ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
ダウンロード
ブラウザよりも高速アクセス!
 

1981年全豪オープン

索引 1981年全豪オープン

1981年 全豪オープン(Australian Open 1981)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1981年11月30日から12月6日まで開催された。.

48 関係: ミマ・ヤウソベッツマルチナ・ナブラチロワマーク・エドモンドソンチェコスロバキアハナ・マンドリコワバージニア・ルジッチメルボルンヨハン・クリークレナータ・トマノワロスコー・タナートレーシー・オースチンパム・シュライバーティム・メイヨットベッティーナ・バンジアメリカ合衆国アン・スミスアンドレア・イエガーイボンヌ・グーラゴングウェンディ・ターンブルオーストラリアキム・ウォーウィックキャシー・ジョーダンギリェルモ・ビラスクリス・ルイスクリス・エバートグランドスラム (テニス)ケビン・カレンシュロモ・グリックステインジョン・フィッツジェラルド (テニス選手)ジョン・サドリスー・バーカースティーブ・デントン全豪オープン国際テニス連盟11月30日12月6日1970年全豪オープン1978年ウィンブルドン選手権1979年ウィンブルドン選手権1980年ウィンブルドン選手権1980年全仏オープン1980年全豪オープン1981年1981年全米オープン (テニス)1982年1982年全仏オープン1982年全豪オープン1985年全豪オープン

ミマ・ヤウソベッツ

ミマ・ヤウソベッツ(Mima Jaušovec, 1956年7月20日 - )は、ユーゴスラビア(現スロベニア)・マリボール出身の元女子プロテニス選手。主に全仏オープンで活躍し、1977年の女子シングルスで優勝した。同大会では1978年と1983年の2度準優勝もある。WTAツアーでシングルス5勝、ダブルス6勝を挙げた。身長160cm、体重50kg、右利き。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとミマ・ヤウソベッツ · 続きを見る »

マルチナ・ナブラチロワ

マルチナ・ナブラチロワ(Martina Navrátilová, 1956年10月18日 - )は、チェコスロバキア(当時、現在チェコ共和国)プラハ出身の女子プロテニス選手。ウィンブルドン選手権の大会史上最多優勝記録(9勝)、WTAツアーの最多優勝記録(シングルス167勝、ダブルス177勝)など、数々の歴史的な記録を樹立した名選手である。4大大会シングルス通算「18勝」はライバルのクリス・エバートと並ぶ女子歴代4位タイ記録。左利きの選手で、ネット・プレーを最も得意にしている。 1975年に祖国を離れてアメリカに亡命し、1981年に米国市民権を取得したが、2008年1月9日にチェコ国籍を再取得、現在は二重国籍である。 2010年4月7日、雑誌「People」で乳がんであることを告白した。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとマルチナ・ナブラチロワ · 続きを見る »

マーク・エドモンドソン

マーク・ロナルド・エドモンドソン(Mark Ronald Edmondson, 1954年6月28日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州ゴスフォード出身の元男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス15位、ダブルス3位。ATPツアーでシングルス6勝、ダブルス34勝を挙げた。4大大会でも男子ダブルスでは通算「5勝」を挙げている。“Eddo”(エド)という愛称で呼ばれた。 1976年の全豪オープン男子シングルス優勝者であり、地元オーストラリア人選手最後の全豪オープン男子シングルス優勝者である。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとマーク・エドモンドソン · 続きを見る »

チェコスロバキア

チェコスロバキア(チェコ語:Československo、スロバキア語:Česko-Slovensko)は、1918年から1992年にかけてヨーロッパに存在した国家。 現在のチェコ共和国及びスロバキア共和国により構成されていた。これはトマーシュ・マサリクやエドヴァルド・ベネシュが唱えた、チェコ人とスロバキア人がひとつの国を形成するべきであるというチェコスロバキア主義(:en:Czechoslovakism)に基づくものである。建国当初には現在のウクライナの一部であるカルパティア・ルテニアも領域に加えられていた。首都は現在のチェコ首都であるプラハ。国旗は現在のチェコ共和国と同じものが使用されていた。 1948年からはチェコスロバキア共産党の事実上の一党独裁制によるソ連型社会主義国となり、1960年から1989年まで、国名は「チェコスロバキア社会主義共和国」(チェコ語・スロバキア語: Československá socialistická republika)であった。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとチェコスロバキア · 続きを見る »

ハナ・マンドリコワ

ハナ・マンドリコワ(Hana Mandlíková, 1962年2月19日 - )は、チェコスロバキア・プラハ出身の元女子プロテニス選手。1980年代に活躍し、4大大会女子シングルス「4勝」を挙げた名選手である。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス7位。WTAツアーでシングルス27勝、ダブルス19勝を挙げた。当時の女子テニス界の2巨頭であったクリス・エバートとマルチナ・ナブラチロワの壁に挑み続けた選手の筆頭に位置している。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとハナ・マンドリコワ · 続きを見る »

バージニア・ルジッチ

バージニア・ルジッチ(Virginia Ruzici, 1955年1月31日 - )は、ルーマニア・クンピャ・トゥルジイ出身の元女子プロテニス選手。1978年の全仏オープン女子シングルス優勝者である。ルーマニア出身の先輩選手イリ・ナスターゼが1972年の全米オープンと1973年の全仏オープンで4大大会に2勝した後、ルジッチは女子の第一人者として活躍し、同国の女子選手として最初の4大大会優勝者になった。WTAツアーでシングルス14勝を挙げる。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとバージニア・ルジッチ · 続きを見る »

メルボルン

メルボルン(Melbourne、豪語発音:, )は、オーストラリアのビクトリア州の州都で、オーストラリア大陸南東部、ポート・フィリップ湾に面したヤラ川河口の港市。オセアニア有数の世界都市。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとメルボルン · 続きを見る »

