Google PlayストアでUnionpediaアプリを復元するために作業中です
出ていきます入ってきます
🌟ナビゲーションを改善するためにデザインを簡素化しました!
Instagram Facebook X LinkedIn

アビラ

索引 アビラ

アビラ(Ávila )は、スペイン・カスティーリャ・イ・レオン州アビラ県のムニシピオ(基礎自治体)。アビラ県の県都である。首都マドリードからは直線距離で西北西に約87kmの位置にある。「城壁と聖人の町」の別称で知られる増田「地理」『スペイン』、66-67頁。 町の名前の語源は、ローマ帝国時代に「白い小部屋(Alba cella)」と呼ばれていたワインセラーの名前が転訛した、あるいは「イベロ人の地」に由来すると考えられている。

目次

  1. 56 関係: 司教大学大理石世界遺産修道院ペトロマドリードムニシピオモリスコリュエイユ=マルメゾンロマネスクローマ帝国ワインセラーヴィルヌーヴ=シュル=ロットトマス・ルイス・デ・ビクトリアトマス・デ・トルケマダヘーラクレーステーラモフランスファサードフアン (アストゥリアス公)フィレンツェフェルナンド2世 (アラゴン王)ダビデアルフォンソ6世 (カスティーリャ王)アビラのテレサアビラ県イタリアイサベル1世 (カスティーリャ女王)ウラカ (カスティーリャ女王)カルメル会カール5世 (神聖ローマ皇帝)カトリック両王カトリック教会カテドラルカスティーリャ・イ・レオン州カスティーリャ王国ギリシア神話コムネロスの反乱ゴシック建築ゴシック様式スペインスペイン異端審問勝利広場紀元前5世紀紀元前6世紀花崗岩西ゴート王国要塞教会堂... インデックスを展開 (6 もっと) »

司教

司教(しきょう、Episcopus, bishop)は、カトリック教会の位階の一つで、ある司教区(教区)を監督する聖務職のこと。 正教会や聖公会などではこれに相当するのは「主教」と呼び、福音主義(ルター派)教会やメソジストでは「監督」と呼ぶ。 なお、カトリック教会でも中国語・朝鮮語は訳語に「主教」を採用している(例:天主教台湾地区主教団)。

見る アビラと司教

大学

ボローニャ大学における1350年代の講義風景を描いた写本挿絵。 日本の学習院大学の正面玄関。 日本を代表する国立大学の東京大学(安田講堂) 大学(だいがく、college、university)は、学術研究および教育における高等教育機関。 日本の現在の学校教育制度では、高等学校もしくは中等教育学校卒業者、通常の課程による12年の特別教育を修了した者、またはこれと同等以上の学力を有する者を対象に専門的な高等教育を行うものとされている。学生の教育課程と修了要件の充足に応じて学位(短期大学士、学士、修士、専門職学位、博士)の学位授与を行う(なお、学位の名称・定義も国や地域によって異なる)。大学は通例「最も程度の高い学問を学ぶ学校」とされ、最高学府ともいうしたがって、最高学府=東京大学とすることは誤用である。

見る アビラと大学

大理石

カッラーラの大理石採石場とホイールローダー。 大理石の採石場でのワイヤーソーを用いた分割 大理石とは、石灰岩が変成作用を受けてできた粗粒の方解石、ドロマイトなどの岩石のこと。岩石学では「結晶質石灰岩」と呼び、変成岩の一種と位置付けている。#岩石学での位置づけ古代より建築材料や彫刻の材料として使われている。#石材や建築材料 「大理石」は石材としての呼称であるが、変成作用を受けていない石灰岩(化石を含む場合あり)や、蛇紋岩などもそう呼ばれる場合がある。

見る アビラと大理石

世界遺産

は、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて世界遺産リスト(世界遺産一覧表)に登録された、文化財、景観、自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件のことで、移動が不可能な不動産が対象となっている。慣例的な用法として、その中の文化遺産を世界文化遺産、自然遺産を世界自然遺産と呼ぶことがある。 なお、世界遺産の制度では正式な文書は英語とフランス語で示され、日本語文献では英語が併記されることがしばしばある一方、フランス語が併記されることは普通ないため、以下では参照しやすさを考慮し、主たる用語には英語を併記する。

見る アビラと世界遺産

修道院

イスラエルにあるカトリック教会のトラピスト修道院 シナイ山にある正教会の聖カタリナ修道院 カラー写真。 パドゥーラ修道院(イタリア、カトリック教会) グレゴール・ヨハン・メンデル。修道士であると共に、遺伝学の研究も行った 修道院(しゅうどういん、Abbey)は、キリスト教において修道士がイエス・キリストの精神に倣って祈りと労働のうちに共同生活(修道生活)をするための施設。 男子修道院と女子修道院とがあり、いずれにおいても修道士・修道女は独身を守る。いくつかの修道院の集まった修道院群のことを、大修道院と呼ぶ。修道院を有する教派としては、東方諸教会、正教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会がある。ルーテル教会を除き、プロテスタントには極めて僅かな例外を除いて修道院は無い。

