543 関係: 基 (僧)、十七条憲法、単意論、南北朝時代 (中国)、南淵請安、古墳時代、古人大兄皇子、古代日本の戸籍制度、台湾、吐谷渾、吐蕃、壬申の乱、大安寺、大化、大化の改新、大ブルガリア (中世)、大唐西域記、大王 (ヤマト王権)、大祚栄、大秦景教流行中国碑、大織冠、大臣 (古代日本)、大雁塔、大津皇子、大慈恩寺、天皇、天皇陵、天武天皇、天智天皇、太宗 (唐)、太政大臣、奉先寺、孝徳天皇、孫思バク、孔子、孔穎達、実叉難陀、宝蔵王、宮宰、宇治橋 (宇治市)、宇治橋断碑、宇文化及、安西大都護府、寒山、小墾田宮、小野妹子、少林寺 (映画)、屯倉、山田寺、山田高塚古墳、...、山背大兄王、岩のドーム、上宮聖徳法王帝説、帝国、中宮寺、七王国、世紀、万葉集、年表、乙巳の変、京杭大運河、広州市、五経正義、仮面、任那、弘文天皇、役小角、律令制、修道士、修験道、北インド、ナルマダー川、ミスル、マヤ文明、マルティナ (東ローマ皇后)、マルティヌス1世 (ローマ教皇)、マレー半島、ノーサンブリア、マディーナ、マドリード、マニ教、マウリキウス、マグリブ、マスジド・ハラーム、チュニジア、チョ遂良、チベット、ネパール、ネウストリア、ネストリウス派、ハリプンチャイ王国、ハルシャ・ヴァルダナ、ハワーリジュ派、ハンダクの戦い、ハーリド・イブン・アル=ワリード、バラフ・チャン・カウィール、バーナ、バドルの戦い、バスラ、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ、ムアーウィヤ、メッカ、モンツァ、モンゴル高原、モン族 (Mon)、ヤズデギルド3世、ヤズィード1世、ユトレヒト、ユスティニアノス2世、ヨアンネス・クリマコス、ランゴバルド人、ラヴェンナ、ラテン教父、リュキア、リンディスファーン修道院、レオンティオス、レケスウィント、ロンバルディアの鉄王冠、ヴァルダナ朝、ヴォルガ・ブルガール、ボニファティウス4世 (ローマ教皇)、ヘラクレイオス、ヘラクレイオス王朝、ヘラクロナス、ブラーマ・スプタ・シッダーンタ、ブラフマグプタ、ブルンヒルド、ブルガール人、ブレトワルダ、プリスカ (ブルガリア)、パレンケ、パンとサーカス、パンテオン、ヒジュラ、ヒジュラ暦、ヒスイ、ビハール州、ピピン1世、ピピン2世、テマ制、ティカル、ディナール、フランク王国、フリースラント、フダイビーヤの和議、フォロ・ロマーノ、フォカス、フォカスの記念柱、フサイン・イブン・アリー (イマーム)、ドス・ピラス、ニハーヴァンドの戦い、ホスロー2世、ダマスカス、ダゴベルト1世、ベルベル人、初唐の三大家、切韻、アムル・イブン・アル=アース、アリー・イブン・アビー・ターリブ、アヴァール、アーイシャ・ビント・アブー・バクル、アブー・バクル、アブドゥルマリク、アブドゥッラー・イブン・アッズバイル、アフタル、アウストラシア、アクイレイア、アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ、アスパルフ、イマーム、インド、イングランド、イースト・アングリア、イシドールス、イスラム帝国、イスラム教、ウマル・イブン・ハッターブ、ウマル憲章、ウマイヤ朝、ウフドの戦い、ウィットビー教会会議、ウィタリアヌス (ローマ教皇)、ウスマーン・イブン・アッファーン、エルサレム、エルサレム総主教庁、エディンバラ大学、エゼルベルト (ケント王)、オングロスの戦い、カナウジ、カリフ、カルバラーの戦い、カルタゴ、カロリング朝、カンタベリー、カンタベリーのアウグスティヌス、カアバ、ガブリエル、キュジコス、キトラ古墳、キニチ・ハナーブ・パカル1世、ギリシア火薬、クライザ族虐殺事件、クリミア半島、クルアーン、クロタール2世、クーファ、グラード (イタリア)、グレゴリウス1世 (ローマ教皇)、グプタ朝、ケルト人、ケルアン、ケルソネソス、ケント王国、コルンバ、コンスタンティノープル、コンスタンティノス4世、コンスタンディヌーポリ総主教庁、コンスタンス2世、ザルツブルク、ザンクト・ガレン修道院、シナイ山、シャー、シャイレーンドラ朝、シュリーヴィジャヤ王国、シリア、スマトラ島、スーフィー、スィッフィーンの戦い、セビリア、ソンツェン・ガンポ、ソフロニオス、タマン半島、サン=ドニ大聖堂、サーサーン朝、サットン・フー、唐、唐の高句麗出兵、唐律疏義、唐・新羅の同盟、唐・新羅戦争、唯識、冠位十二階、内大臣、八角墳、六祖壇経、元号、元暁、前期チャールキヤ朝、国号、国子監、国立考古学博物館 (スペイン)、国立故宮博物院、国造、倭国、犬上御田鍬、石舞台古墳、玄奘三蔵、玄武門の変、王世充、王皇后 (唐高宗)、王玄策、睿宗 (唐)、神学者、神宮式年遷宮、神都、禅、称制、科挙、突厥、竜門、竇建徳、第3コンスタンティノポリス公会議、第一次ブルガリア帝国、第二次内乱 (イスラーム史)、粛慎 (日本)、総大司教、義湘、義浄、羽生蛇村、羈縻政策、真臘、終末期古墳、用明天皇、煬帝、牽牛子塚古墳、狄仁傑、白馬寺 (洛陽)、白村江の戦い、百済、隋、隋の高句麗遠征、隋唐演義、韻書、鞍作止利、遊仙窟、遣唐使、遣隋使、聖墳墓教会、聖徳太子、聖マクシモス、聖ウィリブロルド、聖カタリナ修道院、道登、道昭、華厳宗、華厳経、華北、蝦夷、預言者、頡利可汗、額田王、顔師古、顔之推、飢饉、裴世清、飛鳥浄御原宮、飛鳥浄御原令、飛鳥時代、西ゴート王国、西スラヴ人、西突厥、西遊記、西暦、駱賓王、訓詁学、高句麗、高向玄理、高宗 (唐)、高松塚古墳、高昌、魏徴、豊干、貞観の治、貞観政要、近江大津宮、近江国、郡司、舒明天皇、阿史那骨咄禄、阿史那賀魯、阿倍比羅夫、阿羅本、蘇我入鹿、蘇我倉山田石川麻呂、蘇我蝦夷、蘇我馬子、閻立本、薄葬令、開元通宝、薛懐義、藤原京、藤原鎌足、藤原氏、釈迦三尊、金剛山 (金剛山地)、長孫無忌、若草伽藍、集史、逸文、虞世南、陸法言、SIREN (ゲームソフト)、推古天皇、恭帝トウ、李密 (隋)、李勣、李靖、李衛公問対、李賢 (唐)、李淵、東ローマ帝国、東突厥、杜如晦、栄留王、楊玄感、橘大郎女、欧陽詢、正統カリフ、武川鎮軍閥、武則天、武烈王、武韋の禍、法相宗、法隆寺、法蔵 (唐)、洛陽市、淵蓋蘇文、渤海 (国)、清弁、漢書、持統天皇、朝会、朝鮮半島、木蘭、月称、有間皇子、成唯識論、戸籍、房玄齢、戒賢、春秋決獄、浮石寺、新羅、斑鳩、斑鳩宮、文武天皇、文武王、文成公主、斉明天皇、日本、旻、摂政、改新の詔、敏達天皇、教皇、慧能、扶南国、拾得、曷薩那可汗、智儼、0、540年、543年、550年、551年、554年、557年、558年、560年、566年、569年、570年、571年、573年、574年、575年、578年、579年、580年、581年、582年、583年、584年、585年、590年、592年、594年、595年、596年、598年、600年、601年、602年、603年、604年、606年、609年、610年、611年、612年、613年、614年、615年、616年、617年、618年、619年、621年、622年、623年、624年、625年、626年、628年、629年、630年、631年、632年、633年、634年、635年、636年、638年、639年、640年、641年、642年、643年、644年、645年、646年、647年、648年、649年、650年、651年、653年、654年、655年、656年、658年、659年、660年、661年、662年、664年、665年、666年、668年、669年、670年、671年、672年、673年、675年、678年、680年、681年、682年、683年、684年、685年、686年、687年、688年、690年、692年、695年、697年、698年、700年、701年、702年、705年、709年、710年、712年、713年、714年、719年、728年、730年、739年。 インデックスを展開 (493 もっと) »
基 (僧)
基(き、拼音: 、632年 - 682年)は、中国唐代の仏教家であり、法相宗を起した。窺基(きき)と通称されるが、窺の字を付けない「基」が正しい名前である。.
十七条憲法
過去にあったとされる憲法である。.
単意論
単意論(たんいろん、Μονοθελητισμός, Monothelitism)もしくは単意説(たんいせつ)とは、キリストの人格にはただ1つの意志があるのみとする説。.
南北朝時代 (中国)
北魏と宋 北魏と南斉 東西魏と梁 北周、北斉と後梁、陳 中国史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。 この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、江南(長江以南)の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。 また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。その後、581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。.
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南淵請安
南淵 請安(みなぶち の しょうあん、生没年不詳)は飛鳥時代の学問僧。大和国高市郡南淵村(現在の奈良県の飛鳥川上流の明日香村稲渕)に住んだ南淵漢人(みなみぶちのあやひと)と称される漢系渡来氏族出身の知識人。.
古墳時代
古墳時代(こふんじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つである。古墳、特に前方後円墳が盛んに造られた時代を意味する。縄文時代、弥生時代に次ぐ考古学上の時期区分である。ほぼ同時代を表している「大和時代」は日本書紀や古事記による文献上の時代区分である。現在は研究が進んだこともあって、この時代の呼び方は「古墳時代」がより一般的となっている。 古墳時代の時期区分は、古墳の成り立ちとその衰滅をいかに捉えるかによって、僅かな差異が生じる。例えば、前方後円墳が造営され始めた年代に関しても、議論が大きく揺れ動いてきた。現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方南部から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。 前方後円墳が造られなくなった7世紀に入っても、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられるが、この時期を古墳時代終末期と呼ぶこともある。 西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できないため、この間は「空白の4世紀」とも呼ばれている。日本国家の成立を考察すれば、倭国のヤマト王権が拡大し、王権が強化統一されていった時代と考えられている。古墳時代終末期に倭国から日本国へ国名を変更した。.
古人大兄皇子
古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ、生年不詳 - 大化元年9月12日(645年10月7日)ここでは、吉備笠垂の密告日(9月12日)の内に、中大兄が討伐命令を出し、古人大兄が死亡した場合の日付を採用している。日本書紀には、密告記述に引き続く一文で、「中大兄、即(すなは)ち…古人大市皇子等を討たしむ。」(訓読文)と在る。(校注本には「即ち」の意味については注釈されていない。) - 「巻第二十五 孝徳天皇 大化元年八月-九月」 『日本書紀(四)[全5冊]』 坂本太郎 他校注(岩波文庫)1995年、252頁)は、飛鳥時代の皇族。舒明天皇の第一皇子。母は蘇我馬子の娘・蘇我法提郎女(ほほてのいらつめ)で大臣・蘇我入鹿とは従兄弟に当たる。娘は倭姫王(天智天皇の皇后)。古人皇子・古人大市皇子・吉野太子とも呼称される。 大臣・蘇我入鹿は、古人大兄皇子を皇極天皇の次期天皇に擁立しようと望んだ。そのため、有力な皇位継承資格者・山背大兄王(『上宮聖徳法王帝説』では厩戸皇子(聖徳太子)の子であるとされるが、『日本書紀』にはそのような記述はない。厩戸皇子自身が蘇我氏の一族であり、山背大兄王の母は入鹿の叔母(刀自古郎女)であり入鹿とは従兄弟に当たる)の存在が邪魔になり、643年11月、入鹿は斑鳩宮を襲い山背大兄王とその一族を滅ぼした。 645年6月、三韓から進貢の使者が来日し、宮中で儀式が行なわれた。古人大兄皇子は皇極天皇の側に侍していたが、その儀式の最中、異母弟・中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌子(藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺する事件が起きた。古人大兄皇子は私宮(大市宮)へ逃げ帰り「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と言った。入鹿の父・蘇我蝦夷も自邸を焼いて自殺して蘇我本家は滅び、古人大兄皇子は後ろ盾を失った(乙巳の変)。 事件後、皇極天皇退位を受けて皇位に即く事を勧められたがそれを断り、出家して吉野へ隠退した。しかし、同年9月12日 吉備笠垂(きびのかさのしだる)から「古人大兄皇子が謀反を企てている」との密告を受け、中大兄皇子が攻め殺させた古人大兄を「討たせた」結果の「死」について、日本書紀の編者は「ある本」二書に語らせるのみで、直接的言及はなされていない。「ある本」一書に、11月30日の事として中大兄が討伐を命じ、古人大兄を殺させたむね記されている。 - 「巻第二十五 孝徳天皇 古人大兄の死」 『日本書紀(下)全現代語訳』 宇治谷 孟訳(講談社学術文庫)1988年、164頁。実際に謀反を企てていたかどうかは不明である日本書紀の該当部分文章構成は以下の通り。複数の共謀者の具体的名前を挙げ古人大兄が謀反を企てた(9月3日)むね断定的に記述された後、共謀者の吉備笠垂の密告(9月12日)の記述がなされるが、その検証の記述が一切無いまま、中大兄による討伐命令に至っている。ここで「検証の記述云々」とは、例えば、蘇我倉山田石川麻呂が蘇我日向に皇太子中大兄への謀反を讒言されたとき、孝徳天皇側から謀反の企てについて石川麻呂本人に問い合わせが何度もなされた記述が在るが、古人大兄の場合には謀反の企ての有無について問い合わせ等検証の記述が無いことを言う。 - 「巻第二十五 孝徳天皇 古人大兄の死 および 蘇我倉山田麻呂冤罪」 『日本書紀(下)全現代語訳』 宇治谷 孟訳(講談社学術文庫)1988年、164、184頁。.
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古代日本の戸籍制度
古代日本の戸籍制度(こだいにほんのこせきせいど)は、飛鳥時代に撰定・編纂された律令による人民把握のための戸籍。主なものに庚午年籍(こうごのねんじゃく)や庚寅年籍(こういんのねんじゃく)があげられる。 正倉院文書に古代の戸籍の一部が残されている。また近年、漆紙文書のかたちで秋田城跡や多賀城跡、下野国府跡など地方の城柵遺跡や官衙から、戸籍木簡としては周防国府などで出土しており、赤外線による解読作業がおこなわれている。 このうち庚午年籍は、670年(天智9年/庚午の年)につくられた戸籍。古代においては、一般の戸籍は6年ごとに作成され、30年を経ると廃棄される規定であったが、庚午年籍は永久保存とされた。しかも、この年が『近江令』施行の年でもあったから、これにならってつくられたものである.
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台湾
台湾(タイワン、臺灣 / 台灣、台: Tâi-oân)は、東アジアの国である。 1945年に当時中国大陸を本拠地とした中華民国の統治下に入り、1949年に中華民国政府が台湾に移転した。1955年以降、中華民国は台湾本島以外にも澎湖諸島、金門島、馬祖島、東沙諸島、南沙諸島の太平島を実効支配しているが、全体の面積に占める台湾(本島)の割合は99%以上になる。そのため、中華民国の通称として「台湾」と表記される(詳細は定義参照)。近隣諸国としては、東及び北東に日本、南にフィリピンがある。事実上の首都は台北市である。台北県が直轄市となったことにより成立した新北市は、台北市及びその外港である基隆市を囲む大都市圏を包含し、2018年時点では同島で人口最多の都市である。.
吐谷渾
吐谷渾(とよくこん、拼音:tǔyùhún)は、中国の西晋時代に遼西の鮮卑慕容部から分かれた部族。4世紀から7世紀まで(329年 - 663年)、青海一帯を支配して栄えたが、チベット民族の吐蕃に滅ぼされた。.
吐蕃
吐蕃(とばん、拼音:TŭbōまたはTŭfān、チベット語:、ワイリー転写:Bod chen po)は、7世紀初めから9世紀中ごろにかけてチベットにあった統一王国。.
壬申の乱
壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日)に起こった古代日本最大の内乱である。 天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。 名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる。.
大安寺
大安寺(だいあんじ)は、奈良市中心部にある高野山真言宗の仏教寺院。本尊は十一面観音。開基(創立者)は聖徳太子と伝える。南都七大寺の1つで、奈良時代(平城京)から平安時代前半は東大寺、興福寺と並ぶ大寺であった。.
大化
大化(たいか)は、日本で最初の元号。西暦でいう645年から650年までの期間を指す。.
大化の改新
大化の改新(たいかのかいしん)は、飛鳥時代の孝徳天皇2年(大化2年)春正月甲子朔(西暦646年)に発布された改新の詔に基づく政治的改革。改新の詔は、ヤマト政権の土地・人民支配の体制(氏姓制度)を廃止し、天皇を中心とする律令国家成立を目指す内容となっている。 この政治改革は、皇極天皇の皇居における蘇我入鹿暗殺により、当時天皇を次々と擁立したり廃したりするほど権勢を誇っていた蘇我氏を滅亡させた乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)から始まった。当初、飛鳥から難波への形式上の遷都が行われたが、改革そのものは、天皇ではなく、皇極太上天皇とその親友とされる中臣鎌足(内臣)の主導のもと、年若い両皇子(中大兄、大海人)の協力によって推進された。 この改革によって豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされている。また「大化」は日本最初の元号である。この改革により、「日本」という国号と「天皇」という称号の使用が始まったとされる。.
大ブルガリア (中世)
大ブルガリア(だいブルガリア)、または古い大ブルガリア(ブルガリア語:Стара Велика България / Stara Velika Balgariya、ギリシャ語:Παλαιά Μεγάλη Βουλγαρία)は、東ローマ帝国の歴史書に登場する用語で、7世紀のクブラト(Кубрат / Kubrat)によるヴォルガ川下流からドニエストル川までの範囲のカフカース山脈北部・ステップ地帯の支配を指し示す。オノグリア(Onoguria / Onoghuria)とも呼ばれる。.
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大唐西域記
『大唐西域記』(だいとう さいいきき)とは、唐僧玄奘が記した当時の見聞録・地誌である。646年(貞観20年)の成立。全12巻。玄奘が詔を奉じて撰述し、一緒に経典翻訳事業に携わっていた長安・会昌寺の僧、弁機が編集している。 求法の旅を終えて帰国した玄奘は持ち帰った経巻の訳業を皇帝の太宗に願い出た。許可に当たって西域の詳細な報告書を提出するよう命じられ、編纂された報告書が本書である。 中央アジアからインドにわたる、玄奘が歴訪した110か国および伝聞した28か国(更に16か国を付記する)について、具体的に城郭・地区・国の状況などについて記している。.
大王 (ヤマト王権)
大王(おおきみ/だいおう)とは、古墳時代のヤマト王権(倭国)の首長を指す歴史用語。「おおきみ」との和訓については、主人や貴人を表す“キミ”に偉大さや特別に尊いことを表す接頭語“オオ/オホ”を当てて“オオキミ/オホキミ”とするものであるが、他方で、これは“キミ”の尊称としての和語に過ぎず、「大王」(ダイオウ)は中国からの王号賜与を根源とする漢語の称号とするものもある。「大王」と記されている用例は多く、ヤマト王権の天皇や皇族の敬称と解されている。5世紀後半までに大王、治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)の称号が成立し、この称号が飛鳥浄御原令の編纂が始まった680年代まで日本国内で用いられた。なお、初期においては統一王権の王とするかどうかで学説が分かれる。.
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大祚栄
大 祚栄(だい そえい)は渤海の初代王。唐から与えられた称号は渤海郡王であり、忽汗州都督府都督の官職を受けた。ツングース系民族の靺鞨であると日本の学界では広く受け入れられている。 大祚栄や渤海国の成り立ちに関して『旧唐書』は「渤海靺鞨の大祚栄、本は高麗の別種なり」(渤海靺鞨大祚榮者 本高麗別種也)と記し、『新唐書』はより具体的に「本来高句麗に付いていた粟末靺鞨の者で、姓は大氏である」(渤海,本粟末靺鞨附高麗者。姓大氏)とする。.
大秦景教流行中国碑
大秦景教流行中国碑拓本 大秦景教流行中国碑(だいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ)は、明末に長安の崇聖寺の境内で発掘された古碑。ネストリウス派(景教)の教義や中国への伝来などを刻す。唐代781年(建中2年)に伊斯が建立した。碑文は景浄。古代キリスト教関連の古碑ということで世界的に有名。現在西安碑林博物館に保管されている。.
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大織冠
大織冠(だいしょくかん、だいしきかん)は、647年から685年まで日本で用いられた冠位、またその標章たる冠をいう。冠位としては単に大織ともいう。冠位の最上位で、下には小織がある。史上藤原鎌足だけが授かった。.
大臣 (古代日本)
大臣(おおおみ)とは、古墳時代におけるヤマト王権に置かれた役職の1つ。王権に従う大夫を率いて大王(天皇)の補佐として執政を行った。姓(かばね)の一つである臣(おみ)の有力者が就任した。.
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大雁塔
大雁塔 大雁塔(だいがんとう、、)とは、652年に唐の高僧玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために、高宗に申し出て建立した塔。.
大津皇子
大津皇子(おおつのみこ、663年(天智天皇2年) - 686年10月25日(朱鳥元年10月3日))は、飛鳥時代の皇族。天武天皇の皇子。母は天智天皇皇女の大田皇女。同母姉に大来皇女。妃は天智天皇皇女の山辺皇女。.
大慈恩寺
大慈恩寺と大雁塔 大慈恩寺(だいじおんじ)は、中国陝西省の古都、西安市南東郊外約4kmにある仏教寺院であり、三蔵法師玄奘ゆかりの寺として知られている。 その故地は、唐朝の都、長安城においては、東南部、左街の晋昌坊に当たる場所であった。.
天皇
天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.
天皇陵
大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵) 天皇陵(てんのうりょう)は、天皇の墓。.
天武天皇
天皇系図38~50代 天武天皇(てんむてんのう、? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。.
天智天皇
天智天皇(てんじてんのう/てんぢてんのう、推古天皇34年(626年) - 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は、第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日(668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日))。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。.
太宗 (唐)
太宗(たいそう)は、唐朝の第2代皇帝。高祖李淵の次男で、李淵と共に唐朝の創建者とされる。隋末の混乱期に李淵と共に太原で挙兵し、長安を都と定めて唐を建国した。太宗は主に軍を率いて各地を転戦して群雄を平定し、626年にクーデターの玄武門の変にて皇太子の李建成を打倒して皇帝に即位し、群雄勢力を平定して天下を統一した。 広い人材登用で官制を整えるなど諸制度を整えて唐朝の基盤を確立し、貞観の治と呼ばれる太平の世を築いた。対外的には、東突厥を撃破して西北の遊牧民の首長から天可汗の称号を贈られた。騎兵戦術を使った武力において卓越し、文治にも力を入れるなど文武の徳を備え、中国史上有数の名君の一人と称えられる。.
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太政大臣
太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.
奉先寺
奉先寺(ほうせんじ)は、中国の洛陽郊外、龍門最大の規模をほこる寺院である。 本尊である大仏の仏座の北側に、唐の玄宗・開元10年(722年)に補刻された「河洛上都龍門之陽大盧舎那像龕記」碑の碑文の記述によれば、大仏龕は高宗の時の創建であるという。 大仏の肉髻から仏座までの高さが17.14m、向背まで含めると約20m。仏龕の東西の深さが38.7m、南北の広さが33.5mである。 碑記によれば、咸亨3年(672年)に、皇后の武氏が脂粉銭20,000貫を施助し、上元2年(675年)に完成したという。さらに、調露元年(679年)に、勅を奉じて大像龕の南に大奉先寺を置き、翌年の正月に、高宗が寺額を書した、と続いている。 その本尊の面貌は、武皇后、のちの則天武后のそれを写したという説がある。また、造営の責任者は、中国浄土教の祖の一人である善導であった。 Category:中国の寺 Category:唐朝 Category:洛陽市 Category:中華人民共和国の世界遺産 Category:仏教建築物の世界遺産 Category:洛陽の歴史 Category:7世紀の建築物 Category:河南省の建築物.
孝徳天皇
孝徳天皇(こうとくてんのう、推古天皇4年(596年) - 白雉5年10月10日(654年11月24日))は、日本の第36代天皇(在位:孝徳天皇元年6月14日(645年7月12日) - 白雉5年10月10日(654年11月24日))。諱は軽(かる)。和風諡号は天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)。その在位中には難波宮に宮廷があったことから、後世その在位時期をその政策(後世でいうところの大化の改新)などを含めて難波朝(なにわちょう)という別称で称されることがあった。.
孫思バク
孫 思邈(そん しばく、541年? - 682年?)は、中国唐代の医者、道士。生年は541年、581年とも。中国ないし世界史上有名な医学者、薬物学者、薬王とも称される。.
孔子
孔夫子の像 孔子(こうし、くじ、、공자〈〉、蔵: ;、紀元前552年9月28日‐紀元前479年3月9日)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。読みの「こうし」は漢音、「くじ」は呉音。 有力な諸侯国が領域国家の形成へと向かい、人口の流動化と実力主義が横行して旧来の都市国家の氏族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。 3000人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。 孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。 孔子の死後、孟子・荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢・後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。 20世紀、1910年代の新文化運動では、民主主義と科学を普及させる観点から、孔子及び儒教への批判が雑誌『新青年』などで展開され、1949年に成立した中華人民共和国では、1960年代後半から1970年代前半の文化大革命において、毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。近年、中国では、中国共産党が新儒教主義また儒教社会主義を提唱し(儒教参照)、また、「孔子」がブランド名として活用されている(孔子鳥、孔子学院を参照)。.
孔穎達
孔穎達(くえいたつ、 574年(建徳3年) - 648年(貞観22年))は、中国初唐の学者である。冀州衡水(河北省)の出身、字は仲達、孔子の32世の孫と称している。漢音では「こうえいたつ」であるが、日本では平安時代以来の慣行で呉音の「くえいたつ」「くようだつ」で読み習わしている。 隋の煬帝の大業初(605年)、科挙の明経科に及第する。後、大学助教となる。唐になって、国子博士となり、国子監祭酒となり、また皇太子の侍講などになる。 彼は、しばしば諫言を述べたので、太宗李世民に信任されるようになった。魏徴と共に隋史の修撰に参画したことにより、名を残すこととなった。また、最も著名な業績は、「五経正義」170巻の撰述である。太宗は、儒教の流派が多く存在し、経典の解釈がさまざまにされていたのを統一させる目的で、孔穎達らに五経の義疏の撰述を命じ、完成したのが本書である。 これによって、儒教の経典のテキストの解釈が統一された。また、以後は、明経科の科挙試を受験する者に対して、この書を国定の教科書のような位置づけにしたため、受験者には便利であった。ただ、こういった気風によって学問の自由な発展は阻害される結果となった。.
実叉難陀
実叉難陀(じっしゃなんだ、Śikṣānanda、シクシャーナンダ 652年 - 710年)は、西域出身で唐代の中国で活動した訳経僧。パミール高原の北、ホータンの出身。.
