ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
インストール
ブラウザよりも高速アクセス!
 

索引 禅

禅(ぜん)は、大乗仏教の一派である禅宗(ぜんしゅう)の略、もしくは、サンスクリット語の dhyāna (ディヤーナ)の音写、禅那(ぜんな)の略である『広辞苑』「禅」。また坐禅(座禅)の略としての意もある。本項では宗派についての禅宗について述べる。.

304 関係: 十号十二因縁十国十牛図千葉県南宗南宋南嶽懐譲南インド南唐南泉普願南浦紹明古先印元古武道吐蕃坐禅声調声母声明多武峰夢窓疎石大乗仏教大休正念大迦葉大般涅槃経大東出版社大日房能忍大慧宗杲大拙祖能天台宗天台徳韶天童如浄妙心寺孤雲懐奘宏智正覚室町時代宗派安史の乱安良岡康作宋 (王朝)寺院寛容尺八少林寺拳法山東省山水画川瀬一馬不立文字師家...中峰明本中巌円月中国中国の仏教中道中村元 (哲学者)市川白弦三学三昧一如一山一寧一月寺平安時代幽玄幕府度牒庶民広辞苑五山文学五代十国時代仏堂仏日契嵩仏教仏性仰山慧寂伊吹敦会昌の廃仏弟子丸泰仙弘忍徳山宣鑑徹通義介徽宗心地覚心圭峰宗密圜悟克勤北宗北宋北京語チベットチベット仏教バラモンメタ僧サンヨーロッパヨーガプロテスタントパーリ語フランスドイツベルギー嵩山少林寺呉越わび・さびアメリカ合衆国アルファ波イ山霊祐イ仰宗オーストリアカマラシーラカトリック教会キリスト教セロトニンセクトサムイェー寺の宗論サンフランシスコ禅センターサンスクリット哲学唯識儒教円爾円相内観出家全真教公案六祖壇経六道元 (王朝)兀庵普寧国分寺四声皇太后知識石頭希遷瞑想玄沙師備神秀禅定禅宗様禅譲禅林墨跡禅源諸詮集都序空 (仏教)章宗 (金)竺仙梵僊筑摩書房粛宗義空瑩山紹瑾田中良昭無学祖元無門関無著道忠無準師範白隠慧鶴百丈懐海隠元隆き鎌倉仏教鎌倉時代道信道セン道元道教達磨荊南荷沢宗荷沢神会菩薩萬福寺青原行思行表衆生血脈相承馬祖道一馬鳴解脱講談社費隠通容趙州従シン黄檗希運黙照禅龍樹近江国霊鷲山茶道部派仏教般若鈴木大拙鈴木俊隆興禅護国論蘭渓道隆阿難臨済宗臨済義玄釈迦金 (王朝)鉄眼道光雪峰義存雪庭福裕雪竇重顕雲門宗雲門文偃老子耶律楚材虚無僧陽明学柳田聖山東山法門東明慧日松戸市橘嘉智子檀林寺正法眼蔵武士武宗 (唐)武則天水墨画永明延寿江南江戸幕府江戸時代池田書店沢庵宗彭波羅蜜法嗣法四依法眼宗法藏館洞山良价洪州宗涅槃清規清拙正澄漢詩朝鮮の仏教挨拶末法朱子学最澄明菴栄西明極楚俊明治維新春秋社浄土教方便文化大革命日蓮正宗日本日本の仏教日本達磨宗摩訶衍悟り愚中周及懐石慧可慧能慈悲拈華微笑曹洞宗曹渓宗普寂普化景徳傳燈録1226年1254年13世紀1653年1654年1663年1744年1871年1876年20世紀580年601年606年638年651年674年677年684年706年709年713年740年744年758年771年788年804年807年853年864年867年869年885年890年949年958年9世紀 インデックスを展開 (254 もっと) »

十号

十号(じゅうごう)とは、仏教において仏陀の10種の称号のこと。釈迦の異名ともされる。如来十号ともいう。.

新しい!!: 禅と十号 · 続きを見る »

十二因縁

十二因縁 (じゅうにいんねん)、あるいは、十二縁起(じゅうにえんぎ、dvādaśāṅgika-pratītyasamutpāda)は、仏教において、現実の人生の苦悩の根源を断つことによって苦悩を滅するための12の条件を系列化したもの。仏教の基本的な考えの一つである。 では十二因縁とし、玄奘訳(新訳)では十二縁起と訳す。他にも十二支縁起、十二支因縁などと表記する場合がある。.

新しい!!: 禅と十二因縁 · 続きを見る »

十国

十国(じっこく).

新しい!!: 禅と十国 · 続きを見る »

十牛図

十牛図(じゅうぎゅうず)は、悟りにいたる10の段階を10枚の図と詩で表したもの影山純夫 『禅画を読む』 淡交社、 2011年、ISBN 978-4-473-03726-8 pp.121-124。。「真の自己」が牛の姿で表されているため十牛図といい、真の自己を求める自己は牧人(牧者)の姿で表されている。十牛禅図(じゅうぎゅうぜんず)や牧牛図ともいう上田、柳田・1992年 31頁。作者は、中国北宋時代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵(かくあん)上田、柳田・1992年 18-19頁。 廓庵以降、十牛図は世の中に広まっていたとみられるが、十牛図の作例はそれほど多くないとされる。よく知られている作例としては室町時代前期の禅僧の絶海中津が描いた十牛図(相国寺蔵)、室町時代中期の画僧の周文が描いたと伝えられる十牛図(相国寺蔵)がある。.

新しい!!: 禅と十牛図 · 続きを見る »

千葉県

千葉県(ちばけん)は、日本の関東地方の南東側、東京都の東方に位置する県。房総半島と関東平野の南部にまたがる。県庁所在地は千葉市。 平野と丘陵が県土の大半を占め、海抜500m以上の山地がない日本で唯一の都道府県である。地勢上、広大な可住地と、長大な海岸線を有している。.

新しい!!: 禅と千葉県 · 続きを見る »

南宗

南宗(なんしゅう)は、中国における禅仏教の一派。唐代に神会が、かつての師である神秀とその弟子たちを北宗と呼んで批判し、それに対して自らの立場を南宗と称して頓悟の立場を主張したことに始まる。.

新しい!!: 禅と南宗 · 続きを見る »

南宋

南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝) で解説することとする。 この項目では全般にわたって山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。.

新しい!!: 禅と南宋 · 続きを見る »

南嶽懐譲

南嶽懐譲(なんがく かいじょう、677年(儀鳳2年) - 744年(天宝)3載)は、唐代の中国の禅僧。諡は大慧禅師。.

新しい!!: 禅と南嶽懐譲 · 続きを見る »

南インド

南インド(英語で South India, Dakshina Nad, Dravida Nad;タミル語で தக்ஷிண நாடு ダクシナ・ナードゥ 「南の地」, திராவிட நாடு ドラーヴィダ・ナードゥ 「ドラヴィダの地」)は、インドの中で南部に位置する、地理的、言語的、かつ文化的に区分されうる一地域の総称。南インド分離主義者はドラヴィディスタン(英語版)とされている。.

新しい!!: 禅と南インド · 続きを見る »

南唐

南唐(なんとう、937年 - 975年)は、五代十国時代に江南に割拠した国であり、十国の一つである。首都は金陵(現在の南京)。国号は単に唐であるが、唐と名乗った他の政権と区別するために、特にこの国の名を南唐という。 十国の中では最大の勢力を誇ったが、華北の後周や北宋に攻め立てられて滅亡した。文化的・経済的には大いに繁栄していた。.

新しい!!: 禅と南唐 · 続きを見る »

南泉普願

南泉普願(なんせん ふがん、748年 - 835年)は、中国唐代の禅僧。俗姓は王氏、鄭州新鄭(河南省新鄭市)の人である。.

新しい!!: 禅と南泉普願 · 続きを見る »

南浦紹明

南浦 紹明(なんぽ しょうみょう、嘉禎元年(1235年) - 延慶元年12月29日(1309年2月9日))は、鎌倉時代の臨済宗の僧。出自については不詳であるが、駿河国安倍郡の出身。諱は紹明(「しょうみょう」とも「じょうみん」ともよむ)、道号は南浦。勅諡号は円通大応国師。.

新しい!!: 禅と南浦紹明 · 続きを見る »

古先印元

古先印元(こせんいんげん、永仁3年(1295年)-応安7年/文中3年1月24日(1374年3月7日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧侶。印原とも書く。諱は印元・字は古先。諡号は正宗広智禅師。.

新しい!!: 禅と古先印元 · 続きを見る »

古武道

薙刀を持っている僧兵(僧衆) 弓術 流鏑馬 柳生新陰流 二天一流 F・ベアト撮影) 畑六良左エ門」。『太平記』では、時能が犬の「犬獅子」と二人の従者「所大夫房快舜」、「悪八郎」とともに足利氏の砦を落としたというhttp://www.oidenense.net/stories/hata/ 勝山物語(畑時能物語) 古武道(こぶどう)とは、日本の伝統的な、徒手もしくは鈍器や刃物、火器などの武具の使用法や、水泳、乗馬など戦闘に関わる技術を体系化したものの総称。古流武術、古武術もほぼ同義。武芸、武術、兵法などの類義語もある。対義語は現代武道。.

新しい!!: 禅と古武道 · 続きを見る »

吐蕃

吐蕃(とばん、拼音:TŭbōまたはTŭfān、チベット語:、ワイリー転写:Bod chen po)は、7世紀初めから9世紀中ごろにかけてチベットにあった統一王国。.

新しい!!: 禅と吐蕃 · 続きを見る »

坐禅

半跏趺坐。タイの僧侶 坐禅(ざぜん、座禅とも)とは、仏教で姿勢を正して坐った状態で精神統一を行う、禅の基本的な修行法。 坐禅はMeditation(瞑想)と翻訳される場合があるが、眼を閉じて思考する瞑想と坐禅は別概念である。 なお、『ヨーガ・スートラ』に説かれる古典的な意味でのヨーガ(瑜伽)も、坐禅と同じようなものである。対になる概念として、立禅や動禅・歩行禅・経行(きんひん)などがある。.

新しい!!: 禅と坐禅 · 続きを見る »

声調

声調(せいちょう)、またはトーン(英語 Tone)とは、言語において意味の区別に用いる音の高低のパターンである。声調を用いる言語を声調言語(トーン言語)という。.

新しい!!: 禅と声調 · 続きを見る »

声母

声母(せいぼ)は、中国語の漢字音の構成要素の一。音節の最初の部分。音声学上の頭子音であるが、音韻学では韻母のみで存在する漢字音は無いものと考え、ゼロ声母を設定する。 現代の普通話にはゼロ声母を含めて22個の声母が設定されている。このうち3個は異音と見なすことができる。詳しくは同記事の声母の項を参照のこと。 古代の中国語の賦・古詩等では声母を一致させて複数の音節をつなげる「畳声」という表現技法も用いられたが、近体詩では韻母が重視される。 中古音において声母は五音三十六字母によって表された。現在では51の声母があったと言われている。 せいほ en:Syllable#Onset.

新しい!!: 禅と声母 · 続きを見る »

声明

声明(しょうみょう)とは、仏典に節をつけた仏教音楽のひとつで、儀礼に用いられる。日本では、梵唄(ぼんばい)・梵匿(ぼんのく)・魚山(ぎょざん)ともいう。.

新しい!!: 禅と声明 · 続きを見る »

多武峰

多武峰(とうのみね)は奈良県桜井市南部にある山、および、その一帯にあった寺院のこと。 飛鳥時代に道教を信奉していた斉明天皇が、『日本書紀』に、「多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いて両槻宮(ふたつきのみや)とした」とある。『日本三代実録』に、858年(天安2年)「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」と記されている。平安時代中頃の成立と見られる『多武峯略記』に、「最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市大織冠神社、阿武山古墳か)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が見える。 明治初年の神仏分離により、談山神社となった。詳細は、談山神社を参照。多武峰街道は談山神社から等弥神社を経て山の辺の道に接続する。.