見る アビラと修道院

ペトロ

ペトロ (שִׁמְעוֹן בַּר־יוֹנָה、Πέτρος、古典ラテン語:Petrus)(生年不明 - 67年?)は、新約聖書に登場する人物で、イエス・キリストに従った使徒の一人。初代ローマ教皇とされる。シモン・ペトロ、ペテロ、ケファともいわれる。聖人の概念をもつキリスト教諸教派(正教会・東方諸教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会)において聖人とされ、その記念日(聖名祝日)は6月29日(ユリウス暦を使用する正教会では7月12日に相当)である。 カトリック教会においては「使徒の頭」、正教会においてはペトルと呼ばれ、パウロ(パウェル)と並んで首座使徒の一人と捉えられている。

見る アビラとペトロ

マドリード

マドリード(Madrid)は、スペインの首都。マドリード州の州都であり、マドリード州の唯一の県であるマドリード県の県都でもある。マドリッドとも呼ばれる。 人口は約325万人。2018年の都市圏人口は679万人 であり、EU内においてパリに次ぐ規模の大都市圏である。 紋章はイチゴノキとクマ。スペイン中央部のメセタ地帯のマンサナーレス川沿いに広がる。近郊にはモストレス、アルカラ・デ・エナーレス、ヘタフェなどの都市があり、マドリード首都圏を形成している。 ヨーロッパ屈指の世界都市であり、アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界15位の都市と評価された。

見る アビラとマドリード

ムニシピオ

ムニシピオ(municipio)とは、スペイン語で地方自治体の最小単位である基礎自治体を意味する語彙である。本項では約8,000存在するスペインの基礎自治体について記す。それぞれのムニシピオは合計50ある県(provincia)を構成しており、各県は17ある自治州を構成している。そのうちいくつかの自治州はムニシピオと県の間にコマルカやマンコムニダードなどの第二階層の地方区分が存在する。ムニシピオあたりの平均的な人口は約5,300人であるが、その格差は大きく、スペイン最多のマドリードの人口が2009年時点で3,255,944人であるのに対し、地方では人口10人以下のムニシピオも存在する。ラ・リオハ州のビジャロージャの人口は2009年時点で10人である。面積は2-40km2が標準的であるが、リェイダ県ののように400km2以上もあるようなムニシピオもある。

見る アビラとムニシピオ

モリスコ

モリスコ(morisco、mourisco)は、イベリア半島でレコンキスタが行われていた時代に、カトリックに改宗したイスラム教徒を指す名称。用語はさらに転換され、秘密裏にイスラム教を信仰した疑いをかけられた人々に適用される軽蔑語となった。秘密裏にユダヤ教を信仰する改宗ユダヤ人(コンベルソ)はマラーノと呼ばれた。

見る アビラとモリスコ

リュエイユ=マルメゾン

リュエイユ=マルメゾン (Rueil-Malmaison)は、フランス、イル・ド・フランス地域圏、オー=ド=セーヌ県の都市。

見る アビラとリュエイユ=マルメゾン

ロマネスク

ロマネスク(英: romanesque)は、建築、彫刻・絵画・装飾、文学の様式の一つ。建築用語および美術用語としては、10世紀末から12世紀にかけて西ヨーロッパに広まった中世の様式を指す。 文芸用語としては、「ロマン(仏: roman)」から派生し、奔放な想像力によって現実の論理・事象の枠を飛び越えた幻想的な性質を指す。

見る アビラとロマネスク

ローマ帝国

コンスタンティヌス朝以降の国章ラバルム(ギリシア語でキリストを意味する言葉の頭文字のΧ・Ρを重ね合わせた組み文字)。 ローマ帝国(ローマていこく、Imperium Romanum)は、古代ローマの共和制後の時代以降を指す言葉である。この時代、古代ローマはイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展していった。 1世紀から2世紀頃の最盛期には地中海沿岸全域に加え、ヨーロッパはヒスパニア、ゲルマニア、ガリア、ブリタンニア、クリミア、北アフリカ一帯、西アジアではメソポタミア、シリア、アルメニア、ペルシア西部などをはじめとする広大な地域を中心とした大規模な領土を皇帝(アウグストゥス)が支配していた。

見る アビラとローマ帝国

ワインセラー

ワインセラー(wine cellar)は、ワインボトルまたは樽に入ったワインの貯蔵室である。 ワインボトルや樽の他には、カーボイ(木枠箱入りガラス瓶)、アンフォラ(古代に用いられた両取っ手付きの壺)、プラスティック容器に入っていることもある。「能動的」なワインセラーでは環境管理システムによって温度や湿度などが制御されている。一方で「受動的」なワインセラーは温度変化を減らすために地下に建設されていることが多く、人工装置による温度・湿度の環境管理は行われない。 地上にあるワインセラーは英語でwine roomと呼ばれることがある。500本以下程度の小規模なワインセラーはしばしば英語でwine closetと呼ばれる。中世においてワインの管理と供給を担った大規模な建物は(酒類貯蔵室)と呼ばれた。イスラエル北部の遺跡からは紀元前1700年に使用されていた世界最古のワインセラーが発見されており、このセラーでは3,000本のボトルに相当する量のワインを貯蔵することができた。

見る アビラとワインセラー

ヴィルヌーヴ=シュル=ロット

ヴィルヌーヴ=シュル=ロット(、)は、フランス、ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏、ロット=エ=ガロンヌ県のコミューン。 1253年、ポワティエ伯アルフォンス(ルイ9世の弟)によって建設された。ペリゴールとギュイヤンヌの境界にあり、上アジャネ地方(fr)に勢力を拡大するための支点の要塞としてつくられた。ヴィルヌーヴ=シュル=ロットは、南西フランス有数の大きく強力なバスティッド(fr、アルビジョワ十字軍時代から百年戦争にかけつくられた計画都市)であった。