宝蔵王
宝蔵王(ほうぞうおう、生年不詳 - 682年)は、高句麗の第28代・最後の王(在位:642年 - 668年)。姓は高、諱は臧、または寶臧。先代の栄留王の弟の大陽王の子で、642年に栄留王を弑逆した淵蓋蘇文によって王位に即けられた。彼を最後に高句麗は滅亡したため諡されず、諱のまま宝蔵王と呼ばれる。子には、男福・徳男・任武・徳武・連などの名が文献にみられる。.
宮宰
宮宰(きゅうさい、 マーヨル・ドムス:大いなる家人)は、ヨーロッパ初期中世の職名ないし官職名。 ローマ帝国末期から民族大移動に至る時期のゲルマン諸国家および諸侯の宮廷職の首位を占める職で、もともとは、王家や諸侯の家政機関の管理者であった。この官職の性格としては、宮中伯に比せられることもある。 特に著名なのは、フランク王国メロヴィング朝の宮宰()で、王家の家政上の私事と公務の区別があいまいのまま、王領地の管理や王の側近の従士団の長を兼ねるようになり、メロヴィング朝後期の内乱時代において、王家の権限が弱まるとともに、王国の北東部を占めるアウストラシア、北西部を占めるネウストリア(ノイストリア)、南西部を占めるブルグント三分国の宮宰が国政面で王の代理として行政、裁判、戦争に参加する権能を持つようになった。 アウストラシアの宮宰カロリング家のピピン2世(中ピピン)が、ネウストリアの宮宰エブロインを687年のテリトリーの戦いで破るとカロリング家がフランク王国全体の宮宰となり、「フランク族の総帥にして首長」() と称するまでに至った。 中ピピンの子がカール・マルテルで、732年にトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラム軍を破るとその名声は確固たるものとなり、751年にピピン3世が貴族たちに推挙されて王位につきカロリング朝を開いて、宮宰の職はいったん消滅した。 宮宰の職が復活するのは、ルートヴィヒ(ルイ)1世(敬虔王)のときで、帝室の財務長官職として置かれた。カロリング朝が断絶するに及んでドイツではという幼年の君主を単に後見する職になり、フランスでは、(家令)という類似する職となったが、かつてのメロヴィング朝後期のような力をもつことはなかった。.
宇治橋 (宇治市)
宇治橋 宇治橋と紫式部像 宇治橋断碑碑文 宇治橋(うじばし)は、646年(大化2年)に初めて架けられたという伝承のある、京都府宇治市の宇治川に架かる橋である。.
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宇治橋断碑
宇治橋断碑(うじばしだんぴ)は、京都府宇治市の橋寺放生院にある宇治橋の由来を記した石碑の断片で、大化2年(646年)に僧道登が架橋したと記す。日本現存最古の石碑のひとつと考えられる。重要文化財。.
宇文化及
宇文 化及(うぶん かきゅう)は隋の政治家、軍人。隋末の混乱期に独立して皇帝を僭称し許を建国した。宇文智及、宇文恵及の兄、宇文士及の異母兄。.
安西大都護府
安西大都護府(あんざいだいとごふ、拼音:Ānxīdàdōuhùfŭ)は、中国の唐代に西州(現在のトルファン市)および亀茲(現在のクチャ県)に置かれた行政区画。管轄範囲はタリム盆地を中心に東西トルキスタンにおよぶ。北には北庭大都護府がある。.
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寒山
寒山拾得図」(部分)個人蔵 寒山(かんざん、生没年不詳)は、中国・唐代に浙江省にある天台山の国清寺にいたとされる伝説的な風狂僧。『寒山子詩』の作者とされる。後世、拾得と共に有髪の姿で禅画の画題とされる。.
小墾田宮
小墾田宮見取図 小墾田宮(おはりだのみや)は飛鳥時代の推古朝および奈良時代の淳仁朝・称徳朝の宮殿。「小治田宮」とも書く。近年の発掘調査から、奈良県明日香村の雷丘周辺にあった可能性が高くなっている。.
小野妹子
小野 妹子(おの の いもこ、6世紀 - 7世紀、生没年不詳)は、飛鳥時代の官人。姓は臣。子に毛人・広人宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会,1986年がいた。冠位は大徳冠。 『日本書紀』によると大唐に派遣され、大禮(冠位十二階の位)蘇因高(そいもこ)と呼ばれた。日本の通説では『隋書』が記録する「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた使者は小野妹子とされる。.
少林寺 (映画)
『少林寺』(しょうりんじ )は、1982年制作の中国・香港映画。(ヂャン・シンイェン)監督、主演は李連杰(リー・リンチェイ、現:ジェット・リー)。日本やシンガポールなどでも同年に公開された。.
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屯倉
白猪屯倉跡碑(岡山県真庭市五反) 屯倉(みやけ)とは、ヤマト王権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。.
山田寺
山田寺(やまだでら)は、奈良県桜井市山田にあった古代寺院。法号を浄土寺または華厳寺と称する。蘇我倉山田石川麻呂の発願により7世紀半ばに建て始められ、石川麻呂の自害(649年)の後に完成した。中世以降は衰微して、明治時代初期の廃仏毀釈の際に廃寺となった。その後、明治25年(1892年)に小寺院として再興されている。 1921年(大正10年)3月3日史跡に指定され、1952年(昭和27年)3月29日「山田寺跡」として国の特別史跡に指定されている。1982年(昭和57年)12月4日に追加指定されている。 山田寺跡 史跡碑と塔跡.
山田高塚古墳
山田高塚古墳(やまだたかつかこふん、高松古墳)は、大阪府南河内郡太子町山田にある古墳。形状は方墳(または長方形墳)。磯長谷古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)」および「竹田皇子墓(たけだのみこのはか)」として第33代推古天皇・竹田皇子(敏達天皇皇子)の合葬陵墓に治定されている。.
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山背大兄王
山背大兄王(やましろのおおえのおう、? - 皇極天皇2年11月11日(643年12月30日))は、『日本書紀』によれば7世紀前半の皇族。『上宮聖徳法王帝説』より厩戸皇子(聖徳太子)の子。母は蘇我馬子の娘・刀自古郎女(とじこ の いらつめ)で大臣・蘇我入鹿とは従兄弟に当たる。.
岩のドーム
ルサレムの「岩のドーム」 岩のドーム(いわのドーム、قبة الصخرة Qubba al-Ṣakhra クッバ・アッサフラ)は、東エルサレムにある、カアバ、預言者のモスクに次ぐイスラム教の第3の聖地であり、「神殿の丘」と呼ばれる聖域となっている。現在はイスラム教徒の管理下にあるが、南西の壁の外側の一部だけが「嘆きの壁」としてユダヤ教徒の管理下にある。7世紀末に完成した集中式平面をもつ神殿である。 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとって重要な関わりを持つ聖なる岩(Foundation Stone)を祀っている。それゆえ、このドームはその神聖な岩を覆った記念堂であり、礼拝所としてのモスクではない。 建設に際して刻まれた総延長240mに及ぶ碑文では、イエスの神性を否定はするものの、預言者であることを認めている。.
上宮聖徳法王帝説
『上宮聖徳法王帝説』(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)は、厩戸皇子(聖徳太子)の伝記の1つ。現存する聖徳太子伝記としては最古のものである。作者、成立年代ともに不詳。全一巻で、家永三郎の分類によれば五部構成となっている。仏教的事績を主な記録とするが、後述するように一部に日本書紀とは異なる記録が見える。.
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帝国
1900年の帝国主義諸国および植民地 鷲の紋章は多くの西洋の帝国でシンボルとして使われている 帝国は、以下の2つの意味で使用されている。.
中宮寺
表御殿 中宮寺(ちゅうぐうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺に隣接する、聖徳太子ゆかりの寺院である。宗派は聖徳宗に属す。山号を法興山と称し、本尊は如意輪観音、開基(創立者)は聖徳太子または間人皇后とされている。.
七王国
七王国(しちおうこく、、ヘプターキー)とは、中世初期にグレートブリテン島に侵入したアングロ・サクソン人が同島南部から中部にかけての地域に建国した7つの王国のこと。この時代をまた「七王国時代」とも呼ぶ。「ヘプターキー」という言葉は古代ギリシア語の数詞で「7」を指す「ヘプタ()」と「国」の「アーキー()」を足した造語である。最初にこの語を記したのは12世紀の史家ヘンリー・オブ・ハンティングドンであり、16世紀には用語として定着した。 この王国たちが覇を競った時代は、ホノリウス帝がブリタンニアを放棄してから(409年、End of Roman rule in Britain)、ウェセックスのエグバート王がカレドニアを除くブリテン島を統一するまで(825年、)、と考えられている。実際にアングロ・サクソン人が建国した王国は7つのみではなく、多数の群小のアングロ・サクソン人および先住のブリトン人の小国家群とともに林立したが、次第にその中で有力な国家が周囲の小国を併呑して覇権を広げていった。7つという王国の数は、これらの覇権を広げた有力な国を、後世7つの大国に代表させたものである。この王国群の中から後のイングランドが形成され、その領土は「アングル人の土地」という意味で「イングランド」と呼ばれることとなる。.
世紀
世紀(せいき)とは、西暦を100年単位で区切った範囲に対しての呼称である。百年紀。“century”(英 /ˈsenʧɚi/ センチュリー)の訳語(語源はラテン語で「百」を意味する"centum")である。「世紀」を「C」という略記号で表すことがある(例えば、“20C ”は20世紀を表す)。 世紀は紀元後については、西暦元年(1年)から100年区切りごとに一単位として数える序数で表現される。また紀元前の世紀は、紀元前1年から遡って100年区切りごとに数える。このため、紀元0年が存在しないことと同様に、「0世紀」というものは存在しない。例えば、21世紀は英語で“The 21st (twenty-first) century ”と表現される「21番目の世紀」「第21世紀」という意味である。 また、天文学では時間的な「量」の単位としてユリウス世紀(.
万葉集
元暦校本万葉集 『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3年)以後とみられる。 日本文学における第一級の史料であることは勿論だが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料である。.
年表
年表(ねんぴょう)とは、歴史上の出来事を起こった年とともに年代順に並べたものである。タイムラインとも言う。 横方向に構成される場合(通常は左から右へと年代が下る)と縦方向に構成される場合がある。通常は歴史年表のことをいうが、科学史年表や音楽史年表のように特定のテーマのみの出来事を扱った年表もある。テーマ別の年表については「年表一覧」を参照のこと。.
乙巳の変
具慶の合作によって描かれたもの。左上は皇極天皇。 談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』(奈良県桜井市) 乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)は、中大兄皇子、中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。俗に蘇我入鹿が殺された事件のことを指して「大化の改新」と言うこともあるが、厳密にはクーデターである「乙巳の変」の後に行われた一連の政治改革が「大化の改新」である。.
京杭大運河
京杭大運河(けいこうだいうんが)は、中国の北京から杭州までを結ぶ、総延長2500キロメートルに及ぶ大運河である。途中で、黄河と揚子江を横断している。戦国時代より部分的には開削されてきたが、隋の文帝と煬帝がこれを整備した。完成は610年。運河建設は人民に負担を強いて隋末の反乱の原因となったが、運河によって経済の中心地江南と政治の中心地華北、さらに軍事上の要地涿郡(後の北京)が結合して、中国統一の基盤が整備された。この運河は、その後の歴代王朝でもおおいに活用され、現在も中国の大動脈として利用されている。2014年の第38回世界遺産委員会で世界遺産リストに登録された。.
広州市
広州市(こうしゅうし、、、、)は、中華人民共和国広東省に位置する副省級市で、広東省人民政府が置かれる省都。 広東省のみならず、華南地域全体の経済、文化、教育、交通などの中心都市の一つであり、国務院により、国家中心都市の一つに指定されている。2010年の常住人口は1,270万人、市内総生産は1兆0604億元(約13兆円)であり、昔から羊城と愛称され、花城、穂城の名もあり、穂()と略称される。地下鉄、高速道路網が発達している。 一般に北京市、上海市と共に、中国本土の三大都市の一つに数えられる。また、深圳市を含めた4都市は「一線都市」に分類されており、「北上広深」として四大都市に数えられることもある。アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界56位の都市と評価された。中国本土では北京市、上海市に次ぐ3位である。.
五経正義
『五経正義』(ごきょうせいぎ)は、中国・唐の太宗の勅を奉じて、孔穎達等が太宗の貞観年間より高宗の永徽年間にかけて撰した『周易』『尚書』『毛詩』『礼記』『春秋左氏伝』の五経の疏である。180巻。宋代には経注と合刻されて『十三経注疏』に収められた。 儒教の経典を研究する経学においては、漢魏が、本文としての「経」に対する「注」の時代であり、南北朝時代が、その「注」に対する「義疏」の学問が盛行した時代である。南朝と北朝とでは、それぞれ奉ずる注が異なっており、諸説紛紛たる様であった。 太宗は、儒教の盛大なる様を誇示し、なおかつ南北の諸説を統一しようという意図を持って、孔穎達に代表される多くの学者を動員して、『五経義訓』(後の『正義』)を撰せしめた。その意図するところは、南北諸説の統一にあったのだが、結果的には南人の奉ずる注・疏を多く採用することとなった。 また、本書が出現したために、科挙を受験する諸生は専らこれを暗記するのみとなってしまい、他の注や義疏が忘れ去られる結果となり、かえって唐代の経学は本書によって停滞してしまったと言える。 対象とした注と底本は以下の通りである。 category:経書 Category:注釈書 Category:7世紀の書籍.
仮面
仮面をかぶったカーニバルの参加者 仮面(かめん)もしくはマスク()とは、人体のうち顔の一部または全体に被るもの、または覆うものを指す。頭部まで覆うものを含めることもある。 日本語における「仮面」とは、顔を隠し正体を分からなくするために用いられる(覆面)、あるいは儀式や演劇や祭礼などの時に役になりきるために使われるなど、ペルソナに関わる用具としての意味合いに特化しており、本項でもそれらについて記述する。 一方、鼻や口などを中心に衛生・防護目的で覆う実務的なものについては日本語の「仮面」の範疇には含まれず、専ら外来語で「マスク」と呼ばれる。.
任那
任那(みまな/にんな、임나? - 562年)は、古代に存在した朝鮮半島南部の地域。.
弘文天皇
弘文天皇(こうぶんてんのう、大化4年(648年) - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))は、第39代天皇(在位:天智天皇10年12月5日(672年1月9日) - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))。諱は大友(おおとも)または伊賀(いが)。明治3年(1870年)に諡号を贈られ、天皇として認められたが、即位したかどうか定かではなく、大友皇子と表記されることも多い。.
役小角
役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝 – 大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代の呪術者である。姓は君。 修験道の開祖とされている。 実在の人物だが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。.
律令制
律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである山内昌之・古田博司。日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない菊池秀明p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある廣瀬薫雄『秦漢律令研究』2010年、汲古書院、第一部第一章「律令史の時代區分について」。.
修道士
修道士(しゅうどうし、)というキリスト教用語には二つの語義・概念がある。ただし二つの概念は排他的概念ではなく包含関係にある(「1」の語義が「2」の語義より広義)。.
修験道
野の深山にて修行中の修験者 修験道(しゅげんどう)は、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の宗教である。修験宗ともいう。修験道の実践者を修験者または山伏という。.
北インド
北インド(英語:North India または Northern India、ヒンディー語:उत्तर भारत ラテン文字転写:Uttar Bhārat、شمالی ھندوستان ラテン文字転写:Shumālī Hindustān)は、インドの北半部を大まかに示す地理的概念である。ヒンドゥスターン(Hindustan)とも呼ばれる。文化圏として広く見る場合には現在のインドだけでなく、パキスタンやバングラデシュ、ネパールにもまたがる概念である(地図では黄緑色の部分)。いっぽう同じインド領内でも南インドのほか、北東インドもあまり含まれない。.
ナルマダー川
デカン、南インドの中世都市及び河川 ナルマダー川 (નર્મદા, नर्मदा, Narmada River) は、北回帰線のやや南側を流れるインドの川。ヴェーダにも歌われる。 現マディヤ・プラデーシュ州の都市ジャバルプル付近からおおむね東西方向に流れ、グジャラート州を横切って、カーティヤーワール半島の南東、アラビア海のカンバート湾に注ぐ。 古来、マールワーと呼ばれた地域の南部を占める川であり、西アジアとの交易をめぐって、ヴァルダナ朝とバーダーミのチャールキヤ朝、プラティーハーラ朝とラーシュトラクータ朝の抗争に見られるようにデカン高原地方の王朝と北インドの王朝の国境地帯となり係争地になった。 Category:インドの河川.
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ミスル
ミスル(مصر Miṣr)とは、アラブ人ムスリムが各地へ征服活動を行った際に建設された軍営都市。イラクのバスラやクーファ、エジプトのカイロなどが挙げられる。 なお、エジプトのアラビア語名もミスル(مصر)、方言でマスル(Masr)と呼ばれるが、この名称は本稿の「ミスル」が由来ではない。 イスラム初期、征服地を支配する際の拠点として、またさらなる遠征への拠点基地としてミスルが建てられた。当初はアラブ人のみが居住する都市であったが、徐々にマワーリー(非アラブ人改宗者)も住み着き、軍営都市から経済都市へとその性格を変えていった。 既にあった都市を征服し、特定地区から非アラブ人住民を追い出して駐屯地にする場合もあり、これもミスルと称される。この例としてはダマスクスを挙げることができる。.
マヤ文明
マヤ文明(マヤぶんめい)とは、メキシコ南東部、グアテマラ、ベリーズなどいわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明である。メソアメリカ文明に数えられる。また、高度に発達したマヤ文字をもつ文明でもあった。.
マルティナ (東ローマ皇后)
マルティナ(Martina, 生年不明 - 641年以降)は東ローマ帝国ヘラクレイオス王朝の初代皇帝ヘラクレイオス(在位:610年 - 641年)の2度目の后妃。ヘラクレイオスの妹マリアが、マルティヌスという人物ともうけた娘であり、したがってヘラクレイオス帝は姪と再婚したことになる。.
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マルティヌス1世 (ローマ教皇)
マルティヌス1世(Martinus I、? - 655年9月16日)は第74代ローマ教皇(在位649年7月5日 - 653年)。カトリック教会・正教会で聖人で、カトリック教会での記念日は4月13日。日本のカトリック教会では聖マルティノ一世、聖マルチノ1世教皇殉教者などとも呼ばれる。 東ローマ帝国皇帝コンスタンス2世が両性単意論を支持する勅令(テュポス)を発布した際、ラテラン教会会議でこれを異端と決議したため、653年に東ローマ帝国のラヴェンナ総督府によって捕縛された上コンスタンティノープルに連行された。裁判の結果、クリミア半島のケルソンに配流され、その地で没する。 彼の逮捕は、7世紀の半ばになってもコンスタンティノープルの皇帝の権威・権力が西方にも及んでいたことを示す一つの例である。.
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マレー半島
マレー半島(マレーはんとう、Malay Peninsula、マライ半島とも)は、アジア大陸の東南端に位置する半島である。南北に細長く、アジア大陸の最南端箇所を有する。マレー半島の南西沖に、マラッカ海峡で隔て、スマトラ島が位置する。半島の東方にはボルネオ島(カリマンタン島)がある。半島の最も狭い部分はクラ地峡である。 もとはスンダ列島とともに大スンダ大陸を形成しており、その頃からの生物では、島嶼部からマレー半島にかけて生息しているような例が多い。.
ノーサンブリア
ノーサンブリア(英:Northumbria、古英語:Norþanhymbra rīce)は、アングロサクソン人が築いた七王国のうち最北、現在のノーサンバランドにあったアングル人の王国である。 王国の範囲は現在の行政区で言えば、ノース・イースト・イングランド、ヨークシャー・アンド・ザ・ハンバー、カンブリアを含むノース・ウェスト・イングランド、そしてスコティッシュ・ボーダーズまでの範囲に渡る。またハンバー川より北の地方がこう呼ばれ、ハンバー以南の地方はサウサンブリアと呼ばれた。 ノーサンブリアには、という2つの王国が並存していた。これらはときに対立し、ときに統一されてノーサンブリア王国 (6~10世紀) という1つの国になり、そしてまた分裂するということを繰り返した。2つの王家の伝説的な祖先が、オーディンの双生の息子、ベルデーグとウェグデーグとされているところからも、これらがもとは同じ部族であったことが推察される。.
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マディーナ
アル=マディーナ・アル=ムナウワラ(المدينة المنوّرة)または単にマディーナ(المدينة)は、アラビア半島の都市で、マッカ(メッカ)に次ぐイスラームの第2の聖地である。メディナともいう。.
マドリード
マドリード(Madrid)は、スペインの首都である。マドリード州の州都であり、マドリード州の唯一の県であるマドリード県の県都でもある。 人口は約325万人。2011年の都市圏人口は541万人であり、世界第57位、欧州では第5位である。 紋章はイチゴノキとクマ。 スペイン中央部のメセタ地帯のマンサナーレス川沿いに広がる。近郊にはモストレス、アルカラ・デ・エナーレス、ヘタフェなどの都市があり、マドリード首都圏を形成している。 ヨーロッパ屈指の世界都市であり、アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界15位の都市と評価された。.
マニ教
青木(2010)pp.39-40。 マニ教(マニきょう、摩尼教、Manichaeism)は、サーサーン朝ペルシャのマニ(216年 - 276年または277年)を開祖とする、二元論的な宗教である上岡(1988)pp.140-141。 ユダヤ教・ゾロアスター教・キリスト教・グノーシス主義グノーシス主義は、紀元前後のオリエント世界においてヘレニズム、とくにプラトンやピタゴラスの影響を強く受けた思弁法で、「隠された知識」を求めて一種の覚醒にいたることを目的としており、ユダヤ教と結びついたとき、その神学の形成・発展に寄与する一方、多くの分派をもたらした。キリスト教もまた、元来はそうしたユダヤ教の一派であった。山本(1998)pp.22-23などの流れを汲んでおり、経典宗教の特徴をもつ。かつては北アフリカ・イベリア半島から中国にかけてユーラシア大陸で広く信仰された世界宗教であった。マニ教は、過去に興隆したものの現在ではほとんど信者のいない、消滅した宗教と見なされてきたが、今日でも、中華人民共和国の福建省泉州市においてマニ教寺院の現存が確かめられている。.
マウリキウス
マウリキウス(Flavius Mauricius Tiberius,Mauricius, 539年 - 602年11月27日)は、東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第5代皇帝(在位:582年 - 602年)。.
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マグリブ
マグリブを表す地域 マグリブ(Maghreb、مغرب)は、アラビア語で「日が没すること、没するところ」を原義とする語。マグレブとも言う。「西方」の意味を持ち、地域名としても用いられる。また、ムスリム(イスラム教徒)の義務である一日五回の礼拝(サラート)のうちの一つである日没時の礼拝を指す言葉でもある。ここでは、地域名としてのマグリブについて記す。.
マスジド・ハラーム
マスジド・ハラーム(المسجد الحرام Al-Masjid al-Ḥarām, Haram/Haram Sharif とも)は、サウジアラビアのメッカにあるイスラム教の礼拝堂・モスク。日本語では「聖モスク」などとも呼ばれる。 マスジド・ハラームは、ムスリムにとって最高の聖地であるカアバの周りを保護し、カアバに礼拝するためのモスクである。ゆえに地球上でこのモスクだけキブラ(カアバの方向)をあらわす壁のくぼみ(ミフラーブ)がない。(詳しい歴史・信仰はカアバを参照).
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チュニジア
チュニジア共和国(チュニジアきょうわこく、الجمهورية التونسية、ベルベル語: ⵜⴰⴳⴷⵓⴷⴰ ⵏ ⵜⵓⵏⴻⵙ、République tunisienne)、通称チュニジアは、北アフリカのマグリブに位置する共和制をとっている国家。西にアルジェリア、南東にリビアと国境を接し、北と東は地中海に面する。地中海対岸の北東にはイタリアが存在する。首都はチュニス。 アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟と地中海連合とアラブ・マグレブ連合に加盟している。最も早く「アフリカ」と呼ばれ、アフリカ大陸の名前の由来になった地域である。.
チョ遂良
雁塔聖教序』(部分、拓本) 褚 遂良(ちょ すいりょう、596年 - 658年)は、唐代の政治家、書家。初唐の三大家の一人。字は登善。河南県公から河南郡公に封ぜられたため褚河南と呼ばれることもある。太宗に仕えて諫言をよくし、後の高宗の教育にもあたった。しかし武則天を皇后に立てることに反対したために左遷された。.
チベット
チベットの旗(雪山獅子旗) チベット(英語:Tibet,,,, )は、東経77-105度、北緯27-40度に至る地域を占め、南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、東は邛崍山脈に囲まれた地域、およびこの地域に成立した国家や政権、民族、言語等に対して使用される呼称。.
ネパール
ネパール連邦民主共和国(ネパールれんぽうみんしゅきょうわこく)、通称ネパールは、南アジアの連邦共和制国家。 東、西、南の三方をインドに、北方を中国チベット自治区に接する西北から東南方向に細長い内陸国である。国土は世界最高地点エベレスト(サガルマータ)を含むヒマラヤ山脈および中央部丘陵地帯と、南部のタライ平原から成る。ヒマラヤ登山の玄関口としての役割を果たしている。面積は約14.7万km。多民族・多言語国家であり、民族とカーストが複雑に関係し合っている。また、宗教もヒンドゥー教(元国教)、仏教、アニミズム等とその習合が混在する。 農業を主たる産業とし、ヒマラヤ観光などの観光業も盛んである。後発開発途上国であると分類されている。世界で唯一矩形(長方形)でない国旗を持つ国である。.
ネウストリア
ネウストリアとアウストラシアの地図 ネウストリア (Neustria)(ノイストリアとも)またはネウストラシア (Neustrasia)は、511年に始まったフランク王国において新たな(西の)土地を意味する地域(neuは新しいを意味する)。アキテーヌからイギリス海峡までを指し、現在のフランス北部のおよそ全体、都市はパリとソワソンを含む。従ってネウストリアは、フランク人王国の西部を形成した。6世紀から8世紀にはメロヴィング朝支配下にあった。この区別された一帯は、511年のクロヴィス1世の死後に彼の息子たちの間で領土分割が行われたことで生まれた。後に、セーヌ川とロワール川の間の地域がレグヌム・ネウストリアエ(regnum Neustriae)として知られる地域となった。これはカロリング朝、西フランク王国の分王国として継続した。カロリング朝の王たちは、ブルトン人とヴァイキングに対する辺境公(Duchy)である、ネウストリア辺境侯領も創設した。この侯領は、カペー朝時代の10世紀末まで続いた。 ネウストリアはまた、ロンゴバルド族統治下において、北西イタリアを指す用語としても用いられた。ネウストリアと対照となる北東部はアウストラシアと呼ばれ、この語は同様にフランク王国東部を指す用語でもあった。.
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ネストリウス派
ネストリウス派とは、古代キリスト教の教派の1つ。コンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれた。431年のエフェソス公会議において異端認定され、排斥された。これにより、ネストリウス派はペルシャ帝国へ移動し、7世紀ごろには中央アジア・モンゴル・中国へと伝わった。唐代の中国においては景教と呼ばれる。のちアッシリア東方教会が継承した。.
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ハリプンチャイ王国
ハリプンチャイ王国、もしくは、ハリブンジャヤ王国とも(หริภุญชัย、Haribhuñjaya)は現在のタイ王国・ランプーン県にあったモン族の王国。.