ヨハン・クリーク

ヨハン・クリーク(Johan Kriek, 1958年4月5日 - )は、南アフリカ・ポンゴラ出身の元男子プロテニス選手。1981年と1982年の全豪オープン男子シングルスで2連覇を達成した選手である。自己最高ランキングはシングルス7位、ダブルス12位。ATPツアーでシングルス14勝、ダブルス8勝を挙げた。同国のライバル選手、ケビン・カレンとは年齢も同じ親友である。身長175cm、体重76kg、右利き。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとヨハン・クリーク · 続きを見る »

レナータ・トマノワ

レナータ・トマノワ(Renáta Tomanová, 1954年12月9日 - )は、チェコスロバキア・インジフーフ・フラデツ出身の元女子プロテニス選手。1976年の全豪オープンと全仏オープンで女子シングルス準優勝者になった人である。1978年の全豪オープン女子ダブルスでベッツィ・ナゲルセン(アメリカ)とペアを組み、決勝で佐藤直子&パム・ホワイトクロス(オーストラリア)組を破って優勝した。 トマノワは少女時代に、当時チェコスロバキアのナショナル・コーチであったベラ・スコバの指導を受けた。1973年にプロ入り。1975年5月5日-11日に開かれた女子テニス国別対抗戦・フェデレーションカップで、トマノワは初めて国の代表選手に選ばれ、この年にチェコスロバキアを初優勝に導いた立役者のひとりとなった。代表監督はスコバで、チームメートは当時18歳のマルチナ・ナブラチロワであった。5月11日の決勝で、チェコスロバキアはオーストラリアを3勝0敗で破り、スコバ監督のもとでフェデレーション杯初優勝を達成した。 翌1976年、トマノワは全豪オープンと全仏オープンの2大会連続で女子シングルス決勝に進出し、全豪オープンでは女子シングルス・女子ダブルスの2部門で決勝に進出したが、すべて準優勝止まりに終わった。全豪オープンの女子シングルス決勝では、地元オーストラリアのイボンヌ・グーラゴング・コーリーに 2-6, 2-6 で敗れ、レスリー・ターナー・ボウリーとペアを組んだ女子ダブルスでもグーラゴング・コーリーとヘレン・グーレイの組に 1-8 の1セット・マッチで敗れて、単複とも決勝でグーラゴング・コーリーに道を阻まれた。続く全仏オープンでも、トマノワはイギリスのスー・バーカーに 2-6, 6-0, 2-6 のフルセットで敗れ、4大大会の女子シングルスで2大会連続準優勝に終わった。この後、ウィンブルドンと全米オープンでは3回戦敗退に終わる。 1978年の全豪オープン女子ダブルスで、レナータ・トマノワはベッツィ・ナゲルセン(アメリカ)とペアを組み、決勝で佐藤直子&パム・ホワイトクロス(オーストラリア)組を 7-5, 6-2 で破って優勝した。全豪オープンは1977年に1月年頭開催と12月年末開催の2度行われ、1978年からは年末開催に移行した。その後のトマノワの主な成績は、1979年の全仏オープンベスト8と全豪オープンベスト4進出があり、年末開催の全豪オープン準決勝でバーバラ・ジョーダン(アメリカ)に敗れた。非常に優れた才能の持ち主であったが、トマノワは次第にかつてのチームメートであったマルチナ・ナブラチロワの陰に隠れがちな存在になっていく。1987年8月、トマノワはオーストリア・キッツビュール大会の単複出場を最後に32歳で現役を引退した。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとレナータ・トマノワ · 続きを見る »

ロスコー・タナー

ー・タナー(Roscoe Tanner、1951年10月15日 - )は、アメリカ合衆国テネシー州チャタヌーガ出身の元男子プロテニス選手。1977年の全豪オープン男子シングルス優勝者で、1979年のウィンブルドン準優勝でもよく知られた選手である。シングルス自己最高ランキングは4位。身長182cm、体重77kg、左利き。左腕から繰り出す、威力あふれるサービスを最大の武器とした。しかし、同時代の選手としてジミー・コナーズやビョルン・ボルグなどの強豪選手がいたこともあり、現在の印象はやや薄くなった存在でもある。ATPツアーでシングルス16勝、ダブルス13勝を挙げた。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとロスコー・タナー · 続きを見る »

トレーシー・オースチン

トレーシー・オースチン(Tracy Austin, 1962年12月12日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州パロスベルデ出身の元女子プロテニス選手。1979年と1981年の2度、全米オープン女子シングルスで優勝した。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。女子テニス界における10代の早熟選手の位置を確立し、低年齢化の火付け役となった選手でもある。WTAツアー通算でシングルス30勝、ダブルス4勝を挙げた。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとトレーシー・オースチン · 続きを見る »

パム・シュライバー

パメラ・ハワード・シュライバー(Pamela "Pam" Howard Shriver、1962年7月4日 - )は、アメリカ・メリーランド州ボルチモア出身の元女子プロテニス選手。1978年の全米オープン女子シングルス準優勝者で、ダブルスの名手として一時代を築いた名選手である。WTAツアーでシングルス21勝、ダブルス111勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス1位。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとパム・シュライバー · 続きを見る »