見る アビラとヴィルヌーヴ=シュル=ロット

トマス・ルイス・デ・ビクトリア

トマス・ルイス・デ・ビクトリア(Tomás Luis de Victoria, 1548年 アビラ - 1611年8月27日)は、黄金世紀スペインの生んだルネサンス音楽最大の作曲家の一人。16世紀スペインの作曲家では最も有名であり、多くの人からパレストリーナに次ぐポリフォニックな教会音楽の大家と見なされている。

見る アビラとトマス・ルイス・デ・ビクトリア

トマス・デ・トルケマダ

トマス・デ・トルケマダ(Tomás de Torquemada、; 1420年 - 1498年9月16日)は15世紀スペインのドミニコ会の修道士、初代異端審問所長官。15世紀後半の「スペイン異端審問」期に初代長官に就任、在職18年間に約8000人を焚刑に処したと伝えられる。 モリスコとマラーノの間に多くの表面的な改宗者が存在(いわゆる「隠れユダヤ人」)し、より社会的、政治的、経済的にカトリック教徒の中に広がっていた。フェルナンド2世はそれがスペインの宗教的、社会的な脅威として異端審問所の設置を決めた。これによって、自身がコンベルソの祖先を持つトルケマダは、1492年、4か月以内にキリスト教に改宗しない者の国外追放を定めたカトリック両王のアルハンブラの勅令の主な支援者として、ユダヤ人をスペインから追放するのに尽力した。

見る アビラとトマス・デ・トルケマダ

ヘーラクレース

ヘーラクレース (῾Ηρακλής, Hēraklēs) は、ギリシア神話の英雄。ギリシア神話に登場する多くの半神半人の英雄の中でも最大の存在である。のちにオリュンポスの神に連なったとされる。ペルセウスの子孫であり、ミュケーナイ王家の血を引く。幼名をアルケイデース(Ἀλκείδης, Alkeidēs)といい、祖父の名のままアルカイオス(Ἀλκαῖος, Alkaios)とも呼ばれていた。後述する12の功業を行う際、ティーリュンスに居住するようになった彼をデルポイの巫女が 「ヘーラーの栄光」を意味するヘーラクレースと呼んでからそう名乗るようになった。キュノサルゲス等、古代ギリシア各地で神として祀られ、古代ローマに於いても盛んに信仰された。その象徴は弓矢、棍棒、鎌、獅子の毛皮である。

見る アビラとヘーラクレース

テーラモ

テーラモ(Teramo)は、イタリア共和国アブルッツォ州北部にある都市で、その周辺地域を含む人口約5万4000人の基礎自治体(コムーネ)。テーラモ県の県都である。

見る アビラとテーラモ

フランス

フランス共和国(フランスきょうわこく、)、通称フランス()は、西ヨーロッパに位置する共和制国家。首都はパリ 日本国外務省(2022年12月7日閲覧)。フランス・メトロポリテーヌ(本土)のほか、フランス植民地帝国の名残で世界各地にフランスの海外県・海外領土が点在する。独立した旧フランス領諸国とはフランコフォニー国際機関を構成している。 フランス本土は、北は北海、イギリス海峡、大西洋(ビスケー湾)に、南は地中海に面する。陸上では、東はベルギー、ルクセンブルク、ドイツ、スイス、イタリアと、西ではピレネー山脈でスペイン及びアンドラと国境を接するほか、地中海沿岸にミニ国家のモナコがある。 国際政治や安全保障、経済、文化において世界的な影響力を持つ民主主義の大国、先進国の一つである。

見る アビラとフランス

ファサード

ランス大聖堂 ファサード(façade)は、建築物正面部のデザインを指す語句である。フランス語に由来し、英語のfaceと同根である。建築物で最も目立つため都市景観の形成に影響が大きく、建築設計で重要視される。 ファサードは、建物の格式や性格も示し、ゴシック建築のランス大聖堂など内部空間を率直に表現するものや、ルネサンス建築のアルベルティによるセントアンドレア教会など内部空間と有機的なつながりなしに造形されるものがある。側面や背面が装飾的に造形されている場合などもファサードと称する場合がある。

見る アビラとファサード

フアン (アストゥリアス公)

フアン・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ(Juan de Aragón y Castilla)またはフアン・デ・トラスタマラ・イ・トラスタマラ(Juan de Trastámara y Trastámara, 1478年6月28日 - 1497年10月4日)は、カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の唯一の男子。両王の王位継承者としてアストゥリアス公、ジローナ公の称号を授けられていたが、王位継承を果たせずに早世した。

見る アビラとフアン (アストゥリアス公)

フィレンツェ

フィレンツェ(Firenze )は、イタリア共和国中部にある都市で、人口約人の基礎自治体(コムーネ)。トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県都である。英名由来のフローレンス、仏名由来のフローランスで呼ばれることもある。

見る アビラとフィレンツェ

フェルナンド2世 (アラゴン王)

