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1966年オーストラリア選手権 (テニス)

索引 1966年オーストラリア選手権 (テニス)

1966年 オーストラリア選手権(1966 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・シドニー市内にある「ホワイトシティ・テニスクラブ」にて開催。.

25 関係: ナンシー・リッチーマーガレット・スミス・コートレスリー・ターナーロイ・エマーソントム・オッカートニー・ローチビル・ボウリーフレッド・ストールアーサー・アッシュオーウェン・デビッドソンオーストラリアグランドスラム (テニス)ケリー・レイドケン・フレッチャーシドニージャン・レヘインジュディ・テガートジョン・ニューカム全豪オープン1965年1965年オーストラリア選手権 (テニス)1965年全米選手権 (テニス)1966年1966年全仏選手権 (テニス)1967年オーストラリア選手権 (テニス)

ナンシー・リッチー

ナンシー・リッチー(Nancy Richey, 1942年8月23日 - )は、アメリカ・テキサス州サンアンジェロ出身の女子テニス選手。1960年代にアメリカを代表する選手として活躍し、4大大会で女子シングルス2勝、女子ダブルス4勝を挙げた。彼女の全盛時代は、1968年に実施されたテニス界の「オープン化措置」をまたぐ境目の時期であり、リッチーはオープン化制度のもとで開かれた1968年の「全仏オープン」で女子シングルス優勝者になった。.

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マーガレット・スミス・コート

マーガレット・スミス・コート(Margaret Smith Court, 1942年7月16日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州出身の女子テニス選手。自己最高ランキングは1位。 1970年にオープン化以降女子初となる「年間グランドスラム」を達成した選手で、4大大会優勝記録で女子歴代1位の「24勝」を樹立した。 4大大会ではダブルスで19回、混合ダブルスで21回の優勝があり合計64タイトルは歴代1記録である。また混合ダブルス初の年間グランドスラムを達成しており2回の達成は史上唯一。 旧姓は「マーガレット・スミス」(Margaret Smith)であるが、バリー・コート(Barry Court)との結婚後、両方の姓を併用して「マーガレット・スミス・コート」夫人と名乗った。日本では単純に「マーガレット・コート」夫人と呼ばれることが多い。.

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レスリー・ターナー

レスリー・ターナー・ボウリー(Lesley Turner Bowrey, 1942年8月16日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州シドニー市出身の女子テニス選手。フルネームは Lesley Rosemary Turner Bowrey (レスリー・ローズマリー・ターナー・ボウリー)という。1963年と1965年の2度、全仏選手権の女子シングルスで優勝した。旧姓「レスリー・ターナー」の名前であったが、1968年に全豪選手権優勝者のビル・ボウリーと結婚した。キャリアを通じて全仏選手権と相性が良く、ダブルスで11個のグランドスラム・タイトルを獲得したが(女子ダブルス7勝+混合ダブルス4勝=11勝)、同じオーストラリアのライバルであったマーガレット・スミスの陰に隠れがちな存在でもあった。ターナーは1963年に創設された女子テニス国別対抗戦「フェデレーション・カップ」でも、オーストラリア代表選手として大きな役割を果たした人である。彼女のテニス経歴は、1968年に実施されたテニス界の「オープン化措置」(プロ選手解禁)をまたぐ時代であった。.

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ロイ・エマーソン

イ・エマーソン(Roy Emerson, 1936年11月3日 - )は、オーストラリア・クイーンズランド州出身の男子テニス選手。主に1960年代に活躍し、4大大会男子シングルス通算12勝・男子ダブルス16勝を挙げ、総計「28」のグランドスラム・タイトルを獲得した名選手である。グランドスラム優勝12回は2000年にピート・サンプラスが更新するまで33年間歴代1位記録だった。フルネームは Roy Stanley Emerson (ロイ・スタンレー・エマーソン)。“Emmo”(エンモ)という愛称で呼ばれた。エマーソンは豪放洒脱な人柄で、私生活では有名な大酒飲みだったという。 .

