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1952年全米選手権 (テニス)

索引 1952年全米選手権 (テニス)

1952年 全米選手権に関する記事。.

42 関係: 加茂幸子マサチューセッツ州ネリー・アダムソン・ランドリーハーバート・フラムバド・コリンズメルビン・ローズモーリーン・コノリールー・ホードルイーズ・ブラフボストンビル・タルバートビック・セイシャステルマ・コイン・ロングディック・サビットフランク・セッジマンドリス・ハートニューヨークアメリカ合衆国アンジェラ・モーティマーアーサー・ラーセンガードナー・ムロイクルト・ニールセンクイーンズ区グランドスラム (テニス)ケン・マグレガーケン・ローズウォールシャーリー・フライ全米オープン (テニス)日本1881年全米選手権 (テニス)1921年全米選手権 (テニス)1924年全米選手権 (テニス)1942年全米選手権 (テニス)1946年全米選手権 (テニス)1951年全米選手権 (テニス)1952年1952年ウィンブルドン選手権1953年1953年オーストラリア選手権 (テニス)1953年全米選手権 (テニス)1967年全米選手権 (テニス)1977年全米オープン (テニス)

加茂幸子

加茂 幸子(かも さちこ、1926年2月11日 - 2003年10月28日)は、東京都目黒区出身の女子テニス選手。青山学院高等女学部卒業。第2次世界大戦終戦直後の時代に、日本の女子テニス選手の草分けとして活躍した。全日本テニス選手権の女子シングルスに6連覇を含む「8勝」を挙げ、日本人女性として初めて4大大会の女子シングルスに出場した名選手である。 加茂家は名門の「テニス一家」として有名で、4人兄弟全員が日本を代表するテニス選手となった。長女・純子(1923年 - 2003年)/次女・幸子/長男・礼仁(れいじん)/次男・公成 の家族構成で、幸子は2番目の子供であった。9歳の時から、姉の純子と一緒に父親の手ほどきでテニスを始める。1940年(昭和15年)の全日本テニス選手権女子ダブルス部門で、姉の純子とペアを組んで初優勝。第2次世界大戦の激化にともない、全日本選手権は1941年と、1943年-1945年に開催が中止されたが、1942年は大会が行われ、幸子は大浦直子と組んで女子ダブルス2勝目を記録する。終戦後、1946年から全日本選手権も再開され、幸子は1946年から1951年まで女子シングルス6連覇を達成した。その間、1948年から1950年まで女子ダブルスにも3連覇を達成し、通算5勝を記録する。女子シングルスでは1953年と1955年にも優勝し、全日本選手権では歴代2位となる「8勝」の優勝記録を残した。混合ダブルスでは1949年と1950年、1955年の3度優勝しているが、パートナーはいずれも末弟の公成であった。 日本人の女子テニス選手による4大大会挑戦の歴史は、1952年(昭和27年)の全米選手権に初参加した加茂幸子から始まる。初めての全米選手権では、加茂は1回戦でジュリア・サンプソン(アメリカ)に 10-12, 4-6 で敗退した。それから2年後、1954年に加茂は日本人女性として初のウィンブルドン選手権出場を果たし、3回戦まで進出した。同年に全米選手権に2年ぶり2度目の出場をした時も、第8シードのロイス・フェリックス(アメリカ)との3回戦まで勝ち進んでいる。加茂は全豪選手権や全仏選手権への出場はないが、こうして日本人の女子テニス選手が世界4大大会に挑戦する最初の道を切り開いた。その翌年、1955年の全米選手権では末弟の公成が、男子ダブルス部門で宮城淳とペアを組んで優勝した。 日本テニス界の開拓者となったテニス一家の「加茂家」は、2003年3月31日に長女の純子が80歳の誕生日に亡くなり、7ヶ月後の10月28日に次女の幸子も77歳で逝去した。.