フェルナンドがカスティーリャ王となった1474年におけるイベリア半島の勢力地図 フェルナンド2世(西:Fernando II、Fernando el Católico 1452年3月10日 - 1516年1月23日)は、アラゴン王(在位:1479年 - 1516年)。カスティーリャ王としてはフェルナンド5世(在位:1474年 - 1504年)。カタルーニャ語名ではフェラン2世(Ferran II)、アラゴン語名ではフェランド2世(Ferrando II)。カトリック王(el Católico)と呼ばれ、最初の妻であるカスティーリャ女王イサベル1世と共にカトリック両王(Reyes Católicos)と呼ばれる。

見る アビラとフェルナンド2世 (アラゴン王)

ダビデ

ダビデ(דוד Dāwīḏ 、 Δαβίδ, David、داود Dāʾūd)は、古代イスラエルの王(在位:前1000年 - 前961年頃)とされる人物。ダヴィデ、ダヴィドとも。愛された人の意味。 聖書以外の考古学的根拠に乏しいため、史実性は議論中である。 羊飼いから身をおこして初代イスラエル王サウルに仕え、サウルがペリシテ人と戦って戦死したのちにユダで王位に就くと、ペリシテ人を撃破し要害の地エルサレムに都を置いて全イスラエルの王となり、40年間、王として君臨した。旧約聖書の『サムエル記』および『列王記』に登場し、伝統的に『詩篇』の作者の一人とされている。イスラム教においても預言者の一人に位置づけられている。英語の男性名デイヴィッド(David)は彼の名に由来する。

見る アビラとダビデ

アルフォンソ6世 (カスティーリャ王)

アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040年6月以前 - 1109年7月1日)は、レオン王国の王(在位:1065年 - 1109年)およびカスティーリャ王国の王(在位:1072年 - 1109年)。勇敢王と呼ばれる。カスティーリャ王としてはアルフォンソ1世とも呼ばれ、「ヒスパニア皇帝」を名乗った。多くの伝説的な物語をまとった人物である。

見る アビラとアルフォンソ6世 (カスティーリャ王)

アビラのテレサ

アビラの聖テレサ(ラテン語表記:Teresia Abulensis、洗礼名 Teresa de Cepeda y Ahumada,1515年3月28日 - 1582年10月4日)は、スペインのローマ・カトリック教会の神秘家であり、修道院改革に尽力した人物である。カスティーリャのアビラ(マドリードの北西約85キロのところにある)で生まれた。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。カトリック教会での祝日は10月15日。 信仰上、イエスのテレジア(スペイン語表記:Teresa de Jesús)としても知られる。ラテン語名テレジアの名の聖女がいま一人存在するので、リジューのテレーズを小テレジアと呼び、彼女を大テレジアとも呼ぶ。アヴィラの聖テレサとの表記もある。

見る アビラとアビラのテレサ

アビラ県

アビラ県(アビラけん、Provincia de Ávila)は、スペインの県。カスティーリャ・イ・レオン州に属している。同州バリャドリッド県、セゴビア県、サラマンカ県、マドリード州、カスティーリャ=ラ・マンチャ州トレド県、エストレマドゥーラ州カセレス県に接している。県都はアビラ。

見る アビラとアビラ県

イタリア

イタリア共和国(イタリアきょうわこく、)、通称イタリア()は、南ヨーロッパに位置する共和制国家。首都はローマ。 北はスイスとオーストリア、西はフランス、 東はスロベニアと国境を接している。南は地中海が位置しており、アルバニア、アルジェリア、クロアチア、ギリシャ、リビア、マルタ、モンテネグロ、スペイン、チュニジアとを共有している。また、国土には独立国であるバチカンとサンマリノが存在している。

見る アビラとイタリア

イサベル1世 (カスティーリャ女王)

イサベル1世(Isabel I de Castilla, Isabel la Católica, 1451年4月22日 - 1504年11月26日)は、トラスタマラ朝のカスティーリャ女王(在位:1474年 - 1504年)。夫フェルナンド2世と共にカトリック両王と称される。

見る アビラとイサベル1世 (カスティーリャ女王)

ウラカ (カスティーリャ女王)

ウラカ(Urraca, 1082年 - 1126年3月8日)は、カスティーリャ王国の女王(在位:1109年 - 1126年)。レオン王国の女王も兼ねる。また、「全ヒスパニアの女皇帝」も称した。アルフォンソ6世と2番目の王妃コンスタンサ・デ・ボルゴーニャの娘。 母を通じ、フランスのブルゴーニュ公ロベール1世と初婚の妃でスミュール家出身であるエリー・ド・スミュールの外孫、母コンスタンサの実弟クリュニー修道院長ユーグの姪に当たる。

見る アビラとウラカ (カスティーリャ女王)

カルメル会

カルメル会またはカルメル修道会(ラテン語:Ordo fratrum Beatæ Virginis Mariæ de monte Carmelo, 略称:O.C.、カルメル山の聖なるおとめマリアの兄弟会)は、キリスト教、カトリックの修道会。男子カルメル会と女子カルメル会、および第三会と呼ばれる在俗者会がある。12世紀にパレスティナで起こり、現代でも世界中にその修道院がある。

見る アビラとカルメル会

カール5世 (神聖ローマ皇帝)