新しい!!: 禅と多武峰 · 続きを見る »

夢窓疎石

夢窓 疎石(むそう そせき、道号が夢窓、法諱が疎石、建治元年(1275年) - 観応2年/正平6年9月30日(1351年10月20日))は、鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧。七朝帝師。父は佐々木朝綱(ともつな)、母は平政村(北条政村か?)の娘。佐々木頼綱(六角頼綱)の兄・経泰(つねやす)の孫とされる。.

新しい!!: 禅と夢窓疎石 · 続きを見る »

大乗仏教

大乗仏教(だいじょうぶっきょう、महायान Māhāyāna, Mahāyāna Buddhism)は、伝統的にユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の一派。大乗仏教が発祥した背景としてはさまざまな説が唱えられているが、部派仏教への批判的見地から起こった側面があるとされている。.

新しい!!: 禅と大乗仏教 · 続きを見る »

大休正念

大休正念(だいきゅう しょうねん、嘉定8年(1215年)- 正応2年11月29日(1290年1月11日))は、鎌倉時代に宋から渡来した臨済宗の僧。諡号は仏源禅師。出身は温州(現在の中国浙江省)。 初め東谷明光に師事し、その後径山の石渓心月に参禅してその法を継いだ。1269年幕府執権北条時宗の招聘により来日した。禅興寺・建長寺・寿福寺・円覚寺などに住し、浄智寺を開創している。長期間の日本滞在により鎌倉における禅林の確立に力を尽くし、時宗を初め、子の貞時や時宗の弟の宗政など鎌倉武士に大きな感化を与えた。 Category:日本の禅僧 (臨済宗) Category:宋代の禅僧 Category:南宋の人物 Category:鎌倉時代の僧 Category:鎌倉時代の外国人 Category:前近代の日本の中国人 Category:前近代の中国系日本人 Category:温州出身の人物 Category:1215年生 Category:1290年没.

新しい!!: 禅と大休正念 · 続きを見る »

大迦葉

大迦葉(だいかしょう、Mahā-ka-śyapa)は釈迦十大弟子の一人。仏教教団で釈迦の後継(第2祖)とされ、釈迦の死後、初めての結集(第1結集)の座長を務めた。頭陀第一といわれ、衣食住にとらわれず、清貧の修行を行った。 摩訶迦葉、摩訶迦葉波、迦葉、迦葉波とも呼ばれる。なお迦葉は古代インドではありふれた名であったといわれ、仏弟子中には三迦葉という三人兄弟や十力迦葉という名前も見受けられるが、摩訶迦葉とは別人である。.

新しい!!: 禅と大迦葉 · 続きを見る »

大般涅槃経

『大般涅槃経』(だいはつねはんぎょう、महापरिनिर्वाणसूत्र(Mahāparinirvāṇa Sūtra、マハーパリニルヴァーナ・スートラ)、महापरिनिब्बानसुत्तन्त Mahaaparinibbaana Sutta(nta)(マハーパリニッバーナ・スッタ(ンタ))は、釈迦の入滅(=大般涅槃(だいはつねはん))を叙述し、その意義を説く経典類の総称である。阿含経典類から大乗経典まで数種ある。略称『涅槃経』。 大乗の『涅槃経』 は、初期の『涅槃経』とあらすじは同じだが、「一切衆生悉有仏性」を説くなど、趣旨が異なる。 涅槃経を宗旨とする宗派涅槃宗が中国で興ったが、日本には直接伝来しなかった。.

新しい!!: 禅と大般涅槃経 · 続きを見る »

大東出版社

大東出版社(だいとうしゅっぱんしゃ)は、仏教関連を中心とした日本の出版社。浄土宗浄閑寺住職の岩野真雄(1893年 - 1968年)が、『国訳一切経』を刊行するために1925年に設立した。 のちに青蛙房を興す岡本経一(岡本綺堂の養嗣子)は、戦前に大東出版社の編集長をつとめており、その時期に森銑三の著作が出されている。 現在は仏教の専門書を中心に、文学書(坂村真民詩集)など一般書籍も刊行している。1997年には美智子皇后の歌集『瀬音』を刊行した。.

新しい!!: 禅と大東出版社 · 続きを見る »

大日房能忍

大日房 能忍(だいにちぼう のうにん、生没年不詳)は、筑前博多(現在の福岡県福岡市)出身の日本の平安時代末から鎌倉時代初期の禅宗僧侶。日本達磨宗の開祖。 能忍に関する明確な記録はとぼしく、その行跡には謎や異説が多い。出自も未詳であるが、一説に平家の家人・藤原景綱の子であるとされる。没後、深法禅師と諡号されたともいう。.

新しい!!: 禅と大日房能忍 · 続きを見る »

大慧宗杲

大慧宗杲(だいえ そうこう、元祐4年(1089年) - 隆興元年8月10日(1163年9月9日))は、中国の宋代の臨済宗の僧。.

新しい!!: 禅と大慧宗杲 · 続きを見る »

大拙祖能

大拙祖能(だいせつそのう、正和2年3月3日(1313年3月30日)- 永和3年/天授3年8月20日(1377年9月23日))は、南北朝時代の臨済宗の僧。俗姓は藤原氏。諱は祖能。道号は大拙。相模国鎌倉の出身。諡号は広円明鑑禅師。 14歳で比叡山に登って出家し、延暦寺戒壇で受戒している。その後京都東福寺の双葉宗源、鎌倉大慶寺の大川道通、円覚寺の天外志高に師事して修行し、また険崕巧安・東明恵日・夢窓疎石に参禅した。1343年に中国の元に渡って無言承宣・東陽徳輝・千巌元長らに参禅して、千巌から印可を受けた。1358年に帰国したのちは、豊後国万寿寺・上野国吉祥寺の住持を歴任し、3代将軍足利義満の帰依を受け鎌倉円覚寺・建長寺に招かれたが、これを固辞して常陸国笠間郡の楞厳寺に住した。 Category:日本の禅僧 (臨済宗) Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:1313年生 Category:1377年没.

新しい!!: 禅と大拙祖能 · 続きを見る »

天台宗

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる - コトバンク/世界大百科事典。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられ、多くの日本仏教の宗旨がここから展開した。.

新しい!!: 禅と天台宗 · 続きを見る »

天台徳韶

天台 徳韶(てんだい とくしょう、891年(大順2年) - 972年8月9日(開宝5年6月28日))は、中国五代十国時代の法眼宗の僧侶。呉越忠懿王の国師。.

新しい!!: 禅と天台徳韶 · 続きを見る »

天童如浄

天童如浄(てんどう にょじょう、1163年(隆興元年) - 1228年(紹定元年))は、中国・宋の曹洞宗の禅僧である。天童山景徳寺(浙江省寧波地区)の第31世住職を務めた。『如浄禅師語録』が伝えられる。日本曹洞宗の開祖道元が師事したことで知られる。.

新しい!!: 禅と天童如浄 · 続きを見る »

妙心寺

妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。山号を正法山と称する。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。寺紋は花園紋(妙心寺八つ藤)。 日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭が建ち並び、一大寺院群を形成している。平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。.

新しい!!: 禅と妙心寺 · 続きを見る »

孤雲懐奘

孤雲懐奘(こうんえじょう、懐弉とも。建久9年(1198年)- 弘安3年8月24日(1280年9月19日))は鎌倉時代の禅宗僧侶。 曹洞宗の第2祖、永平寺の第2世(在任、建長5年(1253年)7月-文永4年(1267年)。再任、文永9年(1272年)2月-弘安3年8月)。諡号は道光普照国師(どうこうふしょうこくし)。.

新しい!!: 禅と孤雲懐奘 · 続きを見る »

定(じょう)、サマーディ(巴, )は、仏教用語で、心をひとつの対象に集中し心の散乱がないという精神の作用や、そのようにすることや、定まっているその状態を指す。また、一般に心を散乱させないようにする修行、及びそれによってもたらされた特殊な精神状態をも総称して定という。samādhiの音写が三昧(さんまい)であり、三摩地とも書かれた。定すなわち三昧は、仏教の三学である戒・定・慧の一つであって、仏教の実践道の大綱である。また、八正道の一つには正定が挙げられており、五根には定根が、五力には定力が挙げられている。。定はの一つでもある。定に反して心が散り乱れて動く状態を散といい、定散(じょうさん)と呼ばれる。.

新しい!!: 禅と定 · 続きを見る »

宏智正覚

宏智正覚(わんし しょうがく、1091年(元祐6年) - 1157年(紹興27年))は、中国の宋代の禅僧。曹洞宗に属し、多くの弟子がいて宏智派の祖とされた。黙照禅という坐禅の形を正統のものと主張し、多くの詩偈を残した。.

新しい!!: 禅と宏智正覚 · 続きを見る »

室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

新しい!!: 禅と室町時代 · 続きを見る »

宗派

宗派(しゅうは)は、教義・信仰対象などの違いや歴史的経緯により生じた分派である。主に仏教において用いられる。実際にどんな仏教の宗派があるかについては、十三宗五十六派および:Category:仏教の宗派を参照。.

新しい!!: 禅と宗派 · 続きを見る »

安史の乱

安史の乱(あんしのらん)、ないし安禄山の乱(あんろくざんのらん)は、755年から763年にかけて、唐の節度使・安禄山とその部下の史思明およびその子供達によって引き起こされた大規模な反乱。.

新しい!!: 禅と安史の乱 · 続きを見る »

安良岡康作

安良岡 康作(やすらおか こうさく、1917年9月14日 - 2001年10月1日)は、日本の国文学者。東京学芸大学名誉教授。日本中世文学、国語教育専攻。.

新しい!!: 禅と安良岡康作 · 続きを見る »

宋 (王朝)

宋(そう、拼音 Sòng、960年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。国号の宋は趙匡胤が宋州(河南省商丘県)の帰徳軍節度使であったことによる。通常は、金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋、南宋もともに、宋、宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分し易い歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区別し難い分野を本記事で解説する。.

新しい!!: 禅と宋 (王朝) · 続きを見る »

寺院

日本の寺院の地図記号 寺院(じいん、梵、)は、仏像が祀られ、仏教の出家者が起居し、修行を行う施設である。寺(てら)、仏閣(ぶっかく)ともいう。 本来は仏教用語であるが、神道を除く諸宗教の教会・神殿を指す語としても広く用いられている(ごく稀に神社にも用いられることがある)。.

新しい!!: 禅と寺院 · 続きを見る »

寛容

寛容(かんよう、toleration)とは自分と異なる意見・宗教を持っていたり、異なる民族の人々に対して一定の理解を示し、許容する態度のこと。.

新しい!!: 禅と寛容 · 続きを見る »

尺八

尺八の前面(左)と背面(右) 尺八(しゃくはち)は日本の木管楽器の一種である。リードのないエアリード楽器に分類される。中国の唐を起源とし、日本に伝来したが、その後空白期間を経て、鎌倉時代から江戸時代頃に現在の形の祖形が成立した。 名称は、標準の管長が一尺八寸(約54.5cm)であることに由来する 。語源に関する有力な説は、『旧唐書』列伝の「呂才伝」の記事によるもので、7世紀はじめの唐の楽人である呂才が、筒音を十二律にあわせた縦笛を作った際、中国の標準音の黄鐘(日本の十二律では壱越:西洋音階のD)の音を出すものが一尺八寸であったためと伝えられている 。演奏者のあいだでは単に竹とも呼ばれる。英語ではあるいは、とも呼ばれる。 真竹の根元を使い、7個の竹の節を含むようにして作るものが一般的である。上部の歌口に息を吹きつけて音を出す。一般的に手孔は前面に4つ、背面に1つある。 尺八に似た楽器として、西洋のフルートや南米のケーナがある。これらは、フィップル(ブロック)を持たないエアリード楽器である。.

