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1972年全仏オープン

索引 1972年全仏オープン

1972年 全仏オープン(Internationaux de France de Roland-Garros 1972)は、フランス・パリにある「スタッド・ローラン・ギャロス」にて、1972年5月22日から6月4日にかけて開催された。.

42 関係: ナンシー・リッチーマニュエル・オランテスマニュエル・サンタナハロルド・ソロモンバージニア・ウェードヤン・コデシュロージー・カザルスボブ・ヒューイットヘルガ・マストホフパリビリー・ジーン・キングフランスフランソワーズ・デュールフルー・マクミランベティ・ストーブアレックス・メトレベリアンドレス・ヒメノアドリアーノ・パナッタイリ・ナスターゼイボンヌ・グーラゴングオルガ・モロゾワキム・ウォーウィッククリスティン・トルーマングランドスラム (テニス)ジミー・コナーズスペインスタン・スミススタッド・ローラン・ギャロス全仏オープン国際テニス連盟1961年全仏選手権 (テニス)1964年全仏選手権 (テニス)1966年ウィンブルドン選手権1967年全米選手権 (テニス)1968年オーストラリア選手権 (テニス)1971年全仏オープン1972年1972年ウィンブルドン選手権1972年全豪オープン1973年全仏オープン5月22日6月4日

ナンシー・リッチー

ナンシー・リッチー(Nancy Richey, 1942年8月23日 - )は、アメリカ・テキサス州サンアンジェロ出身の女子テニス選手。1960年代にアメリカを代表する選手として活躍し、4大大会で女子シングルス2勝、女子ダブルス4勝を挙げた。彼女の全盛時代は、1968年に実施されたテニス界の「オープン化措置」をまたぐ境目の時期であり、リッチーはオープン化制度のもとで開かれた1968年の「全仏オープン」で女子シングルス優勝者になった。.

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マニュエル・オランテス

マニュエル・オランテス・コルラル(Manuel Orantes Corral, 1949年2月6日 - )は、スペイン・グラナダ出身の男子プロテニス選手。1970年代から1980年代前半にかけて活躍し、1975年の全米オープン男子シングルスで優勝した。左利きの選手。シングルス自己最高ランキングは2位。ATPツアーでシングルス33勝、ダブルス22勝を挙げた。身長177cm、体重75kgで、男子テニス選手としてはやや小柄な体格だった。.

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マニュエル・サンタナ

マヌエル・サンタナ(Manuel Martinez Santana, 1938年5月10日 - )は、スペイン・マドリード出身の男子テニス選手。主に1960年代に活躍し、4大大会の男子シングルスで通算4勝を挙げた。フルネームは Manuel Martinez Santana (マヌエル・マルティネス・サンタナ)という。「マノーロ」“Manolo”という愛称形で親しまれた。赤土のクレーコートが多いスペインの選手でありながら、サンタナはサーフェス(表面)が異なる芝生コートのウィンブルドン選手権と全米選手権でも優勝を飾り、両大会で史上初のスペイン人優勝者となった。彼は順応性に富むテニス・スタイルと、試合中に笑顔さえ見せるほどの気さくな人柄で高い人気を持っていた。年代的にはオーストラリア・テニス界の全盛期と同時代に位置している。.

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ハロルド・ソロモン

ハロルド・ソロモン(Harold Solomon, 1952年9月17日 - )は、アメリカ・ワシントン出身の元男子プロテニス選手。1976年の全仏オープン男子シングルス準優勝者。シングルス自己最高ランキングは5位。ATPツアーでシングルス22勝、ダブルス1勝を挙げた。身長167cm、体重59kgで、男子プロテニス界では小柄な体格の選手だった。ソロモンは“the human backboard”(人間バックボード)と呼ばれたほど温厚な人柄の持ち主だったが、対戦相手の選手たちは彼の巧みなロブショットやリターンに“いらだつ”ことが多かったという。.

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バージニア・ウェード

バージニア・ウェード(Virginia Wade, 1945年7月10日 - )は、イギリス・ボーンマス出身の女子テニス選手。WTAツアーでシングルス通算55勝を挙げた。4大大会では女子シングルス3勝・女子ダブルス4勝を獲得した。 1977年のウィンブルドン女子シングルス優勝者で、同選手権大会女子における現時点で最後のイギリス人優勝者として知られる。 イギリスの人々には“Our Ginny”(我らのジニー)と呼ばれて敬愛されている。.