カール5世(ドイツ語:Karl V / スペイン語:Carlos I,1500年2月24日 - 1558年9月21日)は、神聖ローマ皇帝(在位:1519年 - 1556年)にしてスペイン国王カルロス1世(在位:1516年 - 1556年)欧米語では、欧米の歴史上の人物の名前は自国語で表すことが多く、この人物の名はドイツ語ではカール、スペイン語ではカルロスであるが、スペインではCarlos I de España、Carlos V de Alemania(カルロス・プリメーロ・デ・エスパーニャ、カルロス・キント・デ・アレマニア)のように呼ぶ。このような場合、日本語では各君主号に関連する言語における名前で呼ぶことが通常であるため皇帝としてはドイツ語名で、スペイン国王としてはスペイン語名で呼ぶことが通常である。

見る アビラとカール5世 (神聖ローマ皇帝)

カトリック両王

カトリック両王(カトリックりょうおう、Reyes Católicos)は、歴史的にアラゴン王フェルナンド2世(Fernando el Católico)とカスティーリャ女王イサベル1世(Isabel la Católica)を指す。彼らは1469年に結婚し、後に彼らの子孫の下で王朝連合国家としてのスペイン王国が成立する。カトリック王の称号はローマ教皇アレクサンデル6世によって授けられた。 両王の統治時代はレコンキスタの末期であり、また2人が出資したクリストファー・コロンブスの西半球、新世界の発見により、その統治は更に強固になった。スペインはローマ・カトリックの保護者となり、カトリックの護持のために対抗改革や、植民地の先住民に対する布教などの主導者となった。国内的にはイスラム教徒やユダヤ教徒に対する弾圧を行ったため、現在ではスペイン・イスラーム文明の豊かな資本を破壊し、その後の新大陸での蛮行や、スペイン没落に通ずる道を開いたのだと批判する学者もいる。

見る アビラとカトリック両王

カトリック教会

カトリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を最高指導者として全世界に13億人以上の信徒を有する、キリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座(聖座、ローマ教皇庁)に置くことから、ローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。

見る アビラとカトリック教会

カテドラル

カテドラル(cathedralis,, )。

見る アビラとカテドラル

カスティーリャ・イ・レオン州

カスティーリャ・イ・レオン州(カスティーリャ・イ・レオンしゅう、Castilla y León、レオン語:Castiella y Llión、ガリシア語:Castela e León)は、スペインを構成する自治州。 北はアストゥリアス州とカンタブリア州、東はバスク州とラ・リオハ州とアラゴン州、南東はマドリード州とカスティーリャ=ラ・マンチャ州、南はエストレマドゥーラ州、西はガリシア州とポルトガルに接している。 自治州の法には州都が定められていないが、バリャドリッドが州都の役割を果たしている。自治州政府はフンタ・デ・カスティーリャ・イ・レオン(Junta de Castilla y León)。

見る アビラとカスティーリャ・イ・レオン州

カスティーリャ王国

カスティーリャ王国(カスティーリャおうこく、Reino de Castilla)は、中世ヨーロッパ、イベリア半島中央部にあった王国である。キリスト教国によるレコンキスタ(国土回復運動)において主導的役割を果たし、後のスペイン王国の中核となった。 Castillaの日本語表記は、カスティーリャ、カスティーリヤ、カスティリャ、カスティーリァ、カスティーリア、カスティリア、カスティーヤ、カスチラ、カストリヤ、カストリア、カステリヤ、カステリア、カスティージャと様々に音写されている。また菓子のカステラは、王国名のポルトガル語発音である「カステーラ」(Castela)からとされている。

見る アビラとカスティーリャ王国

ギリシア神話

ギリシア神話(ギリシアしんわ、ελληνική μυθολογία)は、古代ギリシアより語り伝えられる伝承文化で、多くの神々が登場し、人間のように愛憎劇を繰り広げる物語である。ギリシャ神話とも言う。 古代ギリシア市民の教養であり、さらに古代地中海世界の共通知識でもあったが、現代では、世界的に広く知られており、ギリシャの小学校では、ギリシャ人にとって欠かせない教養として、歴史教科の1つになっている。 ギリシア神話は、ローマ神話の体系化と発展を促進した。プラトーン、古代ギリシアの哲学や思想、ヘレニズム時代の宗教や世界観、キリスト教神学の成立など、多方面に影響を与え、西欧の精神的な脊柱の一つとなった。

見る アビラとギリシア神話

コムネロスの反乱

''コムネーロスの処刑''、アントーニオ・ヒスベルト画、1860年 コムネーロスの反乱 (Guerra de las Comunidades de Castilla)は、16世紀初頭、スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の絶対主義支配に対するスペイン都市の反乱。 スペインでは、都市が中世的自治を主張するとき、コムニダと呼び、コムニダの構成市民をコムネーロス(Communeros)といった。16世紀、スペイン都市行政は国王の支配下に編成され、国王の気ままな御用金取り立てを受けていた。カルロス1世が即位してスペインへ乗り込むと、1520年、サンティアゴ・デ・コンポステーラでコルテス(身分制議会)を招集し、40万ドゥカードの御用金を課した。都市代表はこれを拒否したが、ラ・コルーニャのコルテスは国王に圧力をかけられこれを承認した。この出来事より先に、大司教任命に関して王と争っていたトレドはいち早くコムニダを宣言し、自治都市の運動はカスティーリャ、レオン、アンダルシアに及び、1520年8月に開催されたアビラのサンタ・フンタには15都市が参加した。(サンタ・フンタとは、このような自治都市の同盟体、代表者会議をいう。)10月にトルデシリャスでサンタ・フンタが開かれ、王に都市特権の承認、官僚都市行政の廃止を陳情したが、拒否された。これにより、サンタ・フンタは宣戦布告、約半年間王軍と戦闘状態となった。

