目次
271 関係: 加納藩、加賀藩、基山町、基肄城、基肄郡、みやき町、千栗八幡宮、南島原市、南高来郡、南松浦郡、古代山城、名神大社、吉備真備、吉野ヶ里町、壱岐市、多久市、大友氏、大友氏泰、大宰府、大久保氏、大化の改新、大和町、大和町 (佐賀県)、大内氏、大内教弘、大給松平家、大野城 (筑前国)、大村喜前、大村藩、大村氏、大江山、大日本帝国海軍、天山神社、天平宝字、天平勝宝、天領、天正遣欧少年使節、嬉野市、室町幕府、官道、宇佐神宮、宇都宮持綱、寺沢広高、対馬市、対馬府中藩、小城市、小城郡、小城藩、少弐経資、少弐頼尚、... インデックスを展開 (221 もっと) »
- 佐賀県の歴史
- 長崎県の歴史
加納藩
加納藩(かのうはん)は、江戸時代の日本で、美濃国厚見郡加納(現在:岐阜県岐阜市加納)を本拠地にして、美濃国中部(現在の岐阜県中南部)を領土とした藩である。藩庁は加納城。
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加賀藩
金沢城石川門(重文) 加賀藩(かがはん)は、江戸時代に加賀、能登、越中(現在の石川県・富山県)の3国の大半を領地とした藩。藩祖・前田利家の妻である芳春院(まつ)の死後、芳春院の化粧料(婦女に対して生活補助として与えられた領地(石高))だった近江弘川村(現在の滋賀県高島市今津町)を飛び地として加える。
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基山町
基肄城展望台からの基山町南部 基山町(きやまちょう)は、佐賀県の東部、三養基郡に属する町である。鳥栖都市圏に含まれる。
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基肄城
基肄城(きいじょう / きいのき、椽城)は、福岡県筑紫野市と佐賀県三養基郡基山町にまたがる基山(きざん)に築かれた、日本の古代山城。城跡は、1954年(昭和29年)3月20日、国の特別史跡「基肄(椽)城跡」に指定されている。
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基肄郡
佐賀県基肄郡の位置 基肄郡(きいぐん)は、佐賀県(肥前国)にあった郡。
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みやき町
みやき町(みやきちょう)は、佐賀県東部、三養基郡に位置する町。
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千栗八幡宮
一の鳥居(町指定文化財)慶長14年(1609年)鍋島藩祖・鍋島直茂奉納の石造肥前鳥居 本殿 境内中央の建物は粥祭で参拝者に「お粥試」の粥を供覧するお粥堂、右奥は摂社・武雄神社。 千栗八幡宮(ちりくはちまんぐう)は、佐賀県三養基郡みやき町にある神社。肥前國一宮。旧社格は國幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。
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南島原市
南島原市(みなみしまばらし)は、長崎県の島原半島南部に位置する市。 歴史的価値のあるキリシタンにまつわる事や島原・天草一揆が起きた原城跡や1991年6月3日に発生した雲仙普賢岳噴火災害で被災した家屋が保存されている土石流被災家屋保存公園がある。
見る 肥前国と南島原市
南高来郡
長崎県南高来郡の位置 南高来郡(みなみたかきぐん)は、長崎県にあった郡。 長崎県内では所在・管轄する地域を示す郡名の略称として南高(なんこう)とも呼ばれた。
見る 肥前国と南高来郡
南松浦郡
長崎県南松浦郡の位置(緑:新上五島町) 南松浦郡(みなみまつうらぐん)は、長崎県の郡。 長崎県内では所在・管轄する地域を示す郡名の略称として南松(なんしょう)とも呼ばれる。 以下の1町を含む。
見る 肥前国と南松浦郡
古代山城
古代山城(こだいさんじょう)は、古代日本の山城。九州地方北部から瀬戸内地方・近畿地方にかけて分布する。 従来に「朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)」・「神籠石(こうごいし)」と呼び分けられてきた2種類の遺跡群の総称として、近年使用される考古学用語である。
見る 肥前国と古代山城
名神大社
名神大社(みょうじんたいしゃ)とは、日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。古代における社格の1つとされ、その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列していることから「名神大社」と呼ばれる。『延喜式』巻3の「臨時祭」の「名神祭」の条下(以下「名神祭式」という)と、同巻9・10の「神名式」(「延喜式神名帳」)に掲示され、後者の記載に当たっては「名神大」と略記されている。
見る 肥前国と名神大社
吉備真備
吉備 真備(きび の まきび)は、奈良時代の公卿・学者。氏姓は下道(しもつみち)朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝の子。官位は正二位・右大臣。勲位は勲二等。
見る 肥前国と吉備真備
吉野ヶ里町
吉野ヶ里町(よしのがりちょう)は、佐賀県東部に位置する町。現在神埼郡に属する唯一の町である。
見る 肥前国と吉野ヶ里町
壱岐市
壱岐市(いきし)は、長崎県の壱岐島を主な行政区域とする市である。壱岐振興局の所在地。
見る 肥前国と壱岐市
多久市
多久市(たくし)は、佐賀県の中央部にある市である。
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大友氏
大友氏(おおともし)は、武家・士族だった日本の氏族。鎌倉時代初期に相模国大友郷に興った。鎌倉時代に豊後国大野荘の地頭職や豊後守護に補任され、南北朝時代・室町時代には、豊後国、豊前国、筑後国を支配する有力守護大名となり、戦国時代には戦国大名化した。大友義鎮(宗麟)の代に肥前・肥後・筑前も支配して最盛期を迎えたが。天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州平定後に所領は豊後一国に削減され、さらに朝鮮出兵の際の大友義統の不手際のために秀吉の怒りに触れ、天正20年/文禄元年(1593年)に除封された。 江戸時代には高家としてわずかに家名を残し、維新後士族に列する。
見る 肥前国と大友氏
大友氏泰
大友 氏泰(おおとも うじやす)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。大友氏の7代当主。 幼名は千代松丸。元弘3年/正慶2年(1333年)、父が鎮西探題・北条英時(赤橋英時)を攻める前、決死の覚悟で幕府に反逆しようとする父から家督を譲られた。五男である氏泰に家督を譲ったのは、当時成人していた四男までの息子より、幼少の氏泰に譲っておけば、仮に自身が敗死してもその後、幕府から咎められて取り潰される可能性は低いであろうと考えたためだと言われている。同年12月、父が京都で急死したため、正式に当主となったが、幼少だったために兄・貞載の補佐を受けた。 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて九州に落ち延びてきたときは、尊氏の再挙に貢献した。この頃がちょうど元服の時期で尊氏から「氏」の字を与えられて氏泰と名乗ったものとみられる。また、尊氏が九州に滞在していた建武3年(1336年)2月に大友氏を味方に引き入れるために千代松丸(氏泰)とその兄弟を自分の猶子に迎えるという御判御教書を与えており、それ以降大友氏一族は「源氏」を称することができるようになった。尊氏再挙に尽くした功績により室町幕府開設後、豊後の他に肥前・豊前・日向の守護に任じられた。
見る 肥前国と大友氏泰
大宰府
大宰府(だざいふ)おもに8世紀の大和朝廷内部で作られた史書で「大宰府」と記されている。は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。軍事・外交を主任務とし、九州地方の内政も担当した。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。なお多くの史書では太宰府とも記される太宰府について記された全25文書のうち「大」だけ使用のもの8例、「太」「大」併用のもの4例、「太」のみのもの13例。8世紀から10世紀までの文書で「太」を用いているもの。
見る 肥前国と大宰府
大久保氏
大久保氏(おおくぼし)は、武家・華族だった日本の氏族。三河大久保氏と薩摩大久保氏が著名。 三河大久保氏は江戸時代に譜代大名だった家で廃藩置県まで残った大名の大久保家に小田原藩主家、荻野山中藩主家、烏山藩主家の3家があり、いずれも維新後華族の子爵家に列した。また非大名ながら、勲功により華族に列せられた分家として、子爵家の大久保一翁家、男爵家の大久保春野家がある。 薩摩大久保氏は幕末明治の頃に大久保利通を出し、その勲功により華族の侯爵家に列した。
見る 肥前国と大久保氏
大化の改新
大化の改新(たいかのかいしん)は、皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮の乙巳の変に始まる一連の国政改革『国史大辞典』吉川弘文館、1997年。『日本史大事典』平凡社、1993年。『日本歴史大事典』小学館、2000年。『日本大百科全書』小学館、1987年。。狭義には大化年間(645年 - 650年)の改革のみを指すが、広義には大宝元年(701年)の大宝律令完成までに行われた一連の改革を含む。改革そのものは、中大兄皇子・大海人皇子の年若い両皇子の協力によって推進された。 この改革によって、豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされている。この改革により、「日本」という国号及び「天皇」という称号が正式なものになったとする説もある。中大兄皇子と中臣鎌足は、退位した皇極天皇に代わり、その弟の軽皇子を即位させた(孝徳天皇)。孝徳天皇即位の直後から新たな時代の始まりとして、日本で初めての元号「大化」を定めたとされる。
見る 肥前国と大化の改新
大和町
大和町(たいわちょう)は、宮城県中部、黒川郡に属する町である。 2010年代の全国の市区町村で人口減少傾向のところが多い中で、人口増加率が高い。
見る 肥前国と大和町
大和町 (佐賀県)
大和町(やまとちょう)は、佐賀県の中央よりやや東寄りにあった町。佐賀郡に属していた。(奈良や平安といったもっと古い時代の律令国、肥前国の時には一部は佐賀郡ではなく小城郡の所だった時もある) この地域の歴史は古く縄文時代や弥生時代の遺産も多く発掘され、かつてこの地には肥前国府が置かれていたともいわれる。長崎自動車道の開通とともに、交通が発達。町南部は佐賀市のベッドタウン化し、佐賀市北部と生活圏が一体となっている。同じく町南部には県内有数の商業地域があり、ショッピングセンターや飲食店、自動車関連の店舗などを中心に多くの店が軒を連ねており、商業激戦地である。 2004年(平成16年)12月までに大和町と佐賀市・諸富町・富士町・三瀬村の1市3町1村の合併が各議会で可決された。
大内氏
大内氏(おおうちし、おほちし、おおうちうじ)は、日本の氏族・名字の一つ。
見る 肥前国と大内氏
大内教弘
大内 教弘(おおうち のりひろ)は、室町時代中期の守護大名。周防・長門・筑前・豊前・肥前守護。大内氏第13代当主。第11代当主大内盛見の子(一説には大内持盛の次男)。教幸の弟。妻は山名宗全の養女(山名熙貴の娘)。政弘、娘(大友政親室)、娘(山名政理室)、娘(佐伯親春室)の父。 幼名は六郎、のち元服に際して6代将軍・足利義教より偏諱を受け教弘と名乗る。通称は新介、周防介。官位は左京大夫、大膳大夫、従五位下、従四位下、死後に従三位。
見る 肥前国と大内教弘
大給松平家
大給松平家(おぎゅうまつだいらけ)は、松平氏の庶流にあたる武家・華族だった家。松平親忠の次男乗元を祖とする十八松平の一つで、江戸時代には譜代大名4家が出、維新後には4家とも華族に列した(伯爵家1家、子爵家3家)。4家のうち2家は明治以降大給(おぎゅう)に改姓した。
見る 肥前国と大給松平家
大野城 (筑前国)
大野城(おおのじょう/おおののき)は、福岡県の太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町にまたがる大城山(おおきやま)に築かれた、日本の古代山城。城跡は、1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡「大野城跡」に指定されている。
大村喜前
大村 喜前(おおむら よしあき)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。肥前国大村藩の初代藩主。大村純忠の長男。母は西郷純久の娘。正室は有馬義純の娘。子に大村純頼。官位は従五位下・丹後守。諱は嘉前とも表記される。
見る 肥前国と大村喜前
大村藩