ティム・メイヨット

ティム・メイヨット(Tim Mayotte, 1960年8月3日 - )は、アメリカ・マサチューセッツ州スプリングフィールド出身の元男子プロテニス選手。1988年のソウル五輪で男子シングルスの銀メダルを獲得した選手で、1980年代にアメリカを代表する選手の1人として活動した。4大大会ではウィンブルドン選手権を最も得意にした。シングルス自己最高ランキングは7位。ATPツアーでシングルス12勝、ダブルス1勝を挙げた。身長190cm、体重84kg、右利き。 1979年にプロ入り。1981年にウィンブルドンと全豪オープンでベスト8に進出し、1982年にウィンブルドンで初の準決勝進出を果たす。メイヨットは準々決勝で1980年全豪オープン優勝者ブライアン・ティーチャーに競り勝ったが、初めての準決勝ではジョン・マッケンローに 3-6, 1-6, 2-6 で完敗した。1983年にウィンブルドンで3年連続のベスト8に入った後、当時は11月の年末開催だった全豪オープンでも初めてベスト4に進んだが、この準決勝ではイワン・レンドルに 1-6, 6-7, 3-6 のストレートで敗れた。メイヨットの4大大会成績は、1982年ウィンブルドンと1983年全豪オープンの2度の準決勝進出が最高であるが、その後も安定した好成績を維持した。しかしメイヨットのツアー初優勝は比較的遅く、1985年2月にアメリカ・フロリダ州デルレイビーチ大会の決勝でスコット・デービス(同じくアメリカ)を 4-6, 4-6, 6-3, 6-2, 6-4 の逆転で破った勝利が彼の初栄冠だった。1987年にメイヨットは男子ツアーで5つのシングルス・タイトルを獲得したが、4大大会ではいくらか低迷気味だった。 オリンピックにおけるテニス競技は、1928年のアムステルダム五輪以後、プロ選手の登場により除外されていた。しかし1988年のソウル五輪でプロテニス選手の出場が認められ、64年ぶりにオリンピック競技としてのテニスが復活する。オリンピックはアマチュアの祭典である、という基本理念を覆す決定がなされたため、当時は大きな波紋を呼んだ出来事だった。その記念すべき大会で、メイヨットは準決勝で同じアメリカ代表のブラッド・ギルバートを破ったが、決勝戦ではチェコスロバキア代表のミロスラフ・メチージュに 6-3, 2-6, 4-6, 2-6 で敗れ、復活金メダルの第1号を逃した。オリンピック銀メダルの年、メイヨットは4つのツアー大会で優勝し、この年に世界ランキングの自己最高位「7位」をマークした。 オリンピック銀メダルの翌年、1989年にメイヨットはウィンブルドンと全米オープンの2大会連続でベスト8に進出する。ウィンブルドンのベスト8は通算6度目であったが、全米オープンでは29歳にしてようやく自己最高成績を出した。この大会では4回戦で当年度の全仏オープン優勝者マイケル・チャンに快勝したが、初めての準々決勝では第1シードのイワン・レンドルに 4-6, 0-6, 1-6 で一方的な完敗に終わった。しかし1990年に入ると、メイヨットのテニス成績は下降線をたどり始める。1991年の全米オープン1回戦敗退が、彼の最後の4大大会出場になった。ソウル五輪の銀メダルで印象を残したティム・メイヨットは、1992年2月にアメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィア大会の1回戦敗退を最後に31歳で現役を引退した。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとティム・メイヨット · 続きを見る »

ベッティーナ・バンジ

ベッティーナ・バンジ(Bettina Bunge, 1963年6月13日 - )は、旧西ドイツの元女子プロテニス選手。1980年代に活躍し、旧西ドイツのテニス界の黄金期を築いた先駆者のひとりである。ドイツ人のビジネスマンであった父親の仕事の関係で、スイス・アドリスウィルに生まれる。現役時代はアイドル性のあるキャラクターとして人気が高く、日本では“元祖アイドル”とまで呼ばれた。身長173cm、体重57kg、右利き。WTAツアーでシングルス4勝、ダブルス2勝を挙げた。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとベッティーナ・バンジ · 続きを見る »

アメリカ合衆国

アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、)、通称アメリカ、米国(べいこく)は、50の州および連邦区から成る連邦共和国である。アメリカ本土の48州およびワシントンD.C.は、カナダとメキシコの間の北アメリカ中央に位置する。アラスカ州は北アメリカ北西部の角に位置し、東ではカナダと、西ではベーリング海峡をはさんでロシアと国境を接している。ハワイ州は中部太平洋における島嶼群である。同国は、太平洋およびカリブに5つの有人の海外領土および9つの無人の海外領土を有する。985万平方キロメートル (km2) の総面積は世界第3位または第4位、3億1千7百万人の人口は世界第3位である。同国は世界で最も民族的に多様かつ多文化な国の1つであり、これは多くの国からの大規模な移住の産物とされているAdams, J.Q.;Strother-Adams, Pearlie (2001).

新しい!!: 1981年全豪オープンとアメリカ合衆国 · 続きを見る »

アン・スミス

アン・スミス(Anne Smith, 1959年7月1日 - )は、アメリカ・テキサス州ダラス出身の元女子プロテニス選手。ダブルスの名手として活躍し、4大大会で女子ダブルス5勝、混合ダブルス5勝を挙げた。とりわけ、1980年から1981年にかけて同じ年のキャシー・ジョーダンと一緒に女子ダブルスの「キャリア・グランドスラム」を達成した点が傑出している。WTAツアーでシングルス2勝、ダブルス38勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス12位、ダブルス1位。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとアン・スミス · 続きを見る »

アンドレア・イエガー

アンドレア・イエガー(Andrea Jaeger, 1965年6月4日 - )は、アメリカ・イリノイ州シカゴ出身の元女子プロテニス選手。1982年の全仏オープンと1983年のウィンブルドンで、4大大会に2度の準優勝がある。どちらも決勝戦でマルチナ・ナブラチロワに敗れた。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。シングルス自己最高ランキングは2位(1981年8月)。WTAツアーでシングルス10勝、ダブルス4勝を挙げた。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとアンドレア・イエガー · 続きを見る »

イボンヌ・グーラゴング

イボンヌ・グーラゴング(Evonne Goolagong, 1951年7月31日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州グリフィス出身の女子プロテニス選手。フルネームは Evonne Fay Goolagong Cawley (イボンヌ・フェイ・グーラゴング・コーリー)という。オーストラリア原住民・アボリジニの女子スポーツ選手として初の世界メジャー選手。「アボリジニ女性の星」と賞賛された。現役生活でシングルス92勝(うちWTAツアー大会は68勝、4大大会総計7勝を含む)、ダブルス11勝を挙げる。身長168cm、体重59kg、右利き。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとイボンヌ・グーラゴング · 続きを見る »