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ヤン・コデシュ

ヤン・コデシュ(Jan Kodeš, 1946年3月1日 - )は、チェコスロバキア・プラハ出身の男子テニス選手。1970年代前半、まだチェコスロバキアが共産主義の支配下にあった時代に活躍した名選手である。コデシュは他のチェコスロバキア出身選手の大半とは異なり、国内にとどまって活動したことから、チェコスロバキアの国民的英雄として幅広い尊敬を集めた。4大大会の男子シングルスでは通算「3勝」を挙げ、1970年と1971年に全仏オープンで大会2連覇を飾り、1973年にウィンブルドンでも優勝している。コデシュのテニスは、粘り強いグラウンド・ストロークを中心に組み立てるベースライン・プレーヤーだった。.

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ロージー・カザルス

ーズマリー・"ロージー"・カザルス(Rosemary "Rosie" Casals, 1948年9月16日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ出身の女子プロテニス選手。“Rosebud”(バラの花束)の愛称でも知られた。ダブルスの名手として一時代を築き、ウィンブルドン女子ダブルスで5勝、全米オープン女子ダブルスで4勝を挙げた。しかしシングルスでは1970年と1971年の全米オープンで2年連続準優勝に終わり、とうとう優勝できなかった。カザルスのテニスは、サービス・アンド・ボレーが“豹のように速い”曲芸師のような動きを特徴としていた。女子プロテニス選手としてシングルス通算11勝、ダブルス通算112勝を挙げ、生涯獲得賞金として136万ドルを稼いだ。著名なチェリストのパブロ・カザルスとは遠い親戚に当たる。.

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ボブ・ヒューイット

ボブ・ヒューイット(Bob Hewitt, 1940年1月12日 - )は、オーストラリア出身で、南アフリカ共和国国籍で活躍した男子テニス選手。のちに強姦などの罪で禁固刑となった日刊スポーツ、2015年5月18日。 ニューサウスウェールズ州Dubbo市出身。フルネームはロバート・アンソニー・ジョン・ヒューイット(Robert Anthony John Hewitt) というが、愛称の「ボブ・ヒューイット」で最もよく知られる。1960年代から1970年代にわたり、ダブルスの名手として活躍した名選手である。最初はオーストラリアでテニス選手としての活動を始めたが、南アフリカの女性との結婚により、国籍を南アフリカに移し、フルー・マクミランとのペアで多数のダブルス・タイトルを獲得した。彼はテニスの歴史を通じて、男子ダブルス・混合ダブルスの2部門ですべての4大大会タイトルを獲得する「キャリア・グランドスラム」を達成した数少ない選手のひとりである。彼は1968年以後、プロテニス選手としてシングルス7勝・ダブルス65勝を獲得した。.

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ヘルガ・マストホフ

ヘルガ・マストホフ(Helga Masthoff, 1941年11月11日 - )は、ドイツ・エッセン出身の女子テニス選手。1970年の全仏オープン女子シングルス準優勝者。1960年代から1970年代にかけて、旧西ドイツを代表する女子選手として活動した。旧姓「ヘルガ・ニーセン」(Helga Niessen)といい、1970年全仏準優勝当時はこの名前であったが、結婚後は夫の姓のみを用いて「ヘルガ・マストホフ」と名乗った。彼女は身長184cmほどの長身選手で、全仏オープンをはじめ、赤土のクレーコートを最も得意にした。.

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パリ

ランドサット パリの行政区 パリ(Paris、巴里)は、フランス北部、イル=ド=フランス地域圏にある都市。フランスの首都であり、イル=ド=フランス地域圏の首府である。 フランス最大の都市であり、同国の政治、経済、文化などの中心である。ロンドン、ニューヨーク、香港、東京などと並ぶ世界トップクラスの世界都市でもある。行政上では、1コミューン単独で県を構成する特別市であり、ルーヴル美術館を含む1区を中心に、時計回りに20の行政区が並ぶ(エスカルゴと形容される)。.

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ビリー・ジーン・キング

ビリー・ジーン・キング(Billie Jean King, 1943年11月22日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州ロングビーチ出身の女子テニス選手。1960年代から1980年代初頭までの四半世紀に及び、長い間女子テニス界に君臨した名選手であり、女子テニスの歴史を通じて最大の偉人のひとりに数えられる。レズビアンとしてカミングアウトしている。.