大村藩(おおむらはん)は、肥前国彼杵地方を領した藩。藩庁は玖島城(現在の長崎県大村市)。中世以来の領主で、戦国期には戦国大名化した大村氏が、豊臣政権下で大名としての地位を安堵され、近世大名に移行したものである。大村藩は幕末・廃藩置県まで存続した。
見る 肥前国と大村藩
大村氏
大村氏は、武家・華族だった日本の氏族。戦国時代に肥前国彼杵郡を本拠とした戦国大名だった。江戸時代には肥前大村藩主となり、戊辰戦争で官軍として奮戦。維新後は華族となり当初子爵家だったが、後に維新の功により伯爵家に陞爵した。
見る 肥前国と大村氏
大江山
大江山(おおえやま)は京都府丹後半島の付け根に位置し与謝野町、福知山市、宮津市にまたがる連山である。標高832メートル。別称、大枝山・与謝大山・千丈ヶ嶽。 酒呑童子伝説で知られる。また、雲海の名所としても知られている。2007年(平成19年)8月3日には丹後天橋立大江山国定公園として国定公園にも指定されている。新・花の百名山に選定されている。
見る 肥前国と大江山
大日本帝国海軍
大日本帝国海軍(だいにっぽんていこくかいぐん、だいにほんていこくかいぐん、、Imperial Japanese Navy、IJN)は、1872年(明治5年) - 1945年(昭和20年)まで日本に存在していた海軍である。通常は、単に海軍や帝国海軍、日本海軍と呼ばれた。 解体後は、海上自衛隊との区別などのため、旧日本海軍もしくは旧帝国海軍または旧海軍とも呼ばれている。第二次世界大戦の後、残存部隊は改組を経て現在、海上自衛隊のほか関連する国家機関等になっている。
見る 肥前国と大日本帝国海軍
天山神社
天山社(てんざんしゃ)・天山神社(てんざんじんじゃ)は神社。佐賀県にある天山に鎮座し、肥前国三宮と伝えられる。登記上の宗教法人名称としては4社が存在する。
見る 肥前国と天山神社
天平宝字
は、日本の元号の一つ。天平勝宝の後、天平神護の前。757年から765年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇(孝謙天皇重祚)。
見る 肥前国と天平宝字
天平勝宝
は、日本の元号の一つ。天平感宝の後、天平宝字の前。749年から757年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇。 天平勝宝7年1月4日、勅命により「年」が「歳」に改められた。このため以後は、天平勝宝七歳・天平勝宝八歳・天平勝宝九歳と表記されたが、天平宝字へ改元した際に「歳」を「年」へ復している。
見る 肥前国と天平勝宝
天領
天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地。天領は俗称であり、ほかに江戸幕府直轄領、徳川幕府領、徳川支配地、幕府領、幕領など様々な呼称がある。これらの呼び名は、正式な歴史用語ではない村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。 幕府直轄領は元禄以降、全国で約400万石あった。領地は日本全国に散らばっており、江戸時代を通じて何らかの形で幕府直轄地が存在した国は51ヶ国と1地域(蝦夷地)に及び、年貢収取の対象となる田畑以外に交通・商業の要衝と港湾、主要な鉱山、城郭や御殿の建築用材の産出地としての山林地帯が編入され江戸幕府の主要な財源であった村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。
見る 肥前国と天領
天正遣欧少年使節
天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は、1582年(天正10年)にキリシタン大名である大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信らの名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団である。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案した。豊臣秀吉のバテレン追放令などで一時帰国できなくなるが、1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれた。
見る 肥前国と天正遣欧少年使節
嬉野市
嬉野市(うれしのし)は、佐賀県の西部に位置する市である。嬉野温泉と古い町並み塩田津が所在している。
見る 肥前国と嬉野市
室町幕府
は、室町時代における日本の武家政権。征夷大将軍となる足利尊氏が京都で創始した。 その称は3代将軍足利義満が移した、花の御所に由来する。ともいう。 義満の時代に南北朝が合一(明徳の和約)され、全盛期を迎える。嘉吉の乱によって白昼堂々と6代将軍足利義教が殺害されると、足利将軍の権威は低下、管領細川氏、細川氏の家臣三好長慶に実権を奪われ、最後は織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。
見る 肥前国と室町幕府
官道
官道(かんどう)とは、日本の国家によって整備・管理・維持がなされた道路を指す。 日本史においては、律令制時代に、中央と地方国府とを結ぶための幹線道路として整備された大型直線道路(五畿七道)などを指す。本稿においてはこれを記述する。 東山道武蔵路跡(東京都国分寺市)右端の茶色く示された部分は側溝跡。 東山道武蔵路跡。
見る 肥前国と官道
宇佐神宮
宇佐神宮(うさじんぐう)は、大分県宇佐市にある神社。式内社(名神大社3社)、豊前国一宮、勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 全国最多の約44,000社ある八幡宮の総本社である。石清水八幡宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)と共に日本三大八幡宮の一つ。古代においては伊勢神宮と共に二所宗廟として扱われた。八幡宇佐宮または八幡大菩薩宇佐宮などと呼ばれた。また神仏分離以前は神宮寺の弥勒寺(後述)と一体のものとして、正式には宇佐八幡宮弥勒寺と称していた。 現在でも通称として宇佐八幡とも呼ばれる。
見る 肥前国と宇佐神宮
宇都宮持綱
宇都宮 持綱(うつのみや もちつな、応永3年(1396年) - 応永30年8月9日(1423年9月13日))は室町時代中期の武将で、下野国の宇都宮氏第13代当主。武茂綱家の三男で12代当主宇都宮満綱の婿養子。第14代当主宇都宮等綱、芳賀成高室、蘆名盛詮室の父。常陸介。 下野宇都宮氏の一族、武茂氏の出身。応永14年(1407年)に急逝した宇都宮氏本家の満綱に男子がいなかったのでその養子となり家督を継承した。鎌倉公方足利持氏に臣従してその偏諱を受けて持綱と名乗る。上杉禅秀の乱では関東の諸将が上杉方につき一族にも呼応の動きがある中で、室町幕府の討伐軍に協力して乱を鎮圧、その功によって上総国守護、京都扶持衆に任じられるなど幕府に重用されたが、持氏より那須郡三依郷を長沼義秀に譲って欲しいと懇願された時に拒否したことなどから持氏に警戒されるようになり、のち小栗満重の乱に荷担したとして討伐を受けた。持綱は反鎌倉府の活動を命じる幕府からの御内書を受けていたとみられている。応永30年(1423年)8月9日、一族の塩谷教綱によって殺害された。塩谷氏・芳賀氏ら、家中の親鎌倉府派による離反があったとみられている。
見る 肥前国と宇都宮持綱
寺沢広高
寺沢 広高(てらざわ ひろたか)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。肥前国唐津藩初代藩主。官位は従四位下・志摩守。
見る 肥前国と寺沢広高
対馬市
対馬市(つしまし)は、長崎県の対馬に位置する市である。対馬振興局の所在地。 本項では、地方自治体としての対馬市について記述する。島としての対馬に関する事柄は、対馬を参照のこと。
見る 肥前国と対馬市
対馬府中藩
対馬府中藩(つしまふちゅうはん)は、江戸時代に対馬国(長崎県対馬市)全土と肥前国田代(佐賀県鳥栖市東部ならびに基山町)および浜崎(佐賀県唐津市浜玉町浜崎)を治めていた藩である。別名厳原藩(いづはらはん)。一般には単に対馬藩(つしまはん)と呼称されることが多い。「府中」は当時厳原の城下町をこう称していたことに由来する。藩庁は当初金石城(対馬市厳原町西里)、のち桟原城(対馬市厳原町桟原)。藩主は宗氏で初代藩主義智以来、位階は従四位下を与えられ、官職は主に対馬守・侍従を称した。 対馬府中藩の在郷支配は近世諸藩のなかでも特殊な性格を有しており、兵農分離はあまり明確でなく、多くの地方給人があり、給人の下に名子・被官がいて、多くの点で中世的性格を保った。
見る 肥前国と対馬府中藩
小城市
小城市(おぎし)は、佐賀県の中央部に位置する市である。
見る 肥前国と小城市
小城郡
佐賀県小城郡の位置(薄黄:後に他郡に編入された区域) 小城郡(おぎぐん)は、佐賀県(肥前国)にあった郡。
見る 肥前国と小城郡
小城藩
小城藩(おぎはん)は、佐賀藩の支藩。藩主家は小城鍋島家。
見る 肥前国と小城藩
少弐経資
少弐 経資(しょうに つねすけ)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。少弐資能の子。少弐氏3代当主。
見る 肥前国と少弐経資
少弐頼尚
少弐 頼尚(しょうに よりひさ/よりなお)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将。少弐氏6代当主。
見る 肥前国と少弐頼尚
少弐資元
少弐 資元(しょうに すけもと)は、戦国時代の大名。少弐氏16代当主。
見る 肥前国と少弐資元
少弐資能
少弐 資能(しょうに すけよし)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将・御家人。少弐氏2代当主。
見る 肥前国と少弐資能
少弐氏
少弐氏(しょうにし、)は、日本の氏族の一つ。筑前、肥前など北部九州地方の御家人・守護大名。藤原北家秀郷流と称した武藤氏の一族。
見る 肥前国と少弐氏
少弐政資
少弐 政資(しょうに まさすけ)は、室町時代から戦国時代初期にかけての武将。少弐氏15代当主。筑前国高祖城主。初名は頼忠、父の死後家督を継ぐ際に8代将軍・足利義政より偏諱を受け政尚を名乗り、後、政資に改名。
見る 肥前国と少弐政資
山崎藩
山崎藩(やまさきはん)は、播磨国宍粟郡周辺を知行した藩。藩庁として山崎(現在の兵庫県宍粟市山崎町)に山崎陣屋が置かれた。宍粟藩(しそうはん)とも呼ばれる。
見る 肥前国と山崎藩
島原の乱
島原の乱(しまばらのらん)は、1637年(寛永14年)10月25日(1637年12月11日)から1638年(寛永15年)2月28日(1638年4月12日)まで、島原・天草地域で引き起こされた、百姓やキリスト教徒を主体とする江戸幕府への大規模な武力闘争事件である。島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)、島原・天草の乱(しまばら・あまくさのらん)、とも呼ばれる。 島原藩主の松倉勝家が領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てを行い、年貢を納められない農民、改宗を拒んだキリシタンに対し熾烈な拷問・処刑を行ったことに対する反発から発生した、江戸時代の大規模な反乱・内戦である。幕末の動乱時代を除けば最後の内戦であった。
見る 肥前国と島原の乱
島原半島
島原半島のランドサット衛星写真。スペースシャトル標高データにより陰影を付けた。 島原半島(しまばらはんとう)は、九州の西北にあって、西、そして南に向けてくの字状に突き出した陸地の南部から、3つに分かれる半島群のうち、もっとも左、南東に突き出す半島である。
見る 肥前国と島原半島
島原市
島原城の天守閣から望む島原駅・市役所方面 島原市(しまばらし)は、長崎県南東部の島原半島にある市。島原半島の中心都市。島原城や武家屋敷など旧城下町の街並みが残り、市内に湧水群のある観光都市である。有明海(島原湾)を介して、フェリーや高速船で結ばれている対岸の熊本市や大牟田市などとの関係も深い。旧南高来郡。
見る 肥前国と島原市
島原藩
島原城 島原藩(しまばらはん)は、肥前国島原周辺を支配した藩。初期は日野江藩(ひのえはん)と呼ばれる。藩庁は初期は日野江城(長崎県南島原市)、のち島原城(長崎県島原市)。徳川譜代の高力氏、十八松平の深溝松平家が配され天領である長崎の監督、譜代の小倉藩と同様、九州の外様大名に対する目付役を担った。
見る 肥前国と島原藩
上国
上国(じょうこく、じょうごく)とは、律令国の等級区分の一つである。
見る 肥前国と上国
中原町 (佐賀県)
中原町(なかばるちょう)は、佐賀県三養基郡にあった町。旧養父郡。 1971年4月1日町制施行。2005年3月1日、北茂安町、三根町と新設合併し、みやき町が発足、自治体としての中原町は消滅した。
丹南藩
丹南藩(たんなんはん)は、河内国丹南郡丹南村の丹南陣屋(現在の大阪府松原市丹南)を居所とした藩。譜代大名の高木家が江戸時代前期から幕末・廃藩置県まで治めた。石高は1万石。
見る 肥前国と丹南藩
三養基郡
佐賀県三養基郡の位置(1.基山町 2.上峰町 3.みやき町) 三養基郡(みやきぐん)は、佐賀県の郡。 以下の3町を含む。