ウェンディ・ターンブル

ウェンディ・ターンブル(Wendy Turnbull, 1952年11月26日 - )は、オーストラリア・ブリスベン出身の元女子プロテニス選手。主に1970年代後半から1980年代に活躍した選手で、素速いフットワークから“Rabbit”(ラビット)というニックネームで呼ばれた。しかし4大大会の女子シングルスで3度の準優勝に終わり、1977年全米オープン、1979年全仏オープン、1980年全豪オープンの決勝戦で敗れた。WTAツアーでシングルス13勝、ダブルス55勝を挙げた。 ターンブルは15歳で学校をやめ、4年間の銀行勤務を経てテニス選手になった。1975年にプロ入り。1976年に日本の「ジャパン・オープン」で優勝している。最初のチャンスは1977年の全米オープンで訪れ、ターンブルは準々決勝で当年度のウィンブルドン優勝者バージニア・ウェード(第3シード、イギリス)、準決勝で第2シードのマルチナ・ナブラチロワを連破して初めての4大大会決勝に進んだが、第1シードのクリス・エバートに 6-7, 2-6 で敗れて準優勝になった。全米オープンでは、翌1978年も準決勝でエバートに敗れる。2度目のチャンスとなった1979年全仏オープンでも、決勝戦で同じエバートの壁にぶつかり、2-6, 0-6 の完敗で2度目の準優勝になっている。 1980年のシーズンは全体的に好調で、全仏オープンとウィンブルドンでともにベスト8進出を果たした後に、年末開催の全豪オープンで3度目の4大大会決勝進出を決めた。(注:当時は全豪オープンの開催時期が何度も変わり、1977年に1月開催・12月開催と2度行われたのちに、1978年-1985年までは12月の年末開催で行われていた。)ターンブルは準決勝で第1シードのマルチナ・ナブラチロワを破ったが、決勝で当時18歳の新鋭ハナ・マンドリコワに 0-6, 5-7 で敗れ、またしても優勝のチャンスを逃した。その後は全豪オープンで1981年と1984年、全米オープンで1984年に準決勝進出がある。シングルスでは1989年ウィンブルドンの2回戦敗退が最後の試合になった。 ウェンディ・ターンブルはダブルスの名手として、女子テニスツアーで通算55勝を記録した。4大大会でも女子ダブルスは4勝、混合ダブルスは5勝を挙げている。1978年のウィンブルドンで、ターンブルは同じオーストラリアのケリー・レイドとペアを組み、ミマ・ヤウソベッツ(ユーゴスラビア)&バージニア・ルジッチ(ルーマニア)組を 4-6, 9-8, 6-3で破って初優勝を飾った。1979年はオランダのベティ・ストーブとペアを組み、全仏オープンと全米オープンで年間2冠を獲得する。1982年には全米オープンの女子ダブルスで、ベテランのロージー・カザルスと組んで3年ぶり2度目の優勝を果たした。1988年のソウル五輪では、オーストラリア代表選手として女子ダブルスに出場し、エリザベス・スマイリーと組んで銅メダルを獲得している。混合ダブルスでは、ターンブルはジョン・ロイド(クリス・エバートの元夫として有名な人)と相性が良く、1982年から1984年までウィンブルドンの混合ダブルス決勝に3年連続で進出した。ターンブルは1989年夏にシングルスから引退した後も、ダブルスでは1990年まで現役を続行した。 ターンブルは現役生活を通じて、クリス・エバートの厚い壁をどうしても破れなかった選手の1人である。2人の対戦成績はエバートの「21勝1敗」で終わった。マルチナ・ナブラチロワとは「5勝29敗」の対戦成績を残している。エバートとナブラチロワの2強豪と同年代に活動した女子プロテニス選手たちにとって、2人の壁を破ることがいかに至難であったか、ターンブルの3度の準優勝はその難しさを物語る1つの記録と言えるだろう。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとウェンディ・ターンブル · 続きを見る »

オーストラリア

ーストラリア連邦(オーストラリアれんぽう、Commonwealth of Australia)、またはオーストラリア(Australia)は、オーストラリア大陸本土、タスマニア島及び多数の小島から成りオセアニアに属する国。南方の南極大陸とは7,877km離れている。イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国の一国となっている。日本での略称は「豪州」である。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとオーストラリア · 続きを見る »