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フランス

フランス共和国(フランスきょうわこく、République française)、通称フランス(France)は、西ヨーロッパの領土並びに複数の海外地域および領土から成る単一主権国家である。フランス・メトロポリテーヌ(本土)は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がる。 2、人口は6,6600000人である。-->.

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フランソワーズ・デュール

フランソワーズ・デュール(Françoise Durr, 1942年12月25日 - )は、フランスの元女子テニス選手。アルジェリアの首都・アルジェに生まれる。1967年の全仏選手権で女子シングルス、ダブルスともに優勝を飾った。シングルス自己最高ランキングは3位。現役生活でシングルス26勝、ダブルス42勝を挙げた。 2003年国際テニス殿堂入り。.

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フルー・マクミラン

フルー・マクミラン(Frew McMillan, 1942年5月20日 - )は、南アフリカ・スプリングス出身の男子テニス選手。フルネームは Frew Donald McMillan (フルー・ドナルド・マクミラン)という。1960年代後半から1970年代にかけて、ダブルスの名手として活躍し、とりわけボブ・ヒューイットとのペアで多数のダブルス・タイトルを獲得した。キャリアの後半には、オランダのベティ・ストーブとの混合ダブルスで多くの好成績を出した。彼はフォアハンド・ストローク、バックハンド・ストロークとも両手打ちで、いつも白い帽子をかぶってプレーしたので、誰からも見分けのつく選手だったという。.

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ベティ・ストーブ

ベティ・ストーブ(1973年) ベティ・ストーブ(Betty Stöve, 1945年6月24日 - )は、オランダ・ロッテルダム出身の元女子プロテニス選手。1977年のウィンブルドン準優勝者で、4大大会女子ダブルス6勝・混合ダブルス4勝を挙げた名選手である。身長180cm、体重70kg、右利き。WTAツアーでシングルス2勝、ダブルス11勝を挙げた。「オランダ貴婦人」を意味する“Dutchess”(ダッチェス)という敬称で呼ばれた。ストーブのテニスは、強力なサーブとボレーを大きな武器にした。 ストーブの現役選手生活は1964年から始まり、この年から女子テニス国別対抗戦・フェデレーションカップ(現在の名称はフェドカップ)のオランダ代表選手となる。彼女にとって最大のハイライトが訪れた1977年のウィンブルドンでは、決勝戦で地元イギリスのバージニア・ウェードと対戦することになった。試合当日は地元選手ウェードの応援のため、会場はかつてないほどの熱気に包まれた。ストーブもオランダ人女子テニス選手として最初のウィンブルドン優勝者を目指し、第1セットを 6-4 で先取したが、続く2セットを 3-6, 1-6 の逆転で落とし、結局 6-4, 3-6, 1-6 のスコアで準優勝に終わった。優勝したウェードは、イギリス人選手として現時点で最後のウィンブルドン優勝者になったが、ストーブの後にも4大大会の女子シングルス決勝に進出したオランダ人選手はまだいない。同年は全米オープンでもシングルス準決勝に進出したが、第1シードのクリス・エバートに 3-6, 5-7 で敗れた。 ストーブはダブルスの名手として知られ、1972年に4大大会の女子ダブルスで年間3冠獲得を達成した。そのうち全仏オープンとウィンブルドンではビリー・ジーン・キング夫人とペアを組み、全米オープンではフランソワーズ・デュール(フランス)と組んで優勝している。その後、ストーブはデュールとペアを組むことが多くなった。このペアが、1975年ウィンブルドンの女子ダブルス決勝で沢松和子とアン清村組に 5-7, 6-1, 5-7 で敗れた相手である。混合ダブルスでは、ストーブはフルー・マクミラン(南アフリカ)と組んで4勝を挙げた。 ストーブのシングルス・キャリアとフェドカップ代表選手の経歴は1983年で終わったが、ダブルスの試合には1985年まで出場していた。現役引退後は国際テニス連盟(ITF)の経営委員を務めたこともある。また、1980年-1990年までハナ・マンドリコワのコーチを務めたこともあった。.