見る 肥前国と三養基郡
三根郡
佐賀県三根郡の位置(薄黄:後に他郡に編入された区域) 三根郡(みねぐん)は、佐賀県(肥前国)にあった郡。
見る 肥前国と三根郡
三潴県
三潴県(みずまけん)は、明治4年(1871年)に筑後国を管轄するために設置された県。管轄地域は、当初は現在の福岡県筑後地方、のちに佐賀県が合併された。
見る 肥前国と三潴県
一宮
一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮、一ノ宮、一之宮などとも書く。
見る 肥前国と一宮
一色範光
一色 範光(いっしき のりみつ)は、南北朝時代の武将、守護大名。一色氏5代当主。
見る 肥前国と一色範光
一色直氏
一色 直氏(いっしき なおうじ / ただうじ)は、南北朝時代の武将、守護大名。一色氏4代当主。室町幕府の第2代九州探題。
見る 肥前国と一色直氏
九州千葉氏
九州千葉氏(きゅうしゅうちばし)は、日本の氏族である。
見る 肥前国と九州千葉氏
九州探題
九州探題(きゅうしゅうたんだい)とは、室町幕府の軍事的出先機関である。当初は鎮西管領(ちんぜいかんれい)とも称された。
見る 肥前国と九州探題
平為賢
平 為賢(たいら の ためかた、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。平維幹の四男。肥前伊佐氏(伊佐平氏)、薩摩平氏(鎮西平氏)の祖野口実『中世東国武士の研究』戎光祥出版、2020年。
見る 肥前国と平為賢
平戸
平戸 特記以外の読みは「ひらど」。
見る 肥前国と平戸
平戸島
平戸島(ひらどじま)は、長崎県北部、北松浦半島の西海上にある島。全域が長崎県平戸市に属する。面積163.42kmは、島としては日本で20番目、長崎県で4番目の面積である。
見る 肥前国と平戸島
平戸市
北松浦半島側から見た平戸市中心部 平戸城から見た平戸瀬戸(対岸が北松浦半島) 平戸市(ひらどし)は、長崎県の北西部、平戸島とその周辺を行政区域とする市である。中心の平戸地区は旧平戸藩松浦氏の城下町で、鎖国前は中国やポルトガル、オランダなどとの国際貿易港だった。 現在の平戸市は2005年10月1日に(旧)平戸市と周辺の北松浦郡田平町・生月町・大島村とが合併(新設合併)して発足したもので、市役所は旧平戸市役所の建物が引き続き使用されている。 平戸市は九州のほか本州・北海道・四国・沖縄本島を総称する日本本土において、本土内に領域を持ちながら行政中心地は島嶼部に所在する自治体のひとつである。これは他に山口県上関町、北海道浜中町の2つしかない。(旧)平戸市は平戸島および度島など離島のみを市域としていたが、九州本土側を町域としていた田平町が合併に加わったため現在の形となった。
見る 肥前国と平戸市
平戸藩
平戸城 平戸藩(ひらどはん)は、肥前国松浦郡と彼杵郡の一部、および壱岐国を領した藩。藩庁は平戸城(現在の長崎県平戸市)。
見る 肥前国と平戸藩
五島市
石田城大手門 福江の武家屋敷通り 高浜海水浴場 五島市(ごとうし)は、長崎県の西部、五島列島の南西部に位置する市。
見る 肥前国と五島市
五島純玄
五島 純玄(ごとう すみはる)は、戦国時代から安土桃山時代の大名。初めは宇久(うく)次郎純玄を名乗り、宇久氏第20代当主、五島氏の初代。
見る 肥前国と五島純玄
五島氏
五島氏(ごとうし、ごしまし)は、武家・華族だった日本の氏族。肥前国松浦郡宇久島を本拠とする宇久氏が五島列島を平定して1592年に五島と改姓したのに始まる。江戸時代にも福江藩(五島藩)主家として五島列島を領有し、明治に華族の子爵家に列した。
見る 肥前国と五島氏
今山の戦い
今山の戦い(いまやまのたたかい)は、元亀元年(1570年)4月から始まった豊後の戦国大名・大友宗麟軍と肥前の戦国大名・龍造寺隆信軍との戦い。特に元亀元年8月20日(1570年9月19日)に行われた激戦が有名であり、この日の戦闘を指して今山合戦とする場合もある。。
見る 肥前国と今山の戦い
今川仲秋
今川 仲秋(いまがわ なかあき)は、南北朝時代後期から室町時代前期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、遠江・尾張守護。今川氏の分家・遠江今川氏の第2代当主。初名は国泰(くにやす)、後に頼泰(よりやす)、仲秋と名乗る。法名は仲高(ちゅうこう)。父は今川範国、兄に範氏、貞世(了俊)、氏兼。子に貞秋(さだあき)、氏秋(うじあき)、直秋(なおあき)、国秋(くにあき)。官位は中務少輔、右衛門佐。 正平23年/応安元年(1368年)に次兄了俊の後任として侍所頭人兼山城守護に就任。続く建徳2年/応安4年(1371年)には九州探題に就任した兄に従い長門から九州肥前に下向、翌文中元年/応安5年(1372年)2月に肥前に攻めてきた菊池武政を破って筑前に上陸していた兄の軍勢と合流、大宰府を落とした。以後は兄の代官として肥前に赴き、松浦党の結集と南朝勢力の駆逐に務めた。
見る 肥前国と今川仲秋
今川貞世
今川 貞世(いまがわ さだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、守護大名。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねた。歌人としても名高い。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれることも多い。没年は異説あり。『難太平記』の著者である。
見る 肥前国と今川貞世
仁和寺
双ヶ岡より仁和寺を望む 仁和寺(にんなじ)は、京都市右京区御室大内にある真言宗御室派の総本山の寺院。山号は大内山。本尊は阿弥陀如来。開基(創立者)は宇多天皇。「古都京都の文化財」の構成資産として、世界遺産に登録されている。
見る 肥前国と仁和寺
令制国
北海道11か国(ただし、千島を除く)追加を反映した。 令制国(りょうせいこく)とは、日本の律令制に基づき設置された日本の地方行政区分であり律令国(りつりょうこく)ともいう。古墳時代以後、飛鳥時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位だった。現在は行政区分としての機能は失われ、単なる地理的区分となっている。ただし、その地理的区分としての機能も都道府県に取って代わられつつある。 令制国の行政機関を国衙(こくが)または国庁(こくちょう)といい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府(こくふ、こう)や府中といった。
見る 肥前国と令制国
延喜式神名帳
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見る 肥前国と延喜式神名帳
任官
任官(にんかん)とは、官職に任用されることをいう。古くは奈良時代の律令制導入の際より日本の官制において用いられた用語であり、今日の政府や国家機関等においても使用されている。今日では国家公務員の職、特に裁判官、検察官、自衛官(即応予備自衛官、予備自衛官を含む)、警察官、海上保安官、刑務官、労働基準監督官などに任ぜられる場合に用いられる。対義語は「免官」、「退官」。 なお、関連用語として、「任官拒否」という用語もある。用法としては、司法修習修了者のうち、裁判官等への任官を希望したのに拒否された場合に用いられ、その他には防衛大学校卒業者が自衛官への任官を拒否する場合にも用いられ、「任官辞退」とも呼ばれる。なお、国家公務員が異なる官庁・職種に転じる場合、転官ともいう。
見る 肥前国と任官
廃藩置県
1872年(明治4年12月)の地方行政区画(冨山房『大日本読史地図』) 廃藩置県(はいはんちけん、)は、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。ただし、沖縄県の近代史においては、琉球処分の一環として明治12年(1879年)に琉球藩を廃して沖縄県を設置したことを指す(#その他の異動を参照)。 300弱の藩を廃止してそのまま国直轄の県とし、その後県は統廃合された。2年前の版籍奉還によって知藩事とされていた大名には藩収入の一割が約束され、東京居住が強制された。知藩事および藩士への俸給は国が直接支払い義務を負い、のちに秩禄処分により削減・廃止された。また、藩の債務は国が引き継いだ。
見る 肥前国と廃藩置県
伊万里市
伊万里市街地遠景 伊万里市(いまりし)は、佐賀県の西部にある市である。かつて伊万里港から積み出しを行っていた磁器(伊万里焼)で有名である。
見る 肥前国と伊万里市
佐世保市
アルカスSASEBO 佐世保市(させぼし、させほし)は、長崎県の北部地方にある市。 県北部の中心都市で、長崎県では長崎市に次いで2番目、九州では9番目に多い人口を擁し福岡市、北九州市、熊本市、鹿児島市、大分市、長崎市、宮崎市、久留米市に次ぐ。、中核市及び保健所政令市の指定を受けている。 明治時代に入り東彼杵郡最北端の寒村にすぎなかった佐世保村 に日本海軍の鎮守府(佐世保鎮守府)や海軍工廠(佐世保海軍工廠)が設置され、それ以降は造船および軍港の町・軍都として発展した。第二次世界大戦終結後から現在にいたるまでも、海上自衛隊佐世保基地及び在日米海軍佐世保基地が所在しており、海上防衛の重要な拠点となっている。
見る 肥前国と佐世保市
佐賀市
佐賀市中心部の航空写真。(中央やや右下に「逆コの字型」の佐賀城跡の堀がある) 佐賀市中心部の様子。(佐賀県庁より佐賀駅方面の眺め) 佐賀市中心部及び周辺住宅街。(佐賀県庁より東方面の眺め) 嘉瀬川の様子。 佐賀市(さがし)は、佐賀県中東部にある市。佐賀県の県庁所在地及び最大の都市で、経済・行政の中心地。県内最多の人口を擁し、施行時特例市、中枢中核都市に指定されている。 有明海から脊振山地までを縦断する市域を有し、市街地は佐賀平野の中心付近に位置する。秋には嘉瀬川河川敷を中心に佐賀インターナショナルバルーンフェスタが開催され、熱気球の街として賑わう。
見る 肥前国と佐賀市
佐賀県
佐賀県シンボルマーク 佐賀県(さがけん)は、日本の九州地方に位置する県。県庁所在地は佐賀市。 お茶や唐津・伊万里・有田などの古くからの陶磁器の産地として有名で、玄界灘と有明海の2つの海に接する。令制国の肥前国東部に相当する。明治の府県制成立の際、同国は佐賀県と長崎県の2県として分立した。九州地方の中では最も面積、経済規模が小さい県である。一方、人口密度は全国で16番目に高く、広島県滋賀県宮城県と近い人口密度がある。
見る 肥前国と佐賀県
佐賀郡
佐賀県佐賀郡の位置(水色:後に他郡から編入した区域) 佐賀郡(さがぐん)は、佐賀県(肥前国)にあった郡。 明治初期に成立した佐賀市および佐賀県の名は当郡に由来する。
見る 肥前国と佐賀郡
佐賀藩
佐賀城の鯱の門 佐賀藩(さがはん)は、肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島家が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)に置いた。 藩主ははじめ龍造寺家、後に鍋島家。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩があった。
見る 肥前国と佐賀藩
彼杵郡
長崎県彼杵郡の位置 彼杵郡(そのぎぐん)は、長崎県(肥前国)にあった郡。
見る 肥前国と彼杵郡
志々伎神社
志々伎神社(しじきじんじゃ)は、長崎県平戸市野子町にある神社。志志伎神社あるいは志自伎神社とも表記する。式内小社、旧社格は県社。九州各地に志々岐・志式・志自岐として分社がある。規模が大きく県下の式内社で最大。ここに古くから伝わる神相撲は、今日の相撲の原形といわれる。平戸全島で行われるジャンガラも当社から広まったものである。
見る 肥前国と志々伎神社
地方知行
地方知行(じがたちぎょう)とは、江戸時代に将軍あるいは大名が家臣に対して禄として与える知行を所領(地方〈じかた〉と呼ばれる土地)およびそこに付随する百姓の形で与え、支配させること。将軍が大名に土地を与える場合には特に大名知行(だいみょうちぎょう)と呼ばれている。 ここにおける地方知行の解説に大名知行は含めないが、必要に応じて大名知行の例についても言及するものとする。
見る 肥前国と地方知行
北高来郡
長崎県北高来郡の位置(薄黄:後に他郡に編入された区域) 北高来郡(きたたかきぐん)は、長崎県にあった郡である。 長崎県内では、略して北高(ほっこう)とも呼んだ。
見る 肥前国と北高来郡
北条定宗
伝北条時宗像、実際には定宗像とも。 北条 定宗(ほうじょう さだむね、文永5年(1268年) - 永仁3年8月19日(1295年9月29日))は、鎌倉時代後期の武将。北条氏の一門。阿蘇流2代当主。鎌倉幕府8代執権・北条時宗の甥にあたる。 時宗の異母弟で、得宗家傍流である桜田時厳の子。阿蘇家の祖・北条時定の養子。阿蘇定宗とも呼ばれる。肥前国守護、修理亮、大友左近大夫将監。 元寇に際して鎮西に下向した大叔父である北条時定の養子となり、阿蘇家の家督を継ぐが、時定の死去から5年後の永仁3年(1295年)8月19日、現地で死去。享年28。 家督は子の随時が継いだ。墓所は熊本県阿蘇郡満願寺。 北条時宗像として知られる満願寺所蔵の肖像画は、各史料から実際には定宗の肖像と見られている。
見る 肥前国と北条定宗
北条藩