キム・ウォーウィック

ム・ウォーウィック(Kim Warwick, 1952年4月8日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州シドニー市出身の元男子プロテニス選手。1980年の全豪オープン男子シングルス準優勝者。1970年代後半から1980年代前半にかけて、オーストラリアを代表するダブルスの名手として活躍し、4大大会で男子ダブルス4勝、混合ダブルス2勝を挙げた。ATPツアーではシングルス3勝、ダブルス26勝を挙げたが、準優勝が1980年全豪オープンを含めて8つあった。 ウォーウィックは少年時代、オーストラリアの名コーチであるビクトル・エドワーズの“秘蔵っ子”として知られた。エドワーズはイボンヌ・グーラゴングを育てたコーチであり、ウォーウィックとグーラゴングは1972年に混合ダブルスでペアを組んだ。2人は全仏オープンで地元フランスペアのジャン・クロード・バークレー&フランソワーズ・デュール組を 6-2, 6-4 で破り、続くウィンブルドンでもイリ・ナスターゼ&ロージー・カザルス組との決勝まで進出したが、ナスターゼとカザルスには 4-6, 4-6 で敗れた。その後しばらく低迷期があったが、1976年全仏オープン混合ダブルスでイラナ・クロス(南アフリカ)とペアを組み、4年ぶり2度目の優勝を果たす。ウォーウィックの4大大会男子ダブルス初優勝は、1978年全豪オープンであった。この大会で、ウォーウィックはポーランドのヴォイチェフ・フィバクと組み、決勝でポール・クロンク&クリフ・レッチャー(ともにオーストラリア)組を 7-6, 7-5 で破って初優勝を決めた。パートナーのフィバクにとっては、これはポーランドの男子テニス選手として初めて獲得した4大大会タイトルであった。 それから2年後、1980年全豪オープンでウォーウィックは男子シングルス・男子ダブルスの2部門に決勝進出を果たした。当時の全豪オープン男子シングルスは、64名の選手による6回戦制で行われていた。第14シードのウォーウィックは、準決勝で大会3連覇を目指した第1シードのギレルモ・ビラスを 6-7, 6-4, 6-2, 2-6, 6-4 で破ったが、決勝ではブライアン・ティーチャー(アメリカ)に 5-7, 6-7, 2-6 のストレートで敗れて準優勝になった。男子ダブルスではマーク・エドモンドソンとペアを組んで優勝し、それ以後ウォーウィックはエドモンドソンとペアを組む機会が多くなった。1981年全豪オープンで、ウォーウィック&エドモンドソン組は男子ダブルス2連覇を達成する。1982年はシングルスで好成績があり、全米オープンでイワン・レンドルとの準々決勝に進出した。 4年後の1985年、ウォーウィックとエドモンドソンは全仏オープン男子ダブルスで初優勝を飾り、このペアで4大大会3勝目を挙げた。2人は決勝でシュロモ・グリックスタイン(イスラエル)&ハンス・シモンソン(スウェーデン)組に 6-3, 6-4, 6-7, 6-3 で競り勝った。ウォーウィックにとっては、1972年と1976年の混合ダブルス優勝以来、9年ぶり3個目の全仏オープンタイトルになる。ところが、半年後の全豪オープン男子ダブルス決勝で、ウォーウィックとエドモンドソンはポール・アナコーン(アメリカ)&クリスト・バン・レンスバーグ(南アフリカ)組に 6-3, 6-7, 4-6, 4-6 で敗れ、4年ぶりの優勝を逃した。当時の全豪オープンは、1978年から1985年まで12月の年末開催であったため、1月開催となった現在の感覚とは大きく異なる点が注意を要する。 キム・ウォーウィックは「ジャパン・オープン」で何度か日本を訪れたこともあり、1977年の大会で単複の決勝進出があった。ダブルスでは同じオーストラリアのジェフ・マスターズとペアを組んで優勝したが、シングルス決勝ではマニュエル・オランテスに敗れている。彼のテニス経歴を通じて、ダブルスでは1987年まで優勝記録があり、通算「26勝」を獲得した。“エドワーズの秘蔵っ子”からスタートしたウォーウィックは、1989年に37歳で現役を引退した。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとキム・ウォーウィック · 続きを見る »

キャシー・ジョーダン

ャシー・ジョーダン(Kathy Jordan, 1959年12月3日 - )は、アメリカ・ペンシルベニア州出身の元女子プロテニス選手。1983年の全豪オープン女子シングルス準優勝者。姓名の略称である“KJ”がそのままニックネームになっていた。WTAツアーでシングルス3勝、ダブルス41勝を挙げた。実の姉バーバラ・ジョーダン (テニス選手)は、1979年の全豪オープン女子シングルス優勝者である。 ラケットを厚めのウエスタングリップで握りフォアハンドストロークは回転量の多いトップスピン、バックハンドはそのグリップのままラケットの裏面を使いこれまた回転量の多いスライス(ごくまれにフラット気味の軽打も放つ)、さらにボレーまでそのグリップのままこなすという独自のスタイルで戦っていた。 高校在学中はバスケットボール部員として活躍したが、1979年6月にプロテニス選手となる。同年11月に「東京エメロンカップ」というトーナメントで初来日する。この年、キャシー・ジョーダンは女子テニス協会の「最も印象的な新人選手賞」(Most Impressive Newcomer Award)を受賞した。彼女の経歴のハイライトとなった1983年は、まずウィンブルドンで準々決勝進出があった。この時敗れたビリー・ジーン・キング夫人は、39歳にしてまだ第10シードの位置にいた。そして、当時は年末開催だった全豪オープンがやってくる。ジョーダンはこの大会で初の4大大会決勝進出を果たしたが、最盛期を迎えた第1シードのマルチナ・ナブラチロワに 2-6, 6-7 のストレートで敗れて準優勝に終わり、4年前の姉バーバラ・ジョーダン (テニス選手)の快挙に続くことはできなかった。1984年はウィンブルドンで自己最高成績を出したが、準決勝でまたナブラチロワに敗れる。その後は故障などもあり、4大大会のシングルスで好成績が途絶えた。 キャシー・ジョーダンはダブルスの名手として、4大大会の女子ダブルスではすべてのタイトルを獲得した。1980年に全仏オープンとウィンブルドンの女子ダブルスで優勝し、1981年には全米オープンと全豪オープンを制している。4つともパートナーはアメリカのアン・スミスで、同一ペアによる「キャリア・グランドスラム」の偉業達成となった。後年はオーストラリアのエリザベス・スマイリーとペアを組むことが多くなり、1985年のウィンブルドンの女子ダブルスではスマイリーと組んで5年ぶり2度目の優勝を果たした。とりわけ、1985年ウィンブルドンの女子ダブルス決勝では、ジョーダン&スマイリー組はマルチナ・ナブラチロワ&パム・シュライバー組の女子ダブルス「109連勝」の歴代1位記録を止めている。 ジョーダンは混合ダブルスでも、1986年に全仏オープンとウィンブルドンで2大会連続優勝がある。パートナーは両方ともケン・フラック(アメリカ)と組んだ。 ジョーダンは日本のトーナメントでの活躍も多く、1987年と1988年の「ジャパン・オープン」で女子ダブルス2連覇がある。1991年2月にエリザベス・スマイリーとのペアで「東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント」のダブルスで優勝したが、これがジョーダンの現役生活最後の優勝となる。1991年全米オープンで、ジョーダンは現役引退を宣言した。 テニスの歴史を通じて、姉妹が揃って4大大会の決勝に進出したのは、1884年に第1回ウィンブルドン選手権の女子シングルス決勝で“姉妹対決”をしたモード・ワトソンとリリアン・ワトソン(イングランド)以来のことであり、テニス界の「オープン化時代」(1968年以後)では初めての快挙だった。最近ではアメリカの黒人姉妹、ビーナスとセリーナのウィリアムズ姉妹がともに世界ランキング1位の座に立ち、ワトソン姉妹やジョーダン姉妹とは比較にならないほどのプレーを展開してきた。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとキャシー・ジョーダン · 続きを見る »