新しい!!: 禅と尺八 · 続きを見る »

少林寺拳法

少林寺拳法(しょうりんじけんぽう)とは、宗道臣が日本で創始した武道であり、中国武術そのものではない。武術の体系であると同時に「人づくりの行」であり、「護身練胆」「精神修養」「健康増進」の三徳を兼ね備える「身心一如」の修行法をとり、「技」と「教え」と「教育システム」を3本の柱としている。技の特徴は、護身を旨とする拳法。教えの中心思想は「自己確立」と「自他共楽」。教育システムとしては、数百ページにわたる教範、入門から高段にいたるまでの修行計画が記された科目表で文書化標準化が図られ、また特に指導者育成機関として禅林学園(専門学校)を有している。 少林寺拳法グループは、宗教法人金剛禅総本山少林寺、一般財団法人少林寺拳法連盟、学校法人禅林学園、少林寺拳法世界連合(WSKO)、SHORINJI KEMPO UNITY、の5つの組織からなる。中国武術のひとつである少林拳とは全く関係ない。.

新しい!!: 禅と少林寺拳法 · 続きを見る »

山東省

山東省(さんとうしょう、中国語:山东省、拼音:Shāndōng Shěng、英語:Shandong)は、中華人民共和国の省の一つ。略称は周代の国名より魯。山東とは太行山脈の東方の意。北には渤海、東には黄海があり、黄河の下流に位置する。人口9579.3万人、面積157,126平方キロメートル。省都は、済南。他に青島、泰安などの主要都市がある。.

新しい!!: 禅と山東省 · 続きを見る »

山水画

山水画(さんすいが)は、中国で発達した絵画のジャンルである。現実の景色の再現を意図した作品もあるが、型による山岳樹木岩石河川などの添景を、再構成した「創造された景色」が多い。.

新しい!!: 禅と山水画 · 続きを見る »

川瀬一馬

川瀬 一馬(かわせ かずま、1906年1月25日 - 1999年2月1日)は、昭和時代の書誌学者、日本文化史家。.

新しい!!: 禅と川瀬一馬 · 続きを見る »

不立文字

不立文字(ふりゅうもんじ)は、禅宗の教義を表す言葉で、文字や言葉による教義の伝達のほかに、体験によって伝えるものこそ真髄であるという意味。.

新しい!!: 禅と不立文字 · 続きを見る »

師家

師家(しけ).

新しい!!: 禅と師家 · 続きを見る »

中峰明本

中峰明本(ちゅうほう みんぽん、中統4年11月2日(1263年12月3日) - 至治3年8月14日(1323年9月14日))は、中国の元代の禅僧である。南嶽懐譲下の第22世に当たる。俗姓は孫氏、杭州銭塘県(浙江省杭州市)の出身。字が中峰であり、幻住道人と号した。諡は智覚禅師。.

新しい!!: 禅と中峰明本 · 続きを見る »

中巌円月

中巌円月(ちゅうがんえんげつ、正安2年1月6日(1300年1月28日) - 文中4年/応安8年1月8日(1375年2月9日))は、南北朝時代の臨済宗の僧。相模国鎌倉の出身で、俗姓は土屋氏。中巌は道号で、諡号は仏種慧済禅師。 年少期に鎌倉寿福寺(臨済宗建長寺派)に入った後、醍醐寺に入って密教を学び、また曹洞宗の東明慧日に師事した。1325年(正中2年)中国の元に入り、1332年(元弘2年)日本に戻った。その後、万寿寺・建仁寺・建長寺などの住持を歴任し、臨済宗における一派を形成した。 また、数学に詳しく、随筆の『文明軒雑談』には数学や度量衡の話題を多く記している他、自身でも『觽耑算法』という数学書を著しているが、後者は現存していない川本慎自「禅僧の数学知識と経済活動」中島圭一 編『十四世紀の歴史学 新たな時代への起点』(高志書院、2016年) ISBN 978-4-86215-159-9。 神武天皇については、「呉の太伯の子孫」であるとして、「天皇中国人説」を唱えた(山本七平 『現人神の創作者たち』)。.

新しい!!: 禅と中巌円月 · 続きを見る »

中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

新しい!!: 禅と中国 · 続きを見る »

中国の仏教

中国の仏教(ちゅうごくのぶっきょう)では、中国地域の仏教の歴史について詳述する。.

新しい!!: 禅と中国の仏教 · 続きを見る »

中道

仏教用語としての中道(ちゅうどう、Madhyamā-pratipad, マディヤマー・プラティパッド、Majjhimā-paṭipadā, マッジマー・パティパダー)は、2つのものの対立を離れていること。断・常の二見、あるいは有・無の二辺を離れた不偏にして中正なる道のこと中村元 『広説佛教語大辞典』中巻 東京書籍、2001年6月、1183頁。。中行、中路あるいは単に中ともいう。 中道の語は仏教において広く重んじられているため、その意味には浅深があるが、各宗がその教理の核心を中道の語で表す点は一致する総合仏教大辞典編集委員会 『総合仏教大辞典』 法蔵館、1988年1月、997-999頁。。.

新しい!!: 禅と中道 · 続きを見る »

中村元 (哲学者)

中村 元(なかむら はじめ、1912年(大正元年)11月28日 - 1999年(平成11年)10月10日)は、日本のインド哲学者、仏教学者 著者紹介。東京大学名誉教授、日本学士院会員。勲一等瑞宝章、文化勲章、紫綬褒章受章。.

新しい!!: 禅と中村元 (哲学者) · 続きを見る »

市川白弦

市川 白弦(いちかわ はくげん、1902年(明治35年)2月28日 - 1986年(昭和61年)6月7日)は、臨済宗の僧侶、社会運動家。 哲学者市川浩は長男。.

新しい!!: 禅と市川白弦 · 続きを見る »

三学

三学(さんがく)とは、仏道を修行する者がかならず修めるべき基本的な修行項目をいう。『涅槃経』獅子吼菩薩品に詳細に説かれている。三勝学(さんしょうがく)とも。 具体的には、戒学・定学・慧学の3つを指す。;戒学(かいがく):戒律のことで、「戒禁」(かいごん)ともいい、身口意(しんくい)の三悪(さんまく)を止め善を修すること。律蔵に相当。;定学(じょうがく):禅定を修めることで、心の散乱を防ぎ安静にするための方法を修すること。経蔵に相当。;慧学(えがく):智慧を修めることで、煩悩の惑を破って、すべての事柄の真実の姿を見極めること。論蔵に相当。 この三学は、三蔵に相当しており、上記のとおりである。 三学それぞれの関係は、.

新しい!!: 禅と三学 · 続きを見る »

三昧

マーディの音写である三昧(さんまい、)は、仏教やヒンドゥー教における瞑想で、精神集中が深まりきった状態のことをいう。三摩地(さんまぢ)、三摩提とも音訳され、等持、定と義訳される山下博司 『ヨーガの思想』 講談社〈講談社メチエ〉、2009年、127-129頁。。サマーディの語は「組み合わせ」という原義から「心を等しく持すること」の意に転じたもので、サマーパッティ (samāpatti, 等至) とも意味内容はほぼ同じとされる。仏教における三昧の同義語・類義語については定にて解説するが、(定の定義に沿っているか否かにかかわらず)三昧と呼称されるものを本記事にて解説する。 このという語は、インドの瞑想の伝統の中で培われたものであり、仏教だけでなく、共通の背景を持つヒンドゥー教やヨーガの用語としても用いられている。インドでは聖者の入滅をサマーディと表現する。.

新しい!!: 禅と三昧 · 続きを見る »

一如

一如(いちにょ)とは、絶対的に同一である真実の姿、という意味の仏教用語である。 「一」は絶対唯一、「如」は真如(tathā)・如同の意で、一異の差別なく平等であることをいう。世間における一切の事物・現象には実相(真実の姿)があり、普遍的に不二同一であることをいう。平たく読めば「一つの如し」となる。一でありつつそれは異なるが、異なりつつもそれはそれは一であるという、真如を弁証法的に表現した語である。 もとは老荘思想の概念であり、万物を生成し存在している真実の相、またその差別相を超越した存在義を意味する。 のちに、本来の仏教用語から派生し、剣禅一如などとも転用されるようになった。.

新しい!!: 禅と一如 · 続きを見る »

一山一寧

一山一寧(いっさん いちねい、宝治元年(南宋の淳祐7年、1247年) - 文保元年10月24日(1317年11月28日))は元の渡来僧。寧一山ともいう。.

新しい!!: 禅と一山一寧 · 続きを見る »

一月寺

一月寺(いちがつじ)は、千葉県松戸市小金に所在する日蓮正宗の寺院。山号は金龍山(きんりゅうさん)。.

新しい!!: 禅と一月寺 · 続きを見る »

平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

新しい!!: 禅と平安時代 · 続きを見る »

幽玄

幽玄(ゆうげん)とは、文芸・絵画・芸能・建築等、諸々の芸術領域における日本文化の基層となる理念の一つ。 本来は仏教や老荘思想など、中国思想の分野で用いられる漢語であったが、平安時代後期から鎌倉時代前期の代表的歌人であり、千載和歌集を撰集した藤原俊成により、和歌を批評する用語として多く用いられて以来、歌論の中心となる用語となった。同じ歌道の理念である有心(うしん)とともに並び用いられることが多いが、本来は別の意味の言葉である。 その後、能楽・禅・連歌・茶道・俳諧など、中世・近世以来の日本の芸術文化に影響を与え続け、今日では一般的用語としても用いられるに至っている。.

新しい!!: 禅と幽玄 · 続きを見る »

幕府

幕府(ばくふ)は、日本の中世及び近世における征夷大将軍などの武家の最高権力者を首長とする武家政権のことをいう。あるいはその武家政権の政庁、征夷大将軍の居館・居城を指す名称としても用いられる。近衛大将の唐名。.

新しい!!: 禅と幕府 · 続きを見る »

度牒

度牒(どちょう)は、国家公認の得度に際して、国家機関によって新たに得度した僧尼に交付される身分証のことである。出家得度の証明書。公験(くげん)、告牒(こくちょう)、度縁(どえん)ともいう。.

新しい!!: 禅と度牒 · 続きを見る »

庶民

庶民(しょみん)とは、人口の多数を占める一般的な人々のことである。 庶民には、通例、平民などが該当し、貴族などの特権階級に対して、一般階級の人々を指すことが多い。現代社会においては、一般市民とも呼ばれることも多い。また庶民と言う言葉を大衆と同義で用いられることもあるが、厳格に区別して用いられることもある。庶民は、風俗の担い手でもあり、民俗学や文化人類学などにおいても注目されている。 古代中国では、士大夫以上の階級に対して「庶民に落とす」という処罰が存在し、これを恥辱として自殺した例もあった。.

新しい!!: 禅と庶民 · 続きを見る »

広辞苑

『広辞苑』(こうじえん)とは、岩波書店が発行している中型の日本語国語辞典である。編著者・新村出、新村猛。.

新しい!!: 禅と広辞苑 · 続きを見る »

五山文学

五山文学(ござんぶんがく)は、鎌倉時代末期から室町時代にかけて禅宗寺院で行われた漢文学である。.

新しい!!: 禅と五山文学 · 続きを見る »

五代十国時代

五代十国時代(ごだいじっこくじだい、907年 - 960年)は、中国の唐の滅亡から北宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。.

新しい!!: 禅と五代十国時代 · 続きを見る »

仏堂

仏堂(ぶつどう)とは、仏教寺院において仏像を安置し、礼拝供養するための建物である。境内以外に単独で建てられたものは境外仏堂(けいがいぶつどう)ということがある。.