北条藩(ほうじょうはん)は、安房国安房郡北条村(現在の千葉県館山市北条)を居所とした藩。1638年の立藩以後、屋代家が3代約70年にわたって治めたが、1711年に発生した万石騒動によって改易された。中断期間を挟んで1725年に水野家が入り、3代約100年にわたって存続、1827年に上総国鶴牧藩に移封されて廃藩となった。
見る 肥前国と北条藩
北条時定 (時氏流)
北条 時定(ほうじょう ときさだ)は、鎌倉時代中期の北条氏の一門。北条時氏の三男。母は松下禅尼で、第4代執権・北条経時、第5代執権・北条時頼の同母弟にあたる。得宗家から鎮西に下向した阿蘇家の祖。諱はのちに為時(ためとき)と改名している。
北松浦郡
長崎県北松浦郡の位置(1.小値賀町 2.佐々町) 北松浦郡(きたまつうらぐん)は、長崎県の郡。長崎県内では所在・管轄する地域を示す郡名の略称として北松(ほくしょう)とも呼ばれる。 以下の2町を含む。
見る 肥前国と北松浦郡
ポルトガル王国
ポルトガル王国(ポルトガルおうこく、Regnum Portugalliae, )は、イベリア半島西部、現在のポルトガルにあたる地域(当初はその一部)に1139年から1910年まで存在した王国である。1415年から1580年までは、1815年から1821年まではポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国としても知られている。また、海外植民地を含めたポルトガル帝国を指すこともある。
見る 肥前国とポルトガル王国
レトヴィザン (戦艦)
ヰザン#達明治38年9月p.13『達第百三十七號 戰利軍艦「レトヴヰザン」ヲ肥前ト命名セラル 明治三十八年九月二十四日 海軍大臣男爵山本権兵衛』、(こんな表記現在では使わないでしょう。冒頭に載せる必要があるとは思えない)-->レトヴィザン、レトウィザン#福井世界戦艦307頁『(5)レトウィザン(Retvisanのちの肥前)』、レトヴィザーン(ロシア語:Ретвизанリトヴィザーン)は、ロシア帝国海軍の戦艦。 日露戦争の旅順攻囲戦で沈没。 引揚げ後、修理されて日本海軍の戦艦「肥前」となった#帝国軍艦帖コマ38-39『戰艦肥前(舊名レトウヰザン) 一、進水年月日 明治三十三年(月日不明)/一、排水量 一萬二千七百二十五噸/一、馬力 一萬六千馬力/一、速力 十九節七/一、主砲 四十口經露式十二吋砲四門、六吋砲十二門/一、建造地及建造所 米國費府クラムブ造船所/一、日清戰爭に参加したる際重要なる事項 /一、日露戰爭に参加したる際需要なる事項 露國太平洋第一艦隊に属し、旅順口にありて皇國海軍に對抗すること数月、終に明治三十七年十二月六日旅順西港内に於て我軍の爲め撃沈せられ、三十八年九月二十二日浮揚同二十四日肥前と命名せられ、帝國軍艦に列せらる/一、日獨戰爭に参加したる際重要なる事項 大正三年十月八日艦長川浪海軍大佐式下に横須賀軍港出發布哇「ホノルヽ」沖に至り獨砲艦「ガイヱル」を監視し同十一月八日之が武装解除を行はしめ爾後森田遣米枝對司令官の指揮下に入り南北米西海岸に遊弋索敵行動を取り四年二月十四日横須賀軍港に凱旋す/一、其他特に重要なる事項 明治四十四年艦長依田海軍大佐指揮下に第一艦隊に属し海軍戰技に於て第一等の集合成蹟を擧げ戰技優勝旗を授けられ御下賜品(銀盛花鉢一個)を辱ふす 以上』。 艦名は旧国名の肥前国に由来する#幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ72(原本110頁)『肥前(ひぜん) 艦種一等戰艦 二檣(戰闘檣あり) 艦名考國名なり、肥前國に採る。艦歴米國費府造船所に於て建造、明治33年進水、舊露國軍艦、原名「レトヴヰザン」。日露戰役中露國太平洋艦隊に属し明治37年8月10日黄海々戰に参加、後ち旅順港内に於て破壊沈没、同38年1月1日(旅順の露軍降伏開城の日)我が海軍之が収容引揚に着手、同年9月24日帝國軍艦と定め「肥前」と命名、同年12月戰艦の等級を廢せらる。大正3乃至9年戰役(日獨)從軍:同3年10月遣米支隊に属し布哇・北米・中米方面の警備(艦長大佐川浪安勝)、同7年7月第三艦隊に属し露領沿岸警備(艦長大佐生野太郎八)、同8年9月同前の任務に就く(艦長大佐匝瑳胤次)、同10年一等海防艦に編入、同12年9月20日除籍、廢棄(華府條約による)。―要目― 長372呎/幅72呎/吃水24.9呎/排水量12,700噸/機關 三汽筩聯成汽機2基、ニクローズ式/馬力16,000/速力18/乗組人員750/船材 鋼(甲帶225粍)/兵装 12吋砲 4/6吋砲 12/12听砲 14/5听砲 4/機砲 4/發射管 2/起工 明治31-12/進水 同33-10-23/竣工 同35-3-25/建造所 米國費府』。
ロシア海軍
ロシア海軍(ロシアかいぐん、Военно-морской флот、略称: ВМФ)は、ロシアの海軍。ロシア連邦軍の軍種。また密接な関係があるロシア帝国海軍、ソビエト連邦海軍についてもあわせて扱う。
見る 肥前国とロシア海軍
嘉瀬川
嘉瀬川(かせがわ)は、佐賀県中東部を流れる嘉瀬川水系の本流で、一級河川である。 毎年11月に河川敷で佐賀インターナショナルバルーンフェスタが行われることで有名である。また上流には北山ダムや嘉瀬川ダム、川上峡があり、周辺は観光地になっている。
見る 肥前国と嘉瀬川
スペイン
スペイン王国(スペインおうこく、)、もしくはスペイン国(スペインこく、)、通称スペイン()は、南ヨーロッパのイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める議会君主制国家。首都はマドリード。スペイン本土以外に、西地中海のバレアレス諸島やアルボラン海のアルボラン島、大西洋のカナリア諸島、北アフリカの飛地領土のセウタとメリリャを有しており、モロッコ沿岸部にもいくつか領土がある(プラサス・デ・ソベラニア)。 西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランスとアンドラ、アフリカ大陸にあるセウタとメリリャではモロッコと陸上国境を接する。
見る 肥前国とスペイン
唐
唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国であり、中央アジアや東南アジア、北東アジア諸国(朝鮮半島や渤海、日本など)に政制・文化などの面で多大な影響を与えた。首都は長安に置かれた。
見る 肥前国と唐
唐津市
虹の松原(国の特別名勝) 浜玉町の海岸(玄海国定公園) 唐津市(からつし)は、佐賀県の北西に位置し玄界灘に面する市。北部地域の中心都市として栄え、佐賀県内では、佐賀市に次いで第二位の市域人口を有する。
見る 肥前国と唐津市
唐津藩
唐津藩(からつはん)は、肥前国唐津を支配した藩。居城は唐津城(佐賀県唐津市)。
見る 肥前国と唐津藩
前弩級戦艦
三笠(1905年頃) ブレニュス(1889年建造)。 テキサス(1892年建造)。(1898年頃の着色写真) オーシャン。前弩級戦艦の典型。 前弩級戦艦(ぜんどきゅうせんかん、Pre-dreadnought battleship)とは、戦艦の初期の形態を指し、1890年代中頃から建造が始まり、弩級戦艦が登場した1906年までの期間に建造された。 1870-1880年代の装甲艦に代わって主力艦として登場したが、弩級戦艦の登場によりその地位を譲った。
見る 肥前国と前弩級戦艦
前田利常
前田 利常(まえだ としつね)は、江戸時代初期の武将・大名。加賀藩の第2代藩主。加賀前田家3代。
見る 肥前国と前田利常
前田利長
前田 利長(まえだ としなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。加賀藩初代藩主。加賀前田家2代。藩祖である前田利家の長男(嫡男)。初名は利勝(としかつ)、天正17年(1589年)頃に利長と改名した。 若年より織田信長・豊臣秀吉旗下の指揮官として転戦した。秀吉の死後は政治的判断をした上で徳川家康に帰順し、江戸幕府成立後に加賀藩の礎を築いた。
見る 肥前国と前田利長
前田綱紀
前田 綱紀(まえだ つなのり)は、加賀藩4代藩主。加賀前田家第5代。最後の女帝・後桜町天皇の外曾祖父。
見る 肥前国と前田綱紀
前田重教
前田 重教(まえだ しげみち)は、加賀藩の第9代藩主。加賀前田家10代。第5代藩主・前田吉徳の七男で、母は側室の流瀬(辻氏・実成院)。吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖、重教、治脩)のうち4番目の藩主である。
見る 肥前国と前田重教
前田氏
前田氏(まえだし)は、武家・華族だった日本の氏族。戦国時代に尾張前田家の前田利家が台頭し、江戸時代には加賀藩主を務め、維新後には華族の侯爵家となった。通字は「利」(とし)。
見る 肥前国と前田氏
前田斉広
前田 斉広(まえだ なりなが)は、加賀藩の第11代藩主。加賀前田家12代。第9代藩主・前田重教の次男。
見る 肥前国と前田斉広
勅旨牧
勅旨牧(ちょくしまき)は、奈良時代の日本において、文武天皇の勅旨により開発が始まった牧であり、馬寮などが用いる軍馬などの供給源とされた。御牧(みまき)とも。官牧には、ほかに諸国牧、近都牧が存在した。
見る 肥前国と勅旨牧
国司
国司(こくし、くにのつかさ、くにのみこともちは、古代から中世の日本で、地方行政単位である国を支配する行政官として朝廷から任命され派遣された中央官吏たちを指す。 守(かみ)(=長官)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)が派遣された(四等官)。さらにその下に史生(ししょう)、博士、医師などが置かれており、広義では国司の中に含めて扱われていた。 守の唐名は刺史、太守など。大国、上国の守は比較的に位階の高い貴族が任命され、中央では中級貴族に位置する。 任期は6年(のちに4年)だったが、実際には任期が終わらないうちに交代している者が多かった。国司たちは国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、赴任した国内では絶大な権限を与えられた。
見る 肥前国と国司
国府
国府(こくふ/こう)は、日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市。 国府付近には国庁のほかにも国分寺・国分尼寺、総社(惣社)が設置され、各国における政治的中心都市であるとともに司法・軍事・宗教の中心部であった。なお『和名抄』によると、古くは「国」ではなく「島」とされた壱岐や対馬には「島府」が置かれたとされる(まだ確定はされていない)。 律令制の衰退にともない立地の優位性を失い廃れたり所在不明になった国府もある一方、いくつかの国府所在地は、現在でも静岡市・姫路市・岡山市・大分市など大きな都市として発展している。
見る 肥前国と国府
国衙
国衙(こくが)は、日本の律令制において国司が地方政務を執った役所が置かれていた区画である。 国衙に勤務する官人・役人(国司)や、国衙の領地(国衙領)を「国衙」と呼んだ例もある。 各令制国の中心地に国衙など重要な施設を集めた都市域を国府、またその中心となる政務機関の役所群を「国衙」、さらにその中枢で国司が儀式や政治を行う施設を国庁(政庁)と呼んだ。
見る 肥前国と国衙
火国
火国(ひのくに。火国別、ひのくにわけ。肥国。? - 8世紀)は、筑紫島(九州)にあった国の一つ。火国の範囲については、肥前国(長崎県、佐賀県)と肥後国(熊本県)を合わせたものであるという説と、肥後国は阿蘇国のあとであり火国とは必ずしも関連がないとする説など諸説ある。
見る 肥前国と火国
班田収授法
班田収授法(はんでんしゅうじゅほう、はんでんしゅうじゅのほう)とは、日本の律令制において施行された国家の農地(班田)の耕作権の支給・収容に関する法体系を指す。 この制度を班田収授制または班田制という。律令制の根幹制度の一つであり、田令で規定され、飛鳥時代後期から平安時代前期にかけて行われた。唐の均田制を参考にして作られた。 班田は輸租田 これに対し、不輸租田では収穫物全て(もしくは大半)を耕作者の直接収入とすることが認められた。の扱いであり、班給を受け耕作する者は収穫物の中から田租 田租は面積を基準としその公定収穫量の3%と規定された。を税として国へ収納し租・租税を国衙・郡衙へ移送し収納することを輸租と呼んだ。
見る 肥前国と班田収授法
神埼市
神埼市(かんざきし)は、佐賀県の東部にある市である。
見る 肥前国と神埼市
神埼郡
佐賀県神埼郡の位置(緑:吉野ヶ里町 薄黄:後に他郡に編入された区域) 神埼郡(かんざきぐん)は、佐賀県(肥前国)の郡。 以下の1町を含む。
見る 肥前国と神埼郡
神集島
神集島(かしわじま)は、東松浦半島北西部、唐津市湊町の沖約1kmの玄界灘に位置する島。佐賀県唐津市に属し、大字は唐津市神集島。 島の面積は約1.41kmで、人口は289人(2021年11月現在)である。 島名は神功皇后の新羅出兵に際して行われた儀式に由来する「 日本の地名がわかる事典,日本大百科全書」、コトバンク、2015年9月5日閲覧。唐津市街地から見た島の形が台形であり、その形から軍艦島と呼ばれることもある。古代には狛島と呼ばれた。なお、周辺では地域や年代等により他の俗称が多数ある。 玄海国定公園に含まれ、島内には海水浴場やキャンプ場(令和3年1月末現在休止中)がある。島の北部には、鬼塚古墳群と呼ばれる古墳時代後期の横穴式古墳群があり、また、ハマユウの群落は唐津市の天然記念物に指定されている。