ギリェルモ・ビラス

リェルモ・ビラス(Guillermo Vilas, 1952年8月17日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス生まれマル・デル・プラタ育ちの元男子プロテニス選手。当地が生んだ最大のテニス選手として、4大大会通算「4勝」を挙げた選手である。身長180cm、体重75kg、左利きの選手。シングルス自己最高ランキングは2位。ATPツアーでシングルス62勝、ダブルス16勝。 オープン化以降2人目となる通算900勝。またクレーコートで600勝以上挙げている。1977年にはグランドスラム2冠・46連勝・クレーコート53連勝・オープン化記録となるシーズン134勝を達成。 またオープン化以降初となる同一大会優勝8回を達成(ブエノスアイレス大会)。 長髪をバンダナで束ねた風貌でも強い印象を持ち、「パンパスの若き雄牛」(Young Bull of the Pampas)というニックネームで呼ばれた。 彼はジミー・コナーズと同い年であり、ビョルン・ボルグやジョン・マッケンローなども同世代のライバル選手だった。ビラスは彼らと並んで、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金時代を刻んだ選手のひとりに数えられる。特にクレーコートに強く数多の記録を保持している。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとギリェルモ・ビラス · 続きを見る »

クリス・ルイス

リス・ルイス(Chris Lewis, 1957年3月9日 - )は、ニュージーランド・オークランド出身の元男子プロテニス選手。1983年のウィンブルドン男子シングルス準優勝者。シングルス自己最高ランキングは19位。ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス8勝を挙げた。身長180cm、体重70kg、右利き。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとクリス・ルイス · 続きを見る »

クリス・エバート

リス・エバート(Chris Evert, 1954年12月21日 - )は、アメリカ・フロリダ州フォートローダーデール出身の元女子プロテニス選手。フルネームは Christine Marie Evert (クリスティン・マリー・エバート)というが、「クリス・エバート」の名前で最もよく知られる。愛称の「クリッシー」“Chrissie”で呼ばれることも多い。父親のジミー・エバートと妹のジャンヌ・エバートも元プロテニス選手である。好敵手であるマルチナ・ナブラチロワとともに、1970年代から1980年代前半の女子テニス界を牽引した。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとクリス・エバート · 続きを見る »

グランドスラム (テニス)

ランドスラム(Grand Slam)とは、国際テニス連盟が定めた4大大会を指す総称、またはそれら全てを制覇する事である。後者はコントラクトブリッジの用語で完全制覇を意味する語に由来する。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとグランドスラム (テニス) · 続きを見る »

ケビン・カレン

ビン・カレン(Kevin Curren, 1958年3月2日 - )は、南アフリカ・ダーバン出身の男子プロテニス選手。1984年の全豪オープンと1985年のウィンブルドンで、4大大会男子シングルスに2度の準優勝がある。ダブルスでは、1982年の全米オープン男子ダブルスでスティーブ・デントン(アメリカ)と組んで優勝し、混合ダブルスではアン・スミス(アメリカ)とのペアで3勝を獲得した。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス3位。ATPツアーでシングルス5勝、ダブルス26勝を挙げた。身長185cm、体重77kg、右利き。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとケビン・カレン · 続きを見る »