新しい!!: 禅と仏堂 · 続きを見る »

仏日契嵩

仏日契嵩(ぶつにち かいすう、1007年 - 1072年)は、中国北宋代の禅僧である。俗姓は李氏、藤州鐔津県(広西チワン族自治区藤県)の出身である。 7歳で出家、13歳で得度し、14歳で具足戒を受ける。 19歳の時に遊方に出て、神鼎洪諲、洞山暁聡らに参じる。暁聡の法を嗣ぎ、銭塘(浙江省)に行き、霊隠山(武林山)にある永安精舎、仏日山、龍山などに住して、著述に専心する。 従来の燈史の整理を行い、欧陽脩らの排仏論者に対抗して三教一致論を展開した。また、『六祖壇経』の刊行にも携わる。 『伝法正宗記』『輔教編』が大蔵経に入蔵され、明教大師の大師号を賜った。永安精舎で没する。.

新しい!!: 禅と仏日契嵩 · 続きを見る »

仏教

仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.

新しい!!: 禅と仏教 · 続きを見る »

仏性

仏性(ぶっしょう、Buddha-dhātu)とは、、衆生が持つ仏としての本質、仏になるための原因のこと。主に『涅槃経』で説かれる大乗仏教独特の教理である。覚性(かくしょう)とも訳される。 仏教では、この仏性を開発(かいほつ)し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされている。 『法華経』では、仏種(ぶっしゅ、Buddha-gotra)「仏の種姓」、『勝鬘経』では、如来蔵(にょらいぞう、Tathāgata-garbha)などと、さまざまな表現がされるが、基本的に仏性と同じ意義である。ただし仏性には如来蔵のように「煩悩が付着して隠れている」という意味はない。.

新しい!!: 禅と仏性 · 続きを見る »

仰山慧寂

仰山慧寂(ぎょうざん えじゃく、 804年(貞元20年) - 890年(大順元年))は、中国・唐代の禅僧。 俗姓は葉氏、韶州須昌(広東省韶関市曲江区)の人。.

新しい!!: 禅と仰山慧寂 · 続きを見る »

伊吹敦

伊吹 敦(いぶき あつし、1959年(昭和34年)- )は、日本の仏教学者。東洋大学文学部教授。専門は初期禅宗史。愛知県生まれ。.

新しい!!: 禅と伊吹敦 · 続きを見る »

会昌の廃仏

会昌の廃仏(かいしょうのはいぶつ/えしょうのはぶつ)とは、中国・唐朝の武宗期に行われた廃仏事件。また、仏教と共に、長安を中心に盛んであった「唐代三夷教」(マニ教・ゾロアスター教・ネストリウス派キリスト教)も排斥された。「会昌」は、その時の年号。中国史上の対仏教弾圧である三武一宗の廃仏の1つであり、第3回目に当たる。.

新しい!!: 禅と会昌の廃仏 · 続きを見る »

弟子丸泰仙

弟子丸泰仙(でしまる たいせん、1914年 - 1982年4月30日)は、日本の曹洞宗の僧侶である。.

新しい!!: 禅と弟子丸泰仙 · 続きを見る »

弘忍

弘忍(ぐにん/こうにん、602年(隋・仁寿2年) - 675年(唐・上元2年))は、中国禅宗の五祖。没後に代宗の時代になって、大満禅師の諡号と、法雨塔の塔号を賜る。 黄梅県(湖北省黄梅県)出身(『宋高僧伝』では、或いは淮左潯陽(江西省)の出身という)で、俗姓は周。.

新しい!!: 禅と弘忍 · 続きを見る »

徳山宣鑑

徳山 宣鑑(とくざん せんがん、780年 - 865年)は、中国唐代の禅僧。俗姓は周氏、剣南(四川省)の出身である。 古来、禅者の間では徳山の峻厳な禅風を表す「徳山の棒」は「臨済の喝」と並んで有名である。.

新しい!!: 禅と徳山宣鑑 · 続きを見る »

徹通義介

徹通 義介(てっつう ぎかい、承久元年2月2日(1219年2月18日) - 延慶2年9月14日(1309年10月18日))は、越前国出身の鎌倉時代中期の曹洞宗の僧。永平寺3世、大乗寺開山。.

新しい!!: 禅と徹通義介 · 続きを見る »

徽宗

徽宗(きそう)は、北宋の第8代皇帝。諡号は体神合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝(退位したので「遜」(ゆずる)という文字が入っている)。諱は佶。第6代皇帝神宗の六男(第11子)。 書画の才に優れ、北宋最高の芸術家の一人と言われる。一方で政治的には無能で、彼の治世には人民は悪政に苦しみ、水滸伝のモデルになった宋江の乱など、地方反乱が頻発した。.

新しい!!: 禅と徽宗 · 続きを見る »

心地覚心

心地 覚心(しんち かくしん、承元元年(1207年) - 永仁6年10月13日(1298年11月18日))は、鎌倉時代の臨済宗の僧。姓は恒氏。無本と号した。京都宇多野に位置する臨済宗建仁寺派の妙光寺を開創した。.

新しい!!: 禅と心地覚心 · 続きを見る »

圭峰宗密

圭峰宗密(けいほう しゅうみつ、780年 - 841年)は、中国・唐代の僧。 当時の仏教界において、禅宗の一派である荷沢宗と華厳宗とを中心として、諸種雑多な仏教思想と実践行とを統一する「教禅一致」の特異な教説を説いた。また、その著『原人論』では、儒教や道教も仏教のもとに統合しようとする「三教融合」の試みもはかられている。 俗姓は何氏、現在の四川省の果州西充の出身。最初は儒教を学んだのだが、その後、仏教に転向し、25歳の時に出家して道円に師事した。後に、『円覚経』及び杜順撰『法界観門』に出会い、自身の立つ立場を確固たるものとした。 29歳で具足戒を受け、808年になって師の指示によって、師の師である南印に師事し、その後洛陽に入り、南印の弟子である報国寺の神照に禅を学んだ。さらに、811年に、清涼澄観に師事し、華厳を究めた。そのため、宗密は華厳宗第5祖とされる。以後、著作または講筵によって名声を確立した。 821年以後、終南山の草堂寺に住して、『円覚経大疏鈔』等の撰述に没入した。 828年、文宗の召致により、長安に入内し、紫衣を賜った。その後、裴休(791年 - 864年)と交流が生まれ、彼の質問に返答するという形式によって、『裴休拾遺問』を著した。 宗密の思想は、当時の仏教界を席巻していた馬祖禅に対する強烈な対抗意識によって貫かれている。しかし、洪州宗の絶大な力の前には屈するしかなかった。その思想が注目されるのは、五代の永明延寿(904年 - 975年)が提唱した教禅一致思想、更には三教一致思想が大きな潮流となる後世のことである。 代表的な著作として『禅源諸詮集都序』等がある。 841年、草堂寺で没した。裴休に「圭峰禅師碑銘并序」がある。.

新しい!!: 禅と圭峰宗密 · 続きを見る »

圜悟克勤

圜悟克勤(えんご こくごん、嘉祐8年(1063年) - 紹興5年8月5日(1135年9月14日))は、中国の宋代の禅僧。.

新しい!!: 禅と圜悟克勤 · 続きを見る »

北宗

北宗(ほくしゅう)は、中国における禅宗の一派であり、唐代に則天武后に迎えられた神秀とその門弟子らの一派を指す。しかし、神秀らは北宗を自称したわけではなく、この名称は神会が自身の論敵として神秀の弟子たちを指して用いた通称に由来するものである。.

新しい!!: 禅と北宗 · 続きを見る »

北宋

北宋(ほくそう、拼音:Bĕisòng、960年 - 1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋で解説することにする。.

新しい!!: 禅と北宋 · 続きを見る »

北京語

北京語(ペキンご)は、中国の北京で話される中国語の方言。中華民国では北平語などと呼ばれたこともある。北方方言に属する。 普通話、国語、華語などと呼ばれる現代標準中国語は北京の発音を基本としており、これを俗に北京語と呼ぶ場合もあるが、方言としての北京語とは完全に同じではない。普通話は文言(漢文)の語彙語法を取り込んだ教養ある知識人の北京語(官話)を基準にしており、北京の街角で話される日常語とは違いがある。日本語の標準語(共通語)と東京方言(山の手言葉、江戸弁)のような関係にあると考えるとわかりやすいであろう。.

新しい!!: 禅と北京語 · 続きを見る »

チベット

チベットの旗(雪山獅子旗) チベット(英語:Tibet,,,, )は、東経77-105度、北緯27-40度に至る地域を占め、南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、東は邛崍山脈に囲まれた地域、およびこの地域に成立した国家や政権、民族、言語等に対して使用される呼称。.

新しい!!: 禅とチベット · 続きを見る »

チベット仏教

チベット仏教(チベットぶっきょう)は、チベットを中心に発展した仏教の一派。チベット仏教は、根本説一切有部律の厳格な戒律に基づく出家制度から、大乗顕教の諸哲学や、金剛乗の密教までをも広く包含する総合仏教である。また、独自のチベット語訳の大蔵経を所依とする教義体系を持ち、漢訳経典に依拠する北伝仏教と並んで、現存する大乗仏教の二大系統をなす。 教義としては、智慧と方便を重視する。インド後期密教の流れを汲む無上ヨーガ・タントラが実践されている。ニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派の4宗派が存在するが、いずれも顕教と密教の併修を柱とする。チベットでは、7世紀から14世紀にかけてインドから直接に仏教を取り入れた。そのため、インド仏教の伝統が途絶える寸前の時代に伝来した後期密教が保存されていることが特徴である。 ラマと呼ばれる高僧、特に化身ラマを尊崇することから、かつては一般にラマ教(喇嘛教、Lamaism)と呼ばれ、ややもすると、仏教とは異質な宗教と見なす向きもあったが、その実態が一般の認識を得るにつれ、ラマ教という呼称は不適切だとして、現在では使用されなくなっている。.

新しい!!: 禅とチベット仏教 · 続きを見る »

バラモン

バラモン階級の人々(インド・カルナータカ州) バラモン(brāhmaṇa、婆羅門)とは、インドのカースト制度の頂点に位置するバラモン教やヒンドゥー教の司祭階級の総称。ブラフミン(brahmin)ともいう。.

新しい!!: 禅とバラモン · 続きを見る »

メタ

メタ(meta-)とは、「高次な-」「超-」「-間の」「-を含んだ」「-の後ろの」等の意味の接頭語。ギリシア語から。 例えば物質界の現象を超越した世界を取り扱う学問を「形而上学」というが、これは英語でmetaphysicsであり、physics(物理学)の後の学問として存在する(詳しくは「形而上学」の項を参照のこと)。.

新しい!!: 禅とメタ · 続きを見る »

僧サン

僧璨(そうさん、生年不詳(推定500年~505年頃) - 大業2年10月15日(606年11月20日))は、中国・隋代の僧。禅宗の第三祖。 「璨」とは、「美しい珠」、「光り輝く宝玉(宝石)」のことである。唐の玄宗皇帝により『(鑑)智禅師』の諡を賜った。.

新しい!!: 禅と僧サン · 続きを見る »

ヨーロッパ

ヨーロッパ日本語の「ヨーロッパ」の直接の原語は、『広辞苑』第5版「ヨーロッパ」によるとポルトガル語・オランダ語、『デジタル大辞泉』goo辞書版「」によるとポルトガル語。(、)又は欧州は、地球上の七つの大州の一つ。漢字表記は欧羅巴。 地理的には、ユーラシア大陸北西の半島部を包括し、ウラル山脈およびコーカサス山脈の分水嶺とウラル川・カスピ海・黒海、そして黒海とエーゲ海を繋ぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡が、アジアと区分される東の境界となる増田 (1967)、pp.38–39、Ⅲ.地理的にみたヨーロッパの構造 ヨーロッパの地理的範囲 "Europe" (pp. 68-9); "Asia" (pp. 90-1): "A commonly accepted division between Asia and Europe...

