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1968年オーストラリア選手権 (テニス)

索引 1968年オーストラリア選手権 (テニス)

1968年 オーストラリア選手権(1968 Australian Championships)は、オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて、1968年1月19日から29日まで開催された。.

24 関係: マーガレット・スミス・コートマニュエル・オランテスメルボルンレスリー・ターナーロージー・カザルスヘレン・グーレイビリー・ジーン・キングビル・ボウリーフィル・デントオーストラリアグランドスラム (テニス)ケリー・レイドジュディ・テガート全豪オープン国際テニス連盟神和住純1967年1967年オーストラリア選手権 (テニス)1967年全米選手権 (テニス)1968年1968年全仏オープン1969年全豪オープン1月19日1月29日

マーガレット・スミス・コート

マーガレット・スミス・コート(Margaret Smith Court, 1942年7月16日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州出身の女子テニス選手。自己最高ランキングは1位。 1970年にオープン化以降女子初となる「年間グランドスラム」を達成した選手で、4大大会優勝記録で女子歴代1位の「24勝」を樹立した。 4大大会ではダブルスで19回、混合ダブルスで21回の優勝があり合計64タイトルは歴代1記録である。また混合ダブルス初の年間グランドスラムを達成しており2回の達成は史上唯一。 旧姓は「マーガレット・スミス」(Margaret Smith)であるが、バリー・コート(Barry Court)との結婚後、両方の姓を併用して「マーガレット・スミス・コート」夫人と名乗った。日本では単純に「マーガレット・コート」夫人と呼ばれることが多い。.

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マニュエル・オランテス

マニュエル・オランテス・コルラル(Manuel Orantes Corral, 1949年2月6日 - )は、スペイン・グラナダ出身の男子プロテニス選手。1970年代から1980年代前半にかけて活躍し、1975年の全米オープン男子シングルスで優勝した。左利きの選手。シングルス自己最高ランキングは2位。ATPツアーでシングルス33勝、ダブルス22勝を挙げた。身長177cm、体重75kgで、男子テニス選手としてはやや小柄な体格だった。.

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メルボルン

メルボルン(Melbourne、豪語発音:, )は、オーストラリアのビクトリア州の州都で、オーストラリア大陸南東部、ポート・フィリップ湾に面したヤラ川河口の港市。オセアニア有数の世界都市。.

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レスリー・ターナー

レスリー・ターナー・ボウリー(Lesley Turner Bowrey, 1942年8月16日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州シドニー市出身の女子テニス選手。フルネームは Lesley Rosemary Turner Bowrey (レスリー・ローズマリー・ターナー・ボウリー)という。1963年と1965年の2度、全仏選手権の女子シングルスで優勝した。旧姓「レスリー・ターナー」の名前であったが、1968年に全豪選手権優勝者のビル・ボウリーと結婚した。キャリアを通じて全仏選手権と相性が良く、ダブルスで11個のグランドスラム・タイトルを獲得したが(女子ダブルス7勝+混合ダブルス4勝=11勝)、同じオーストラリアのライバルであったマーガレット・スミスの陰に隠れがちな存在でもあった。ターナーは1963年に創設された女子テニス国別対抗戦「フェデレーション・カップ」でも、オーストラリア代表選手として大きな役割を果たした人である。彼女のテニス経歴は、1968年に実施されたテニス界の「オープン化措置」(プロ選手解禁)をまたぐ時代であった。.

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ロージー・カザルス

ーズマリー・"ロージー"・カザルス(Rosemary "Rosie" Casals, 1948年9月16日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ出身の女子プロテニス選手。“Rosebud”(バラの花束)の愛称でも知られた。ダブルスの名手として一時代を築き、ウィンブルドン女子ダブルスで5勝、全米オープン女子ダブルスで4勝を挙げた。しかしシングルスでは1970年と1971年の全米オープンで2年連続準優勝に終わり、とうとう優勝できなかった。カザルスのテニスは、サービス・アンド・ボレーが“豹のように速い”曲芸師のような動きを特徴としていた。女子プロテニス選手としてシングルス通算11勝、ダブルス通算112勝を挙げ、生涯獲得賞金として136万ドルを稼いだ。著名なチェリストのパブロ・カザルスとは遠い親戚に当たる。.

