ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
インストール
ブラウザよりも高速アクセス!
 

バーミンガム・クラシック

索引 バーミンガム・クラシック

イゴン・クラシック(AEGON Classic)は毎年6月下旬にイングランドのバーミンガムで開催されるWTAツアーのテニストーナメントである。.

89 関係: 女子テニス協会孫甜甜張帥ペトラ・クビトバナタリー・トージアナターシャ・ズベレワミラグロス・セケラミリアム・オレマンスマリーナ・エラコビッチマリア・キリレンコマリア・シャラポワマルチナ・ナブラチロワマディソン・キーズマニュエラ・マレーバマグダレナ・マレーバマグダレナ・リバリコバチャン皓晴チャン詠然バルボラ・ストリコババーミンガムバーバラ・ジョーダン (テニス選手)バニア・キングメラニー・ウダンメレディス・マグラスヤユク・バスキヤニナ・ウィックマイヤーラリサ・ネーランドリーゼル・フーバーリサ・レイモンドルーシー・ハラデツカレネ・スタブスレイチェル・マッキランロリ・マクニールロージー・カザルスロベルタ・ビンチロザリン・フェアバンクトーナメント方式ヘレナ・スコバブレンダ・シュルツ=マッカーシーパム・シュライバービリー・ジーン・キングビルヒニア・ルアノ・パスクアルテニスティメア・バボシュドナ・ベキッチダニエラ・ハンチュコバベラ・ズボナレワベッツィ・ナゲルセンベサニー・マテック=サンズアナ・イバノビッチ...アナスタシア・ミスキナアリシア・モリクアンドレア・フラバーチコバアンゲリク・ケルバーアシュリー・バーティイネス・ゴロチャテギイングランドウェンディ・ターンブルエリザベス・スマイリーエルス・カレンズエレナ・ヤンコビッチエレナ・ドキッチエレーナ・リホフツェワエレニ・ダニリドゥオリガ・ゴボツォワカルラ・スアレス・ナバロカロリナ・プリスコバカーラ・ブラックカテリナ・ボンダレンコガルビネ・ムグルサキンバリー・ポークラウディア・コーデ=キルシュケーシー・デラクアコリーナ・モラリューザビーネ・リシキジュリー・アラール=デキュジスジョー・デュリージル・クレイバスジーナ・ガリソンタマリネ・タナスガーンタチアナ・ゴロビンサラ・エラニ荘佳容謝淑薇WTAプレミアトーナメントWTAインターナショナルトーナメント李娜杉山愛浅越しのぶ インデックスを展開 (39 もっと) »

女子テニス協会

女子テニス協会(じょしてにすきょうかい Women's Tennis Association)は女子プロテニスを統括する団体。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックと女子テニス協会 · 続きを見る »

孫甜甜

孫 甜甜(スン・ティエンティエン、ピン音:Sun Tiantian, 1981年10月12日 - )は、中華人民共和国・河南省鄭州市出身の女子プロテニス選手。同僚の李婷とペアを組み、2004年のアテネ五輪で女子ダブルスの金メダルを獲得した選手である。2008年の全豪オープン混合ダブルスで優勝し、4大大会でも優勝経験を持つ。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。身長175cm、体重65kg。WTAツアーでシングルス1勝、ダブルスでアテネ五輪を含む12勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス77位、ダブルス16位。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックと孫甜甜 · 続きを見る »

張帥

張 帥(ジャン・シューアイ、ピン音表記:Zhang Shuai, 1989年1月21日 - )は、中国・天津市出身の女子プロテニス選手。これまでにWTAツアーでシングルス2勝、ダブルス5勝を挙げている。身長177cm、体重65kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス23位、ダブルス29位。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックと張帥 · 続きを見る »

ペトラ・クビトバ

ペトラ・クビトバ(Petra Kvitová, チェコ語発音:, 1990年3月8日 - )は、チェコ・ビーロヴェツ出身の女子プロテニス選手。これまでにWTAツアーでシングルス20勝を挙げている(ダブルス優勝はない)。身長182cm、体重70kg、左利き。バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス2位、ダブルス196位。 ウィンブルドン選手権優勝2回。2011年WTAツアー選手権優勝。マドリード・オープン優勝2回。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとペトラ・クビトバ · 続きを見る »

ナタリー・トージア

ナタリー・トージア(Nathalie Tauziat, 1967年10月17日 - )は、フランスの女子プロテニス選手。1998年のウィンブルドン女子シングルス準優勝者。2001年の全米オープン女子ダブルスで、キンバリー・ポー・メッセーリ(アメリカ)とペアを組んだ準優勝もある。身長165cm、体重63kgと小柄な体格の選手で、独特な片手打ちのバックハンド・スライス(逆回転のボール)とネット・プレーを最も得意にした。WTAツアーでシングルス8勝、ダブルス25勝を挙げた。ウィンブルドン準優勝の後、30歳を過ぎてから世界ランキングトップ10に定着した、女子プロテニス界では遅咲きの選手だった。 トージアは中央アフリカ共和国の首都・バンギで生まれ、8歳まで当地で過ごした。4大大会初出場は16歳の時で、1984年の全仏オープンであった。地元の同大会では、7年後の1991年に出したベスト8進出が自己最高記録である。この時は4回戦で日本の沢松奈生子選手に 7-5, 2-6, 12-10 で競り勝ったが、続く準々決勝でシュテフィ・グラフに 3-6, 2-6 で完敗した。(トージアはグラフには「21戦全敗」で、1セットも取れなかった。) ウィンブルドンでは1992年、1997年にベスト8進出があり、1998年に30歳で初の決勝進出を果たす。これはフランスの女子テニス選手として、1925年のスザンヌ・ランラン以来「73年ぶり」の進出であった。その決勝戦ではヤナ・ノボトナに 4-6, 6-7 のストレートで敗れて準優勝になった。その後もウィンブルドンでは、1999年と2001年にベスト8進出がある。トージアのプレー・スタイルは、ウィンブルドン選手権で最大の威力を発揮した。 女子国別対抗戦・フェドカップでのフランス代表としての活動歴も長く、1997年のワールド・グループ1回戦でトージアは東京・有明コロシアムで沢松と再び 7-5, 4-6, 17-15 の激闘を戦っている。フランス・チームはこの年にフェドカップ初優勝を果たした。ところが2000年4月、トージアは『女子テニス界の裏側』という題名の暴露本を出版する。この著書にフランスのチームメートへの批判的な内容も含まれていたことで、彼女は同年のシドニー五輪のフランス代表を外された。 トージアは2001年のシーズンを最後に女子ツアー大会のシングルスから撤退したが、最後の4大大会シングルス出場となった同年の全米オープンは4回戦進出で終わった。ダブルスでは2003年まで現役を続行し、最後の試合出場は2003年全仏オープンの女子ダブルス1回戦であった。 2005年1月、長年のテニス界への貢献に対しレジオンドヌール勲章が授与された。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとナタリー・トージア · 続きを見る »

ナターシャ・ズベレワ

ナターシャ・ズベレワ(、、1971年4月16日 - )は、ソビエト連邦(現在はベラルーシ)・ミンスク出身の女子プロテニス選手。1988年の全仏オープン女子シングルス準優勝者で、4大大会の女子ダブルスですべてのタイトルを獲得した選手である。1992年のバルセロナ五輪女子ダブルス銅メダル獲得もある。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス1位。WTAツアーでシングルスは4勝どまりだったが、ダブルスで80勝を記録した。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。身長174cm、体重62kg。当初は英語読みの「ナタリア・ズベレワ」と名乗ったが、キャリアの途中で「ナターシャ」に改名した。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとナターシャ・ズベレワ · 続きを見る »

ミラグロス・セケラ

ミラグロス・セケラ(Milagros Sequera, 1980年9月30日 - )は、ベネズエラ・ヤラクイ州サンフェリペ出身の女子プロテニス選手。2007年5月にモロッコ・フェズ大会のシングルスで初優勝を果たし、当地の女子テニス選手として初めて、WTAツアー大会のシングルス・タイトルを獲得した選手である。WTAツアーでシングルス1勝、ダブルス3勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス48位、ダブルス29位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとミラグロス・セケラ · 続きを見る »

ミリアム・オレマンス

ミリアム・オレマンス(Miriam Oremans, 1972年9月9日 - )は、オランダ・北ブラバント州出身の元女子プロテニス選手。シドニー五輪の女子ダブルスで銀メダルを獲得した選手である。1992年のウィンブルドン混合ダブルス部門で、同じオランダのヤッコ・エルティンとペアを組んだ準優勝もある。キャリアを通じてウィンブルドン選手権を最も得意にした。WTAツアーでシングルスの優勝はなかったが、ダブルスで3勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス25位、ダブルス19位。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとミリアム・オレマンス · 続きを見る »

マリーナ・エラコビッチ

マリーナ・エラコビッチ(Marina Erakovic, 1988年3月6日 - )は、ニュージーランドの女子プロテニス選手。クロアチア・スプリト出身。これまでにWTAツアーでシングルス1勝、ダブルス8勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス39位、ダブルス25位。身長174cm、体重65kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとマリーナ・エラコビッチ · 続きを見る »

マリア・キリレンコ

マリア・キリレンコ(Maria Kirilenko,, 1987年1月25日 - )は、ロシア・モスクワ出身の女子プロテニス選手。2012年のロンドン五輪女子ダブルスで、ナディア・ペトロワとペアを組んで銅メダルを獲得した選手である。自己最高ランキングはシングルス10位、ダブルス5位。WTAツアーでシングルス6勝、ダブルス12勝を挙げた。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとマリア・キリレンコ · 続きを見る »

マリア・シャラポワ

マリア・ユーリエヴナ・シャラポワ(Maria Sharapova, Мари́я Ю́рьевна Шара́пова, 1987年4月19日 - )は、ロシア・西シベリアに位置するチュメニ州ハンティ・マンシ自治管区・ニャガン市出身の女子プロテニス選手。これまでにWTAツアーでシングルス36勝、ダブルス3勝を挙げる。自己最高世界ランキングはシングルス1位。ダブルス41位。 史上10人目の生涯グランドスラム達成者。グランドスラム優勝5回,準優勝5回。2004年WTAツアー選手権優勝。ロンドンオリンピック銀メダリスト。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとマリア・シャラポワ · 続きを見る »

マルチナ・ナブラチロワ

マルチナ・ナブラチロワ(Martina Navrátilová, 1956年10月18日 - )は、チェコスロバキア(当時、現在チェコ共和国)プラハ出身の女子プロテニス選手。ウィンブルドン選手権の大会史上最多優勝記録(9勝)、WTAツアーの最多優勝記録(シングルス167勝、ダブルス177勝)など、数々の歴史的な記録を樹立した名選手である。4大大会シングルス通算「18勝」はライバルのクリス・エバートと並ぶ女子歴代4位タイ記録。左利きの選手で、ネット・プレーを最も得意にしている。 1975年に祖国を離れてアメリカに亡命し、1981年に米国市民権を取得したが、2008年1月9日にチェコ国籍を再取得、現在は二重国籍である。 2010年4月7日、雑誌「People」で乳がんであることを告白した。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとマルチナ・ナブラチロワ · 続きを見る »

マディソン・キーズ

マディソン・キーズ(Madison Keys, 1995年2月17日 - )は、アメリカ合衆国・イリノイ州ロックアイランド出身の女子プロテニス選手。2017年の全米オープン女子シングルスの準優勝者である。自己最高ランキングはシングルス7位、ダブルス115位。これまでにWTAツアーでシングルス3勝を挙げている。身長178cm、体重66kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとマディソン・キーズ · 続きを見る »

マニュエラ・マレーバ

マニュエラ・マレーバ・フラニエール(Manuela Maleeva-Fragniere、Мануела Малеева, 1967年2月14日 - )は、ブルガリア・ソフィア出身の元女子プロテニス選手。姉妹プロテニス選手として有名な「マレーバ3姉妹」(マニュエラ、カテリナ、マグダレナ)の長女である。スイス人であるコーチのフランソワ・フラニエール(Francois Fragniere)と結婚して、国籍もブルガリアからスイスに移住した。シングルス自己最高ランキングは3位。WTAツアーでシングルス19勝、ダブルス4勝を挙げる。日本でも4つのトーナメントで優勝した。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとマニュエラ・マレーバ · 続きを見る »