新しい!!: 禅とヨーロッパ · 続きを見る »

ヨーガ

ヨーガ(योग, )は、古代インド発祥の伝統的な宗教的行法で、心身を鍛錬によって制御し、精神を統一して古代インドの人生究極の目標である輪廻転生からの「解脱(モークシャ)」に至ろうとするものである。ヨガとも表記される。漢訳は瑜伽(ゆが)。 1990年代後半から世界的に流行している、身体的ポーズ(アーサナ)を中心にしたフィットネス的な「現代のヨーガ」は、宗教色を排した身体的なエクササイズとして行われているが、「本来のヨーガ」はインドの諸宗教と深く結びついており、バラモン教、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教の修行法でもあった。.

新しい!!: 禅とヨーガ · 続きを見る »

プロテスタント

プロテスタント(Protestantism、Protestant)は、宗教改革運動を始めとして、カトリック教会(または西方教会)から分離し、特に(広義の)福音主義を理念とするキリスト教諸教派を指す。日本ではカトリック教会(旧教)に対し、「新教」(しんきょう)ともいう。.

新しい!!: 禅とプロテスタント · 続きを見る »

パーリ語

パーリ語(、巴利語、略して巴語)は、南伝上座部仏教の経典(『パーリ語経典』)で主に使用される言語。バーリ語とも。なお日本における仏教関連の辞典や書物では pl などと略称される。.

新しい!!: 禅とパーリ語 · 続きを見る »

フランス

フランス共和国(フランスきょうわこく、République française)、通称フランス(France)は、西ヨーロッパの領土並びに複数の海外地域および領土から成る単一主権国家である。フランス・メトロポリテーヌ(本土)は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がる。 2、人口は6,6600000人である。-->.

新しい!!: 禅とフランス · 続きを見る »

ドイツ

ドイツ連邦共和国(ドイツれんぽうきょうわこく、Bundesrepublik Deutschland)、通称ドイツ(Deutschland)は、ヨーロッパ中西部に位置する連邦制共和国である。もともと「ドイツ連邦共和国」という国は西欧に分類されているが、東ドイツ(ドイツ民主共和国)の民主化と東西ドイツの統一により、「中欧」または「中西欧」として再び分類されるようになっている。.

新しい!!: 禅とドイツ · 続きを見る »

ベルギー

ベルギー王国(ベルギーおうこく)、通称ベルギーは、西ヨーロッパに位置する連邦立憲君主制国家。隣国のオランダ、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。首都のブリュッセル(ブリュッセル首都圏地域)は欧州連合(EU)の主要機関の多くが置かれているため、"EUの首都"とも言われており、その通信・金融網はヨーロッパを越えて地球規模である。憲法上の首都は19の基礎自治体から成るブリュッセル首都圏の自治体の一つ、ブリュッセル市である。 19世紀にネーデルラント連合王国から独立した国家で、オランダ語の一種であるフラマン語が公用語の北部フランデレン地域とフランス語が公用語の南部ワロン地域とにほぼ二分される(この他にドイツ語が公用語の地域もある)。建国以来、単一国家であったが、オランダ語系住民とフランス語系住民の対立(言語戦争)が続いたため、1993年にフランデレン地域とワロン地域とブリュッセル首都圏の区分を主とする連邦制に移行した。.

新しい!!: 禅とベルギー · 続きを見る »

嵩山少林寺

嵩山少林寺(すうざん しょうりんじ)は、中国の河南省鄭州市登封にある中岳嵩山の中の少室山の北麓にある寺院である。インドから中国に渡来した達磨による禅の発祥の地と伝えられ、中国禅の名刹である。また少林武術の中心地としても世界的に有名。なお、しばしば誤解されるが、少林寺拳法は日本で創始されたものであり、現在の嵩山少林寺の武術とは別物である。 伽藍は壮麗な七堂伽藍であり、北西には初祖庵、南西には二祖庵があり、五乳峰中には達磨洞がある。 2013年当寺院周辺に、少林拳とサッカーを融合(少林サッカー)させて教えるサッカースクールを2017年までに建設する計画があることが関係者から発表された。.

新しい!!: 禅と嵩山少林寺 · 続きを見る »

呉越

923年頃の勢力地図。ピンクが呉越 呉越(ごえつ 907年 - 978年)は中国・五代十国時代に現在の杭州を中心に浙江省と江蘇省の一部を支配した国。.

新しい!!: 禅と呉越 · 続きを見る »

わび・さび

わび・さび(侘・寂)は、日本の美意識の1つ。一般的に、質素で静かなものを指す。本来侘(わび)と寂(さび)は別の概念であるが、現代ではひとまとめにされて語られることが多い。.

新しい!!: 禅とわび・さび · 続きを見る »

アメリカ合衆国

アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、)、通称アメリカ、米国(べいこく)は、50の州および連邦区から成る連邦共和国である。アメリカ本土の48州およびワシントンD.C.は、カナダとメキシコの間の北アメリカ中央に位置する。アラスカ州は北アメリカ北西部の角に位置し、東ではカナダと、西ではベーリング海峡をはさんでロシアと国境を接している。ハワイ州は中部太平洋における島嶼群である。同国は、太平洋およびカリブに5つの有人の海外領土および9つの無人の海外領土を有する。985万平方キロメートル (km2) の総面積は世界第3位または第4位、3億1千7百万人の人口は世界第3位である。同国は世界で最も民族的に多様かつ多文化な国の1つであり、これは多くの国からの大規模な移住の産物とされているAdams, J.Q.;Strother-Adams, Pearlie (2001).

新しい!!: 禅とアメリカ合衆国 · 続きを見る »

アルファ波

right アルファ波(アルファは、α波)はヒト・動物の脳が発生する電気的信号(脳波)のうち、8~13Hz成分のことをさす。アルファ波という名称は、ヒトの脳波を初めて記録したハンス・ベルガーが命名し、彼にちなんでベルガー波、ベルガーリズムとも呼ばれる。 安静(リラックス)・閉眼時の脳波においては、他の周波数成分に比べてアルファ波の占める割合が高く、基礎律動の主成分をなす(これは通常、目視でも確認できる)。アルファ波の発生機序については様々な仮説が提案されているものの未だに不明である。しかし脳や意識の状態によって変化することが経験的に知られているため、意識障害、認知症、精神疾患、睡眠障害などの診断補助・状態把握に用いられることがある。その他に、生理学、心理学などの研究目的で用いられることもある。 頭皮上電極による脳波では、後頭部を中心として観察される。しかし後頭葉以外でもアルファ帯域(8~13Hz)の電気的振動が発生しており、中心溝周辺のものはミュー(μ)律動、側頭葉周辺のものはタウ(τ)律動、二次感覚皮質周辺のものはシグマ(σ)律動と呼ばれることがある。ミュー律動は体性感覚・運動などと、タウ律動は聴覚処理などと、シグマ律動は体性感覚処理などと関連があるといわれている。.

新しい!!: 禅とアルファ波 · 続きを見る »

イ山霊祐

潙山霊祐(いざん れいゆう、771年(大暦6年) - 853年1月9日(大中7年))は、中国唐代の禅僧。俗姓は趙氏、福州長渓(福建省)の出身。法語として『潙山警策』がある。.

新しい!!: 禅とイ山霊祐 · 続きを見る »

イ仰宗

潙仰宗(いぎょうしゅう)は、中国で成立した禅宗の一派である。禅宗五家(臨済、潙仰、雲門、曹洞、法眼)の一つ。.

新しい!!: 禅とイ仰宗 · 続きを見る »

オーストリア

ーストリア共和国(オーストリアきょうわこく、、バイエルン語: )、通称オーストリアは、ヨーロッパの連邦共和制国家。首都は音楽の都といわれたウィーン。 ドイツの南方、中部ヨーロッパの内陸に位置し、西側はリヒテンシュタイン、スイスと、南はイタリアとスロベニア、東はハンガリーとスロバキア、北はドイツとチェコと隣接する。基本的には中欧とされるが、歴史的には西欧や東欧に分類されたこともある。.

新しい!!: 禅とオーストリア · 続きを見る »

カマラシーラ

マラシーラ(Kamalaśīla、ཀ་མ་ལ་ཤཱི་ལ།、漢訳: 蓮華戒)は、インド仏教における瑜伽行中観派の僧侶。チベット仏教の始祖であるシャーンタラクシタ(寂護)の弟子。.

新しい!!: 禅とカマラシーラ · 続きを見る »

カトリック教会

トリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座に置くことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。.

新しい!!: 禅とカトリック教会 · 続きを見る »

キリスト教

リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.

新しい!!: 禅とキリスト教 · 続きを見る »

セロトニン

トニン(serotonin)、別名5-ヒドロキシトリプタミン(5-hydroxytryptamine、略称5-HT)は、動植物に広く分布する生理活性アミン、インドールアミンの一種。名称はserum(血清)とtone(トーン)に由来し、血管の緊張を調節する物質として発見・名付けられた。ヒトでは主に生体リズム・神経内分泌・睡眠・体温調節などに関与する。.

新しい!!: 禅とセロトニン · 続きを見る »

セクト

ト(Sect)は元来、それぞれの宗教から派生した「分派」のこと。一様には定義できないが、近年、宗教団体による深刻な社会問題がしばしば起こったことで、ヨーロッパの各国でも同様な法整備がなされたことから、セクトには「カルト」と関連する語として、社会的に警戒を要する団体という否定的な意味も加わった。日本では、「セクト」と「カルト」は、かなり異なる概念を表す。.

新しい!!: 禅とセクト · 続きを見る »

サムイェー寺の宗論

ムイェー寺の宗論(さむいぇーじのしゅうろん、サムイェーの宗論、サムイェー宗論)は、8世紀末のチベット・サムイェー寺を舞台に行なわれた、インド仏教と中国仏教の間の宗教論争。この論争の結果、インド仏教が勝利を収め、以後のチベット仏教の方向性を決定づけたとされる。.

新しい!!: 禅とサムイェー寺の宗論 · 続きを見る »

サンフランシスコ禅センター

ンフランシスコ禅センター(略称:SFZC)は、サンフランシスコのベイエリアにある、曹洞宗の研修施設。 組織としては、初心者向けの瞑想寺院と、長期滞在用のタサハラ禅マウンテンセンター(禅心寺、:en:Tassajara Zen Mountain Center)、有機農園のグリーン・ガルチ農園(蒼龍寺、:en:Green Gulch Farm Zen Center)で構成される。.

新しい!!: 禅とサンフランシスコ禅センター · 続きを見る »

サンスクリット

Bhujimolという書体を使って書かれており、椰子の葉からできている (貝葉)。 サンスクリット(संस्कृत、saṃskṛta、Sanskrit)は、古代インド・アーリア語に属する言語。インドなど南アジアおよび東南アジアにおいて用いられた古代語。文学、哲学、学術、宗教などの分野で広く用いられた。ヒンドゥー教、仏教、シーク教、ジャイナ教の礼拝用言語でもあり、現在もその権威は大きく、母語話者は少ないが、現代インドの22の公用語の1つである。 サンスクリットは「完成された・洗練された(言語、雅語)」を意味する。言語であることを示すべく日本ではサンスクリット語とも呼ばれる。 漢字表記の梵語(ぼんご)は、中国や日本でのサンスクリットの異称。日本では近代以前から、般若心経など、サンスクリットの原文を漢字で翻訳したものなどを通して、梵語という言葉は使われてきた。梵語は、サンスクリットの起源を造物神ブラフマン(梵天)とするインドの伝承を基にした言葉である。.

