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万延

索引 万延

は、日本の元号の一つ。安政の後、文久の前。大化以降224番目、240個目の元号。1860年から1861年の期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。

目次

  1. 31 関係: 大化天皇孝明天皇安政万延小判万延元年のフットボール幕末の通貨問題庚申五品江戸廻送令徳川家茂後漢書和宮親子内親王グレゴリオ暦元号勅許馬融黒船来航辛酉金銀比価降嫁桜田門外の変江戸城江戸幕府文久日本改元2月19日 (旧暦)3月18日 (旧暦)3月29日4月8日

  2. 1860年の日本
  3. 1861年の日本

大化

大化(たいか、)は、日本の最初の元号。白雉の前。西暦645年から650年までの期間を指す。この時代の天皇は孝徳天皇。

見る 万延と大化

天皇

天皇(てんのう)は、 古代以来の血統を受け継ぐ日本の君主ならびにその称号。称号としては7世紀頃に大和朝廷の大王が用いたことに始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 2019年(令和元年)5月1日より在位中の天皇は徳仁(明仁第1皇男子)。 皇位の象徴である高御座。

見る 万延と天皇

孝明天皇

孝明天皇(こうめいてんのう、1831年7月22日〈天保2年6月14日〉- 1867年1月30日〈慶応2年12月25日〉)は、日本の第121代天皇(在位: 1846年3月10日〈弘化3年2月13日〉‐ 1867年1月30日〈慶応2年12月25日〉)。諱は統仁(おさひと)。称号は煕宮(ひろのみや)。 仁孝天皇の第4皇子。実母は正親町実光の娘・仁孝典侍の藤原雅子(新待賢門院)。養母は左大臣・鷹司政煕の娘で仁孝天皇女御の藤原祺子(新朔平門院)。正妃は九条尚忠の娘・九条夙子。一世一元の詔発布前(日本における一世一元の制制定以前)、そして生涯平安京内で過ごした最後の天皇でもある。 今上天皇(第126代天皇・徳仁)の5世祖先である。

見る 万延と孝明天皇

安政

安政(あんせい)は、日本の元号の一つ。嘉永の後、万延の前。大化以降223番目、239個目の元号。1855年から1860年までの期間を指す。この時代の天皇は、孝明天皇。江戸幕府将軍は、徳川家定、徳川家茂。

見る 万延と安政

万延小判

万延小判 万延小判(まんえんこばん)とは、万延元年4月9日(1860年5月29日)から鋳造が始まり翌4月10日(1860年5月30日)より通用開始された一両としての額面を持つ小判である。新小判(しんこばん)吹替えが行われる度に新しく鋳造された金銀は「新金」「新銀」と呼ばれるのが常であり、当時の文書には「新小判」と記録され、これが江戸時代最後の小判であるからその名称が残存した。あるいは雛小判(ひなこばん)とも呼ばれる。また万延小判および万延一分判を総称して万延金(まんえんきん)と呼ぶ。

見る 万延と万延小判

万延元年のフットボール

『万延元年のフットボール』(まんえんがんねんのフットボール)は、大江健三郎の長編小説。『群像』1967年1月号から7月号にかけて連載され、同年9月に講談社から刊行された。現在は講談社文芸文庫から刊行されている。第3回谷崎潤一郎賞受賞作品。

見る 万延と万延元年のフットボール

幕末の通貨問題

幕末の通貨問題(ばくまつのつうかもんだい)とは、日米和親条約締結後に決められた日本貨幣と海外貨幣の交換比率に関する問題。日本と諸外国の金銀交換比率が異なったため、日本から大量の金が流出した。

見る 万延と幕末の通貨問題

庚申

庚申(かのえさる、こうきんのさる、こうしん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの57番目で、前は己未、次は辛酉である。陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和である。

