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古六暦

索引 古六暦

古六暦(こりくれき)とは、中国暦の中で漢代に伝わっていた黄帝暦・顓頊暦・夏暦・殷暦・周暦・魯暦という帝名や国名を冠した六つの古暦の総称。いずれも太陰太陽暦に属する。甲骨文・金文などに見られる実際の殷・周の暦とは異なっており、戦国時代以降、仮託して作られたものである。 19年に7閏月を設ける章法(メトン周期)が取り入れられ、1太陽年を(=365.25)日、1朔望月を(≒)日とする四分暦であった。よって、後漢の四分暦に対して、古六暦を古四分暦とも言う。 顓頊暦は秦から前漢の太初元年(紀元前104年)の改暦にいたるまで使われた。 また戦国各国は多く建寅の月を正月とする夏暦の夏正を採用し、漢の太初暦以降、歴代の暦でもほとんどが夏正を採用したため、夏暦は中国の伝統的な太陰太陽暦を総称する言葉ともなった。.

24 関係: 太初 (漢)太初暦太陰太陽暦太陽年中国中国暦三正後漢メトン周期センギョク暦前漢四分暦甲骨文字閏月金文暦法正月朔望月戦国時代 (中国)

太初 (漢)

太初(たいしょ)は、中国、前漢の武帝の治世に使われた元号。紀元前104年 - 紀元前101年。元年夏5月に太初暦への改暦が行われ、元封7年を太初元年とした。太初暦では、それまでの顓頊暦の10月歳首を正月歳首に改めたので、太初元年は前年の10月から12月までの15月間存在することになった。またそれに干支(十干十二支)をあてはめた。.

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太初暦

太初暦(たいしょれき)は中国暦の一つで、漢の武帝、太初元年(紀元前104年)の改暦によって採用された太陰太陽暦の暦法。治暦者の鄧平や方士の落下閎らによって編暦され、秦代から使われていた顓頊暦を改めた。太初暦は三統暦の補修を経ながら、後漢の章帝元和二年(85年)の改暦に至るまで190年間、施行された。 19年7閏月の章法を採用し、1太陽年を(≒)日とし、1朔望月を(≒)日とする八十一分法を採用している。 太初暦の特徴は、音律と暦を結びつけて理論構築されている点にあり、黄鍾(音程名)の律管(音程を調律する竹管)の容積81寸から、日法である1朔望月の日数の分母81が導き出されている。よって、太初暦を八十一分律暦とも言う。 また顓頊暦が10月を年始としていたのを、太初暦では立春正月を年始とすることに改め、冬至を11月に固定して中気のない月を閏月とする歳中閏月法を採用した。 なお『史記』の著者、司馬遷も初期の改暦議論に参加しており、『史記』暦書・暦術甲子篇に載せられている四分暦は、この時、司馬遷が編纂して採用されなかった暦ではないかと考えられている。.

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太陰太陽暦

太陰太陽暦(たいいんたいようれき、)とは、太陰暦を基とするが、太陽の動きも参考にして閏月を入れ、月日を定める暦(暦法)のこと。.

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太陽年

太陽年(たいようねん、)とは、太陽が黄道上の分点(春分・秋分)と至点(夏至・冬至)から出て再び各点に戻ってくるまでの周期のことであり、およそ365.242 189日である。回帰年(tropical year)ともいう。春分での回帰年は春分回帰年という。.

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right 寅(とら、いん)は十二支のひとつ。通常十二支の中で第3番目に数えられる。前は丑、次は卯である。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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中国暦

中国暦(ちゅうごくれき)では、中国の伝統的な暦法を総合して説明する。中国では伝統的な暦法のことを夏暦(かれき)・農暦(のうれき)・陰暦(いんれき)・旧暦(きゅうれき)などと呼んでいる。また、ベトナムなどのように黄暦(こうれき)と呼称する国・地域もある。さらに日本では、中国から輸入した暦のことを漢暦(かんれき)と呼んでいた(日本の暦については「太陰太陽暦#日本」も参照)。 夏暦とはもともと古六暦の一つであるが、辛亥革命以後に太陽暦(グレゴリオ暦)が採用されるようになると、それまでの伝統的な太陰太陽暦を総称する言葉となった。これは、中国の太陰太陽暦が建寅の月を年始とする夏正であったためである。また、一般的に農暦と呼ばれるようになったのは、農村で今でも広く使われているからである。2016年、ユネスコが推進する無形文化遺産に登録された。.

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三正

三正(さんせい)とは、中国戦国時代に唱えられた、中国暦の年始をどこに置くかについての3種類の考え方である。.

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後漢

後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.

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メトン周期

メトン周期(Metonic cycle, Μετωνικός κύκλος)とは、ある日付での月相が一致する周期の1つであり、19太陽年は235朔望月にほぼ等しいという周期のことである。メトン周期は、太陰太陽暦において閏月を入れる回数(19年に7回の閏月を入れる。)を求めるのに用いられた。 紀元前433年にアテナイの数学者・メトンが当時行われていた太陰太陽暦の誤りを正すために提案したのでこの名がある。中国では、19年を1章と呼ぶことから章法(しょうほう)と呼ばれた(独自に発見したとも、東漸したとも言われる)。.

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周(しゅう、、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる。.

