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1982年全仏オープン

索引 1982年全仏オープン

1982年 全仏オープン(Internationaux de France de Roland-Garros 1982)は、フランス・パリにある「ローランギャロス・スタジアム」にて、1982年5月24日から6月6日にかけて開催された。.

40 関係: ミマ・ヤウソベッツマルチナ・ナブラチロワマッツ・ビランデルマイケル・チャンハナ・マンドリコワバージニア・ルジッチヤニック・ノアロージー・カザルストレーシー・オースチンブライアン・ゴットフリートパリビリー・ジーン・キングビタス・ゲルレイティスフランスベッティーナ・バンジアン・スミスアンドレア・イエガーアンドレス・ゴメスイワン・レンドルウェンディ・ターンブルキャシー・リナルディギリェルモ・ビラスクリス・エバートグランドスラム (テニス)シルビア・ハニカジミー・コナーズジョン・ロイドジーナ・ガリソンスティーブ・デントン全仏オープン国際テニス連盟1981年1981年全仏オープン1981年全豪オープン1982年1982年ウィンブルドン選手権1983年全仏オープン1989年全仏オープン5月24日6月6日

ミマ・ヤウソベッツ

ミマ・ヤウソベッツ(Mima Jaušovec, 1956年7月20日 - )は、ユーゴスラビア(現スロベニア)・マリボール出身の元女子プロテニス選手。主に全仏オープンで活躍し、1977年の女子シングルスで優勝した。同大会では1978年と1983年の2度準優勝もある。WTAツアーでシングルス5勝、ダブルス6勝を挙げた。身長160cm、体重50kg、右利き。.

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マルチナ・ナブラチロワ

マルチナ・ナブラチロワ(Martina Navrátilová, 1956年10月18日 - )は、チェコスロバキア(当時、現在チェコ共和国)プラハ出身の女子プロテニス選手。ウィンブルドン選手権の大会史上最多優勝記録(9勝)、WTAツアーの最多優勝記録(シングルス167勝、ダブルス177勝)など、数々の歴史的な記録を樹立した名選手である。4大大会シングルス通算「18勝」はライバルのクリス・エバートと並ぶ女子歴代4位タイ記録。左利きの選手で、ネット・プレーを最も得意にしている。 1975年に祖国を離れてアメリカに亡命し、1981年に米国市民権を取得したが、2008年1月9日にチェコ国籍を再取得、現在は二重国籍である。 2010年4月7日、雑誌「People」で乳がんであることを告白した。.

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マッツ・ビランデル

マッツ・ビランデル(Mats Wilander、1964年8月22日 - )は、スウェーデン・ヴェクショー出身の元男子プロテニス選手。ビョルン・ボルグ、ステファン・エドベリと並んで、スウェーデンの男子テニス界の黄金期を築いた3強豪のひとりである。4大大会でシングルス通算「7勝」を挙げ、ダブルスでも1986年のウィンブルドンで優勝した。彼は4大大会男子シングルスで、クレーコート・芝コート・ハードコート、すべてのサーフェスを制した史上2人目の選手でもある(現在まで、ジミー・コナーズ、ビランデル、アンドレ・アガシ、ロジャー・フェデラー、ラファエル・ナダル、ノバク・ジョコビッチの6人のみが達成した)。自己最高ランキングはシングルス1位、ダブルス3位。ATPツアーでシングルス33勝、ダブルス7勝を挙げた。右利きの選手。.

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マイケル・チャン

マイケル・ターペイ・チャン(Michael Te-Pei Chang, 中国語名:張德培(Zhāng Dépéi), 1972年2月22日 - )は、アメリカ合衆国ニュージャージー州ホーボーケン出身の元男子プロテニス選手。台湾系アメリカ人。右利き。バックハンド・ストロークは両手打ち。シングルス自己最高ランキングは2位。グランドスラム優勝1回、準優勝3回。ATPマスターズシリーズ優勝7回。テニス・マスターズ・カップに7度出場し1995年に準優勝を果たした。 男子シングルスグランドスラム最年少優勝記録保持者(17歳3ヶ月)。アジアにルーツを持つ男子選手として唯一のグランドスラム優勝者。 台湾系アメリカ人の選手で、男子テニス選手としては身長175センチの小柄な身体であるが、世界でも屈指のストロークプレーヤーであった。驚異的なフットワークと、発想豊かなゲームメイキング力を持ち味とした。ATPツアーでシングルス34勝を挙げた。 現在、錦織圭のコーチを務めている。.