見る アビラとコムネロスの反乱

ゴシック建築

ゴシック建築(ゴシックけんちく、英語:Gothic Architecture)は、12世紀後半から花開いたフランスを発祥とする建築様式。最も初期の建築は、パリ近くのサン=ドニ(聖ドニ)大修道院教会堂(Basilique de Saint-Denis)の一部に現存する。イギリス、北部および中部イタリア、ドイツのライン川流域、ポーランドのバルト海沿岸およびヴィスワ川などの大河川流域にわたる広範囲に伝播した。 「ゴシック」という呼称は、もともと蔑称である。15世紀から16世紀にかけて、アントニオ・フィラレーテやジョルジョ・ヴァザーリらが、ルネサンス前の中世の芸術を粗野で野蛮なものとみなすために「ゴート風の」と呼んだことに由来する。

見る アビラとゴシック建築

ゴシック様式

ゴシック様式(ゴシックようしき Gothic Style)とは美術史や美術評論において、西ヨーロッパの12世紀後半から15世紀にかけての建築や美術一般を示す用語。

見る アビラとゴシック様式

スペイン

スペイン王国(スペインおうこく、)、もしくはスペイン国(スペインこく、)、通称スペイン()は、南ヨーロッパのイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める議会君主制国家。首都はマドリード。スペイン本土以外に、西地中海のバレアレス諸島やアルボラン海のアルボラン島、大西洋のカナリア諸島、北アフリカの飛地領土のセウタとメリリャを有しており、モロッコ沿岸部にもいくつか領土がある(プラサス・デ・ソベラニア)。 西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランスとアンドラ、アフリカ大陸にあるセウタとメリリャではモロッコと陸上国境を接する。

見る アビラとスペイン

スペイン異端審問

スペイン異端審問(スペインいたんしんもん)は、15世紀以降、スペイン王の監督の下にスペイン国内で行われた異端審問のこと。宗教的な理由というよりも政治的な思惑が設置に大きく関わっている。15世紀末にフェルナンド2世が、コンベルソ(カトリックに改宗したユダヤ教徒)に起因する民衆暴動を抑え、多民族国家であるスペインのカトリック的統一を目的にローマ教皇に特別な許可を願って設置された。王権制約的であったアラゴン諸王国に対する王権行使の機関、中央集権機関としての側面もある。設立当初の審問の対象者は主にコンベルソとモリスコ(カトリックに改宗したイスラム教徒)であった。

見る アビラとスペイン異端審問

勝利広場

勝利広場(しょうりひろば、、、、、=勝利広場など)、ヴィクトワール広場は世界各地にある何らかの勝利を記念する広場である。 南北米。

見る アビラと勝利広場

紀元前5世紀

パルテノン神殿。アテナイのアクロポリスに建つアテナ女神に捧げられた神殿で、ペルシア戦争に勝利した後に、将軍ペリクレスによって再建がなされ、今あるような姿となった。 デロス島。全盛期のアテナイはこのデロス島に金庫を置いてデロス同盟を支配した。画像は紀元前7世紀にナクソス人が奉納したと伝わるデロス島のライオンの回廊(レプリカ)。 「ダイバーの墓」。マグナ・グラエキア(イタリア南部)の都市パエストゥムの近郊で発見された墓で、この時代の風俗を描いた貴重なフレスコ画が残っている。 オドリュサイ王国の勃興。現在のブルガリアを拠点とするトラキア人の最初の統一国家が生まれたのは紀元前480年頃のことである。黄金による工芸に優れ多くの遺宝が残されている。画像は初代王テレス1世のものとされる黄金のマスク。 テルモピュライの悲劇。ペルシア戦争でスパルタ王レオニダス1世とその配下の兵士がペルシア軍100万人に対し300人で奮戦したが、刀折れ矢尽きて敢え無く玉砕した。画像はレオニダスの肖像彫刻として伝わる重装歩兵の大理石像 (スパルタ考古学博物館蔵)。 大菩提寺(マハーボーディー寺)には多くの信者が集まる。 儒家の孔子。政治的には不遇だったが『論語』にまとめられたその教えは後世に大きな影響を与えた。画像は唐の呉道玄によるもの。 曾侯乙墓。中国の湖北省随県で発見された戦国時代初期の墓で、青銅製の礼器の他に多くの副葬品が発掘された。画像は総重量2567kgで65個の鐘からなる編鐘で完全な形で残っており、現在は中国の一級文物となっている。 は、西暦による紀元前500年から紀元前401年までの100年間を指す世紀。