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ヘレン・グーレイ

ヘレン・グーレイ(Helen Gourlay, 1946年12月23日 - )は、オーストラリア・タスマニア州ローンセストン出身の女子テニス選手。1971年の全仏オープンと1977年12月開催の全豪オープンで、4大大会女子シングルスに2度の準優勝がある。どちらも決勝でイボンヌ・グーラゴングに敗れた。4大大会女子ダブルスでは、全豪オープンで4勝を挙げ、ウィンブルドンでも1977年に優勝がある。右利きの選手。彼女は1977年にイギリス人のリチャード・コーリー(Richard Cawley)と結婚した後は、夫の姓を併用して「ヘレン・グーレイ・コーリー」(Helen Gourlay-Cawley)と名乗った。.

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ビリー・ジーン・キング

ビリー・ジーン・キング(Billie Jean King, 1943年11月22日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州ロングビーチ出身の女子テニス選手。1960年代から1980年代初頭までの四半世紀に及び、長い間女子テニス界に君臨した名選手であり、女子テニスの歴史を通じて最大の偉人のひとりに数えられる。レズビアンとしてカミングアウトしている。.

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ビル・ボウリー

ウィリアム・ボウリー(William Bowrey, 1943年12月25日 - )は、オーストラリア・シドニー市出身の男子テニス選手。1968年の全豪選手権男子シングルス優勝者で、テニス4大大会でプロ選手の出場を解禁する「オープン化措置」が実施される直前の、最後の「全豪選手権」で優勝した人である。彼のフルネームは William Walter Bowrey (ウィリアム・ウォルター・ボウリー)というが、本記事では「ビル・ボウリー」(Bill Bowrey)の見出しで記述する。彼には“Tex”(テックス)という愛称もあった。ボウリーは長身と長い手足の持ち主で、プレースタイルは当時としてはやや派手であったが、オールラウンド・プレーヤーとして高い人気を持っていた。国際テニス殿堂入りした女子の名選手、レスリー・ターナーの夫としてもよく知られる。 ボウリーは1962年から全豪選手権に出場を始め、1965年から1967年まで3年連続のベスト8に進出した後、1968年の大会で初優勝を飾った。前年の1967年までテニス4大大会の頂点を争っていたオーストラリアのライバル選手たち、ジョン・ニューカムやトニー・ローチなどが「プロテニス選手」に転向したため、1968年初頭にはボウリーがオーストラリアの「アマチュアテニス選手」の第一人者になった。初進出の決勝戦で、ボウリーはフアン・ヒスベルト(スペイン)を 7-5, 2-6, 9-7, 6-4 で破って優勝した。しかし、ボウリーの全豪優勝のすぐ後に、テニス界は4大大会にプロ選手の出場を解禁する「オープン化措置」の実施に踏み切った。テニス界の「オープン化時代」(Open Era)は、1968年の「全仏オープン」から始まる。オープン化措置の実施により、さらに前からプロテニスツアーを回っていた先輩選手たちも4大大会復帰が可能になり、「全仏オープン」ではプロの先輩選手であるケン・ローズウォールとロッド・レーバーが決勝を戦った。アマチュア・トーナメントとしての「全豪選手権」を制したビル・ボウリーは、この後1968年ウィンブルドンで2回戦敗退に終わり(全仏オープン・全米オープンは不参加)、翌1969年から「全豪オープン」となった大会でもベスト8止まりに終わった。 ビル・ボウリーは1968年と1969年の2年間、男子テニス国別対抗戦・デビスカップのオーストラリア代表選手も務めた。しかし、1969年5月23日-25日にオーストラリアが下部グループの「N&C アメリカ」決勝でメキシコ・チームと対戦した時、ボウリーは最終第5試合のシングルス戦でラファエル・オスナに 2-6, 6-3, 6-8, 3-6 で敗れ、オーストラリアは予想外の早期敗退を喫した。この敗戦を最後に、1938年からデ杯のオーストラリア代表監督を務めてきたハリー・ホップマンが31年間の監督経歴に終止符を打ち、デビスカップにおけるオーストラリアの黄金時代が幕を閉じた。ボウリーを激戦で倒したオスナは、それからわずか10日後の6月4日に飛行機事故で急死してしまう。 ボウリーの他の4大大会成績は、全米選手権では1966年にベスト8進出があるが、全仏では「選手権」の1965年と1971年全仏オープンの3回戦、ウィンブルドンでは1966年の4回戦進出が自己最高成績であった。ダブルスでは、1966年のウィンブルドン選手権と1967年の全米選手権で男子ダブルス準優勝と、1966年の全豪選手権で混合ダブルス準優勝があった。男子ダブルスでは両方とも同じオーストラリアのオーウェン・デビッドソンとペアを組み、混合ダブルスのパートナーはロビン・エバーンと組んだ。 ボウリーは「全豪選手権」で優勝した1968年に、同じオーストラリアの女子トップ選手であるレスリー・ターナーと結婚した。ターナーは1963年と1965年の全仏選手権女子シングルス優勝者で、ダブルスでの活躍が多かった名選手である。2人はテニス史上初の「4大大会シングルス優勝者どうしの夫婦」として知られたが、33年後の2001年にアンドレ・アガシとシュテフィ・グラフが2組目になった。.