マグダレナ・マレーバ

マグダレナ・マレーバ(Magdalena Maleeva, Магдалена Малеева, 1975年4月1日 - )は、ブルガリア・ソフィア出身の元女子プロテニス選手。姉妹プロテニス選手として有名な「マレーバ3姉妹」(マニュエラ、カテリナ、マグダレナ)の末っ子である。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス13位。WTAツアーでシングルス10勝、ダブルス5勝を挙げた。身長168cm、体重59kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。「マギー」(Maggie)という愛称で親しまれた。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとマグダレナ・マレーバ · 続きを見る »

マグダレナ・リバリコバ

マグダレナ・リバリコバ(Magdaléna Rybáriková, 1988年10月4日 - )は、スロバキア・ピエシュチャニ出身の女子プロテニス選手。2017年ウィンブルドン選手権女子シングルスでベスト4に進出した。これまでにWTAツアーでシングルス4勝、ダブルス1勝を挙げている。身長180cm、体重65kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。WTAランキング最高位はシングルス19位、ダブルス50位。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとマグダレナ・リバリコバ · 続きを見る »

チャン皓晴

詹 皓晴(チャン・ハオチン、英語表記:Hao-ching Chan, 1993年9月19日 - )は、台湾・台北市出身の女子プロテニス選手。マックス・ミルヌイとペアを組み、2014年のウィンブルドン選手権混合ダブルスで準優勝した選手である。身長175cm、体重60kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。これまでにWTAツアーでダブルス12勝を挙げる。自己最高ランキングはダブルス5位。姉の詹詠然もプロテニス選手である。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとチャン皓晴 · 続きを見る »

チャン詠然

詹 詠然 (チャン・ユンジャン、英語表記:Yung-Jan Chan) またはラティシャ・チャン (Latisha Chan, 1989年8月17日 -) は、台湾・台北市出身の女子プロテニス選手。マルチナ・ヒンギスとペアを組み、2017年全米オープン女子ダブルスで優勝した選手である。ベースライン・プレーヤーで、バックハンド・ストロークのダウン・ザ・ラインを最も得意にする。身長170cm、体重60kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。これまでにWTAツアーでダブルス28勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス50位、ダブルス1位。日本では「チャン・ユンヤン」の表記も見られる。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとチャン詠然 · 続きを見る »

バルボラ・ストリコバ

バルボラ・ストリコバ(Barbora Strýcová, 1986年3月28日 - )は、チェコ・プルゼニ出身の女子プロテニス選手。これまでにWTAツアーでシングルス2勝、ダブルス20勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス16位、ダブルス10位。身長164cm、体重60kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。2007年から2015年までは夫の姓を併用してバルボラ・ザフラボバ・ストリコバ(Barbora Záhlavová Strýcová,チェコ語発音: )と名乗っていた。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとバルボラ・ストリコバ · 続きを見る »

バーミンガム

バーミンガム(Birmingham、)は、イングランド、ウェスト・ミッドランズ (West Midlands) に属す工業都市である。人口は100万人ほどで、近郊を含む都市的地域の人口は229万人であり、同国第2位である。地元では首都ロンドンに次ぐ第2の大都市とされており、実際にロンドンに次ぐ市域人口・都市圏人口を有するが、イギリスの世論調査では、マンチェスターを第2の都市とする意見のほうが多い。同国有数の世界都市であり、1998年のサミット開催地である。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとバーミンガム · 続きを見る »

バーバラ・ジョーダン (テニス選手)

バーバラ・ジョーダン(Barbara Jordan, 1957年4月2日 - )は、アメリカ・ウィスコンシン州ミルウォーキー出身の元女子プロテニス選手。1979年の全豪オープン女子シングルス優勝者で、1983年の全仏オープン混合ダブルス優勝もある。WTAツアーで1979年全豪オープンを含むシングルス2勝、ダブルス6勝を挙げた。同大会で1983年の準優勝者になったキャシー・ジョーダンは、彼女の実の妹にあたる。1976年の全日本テニス選手権の女子シングルスで優勝したこともある。 1976年の全日本テニス選手権女子シングルスで優勝した時、バーバラ・ジョーダンはまだ世界的には無名の選手であったが、決勝で中川清美(園田学園女子大学)を 7-6, 6-3 で破って優勝した。それから3年後、1979年の全豪オープンで勝ち進んだ時、ジョーダンは大会第5シードでありながら、世界ランキングは「68位」であった。当時は全豪オープンの権威が他の4大大会に比べて格段に低く、開催時期も度重なる変更があった。1978年から1985年まで、全豪オープンは年末の12月に開催されていたが、ジョーダンが優勝したのはその期間中である。参加選手が極端に少なかったため、抽選も32人の選手による5回戦制であった。(1979年当時、ウィンブルドンと全米オープンは現在と同じく、128名の選手による7回戦制で、全仏オープンは64名の選手による6回戦制で試合が行われていた。)ジョーダンは3試合目にあたる準々決勝で、チェコスロバキアのハナ・マンドリコワを圧倒して波に乗り、決勝戦ではシャロン・ウォルシュ(アメリカ)を 6-3, 6-3 で破って、4大大会の女子シングルス優勝者に名前を連ねた。これは1970年代の全豪オープン選手権大会において、唯一のアメリカ人女子選手によるシングルス優勝であった。 その後は4大大会を含めた女子テニスツアーでの好成績は少ないが、1983年の全仏オープン混合ダブルス部門でエリオット・テルチャー(アメリカ)とペアを組み、2つ目のグランドスラム・タイトルを獲得した。ジョーダンとテルチャーは、混合ダブルス決勝でチャールズ・ストロード&レスリー・アレン(ともにアメリカ)組に 6-2, 6-3 のストレート勝ちを収めた。 ジョーダンは1976年の全日本テニス選手権で勝った後も、日本のトーナメントで何度かプレーした。1980年は名古屋のトーナメントでシングルス準優勝がある。1982年には、日本の「ジャパン・オープン」(当時の名称は「ジャパン・アジアン・オープン」といった)と「ボーデン・クラシック」(現在は消滅)で2つのダブルス優勝を記録した。ジャパン・オープンの女子ダブルスではローラ・デュポンとのペアで、日本の佐藤直子とブレンダ・レミルトン(Brenda Remilton)の組を 6-2, 6-7, 6-1 で破って優勝を飾った。バーバラ・ジョーダンは1987年4月に30歳で現役を引退した。 バーバラの全豪優勝から4年後、1983年に妹のキャシー・ジョーダンが同じ全豪オープンで決勝に進出したが、キャシーは強敵マルチナ・ナブラチロワに敗れたため“姉妹優勝”はならなかった。テニスの歴史を通じて、姉妹が揃って4大大会の決勝に進出したのは、1884年に第1回ウィンブルドン選手権の女子シングルス決勝で“姉妹対決”をしたモード・ワトソンとリリアン・ワトソン(イングランド)以来のことであり、テニス界の「オープン化時代」(1968年以後)では初めての快挙だった。最近ではアメリカの黒人姉妹、ビーナスとセリーナのウィリアムズ姉妹がともに世界ランキング1位の座に立ち、ワトソン姉妹やジョーダン姉妹とは比較にならないほどのプレーを展開してきた。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとバーバラ・ジョーダン (テニス選手) · 続きを見る »

バニア・キング

バニア・キング(Vania King, 1989年2月3日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州モントレーパーク出身の女子プロテニス選手。中国系の選手で、漢字名は 金 久慈 という。2010年のウィンブルドンと全米オープンで、ヤロスラワ・シュウェドワと組んだダブルスで優勝した。これまでにWTAツアーでシングルス1勝、ダブルス15勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス50位、ダブルス3位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとバニア・キング · 続きを見る »

メラニー・ウダン

メラニー・ウダン(Melanie Oudin, 1991年9月23日 - )は、アメリカ・ジョージア州マリエッタ出身の女子プロテニス選手。2011年全米オープン混合ダブルスの優勝者。シングルスでも2009年全米オープンで第4シードのエレーナ・デメンチェワ、第29シードのマリア・シャラポワ、第13シードのナディア・ペトロワを倒しベスト8に進出した。こWTAツアーでシングルス1勝を挙げた(ダブルス優勝はない)。自己最高ランキングはシングルス31位、ダブルス125位。身長168cm、体重59kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとメラニー・ウダン · 続きを見る »

メレディス・マグラス

メレディス・マグラス(Meredith McGrath, 1971年4月28日 - )は、アメリカ・ミシガン州ミッドランド出身の元女子プロテニス選手。ダブルスの名手として活躍し、1995年の全米オープン混合ダブルス部門で優勝した。女子ダブルスでは1994年全豪オープンと1996年ウィンブルドンで2度の準優勝があり、シングルスでも1996年のウィンブルドンでベスト4に入った。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。WTAツアーでシングルス3勝、ダブルスで25勝を挙げた。 マグラスはジュニア時代からダブルスに優れた才能を発揮し、1987年-1989年まで全米オープンの女子ジュニアダブルス部門「3連覇」を達成した。1987年と1988年はキンバリー・ポーとペアを組んで2連覇し、1989年は当時13歳のジェニファー・カプリアティと組んでウィンブルドンと全米オープンのジュニア女子ダブルスを連続制覇している。1989年ウィンブルドンでは、ジュニア女子シングルスの準優勝もあった。この年から女子ツアー大会のダブルスでも好成績を出し始め、1989年11月第2週の「バージニアスリムズ・オブ・ナッシュビル」大会のダブルスでツアー初優勝を果たす。1990年にはダブルスで年間4勝を挙げ、1991年全仏オープンの女子ダブルスでベテランのキャシー・ジョーダンと組んでベスト8に入ったが、この後相次ぐ故障に悩み、大腿骨関節の手術や肩の腱炎などで長期間の戦線離脱を経験した。 マグラスは1993年、シングルスの世界ランキング610位から復活を果たし、ウィンブルドンで予選3試合を勝ち上がった後、初めての本戦4回戦進出を決めた。ダブルスではパティ・フェンディックと組んで大半の試合に出場し、ダブルスで年間3勝を挙げる。1994年の全豪オープンで、マグラスとフェンディックは初めての決勝に進出し(パートナーのフェンディックは1991年以来3年ぶり2度目)、ジジ・フェルナンデス&ナターシャ・ズベレワ組に 3-6, 1-6 で敗れて準優勝になった。同大会のシングルスでは、マグラスは2回戦で第10シードの伊達公子に敗れている。1994年に女子ツアーでシングルス2勝、ダブルス7勝を挙げたマグラスは、ダブルス世界ランキングで「5位」の自己最高位を記録した。 1995年全米オープンで、メレディス・マグラスはマット・ルセナ(アメリカ)と混合ダブルスのペアを組み、決勝でシリル・スーク(チェコ)&ジジ・フェルナンデス組を 6-4, 6-4 で破って初優勝した。そして、彼女の選手経歴のハイライトとなった1996年ウィンブルドンがやってくる。この大会で、マグラスは女子ダブルスでラリサ・ネーランド(ラトビア)と組んで決勝に進み、シングルスでアランチャ・サンチェス・ビカリオとの準決勝に進出した。女子ダブルス決勝では、マグラスとネーランドはマルチナ・ヒンギス&ヘレナ・スコバ組に 7-5, 5-7, 1-6 で敗れ、ヒンギスは「15歳9ヶ月」で初めてのグランドスラム・タイトルを獲得した。シングルスでは、マグラスは1回戦で日本の遠藤愛に勝ち、2回戦で第14シードのアマンダ・クッツァーを破って波に乗り、準々決勝で同じアメリカのメアリー・ジョー・フェルナンデスを倒した後、初進出の準決勝でサンチェスに 2-6, 1-6 で敗れた。 しかし1997年、マグラスは再び大きな故障を抱え、シングルスは1大会も出場できなかった。最後の4大大会出場となった全豪オープンでは、シングルス・ダブルスとも1回戦敗退に終わり、シングルス1回戦では日本の吉田友佳に敗れている。1998年3月初頭の「オクラホマ・シティ」大会を最後に、メレディス・マグラスは26歳で現役を引退した。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとメレディス・マグラス · 続きを見る »