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トム・オッカー

トム・オッカー(Tom Okker, 1944年2月22日 - )は、オランダ・アムステルダム出身の男子プロテニス選手。1960年代後半から1970年代にかけて、オランダのテニス界に君臨した名選手であり、「空を飛ぶオランダ人」“The Flying Dutchman”というニックネームで呼ばれた。4大大会では1968年の全米オープン男子シングルス準優勝者になり、男子ダブルスでは1973年の全仏オープンと1976年の全米オープンで2勝を挙げた。シングルス自己最高ランキングは3位。ATPツアーでシングルス22勝、ダブルス69勝を記録した。身長177cm、体重66kg、右利き。 トム・オッカーは1964年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップのオランダ代表選手となり、1981年までその位置にあった。彼が全米オープンで準優勝した1968年は、テニス史上最大の転換期で、4大大会にプロ選手の出場を解禁する「オープン化」措置が実施された年である。1968年と1969年の2年間、「全米オープン」に過渡期の暫定開催があった。それは、9月開催の「オープン化時代大会」(Open Era Grand Slam)のほかに、年末の12月に別途で「全米選手権」(US National Champs)が行われたが、大会公認の優勝者は1回目の「オープン化時代大会」の勝者を記載する(全米オープン男子シングルス優勝者一覧を参照)。オッカーは1回目の「オープン化時代大会」の男子シングルス決勝戦で、黒人のテニス選手として勝ち上がったアーサー・アッシュと対決することになった。アッシュは黒人男子選手として初の4大大会シングルス優勝を目指し、オッカーもオランダ人男子選手として初優勝を狙い、両者とも“大望対決”で臨んだ決勝戦は、全米オープン史上に残る激闘となった。オッカーはアッシュに 12-14, 7-5, 3-6, 6-3, 3-6 のフルセットで敗れ、オランダ人選手としての4大大会男子シングルス初優勝はならなかった。彼が果たせなかった男子シングルス優勝の夢は、28年後の1996年ウィンブルドンにおいて、リカルド・クライチェクによって成し遂げられた。(オランダ人女子選手の4大大会優勝は、1927年の全仏選手権優勝者コルネリア・ボウマン1人だけである。) トム・オッカーは1968年にプロテニス選手になったが、デビスカップでは1973年までプロ選手の出場は認められず、ようやくこの年にデ杯でも「オープン化」が実現した。この年の全仏オープン男子ダブルスで、オッカーはオーストラリアのジョン・ニューカムとペアを組み、決勝でジミー・コナーズとイリ・ナスターゼの組を 6-1, 3-6, 6-3, 5-7, 6-4 のフルセットで破って4大大会ダブルス初優勝を遂げた。1975年と1976年の全米オープン男子ダブルスで、オッカーはマーティー・リーセンとのペアで2年連続の決勝に進出した。1975年の決勝では、2年前の1973年全仏男子ダブルス決勝で下したコナーズ&ナスターゼ組に敗れたが、1976年に自身2度目の4大大会ダブルス優勝を果たしている。男子テニスツアーでは、シングルスでは1979年まで、ダブルスでは1980年まで優勝記録を残した。オッカーとダブルスのペアを組んで好成績を多く残した選手は、他にもポーランドのヴォイチェフ・フィバクなどがいる。 「空を飛ぶオランダ人」として男子テニスの歴史に忘れ難い印象を残したトム・オッカーは、1980年に36歳で現役を引退した。2003年に「国際ユダヤ人スポーツ殿堂」入りを果たしている。.

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トニー・ローチ

トニー・ローチ(Tony Roche, 1945年5月17日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州出身の男子プロテニス選手。1966年の全仏選手権で優勝し、オーストラリア・テニス界の黄金時代を築いた名選手のひとりである。左利き。彼のテニスは、独特な癖のある左腕からのサービスと、華麗なボレーに特徴があった。フルネームは Anthony Dalton Roche (アントニー・ドールトン・ローチ)という。.