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ハルシャ・ヴァルダナ
ハルシャ・ヴァルダナ(Harsha Vardhana, 590年 - 647年)は、古代北インド最後の統一王朝であるヴァルダナ朝の大王(在位:606年 - 647年)。シーラーディトヤ(Siilāditya、漢語文献では戒日王、尸羅逸多)と号した。グプタ朝滅亡後の混乱のうちにあった北インドを統一した文武両面に秀でた名君のひとりシュルバーグ(1973)。.
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ハワーリジュ派
ハワーリジュ派(الخوارج )は、イスラーム教の初期に多数派(のちのスンナ派とシーア派)から政治的理由で分離することで成立した派。ハワーリジュは「出ていった者・離反した者」を意味し、単数形はハーリジー である。広義にはウンマが合意したイマームに対して謀反を企てる者、狭義にはアリー軍とムアーウィヤ軍とで交わされた和議に反対し、アリー陣営から離反した者達をいう。 スンナ派においてスンナ派以外の宗派は異端とされるため、しばしば迫害を受けた。また、ハワーリジュ派は多くの宗派に分裂しており、主要な分派だけで6つあるとされるが、その大部分はウマイヤ朝の圧力を受け消滅し、現存するものはその分派の1つで穏健派のイバード派のみである。 現代においては、自派以外のムスリムを不信仰者として武力行使する集団や、反体制派に対してのレッテルとしても使われ、しばしば弾圧される。例としてワッハーブ派が興った際に、ハナフィー学派のイブン・アービディーンがそれらを「現代のハワーリジュ派」として糾弾した。.
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ハンダクの戦い
ハンダクの戦い(アラビア語: غزوة الخندق Ġazwat al-Ḫandaq、627年)はイスラム創成期に置ける重要な戦いの一つ。ウフドの戦いで勝利を収めて勢いに乗るクライシュ族率いるメッカ連合軍と、ムハンマドを受け入れたメディナの間の戦い。この戦いでの勝利により、イスラム軍とムハンマドはその勢力を確固たるものとした。塹壕の戦いともいう。.
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ハーリド・イブン・アル=ワリード
ハーリド・イブン・アル=ワリード ハーリド・イブン・アル=ワリード(592年 - 642年、خالد بن الوليد、Khalid ibn al-WalidまたはWaleed)は、イスラーム初期の正統カリフ時代の武将。アッラーの剣という異名で知られる。(632年 - 633年)とシリア征服戦の指揮官。初期のイスラーム拡大時の戦争において多大な功績を果たした。.
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バラフ・チャン・カウィール
バラフ・チャン・カウィール(B'alaj Chan K'awiil、625年10月15日 - 没年不明)はマヤ文明のドス・ピラスの最初の統治者。Ruler 1、Flint Sky God Kおよびマラフ・チャン・カウィール(Malah Chan K'awil)の名でも知られる。.
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バーナ
バーナ.
バドルの戦い
バドルの戦い(624年3月17日)はイスラム創成期におけるクライシュ族率いるメッカと、メッカを追放されたムハンマドを受け入れたメディナ側の間の戦いの転機となった戦い。圧倒的に不利とされたムハンマドが戦いに勝利し、ムハンマドは危機を乗り越えたことでメディナ内での権威を確立した。.
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バスラ
バスラ(アル=バスラ、, al-Baṣrah)は、イラク南東、シャットゥルアラブ川の右岸にある港湾都市。.
ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ
ムハンマド(محمد、Muḥammad、570年頃 - 632年6月8日)は、イスラム教の開祖、軍事指導者、政治家。アラビア半島中西部、ヒジャーズ地方の中心都市メッカの支配部族であるクライシュ族出身で、その名門ハーシム家のひとり。イスラム教では、モーセ(ムーサー)、イエス(イーサー)その他に続く、最後にして最高の預言者(ナビー)でありかつ使徒(ラスール)とみなされている。また世俗君主・軍人としても有能であり、アラビア半島にイスラム国家を打ち立てた。.
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ムアーウィヤ
ムアーウィヤ(, 603年頃 - 680年4月18日)はイスラム教の5人目のカリフで、ウマイヤ朝の初代カリフ(在位:661年 - 680年)である。同名の孫、ウマイヤ朝第3代カリフのムアーウィヤ2世と区別してムアーウィヤ1世とも呼ばれる。全名は.
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メッカ
メッカ(مكة Makkah )は、サウジアラビアのマッカ州(歴史的にいえばヒジャーズ地域)の州都である。正式名はマッカ・アル=ムカッラマ(مكة المكرمة Makkah al-Mukarramah 「栄光あるマッカ」)。別名、ウンム・アル=クラー(أم القرى Umm al-Qurā 「町々の母」)。サウジアラビア政府は、1980年代に当市の名前の公式な英語表記を、西洋人が以前から一般に用いてきた綴りである Mecca から Makkah に改めた。.
モンツァ
モンツァ(Monza )は、イタリア共和国ロンバルディア州にある都市であり、その周辺地域を含む人口約12万人の基礎自治体(コムーネ)。モンツァ・エ・ブリアンツァ県の県都であり、州内第3位の人口を持つ。ミラノの北東約15kmに位置するこの都市は、中世以来の古い歴史を持つブリアンツァ地方の中心都市であり、繊維業や出版業などの商工業が盛んである。 この都市にはモータースポーツのイタリアグランプリ(F1レースの一つ)が開催されるモンツァ・サーキットがあることで知られる。また、イタリア王位の象徴とされるロンバルディアの鉄王冠が納められたモンツァ大聖堂や、モンツァ公園、王宮などの観光地もある。.
モンゴル高原
モンゴル高原(モンゴルこうげん)は、東アジアの北に位置する内陸の高原地帯で、モンゴル民族やテュルク系民族の居住地。モンゴル国とロシア極東の南部と中国の内モンゴル自治区をあわせた領域にほぼ一致する。漢語では蒙古(もうこ)あるいは蒙古高原(もうここうげん)と言う。 標高およそ1000m前後の草原からなり、中央部は乾燥地帯(ゴビ砂漠)である。ゴビ砂漠を境目として、北部はモンゴル国にあり、外蒙古または漠北とも呼ばれ、南部は南モンゴル(内蒙古)あるいは漠南と呼ばれ、歴史的・政治的に2地域に分かれている。北部はサヤン山脈を境界としてシベリアに接する。降水量は少なく、寒暖差の激しい、厳しい気候である。 Category:中央ユーラシアの歴史的地域 Category:中国の高原 Category:モンゴル国の地形 Category:高原 Category:分割地域.
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モン族 (Mon)
モン族( - ぞく、Mon)は、東南アジアに住む民族の一つ。古くから東南アジアに居住しており、ハリプンチャイ王国を建てたことで有名で、後にミャンマーのペグーに移り住んだのでペグー人とも言う。ラーマンあるいはタラインと呼ばれることもある。その後一部が中国の雲南から南下してきたタイ族やビルマ族などと混血した。現在800万人程度がモン族を自称している。 浅黒い肌にギョロリとした目、巻き舌音の多い言語、高床式住居、焼畑耕作、水牛供犠、精霊信仰、魔術、壺酒、精緻な竹藤細工、狩猟・罠、腰機織り、ゴング音楽などが、ラオス国内のモン・クメール民族に共通している。 なお、中国国内に多く住むミャオ族(苗族)の支系で、自称をモン (Hmong) という民族集団とは全く別であり、混同に注意。こちらについてはモン族 (Hmong)またはミャオ族を参照のこと。.
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ヤズデギルド3世
ヤズデギルド3世(? - 651年)は、サーサーン朝ペルシア帝国38代目かつ最後の君主(在位:632年 - 651年)。.
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ヤズィード1世
ヤズィード1世またはヤズィード・イブン・ムアーウィヤ・イブン・アブー・スフヤーン(يزيد بن معاوية بن أبي سفيان、Yazid Ibn Muawiyah Ibn Abu Sufyan、647年7月20日 - 683年11月11日)はウマイヤ朝の2代目カリフ(在位:680年 - 683年)。ムアーウィヤの子。.
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ユトレヒト
ユトレヒト( ユトレフト)は、オランダのユトレヒト州にある基礎自治体(ヘメーンテ)。オランダ第4の都市であり、ユトレヒト州の州都でもある。首都アムステルダムから30キロほど南に位置する。 ユトレヒトは8世紀よりオランダの宗教の中心であった。現在でもオランダ・カトリック教会で最も重要な地位をユトレヒト大司教が担っている。また、復古カトリック教会の大主教座や、プロテスタント教会の教区事務所もユトレヒトに置かれている。17世紀に始まるオランダ黄金の時代にアムステルダムがその地位を奪うまで、ユトレヒトは北オランダ(現在のオランダ国土と言う意味で、ベルギーやルクセンブルクは除く)で最も重要な都市であった。 また、ユトレヒトにはオランダ最大の大学であるユトレヒト大学が置かれていたり、国土のほぼ中央付近という地理的条件より、各地からの道路や鉄道網の重要な結節点となっている。.
ユスティニアノス2世
ユスティニアノス2世“リノトメトス”(ギリシア語:Ιουστινιανός Βʹ ὁ Ρινότμητος, Iūstinianos II ho Rinotmētos、668年? - 711年12月11日)は、東ローマ帝国ヘラクレイオス王朝最後の皇帝(在位:685年 - 695年、705年 - 711年)。コンスタンティノス4世の長男。ラテン語形だとユスティニアヌス2世となる。「リノトメトス」は鼻を削がれたことから「鼻なしの」を意味するあだ名。キプロス島で生まれたという伝説がある。.
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ヨアンネス・クリマコス
ヨアンネス・クリマコス(579年-649年、Ἰωάννης τῆς Κλίμακος)は、7世紀に活動したキリスト教の著述家、修道士。正教会・非カルケドン派・カトリック教会で聖人。ギリシャ教父のひとりで、正教会では非常に重要視される。ヨハネ・クリマコスとも。クリマコスはギリシア語で「はしご」の意、彼の主著『天国への階梯』にちなむ添え名である。この事から日本正教会では階梯者イオアン(かいていしゃ-)と呼ばれる。ほか、ヨアンネス・シナイテス(シナイ山のヨアンネス)、ヨアンネス・スコラスティコス(学者ヨアンネス)などの異称がある。 6世紀末から7世紀に活動した。シナイ山にある聖カタリナ修道院の院長を務め、修道士のための教訓を書き残した。主著『天国への階梯』。.
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ランゴバルド人
ランゴバルド人(ランゴバルドじん、,,,,, )、またはランゴバルド族(ランゴバルドぞく)は、6世紀後半にイタリア半島の大部分を支配する王国(ランゴバルド王国)を築いたことで知られるゲルマン系部族である。日本語ではしばしば英語形に基づきロンバルドとも表記される。.
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ラヴェンナ
ラヴェンナ(Ravenna)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州にある人口約15万人の基礎自治体(コムーネ)。ラヴェンナ県の県都である。 古代ローマ時代から中世にかけて繁栄した都市で、ラテン語ではラウェンナ(Ravenna)と呼ばれる。西ローマ帝国や東ゴート王国が首都を置き、東ローマ帝国ラヴェンナ総督領の首府であった。「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」はユネスコの世界遺産に登録されている。.
ラテン教父
ラテン教父(ラテンきょうふ、英語:Latin Fathers)は、古代から中世初期、2世紀から8世紀ごろまでのキリスト教著述家で、特にラテン語で著述を行った神学者の一群のこと。ギリシア語で著作を行った教父たちはギリシア教父という。教父というのは、特に正統信仰の著述を行い、自らも聖なる生涯を送ったと教会が認めた人々のことである。最初のラテン教父は2世紀のテルトゥリアヌスである。以降誰までをラテン教父と呼ぶのかということに関しては厳密な定義はないが、ラテン教父の代表としては「西欧の教師」と呼ばれたアウグスティヌスがあげられる。.
リュキア
リュキア(Lycia, リュキア語では Trm̃misa, ギリシア語では Λυκία)は古代の地名で、現トルコ南沿岸のアンタルヤ県とムーラ県の地域にあたる。古代にはこの地域には多くの都市国家があり、強く連携していた。また、ローマ帝国の時代にはリュキア属州と名づけられた属州であった。.
リンディスファーン修道院
リンディスファーン修道院(リンディスファーンしゅうどういん、Monastery of Lindisfarne )は、イングランド東北部のノーサンバーランド州海岸のリンディスファーン島にあった中世のケルト教会修道院。「リンデスファーン修道院」と表記されることもある。北部イングランドのキリスト教化が始まった地として知られる。.
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レオンティオス
レオンティオス(ギリシア語:Λεόντιος, Leontios、660年 - 706年2月15日?)は、東ローマ帝国の皇帝(在位:695年 - 698年)。.
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レケスウィント
レケスウィント(Recceswinth, またはReccesuinth, Recceswint, Reccaswinth, Recdeswinth, 、スペイン語, ガリシア語・ポルトガル語:Recesvinto, ラテン語:Reccesvinthus、610年頃? - 672年9月1日)は、西ゴート王。レケスヴィント、レセスウィントとの表記もされる。649年から672年までトレド王、セプティマニアおよびガリシア王でもあった。649年より父キンダスウィントとの共同統治王となり、653年より単独統治を開始した。.
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ロンバルディアの鉄王冠
モンツァ大聖堂に保管されているロンバルディアの鉄王冠 ロンバルディアの鉄王冠(ロンバルディアのてつおうかん、Corona del Ferro、The Iron Crown of Lombardy)は、中世前期につくられたヨーロッパで最も古い王冠の一つであるとともに、キリスト教の聖遺物である。ラテン語に由来するコーローナ・フェッレア(Corona Ferrea)の名でも呼ばれる。 この王冠はイタリア・ロンバルディア州の州都ミラノにほど近いモンツァの大聖堂において保管されており、はじめランゴバルド王国(ロンバルディア王国)の、のちに中世イタリア王国の王権の象徴とされた。.
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ヴァルダナ朝
ヴァルダナ朝(Vardhana)またはプシュヤブーティ朝(Pusyabhuti)は、7世紀前半、ハルシャ・ヴァルダナが創始した古代北インド最後の統一王朝で、首都はカナウジ(Kanauj、曲女城)。.
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ヴォルガ・ブルガール
ヴォルガ・ブルガール(タタール語:İdel Bolğarı、チュヴァシ語:Атăлçи Пăлхар、ロシア語:Волжская Булгария、英語:Volga Bulgaria)は、7世紀から13世紀にかけて、 ヴォルガ川とカマ川の合流点周辺に存在した国家である。ヴォルガ・ブルガールの領域は、今日のロシア連邦内のタタールスタン共和国とチュヴァシ共和国の領域に相当し、ヴォルガ・タタール人、チュヴァシ人は、ヴォルガ・ブルガール人の末裔とみられている。.
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ボニファティウス4世 (ローマ教皇)
ボニファティウス4世(Boniface IV, ? - 615年5月25日)は、第67代ローマ教皇(在位:608年9月15日 - 615年5月25日)。 Category:教皇 Category:ローマ出身の人物 Category:6世紀生 Category:615年没.
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ヘラクレイオス
ヘラクレイオスまたはヘラクレイオス1世(希:Ἡράκλειος, Hērakleios, 羅:Heraclius, 575年頃 - 641年2月11日)は、東ローマ帝国中期の皇帝(在位:610年 - 641年)。ヘラクレイオス朝の開祖。「ヘラクレイオス」はギリシア神話の英雄ヘラクレスにちなんだ名で、中世ギリシア語読みでは「イラクリオス」。ラテン語では「ヘラクリウス」となる。また、称号として「バシレウス」を名乗った。 サーサーン朝ペルシア帝国との6年にわたる戦いに勝利し、奪われた領土を回復したものの、当時勃興してきたイスラム帝国に敗れ、サーサーン朝から奪い返した領土は再び失われた。 また彼の治世は、東ローマ帝国の公用語がラテン語からギリシア語へ変わり、軍事権と行政権が一体化したテマ(軍管区)制が始まるなど(テマ制の起源に付いては諸説あり)、古代のローマ帝国から「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と呼ばれるような、ギリシア的要素の強い「中世ローマ帝国」の幕開けとなった。.
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ヘラクレイオス王朝
ヘラクレイオス王朝(-おうちょう Δυναστεία του Ηρακλείου)は、東ローマ帝国中期の王朝(610年 - 711年。695年 - 705年は一時中断)。 コンスタンス2世の治世初期(650年)の東ローマ帝国(緑色部分)。 610年にアルメニア系貴族ヘラクレイオスが、フォカスを倒して皇帝に即位。以後5人の皇帝が続いたが、失政が続いたユスティニアノス2世が694年にクーデターで追放され一時血統が断絶。11年後にユスティニアノス2世が復位したものの、クーデターの関係者への復讐に没頭し、虐殺が行われたために国政が混乱。陸海軍が反乱を起こしてユスティニアノス2世は殺害され、ヘラクレイオス王朝は完全に断絶した。 この時代の東ローマ帝国は、ヘラクレイオスの晩年以降イスラム帝国軍の侵攻を受けて、シリア・パレスチナ・北アフリカを奪われ、674年-678年には首都コンスタンティノポリスをイスラム海軍に毎年包囲され、さらにバルカン半島へ侵入したブルガール人がブルガリアを建国するなど、帝国の領土が急激に縮小し、滅亡の危機に陥った。 またヘラクレイオスが公用語をラテン語からギリシア語へと改め、地方制度も属州制からテマ制へ改められるなど、東ローマ帝国が地中海地域の覇権を失って、バルカン半島・小アジアを中心とする、ギリシア人の国に転換していったのがヘラクレイオス王朝時代である。.
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ヘラクロナス
ヘラクロナス(Ηρακλεωνάς、626年 - 642年?)は東ローマ帝国・ヘラクレイオス王朝の皇帝(在位:641年2月 - 9月)。ヘラクレイオス1世とその姪マルティナの子。.
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ブラーマ・スプタ・シッダーンタ
ブラーマ・スプタ・シッダーンタ (Brahmasphutasiddhanta) は、7世紀のインドの数学者・天文学者であるブラーマグプタの628年の著作である。表題は宇宙の始まりという意味。.
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ブラフマグプタ
ブラフマグプタ(、598年 – 665年以降没)はインドの数学者・天文学者。ブラーマグプタとも呼ばれる。数理天文書『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』(628年)と『カンダ・カーディヤカ』(665年)を作った。彼の生涯についてはよく分かっていないが、現在のインド中央部に位置する、ウッジャインという町で暮らし、そこにあった天文台の天文台長であったことが知られている。彼の父親は有名な占星術師だった。その著作は、イスラーム世界やヨーロッパにインド数学や天文学を伝える役割を果たした。.
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ブルンヒルド
ブルンヒルド(543年頃 - 613年)は、アウストラシアの王シギベルト1世(en)王妃。王の亡き後は息子や孫、曾孫の摂政としてアウストラシア東部とブルグントを支配した。ローマ式の中央集権制度を導入し、当初は政治的な洞察力を持つ優れた進歩的な支配者として知られたが、晩年は冷酷で貪欲な人物として名高くなっていった。.
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ブルガール人
ブルガール人(Прабългари、Bulgars)は、中世において中央アジアから移動し東ヨーロッパで活動したテュルク系遊牧民で、人種はモンゴロイドに属していた。 ブルガール人の中で広い地域に分散した部族のうち、バルカン半島のドナウ川下流域からトラキア地方に侵入した一派はブルガリア帝国を建国、キリスト教の正教会信仰を取り入れ、先住民であるコーカソイドの南スラヴ人に言語的にも人種的にも同化されて、現在のブルガリア人の先祖となった。そのためにプロト・ブルガリア人ともいう。.
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ブレトワルダ
ブレトワルダ (Bretwalda) は、アングロサクソン社会の称号のひとつで、イングランドの七王国時代、アングロサクソン諸国の中でも最も勢力の強かった王のことを意味したと考えられている。上王や大王、覇王などと訳される。.
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プリスカ (ブルガリア)
プリスカ (ラテン文字:Pliska、, Пльсковъ、ラテン文字転写: Plĭskovŭ) はドナウ川下流域に建設された第一次ブルガリア帝国の最初の首都であり、現在ではシュメン州の村である。以前はアボバ (Aboba)と呼ばれていたが、ブルガリア帝国の遺跡が発掘された後に現在の名前に改名された。.
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パレンケ
パレンケ (Palenque) は、メキシコに存在するマヤ文明の古代都市遺跡で、メキシコの世界遺産の一つである。 ユカタン半島の付根にあたるメキシコ南東部のチアパス州に位置し、7世紀に最盛期を迎えた『』 - (国土交通省中部地方整備局)都市の遺構としての宮殿を中心とする、「マヤ遺跡の典型」といわれる『』 - 東海大学文学部アメリカ文明学科建物群を密林のなかに配置している。.
パンとサーカス
パンとサーカス(panem et circenses)は、詩人ユウェナリス(西暦60年 - 130年)が古代ローマ社会の世相を揶揄して詩篇中で使用した表現。権力者から無償で与えられる「パン(=食糧)」と「サーカス(=娯楽)」によって、ローマ市民が政治的盲目に置かれていることを指摘した。パンと見世物ともいう。 愚民政策の例えとしてしばしば用いられる名言であり警句である。.
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パンテオン
パンテオン(Pantheon, ギリシャ文字表記:Πάνθειον)は、ギリシア語の「すべての神々」という言葉に由来し、ある特定の宗教や神話、たとえばヒンドゥー教やギリシア神話、北欧神話、シュメール神話、マヤ神話、日本神話などにおけるすべての神々を意味する。それぞれのパンテオンの中には、最高神、豊穣神、太陽神、月神、風神、天空神、戦神などが含まれ、上下関係や階層構造をなしていることもある。.
ヒジュラ
イスラム教におけるヒジュラ( Hijrah、Hijra)は、西暦622年前後に、ムハンマドとその信者達がメッカでの布教を諦め、アビシニアやヤスリブなどへと移住したことを指す。とくに、ヤスリブへの場合は聖遷と訳される。ヘジラ(Hejira, Hegira)とも音写される。また、ヒジュラのあったとされるユリウス暦622年7月16日を以ってヒジュラ暦の紀元と定められている。 なお、本来アラビア語ではヒジュラは移住を意味し、特に「ある人間関係を断ち切り、新しい人間関係を構築する」というニュアンスを持つ。.
ヒジュラ暦
ヒジュラ太陰暦(ヒジュラたいいんれき、)またはヒジュラ暦(、)は、主にイスラム教社会で使われている暦法。太陰暦なので太陽暦とは毎年11日ほどのズレがあり、それが積み重なるため、暦は季節を反映していない。イスラム暦(イスラムれき、、)とも呼ばれる。紀年法はヒジュラ紀元(ヒジュラきげん)と呼ばれる。ヨーロッパではを略してA.H.と表記する。.
ヒスイ
翡翠の原石(ヒスイ輝石) 翡翠製のボタン 翡翠の小杯 オルメカ文化の翡翠の仮面 メソアメリカの先住民ミシュテカの翡翠の仮面、西暦およそ1300年 - 1350年頃 ヒスイ(翡翠、jade、ジェイド)は、深緑の半透明な宝石の一つ。東洋(中国)、中南米(インカ文明)では古くから人気が高い宝石であり、金以上に珍重された。古くは玉(ぎょく)と呼ばれた。 鉱物学的には「翡翠」と呼ばれる石は化学組成の違いから「硬玉(ヒスイ輝石)」と「軟玉(ネフライト: 透閃石-緑閃石系角閃石)」に分かれ、両者は全く別の鉱物である。しかし見た目では区別がつきにくいことから、どちらも「翡翠」と呼んでいる。.
ビハール州
ビハール州(英語:Bihār 、ヒンディー語:बिहार)は、インドを構成する州の一つ。州都はパトナ(古都パータリプトラ)。.
ピピン1世
ピピン1世(ドイツ語:Pippin der Ältere, 580年頃 - 640年)は、カロリング家の祖。父はユーグ(在職:617年 - 623年)。「大ピピン」とも呼ばれる。メロヴィング朝フランク王のクロタール2世、ダゴベルト1世、シギベルト3世の治世にアウストラシア王国の宮宰(在職:615あるいは623年 - 629年、638/9年 - 639/40年)を務めた。.
ピピン2世
ピピン2世(ドイツ語:Pippin der Mittlere, 635年もしくは640年 - 714年12月16日)は、フランク王国の宮宰(在職:680年 - 714年)。「中ピピン」とも呼ばれる。ピピン1世(大ピピン)の娘ベッガとその夫アンゼギゼル(メッス司教アルヌルフの子)の子。.
テマ制
テマ制(テマせい ギリシア語:θέματα、Themata)とは、東ローマ帝国中期の地方行政制度。日本語では軍管区制とも呼ばれる。なお、「テマ」という言葉は元々ギリシャ語で「軍団」を表す言葉であるため、ここで述べるテマ制が開始される前から存在するが、この記事とは異なった意味で使用されていることに注意する必要がある。また、中世ギリシャ語では「セマ」となる。.
ティカル
ティカルは、グアテマラのペテン低地にあった古典期マヤの大都市である。マヤ文明の政治、経済中心都市として紀元4世紀から9世紀ごろにかけて繁栄を極めた。ティカルの遺跡は1979年に世界遺産の複合遺産に登録された。 ティカルの紋章文字。.
ディナール
ディナール(dinar, دينار)は、アラブ地域などの多くの国で使われている通貨である。アラビア語では「ディーナール」と発音される。これは以下の各国で使われているが、それぞれ独自で発行されているため価値はそれぞれ異なる。ディナールの名称は、ローマ帝国の銀貨、デナリウスに由来する。ヨーロッパでも一部の国で使用されており、マケドニアの通貨単位は正確にはデナール(denar)だが、単語の由来はディナールと同じである。.
フランク王国
フランク王国の時代別の領土 フランク王国(フランクおうこく、Royaumes francs、Fränkisches Reich)は、5世紀後半にゲルマン人の部族、フランク人によって建てられた王国。カール1世(大帝)の時代(8世紀後半から9世紀前半)には、現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリアおよびスロベニアに相当する地域を支配し、イベリア半島とイタリア半島南部、ブリテン諸島を除く西ヨーロッパのほぼ全域に勢力を及ぼした。カール1世以降のフランク王国は、しばしば「フランク帝国」「カロリング帝国」などとも呼ばれる。 この王国はキリスト教を受容し、その国家運営は教会の聖職者たちが多くを担った。また、歴代の王はローマ・カトリック教会と密接な関係を構築し、即位の際には教皇によって聖別された。これらのことから、西ヨーロッパにおけるキリスト教の普及とキリスト教文化の発展に重要な役割を果たした。 フランク王国はメロヴィング朝とカロリング朝と言う二つの王朝によって統治された。その領土は、成立時より王族による分割相続が行われていたため、国内は恒常的に複数の地域(分王国)に分裂しており、統一されている期間は寧ろ例外であった。ルートヴィヒ1世(敬虔王、ルイ1世とも)の死後の843年に結ばれたヴェルダン条約による分割が最後の分割となり、フランク王国は東・中・西の3王国に分割された。その後、西フランクはフランス王国、東フランクは神聖ローマ帝国の母体となり、中フランクはイタリア王国を形成した。 このようにフランク王国は政治的枠組み、宗教など多くの面において中世ヨーロッパ社会の原型を構築した。.
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フリースラント
フリースラント(Friesland、Friesland)は、オランダ・ドイツの北海沿岸の地方名。沖合にあるフリースラント諸島を含む。固有の言語であるフリスク語ではフリスラン (Fryslân)。ほか、フリジア (Frisia)、フリスラント (Frisland)。 歴史的には西方系ゲルマン人のフリース人が居住した。.