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フィル・デント

フィル・デント(Phil Dent, 1950年2月14日 - )は、オーストラリア・シドニー出身の男子テニス選手。1974年の全豪オープン男子シングルス準優勝者。キャリアを通じてダブルスに優れ、ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス24勝を挙げた。身長182cm、体重78kg、右利き。テーラー・デントの父親としても有名である。 フィル・デントの4大大会出場歴は1968年から始まるが、この年はテニス4大大会にプロ選手の出場を解禁する「オープン化措置」が実施された転換期であった。デントは4大大会初出場となった1968年1月の「全豪選手権」でいきなりベスト8に進出する。オープン化制度のもとで開かれた1968年「全仏オープン」には出場していないが、ウィンブルドン選手権に出場した。1969年から「全豪オープン」となった地元開催の4大大会では、1回戦でケン・ローズウォールに敗退する。彼のテニス経歴のハイライトとなった1974年の全豪オープンでは、決勝でジミー・コナーズに 6-7, 4-6, 6-4, 3-6 で敗れて準優勝に終わった。その後、デントは1977年に全仏オープンでベスト4、ウィンブルドンでベスト8入りを果たしたが、全米オープンは1973年の3回戦進出が最高で、全米との相性は良くなかった。 フィル・デントはダブルスに強く、同じオーストラリアのジョン・アレクサンダーと組んで多くの好成績を残した。地元開催の全豪オープンでは、1975年にアレクサンダーとのペアで優勝を飾ったが、1970年・1973年・1977年12月の大会で3度準優勝がある。(1977年の全豪オープンは、年頭の1月開催と年末の12月開催の2度行われた。)全仏オープンの男子ダブルスでは、1975年と1979年の2度準優勝に終わった。1975年はアレクサンダーとのペアだったが、1979年は(いつもと違って)同じオーストラリアのロス・ケースと組んだ。ウィンブルドンでも1977年にアレクサンダーとのペアで準優勝している。4大大会の男子ダブルス決勝では、通算「1勝6敗」の成績を記録した。混合ダブルスでは、1976年の全米オープンでビリー・ジーン・キング夫人と組んで優勝したことがある。 息子のテーラー・デントが1981年4月24日にアメリカ・カリフォルニア州で生まれた時、父親のフィルはまだ現役選手であった。デントは1983年11月の全豪オープン1回戦敗退を最後に現役を引退したが、息子のテーラーも世界の一流プロテニス選手へと成長し、世界でも珍しい“親子2代男子テニス選手”として活躍している。.

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オーストラリア

ーストラリア連邦(オーストラリアれんぽう、Commonwealth of Australia)、またはオーストラリア(Australia)は、オーストラリア大陸本土、タスマニア島及び多数の小島から成りオセアニアに属する国。南方の南極大陸とは7,877km離れている。イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国の一国となっている。日本での略称は「豪州」である。.