ヤユク・バスキ

ヤユク・バスキ(Yayuk Basuki, 1970年11月30日 - )は、インドネシア・ジョグジャカルタ出身の元女子プロテニス選手。芝生コートを最も得意とし、1997年ウィンブルドンでベスト8に進出した。WTAツアーでシングルス6勝、ダブルス9勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス19位、ダブルス9位。身長164cm、体重56kg、右利き。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとヤユク・バスキ · 続きを見る »

ヤニナ・ウィックマイヤー

ヤニナ・ウィックマイヤー(Yanina Wickmayer, 1989年10月20日 - )は、ベルギー・リール出身の女子プロテニス選手。これまでにWTAツアーでシングルス5勝、ダブルス2勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス12位、ダブルス71位。身長182cm、体重68kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとヤニナ・ウィックマイヤー · 続きを見る »

ラリサ・ネーランド

ラリサ・サブチェンコ・ネーランド(Larisa Savchenko-Neiland, 1966年7月21日 - )は、ラトビアの元女子プロテニス選手。ウクライナ・リヴィウ生まれ。ソビエト連邦の時代から活動し、ソ連崩壊後はラトビア・ユールマラに住んだ。彼女はダブルスの名手として長く活躍し、WTAツアーでシングルス2勝、ダブルス65勝を挙げ、4大大会でも女子ダブルス2勝・混合ダブルス4勝を達成した。旧姓「ラリサ・サブチェンコ」(Larisa Savchenko)というが、1989年にアレックス・ネーランド(Alex Neiland)と結婚した。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとラリサ・ネーランド · 続きを見る »

リーゼル・フーバー

リーゼル・フーバー(Liezel Huber, 1976年8月21日 - )は、アメリカ合衆国の女子プロテニス選手。南アフリカ・ダーバン出身で、2007年7月にアメリカ市民権を取得した。ダブルスの得意な選手で、WTAツアーでダブルス53勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス131位、ダブルス1位。フォアハンド・ストロークを得意とするベースライン・プレーヤーである。既婚。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとリーゼル・フーバー · 続きを見る »

リサ・レイモンド

リサ・レイモンド(Lisa Raymond, 1973年8月10日 - )は、アメリカ・ペンシルベニア州ノリスタウン出身の女子プロテニス選手。長年にわたり、ダブルスの名手として活躍してきた。WTAツアーでシングルス4勝、ダブルス79勝を獲得し、4大大会では女子ダブルス6勝、混合ダブルス5勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス15位、ダブルス1位。身長165cm、体重55kgで、女子テニス選手としては小柄な体格の選手である。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとリサ・レイモンド · 続きを見る »

ルーシー・ハラデツカ

ルーシー・ハラデツカ(Lucie Hradecká,, 1985年5月21日 - )は、チェコ・プラハ出身の女子プロテニス選手。2011年の全仏オープンと2013年の全米オープン女子ダブルスで、アンドレア・フラバーチコバと組んで優勝した。2012年ロンドン五輪の女子ダブルス銀メダルも獲得している。自己最高ランキングはシングルス41位、ダブルス4位。これまでにWTAツアーでシングルスの優勝はないが(準優勝7度)、ダブルスで21勝を挙げている。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。身長177cm、体重72kg。「フラデカ」の表記揺れも多い。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとルーシー・ハラデツカ · 続きを見る »

レネ・スタブス

レネ・スタブス(Rennae Stubbs, 1971年3月26日 - )は、オーストラリア・シドニー出身の女子プロテニス選手。ダブルスの名手としてよく知られ、長年アメリカのリサ・レイモンドとペアを組んで多くのタイトルを獲得してきた。WTAツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで60勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス64位、ダブルス1位。身長178cm、体重65kg、右利き。4大大会では女子ダブルス4勝、混合ダブルス2勝を挙げた。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとレネ・スタブス · 続きを見る »

レイチェル・マッキラン

レイチェル・マッキラン(Rachel McQuillan, 1971年12月2日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州メアウェザー出身の元女子プロテニス選手。1992年のバルセロナ五輪女子ダブルスで、ニコル・プロビスとペアを組んで銅メダルを獲得した選手である。自己最高ランキングはシングルス28位、ダブルス15位。WTAツアーでシングルスの優勝はなかったが(準優勝6回)、ダブルスで5勝を挙げた。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとレイチェル・マッキラン · 続きを見る »

ロリ・マクニール

リ・マクニール(Lori McNeil, 1963年12月18日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ出身の元女子プロテニス選手。1983年から2002年まで20年近く現役を続行し、4大大会の女子シングルスで1987年全米オープンと1994年ウィンブルドンの2度ベスト4に入り、1988年の全仏オープン混合ダブルスで優勝するなど、多彩な経歴を残した選手である。WTAツアーでシングルス10勝、ダブルス32勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス9位、ダブルス4位。身長170cm、体重61kg、右利き。 1983年にプロ入りし、直ちにダブルスで頭角を現し始める。1986年に女子ツアー大会のシングルスで初優勝を果たし、この年に年間2勝を挙げた。マクニールは1987年に著しい躍進を遂げ、全豪オープンでベスト8に入り(第2シードのハナ・マンドリコワに 0-6, 0-6 で敗退)、全米オープンでシュテフィ・グラフとの準決勝に進出した。全米オープンの準々決勝では、マクニールは第3シードのクリス・エバートを 3-6, 6-2, 6-4 で破り、こうしてエバートが1974年から1986年まで「13年連続」で続けてきた4大大会連続優勝記録が途絶え、女子テニスにおける1つの時代が終わりを告げた。1987年から1989年まで、マクニールは3年連続で女子ツアーのダブルスに5勝ずつを記録する。 1987年と1988年、マクニールは2年連続で全仏オープンの混合ダブルス決勝に進出した。初進出だった1987年はシャーウッド・スチュワート(アメリカ)とのペアで準優勝になったが、1988年にホルヘ・ロザノ(メキシコ)と組んで優勝した。1992年にマクニールは4年ぶり3度目の全仏オープン混合ダブルス決勝に進み、ブライアン・シェルトン(アメリカ)とペアを組んだが、トッド・ウッドブリッジ&アランチャ・サンチェス・ビカリオ組に 2-6, 3-6 で敗れ、この部門では2度目の準優勝に終わった。1992年度の女子テニスツアー年間最終戦「バージニア・スリムズ選手権」の1回戦で、マクニールはシュテフィ・グラフを 7-6, 6-4 で破り、マルチナ・ナブラチロワとの準決勝まで進出した。 ロリ・マクニールの名前が強烈な印象を残したのは、1994年ウィンブルドンでのベスト4進出である。マクニールは1回戦で、大会3連覇中だった第1シードのシュテフィ・グラフを 7-5, 7-6 のストレートで破った。ウィンブルドン選手権の女子シングルス競技で、大会前年優勝者が1回戦で敗退したのは史上初の大波乱であった。マクニールはその勢いに乗って自身2度目の4大大会準決勝まで勝ち進んだが、第3シードのコンチタ・マルティネスに 6-3, 2-6, 8-10 の激戦で敗れ、決勝進出を逃した。この大会ではT・J・ミドルトン(アメリカ)とペアを組んだ混合ダブルスでも活躍したが、トッド・ウッドブリッジ&ヘレナ・スコバ組に 6-3, 5-7, 3-6 の逆転で敗れて準優勝に終わった。これでマクニールは4大大会の混合ダブルス決勝に「4度」進出したことになる。 マクニールは日本のトーナメントでも、1989年の「東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント」準優勝と1991年の「サントリー・ジャパン・オープン」優勝があった。1989年の東レ決勝ではマルチナ・ナブラチロワに 7-6, 3-6, 6-7 で惜敗したが、1991年のジャパン・オープンではサビーネ・アペルマンス(ベルギー)を 2-6, 6-2, 6-1で破って優勝した。マクニールの長い競技経歴を通じて、日本人女子選手との対戦はあまり多くないが、1989年全豪オープン1回戦で小泉幸枝(こいずみ・ゆきえ)選手に敗れたことがある。 マクニールは1999年4月に女子ツアーのシングルスから撤退したが、ダブルスでは2002年まで現役を続行した。2001年にはアマンダ・クッツァーと組んで2つのダブルス・タイトルを獲得し、最後の年になった2002年も全豪オープン女子ダブルスでクッツァーとペアを組み、準々決勝まで進出している。マクニールは2002年全米オープンの女子ダブルス1回戦敗退を最後に、38歳で現役を引退した。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとロリ・マクニール · 続きを見る »

ロージー・カザルス

ーズマリー・"ロージー"・カザルス(Rosemary "Rosie" Casals, 1948年9月16日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ出身の女子プロテニス選手。“Rosebud”(バラの花束)の愛称でも知られた。ダブルスの名手として一時代を築き、ウィンブルドン女子ダブルスで5勝、全米オープン女子ダブルスで4勝を挙げた。しかしシングルスでは1970年と1971年の全米オープンで2年連続準優勝に終わり、とうとう優勝できなかった。カザルスのテニスは、サービス・アンド・ボレーが“豹のように速い”曲芸師のような動きを特徴としていた。女子プロテニス選手としてシングルス通算11勝、ダブルス通算112勝を挙げ、生涯獲得賞金として136万ドルを稼いだ。著名なチェリストのパブロ・カザルスとは遠い親戚に当たる。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとロージー・カザルス · 続きを見る »

ロベルタ・ビンチ

ベルタ・ビンチ(Roberta Vinci, 1983年2月18日 - )は、イタリア・ターラント出身の女子プロテニス選手。ダブルスでサラ・エラニと組み4大大会で5勝を挙げキャリアグランドスラムを達成した。自己最高ランキングはシングルス7位、ダブルス1位。WTAツアーでシングルス10勝、ダブルス25勝を挙げている。身長163cm、体重60kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとロベルタ・ビンチ · 続きを見る »