見る 肥前国と神集島
福岡藩
舞鶴公園 福岡城下の橋大手門 福岡藩領域図(慶長期) 福岡藩(ふくおかはん)は、江戸時代に筑前国のほぼ全域を領有した大藩。筑前藩とも呼ばれる。藩主が黒田氏であったことから黒田藩という俗称もある。藩庁は福岡城(現在の福岡県福岡市)に置かれた。歴代藩主は外様大名の黒田氏。支藩として秋月藩、また一時、東蓮寺藩(直方藩)があった。
見る 肥前国と福岡藩
福江藩
福江藩(ふくえはん)は、江戸時代の肥前国において、五島列島全域を治めた藩。五島藩(ごとうはん)とも呼ばれる。藩の成立から版籍奉還まで外様大名の五島家が藩主を務めた。石高は1万5000余石(一時、富江領に3000石を分知し、1万2000余石となる)で、藩庁は石田城(当初は江川城。現在の長崎県五島市)で城主大名だった。
見る 肥前国と福江藩
筑後川
筑後川(ちくごがわ)は、阿蘇山を水源として九州地方北部を東から西に熊本・大分・福岡・佐賀の4県を流れ有明海に注ぐ川である。 河川法に基づき国土交通省政令によって1965年(昭和40年)に指定された一級水系・筑後川水系の本流で、一級河川に指定されている。流路延長143.0キロメートル、流域面積約2,860平方キロメートルの河川で、規模としては九州地方最大の河川である。 筑紫次(二)郎(つくしじろう。“西国にある日本第2の大河”の意)の別名で呼ばれることもあり、利根川(坂東太郎)・吉野川(四国三郎)とともに日本三大暴れ川のひとつと言われる。また、上流部では田の原川・杖立川・大山川・三隈川とも呼ばれる(詳細は後述)。
見る 肥前国と筑後川
筑前国
筑前国(ちくぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、福岡県の大部分に属する。
見る 肥前国と筑前国
続日本紀
『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らによって延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。略称は続紀(しょっき)。
見る 肥前国と続日本紀
総社
備中国総社宮(岡山県総社市)創祀当時に備中国にあった神社計304社を合祀する。 総社、惣社(そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)とは、日本で、特定地域内の神社の祭神を集めて祀った(。
見る 肥前国と総社
織田長亮
織田 長亮(おだ ながあき)は、江戸時代中期の大名。大和国芝村藩6代藩主。通称は又助。官位は従五位下・肥前守。長政流織田家6代。
見る 肥前国と織田長亮
美濃国
美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。
見る 肥前国と美濃国
県犬養吉男
県犬養 吉男(あがたいぬかい の よしお、生没年不詳)は、奈良時代の貴族。姓は宿禰。官位は従五位下・伊予介。
見る 肥前国と県犬養吉男
生月島
夏の生月島(里免付近、2014年(平成26年)7月)。向こう側の海に浮かぶのは的山大島と度島。 生月島(いきつきしま)は、長崎県の平戸島の北西にある島(有人島)である。全島が長崎県平戸市に属する(2005年10月1日の現平戸市発足以前は北松浦郡生月町)。
見る 肥前国と生月島
田島神社
田島神社(たしまじんじゃ)は、佐賀県唐津市呼子町(旧肥前国松浦郡呼子)の加部島にある神社。地域は魏志倭人伝の中で倭国本土の最初の地として登場する末盧国にあたる。大陸への最も安全な渡海ルートの要所であり、上代以来中央政府の重用を受けてきた。古代においては「田島坐神社(たじまにゐますかみのやしろ)」として記録されている。肥前国唯一の名神大社で、肥前国一之宮と見られた時代もあった。明治時代の改新による旧社格は国幣中社。現在は神社本庁の別表神社。社紋は「桜紋」。大きく分けて4種類の桜紋が境内にあるが、現在は向桜紋が御朱印に使われている。山上憶良が歌に詠んだ松浦佐用姫ゆかりの神社。宗像大社の元宮(ルーツ)ともいわれる。
見る 肥前国と田島神社
田手畷の戦い
田手畷の戦い (たでなわてのたたかい)は、享禄3年(1530年)、北部九州の覇権をめぐり周防国の大名大内氏と肥前国の大名少弐氏との間で起きた戦い。
見る 肥前国と田手畷の戦い
町奉行
町奉行(まちぶぎょう)とは、江戸時代の職名で、領内の都市部(町方)の行政・司法を担当する役職。幕府だけでなく諸藩もこの役職を設置したが、一般に町奉行とのみ呼ぶ場合は幕府の役職である江戸の町奉行のみを指す。また、江戸以外の天領都市の幕府町奉行は大坂町奉行など地名を冠し遠国奉行と総称する。なお、後北条氏の例のように、江戸時代以前に町奉行という役職が用いられたこともある。
見る 肥前国と町奉行
相良前頼
相良 前頼(さがら さきより、生年不詳)は、南北朝時代の武将。相良氏の第7代当主。第6代当主相良定頼の長男。幼名は伊井之助、通称は近江守。法名は立阿。
見る 肥前国と相良前頼
白村江の戦い
白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との間の戦争のことである。
見る 肥前国と白村江の戦い
百済
百済(くだら/ひゃくさい、朝鮮語:백제〈ペクチェ〉、旧字体:百濟、4世紀前半? - 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。当時の朝鮮半島には、百済の他に、北部から満洲地方にかけて高句麗が、南東部に新羅が、南部には伽耶諸国がそれぞれ存在しており、朝鮮史の時代区分では三国時代と呼ばれている。
見る 肥前国と百済
芝村藩
芝村藩(しばむらはん)は、大和国式上郡芝村(現在の奈良県桜井市芝)に存在した藩。もとは戒重村(現在の奈良県桜井市戒重)に陣屋を構えていたため、戒重藩(かいじゅうはん)とも呼ばれるが、第7代藩主・織田輔宜の代に移転した。
見る 肥前国と芝村藩
鎮西奉行
鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)とは、鎌倉幕府成立期において、鎮西(九州)の御家人の指揮統制を行った職である。鎮西守護(ちんぜいしゅご)とも呼ばれる。
見る 肥前国と鎮西奉行
鎮西探題
鎮西探題(ちんぜいたんだい)は、鎌倉時代に幕府が西国(九州)の統括のために設置した機関である。行政・訴訟(裁判)・軍事などを管轄した。
見る 肥前国と鎮西探題
鎌倉幕府
鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、源頼朝が創設した日本の武家政権。この時代を鎌倉時代という。 頼朝の死後、幕府に仕えた坂東武士(御家人)の権力闘争によって、頼朝の嫡流(源氏将軍)は断絶し、その後は北条氏による執権、やがて北条義時の嫡流である得宗、さらに末期はその陪臣である内管領が鎌倉幕府の実質的な支配者となった。元弘3年(1333年)閏2月に船上山で後醍醐天皇が挙兵すると、幕府は北条高家と足利高氏を鎌倉方の総大将として派遣するが、同年4月27日に北条高家が戦死し、4月29日に高氏が反幕府側に寝返ると、5月8日に関東で新田義貞が寝返って鎌倉に攻め入り、短期間のうちに形勢が変わり、同年5月22日に鎌倉幕府は滅亡した。鎌倉幕府が築いた武家政権の基礎は、室町幕府および江戸幕府へと継承された。
見る 肥前国と鎌倉幕府
遠国
遠国(おんごく、えんごく)とは、律令国の等級区分の一つである。 古代日本の律令制の下において、地方行政区画の一環として、畿内からの距離によって国を分けた。その結果、「遠い位置にある国」が遠国とされた。「近国」「中国」「遠国」の3分類の中で最も数が多い。
見る 肥前国と遠国
遣唐使
遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と同等に交易・外交をしていたと記して対等な姿勢をとろうとしたが、唐の認識として朝貢国として扱い『旧唐書』や『新唐書』の記述では、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国大陸では618年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。 舒明天皇2年(630年)に始まり、以降十数回にわたって200年以上の間、遣唐使を派遣した。最終は承和5年(838年)。さらにその後、寛平6年(894年)に56年ぶりに使節派遣の再開が計画されたが、907年に唐が滅ぶと、そのまま消滅する形となった。 遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・仏僧・芸術工芸など多くのジャンルに人材を供給した。
見る 肥前国と遣唐使
荒穂神社
荒穂神社(あらほじんじゃ)は、佐賀県三養基郡基山町にある神社。基山南麓にある宮浦字宮脇に鎮座している 広報きやま(H29.9.15)基山町。社格は式内小社、県社。
見る 肥前国と荒穂神社
鍋島直正
鍋島 直正(なべしま なおまさ、文化11年12月7日〈1815年1月16日〉- 明治4年1月18日〈1871年3月8日〉)は、江戸時代末期の大名。肥前佐賀藩10代藩主。9代藩主・鍋島斉直の十七男。母は池田治道の娘・幸。正室は徳川家斉の十八女・盛姫(孝盛院)、継室は徳川斉匡の十九女・筆姫。李晋・李玖兄弟は玄孫。明治維新以前の諱は斉正(なりまさ)。号は閑叟(かんそう)。「佐賀の七賢人」の一人。
見る 肥前国と鍋島直正
鍋島氏
鍋島氏(なべしまし)は、武家・華族だった日本の氏族。戦国時代に龍造寺氏の重臣家として台頭し、近世に肥前国佐賀藩藩主家となり、維新後に華族の侯爵家に列する。
見る 肥前国と鍋島氏
鍋島治茂
鍋島 治茂(なべしま はるしげ)は、肥前鹿島藩7代藩主、のち肥前佐賀藩8代藩主。佐賀藩第5代藩主・鍋島宗茂の十男で、第6代藩主・宗教と第7代藩主・重茂の弟。藩政の抜本的な改革に着手した名君として知られ、佐賀藩中興の祖と呼ばれている。肥前守、大名当主名「松平肥前守治茂」。 鹿島藩主時代は直煕(なおひろ)、佐賀藩主となってからは将軍徳川家治から偏諱の授与を受けて治茂と名乗った。
見る 肥前国と鍋島治茂
鍋島斉直
鍋島 斉直(なべしま なりなお)は、肥前佐賀藩の第9代藩主。第8代藩主・鍋島治茂の長男。母は側室・福岡氏。正室は池田治道の娘(浄諦院)。側室に石井尚方の娘、石井本昭の娘など。幼名は祥太郎。初名は直懿(なおたか)。
見る 肥前国と鍋島斉直
菊池武光
菊池 武光(きくち たけみつ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。菊池氏第15代当主。第12代当主・菊池武時の子で九男とも。
見る 肥前国と菊池武光
菊池武澄
菊池 武澄(きくち たけずみ、生年不詳 - 正平11年/延文元年6月29日(1356年7月27日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。菊池氏第12代当主・菊池武時の子。子に菊池武安。詫磨(詫間)氏の祖で、菊池氏第25代当主となる菊池武包は来孫にあたる。
見る 肥前国と菊池武澄
風土記
風土記(ふどき)とは、一般には地方の歴史や文物を記した地誌のことを指すが、狭義には、日本の奈良時代に地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた報告書をさす。正式名称ではなく、ほかの風土記と区別して「古風土記」ともいう。律令制度の各国別で記されたと考えられ、幾つかが写本として残されている。
見る 肥前国と風土記
飛地
飛地(とびち、飛び地)とは、一つの国および地域の領土や行政区画、町会等のうち、地理的に分離している一部分である。土地の一部が「他所に飛んでいる」と見られることからこう呼ばれる。
見る 肥前国と飛地
養父郡 (佐賀県)
佐賀県養父郡の位置(水色:後に他郡から編入した区域) 養父郡(やぶぐん)は、佐賀県(肥前国)にあった郡。
西彼杵郡
長崎県西彼杵郡の位置(1.長与町 2.時津町 水色:後に他郡から編入した区域) 西彼杵郡(にしそのぎぐん)は、長崎県の郡。 長崎県内では所在・管轄する地域を示す郡名の略称として西彼(せいひ)とも呼ばれる。 以下の2町を含む。
見る 肥前国と西彼杵郡
西松浦郡
佐賀県西松浦郡の位置(緑:有田町) 西松浦郡(にしまつうらぐん)は、佐賀県の郡。 以下の1町を含む。
見る 肥前国と西松浦郡
西海市
西海市(さいかいし)は、長崎県西彼杵半島の北部に位置する市。
見る 肥前国と西海市
西海道
西海道(さいかいどう、にしのみち)は、五畿七道の一つ。九州とその周辺の島々の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。
見る 肥前国と西海道
角川日本地名大辞典
『角川日本地名大辞典』(かどかわにほんちめいだいじてん)は、角川書店の出版による日本の地名辞典。 竹内理三(「角川日本地名大辞典」編纂委員会委員長)は本書を制作する目的として「民族遺産としての地名を将来に伝えること」、現代の地名を収録したことについては「現代の社会生活上の必要を満たし、地域の現状を歴史として後世に伝えること」としている。1991年に毎日出版文化賞特別賞を受賞している。