新しい!!: 禅とサンスクリット · 続きを見る »

哲学

哲学(てつがく、Φιλοσοφία、philosophia、philosophy、philosophie、Philosophie)は、語義的には「愛智」を意味する学問的活動である。日本語辞典の広辞苑では、次のように説明している。 観念論的な形而上学に対して、唯物論的な形而上学もある。諸科学が分化独立した現在では、哲学は学問とされることが多いが、科学とされる場合哲学は「自然および社会,人間の思考,その知識獲得の過程にかんする一般的法則を研究する科学」である。出典は、青木書店『哲学事典』。もある。.

新しい!!: 禅と哲学 · 続きを見る »

唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

新しい!!: 禅と唐 · 続きを見る »

唯識

唯識(ゆいしき、skt:विज्ञप्तिमात्रता Vijñapti-mātratā)とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである(瑜伽行唯識学派)。ここで、八種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な表象、認識行為を内含し、あらゆる意識状態やそれらと相互に影響を与え合うその個人の無意識の領域をも内含する。 あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的な存在ではない。それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(諸法空相)。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教)の思想を基礎に置いている。また、唯識と西洋哲学でいう唯心論とは、基本的にも、最終的にも区別されるべきである(後述)。.

新しい!!: 禅と唯識 · 続きを見る »

儒教

儒教の始祖、孔子 董仲舒 儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。.

新しい!!: 禅と儒教 · 続きを見る »

円爾

円爾(えんに、建仁2年10月15日(1202年11月1日) - 弘安3年10月11日(1280年11月10日))は、鎌倉時代中期の臨済宗の僧。駿河(静岡県)の出身。諡号(しごう)は聖一国師(しょういちこくし)。.

新しい!!: 禅と円爾 · 続きを見る »

円相

20代目柴田勘十郎画。2000年ごろ 円相(えんそう)は、禅における書画のひとつで、図形の丸(円形)を一筆で描いたもの。「一円相(いちえんそう)」「円相図(えんそうず)」などとも呼ばれる。 悟りや真理、仏性、宇宙全体などを円形で象徴的に表現したものとされるが、その解釈は見る人に任される。 また、円窓と書いて「己の心をうつす窓」という意味で用いられることもある。 Category:禅用語 Category:禅の書画 Category:書 Category:日本の美学 Category:美学の概念.

新しい!!: 禅と円相 · 続きを見る »

内観

内観(ないかん)は、下記のような多くの意味がある。.

新しい!!: 禅と内観 · 続きを見る »

出家

出家(しゅっけ、pabbajja、pravrajyaa、प्रव्रज्या) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 在家(ざいけ)と対比される。インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。 仏教における出家の伝統はこれに由来する。仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。.

新しい!!: 禅と出家 · 続きを見る »

全真教

全真教(ぜんしんきょう)は、金の支配下にあった中国の華北の人、王重陽(1112年 - 1170年)が開いた道教の一派である。七真人と呼ばれる七人の開祖の高弟たちが教勢の拡大に努め、次第に教団としての体制を整えていった。.

新しい!!: 禅と全真教 · 続きを見る »

公案

1, 中国で、古代から近世までの役所が発行した文書。調書・裁判記録・判例など。唐代の通語に由来する。 2, 禅宗において雲水が修行するための課題として、老師(師匠)から与えられる問題である。 日本では昔から1千7百則とも言われ、法身、機関、言詮、難透などに大別されるが、その他に様々な課題がある。ほとんどがいわゆる「禅問答」的な、にわかに要領を得ず、解答があるかすら不明なものである。有名な公案として「隻手の声」、「狗子仏性」、「祖師西来意」などがある。  例: 両手を叩くと音がする。では片手の音とはなんだろう。(隻手の声) 公案を与えられた雲水は数年をかけてこれに取り組むのであるが、その過程を修行とする禅風を看話禅と呼び、臨済宗が看話禅のスタイルをとる。近世には一定の数の公案を解かないと住職になれない等、法臘(年数)の他に僧侶の経験を表す基準となった。.

新しい!!: 禅と公案 · 続きを見る »

六祖壇経

『六祖壇経』(ろくそだんきょう)は、仏教の経典で、中国禅宗の第六祖・慧能の説法集である。禅宗における根本教典のひとつ。最も古い写本は『南宗頓教最上大乘摩訶般若波羅蜜經六祖惠能大師於韶州大梵寺施法壇經』と名づけられる。『六祖大師法宝壇経』とも、単に『壇経』とも言う。 唐代の初め頃、韶州刺史の韋璩(い きょ)の求めに応じて、大梵寺において行った説法をおもな内容とする。書き留めたのは弟子の法海である。.

新しい!!: 禅と六祖壇経 · 続きを見る »

六道

六道(ろくどう、りくどう)とは、仏教において、衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界(あるいは境涯)のこと。六趣、六界ともいう。 六道には下記の6つがある。.

新しい!!: 禅と六道 · 続きを見る »

元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

新しい!!: 禅と元 (王朝) · 続きを見る »

兀庵普寧

兀庵普寧(ごったん ふねい、慶元3年(1197年) - 景炎元年11月24日(1276年12月30日))は、鎌倉時代中期に南宋から渡来した臨済宗の僧。諱は普寧。兀庵は字。諡号は宗覚禅師。 無準師範に師事。文応元年(1260年)、蘭渓道隆・円爾の招きにより来日し、博多の聖福寺に入った。鎌倉幕府執権北条時頼の要請により鎌倉建長寺2世となる。建長寺の本尊は地蔵菩薩であるが、兀庵は地蔵菩薩は自分より下位であるとして礼拝しなかったという。時頼は兀庵に師事して参禅・問法を重ね印可を受けた。弘長3年(1263年)、時頼が亡くなると支持者を失い、文永2年(1265年)に帰国してしまった。晩年は温州(浙江省)の江心山龍翔寺に住んだ。 当時としては先鋭的な思想を持ち、難解な講釈を行ったことから、日本語の慣用句の「ごたごた」(元の単語は「ごったんごったん」)の語源になった、と謂れる。.

新しい!!: 禅と兀庵普寧 · 続きを見る »

国分寺

国分寺(こくぶんじ)は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。 正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられた。.

新しい!!: 禅と国分寺 · 続きを見る »

四声

四声(しせい)とは、中国語の声調を、中古漢語の調類に基づいての4種類に分類したもの。中国音韻学では平声(へいせい、ひょうせい、ひょうしょう)・上声(じょうせい、じょうしょう)・去声(きょせい、きょしょう)・入声(にゅうせい、にっしょう)をいう。また、現代中国語の北方語を基礎とした普通話などの声調をも四声というが、内容が異なり、中古漢語にあった入声は失われ、逆に平声が二つに分かれているため、陰平(第一声)・陽平(第二声)・上声(第三声)・去声(第四声)をいう。.

新しい!!: 禅と四声 · 続きを見る »

皇太后

皇太后(こうたいごう、Empress Dowager)は、先代の天皇・皇帝の皇后であった者、およびその称号。ただし必ずしもこの定義にあてはまらない事例もある。.

新しい!!: 禅と皇太后 · 続きを見る »

知識

Επιστημη、エピステーメー)。トルコ、エフェソス Robert Reid 画 ''Knowledge'' (1896)。アメリカ議会図書館 知識(ちしき)とは、認識によって得られた成果、あるいは、人間や物事について抱いている考えや、技能のことである。.

新しい!!: 禅と知識 · 続きを見る »

石頭希遷

石頭希遷(せきとう きせん, 拼音 Shítóu Xīqiān,ベトナム語 Thạch Đầu Hi Thiên, 700年 - 790年)は、中国唐代の禅僧。慧能の弟子である青原行思の弟子であり、その一派を石頭宗と呼んでいる。.

新しい!!: 禅と石頭希遷 · 続きを見る »

瞑想

瞑想(めいそう、英:Meditation)とは、心を静めて神に祈ったり、何かに心を集中させること、心を静めて無心になること、目を閉じて深く静かに思いをめぐらすことである。この呼称は、単に心身の静寂を取り戻すために行うような比較的日常的なものから、絶対者(神)をありありと体感したり、究極の智慧を得るようなものまで、広い範囲に用いられる。 精神科医の安藤治は、現代的視点から瞑想研究を紹介する『瞑想の精神医学』で、「伝統的により高度な意識状態あるいはより高度な健康とされる状態を引き出すため、精神的プロセスを整えることを目的とする注意の意識的訓練のことであるが、現代においてはリラクセーションを目的としたり、ある種の心理的治療を目的として行われることもある。」と定義している安藤治 著 『瞑想の精神医学 トランスパーソナル精神医学序説』 春秋社、2003年。「通常の意識状態、通常の健康よりも優れた」という価値の設定は、現在一般に認められている科学的世界観をはみ出しており、こういった価値付与を避けて、瞑想を「変性意識状態」として位置付ける見方もある。.

新しい!!: 禅と瞑想 · 続きを見る »

玄沙師備

沙師備(げんしゃ しび、835年 - 908年)は、中国の唐末五代の禅僧である。諡号は宗一大師、俗姓は謝氏。.

新しい!!: 禅と玄沙師備 · 続きを見る »

神秀

(じんしゅう、606年(大業2年) - 706年(神龍2年))は、汴州陳留尉氏県(開封市尉氏県)出身で俗姓は李。中国禅宗における六祖(北宗としては開祖)。.

新しい!!: 禅と神秀 · 続きを見る »

禅(ぜん)は、大乗仏教の一派である禅宗(ぜんしゅう)の略、もしくは、サンスクリット語の dhyāna (ディヤーナ)の音写、禅那(ぜんな)の略である『広辞苑』「禅」。また坐禅(座禅)の略としての意もある。本項では宗派についての禅宗について述べる。.

新しい!!: 禅と禅 · 続きを見る »

禅定

禅定(ぜんじょう、dhyāna, ディヤーナ、jhāna, ジャーナ、禅那:ぜんな)とは、仏教で心が動揺することがなくなった一定の状態を指す。サンスクリット語の dhyāna の音写である禅と、訳した定の複合語である。静慮とも訳される。.

新しい!!: 禅と禅定 · 続きを見る »

禅宗様

功山寺仏殿(山口県、国宝) 禅宗様(ぜんしゅうよう)は、日本の伝統的な寺院建築の様式の一つ。唐様とも言う。 鎌倉時代初期から禅宗寺院で取り入れられ始め、武士の帰依を受けたことで13世紀後半から盛んになった様式で、当時の中国建築の直写が目指された。従来の寺院建築様式である和様、また鎌倉時代初期にもたらされた大仏様に対する言葉。大仏様とは共通する部分も多く、あわせて鎌倉新様式または宋様式と総称される。.

新しい!!: 禅と禅宗様 · 続きを見る »

禅譲

禅譲(ぜんじょう)は、天子(ほとんどの場合、皇帝)が、その地位を血縁者でない有徳の人物に譲ることである。実際には、歴史上禅譲と称していても譲られる側が強制して行われていることが多い。 また、天子に限らず、比喩的に地位を平和裏に譲ることを禅譲、無理やり奪うことを簒奪と呼ぶことがある。.

新しい!!: 禅と禅譲 · 続きを見る »

禅林墨跡

圜悟克勤筆、東京国立博物館蔵、国宝) 虚堂智愚筆、東京国立博物館蔵、国宝) 与円爾印可状』(無準師範筆、東福寺蔵、国宝) 宗峰妙超筆、妙心寺蔵、国宝) 禅林墨跡(ぜんりんぼくせき)とは、禅林高僧の真跡のこと。印可状・字号・法語・偈頌・遺偈・尺牘などがある。単に墨跡ともいい、墨蹟・墨迹とも書く。 墨跡という語は中国では真跡全般を意味するが、日本においては禅僧の真跡という極めて限った範囲にしか使わない習慣がある。その二義を区別するため、近年、後者を多くは禅林墨跡といい、その書風を禅宗様という(本項で単に墨跡は禅林墨跡を指す)中西慶爾 p.595峯岸佳葉(決定版 中国書道史) pp..127-128小松茂美 pp..26-27。.