ロザリン・フェアバンク

リン・フェアバンク(Rosalyn Fairbank, 1960年11月2日 - )は、南アフリカ・ダーバン出身の元女子プロテニス選手。1981年と1983年の2度、全仏オープン女子ダブルスで優勝した人である。4大大会では、女子ダブルスで1983年全米オープン準優勝、混合ダブルスで1986年全仏オープン準優勝もあった。自己最高ランキングはシングルス15位、ダブルス12位。 彼女は1989年にコーチのボブ・ニデファー(Bob Nideffer)と結婚した後は、2つの姓を併用した「ロザリン・フェアバンク・ニデファー」(Rosalyn Fairbank-Nideffer)の名前や、夫の姓だけを用いた「ロザリン・ニデファー」(Rosalyn Nideffer)で呼ばれた。女子テニス協会のプロフィールでは「ロザリン・ニデファー」の名前で掲載されている。彼女は20年近い選手経歴を通じて、とりわけダブルスに傑出した実力を長く維持したが、シングルスでも1988年・1989年の2年連続でウィンブルドンのベスト8に入った。 4人きょうだいの末っ子として生まれたロザリン・フェアバンクは、1978年の「オレンジボウル選手権」(ジュニアテニス選手の登龍門として有名な大会)で準優勝し、同年9月から女子テニス協会のコンピューター・ランキングに登場した。1979年全米オープンで4大大会に初出場。2年後の1981年、フェアバンクは全仏オープン女子ダブルスでターニャ・ハーフォード(同じ南アフリカの選手)とペアを組み、決勝でキャンディ・レイノルズ&ポーラ・スミス(ともにアメリカ)組を 6-1, 6-3 で破って初優勝した。相手ペアの1人だったレイノルズとは、2年後の1983年にパートナーを組むことになる。フェアバンクとハーフォードは、1981年に全仏オープンを含むダブルス年間3勝を獲得した。1982年は全米オープンのシングルスで初の4回戦進出がある。 1983年、フェアバンクはキャンディ・レイノルズと組んで女子ダブルスの好成績を多く出し、全仏オープン優勝・全米オープン準優勝を記録した。当時の女子ダブルスは、マルチナ・ナブラチロワ&パム・シュライバー組の全盛期であった。このペアは1983年ウィンブルドンから1985年全仏オープンまで4大大会「8連勝」を記録し、1985年ウィンブルドン女子ダブルス決勝で敗れるまで前人未到の「109連勝」を達成している。その連勝記録が始まる直前に、フェアバンクとレイノルズは貴重な全仏タイトルを獲得することができた。 1986年の全仏オープンで、フェアバンクはマーク・エドモンドソン(オーストラリア、1976年全豪オープン男子シングルス優勝者)と混合ダブルスのペアを組んだ。2人は決勝でケン・フラック&キャシー・ジョーダン(ともにアメリカ)組に 6-3, 6-7, 3-6 で敗れ、フェアバンクは3つ目の全仏タイトルを逃した。1988年と1989年の2年連続で、彼女はウィンブルドンの女子シングルス8強に入り、この地で4大大会シングルスの自己最高成績を出した。1989年5月6日、長年彼女のコーチを務めてきたボブ・ニデファーと結婚する。5年後の1994年に息子が生まれ、彼女は母親の選手としてテニスコートに戻った。 ニデファーは1995年のシーズンを最後にシングルスから撤退したが、ダブルスでは1997年まで現役を続行した。最後のシングルス戦の相手は、1995年11月にカリフォルニア州オークランド大会の1回戦で対戦したビーナス・ウィリアムズ(当時15歳)であった。シングルスから撤退した後の1996年も、ニデファーのダブルス選手としての強さは健在で、全米オープン女子ダブルスではカナダのパトリシア・ヒー=ブーレとペアを組み、マルチナ・ヒンギス&ヘレナ・スコバ組との準々決勝まで進出している。1997年ウィンブルドンの女子ダブルス1回戦敗退を最後に、ロザリン・フェアバンク・ニデファーは19年間のテニス経歴に終止符を打った。キャシー・リナルディ・スタンケルとニデファーは、1回戦でモニカ・セレシュ&アンケ・フーバー組に 5-7, 3-6 で敗れ、この2人が彼女の現役最後の対戦相手になったのである。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとロザリン・フェアバンク · 続きを見る »

トーナメント方式

トーナメントとは、競技会で勝者や順位を決める方式。ただ一人の勝者を選ぶ・順位を決める・興行として面白いものにする等の目的の違いや、期間・場所等の制限に応じて、さまざまな方法が考案されている。なお日本では単に「トーナメント」・「トーナメント方式」と言えば勝ち抜き戦(ノックアウトシステム)のことを指す。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとトーナメント方式 · 続きを見る »

ヘレナ・スコバ

ヘレナ・スコバ(Helena Suková, 1965年2月23日 - )は、チェコスロバキア・プラハ出身の元女子プロテニス選手。4大大会の女子シングルスで4度の準優勝があり、全豪オープンで2度、全米オープンで2度ずつの準優勝に終わった。オリンピックでも、1988年ソウル五輪と1996年アトランタ五輪で2個の女子ダブルス銀メダル獲得がある。当時のチェコスロバキアでも名門のテニス一家に育ち、母親のベラ・スコバ(1931年 - 1982年)も1962年のウィンブルドン準優勝の経歴を持つ名選手だった。父親のシリル・スーク(Cyril Suk)は長年「チェコスロバキア・テニス連盟」の会長を務めた人である。弟のシリル・スーク3世(シリル・スーク・ジュニアとも呼ばれる)もプロテニス選手で、ダブルスのスペシャリストとしてよく知られている。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとヘレナ・スコバ · 続きを見る »

ブレンダ・シュルツ=マッカーシー

ブレンダ・シュルツ=マッカーシー(Brenda Schultz-McCarthy、1970年12月28日 - )は、オランダ・ハールレム出身の女子プロテニス選手。主に1990年代に活躍し、当時の女子プロテニス界で最速サーブを誇る“ビッグ・サーバー”タイプの選手として知られた。WTAツアー通算でシングルス7勝、ダブルス9勝を挙げ、1995年の全米オープンで女子ダブルス準優勝者になった。自己最高ランキングはシングルス9位、ダブルス7位。1995年に結婚し、以降は既婚選手として、自分の姓「シュルツ」(Schultz)と夫の姓「マッカーシー」(McCarthy)を併用して活動した。夫のショーン・マッカーシー(Sean McCarthy)はアメリカ人で、かつてはシンシナティ大学のアメリカンフットボール選手だった。 9歳からテニスを始め、1986年にプロ転向。1988年から女子テニス国別対抗戦・フェドカップ(当時の名称は「フェデレーションカップ」で、1995年より現行の「フェドカップ」に名称変更)のオランダ代表選手に選ばれる。初期の活躍は、1988年全仏オープンと1989年全豪オープンで4回戦進出があった。1990年と1991年には、2年連続でウィンブルドンの4回戦に進出した。ダブルスでは1989年全仏オープンと1990年全豪オープンの2大会で、アンドレア・テメシュバリ(ハンガリー)と組んだ準決勝進出がある。1991年8月、シュルツはアメリカの「OTBオープン」で女子ツアーのシングルス初優勝を達成した。1992年は全豪オープンで、ステファニー・レイヒ(アメリカ)と組んで2年ぶり2度目の女子ダブルス準決勝進出がある。 1995年4月8日、ブレンダ・シュルツはショーン・マッカーシーと結婚し、2つの姓を併用して「ブレンダ・シュルツ=マッカーシー」と名乗るようになる。この年に両親の双方を亡くす不幸も経験したが、彼女の最盛期はこの年に訪れ、ウィンブルドンと全米オープンの2大会連続でシングルス準々決勝に進出した。ウィンブルドンでは女子ダブルスでガブリエラ・サバティーニ(アルゼンチン)とペアを組んでベスト4に進出し、シングルス準々決勝で第2シードのアランチャ・サンチェス・ビカリオと顔を合わせる。全米オープンのシングルスでは、4回戦で第6シードだった日本の伊達公子を 7-5, 3-6, 6-2 で破り、続く準々決勝で第4シードのコンチタ・マルティネスに敗れた。(伊達はこの敗戦により、全米オープンで3年連続ベスト8入りのチャンスを逃した。)この大会の女子ダブルスで、シュルツ・マッカーシーはレネ・スタブス(オーストラリア)と組んで決勝に進出した。2人は当時最強を誇ったジジ・フェルナンデス(プエルトリコ)&ナターシャ・ズベレワ(ベラルーシ)組に 5-7, 3-6 のスコアで敗れ、シュルツ=マッカーシーは全米女子ダブルス準優勝者になった。1997年10月、彼女はカナダ・ケベックシティ大会で最後のシングルス優勝を飾った。 ブレンダ・シュルツはオリンピックのオランダ代表選手として、1992年バルセロナ五輪と1996年アトランタ五輪の2度出場した。バルセロナ五輪では、シングルス2回戦・ダブルス1回戦敗退に終わる。2度目の出場だったアトランタ五輪では、マノン・ボーラグラフとのダブルスで準決勝に進出した。シュルツ=マッカーシーとボーラグラフは、女子ダブルス準決勝でアメリカ代表のジジ・フェルナンデス&メアリー・ジョー・フェルナンデス組に敗れた後、準決勝敗退2組による「銅メダル決定戦」でスペイン代表のアランチャ・サンチェス・ビカリオ&コンチタ・マルティネス組に 1-6, 3-6 で敗れ、オランダ代表としての銅メダルを逃した。 1990年から1997年までの間、シュルツ=マッカーシーのサービスは女子最高速度を誇っていた。1997年のウィンブルドンで、彼女はサービスの自己最高速度(時速197.9 km = 197.9 km/h)を出している。しかしこの年の秋からビーナス・ウィリアムズ(アメリカ)が台頭し、シュルツ・マッカーシーよりもはるかに安定した超高速サーブを放つようになる。ビーナスの台頭とほぼ同時に、シュルツ・マッカーシーのテニスも衰えが目立ち始めた。1998年はシーズンの半年しか試合をこなせず(年間3勝10敗)、全仏オープンの1回戦敗退後に背中の手術を受けた。その1年後、1999年の全仏オープン1回戦敗退を最後に、ブレンダ・シュルツ=マッカーシーは28歳で現役を引退した。 2005年、シュルツ・マッカーシーは1997年以来8年ぶりのフェドカップに出場し、2006年からのツアー復帰を表明した。復帰後最初に出場したツアー戦は、日本の東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント予選会であった。この年はシンシナティ・マスターズシングルス予選一回戦でジュリア・コーエン(アメリカに2-6,4-6で敗れるも、その試合で1998年に記録した女子サービス最高速度204kmを上回る209kmのサービスを叩き出し、サービス最速記録を再び手中に入れる等大きな話題となった。本来はこの年限りの参戦を予定していたが、本人の予想以上の好調さから方針を転換し、2008年まで3年間下部ツアーであるサーキット大会を中心に転戦を続けた。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとブレンダ・シュルツ=マッカーシー · 続きを見る »

パム・シュライバー

パメラ・ハワード・シュライバー(Pamela "Pam" Howard Shriver、1962年7月4日 - )は、アメリカ・メリーランド州ボルチモア出身の元女子プロテニス選手。1978年の全米オープン女子シングルス準優勝者で、ダブルスの名手として一時代を築いた名選手である。WTAツアーでシングルス21勝、ダブルス111勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス1位。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとパム・シュライバー · 続きを見る »

ビリー・ジーン・キング

ビリー・ジーン・キング(Billie Jean King, 1943年11月22日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州ロングビーチ出身の女子テニス選手。1960年代から1980年代初頭までの四半世紀に及び、長い間女子テニス界に君臨した名選手であり、女子テニスの歴史を通じて最大の偉人のひとりに数えられる。レズビアンとしてカミングアウトしている。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとビリー・ジーン・キング · 続きを見る »

ビルヒニア・ルアノ・パスクアル

ビルヒニア・ルアノ・パスクアル(Virginia Ruano Pascual, 1973年9月21日 - )は、スペイン・マドリード出身の女子プロテニス選手。ダブルスの名手としてよく知られる。長年にわたり、アルゼンチンのパオラ・スアレスとペアを組んで活躍してきた。WTAツアーでシングルス3勝、ダブルス42勝(うち4大大会女子ダブルス10勝)を挙げた。自己最高ランキングはシングルス28位、ダブルス1位。身長169cm、体重60kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとビルヒニア・ルアノ・パスクアル · 続きを見る »

テニス

テニス(tennis)は二人または二組のプレイヤーがネット越しにラケットでボールを打ち合う球技である。オリンピックやパラリンピックで採用されている競技であり、年齢性別、身体的個性を問わず広く親しまれている。漢字名の庭球(ていきゅう)とも呼ばれることがある。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとテニス · 続きを見る »

ティメア・バボシュ

ティメア・バボシュ(Tímea Babos,, 1993年5月10日 - )は、ハンガリー・ショプロン出身の女子プロテニス選手。これまでにWTAツアーでシングルス2勝、ダブルス16勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス25位、ダブルス7位。身長179cm、体重68kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとティメア・バボシュ · 続きを見る »

ドナ・ベキッチ

ドナ・ベキッチ(Donna Vekić, 1996年6月28日 - )は、クロアチア・オシエク出身の女子プロテニス選手。これまでにWTAツアーでシングルス2勝を挙げている。身長179m、体重64kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。WTAランキング最高位はシングルス45位。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとドナ・ベキッチ · 続きを見る »

ダニエラ・ハンチュコバ

ダニエラ・ハンチュコバ(Daniela Hantuchová, 1983年4月23日 - )は、スロバキア・ポプラト出身の女子プロテニス選手。身長181cm、62kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス5位。WTAツアーでシングルス7勝、ダブルスで9勝を挙げた。(彼女の姓の日本語転写は様々で、ハンチェコバ、ハンチュコワ、ハンツコーワ、などとも表記されるが、最も原語の発音に近い表記をするならば「ハントゥホヴァー」である。).