諫早市
2005年3月の合併直前の諫早市域 諫早市(いさはやし)は、長崎県の中央部にある市。長崎市、佐世保市に次ぎ長崎県で第3位、九州では第14位の人口を有する都市である。「諌早市」は略字表記。
見る 肥前国と諫早市
高来郡
長崎県高来郡の位置 高来郡(たかきぐん)は、長崎県(肥前国)にあった郡である。肥前国風土記によると対岸の肥後国玉名郡から雲仙岳を眺めていた景行天皇が「あれは陸か島か」と神大野宿禰に命じ調べに行かせたところ、出迎えた山の神が「高来津座」と名乗ったことが地名の由来とされる。
見る 肥前国と高来郡
高木正善
高木 正善(たかぎ まさよし)は、江戸時代後期の大名。河内国丹南藩13代(最後)の藩主(知藩事)。官位は従五位下・肥前守。明治維新後は子爵。
見る 肥前国と高木正善
高木正豊
高木 正豊(たかぎ まさとよ)は、江戸時代中期の大名。河内国丹南藩の5代藩主。官位は従五位下・肥前守。
見る 肥前国と高木正豊
豊臣秀吉
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)は、戦国時代 - 安土桃山時代の日本の武将、戦国大名、公卿。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。織田信長の後を継いで天下を統一し、近世封建社会の基礎を築いた。官位は従一位、関白、太政大臣、贈正一位。 幼少期については様々な伝説があるものの明確にはなっておらず、木下藤吉郎秀吉として尾張の戦国大名織田信長に仕え、若くして織田家の有力武将となり、羽柴(はしば)に改名した。信長が支配領域を拡張する中で更に功績を上げ、長浜・但馬国・播磨国を領する織田家宿老の一人となった。毛利氏を討つため派遣された中国攻めの最中、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、急ぎ和睦して京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破った。さらに織田政権の主導権争いに勝利したことで、自らの政権を確立した(豊臣政権)。秀吉は武士として初めて関白となり、豊臣の姓を賜った。
見る 肥前国と豊臣秀吉
鳥栖市
鳥栖市役所旧庁舎 鳥栖ジャンクションの位置 鳥栖市(とすし)は、佐賀県の最東端に位置する市である。九州陸路交通の要衝であり、佐賀市、唐津市に次いで佐賀県では第3位の人口を擁している。鳥栖都市圏の中心都市である。1954年(昭和29年)市制施行。
見る 肥前国と鳥栖市
鶴牧藩
鶴牧藩(つるまきはん)は、上総国市原郡椎津村(現在の千葉県市原市椎津)を居所として、江戸時代後期から廃藩置県まで存続した藩。1827年、水野氏が1万5000石で入封した。
見る 肥前国と鶴牧藩
鹿島市
鹿島市(かしまし)は、佐賀県の南部にある市。旧藤津郡。
見る 肥前国と鹿島市
鹿島藩
鹿島藩(かしまはん)は、佐賀藩の支藩。藩主家は鹿島鍋島家。鹿島(佐賀県鹿島市)周辺を領有した。
見る 肥前国と鹿島藩
黒田宣政
黒田 宣政(くろだ のぶまさ)は、筑前福岡藩の第5代藩主。
見る 肥前国と黒田宣政
黒田綱政
黒田 綱政(くろだ つなまさ)は、江戸時代中期の大名。筑前東蓮寺藩3代藩主、のち筑前福岡藩4代藩主。
見る 肥前国と黒田綱政
龍造寺氏
龍造寺氏(りゅうぞうじし)は、日本の氏族。戦国時代に肥前国の東部の国人から、九州の北西部を支配する戦国大名に成長した一族である。信周・長信の子孫は龍造寺四家として残り、龍造寺嫡家は途絶えたが、龍造寺一門のその子孫や後裔は現在の佐賀県・長崎県諫早市・大村市などに点在する。龍造寺隆信は鍋島直茂の義兄である。
見る 肥前国と龍造寺氏
龍造寺政家
龍造寺 政家(りゅうぞうじ まさいえ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。肥前国の戦国大名。戦国大名としての龍造寺氏最後の当主。官位は従四位下・侍従、肥前守。
見る 肥前国と龍造寺政家
與止日女神社
與止日女神社(よどひめじんじゃ、与止日女神社)は、佐賀県佐賀市にある神社。式内社、肥前国一宮で、旧社格は県社。 「淀姫神社」とも表記され、別称として「河上神社」、通称として「淀姫さん」とも呼ばれている。
見る 肥前国と與止日女神社
藤原福当麻呂
藤原 福当麻呂(ふじわら の ふたきまろ/ふたぎまろ)は、平安時代初期の貴族。藤原北家、右大臣・藤原内麻呂の五男。官位は従五位下・肥前守。
見る 肥前国と藤原福当麻呂
藤津郡
佐賀県藤津郡の位置(緑:太良町) 藤津郡(ふじつぐん)は、佐賀県(肥前国)の郡。 以下の1町を含む。
見る 肥前国と藤津郡
那須光資
那須 光資(なす みつすけ)は、鎌倉時代の武士・御家人。那須氏5代当主。 4代当主・那須頼資の子として誕生。 建久4年(1193年)、源頼朝から下野国内に領地を拝領し、さらに那須において巻狩を催した際、接待役を務め、鎌倉幕府御家人としての那須氏の地位向上に努めた。正治元年(1199年)には領内に天性寺を創建している。 なお、建久4年に催された那須巻狩の際に、那須与一が梶原景時と諍いをおこし、出家遁世したという説があるが、『吾妻鏡』のその前後の時期の記述には「那須太郎光助」しか登場しない。
見る 肥前国と那須光資
那須頼資
那須 頼資(なす よりすけ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。那須氏4代当主。 宇都宮朝綱の子で那須氏3代当主・那須資之の養子とされるが、初代当主・那須資隆と朝綱の娘との庶子(那須小太郎宗高)とする説もある。実名については、寺山観音寺所蔵の「那須継図次第」等では資頼(すけより)、『玉燭宝典』紙背文書所収の那須系図等では頼資としているが、いずれの名乗りを見ても、烏帽子親である源頼朝から偏諱(「頼」の一字)を与えられたということが窺える(資頼を初名、頼資をその改名後の諱とする説もある)。 建久4年(1193年)、頼朝が那須へ巻狩に出かけた際には既に当主は子・光資となっていたと伝わっていることから、系図通りの順「(資隆(太郎)→資隆(与一)→資之→頼資」に継承があったと仮定するならば当主として活動した時期は短期間であったと推測される。
見る 肥前国と那須頼資
那須資村
那須 資村(なす すけむら)は、鎌倉時代の武士。那須氏6代当主。 5代当主・那須光資の子として誕生。 念仏宗に帰依し、親鸞上人の弟子となり信願房教念と号し、貞応2年(1223年)に慈願寺を創設した。78歳の長寿を保ったという。 ただし、近年の異説として那須氏の家督は光資の後はその弟・伊王野資長及びその系統が継承したために資村は家督を継ぐことが出来ず、資家の代になって北条得宗家との関係から家督を回復したとする説もある。
見る 肥前国と那須資村
肥後国
肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、熊本県に属する。
見る 肥前国と肥後国
肥前国の式内社一覧
肥前国の式内社一覧(ひぜんのくにのしきないしゃいちらん)は、『延喜式』第9巻・第10巻「神名帳上下」(延喜式神名帳)に記載のある神社、いわゆる「式内社」およびその論社のうち、肥前国に分類されている神社の一覧。 また『延喜式』神名帳の編纂当時に存在したが同帳に記載の無い神社、いわゆる「式外社」についても付記する。
肥前国庁跡
肥前国庁跡(ひぜんこくちょうあと)・肥前国庁跡資料館は、佐賀県佐賀市大和町大字久池井に所在する、律令制下における地方行政機関の中心施設跡である。1989年(平成元年)9月22日、国の史跡に指定される。現在歴史公園として整備され、南門と築地塀の一部が復元されている。
見る 肥前国と肥前国庁跡
肥前国分寺跡
肥前国分寺跡(ひぜんこくぶんじあと)は、佐賀県佐賀市大和町にある寺院跡。現在は佐賀市の史跡に指定されている。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、肥前国国分寺の寺院跡にあたる。本項では肥前国分尼寺跡についても解説する。
見る 肥前国と肥前国分寺跡
肥前国風土記
『肥前国風土記』(ひぜんのくにふどき)は、奈良時代初期に編纂された肥前国(現在の佐賀県・長崎県)の風土記である。現存する5つの風土記のうちの1つ。
見る 肥前国と肥前国風土記
肥前有馬氏
肥前有馬氏(ひぜんありまし)は、武家・華族だった日本の氏族。鎌倉時代に肥前国高来郡有馬庄に起こった豪族・大名で、戦国期にキリシタン大名として著名な有馬晴信を出した。江戸時代には越前国丸岡藩主家、明治維新後には華族の子爵家となった。通字は「純」または「澄」で、いずれも「すみ」または「ずみ」と読む。 赤松義祐を祖とする摂津有馬氏とは全く別の一族である。
見る 肥前国と肥前有馬氏
蓮池藩
蓮池藩(はすのいけはん)は、佐賀藩の支藩。藩主家は蓮池鍋島家。
見る 肥前国と蓮池藩
長崎
長崎(ながさき)。
見る 肥前国と長崎
長崎奉行
長崎奉行(ながさきぶぎょう)は、江戸幕府の遠国奉行の一つで、遠国奉行首座。
見る 肥前国と長崎奉行
長崎市
稲佐山から望む長崎市街地。長崎市の夜景は世界新三大夜景・日本三大夜景にも数えられている。 金比羅山から望む長崎市の夜景 長崎市(ながさきし)は、長崎県の南西部に位置する市。長崎県の県庁所在地および人口が最多の市であり、中核市に指定されている。 九州地方で第7位の人口を有する。
見る 肥前国と長崎市
長崎府
長崎府(ながさきふ)は、江戸時代に設置された長崎奉行所に代わり、1868年(明治元年)に明治政府によって長崎に設置された行政機関。1年あまりで長崎県となった。
見る 肥前国と長崎府
長崎県
長崎県(ながさきけん)は、日本の九州地方に位置する県。県庁所在地は長崎市。 五島列島、壱岐島、対馬など数多くの島嶼を含み、47都道府県中最も島が多いことで知られる。また、多島であるうえにリアス式海岸を多く擁することから海岸線の長さは47都道府県中第2位となっている(※「地形」節にて詳説)。
見る 肥前国と長崎県
長崎貿易
江戸に向かうオランダ人たちの行列を描いたイラスト(17世紀) 江戸に向かうオランダ人たちの行列を描いた浮世絵(19世紀) 長崎貿易(ながさきぼうえき)は、日本の安土桃山時代から江戸時代に長崎において行われた貿易である。
見る 肥前国と長崎貿易
雲仙市
雲仙市(うんぜんし)は、長崎県の島原半島西部に位置する市。
見る 肥前国と雲仙市
東彼杵郡
長崎県東彼杵郡の位置(1.東彼杵町 2.川棚町 3.波佐見町) 東彼杵郡(ひがしそのぎぐん)は、長崎県の郡。 長崎県内では所在・管轄する地域を示す郡名の略称として東彼(とうひ)とも呼ばれる。 以下の3町を含む。
見る 肥前国と東彼杵郡
東福寺
京都名所之内 通天橋紅楓(歌川広重) 通天橋 東福寺(とうふくじ)は、京都市東山区本町十五丁目にある臨済宗東福寺派の大本山の寺院。山号は慧日山(えにちさん)。本尊は釈迦如来。京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。近代に入って規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭(山内寺院)を有する大寺院である。かつては身の丈五丈の釈迦如来座像を有し、山城国(現在の京都府の一部)では雲居寺大仏・方広寺大仏(京の大仏)に次ぐ高さを有する大仏として、威容を誇っていた。中世においては「南都(東大寺)の半仏雲居(雲居寺)、雲居の半仏東福(東福寺)」「南都の四半仏」と謳われるなど、身の丈十六丈の東大寺大仏・身の丈八丈の雲居寺大仏と並び称されていた(公称高寸法が実寸の高さでないことは後述)。
見る 肥前国と東福寺
東松浦郡
佐賀県東松浦郡の位置(緑:玄海町) 東松浦郡(ひがしまつうらぐん)は、佐賀県の郡。 以下の1町を含む。
見る 肥前国と東松浦郡
松浦市
松浦市(まつうらし)は、長崎県北部、北松浦半島に位置する市。離島部も市域に含む。松浦党発祥の地。「アジ」水揚げ日本一を誇る都市であり、「アジフライの聖地」として知られている。
見る 肥前国と松浦市
松浦久信 (平戸藩主)
松浦 久信(まつら ひさのぶ)は、安土桃山時代の武将。肥前国平戸藩2代藩主。官位は従五位下・肥前守。平戸松浦氏27代当主。
松浦篤信
松浦 篤信(まつら あつのぶ)は、江戸時代中期の大名。肥前平戸藩の第6代藩主。官位は従五位下・肥前守。
見る 肥前国と松浦篤信
松浦熈
松浦 熈(まつら ひろむ)は、江戸時代後期の大名。肥前国平戸藩の第10代藩主。官位は従五位下・肥前守。
見る 肥前国と松浦熈
松浦隆信 (平戸藩主)
松浦 隆信(まつら たかのぶ)は、江戸時代前期の大名。肥前国平戸藩の第3代藩主。官位は従五位下・肥前守、壱岐守。平戸松浦氏28代当主。曾祖父の道可と同名を名乗った。
松浦鎮信
松浦 鎮信(まつら しげのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。肥前国平戸藩初代藩主。官位は従四位下・肥前守、式部卿。平戸松浦氏26代当主。 戦国大名大友義鎮(宗麟)より偏諱を与えられ鎮信を名乗る。晩年、山城上醍醐行樹院にて出家し、法号は宗信、後に無外庵宗静と称した。出家後は法眼に叙されて法印に昇り、式部卿に任ぜられたため式部卿法印、平戸法印とも呼ばれた。なお、曾孫にあたる4代平戸藩主も、隠居後に重信から同じ字の鎮信に改名しており、改名後の表記で主に知られる。