新しい!!: 禅と禅林墨跡 · 続きを見る »

禅源諸詮集都序

禅源諸詮集都序(ぜんげんしょせんしゅう とじょ)とは、中国唐代の僧である圭峯宗密が禅の諸家の文句や偈頌を編集した『禅源諸詮集』(佚書)の序文「都序」であり、この部分のみが伝存する。「教禅一致」を説く、仏教史上重要な文献である。 4巻。巻頭に裴休の敍を付す。『禅源諸詮集』は『禅那理行諸詮集』ともいい、全巻で100巻以上であったとされるが、伝存しない。著者の宗密は、荷沢宗の相承を受ける一方で、華厳宗の第5祖でもあるという、教禅一致を体現した僧であった。 『大正新脩大蔵経』第48巻「諸宗部」5に収められている。.

新しい!!: 禅と禅源諸詮集都序 · 続きを見る »

空 (仏教)

仏教における空(くう、śūnya またはśūnyatā 、suññatā )とは、一切法は因縁によって生じたものだから我体・本体・実体と称すべきものがなく空しい(むなしい)こと。空は仏教全般に通じる基本的な教理である。.

新しい!!: 禅と空 (仏教) · 続きを見る »

章宗 (金)

宗(しょうそう)は、金の第6代皇帝。女真名は麻達葛(マダガ)、漢名は璟(けい)。.

新しい!!: 禅と章宗 (金) · 続きを見る »

竺仙梵僊

仙梵僊(じくせん ぼんせん、至元29年11月15日(1292年12月24日)- 貞和4年/正平3年7月16日(1348年8月11日))は、鎌倉時代末期に中国の元から来日した臨済宗(楊岐派)の高僧。俗姓は徐氏。梵僊が法諱。竺仙は字。号は来来禅子。出身は明州。 古林清茂の法を継いだ。1329年(元徳元年)6月九州豊後の守護大名大友貞宗の要請を受け、明極楚俊に従って日本へ渡来した。 1330年(元徳2年)鎌倉にくだり足利尊氏・直義の帰依を受けた。 その後浄妙寺・浄智寺を経て、京都南禅寺・鎌倉建長寺の住持となった。学識は一山一寧の次位とされ、各寺において多くの弟子を養成した。公武の帰依を受け、五山文学発展の基礎を築いた。 浄智寺の山内に塔頭である楞伽院を建立したことでも知られる。.

新しい!!: 禅と竺仙梵僊 · 続きを見る »

筑摩書房

株式会社筑摩書房(ちくましょぼう)は、日本の出版社。筑摩書房のマーク(空を截る鷹)のデザインは青山二郎作。 文学者を中心に個人全集は、増補改訂し繰り返し刊行するので、「全集の筑摩」と称されている。特に『世界文学全集』は多くの類書シリーズを刊行した。ほかに古典・現代文の教科書を現在まで毎年出版している。月刊PR誌に『ちくま』がある。.

新しい!!: 禅と筑摩書房 · 続きを見る »

粛宗

粛宗(しゅくそう)は、東アジアにおける皇帝・王の廟号のひとつ。.

新しい!!: 禅と粛宗 · 続きを見る »

義空

義空(ぎくう、生没年不詳)は、平安時代前期唐から渡来した禅僧。.

新しい!!: 禅と義空 · 続きを見る »

瑩山紹瑾

瑩山紹瑾(けいざん じょうきん、諡号:佛慈禅師、弘徳圓明国師、常済大師。文永5年10月8日(1268年11月21日) - 正中2年8月15日(1325年9月29日))は、日本の鎌倉時代の曹洞宗の僧侶。瑩山派(總持寺派)の派祖で、教団では第四祖とする。 一般には瑩山禅師と呼ばれ、教団内では日本曹洞宗開祖で永平寺派派祖の道元を高祖、瑩山派派祖の瑩山を太祖と尊称している。.

新しい!!: 禅と瑩山紹瑾 · 続きを見る »

田中良昭

中 良昭 (たなか りょうしょう、1933年3月3日 - 2016年1月12日)は、日本の曹洞宗の僧侶(静岡県菊川市正林寺住職)、仏教学者(中国禅宗史・敦煌文献、文学博士)、曹洞宗総合研究センター所長、駒澤大学総長・名誉教授。.

新しい!!: 禅と田中良昭 · 続きを見る »

無学祖元

無学祖元(むがく そげん、嘉禄2年(1226年) - 弘安9年9月3日(1286年9月22日))は、中国明州慶元府(浙江省寧波市)出身の鎌倉時代の臨済宗の僧。諡は仏光国師・円満常照国師。日本に帰化して無学派(仏光派)の祖となる。字は子元。 建長寺・円覚寺に兼住して日本の臨済宗に影響を与える。その指導法は懇切で、老婆禅と呼ばれ、多くの鎌倉武士の参禅を得た。.

新しい!!: 禅と無学祖元 · 続きを見る »

無門関

無門関(むもんかん、無門關)は、中国南宋時代の無門慧開(1183年-1260年)によって編まれた仏教書、または禅宗で禅書・公案集と呼ばれる著作 - コトバンク(デジタル大辞泉、日本大百科全書)。 - コトバンク(デジタル大辞泉、大辞林第三版、日本大百科全書)。。禅宗の公案や仏教の故事を紹介し、無門がそれを評釈(解題・論評)、さらに俯瞰した頌曰をもって1節(禅宗では1則)とし、48の節(則)と序文、後序とからなる1巻本である。.

新しい!!: 禅と無門関 · 続きを見る »

無著道忠

無著道忠(むじゃく どうちゅう、承応2年7月25日(1653年9月16日) - 延享元年12月23日(1745年1月25日))は、江戸時代の禅宗中の臨済宗妙心寺派の学僧である。諱は道忠.号は葆雨堂・照冰堂。 俗姓は熊田氏で但馬国(兵庫県)の出身である。.

新しい!!: 禅と無著道忠 · 続きを見る »

無準師範

無準師範(ぶじゅん しはん、淳熙4年(1177年) - 淳祐9年(1249年))は、中国・南宋時代の臨済宗の禅僧。名は師範、俗姓は雍。四川省綿州梓潼県の人。宋代禅林中の巨匠で理宗から仏鑑禅師を諡された。.

新しい!!: 禅と無準師範 · 続きを見る »

白隠慧鶴

白隠 慧鶴(はくいん えかく、1686年1月19日(貞享2年12月25日) - 1769年1月18日(明和5年12月11日))は、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧である。諡は神機独妙禅師、正宗国師。.

新しい!!: 禅と白隠慧鶴 · 続きを見る »

百丈懐海

丈懐海(ひゃくじょう えかい、749年(天宝8載) - 814年(元和9年))は、中国、南宗禅中の洪州宗の祖馬祖道一の法を継ぐ唐時代の禅僧。懐海は法諱。大智禅師と諡される。福建省福州長楽県の生まれ。俗姓は王氏であり、名族である太原の王氏の末裔であり、永嘉の乱の混乱を避けて、遠祖が福建に移り住んだものという。.

新しい!!: 禅と百丈懐海 · 続きを見る »

隠元隆き

元隆琦の上陸地に建つ記念碑(右) - 京都府宇治市 隠元 隆琦(いんげん りゅうき、特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師、勅賜として真空大師、華光大師、万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉 - 寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉)は、明末清初の禅宗の僧。日本黄檗宗の祖。福建省福州福清県の生まれで、その俗姓は林である。 隠元自身は臨済正宗と称していたが、独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えた。また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をした。 なお、明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝え、隠元豆の名称に名を残し、日本における煎茶道の開祖ともされる。.

新しい!!: 禅と隠元隆き · 続きを見る »

鎌倉仏教

鎌倉仏教(かまくらぶっきょう)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて興起した日本仏教の変革の動きを指す。特に浄土思想の普及や禅宗の伝来の影響によって新しく成立した仏教宗派のことを鎌倉新仏教(かまくらしんぶっきょう)と呼称する場合がある。しかし、「鎌倉新仏教」の語をめぐっては後述のように研究者によって様々な見解が存在する(→ 「鎌倉仏教論」 節)。.

新しい!!: 禅と鎌倉仏教 · 続きを見る »

鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

新しい!!: 禅と鎌倉時代 · 続きを見る »

道信

道信(どうしん, 580年 - 651年)は、禅宗の第四祖。蘄州(きしゅう)を中心として布教に励み、弟子の五祖弘忍と共に「東山法門」と呼ばれる一大勢力を築き、後の禅宗の母胎を形成する。 姓は司馬、『景徳傳燈録』など後世の資料では河内(河南省)の出身とされる。『続高僧伝』では出身地は不詳。.

新しい!!: 禅と道信 · 続きを見る »

道セン

道璿(どうせん、702年(長安2年) - 760年5月7日(天平宝字4年4月18日))は、中国唐代の僧。.

新しい!!: 禅と道セン · 続きを見る »

道元

道元(どうげん、正治2年1月2日(1200年1月19日)- 建長5年8月28日(1253年9月22日))は、鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の開祖。晩年に希玄という異称も用いた。同宗旨では高祖と尊称される。諡号は仏性伝燈国師、承陽大師。諱は希玄。一般には道元禅師と呼ばれる。徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた。『正法眼蔵』は、和辻哲郎など西洋哲学の研究家からも注目を集めた。.

新しい!!: 禅と道元 · 続きを見る »

道教

道教(どうきょう、)は、中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある横手(2008)、p.001-008、中国史の中の道教。.

新しい!!: 禅と道教 · 続きを見る »

達磨

石榴紅釉達摩(灣溪劉傳 款)香港藝術館 藏 菩提達磨(ぼだいだるま、、、ボーディダルマ)は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。「ダルマ」というのは、サンスクリット語で「法」を表す言葉。達摩との表記もあるが、いわゆる中国禅の典籍には達磨、古い写本は達摩と表記する。画像では、眼光鋭く髭を生やし耳輪を付けた姿で描かれているものが多い。 弟子の曇林が伝えるところによると、南インドのタミル系パッラヴァ朝において国王の第三王子として生まれ、中国で活躍した仏教の僧侶。5世紀後半から6世紀前半の人で、道宣の伝えるところによれば南北朝の宋の時代(遅くとも479年の斉の成立以前)に中国にやって来たとされている。中国禅の開祖。『景德傳燈錄』によれば釈迦から数えて28代目とされている。インドから中国南方へ渡海し、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁を行う。確認されているだけで曇林、慧可の弟子がいる。彼の宗派は当初楞伽宗(りょうがしゅう、楞伽経にちなむ)と呼ばれた。彼の事績、言行を記録した語録とされるものに『二入四行論』などがある。.

新しい!!: 禅と達磨 · 続きを見る »

荊南

荊南(けいなん、907年 - 963年)は、中国の五代十国時代に現在の湖北省を支配した国。弱小ながら、交易の中継点として栄えた。南平(なんぺい)・北楚(ほくそ)とも。ただし、実際には中原の五代王朝の節度使の1人に過ぎず、独立した国家ではなかったとする異説がある(後述)。.

新しい!!: 禅と荊南 · 続きを見る »

荷沢宗

荷沢宗(かたくしゅう)は、中国における仏教の宗派であり、唐の僧である神会を中心として形成された、禅宗の一つである。名称は、神会が拠点とした荷沢寺に由来する。.

新しい!!: 禅と荷沢宗 · 続きを見る »

荷沢神会

荷沢神会(かたく じんね、 684年(嗣聖元年) - 758年(乾元元年))は、中国の唐代の禅僧。禅宗の中の荷沢宗の開祖。俗姓は高氏、襄陽の人という。.