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ハナ・マンドリコワ

ハナ・マンドリコワ(Hana Mandlíková, 1962年2月19日 - )は、チェコスロバキア・プラハ出身の元女子プロテニス選手。1980年代に活躍し、4大大会女子シングルス「4勝」を挙げた名選手である。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス7位。WTAツアーでシングルス27勝、ダブルス19勝を挙げた。当時の女子テニス界の2巨頭であったクリス・エバートとマルチナ・ナブラチロワの壁に挑み続けた選手の筆頭に位置している。.

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バージニア・ルジッチ

バージニア・ルジッチ(Virginia Ruzici, 1955年1月31日 - )は、ルーマニア・クンピャ・トゥルジイ出身の元女子プロテニス選手。1978年の全仏オープン女子シングルス優勝者である。ルーマニア出身の先輩選手イリ・ナスターゼが1972年の全米オープンと1973年の全仏オープンで4大大会に2勝した後、ルジッチは女子の第一人者として活躍し、同国の女子選手として最初の4大大会優勝者になった。WTAツアーでシングルス14勝を挙げる。.

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ヤニック・ノア

ヤニック・ノア(Yannick Noah, 1960年5月18日 - )は、フランス・スダン出身の元男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス23勝、ダブルス16勝を挙げた。身長193cm、体重81kg、右利き。 1983年の全仏オープン男子シングルス優勝者で、フランス人の男子選手としては現時点で最後のグランドスラム大会シングルス優勝者である。 サービス・アンド・ボレーのプレースタイルを得意とした選手で、華麗なパフォーマンスで高い人気を持っていた。 2015年9月よりデビスカップフランス代表監督に就任。.

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ロージー・カザルス

ーズマリー・"ロージー"・カザルス(Rosemary "Rosie" Casals, 1948年9月16日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ出身の女子プロテニス選手。“Rosebud”(バラの花束)の愛称でも知られた。ダブルスの名手として一時代を築き、ウィンブルドン女子ダブルスで5勝、全米オープン女子ダブルスで4勝を挙げた。しかしシングルスでは1970年と1971年の全米オープンで2年連続準優勝に終わり、とうとう優勝できなかった。カザルスのテニスは、サービス・アンド・ボレーが“豹のように速い”曲芸師のような動きを特徴としていた。女子プロテニス選手としてシングルス通算11勝、ダブルス通算112勝を挙げ、生涯獲得賞金として136万ドルを稼いだ。著名なチェリストのパブロ・カザルスとは遠い親戚に当たる。.

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トレーシー・オースチン

トレーシー・オースチン(Tracy Austin, 1962年12月12日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州パロスベルデ出身の元女子プロテニス選手。1979年と1981年の2度、全米オープン女子シングルスで優勝した。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。女子テニス界における10代の早熟選手の位置を確立し、低年齢化の火付け役となった選手でもある。WTAツアー通算でシングルス30勝、ダブルス4勝を挙げた。.

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ブライアン・ゴットフリート

ブライアン・ゴットフリート(Brian Gottfried, 1952年1月27日 - )は、アメリカの元プロテニス選手。メリーランド州ボルチモアでユダヤ系の家庭に生まれる。同時にウェールズ系の血も引く。 1977年の全仏オープン男子シングルス準優勝者。ダブルスではメキシコのラウル・ラミレスとペアを組んで数多くのタイトルを獲得し、全仏オープンの男子ダブルスで1975年と1977年の2度、ウィンブルドンでも1976年の男子ダブルスを制覇した。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス2位。ATPツアーでシングルス25勝、ダブルス54勝を挙げた。身長182cm、体重75kg、右利き。フルネームは Brian Edward Gottfried (ブライアン・エドワード・ゴットフリート)という。.

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パリ

ランドサット パリの行政区 パリ(Paris、巴里)は、フランス北部、イル=ド=フランス地域圏にある都市。フランスの首都であり、イル=ド=フランス地域圏の首府である。 フランス最大の都市であり、同国の政治、経済、文化などの中心である。ロンドン、ニューヨーク、香港、東京などと並ぶ世界トップクラスの世界都市でもある。行政上では、1コミューン単独で県を構成する特別市であり、ルーヴル美術館を含む1区を中心に、時計回りに20の行政区が並ぶ(エスカルゴと形容される)。.