見る 肥前国と松浦鎮信
松浦詮
松浦 詮(まつら あきら)は、江戸時代末期の大名(肥前国平戸藩第12代藩主)で、明治時代の日本の政治家(貴族院議員)。松浦家37代当主。位階は従三位、爵位は伯爵。明治天皇の又従兄弟にあたる。
見る 肥前国と松浦詮
松浦郡
長崎県松浦郡の位置 松浦郡(まつうらぐん)は、肥前国(佐賀県・長崎県)にあった郡。
見る 肥前国と松浦郡
松浦重信
松浦 重信(まつら しげのぶ)は、江戸時代前期の大名。肥前国平戸藩の第4代藩主。平戸松浦氏29代当主。通称は源三郎。官位は従五位下・肥前守。隠居の後に諱を曾祖父と同じ鎮信(しげのぶ)へと改めており、その漢字表記の方が知られている。宋の文人文天祥を尊敬して天祥庵を結び、天祥と号する。後年、退静爺や徳祐とも称した。法名は圓惠(円恵)。
見る 肥前国と松浦重信
松浦氏
松浦氏(まつらし)は、武家・華族だった日本の氏族の一つ。水軍松浦党を形成した肥前松浦氏が有名で、江戸時代には肥前平戸藩主となり、維新後は伯爵家に列した。代々一字名の一族だった。
見る 肥前国と松浦氏
杵島郡
佐賀県杵島郡の位置(1.大町町 2.江北町 3.白石町 薄緑:後に他郡から編入した区域) 杵島郡(きしまぐん)は、佐賀県(肥前国)の郡。 以下の3町を含む。
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根岸鎮衛
根岸 鎮衛(ねぎし しずもり / やすもり)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本。勘定奉行、南町奉行を歴任した。
見る 肥前国と根岸鎮衛
武藤資頼
武藤 資頼(むとう すけより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人・守護。
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武雄市
武雄市(たけおし)は、佐賀県の西部に位置する市。市中心部にある武雄温泉で知られる。
見る 肥前国と武雄市
水野忠位
水野 忠位(みずの ただたか)は、江戸時代前期から中期の旗本、大名。忠位系水野家初代。
見る 肥前国と水野忠位
水野忠順
水野 忠順(みずの ただより、文政7年9月17日(1824年11月7日) - 明治17年(1884年)12月9日)は、江戸時代後期(幕末)の上総鶴牧藩の第3代(最後)の藩主、華族。忠位系水野家6代。従五位下、山城守、壱岐守、周防守、肥前守、子爵。正室は前田利之の三女・建子。養子に水野忠義、水野忠宝。
見る 肥前国と水野忠順
水野忠見
水野 忠見(みずの ただちか、享保15年(1730年)- 安永4年8月19日(1775年9月13日))は、安房北条藩の第2代藩主。忠位系水野家3代。 初代藩主・水野忠定の次男。母は水野忠位の娘。正室は板倉勝清の娘。子に水野忠韶(長男)、杉浦正僖(次男)、水野忠晋(三男)、溝口直静(四男)、娘(加藤明陳正室)、娘(内田正純正室)、娘(小浜寿隆正室)。官位は従五位下、肥前守、壱岐守。 幼名は吉次郎。寛保3年(1743年)、兄・忠寛の早世により世子となる。延享元年(1744年)12月、従五位下肥前守に叙任される。延享5年(1748年)、父の死去により跡を継いだ。寛延2年(1749年)8月に大番頭となり、宝暦7年(1757年)3月に奏者番、同年11月に壱岐守に任官される。宝暦8年(1758年)9月には西の丸若年寄となった。安永4年(1775年)8月19日、46歳で死去した。
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永井尚佐
永井 尚佐(ながい なおすけ)は、美濃加納藩の第4代藩主。尚庸系永井家7代。 旗本太田直熹(永井尚備の次男)の次男。官位は従五位下、山城守、出羽守、肥前守。幼名は友吉、初名は直弼。
見る 肥前国と永井尚佐
永井尚典
永井 尚典(ながい なおのり)は、美濃加納藩の第5代藩主。尚庸系永井家8代。 文化7年(1810年)7月27日、第4代藩主永井尚佐の三男として生まれる。幼名は銑之助。長兄陽之助、次兄大学の早世により、嫡子となる。文政10年(1827年)12月16日、従五位下伊豆守に叙任する。後に山城守、肥前守に改める。天保10年(1839年)7月10日、父の死去により家督を継いだ。 各門番や麻布山のアメリカ合衆国公使館警固などを務めたのち、文久元年(1861年)8月22日、奏者番に任ぜられる。文久2年(1862年)閏8月23日、免職となる。同年10月2日に隠居し、3人の男子はいずれも早世していたため、家督は養子の尚服に譲った。隠居後は松涛と号した。
見る 肥前国と永井尚典
永井尚服
永井 尚服(ながい なおこと)は、美濃加納藩の第6代(最後)の藩主。尚庸系永井家9代、陸奥福島藩主板倉勝俊の七男。官位は従五位下、肥前守、伊豆守。維新後、正五位。爵位は子爵。
見る 肥前国と永井尚服
江戸幕府の地図事業
江戸幕府の地図事業(えどばくふのちずじぎょう)は、江戸時代に江戸幕府によって進められた国土基本図の編纂事業のこと。大きく分けて日本地図である日本図(にほんず)と諸藩に作らせた国絵図(くにえず)に分けられる。
河尻秀隆
河尻 秀隆(かわじり ひでたか)は、戦国時代の武将。織田氏の家臣。黒母衣衆筆頭で、のちに織田信忠の補佐役及び美濃岩村城主を務め、甲斐国主にまで昇った。馬印は金のつり笠。秀隆および河尻氏に関係する文書は少なく、事跡の多くは『信長公記』や『甲陽軍鑑』、徳川氏関係の記録に記されている。
見る 肥前国と河尻秀隆
河尻秀長
河尻 秀長(かわじり ひでなが)は、安土桃山時代の武将・大名。苗木城城主。美濃河尻秀隆の子。弟に河尻鎮行。豊臣秀吉の家臣。秀吉の主な合戦の殆どに従軍し各地を転戦する傍ら摂津国の豊臣直轄領の代官も務めた。
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沖田畷の戦い
沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)は、安土桃山時代の天正12年3月24日(1584年5月4日)に肥前島原半島(長崎県)で勃発した戦い。九州の戦国大名である龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久の合戦である。「畷」とは湿地帯の中に延びた小道の意味である。
見る 肥前国と沖田畷の戦い
波多親
波多 親(はた ちかし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。肥前国 松浦郡 鬼子岳城(岸岳城)主。波多氏17代当主。元服後の初名は鎮(しげし)。
見る 肥前国と波多親
波多氏
波多氏(はたし)氏は、平安時代末期から戦国時代末期まで肥前松浦地方で活躍した上松浦党の最大の一族。 嵯峨源氏の流れをくむ渡辺党松浦氏の一統(松浦党)で、渡辺綱の曾孫にあたる松浦久の二男の松浦持が波多の地に移り康和四年(1102年)から波多持と波多姓を名乗り、岸岳城を本拠として発展した。ただし、佐志氏の一派から波多姓の人物が分かれた形跡も存在し、その実際の系譜は不明瞭なものとなっている。 一時は壱岐に進出し壱岐守護を称するなど全盛期を迎えたが、戦国時代には、波多盛(はた さこう)の死後にお家騒動が勃発し、有馬氏や龍造寺氏、そして同じ松浦党の一派下松浦党である平戸氏(平戸松浦氏)の干渉にあい、それに従属するようになる。
見る 肥前国と波多氏
深溝松平家
深溝) 深溝松平家(ふこうず(ふこうぞ)まつだいらけ)は、松平氏の庶流にあたる武家・華族だった家。松平忠定を祖とし、江戸時代には譜代大名(肥前島原藩主家)、維新後には華族の子爵家に列した。
見る 肥前国と深溝松平家
渋川尹繁
渋川 尹繁(しぶかわ ただしげ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将・九州探題。
見る 肥前国と渋川尹繁
渋川義俊
渋川 義俊(しぶかわ よしとし)は、室町時代中期の武将・守護大名、九州探題。
見る 肥前国と渋川義俊
渋川氏
渋川氏(しぶかわし)は、日本の氏族(武士)。清和源氏義国流で足利氏の一門。室町時代に肥前、備前、備中、安芸、豊前、摂津などの守護職に任ぜられ、また九州探題職を世襲した。 足利将軍家御一家の家格を有した他、一族は九州、関東、中国など各地に点在した。 ただし、江戸時代の幕府天文方または囲碁棋士(碁所)として著名な渋川氏(安井氏)は河内の畠山氏の系統であり、上記の義顕の系統の渋川氏とは別流である。河内国渋川郡(または播磨国安井郷)を由来とし、江戸時代に安井算哲が棋士として召し抱えられ、その子の渋川春海が江戸幕府天文方として別家を起こし、以降両家ともに存続した。
見る 肥前国と渋川氏
渋川満直
渋川 満直(しぶかわ みつなお)は、室町時代前期から中期にかけての武将・九州探題。
見る 肥前国と渋川満直
渋川満頼
渋川 満頼(しぶかわ みつより)は、室町時代前期から中期にかけての武将・守護大名、九州探題。
見る 肥前国と渋川満頼
渋川教直
渋川 教直(しぶかわ のりなお)は、室町時代中期から後期にかけての武将・九州探題。
見る 肥前国と渋川教直
源頼光
「頼光朝臣酒呑童子ォ退治之図」勝川春亭画。右から碓井貞光、卜部季武、坂田公時、渡辺綱、頼光、平井保昌 源 頼光(みなもと の よりみつ)は、平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍・源満仲、母は嵯峨源氏の近江守・源俊の娘。諱はしばしば「らいこう」とも読まれる。 満仲の長子で清和源氏の3代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟に大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいる。
見る 肥前国と源頼光
持統天皇
持統天皇(じとうてんのう、645年〈大化元年〉 - 703年1月13日〈大宝2年12月22日〉)は、日本の第41代天皇(在位:690年2月14日〈持統天皇4年1月1日〉 - 697年8月22日〈持統天皇11年8月1日〉)。天武天皇の皇后(天智天皇の娘、天武天皇の姪にあたる)、のちに持統天皇となり皇室史上3人目の女性天皇となった。 諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)であり、これは娑羅羅馬飼造が養育したからであると考えられる。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』巻30の冒頭に記された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは巻1・冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。確実ではないが伊勢神宮に参拝し「日本」国号を定めた可能性が高い天皇である(後述)。漢風諡号「持統天皇」は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという。
見る 肥前国と持統天皇
朝日山 (佐賀県)
朝日山(あさひやま)は、佐賀県鳥栖市村田町にある標高132.9メートルの山。九千部山麓の地溝状低地を北に挟み、平地に孤立している。結晶片岩による基盤が長年の侵食によりなだらかになり、段丘状の小山として残ったものである。山からは筑後川水系の西田川が発し、南に向かって流れている。 古代から交通の要衝にあり狼煙台や城塞(朝日山城)などが築かれ、しばしば戦場となった。現在は朝日山公園として整備されている他、麓にはブリヂストンがゴルフ場を開設している。
本多忠辰
本多 忠辰(ほんだ ただとき)は、江戸時代中期の大名。播磨国山崎藩の第3代藩主。政信系本多家4代。官位は従五位下肥後守、肥前守。
見る 肥前国と本多忠辰
本多忠鄰
本多 忠鄰(ほんだ ただちか)は、江戸時代後期の大名。播磨国山崎藩の第8代藩主。官位は従五位下肥前守、大和守、肥後守。政信系本多家9代。
見る 肥前国と本多忠鄰
本多忠英
本多 忠英(ほんだ ただひで)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。大和郡山藩主・本多政勝の三男で、郡山藩支藩藩主を経て播磨国山崎藩初代藩主。政信系本多家2代。初名は政貞。
見る 肥前国と本多忠英
本多忠明
本多 忠明(ほんだ ただあき)は、播磨国山崎藩第9代(最後)の藩主。官位は従五位下、正四位、肥前守。政信系本多家10代。
見る 肥前国と本多忠明
有馬晴信
有馬 晴信(ありま はるのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての大名。肥前国日野江藩初代藩主。有馬義貞の次男。キリシタン大名で、大村純忠は叔父に当たる。 大友義鎮(宗麟)からは偏諱を賜って初めは鎮純(しげずみ)、鎮貴(しげたか)を名乗っていた。 なお正純、正俊と名乗った一時期があったとするが、史料的に裏付けるものはない。名乗りが確認されるだけでも四つ、正純や正俊も含めるとそれ以上の数になり、これはその地位の不安定さによるものとされている。のちに島津義久からの偏諱で久賢(ひさまさ)、そして足利義晴の偏諱を受けた祖父の有馬晴純から一字取って晴信に改名した。。