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ビル・ボウリー

ウィリアム・ボウリー(William Bowrey, 1943年12月25日 - )は、オーストラリア・シドニー市出身の男子テニス選手。1968年の全豪選手権男子シングルス優勝者で、テニス4大大会でプロ選手の出場を解禁する「オープン化措置」が実施される直前の、最後の「全豪選手権」で優勝した人である。彼のフルネームは William Walter Bowrey (ウィリアム・ウォルター・ボウリー)というが、本記事では「ビル・ボウリー」(Bill Bowrey)の見出しで記述する。彼には“Tex”(テックス)という愛称もあった。ボウリーは長身と長い手足の持ち主で、プレースタイルは当時としてはやや派手であったが、オールラウンド・プレーヤーとして高い人気を持っていた。国際テニス殿堂入りした女子の名選手、レスリー・ターナーの夫としてもよく知られる。 ボウリーは1962年から全豪選手権に出場を始め、1965年から1967年まで3年連続のベスト8に進出した後、1968年の大会で初優勝を飾った。前年の1967年までテニス4大大会の頂点を争っていたオーストラリアのライバル選手たち、ジョン・ニューカムやトニー・ローチなどが「プロテニス選手」に転向したため、1968年初頭にはボウリーがオーストラリアの「アマチュアテニス選手」の第一人者になった。初進出の決勝戦で、ボウリーはフアン・ヒスベルト(スペイン)を 7-5, 2-6, 9-7, 6-4 で破って優勝した。しかし、ボウリーの全豪優勝のすぐ後に、テニス界は4大大会にプロ選手の出場を解禁する「オープン化措置」の実施に踏み切った。テニス界の「オープン化時代」(Open Era)は、1968年の「全仏オープン」から始まる。オープン化措置の実施により、さらに前からプロテニスツアーを回っていた先輩選手たちも4大大会復帰が可能になり、「全仏オープン」ではプロの先輩選手であるケン・ローズウォールとロッド・レーバーが決勝を戦った。アマチュア・トーナメントとしての「全豪選手権」を制したビル・ボウリーは、この後1968年ウィンブルドンで2回戦敗退に終わり(全仏オープン・全米オープンは不参加)、翌1969年から「全豪オープン」となった大会でもベスト8止まりに終わった。 ビル・ボウリーは1968年と1969年の2年間、男子テニス国別対抗戦・デビスカップのオーストラリア代表選手も務めた。しかし、1969年5月23日-25日にオーストラリアが下部グループの「N&C アメリカ」決勝でメキシコ・チームと対戦した時、ボウリーは最終第5試合のシングルス戦でラファエル・オスナに 2-6, 6-3, 6-8, 3-6 で敗れ、オーストラリアは予想外の早期敗退を喫した。この敗戦を最後に、1938年からデ杯のオーストラリア代表監督を務めてきたハリー・ホップマンが31年間の監督経歴に終止符を打ち、デビスカップにおけるオーストラリアの黄金時代が幕を閉じた。ボウリーを激戦で倒したオスナは、それからわずか10日後の6月4日に飛行機事故で急死してしまう。 ボウリーの他の4大大会成績は、全米選手権では1966年にベスト8進出があるが、全仏では「選手権」の1965年と1971年全仏オープンの3回戦、ウィンブルドンでは1966年の4回戦進出が自己最高成績であった。ダブルスでは、1966年のウィンブルドン選手権と1967年の全米選手権で男子ダブルス準優勝と、1966年の全豪選手権で混合ダブルス準優勝があった。男子ダブルスでは両方とも同じオーストラリアのオーウェン・デビッドソンとペアを組み、混合ダブルスのパートナーはロビン・エバーンと組んだ。 ボウリーは「全豪選手権」で優勝した1968年に、同じオーストラリアの女子トップ選手であるレスリー・ターナーと結婚した。ターナーは1963年と1965年の全仏選手権女子シングルス優勝者で、ダブルスでの活躍が多かった名選手である。2人はテニス史上初の「4大大会シングルス優勝者どうしの夫婦」として知られたが、33年後の2001年にアンドレ・アガシとシュテフィ・グラフが2組目になった。.