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ビリー・ジーン・キング

ビリー・ジーン・キング(Billie Jean King, 1943年11月22日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州ロングビーチ出身の女子テニス選手。1960年代から1980年代初頭までの四半世紀に及び、長い間女子テニス界に君臨した名選手であり、女子テニスの歴史を通じて最大の偉人のひとりに数えられる。レズビアンとしてカミングアウトしている。.

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ビタス・ゲルレイティス

ビタス・ゲルレイティス(Vitas Gerulaitis、1954年7月26日 - 1994年9月17日ニューヨーク市内にある彼の墓石には「9月17日」と刻まれており、デビスカップのプロフィールページにもこの日付で掲載されているが、文献によっては「9月18日」と掲載しているものもあり、若干の混乱が見られる。)は、アメリカ合衆国ニューヨーク市ブルックリン出身の元男子プロテニス選手。フルネームはビタス・ケビン・ゲルレイティス (Vitas Kevin Gerulaitis) という。1970年代後半に活躍し、1977年12月の全豪オープン男子シングルスで優勝した。シングルス自己最高ランキングは3位。ATPツアーでシングルス24勝、ダブルス8勝を挙げた。父親はリトアニアのテニス・チャンピオンであり、ゲルレイティスは“Lithuanian Lion”(リトアニアのライオン)というニックネームで呼ばれた。1歳年下の妹、ルタ・ゲルレイティスもプロテニス選手である。 ゲルレイティスの活躍した時代は、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金期であり、同年代の選手としてビョルン・ボルグやジミー・コナーズなどの強豪選手がいたため、彼の現在の印象はやや薄くなった。しかしボルグと数々の熱戦を繰り広げ、良き友人でもあった。 ゲルレイティスはコロンビア大学を1年で中退し、1971年にプロテニス選手となった。4大大会にデビューした1971年全米オープンでは、1回戦で敗れた相手が日本の坂井利郎選手であった。1975年のウィンブルドンで、ゲルレイティスは同じアメリカのサンディ・マイヤーとペアを組み、4大大会の男子ダブルスで初優勝を果たす。ゲルレイティスのテニス成績が大きく伸び始めたのは、1976年のウィンブルドンベスト8進出からである。ゲルレイティスは4回戦で大会前年優勝者のアーサー・アッシュを破ったが、続く準々決勝でラウル・ラミレス(メキシコ)に敗れた。それからウィンブルドンでは、1977年と1978年の2年連続でベスト4に進んだが、1977年の準決勝でビョルン・ボルグと最終第5セット 6-8 まで競り合った試合は、今なお選手権史上に残る名勝負の1つとして語り継がれている。 1977年の全豪オープンは、年頭の1月開催と年末の12月開催の2度行われた。ゲルレイティスが優勝したのは12月の年末開催の大会で、決勝の相手はイギリスのジョン・ロイド(後にクリス・エバートと結婚した選手)であった。先にゲルレイティスが2セットを先取したが、ロイドが第3・第4セットを連取して2セット・オールに追いつく。最終第5セットでゲルレイティスはロイドを突き放し、6-3, 7-6, 5-7, 3-6, 6-2 のスコアで初優勝を飾った。 その後のゲルレイティスは4大大会で2度の準優勝に終わり、1979年全米オープンの決勝では当時20歳のジョン・マッケンローに 5-7, 3-6, 3-6 で敗れ、1980年全仏オープンの決勝ではボルグに 4-6, 1-6, 2-6 で敗れた。ゲルレイティスとボルグの対戦成績は、ボルグの「16戦全勝」である。ゲルレイティスは1986年3月、ベルギー・ブリュッセルの大会を最後に31歳で現役を引退した。 ビタス・ゲルレイティスは1994年9月17日、ニューヨーク州ロングアイランドの友人宅に滞在していた時、睡眠中にエアコン装備が故障し、一酸化炭素中毒のため40歳で死去した。.

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フランス

フランス共和国(フランスきょうわこく、République française)、通称フランス(France)は、西ヨーロッパの領土並びに複数の海外地域および領土から成る単一主権国家である。フランス・メトロポリテーヌ(本土)は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がる。 2、人口は6,6600000人である。-->.