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フダイビーヤの和議
フダイビーヤの和議(صلح الحديبية)は、628年に預言者ムハンマドとマッカ(メッカ)のクライシュ族の間で結ばれた和議。フダイビーヤの盟約などとも表記される。和議はマッカ郊外の小村フダイビーヤで締結され、交渉の場であるフダイビーヤはマッカの聖域の境界となった後藤「フダイビヤの和議」『新イスラム事典』、429頁。.
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フォロ・ロマーノ
フォロ・ロマーノ(伊:Foro Romano)は、ローマにある古代ローマ時代の遺跡。観光地として有名である。フォロ・ロマーノは、ラテン語の古名フォルム・ロマヌム(Forum Romanum)のイタリア語読みである。 紀元前6世紀頃からローマ帝国がテトラルキアを採用する293年にかけて、国家の政治・経済の中心地であったが、ローマ帝国が東西に分裂し、首都機能がラヴェンナに移されると異民族の略奪に曝されるようになり、西ローマ帝国滅亡後は打ち捨てられ、土砂の下に埋もれてしまった。 フォロ・ロマーノの発掘は、19世紀から本格的に行われるようになったが、帝政時代初期までに開発が繰り返されており、遺構も様々な時代のものが混在しているので、発掘調査は難しい。現在の遺跡は、大部分が帝政時代以降のものである。.
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フォカス
フォカス(Phokas, 547年? - 610年10月5日)は、東ローマ帝国の皇帝(在位:602年11月23日 - 610年)。.
フォカスの記念柱
フォカスの記念柱 (La Colonna di Foca、The Column of Phocas) は、西暦601年8月1日、東ローマ帝国皇帝フォカスを称えて、ローマ中心部、フォロ・ロマーノのロストラ(演説台)の前に建立され、フォカスに献納または再献納された石柱(コロンナ)である。この記念柱は、古代にあって、フォロ・ロマーノに加えられた最後の建造物である。 白大理石でつくられた立方体の台石の上に、縦溝の彫られたコリント式の円柱が、13.6メートルの高さでそびえ立っている。石柱は2世紀ごろに製作されたものの転用と考えられる。 煉瓦でできた四角形の基礎は、以前は地面の下に埋もれて見えていなかったものである。19世紀に至って、アウグストゥス帝が最初に敷設した舗装路面まで、蓄積した土砂などがフォロ・ロマーノから除去された結果、本来の姿が現れた。.
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フサイン・イブン・アリー (イマーム)
フサイン・イブン・アリー・イブン・アビー=ターリブ(; Ḥusayn ibn ‘Alī ibn Abī Ṭālib; 626年8月28日 - 680年10月10日)はイスラーム・シーア派における第3代イマーム(ごく一部では第2代)。母は預言者ムハンマドの娘ファーティマ・ザフラー、父はムハンマドの従兄弟アリー・イブン・アビー=ターリブ。ムハンマドの孫にあたり、シーア派のみならずスンナ派でもアフル・アル=バイト(御家=ムハンマド家)の一員として崇敬される。 フサインはヒジュラ暦61年のアーシューラー(ムハッラム月10日、ユリウス暦では680年10月10日)、カルバラーの戦いで惨敗を喫し戦死した。シーア派はアーシューラーに、その死を悲しむ祭式を行う。.
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ドス・ピラス
ドス・ピラス(Dos Pilas)は、グアテマラ、ペテン県のペテシュバトゥン地域にある、古代マヤの遺跡。.
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ニハーヴァンドの戦い
ニハーヴァンドの戦い(ニハーヴァンドのたたかい、アラビア語:معركة نهاوند)は、642年にニハーヴァンド(現在のテヘラン南方)でサーサーン朝と正統カリフ時代のイスラーム勢力(アラブ軍)との間に起こった戦い。皇帝ヤズデギルド3世のサーサーン朝軍はアラブ軍に敗退し、サーサーン朝は事実上滅亡した。この戦いは、イスラーム教徒の間では「勝利の中の勝利」と呼ばれている。.
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ホスロー2世
ホスロー2世(コスロウ2世、英語:Khosrow II、中世ペルシア語:/Husrō(y)、570年頃 - 628年2月28日)はサーサーン朝の最後の偉大な王(在位:590年-628年)。(勝利者)と称され、ホスロー・パルヴィーズ(ペルシア語:خسرو پرویز)とも呼ばれる。 彼は(在位:579年-590年)の息子、ホスロー1世(在位:531年-579年)の孫であり、イスラーム教徒のペルシア征服以前において長期間在位した最後のペルシア王である。イスラームによる征服はホスロー2世が処刑されて死亡してから5年後に始まった。彼は即位直後に玉座を追われた時、ビザンツ(東ローマ)の助けを得てそれを取り戻し、その10年後には豊かな中東のを征服し、アケメネス朝の栄光を再現してみせた。彼の治世の大半はビザンツ帝国との戦争に費やされ、またやのような僭称者に苦しめられた。 の最終局面において、ホスロー2世は小アジアの西部の奥深くまで勢力を拡張させ、ついに626年、アヴァール人、スラヴ人の同盟軍と共にビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルをした。 この包囲戦が失敗した後、ビザンツ皇帝ヘラクレイオスは反撃を開始し、ホスロー2世が征服したレヴァント、アナトリアの大部分、西コーカサス、そしての全てを奪回し、そして最終的にサーサーン朝の首都クテシフォン(テーシフォーン)に進軍した。ヘラクレイオスはこの戦争中にホスロー2世がレヴァントを征服した時に鹵獲していた聖十字架(真の十字架)も取り戻した。 『シャー・ナーメ』や、ニザーミー・ギャンジェヴィー(1141年-1209年)によって書かれた有名な悲恋のロマンス『ホスローとシーリーン』のような非常に精巧なホスロー2世の架空の人生を伝えるペルシア文学の作品によって、彼は最も偉大な文化的英雄の1人となっており、また恋愛物語の登場人物としても王としても同様である。『ホスローとシーリーン』は彼とアラム人またはローマ(ビザンツ)の皇女シーリーンの愛の物語を伝えており、彼女は長きに渡る求婚と次々と降りかかる艱難辛苦の末にホスロー2世の妃となる。.
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ダマスカス
ダマスカスはシリア(シリア・アラブ共和国)の首都。ダマスクスとも表記される。アラビア語ではディマシュク(دمشق Dimashq)で、別名をシャーム(الشام al-sham)という。日本語の聖書翻訳の慣行ではダマスコと表記する。「世界一古くから人が住み続けている都市」として知られる。カシオン山の山麓、バラダ川沿いに城壁で囲まれた古代から続く都市と新市街が広がる。現在の人口は約200万人といわれるが、都市圏全体では400万人に迫るといわれる。.
ダゴベルト1世
ダゴベルト1世(Dagobert I, 603年 - 639年1月19日)は、メロヴィング朝の4代目の国王。クロタール2世の長男。.
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ベルベル人
ベルベル人(ベルベルじん)は、北アフリカ(マグレブ)の広い地域に古くから住み、アフロ・アジア語族のベルベル諸語を母語とする人々の総称。北アフリカ諸国でアラブ人が多数を占めるようになった現在も一定の人口をもち、文化的な独自性を維持する先住民族である。形質的にはコーカソイドで、宗教はイスラム教を信じる。 自称はアマーズィーグ(転写: ⴰⵎⴰⵣⵉⵖ)。アマジグ人、アマジク人という呼称もこれ由来である。ベルベルの呼称は、ギリシャ語で「わけのわからない言葉を話す者」を意味するバルバロイに由来し、ヨーロッパの諸言語で Berber と表記されることによる。.
初唐の三大家
九成宮醴泉銘』(部分)欧陽詢筆 褚遂良筆 初唐の三大家(しょとうのさんたいか)とは、中国の初唐時代、太宗に仕えた書の大家3人(虞世南・欧陽詢・褚遂良)を称していう。.
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切韻
『切韻』(せついん)とは、隋文帝仁寿元年(601年)の序がある、陸法言によって作られた韻書。唐代、科挙の作詩のために広く読まれた。最初は193韻の韻目が立てられていた。.
アムル・イブン・アル=アース
アムル・イブン・アル=アース(عمرو بن العاص, ‘Amr ibn al-‘As, 583年 - 664年)はイスラーム初期の政治家・武将。パレスティナとエジプト(アエギュプトゥス)の征服者。ウマイヤ朝初代カリフ、ムアーウィヤの盟友。.
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アリー・イブン・アビー・ターリブ
アリー・イブン・アビー・ターリブ( 'Alī ibn Abī Tālib、600年頃 - 661年1月27日)は、イスラーム教の第4代正統カリフ(在位656年 - 661年)。同教シーア派の初代イマーム。 預言者ムハンマドの父方の従弟で、母もムハンマドの父の従姉妹である。後にムハンマドの養子となり、ムハンマドの娘ファーティマを娶った。ムハンマドがイスラム教の布教を開始したとき、最初に入信した人々のひとり。直情の人で人望厚く、武勇に優れていたと言われる。早くからムハンマドの後継者と見做され、第3代正統カリフのウスマーンが暗殺された後、第4代カリフとなったが、対抗するムアーウィヤとの戦いに追われ、661年にハワーリジュ派によって暗殺される。 のちにアリーの支持派はシーア派となり、アリーはシーア派によって初代イマームとしてムハンマドに勝るとも劣らない尊崇を受けることとなった。アリーとファーティマの間の息子ハサンとフサインはそれぞれ第2代、第3代のイマームとされている。また、彼らの子孫はファーティマを通じて預言者の血を引くことから、スンナ派にとってもサイイドとして尊崇されている。 アリーの墓廟はイラクのナジャフにあり、カルバラーとともにシーア派の重要な聖地となっている。.
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アヴァール
アヴァール (Avars) は、 5世紀から9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活動した遊牧民族。支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(khagan:可汗)を称したため、その国家はアヴァール可汗国とも呼ばれる。東ローマの一部史料ではジェジェン(Geougen)、ルーシの史料ではオーブル人(Obrs)とも呼ばれる。.
アーイシャ・ビント・アブー・バクル
アーイシャ・ビント・アブー・バクル( ʿĀ'isha bint Abī Bakr, 614年頃 - 678年)は、イスラーム教の開祖ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフの3番目の妻で、初代正統カリフのアブー・バクル・アッ=スィッディークの娘。スンナ派では預言者ムハンマド最愛の妻とされる。.
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アブー・バクル
アブー・バクル・アッ=スィッディーク( Abū Bakr al-Ṣiddīq ‘Abd Allāh ibn Abī Quḥāfa ‘Uthmān b. ‘Āmir b. ‘Amr b. Ka‘b b. Sa‘d b. Taym, 573年 - 634年8月23日)は、初代正統カリフ(在位632年 - 634年)。預言者ムハンマドの最初期の教友(サハーバ)にしてムスリムのひとりであり、カリフすなわち「アッラーの使徒(ムハンマド)の代理人」( Khalīfat Rasūl Allāh)を名乗った最初の人物である。.
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アブドゥルマリク
アブドゥルマリクあるいはアブド・アルマリク(عبد الملك بن مروان、Abd al-Malik ibn Marwan、646年 - 705年10月8日)は、ウマイヤ朝の第5代カリフ(在位:685年 - 705年)。ウマイヤ朝中興の英主と評価される。.
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アブドゥッラー・イブン・アッズバイル
アブドゥッラー・イブン・アッズバイル(عبد الله بن الزبير、Abdullah ibn az-Zubayr、624年-692年)はイスラーム教のカリフの一人。 683年にウマイヤ朝のウンマ(イスラーム共同体)統治に異議を唱えて反乱を起し、メッカでカリフに即位した。但し、当時のウマイヤ朝のカリフはムアーウィヤ2世であり、正当なカリフとして見られることは稀である。.
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アフタル
アル=アフタル(al-Akhtal、Ghiyath ibn Ghawth al-Taghlibi al-Akhtal、640年 - 710年)は、アラブ(現:イラク)の詩人、アラブ人キリスト教徒。メソポタミアの:en:Taghlibに属し、アフタルとはあだ名で「耳の垂れ下がっていること」の意である - Yahoo!百科事典、日本大百科全書、2013年1月24日閲覧。。 アフタルはウマイヤ朝時代の詩人で、同様にアラブの詩人であるアル=ファラズダク(:en:Al-Farazdaq)、ジャリール・イブン・アティヤ(:en:Jarir ibn Atiyah)と並んでウマイヤ朝時代を象徴する詩人だが、アフタルが最も代表的な宮廷詩人であった - コトバンク、2013年1月24日閲覧。。 幼少の頃は母を失ったため継母に育てられるものの真の母性愛に恵まれず、継母を恨む詩を書き始め、飲酒に耽っていた。 その後はウマイヤ朝を称賛する作詩したため、ウマイヤ朝の第5代カリフであるアブドゥルマリクよりダマスカスにて歓迎のパレードを催して宮廷に迎え入れられ、桂冠詩人となった。 710年、部族の争いで亡くなる。.
アウストラシア
ネウストリアとアウストラシアの地図 アウストラシアの領域(600年頃)。アキテーヌはネウストリア、ブルグンド、アウストラシアの所領で複雑に区分されている アウストラシア(Austrasia、まれにアウストリア(Austria)とも。いずれも「東方の土地」の意)、はメロヴィング朝フランク王国の北東部、現在のフランス東部、ドイツ西部、ベルギー、ルクセンブルク、オランダから構成されていた。 メスは首都としての機能を果たし、アウストラシアの諸王はランス、トリーア、ケルンをも支配した。また、アウストラシアはイタリアから見た北東の地域を差す用語として、北西を意味するネウストリアと対称的に使われた。.
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アクイレイア
アクイレイア(Aquileia、Acuilee)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ウーディネ県にある、人口約3500人の基礎自治体(コムーネ)。 ローマ時代に建設された古代都市を起源とし、中世初期まではイタリア北東部の中心都市であった。繁栄を極めた当時の遺跡は、世界遺産「アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ」として登録されている。.
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アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ
アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ(アクイレイアのいせきちいきとそうだいしきょうざせいどうのバシリカ)は、イタリア北東部のアクイレイアにあるユネスコの世界遺産(文化遺産)。古代ローマ時代の遺跡と、中世にこの地方のキリスト教社会の中心であった大聖堂(バシリカ)からなる。.
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アスパルフ
アスパルフ(КНѪЗ Аспарух, 644年頃 - 700年頃)は、第一次ブルガリア帝国(ドナウ・ブルガール・ハン国)の建国者(在位:681年 - 700年頃)。.
イマーム
イマーム( imām)は、アラビア語で「指導者」、「模範となるべきもの」を意味する語で、イスラム教の「指導者」を指す。他の日本語表記としてエマーム、イマムなど。 スンナ派においては、ムスリム(イスラム教徒)の大小の宗教共同体を指導する統率者のことをイマームと呼ぶ。一方、シーア派においては宗教共同体にとって特別な存在である「最高指導者」をイマームと呼ぶ(後述)。.
インド
インドは、南アジアに位置し、インド洋の大半とインド亜大陸を領有する連邦共和制国家である。ヒンディー語の正式名称भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ、Republic of India)を日本語訳したインド共和国とも呼ばれる。 西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカ、モルディブ、インドネシアに接しており、アラビア海とベンガル湾の二つの海湾に挟まれて、国内にガンジス川が流れている。首都はニューデリー、最大都市はムンバイ。 1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。.
イングランド
イングランド(England)は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する4つの「国」(country)の一つである。人口は連合王国の83%以上、面積はグレートブリテン島の南部の約3分の2を占める。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。北海、アイリッシュ海、大西洋、イギリス海峡に面している。 イングランドの名称は、ドイツ北部アンゲルン半島出身のゲルマン人の一種であるアングル人の土地を意味する「Engla-land」に由来する。イングランドは、ウェールズとともにかつてのイングランド王国を構成していた。.
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イースト・アングリア
ノーフォークとサフォークがイースト・アングリアの中核である。西にケンブリッジシャー、南にエセックスがある。 イースト・アングリア(East Anglia)は、イングランド東部の地方名。東のアングル人の土地という意味である。アングロ・サクソン王国時代のイースト・アングリア王国に因む。瘤のように北海に突き出した半島部を中心に、ノーフォーク州とサフォーク州全域、ケンブリッジシャー、エセックス、リンカーンシャーの一部を含む。 行政的にはイースト・オブ・イングランド行政圏の一部をなしている。 なお、ノーフォーク州のノリッチ西郊にイースト・アングリア大学がある。.
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イシドールス
ビリャのイシドールス(San Isidoro de Sevilla、Isidorus Hispalensis、 英語:Saint Isidore of Seville、560年頃 - 636年4月4日)は、中世初期の神学者で、後期ラテン教父の中でも最も重要な神学者の一人であり、カトリックでは「インターネット利用者およびプログラマー」の守護聖人。 30年以上セビリャ大司教を務めた。中世のヒスパニアの地域で書かれた後の歴史書はすべて、このイシドールスの歴史を範としていた。 イシドールスが生きたのは、古典文化が没落し、支配者の暴力と無学が横行していた時代であった。イシドールスは長兄レアンデルと協力して、西ゴート王の、アリウス派信仰からのカトリック改宗に関与した。そして兄の死後も彼はカトリック布教の努力を継続した。レアンデルと同じように、トレドとセビリャで開かれた宗教会議で主導的な役割を演じた。レアンデルとイシドールスの兄弟は、その政治的手腕によって今日の歴史家から見ても意義のある変化をもたらしたともいえる。なぜなら、この教会会議で発議された西ゴート王国の法令は代議制政治の発達にとっても重要な契機となっているからである。 農業の守護聖人でマドリードの守護聖人である聖イシドロ(en)とは別人である。.
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イスラム帝国
イスラム帝国(イスラムていこく、خلافة, caliphate)は、イスラム教(イスラーム)の教えに従って生まれたイスラム共同体(ウンマ)の主流派政権が形成した帝国のこと。.
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イスラム教
イスラム教(イスラムきょう、イスラーム教、イスラーム、和名・漢字圏名:回教)は、唯一絶対の神(アラビア語でアッラー)を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下した(啓示した)とされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。 ユダヤ教やチゲリスト教の影響を受けた唯一神教で、偶像崇拝猶、いわゆる『偶像崇拝』が神像を用いた礼拝と同義であるのかを巡っては、宗教や個人により大きな開きがあるを徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。アッラーを崇拝するが、アッラーとは、もともとアラビアの多神教の神々の中の一人であったが、ムハンマドがメッカを占領すると、他の多神教の神々の像は全て破壊され、そして作ることや描くことも禁止され、その神だけを崇拝するようになった。.
ウマル・イブン・ハッターブ
ウマル・イブン・アル=ハッターブ( ‘Umar ibn al-Khattāb, 592年? - 644年11月3日)は、初期イスラーム共同体(ウンマ)の指導者のひとりで、第2代正統カリフ(634年 - 644年)。.
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ウマル憲章
ウマル憲章(ウマルけんしょう)は638年にイスラーム教のカリフであるウマル・イブン・ハッターブがエルサレム征服に伴い当時のエルサレム大主教であるソフロニオスと結んだ条約の名称である。条文はウィキソースのを参照。 ウマル憲章にはエルサレムに於けるキリスト教徒がイスラームに屈服し、ジズヤを支払う限りに於いて、厳しい制限つきながらも一定の権利を保障すると書かれている。後のズィンミー制度を形成する根幹となった文書でもある。.
ウマイヤ朝
ウマイヤ朝(ウマイヤちょう 、、Banu Umayya)は、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝(661年 - 750年)。.
ウフドの戦い
ウフドの戦い(アラビア語: غزوة أحد Ġazwat Uḥud、625年)はイスラム創成期に置ける重要な戦いの一つ。クライシュ族率いるメッカと、メッカを追放されたムハンマドを受け入れたメディナの間の戦い。メッカ側の勝利に終わった。.
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ウィットビー教会会議
ウィットビー教会会議(英語:Synod of Whitby)は、664年にイングランドで開かれたキリスト教の教会会議。.
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ウィタリアヌス (ローマ教皇)
ウィタリアヌス(Vitalianus、生年不詳 - 672年1月27日)は、第76代ローマ教皇(在位657年7月30日 - 672年1月27日)。 典礼規定に準拠するオルガンの使用を定めた最初の教皇として知られる。オルガンは宗教儀式の中で使われた 使用目的は会衆の聖歌の歌唱を指導するためだったと言われる。 663年6月、ランゴバルド討伐のため南イタリアに遠征した東ローマ帝国皇帝コンスタンス2世とローマで会見する。668年3月26日、タルソスのテオドルスに第7代カンタベリー大司教として叙階を授ける。 Category:教皇 Category:672年没.
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ウスマーン・イブン・アッファーン
ウスマーン・イブン・アッファーン(عثمان ابن عفّان بن ابي العاص بن امية ‘Uthmān ibn ‘Affān b. Abī al-‘Āṣ b. Umayya, 574年?嶋田「ウスマーン・イブン・アッファーン」『世界伝記大事典 世界編』2巻、223-224頁/76年?森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、4頁 - 656年6月17日森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、147頁)は、イスラームの第3代正統カリフ(在位644年 - 656年)。マッカ(メッカ)のクライシュ族の支族であるウマイヤ家の出身。預言者ムハンマドの教友(サハーバ)で、ムハンマドの娘婿にあたる。 ムハンマドの妻ハディージャを除いた人間の中では、ウスマーンは世界で2番目にイスラームに入信した人物として数えられている森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、11頁。クルアーン(コーラン)の読誦に長けた人物として挙げられることが多い7人のムハンマドの直弟子には、ウスマーンも含まれている。651年頃、ウスマーンの主導によって、各地に異なるテキストが存在していたクルアーンの版が統一される。656年にウスマーンは反乱を起こした兵士によって殺害され、その死はイスラーム史上初めてカリフが同朋のイスラム教徒に殺害された事件として記憶された。莫大な財産を有していたことから、ウスマーン・ガニー(「富めるウスマーン」の意)と呼ばれた森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、7頁。また、ムハンマドの2人の娘と結婚していたことから、ズンヌーライン(و النورين Dhū al-Nūrain、「二つの光の持ち主」)とも呼ばれる小杉「ウスマーン・イブン・アッファーン」『岩波イスラーム辞典』、196頁。.
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エルサレム
ルサレムまたはイェルサレムは、イスラエルおよびパレスチナ自治区にある都市。 イスラエルはエルサレムが自国の「首都」であると宣言しているものの、国際連合など国際社会はこれを認めておらず、イスラエルの首都はテルアビブであるとみなしている。したがって、イスラエルと国交を持つ諸国も、大使館や領事館はエルサレムでなくテルアビブに置いてきた。ただし、2017年になってアメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領はエルサレムをイスラエルの首都であると明言し、さらにアメリカ大使館をテルアビブからエルサレムに移転する方針を明らかにした。.
エルサレム総主教庁
生神女福音聖堂(エルサレム総主教庁所属)。 エルサレム総主教庁(エルサレムそうしゅきょうちょう)は正教会の9つの総主教庁の一つ。古代5総主教座のひとつであるとともに、新約聖書「使徒行伝」 で初代教会とされるエルサレム教会につらなるキリスト教世界最古の歴史をもつ。 451年までエルサレムには正教の主教座が置かれていたが、カルケドン公会議でエルサレム主教に総主教の地位が認められたため、以後は総主教を名乗っている。 記録に残る最古のエルサレム総主教は62年のイアコフであり、これは伝承によれば「義人イヤコフ」と同一の人物である。イスラム教登場後、パレスチナがアラブ人に征服された後、イスラム教徒はエルサレムはこの地方におけるキリスト教の中心地でありエルサレム総主教がその指導者であると認識した。十字軍のエルサレム攻囲戦後の1099年、ローマ・カトリックによる十字軍はエルサレムに西方教会の司教を任じ、正教の主教をエルサレムから追放し、1187年に到るまで正教のエルサレム総主教はコンスタンティノポリスに在住した。 今日ではエルサレム総主教庁はエルサレムの聖墳墓教会に置かれている。.
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エディンバラ大学
ンバラ大学(University of Edinburgh)は、1583年に設立された、英国で6番目に長い歴史を有する大学である(「Ancient University」の1つ)。キャンパスはスコットランドの首都エジンバラにあり、ユネスコの世界遺産に登録されている旧市街の多くの建物がエジンバラ大学の所有物である。スコットランドで4番目に古い大学であり、スコットランドにある最高学府のうち最高峰とされている。QS世界大学ランキング2019では世界18位、英国5位、スコットランド1位であり、世界トップクラスの研究大学とされている。スコットランドの大学としてラッセルグループに所属しているのは当大学とグラスゴー大学のみであり、ヨーロッパの大学の提携組織であるコインブラ・グループ、ヨーロッパ研究大学連盟 (LERU) に加盟していることも特徴である。また、アイビーリーグやU15など米国やカナダの高等教育機関とも歴史的に深いつながりがあり、現在まで学術交流を盛んに行っている。 エジンバラ大学は啓蒙時代に優れた人材が輩出し、エジンバラは北のアテネと呼ばれるまでになった。主な卒業生として、物理学者ジェームズ・クラーク・マクスウェル、哲学者デイヴィッド・ヒューム、数学者トーマス・ベイズ、第74代英国首相ゴードン・ブラウン、医学者ジョゼフ・リスター、小説家アーサー・コナン・ドイル、小説家ウォルター・スコット、発明家アレクサンダー・グラハム・ベル、タンザニア初代首相ジュリウス・ニエレレなどがいる。また、中退ではあるが自然科学者チャールズ・ダーウィンも通っていた。エディンバラ大学はこれまで21名のノーベル賞受賞者とアーベル賞受賞者を1名を出している。英国王室とのつながりも深く、これまでにエディンバラ公爵フィリップや アン王女が総長についている。また、2003年にはスコットランドの大学として初めてフェアトレード賞を受賞した。.
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エゼルベルト (ケント王)
ルベルト(Æthelberht、560年頃 - 616年2月24日)はケント王国の国王。彼の名は日本語では「エゼルベルフト」とも書かれる。また古英語での綴りも一定しておらず、「Æthelbert」「Aethelberht」「Aethelbert」または「Ethelbert」という表記が見られる。 在位は580年代、590年代頃から始まり616年の彼の死まで王であった。7世紀の学僧ベーダ・ヴェネラビリスが記した『イングランド教会史』では、エゼルベルトをアングロサクソン諸国に対しての「インペリウム」を保持した王の一人に列しており、時代は下って9世紀に編纂されたアングロサクソン年代記では彼をブレトワルダの一人と記している。また彼は最初にキリスト教に帰依したアングロサクソン王としても知られる。 アングロサクソン年代記によると、彼は先代ケント王エオメンリッチの息子であり、妻はフランク王カリベルトの娘ベルタであったと伝えられる。また婚儀はエゼルベルトが王位に就いた以前になされたと思われ、この婚儀を通じて当時の西ヨーロッパで最も強力なメロヴィング朝フランク王国との同盟関係にあった。またグレゴリウス1世がキリスト教の伝道としてアウグスティヌスを派遣させた影響に、この妻ベルタの影響があったかもしれない。597年アウグスティヌスはサネット島に到着するが、到着後程なくエゼルベルトはキリスト教に入信している。そして教会は建てられ、幅広い改宗が行われた。その中でエゼルベルトは新たな教会を自国のカンタベリーに建て、それは現在聖アウグスティヌス修道院として知られている。この時礎として置かれた敷石が後のイギリス国教会の基礎となった。 エゼルベルトの治世に出されたケント王国の法典がゲルマン語派のものとしては最古で、複雑な罰金体系を明記している。大陸に近いケントは富裕な国であり、エゼルベルトは交易を自らの支配のもとで行っており、この事から罰金の複雑さが出てきたとも一説には考えられている。アングロサクソン人がブリテン島に上陸して以来、初めて通貨の流通が彼の治世のケント王国に見受けられている。 後にエゼルベルトはアングロサクソン諸国にキリスト教を広めた事から聖列に加えられた。彼を讃える日はもともと2月24日であったが、後に2月25日に変更された。.