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フレッド・ストール

フレッド・ストール(Fred Stolle, 1938年10月8日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州ホーンスビー出身の男子テニス選手。フルネームは Frederick Sydney Stolle (フレデリック・シドニー・ストール)という。主に1960年代に活躍し、オーストラリア・テニス界の最盛期を彩った名選手の1人として、4大大会で男子シングルス2勝、男子ダブルス10勝、混合ダブルス7勝を挙げた。彼の全盛時代は、1968年に実施されたテニス界の「オープン化措置」(プロ選手解禁)と重なり、ストールは「アマチュア選手」と「プロ選手」の両方の立場で活動した。並外れた気性の激しさから、同僚選手たちには“Fiery Fred”(炎のフレッド)と呼ばれた。.

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アーサー・アッシュ

アーサー・アッシュ(Arthur Ashe, 1943年7月10日 - 1993年2月6日)は、アメリカ・バージニア州リッチモンド出身の男子テニス選手。本名は Arthur Robert Ashe Jr. (アーサー・ロバート・アッシュ・ジュニア)という。黒人テニス選手の先駆者として活躍したが、エイズのため49歳で死去した。 4大大会男子シングルス「3勝」を挙げる。シングルス自己最高ランキングは2位。キャリア通算でシングルス33勝、ダブルス14勝を記録した。彼は4大大会で男子シングルスを制覇した初の黒人選手であり、1983年にヤニック・ノアが全仏オープンで優勝するまで、4大大会で男子シングルスを制した唯一の黒人選手だった。.

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オーウェン・デビッドソン

ーウェン・デビッドソン(Owen Davidson、1943年10月4日 - )は、1960年代から1970年代にかけて活躍したオーストラリアの男子プロ・テニス選手。メルボルン生まれ。 デビッドソンは、ビリー・ジーン・キングとペアを組み、4大国際大会(グランドスラム)の混合ダブルスで8回の優勝を果たした。1967年には、混合ダブルスで全豪オープン、全仏オープン、ウィンブルドン選手権、全米オープンをすべて制し、数少ない年間グランドスラム達成者のひとりとなった。この年の全豪オープンではレスリー・ターナー(後のレスリー・ターナー・ボウリー)とペアを組み、残りの3大会ではキングとペアを組んでの達成であった。4大国際大会のシングルスでは、1966年のウィンブルドン選手権における準決勝進出が最高の成績であった。1972年の全豪オープンと1973年の全米オープンでは、それぞれケン・ローズウォール、ジョン・ニューカムとのペアで、男子ダブルスを制した。 2010年には、アメリカ合衆国ロードアイランド州ニューポートにある国際テニス殿堂の殿堂入りを果たした。2011年1月26日のオーストラリアの日には、メルボルンのロッド・レーバー・アリーナにあるオーストラリア・テニス殿堂の殿堂入りも果たした。.

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オーストラリア

ーストラリア連邦(オーストラリアれんぽう、Commonwealth of Australia)、またはオーストラリア(Australia)は、オーストラリア大陸本土、タスマニア島及び多数の小島から成りオセアニアに属する国。南方の南極大陸とは7,877km離れている。イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国の一国となっている。日本での略称は「豪州」である。.

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グランドスラム (テニス)

ランドスラム(Grand Slam)とは、国際テニス連盟が定めた4大大会を指す総称、またはそれら全てを制覇する事である。後者はコントラクトブリッジの用語で完全制覇を意味する語に由来する。.

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ケリー・レイド

リー・レイド(Kerry Reid, 1947年8月7日 - )は、オーストラリア・モスマン出身の元女子プロテニス選手。1977年の全豪オープン女子シングルス優勝者で、1972年全米オープンの準優勝もある。女子ダブルスでも1968年の全豪選手権(当時の名称)と1978年のウィンブルドンで優勝した。フルネームは Kerry Ann Melville Reid (ケリー・アン・メルビル・レイド)という。旧姓は「ケリー・メルビル」(Kerry Melville)というが、ラズ・レイド(Raz Reid)と結婚した。種々のテニス文献の中でも、彼女の名前表記はさまざまに異なっているが、本記事では1977年全豪オープン優勝時の、最も広く知られた「ケリー・レイド」を見出しとして記載する。WTAツアーでシングルス通算22勝、ダブルス12勝を挙げた。身長166cm、体重57kg、右利き。.