見る 肥前国と有馬晴信
戦国大名
戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。
見る 肥前国と戦国大名
戦国時代 (日本)
日本の戦国時代(せんごくじだい、)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って、守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。
戸田氏
戸田氏(とだし)は、武家・華族だった日本の氏族。発祥を異にする複数の系統が存在する(次項を参照)。もと、三河国渥美郡に根拠地をもった戸田氏からは、徳川氏に属して多くの近世大名・旗本、大藩重臣を輩出した。維新後、現米5万石以上の中藩だった旧大垣藩戸田家が伯爵家、それ以外の小藩大名だった戸田家5家は子爵家に列した。
見る 肥前国と戸田氏
明治
明治(めいじ、)は元号の一つ。 慶応の後、大正の前。大化以降228番目、244個目南北朝時代の北朝の元号を除くか含めるかによる。の元号。明治天皇の即位に伴い定められた(代始改元)。 明治の元号下にあった1868年10月23日(明治元年9月8日)これは改元日を起点とする形式的区分であり、改元の詔書による明治の開始日とは異なる(後節参照)。から1912年(明治45年)7月30日までの45年間をと呼ぶ。本項ではこの時代についても記述する。
見る 肥前国と明治
昭和
は、日本の元号の一つ。 1958年(昭和33年)に竣工した東京タワー。 大正の後、平成の前。大化以降230番目、246個目南北朝時代の北朝の元号を除くか含めるかによる。の元号である。昭和天皇の在位期間昭和天皇は父・大正天皇の病状を受け1921年(大正10年)11月25日に「摂政宮」に就いている。 である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで昭和天皇は1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分に崩御し、皇太子明仁親王(現・上皇)が同時刻に直ちに皇位継承。同日中に元号を改める政令が新天皇の署名によって公布され、同政令の附則の施行期日の定めに基づき、昭和は同日午後12時を以て幕を閉じ、翌1月8日午前0時を以て平成と改元された。
見る 肥前国と昭和
新羅
新羅(しらぎ/しんら、シルラ、前57年 - 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ、サロ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。 朝鮮の歴史区分では、新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を三国時代(さんごくじだい)、新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年-900年)を統一新羅時代(とういつしらぎじだい)、新羅から後高句麗と後百済が分裂した10世紀の時代を後三国時代(ごさんごくじだい)という。ただし1970年代以降の韓国では、渤海を朝鮮民族の歴史に組み込む意図(朝鮮の歴史観)から、統一新羅時代を南北国時代(なんぼくこくじだい)と称しているので注意が必要である。
見る 肥前国と新羅
日の隈山
日の隈山(ひのくまやま)は、佐賀県神埼市にある標高158mの小高い山である。奈良時代から通信・伝達手段として烽(のろし)が置かれ、江戸時代以降には肥前七隈の1つとしての景勝地である。別名、西郷富士(さいごうふじ)と呼ばれる。中腹には日の隈カンツリークラブ、南麓には日の隈公園がある。
見る 肥前国と日の隈山
日本
日本国(にほんこく、にっぽんこく、Japan)、または日本(にほん、にっぽん)は、東アジアに位置する民主制国家。首都は東京都。 全長3500キロメートル以上にわたる国土は、主に日本列島北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々。および南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などの弧状列島により構成される。大部分が温帯に属するが、北部や島嶼部では亜寒帯や熱帯の地域がある。地形は起伏に富み、火山地・丘陵を含む山地の面積は国土の約75%を占め、人口は沿岸の平野部に集中している。国内には行政区分として47の都道府県があり、日本人(大和民族・琉球民族・アイヌ民族現代、アイヌにルーツをもつ日本国民のうち、アイヌ語を話す能力もしくはアイヌとしてのアイデンティティーを持っている者は少数である一方、近年は政策的にアイヌ文化の復興と発展のための活動が推進されている。
見る 肥前国と日本
旧高旧領取調帳
旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)とは明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳である。 原本は現存せず(後述)。
見る 肥前国と旧高旧領取調帳
播磨国
播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。
見る 肥前国と播磨国
慶応
紋が描かれている。 とは、日本の元号の1つである。 元治の後、明治の前。大化以降227番目、243個目の元号である。1865年から1868年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。 江戸時代最後の元号であり、一世一元の制導入(一世一元の詔発布)以前の最後の元号である。
見る 肥前国と慶応
11月14日 (旧暦)
旧暦11月14日は旧暦11月の14日目である。六曜は赤口である。
12月25日
12月25日(じゅうにがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から359日目(閏年では360日目)にあたり、年末まであと6日ある。この日はクリスマスである。
見る 肥前国と12月25日
1871年
この年にドイツが統一されたため、世界史の大きな転換点となった。
見る 肥前国と1871年
1975年
この項目では、国際的な視点に基づいた1975年について記載する。
見る 肥前国と1975年
1984年
この項目では、国際的な視点に基づいた1984年について記載する。
見る 肥前国と1984年
2月24日
2月24日(にがつにじゅうよっか、にがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から55日目にあたり、年末まであと310日(閏年では311日)ある。グレゴリオ暦では、閏年の場合に限り、閏日とも呼ばれる。詳細は閏日の項を参照。
見る 肥前国と2月24日
2月2日 (旧暦)
旧暦2月2日(きゅうれきにがつふつか)は旧暦2月の2日目である。六曜は先負である。
4月18日
4月18日(しがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から108日目(閏年では109日目)にあたり、年末まではあと257日ある。
見る 肥前国と4月18日
5月24日
5月24日(ごがつにじゅうよっか、ごがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から144日目(閏年では145日目)にあたり、年末まではあと221日ある。
見る 肥前国と5月24日
5月29日 (旧暦)
旧暦5月29日は、旧暦5月の29日目である。年によっては5月の最終日となる。六曜は先負である。
5月4日 (旧暦)
旧暦5月4日(きゅうれきごがつよっか)は、旧暦5月の4日目である。六曜は友引である。
5月9日
5月9日(ごがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から129日目(閏年では130日目)にあたり、年末まではあと236日ある。
見る 肥前国と5月9日
6月20日 (旧暦)
旧暦6月20日は旧暦6月の20日目である。六曜は先勝である。
6月21日
6月21日(ろくがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から172日目(閏年では173日目)にあたり、年末まであと193日ある。
見る 肥前国と6月21日
6月23日
6月23日(ろくがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から174日目(閏年では175日目)にあたり、年末まであと191日ある。
見る 肥前国と6月23日
7月14日 (旧暦)
旧暦7月14日(きゅうれきしちがつじゅうよっか)は、旧暦7月の14日目である。六曜は友引である。
7月28日
7月28日(しちがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から209日目(閏年では210日目)にあたり、年末まであと156日ある。
見る 肥前国と7月28日
7月4日
7月4日(しちがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から185日目(閏年では186日目)にあたり、年末まではあと180日ある。
見る 肥前国と7月4日
8月21日
8月21日(はちがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から233日目(閏年では234日目)にあたり、年末まであと132日ある。
見る 肥前国と8月21日
8月29日
8月29日(はちがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から241日目(閏年では242日目)にあたり、年末まであと124日ある。
見る 肥前国と8月29日
8月7日 (旧暦)
旧暦8月7日(きゅうれきはちがつなのか)は、旧暦8月の7日目である。六曜は友引である。
9月12日
9月12日(くがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から255日目(閏年では256日目)にあたり、年末まであと110日ある。
見る 肥前国と9月12日
参考情報
佐賀県の歴史
長崎県の歴史
肥前、肥前の国 別名。
、少弐資元、少弐資能、少弐氏、少弐政資、山崎藩、島原の乱、島原半島、島原市、島原藩、上国、中原町 (佐賀県)、丹南藩、三養基郡、三根郡、三潴県、一宮、一色範光、一色直氏、九州千葉氏、九州探題、平為賢、平戸、平戸島、平戸市、平戸藩、五島市、五島純玄、五島氏、今山の戦い、今川仲秋、今川貞世、仁和寺、令制国、延喜式神名帳、任官、廃藩置県、伊万里市、佐世保市、佐賀市、佐賀県、佐賀郡、佐賀藩、彼杵郡、志々伎神社、地方知行、北高来郡、北条定宗、北条藩、北条時定 (時氏流)、北松浦郡、ポルトガル王国、レトヴィザン (戦艦)、ロシア海軍、嘉瀬川、スペイン、唐、唐津市、唐津藩、前弩級戦艦、前田利常、前田利長、前田綱紀、前田重教、前田氏、前田斉広、勅旨牧、国司、国府、国衙、火国、班田収授法、神埼市、神埼郡、神集島、福岡藩、福江藩、筑後川、筑前国、続日本紀、総社、織田長亮、美濃国、県犬養吉男、生月島、田島神社、田手畷の戦い、町奉行、相良前頼、白村江の戦い、百済、芝村藩、鎮西奉行、鎮西探題、鎌倉幕府、遠国、遣唐使、荒穂神社、鍋島直正、鍋島氏、鍋島治茂、鍋島斉直、菊池武光、菊池武澄、風土記、飛地、養父郡 (佐賀県)、西彼杵郡、西松浦郡、西海市、西海道、角川日本地名大辞典、諫早市、高来郡、高木正善、高木正豊、豊臣秀吉、鳥栖市、鶴牧藩、鹿島市、鹿島藩、黒田宣政、黒田綱政、龍造寺氏、龍造寺政家、與止日女神社、藤原福当麻呂、藤津郡、那須光資、那須頼資、那須資村、肥後国、肥前国の式内社一覧、肥前国庁跡、肥前国分寺跡、肥前国風土記、肥前有馬氏、蓮池藩、長崎、長崎奉行、長崎市、長崎府、長崎県、長崎貿易、雲仙市、東彼杵郡、東福寺、東松浦郡、松浦市、松浦久信 (平戸藩主)、松浦篤信、松浦熈、松浦隆信 (平戸藩主)、松浦鎮信、松浦詮、松浦郡、松浦重信、松浦氏、杵島郡、根岸鎮衛、武藤資頼、武雄市、水野忠位、水野忠順、水野忠見、永井尚佐、永井尚典、永井尚服、江戸幕府の地図事業、河尻秀隆、河尻秀長、沖田畷の戦い、波多親、波多氏、深溝松平家、渋川尹繁、渋川義俊、渋川氏、渋川満直、渋川満頼、渋川教直、源頼光、持統天皇、朝日山 (佐賀県)、本多忠辰、本多忠鄰、本多忠英、本多忠明、有馬晴信、戦国大名、戦国時代 (日本)、戸田氏、明治、昭和、新羅、日の隈山、日本、旧高旧領取調帳、播磨国、慶応、11月14日 (旧暦)、12月25日、1871年、1975年、1984年、2月24日、2月2日 (旧暦)、4月18日、5月24日、5月29日 (旧暦)、5月4日 (旧暦)、5月9日、6月20日 (旧暦)、6月21日、6月23日、7月14日 (旧暦)、7月28日、7月4日、8月21日、8月29日、8月7日 (旧暦)、9月12日。