新しい!!: バーミンガム・クラシックとダニエラ・ハンチュコバ · 続きを見る »

ベラ・ズボナレワ

ベラ・ズボナレワ (Vera Zvonareva, Вера Игоревна Звонарёва, 1984年9月7日 - )は、ロシア・モスクワ出身の女子プロテニス選手。4大大会で女子ダブルス2勝、混合ダブルス2勝を挙げた選手で、シングルスでも2010年のウィンブルドンと全米オープンで準優勝している。自己最高ランキングはシングルス2位、ダブルス9位。これまでにWTAツアーでシングルス12勝、ダブルス6勝を挙げている。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。身長172cm、体重59kg。ベースライン・プレーヤー。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとベラ・ズボナレワ · 続きを見る »

ベッツィ・ナゲルセン

ベッツィ・ナゲルセン(Betsy Nagelsen, 1956年10月23日 - )は、アメリカ・フロリダ州セントピーターズバーグ出身の元女子プロテニス選手。1978年の全豪オープン女子シングルス準優勝者。ダブルスでは、全豪オープンの女子ダブルスで1978年と1980年の2度優勝し、ウィンブルドンでも1987年に女子ダブルス準優勝があった。ナゲルセンはキャリアを通じて、シングルスよりもダブルスの分野で多くの好成績を出した。 1974年にプロ入りし、この年にウィンブルドンと全米オープンで3回戦に進出する。1974年当時、ウィンブルドン選手権の女子シングルスは「96名」の選手による7回戦制で行われていたが、全米オープン女子シングルスは「64名」の選手による6回戦制であった。ナゲルセンはウィンブルドン3回戦(ベスト32)でバージニア・ウェード、全米オープン3回戦(ベスト16)でビリー・ジーン・キング夫人に挑戦した。 その後、ナゲルセンは背中の故障でしばらく低迷期が続いたが、プロデビューから4年後の1978年全豪オープンでシングルス・ダブルスともに初の決勝進出を果たした。女子シングルス決勝では、ナゲルセンは世界ランキング111位のクリス・オニールに 3-6, 6-7 で敗れて準優勝になる。女子ダブルス決勝ではレナータ・トマノワ(チェコスロバキア)とペアを組み、佐藤直子とパム・ホワイトクロス(オーストラリア)組を 7-5, 6-2 で破って優勝した。佐藤はこの準優勝により、1975年ウィンブルドン女子ダブルスで優勝した沢松和子に続く偉業を逃した。当時の全豪オープンは、1977年に年頭の1月開催大会と年末の12月開催大会の2度行われた関係で、1978年大会の開催時期が年末の12月に変更され、期間は12月25日-31日の1週間であった。 翌1979年、ベッツィ・ナゲルセンは「ジャパン・オープン」の女子部門で単複優勝を成し遂げたが、シングルス決勝では佐藤直子を 6-1, 3-6, 6-3 で破って優勝した。1980年、ナゲルセンは全豪オープンの女子ダブルスで2年ぶり2度目の優勝を果たす。パートナーはマルチナ・ナブラチロワで、相手ペアはアン清村&キャンディ・レイノルズ組であった。1981年はウィンブルドンで初のシングルス4回戦進出がある。1982年に手首の手術を受け、彼女は再び長期間のスランプを経験する。1978年全豪オープン準優勝の後、ナゲルセンの4大大会シングルス成績は、ウィンブルドン選手権で1981年・1986年と2度の4回戦進出が最高であった。 再三の故障を乗り越えて、ナゲルセンは1987年にダブルスで久々の好成績を出した。ウィンブルドン女子ダブルスと、全米オープン混合ダブルスの準優勝である。ウィンブルドンの女子ダブルスでは、ナゲルセンはエリザベス・スマイリー(オーストラリア)とペアを組み、決勝でクラウディア・コーデ=キルシュ(当時西ドイツ)&ヘレナ・スコバ(当時チェコスロバキア)組に 5-7, 5-7 で敗れた。全米オープンの混合ダブルスでは、パートナーはポール・アナコーン(アメリカ)で、決勝で敗れた相手はエミリオ・サンチェス(スペイン)&マルチナ・ナブラチロワ組であった。この決勝戦は第2・第3セットがタイブレークにもつれ、ナゲルセンとアナコーンは最終第3セットのタイブレークを 10-12 で落として、結局 4-6, 7-6, 6-7 のスコアで競り負けた。30歳を過ぎてから迎えた2つのチャンスを、ナゲルセンは2つとも生かすことができなかった。 ベッツィ・ナゲルセンは1974年から1994年まで、21年間にわたって女子プロテニスツアーを転戦した後、1995年と1996年はウィンブルドン選手権の女子ダブルスのみに出場した。選手引退後は、IMG会長であった夫のマーク・マコーマック(1930年 - 2003年)とともに「マコーマック=ナゲルセン・テニスセンター」で後進の育成に携わってきた。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとベッツィ・ナゲルセン · 続きを見る »

ベサニー・マテック=サンズ

ベサニー・マテック=サンズ(Bethanie Mattek-Sands, 1985年3月23日 - )は、アメリカ・ミネソタ州ロチェスター出身の女子プロテニス選手。身長168cm、体重66kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。WTAランキング最高位はシングルス30位、ダブルス1位。これまでにWTAツアーでシングルス準優勝4度、ダブルスで26勝を挙げている。 4大大会では2012年全豪オープン混合ダブルス、2015年全豪ダブルス、2017年全豪ダブルス、2015年全仏オープン混合、2015年全仏ダブルス、2017年全仏ダブルス、2016年全米ダブルスで優勝を果たしている。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとベサニー・マテック=サンズ · 続きを見る »

アナ・イバノビッチ

アナ・イバノビッチ(Ana Ivanović, Ана Ивановић, 1987年11月6日 - )は、セルビア・ベオグラード出身の女子プロテニス選手。2008年の全仏オープン女子シングルス優勝者であり、元世界ランキング1位。WTAツアーではシングルス15勝を挙げ、同時期に活躍していた2歳年上のエレナ・ヤンコビッチとともに、セルビアのテニス界を代表する女子2強豪のひとりであった。身長186cm、体重69kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとアナ・イバノビッチ · 続きを見る »

アナスタシア・ミスキナ

アナスタシア・ミスキナ(Anastasia Myskina, Анастасия Андреевна Мыскина, 1981年7月8日 - )は、ロシア・モスクワ市出身の女子プロテニス選手。2004年の全仏オープン女子シングルス優勝者で、ロシア人の女子テニス選手として初の4大大会優勝を達成した。自己最高ランキングはシングルス2位、ダブルス15位。WTAツアーでシングルス10勝、ダブルス5勝を挙げた。身長174cm、体重59kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとアナスタシア・ミスキナ · 続きを見る »

アリシア・モリク

アリシア・モリク(Alicia Molik, 1981年1月27日 - )は、オーストラリア・アデレード出身の女子プロテニス選手。2004年のアテネ五輪で女子シングルスの銅メダルを獲得した選手である。4大大会でも、女子ダブルスで2005年全豪オープンと2007年全仏オープンの2勝があり、混合ダブルスでは3度の準優勝があった。自己最高ランキングはシングルス8位、ダブルス6位。WTAツアーでシングルス5勝、ダブルス7勝を挙げた。身長182cm、体重72kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。日本語では「アリシア・モリック」と表記されることも多い。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとアリシア・モリク · 続きを見る »

アンドレア・フラバーチコバ

アンドレア・フラバーチコバ(Andrea Hlaváčková, チェコ語発音:,1986年8月10日 - )は、チェコ・プルゼニ出身の女子プロテニス選手。2011年の全仏オープンと2013年の全米オープン女子ダブルスで、ルーシー・ハラデツカと組んで優勝した。2012年ロンドン五輪の女子ダブルス銀メダルも獲得している。自己最高ランキングはシングルス58位、ダブルス3位。これまでにWTAツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで25勝を挙げている。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。身長174cm、体重62kg。「フラバコバ」の表記揺れも多い。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとアンドレア・フラバーチコバ · 続きを見る »

アンゲリク・ケルバー

アンゲリク・ケルバー(Angelique Kerber, 1988年1月18日 - )は、ドイツ・ブレーメン出身の女子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス1位、ダブルス103位。これまでにWTAツアーでシングルス11勝を挙げている。2016年全豪オープン女子シングルス・2016年全米オープン女子シングルスの優勝者。2016年WTAツアー年間チャンピオン。身長173cm、体重68kg。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。「アンジェリック・ケルバー」という表記も見られる。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとアンゲリク・ケルバー · 続きを見る »

アシュリー・バーティ

アシュリー・バーティ(Ashleigh Barty, 1996年4月24日 - )は、オーストラリア・イプスウィッチ出身の女子プロテニス選手。ケーシー・デラクアとペアを組み4大大会女子ダブルスで4回準優勝した。身長166cm、体重62kg。これまでにWTAツアーでシングルス1勝、ダブルス7勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス16位、ダブルス5位。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとアシュリー・バーティ · 続きを見る »

イネス・ゴロチャテギ

イネス・ゴロチャテギ(Ines Gorrochategui, 1973年6月13日 - )は、アルゼンチン・コルドバ出身の元女子プロテニス選手。1993年の全米オープン女子ダブルスで、南アフリカのアマンダ・クッツァーとペアを組んで準優勝した選手である。自己最高ランキングはシングルス19位、ダブルス9位。WTAツアーでシングルスの優勝はなかったが(準優勝2度)、ダブルスで7勝を挙げた。 ゴロチャテギはおじの手ほどきにより、7歳からテニスを始めた。ジュニア時代は、1991年の全仏オープン女子ジュニア部門でシングルス準優勝・ダブルス優勝がある。同年にプロ入り。2年後の1993年全米オープンで、ゴロチャテギはアマンダ・クッツァーと女子ダブルスのペアを組んだ。その勝ち上がりの過程では、4人の日本人選手たちと対戦した。1回戦では飯田栄&木戸脇真也組、3回戦は平木理化&エミー・フレージャー組、準決勝では宮城ナナ&ヤユク・バスキ組を破って勝ち進んだ。決勝でゴロチャテギとクッツァーはアランチャ・サンチェス・ビカリオ&ヘレナ・スコバ組に 4-6, 2-6 で敗れ、準優勝に終わった。 イネス・ゴロチャテギは翌1994年の全仏オープンで、4大大会女子シングルスの自己最高成績を出し、ベスト8に勝ち上がった。この大会では、2回戦で沢松奈生子に勝ち、3回戦で第15シードのヘレナ・スコバを破り、4回戦でクロアチアの新星イバ・マヨリを破って勝ち進んだが、初進出の準々決勝でシュテフィ・グラフに 4-6, 1-6 で敗れた。しかし、前年7月のフェデレーションカップで痛めた左膝の故障が悪化し、続くウィンブルドンで3回戦の試合に出場できなくなる。ゴロチャテギは左膝の関節鏡視下手術を受け、1994年のシーズン後半を棒に振った。ようやく1995年3月に復帰し、この年のウィンブルドンで4回戦に進出する。この対戦相手もグラフであった。1996年はアトランタ五輪にアルゼンチン代表選手として出場し、女子シングルスでメアリー・ジョー・フェルナンデス(アメリカ代表)との3回戦まで進んでいる。 競技生活の早い時期に痛めた左膝に加えて、ゴロチャテギのテニス経歴は故障との闘いの連続だった。それでも、現役最後の年となった1999年はフェドカップの「アメリカズ・グループA」でパトリシア・タラビーニとのダブルス戦をこなし、ウィンブルドンで4年ぶりの3回戦に進出している。最後のウィンブルドンでは、当時18歳のアンナ・クルニコワとの試合を 5-7, 1-3 で途中棄権した。ゴロチャテギの現役最後の大会は、1999年全米オープンであった。シングルスは1回戦でナターシャ・ズベレワに敗れ、ダブルスでは6年前の準優勝と同じアマンダ・クッツァーとペアを組んだが、2回戦でビーナスとセリーナのウィリアムズ姉妹組に 7-6, 4-6, 4-6 で競り負けた。ズベレワとウィリアムズ姉妹との戦いを最後に、イネス・ゴロチャテギは26歳で現役を退いた。 ゴロチャテギは現役生活を通じてシュテフィ・グラフとの対戦が多く、5度の対戦はすべて4大大会であった。(1994年全仏オープン準々決勝・1995年全仏オープン1回戦・1995年ウィンブルドン4回戦・1997年全豪オープン3回戦・1999年全仏オープン2回戦)ゴロチャテギとグラフは、1997年の「ドイツ・オープン」でダブルスのペアを組み、1回戦で平木理化とフロレンシア・ラバト(アルゼンチン)の組に敗れたこともあった。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとイネス・ゴロチャテギ · 続きを見る »