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ケン・フレッチャー

ン・フレッチャー(Ken Fletcher, 1940年6月15日 - 2006年2月11日)は、オーストラリア・クイーンズランド州ブリスベン出身の男子テニス選手。1960年代に最盛期を迎えていたオーストラリア・テニス界にあって、ダブルスの名手として活躍し、1963年に混合ダブルスの「年間グランドスラム」を達成した。シングルスでは、1963年の全豪選手権準優勝者である。フルネームは Kenneth Norman Fletcher (ケネス・ノーマン・フレッチャー)という。.

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シドニー

ドニー(Sydney)は、オーストラリア南東部、タスマン海に面するニューサウスウェールズ州の州都である。 オーストラリア最大の人口を有し、南半球を代表する世界都市及び金融センターである。アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界16位の都市と評価されており、同国及び南半球の都市として首位である。 人口は2016年時点で500万人を超えている。都市圏人口は410万人であり、世界104位、オセアニアでは首位である。オセアニアを代表する国際的な観光都市でもあり、海に臨むオペラハウスなどが著名で、世界で最も美しいといわれる都市のひとつである。 300km南西に特別区である首都キャンベラが所在するが、経済や文化の規模ではシドニーの方が活発である。それもあってか、シドニーがオーストラリアの首都であると誤解する者も少なくない。2000年には夏季オリンピックである「シドニーオリンピック」の開催地となった。.

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ジャン・レヘイン

ャン・レヘイン(Jan Lehane, 1941年7月9日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州グレンフェル出身の女子テニス選手。1960年から1963年まで、全豪選手権女子シングルス決勝でマーガレット・スミスと4年連続の決勝対決をし、4年連続準優勝になった人である。同選手権では1960年と1961年の混合ダブルスで優勝した。左利きの選手で、グラウンド・ストロークを両手打ちしていた。現役選手の期間中、1966年に結婚して Jan Lehane O'Neill (ジャン・レヘイン・オニール)という名前になった。 ジャン・レヘインは1958年から全豪選手権に出場し始め、最初は1回戦でメアリー・ベヴィス・ホートンに敗れたが、翌1959年にメアリー・カーター・レイタノとの準決勝まで進んだ。1960年から1963年まで、全豪選手権の女子シングルス決勝は「4年連続」でレヘインとマーガレット・スミスの顔合わせになり、スミスが4戦全勝した。2人が1960年に最初の決勝対決をした時、スミスは17歳、レヘインは18歳であった。スミスは準々決勝で当時の世界1位だったマリア・ブエノ(ブラジル)を破って脚光を浴び、レヘインとの決勝戦でセンター・コートに立ったが、当時の全豪選手権ではオーストラリア女子選手どうしの試合がセンター・コートで行われることは少なかったという。スミスは最近の回想で「ジャン(レヘイン)の両手打ちバックハンド・ストロークの攻略を覚えたら、もう2度と彼女に負けることはなかった」と書き記した(本記事の参考文献、82・83ページ)。ここから1966年まで、スミスは全豪選手権女子シングルス「7連覇」を達成し、以後1973年全米オープンまで4大大会通算「24勝」の女子歴代1位記録を樹立する。最初期にスミスの壁にぶつかった選手が、全豪で4年連続準優勝者になったレヘインである。4度の決勝戦で、レヘインはいずれもストレート負けに終わった。 女子シングルスで最初の決勝戦に進んだ1960年、ジャン・レヘインは混合ダブルスでトレバー・ファンカット(南アフリカ)とペアを組んで初優勝した。1961年、彼女は女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスで3部門決勝進出があり、混合ダブルスで(前年と違う)ボブ・ヒューイットと組んで優勝したが、女子ダブルスではメアリー・ベヴィス・ホートンとのペアで準優勝になった。最後のシングルス決勝を戦った1963年は、女子ダブルスでレスリー・ターナーと組んで準優勝している。レヘインの全豪ダブルス成績は、混合ダブルス優勝2度・女子ダブルス準優勝2度となった。 レヘインの全豪選手権以外の4大大会成績は、シングルスは全仏選手権・ウィンブルドン選手権・全米選手権ともベスト8が自己最高成績であった。全仏選手権には1960年から1964年まで5年連続出場し、1961年を除いて4度ベスト8に入っている。ウィンブルドン選手権は1963年の1度、全米選手権は1960年・1961年の2度ベスト8があったが、海外の4大大会では準決勝に勝ち残れなかった。女子ダブルスでは、レヘインはスミスと組んで1961年ウィンブルドン選手権に準優勝がある。レヘインとスミスは、ウィンブルドン・ダブルス決勝でカレン・ハンツェ&ビリー・ジーン・モフィット(ともにアメリカ)組に 3-6, 4-6 で敗れた。1963年から女子テニス国別対抗戦「フェデレーションカップ」が始まり、レヘインは1963年の第1回フェデレーション杯でオーストラリア代表選手に選ばれた。 1964年、レヘインはスミスと全豪選手権準決勝で当たってしまい、ここでもストレート負けを喫した。1966年までは独身選手の「ジャン・レヘイン」の名前でプレーしたが、この後結婚して「ジャン・レヘイン・オニール」の名前になる。彼女は膝の故障に悩み、1967年全豪選手権でベスト8敗退に終わった後、しばらく選手経歴が中断した。全豪選手権は、1969年から「全豪オープン」の名前に変更される。ジャン・オニールは「全豪オープン」にも断続的に参加し、1971年全豪オープンで4年ぶりのベスト8に入った。彼女の最後の試合出場は、1977年1月開催大会の2回戦であり、1975年に現役引退した宿敵のマーガレット・スミス・コートよりも少し長くテニス界にとどまった。.