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センギョク暦

顓頊暦(せんぎょくれき)は中国暦の一つで、秦から前漢の元封6年(紀元前105年)まで使われていた太陰太陽暦の暦法。顓頊は古代の帝王の名。漢に伝わっていたとされる古暦、古六暦の一つ。 秦のいつから施行されたかには諸説あり、戦国時代末期から始皇帝による統一(紀元前221年)の間であると考えられている。前漢王朝でも太初の改暦に至るまで102年間、踏襲して使用された。 19年7閏月の章法を採用し、1太陽年を(=365.25)日、1朔望月を(≒)日とする四分暦であった。 また10月を年始とし、閏月を年末である9月の後(後9月)に置く歳末置閏法をとっていた。ただし、10月は10月と呼び、正月と呼んだりしなかった。正月は立春の月であり、二十四節気の起点とした。また正確には始皇帝の諱である政を避諱して端月と呼んでいた。 従来、顓頊暦には不明な点が多かった。例えば『新唐書』歴志には一行の言として「顓頊暦上元甲寅歳正月甲寅晨初合朔立春」と述べ、甲寅歳の正月(夏正では寅月)甲寅の朔日、寅の刻に太陽と月が合朔する年が暦元(基準年)であるとして紀元前366年が暦元であると述べてこの説が長年信じられてきたが、実際の同年の正月甲寅の日の合朔は巳の刻に発生する計算となり、この説は成立しない。 1972年、山東省臨沂県(りんぎけん)から出土した銀雀山漢簡によって多くのことが解明された。.

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前漢

前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖.

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四分暦

四分暦(しぶんれき)は、.

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(しん、、紀元前778年 - 紀元前206年)は、中国の王朝。周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦朝、秦代と呼ぶ。国姓の本姓は、氏は趙。統一時の首都は咸陽。.

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甲骨文字

文字(こうこつもじ)とは、中国・殷(商)時代の遺跡から出土する古代文字。 漢字の原初形態であり、現在確認できる漢字の最古の祖形を伝えている。古代中国で生まれ発達してきた文字(漢字)と獣骨を用いる占卜とが結びついて文字記録となったものである。亀甲獣骨文字、甲骨文ともいう。 殷後期(第22代殷王武丁以降)の考古学資料が小屯村(殷墟)で大量に出土した。亀の甲羅(腹甲)や牛や鹿の骨(肩胛骨)に刻まれた。 2017年、ユネスコが主催する世界記録遺産にも登録された。.

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閏月

閏月(うるうづき / じゅんげつ)とは、太陰太陽暦において加えられる「月」のこと。これによって一年が13か月となる。.

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金文

金文(きんぶん)とは、青銅器の表面に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字のこと(「金」はこの場合青銅の意味)。中国の殷・周のものが有名。年代的には甲骨文字の後にあたる。考古学的には、「青銅器銘文」と称されることが多い。また鐘鼎文とも呼ばれる  殷は青銅器文化が発達した時代であり、この文字を器の表面に鋳込む技術は現在でも解明されていない。 金文は『史記』のような後世になって書かれた資料とは違い、完全な同時代資料であるためこの時代を研究する上で貴重な資料となっている。金文は拓本や模写によって研究されてきた。 なお石などに刻まれた文章は石文と呼ばれ、一緒にして金石文と呼ばれる。またこれらを研究することを金石学という。.

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暦法

暦法(れきほう)とは、毎年の暦を作成するための方法を指す。暦は、天体の運行に基づいて確立される。主として太陽と月が用いられ、月の運行に基づいた暦を太陰暦、月と太陽の運行に基づいた暦を太陰太陽暦、太陽の運行に基づいた暦を太陽暦という。.

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正月

正月(しょうがつ)は、各暦の年初のことである。文化的には旧年が無事に終わった事と新年を祝う行事である。正月飾りをし、正月行事を行ったり御節料理を食べて、盛大に祝う。 日本では、1月1日の元日のみを国民の祝日としているが、実際には少なくとも3日までの三箇日は事実上の祝日と同じ状態となる。.

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殷(いん、、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、中国の王朝である。文献には天乙が夏を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。商(しょう、)、商朝ともよばれる。紀元前11世紀に帝辛の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)。.

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漢(かん、)は、中国の王朝である。通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)の二つの王朝(両漢)を総称して「漢王朝」と呼ばれる。また、ここから転じて中国全土や中国の主要民族を指す名称ともなった。以下の記事では王朝について記述する。 中国初の統一王朝だった秦王朝が紀元前206年に滅亡すると、中国は秦を討った各軍の将帥による群雄割拠の状態に戻っていた。こうした中、漢中及び巴蜀に封じられていた劉邦が紀元前202年に垓下の戦いで項羽を討って中国を再統一した。中国を統一した劉邦は、皇帝として即位するにあたって旧来の国号であった漢をそのまま統一王朝の国号として用いた。この劉邦が開いた前漢と、いったん滅亡したのち劉秀によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年の長きに渡った。初の統一王朝だった秦王朝が統一王朝としては実質的に一代で滅びたこともあり、漢王朝は中国の統一状態を実質的に確定した王朝となり、これから中国全土や中国の主要民族を指す名称として「漢」が用いられるようになった。 漢王朝の歴史の詳細については、前漢・後漢をそれぞれ参照。.

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朔望月

朔望月(さくぼうげつ、)は、月の満ち欠けの1周期である。特に、朔(新月)から次の朔、あるいは望(満月)から次の望までの期間を呼ぶ。朔とは太陽と月の合(黄経差が0°)、望は太陽と月の衝(黄経差が180°)のときである。.

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戦国時代 (中国)

中国の戦国時代(せんごくじだい)は、春秋時代に続く時代で、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の3つの国に分かれてから、紀元前221年に秦による中国統一がなされるまでをいう。この名前は『戦国策』から取られている。 どの時点をもって春秋と戦国の境目とするかは、歴史家の間でも意見が分かれている。詳しくは春秋戦国時代の項目を参照。.

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