イングランド

イングランド(England)は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する4つの「国」(country)の一つである。人口は連合王国の83%以上、面積はグレートブリテン島の南部の約3分の2を占める。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。北海、アイリッシュ海、大西洋、イギリス海峡に面している。 イングランドの名称は、ドイツ北部アンゲルン半島出身のゲルマン人の一種であるアングル人の土地を意味する「Engla-land」に由来する。イングランドは、ウェールズとともにかつてのイングランド王国を構成していた。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとイングランド · 続きを見る »

ウェンディ・ターンブル

ウェンディ・ターンブル(Wendy Turnbull, 1952年11月26日 - )は、オーストラリア・ブリスベン出身の元女子プロテニス選手。主に1970年代後半から1980年代に活躍した選手で、素速いフットワークから“Rabbit”(ラビット)というニックネームで呼ばれた。しかし4大大会の女子シングルスで3度の準優勝に終わり、1977年全米オープン、1979年全仏オープン、1980年全豪オープンの決勝戦で敗れた。WTAツアーでシングルス13勝、ダブルス55勝を挙げた。 ターンブルは15歳で学校をやめ、4年間の銀行勤務を経てテニス選手になった。1975年にプロ入り。1976年に日本の「ジャパン・オープン」で優勝している。最初のチャンスは1977年の全米オープンで訪れ、ターンブルは準々決勝で当年度のウィンブルドン優勝者バージニア・ウェード(第3シード、イギリス)、準決勝で第2シードのマルチナ・ナブラチロワを連破して初めての4大大会決勝に進んだが、第1シードのクリス・エバートに 6-7, 2-6 で敗れて準優勝になった。全米オープンでは、翌1978年も準決勝でエバートに敗れる。2度目のチャンスとなった1979年全仏オープンでも、決勝戦で同じエバートの壁にぶつかり、2-6, 0-6 の完敗で2度目の準優勝になっている。 1980年のシーズンは全体的に好調で、全仏オープンとウィンブルドンでともにベスト8進出を果たした後に、年末開催の全豪オープンで3度目の4大大会決勝進出を決めた。(注:当時は全豪オープンの開催時期が何度も変わり、1977年に1月開催・12月開催と2度行われたのちに、1978年-1985年までは12月の年末開催で行われていた。)ターンブルは準決勝で第1シードのマルチナ・ナブラチロワを破ったが、決勝で当時18歳の新鋭ハナ・マンドリコワに 0-6, 5-7 で敗れ、またしても優勝のチャンスを逃した。その後は全豪オープンで1981年と1984年、全米オープンで1984年に準決勝進出がある。シングルスでは1989年ウィンブルドンの2回戦敗退が最後の試合になった。 ウェンディ・ターンブルはダブルスの名手として、女子テニスツアーで通算55勝を記録した。4大大会でも女子ダブルスは4勝、混合ダブルスは5勝を挙げている。1978年のウィンブルドンで、ターンブルは同じオーストラリアのケリー・レイドとペアを組み、ミマ・ヤウソベッツ(ユーゴスラビア)&バージニア・ルジッチ(ルーマニア)組を 4-6, 9-8, 6-3で破って初優勝を飾った。1979年はオランダのベティ・ストーブとペアを組み、全仏オープンと全米オープンで年間2冠を獲得する。1982年には全米オープンの女子ダブルスで、ベテランのロージー・カザルスと組んで3年ぶり2度目の優勝を果たした。1988年のソウル五輪では、オーストラリア代表選手として女子ダブルスに出場し、エリザベス・スマイリーと組んで銅メダルを獲得している。混合ダブルスでは、ターンブルはジョン・ロイド(クリス・エバートの元夫として有名な人)と相性が良く、1982年から1984年までウィンブルドンの混合ダブルス決勝に3年連続で進出した。ターンブルは1989年夏にシングルスから引退した後も、ダブルスでは1990年まで現役を続行した。 ターンブルは現役生活を通じて、クリス・エバートの厚い壁をどうしても破れなかった選手の1人である。2人の対戦成績はエバートの「21勝1敗」で終わった。マルチナ・ナブラチロワとは「5勝29敗」の対戦成績を残している。エバートとナブラチロワの2強豪と同年代に活動した女子プロテニス選手たちにとって、2人の壁を破ることがいかに至難であったか、ターンブルの3度の準優勝はその難しさを物語る1つの記録と言えるだろう。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとウェンディ・ターンブル · 続きを見る »

エリザベス・スマイリー

リザベス・スマイリー(Elizabeth Smylie, 1963年4月11日 - )は、オーストラリア・パース出身の元女子プロテニス選手。ダブルスの名手としてよく知られている。自己最高ランキングはシングルス20位、ダブルス5位。WTAツアーでシングルスは3勝と少ないが、ダブルスで35勝を挙げた。フルネームはエリザベス・セイヤーズ・スマイリー(Elizabeth Sayers Smylie)という。旧姓エリザベス・セイヤーズ(Elizabeth Sayers)というが、コーチのピーター・スマイリー(Peter Smylie)との結婚後は夫の姓だけを使用して「エリザベス・スマイリー」と名乗った。リズ(Liz)という愛称で親しまれ、リズ・スマイリーと呼ばれることも多かった。 エリザベス・セイヤーズの競技経歴は、1980年末の全豪オープンから始まる。1983年の全米オープン混合ダブルスで、セイヤーズは同じオーストラリアのジョン・フィッツジェラルドとペアを組み、ファーディ・テイガン&バーバラ・ポッター(ともにアメリカ)組を破って初優勝を飾った。その直後、9月末の「バージニアスリムズ・カンザス」大会で単複優勝を果たす。1984年11月10日にピーター・スマイリーと結婚。1985年のウィンブルドン女子ダブルス優勝は、エリザベス・スマイリーのテニス経歴を通じて最も顕著な勝利であった。この時スマイリーはアメリカのキャシー・ジョーダンとペアを組み、決勝でマルチナ・ナブラチロワとパム・シュライバーのペアを 5-7, 6-3, 6-4 の逆転で破ったのである。ナブラチロワとシュライバーはそれまで女子ダブルスで前人未到の「109連勝」の記録を樹立していたが、スマイリーとジョーダンがこの記録を止めた。 1987年の全豪オープンでスマイリーは4大大会のシングルス自己最高記録を出し、ベスト8に進出した。当時のスマイリーはシングルスの世界ランキング82位から勝ち上がり、準々決勝で第5シードのクラウディア・コーデ=キルシュ(西ドイツ)に 6-7, 6-4, 2-6 で敗れた。同年の全米オープン女子ダブルスで、スマイリー&ジョーダン組は(2年前に連勝記録を止めた)ナブラチロワ&シュライバー組に 7-5, 4-6, 2-6 で敗れて準優勝になった。1988年、スマイリーは全豪オープンの女子ダブルスでシュテフィ・グラフとペアを組んで準決勝に進み、同年のソウル五輪にもオーストラリア代表として出場した。スマイリーとウェンディ・ターンブルのペアは、準決勝でアメリカ代表のジーナ・ガリソン&パム・シュライバー組に敗れた。このソウル五輪では、準決勝敗退選手(ペア)による銅メダル決定戦は行われず、両方に銅メダルが授与されたため、スマイリーとターンブルはオーストラリアにテニス女子ダブルスの銅メダルをもたらした。 エリザベス・スマイリーは1988年以後、4大大会の女子シングルスでは3回戦以上に勝ち進めなかったが、ダブルスでさらに成績を伸ばし、1990年の全米オープンで7年ぶり2度目の混合ダブルス優勝を飾った。パートナーのトッド・ウッドブリッジは当時まだ19歳の若者であったが、8歳の年齢差があった2人は決勝でジム・ピュー(アメリカ)&ナタリア・ズベレワ(ソ連)組を 6-4, 6-2 で破っている。1991年のウィンブルドンで、スマイリーは混合ダブルスで再びジョン・フィッツジェラルドとペアを組み、前年の全米混合決勝と同じピュー&ズベレワ組を 7-6, 6-2 で破って優勝した。スマイリーにとっては、1985年の女子ダブルス優勝以来6年ぶりに獲得した2つ目のウィンブルドン・タイトルであった。 スマイリーのシングルス成績はダブルスほど目立たないが、日本の「ジャパン・オープン」で1989年・1990年の2年連続シングルス準優勝がある。1989年の決勝戦では岡本久美子に、1990年はカタリナ・リンドクイスト(スウェーデン)に敗れた。ダブルスでも日本のトーナメントに数多く出場したことから、日本にも多くのファンを持っていた。 スマイリー夫妻には長い間子供がいなかったが、1991年末にようやく妊娠が分かった。スマイリーは出産後、1992年6月から直ちに現役復帰をし、1993年の全豪オープンでパム・シュライバーと組んで初めての女子ダブルス決勝進出を決めた。このペアは決勝で第1シードのジジ・フェルナンデス&ナターシャ・ズベレワ組に 4-6, 3-6 で敗れて準優勝になった。スマイリーは1994年のシーズンを最後に女子ツアー大会のシングルスから撤退したが、1996年にダブルスのフルシーズンをこなし、ウィンブルドン女子ダブルスでリンダ・ワイルド(アメリカ)と組んで準決勝に進出している。最後の大舞台では、スマイリーのペアはマルチナ・ヒンギスとヘレナ・スコバの組に敗れた。1997年は全豪オープンとウィンブルドンの2大会のみに出場し、最後はどちらもパム・シュライバーと組んだ。こうしてエリザベス・スマイリーは、出産後も34歳まで現役を続行し、十数年間にわたってダブルスの第一線で活躍を続けたのである。 スマイリーは引退後も、女子テニスツアーの運営に携わった。引退の翌年、1998年からは母国オーストラリア・ゴールドコーストで開催されていたツアー大会「モンディアル・オーストラリア女子ハードコート選手権」のトーナメント・ディレクターの職に就任し、同大会が終了となった2008年までその職務を務めた。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとエリザベス・スマイリー · 続きを見る »

エルス・カレンズ

ルス・カレンズ(Els Callens, 1970年8月20日 - )は、ベルギー・アントウェルペン出身の元女子プロテニス選手。2000年のシドニー五輪女子ダブルスで、ドミニク・ファン・ルーストとペアを組んで銅メダルを獲得した選手である。自己最高ランキングはシングルス43位、ダブルス12位。WTAツアーでシングルスの優勝はなかったが、ダブルスで10勝を挙げた。4大大会でも、シングルスは3回戦止まりの成績だったが、2000年全米オープンの女子ダブルスでベスト4進出がある。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとエルス・カレンズ · 続きを見る »

エレナ・ヤンコビッチ

レナ・ヤンコビッチ(Jelena Janković, Јелена Јанковић, 1985年2月28日 - )は、セルビア・ベオグラード出身の女子プロテニス選手。2008年の全米オープン女子シングルス準優勝者。2007年のウィンブルドン混合ダブルスで、ジェイミー・マリー(イギリス)とペアを組んだ優勝がある。これまでにWTAツアーでシングルス15勝、ダブルス2勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス1位、ダブルス19位。身長177cm、体重59kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとエレナ・ヤンコビッチ · 続きを見る »

エレナ・ドキッチ

レナ・ドキッチ(Jelena Dokić, Јелена Докић, 1983年4月12日 - )は、ユーゴスラビア・オシエク(現クロアチア領)出身のオーストラリアの女子プロテニス選手。プロデビュー当時はオーストラリア国籍で活動していた為、英語読みの「エレナ・ドキック」と呼ばれていたが、1999年ウィンブルドンの大会期間中から、自分がユーゴスラビアで生まれた時の発音で呼んでほしいという本人の希望により「ドキッチ」と呼ばれるようになった。 WTAツアーでシングルス6勝、ダブルス4勝を挙げ、2001年の全仏オープン女子ダブルス準優勝の経歴も持つ。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス10位。一方、父親ダミルの度重なる奇行、後述する国籍変更問題など、コート内外でトラブルの多い選手でもある。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとエレナ・ドキッチ · 続きを見る »

エレーナ・リホフツェワ

レーナ・リホフツェワ (Elena Likhovtseva, Еле́на Алекса́ндровна Ли́ховцева, 1975年9月8日 - )は、ロシアの女子プロテニス選手。カザフスタンのアルマトイに生まれる。4大大会の混合ダブルス部門で2002年ウィンブルドンと2007年全豪オープンで優勝している。WTAツアーでシングルス3勝、ダブルス27勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス15位、ダブルス3位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。既婚。 ロシア語人名の日本語表記に即したより正確な読みは「イリェーナ・リーハフツィヴァ」になる。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとエレーナ・リホフツェワ · 続きを見る »

エレニ・ダニリドゥ

レニ・ダニリドゥ(Eleni Daniilidou, Λένα Δανιηλίδου, 1982年9月19日 - )は、ギリシャ・クレタ島生まれの女子プロテニス選手。2003年の全豪オープン混合ダブルスで、トッド・ウッドブリッジ(オーストラリア)とペアを組んで準優勝した。これまでにWTAツアーでシングルス5勝、ダブルス3勝を挙げる。シングルス自己最高ランキングは14位で(2003年5月12日付)、当地の女子テニス選手としては最高位を記録している。身長182cmの長身を生かしたサービス・アンド・ボレーを武器にする選手。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとエレニ・ダニリドゥ · 続きを見る »

オリガ・ゴボツォワ

リガ・ゴボツォワ(Olga Govortsova, Вольга Аляксееўна Гаварцова, 1988年8月23日 - )は、ベラルーシ・ピンスク出身の女子プロテニス選手。これまでにWTAツアーでシングル優勝はないが、ダブルスで8勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス35位、ダブルス24位。身長182㎝、体重67kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。「ゴボルツォワ」の表記揺れも多い。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとオリガ・ゴボツォワ · 続きを見る »

カルラ・スアレス・ナバロ

ルラ・スアレス・ナバロ(Carla Suárez Navarro, 1988年9月3日 - )は、スペイン・ラス・パルマス・デ・グラン・カナリア出身の女子プロテニス選手。4大大会女子シングルスで5度ベスト8に進出した。身長162cm、体重62kgの小柄な体格で、片手打ちのバックハンド・ストロークを大きな武器にする。これまでにWTAツアーでシングル2勝、ダブルス3勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス6位、ダブルス11位。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとカルラ・スアレス・ナバロ · 続きを見る »

カロリナ・プリスコバ

リナ・プリスコバ(Karolína Plíšková, 1992年3月21日 - )は、チェコ・ロウニ出身の女子プロテニス選手。2016年の全米オープン女子シングルスの準優勝者。これまでにWTAツアーでシングルス10勝、ダブルス5勝を挙げている。身長186cm、体重72kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。WTAランキング最高位はシングルス1位、ダブルス11位。双子の姉であるクリスティナ・プリスコバもテニス選手である。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとカロリナ・プリスコバ · 続きを見る »

カーラ・ブラック

ーラ・ブラック(Cara Black, 1979年2月17日 - )は、ジンバブエ・ハラレ出身の女子プロテニス選手。2人の兄、バイロン・ブラックとウェイン・ブラックもプロテニス選手で、カーラは3人兄弟の末っ子である。ウィンブルドンを最も得意とする選手で、女子ダブルス部門で3勝を挙げ、2004年ウィンブルドンでは女子ダブルス・混合ダブルスの2部門を制覇した。WTAツアーでシングルス1勝、ダブルス60勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス31位、ダブルス1位。身長167cm、体重55kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとカーラ・ブラック · 続きを見る »

カテリナ・ボンダレンコ

テリナ・ボンダレンコ(Kateryna Bondarenko, または Katerina Bondarenko, Катерина Володимирівна Бондаренко, 1986年8月8日 - )は、ウクライナ・クリヴィー・リフ出身の女子プロテニス選手。2人の姉、バレリア・ボンダレンコ(1982年生まれ)とアリョーナ・ボンダレンコ(1984年生まれ)とともに「3人姉妹のプロテニス選手」として活動していた。2008年の全豪オープン女子ダブルスで、カテリナとアリョーナの姉妹ペアが初優勝を飾り、ウクライナ出身のテニス選手として史上初の4大大会優勝を達成した。WTAの自己最高ランキングはシングルス29位、ダブルス9位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとカテリナ・ボンダレンコ · 続きを見る »

ガルビネ・ムグルサ

ルビネ・ムグルサ・ブランコ(Garbiñe Muguruza Blanco, 1993年10月8日 - )は、スペインの女子プロテニス選手。ベネズエラ・カラカス出身。2016年全仏オープンと2017年ウィンブルドン選手権の女子シングルス優勝者。これまでにWTAツアーでシングルス5勝、ダブルス5勝を挙げている。身長182cm、体重73kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。WTAランキング最高位はシングルス1位、ダブルス10位。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとガルビネ・ムグルサ · 続きを見る »

キンバリー・ポー

ンバリー・ポー・メッセーリ(Kimberly Po-Messerli, 1971年10月20日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス出身の元女子プロテニス選手。2000年のウィンブルドン混合ダブルスで、同じアメリカのドナルド・ジョンソンとペアを組んで優勝した。2001年の全米オープン女子ダブルスで、ナタリー・トージア(フランス)と組んで準優勝したこともある。彼女は東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメントやジャパン・オープン、トヨタ・プリンセス・カップなど、日本開催のトーナメントにも数多く出場し、日本人女子選手たちとの対戦も多かった。自己最高ランキングはシングルス14位、ダブルス6位。WTAツアーでシングルスの優勝はなかったが、ダブルスで5勝を挙げた。 キンバリー・ポーはジュニア時代、全米オープンのジュニア女子ダブルスでメレディス・マグラスとペアを組んで1987年・1988年に2年連続優勝を達成した。1990年にプロ入り。1991年全米オープンで4大大会にデビューし、ナタリア・ズベレワ(当時ソ連)との3回戦まで進出する。1993年には、ウィンブルドンを除く3つの4大大会で3回戦に勝ち進んだ。1995年8月の「カナディアン・オープン」で、ポーは2年ぶりにツアー復帰したモニカ・セレシュと顔を合わせた。セレシュは1993年4月30日の刺傷事件を乗り越えて、この大会から復帰を果たし、最初の対戦相手となったポーに 6-0, 6-3 で快勝して再出発を飾った。 彼女の名前が日本で広く知られるようになったのは、1996年に起きた一連の出来事からである。4月のジャパン・オープン女子ダブルス決勝で、ポーとエミー・フレージャーのペアは伊達公子&杉山愛組に 6-7, 7-6, 3-6 で敗れて準優勝になった。4ヶ月後の全米オープンで、ポーは1回戦で第10シードの伊達を 6-2, 7-5 のストレートで破った。全米オープン終了後の「ニチレイ・レディース」でも来日し、シングルス・ダブルスともに準決勝まで勝ち進んだ。ニチレイ・レディースの終了後、伊達は9月25日に突然の引退表明を行い、ポーに敗れた全米オープン1回戦が伊達の最後の4大大会出場となった。 ポーは1997年全豪オープンで4大大会シングルスの自己最高成績を出し、初めてのベスト8に進出した。その過程で、彼女は2回戦で杉山愛、3回戦で平木理化と日本人選手を連破し、4回戦で第7シードのリンゼイ・ダベンポートを破る勝利を挙げたが、準々決勝でアマンダ・クッツァーに敗退した。4月のジャパン・オープンでは、シングルス準決勝で杉山に敗れている。こうして彼女は1997年6月にシングルス自己最高ランキングを「14位」まで上げたが、同年11月に右肩の手術を受け、1998年5月まで戦線離脱を余儀なくされた。1998年のシングルス成績は、全米オープンで自己最高の4回戦進出がある。 1998年11月、ポーはカナダ・ケベックシティ大会のダブルスでロリ・マクニールと組んで優勝し、プロテニス選手として初めてのWTAツアータイトルを獲得した。この頃から、彼女はダブルスの分野で成績を伸ばし始める。1999年4月のジャパン・オープンでは、コリーナ・モラリューと組んで女子ダブルス初優勝を果たした。5ヶ月後の全米オープンで、ポーはドナルド・ジョンソンと混合ダブルスのペアを組み、初めて4大大会決勝戦の舞台を踏んだ。この決勝ではマヘシュ・ブパシ&杉山愛組に 4-6, 4-6 で敗れて準優勝になる。翌年の2000年ウィンブルドン混合ダブルス決勝で、ポーとジョンソンはレイトン・ヒューイット&キム・クライシュテルス組を 6-4, 7-6 で破り、キャリア最大のタイトルを獲得した。この当時はまだ独身女性の「キンバリー・ポー」であったが、その後オリバー・メッセーリ(Oliver Messerli)と結婚し、2つの姓を併用して「キンバリー・ポー・メッセーリ」と名乗った。 彼女は2000年6月中旬のイギリス・バーミンガム大会(ウィンブルドン選手権の前哨戦の1つ)を最後に、女子ツアー大会のシングルスから撤退し、以後の活動をダブルスのみに絞った。2001年から、彼女はフランスのベテラン選手ナタリー・トージアと組んで大半のトーナメントに出場し、全仏オープンベスト8・ウィンブルドンベスト4を経て、全米オープンで女子ダブルス決勝に進出した。ポー・メッセーリにとっては、1999年の混合ダブルス以来2度目の全米オープン決勝戦だったが、2人は第1シードのリサ・レイモンド&レネ・スタブス組に 2-6, 7-5, 5-7 で敗れて優勝を逃した。全米オープン終了後、ポー・メッセーリは30歳でダブルス自己最高ランキング「6位」に入った。 現役最後の年となった2002年、ポー・メッセーリはウィンブルドンと全米オープンで女子ダブルスのベスト8に入り、ウィンブルドンではドナルド・ジョンソンとの混合ダブルスで2年ぶりの準決勝に進んだ。最後は準決勝でマヘシュ・ブパシ&エレーナ・リホフツェワ組に 4-6, 6-1, 3-6 で敗れ、ポーとジョンソンは2年ぶりの決勝進出を逃した。女子ダブルスのパートナーは、ウィンブルドンはトージアであったが、全米オープンは白血病を克服したコリーナ・モラリューと組んだ。ポー・メッセーリとモラリューは、9月末の「トヨタ・プリンセス・カップ」にも出場したが、このトーナメントは2002年の第13回大会を最後に廃止された。10月下旬の「チューリッヒ・オープン」女子ダブルスで、ポー・メッセーリとナターシャ・ズベレワは、準々決勝でエレナ・ドキッチ&ナディア・ペトロワ組に 4-6, 3-6 で敗れた。この試合を最後に、キンバリー・ポー・メッセーリとナターシャ・ズベレワ、2人の選手が同時に女子プロテニス界を引退したのである。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとキンバリー・ポー · 続きを見る »