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ベッティーナ・バンジ

ベッティーナ・バンジ(Bettina Bunge, 1963年6月13日 - )は、旧西ドイツの元女子プロテニス選手。1980年代に活躍し、旧西ドイツのテニス界の黄金期を築いた先駆者のひとりである。ドイツ人のビジネスマンであった父親の仕事の関係で、スイス・アドリスウィルに生まれる。現役時代はアイドル性のあるキャラクターとして人気が高く、日本では“元祖アイドル”とまで呼ばれた。身長173cm、体重57kg、右利き。WTAツアーでシングルス4勝、ダブルス2勝を挙げた。.

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アン・スミス

アン・スミス(Anne Smith, 1959年7月1日 - )は、アメリカ・テキサス州ダラス出身の元女子プロテニス選手。ダブルスの名手として活躍し、4大大会で女子ダブルス5勝、混合ダブルス5勝を挙げた。とりわけ、1980年から1981年にかけて同じ年のキャシー・ジョーダンと一緒に女子ダブルスの「キャリア・グランドスラム」を達成した点が傑出している。WTAツアーでシングルス2勝、ダブルス38勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス12位、ダブルス1位。.

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アンドレア・イエガー

アンドレア・イエガー(Andrea Jaeger, 1965年6月4日 - )は、アメリカ・イリノイ州シカゴ出身の元女子プロテニス選手。1982年の全仏オープンと1983年のウィンブルドンで、4大大会に2度の準優勝がある。どちらも決勝戦でマルチナ・ナブラチロワに敗れた。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。シングルス自己最高ランキングは2位(1981年8月)。WTAツアーでシングルス10勝、ダブルス4勝を挙げた。.

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アンドレス・ゴメス

アンドレス・ゴメス・サントス(Andrés Gómez Santos, 1960年2月27日 - )は、エクアドル・グアヤキル出身の元男子プロテニス選手。1990年の全仏オープン男子シングルス優勝者で、当地が生んだ最大のスポーツ選手として知られる。ダブルスでも1986年の全米オープンと1988年の全仏オープンで、4大大会男子ダブルス2勝がある。左利き。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス21勝、ダブルス33勝を挙げた。オールラウンド・プレーヤーで、重厚なサービスや鋭いボレー、きびきびしたスピン・ボールを駆使するスタイルのテニスを得意とした。.

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イワン・レンドル

イワン・レンドル(Ivan Lendl, 1960年3月7日 - )は、チェコスロバキア・オストラヴァ出身の元男子プロテニス選手、テニス指導者。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。グランドスラム通算8勝の男子テニス歴代9位タイ記録、ATPツアーのシングルスでいずれも男子歴代2位のツアー94勝、シングルス1071勝などの大記録を持つ。 1980年代の男子テニス界に長らく王者として君臨し、ジミー・コナーズ、ビョルン・ボルグ、ジョン・マッケンローらと並び、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金時代を築いた名選手のひとりである。 世界ランキング1位連続在位記録「157週」は当時歴代2位(現在歴代3位)。また世界ランキング通算在位記録「270週」は当時の歴代1位記録を樹立した。現在もフェデラー(302週)、サンプラス(286週)に次ぐ歴代3位記録。 レンドルは現役時代から大のゴルフ好きであり(ただしゴルフだけは左打ち)、ミュシャの蒐集家としても知られる。.