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マサチューセッツ州

マサチューセッツ州(Commonwealth of Massachusetts、)は、アメリカ合衆国の州であり、北東部ニューイングランド6州の1つでもある。マサチューセッツ州は「州」(State) の代わりにコモンウェルスを使っているが、日本語では他州と同様に「州」と訳されている。2010年度の人口は 6,547,629 人。 南はロードアイランド州とコネチカット州、西はニューヨーク州、北はバーモント州とニューハンプシャー州に接している。東は大西洋である。アメリカ合衆国50州の中で、陸地面積では第44位、人口では第14位、人口密度が第3位である。東部のボストン大都市圏と、西部のスプリングフィールド大都市圏という2つの中心地がある。人口の約3分の2はボストン大都市圏に住んでいる。州都はボストン市であり、人口最大の都市でもある。ボストン大都市圏には、ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学などがあるケンブリッジやサマービル、クインシーなどの市町が含まれている。 マサチューセッツ州はアメリカ史の中で各分野にわたって重要な役割を演じてきた。1620年、メイフラワー号の乗船客ピルグリムによって、プリマス植民地が設立された。1636年に設立されたハーバード大学は国内最古の高等教育機関である。1692年、セイラムとその周辺ではセイラム魔女裁判と呼ばれる忌まわしい事件が起こった。18世紀、大西洋圏を席捲したプロテスタントの第一次大覚醒運動は、ノーサンプトンの説教師ジョナサン・エドワーズに端を発していた。18世紀後半には、アメリカ独立戦争とイギリスからの独立に繋がる扇動によって、ボストンは「自由の揺籃」とも呼ばれた。1777年にヘンリー・ノックス将軍が設立したスプリングフィールド造兵廠は、産業革命の時代に交換部品など多くの重要な技術進歩を促進した。1786年、州西部の農夫によるポピュリスト革命、シェイズの反乱が直接アメリカ合衆国憲法制定会議の開催に繋がる要因になった。 南北戦争以前の時代には、禁酒運動、超越論的思想、奴隷制度廃止運動の中心になった。1837年、コネチカット川バレーのサウスハドリーの町に、国内初の女子カレッジであるマウント・ホリヨーク大学が開校した。19世紀、州西部の都市、スプリングフィールドとホリヨークでバスケットボールとバレーボールが発明された。2004年、州最高裁判所の判決により、国内で初めて同性結婚を法律で認める州になった。州内からはアダムズ家やケネディ家など多くの著名政治家を輩出してきた。 マサチューセッツ州は当初漁業、農業、貿易業に依存していたが、産業革命の間に工業の中心に変わった。20世紀にはその経済が工業からサービス業に転換された。21世紀には、高等教育、医療技術、ハイテクと金融業で指導的存在である。.

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ネリー・アダムソン・ランドリー

ネリー・ジャンヌ・アダムソン・ランドリー(Nelly Jeanne Adamson Landry, 1916年12月28日 - 2010年2月22日)は、フランスの女子テニス選手。1948年の全仏選手権女子シングルス優勝者である。彼女はベルギーのブルッヘでベルギー人の両親の間に生まれ、最初はベルギー国籍の選手としてプレーした。旧姓「ネリー・アダムソン」というが、1937年にフランスの男子テニス選手であると結婚し、これによりフランス市民となった。 左利きの選手で、身長は160cmほどの小柄な体格だったが、攻撃的なボレーと低く弾むフォアハンド・ストロークを得意にした。.

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ハーバート・フラム

ハーバート・フラム(Herbert Flam, 1928年11月7日 - 1980年11月25日)は、アメリカ・ニューヨークブルックリン出身の男子テニス選手。1950年の全米選手権と1957年の全仏選手権で、4大大会の男子シングルスに2度準優勝した人である。彼はテニス文献にも「ハーブ・フラム」(Herb Flam)や「ハービー・フラム」(Herbie Flam)など、様々な呼び名で記載されている。フラムのテニスは、機敏な動きと攻撃的なプレーで、対戦相手のミスを誘うスタイルを得意にした。現役時代の彼は、しばしば“Retriever”(レトリーバー:猟犬の一種、射止めた獲物を取ってくる)と呼ばれた。 ハーバート・フラムは15歳の時、1943年に「全米ローンテニス協会」主催のジュニア男子シングルスで優勝した後、ビバリーヒルズ高校とカリフォルニア大学ロサンゼルス校の代表選手として活躍した。学生テニス選手となった1948年、フラムは初出場の全米選手権男子シングルスで、いきなりエリック・スタージェス(南アフリカ)との準決勝に進出する。2年後の1950年、全米学生テニス選手権のシングルス・ダブルスで優勝した後、フラムは全米選手権男子シングルスで決勝進出を果たした。ユダヤ人の選手が全米選手権の決勝に進出したのは、大会史上初の出来事であった。当時22歳のフラムは、準々決勝でビル・タルバート、準決勝でガードナー・ムロイを破り、当時のアメリカを代表する強豪選手たちを次々に破って勝ち進んだが、決勝戦ではアーサー・ラーセンに 3-6, 6-4, 7-5, 4-6, 3-6 で敗れ、この大会の準優勝者になった。 翌1951年のウィンブルドン選手権でも、フラムは初出場でベスト4に進出した。準々決勝で第1シードのフランク・セッジマンを破る勝利を挙げたが、続く準決勝でアメリカの同僚選手ディック・サビットに敗れて決勝進出を逃す。ウィンブルドン選手権の後、フラムは初めて男子テニス国別対抗戦・デビスカップのアメリカ代表選手に選ばれた。彼のデ杯初出場は、対日本戦のシングルス第2試合で、フラムは日本代表の隈丸次郎を 7-5, 6-0, 7-5 で圧倒した。 終戦後デ杯に復帰したばかりの日本チームは、米国代表選手のフラム、サビット、ビル・タルバート、トニー・トラバートに全く歯が立たなかった。1952年はウィンブルドン選手権で2年連続の準決勝に進出したが、今度は第2シードのヤロスラフ・ドロブニー(当時エジプト国籍)に 2-6, 4-6, 6-0, 10-8, 4-6 で敗れた。 この後、フラムは1953年と1954年の2年間アメリカ海軍に勤務し、その間テニス経歴が中断した。1955年にテニス界に戻り、全仏選手権で初めてのベスト8に入る。1956年は、唯一の出場となった全豪選手権でベスト4入りがあった。1957年の全仏選手権で、ハーバート・フラムは1950年全米選手権以来7年ぶり2度目の4大大会決勝に進出する。相手はスウェーデンのスベン・デビッドソンであったが、フラムはデビッドソンに 3-6, 4-6, 4-6 のストレートで完敗し、4大大会の男子シングルスで2度の準優勝に終わった。(デビッドソンはこの全仏優勝により、スウェーデン人のテニス選手として最初の4大大会シングルス優勝者になった。)全仏準優勝の後、フラムはウィンブルドン選手権で5年ぶり3度目のベスト8、全米選手権で7年ぶり3度目のベスト4に入ったが、両方ともアシュレー・クーパー(オーストラリア)に連敗し、さらなる上位進出のチャンスを逃した。1958年全米選手権の準々決勝でウルフ・シュミット(スウェーデン)に敗れた試合を最後に、フラムはテニス界から引退する。彼は優れたデビスカップ代表選手として、通算「12勝2敗」(シングルス10勝2敗、ダブルス2勝0敗)の成績を残した。 選手引退後のハーバート・フラムはテニス界から離れて静かな生活を送り、1980年11月25日にカリフォルニア州ロサンゼルスにて52歳で死去した。1987年にフラムの「全米大学テニス協会殿堂」(ITA Men's Collegiate Tennis Hall of Fame: ITA.

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バド・コリンズ

バド・コリンズ バド・コリンズ(Bud Collins, 1929年6月17日 - 2016年3月4日 )は、アメリカ・オハイオ州ライマ出身のスポーツジャーナリスト。本名は Arthur Worth Collins Jr. (アーサー・ワース・コリンズ・ジュニア)というが、「バド・コリンズ」の呼び名で最もよく知られる。これまで半世紀にわたり、世界的に最も著名なテニス記事編集者・解説者として活動してきた。彼の著述活動は膨大な量にのぼり、テニス文献執筆者として高い信頼を集め、とりわけ「バド・コリンズのテニス百科事典」はこれまでに5版の増補改訂を重ねている。その膨大な見識から「歩くテニス百科事典」と呼ばれることがある。 オハイオ州ライマの地に生まれたコリンズは、同州のベリアにある私立のボールドウィン・ウォレス大学を卒業し、その後アメリカ陸軍勤務を経て、1954年からボストン大学大学院に通った。この頃から彼はボストンに活動の拠点を置き、間もなく「ボストン・ヘラルド」紙でスポーツ記者の仕事についた。1963年からはボストン・グローブ紙に移り、現在もこの新聞でスポーツ記事を書き続けている。それからテレビ解説にも活動の場を広げ、1968年から1972年までCBSの全米オープンテニス中継を担当した後、NBCテレビでウィンブルドン選手権などの実況中継に携わってきた。イギリス・ロンドンのインデペンデント紙など、世界各地の新聞やテニス雑誌にも多数の記事を寄稿している。 彼の代表的な著書である「テニス百科事典」は、1980年に初版が刊行され、現在までに5版の増補改訂を経ている。1994年、コリンズは「ジャーナリスト」部門で国際テニス殿堂入りを果たした。国際テニス殿堂内にある選手評伝は(彼自身のプロフィールを除いて)コリンズの百科事典に基づいたものである。.

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メルビン・ローズ

メルビン・ローズ(Mervyn Rose, 1930年1月23日 - 2017年7月23日)は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州コフスハーバー出身の男子テニス選手。1950年代に活躍し、オーストラリア・テニス界の黄金時代を築いた名選手のひとりである。彼は4大大会男子シングルスで1954年全豪選手権、1958年全仏選手権の2勝を挙げ、男子ダブルス4勝・混合ダブルス2勝と合わせて7つのグランドスラム・タイトルを獲得した。彼のテニスは、基本的にはサーブ・アンド・ボレーのスタイルで、ボールのタッチを駆使する戦術家として知られた。左利きの選手。フルネームは Mervyn Gordon Rose (メルビン・ゴードン・ローズ)というが、“Rosie”(ロージー)という愛称で呼ばれた。.

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モーリーン・コノリー

モーリーン・キャサリン・コノリー・ブリンカー(Maureen Catherine Connolly Brinker, 1934年9月17日 - 1969年6月21日)は、アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ出身の女子テニス選手。 1953年に女子テニス史上初の年間グランドスラムを達成した選手である。身長160cmほどしかない小柄な体格だったことから、“Little Mo”(リトル・モー)という愛称で呼ばれた。プレー・スタイルは典型的なベースライン・プレーヤーで、試合中にネットに出ることは少なかったという。.

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ルー・ホード

ルー・ホード(Lew Hoad, 1934年11月23日 - 1994年7月3日)は、オーストラリア・シドニー出身の男子テニス選手。主に1950年代に活躍し、4大大会で男子シングルス4勝・男子ダブルス8勝・混合ダブルス1勝を挙げ、通算「13勝」を獲得した。フルネームは Lewis Alan Hoad (ルイス・アラン・ホード)という。.

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ルイーズ・ブラフ

アリシア・ルイーズ・ブラフ・クラップ(Althea Louise Brough Clapp, 1923年3月11日 - 2014年2月3日)は、アメリカ・オクラホマ州オクラホマシティ出身の女子テニス選手。1940年代から1950年代にかけて活躍し、4大大会で生涯通算「35勝」(女子シングルス6勝・女子ダブルス21勝・混合ダブルス8勝)を挙げた。とりわけ、1948年と1950年の2度ウィンブルドン選手権で女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門完全制覇(ハットトリック)を達成した選手として、テニスの歴史に名前を残した選手である。.

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ボストン

ボストン(Boston、)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州北東部サフォーク郡にある世界都市。同州最大の都市かつ州都であり、同郡の郡庁所在地でもある。アメリカで最も歴史の古い街の一つであり、「ニューイングランドの首都」と言われることもある。2017年の調査によると、世界9位の金融センターであり、かつてのボストン金融街の名を冠するステート・ストリート、それからミューチュアル・ファンド大手のフィデリティ・インベストメンツの本社が立地する。.

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ビル・タルバート

ビル・タルバート(Bill Talbert, 1918年9月4日 - 1999年2月28日)は、アメリカ・オハイオ州シンシナティ出身の男子テニス選手。フルネームは William Franklin Talbert (ウィリアム・フランクリン・タルバート)という。キャリアを通じてダブルスに優れ、全米選手権で男子ダブルス4勝と混合ダブルス4連覇を達成し、全仏選手権でも1950年に男子ダブルス優勝を記録した。シングルスでは1944年と1945年の2年連続で、全米選手権の男子シングルス準優勝があり、2年連続でフランク・パーカーに連敗した。彼は糖尿病を克服してテニス経歴を築いたことでも知られ、生涯中に4冊の著書を残し、後年は「全米オープンテニス」の競技運営委員長として活動した。右利きの選手。.

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ビック・セイシャス

ビック・セイシャス(Vic Seixas, 1923年8月30日 - )は、アメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィア出身の男子テニス選手。本名は Elias Victor Seixas Jr.

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テルマ・コイン・ロング

テルマ・コイン・ロング(Thelma Coyne Long, 1918年10月14日 - 2015年4月13日)は、オーストラリア・シドニー市出身の女子テニス選手。1936年から1958年まで22年間の長きにわたり、全豪選手権でトップレベルを維持し、全豪選手権で通算「18勝」(女子シングルス2勝+女子ダブルス12勝+混合ダブルス4勝=総計18勝)を記録した名選手である。全仏選手権でも1956年に混合ダブルス優勝があり、キャリア通算で19個のグランドスラム・タイトルを獲得した。とりわけ、全豪選手権の女子ダブルスでナンシー・ウィン・ボルトンと組んで傑出した成績を挙げ、彼女とのペアで「12大会」連続決勝進出の記録を残している。フルネームは Thelma Dorothy Coyne Long (テルマ・ドロシー・コイン・ロング)という。旧姓「テルマ・コイン」(Thelma Coyne)という名前であったが、戦時中に結婚して「テルマ・コイン・ロング」と2つの姓を名乗った。夫の姓だけで「テルマ・ロング」(Thelma Long)と呼ばれることも多い。.

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ディック・サビット

リチャード・"ディック"・サビット(Richard "Dick" Savitt, 1927年3月4日 - )は、アメリカ・ニュージャージー州ベイヨン出身の男子テニス選手。コーネル大学卒業。 1951年に全豪選手権とウィンブルドン選手権の男子シングルスで優勝し、4大大会年間2冠を獲得した選手である。全豪選手権では、第2次世界大戦終戦後最初の外国人優勝者になり、ウィンブルドン選手権ではユダヤ人選手として最初の優勝者になった。男子ダブルスでは、1951年と1952年の2年連続で全仏選手権準優勝がある。彼のテニスは、バックハンド・ストロークのオーバースピン(ボールに回転を多くかけること)を駆使し、重厚で正確なグラウンド・ストロークを最大の武器にした。右利きの選手。.

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フランク・セッジマン

フランク・セッジマン(Frank Sedgman, 1927年10月29日 - )は、オーストラリア・ビクトリア州モントアルバート出身の男子テニス選手。フルネームは Frank Allan Sedgman (フランク・アラン・セッジマン)という。1950年代初頭の男子テニス界に君臨し、オーストラリア・テニス界の黄金時代の最初期を築いた名選手である。セッジマンは4大大会で総計「22勝」(男子シングルス5勝+男子ダブルス9勝+混合ダブルス8勝=22勝)を記録し、1951年に2歳年下のケン・マグレガーと組んでテニス史上初の男子ダブルス部門「年間グランドスラム」を達成した。混合ダブルス部門でもすべての4大大会を制覇した「キャリア・グランドスラム」達成者であり、彼が獲得できなかったタイトルは全仏選手権の男子シングルスだけである。セッジマンのテニスは、重厚なフォアハンド・ストロークや、スピード感にあふれた華麗なボレーを大きな持ち味とした。.

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ドリス・ハート

ドリス・ハート(Doris Hart, 1925年6月20日 - 2015年5月29日)は、アメリカ・ミズーリ州セントルイス出身の女子テニス選手。第2次世界大戦の終戦直後の時代に活躍し、1940年代後半から1950年代前半にかけて、テニス4大大会の女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門すべてに「キャリア・グランドスラム」を達成した名選手である。女子シングルスで総計6勝、女子ダブルスで総計14勝、混合ダブルスで総計15勝を挙げ、生涯で「35」のグランドスラム・タイトルを獲得した。幼少期に患った足の病気をものともせず、頭脳的で安定したオールラウンド・プレーヤーとして一世代をリードした。フルネームは Doris Jane Hart (ドリス・ジェーン・ハート)という。.

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ニューヨーク

ニューヨーク市(New York City)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州にある都市。 1790年以来、同国最大の都市であり、市域人口は800万人を超え、都市圏人口では定義にもよるが2000万人以上である.

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アメリカ合衆国

アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、)、通称アメリカ、米国(べいこく)は、50の州および連邦区から成る連邦共和国である。アメリカ本土の48州およびワシントンD.C.は、カナダとメキシコの間の北アメリカ中央に位置する。アラスカ州は北アメリカ北西部の角に位置し、東ではカナダと、西ではベーリング海峡をはさんでロシアと国境を接している。ハワイ州は中部太平洋における島嶼群である。同国は、太平洋およびカリブに5つの有人の海外領土および9つの無人の海外領土を有する。985万平方キロメートル (km2) の総面積は世界第3位または第4位、3億1千7百万人の人口は世界第3位である。同国は世界で最も民族的に多様かつ多文化な国の1つであり、これは多くの国からの大規模な移住の産物とされているAdams, J.Q.;Strother-Adams, Pearlie (2001).

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アンジェラ・モーティマー

フローレンス・アンジェラ・マーガレット・モーティマー・バレット(Florence Angela Margaret Mortimer Barrett, 1932年4月21日 - )は、イングランド・プリマス出身の女子テニス選手。1950年代後半から1960年代初頭にかけて活躍し、4大大会女子シングルス「3勝」を挙げた選手である。彼女の活躍した時代は、しばらく4大大会でイギリス人の女子優勝者が途絶えていたため、モーティマーの優勝記録には「イギリス人女子選手として…年ぶり」のものが多い。.

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アーサー・ラーセン

アーサー・"アート"・デビッド・ラーセン(Arthur "Art" David Larsen, 1925年4月17日 - 2012年12月7日)は、アメリカ・カリフォルニア州ヘイワード出身の男子テニス選手。1950年の全米選手権男子シングルス優勝者で、1954年の全仏選手権準優勝もある。左利きの選手で、第2次世界大戦後の全米選手権男子シングルスで初の左利き優勝者になった。ラーセンのテニスは、ボールの繊細なタッチに大きな特徴があった。彼は周囲にあるものを“ポンポンと音を立てて触る”(英語:tap)癖があったことから、“Tappy”(タピー)というニックネームで呼ばれた。「アート・ラーセン」(Art Larsen)の名前で文献に記載されることも多い。.

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ガードナー・ムロイ

ードナー・ムロイ(Gardnar Mulloy, 1913年11月22日 - 2016年11月14日)は、アメリカ・ワシントンD.C.出身の男子テニス選手。1952年の全米選手権男子シングルス準優勝者で、1940年代から1950年代にかけて、アメリカを代表するダブルスの名手として活躍した。全米選手権では1940年から1957年までの間に「9度」男子ダブルス決勝に進出し、そのうち4度優勝した。ウィンブルドン選手権では、1957年の男子ダブルスでバッジ・パティーとともにテニス史上に残る年長ペアを組んで優勝している。フルネームは Gardnar Putnam Mulloy (ガードナー・プットナム・ムロイ)といい、“Gar”(ガー)という愛称で呼ばれた。.

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クルト・ニールセン

ルト・ニールセン(Kurt Nielsen, 1930年11月19日 - 2011年6月11日)は、デンマーク・コペンハーゲン出身の男子テニス選手。1953年と1955年の2度ウィンブルドン選手権の男子シングルス準優勝があり、1957年の全米選手権混合ダブルス部門でアリシア・ギブソンとペアを組んで優勝した。男子テニス国別対抗戦・デビスカップのデンマーク代表選手としても、1948年から1960年まで13年連続で出場し、デンマーク・チームの歴代1位記録「53勝43敗」(シングルス42勝23敗、ダブルス11勝20敗)をマークした選手である。.

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クイーンズ区

イーンズ区(Queens、)は、ニューヨーク市に置かれた行政上の5つの区の一つ。ニューヨーク州のクイーンズ郡 (Queens County) の郡域もクイーンズ区と同じである。 ニューヨーク市内で最も東に位置しており、ブルックリン区とともにロングアイランドの西部を形成している、南はブルックリン区、東はナッソー郡と接しており、イースト川を挟んで西はマンハッタン区、北はブロンクス区と隣接している。 クイーンズは5つの区のうちで最も面積が広く、人口はブルックリンに次いで2番目である。数多くの移民の居住地となっており、クイーンズ郡はアメリカで最も多様な人々が住む郡であり、世界で最も民族的多様性に富む都市地域である。.

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グランドスラム (テニス)

ランドスラム(Grand Slam)とは、国際テニス連盟が定めた4大大会を指す総称、またはそれら全てを制覇する事である。後者はコントラクトブリッジの用語で完全制覇を意味する語に由来する。.

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ケン・マグレガー

ン・マグレガー(Ken McGregor, 1929年6月2日 - 2007年12月1日)は、オーストラリア・アデレード出身の男子テニス選手。フルネームは Kenneth Bruce McGregor (ケネス・ブルース・マグレガー)という。1950年代初頭にオーストラリア・テニス界の黄金時代の最初期を築いた選手のひとりで、1951年に2歳年上のフランク・セッジマンとペアを組み、テニス史上初の男子ダブルス部門「年間グランドスラム」を達成した。男子シングルスでは1952年の全豪選手権で優勝したが、1950年・1951年の全豪選手権と1951年のウィンブルドン選手権で準優勝に終わった。彼はもともとオーストラリアン・フットボールの選手で、そこからテニスに転向した人であり、長身から繰り出す攻撃的なサーブ・アンド・ボレーを最大の武器にした。右利きの選手。.

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ケン・ローズウォール

ン・ローズウォール(Ken Rosewall, 1934年11月2日 - )は、オーストラリア・シドニー出身の男子テニス選手。フルネームは Kenneth Robert Rosewall (ケネス・ロバート・ローズウォール)という。小柄で軽量な体躯から皮肉を込めて“Muscles”(筋肉男)というニックネームで呼ばれたが、素早い攻撃やボレーを武器として強豪たちと渡り合った。グランドスラム優勝8回は歴代9位タイ記録。プロスラム優勝15回は歴代1位記録。グランドスラム・プロスラム合計優勝23回も歴代1位記録である。.

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シャーリー・フライ

ャーリー・フライ(Shirley Fry, 1927年6月30日 - )は、アメリカ・オハイオ州アクロン出身の女子テニス選手。女子テニス界で、史上3人目の「キャリア・グランドスラム」を達成した選手である。フライと同世代のアメリカ人女子選手には、女子テニス史上最初の「年間グランドスラム」を達成したモーリーン・コノリーや、女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門すべてに「キャリア・グランドスラム」を達成したドリス・ハートなどの強豪選手がいたため、フライ自身の優勝回数は比較的少ない。しかし、すべての4大大会で女子シングルスに1勝ずつを挙げ、女子ダブルスではハートとのペアで数多くの優勝を達成した。フルネームは Shirley June Fry Irvin (シャーリー・ジューン・フライ・アービン)という。.

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全米オープン (テニス)

全米オープン(英語:US Open)は、アメリカ・ニューヨーク市郊外にあるフラッシング・メドウのUSTAナショナル・テニス・センターを会場として、毎年8月の最終月曜日から2週間の日程で行われる4大国際大会の一つである。観客動員数や賞金総額はテニス競技大会で最大である。主催および運営は全米テニス協会(USTA)。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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1881年全米選手権 (テニス)

1881年に行われた、第1回 全米選手権に関する記事。アメリカ・ロードアイランド州ニューポート・カジノにて開催。.

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1921年全米選手権 (テニス)

1921年 全米選手権に関する記事。.

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1924年全米選手権 (テニス)

1924年 全米選手権に関する記事。.

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1942年全米選手権 (テニス)

1942年 全米選手権に関する記事。.

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1946年全米選手権 (テニス)

1946年 全米選手権に関する記事。.

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1951年全米選手権 (テニス)

1951年 全米選手権に関する記事。.

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1952年

この項目では、国際的な視点に基づいた1952年について記載する。.

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1952年ウィンブルドン選手権

1952年 ウィンブルドン選手権(The Championships, Wimbledon 1952)に関する記事。イギリス・ロンドン郊外にある「オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ」にて開催。.

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1953年

記載なし。

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1953年オーストラリア選手権 (テニス)

1953年 オーストラリア選手権(1953 Australian Championships)に関する記事。オーストラリア・メルボルン市内にある「クーヨン・テニスクラブ」にて開催。.

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1953年全米選手権 (テニス)

1953年 全米選手権に関する記事。.

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1967年全米選手権 (テニス)

1967年 全米選手権に関する記事。.

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1977年全米オープン (テニス)

1977年 全米オープン(US Open 1977)は、アメリカ・ニューヨーク市クイーンズ区フォレストヒルズにある「ウエストサイド・テニスクラブ」にて、1977年8月31日から9月11日にかけて開催された。.

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