シュロモ・グリックステイン

ュロモ・グリックステイン(שלמה גליקשטיין, Shlomo Glickstein, 1958年1月6日 - )は、イスラエル・アシュケロン出身の元男子プロテニス選手。1985年の全仏オープン男子ダブルス準優勝者で、当地のテニス選手として史上初の4大大会決勝進出者になった人である。彼はイスラエルにおけるテニスの先駆者として、主に1970年代後半から1980年代にかけて活動した。自己最高ランキングはシングルス22位、ダブルス28位で、単複ともに世界トップ30に入った最初のイスラエル人男子選手になる。ATPツアーではシングルス2勝を挙げ、当地の男子選手として最初のツアータイトルを獲得した。ダブルスの優勝はないが、1985年全仏オープンを含めて7度の準優勝があった。男子テニス国別対抗戦・デビスカップでも1976年-1987年の12年連続で出場し、通算勝利数を含む4部門でチーム歴代1位記録を保持している。 グリックステインの父親は「イスラエル・テニス協会」の青少年育成委員長で、息子のシュロモは10歳からテニスを始めた。シュロモは12歳でイスラエルのナショナル・コーチに才能を認められ、16歳の時にバスケットボールとサッカーを断念してテニスに専念する決心をした。イスラエルでは、18歳から21歳までの3年間イスラエル国防軍への兵役義務がある。この年齢は競技生活を軌道に乗せるための重要な時期と重なるため、当地のスポーツ選手が他国の同年代選手に遅れを取る障壁になるケースが多い。グリックステインは国防軍に入隊した1976年、18歳でデビスカップのイスラエル代表選手に初選出された。彼が代表入りした頃、イスラエル・チームは「ヨーロッパ・ゾーン」の予選よりもさらに下の位置に落ちていたが、彼の加入によりヨーロッパ・ゾーンに定着できるようになった。1978年に父親のモーシェが死去した時、シュロモはコーチに「父の名前に栄誉をもたらすプレーをしたい」と宣言し、プロテニス選手生活に入る決断を下した。 1980年1月、グリックステインはオーストラリア・ホバート大会の決勝戦でロバート・ファントフ(アメリカ、後にリンゼイ・ダベンポートのコーチになった人)を 7-6, 6-4 で破り、イスラエル人選手として最初の男子ツアータイトルを獲得した。半年後のウィンブルドンで、グリックステインは1回戦でラウル・ラミレス(メキシコ)を 4-6, 6-2, 3-6, 7-5, 8-6 で破る勝利を挙げ、最初の国際的な成功を収めた。ラミレスは元世界ランキング4位の実力者だが、この時は世界35位に後退していた。続く2回戦では大会5連覇を目指したビョルン・ボルグに 3-6, 1-6, 5-7 のストレートで敗れた。この2試合の様子を、イスラエルのジャーナリストは彼と同じアシュケロンで育った旧約聖書中の登場人物サムソン(最も力のあった人物)になぞらえたという。1981年の全豪オープンにおいて、グリックステインはイスラエル男子選手として史上初のベスト8進出を決めた。当時の全豪オープンは年末の12月開催で、男子シングルスは64名の選手による6回戦制で行われていた。この準々決勝ではスティーブ・デントン(アメリカ)に 4-6, 6-3, 6-7, 0-6 で敗退する。1982年11月8日付で、彼はシングルス自己最高ランキング「22位」をマークし、当地の選手として史上初の世界トップ30入りを果たした。 1985年の全仏オープン男子ダブルスで、シュロモ・グリックステインはイスラエルのテニス選手として最初の4大大会決勝進出者になった。パートナーはスウェーデンのハンス・シモンソンと組み、準々決勝でアメリカペアのケン・フラック&ロバート・セグソ組、準決勝でスウェーデンペアのステファン・エドベリ&アンダース・ヤリード組といった強豪を連破して勝ち進んだ。決勝戦ではオーストラリアのベテランペア、マーク・エドモンドソン&キム・ウォーウィック組に 3-6, 4-6, 7-6, 3-6 で敗れ、イスラエル男子初の4大大会優勝はならなかった。 グリックステインはデビスカップのイスラエル代表選手を務めた12年間、チームのレベルを引き上げる点で絶大な貢献をした。彼が代表入りした1976年には「ヨーロッパ・ゾーン」下部予選にいたイスラエルは、1981年からヨーロッパ・ゾーンに定着できるようになる。1981年から1983年まではヨーロッパ・ゾーン準決勝で止まったが、1984年にはヨーロッパ・ゾーン決勝へ初進出した。そしてついに、1986年のヨーロッパ・ゾーン決勝でイスラエルはスイスを「4勝1敗」で破り、1987年に世界最上位の「ワールドグループ」初進出を決めた。グリックステインは代表最後の試合として、ワールドグループ準々決勝の対インド戦を戦い、ラメシュ・クリシュナン、ビジャイ・アムリトラジ、アナンド・アムリトラジとの試合をこなした。12年間の代表経歴を通じて、彼は通算勝利数(44勝22敗)・シングルス勝利数(31勝13敗)・ダブルス勝利数(13勝9敗)・最多試合出場数(24)の4部門でチーム歴代1位になった。1989年から1999年までの10年間、彼はデビスカップのイスラエル・チーム代表監督を務めた。 シュロモ・グリックステインは1987年を最後に男子ツアーのシングルス戦から撤退し、1988年から1990年まで断続的にダブルス戦出場があった。引退後は1992年から1996年まで「イスラエル・テニスアカデミー」の会長を務めるなど、後進の育成に携わっている。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとシュロモ・グリックステイン · 続きを見る »

ジョン・フィッツジェラルド (テニス選手)

ョン・フィッツジェラルド(John Fitzgerald, 1960年12月28日 - )は、オーストラリア・南オーストラリア州カミンズ出身の元男子プロテニス選手。1980年代から1990年代前半にかけて、オーストラリアを代表するダブルスの名手として活躍し、4大大会で男子ダブルス7勝、混合ダブルス2勝を挙げた。フィッツジェラルドは、男子ダブルスでキャリア・グランドスラム(すべての4大大会で優勝すること)を達成した数少ない選手のひとりである。自己最高ランキングはシングルス25位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス6勝、ダブルス30勝を挙げた。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとジョン・フィッツジェラルド (テニス選手) · 続きを見る »

ジョン・サドリ

ョン・サドリ(John Sadri, 1956年9月19日 - )は、アメリカ・ノースカロライナ州シャーロット出身の元男子プロテニス選手。1979年の全豪オープン男子シングルス準優勝者。全豪オープンでは1981年と1982年の2年連続で、男子ダブルス準優勝もある。自己最高ランキングはシングルス14位、ダブルス29位。ATPツアーでシングルス2勝、ダブルス3勝を挙げた。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとジョン・サドリ · 続きを見る »

スー・バーカー

ー・バーカー(Sue Barker, 1956年4月19日 - )は、イングランド・ペイントン出身の元女子プロテニス選手。1976年の全仏オープン女子シングルス優勝者である。WTAツアーでシングルス15勝、ダブルス16勝を挙げた。強力なフォアハンド・ストロークを最大の武器にした選手である。 スー・バーカーが優勝した1976年当時、全仏オープンの女子シングルスは64名の選手による6回戦制で行われ、現在とは1ラウンド小さい規模のトーナメントであった。バーカーはこの大会で、3回戦から決勝までフルセットの試合が続き、決勝でもレナータ・トマノワ(チェコスロバキア)を 6-2, 0-6, 6-2 で退けた。この年はバーカーのテニス経歴でも最盛期にあたり、ウィンブルドンでは第7シードとして、4回戦でブラジルのマリア・ブエノを破ったが、準々決勝で第4シードのマルチナ・ナブラチロワに 3-6, 6-3, 5-7 で競り負ける。全米オープンでは、4回戦で第1シードのクリス・エバートに 1-6, 0-6 で完敗した。 その後、バーカーの4大大会女子シングルスの成績は、1978年のウィンブルドンで第5シードのビリー・ジーン・キングに敗れた4回戦進出と、1980年と1981年の2年連続で全豪オープンのベスト16入りがあった。シングルスでは1973年から1981年まで優勝記録がある。ダブルスではキャリアの後半に、日系人選手のアン清村と組んで多くのタイトルを獲得した。1984年に現役を引退し、現在はBBCテレビの解説者として活動している。2000年以後、ウィンブルドン選手権で男女シングルス決勝戦終了後のインタビューを担当している人が、このバーカーである。 イギリスのテニス界からは、1977年のバージニア・ウェードを最後に地元ウィンブルドン選手権女子シングルスの優勝者が出現していない(2013年ウィンブルドン選手権男子シングルスでアンディ・マリーが77年ぶりに優勝した)。とはいえ、全仏オープンでも1976年のスー・バーカーを最後に、男女ともイギリス人のシングルス優勝者は出現していない。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとスー・バーカー · 続きを見る »