見る 万延と庚申

五品江戸廻送令

五品江戸廻送令(ごひんえどかいそうれい)は、江戸幕府が1860年(万延元年)に発令した生糸・雑穀・水油・蝋・呉服を対象とした貿易統制法令。

見る 万延と五品江戸廻送令

徳川家茂

徳川 家茂(とくがわ いえもち)は、江戸幕府第14代将軍(在任:1858年 - 1866年)。初めは第12代将軍・徳川家慶の偏諱を受け、慶福(よしとみ)と名乗っていた。 実父・徳川斉順は家慶の異母弟で、家茂は第13代将軍・家定の従弟にあたる。将軍就任の前は御三家和歌山藩第13代藩主であった。 徳川斉順(清水徳川家および紀伊徳川家の当主)の嫡男早世した兄がいたため次男とみなされることもある。であるが、父は家茂が生まれる前に薨去している。祖父は第11代将軍徳川家斉、祖母は妙操院。御台所は孝明天皇の皇妹・親子内親王(静寛院宮)。第13代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、家定の従弟にあたる慶福は徳川家一門の中で将軍家に最も近い血筋であることを根拠に当時慶福よりも血筋が近い者として家定の叔父にあたる美作津山藩主松平斉民と阿波徳島藩主蜂須賀斉裕がいたが、徳川家を出て他家の養子となっており年齢も家定より年上なのでどちらも将軍後継者候補 としてみなされなかった。皮肉なことに、この両者とも家茂より長生きし、実子を儲けている。

見る 万延と徳川家茂

後漢書

『後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書で、二十四史の一つ。紀伝体の体裁を取り、本紀10巻・列伝80巻・志30巻の全120巻からなる。「本紀」「列伝」の編纂者は南朝宋の范曄で、「志」の編纂者は西晋の司馬彪。

見る 万延と後漢書

和宮親子内親王

親子内親王(ちかこないしんのう、1846年7月3日〈弘化3年閏5月10日〉- 1877年〈明治10年〉9月2日)は、仁孝天皇の第8皇女。御称号は和宮(かずのみや)。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室(御台所)。家茂死後には落飾し、静寛院(せいかんいん)の院号宣下を受け、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗った。 「和宮」(かずのみや)は誕生時に賜わった幼名で、「親子」(ちかこ)は文久元年(1861年)の内親王宣下に際して賜わった諱である。孝明天皇の異母妹。明治天皇の叔母にあたる。品位は二品、薨後贈一品。

見る 万延と和宮親子内親王

グレゴリオ暦

グレゴリオ暦(グレゴリオれき、、、)は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日金曜日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。 グレゴリオ暦は、現行太陽暦として日本を含む世界各国で用いられており、グレゴリオ暦を導入した地域では、ユリウス暦(旧暦)に対比して新暦()と呼ばれる場合もある。紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。 大辞林 第三版、など。、暦法と紀年法とが混同されている。--> グレゴリオ暦の本質は、平年では1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を 365日 + (97/400)日。

見る 万延とグレゴリオ暦

元号

内閣が元号を選定した。また、元号の発表が史上初めてテレビ中継された。 インターネット配信された。 元号(げんごう、、)または年号(ねんごう、)とは、古代中国で創始された紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は年の途中でも行われ、1年未満で改元された元号もある。 2024年(令和6年)時点、公的には世界では日本のみで制定、使用されている。ただし、台湾を統治する中華民国の民国紀元に基づく「民国」や、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の主体年号による「主体」が事実上は元号的な機能をしている。 日本における元号の使用は、孝徳天皇などの宮とする難波宮で行われた大化の改新時の「大化」から始まり、「大化」の年号と前後して「日本」という国号の使用も始まった。

見る 万延と元号

勅許

ジョージ4世が1827年に認可した、キングス・カレッジ・トロント(現トロント大学)を設立する勅許状。 1829年のキングス・カレッジ・ロンドンの勅許認可を祝う彩色版画(H. D. スミス作)。 勅許(ちょっきょ、)または勅許状(ちょっきょじょう)とは、君主が、大権に基づき発する公的な認可である。英米法系の国々と、日本などの国では法的位置付けが異なる。 英米法系の国々においては、歴史的には公法の公布のために用いられてきた。最も知られた例はイギリスの1215年のマグナ・カルタ(またの名を大憲章、)である。14世紀以降は、個人または団体に法的な権利または法人格を与える私法としてのみ用いられてきた。自治体()、大学や学会などの重要な組織の設立のため用いられることもあり、この点は現代においても同様である。

見る 万延と勅許

馬融

馬 融(ば ゆう、79年(建初4年) - 166年(延熹9年))は、中国後漢中期の学者・政治家。右扶風茂陵県(現在の陝西省咸陽市興平市の北東)の人。字は季長。後漢の伏波将軍馬援の従孫。祖父は馬余(馬援の次兄)。父は馬厳(後漢の将作大匠)。兄に馬続。叔父に馬敦。娘の馬倫は袁隗の妻。従妹(馬敦の娘)は趙岐の妻。族子に馬日磾。『後漢書』に伝がある。

見る 万延と馬融

黒船来航

ペリーとオランダ語を介しての交渉の様子(場所不明) 黒船来航(くろふねらいこう)は、嘉永6年(1853年)に代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が日本に来航した事件。艦隊は江戸湾入り口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊し、一部は測量と称して江戸湾奥深くまで侵入した。結果、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認め、そこでアメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。日本ではおもに、この事件から大政奉還までを「幕末」と呼んでいる。

見る 万延と黒船来航

辛酉

辛酉(かのととり、しんきんのとり、しんゆう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの58番目で、前は庚申、次は壬戌である。陰陽五行では十干の辛は陰の金、十二支の酉は陰の金で、比和である。

見る 万延と辛酉

金(きん、gold、aurum)は、原子番号79の元素。元素記号はAu。第11族元素に属する金属元素。常温常圧下の単体では人類が古くから知る固体金属である。和語ではこがね、くがねといい、おうごんとも(黄金)。 見かけは光沢のあるオレンジがかった黄色すなわち金色に輝く。金属としては重く、軟らかく、可鍛性がある。展性と延性に富み、非常に薄く延ばしたり、広げたりすることができる。金属のなかで3番目に電気を通しやすい。同族の銅と銀が比較的反応性に富むこととは対照的に、標準酸化還元電位に基くイオン化傾向は全金属中で最小であり、反応性が低い。金を溶解する水溶液としては、王水(塩化ニトロシル)、セレン酸(熱濃セレン酸)、ヨードチンキ、酸素存在下でのシアン化物の水溶液がある。

見る 万延と金

金銀比価

金銀比価(きんぎんひか)とは、金と銀の価値比率のこと。ただし、両替商や銀行における金貨と銀貨の両替のための金銀相場とは直接関連しないことに注意を要する。

見る 万延と金銀比価

降嫁

降嫁(こうか)とは、皇女や王女が皇族・王族以外の男性に嫁ぐことをいう。

見る 万延と降嫁

桜田門外の変

桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)にある豊後杵築藩・松平親良の上屋敷前(右下の画像4枚目も参照)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、井伊直弼を暗殺した事件。「桜田事変」とも言う。

見る 万延と桜田門外の変

江戸城

江戸城(えどじょう)は、東京都千代田区千代田(武蔵国豊嶋郡江戸)にあった日本の城。江戸時代は江戸幕府の政庁および徳川将軍家の居城だった。明治時代以降は皇居となっている。 千代田城(ちよだじょう)及び江城(こうじょう)、東京城(とうけいじょう)が別名として知られている。

見る 万延と江戸城

江戸幕府

江戸幕府(えどばくふ)は、江戸時代における日本の武家政権。1603年(慶長8年)に徳川家康が征夷大将軍に補任し、江戸を本拠として創立した。その終末は、諸説あるが大政奉還が行われた1867年(慶応3年)までの約264年間とされる。 徳川家が将軍職を世襲したことから徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。 江戸時代初期に行われた大御所政治(駿府政権)に関してもここで述べる。

見る 万延と江戸幕府

文久

文久(ぶんきゅう、旧仮名遣: ぶんきう、)は、日本の元号の一つ。万延の後、元治の前。大化以降225番目、241個目の元号。1861年から1864年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。

見る 万延と文久

日本

日本国(にほんこく、にっぽんこく、Japan)、または日本(にほん、にっぽん)は、東アジアに位置する民主制国家。首都は東京都。 全長3500キロメートル以上にわたる国土は、主に日本列島北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々。および南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などの弧状列島により構成される。大部分が温帯に属するが、北部や島嶼部では亜寒帯や熱帯の地域がある。地形は起伏に富み、火山地・丘陵を含む山地の面積は国土の約75%を占め、人口は沿岸の平野部に集中している。国内には行政区分として47の都道府県があり、日本人(大和民族・琉球民族・アイヌ民族現代、アイヌにルーツをもつ日本国民のうち、アイヌ語を話す能力もしくはアイヌとしてのアイデンティティーを持っている者は少数である一方、近年は政策的にアイヌ文化の復興と発展のための活動が推進されている。

見る 万延と日本

改元

改元(かいげん)とは、元号を改める(変更する)こと。

見る 万延と改元

2月19日 (旧暦)

旧暦2月19日は旧暦2月の19日目である。六曜は友引である。

見る 万延と2月19日 (旧暦)

3月18日 (旧暦)

旧暦3月18日は旧暦3月の18日目である。六曜は友引である。

見る 万延と3月18日 (旧暦)

3月29日

3月29日(さんがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から88日目(閏年では89日目)にあたり、年末まであと277日ある。

見る 万延と3月29日

4月8日

4月8日(しがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から98日目(閏年では99日目)にあたり、年末まではあと267日ある。

見る 万延と4月8日

参考情報

1860年の日本

1861年の日本

別名。