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ジュディ・テガート

ュディ・テガート・ドールトン(Judy Tegart Dalton, 1937年12月12日 - )は、オーストラリア・メルボルン出身の女子テニス選手。1968年のウィンブルドン選手権女子シングルス準優勝者。フルネームは Judith Anne Marshall Tegart Dalton (ジュディス・アン・マーシャル・テガート・ドールトン)というが、愛称の「ジュディ」でよく知られている。彼女は優れたダブルス選手として、すべての4大大会で女子ダブルスのタイトルを獲得し、女子ダブルス8勝・混合ダブルス1勝を挙げた。1968年ウィンブルドン準優勝の時はまだ旧姓の「ジュディ・テガート」であったが、1969年にイギリス人医師のデビッド・ドールトン(David Dalton)と結婚した。 ジュディ・テガートの家族は、父親はアイルランドのサッカー元代表選手で、母親はスコットランド人であった。テガートは1957年から全豪選手権に出場を始め、1962年に初めて女子シングルスの8強に進出した。この年から、テガートは他の4大大会にも活躍の場を広げる。1964年全豪選手権で、テガートはレスリー・ターナーとペアを組み、女子ダブルス初優勝を果たす。1963年から始まった女子テニス国別対抗戦「フェデレーション・カップ」(現在の名称はフェドカップ)で、テガートは第3回大会の1965年からオーストラリアの代表選手になった。1966年は全豪選手権の混合ダブルス部門でトニー・ローチとコンビを組んで優勝した後、全仏選手権の女子ダブルスでマーガレット・スミスと組み、この大会では唯一のタイトルを獲得した。1967年はターナーとのペアで3年ぶり2度目の全豪選手権女子ダブルス優勝があり、ウィンブルドン選手権で初のベスト8に入る。この頃までは、テガートはオーストラリアの優秀なダブルス選手としての知名度はあったが、世界的な舞台での好成績は少なかった。 ジュディ・テガートが世界的な知名度を獲得したのは、1968年のウィンブルドン決勝進出がきっかけだった。テニス界はこの年から「オープン化」という措置を取り、プロテニス選手の4大大会出場を解禁した。「オープン化制度」のもとで実施された最初のウィンブルドン選手権において、テガートは第7シードから勝ち進み、準々決勝でマーガレット・スミス・コート夫人、準決勝で全仏オープン優勝者のナンシー・リッチーを破り、初めての4大大会シングルス決勝進出を果たした。決勝戦ではビリー・ジーン・キング夫人に 7-9, 5-7 で敗れ、テガートの初優勝はならなかった。彼女のシングルス成績は、その後1971年ウィンブルドンのベスト4があるが、ここではコート夫人に敗れて決勝進出を逃している。 ジュディ・テガートは1969年、イギリス人医師のデビッド・ドールトンと結婚し、その後は2つの姓を併用して「ジュディ・テガート・ドールトン」と名乗るようになった。結婚後のドールトンは、女子ダブルスでマーガレット・スミス・コート夫人とペアを組むことが多くなり、2人は1969年に「全豪オープン」とウィンブルドンで女子ダブルス年間2冠を獲得した。1970年の「全米オープン」において、ドールトンとコート夫人は女子ダブルス決勝でロージー・カザルス&バージニア・ウェード組を 6-3, 6-4 で破って初優勝を果たす。この優勝により、ドールトンはすべての4大大会で女子ダブルスのタイトルを獲得する「キャリア・グランドスラム」を達成した。パートナーのコート夫人は、この年に女子テニス史上2人目の「年間グランドスラム」達成者になり、全米オープンでは「ハットトリック」(女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門制覇)も成し遂げた。 1971年の全米オープンでは、ドールトンは女子ダブルスでロージー・カザルスとペアを組み、ここで最後の4大大会女子ダブルス優勝を飾った。これでドールトンのダブルス・タイトルは、レスリー・ターナーと組んだものが2つ(1964年・1967年全豪選手権)、マーガレット・コート夫人と組んだものが5つ、最後がカザルスとのペアで、総計「8勝」になった。ドールトンは1970年に「プロテニス選手」となり、最後は1977年12月の全豪オープンでイボンヌ・グーラゴングとの準々決勝に進んでいる。(1977年の全豪オープンは、年頭の1月開催と年末の12月開催の2度行われた。)ダブルスの名手として長く活躍したドールトンは、1978年に38歳で現役を引退した。.