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オングロスの戦い
ングロスの戦いは、680年、ブルガール人のハーン・アスパルフと東ローマ皇帝コンスタンティノス4世との間で行われた戦い。ブルガール人が勝利し、第一次ブルガリア帝国が建国された。.
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カナウジ
ナウジ(Kannauj)は、インドの都市。ウッタル・プラデーシュ州に属する。カーニャクブジャ(Kanyakubja)とも称される。古代から中世にかけて繁栄した北インドの古都。現在の人口は71,530人(2001年)。.
カリフ
イスラム世界で承認された最後のカリフ、アブデュルメジト2世 カリフ(Caliph)あるいはハリーファ(خليفة khalīfa) は、預言者ムハンマド亡き後のイスラーム共同体、イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号である。.
カルバラーの戦い
ルバラーの戦い(Battle of Karbala)はウマイヤ朝カリフヤズィードの派遣した軍勢とフサイン・イブン・アリーの軍勢との戦いである。ウマイヤ朝軍が完全勝利を収めた。.
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カルタゴ
ルタゴ(Carthāgō または Karthāgō カルターゴー、قرطاج Qarṭāj、Carthage)は、現在のチュニジア共和国の首都チュニスに程近い湖であるチュニス湖東岸にあった古代都市国家。地中海貿易で栄え、現在は歴史的な遺跡のある観光地となっているほか、行政上はチュニス県カルタゴ市として首都圏の一部を成す。 「カルタゴ」の名は、フェニキア語のカルト・ハダシュト(Kart Hadasht=「新しい町」)に由来するとされる。.
カロリング朝
ール時代のフランク王国('''青'''がカール即位時のフランク王国、'''赤橙'''がカールの獲得領、'''黄橙'''がカールの勢力範囲、'''濃赤'''はローマ教皇領) カロリング朝と東ローマ帝国とウマイヤ朝 カロリング朝(カロリングちょう、Carolingiens, Karolinger)は、メロヴィング朝に次いでフランク王国2番目の王朝。宮宰ピピン3世がメロヴィング朝を倒して開いた。名称はピピン3世の父、カール・マルテルにちなむ。なお、「カロリング」は姓ではなく「カールの」という意味である。当時のフランク人には姓はなかった。 フランク族のカロリング家は代々フランク王国のメロヴィング朝に仕え、宮宰(宰相)を輩出してきた家系であった。はじめピピン1世(大ピピン)はフランク王国の分国(アウストラシア)の宮宰であったが、ピピン2世(中ピピン)においてはフランク王国全体の宮宰を務め、ピピン3世(小ピピン)に至っては遂にメロヴィング朝を廃しカロリング朝を開いた。 751年から987年までフランク王国やそれが分裂した後の東フランク王国・西フランク王国・中フランク王国の王を輩出した。987年、西フランク王国の王家断絶をもって消滅した。 ピピン3世の子カール大帝の時代にはその版図はイベリア半島とブリテン島を除く今日の西ヨーロッパのほぼ全体を占めるに至った。ローマ教皇はカール大帝に帝冠を授け、西ヨーロッパに東ローマ帝国から独立した、新しいカトリックの帝国を築いた。カール大帝の帝国は現実的には、後継者ルートヴィヒ1世の死後3つに分割され、今日のイタリア・フランス・ドイツのもととなったが、理念上は中世を通じて西ヨーロッパ世界全体を覆っているものと観念されていた。 本記事ではカロリング家についても包括的に言及することとする。.
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カンタベリー
ンタベリー (Canterbury) は、イギリス・イングランド南東部ケント州東部に位置するシティ・オブ・カンタベリーの中心エリア。中世から代表的な巡礼地として栄えてきた。.
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カンタベリーのアウグスティヌス
ンタベリーのアウグスティヌス カンタベリーのアウグスティヌス(Augustinus Cantuariensis, 生年不明 - 604年5月26日か605年)はイングランドへのキリスト教布教で知られる7世紀の司教。初代カンタベリー大司教。正教会・カトリック教会・聖公会で聖人。.
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カアバ
アバ( Kaʻba または Kaʻaba)は、メッカ(マッカ)のマスジド・ハラームの中心部にある建造物で、イスラーム教(イスラーム)における最高の聖地とみなされている聖殿である。カアバ神殿(カーバ神殿)とも呼ばれる。カアバの南東角にはイスラームの聖宝である黒石(くろいし)が要石として据えられている。 カアバはもとはイスラーム以前(ジャーヒリーヤ)におけるアラブ人の宗教都市であったメッカの中心をなす神殿であったとされる。 「カアバ(カーバ)」とはアラビア語で「立方体」を意味し、形状はその名の通り立方体に近い(縦にやや長い)。.
ガブリエル
14世紀末に描かれたビザンティンイコン。トレチャコフ美術館所蔵 ガブリエル(גַברִיאֵל、جِبرِيل、Gabriel)は旧約聖書『ダニエル書』にその名があらわれる天使。ユダヤ教からキリスト教、イスラム教へと引き継がれ、キリスト教ではミカエル、ラファエルと共に三大天使の一人であると考えられている(ユダヤ教ではウリエルを入れて四大天使)。西方キリスト教美術の主題の一つ「受胎告知」などの西洋美術において、彼は優美な青年で描かれる。時には威厳のある表情で描かれることもある。 聖書においてガブリエルは「神のことばを伝える天使」であった。ガブリエルという名前は「神の人」という意味である。 日本ハリストス正教会では教会スラヴ語読みからガウリイルとよばれている。 キリスト教において、最後の審判のときにラッパを鳴らし、死者を甦らせる天使はガブリエルである。.
キュジコス
ュジコスはミュシア地方の町だった。 キュジコスまたはキジクス(Κύζικος、Cyzicus)は、アナトリア半島のミュシア地方、現在のバルケスィル県のマルマラ海に突き出した半島にあった古代都市である。当時この半島は島で、徐々に大陸と繋がったという。中世にはAydıncıḳ(آیدینجق)と呼ばれていた。 現在はトルコの文化省がエルデクとバンドゥルマを結ぶ幹線道路の途中にあるキュジコスの遺跡を守っている。.
キトラ古墳
トラ古墳(キトラこふん)は、奈良県高市郡明日香村の南西部、阿部山に築かれた古墳。亀虎古墳とも書く。墳丘にある石室内に壁画が発見され高松塚古墳と共に保存事業が進められている。.
キニチ・ハナーブ・パカル1世
ニチ・ハナーブ・パカル1世(K'inich Janaab' Pakal I、603年 - 683年Martin & Grube (2000) p.162)は、古典期後期のマヤの都市であるパレンケの王で、パレンケを大国に成長させ、また盛んに建築を行った。1952年に王の墓室が発見された。 パレンケには同名の支配者がもう一人いるので、「1世」をつけて呼ばれる。略してパカル大王とも呼ばれる。 名前のキニチは「偉大な太陽」、ハナーブは不明、パカルは「盾」を意味する。.
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ギリシア火薬
リシア火薬(ギリシアかやく)とは東ローマ帝国で使用された焼夷兵器である。東ローマ帝国では海戦において典型的にこの兵器が使用され、これは水上に浮いている間ずっと燃え続けて多大な効果を上げた。この兵器は技術的な優位を与え、東ローマ帝国の多くの軍事的勝利において鍵となる役割を果たした。最も特記すべきはコンスタンティノープルをアラブ軍の2度に渡る攻囲から救出したことである。これにより帝国は生き残ることを得た。 ギリシア火薬は西ヨーロッパの十字軍にある印象を作り出しており、ギリシア火薬という名前はいかなる種類の焼夷兵器にも適用され、これらにはアラブ人、中国人、またモンゴル人によって用いられた焼夷兵器も含まれていた。しかしながら、これらは異なる混合法により作られており、東ローマ帝国の製法によるものではなかった。ギリシア火薬は固い機密保持で守られ、秘密は失われてしまった。ギリシア火薬の配合の問題は推測や議論のままに残されており、松脂、ナフサ、酸化カルシウム、硫黄または硝石の混合物とする意見が見られる。東ローマ帝国で用いられた焼夷用の混合物は、敵の上に液体を噴射する高圧サイフォンの使用によって区別される。「Greek fire」の言葉は英語で一般的なものであり、他言語のそれは十字軍からのもので、オリジナルの東ローマ帝国の資料では数種の名称で呼ばれた。それらは「πῦρ θαλάσσιον、sea fire(海の火)」、「πῦρ ῥωμαϊκόν、Roman fire(ローマの火)」、「πολεμικὸν πῦρ、war fire(戦いの火)」「ὑγρὸν πῦρ、liquid fire(液火)」、また「πῦρ σκευαστόν、manufactured fire(作られた火)」である。.
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クライザ族虐殺事件
ライザ族虐殺事件(くらいざぞくぎゃくさつじけん)は、イスラーム勢力のアラビア半島征服の過程で起こったムハンマドによる、ユダヤ教徒への、大量虐殺事件である。 イスラーム教の預言者であり開祖・指導者であるムハンマドの軍隊とアラビア半島のメディナにいたユダヤ教徒の部族勢力との対立、闘争の末、前者が成年男子(とムハンマド側が判断した、服を脱がせて陰毛の生えそろっていた男性全員)を虐殺した。.
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クリミア半島
リミア半島(クリミアはんとう)、または単にクリミア(Crimea, Крым, Крим, Qırım)は、黒海の北岸にある半島。面積は2万6844km2、2014年1月1日時点の人口は235万3100人。 1991年の独立以来ウクライナに属していたが、2014年のクリミア危機でロシアへの編入の是非を問う住民投票が行われて以降、帰属についてロシアとウクライナの間で係争状態にある。ロシアは自国に編入したと主張し、実効支配しているが、ウクライナではクリミア編入はウクライナ憲法に違反しているとして現在もウクライナの領土の一部であると主張し、日本を含め国際社会の多くが支持している。.
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クルアーン
ルアーン(قرآن )あるいはコーランは、イスラム教(イスラーム)の聖典である。イスラームの信仰では、唯一不二の神(アッラーフ)から最後の預言者に任命されたムハンマドに対して下された啓示と位置付けられている。ムハンマドの生前に多くの書記によって記録され、死後にまとめられた現在の形は全てで114章からなる。 クルアーンは、読誦して音韻を踏むように書かれている。「クルアーン」という名称はアラビア語で「詠唱すべきもの」を意味し、アラビア語では正確には定冠詞を伴って「アル.
クロタール2世
タール2世(Chlothar II, 584年 - 629年10月18日)は、メロヴィング朝の3代目王(在位:613年 - 629年)。キルペリク1世の五男。.
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クーファ
ーファ(Kūfa كوفة)はイラクの都市。ナジャフ県に属する。2003年当時の人口は約110,000人大野「クーファ」『世界地名大事典』3、343頁。現在のクーファの市街地は、7世紀に建設されたクーファ遺跡の近郊に位置する太田「クーファ」『岩波イスラーム辞典』、332頁。町の名前はアラビア語で「円形の砂丘」、ナバタイ語で「赤い砂」を意味する花田「クーファ」『新イスラム事典』、209頁。.
グラード (イタリア)
ラード(Grado)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ゴリツィア県にある、人口約8400人の基礎自治体(コムーネ)。ローマ時代にさかのぼる歴史を有する中心市街は、アドリア海北縁の潟湖(ラグーナ)に浮かぶ島に位置する。.
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グレゴリウス1世 (ローマ教皇)
レゴリウス1世(Gregorius I, 540年? - 604年3月12日)は、ローマ教皇(在位:590年9月3日 - 604年3月12日)。問答者グレゴリウス(Dialogos Gregorios)、大聖グレゴリウスとも呼ばれる。典礼の整備、教会改革で知られ、中世初期を代表する教皇である。四大ラテン教父の一人。ローマ・カトリックでは聖人、教会博士であり、祝日は9月3日。 東方正教会でも聖人で記憶日は3月25日。日本ハリストス正教会では先備聖体礼儀の作成者・ロマの「パパ」問答者聖グリゴリイ(鍵括弧原典ママ)と呼ばれる。.
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グプタ朝
プタ朝(グプタちょう、Gupta Empire)は、古代インドにおいて、西暦320年から550年頃まで、パータリプトラを都として栄えた王朝である。4世紀に最盛期を迎え、インド北部を統一した。.
ケルト人
● - 紀元前400年 ケルト人(ケルトじん、Celt, Kelt, Celt では とも)は、中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の言語を用いていた民族である。 古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられる。 ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォール、コーンウォールから移住したブルターニュのブルトン人などにその民族と言語が現存している。 現在のケルトという言葉は、言語・文化の区分を示すための近現代になってから作られた用語であり、古代から中世において右図で表されている地域の住民が「ケルト人」として一体的な民族意識を持っていたとは考えられていない。そのため歴史学などでは、「ケルト人(Celts)」という言葉は使わず、「ケルト系(Celtic)」という言葉を便宜的に使っている。.
ケルアン
ルアン(アルファベット表記Kairouan,Kairwan, Kayrawan, Al Qayrawan、アラビア語表記ではالقيروان.)はチュニジアの都市で、首都チュニスの南160kmにある。2003年時点で、15万人が暮らす。ケルアンは670年頃に建設が始まり、名前は"キャンプ","キャラバン","休憩場所"を意味するアラビア語のkairuwân,ペルシア語でのKâravânに由来する。ケルアン県の県都である。ケルーアン、カイルーアン、カイルアン、カイロワン、イラワーンとも表記される。 Kwesi Prah教授による“Towards A Strategic Geopolitic Vision of Afro-Arab Relations” という題の論文では「アラブは670年にはチュニジアを手にし、675年にはケルアンの建設を完了させた。この都市は北アフリカにおける第一のアラブ拠点になることになる。中世には、ケルアンはマグリブ地方のイスラームの中心地としての重要性から、イスラム世界でマッカ、マディーナに次ぐ第3の聖都となった。」と述べられている。.
ケルソネソス
ボスポロス王国の位置と黒海沿岸のギリシア植民市 ケルソネソス(Χερσόνησος, Chersonesus)は、黒海北岸のクリミア半島の南端にあった古代ギリシアの植民市。現在のウクライナのセヴァストポリあたりにあった。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)時代にはケルソン(Χερσών 中世ギリシア語ではヘルソン)と呼ばれた。.
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ケント王国
ント王国(Kingdom of Kent)は、イングランドに存在したヘプターキー(七王国)を構成する王国の一つ。ユトランド半島から来たジュート人の王国である。支配領域は、ほぼ現在のケント州(カンタベリーなどを含む地域)の辺りであった。.
コルンバ
『聖コルンバ』(1906年、John R Skeltonによる) 聖コルンバ(Saint Columba、521年12月17日 - 597年6月9日)は、アイルランド出身の修道僧で、スコットランドや北部イングランド布教の中心となったアイオナ修道院を創設した。アイルランド語ではコルム・キル(Colum Cille)。これは教会の鳩を意味する語句である。カトリック教会、聖公会、ルーテル教会、正教会の聖人。アイルランド、スコットランドの守護聖人。祝日は6月9日。.
コンスタンティノープル
ンスタンティノープル(Constantinople、: Constantinopolis、: Κωνσταντινούπολις)は、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。 強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンディヌーポリ総主教庁が置かれている。.
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コンスタンティノス4世
ンスタンティノス4世が印された硬貨 コンスタンティノス4世(ギリシア語:Κωνσταντίνος Δʹ, Kōnstantinos IV、650年頃 - 685年9月14日)は、東ローマ帝国ヘラクレイオス王朝の皇帝(在位:668年 - 685年)。コンスタンス2世の長男。「ポゴナトス(髭の)」というあだ名が付けられることがあるが、これは父コンスタンス2世のものが、戦乱による記録の混乱で息子のあだ名と混同してしまったものである。.
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コンスタンディヌーポリ総主教庁
ンスタンディヌーポリ全地総主教庁(コンスタンディヌーポリぜんちそうしゅきょうちょう、,, )は、正教会で筆頭の格を有する総主教庁・教会である。管掌・統括するのはコンスタンディヌーポリ総主教。 単に「コンスタンディヌーポリ総主教庁」もしくは「全地総主教庁」とも表記される。日本ハリストス正教会の奉神礼ではコンスタンティノポリ総主教と呼称される。一般にはコンスタンティノープル総主教とも。 初代総主教は十二使徒の一人である聖アンドレアスとされている。現在の総主教はヴァルソロメオス1世(1991年 - )である。 総主教庁の所在地コンスタンディヌーポリ(コンスタンティノープル)は、現在のトルコ共和国最大の都市イスタンブールにあたる。総主教座はイスタンブール旧市街の金角湾に面したファナリ地区に建つ聖ゲオルギオス大聖堂に置かれている。コンスタンティノポリスには、時代・地域によって様々な都市名の転写があるため様々な表記が存在するが、いずれも誤りではない。これについては当記事内の「都市名の転写・カナ表記」の節で詳述する。 1カ国に1つの教会組織を具えることが原則である正教会には、他にギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本ハリストス正教会などがあるが、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳ではなく、同じ信仰を有している。その教義や全正教会の性格については正教会の項を参照。.
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コンスタンス2世
ンスタンス2世“ポゴナトス”(Κώνστας Βʹ ὁ Πωγώνατος、630年11月7日 - 668年9月15日)は、東ローマ帝国ヘラクレイオス王朝の皇帝(在位:641年 - 668年)。コンスタンティノス3世の子で、元の名はフラビオス・ヘラクレイオス。のち「コンスタンティノス」。「コンスタンス」は「小さなコンスタンティノスの意味」で、“ポゴナトス”は「髭が生えている」を意味するあだ名。本名から「コンスタンティノス4世」と呼ぶ場合もある。.
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ザルツブルク
ルツブルク(Salzburg)は、オーストリア中北部の都市で、同名のザルツブルク州の州都である。ドイツ語で特に区別して表記する場合、ザルツブルク市はStadt Salzburg、州はLand Salzburgとする。 郡に属さない憲章都市(Statutarstadt)であるが、ザルツブルク=ウムゲーブング郡 の郡庁が置かれている。 旧市街と歴史的建造物は、1996年ユネスコ世界遺産に「ザルツブルク市街の歴史地区」として登録された。.
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ザンクト・ガレン修道院
ンクト・ガレン修道院は、スイスのザンクト・ガレンにある中世以来の歴史を誇る修道院。現在の建物は18世紀に建造されたものであって中世修道院の面影はないが、バロック建築の傑作として評価されている。また、かつて何世紀にもわたりベネディクト会の中心的修道院のひとつであったこの修道院の付属図書館には、数多くの写本や稀観書が収蔵されている。この修道院と図書館は、1983年にユネスコの世界遺産に登録された。.
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シナイ山
ナイ山(シナイざん、シナイさん、ヘブライ語: Hár Sinái、アラビア語: Jabal Mūsā、英語:Mount Sinai)は、シナイ半島にある、モーセが神から十戒を授かったとされる場所。ホレブ山(Horeb)とも呼ばれる。 聖書のシナイ山の正確な場所は定かではないが、アラブ人がジェベル・ムーサー(Jabal Mūsā, アラビア語で「モーセ山」の意)と呼ぶシナイ半島南部の山(標高2,285m)に古くから比定され、アブラハムの宗教によって神聖視されている。ジェベル・ムーサーにはモーセに関わる伝承を持つ泉や岩が数多く存在し、土地の人々の信仰の対象となっている。3世紀には聖カタリナ修道院が建設された。 一方、ジェベル・ムーサー近辺には聖書の描写に合致するような広大な平原が存在しないこと、エジプトからパレスチナへの通り道としては南すぎる、などの理由から、、は、。 他方、ロン・ワイアットは、ミデヤンの地をアラビア半島北西部とし、シナイ山(ホレブ山)を、同地のラウズ山(Jabal Al-Lawz ヤベル・エル-ローズ 標高2,580m)に比定している。エジプト第1王朝以来、シナイ半島はエジプト王国の領域であり、出エジプトというからにはシナイ半島を出なければならず、モーセが割って渡った海も、紅海ではなくアカバ湾(の浅い部分)であったとしている。アカバ湾を渡れば、目指すミデヤンの地もラウズ山もすぐである。.
シャー
ャー(shāh شاه)は、「王」を意味するペルシア語、または王の称号。古代ペルシア語の"χšāyaθiya-"に由来する。もともとイラン系の王の称号であったが、イスラーム時代以降はイラン系のみならずイラン・イスラーム文化の影響を受けたテュルク・モンゴル系の王侯でも称号や人名などに使われるようになった。また「シャーハンシャー」 شاهنشاه shāhan-shāh とはパフラヴィー語のシャーハーン・シャー šāhān-šāh 「šāh-ān(「王」の複数形)+šāh(王);"諸王の王"、"王の中の王"の意味」のアラビア語転写ないしアラビア語形である。.
シャイレーンドラ朝
ャイレーンドラ朝(しゃいれーんどらちょう、英語;Sailendra,インドネシア語;Wangsa Syailendra、752年? - 832年?)は、8世紀半ばから9世紀前半にかけてジャワ島中部に建てられた王朝。シャイレーンドラはサンスクリット語で「山からの王」「山の王家」という意味。王家は、サンスクリット語と北インド系の文字を使用し、大乗仏教を信奉した。.
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シュリーヴィジャヤ王国
ュリーヴィジャヤ王国(シュリーヴィジャヤおうこく、Kerajaan Sriwijaya/Srivijaya、スリウィジャヤ)はインドネシアやマレー半島、フィリピンに大きな影響を与えたスマトラ島のマレー系海上交易国家。漢文では「室利仏逝」と音訳表記される。また、アラブの資料では「ザバック」「サバイ」「スブリサ」の名でみられる。王国の起源ははっきりしないが、7世紀にはマラッカ海峡を支配して東西貿易で重要な位置を占めるようになった。.
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シリア
リア・アラブ共和国(シリア・アラブきょうわこく、)、通称シリアは、中東・西アジアの共和制国家。北にトルコ、東にイラク、南にヨルダン、西にレバノン、南西にイスラエルと国境を接し、北西は東地中海に面する。首都はダマスカス。「シリア」という言葉は、国境を持つ国家ではなく、周辺のレバノンやパレスチナを含めた地域(歴史的シリア、大シリア、ローマ帝国のシリア属州)を指すこともある。.
スマトラ島
主要都市。スマトラ島は面積において世界第6位。水平の青線は赤道、垂直は東経100度 島北部にある巨大カルデラのトバ湖 スマトラ島()はインドネシア共和国、大スンダ列島に属する島。スマテラ (Sumatera) とも。.
スーフィー
ーフィーの集会 スーフィー(صوفي. Ṣūfī)とは、おもにイスラムの唯一神アッラーとの我執を滅却しての合一(ファナー فناء fanā')を目指し、清貧行を主として様々な修行に励む人々を指す。「スーフィー」の語源については、一般的に羊毛(スーフ)のぼろ着をまとって修行に励む人であることとされるが、他にも「(信仰の)清浄さ」(サファー ṣafā' )に由来するというものや、預言者ムハンマドの傍近くに陪席した高弟という意味で「ベンチ(ソファー)の人々」(アフル・アル=スッファ ahl al-ṣaffa )などのアラビア語による語源説、ギリシア語で「智恵、叡智」を意味するソフォスに由来するなども異説もある。.
スィッフィーンの戦い
ィッフィーンの戦い(وقعة صفين、英:Battle of Siffin)は、657年6月-7月(イスラーム暦37年1月-37年2月)にユーフラテス川上流域(シリア北部)のスィッフィーンで行なわれた第4代正統カリフ、アリー・イブン・アビー=ターリブとシリア総督ムアーウィヤの戦い。イスラーム史における(656年 - 661年)の山場。この戦いの結果、アリーの政権が分裂してハワーリジュ派が登場し、彼らによってアリーが殺害され、ムアーウィヤがカリフとなってウマイヤ朝を建てる。.
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セビリア
ビリア(Sevilla, )は、スペイン・アンダルシア州セビリア県のムニシピオ(基礎自治体)。アンダルシア州の州都であり、セビリア県の県都である。自治体人口は約70万人(スペイン第4位)であり、セビリア都市圏の人口は約130万人である。スペイン南部の政治、経済、文化の中心地であり、観光都市である。.
ソンツェン・ガンポ
ンツェン・ガンポ(チベット語:、ワイリー方式: 、581年山口『チベット』下、27頁? - 649年もしくは650年デエ『チベット史』、46頁)は、古代チベットの王(在位593年 - 638年、643年 - 649年もしくは650年)。チベット初の統一王国(吐蕃)を樹立し、チベットに初めて仏教を導入した人物として知られる。本名はティ・ソンツェン(、)であり、ソンツェン・ガンポは後世の人間による尊称である佐藤「ソンツェンガンポ」『世界伝記大事典 世界編』5巻、502-503頁。漢文史料では松賛干布、棄宗弄讃と表記される。 宰相のガル・トンツェン(ガル・トンツェンユルスン)の補佐を受けてチベット高原の大部分を支配下に置き、吐谷渾、パイラン(白蘭)、タングートなどの周辺の部族に勝利を収める。640年ごろまでに吐蕃は、北東はツァイダム地方、東は松州、西はラダック、南はヒマラヤ山脈に支配領域を広げた。 彼の事績は早い時代から伝説化され、転輪王にも擬せられた。.
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ソフロニオス
フロニオス エルサレムのソフロニオス(ギリシア語 Σωφρόνιος Α΄ Ιεροσολύμων, ラテン語 Sophronius Hierosolymorum, 560年 - 638年)はダマスカス出身の7世紀のキリスト教神学者、修道士。エルサレム総主教(在位634 - 638年)を務め、地中海世界におけるキリスト教の没落とイスラームの興隆を目の当たりにした人物である。正教会では聖人とされる。日本正教会ではイェルサリムの総主教聖ソフロニイと表記される。.
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タマン半島
タマン半島(タマンはんとう、Taman Peninsula、Таманский полуостров)は、ロシア南部のクラスノダール地方にある半島。北のアゾフ海と南の黒海を分けるように東から西へ向かって伸びており、西はケルチ海峡を隔ててクリミア半島(ウクライナ)と向かい合っている。クバン川が注ぎ込んでおり、半島各地には泥火山が見られ、天然ガスや石油も埋蔵されている。 ポントスから渡ってきたギリシア人がこの半島にヘルモナッサ(Hermonassa, Germonassa)やファナゴリア(Phanagoria)といった植民都市を築き、後にはハザールやキエフ大公国の都市トムタラカン(Tmutarakan)も築かれた。現在は港湾都市テムリュクが半島北部のクバン川河口付近にある。また半島の南の付け根にはリゾート都市アナパがある。.
サン=ドニ大聖堂
大聖堂 サン=ドニ大聖堂(仏語:Basilique de Saint-Denis もしくは単に Basilique Saint-Denis)は、歴代フランス君主の埋葬地となった教会堂。1966年よりカトリック教会のサン=ドニ司教座が置かれている。パリ北側の郊外に位置するサン=ドニにある。.
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サーサーン朝
ーサーン朝(サーサーンちょう、Sassanid、ساسانيان - 、226年 - 651年)はイラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国。首都はクテシフォン(現在のイラク)。.
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サットン・フー
ットン・フー(Sutton Hoo)はイングランド東部イースト・アングリアのサフォーク州ウッドブリッジ近くで発見された7世紀アングロサクソン時代の船葬墓。1939年に発掘され、豊かな副葬品が出土した。中世初期のイングランドを知るうえで極めて重要な考古学的資料で、最も著名なイギリスの考古遺跡のひとつである。.
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唐
唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.
唐の高句麗出兵
唐の高句麗出兵(とうのこうくりしゅっぺい)は、644年から668年まで計3次にわたって行われた、唐による高句麗への侵攻である。攻められた高句麗軍は最初の十数年は善戦し、淵蓋蘇文などの活躍により太宗によるを阻んだ。663年に百済が滅亡すると、唐は新羅軍と連合して大軍で高句麗を腹背から攻めた。内紛と離反で弱体化していた高句麗は、王都平壌が攻略されて滅亡した。 唐の高句麗出兵は三国時代の終わりを位置づけ、朝鮮半島は統一新羅の時代となった。また、この戦いで手に入れた領土を巡る唐・新羅戦争を引き起こした。.
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唐律疏義
『唐律疏義』(とうりつそぎ、『唐律疏議』とも)は唐の高宗永徽3年(652年)に編纂された唐律の注釈書である。長孫無忌等19人により編纂され、永徽4年(653年)に頒布された。 『唐律疏義』は魏晋南北朝以来の律を集成しそれに注釈(疏)を付した内容となっている。その内容から「疏在律後,律以疏存(疏は律の後に在り、律は疏を以って存す)」と称され、中国のみならず東アジアでの律令体制の重要典籍となり、漢代に開始された「春秋決獄」が正式に廃止されることとなった。『唐律疏義』の正式名称は『永徽律疏』であり、『唐律疏議』の名称は後代の通称である。なお宋元代には『故唐律疏義』の名称で呼ばれていた。 高宗の詔勅で「律学未有定疏,毎年所挙明法,遂無憑準(律には公式の注釈がなく、毎年の科挙で基準が定まっていない)」と現状を指摘し、太尉長孫無忌、司空李勣、尚書左僕射于志寧、刑部尚書唐臨、大理卿段宝玄、尚書右丞劉燕客、御史中丞賈敏行等に命じ衛禁、職制、戸婚、厩庫、擅興、賊盗、鬥訟、詐偽、雑律、捕亡と断獄の12篇,502条からなる永徽律を編纂させ、条文の後ろに注釈を加え『永徽律疏』が完成した。 『唐律疏義』は唐代にわたり改変されることなく、またその後の『大宋刑律統類(宋刑統)』、『大明律』、『大清律例』などの成立に影響を与えるとともに、日本や朝鮮、ベトナムでの律令体制確立にも直接の影響を与えた。 Category:注釈書 Category:唐朝の法 Category:7世紀の法 Category:中国の律.
唐・新羅の同盟
唐・新羅の同盟(とう・しらぎのどうめい)は、660年に成立した唐と新羅との軍事協力としての同盟関係である。 また、韓国ブリタニカ百科事典では648年に成立した唐の新羅に対する援助約定と、その後の軍事協力を「羅唐同盟」と表記する 。 642年、高句麗と百済の連合軍が新羅を攻撃し、新羅の西部と北部の領土を奪った。643年、新羅の善徳女王は唐に援軍を求めたが、唐から女王を廃し唐の帝室から新王を立てることを求められた。647年、親唐派の毗曇が善徳女王に対し反乱を起こしたが、鎮圧された。 648年、善徳女王を継いだ真徳女王は、金春秋(後の武烈王)を唐の太宗に遣わし、援助の取付に成功した。新羅は、649年に唐の衣冠礼服の制度を取り入れ、650年に独自の年号を廃して唐の年号を用いて、唐の完全な属国となり、651年に官制も唐制に倣ったものに切り替えた。 655年、高句麗、靺鞨、百済の連合軍が新羅北部の33城を奪ったため、真徳女王を継いだ武烈王は唐の高宗に救援を求め、唐は高句麗を攻撃した。659年にも百済が新羅を攻めたため、唐に救助を求めた。660年、唐と新羅の同盟は成立し、平壌以南を新羅、以北を唐が領有する約束がかわされた。唐・新羅両軍は連合して、百済へ侵攻して滅ぼした。この時、唐は唐に宿衛していた武烈王の息子の金仁問(:ko:김인문)を神丘道行軍副大摠管とし、武烈王を嵎夷道行軍摠管としている。新羅部隊を含む唐軍は、続けて高句麗も攻撃した(唐の高句麗出兵)が、このときは失敗に終わった。 武烈王の後は文武王が継ぎ、663年、唐・新羅連合軍は白村江の戦いで百済復興を目指す百済遺民と倭国の連合軍を破った。さらに668年には、唐・新羅連合軍は、ついに高句麗を滅ぼすことに成功した。しかし、唐は新羅を廃して唐の一部と成し朝鮮半島全体を支配下に置こうとした為、新羅は反乱を起こした。.
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唐・新羅戦争
唐・新羅戦争(とう・しらぎせんそう)は、670年から676年に行われ唐と新羅の戦争である。韓国ブリタニカ百科事典、韓国民族文化大百科事典、斗山世界大百科事典では「羅唐戦争」と呼ぶ。。また、韓国では「新・唐戦争」と呼ぶこともある。.
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唯識
唯識(ゆいしき、skt:विज्ञप्तिमात्रता Vijñapti-mātratā)とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである(瑜伽行唯識学派)。ここで、八種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な表象、認識行為を内含し、あらゆる意識状態やそれらと相互に影響を与え合うその個人の無意識の領域をも内含する。 あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的な存在ではない。それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(諸法空相)。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教)の思想を基礎に置いている。また、唯識と西洋哲学でいう唯心論とは、基本的にも、最終的にも区別されるべきである(後述)。.
冠位十二階
冠位十二階(かんいじゅうにかい)は、日本で603年に制定され、605年から648年まで行なわれた冠位である。日本で初めての冠位・位階であり、この制定により人材登用の道が開かれた。朝廷に仕える臣下を12の等級に分け、地位を表す冠を授けるものである。七色十三階冠の施行により廃止された。.
内大臣
内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.
八角墳
掘中の八角墳(中山荘園古墳) 八角墳(はっかくふん)は古墳時代の終末期(7世紀中葉〜)につくられた正八角形の古墳。京都市の御廟野古墳(現・天智天皇陵)や奈良県高市郡明日香村の野口王墓古墳(現・天武・持統合葬陵)などが有名。.
六祖壇経
『六祖壇経』(ろくそだんきょう)は、仏教の経典で、中国禅宗の第六祖・慧能の説法集である。禅宗における根本教典のひとつ。最も古い写本は『南宗頓教最上大乘摩訶般若波羅蜜經六祖惠能大師於韶州大梵寺施法壇經』と名づけられる。『六祖大師法宝壇経』とも、単に『壇経』とも言う。 唐代の初め頃、韶州刺史の韋璩(い きょ)の求めに応じて、大梵寺において行った説法をおもな内容とする。書き留めたのは弟子の法海である。.
元号
元号(げんごう)とは、日本を含むアジア東部における紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は一年の途中でも行われ、一年未満で改元された元号もある。日本においては年号(ねんごう)とも呼ばれることもある。公称としては、江戸時代まで「年号」が多く使われ、明治時代以降は一世一元の制が定着し、「元号」が法的用語となった。現代では元号法が制度の裏付けとなっている。.
元暁
元暁(がんぎょう、或いはげんぎょう、ハングル表記 원효、本名:薛思、 諡号:和諍国師、617年 - 686年3月30日)は新羅の華厳宗の僧侶である。新羅浄土教の先駆者。俗姓は薛、名前は誓幢、新幢である。 新羅の押梁郡(現在の慶尚北道)に生まれ、29歳のときに皇龍寺で出家。興輪寺の法蔵に華厳を学ぶ。教学と論争に優れた人物であった。650年, 義湘と共に唐に渡ろうとしようとしたが、高句麗軍に阻まれ失敗した。661年また義湘と唐に渡ろうとしようとしたが、党項城の古塚にとどまっているときに、偶然に骸骨に溜まった水を飲んで、「真理は遠くにあるものではない。枕元で甘く飲めた水が、起きた後に骸骨に溜まっていたことを知った時、気に障り吐きたくなった。だが、世の中への認識は心にこそある」と悟って帰って来た。その後は華厳学の研究に専念し、240巻もの著作を成した。 ある日、元曉が街で「誰許沒柯斧 我斫支天柱」という歌を歌った。誰も意味が分からなかったが, 武烈王だけは意味を理解し未亡人だった瑤石宮の公主を嫁がせ、彼女は薛聡を生んだ。その後、元曉は「小姓居士」と名を変えて、芸人が与えた瓠に「無碍」という名を付けて、歌を作って仏教を庶民に普及させた。 弟子の審祥が日本に華厳宗を伝えたため、東大寺を始めとする南都の諸寺院でもてはやされるようになり、高山寺にある『華厳縁起』には、元暁にまつわる様々な伝説が語られている。.
前期チャールキヤ朝
バーダーミのチャールキヤ朝(- ちょう、Badami Chalukya dynasty)とは、6世紀中頃から8世紀中頃に、インドのデカン地方、南インドを支配したヒンドゥー王朝(543年頃 - 753年)。.
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国号
国号(こくごう)とは、主に国の称号、あるいは名称のこと。2通りの意味において使用されており、1つは「帝国」、「王国」、「大公国」、「公国」、「首長国(土侯国)」、「共和国(民国)」などの統治体制(政体)を表す部分を含めた国の名称を指す場合と、もう1つは政体を除いた国の名称を「国号」ということがある。 政体を含めない用例としては「韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件」(明治43年勅令第318号)がある。同勅令は「韓国ノ国号ハ之ヲ改メ爾今朝鮮ト称ス」としており、政体(当時の韓国は帝政を布いていた帝国)を含めないで国号という語を用いている。なお、韓国併合ニ関スル条約(明治43年条約第4号)では互いの国名を「日本国・韓国」と表記しているが、それを遡る日韓議定書(1904年2月23日)では互いの国名を「大日本帝国・大韓帝国」としている。.
国子監
北京国子監辟雍殿 国子監(こくしかん)とは、中国における隋代以降、近代以前の最高学府。各王朝の都(長安・洛陽・開封・南京)など)に設けられた。明代には南京と北京の二都に設けられた。.
国立考古学博物館 (スペイン)
国立考古学博物館(Museo Arqueológico Nacional, 略称MAN)は、スペイン・マドリードにある国立博物館。に隣接し、スペイン国立図書館と建物を共有している Madrid Tourist。.
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国立故宮博物院
国立故宮博物院(こくりつこきゅうはくぶついん)は、中華民国の台北市にある博物館である。この博物館は、中華民国の国立博物館のうちの1つであり、最大のもので、697,000個以上の古代の中国の人工品および美術品を所蔵している.
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国造
国造(くに の みやつこ・こくぞう・こくそう)は、古代日本の行政機構において地方を治める官職のこと。また、その官職に就いた人のこと。軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者であったが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。 訓の「みやつこ」とは「御奴(ミヤツコ)」または「御家つ子」の意味とされる。.
倭国
倭国(わこく)とは、古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時日本列島にあった政治勢力、国家を指して用いた呼称。倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。7世紀後半に、対外的な国号を日本に改めている。倭人は紀元前2世紀頃から『漢書』地理志などの史料に現れている。.
犬上御田鍬
上 御田鍬(いぬがみ の みたすき、生没年不詳)は、飛鳥時代にあたる7世紀前半・日本の人物。姓は君。三田耜とも書かれる。最後の遣隋使および最初の遣唐使を務めた、大和朝廷の中級官吏・外交官の一人。冠位は大仁。.
石舞台古墳
石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。国の特別史跡に指定されている。 元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていたが、その土が失われ、巨大な石を用いた横穴式石室が露出している。埋葬者としては蘇我馬子が有力視されている。.
玄奘三蔵
奘(げんじょう、602年 - 664年3月7日)は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は。諡は大遍覚『全唐文』「s:zh:大唐三藏大遍覺法師塔銘(並序)」で、尊称は法師、三蔵など。鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。 629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなった。.
玄武門の変
武門の変(げんぶもんのへん)は、626年7月2日(武徳9年6月4日)に発生した唐の高祖の後継者争い。これに勝利した李世民が第2代皇帝として即位することになった。.
王世充
王世充(おう せいじゅう)は隋末唐初に割拠した群雄のひとり。隋朝の恭帝侗を廃して鄭国を建てた。 隋朝の有力な部将であり、煬帝の時代には反乱軍を撃破して活躍し、恭帝侗の時代には反乱軍団を保有していた李密を降伏させた。619年に恭帝侗を廃して鄭の皇帝に即位すると、李淵率いる唐の軍事的圧力を受けて夏国の竇建徳に救援を求めたが、竇建徳が唐の李世民(太宗)に敗れると王世充も唐に降伏した。李淵は王世充の一族を巴蜀(四川)の流刑に処したが、道中で父親を王世充に殺されていた独孤修徳に殺害された。.
王皇后 (唐高宗)
王皇后(おう こうごう、? - 655年)は、中国の唐の高宗李治の廃后。本貫は并州祁県。.
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王玄策
王玄策(おう げんさく、生没年不詳)は唐の太宗、高宗に仕えた中堅の文官(官僚)。中国から天竺(インドのヴァルダナ朝)へ3回(一説では4回)にわたり外交使節として赴き、特に2回目の天竺行において現地の内紛に武力介入したことで知られている。しかしそれ以外に特筆すべき業績はなかったため、『旧唐書』『新唐書』とも単独の伝を立てていない。.
睿宗 (唐)
睿宗(えいそう)は、唐朝の第5代・第8代皇帝。高宗の第8子で、中宗の弟に当たる。.
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神学者
学者(しんがくしゃ)は、神学の学者のことである。通例、単に「神学者」と言えばキリスト教神学を学ぶ者を指し、イスラーム神学(カラーム)など他宗教の神学を学ぶ者については「イスラーム神学者」などの表現が使われる事が多い。 正教会では聖人の称号としても用いられるが、「神学者」の称号を持つ聖人は4名のみである。.
神宮式年遷宮
宮式年遷宮(じんぐうしきねんせんぐう)は、神宮(伊勢神宮)において行われる式年遷宮(定期的に行われる遷宮)のことである。.
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神都
都(しんと).
禅
禅(ぜん)は、大乗仏教の一派である禅宗(ぜんしゅう)の略、もしくは、サンスクリット語の dhyāna (ディヤーナ)の音写、禅那(ぜんな)の略である『広辞苑』「禅」。また坐禅(座禅)の略としての意もある。本項では宗派についての禅宗について述べる。.
称制
制(しょうせい)は、君主が死亡した後、次代の君主となる者(皇太子等)や先の君主の后が、即位せずに政務を執ること。日本では飛鳥時代に中大兄皇子(天智天皇)と鸕野皇后(持統天皇)の二例が見られるが、どちらも『日本書紀』では一見してほとんど事実上の天皇と同然に記述されている。日本の場合、摂政と似ているが、摂政の場合は天皇が同時に存在しているが、称制の場合は天皇がいない(称制している本人が事実上の天皇か天皇に準ずる存在)のが大きな違いである。.
科挙
科挙の合格者発表(放榜) 貢院の号舎 科挙(かきょ、)とは、中国で598年~1905年、即ち隋から清の時代まで、約1300年間にわたって行われた官僚登用試験である。.
突厥
突厥(とっけつ、とっくつ、拼音:Tūjué、古テュルク語:【Türük】、【Türük】、トルコ語:Göktürk【ギョクテュルク】)は、6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。もともとはジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族で、柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事したが、552年に柔然から独立すると、部族連合である突厥可汗国(突厥帝国などと呼ばれることもある)を建て、中央ユーラシアの覇者となる。582年には内紛によって東西に分裂した。.
竜門
、龍門(りゅうもん、ルンムン、ヨンムン).
竇建徳
竇 建徳(とう けんとく)は、隋末唐初に割拠した群雄の一人。.
第3コンスタンティノポリス公会議
3コンスタンティノポリス公会議(だい3コンスタンティノポリスこうかいぎ)は、680年~681年にかけて東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスで行われたキリスト教の公会議。 正教会の日本ハリストス正教会では、第六全地公会という。 単性論の変形説である単意論を排斥。ローマ教皇ホノリウス1世を断罪。.
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第一次ブルガリア帝国
一次ブルガリア帝国(ブルガリア語:Първа българска държава;英語:First Bulgarian Empire)は、7世紀より11世紀前半まで続いた東ヨーロッパのブルガリアに栄えた帝国。10世紀前半におけるシメオン1世の治世に全盛期を迎えたが、東ローマ帝国によって滅ぼされた。.
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第二次内乱 (イスラーム史)
イスラーム史において、第二次内乱(だいにじないらん)は、カルバラーの惨劇(680年)からイブン・ズバイルの乱の平定(692年)までのイスラーム教ウンマの分裂状態をいう。シリアを根拠地とするウマイヤ家と、マッカで蜂起したイブン・ズバイルと、クーファでを中心に蜂起した親アリー勢力の三つ巴の内乱であった。.
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粛慎 (日本)
粛慎(みしはせ、あしはせ)は、日本の正史である『日本書紀』や『続日本紀』などの中に記述が見られる民族である。中国文献中の粛慎とは存在した時期にかなりの開きがあり、同一であるかどうかなど両者の関係性は不明である。.
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総大司教
総大司教(そうだいしきょう)は、カトリック教会において最高の裁治権をもつ司教職。 原語であるギリシャ語"πατριαρχής"(パトリアルケース、英語:Patriarch)は正教会では「総主教」と訳されるが、正教会の総主教は各国の正教会の首長であり聖職者の最高位であるため、その権限は西方の総大司教とは大きく異なる(「正教会の総主教」の段落で後述)。 ギリシャ語"πατριαρχής"(パトリアルケース)は、父を意味するπατήρ (pater)「パーテル」とリーダーなどを意味する ἄρχων (archon)「アルコン」の複合語である。ラテン語では"patriarcha"(パトリアルカ)という。この語は旧約聖書の七十人訳において、族長時代の族長のことを指していた。.
義湘
義湘(ぎしょう、625年 - 702年)は、新羅の僧で、新羅における華厳宗の祖。海東華厳宗の祖ともいわれる。.
義浄
義浄(ぎじょう、635年(貞観9年) - 713年(先天2年))は唐の僧。.
羽生蛇村
羽生蛇村(はにゅうだむら)は、SCEIのホラーゲーム『SIREN』及び『SIREN:New Translation』に登場する架空の村。××県三隅郡所属。モデルとなっているのは、埼玉県秩父郡内にかつて存在した岳集落とされる。埼玉県内に実在する羽生市とは無関係。.
羈縻政策
羈縻政策(きびせいさく)とは、中国の王朝によっておこなわれた周辺の異民族に対する統御政策の呼称。古くは漢の時代にもみられるが、唐の時代に最も巧みに利用された。.
真臘
真臘(ចេនឡា、チャンラ /日本語読み: しんろう)は、初期のクメール人の王国。中国では真臘、ベトナムではChân Lạpとして知られている。.
終末期古墳
終末期古墳(しゅうまつきこふん)は、古墳時代末から飛鳥時代にかけての7世紀頃の古墳を指す。森浩一によって最初に提唱された古墳の区分であり、この時代を古墳時代に含むとする考え方と含まないとする考え方がある。終末期古墳としては、千葉県栄町の龍角寺岩屋古墳や山武市の駄ノ塚古墳、奈良県明日香村のキトラ古墳や高松塚古墳などが、特に有名である。.
用明天皇
明天皇(ようめいてんのう、生年不詳 - 用明天皇2年4月9日(587年5月21日?))は、日本の第31代天皇(在位:敏達天皇14年9月5日(585年10月3日?) - 用明天皇2年4月9日(587年5月21日?))。.
煬帝
帝(ようだい、ようてい)は、隋朝の第2代皇帝(在位:604年8月21日 - 618年4月11日)。中国史を代表する暴君といわれる。煬帝は唐王朝による追謚であり、本名は楊広である。.
牽牛子塚古墳
石槨入り口(2014年10月撮影) 牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村大字越にある古墳。形状は八角墳。国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。 指定時には「あさがおつかこふん」の読みが付されており、「牽牛子」はアサガオの別称である。「御前塚」と呼称されることもある奈良県明日香村。2009年(平成21年)から2010年(平成22年)にかけての発掘調査によって、八角墳(八角形墳)であることが判明し、飛鳥時代の女帝で天智天皇・天武天皇の母とされる第37代斉明天皇(第35代皇極天皇)の陵である可能性が高まっている。.
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狄仁傑
仁傑(てき じんけつ、630年(貞観4年) - 700年(久視元年))は、中国唐代の政治家。高宗・中宗・睿宗・武則天に仕えた。唐代で太宗の時代に続いて安定していたといわれる武則天の治世において最も信頼され、長年に渡って宰相を務めた。.
白馬寺 (洛陽)
白馬寺山門 白馬寺(はくばじ、、)は、後漢の明帝の、仏教の中国伝来に関する感夢求法説話に基づいて、洛陽郊外に建立された仏教寺院。.
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白村江の戦い
白村江の戦い(はくそんこうのたたかい、はくすきのえのたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。.
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百済
済(くだら/ひゃくさい、旧字体:百濟、4世紀前半 - 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。 百済の歴史はその首都の移動によって、大きく漢城期(475年まで)、熊津期(475-538年)、時代(538から)に分類される。漢城期には現在の京畿道を中心としていたが、高句麗の攻撃によって首都漢城が陥落し、一時的に滅亡した後は、現在の忠清南道にあった熊津(現:公州)へと遷って再興した。熊津時代の百済は弱体化していたが、武寧王が高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復し、南方の伽耶(加羅)地方へと勢力を拡張した。538年には新たな首都としてを建設し、一層伽耶地方を含む周囲への拡大を図った。百済が存続していた時代には、朝鮮半島北部から満州地方にかけての地域に高句麗、朝鮮半島南東部に新羅、半島南部には多数の伽耶諸国が存在していた。この時代は朝鮮史の枠組みにおいて三国時代と呼ばれている。 中国の東晋や南朝と密接な関係を結び、仏教や各種の南朝文化・学問を導入して栄え、周辺諸国とも交流を持った。現在、百済の歴史は高麗時代に編纂された歴史書『三国史記』や、日本の『日本書紀』、中国の歴代の正史などによって知られており、また墓や寺院跡のような考古学的遺物からも学術的な調査が行われている。宋山里古墳群にある武寧王陵は百済の最も著名な墳墓で、20世紀に未盗掘のまま発見されたため、往時の文化遺産が多数残された。 中国で南北朝時代が終焉を迎え、隋が成立すると隋の高句麗遠征に加わるも逆に高句麗から侵攻されることになり、ついで唐がその支配を握ると、唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、聖王死後の百済と対立していた新羅を支援して百済を攻撃した。これによって660年に百済は滅亡し、王族や遺臣たちは倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、663年の白村江の戦いにおける敗戦とともに鎮圧された。その後唐は旧百済領の経営に乗り出したが、本国における問題と新羅による攻撃の結果、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられた。.
隋
隋(呉音: ずい、漢音: すい、 、581年 - 618年)は、中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。当時の日本である倭国からは遣隋使が送られた。.
隋の高句麗遠征
隋の高句麗遠征(ずいのこうくりえんせい)は、598年から614年まで4回にわたって行われた、隋による高句麗への遠征である。.
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隋唐演義
『隋唐演義』(ずいとうえんぎ)は、清初の(ちょじんかく)によって作られた通俗歴史小説。20巻100回。 『隋唐志伝』『隋煬帝艶史』『隋史遺文』などをもとに唐・宋の伝奇小説や筆記、民間の伝承文芸から材料を集めて作られた。隋の文帝が陳を滅亡させたところから始まり、安史の乱の後、唐の玄宗が長安に戻るところで終わる。雑多で思想的統一性のなさが指摘されるが、隋末反乱の場面で描かれる秦瓊・単雄信・程咬金・羅成といった瓦崗寨の人物が個性的に描かれている。 日本では、安能務、田中芳樹によるリライト本が出版されている。.
韻書
韻書(いんしょ)とは、漢字を韻によって分類した書物。元来、詩や詞、曲といった韻文を作る際に押韻可能な字を調べるために用いられたものであるが、音韻は押韻の必要以上に細かく分類されており、字義も記されているので、字書などの辞典のもつ役割も果たした。 韻とは声母(頭子音)・介音(半母音)を除いた音節後半部(主母音+韻尾)とかぶせ音韻である四声の違いを区別したもので、たとえば『広韻』では206韻の韻目(押韻可能な韻の類別。代表字によって~韻と呼ばれる)が立てられ、同韻内では声類、等呼の違いによる小韻(完全に声母・韻母・声調を同じくするグループ)によって漢字が分類されている。.
鞍作止利
飛鳥大仏 鞍作 止利(くらつくり の とり、生没年不詳)は、飛鳥時代の渡来系の仏師、技術者。名は鳥とも記される。姓は村主。司馬達等の孫で、鞍部多須奈の子。.
遊仙窟
『遊仙窟』(ゆうせんくつ)は、中国唐代に書かれた伝奇小説である。.
遣唐使
遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが、『旧唐書』や『新唐書』の記述においては、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国では618年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に56年ぶりに再開が計画されたが、遣唐大使の菅原道真の建議により休止され、907年に唐が滅び、そのまま消滅する形となった。遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・僧にも多くの人材を供給した。留学生井真成の墓も中国で発見された。.
遣隋使
遣隋使(けんずいし)とは、推古朝の時代、倭国(俀國)が技術や制度を学ぶために隋に派遣した朝貢使のことをいう。600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣されている。なお、日本という名称が使用されたのは遣唐使からである。 大阪の住吉大社近くの住吉津から出発し、住吉の細江(現・細江川)から大阪湾に出、難波津を経て瀬戸内海を筑紫(九州)那大津へ向かい、そこから玄界灘に出る。 倭の五王による南朝への奉献以来約1世紀を経て再開された遣隋使の目的は、東アジアの中心国・先進国である隋の文化の摂取が主であるが、朝鮮半島での影響力維持の意図もあった。この外交方針は次の遣唐使の派遣にも引き継がれた。.
聖墳墓教会
聖墳墓教会(せいふんぼきょうかい)は、エルサレム旧市街(東エルサレム)にあるキリストの墓とされる場所に建つ教会。ゴルゴタの丘はこの場所にあったとされる。 正教会では復活教会(希:Anastasis、アラビア語:كنيسة القيامة、ラテン文字転写:Kanīsa al-Qiyāma)とも称されている。ギリシャ正教系の正教会、アルメニア使徒教会等においてはエルサレム総主教座聖堂であり、中東地域の教会行政の中心でもある。.
聖徳太子
聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))・厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)は、飛鳥時代の皇族・政治家。「聖徳太子」は、後世の諡号。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。.
聖マクシモス
聖マクシモス(580年頃 - 662年8月13日、Μάξιμος ο Ομολογητής, Maximus Confessor, Maximus the Confessor)は、キリスト教の神学者であり修道士。正教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。マクシムス、マクシム、マキシモス、マキシムとも転写される。 ギリシア教父の一人に数えられる。 各言語のΟμολογητής・Confessorの部分は、日本正教会では表信者、日本のカトリック教会では証聖者と訳される。正教会では克肖表信者聖マクシムとも呼ばれ『諸聖略伝 二月』7 - 12頁、日本ハリストス正教会府主教庁 (平成元年5月22日発行)カトリック教会では証聖者マクシモスと呼ばれる。 学問研究者によっては教派色をさけるため、告白者マクシモスと訳されることもある。 単意論への反駁で知られる。.
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聖ウィリブロルド
聖ウィリブロルド(Saint Willibrord, Villibrordus, 658年 - 739年11月8日)は、キリスト教の聖人であり、伝道者である。 フリーセン地方の伝道者で、ユトレヒト初の司教を務めた。ノーサンブリアに生まれ、現ルクセンブルクのエヒタナハで没した。.
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聖カタリナ修道院
聖カタリナ修道院(せいかたりなしゅうどういん、英名:Saint Catherine's Monastery)は、エジプト、シナイ山の麓にある峡谷の河口、シナイ半島に位置する正教会の修道院の名称。他に聖カテリナ修道院、聖カトリーナ修道院、聖エカテリナ修道院とも称される。修道院は現在も継続して機能する、キリスト教:正教会の世界最古の修道院である。聖カタリナ修道院はユネスコの世界遺産に登録されている。.
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道登
道登(どうとう、生没年不詳)は、飛鳥時代の僧。.
道昭
道昭(どうしょう、道紹や道照とも、舒明天皇元年(629年)- 文武天皇4年3月10日(700年4月3日))は、河内国丹比郡船連(ふねのむらじ)(現・大阪府堺市)出身の法相宗の僧である。父は船恵尺。.
華厳宗
華厳宗(けごんしゅう)は、大乗仏教の宗派のひとつ。『大方広仏華厳経』(『華厳経』)を拠り所とした宗派で、開祖は杜順。日本仏教における華厳宗は、審祥により736年に伝えられた。南都六宗の一つ。東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立された。.
華厳経
『華厳経』(けごんぎょう、Avataṃsaka Sūtra, アヴァタンサカ・スートラ)、正式名称『大方広仏華厳経』(だいほうこうぶつけごんきょう、Buddhāvataṃsaka-nāma-mahāvaipulya-sūtra, ブッダーヴァタンサカ・ナーマ・マハーヴァイプリヤ・スートラ)は、大乗仏教経典の1つ。 経名は「大方広仏の、華で飾られた(アヴァタンサカ)教え」の意。「大方広仏」、つまり時間も空間も超越した絶対的な存在としての仏という存在について説いた経典である。 元来は『雑華経』(ぞうけきょう、Gaṇḍavyūha Sūtra, ガンダヴィユーハ・スートラ)、すなわち「様々な華で飾られた・荘厳された(ガンダヴィユーハ)教え」とも呼ばれていた。.
華北
華北地域 華北(かほく、North China)とは、中国北部地域の呼称である。華北平原とは、多分に重なるが、必ずしも完全に一致しない。.
蝦夷
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称である。 中央政権の地域が広がるにつれ、この言葉が指し示す人々および地理的範囲は変化した。近世以降は、北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指す。 大きく、「エミシ、エビス(愛瀰詩、毛人、蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。.
預言者
言者(よげんしゃ、prophet)とは、「自己の思想やおもわくによらず、霊感により啓示された神意 (託宣) を伝達し、あるいは解釈して神と人とを仲介する者。祭司が預言者となる場合もあり、しばしば共同体の指導的役割を果す。」 本項ではユダヤ教、キリスト教、イスラム教、バハーイー教における預言者について詳述する。.
頡利可汗
頡利可汗(漢音:けつりかがん、拼音:Jiélìkèhán/Jílìkèhán、? - 634年)は、東突厥の可汗。啓民可汗の第三子。始畢可汗、処羅可汗の弟。頡利可汗(イリグ・カガン Ilig-qaγan)というのは称号で、姓は阿史那氏、名は咄苾(とひつ)という。.
額田王
額田王(ぬかたのおおきみ、ぬかたのきみ、生没年不詳)は、飛鳥時代の日本の皇族・歌人。天武天皇の妃(一説に采女や巫女)。 額田王(『万葉集』)の表記が一般的であるが、額田女王、額田姫王(『日本書紀』)、額田部姫王(『薬師寺縁起』)とも記される。.
顔師古
師古(がん しこ、581年 - 645年)は、中国・初唐の学者である。本貫は、琅邪郡臨沂県(山東省臨沂市)、諱は籀、師古は字である。.
顔之推
之推(がん しすい、531年 - 591年以降)は、中国の南北朝時代末期の学者。字は介。本貫は琅邪郡臨沂県(現在の山東省臨沂市費県の東)。.
飢饉
飢饉(ききん、Famine)とは、何らかの要因により人々が飢え苦しむことを指す。狭義においては、一地域における死亡率を急激に上げるような極端な食料不足の事態を指すことが多い。主食とする農産物の大規模な不作を契機とする場合が多い。.
裴世清
裴 世清(はい せいせい、生没年不詳)は、7世紀前半に、中国王朝隋の煬帝による命令で俀國(倭国)を訪れた使者。.
飛鳥浄御原宮
飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや、あすかきよみがはらのみや)は、7世紀後半の天皇である天武天皇と持統天皇の2代が営んだ宮。奈良県明日香村飛鳥に伝承地があるが、近年の発掘成果により同村、岡の伝飛鳥板蓋宮跡にあったと考えられるようになっている。 『日本書紀』天武天皇元年是歳の条に、「宮室を岡本宮の南に営る。即冬に、遷りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。」とある。また、朱鳥元年七月の条に「元を改めて朱鳥(あかみどり)元年という。仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)謂ふ。」とある。これを信じれば、「飛鳥浄御原宮」という宮号は天武十五年(朱鳥元、686)に名づけられたことになり、672年12月~686年7月までは、この宮の名がなかったことになる。 飛鳥の諸宮の名は、豊浦宮、小墾田宮、飛鳥岡本宮、後飛鳥岡本宮などで分かるように地名をつけている。異なるのが飛鳥浄御原宮である。「浄御原」は一種の嘉号であり、朱鳥年号とともに、不祥を祓い天皇の病気平癒を願ったものであるという。 大化前代の宮(皇居)は、多く飛鳥地方の中で天皇の代ごとに移っていた。しかし、大化の時に孝徳天皇は難波(なにわ)に長柄豊碕宮(ながらのとよさきのみや)を造り、天智天皇は近江大津宮に移った。 672年の壬申の乱に勝利した大海人皇子が、天智天皇・弘文天皇の都であった近江国(滋賀県)の近江大津宮から飛鳥に都を戻すべく、この宮を造営した。翌673年に大海人がこの宮で天武天皇として即位して以降、天武天皇とその夫人で次の天皇となった持統天皇が、20年以上に渡ってこの宮で律令国家の基礎を築く事業を進めたとされる。694年に藤原宮に遷都され、廃止された。 日本最初の律令である飛鳥浄御原令もここで編纂された。 7世紀に編纂された『日本書紀』から、内安殿など様々な名前をもった殿舎が飛鳥浄御原宮に存在したことが判明している。2004年、飛鳥京跡の発掘を進めていた奈良県立橿原考古学研究所は、大型の高床式建物跡を発見し、飛鳥浄御原宮の「正殿」であったと判断した。宮域は、南北800メートル、東西500メートルくらいの範囲に収まる。.
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飛鳥浄御原令
飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は、日本の飛鳥時代後期に制定された体系的な法典。令22巻。律令のうち令のみが制定・施行されたものである。日本史上、最初の体系的な律令法と考えられているが、現存しておらず、詳細は不明な部分が多い。.
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飛鳥時代
飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つ。広義には、飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての102年間を指す。飛鳥時代は古墳時代、大和時代の終末期と重なるが、今日では分けて捉えるのが一般的である。 この時代、推古朝では飛鳥文化、天武・持統朝では白鳳文化が華開いた。また国号が「倭」から「日本」へと変えられたのもこの時代と考えられている。.
西ゴート王国
西ゴート王国(にしゴートおうこく、、415年 - 711年)は、現在のフランス南部からイベリア半島にあたる地域を支配したゲルマン系王国。はじめはキリスト教アリウス派、のちにカトリックを国教とし、ゲルマン文化・ローマ文化・キリスト教文化を融合させ栄えた。ビシゴート王国とも。.
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西スラヴ人
西スラヴ人が多数を占める国 西スラヴ人(にしスラヴじん)は、スラヴ人の中で、西スラヴ語を話すチェコ人、ポーランド人、スロバキア人、カシューブ人、 ソルブ人を指す、グループも含む。このうちカシューブ人はすでにポーランド人に同化され、ソルブ人もドイツ社会に取り込まれているが、他の西スラヴ人は今日まで彼らの文化的なアイデンティティを保ち続いている。西スラヴ人社会は西ヨーロッパ諸国に倣って神聖ローマ帝国と政治的に連携することで発展してきた。.
西突厥
西突厥(にしとっけつ、拼音:Xī Tūjué)は、582年に突厥から分離した西の勢力。これに対し東の勢力を東突厥という。西突厥は中央アジアを支配し、東はアルタイ山脈、南はタリム盆地,トハリスタン、西はカスピ海までをその版図とした。657年、西可汗の阿史那賀魯が唐に捕らえられて以降、西突厥は唐の羈縻政策下に入った。741年頃に西突厥の阿史那氏が滅ぶと、その後は(テュルギシュ)や葛邏禄(カルルク)が実権を握るようになった。西突厥は別に十姓(オン・オク、on-oq、)とも呼ばれた。.
西遊記
西遊記の登場人物を描いた絵画(頤和園) 京劇の『西遊記』 『西遊記』(さいゆうき、、、)は、中国で16世紀の明の時代に大成した伝奇小説で、唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え、幾多の苦難を乗り越え天竺へ取経を目指す物語、全100回。中国四大奇書に数えられる。 著者は、『淮安府史』(明、天啓年間成立)に、呉承恩(1504年頃 - 1582年頃、江蘇省出身)の著書として「西遊記」という書名が記述されていることから、彼が作者であると20世紀の中国では定説化していたが、後述のように批判的な説が存在し、明確な結論は出ていない。詳しくは後述。 『西遊記』の流行を受けて、明代から清代にかけ呉元泰、呉政泰と余象斗が、仏教と道教に関わる戯曲・雑劇と神話伝説に基づいて編纂したのが『東遊記』・『南遊記』・『北遊記』で『四遊記』と称される。.
西暦
西暦(せいれき)とは、キリスト教でキリスト(救世主)と見なされるイエス・キリストが生まれたとされる年の翌年を元年(紀元)とした紀年法である。ラテン文字表記はヨーロッパ各国で異なるが、日本語や英語圏では、ラテン語の「A.D.」又は「AD」が使われる。A.D.またADとは「アンノドミニ (Anno Domini)」の略であり、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味。西暦紀元、キリスト紀元ともいう。 今年は2018年 (JST) である。西ヨーロッパのキリスト教(カトリック教会、および後のプロテスタント)地域から徐々に普及し(後述)、西欧諸国が世界各地で進めた植民活動などによって伝わった結果、現在において世界で最も広く使われている紀年法となっている。 しかし、19世紀以降においては、非キリスト教徒との関係から、ADをCommon Era(略:CE、「共通紀元」の意)へ、同時に紀元前(BC)をBefore Common Era(BCE)に切り替える動きが広まっている。.
駱賓王
駱賓王(らく ひんおう、640年 - 684年?)は唐代中国の詩人松枝茂夫 編 『中国名詩選』中 1984年 岩波文庫 ISBN 978-4003203323 p.214 。。「初唐の四傑」の一人。.
訓詁学
訓詁学(くんこがく)とは、中国の伝統的な言語学のうち、語の意味を研究する分野をいう。とりわけ漢以前の古書に見られる古代語を研究した。その著作は古代の書籍に注釈する形のものと、語を集めて分類し語義を分析したもの(義書)がある。.
高句麗
句麗(こうくり、、紀元前37年 - 668年)または高麗(こうらい、こま、)は、現在の中国東北部の南部から朝鮮民主主義人民共和国、韓国北部に存在した国家。しばしばツングース系民族によって建てられたとされるが*シロコゴロフ、川久保悌郎・田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。.
高向玄理
向 玄理(たかむこ の くろまろ、生年不詳 - 白雉5年(654年))は、飛鳥時代の学者。名は黒麻呂とも記される。高向古足の子。姓は漢人のち史。冠位は大錦上。.
高宗 (唐)
宗(こうそう)は、唐の第3代皇帝。太宗の第9子。母は唐の名臣として名高い鮮卑の拓跋を出自に持つ長孫無忌の妹の長孫皇后である。.
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高松塚古墳
松塚古墳 高松塚古墳(たかまつづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)に存在する古墳。藤原京期(694年~710年)に築造された終末期古墳で、直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになった。 2009年に本来の形状に復元され、一般に公開されている。.
高昌
昌(こうしょう、拼音:Gāochāng、ウイグル語:Qara-hoja、khocho)は、中国の南北朝時代から唐代にかけて現在の新疆ウイグル自治区・トルファン市に存在したオアシス都市国家。元・明代にはウィグル語「Qara-hoja」の音訳から「哈拉和卓」(カラ・ホージャ)、「火州」、「霍州」などとして記録されている。トルファン市高昌区には、城址遺跡「高昌故城」が残っている。.
魏徴
魏 徴(ぎ ちょう、580年 - 643年)は、唐の政治家。字は玄成。祖父の魏釗は北周に仕え、父の魏琬は隋に仕えた。子に魏叔玉、魏叔瑜、魏叔琬、魏叔璘、娘(霍王李元軌夫人)などがいる。.
豊干
豊干(ぶかん、ほうかん、生没年不詳)は、中国・唐代の禅僧。豊干禅師ともいわれ、寒山と拾得と共に三聖と呼ばれる。.
貞観の治
貞観の治(じょうがんのち)は、中国唐(618年 - 907年)の第2代皇帝太宗の治世、貞観(元年 - 23年)時代(627年 - 649年)の政治を指す。この時代、中国史上最も良く国内が治まった時代と言われ、後世に政治的な理想時代とされた。 わずかな異変でも改元を行った王朝時代において、同一の元号が23年も続くというのはまれであり、その治世がいかに安定していたかが窺える。 この時代を示す言葉として、『資治通鑑』に「-海内升平,路不拾遺,外戸不閉,商旅野宿焉。」(天下太平であり、道に置き忘れたものは盗まれない。家の戸は閉ざされること無く、旅の商人は野宿をする(ほど治安が良い))との評がある。 この時代の政治は『貞観政要』(太宗と大臣の対話集)として文書にまとめられ、長く政治のテキストとして用いられた。.
貞観政要
貞観政要(じょうがんせいよう)は、唐代に呉兢呉兢(ごきょう、670年 - 749年)は、唐代の歴史家(中文)。が編纂したとされる太宗の言行録である。題名の「貞観」は太宗の在位の年号で、「政要」は「政治の要諦」をいう。全10巻40篇からなる。 中宗の代に上呈したものと玄宗の代にそれを改編したものと2種類があり、第4巻の内容が異なる。伝本には元の戈直(かちょく)が欧陽脩や司馬光による評を付して整理したものが明代に発刊されてひろまった「戈直本」と、唐代に日本に伝わったとされる旧本の2系がある。日本以外にも朝鮮・女真・西夏の周辺諸語に訳されるなど大きな影響を与えた。.
近江大津宮
近江大津宮(おうみおおつのみや/おうみのおおつのみや)は、飛鳥時代に天智天皇が近江国滋賀郡に営んだ都。天智天皇6年(667年)に飛鳥から近江に遷都した天智天皇はこの宮で正式に即位し、近江令や庚午年籍など律令制の基礎となる施策を実行。天皇崩後に朝廷の首班となった大友皇子(弘文天皇)は天武天皇元年(672年)の壬申の乱で大海人皇子に敗れたため、5年余りで廃都となった。 史料上は「近江大津宮」のほか「大津宮(おおつのみや)」・「志賀の都(しがのみやこ)」とも表記されるが、本来の表記は「水海大津宮(おうみのおおつのみや)」であったとの指摘もある。1974年(昭和49年)以来の発掘調査で、滋賀県大津市錦織の住宅地で宮の一部遺構が確認され、「近江大津宮錦織遺跡」として国の史跡に指定されている。.
近江国
近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
郡司
郡司(ぐんじ、こおりのつかさ)は、律令制下において、中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官である。.
舒明天皇
舒明天皇(じょめいてんのう、推古天皇元年(593年)? - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))は、日本の第34代天皇(在位:舒明天皇元年1月4日(629年2月2日) - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))。 諱は田村(たむら)。 和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。.
阿史那骨咄禄
阿史那 骨咄禄(呉音:あしな こちとちろく、漢音:あしだ こつとつろく、拼音:Āshǐnà Gŭduōlù、生没年不詳)は、東突厥の第二可汗国期の初代可汗。頡利可汗の族人。一時、唐によって滅ぼされた東突厥を復興させる(俗に突厥第二可汗国、突厥第二帝国と呼ばれる)。彼の事績は『オルホン碑文』にも刻まれており、クトゥルグ(Qutluγ:“幸得たる者”の意)またはイルティリシュ・カガン(古テュルク語: - İltiriš-qaγan:“国家を糾合した可汗”の意)の名で知られる。史書によっては骨吐禄、骨篤禄とも表記される。.
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阿史那賀魯
阿史那 賀魯(呉音:あしな がろ、漢音:あしだ かろ、拼音:Āshǐnà Hèlŭ、? - 659年)は、西突厥の可汗。室點蜜可汗の五世の孫で、曳歩利設射匱特勤(阿史那劫越)の子。可汗号は沙鉢羅可汗(イシュバラカガン)。.
阿倍比羅夫
阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ、生没年不詳)は、7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣。冠位は大錦上。越国守・後将軍・大宰帥を歴任した。斉明天皇4年(658年)から3年間をかけて日本海側を北は北海道までを航海して蝦夷を服属させ、粛慎と交戦した。.
阿羅本
阿羅本(あらほん、、ピンイン: Āluóběn)は、唐朝へキリスト教を広めるために訪れた宣教師。阿羅本の原音は、セム系"アブラハム"の訳であるという説や、aloho punoya, "神の改宗"などの説がある。 歴史上、最も早く中国にキリスト教(ネストリウス派)を伝えた人物といわれている。 「大秦景教流行中国碑」によると、唐代貞観9年(635年)、阿羅本はアッシリア東方教会の使いでネストリウス派の主教として、宣教団を率い、首都・長安へ向かった。唐太宗は宰相の房玄齢に長安郊外まで出迎えさせた。当時、唐は各所からの外国人の来訪を歓迎していた。 貞観12年(638年)、ネストリウス派キリスト教は唐朝に認められ、唐朝は資金を援助して、教会(後の大秦寺)を建てさせた。 唐高宗時代になると、阿羅本に「鎮国大法主」に封ぜられ、各地に景寺(教会)を建てるよう、詔勅が下され、ネストリウス派キリスト教は唐王朝に広まることになった。.
蘇我入鹿
蘇我 入鹿(そが の いるか、不詳 - 皇極天皇4年(645年)6月12日)は、飛鳥時代の豪族。 大臣として大和朝廷の有力者であったが、乙巳の変において討たれ、その後蘇我氏が凋落するきっかけとなった。.
蘇我倉山田石川麻呂
SVGで表示(対応ブラウザのみ) 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだ の いしかわまろ/そがのくらのやまだのいしかわ の まろ、生年不詳 - 大化5年3月25日(649年5月15日))は、飛鳥時代の豪族。 名称は「蘇我倉山田麻呂」「倉山田臣」「山田臣」「山田大臣」などとも。 蘇我馬子の子である蘇我倉麻呂の子であり、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟に当たる。兄弟に日向・赤兄・連子・果安。.
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蘇我蝦夷
SVGで表示(対応ブラウザのみ) 蘇我 蝦夷(そが の えみし)は、飛鳥時代の政治家、貴族。大臣として権勢を振るうが乙巳の変で自害した。.
蘇我馬子
各人物記事へのリンク表示) 蘇我 馬子(そが の うまこ)名に「子」の字が付くが男性である(当時は「子」が男女問わず用いられた)。子 (人名)を参照のこと。は、飛鳥時代の政治家、貴族。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。 敏達天皇のとき大臣に就き、 以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年にわたり権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築いた。.
閻立本
閻立本(えん りっぽん、生年不明 – 咸亨4年(673年))は中国の初唐の画家である。太宗に仕え、貴族ではあるが宮廷画家として活躍した。人物図・肖像画を得意とする。雍州万年(現在の西安市臨潼区)の人。.
薄葬令
薄葬令(はくそうれい)は、大化2年(646年)、身分に応じて墳墓の規模などを制限した勅令。 『日本書紀』大化2年(646年)3月22日条によれば、大化の改新のなかで薄葬令が規定された。 中国の故事に習い、民衆の犠牲を軽減するため、王臣と庶民の身分に応じて作ってよい陵墓を制限し、人馬の殉死殉葬を禁止し、天皇の陵にかける時間を7日以内に制限するなどの制限が加えられた。 墳陵は小型簡素化され、前方後円墳の造営がなくなり、古墳時代は事実上終わりを告げる。.
開元通宝
開通元寳(開元通寳) 開元通寳(開通元寳) 開元通宝(かいげんつうほう)は、唐代において武徳4年(621年)に初鋳され、唐代のみならず五代十国時代まで約300年にわたって流通した貨幣。 開元通宝は秦の半両銭、漢の五銖銭の形態を継承し、直径は8分(約24mm)である。この銭貨1枚の質量は2銖4絫、すなわち1両(大両)の(約3.73g)であり、ここから質量の単位である「銭」が生まれた。「1斤.
薛懐義
薛 懐義(せつ かいぎ、? - 695年)は、中国、武周時代の僧。京兆鄠県(陝西省)の出身。旧姓は馮、元名は小宝。 元来は洛陽で売薬を生業とする力士であったのを、たまたま千金公主を通して武則天に知られるようになり、その寵愛を受けた。武后の奨めによって出家して僧となり、女婿の薛紹の族籍に編入したことから、薛氏を名乗るようになった。 垂拱年間(685年 - 689年)に洛陽の白馬寺の寺主となった。武后の寵を受けた薛懐義の威勢は凄まじく、武氏一門の者でも媚び諂ったという。 688年(垂拱4年)、反対勢力を制圧した武后の栄誉を祝して巨大な明堂を建てた。また、武后を仏の転生であると説く大雲経を偽作し、全国の大雲経寺に頒布した。 その後、武后の寵が侍医の沈南璆に移ると、薛懐義は明堂に放火して抵抗の意志を表したが、侍御史の周矩によって誣告され、太平公主によって殺害された。 かいき Category:唐代の人物 Category:695年没.
藤原京
藤原京条坊(拡大してご覧ください) 列柱は実際位置から南30メートルで標示。奥に大極殿跡(樹叢)。 藤原京(ふじわらきょう)は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城。日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城でもある。平城京に遷都されるまでの日本の首都とされた。 『日本書紀』には新益京持統天皇6年正月12日(692年2月4日)条。読みを「あらましのみやこ」「あらましきょう」「しんやくのみやこ」「しんやくきょう」などとしている。と著されている。藤原京の名は、宮が同じく『日本書紀』で藤原宮と呼ばれていることから飛鳥京と同様に近世になって名づけた学術用語である。本項ではこの藤原宮についても述べる。.
藤原鎌足
中臣 鎌足(なかとみ の かまたり)のち藤原 鎌足(ふじわら の かまたり)は、飛鳥時代の政治家。日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖。 大化の改新の中心人物であり、改新後も中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた。『藤氏家伝』には「偉雅、風姿特秀」と記されている。字は仲郎。.
藤原氏
藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.
釈迦三尊
釈迦三尊(しゃかさんぞん)は、仏教における仏像安置の形式のひとつである。飛鳥文化を代表する彫刻で、法隆寺にある本尊、聖徳太子死後の623年に妃や皇子達が鞍作鳥に作らさせた。.
金剛山 (金剛山地)
葛木岳 金剛山(こんごうさん、こんごうざん)は、奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境目にある山。かつては高間山・高天山(たかまやま)や葛城嶺(かづらきのみね)といわれていた。金剛山地の主峰である。 標高1,125m。最高地点は葛木岳といい、御所市の葛木神社の本殿の裏にあるが、神域となっており立ち入ることはできないため、国見城跡の広場が山頂扱いされている。他に湧出岳1,112m、大日岳1,094mのピークがある。大阪府の最高地点 (1,053m) がこの山の中腹にあり、その旨の標識が掲出されている。三角点は湧出岳に設置されている。 奈良県と大阪府を一望できる良好な立地条件から、奈良県防災行政無線、電源開発、関西電力などの無線中継所が湧出岳に設置されている。大日岳には昭和20年代から警察庁の無線中継所が存在した(平成時代に撤去済み) 大日岳の広場(開けた場所)はその跡地である。 金剛山ロープウェイが山上の「ちはや園地」まで架けられており、気軽に山上までアクセスできるほか、山頂付近まで林道が整備されており、山頂付近には宿や売店などもある。一帯が金剛生駒紀泉国定公園に属しており、奥河内観光のひとつとなっている。 大阪みどりの百選に選定されている。.
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長孫無忌
長孫 無忌(ちょうそん むき、生年不詳 - 659年)は、中国の初唐を代表する政治家。唐の太宗の長孫皇后の兄であり、唐朝の外戚に当たる。字は輔機。本貫は河南郡洛陽。凌煙閣二十四功臣の第一位である。.
若草伽藍
若草伽藍(わかくさがらん)は、奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺西院伽藍南東部の境内から発見された寺院跡である。創建時の法隆寺であると考えられることから、創建法隆寺とも呼ばれる。.
集史
『集史』(しゅうし、جامعالتواریخ. Jāmi` al-Tavārīkh、جامع التواريخ. Jāmi` al-Tawārīkh)は、イルハン朝の第7代君主ガザン・ハンの勅命(ヤルリグ)によってその宰相であったラシードゥッディーンを中心に編纂された歴史書である。イラン・イスラム世界、さらに言えばモンゴル君主ガザン自身の視点が反映されたモンゴル帝国の発祥と発展を記した記録として極めて重要な文献である。 モンゴル史部分の編纂には、ガザン自身も多くの情報を口述しこれがモンゴル史の根本となったことはラシードゥッディーンも序文で述べているが、これらのことからも『集史』はガザン自身の見解が色濃く反映された歴史書である。その性格のため『集史』はペルシア語で編纂された歴史書であるが、13、14世紀のモンゴル語やテュルク語やその他の多言語の語彙・用語を多く含み、そのペルシア語の用語も多く含まれている。このため『集史』は、モンゴル帝国が持つユーラシア規模の世界性をまさに体現した希有の資料と評されている。 ペルシア語で書かれたものであるが、タイトルである Jāmi` al-Tawārīkh はアラビア語で「諸々の歴史を集めたもの」を意味し、日本語では『集史』と翻訳されている。ちなみにロシアの東洋学者ベレジンによる校訂本に基づいたモンゴル史までの中国語訳があるが、この題は『史集』と訳されている。.
逸文
逸文(いつぶん、いつもん、佚文とも)とは、かつて存在していたが、現在は伝わらない文章のこと。伝わらない書物のことは、逸書(いつしょ)または佚書という。ただし、それらは書籍等の原本が伝えられていないとしても、他書などに引用され、断片的な形で伝えられている場合がある。例えば、風土記は、原本は5ヵ国分しか伝えられていないが、それ以外の国の風土記を、諸書に引用された箇所から部分的に復元する事が可能である。こうした作業のことを、輯佚(しゅういつ)と呼ぶ。また、輯佚の結果、復元を試みられた成果物のことを、輯本(しゅうほん)・輯佚書(しゅういつしょ)などと呼ぶ。同様の作業は、現存する書物についても行われる。前近代の書物は書写が繰り返される中で内容に変化が生じていることも多々あり、他書に引用された部分を参照することでその過程を復元できる。 日本近代文学研究のうえでは、個人全集に収録もれになった文章(特に新発見の場合が多い)のことを呼ぶ場合がある。.
虞世南
虞 世南(ぐ せいなん / Yú Shìnán、558年 - 638年)は、唐代の書家、政治家。字は伯施。越州余姚県(現・浙江省余姚市)の人。初唐の三大家の一人。.
陸法言
法言(りく ほうげん、生没年不詳)は、中国・隋代の音韻学者。本貫は魏郡臨漳県。法言は字であり、名は詞または慈という。陸爽の子で、陸氏は鮮卑人である:zh:切韻岡田英弘 pp.103-106。.
SIREN (ゲームソフト)
『SIREN』(サイレン)は、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCEI)が開発及び発売したPlayStation 2用のホラーゲームである。 2006年2月9日には続編の『SIREN2』が発売された。同年にはその『2』をベースにした映画『サイレン 〜FORBIDDEN SIREN〜』も公開された。また、ゲーム・映画のアナザーワールドとして漫画『サイレン 〜ETERNAL SIREN〜』がある。 2008年7月24日、PS3で第3作『SIREN:New Translation』が発売された。 2014年7月17日には本作のコミカライズ版『SIREN -赤イ海ノ呼ビ声-』、2018年3月2日には本作を新解釈で描く『SIREN ReBIRTH』が連載中。 ヨーロッパでの名称は『Forbidden Siren』。韓国版及び中国語版では『死魂曲 SIREN』となっている。.
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推古天皇
推古天皇(すいこてんのう、欽明天皇15年(554年) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)『古事記』では戊子年3月15日)は、第33代天皇(在位:崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。(神功皇后を含まない)歴代天皇の中では最初の女帝(女性天皇)であるベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎(翻訳)、78頁。(第2章『女性統治者の出現』、5『最初の「天皇」は女性だった』、『日本で最初の「天皇」』)、また、女性君主は当時の東アジアではまだみられなかった。諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)。炊屋姫尊とも称される。『古事記』ではこの天皇までを記している。 天皇号を初めて用いた日本の君主という説もあるが、1998年の飛鳥池工房遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見された以後は、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有力となっている。また、容姿端麗であった。.
恭帝トウ
恭帝侗(きょうてい とう)は隋の第4代皇帝。唐の高祖李淵に擁立された異母弟の楊侑とは異なり、唐を正統とする立場から後世からは正統な皇帝とみなされていない。元号を皇泰としたため、皇泰主とも史称される。.
李密 (隋)
李 密(り みつ、582年(開皇2年) - 618年(武徳元年))は、中国の隋末に割拠した群雄の一人である。 遼東郡襄平県の出身。字は玄邃、法主。曽祖父は西魏の柱国の李弼、祖父は北周の邢国公の李曜、隋の蒲山郡公の李寛が父である。つまり、武川鎮軍閥中の名家の一つである李氏を出自とする。 若くして大人の風があったとされる。煬帝に疎まれて家に戻った後、黄牛の背で、その角に『漢書』の項羽伝を架けて読んだという故事が伝えられる。 613年(大業9年)に反乱を起こした楊玄感と交流があり、その乱に合流した。反乱が失敗に終わると、名を変えて民間に隠れたが、翟譲たちが東郡(河南省滑県)で反乱を起こすと、再び表舞台に現れて、州県を奪取した。617年(義寧元年)、興洛倉(河南省鞏県)を破り、貯蔵物資を民間に散財し、そこに拠って魏公を名乗り、永平と改元した。翟譲を廃して実権を掌握し、一時的には、本拠とする河南はもとより、山東省から江蘇省までを勢力下に収めた。 618年(義寧2年)、宇文化及が煬帝を殺害して秦王を擁立して江都に拠り、洛陽では王世充らによって恭帝侗が擁立され、長安に拠る李淵が恭帝侑の譲りを受けて唐を建国すると、それまで自ら尊号を名乗る事も隋朝に従う事も拒否してきた李密は一転して恭帝侗に恭順して太尉・尚書令・東南道大行台・行軍元帥・魏公を授けられる。これは、李淵や宇文化及に対抗するために自らも恭帝侗からの禅譲による新国家建国を目指したものと考えられている。だが、同じく禅譲を狙っていた王世充との会戦に敗れ、長安に拠る李淵のもとに降った。 唐朝からは光禄卿、邢国公を授けられたが、最期は、唐朝への謀反を誣告され、斬られた。.
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李勣
李 勣(り せき 594年? - 669年)は中国唐代の軍人。字は懋功(ぼうこう)。元の姓は徐、元の諱は世勣で、唐より国姓の李を授けられ、後に太宗李世民を避諱して李勣と改めた。李靖と共に初唐の名将とされ、高句麗征服など数々の功績を挙げた。.
李靖
李 靖(り せい、、 571年 - 649年)は、中国唐代に太宗に仕えた軍人・政治家。李勣とともに初唐の名将として知られ、突厥征伐などで戦功を挙げた。字は薬師。衛公に封じられた。李靖と太宗の対話は『李衛公問対』という書物にまとめられ、兵法書として高い評価を受けている。.
李衛公問対
『李衛公問対』(りえいこうもんたい)は、中国の兵法書である。全三篇。.
李賢 (唐)
李賢(り けん、永徽5年(654年) - 文明元年(684年))は、中国・唐の皇太子。高宗の六男で、母は武則天。字は明允。諡号は章懐太子(しょうかいたいし)。中宗、睿宗の同母兄である。.
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李淵
李 淵(り えん)は、唐の初代皇帝。隋末の混乱の中で太原で挙兵し、長安を落として根拠地とした。そこで隋の恭帝侑を傀儡として立て、禅譲により唐を建国した。李淵は在位9年の間王世充などの群雄勢力と戦い、また律令を整備した。626年に太宗(李世民)に譲位し、太宗が残存の群雄勢力を一掃して唐の天下統一を果たした。.
東ローマ帝国
東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.
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東突厥
東突厥(ひがしとっけつ、拼音:Dōng Tūjué)は、582年に突厥が東西に分裂した際の東側の勢力。これに対し、西側の勢力を西突厥と言う。東突厥は大きく分けて3つの時期に分類でき、1つ目が第一可汗国期、2つ目が羈縻(きび)政策期、3つ目が第二可汗国期となる。744年、最後の東可汗が回紇(ウイグル)によって殺されると、東突厥の旧領は回鶻可汗国に取って代わった。.
杜如晦
杜如晦(と じょかい、585年 - 630年)は、中国唐代の政治家。字は克明。京兆郡杜陵県の人。隋の昌州長史であった杜吒の子として生まれる。 史書に親しみ、隋末には吏部に入ったが、間もなく官を辞し故郷へ戻った。李淵が長安を占拠すると、李世民の参謀役であった房玄齢により見出され、幕下に加わった。 玄武門の変の前、讒言により秦王府を追われたが、太宗が即位をすると中央政界に復活し、太子左庶子や兵部尚書という要職を歴任し、尚書右僕射まで上り詰める。左僕射の房玄齢とともに貞観の治を現出させた。 630年に46歳の若さで逝去した。死後司空、莱国公を贈られ、諡を成とした。 房玄齢が企画力に優れていたのに対して、杜如晦は決断力に優れ、軍事、政治に多難であった太宗の治世の初期をよく支えた。杜如晦の裁決はよどみなく同僚から敬服された。房玄齢に「秦王府から去る者が多くとも、それは惜しくはございません。ただ、杜如晦殿は聡明で見識に優れ、帝王の補佐としての才能がある人物でございます。もし、大王が諸侯で満足なさるのなら、彼を用いる場所はございませんでしょう。 しかし、帝王として天下を治めようと思いますなら彼以外に良い人材はおりませぬ。」と言われたという。 Category:唐代の人物 Category:西安出身の人物 しよかい Category:585年生 Category:630年没.
栄留王
栄留王(えいりゅうおう、生年不詳 - 642年)は、高句麗の第27代の王(在位:618年 - 642年)。姓は高、諱は建武、または成。先代の嬰陽王の異母弟であり、父は第25代平原王。618年9月に先王の死去に伴い、王位に就いた。『三国史記』高句麗本紀・宝臧王紀では、諱のままに建武王と記される。.
楊玄感
楊 玄感(よう げんかん、生年不詳 - 613年)は、中国の隋の将軍。煬帝の高句麗遠征に際して反乱を起こした。この反乱自体は失敗し、楊玄感自身は敗死したものの、これ以降、反乱が各地で口火を切り、群雄割拠を経て、隋の滅亡や唐の成立へとつながる切っ掛けとなった。.
橘大郎女
橘大郎女(たちばな の おおいらつめ、生没年不詳)は、飛鳥時代の皇族。聖徳太子の妃。父は尾張皇子(敏達天皇の皇子)で推古天皇の孫にあたる。子に白髪部王、手嶋女王。.
欧陽詢
欧陽詢(おうよう じゅん、557年 - 641年)は、唐代の儒家、書家。字は信本。潭州臨湘(現在の湖南省長沙市)に生まれ、安徽で死去した。.
正統カリフ
正統カリフ(せいとうカリフ、الخلفاء الراشدون - al-Khulafā’u r-Rāshidūn、アラビア語で「正しく導かれた代理人たち」の意)は、イスラム教・イスラム帝国の初期(الخلافة الراشدية - al-khilāfat ar-Rāshidīyah - en)の時代においてイスラム共同体(ウンマ)を率いたカリフのことを指すスンナ派の用語。正統カリフ4代のうちアブー・バクルを除く3代の正統カリフが暗殺されてこの世を去っている。.
武川鎮軍閥
武川鎮軍閥(ぶせんちんぐんばつ)は、中国南北朝時代の西魏・北周、および隋・唐の支配層を形成していた集団のことである。関隴集団ともいう。 最初に、この集団に着目したのは、清朝の考証学者である趙翼であった。趙翼はその著『二十二史箚記』の巻15に「周隋唐皆出自武川」という項を立てて、この集団について正史に基づいて論証し、武川鎮は「王気」が聚まる所であると述べている。 「関隴集団」の語を用いて、更にこの貴族集団に関して論証を推し進めたのは、陳寅恪であり、『唐代政治史述論稿』(1944年)等において詳述されている。また、日本の谷川道雄も、『隋唐帝国形成史論』(1971年)等で論証している。.
武則天
武 則天(ぶ そくてん)は、中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。諱は照()。日本では則天武后(そくてんぶこう)と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。古来より「則天」と姓名をはっきりさせず呼ばれてきたが、現在の中国では姓を冠して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている。.
武烈王
武烈王(ぶれつおう、朝鮮語:무열왕、603年 - 661年)は、新羅の第29代の王(在位:654年 - 661年)であり、姓は金、諱は春秋。父は第25代真智王の子の伊飡(2等官)の金龍春金龍樹とも表記する。(後に文興王と追封)、母は第26代真平王の長女である天明公主(後に文貞太后と追封)。王妃は角干(1等官)の金舒玄の娘の文明王后金氏(文姫)であり、金庾信の妹に当たる。654年3月に先代の真徳女王が死去し、群臣に推戴されて王位に就いた。在位中に百済を滅ぼし、三国統一の基盤を為した。死後、太宗の廟号を贈られ、太宗武烈王とも称せられる。韓国では古代の君主の廟号を受けた最初の君主でもある。.
武韋の禍
武韋の禍(ぶいのか)は、唐の高宗の死後、その皇后で後に帝位に即いて周を建てた武則天(則天武后)と、武則天の子でその後を継いだ中宗の皇后の韋皇后による簒奪の計画、およびそれにより起こった政治の混乱の総称。その後の玄宗の開元の治によって収束を迎え、唐は安定を迎えた。.
法相宗
法相宗(ほっそうしゅう)は、インド瑜伽行派(唯識派)の思想を継承する、中国の唐時代創始の大乗仏教宗派の一つ。645年(唐代、貞観19年)中インドから玄奘が帰国し唯識説が伝えられることになる。その玄奘の弟子の慈恩大師基(一般に窺基と呼ぶ)が開いた宗派である。唯識宗・慈恩宗・中道宗とも呼ばれる。705年に華厳宗が隆盛になるにしたがい、宗派としてはしだいに衰えた。 日本仏教における法相宗は、玄奘に師事した道昭が法興寺で広め、南都六宗の一つとして、8-9世紀に隆盛を極めた。.
法隆寺
法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院。聖徳宗の総本山である。別名は斑鳩寺(いかるがでら、鵤寺とも)、法隆学問寺など。 法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。 法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。.
法蔵 (唐)
法蔵(ほうぞう、643年 - 712年)は、中国唐の時代における華厳宗の僧。出身は長安。俗姓は诸葛氏。華厳宗第三祖。賢首大師、香象大師などの呼び名がある。 智儼(ちごん)に華厳経を学び、670年勅命を受けて出家した。則天武后の庇護を受けて華厳教学を宣揚し、華厳教学の実質的な大成者となった。また、実叉難陀の華厳経80巻の訳出や義浄の訳経などに関与した。弟子には文超・慧苑などがいる。.
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洛陽市
洛陽の古い街並み 洛陽城の外城の正門『定鼎門』 洛陽竜門駅 洛陽市(らくようし、ルオヤン、、、)は、中華人民共和国の河南省西部にある都市。しばしば関中の長安と並んで中国王朝の首都となった。 中国における西の長安と東の洛陽が並び立つ両都制になぞらえて平安京の西半分の右京を長安城、東半分の左京を洛陽城と雅称した事に由来し、やがて右京の荒廃と左京の繁栄に伴い平安京全体の別名となり、その一字「洛」をもって京都を表すに至って京洛・洛中・洛外・上洛などの言葉が生まれた。.
淵蓋蘇文
淵蓋蘇文(えん がいそぶん、生年不詳 - 665年(宝蔵王24年))は、高句麗末期の宰相・将軍。泉蓋蘇文、泉蓋金とも記される。.
渤海 (国)
渤海(ぼっかい、698年 - 926年)は、現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国家。大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、唐からも「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹(遼)によって滅ぼされた。 大祚栄や渤海国の成り立ちに関して『旧唐書』渤海靺鞨伝は「渤海靺鞨大祚榮者,本高麗別種也。高麗既滅,祚榮率家屬徙居營州。(渤海靺鞨の(建国者)大祚栄は、もと高(句)麗の別種である。高(句)麗が既に滅亡(六六八)してしまったので、(大)祚栄は一族を率いて営州(遼寧省朝陽市)へ移り住んだ。)」と記し、『新唐書』はより具体的に「渤海,本粟末靺鞨附高麗者,姓大氏。(渤海は、もとの粟末靺鞨で、高(句)麗に付属していた。姓は大氏である。)と記しており、高句麗に服属していた粟末靺鞨の出とある。 『大金国志』には、女直(女真)は粛慎の遺種であり、渤海の別種(又曰女直、粛慎氏遺種、渤海之別種也。)と記す。 渤海の風俗は高句麗・契丹と同じ(風俗瑟高麗及契丹同「風俗は高麗契丹に重なり同じくする」)とある。 「渤海」の名は本来、遼東半島と山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことである。初代国王大祚栄が、この渤海の沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。.
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清弁
清弁 清弁(しょうべん、Bhāviveka, バーヴィヴェーカ、Bhavya, バヴィヤ、Bhāvaviveka, バーヴァヴィヴェーカ)は、490年頃から570年頃のインド仏教の中観派の学者である。 唯識派の陳那の影響を受け、龍樹の『中論』に表れる空の思想を論理学的な推論式によって積極的に論証するという方法を確立した。しかしその論理学的方法は、後に月称(7世紀)によって批判された。 チベット仏教の教学においては、この月称による批判をもって中観派は自立論証派(スヴァータントリカ)と帰謬論証派(プラーサンギカ)に分裂したとする。.
漢書
天一閣に保管されている、明の時代の版である漢書 『漢書』(かんじょ)は、中国後漢の章帝の時に班固、班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。「本紀」12巻、「列伝」70巻、「表」8巻、「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。後漢書との対比から前漢書ともいう。 『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)の形式をとった歴史書である。『漢書』の形式は、後の正史編纂の規範となった。 『史記』と並び、二十四史の中の双璧と称えられ、故に元号の出典に多く使われた。史記と重なる時期の記述が多いので、比較される事が多い。特徴として、あくまで歴史の記録に重点が多いので、史記に比べて物語の記述としては面白みに欠けるが、詔や上奏文をそのまま引用しているため、正確さでは史記に勝る。また思想的に、儒教的な観点により統一されている。.
持統天皇
持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、天武天皇の皇后で、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日) - 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。漢風諡号、持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという。.
朝会
朝会(ちょうかい)とは、学校や企業などで朝に行われる集会。朝礼(ちょうれい)ともいう。.
朝鮮半島
朝鮮半島(ちょうせんはんとう、)は、ユーラシア大陸の中緯度の東端に位置する半島。 陸地の幅が最も狭くなるのは平壌のやや北の平安南道 - 咸鏡南道だが、とくに人文地理学で「朝鮮半島」と言った場合は半島最狭部より北の、豆満江や鴨緑江などによって隔てられる伝統的な中朝国境より南を指すのが普通であり、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)を擁する。済州島を含めた朝鮮地域全体を指して用いられることも多い。このように、自然地形の名称というよりは政治的・文化的・歴史的な文脈において、朝鮮の同義語として使われることが少なくない。1948年に建国された韓国における呼称は韓半島(かんはんとう、)である。.
木蘭
木蘭(もくらん、、ムーラン)は、中国における伝承文芸・歌謡文芸で語られた物語上の女性主人公。木蘭の姓は「花」「朱」「木」「魏」など一定していないが、京劇では「花木蘭」とされる。.
月称
月称 月称(げっしょう、Candrakīrti, チャンドラキールティ)は、7世紀のインド仏教の中観派の思想家・注釈家である。.
有間皇子
name.
成唯識論
『成唯識論』(じょうゆいしきろん、Vijñapti-mātratā-siddhi, ヴィジュナプティ・マートラター・シッディ)は、法相宗(唯識宗)が所依とする論典の一つ。10巻からなる。 「ヴィジュナプティ・マートラター」(vijñapti-mātratā)とは「唯識」、「シッディ」(悉地, siddhi)とは「成就」、総じて「唯識による(悟りの)成就(についての論)」の意。 世親が著した『唯識三十頌』を護法が注釈したもので、中国の唐代に玄奘が漢訳した唯識の論典。 日本へも早くに伝わり、長く唯識の教学として研究された。近年新しい訳解説が刊行されている。.
戸籍
戸籍(こせき)とは、戸と呼ばれる家族集団単位で国民を登録する目的で作成される公文書である。 かつては東アジアの広い地域で存在していた。21世紀の現在では中華人民共和国(事実上形骸化している)と日本と中華民国(台湾)のみに現存する制度である。.
房玄齢
房玄齢(ぼう げんれい 578年 - 648年)は中国唐代の政治家・歴史家。玄齢は字で、諱は喬。杜如晦と共に太宗の謀臣として玄武門の変において太宗の権力奪取を助け、貞観の治の立役者の一人とされる。また正史編纂にも関わり、『北斉書』などを総監した。.
戒賢
戒賢(かいけん、シーラバドラ、Śīlabhadra、529年 - 645年)は、古代インドの僧、唯識派。玄奘の師。.
春秋決獄
春秋決獄(じゅんじゅう-けつごく)または経議決獄(けいぎ-けつごく)は古代中国の裁判における判断基準。前漢中期の董仲舒が提唱し、孔子による儒学思想を中心とする六経の記載に依拠し犯罪者に対する処分を決定するものである。 法令体系に規定が存在しない場合、司法官は儒学思想に依拠して判断するものであり、儒学思想を法律体系の上位に規定するものであった。犯罪者の動機が儒学思想に依拠するものであった場合、軽罪もしくは免罪として処理され、動機が儒学思想に反するものであれば結果の如何に問わず重罪に問われる場合もあった。そのため司法官の任意な断罪が可能ともなり弊害を来たす場合もあった。 唐代の652年(永徽3年)に唐律疏義が編纂され律令制が確立すると、漢代から続いた春秋決獄は廃止された。 Category:中国の法制史 Category:漢朝の法 Category:魏晋南北朝時代の法 Category:隋朝の法 Category:唐朝の法 Category:中国の刑事法.
浮石寺
浮石寺(ふせきじ、プソクサ、ブソッサ)は、大韓民国慶尚北道栄州市にある仏教寺院である。曹渓宗(大韓仏教曹渓宗)の第7教区に属し、修徳寺の末寺にあたる。韓国10大名刹の中の一つで、無量寿殿(大韓民国指定国宝第18号)は、韓国最古の木造建物の一つとされる。.
新羅
新羅(しらぎ/しんら、前57年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。 朝鮮の歴史区分では、新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を三国時代、新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年-900年)を統一新羅時代、新羅から後高句麗と後百済が分裂した10世紀の時代を後三国時代という。.
斑鳩
斑鳩(いかるが)とは、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺を中心とした地域。古くは鵤とも表記された。.
斑鳩宮
斑鳩宮(いかるがのみや)は、聖徳太子が現在の奈良県生駒郡斑鳩町に営んだ宮殿。 聖徳太子は、推古天皇9年(601年)に斑鳩宮を造営し、推古天皇13年(605年)に移り住んだ。また、太子の手により、斑鳩宮の西方に斑鳩伽藍群(法隆寺・中宮寺・法輪寺・法起寺)が建立された。 太子の薨去後は、太子の王子山背大兄王一族が住んでいたが、皇極天皇2年(643年)に蘇我入鹿の兵によって宮は焼き払われ、山背大兄王以下の上宮王家の人々は、法隆寺で自決に追い込まれたとされる。なお現在の法隆寺は蘇我氏滅亡後に再建されたとされ、明治期から法隆寺再建・非再建論争が行われた。今日でも法隆寺再建をめぐり論議がなされている。 発掘調査で判明したことは、まず宮は現在の東院伽藍の場所に建っていたこと、宮の範囲は二町四方であること、などである。しかし、宮全体構造はまだ分かっていない。また、厩戸皇子が建立したと伝えられる斑鳩寺は、西院伽藍の裏手の若草伽藍であり、金堂や塔が火災にあい焼失した痕跡が残っていた。伽藍中心部の広さは東西や139メートル、南北172.5メートルの四天王寺式伽藍配置であった。斑鳩宮と斑鳩寺(若草伽藍)は、方位がほぼ同じで同時期の造営であることがわかる。また、西院伽藍の東大門や西大門に沿う築地も同方向であるので、斑鳩宮造営と同時に築造され、道路や水路を広範囲に敷設したことと推測できる。さらに、飛鳥と斑鳩を結ぶ太子道も同方位である。太子道は、筋違い道とも呼ばれ、磯城郡田原本町保津と生駒郡斑鳩町高安を結ぶ道であった。1998年の発掘で田原本町保津の起点の東南から側溝20メートル(溝幅3メートル、深さ0.5メートル)の道が検出されている。 Category:日本の宮殿 Category:現存しない奈良県の建築物 Category:飛鳥時代の遺跡 Category:奈良県の考古遺跡 category:聖徳太子 Category:法隆寺 Category:斑鳩町の歴史.
文武天皇
文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))。 諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の707年(慶雲4年11月12日)に「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−豐祖父)と、『続日本紀』797年(延暦16年)に諡された「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−眞宗豐祖父)がある。 当時としては異例の14歳の若さで即位。祖母・持統太上天皇(史上初の太上天皇)のもとで政務を行っていた。後の院政形式の始まりである。.
文武王
文武王(ぶんぶおう、626年 - 681年7月21日(旧暦7月1日))は、新羅の第30代の王(在位:661年 - 681年)であり、姓は金、諱は法敏。先代の武烈王の長子であり、母は角干(1等官)の金舒玄の娘(金庾信の妹)の文明夫人。王妃は波珍飡(4等官)の金善品(真智王の弟の金仇輪の子)の娘の慈儀王后。661年6月に先代の武烈王が死去し、王位に就いた。在位中に高句麗を滅ぼし、また唐の勢力を朝鮮半島から駆逐して、半島の統一を果たした。.
文成公主
文成公主(ぶんせいこうしゅ、蔵:、623年頃 - 680年)は、唐の皇女で、吐蕃のソンツェン・ガンポ王の第2皇后。.
斉明天皇
皇極天皇(こうぎょくてんのう)、重祚して斉明天皇(さいめいてんのう;齊明天皇、推古天皇2年(594年) - 斉明天皇7年7月24日(661年8月24日))は、日本の第35代・第37代天皇。 在位期間は、皇極天皇として皇極天皇元年1月15日(642年2月19日) - 4年6月14日(645年7月12日)、斉明天皇として斉明天皇元年1月3日(655年2月14日) - 7年7月24日(661年8月24日)。 舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から一代おいて即位した女帝(女性天皇)になる。.
日本
日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.
旻
旻(みん、生年不詳 - 白雉4年(653年)6月)は、飛鳥時代の学僧。.
摂政
摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.
改新の詔
改新の詔(かいしんのみことのり)は、日本の飛鳥時代中期の大化の改新において、新たな施政方針を示すために発せられた詔。難波長柄豊碕宮で発せられたとされる。 この詔は『日本書紀』に掲載されている。従来はこれにより、公地公民制、租庸調の税制、班田収授法などが確立したと考えられていた。しかし、藤原京から出土した木簡により『日本書紀』に見える詔の内容は編者によって潤色されたものであることが明白になっている。.
敏達天皇
敏達天皇(びだつてんのう、宣化天皇3年?(538年?) - 敏達天皇14年8月15日(585年9月14日?)は、第30代天皇。 在位期間は、敏達天皇元年4月3日(572年4月30日?)から同14年8月15日(585年9月14日?)まで。和風諡号は渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと。『古事記』では沼名倉太珠敷命)。別名、他田天皇。.
教皇
教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.
慧能
慧能(えのう、諡は大鑑禅師、638年2月27日(貞観12年2月8日) - 713年8月28日(先天2年8月3日))は、范陽(河北省涿州市)の盧氏出身の禅僧で、中国禅宗(南宗)の第六祖である。.
扶南国
扶南国(ふなんこく)は、1世紀から7世紀にかけてメコン川下流域(現在のカンボジア、ベトナム南部)からチャオプラヤーデルタにかけて栄えたヒンドゥー教・仏教(5世紀以降)の古代国家。.
拾得
拾得(じっとく、生没年不詳)は、中国・唐代に浙江省にある天台山の国清寺にいたとされる伝説的な風狂僧。豊干禅師に拾われて仕事を得たのが、名前の由来とされる。寒山と拾得は仲が良く、いつも子供のように遊び回っていた。その様子があまりに風変わりだったため、後世の人によって特別視され、寒山は文殊菩薩、拾得は普賢菩薩の化身とする説が生まれた。 寒山と共に有髪の姿で禅画の画題とされる。巻物を持った姿で描かれる寒山に対して、拾得は箒を持った姿で表現される。.
曷薩那可汗
曷薩那可汗(呉音:がちさちなかがん、漢音:かつさつなかかん、拼音:Hésànàkĕhàn、? - 619年)は、西突厥の可汗。泥利可汗と向氏との子。曷薩那可汗というのは称号で、姓は阿史那氏、名は達漫(ダルマン)という。初めは泥撅処羅可汗(でいけつしょらかがん)と号した。.
智儼
智儼(ちごん、602年 - 668年)は中国華厳宗の第二祖とされる僧。天水(甘粛省天水県)生まれ、12歳で華厳宗初祖とされる杜順に見出され、14歳で出家、サンスクリットを学び、学僧となる。華厳経の注釈学と心の問題を扱う唯識学を統合し、華厳教学の事実上の創始者となる。.
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702年
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記載なし。