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ウェンディ・ターンブル

ウェンディ・ターンブル(Wendy Turnbull, 1952年11月26日 - )は、オーストラリア・ブリスベン出身の元女子プロテニス選手。主に1970年代後半から1980年代に活躍した選手で、素速いフットワークから“Rabbit”(ラビット)というニックネームで呼ばれた。しかし4大大会の女子シングルスで3度の準優勝に終わり、1977年全米オープン、1979年全仏オープン、1980年全豪オープンの決勝戦で敗れた。WTAツアーでシングルス13勝、ダブルス55勝を挙げた。 ターンブルは15歳で学校をやめ、4年間の銀行勤務を経てテニス選手になった。1975年にプロ入り。1976年に日本の「ジャパン・オープン」で優勝している。最初のチャンスは1977年の全米オープンで訪れ、ターンブルは準々決勝で当年度のウィンブルドン優勝者バージニア・ウェード(第3シード、イギリス)、準決勝で第2シードのマルチナ・ナブラチロワを連破して初めての4大大会決勝に進んだが、第1シードのクリス・エバートに 6-7, 2-6 で敗れて準優勝になった。全米オープンでは、翌1978年も準決勝でエバートに敗れる。2度目のチャンスとなった1979年全仏オープンでも、決勝戦で同じエバートの壁にぶつかり、2-6, 0-6 の完敗で2度目の準優勝になっている。 1980年のシーズンは全体的に好調で、全仏オープンとウィンブルドンでともにベスト8進出を果たした後に、年末開催の全豪オープンで3度目の4大大会決勝進出を決めた。(注:当時は全豪オープンの開催時期が何度も変わり、1977年に1月開催・12月開催と2度行われたのちに、1978年-1985年までは12月の年末開催で行われていた。)ターンブルは準決勝で第1シードのマルチナ・ナブラチロワを破ったが、決勝で当時18歳の新鋭ハナ・マンドリコワに 0-6, 5-7 で敗れ、またしても優勝のチャンスを逃した。その後は全豪オープンで1981年と1984年、全米オープンで1984年に準決勝進出がある。シングルスでは1989年ウィンブルドンの2回戦敗退が最後の試合になった。 ウェンディ・ターンブルはダブルスの名手として、女子テニスツアーで通算55勝を記録した。4大大会でも女子ダブルスは4勝、混合ダブルスは5勝を挙げている。1978年のウィンブルドンで、ターンブルは同じオーストラリアのケリー・レイドとペアを組み、ミマ・ヤウソベッツ(ユーゴスラビア)&バージニア・ルジッチ(ルーマニア)組を 4-6, 9-8, 6-3で破って初優勝を飾った。1979年はオランダのベティ・ストーブとペアを組み、全仏オープンと全米オープンで年間2冠を獲得する。1982年には全米オープンの女子ダブルスで、ベテランのロージー・カザルスと組んで3年ぶり2度目の優勝を果たした。1988年のソウル五輪では、オーストラリア代表選手として女子ダブルスに出場し、エリザベス・スマイリーと組んで銅メダルを獲得している。混合ダブルスでは、ターンブルはジョン・ロイド(クリス・エバートの元夫として有名な人)と相性が良く、1982年から1984年までウィンブルドンの混合ダブルス決勝に3年連続で進出した。ターンブルは1989年夏にシングルスから引退した後も、ダブルスでは1990年まで現役を続行した。 ターンブルは現役生活を通じて、クリス・エバートの厚い壁をどうしても破れなかった選手の1人である。2人の対戦成績はエバートの「21勝1敗」で終わった。マルチナ・ナブラチロワとは「5勝29敗」の対戦成績を残している。エバートとナブラチロワの2強豪と同年代に活動した女子プロテニス選手たちにとって、2人の壁を破ることがいかに至難であったか、ターンブルの3度の準優勝はその難しさを物語る1つの記録と言えるだろう。.

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キャシー・リナルディ

ャシー・リナルディ(Kathy Rinaldi, 1967年3月24日 - )は、アメリカ・フロリダ州スチュアート出身の元女子プロテニス選手。1980年代にアメリカを代表する女子選手のひとりとして活動し、早熟選手として高い人気を持っていた。キャリアの後半には、ジル・ヘザリントン(カナダ)とのダブルスで多くの好成績を出した。自己最高ランキングはシングルス7位、ダブルス13位。身長168cm、体重55kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ギリェルモ・ビラス

リェルモ・ビラス(Guillermo Vilas, 1952年8月17日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス生まれマル・デル・プラタ育ちの元男子プロテニス選手。当地が生んだ最大のテニス選手として、4大大会通算「4勝」を挙げた選手である。身長180cm、体重75kg、左利きの選手。シングルス自己最高ランキングは2位。ATPツアーでシングルス62勝、ダブルス16勝。 オープン化以降2人目となる通算900勝。またクレーコートで600勝以上挙げている。1977年にはグランドスラム2冠・46連勝・クレーコート53連勝・オープン化記録となるシーズン134勝を達成。 またオープン化以降初となる同一大会優勝8回を達成(ブエノスアイレス大会)。 長髪をバンダナで束ねた風貌でも強い印象を持ち、「パンパスの若き雄牛」(Young Bull of the Pampas)というニックネームで呼ばれた。 彼はジミー・コナーズと同い年であり、ビョルン・ボルグやジョン・マッケンローなども同世代のライバル選手だった。ビラスは彼らと並んで、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金時代を刻んだ選手のひとりに数えられる。特にクレーコートに強く数多の記録を保持している。.