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グランドスラム (テニス)

ランドスラム(Grand Slam)とは、国際テニス連盟が定めた4大大会を指す総称、またはそれら全てを制覇する事である。後者はコントラクトブリッジの用語で完全制覇を意味する語に由来する。.

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ケリー・レイド

リー・レイド(Kerry Reid, 1947年8月7日 - )は、オーストラリア・モスマン出身の元女子プロテニス選手。1977年の全豪オープン女子シングルス優勝者で、1972年全米オープンの準優勝もある。女子ダブルスでも1968年の全豪選手権(当時の名称)と1978年のウィンブルドンで優勝した。フルネームは Kerry Ann Melville Reid (ケリー・アン・メルビル・レイド)という。旧姓は「ケリー・メルビル」(Kerry Melville)というが、ラズ・レイド(Raz Reid)と結婚した。種々のテニス文献の中でも、彼女の名前表記はさまざまに異なっているが、本記事では1977年全豪オープン優勝時の、最も広く知られた「ケリー・レイド」を見出しとして記載する。WTAツアーでシングルス通算22勝、ダブルス12勝を挙げた。身長166cm、体重57kg、右利き。.

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ジュディ・テガート

ュディ・テガート・ドールトン(Judy Tegart Dalton, 1937年12月12日 - )は、オーストラリア・メルボルン出身の女子テニス選手。1968年のウィンブルドン選手権女子シングルス準優勝者。フルネームは Judith Anne Marshall Tegart Dalton (ジュディス・アン・マーシャル・テガート・ドールトン)というが、愛称の「ジュディ」でよく知られている。彼女は優れたダブルス選手として、すべての4大大会で女子ダブルスのタイトルを獲得し、女子ダブルス8勝・混合ダブルス1勝を挙げた。1968年ウィンブルドン準優勝の時はまだ旧姓の「ジュディ・テガート」であったが、1969年にイギリス人医師のデビッド・ドールトン(David Dalton)と結婚した。 ジュディ・テガートの家族は、父親はアイルランドのサッカー元代表選手で、母親はスコットランド人であった。テガートは1957年から全豪選手権に出場を始め、1962年に初めて女子シングルスの8強に進出した。この年から、テガートは他の4大大会にも活躍の場を広げる。1964年全豪選手権で、テガートはレスリー・ターナーとペアを組み、女子ダブルス初優勝を果たす。1963年から始まった女子テニス国別対抗戦「フェデレーション・カップ」(現在の名称はフェドカップ)で、テガートは第3回大会の1965年からオーストラリアの代表選手になった。1966年は全豪選手権の混合ダブルス部門でトニー・ローチとコンビを組んで優勝した後、全仏選手権の女子ダブルスでマーガレット・スミスと組み、この大会では唯一のタイトルを獲得した。1967年はターナーとのペアで3年ぶり2度目の全豪選手権女子ダブルス優勝があり、ウィンブルドン選手権で初のベスト8に入る。この頃までは、テガートはオーストラリアの優秀なダブルス選手としての知名度はあったが、世界的な舞台での好成績は少なかった。 ジュディ・テガートが世界的な知名度を獲得したのは、1968年のウィンブルドン決勝進出がきっかけだった。テニス界はこの年から「オープン化」という措置を取り、プロテニス選手の4大大会出場を解禁した。「オープン化制度」のもとで実施された最初のウィンブルドン選手権において、テガートは第7シードから勝ち進み、準々決勝でマーガレット・スミス・コート夫人、準決勝で全仏オープン優勝者のナンシー・リッチーを破り、初めての4大大会シングルス決勝進出を果たした。決勝戦ではビリー・ジーン・キング夫人に 7-9, 5-7 で敗れ、テガートの初優勝はならなかった。彼女のシングルス成績は、その後1971年ウィンブルドンのベスト4があるが、ここではコート夫人に敗れて決勝進出を逃している。 ジュディ・テガートは1969年、イギリス人医師のデビッド・ドールトンと結婚し、その後は2つの姓を併用して「ジュディ・テガート・ドールトン」と名乗るようになった。結婚後のドールトンは、女子ダブルスでマーガレット・スミス・コート夫人とペアを組むことが多くなり、2人は1969年に「全豪オープン」とウィンブルドンで女子ダブルス年間2冠を獲得した。1970年の「全米オープン」において、ドールトンとコート夫人は女子ダブルス決勝でロージー・カザルス&バージニア・ウェード組を 6-3, 6-4 で破って初優勝を果たす。この優勝により、ドールトンはすべての4大大会で女子ダブルスのタイトルを獲得する「キャリア・グランドスラム」を達成した。パートナーのコート夫人は、この年に女子テニス史上2人目の「年間グランドスラム」達成者になり、全米オープンでは「ハットトリック」(女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門制覇)も成し遂げた。 1971年の全米オープンでは、ドールトンは女子ダブルスでロージー・カザルスとペアを組み、ここで最後の4大大会女子ダブルス優勝を飾った。これでドールトンのダブルス・タイトルは、レスリー・ターナーと組んだものが2つ(1964年・1967年全豪選手権)、マーガレット・コート夫人と組んだものが5つ、最後がカザルスとのペアで、総計「8勝」になった。ドールトンは1970年に「プロテニス選手」となり、最後は1977年12月の全豪オープンでイボンヌ・グーラゴングとの準々決勝に進んでいる。(1977年の全豪オープンは、年頭の1月開催と年末の12月開催の2度行われた。)ダブルスの名手として長く活躍したドールトンは、1978年に38歳で現役を引退した。.

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全豪オープン

メルボルン・パークの1番コート。「マーガレット・コート・アリーナ」の名前がある 全豪オープンテニス(英語:Australian Open)は、毎年1月後半にオーストラリアのメルボルンで開催される4大国際大会の一つである。主催および運営はテニス・オーストラリアが行う。.

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国際テニス連盟

国際テニス連盟(こくさいテニスれんめい、英語:International Tennis Federation)は、イギリスのロンドン郊外にあるローハンプトン(Roehampton)に本部を置くテニスの国際統括団体の事である。略称はITF。現在の会長は、これまで12年間に渡り務めてきたに変わり、2015年9月26日より米デービッド・ハガティが4年の任期で選出された。 1913年にフランス・パリにて12カ国の参加のもとILTF(国際ローンテニス連盟)として設立された。1977年に「ローン(芝)」という単語を削除しITFとなった。現在、世界で203協会が加盟している。 なお週ごとに選手一人一人の世界ランキングを公表している組織はITFではなく、男子がATP(プロテニス協会)、女子はWTA(女子テニス協会)である。.

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神和住純

和住 純(かみわずみ じゅん, 1947年10月1日 - )日本のプロテニス選手・指導者である。法政大学スポーツ健康科学部教授。 日本人戦後初のトーナメントプロ選手。1980年から国内7年連続賞金王。1997年から2004年までデビスカップ代表監督。1973年全米オープンで3回戦に進出。これは錦織圭が2008年に進出するまで日本人男子最後の全米3回戦進出だった。.

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1967年

記載なし。

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1967年オーストラリア選手権 (テニス)

1967年 オーストラリア選手権(1967 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・アデレード市内にある「メモリアル・ドライブ・テニスクラブ」にて開催。.

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1967年全米選手権 (テニス)

1967年 全米選手権に関する記事。.

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1968年

記載なし。

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1968年全仏オープン

1968年 全仏オープン(Internationaux de France de Roland-Garros 1968)は、フランス・パリにある「スタッド・ローラン・ギャロス」にて、1968年5月27日から6月9日にかけて開催された。.

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1969年全豪オープン

1969年 全豪オープン(Australian Open 1969)は、オーストラリア・ブリスベンにある「ミルトン・テニスクラブ」て、1969年1月20日から27日にかけて開催された。.

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1月19日

1月19日(いちがつじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から19日目に当たり、年末まであと346日(閏年では347日)ある。.

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1月29日

1月29日(いちがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から29日目に当たり、年末まであと336日(閏年では337日)ある。.

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1968年全豪テニス選手権

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