スティーブ・デントン

ティーブ・デントン(Steve Denton, 1956年9月5日 - )は、アメリカ・テキサス州キングスビル出身の元男子プロテニス選手。1981年と1982年の2年連続で、全豪オープンの男子シングルス準優勝者になった選手である。男子ダブルスでは1982年の全米オープンで、ケビン・カレンとペアを組んで優勝した。混合ダブルスではウィンブルドンで1983年と1984年の2年連続準優勝がある。自己最高ランキングはシングルス12位、ダブルス5位。ATPツアーでダブルス18勝を挙げたが、シングルスでは全豪オープンの2年連続準優勝を含めて6度の準優勝があり、1度も優勝できずに終わった不運な選手である。.

新しい!!: 1981年全豪オープンとスティーブ・デントン · 続きを見る »

全豪オープン

メルボルン・パークの1番コート。「マーガレット・コート・アリーナ」の名前がある 全豪オープンテニス(英語:Australian Open)は、毎年1月後半にオーストラリアのメルボルンで開催される4大国際大会の一つである。主催および運営はテニス・オーストラリアが行う。.

新しい!!: 1981年全豪オープンと全豪オープン · 続きを見る »

国際テニス連盟

国際テニス連盟(こくさいテニスれんめい、英語:International Tennis Federation)は、イギリスのロンドン郊外にあるローハンプトン(Roehampton)に本部を置くテニスの国際統括団体の事である。略称はITF。現在の会長は、これまで12年間に渡り務めてきたに変わり、2015年9月26日より米デービッド・ハガティが4年の任期で選出された。 1913年にフランス・パリにて12カ国の参加のもとILTF(国際ローンテニス連盟)として設立された。1977年に「ローン(芝)」という単語を削除しITFとなった。現在、世界で203協会が加盟している。 なお週ごとに選手一人一人の世界ランキングを公表している組織はITFではなく、男子がATP(プロテニス協会)、女子はWTA(女子テニス協会)である。.

新しい!!: 1981年全豪オープンと国際テニス連盟 · 続きを見る »

11月30日

11月30日(じゅういちがつさんじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から334日目(閏年では335日目)にあたり、年末まであと31日ある。11月の最終日である。.

新しい!!: 1981年全豪オープンと11月30日 · 続きを見る »

12月6日

12月6日(じゅうにがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から340日目(閏年では341日目)にあたり、年末まであと25日ある。.

新しい!!: 1981年全豪オープンと12月6日 · 続きを見る »

1970年全豪オープン

1970年 全豪オープン(Australian Open 1970)は、オーストラリア・シドニー市内にある「ホワイトシティ・テニスクラブ」において、1970年1月19日から27日まで開催された。.

新しい!!: 1981年全豪オープンと1970年全豪オープン · 続きを見る »

1978年ウィンブルドン選手権

1978年 ウィンブルドン選手権(The Championships, Wimbledon 1978 )は、イギリス・ロンドン郊外にある「オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ」にて、1978年6月26日から7月8日にかけて開催された。.

新しい!!: 1981年全豪オープンと1978年ウィンブルドン選手権 · 続きを見る »

1979年ウィンブルドン選手権

1979年 ウィンブルドン選手権(The Championships, Wimbledon 1979)は、イギリス・ロンドン郊外にある「オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ」にて、1979年6月25日から7月9日にかけて開催された。.

新しい!!: 1981年全豪オープンと1979年ウィンブルドン選手権 · 続きを見る »

1980年ウィンブルドン選手権

1980年 ウィンブルドン選手権(The Championships, Wimbledon 1980)は、イギリス・ロンドン郊外にある「オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ」にて、1980年6月23日から7月6日にかけて開催された。.

新しい!!: 1981年全豪オープンと1980年ウィンブルドン選手権 · 続きを見る »

1980年全仏オープン

1980年 全仏オープン(Internationaux de France de Roland-Garros 1980)は、フランス・パリにある「ローランギャロス・スタジアム」にて、1980年5月26日から6月8日にかけて開催された。.

新しい!!: 1981年全豪オープンと1980年全仏オープン · 続きを見る »

1980年全豪オープン

1980年 全豪オープン(Australian Open 1980)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1980年11月24日から30日まで開催された。.

新しい!!: 1981年全豪オープンと1980年全豪オープン · 続きを見る »

1981年

この項目では、国際的な視点に基づいた1981年について記載する。.

新しい!!: 1981年全豪オープンと1981年 · 続きを見る »

1981年全米オープン (テニス)

1981年 全米オープン(US Open 1981)は、アメリカ・ニューヨークマンハッタンにある「USTAナショナル・テニスセンター」にて、1981年9月1日から13日にかけて開催された。.

新しい!!: 1981年全豪オープンと1981年全米オープン (テニス) · 続きを見る »

1982年

この項目では、国際的な視点に基づいた1982年について記載する。.

新しい!!: 1981年全豪オープンと1982年 · 続きを見る »

1982年全仏オープン

1982年 全仏オープン(Internationaux de France de Roland-Garros 1982)は、フランス・パリにある「ローランギャロス・スタジアム」にて、1982年5月24日から6月6日にかけて開催された。.

新しい!!: 1981年全豪オープンと1982年全仏オープン · 続きを見る »

1982年全豪オープン

1982年 全豪オープン(Australian Open 1982)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1982年11月29日から12月13日まで開催された。.

新しい!!: 1981年全豪オープンと1982年全豪オープン · 続きを見る »

1985年全豪オープン

1985年 全豪オープン(Australian Open 1985)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1985年11月25日から12月8日まで開催された。.

新しい!!: 1981年全豪オープンと1985年全豪オープン · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

1981年全豪オープンテニス

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »