王国を築いた民族、またはこの民族が建国したヒッタイト帝国(王国とも)を指す。なお、民族としてのヒッタイトは、ヒッタイト人と表記されることもある。 他の民族が青銅器しか作れなかった時代に、高度な製鉄技術によりメソポタミアを征服した。最初の鉄器文化を築いたとされる。 首都ハットゥシャ(現在のトルコのボアズキョイ遺跡)の発掘が進められている。.

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ファラオ

ファラオ(英語:Pharaoh)は、古代エジプトの君主の称号。しばしば王と和訳される。.

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ホルエムヘブ

ホルエムヘブ(左)とアトゥム神の像(ルクソール博物館)。 ホルエムヘブ(Horemheb、在位:紀元前1323年 - 紀元前1295年)は古代エジプト第18王朝最後のファラオ。名は「ホルス神は歓喜する」の意。アメンホテプ3世の時代から王家に仕えた軍人であり、ツタンカーメンの時代には将軍の地位にあった。 紀元前1323年、高齢だったアイの死後、アイが後継者に指名していた軍司令長官のナクトミン(Nakhtmin)を打倒し、彼が即位した。王女ムトノメジットを娶っていたため、王朝の継続性は維持された。.

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アメンホテプ4世

アメンホテプ4世(Amenhotep IV、紀元前1362年? - 紀元前1333年?)は、古代エジプト第18王朝の王(ファラオ)(在位:紀元前1353年? - 紀元前1336年頃?)。別名アクエンアテン。「アメンホテプ」は「アメンヘテプ」とも表記する。.

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エジプト第18王朝

プト第18王朝(紀元前1570年頃 - 紀元前1293年頃)は新王国時代最初の古代エジプト王朝。政権としては第2中間期のテーベ(古代エジプト語:ネウト、現在のルクソール)政権である第17王朝と完全に連続した政権であるが、エジプト統一を成し遂げたイアフメス1世以降は第18王朝とするのが慣例となっている。エジプトの再統一による国力増大によって数々の大規模建築が残され、ヌビア、シリア地方に勢力を拡大し、オリエント世界に覇を唱えた。 「古代エジプトのナポレオン」と称されたトトメス3世、世界初の一神教ともいわれるアテン神信仰を追求したアメンヘテプ4世(アクエンアテン)、黄金のマスクによって知られるトゥトアンクアメン(ツタンカーメン)、女性としては初めてエジプトに実質的な支配権を確立したハトシェプスト、など、古代エジプトの代表的な王が数多くこの王朝に属している。王朝後半には王統が断絶したと考えられているが、最後の王ホルエムヘブはその混乱を克服し、宰相ラムセス1世を後継者に指名した。彼が第19王朝を開き、新王国の繁栄はなおも継承された。.

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カデシュの戦い

デシュの戦いは、紀元前1286年頃編年の仕方によるばらつきが存在するため、以前は紀元前1285年あたりとされていたが、紀元前1274年を採る例が多くなってきている。紀元前1286年、シリアのカデシュでヒッタイトのハットゥシリ3世とエジプトのラムセス2世との間での戦いであった。にシリアのオロンテス川一帯で起きた、古代エジプトとヒッタイトの戦いである。史上初の公式な軍事記録に残された戦争であり、成文化された平和条約が取り交わされた史上初となる戦いであるともいわれている。.

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シリア

リア・アラブ共和国(シリア・アラブきょうわこく、)、通称シリアは、中東・西アジアの共和制国家。北にトルコ、東にイラク、南にヨルダン、西にレバノン、南西にイスラエルと国境を接し、北西は東地中海に面する。首都はダマスカス。「シリア」という言葉は、国境を持つ国家ではなく、周辺のレバノンやパレスチナを含めた地域(歴史的シリア、大シリア、ローマ帝国のシリア属州)を指すこともある。.

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セティ1世

ティ1世(Seti I、在位:紀元前1294年 - 紀元前1279年)は古代エジプト第19王朝の第2代ファラオ。ラムセス1世の息子。名は「セト神の君」を意味する。セトの名を冠したファラオの即位は久方ぶりの出来事で、セト神信仰の復活を象徴する出来事でもあった。即位名はメンマアトラー。意味は「太陽神ラーの真理は永遠なり」。.

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紀元前12世紀

デルタの戦い。画像はこの戦いで「海の民」と戦うエジプト第20王朝のファラオ・ラムセス3世(メディネト・ハブのラムセス3世葬祭殿の浮き彫り)。 ウガリット遺跡。楔形文字を表音文字化したウガリット文字の粘土板が大量に出土したことでも知られる。画像は前1200年のカタストロフで廃墟となった宮殿の入り口。 オルメカの巨石人頭像(カベサ・オルメカ)。メソアメリカ最古のオルメカ文化ではサン・ロレンソ一帯の繁栄が見られた。ラ・ベンタに繁栄の中心が移る紀元前900年代までをサン・ロレンソ相と呼ぶ。 紀元前12世紀(きげんぜんじゅうにせいき)は、西暦による紀元前1200年から紀元前1101年までの100年間を指す世紀。.

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海の民

海の民(うみのたみ、Sea Peoples, Peoples of the Sea)は、船を巧みにあやつり、東地中海沿岸を放浪し、古代エジプトの第19王朝のメルエンプタハ5年、及び第20王朝のラムセス3世5年にエジプト領内への侵犯を試みた諸集団に使われる総称的呼称である。「海の民」という語は古代エジプトの記録では用いられておらず、1881年にガストン・マスペロによって命名され、後世一般化した。.

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エジプト第19王朝とカデシュの間の比較

カデシュが28を有しているエジプト第19王朝は、105の関係を有しています。 彼らは一般的な13で持っているように、ジャカード指数は9.77%です = 13 / (105 + 28)。

参考文献

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