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アレックス・メトレベリ

アレクサンドル・イラクリエヴィチ・"アレックス"・メトレベリ(Alexander Iraklievich "Alex" Metreveli,,, 1944年11月2日 - )は、ソビエト連邦グルジア共和国トビリシ出身の男子テニス選手。.

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アンドレス・ヒメノ

アンドレス・ヒメノ・トラゲーラ(Andrés Gimeno Tolaguera, 1937年8月3日 - )は、スペイン・バルセロナ出身の元男子プロテニス選手。1972年の全仏オープン男子シングルス優勝者で、この大会で「34歳10ヶ月」の男子最年長優勝記録を持つ選手である。1969年の全豪オープン決勝でロッド・レーバーに敗れた準優勝もある。ヒメノのテニスは、堅固なグラウンド・ストロークや機転のきくボレーなどを持ち味とした。.

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アドリアーノ・パナッタ

アドリアーノ・パナッタ(Adriano Panatta, 1950年7月9日 - )は、イタリア・ローマ出身の男子プロテニス選手。1976年の全仏オープン男子シングルス優勝者である。シングルス自己最高ランキングは4位。ATPツアーでシングルス9勝、ダブルス17勝を挙げた。身長183cm、体重81kg、右利き。.

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イリ・ナスターゼ

イリ・ナスターゼ(Ilie Năstase, 1946年7月19日 - )は、ルーマニア・ブカレスト出身の男子プロテニス選手。1972年全米オープンと1973年全仏オープンの男子シングルスで優勝し、ルーマニア人のテニス選手として史上初の4大大会優勝者になった。当地最大のテニス選手であるナスターゼは、体操のナディア・コマネチと並んでルーマニアが生んだ最大のスポーツ選手のひとりに数えられる。1973年に世界ランキング1位の座につき、現役生活を通じてシングルス57勝、ダブルス45勝を挙げた。彼はまた、テニスの歴史を通じて最も個性的なキャラクターの選手でもあり、“Bucharest Buffoon”(ブカレストの道化師)というニックネームで呼ばれた。コートマナーが非常に悪く、物議を醸す振る舞いも多かったことから、語呂合わせで“Nasty Nastase”(癇癪持ちのナスターゼ)と呼ばれたこともある。身長182cm、体重75kg、右利き。.

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イボンヌ・グーラゴング

イボンヌ・グーラゴング(Evonne Goolagong, 1951年7月31日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州グリフィス出身の女子プロテニス選手。フルネームは Evonne Fay Goolagong Cawley (イボンヌ・フェイ・グーラゴング・コーリー)という。オーストラリア原住民・アボリジニの女子スポーツ選手として初の世界メジャー選手。「アボリジニ女性の星」と賞賛された。現役生活でシングルス92勝(うちWTAツアー大会は68勝、4大大会総計7勝を含む)、ダブルス11勝を挙げる。身長168cm、体重59kg、右利き。.