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クリス・エバート

リス・エバート(Chris Evert, 1954年12月21日 - )は、アメリカ・フロリダ州フォートローダーデール出身の元女子プロテニス選手。フルネームは Christine Marie Evert (クリスティン・マリー・エバート)というが、「クリス・エバート」の名前で最もよく知られる。愛称の「クリッシー」“Chrissie”で呼ばれることも多い。父親のジミー・エバートと妹のジャンヌ・エバートも元プロテニス選手である。好敵手であるマルチナ・ナブラチロワとともに、1970年代から1980年代前半の女子テニス界を牽引した。.

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グランドスラム (テニス)

ランドスラム(Grand Slam)とは、国際テニス連盟が定めた4大大会を指す総称、またはそれら全てを制覇する事である。後者はコントラクトブリッジの用語で完全制覇を意味する語に由来する。.

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シルビア・ハニカ

ルビア・ハニカ(Sylvia Hanika, 1959年11月30日 - )は、旧西ドイツ・ミュンヘン出身の元女子プロテニス選手。1981年の全仏オープン女子シングルス準優勝者。左利き。WTAツアーでシングルス6勝、ダブルス1勝を挙げる。旧西ドイツのテニス界の黄金時代を築いた先駆者のひとりである。 1977年にプロ入り。1978年に地元の大会「ドイツ室内選手権」でプロ初優勝。1981年の全仏オープン決勝戦では、チェコスロバキアのハナ・マンドリコワに 2-6, 4-6 のストレートで敗れた。1982年に女子ツアー年間最終戦(当時の名称は「エイボン・チャンピオンシップス」)決勝戦でマルチナ・ナブラチロワを 1-6, 6-3, 6-4 の逆転で破り初優勝。女子国別対抗戦「フェデレーション・カップ」(現在の名称はフェドカップ)の西ドイツ代表として、1978年-1981年、1984年、1985年、1988年の7度出場した。 ハニカはテニスがオリンピック競技として復活したソウル五輪にも、西ドイツ代表として出場している。先駆者としてのハニカの活躍に刺激されて、ベッティーナ・バンジやクラウディア・コーデ=キルシュが西ドイツの女子テニス界を盛り上げ、やがて同国最大の選手シュテフィ・グラフが世界の頂点に立った。ハニカはソウル五輪代表として、後輩のグラフの金メダルを見守ることができた。1990年に31歳で現役を引退した。.

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ジミー・コナーズ

ミー・コナーズ(Jimmy Connors, 1952年9月2日 - )は、アメリカ・イリノイ州ベルビル出身の元男子プロテニス選手。フルネームは James Scott Connors (ジェームズ・スコット・コナーズ)という。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(U.C.L.A.)出身。 ビョルン・ボルグ、ジョン・マッケンロー、イワン・レンドルらと並び、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金時代を築いた名選手のひとりである。コナーズは1970年代の男子テニス界に長らく王者として君臨した。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 4大大会通算8勝は、フレッド・ペリー、ケン・ローズウォール、イワン・レンドル、アンドレ・アガシと並ぶ男子テニス歴代8位タイ記録。 ATPツアーのシングルスではいずれも男子歴代1位のツアー109勝、シングルス1243勝などの大記録を持つ。世界ランキング1位連続保持記録「160週」は歴代2位(当時歴代1位、2007年2月26日にロジャー・フェデラーがコナーズの記録を更新し、2008年8月17日まで「237週」を記録)。また世界ランキング1位通算在位記録「268週」は当時歴代最長で、現在でもフェデラー(302週)、サンプラス(286週)、レンドル(270週)に次ぐ歴代4位である。 闘志溢れるプレーで高い人気を集め、観客を自分の味方につける術にも優れた選手だった。.

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ジョン・ロイド

ョン・ロイド(John Lloyd, 1954年8月27日 - )は、イギリス・エセックス州リー・オン・シー出身の元男子プロテニス選手。クリス・エバートの元夫として有名な選手であるが、1977年12月の全豪オープン男子シングルス準優勝者でもある。ロイドは混合ダブルスに強く、オーストラリアのウェンディ・ターンブルとペアを組んで4大大会の混合ダブルス部門に3勝を挙げた。ATPツアーではシングルス1勝、ダブルス2勝止まりに終わっている。シングルス自己最高ランキングは21位。身長177cm、体重75kg、右利き。.

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ジーナ・ガリソン

ーナ・ガリソン(Zina Garrison, 1963年11月16日 - )は、アメリカ・テキサス州ヒューストン出身の元女子プロテニス選手。黒人の女子テニス選手として活動した。1990年のウィンブルドン女子シングルス準優勝者で、同選手権の混合ダブルスで1988年と1990年に2度優勝した。1988年のソウル五輪でも女子シングルス銅メダル・女子ダブルス金メダル獲得がある。身長164cm、体重61kgで、小柄な体格の選手だった。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス5位。WTAツアーでシングルス14勝、ダブルス20勝を挙げる。.

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スティーブ・デントン

ティーブ・デントン(Steve Denton, 1956年9月5日 - )は、アメリカ・テキサス州キングスビル出身の元男子プロテニス選手。1981年と1982年の2年連続で、全豪オープンの男子シングルス準優勝者になった選手である。男子ダブルスでは1982年の全米オープンで、ケビン・カレンとペアを組んで優勝した。混合ダブルスではウィンブルドンで1983年と1984年の2年連続準優勝がある。自己最高ランキングはシングルス12位、ダブルス5位。ATPツアーでダブルス18勝を挙げたが、シングルスでは全豪オープンの2年連続準優勝を含めて6度の準優勝があり、1度も優勝できずに終わった不運な選手である。.

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全仏オープン

全仏オープンのセンターコート(フィリップ・シャトリエ・コート) 全仏オープン(ぜんふつオープン、フランス語:Les Internationaux de France, Le Tournoi de Roland-Garros, 英語:The French Open)は、テニスの4大国際大会であるグランドスラムの一つ。フランスの首都パリの名所ブローニュの森の隣接するスタッド・ローラン・ギャロス(Stade Roland Garros)にて、5月末から6月初めにかけて開催される。大会運営はフランステニス連盟(FFT)が行う。 飛行家ローラン・ギャロス(1888年 - 1918年)の功績を称えて、会場にはギャロスの名前が冠されている。このため本大会は「ローラン・ギャロス・トーナメント」(Le Tournoi de Roland Garros)とも呼ばれる。.

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国際テニス連盟

国際テニス連盟(こくさいテニスれんめい、英語:International Tennis Federation)は、イギリスのロンドン郊外にあるローハンプトン(Roehampton)に本部を置くテニスの国際統括団体の事である。略称はITF。現在の会長は、これまで12年間に渡り務めてきたに変わり、2015年9月26日より米デービッド・ハガティが4年の任期で選出された。 1913年にフランス・パリにて12カ国の参加のもとILTF(国際ローンテニス連盟)として設立された。1977年に「ローン(芝)」という単語を削除しITFとなった。現在、世界で203協会が加盟している。 なお週ごとに選手一人一人の世界ランキングを公表している組織はITFではなく、男子がATP(プロテニス協会)、女子はWTA(女子テニス協会)である。.

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1981年

この項目では、国際的な視点に基づいた1981年について記載する。.

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1981年全仏オープン

1981年 全仏オープン(Internationaux de France de Roland-Garros 1981)は、フランス・パリにある「ローランギャロス・スタジアム」にて、1981年5月25日から6月7日にかけて開催された。.

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1981年全豪オープン

1981年 全豪オープン(Australian Open 1981)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1981年11月30日から12月6日まで開催された。.

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1982年

この項目では、国際的な視点に基づいた1982年について記載する。.

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1982年ウィンブルドン選手権

1982年 ウィンブルドン選手権(The Championships, Wimbledon 1982)は、イギリス・ロンドン郊外にある「オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ」にて、1982年6月21日から7月4日にかけて開催された。.

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1983年全仏オープン

1983年 全仏オープン(Internationaux de France de Roland-Garros 1983)は、フランス・パリにある「ローランギャロス・スタジアム」にて、1983年5月23日から6月5日にかけて開催された。.

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1989年全仏オープン

1989年 全仏オープン(Internationaux de France de Roland-Garros 1989)は、フランス・パリにある「スタッド・ローラン・ギャロス」にて、1989年5月28日から6月11日にかけて開催された。.

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5月24日

5月24日(ごがつにじゅうよっか、ごがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から144日目(閏年では145日目)にあたり、年末まではあと221日ある。誕生花はムギワラギク。.

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6月6日

6月6日(ろくがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から157日目(閏年では158日目)にあたり、年末まであと208日ある。誕生花はジギタリス、スターチス。.

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