クラウディア・コーデ=キルシュ

ラウディア・コーデ=キルシュ(Claudia Kohde-Kilsch, 1963年12月11日 - )は、旧西ドイツ・ザールブリュッケン出身の元女子プロテニス選手。1980年代に活躍し、西ドイツのテニス界の黄金期を築いた先駆者のひとりである。身長187cm、体重68kg、右利き。WTAランク自己最高位はシングルス4位、ダブルス3位。WTAツアーでシングルス8勝、ダブルスで1985年全米オープン・1987年ウィンブルドンを含む26勝を挙げた。「コーデ・キルシュ」と2つの姓を名乗ったのは、養子として育った家庭の背景にあり、生まれた時の名前は“Claudia Kohde”(クラウディア・コーデ)といったが、養父のユルゲン・キルシュ(Jurgen Kilsch)に育てられたため“Claudia Kohde-Kilsch”の名前でプレーするようになった。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとクラウディア・コーデ=キルシュ · 続きを見る »

ケーシー・デラクア

ーシー・デラクア(Casey Dellacqua, 1985年2月11日 - )は、オーストラリア・パース出身の女子プロテニス選手。2011年の全仏オープン混合ダブルスで、スコット・リプスキーとペアを組んで優勝した。4大大会女子ダブルスの準優勝も7回ある。身長165cm、体重66kgの小柄な体格で、左利きの選手。WTAツアーでダブルス7勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス26位、ダブルス3位。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとケーシー・デラクア · 続きを見る »

コリーナ・モラリュー

リーナ・モラリュー(Corina Morariu, 1978年1月26日 - )は、アメリカ・ミシガン州デトロイト出身の女子プロテニス選手。ダブルスの得意な選手で、1999年のウィンブルドン女子ダブルスと2001年の全豪オープン混合ダブルスで優勝した。自己最高ランキングはシングルス29位、ダブルス1位。WTAツアーでシングルス1勝、ダブルス13勝を挙げた。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとコリーナ・モラリュー · 続きを見る »

ザビーネ・リシキ

ビーネ・リシキ(Sabine Lisicki, 1989年9月22日 - )は、ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州トロースドルフ出身の女子プロテニス選手。2013年のウィンブルドン女子シングルスで準優勝した選手である。これまでにWTAツアーでシングルス4勝、ダブルス4勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス12位、ダブルス35位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。本来のポーランド語の発音では「リシツキ」で、語源は「キツネ」(lis、読みは「リス」)。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとザビーネ・リシキ · 続きを見る »

ジュリー・アラール=デキュジス

ュリー・アラール=デキュジス(Julie Halard-Decugis, 1970年9月10日 - )は、フランス・ヴェルサイユ出身の元女子プロテニス選手。2000年の全米オープン女子ダブルスで、日本の杉山愛とペアを組んで優勝した。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。WTAツアーでシングルス12勝、ダブルス15勝を挙げた。1995年に結婚し、以降は既婚選手として自分の姓「アラール」(Halard)と夫の姓「デキュジス」(Decugis)を併用して活動した。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとジュリー・アラール=デキュジス · 続きを見る »

ジョー・デュリー

ョー・デュリー(Jo Durie, 1960年7月27日 - )は、イングランド・ブリストル出身の女子プロテニス選手。若き日にはアイドル性のあるキャラクターとしても高い人気を持っていた。シングルス自己最高ランキングは5位。WTAツアーでシングルス2勝、ダブルス4勝を挙げた。身長183cm、体重68kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。 1977年にプロ入り。同年のウィンブルドンで4大大会にデビューするが、当年度の優勝者となったバージニア・ウェードに初戦で敗退する。最初期はほとんどイギリス国内の試合のみに出場していたが、1981年から世界的な活躍を始め、全仏オープンを除く4大大会で4回戦に進出した。1983年にデュリーのテニス経歴は全盛期を迎え、女子ツアー大会でシングルス2勝とダブルス3勝を挙げ、全仏オープンと全米オープンでベスト4に入り、(当時は年末開催の)全豪オープンでベスト8入りした。全仏オープン準決勝ではミマ・ヤウソベッツ(ユーゴスラビア)に 6-3, 5-7, 2-6 の逆転で敗れ、全米オープン準決勝ではクリス・エバートに 4-6, 4-6 で完敗したが、こうしてデュリーは国際レベルの選手に躍進する。1984年にデュリーは地元のウィンブルドンで自己最高成績のベスト8に入ったが、この時の4回戦で当時15歳のシュテフィ・グラフ(当時西ドイツ)を 3-6, 6-3, 9-7 で退けた試合は今なお語り草になっている。 その後のデュリーは4大大会の女子シングルスで4回戦以上に勝ち残ることはできなかったが、混合ダブルスで1987年のウィンブルドンと1991年の全豪オープンに優勝を飾っている。パートナーはどちらも同じイギリスのジェレミー・ベイツと組んだ。デュリーは比較的長く現役生活を続行したが、1995年のウィンブルドン2回戦で第4シードのヤナ・ノボトナに敗れた試合の後、35歳で現役を退いた。 デュリーは女子テニス国別対抗戦・フェデレーションカップでも、1981年から1995年まで15年間イギリス代表選手を務めた。通算成績は34勝22敗(シングルス12勝16敗、ダブルス22勝6敗)で、フェデレーションカップではシングルスよりもダブルスで高い勝率を挙げた。通算勝利数はイギリス・チームの2位タイ記録で(1位バージニア・ウェード、2位タイがデュリーとクレア・ウッド)、ダブルス勝利数はウェードに続く単独2位記録となった。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとジョー・デュリー · 続きを見る »

ジル・クレイバス

ル・クレイバス(Jill Craybas, 1974年7月4日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州ハンティントンビーチ出身の女子プロテニス選手。WTAツアーでシングルス1勝、ダブルス5勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス39位、ダブルス41位。身長160cm、体重56kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとジル・クレイバス · 続きを見る »

ジーナ・ガリソン

ーナ・ガリソン(Zina Garrison, 1963年11月16日 - )は、アメリカ・テキサス州ヒューストン出身の元女子プロテニス選手。黒人の女子テニス選手として活動した。1990年のウィンブルドン女子シングルス準優勝者で、同選手権の混合ダブルスで1988年と1990年に2度優勝した。1988年のソウル五輪でも女子シングルス銅メダル・女子ダブルス金メダル獲得がある。身長164cm、体重61kgで、小柄な体格の選手だった。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス5位。WTAツアーでシングルス14勝、ダブルス20勝を挙げる。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとジーナ・ガリソン · 続きを見る »

タマリネ・タナスガーン

タマリネ・タナスガーン(Tamarine Tanasugarn, แทมมารีน ธนสุกาญจน์, 1977年5月24日 - )は、タイの女子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス19位、ダブルス15位。身長165cm、体重63kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。WTAツアーでシングルス4勝、ダブルス8勝を挙げた。タナスガーンは芝に強く、2008年ウィンブルドン選手権で初のベスト8進出を成し遂げ、当地のテニス選手として最高成績を出した。両親ともタイ人であるが、タナスガーンの出身地はアメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルスである。そのため、彼女はタイとアメリカの二重国籍を持つ。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとタマリネ・タナスガーン · 続きを見る »

タチアナ・ゴロビン

タチアナ・ゴロビン(Tatiana Golovin, 1988年1月25日 - )は、フランスの女子プロテニス選手。ロシア・モスクワ出身。2004年の全仏オープン混合ダブルス部門優勝者で、WTAツアーでシングルス2勝を挙げた(ダブルス優勝はない)。身長175cm、体重60kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。シングルス自己最高ランキングは12位(2008年2月)。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとタチアナ・ゴロビン · 続きを見る »

サラ・エラニ

ラ・エラニ(Sara Errani, 1987年4月29日 - )は、イタリア・ボローニャ出身の女子プロテニス選手。2012年の全仏オープン女子シングルスの準優勝者。ダブルスでもロベルタ・ビンチと組み4大大会で5勝を挙げキャリアグランドスラムを達成した。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス1位。これまでにWTAツアーでシングルス9勝、ダブルス27勝を挙げている。身長164cm、体重60kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。「エラーニ」の表記揺れも多い。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとサラ・エラニ · 続きを見る »

荘佳容

荘 佳容(チュアン・チアユン、1985年1月10日 - )は、台湾・高雄市出身の女子プロテニス選手。同僚の詹詠然とペアを組み、2007年の全豪オープンと全米オープン女子ダブルスで準優勝した選手である。身長168cm、体重60kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ダブルスでツアー通算22勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス177位、ダブルス5位。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックと荘佳容 · 続きを見る »

謝淑薇

謝淑薇(シェイ・スーウェイ, 英語表記:Su-Wei Hsieh, 1986年1月4日 – )は、台湾・高雄市出身の女子プロテニス選手。フォアハンド・ストローク、バックハンド・ストロークともに両手打ちの選手。これまでにWTAツアーでシングルス2勝、ダブルス17勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス23位、ダブルス1位。身長169cm、体重57kg、右利き。 シングルスでは2008年全豪オープンで当地のテニス選手として男女通じて史上初の4大大会シングルス4回戦進出を達成し、2012年には2度のツアー優勝を挙げ1990年代に活躍したの持つ台湾人シングルス最高位を更新。 ダブルスでは2013年ウィンブルドン選手権と2014年全仏オープンで彭帥とペアを組みそれぞれ優勝している。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックと謝淑薇 · 続きを見る »

WTAプレミアトーナメント

WTAプレミアトーナメント(WTA Premier tournaments)は女子テニス協会が定めるツアーのカテゴリ。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとWTAプレミアトーナメント · 続きを見る »

WTAインターナショナルトーナメント

WTAインターナショナルトーナメント(WTA International tournaments)は女子テニス協会が定めるツアーのカテゴリ。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックとWTAインターナショナルトーナメント · 続きを見る »

李娜

李 娜(リー・ナ、ピン音表記: Li Na, 1982年2月26日 - )は、中華人民共和国・湖北省武漢出身の元女子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス2位(アジア出身選手世界ランク最高位記録)。WTAツアーでキャリア通算シングルス9勝、ダブルス2勝を挙げた。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。身長172cm、体重65kg。 アジア出身選手初で唯一のグランドスラムシングルス優勝者。アジア出身選手初のグランドスラム決勝進出者。中国人選手初のWTAツアー優勝者。グランドスラム優勝2回・準優勝2回。WTAツアー選手権準優勝。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックと李娜 · 続きを見る »

杉山愛

杉山 愛(すぎやま あい、1975年7月5日 - )は、神奈川県横浜市出身の元女子プロテニス選手、テニス指導者。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。血液型はA型。SWTA自己最高ランキングはシングルス8位、ダブルス1位。キャリア通算でWTAツアーシングルス6勝、ダブルスでは38勝。 日本人選手として初のWTAダブルス世界ランキングで1位を獲得。日本人女子25年ぶりのグランドスラムダブルス優勝者で、現在日本人最後の4大大会優勝者。グランドスラム優勝4回は日本人最多記録。4大大会シングルス成績は2度のベスト8進出があり、現在日本人女子最後の全豪・全英シングルスベスト8進出者である。 日本人初のシングルスとダブルスの同時世界トップ10入り。また、グランドスラムシングルス連続出場のギネス記録を保持している。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックと杉山愛 · 続きを見る »

浅越しのぶ

浅越 しのぶ(あさごえ しのぶ、1976年6月28日 - )は、兵庫県赤穂郡上郡町出身の元女子プロテニス選手。現姓名、高島しのぶ。園田学園高等学校卒業。自己最高ランキングはシングルス21位、ダブルス13位。身長170cm、体重58kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。WTAツアーでシングルスの優勝はないが(準優勝3度)、ダブルスで8勝を挙げた。現役時代の浅越は、女子テニスツアーの仲間たちから Shii-chan (シーちゃん)という愛称で呼ばれた。 日本人女子として伊達公子以来10年ぶりの全米オープンシングルスベスト8進出。また現在日本人女子最後のグランドスラムシングルスベスト8進出者・全米オープンシングルスベスト8進出者である。.

新しい!!: バーミンガム・クラシックと浅越しのぶ · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

DFSクラシックエイゴン・クラシック

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »