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1101年の十字軍

索引 1101年の十字軍

1101年当時のアナトリア半島西部。1101年の十字軍の経路を矢印で示す 1101年の十字軍(せんひゃくいちねんのじゅうじぐん、英語:Crusade of 1101)とは、1100年から1101年にかけて聖地へ向かった十字軍のこと。第1回十字軍がエルサレムをはじめとするレバント地域沿岸部の占領に成功したことから、その熱狂の中で組織された。またこの十字軍は第1回十字軍に参加したものの中途で帰ってきた者が多く参加したことから、臆病者の十字軍(小心者の十字軍、英語:Crusade of the Faint-Hearted)とも呼ばれる。3つの集団としてヨーロッパを出発したが、ルーム・セルジューク朝により個別撃破され、聖地にたどり着いたのはごくわずかであった。.

94 関係: 十字軍十字軍国家南イタリア天国巡礼復活祭ペチェネグミラノチャンクルハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)バーリバイエルン大公メリテネの戦いユーグ1世 (ヴェルマンドワ伯)ヨーロッパラムラライオンリュジニャンリドワーンルーム・セルジューク朝レバントレーモン4世 (トゥールーズ伯)レオポルト3世 (オーストリア辺境伯)ロンバルディア州ヴェルフ1世 (バイエルン公)ヌヴェールボードゥアン1世 (エルサレム王)ボエモン1世 (アンティオキア公)ボスポラス海峡トリポリ伯国ブルゴーニュブルゴーニュ伯ブルゴーニュ公一覧パスカリス2世 (ローマ教皇)テュルク系民族フランス人ファーティマ朝ドイツ人ダニシュメンド朝アナトリア半島アマスィヤ県アレッポアレクシオス1世コムネノスアンティオキア公国アンティオキア攻囲戦アンカラアデル・ド・ノルマンディーアドリア海アスカロンの戦いイングランド君主一覧...イエス・キリストイスラム世界イズミットイタリアウード1世 (ブルゴーニュ公)ウィリアム1世 (イングランド王)エルサレムエルサレム王国エティエンヌ2世 (ブロワ伯)エデッサ伯国エスキシェヒルオーストリア君主一覧カスタモヌキプロス王国傭兵ギヨーム9世 (アキテーヌ公)ギー・ド・リュジニャンクルチ・アルスラーン1世コンヤコンヤ県コンスタンティノープルザンギーシリア・セルジューク朝ジェノヴァ共和国スティーブン (イングランド王)スィノプタルトゥースタルススタンクレード (ガリラヤ公)神聖ローマ皇帝第1回十字軍第2回十字軍第3回十字軍聖地騎兵黒海東ローマ帝国教皇10月18日1100年1101年1102年1118年6月23日 インデックスを展開 (44 もっと) »

十字軍

1回十字軍によるアンティオキア攻囲戦 十字軍(じゅうじぐん、cruciata、crusade)とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。 一般には、上記のキリスト教による対イスラーム遠征軍を指すが、キリスト教の異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)などにも十字軍の名称は使われている。 実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当て嵌まるものではなく、中東に既にあった諸教会(正教会・東方諸教会)の教区が否定されてカトリック教会の教区が各十字軍の侵攻後に設置されたほか、第4回十字軍や北方十字軍などでは、正教会も敵として遠征の対象となっている。また、目的地も必ずしもエルサレム周辺であるとは限らず、第4回以降はイスラム最大勢力であるエジプトを目的とするものが多くなり、最後の十字軍とされることもある第8回の十字軍は北アフリカのチュニスを目的としている。.

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十字軍国家

1100年ごろの十字軍国家群 十字軍国家(じゅうじぐんこっか)は、正教会とイスラム教が大勢を占めていた11世紀末の東部地中海のシリア・パレスチナ沿岸に、西欧のカトリック国家の騎士や庶民たちが十字軍を編成して攻め込んだ結果、12世紀から13世紀の間成立していた封建制国家群である。.

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南イタリア

南イタリア8州(サルデーニャが入っている) 南イタリア(みなみイタリア)は、イタリアの南部地域の呼称。メッツォジョールノ(Mezzogiorno:イタリア語で正午の意味)という俗称もあり、これは統一の英雄であるジュゼッペ・ガリバルディによって広められた。.

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天国

天国(てんごく、heaven)とは、.

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巡礼

巡礼(じゅんれい、pilgrimage)とは、 日常的な生活空間を一時的に離れて、宗教の聖地や聖域に参詣し、聖なるものにより接近しようとする宗教的行動のことスーパーニッポニカ「巡礼」星野英紀 執筆。.

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復活祭

復活祭(ふっかつさい、Πάσχα、Pascha、Pâques、Easter、Ostern、Пасха)は、十字架にかけられて死んだイエス・キリストが三日目に復活したことを記念・記憶する、キリスト教において最も重要な祭正教会の出典:()カトリック教会の出典:(カトリック中央協議会)聖公会の出典:(日本聖公会 東京教区 主教 植田仁太郎)プロテスタントの出典:『キリスト教大事典』910頁、教文館、昭和48年9月30日 改訂新版第二版(正教会:教会用語辞典)(カトリック百科事典)。 多くの教会で特別な礼拝(典礼・奉神礼)が行われるほか、様々な習慣・習俗・行事がある。 正教会ではギリシャ語から「パスハ」とも呼ぶ「パスハ」表記の大本はギリシア語である。Πάσχαは、古典ギリシア語再建からは「パスカ」と転写し得るが、現代ギリシア語では「パスハ」。新約時代以降のギリシア語の発音はアクセントやイ音化、各種子音の発音等、かなり現代ギリシア語に近くなっていた。正教が優勢な地域におけるスラヴ系言語、ルーマニア語等における、ギリシア語に由来する教会関連の語彙の発音は、中世以降のギリシア語発音に則っている。。カトリック教会では「復活の主日」(カトリック中央協議会)とも呼ばれ、聖公会、プロテスタントなどでは「復活日」(ふっかつび)「祭」の表記が教会暦において頻繁に使われる教会(正教、カトリックなど)では「復活祭」の表記が使われ、「祭」と位置づけられ呼ばれるが、「祭」の表記が比較的もしくはあまり使われない教会(聖公会、プロテスタントなど)では「復活日」という表記が一般的であり、「祝日」といった説明がなされる。プロテスタントの参照元である『キリスト教大事典』でも項目名は「復活日」となっていて、その説明冒頭において「祝日」としており「祭」とは書かれて居ない。や、英語から「イースター」とも呼ぶ。「復活節」(ふっかつせつ)は、西方教会において復活祭からの一定期間を指す用法の他、プロテスタントの一部で復活祭(復活日)当日を指す用法がある。 基本的に「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われるため、年によって日付が変わる移動祝日である。日付は変わるものの、必ず日曜日に祝われる。キリスト教が優勢な国においてはその翌日の月曜日も休日にされていることがある。欧州における主要株式・債券市場は、復活祭の前の聖金曜日、復活祭後の月曜日に休場する。 東方教会と西方教会とでは日付の算定方法が異なるため、日付が重なる年もあるものの、日付が異なる年の方が多い春分の日の扱いが異なること、正教会では復活祭をユダヤ教の過越とともに祝わないという古い規定をそのまま守っていること、これら二つの違いが東西教会間にある。。.

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ペチェネグ

ペチェネグとその周辺国。 ペチェネグ(英:Pechenegs)は、8世紀から9世紀にかけてカスピ海北の草原から黒海北の草原(キプチャク草原)で形成された遊牧民の部族同盟。9世紀末に遊牧民のハザール人とオグズ人の圧迫によって黒海北岸の草原に移住し、そこからフィン・ウゴル系の遊牧民マジャル人(後のハンガリー人)、ならびにスラヴ系の農耕民ウールィチ人,ティーヴェルツィ人を追い出した。10世紀を通じてキエフ・ルーシ,ブルガリア,ハンガリー王国,ビザンツ帝国などの隣国と抗争を繰り広げた。11世紀末に、遊牧民のポロヴェツ(クマン、キプチャク)に圧迫されてドナウ川を越え、ビザンツ帝国領内へ移住した。残った人々は、ポロヴェツに同化した。 ペチェネグ人の系統に最も近い現存する民族はガガウズ人である。.

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ミラノ

ミラノ(Milano)は、イタリアで最大の都市圏人口を擁する都市で、ミラノ県の県都およびロンバルディア州の州都である。ヨーロッパ有数の世界都市。イタリア語のアクセントの関係でミラーノと記されることもある。英語ではミラン(Milan)、フランス語ではミラン(Milan)、ドイツ語ではマイラント(Mailand)、スペイン語ではミラン(Milán)、ラテン語ではメディオラーヌム(Mediolanum)と言う。.

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チャンクル

チャンクル(Çankırı)は、トルコ中央アナトリア地方チャンクル県の都市で同県の県都。 ギリシア・ローマ時代は、 最初は"Gangra"の名前で、後にゲルマニコポリス (Germanicopolis) の名前で知られていた。プトレマイオス朝では当初、ゲルマノポリス (Germanopolis) と呼ばれており、"Changra"、"Kandari"、"Kanghari"などとも呼ばれていた。 ヒッタイト、ペルシア人、古代ギリシア人、パルティア人、ローマ人、ビザンチン、セルジュク、オスマンなど、様々な文化や人種による支配を受け、街の至るところで古くからの史跡が見られる。.

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ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)

ハインリヒ4世(Heinrich IV., 1050年11月11日 - 1106年8月7日)はローマ王(在位:1053年 - 1106年)及びイタリア王(在位:1080年 - 1106年)、並びに中世西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:1084年 - 1106年)。ザーリアー朝第3代皇帝で、第2代皇帝ハインリヒ3世(黒王)の子。フランケン公(在位:1056年 - 1076年)、バイエルン公でもあった(在位:1077年 - 1096年)。帝国の統治機構にも関わる聖職叙任権の問題を巡って教皇グレゴリウス7世と激しく対立、ローマから教皇を追いやったもののローマ皇帝が持つ神権の失墜は避けられないものとなった。ローマ皇帝としてはハインリヒ「3世」であるが、皇帝ではない東フランク王ハインリヒ1世から数えて「4世」とするのが一般的である。.

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バーリ

バーリ(Bari)は、イタリア共和国南部の都市で、その周辺地域を含む人口約32万人の基礎自治体(コムーネ)。プッリャ州の州都であり、バーリ県の県都である。 アドリア海に面した港湾都市であり、東地中海の国々と広範囲な貿易をおこなう商業の一大中心地である。サンタクロースのもととなった聖人ニコラオス(聖ニコラ)ゆかりの地として巡礼地ともなっている。.

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バイエルン大公

バイエルン大公(バイエルンたいこう)は、中世ドイツの部族大公。ドイツ南東部からオーストリアにかけてのバイエルン公国を支配した。 「大公」とはドイツ語Herzogの訳語であるが、ドイツ史においては中世の研究では「大公」、初期近代以降の研究では「公」という訳語が用いられるのが通常である。特にはっきりした境界があるわけではないが、以下では便宜上ヴィッテルスバッハ家がバイエルン公位を独占するようになる1180年以降に限ってバイエルン公という用語を使うことにする。また、1623年以降バイエルン公は選帝権を保持したためバイエルン選帝侯と呼ばれる。.

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メリテネの戦い

メリテネの戦い(メリテネのたたかい、Battle of Melitene)は1100年、アンティオキア公ボエモン1世率いる十字軍勢力がアナトリア半島東部のマラティヤ(ラテン語名メリテネ)で率いるダニシュメンド朝トルコ人に敗れた戦闘。.

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ユーグ1世 (ヴェルマンドワ伯)

ユーグ1世(Hugues Ier de Vermandois, 1053年 - 1101年10月18日)は、フランス王アンリ1世とアンヌ・ド・キエフの息子で、フィリップ1世の弟。カペー家支流の1つヴェルマンドワ家の祖である。ユーグ・ル・グラン(Hugues le Grand)、ユーグ・マニュス(Hugues Magnus)とも呼ばれる。.

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ヨーロッパ

ヨーロッパ日本語の「ヨーロッパ」の直接の原語は、『広辞苑』第5版「ヨーロッパ」によるとポルトガル語・オランダ語、『デジタル大辞泉』goo辞書版「」によるとポルトガル語。(、)又は欧州は、地球上の七つの大州の一つ。漢字表記は欧羅巴。 地理的には、ユーラシア大陸北西の半島部を包括し、ウラル山脈およびコーカサス山脈の分水嶺とウラル川・カスピ海・黒海、そして黒海とエーゲ海を繋ぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡が、アジアと区分される東の境界となる増田 (1967)、pp.38–39、Ⅲ.地理的にみたヨーロッパの構造 ヨーロッパの地理的範囲 "Europe" (pp. 68-9); "Asia" (pp. 90-1): "A commonly accepted division between Asia and Europe...

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ラムラ

ラムラ(、, Ramlāh)は、イスラエル中央地区の都市である。.

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ライオン

ライオン(Panthera leo) は、食肉目ネコ科ヒョウ属に分類される食肉類。 別名はシシ(獅子)。オスであれば体重は250キログラムを超えることもあり、ネコ科ではトラに次いで2番目に大きな種である。現在の主な生息地はサブサハラであるが、インドのジル国立公園のインドライオンは絶滅が危惧されている。北アフリカや西南アジアでは有史時代に姿を消している。更新世末期、約1万年前までライオンはヒトに次いで広く分布する大型陸上哺乳類だった。そのころよく見られた地域は順に、アフリカ、西ヨーロッパからインドにかけてのユーラシア、ユーコンからペルーまでのアメリカである。 飼育個体は20年以上生きることもあるが、野生のライオンの寿命はより短く、特にオスが10年以上生きることは稀である。縄張りをめぐって他のオスと常に争うために傷を負い、それが寿命を大きく縮める原因となる。典型的な生息地はサバンナや草原であるが、茂みや森などに棲む場合もある。ライオンは他のネコ科の動物にはあまり見られない社会性を持っている。メスと子ライオン、そして少数の成熟したオスがプライド(群れ)を形成する。狩りの特徴はメスの集団が連係することであり、おもに大型の有蹄類を襲う。ライオンは捕食者の頂点でありまた象徴的な存在であるが、屍肉も漁ることもある。賢く、性質が、他のネコ科よりも比較的穏和なため、ライオンがヒトを襲うことはほとんどないが、ライオンによる犠牲者がいることは知られている。 ライオンは危急種である。アフリカではこの20年間で30-50パーセントまで頭数が減っており、おそらく回復しないだろうとされている。保護区や国立公園に指定された地以外では生息が難しくなっている Database entry includes a lengthy justification of why this species is vulnerable.

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リュジニャン

リュジニャン (Lusignan)は、フランス、ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏、ヴィエンヌ県のコミューン。ポワティエの南西約25kmのところにある。.

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リドワーン

リドワーン(? - 1113年12月10日)は、シリア・セルジューク朝のアレッポ政権の初代スルタン(在位:1095年 - 1113年)。.

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ルーム・セルジューク朝

ルーム・セルジューク朝(ルーム・セルジュークちょう、Rûm sultanate, Saljūqiyān-i Rūm سلجوقیان روم, 1077年 - 1308年)は、セルジューク朝(大セルジューク朝)の地方政権として分裂して誕生しアナトリア地方を中心に支配したテュルク人の王朝。当初、首都はニカイア(現在のイズニク)に定められていたが、1097年に第1回十字軍によってニカイアが占領されたため、再びコンヤを都とした。「ルーム」とは「ローマ」の意味で、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)領であったアナトリアの地を指す言葉としてイスラム教徒の間で用いられ、アナトリアを拠点としたことからルーム・セルジューク朝という。.

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レバント

レバントまたはレヴァント(Levant)とは、東部地中海沿岸地方の歴史的な名称。厳密な定義はないが、広義にはトルコ、シリア、レバノン、イスラエル、エジプトを含む地域。現代ではやや狭く、シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエル(およびパレスチナ自治区)を含む地域(歴史的シリア)を指すことが多い。歴史学では、先史時代・古代・中世にかけてのこれらの地域を指す。 レヴァントは英語の発音だが、もとはフランス語のルヴァン (Levant) で、「(太陽が)上る」を意味する動詞「lever」の現在分詞「levant」の固有名詞化である。.

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レーモン4世 (トゥールーズ伯)

トゥールーズ伯レーモン4世、19世紀の絵画より レーモン4世(, 1052年頃 - 1105年)は、トゥールーズ伯、プロヴァンス辺境伯で第1回十字軍の主要な指導者の1人。エルサレム占領後、トリポリ伯領の基盤を創設した。10代でサン=ジル伯を継承したため、レーモン・ド・サン=ジル(Raymond de Saint-Gilles)とも。隻眼だったと言われている。 レーモンはトゥールーズ伯ギヨーム4世の弟であったが、ギヨーム4世が娘(アキテーヌ公ギヨーム9世の妃)を後継者に指名して亡くなった時、簒奪してトゥールーズ伯となった。このため、しばしば伯位を主張するアキテーヌ公の攻撃を受けた。 3度結婚しているが、最初の2回は近親婚として無効とされており、それを理由に2度破門を受けている。このため、最初の妻との子である長子ベルトランは庶子と見なされることが多い。 十字軍以前にもスペインでイスラム教徒と戦っており、第1回十字軍の勧誘においても諸侯の中で真っ先に参加を誓ったと言われる。年齢的にも最年長であり、南仏諸侯のリーダーと見なされた。コンスタンティノープルでは東ローマ皇帝に臣従を誓わず、むしろ友人としてボエモンに対する同盟を組んだと言われる。 1097年のアンティオキア攻囲戦では、配下のペトルス・バルトロメオという人物が聖槍を発見したとして、大いに十字軍の士気を揚げている。 アンティオキア攻略後、市内に兵を駐留させていたが、アンティオキア領有を主張するボエモンに追い出されてしまう。同じ南仏出身であった教皇使節アデマールがアンティオキア陥落直後に死んだ後は、ボエモンとの対立を仲裁をする者もなくなり、ますます確執が深まる。レーモンはボエモンの領土拡張を妨げるために、独自の領土としてトリポリの所有を望んだが、兵達はエルサレム進撃を望んだため、一次中断し、ゴドフロワらと共にエルサレムを攻略した。 当初、彼がエルサレム王に推戴されたが、キリストが磔になった地で王と呼ばれたくないとしてこれを断った。このためゴドフロワが王に選ばれたが、ゴドフロワもまた王と呼ばれることを嫌い、聖墓守護者と称した。その後、アスカロンの戦いに加わったが、アスカロン占領をめぐってゴドフロワと争ったため、これを攻略することができなかった。このため、十字軍と決別してコンスタンティノープルに滞在した。ここで1101年の十字軍と合流したが、アナトリアで敗れている。再びコンスタンティノープルに戻り、皇帝アレクシオス1世コムネノスの援助を受けてトリポリ攻略を目指したが、その途中で病死した。 甥であるギヨーム・ジュールダンが包囲を続けたが、その後ベルトランが取って代わり、1109年にトリポリを陥落させてトリポリ伯国を創設している。 配下であったレーモン・ダジール(Raimundus de Aguilers)が第1回十字軍の記録をレーモンの観点から記述している。.

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レオポルト3世 (オーストリア辺境伯)

レオポルト3世 レオポルト3世(Leopold III., 1073年 - 1136年11月15日)は、バーベンベルク家のオーストリア辺境伯(在位:1095年 - 1136年)。オーストリア辺境伯レオポルト2世の子としてメルクに生まれる。事績はあまり多く知られていない人物と評される一方で、貴賎、聖俗問わず声望は高かったという、p.129。。後に列聖され、レオポルト聖伯とも呼ばれる。 1095年より辺境伯となった。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の娘でハインリヒ5世の姉アグネス(シュヴァーベン大公フリードリヒ1世の未亡人)と結婚し、バーベンベルク家の地位を高めた。1122年のヴォルムス協約締結においては政教両者の仲介に当たった。ハインリヒ5世の死によってザーリアー朝が断絶すると、次のドイツ王候補としてあげられたが、この推薦は辞退した。 教会へのパトロンとしていくつかの大修道院を設立したことでも知られる。クライン・マリアツェル修道院前掲 。、1114年設立の(前身は1113年)、そして自身の子オットーのためにオーストリア最初のシトー会修道院であるハイリゲンクロイツ修道院を創設した。 1136年に死去。狩猟の最中に何らかの理由により死去したとされる前掲 。。そして自身の設立したクロスターノイブルクのクロスターノイブルク修道院に埋葬された。1485年、インノケンティウス8世により列聖された。1663年より、ニーダーエスターライヒ州とウィーンの守護聖人となって崇敬を集めている。 accessdate.

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ロンバルディア州

ンバルディア州(Lombardia )は、イタリア共和国北西部に位置する州。州都はイタリア第二の都市であるミラノ。 イタリア最大の人口(約1000万人)を擁する州であり、これはイタリアの人口の1/6にあたる。また、イタリアの国内総生産(GDP)の1/5を生産する。.

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ヴェルフ1世 (バイエルン公)

ヴェルフ1世(Welf I., 1035年/1040年 - 1101年11月6日/9日)は、バイエルン公(在位:1070年 - 1077年、1096年 - 1101年)。ヴェルフ=エステ家の祖。ヴェルフ家ではヴェルフ4世と呼ばれる。父はエステ家の祖でエステ辺境伯アルベルト・アッツォ2世・デステ、母はヴェルフ2世の娘クニツァ。異母弟はエステ辺境伯フォルコ1世。 1055年、母方の叔父のヴェルフ3世が亡くなり古ヴェルフ家が断絶すると、その後継者として祖母のイミツァに招聘されてヴェルフ家の新たな当主となった。1062年にバイエルン公オットー・フォン・ノルトハイムの娘エテリンデと結婚したが、1070年に義父が神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世に謀反の罪で追放されるとエテリンデと離婚、ハインリヒ4世からバイエルン公に任命された。 しかし、ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世が叙任権闘争で争うとグレゴリウス7世に就き、1077年3月にシュヴァーベン公ルドルフを対立王に擁立した。結果、ハインリヒ4世にバイエルン公の地位を追われ、バイエルンはハインリヒ4世が直接統治することになった。1089年に長男のヴェルフをトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサと結婚させて教皇派との連携を保った。しかし1095年にマティルデと離婚、翌1096年にハインリヒ4世と和解し、バイエルン公位を取り戻した。 1097年に父が高齢で没した後に、異母兄のフォルコ1世と遺産を巡って争った。1101年の十字軍に参戦、帰途でキプロス島で没した。遺体はヴァインガルテン修道院に埋葬された。.

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ヌヴェール

ワール川に面した旧市街 ヌヴェール(Nevers)はフランス中央部、ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏、ニエーヴル県のコミューン。県庁所在地。ロワール川とニエーヴル川の合流点に近い、ロワール川右岸の丘陵の斜面上に位置する。 古代の名はノウィオドゥヌム (Noviodunum) といい、後にはこれがネビルヌムと変化した。5世紀にはキリスト教の司教座がおかれた。 14世紀にいったん大学が設けられたが、この大学は後にオルレアンに移された。.

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ボードゥアン1世 (エルサレム王)

ボードゥアン1世(Baudouin I, 1065年頃 - 1118年4月2日)は、第1回十字軍の指導者の一人。初代エデッサ伯となり、後に初代エルサレム王(在位:1100年 - 1118年)となった。.

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ボエモン1世 (アンティオキア公)

アンティオキアを攻略するボエモン、ギュスターヴ・ドレ画 ボエモン1世(Bohemund I, 1058年頃 - 1111年3月3日)は、第1回十字軍の指導者の一人で、後にアンティオキア公。.

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ボスポラス海峡

ボスポラス海峡とルメリ・ヒサル(手前)、ファーティフ・スルタン・メフメト橋。 '''ボスポラス海峡の衛星写真''' 画面上が黒海、下がマルマラ海。イスタンブール旧市街は左側の陸の右下にある三角形の半島の部分。イスタンブール旧市街の北側の細長い湾は金角湾 ボスポラス海峡(ボスポラスかいきょう、Bosporus)は、トルコのヨーロッパ部分(オクシデント:)とアジア部分(オリエント:)を隔てる海峡である。.

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トリポリ伯国

トリポリ伯国(英語:County of Tripoli)は、レヴァントに建設された4つの主要な十字軍国家のうち、最後に建国された国家。サフィータ、タルトゥース、トリポリといった重要な都市を押さえていた。.

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ブルゴーニュ

ブルゴーニュ (Bourgogne)は、フランス語の地名。.

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ブルゴーニュ伯

ブルゴーニュ伯(仏:Comté de Bourgogne )は、現在のフランス東部、フランシュ=コンテ地域圏を支配した諸侯。ブルゴーニュ自由伯、ブルゴーニュ宮中伯、ブルグント伯などとも呼ばれる。ブルゴーニュ公やブルグント王とは異なるので注意を要する。ブルゴーニュ伯は、神聖ローマ皇帝への臣従義務を免除されていたので、ドイツ語でFreigrafschaft Burgund「フライ・グラーフシャフト(=自由伯領)」ブルグントと呼ばれていた。これがフランス語では、Franche-Comté「フランシュ・コンテ」と称されるのである。.

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ブルゴーニュ公一覧

ブルゴーニュ公一覧(ブルゴーニュこういちらん)では、ブルゴーニュ公(仏:duc de Bourgogne)の称号を持っていた諸侯、君主、王族などを全て挙げる。ブルゴーニュ伯と混同してはならない。.

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パスカリス2世 (ローマ教皇)

パスカリス2世(Paschal II、生年不詳 - 1118年1月21日)は、第160代ローマ教皇(在位:1099年 - 1118年)。 1099年、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会を建てた。伝説によると、この場所には、ローマ皇帝ネロを埋葬するドミティアヌス家の墓があり、そこに生えていたクルミの木に悪魔が住みついていると人々に恐れられていた。パスカリス2世は、夢に現れた聖母マリアのお告げ通りにクルミの木を切り倒し、ネロの遺体を焼いて遺灰をテヴェレ川に流したところ、悪魔は現れなくなったという。その事を感謝して、パスカリス2世が市民に呼びかけ、聖母マリアに捧げる教会を建てたと言われる。 また、カンタベリー大司教アンセルムスと聖職叙任権をめぐって対立していたイングランド国王ヘンリー1世が、聖職叙任権を認めることを求めた際に、これを拒否した。 1110年、聖職叙任権闘争の解決を図り、ローマ遠征を決行した神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世に、1111年、皇帝が完全に教会の叙任権を放棄することと、教会が世俗的な土地、財産を返還する合意を結ばされた。 第1回十字軍の後の1113年、プロヴァンスのジェラールに対して騎士修道会として正式な承認を与えた。これが中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つの聖ヨハネ騎士団である。 Category:教皇 Category:11世紀生 Category:1118年没.

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テュルク系民族

世界のテュルク系民族の分布。濃い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている国。薄い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている自治地域。 テュルク系民族の分布。 テュルク系民族(テュルクけいみんぞく、 または、 、 )は、中央アジアを中心にシベリアからアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって居住する、テュルク諸語を母語とする人々のことを指す民族名称である。.

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フランス人

フランス人(フランスじん、peuple français)は、フランス(フランス共和国、フランス王国、フランス帝国など)の国籍を有する人々を指し、2004年時点で約6200万人を数える。.

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ファーティマ朝

ファーティマ朝(アラビア語: الدولة الفاطمية al-Dawla al-Fātimīya)は、シーア派の一派、イスマーイール派が建国したイスラム王朝である(909年 - 1171年)。その君主は、イスマーイール派が他のシーア派からの分裂時に奉じたイマーム、イスマーイールの子孫を称し、イスラム世界の多数派であるスンナ派の指導者であるアッバース朝のカリフに対抗してカリフを称した。王朝名のファーティマは、イスマーイールの先祖である初代イマーム、アリーの妻で預言者ムハンマドの娘であるファーティマに由来している。 ファーティマ朝は、北アフリカのイフリーキヤ(現在のチュニジア)で興り、のちにカイロに移ってエジプトを中心に支配を行った。イスマーイール派の信仰を王朝の原理として打ち出し、カリフを称するなどアッバース朝に強い対抗意識をもった。同じ時期にはイベリア半島のアンダルスでスンナ派の後ウマイヤ朝がカリフを称したのでイスラム世界には3人のカリフが鼎立した。そこから、日本ではかつては3人のカリフのうち地理的に中間に位置するファーティマ朝を「中カリフ国」と通称していた。.

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ドイツ人

ドイツ人(ドイツじん、)は、ドイツを中心としてヨーロッパに分布する住民の定義である。文脈により以下の三つの定義を有する。.

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ダニシュメンド朝

ダニシュメンド朝(ダーニシュマンド朝、トルコ語:Dânişmendliler)はオグズ系トゥルクマーンによりアナトリア半島の中部および北東部に建てられたセルジューク朝系アタベク政権であり、11世紀後半から12世紀後半まで存在した。スィヴァス(Sivas)を首都とし、トカット(Tokat)やニクサル(Niksar)などを当初は支配した。やがて西はアンカラ、北はカスタモヌ(Kastamonu)、南はマラティヤ(Malatya)へと領土を伸ばした。11世紀末から12世紀初頭、ダニシュメンド朝は周囲を取り囲むルーム・セルジューク朝と激しく争ったほか、西方からやってきてシリア地方を支配した十字軍とも戦っている。.

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アナトリア半島

アナトリア半島(アナトリアはんとう、Ανατολία, Anatolia / Aνατολή, Anatolē、Anadolu)は、アジア大陸最西部で西アジアの一部をなす地域である。現在はトルコ共和国のアジア部分をなす。日本語ではアナトリア半島と呼ばれる事が多いが、英語圏では「半島」をつけない、単なるアナトリアであり、地形ではなく人文地理的な地域を表す言葉である。小アジア(Μικρά Ασία, Mikra Asia, Asia Minor)とも言う。.

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アマスィヤ県

アマスィヤ県 (トルコ語:Amasya)はトルコ中北部、黒海地方にある県。黒海地方だが内陸にある。イェシル川が流れている。北からサムスン、トカット、ヨズガト、チョルムの各県と接している。県域は5,520km²、人口は約35万人。県都はアマスィヤ。 古代のアマスィヤについてアレクサンドロス3世(大王)時代の書物が言及しており、古代ローマの地理学者ストラボンはこの地で生まれた。 オスマン時代のアマスィヤはマドラサでよく知られており、特にハルワティやスーフィの儀式の中心として知られていた。 黒海の近くにもかかわらず、アマスィヤは高度が高く、乾燥した気候である。このため夏は暑く、冬は寒い。アマスィヤは農業が盛んであり、リンゴの生育が良い。また、桃、チェリー、オクラ、タバコなども生産している.

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アレッポ

アレッポ(حلب(Halab), Halep、Alep, イタリア語・Aleppo)は、シリア(シリア・アラブ共和国)北部にある都市である。トルコとの国境に近い。人口は2008年現在で約167万人あり、シリア最大の都市である。 アラブ語では「新鮮な乳」の意味の「ハラブ」と呼ぶ。アレッポはシリア地方でも最古の都市の内の一つで、古代にはハルペ (Khalpe) の名で知られた。古代ギリシア人は、ユーフラテス川流域(メソポタミア)と地中海の中間に当たる戦略上の要地であるこの町を占領してベロエア (Beroea) と呼んだこともある。もともとは、クウェイク川両岸の広くて肥沃な谷にある、幾つかの丘の集まりの上に建てられた都市だった。 ハラブ県の領域は市の周辺16,000 km²に及びアル=バーブ、サフィラ、マンビジ、アイン・アル=アラブなどの近郊農村都市を抱え、住民は370万人にのぼる。2007年の推計では4,393,000人とシリア最大の県である。 かつてレバント貿易で賑わう国際市場であったが、列強の近代鉄道政策がイズミルを選好した。現在、アレッポ国際空港で中東や欧州各国と結ばれている。.

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アレクシオス1世コムネノス

アレクシオス1世コムネノス(ギリシア語:Αλέξιος Α' Κομνηνός (Alexios I Komnēnos)、1048年/1056年 - 1118年8月15日)は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)コムネノス王朝の初代皇帝(在位:1081年 - 1118年)。マケドニア王朝断絶後に皇帝となったイサキオス1世コムネノスの甥に当たる。24歳の若さで将軍となった。皇帝ミカエル7世の従弟アンドロニコス・ドゥーカスの娘エイレーネーと結婚した。 ドゥーカス王朝支配下の頃の東ローマ帝国は、内部では有力貴族の反乱が起こり、外部からはセルジューク朝やノルマン人に東西から侵攻を受け、まさに内憂外患の状態にあった。特に小アジアは大半が奪われ、首都コンスタンティノポリスの対岸にまでトルコ人が迫っていた。 このような中で1081年、アレクシオスは反乱を起こして時の皇帝ニケフォロス3世ボタネイアテスを退位させ、自ら皇帝となった。彼の子孫である皇帝たちをコムネノス王朝と称する。 即位後、アレクシオスは対外政策に力を注いだ。当時、11世紀半ばまで東ローマ帝国領であった南イタリア(マグナ・グラエキア)はノルマン人のロベルト・イル・グイスカルドによって征服され、その勢力はバルカン半島にまで及んできていた。しかし、アレクシオスはヴェネツィア共和国と同盟を結ぶことで海の守りを固め、ロベルトの子のボエモンを屈服させ、ロベルトの熱病死によって撃退させることに成功した。しかし、このときの同盟の代償としてヴェネツィアに関税特権などの様々な特権を与えたことが、のちに帝国内の商工業者の衰退、東ローマ帝国とヴェネツィア共和国との対立等を招く一因ともなってしまった。 帝国の西方ではクマン族などの異民族による侵攻もあったが、アレクシオス1世はクマン族をはじめとする異民族の討伐にも乗り出して、帝国西部の領土奪回を果たしている。また、東方のルーム・セルジューク朝に対しては、これを討つためにローマ教皇ウルバヌス2世に傭兵の提供を要請した。 ところが、これは第1回十字軍という思いもよらない事態を招いてしまった。1096年から開始されたこの十字軍遠征により、帝国は確かにイスラーム勢力の脅威から脱することはできたが、帝国領が十字軍遠征の通過地となった結果、十字軍の乱暴狼藉や略奪によって逆に苦しめられてしまった。 また内政面においては、通貨改革や爵位の再編を行ったほか、有力貴族と皇族との間に婚姻関係を結ぶことで関係を強化した。いわゆる「コムネノス一門」である。結果として1453年に帝国が滅亡するまで、すべての皇帝はコムネノス家・ドゥーカス家の血をひくこととなった。また大土地所有貴族たちに軍事力提供と引き換えに徴税権や土地を与えるプロノイア制を導入し、強力な私兵を抱える彼らの協力を得て帝国の軍事力を強化した。 これらの政策は孫のマヌエル1世の代になると帝国を窮地に陥れることになるが、ひとまずアレクシオス1世の統治によって再び安定の時代を迎えた。バシレイオス2世の没後衰退する一方だった帝国は、約100年の間衰退を食い止め、東地中海の強国の座を奪回・維持することに成功したのである。 Category:東ローマ皇帝 Category:コムネノス家 Category:十字軍 Category:1048年生 Category:1118年没.

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アンティオキア公国

アンティオキア公国(アンティオキアこうこく、Principality of Antioch)は、第1回十字軍が聖地に建設した、十字軍国家のひとつ。シリア北部の重要都市アンティオキア(アンティオケイア)を首都とした。.

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アンティオキア攻囲戦

アンティオキア攻囲戦(アンティオキアこういせん、Siege of Antioch)は第1回十字軍の主要な攻城戦の一つ。1097年10月から1098年6月まで、シリア地方の重要都市アンティオキアを舞台に戦われた。 第一段階は、十字軍が都市を守るセルジューク朝系のテュルク人などムスリムに対して行った攻城戦で、1097年10月21日に始まり1098年6月2日に都市が陥落して終了した。 第二段階は、アンティオキアを制圧した十字軍に対し救援に駆け付けたムスリム軍が行った攻城戦で、1098年6月7日に始まり6月28日に十字軍が城外でムスリム軍を破り終了した。.

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アンカラ

アンカラ(Ankara )は、トルコ共和国の首都。人口約442万人(2013年)を抱え、イスタンブールに次ぐ同国第2の都市でありアンカラ県の県都でもある。アナトリア半島中央部に位置する。中東・西アジア有数の世界都市で、トルコの政治の中心地。.

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アデル・ド・ノルマンディー

アデル・ド・ノルマンディー (Adèle de Normandie、1067年頃LoPrete, Kimberly.

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アドリア海

アドリア海(Adriatic Sea; Mar Adriatico; Jadransko more)は、地中海の海域の一つ。イタリア半島とバルカン半島に挟まれている。.

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アスカロンの戦い

アスカロンの戦い(Battle of Ascalon)は第1回十字軍の戦闘の一つ。1099年8月12日に地中海岸の町アスカロン(現在のイスラエル領アシュケロン、エルサレムの西でテルアビブとガザの中間)の周辺で戦われた。十字軍がエルサレムに迫るファーティマ朝軍を破ったが、これが第1回十字軍の最後の戦いとされている。.

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イングランド君主一覧

イングランド王室紋章 最初にRex Anglorum(イングランド王)の称号を用いたのはマーシア王オファであるが、その権力は彼の後には生き延びることはなかった。9世紀にケント及びマーシアからサセックスを征服したウェセックスの王は次第にイングランド王国の他の王国に支配を及ぼすようになった。絶えることなく続くイングランド君主一覧は伝統的に829年のウェセックス王エグバートに始まる。アルフレッド大王 とその男子のエドワード長兄王は〝アングロ=サクソン国王〟の称号を用いた。アゼルスタンは927年にノーサンブリアを占領してからRex Anglorumの称号を採用した。ヘンリー2世の治世の開始時(1154年)に称号がRex Angliae(イングランド国王)になった。 ウェールズ公国は1284年のルゥドドランの法令でイングランド王国に吸収され、1301年にエドワード1世は長男のエドワード2世にプリンス・オブ・ウェールズの称号を授けた。この時以来、エドワード3世を例外として全てのイングランド君主の長男はこの称号を帯びるようになった。1603年のエリザベス1世の死後、イングランドとスコットランドの王位はジェームズ1世のもとで一つとなった。国王の布告によってジェームズ1世は自らの称号を「グレートブリテンの王」とした。ジェームズ1世の即位以来、親を介して二重の相続人である両王国の後継者の称号を「イングランド王」ないしは「イングランド女王」とするのは、ジェームズ1世の布告に照らせば不正確である。しかし、この称号は今日に至るまでしばしば用いられる用法として存続している。1707年にイングランドはスコットランドと法律上合同を行い、グレートブリテン王国が成立した。1707年以来、イングランドは法律上は、グレートブリテン王国以降の連合王国から分離していない(ただし、スコットランドについては、連合王国の法体系上特別な扱いがなされることも多い)。ヘンリー2世以来、イングランドの支配下に置かれているアイルランド王国は1800年の連合法によって翌1801年にグレートブリテンおよびアイルランド連合王国の一部となった。この状態はアイルランド自由国成立後の1922年まで続き、その後の改名の結果、イングランドを含む連合王国の名称はグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国となった。.

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イエス・キリスト

イエス・キリスト(紀元前6年から紀元前4年頃 - 紀元後30年頃、Ίησοῦς Χριστός、יְהוֹשֻׁעַ/יֵשׁוּעַ הַמָּשִׁיחַ, )は、ギリシア語で「キリストであるイエス」、または「イエスはキリストである」という意味である。すなわち、キリスト教においてはナザレのイエスをイエス・キリストと呼んでいるが、この呼称自体にイエスがキリストであるとの信仰内容が示されているX.

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イスラム世界

イスラム世界とは、イスラム教(イスラーム)とそれを信仰・実践する人々であるムスリム(イスラム教徒)が社会の中心に立って活動する地域を指し、イスラム法(シャリーア)の用語に言うダール・アル=イスラーム(「イスラムの家」)とほぼ等しい概念を意味する語である。歴史的な対象を指すのにしばしば使われるが、イスラム世界の中に法としてシャリーアを用いない国も少なくない現代を指しては、イスラム圏(イスラーム圏)、イスラム諸国などの言葉を用いることも多い。.

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イズミット

イズミット(İzmit)は、トルコの都市。コジャエリ県の県都。人口は約21万人(1996年)。古代においてはニコメディアと称された。1999年にイズミットを中心にM7.4の大地震(イズミット地震)が発生して多くの犠牲者がでた。.

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イタリア

イタリア共和国(イタリアきょうわこく, IPA:, Repubblica Italiana)、通称イタリアは南ヨーロッパにおける単一国家、議会制共和国である。総面積は301,338平方キロメートル (km2) で、イタリアではロスティバル(lo Stivale)と称されるブーツ状の国土をしており、国土の大部分は温帯に属する。地中海性気候が農業と歴史に大きく影響している。.

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ウード1世 (ブルゴーニュ公)

ウード1世(フランス語:Eudes Ier, 1058年 - 1103年3月23日)は、ブルゴーニュ公(在位:1079年 - 1103年)。ブルゴーニュ公ロベール1世の息子アンリとその妻シビーユの次男。.

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ウィリアム1世 (イングランド王)

ウィリアム1世(William I 、1027年 - 1087年9月9日)は、イングランド王(在位: 1066年 - 1087年)。通称は征服王 (William the Conqueror) あるいは庶子王 (William the Bastard) 。ノルマンディー公(ギヨーム2世、在位: 1035年 - 1087年)でもあった。イングランドを征服し(ノルマン・コンクエスト)、ノルマン朝を開いて現在のイギリス王室の開祖となった。 ウィリアムは英語式であるが、フランス出身であり、彼自身も周囲の人もフランス語を使っていたため、むしろフランス語式にギヨーム (Guillaume) と呼ぶ方がふさわしいという見解もある。彼の墓にはラテン語風に GUILLELMUS と綴られている(右下の墓標の画像)。.

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エルサレム

ルサレムまたはイェルサレムは、イスラエルおよびパレスチナ自治区にある都市。 イスラエルはエルサレムが自国の「首都」であると宣言しているものの、国際連合など国際社会はこれを認めておらず、イスラエルの首都はテルアビブであるとみなしている。したがって、イスラエルと国交を持つ諸国も、大使館や領事館はエルサレムでなくテルアビブに置いてきた。ただし、2017年になってアメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領はエルサレムをイスラエルの首都であると明言し、さらにアメリカ大使館をテルアビブからエルサレムに移転する方針を明らかにした。.

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エルサレム王国

ルサレム王国(1099年 - 1291年)は、11世紀末西欧の十字軍によって中東のパレスチナに樹立されたキリスト教王国。十字軍国家の一つ。.

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エティエンヌ2世 (ブロワ伯)

ティエンヌ2世アンリ (Étienne II Henri de Blois、生年不詳 - 1102年3月19日)は、ブロワ伯、シャトーダン伯、シャルトル伯、モー伯であった人物。サンセール、サン・フロランタン、プロヴァン、モントゥロー、ヴェルテュ、ウルシー=ル=シャトー、シャトー=ティエリ、シャティヨン=シュル=マルヌ、モンフェリクスの領主でもあった。 ブロワ伯ティボー3世とガルザンド・ド・メーヌの子。1074年よりティボー3世はエティエンヌに実質的に統治を任していたが、1089年の父の死によってブロワ伯となった。 エティエンヌ2世は第一回十字軍を率いた首領の1人であり、妃のアデルに十字軍の進捗状況についてしばしば熱心に手紙を書いていた。エティエンヌ2世は、1097年のニカイア攻囲戦における軍評議会の長であった 。アンティオキアの長い包囲のさなかの1098年、聖地エルサレムまでの道を築くという十字軍の誓いを果たすことなく、彼は帰国した。彼はアデルの圧力を受けて2度目の巡礼を行い、一部の郎党は途中で帰国してしまった、小規模の1101年の十字軍に参加した。 1102年、エルサレム王国に滞在していたエティエンヌは、ファーティマ朝とのラムラの戦いに参加して戦死した。57歳であった。.

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エデッサ伯国

デッサ伯国(エデッサはくこく)は、古代史上および初期キリスト教史上よく知られたエデッサ(現在のトルコ領ウルファ)の街の周囲に建国された12世紀の十字軍国家のひとつ。エデッサ伯国は海に接しておらず陸に閉ざされていることが他の十字軍国家と異なっている。また他の十字軍国家から遠く、その最も近い隣人、アンティオキア公国とは仲がよくなかった。また、首都エデッサを含め国の半分が、ユーフラテス川の東にあるため、他の十字軍国家よりも相当東に位置していた。ユーフラテスの西の部分はセルジューク朝に対する前哨である重要な拠点都市テル・バシールから統治されていた。.

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エスキシェヒル

ェヒル (Eskişehir, Dorylaeum, Δορύλαιον Dorylaion) はトルコ北西部に位置する町でエスキシェヒル県の県庁所在地である。2000年の調査では人口は482,793人。ポルスック川が流れ、海面からの高度は790mで肥沃なフリギアの谷が見下ろせる。近くの丘にはいくつか温泉がある。アンカラの西250km、イスタンブールの南東350km、キュタヒヤの北東60kmに位置する。.

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オーストリア君主一覧

ーストリア君主一覧(オーストリアくんしゅいちらん)は、オーストリアの君主の一覧。.

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カスタモヌ

タモヌ(Kastamonu)は、トルコの都市で、カスタモヌ県の県都。2000年の国勢調査時点で地区には10万2059人が住んでおり、うち6万4606人は中心街(2009年には8万6085人)に暮らしている。地区の面積は1834平方kmで、標高は904m。県南部に位置する。 市街から17kmほどいったカサバ村には、1366年のセルジューク朝時代に建てられたマフムト・ベイモスクという重要なモスクがある。トルコ国内で最も保存状態のよい木造モスクの一つとされており、扉には見事な木彫りの装飾が見られる。.

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キプロス王国

プロス王国は、中世のキプロス島を支配したラテン系の王国で、十字軍国家の一種である。第3回十字軍の際に十字軍に征服され、その後はエルサレムから追われた十字軍国家・エルサレム王国の末裔が統治した。.

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傭兵

イス人傭兵達の記念碑である。国土の大半が山岳地帯であるため、農業や産業が育たない貧しい国だったスイスを支えていたのは「血の輸出」と呼ばれる傭兵派遣であった。 傭兵(ようへい、mercenary)は、金銭などの利益により雇われ、直接に利害関係の無い戦争に参加する兵またはその集団である。 「傭」という漢字が常用漢字および新聞漢字表に含まれないため、一部の新聞等の報道では「雇い兵」と表記される。 傭兵は現代でも存在しており、民間軍事会社のような新しい形態の傭兵も登場している。.

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ギヨーム9世 (アキテーヌ公)

ヨーム9世(Guillaume IX、Guilhen de Peiteu、1071年10月22日 - 1126年2月10日)は、中世フランス王国の貴族でアキテーヌ公(ギヨーム9世、在位:1088年 - 1126年)、ポワティエ伯(ギエム7世、在位:同)。ギヨーム8世とブルゴーニュ公ロベール1世の娘オデアルドの子。ギヨーム・ド・ポワチエ、オック語ではギエム・デ・ペイチュとも呼ばれる。.

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ギー・ド・リュジニャン

ー・ド・リュジニャン(Guy de Lusignan、1159年 - 1194年)は、フランスの騎士。エルサレム女王シビーユと結婚し、エルサレム国王となるが、ハッティンの戦いでサラディンに敗れ、エルサレム陥落を導くことになる。 ギーはポワティエのリュジニャン伯の息子だったが、1168年に彼ら兄弟はソールズベリー伯と争い、当時アキテーヌ公代理だったリシャール(後のリチャード獅子心王)に追放された。ギーは兄のエメリーと共に1170年代にエルサレムへ行き、ボードゥアン4世とシビーユの母アニェス(ヤッファ伯)の元へ身を寄せた。アニェスはトリポリ伯レーモン3世との勢力争いにおいて、最初の夫を亡くしているシビーユの後ろ盾を必要としており、1180年にギーとシビーユは結婚した。1182年にボードゥアン4世の摂政となるが、イスラム勢力との勢力均衡を望む貴族たちと対立し、同様の境遇である元アンティオキア公ルノー・ド・シャティヨンや新着の十字軍士と組んで、サラディンとの対立を強めた。 このため、ボードゥアン4世と貴族たちはシビーユとギーを離婚させようとしたが、シビーユは離婚を望まなかった。 1185年にボードゥアン4世が亡くなると、ボードゥアン5世が王位を継ぐが、まもなく亡くなった。シビーユは女王になるに及んでギーとの離婚を要求されるが、これを拒否し、ギーは共同統治王となる。 トリポリ伯レーモン3世の反対を押し切り、サラディンとの戦いを始め、1187年のハッティンの戦いで大敗し、自らも捕虜となった。共に捕らえられたルノー・ド・シャティヨンは殺されたが、ギーの命は助けられ、1188年に解放された。しかし、すでにエルサレムは陥落し、モンフェラート侯コンラードの守るティール等のわずかな地域を残すのみであった。 1190年にシビーユが亡くなると、エルサレム王国貴族はイザベルを女王にするが、ギーは王位の放棄を承知しなかった。 エルサレム陥落に衝撃を受け、第3回十字軍がやってくると、ギーは旧主であるリチャード1世の旗下に参じた。フランス王フィリップ2世はイザベルとその夫モンフェラート侯コンラードの王位を支持したが、ギーはリチャードの支持を受けて1192年まで王位を主張する。1192年にコンラードは暗殺されたが、これはリチャードかギーが暗殺教団に依頼したものだと噂が立った。しかし、シャンパーニュ伯アンリ(リチャードの甥)がイザベルの夫となると、リチャードもこれを支持したため、ギーはキプロスを受け取り、王位を放棄した。 1194年にギーは亡くなった。兄のエメリーがキプロスを受け継ぎ、以降リュジニャン王家によるキプロス王国が続くことになる。.

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クルチ・アルスラーン1世

ルチ・アルスラーン1世(قلج أرسلان, Qilij Arslān, I.、1079年 - 1107年)は、ルーム・セルジューク朝の第2代スルタン(在位:1092年 - 1107年)。彼は大セルジューク朝のスルタン・マリク・シャーの死後に即位し、父スライマーンの死後一旦滅びていたルーム・セルジューク朝を再興した。しかし彼の支配した時代はちょうど十字軍の始まりの時期であり、アナトリア半島にあったルーム・セルジューク朝は西欧から来た第1回十字軍(1096年 - )の矢面に立った。第1回十字軍では彼は敗れ領土は縮小したが、その後にやってきた「1101年の十字軍」に対してはよく戦った。.

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コンヤ

ンヤ (Konya) は、トルコの都市。コニヤとも表記される。.

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コンヤ県

ンヤ県 (トルコ語:Konya il) はトルコ中南部、中央アナトリア地方の県。.

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コンスタンティノープル

ンスタンティノープル(Constantinople、: Constantinopolis、: Κωνσταντινούπολις)は、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。 強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンディヌーポリ総主教庁が置かれている。.

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ザンギー

イマードゥッディーン・ザンギー(أبو المظفر عماد الدين زنكي ابن قسيم الدولة آق سنقر ابن ايلترغان、1087/8年 - 1146年9月14日)は、セルジューク朝傘下のモースルとアレッポの太守(在位:1127年 - 1146年)で、ザンギー朝の創始者。彼の政権はいわゆるアタベク政権のひとつで、父親はセルジューク朝のスルターン、マリク・シャーのテュルク系マムルーク、アーク・スンクルであった。十字軍と組織的・継続的に戦ったムスリム最初の武将で、1144年に十字軍国家群からエデッサ伯領を奪い、第二回十字軍を呼び寄せることになった。.

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シリア・セルジューク朝

リア・セルジューク朝(アラビア語: سلاجقة الشام Salājiqa al-Shām)は、セルジューク朝の地方政権のひとつで、セルジューク朝の東部辺境であったシリアに進出したイスラム王朝(1085年 - 1117年)。.

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ジェノヴァ共和国

ェノヴァ共和国(ジェノヴァきょうわこく、Repubblica di Genova、リグーリア語: Repúbrica de Zêna, Respublica Ianuensis, 別称: Serenissima Repubblica di Genova)は、ジェノヴァを中心にして1005年から1797年まで存在した都市領邦。 1148年以来公債を引き受けた国内のシ団は、塩税の管理を委任されてからジェノア銀行として組織化された。同行は国の収入を管理した。植民地、属領、軍隊、艦隊までも保有した。戦争を行い、条約を結んだ。1407年にフランスのジャン・ル・メングル元帥は社名変更の上、累積した国家債務の借り換え資金を提供させた。その軌跡はマキャベリをして「市民は国家の暴政と、会社のすぐれた管理とのために、国家の権威よりもむしろ会社のそれを欲した」と言わしめ、イギリス東インド会社の本国に占めた地位が遠く及ばなかったほどである。衰退期を経て1797年の恐慌で破産。同行の負債は、共和国を併合したサルデーニャ王国の国債に継承された。 ジェノヴァ出身のジョン・カボットは、共和国衰退期の直前に北米海岸を発見した。.

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スティーブン (イングランド王)

ティーブン(Stephen, 1096年頃 - 1154年10月25日)は、ブロワ朝唯一のイングランド王(在位:1135年 - 1154年)。その治世は内戦が収まらず、無政府時代(The Anarchy)と呼ばれた。.

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スィノプ

ィノプ(Sinop)または、シノーペー(Σινώπη/Sinope)は、トルコ北部のスィノプ県の県都である。古代には地方にあたる地域であり、歴史的にはシノーペーとして知られている。シノプ、 シノップ ブルームバーグ 2013年5月4日 2013年6月10日閲覧、シノペ、シノーペ。古代名はシヌワ(Sinuwa)であり、イスラーム世界の学者・旅行家は町をサヌーブ、シナーブ、シーヌーブと呼んだ『シルクロード事典』、136-138頁。 観光業や小規模な漁業、造船業が営まれ、タバコ、木材などを移出する港湾都市である。町を東西に走るジュムフリエット通りとサカルヤ通り、サカルヤ通りの東端から南に延びるアタテュルク通りが町の大通りになっている地球の歩き方編集室編『イスタンブールとトルコの大地(2013‐2014年版)』、439-441頁。.

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タルトゥース

衛星写真でみたタルトゥース。北に新しい港湾、西の沖合(赤い矢印)にアルワード島が浮かぶ タルトゥース(タルトゥス、タルトス、ローマ字表記:Tartus、Tartous、アラビア語: طرطوس)は、シリア(シリア・アラブ共和国)西部の地中海に面したラタキアに次ぐシリア第二の港湾都市で、タルトゥース県では最大の都市。タルトゥース県の県都。人口は2007年時点でおよそ93,000人と見積もられている。ロシア海軍の補給処があることでも知られている。.

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タルスス

タルスス(Tarsus)はトルコ中南部メルスィン県の都市。アダナから西へ約40km離れた地中海沿岸に位置する。古代ローマ帝国の属州キリキアの首都で、タルソス(Tarsos)とよばれていた。聖パウロの生誕の地である。.

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タンクレード (ガリラヤ公)

タンクレードの肖像画。後世の人物による想像図 ガリラヤ公(またはティベリアス公)タンクレード(タンクレッドとも、Tancred, Tancredi, Tancrède、1072年/1076年 - 1112年12月5日または12月12日没)は、第1回十字軍における重要人物のひとり。 十字軍の遠征に参加した南イタリアのノルマン人諸侯のひとりで、後にはアンティオキア公国の摂政やガリラヤ公国の公にもなり、レバントに成立した十字軍国家の初期の重要人物となった。.

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神聖ローマ皇帝

聖ローマ皇帝(しんせいローマこうてい、Römisch-deutscher Kaiser、Holy Roman Emperor)は神聖ローマ帝国の君主であるローマ皇帝を指し、古代ローマ皇帝や東ローマ皇帝と区別するための歴史学的用語。実際に用いられた称号ではなく、実際にはローマ人の皇帝(Romanorum Imperator、Kaiser der Römer)と称した。カール大帝以降を指す場合とオットー1世以降に限る場合がある。理念的には、中世西ヨーロッパにおける世俗の最高支配者とされ、カトリック世界において普遍的な世俗支配権を主張した。特にドイツとイタリアで国法上最も重要な位置を占め、指導的役割を担った。ドイツ皇帝と通称される場合もあり、これは近世以降の国号に「ドイツ国民の」が加わったことによる。.

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第1回十字軍

中世の写本に描かれた第1回十字軍のエルサレム攻撃 第1回十字軍(だいいっかいじゅうじぐん、1096年 – 1099年)は、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、キリスト教の聖地エルサレムの回復のために始められた軍事行動。クレルモンにおける教会会議の最後に行われた聖地回復支援の短い呼びかけが、当時の民衆の宗教意識の高まりとあいまって西欧の国々を巻き込む一大運動へと発展した。 十字軍運動においては、一般に考えられているような騎士たちだけではなく一般民衆もエルサレムへ向かった。彼らは戦闘の末にイスラム教徒を破って、同地を1099年7月15日に占領した。そして、エルサレム王国など「十字軍国家」と呼ばれる一群の国家群がパレスティナに出現した。西欧諸国が初めて連携して共通の目標に取り組んだという点で、十字軍運動は欧州史における重大な転換点となった。そしていわゆる「十字軍」を名乗った運動で当初の目的を達成することができたのは、この第1回十字軍が最初で最後となる。.

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第2回十字軍

right 第2回十字軍(だいにかいじゅうじぐん、1147年 - 1148年)は、エデッサ伯領の喪失を受けて、ローマ教皇エウゲニウス3世によって呼びかけられた。フランス、ドイツ国王の他、多数の貴族、司教、庶民の参加者を得たが、主要参加者がそれぞれ別々の思惑を持って、バラバラに行動したため、ほとんど成果を挙げられずに終わった。.

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第3回十字軍

230px 第3回十字軍(1189年 - 1192年)は、アイユーブ朝の始祖であり「イスラムの擁護者」と目されたサラーフッディーン(サラディン)により征服された聖地エルサレムを、ヨーロッパのキリスト教諸国が奪還するために開始された十字軍。.

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聖地

聖地(せいち、、)とは、特定の宗教・信仰にとっての本山・本拠地・拠点となる寺院・教会・神社のあるところ、またはその宗教の開祖・創始者にまつわる重要なところ、あるいは奇跡や霊的な出来事の舞台となったところをいう。 そこに参拝することは、信者にとって特別なことであり、それへの巡礼は信仰生活にとって特別な意味を持っている。 また英語で"the Holy Land"(大文字始まり)というと、神がイスラエル民族に与え、イエス・キリストが誕生したとされるイスラエル・パレスチナの地を指す。.

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騎兵

騎兵(きへい、cavalry, Trooper)は、兵種の一つで、馬など動物に騎乗して戦闘行動を取る兵士である。最初はロバが使用されていたが、後に馬が主流になった。最古の騎兵は動物が曳行する戦車に乗った兵士であったが、後に動物に跨る騎兵に移行していった。 騎兵は相対的に高い機動力・攻撃力を誇り、作戦の幅を広げ、偵察、伝令、警戒など後方支援でも活躍した。また、軽騎兵・重騎兵と分類されることもあり、前者は機動力を、後者は攻撃力及び防御力を重視している。現代では騎兵から派生した、装甲車やヘリコプターに搭乗する部隊も「騎兵」と呼ぶことがある。.

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黒海

黒海(こっかい)は、ヨーロッパとアジアの間にある内海で、大西洋の縁海(地中海 (海洋学))の一つである。マルマラ海を経てエーゲ海、地中海に繋がる。 バルカン半島、アナトリア半島、コーカサスと南ウクライナ・クリミア半島に囲まれており、ドナウ川、ドニエストル川、ドニエプル川などの東ヨーロッパの大河が注ぐ。アナトリアとバルカンの間のボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡を通じて地中海に繋がっており、クリミアの東にはケルチ海峡を隔ててアゾフ海がある。 黒海に面する国は、南岸がトルコで、そこから時計回りにブルガリア、ルーマニア、ウクライナ、ロシア、ジョージアである。 黒海に面する有名な港湾には、イスタンブール(ビュザンティオン、コンスタンティノープル)から時計回りにブルガス、ヴァルナ、コンスタンツァ、オデッサ、セヴァストポリ、ヤルタ、ガグラ、バトゥミ、トラブゾン、サムスンなどがある。.

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東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

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教皇

教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.

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10月18日

10月18日(じゅうがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から291日目(閏年では292日目)にあたり、年末まであと74日ある。.

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1100年

記載なし。

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1101年

記載なし。

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1102年

記載なし。

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1118年

記載なし。

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6月23日

6月23日(ろくがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から174日目(閏年では175日目)にあたり、年末まであと191日ある。誕生花はササユリ、ムラサキツユクサ。.

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