見る アビラと紀元前5世紀

紀元前6世紀

アケメネス朝ペルシアの栄光。オリエントの再統一を果たすとともに多民族を緩やかに包含した安定した国家システムを構築した。画像はペルセポリスのアパダナ(謁見の間)の階段側面の浮き彫りに刻まれた朝貢使節団。 ゾロアスター教の総合。宗祖ゾロアスターの生没年は現在でも意見の一致を見ていないが、アケメネス朝では王朝成立の頃からこの宗教を国家の支柱としていた。画像はペルセポリスに残るゾロアスター教の象徴でもある聖霊フラワシ(プラヴァシ)の像。 新バビロニアの盛衰。アッシリアから独立して強盛を誇ったが、後にアケメネス朝に併合された。画像はベルリンのペルガモン博物館で復元されたイシュタル門。 デルポイのアポロン神殿。紀元前548年に炎上した後、紀元前530年にアテナイの貴族クレイステネスにより新たに奉献された。巫女(ピュティア)による神託の場所としてギリシア人に重んじられた。 ギリシアの黒絵式陶器。アテナイのエクセキアスなど高度な技術を持つ絵付師が活躍した。画像は「アキレウスとアイアースのアンフォラ」(バチカン美術館蔵)。 楚の伸長。春秋五覇である荘王の時代には、楚は中原にも勢力を拡大し「鼎の軽重を問う」の故事にみられる権勢を誇るようになった。画像は楚の荘王の公子午(子庚)に捧げられた銅鼎(中国国家博物館蔵)。 は、西暦による紀元前600年から紀元前501年までの100年間を指す世紀。

見る アビラと紀元前6世紀

花崗岩

花崗岩『学術用語集 地学編』(1984年)の表記は「花こう岩」、『地質学用語集』(2004年)の表記は「花崗岩」。(かこうがん、)とは、火成岩の1種で、ガラス質は含まないが流紋岩に対応する成分の深成岩である。 なお、石材として「花崗岩」と呼んだ場合には、必ずしも学術的な花崗岩とは一致しない。また、石材の場合は御影石(みかげいし)とも呼ばれるが、やはり「御影」と付いても、学術的な意味での花崗岩ではない岩石も含まれる。

見る アビラと花崗岩

西ゴート王国

西ゴート王国(にしゴートおうこく、、415年 - 711年)は、現在のフランス南部からイベリア半島にあたる地域を支配したゲルマン系王国である。はじめはキリスト教のアリウス派、のちにカトリックを国教とし、ゲルマン文化・ローマ文化・キリスト教文化を融合させ栄えた。ビシゴート王国ともいう。

見る アビラと西ゴート王国

要塞

稜堡式城郭の例。オランダのブールタング 要塞(ようさい、)とは、外敵等から戦略上重要な地点を守る為に築かれた構築物。とりで、砦、堡、塞、城砦、城堡(じょうほう)ともいう。

見る アビラと要塞

教会堂

教会堂(きょうかいどう)は、キリスト教などの教会の建築物である。単に「教会」とも言うが、「教会」と言う場合は、教会堂と、そこに関わる共通の信仰を持つ人々の総体を表す(反対に教会として使われなくなった教会堂もある。)。キリスト教の場合、日本の聖職者や信者の間では教会堂ではなく聖堂(せいどう)と呼ぶことが多い。

見る アビラと教会堂

12世紀

アンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世音菩薩像)。 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。

見る アビラと12世紀

13世紀

チンギス・ハン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。

見る アビラと13世紀

14世紀

ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 Host desecration」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は1356年の金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 Henry Holidayによる歴史画(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)で、フィレンツェのアルノ川の橋のたもとでベアトリーチェに心寄せるダンテが描かれている。 Palazzo Pubblico(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 東勝寺の腹切りやぐら。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 Catalan Atlas」のマンサ・ムーサ。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 『集史』の編纂。イル・ハン国の宰相で歴史家ラシードゥッディーンはその当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 Rubin Museum of Art所蔵のツォンカパの肖像画。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。