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オルガ・モロゾワ

ルガ・モロゾワ(Olga Morozova, Ольга Васильевна Морозова, 1949年2月22日 - )は、ソビエト連邦(現在はロシア)・モスクワ出身の元女子テニス選手。男子選手のアレックス・メトレベリと並んで、ソ連におけるテニス競技の草分けに大きく貢献した名選手である。1974年の全仏オープンとウィンブルドンの2大会連続で、4大大会に準優勝した。モロゾワの経歴を通じて「ソビエト連邦出身の女子テニス選手として史上初」の業績は多い。現役生活でシングルス20勝、ダブルス10勝を挙げた。 モロゾワは1965年のウィンブルドン女子ジュニアシングルス部門に16歳で優勝し、翌1966年で本戦に初出場した。1968年、モロゾワは5歳年上の先輩選手アレックス・メトレベリと混合ダブルスのペアを組み、ソ連出身の選手として初のウィンブルドン混合ダブルス決勝に進出した。ソ連ペアは初舞台の決勝戦で、ケン・フレッチャー&マーガレット・コート(ともにオーストラリア)組に 1-6, 12-14 で敗れた。 それから、モロゾワは1969年に「モスクワ国際選手権」で初優勝を遂げ、1970年にはソ連国内のトーナメントで5勝したほかに「ヨーロッパ・アマチュア選手権」でも初優勝した。1970年には、メトレベリと組んで2年ぶり2度目のウィンブルドン混合ダブルス決勝進出もあった。2人はイリ・ナスターゼ(ルーマニア)&ロージー・カザルス(アメリカ)組に 3-6, 6-4, 7-9 で敗れ、この部門で2度の準優勝に止まったが、こうして2人はソ連におけるテニス競技の開拓者となった。モロゾワは徐々にソ連国外にも活動を広げ、1972年の「イタリアン・オープン」で初めて女子テニスツアー大会の決勝戦に進出した。この年は、ウィンブルドンを除く4大大会女子シングルスでベスト8に進出している。 1974年、オルガ・モロゾワはソ連出身の女子選手として初の4大大会決勝進出の偉業を成し遂げる。それも全仏オープンとウィンブルドンの2大会連続であったが、どちらもクリス・エバートにストレートで敗れて準優勝になった。(スコア:全仏オープン決勝は 1-6, 2-6 / ウィンブルドン決勝は 0-6, 4-6)全仏オープンの女子ダブルスで、モロゾワとエバートがペアを組んで優勝を飾り、彼女はソ連の女子選手として初の4大大会タイトルをここで獲得した。(モロゾワは現役生活の間、エバートには1勝もできず「13戦全敗」で終わった。)その後、彼女は女子ダブルスで1975年全仏オープン・全豪オープン・1976年全米オープンの3度決勝に進出したが、いずれも準優勝で止まった。 モロゾワは女子国別対抗戦・フェドカップ(当時の名称は「フェデレーション・カップ」)にソ連代表選手が出場する道も開き、通算12勝4敗(シングルス8勝3敗・ダブルス4勝1敗)の成績を挙げた。ところが、1977年にソ連政府がテニス選手の海外試合出場を禁止したことにより、モロゾワは4大大会などの海外テニスツアーへの出場が不可能になり、ここで彼女のツアー経歴が終わった。 モロゾワはテニス・コーチのビクトル・ルベノフ(Victor Rubenov)と結婚し、モスクワ市内に「スパルタクラブ」というスポーツ選手育成クラブを創設した。このクラブから多くの選手が育ち、アンナ・クルニコワ、アナスタシア・ミスキナ、エレーナ・デメンティエワ、マラト・サフィンなどが世界へ巣立った。2004年の全仏オープン女子シングルス決勝で、ミスキナとデメンティエワによるテニス史上初の「ロシア対決」が実現し、ミスキナがロシア出身の女子テニス選手として最初の4大大会優勝者になった。.

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キム・ウォーウィック

ム・ウォーウィック(Kim Warwick, 1952年4月8日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州シドニー市出身の元男子プロテニス選手。1980年の全豪オープン男子シングルス準優勝者。1970年代後半から1980年代前半にかけて、オーストラリアを代表するダブルスの名手として活躍し、4大大会で男子ダブルス4勝、混合ダブルス2勝を挙げた。ATPツアーではシングルス3勝、ダブルス26勝を挙げたが、準優勝が1980年全豪オープンを含めて8つあった。 ウォーウィックは少年時代、オーストラリアの名コーチであるビクトル・エドワーズの“秘蔵っ子”として知られた。エドワーズはイボンヌ・グーラゴングを育てたコーチであり、ウォーウィックとグーラゴングは1972年に混合ダブルスでペアを組んだ。2人は全仏オープンで地元フランスペアのジャン・クロード・バークレー&フランソワーズ・デュール組を 6-2, 6-4 で破り、続くウィンブルドンでもイリ・ナスターゼ&ロージー・カザルス組との決勝まで進出したが、ナスターゼとカザルスには 4-6, 4-6 で敗れた。その後しばらく低迷期があったが、1976年全仏オープン混合ダブルスでイラナ・クロス(南アフリカ)とペアを組み、4年ぶり2度目の優勝を果たす。ウォーウィックの4大大会男子ダブルス初優勝は、1978年全豪オープンであった。この大会で、ウォーウィックはポーランドのヴォイチェフ・フィバクと組み、決勝でポール・クロンク&クリフ・レッチャー(ともにオーストラリア)組を 7-6, 7-5 で破って初優勝を決めた。パートナーのフィバクにとっては、これはポーランドの男子テニス選手として初めて獲得した4大大会タイトルであった。 それから2年後、1980年全豪オープンでウォーウィックは男子シングルス・男子ダブルスの2部門に決勝進出を果たした。当時の全豪オープン男子シングルスは、64名の選手による6回戦制で行われていた。第14シードのウォーウィックは、準決勝で大会3連覇を目指した第1シードのギレルモ・ビラスを 6-7, 6-4, 6-2, 2-6, 6-4 で破ったが、決勝ではブライアン・ティーチャー(アメリカ)に 5-7, 6-7, 2-6 のストレートで敗れて準優勝になった。男子ダブルスではマーク・エドモンドソンとペアを組んで優勝し、それ以後ウォーウィックはエドモンドソンとペアを組む機会が多くなった。1981年全豪オープンで、ウォーウィック&エドモンドソン組は男子ダブルス2連覇を達成する。1982年はシングルスで好成績があり、全米オープンでイワン・レンドルとの準々決勝に進出した。 4年後の1985年、ウォーウィックとエドモンドソンは全仏オープン男子ダブルスで初優勝を飾り、このペアで4大大会3勝目を挙げた。2人は決勝でシュロモ・グリックスタイン(イスラエル)&ハンス・シモンソン(スウェーデン)組に 6-3, 6-4, 6-7, 6-3 で競り勝った。ウォーウィックにとっては、1972年と1976年の混合ダブルス優勝以来、9年ぶり3個目の全仏オープンタイトルになる。ところが、半年後の全豪オープン男子ダブルス決勝で、ウォーウィックとエドモンドソンはポール・アナコーン(アメリカ)&クリスト・バン・レンスバーグ(南アフリカ)組に 6-3, 6-7, 4-6, 4-6 で敗れ、4年ぶりの優勝を逃した。当時の全豪オープンは、1978年から1985年まで12月の年末開催であったため、1月開催となった現在の感覚とは大きく異なる点が注意を要する。 キム・ウォーウィックは「ジャパン・オープン」で何度か日本を訪れたこともあり、1977年の大会で単複の決勝進出があった。ダブルスでは同じオーストラリアのジェフ・マスターズとペアを組んで優勝したが、シングルス決勝ではマニュエル・オランテスに敗れている。彼のテニス経歴を通じて、ダブルスでは1987年まで優勝記録があり、通算「26勝」を獲得した。“エドワーズの秘蔵っ子”からスタートしたウォーウィックは、1989年に37歳で現役を引退した。.

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クリスティン・トルーマン

リスティン・クララ・トルーマン・ジェーンズ(Christine Clara Truman Janes、1941年1月16日 - )は、イギリス・ロートン出身の女子テニス選手。1959年の全仏選手権女子シングルス優勝者である。彼女は身長183cmほどの長身と金髪の容姿を備え、躍動感にあふれたエネルギッシュなプレーと真摯な試合態度で、地元イギリスに多くのファンを持っていた。トルーマンの4大大会における好成績は、大半が18歳から20歳までの間に記録されたものである。彼女は選手経歴の間にジェリー・ジェーンズ(Gerry Janes)と結婚した。妹のネル・トルーマン(Nell Truman)も当時の優れたテニス選手であった。 トルーマンは16歳の時、1957年のウィンブルドン選手権で初出場からいきなりアリシア・ギブソン(アメリカ)との準決勝に勝ち進み、イギリスに多くのファンを獲得した。1958年には全仏選手権と全米選手権でベスト8に入る。新人選手時代のトルーマンは、ギブソンとの対戦機会が多かった。1959年、18歳になったトルーマンは国際的な成功を収め、全仏選手権に18歳5ヶ月で初優勝を飾った。全仏選手権の女子シングルス決勝で、トルーマンは大会前年度優勝者だったハンガリーのジュジャ・ケルメツィを 6-4, 7-5 のストレートで破り、当時の女子シングルス最年少優勝記録を樹立した。(28年後の1987年にシュテフィ・グラフが「17歳11ヶ月」で初優勝し、トルーマンの記録を破ったが、2013年現在の全仏女子シングルス最年少優勝記録保持者は1990年に「16歳6ヶ月」で優勝したモニカ・セレシュである。)全仏優勝の後、トルーマンはウィンブルドン選手権女子ダブルス決勝と、全米選手権女子シングルス決勝に進出した。全米選手権の決勝ではマリア・ブエノ(ブラジル)に 1-6, 4-6 で敗れ、4大大会年間2冠のチャンスを逃している。 1960年、トルーマンは初めて全豪選手権に遠征し、マリア・ブエノとの女子ダブルスで優勝した。この年は、大会前年優勝者だった全仏選手権には出場できなかったが、全豪選手権・ウィンブルドン選手権・全米選手権の3大会で女子シングルスのベスト4に入っている。それから、トルーマンは1961年のウィンブルドン選手権で初めての決勝に勝ち進んだ。相手は同じイギリスのアンジェラ・モーティマーで、1914年以来「47年ぶり」にイギリス人選手同士の決勝戦が実現し、ウィンブルドンの大会会場は大いに盛り上がった。(ウィンブルドン選手権では、1921年を最後に「チャレンジ・ラウンド」→「オールカマーズ・ファイナル」方式が廃止され、1922年から現在のようなトーナメント方式になったが、それ以後は女子シングルス決勝で「イギリス対決」は1度も行われなかった。)その盛り上がりの中で、トルーマンはモーティマーに 6-4, 4-6, 5-7 の逆転で敗れ、ウィンブルドン初優勝を逃した。これを最後に、クリスティン・トルーマンは4大大会のシングルス決勝から見放されてしまう。 その後のトルーマンは、1963年全仏選手権と1965年ウィンブルドン選手権でベスト4進出があったが、18歳から20歳までの絶頂期のような好成績を取り戻せなかった。1963年に女子テニス国別対抗戦・フェデレーションカップが創設され、トルーマン・ジェーンズはフェデレーションカップ最初期のイギリス・チームの代表選手として、1963年・1965年・1968年の3度出場した。全仏女子シングルス優勝から13年後、ネル・トルーマンは1972年全仏オープンの女子ダブルスでウィニー・ショー(同じイギリスの選手)とペアを組み、ビリー・ジーン・キング夫人とベティ・ストーブ組に敗れた準優勝がある。.

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グランドスラム (テニス)

ランドスラム(Grand Slam)とは、国際テニス連盟が定めた4大大会を指す総称、またはそれら全てを制覇する事である。後者はコントラクトブリッジの用語で完全制覇を意味する語に由来する。.

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ジミー・コナーズ

ミー・コナーズ(Jimmy Connors, 1952年9月2日 - )は、アメリカ・イリノイ州ベルビル出身の元男子プロテニス選手。フルネームは James Scott Connors (ジェームズ・スコット・コナーズ)という。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(U.C.L.A.)出身。 ビョルン・ボルグ、ジョン・マッケンロー、イワン・レンドルらと並び、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金時代を築いた名選手のひとりである。コナーズは1970年代の男子テニス界に長らく王者として君臨した。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 4大大会通算8勝は、フレッド・ペリー、ケン・ローズウォール、イワン・レンドル、アンドレ・アガシと並ぶ男子テニス歴代8位タイ記録。 ATPツアーのシングルスではいずれも男子歴代1位のツアー109勝、シングルス1243勝などの大記録を持つ。世界ランキング1位連続保持記録「160週」は歴代2位(当時歴代1位、2007年2月26日にロジャー・フェデラーがコナーズの記録を更新し、2008年8月17日まで「237週」を記録)。また世界ランキング1位通算在位記録「268週」は当時歴代最長で、現在でもフェデラー(302週)、サンプラス(286週)、レンドル(270週)に次ぐ歴代4位である。 闘志溢れるプレーで高い人気を集め、観客を自分の味方につける術にも優れた選手だった。.

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スペイン

ペイン王国(スペインおうこく、Reino de España)、通称スペインは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める立憲君主制国家。西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランス、アンドラと国境を接し、飛地のセウタ、メリリャではモロッコと陸上国境を接する。本土以外に、西地中海のバレアレス諸島や、大西洋のカナリア諸島、北アフリカのセウタとメリリャ、アルボラン海のアルボラン島を領有している。首都はマドリード。.

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スタン・スミス

タン・スミス(Stan Smith, 1946年12月14日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州パサデナ出身の男子テニス選手。フルネームは Stanley Roger Smith (スタンレー・ロジャー・スミス)という。1960年代後半から1970年代前半にかけて、アメリカを代表する選手として活躍した。男子テニス国別対抗戦・デビスカップでアメリカ・チームに「7勝」をもたらした選手としてよく知られ、当時のアメリカの国民的英雄でもあった。プロテニス選手としてシングルス39勝、ダブルス61勝を挙げ、通算「100勝」を記録した。優れたテニスコーチとしても有名である。.

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スタッド・ローラン・ギャロス

ンターコート(フィリップ・シャトリエ・コート) スザンヌ・ランラン・コート スタッド・ローラン・ギャロス(Stade Roland Garros)はフランス・パリの名所「ブローニュの森」にあるテニス競技場(テニスコート)。.

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全仏オープン

全仏オープンのセンターコート(フィリップ・シャトリエ・コート) 全仏オープン(ぜんふつオープン、フランス語:Les Internationaux de France, Le Tournoi de Roland-Garros, 英語:The French Open)は、テニスの4大国際大会であるグランドスラムの一つ。フランスの首都パリの名所ブローニュの森の隣接するスタッド・ローラン・ギャロス(Stade Roland Garros)にて、5月末から6月初めにかけて開催される。大会運営はフランステニス連盟(FFT)が行う。 飛行家ローラン・ギャロス(1888年 - 1918年)の功績を称えて、会場にはギャロスの名前が冠されている。このため本大会は「ローラン・ギャロス・トーナメント」(Le Tournoi de Roland Garros)とも呼ばれる。.

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国際テニス連盟

国際テニス連盟(こくさいテニスれんめい、英語:International Tennis Federation)は、イギリスのロンドン郊外にあるローハンプトン(Roehampton)に本部を置くテニスの国際統括団体の事である。略称はITF。現在の会長は、これまで12年間に渡り務めてきたに変わり、2015年9月26日より米デービッド・ハガティが4年の任期で選出された。 1913年にフランス・パリにて12カ国の参加のもとILTF(国際ローンテニス連盟)として設立された。1977年に「ローン(芝)」という単語を削除しITFとなった。現在、世界で203協会が加盟している。 なお週ごとに選手一人一人の世界ランキングを公表している組織はITFではなく、男子がATP(プロテニス協会)、女子はWTA(女子テニス協会)である。.

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1961年全仏選手権 (テニス)

1961年 全仏選手権(Internationaux de France de Roland-Garros 1961)に関する記事。フランス・パリにある「ローランギャロス・スタジアム」にて開催。.

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1964年全仏選手権 (テニス)

1964年 全仏選手権(Internationaux de France de Roland-Garros 1964)に関する記事。フランス・パリにある「ローランギャロス・スタジアム」にて開催。.

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1966年ウィンブルドン選手権

1966年 ウィンブルドン選手権(The Championships, Wimbledon 1966)に関する記事。イギリス・ロンドン郊外にある「オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ」にて開催。.

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1967年全米選手権 (テニス)

1967年 全米選手権に関する記事。.

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1968年オーストラリア選手権 (テニス)

1968年 オーストラリア選手権(1968 Australian Championships)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1968年1月19日から29日まで開催された。.

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1971年全仏オープン

1971年 全仏オープン(Internationaux de France de Roland-Garros 1971)は、フランス・パリにある「スタッド・ローラン・ギャロス」にて、1971年5月24日から6月6日にかけて開催された。.

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1972年

協定世界時による計測では、この年は(閏年で)閏秒による秒の追加が年内に2度あり、過去最も長かった年である。.

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1972年ウィンブルドン選手権

1972年 ウィンブルドン選手権(The Championships, Wimbledon 1972)は、イギリス・ロンドン郊外にある「オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ」にて、1972年6月26日から7月9日にかけて開催された。.

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1972年全豪オープン

1972年 全豪オープン(Australian Open 1972)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1971年12月27日から1972年1月3日まで開催された。.

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1973年全仏オープン

1973年 全仏オープン(Internationaux de France de Roland-Garros 1973)は、フランス・パリにある「スタッド・ローラン・ギャロス」にて、1973年5月21日から6月3日にかけて開催された。.

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5月22日

5月22日(ごがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から142日目(閏年では143日目)にあたり、年末まではあと223日ある。誕生花はフクシア。.

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6月4日

6月4日(ろくがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から155日目(閏年では156日目)にあたり、年末まであと210日ある。誕生花はイロマツヨイグサ、マツバギク。.

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