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ジョン・ニューカム

ョン・ニューカム(John Newcombe, 1944年5月23日 - )は、オーストラリア・シドニー出身の男子テニス選手。1960年代から1970年代前半にかけて、オーストラリア・テニス界の黄金時代を築いた名選手のひとりである。フルネームは John David Newcombe (ジョン・デビッド・ニューカム)という。重いサービスとフォアハンド・ストローク、ボレーを中心に組み立てるプレー・スタイルで、芝生のウィンブルドン選手権を最も得意にした。4大大会でシングルス通算「7勝」(全豪オープン2勝、ウィンブルドン3勝、全米オープン2勝)を挙げたが、赤土のクレーコートが苦手で、全仏オープンではどうしても優勝できなかった選手の1人である。.

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全豪オープン

メルボルン・パークの1番コート。「マーガレット・コート・アリーナ」の名前がある 全豪オープンテニス(英語:Australian Open)は、毎年1月後半にオーストラリアのメルボルンで開催される4大国際大会の一つである。主催および運営はテニス・オーストラリアが行う。.

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1965年

記載なし。

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1965年オーストラリア選手権 (テニス)

1965年 オーストラリア選手権(1965 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて開催。.

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1965年全米選手権 (テニス)

1965年 全米選手権に関する記事。.

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1966年

記載なし。

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1966年全仏選手権 (テニス)

1966年 全仏選手権(Internationaux de France de Roland-Garros 1966)は、フランス・パリにある「ローランギャロス・スタジアム」にて、1966年5月23日から6月5日にかけて開催された。.

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1967年オーストラリア選手権 (テニス)

1967年 オーストラリア選手権(1967 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・アデレード市内にある「メモリアル・ドライブ・テニスクラブ」にて開催。.

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1966年全豪テニス選手権

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