見る アビラと14世紀

15世紀

大航海時代。大西洋を渡り新世界に到達したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 太陽の石。1479年にアステカ帝国皇帝アシャヤカトルが現メキシコシティの中央広場の位置に奉献したもの(メキシコ国立人類学博物館蔵)。 後期ミシシッピ文化。北アメリカでは1450年代にはカホキア遺跡にみられる巨大建築物マウンドでの祭祀が停滞し、社会が大きく変容した。画像はこの時代に作られた中空土器の水差しで、神話上の水中豹を表している(アーカンソー州クロス郡出土)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子とされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 コンスタンティノポリスの陥落。オスマン帝国のメフメト2世の占領により、1000年以上続いてきた東ローマ帝国はここに滅亡した。画像はジャン=ジョセフ・バンジャマン=コンスタンの歴史画(トゥールーズのオーギュスタン美術館蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 Chronica Hungarorum』の挿絵に描かれた正義王。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。画像は15世紀に描かれたジャンヌの肖像のミニアチュール(フランス国立中央文書館蔵)。 Henry Payne (artist)の歴史画で、ヨーク公リチャードが白薔薇を、サマセット公エドムンドが赤薔薇を選んでいる(バーミンガム市美術館)。 Martin Le Francの長編詩『女性の擁護者』の写本(1451年頃)より。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 帝国都市ニュルンベルク。神聖ローマ皇帝の滞在地として、帝国議会の開催地として、宗教改革が起こるまで繁栄の時代が続いた。画像は1493年に出版されたハルトマン・シェーデル『ニュルンベルク年代記』の挿絵に描かれた都市ニュルンベルクの眺望。 Nicolas Rolinはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 人文主義者たち。古典古代への憧れが人文主義を育み、数多くの学者や著作家を生み出した。画像はドメニコ・ギルランダイオの「神殿のザカリアス(サンタ・マリア・ノヴェッラ教会トルナブオーニ礼拝堂壁画)」に描かれたマルシリオ・フィチーノら人文主義者たち。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 イサベルとアラゴン王フェルナンド)によりイベリア半島のイスラム系王朝支配は終わった。画像はフランシスコ・プラディリャ・オルティスの歴史画「グラナダ征服」(スペイン上院蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 Hang Tuahのブロンズ像。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 明の永楽帝。靖難の変により甥の建文帝から帝位を奪うと都を根拠地の北京に定めた。漠北への五度の親征や、宦官鄭和を派遣しての南海大遠征を通じて明の威光を周辺諸国に知らしめた傑出した君主であった。 鄭和の南海大遠征。永楽帝は明の国威を示すため、大艦隊をインド洋沿岸に派遣した。画像はベンガルから朝貢されたキリンを描いた「瑞応麒麟図」。 故宮博物院蔵)。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北国立故宮博物院蔵)。 万国津梁の鐘。1458年に琉球王国の尚泰久王が鋳造させた釣鐘で、「舟楫を以て万国の津梁となす」と刻まれた銘文は海洋国家琉球の気概を示すものとして名高い。現在は沖縄県立博物館・美術館に展示されている。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 「万人恐怖」。籤引きにより六代将軍に選ばれた足利義教は強権的な政治を行い「万人恐怖」と恐懼された。しかしそれが仇となって赤松満祐による嘉吉の乱で非業の死を迎えることになる。画像は愛知県妙興寺にある将軍義教の肖像画。 文化を極めた。将軍義政が賞翫した蒐集品は「東山御物」として珍重されることになる。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 衣笠山山麓に創建したのが竜安寺である。この方丈庭園は禅の思想に基づくもので、1500年頃までに現在の形になったと伝える。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。

見る アビラと15世紀

16世紀

盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。 16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。

見る アビラと16世紀

17世紀

フランスの権勢と威信を示すために王の命で壮麗なヴェルサイユ宮殿が建てられた。画像は宮殿の「鏡の間」。 マルガリータ王女を取り巻く宮廷の女官たちを描いたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」。 ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」で知られる『方法序説』が述べた合理主義哲学は世界の見方を大きく変えた。画像はデカルトとその庇護者であったスウェーデン女王クリスティナ。 オランダの黄金時代であり数多くの画家を輩出した。またこの絵にみられる実験や観察は医学に大きな発展をもたらした。 チューリップ・バブル。オスマン帝国からもたらされたチューリップはオランダで愛好され、その商取引はいつしか過熱し世界初のバブル経済を生み出した。画像は画家であり園芸家でもあったエマヌエル・スウェールツ『花譜(初版は1612年刊行)』の挿絵。 ヴェストファーレン会議。以後ヨーロッパの国際関係はヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を軸とする体制へと移行する。画像はヘラルト・テル・ボルフの絵画(アムステルダム国立美術館蔵)で、三十年戦争の終結のために開かれたミュンスターでの会議の様子。 チャールズ1世の三面肖像画」。 ベルニーニの「聖テレジアの法悦」。 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国と神聖ローマ帝国・ポーランド王国が激突する大規模な戦争となった。この敗北に続いてオスマン帝国はハンガリーを喪失し中央ヨーロッパでの優位は揺らぐことになる。画像はウィーン軍事史博物館所蔵の逸名画家による「1683年9月のウィーン市包囲と救援」。 モスクワ総主教ニーコンの改革。この改革で奉神礼や祈祷の多くが変更され、反対した人々は「古儀式派」と呼ばれ弾圧された。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「貴族夫人モローゾヴァ(トレチャコフ美術館蔵)」で古儀式派の信仰を守り致命者(殉教者)となる貴族夫人を描いている。 スチェパン・ラージン。ロシアではロマノフ朝の成立とともに農民に対する統制が強化されたが、それに抵抗したドン・コサックの反乱を率いたのがスチェパン・ラージンである。画像はカスピ海を渡るラージンと一行を描いたワシーリー・スリコフの歴史画。 Sedefkar Mehmed Aghaにより建設された。優美な6本のミナレットと堅牢な大ドームを含め青い壁面で覆われた「世界で最も美しいモスク」と評される。 Sheikh Lotfollah Mosqueの内部。 タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。 アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。 順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓。 ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。 紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、太和殿は康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。ここで皇帝の即位・大婚・皇后冊立・遠征出征などの儀礼が行われ、皇帝が群臣の祝賀を受ける朝会も行われていた。 台湾の鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。 江戸幕府の成立。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。 日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。 名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。 新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。 海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。 ジョン・コリアによる歴史画「ヘンリー・ハドソンの最後の航海(1881年)」。 海賊の黄金時代。西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。 スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。 未知の南方大陸を求めて。地理上の空白地帯である「未知の南方大陸(テラ・アウストラリス・インコグニタ)」を探すべく、多くの探検家が挑戦をした。オランダ人タスマンもその一人で、タスマニア島やニュージーランドを訪れた最初のヨーロッパ人となった。画像は地球儀を指さすタスマンとその妻と娘を描いた肖像画。 17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀。

見る アビラと17世紀

アービラの旧市街と塁壁の外の教会群 別名。

12世紀13世紀14世紀15世紀16世紀17世紀