新しい!!: 禅と荷沢神会 · 続きを見る »

菩薩

菩薩(ぼさつ、梵名ボーディ・サットヴァ(बोधिसत्त्व, bodhisattva) の音写、bodhisatta)は、仏教において、一般的には、悟り(菩提, bodhi)を求める衆生(薩埵, sattva)を意味する。菩提薩埵とも音写される。.

新しい!!: 禅と菩薩 · 続きを見る »

萬福寺

萬福寺(まんぷくじ)は、京都府宇治市にある黄檗宗大本山の寺院。山号は黄檗山、開山は隠元隆琦、本尊は釈迦如来である。日本の近世以前の仏教各派の中では最も遅れて開宗した、黄檗宗の中心寺院で、中国・明出身の僧隠元を開山に請じて建てられた。建物や仏像の様式、儀式作法から精進料理に至るまで中国風で、日本の一般的な仏教寺院とは異なった景観を有する。 「万福寺」と表記されることもあるが、宗教法人としての名称は「萬福寺」であるため、本項でも「萬福寺」と表記する。.

新しい!!: 禅と萬福寺 · 続きを見る »

青原行思

青原行思(せいげん ぎょうし、諡号:弘済禅師、生年不詳 - 740年(開元28年)12月13日)は、中国唐代の禅僧である。 吉州(江西省)の安城県(『宋高僧伝』では廬陵)に生まれる。俗姓は劉氏。一説には生誕年を673年としているが、定かではない。.

新しい!!: 禅と青原行思 · 続きを見る »

行表

行表(ぎょうひょう、養老6年(722年) - 延暦16年2月(797年))は奈良時代の僧。大和国葛上郡高宮郷の出身。父は檜前(ひのくま)調使案麻呂。俗名は百戸。 741年(天平13年)恭仁宮で道璿に師事して得度し、743年(天平15年)興福寺北倉院で受戒。興福寺で禅・唯識を学ぶ。その後、近江国崇福寺の寺主となり1丈余りの千手観音菩薩を造り、次いで近江国の大国師となった。778年(宝亀9年)最澄の師となり、780年(宝亀11年)師主として最澄を得度させている。後奈良大安寺に移った。 Category:奈良時代の僧 Category:大和国の人物 Category:722年生 Category:797年没.

新しい!!: 禅と行表 · 続きを見る »

衆生

衆生(しゅじょう、sattva सत्त्व、、bahujana बहुजन、jantu、jagat)は、一切の生きとし生けるもの(生類)のこと。普通は、迷いの世界にある生類を指すが、広義には仏・菩薩をも含めることがある。.

新しい!!: 禅と衆生 · 続きを見る »

血脈相承

血脈相承(けちみゃく・そうじょう、そうしょう)は、仏教において、法が師から、弟子へと相続されることを、人体における血液の流れに譬えた語。 師から授けられるものは、本尊や教義・戒律、切紙などの奥義・秘伝の類、あるいは宝物など、要するに血脈相承における「法」とは、“次代の師となるべき者が相続するもの”である。 基本的に非公開の場で伝達される。単なる相続と見るか、一子相伝の秘儀の相続と見るかで、意味の重みが異なる。.

新しい!!: 禅と血脈相承 · 続きを見る »

馬祖道一

道一(ばそ どういつ、709年(景龍3年) - 788年(貞元4年))は、漢州(四川省)の出身で俗姓は馬氏。諡は大寂禅師。 地元の羅漢寺の資州の処寂(648年 - 734年)の下で出家し、益州の長松山などで修禅した後、南嶽(湖南省)に向かい、懐譲の法を嗣ぎ、洪州(江西省)の開元寺に移って法を広めた。その独自な禅風は唐代の士大夫階級に受け入れられて一大宗派洪州宗を築き、百丈懐海や南泉普願など嗣法の弟子は88人を数え、それぞれが数多くの語録を残すので、後の禅宗に語録を重視する傾向をもたらし、やがてそれは公案を重視する臨済宗へと発展していった。 馬祖は、後世の禅僧の名に見られる道号などとは異なり、道一の俗姓である馬氏によるもの。そのニュアンスを日本語化すれば、「馬おじさん」や「馬家の師匠」と呼んでいるのと同じこととなる。柳田聖山が「純禅」と称する初期の禅宗徒の気風の一端を表すものである。 また、馬祖の生家は箕(み)を作っていたが、開悟の後、名声を得て故郷に里帰りした所、近所の老婆に、「なんだ、偉い坊さんが来たと思ったら、箕の屋の小せがれではないか」と言われ、それきり、故郷に帰らなかったというエピソードがある。 現在、彼の出身地である四川省において、馬祖学会が時たま開催されている。.

新しい!!: 禅と馬祖道一 · 続きを見る »

馬鳴

菩薩マンダラ(日本・13世紀) 馬鳴(めみょう、Aśvaghoṣa, アシュヴァゴーシャ、後80年頃~150年頃)は、古代インドの仏教僧侶。.

新しい!!: 禅と馬鳴 · 続きを見る »

解脱

解脱(げだつ、vimokṣa、vimukti、mukti、mokṣa、vimutti、mokkha、vimokha, vimokkha)とは、.

新しい!!: 禅と解脱 · 続きを見る »

講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.

新しい!!: 禅と講談社 · 続きを見る »

費隠通容

費隠通容(ひいん つうよう、万暦21年5月24日(1593年) - 順治18年3月29日(1661年))は、明末清初の臨済宗天童派の禅僧。隠元隆琦の師として知られる。 道号は費隠、法諱を通容。俗姓は何氏。福建省福州府福清県の人。.

新しい!!: 禅と費隠通容 · 続きを見る »

趙州従シン

趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん、778年 - 897年)は、中国唐末の禅僧。 俗姓は郝(かく)、曹州臨淄県郝郷(現在の山東省)の出身である。.

新しい!!: 禅と趙州従シン · 続きを見る »

黄檗希運

檗希運(おうばく きうん、生年不詳 - 大中4年(850年))は、中国唐代の禅僧。黄檗山黄檗寺を開創。臨済宗開祖の臨済義玄の師として知られる。.

新しい!!: 禅と黄檗希運 · 続きを見る »

黙照禅

黙照禅(もくしょうぜん)は、禅宗における坐禅の流儀の1つを示す言葉。対立する言葉に看話禅がある。 宋代の禅僧、大慧宗杲が対立する宏智派の禅風を非難して「黙照邪師」と呼んだことに始まる。宏智派の禅風は始祖、宏智正覚が『黙照銘』で示した説による。これによれば、坐禅の要諦は一切の思慮分別を断絶してただ黙々と坐することによって人が持つ仏としての心性があらわれ、仏徳がそなわるところにあるという。公案の工夫参究を重視した大慧は、ただ坐るとする宏智の坐禅を空虚なものとして「黙照邪禅」と呼び、非難した。後には公案によらない坐禅の流儀一般をさす言葉となった。 日本においては、道元が始めた曹洞宗の坐禅を臨済宗の禅僧が揶揄的に呼んだのが始まりとされる。また、否定的な意味で用いられた期間はそれほど長くなく、後には曹洞宗自身が自らの禅風を示すものとして用いた。.

新しい!!: 禅と黙照禅 · 続きを見る »

龍樹

龍樹(りゅうじゅ、、、、、、)は、2世紀に生まれたインド仏教の僧である。龍樹とは、サンスクリットのナーガールジュナの漢訳名で、日本では漢訳名を用いることが多い。中観派の祖であり、日本では、八宗の祖師と称されることがある。.

新しい!!: 禅と龍樹 · 続きを見る »

近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

新しい!!: 禅と近江国 · 続きを見る »

霊鷲山

霊鷲山(りょうじゅせん、名称については後述)は、インドのビハール州のほぼ中央に位置する山。釈迦仏が『無量寿経』や『法華経』を説いたとされる山として知られる。.

新しい!!: 禅と霊鷲山 · 続きを見る »

茶道

茶を点てる様子。写真は、盆と鉄瓶を使った簡略的な点茶の例。 茶道(さどう、ちゃどう)は、日本伝統の湯を沸かし、茶を点(た)て、茶を振る舞う行為(茶の儀式)。また、それを基本とした様式と芸道。 元来「茶湯」(ちゃとう)、「茶の湯」といった。千利休は「数寄道」、小堀政一(遠州)は「茶の道」という語も使っていたが、江戸時代初期には茶道と呼ばれた(『茶話指月集』『南方録』など)。「茶道」の英語訳としては tea ceremony のほか、茶道の裏千家と表千家ではそれぞれ the way of tea、chanoyu を用いている。岡倉覚三(天心)は英文の著書 The Book of Tea(『茶の本』)において、Teaism と tea ceremony という用語を使い分けている。 主客の一体感を旨とし、茶碗に始まる茶道具や茶室の床の間にかける禅語などの掛け物は個々の美術品である以上に全体を構成する要素として一体となり、茶事として進行するその時間自体が総合芸術とされる。 現在一般に、茶道といえば抹茶を用いる茶道のことだが、江戸期に成立した煎茶を用いる煎茶道も含む。 広間の茶室の例 道具は左から風炉と釜、建水、柄杓立と柄杓、水指、煙草盆と火入・灰吹。床の間には掛物(一行書「明月和水流」)と花入、香合を飾る。 草庵風茶室の例(高台寺遺芳庵) 草庵風茶室の例(如庵).

新しい!!: 禅と茶道 · 続きを見る »

部派仏教

部派仏教(ぶはぶっきょう、Early Buddhist schools)とは、釈迦の死後百年から数百年の間に仏教の原始教団から分裂して成立した諸派の仏教。アビダルマ仏教ともいう。紀元前3世紀頃に原始教団が上座部と大衆部に分裂(根本分裂)したのち、この2部派がさらに分裂してゆき、部派の数は全体で20となった。各部派は、釈迦が残した教法を研究・整理して、独自の教義を論(アビダルマ)として作り、互いに論争した。部派仏教は、釈迦と直弟子時代の初期仏教を継承し、大乗仏教の成立後も数世紀に渡りインドで大きな勢力を有していたとされる。のちに興った大乗仏教からは小乗仏教と貶称された。.

新しい!!: 禅と部派仏教 · 続きを見る »

般若

仏教用語の般若(はんにゃ)とは、(パンニャー)、(プラジュニャー)に由来し、全ての事物や道理を明らかに見抜く深い智慧のこと。 菩薩が悟りに達するために修める六波羅蜜のうち、般若波羅蜜は他の五波羅蜜を成り立たせる根拠として最も重要な位置を占める。.

新しい!!: 禅と般若 · 続きを見る »

鈴木大拙

鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎(ていたろう)、英: D. T. Suzuki (Daisetz Teitaro Suzuki)、1870年11月11日(明治3年10月18日) - 1966年(昭和41年)7月12日)は、禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者(文学博士)である。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。1949年に文化勲章、日本学士院会員。 名の「大拙」は居士号である。同郷の西田幾多郎、藤岡作太郎とは石川県立専門学校以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は加賀の三太郎と称された。また、金沢時代の旧友である安宅産業の安宅弥吉は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援した。 生前、1963年にノーベル平和賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。.

新しい!!: 禅と鈴木大拙 · 続きを見る »

鈴木俊隆

鈴木 俊隆(すずき しゅんりゅう 1905年5月18日 - 1971年12月4日)は昭和の曹洞宗の僧侶。アメリカに禅を広め、欧米では、鈴木大拙と並んで「2人の鈴木」と呼ばれている。.

新しい!!: 禅と鈴木俊隆 · 続きを見る »

興禅護国論

『興禅護国論』(こうぜんごこくろん)とは、鎌倉時代初期、日本に臨済宗を伝え広めた栄西による仏教書。栄西が禅の布教にあたったとき、南都北嶺より激しい攻撃が加えられたのに対し、禅宗の要目を論じた著作前田(1979)p.382葉貫(1985)p.419。栄西にとっては主著にあたり、「日本における禅宗独立宣言の書」とも評価される藤井(2004)。.

新しい!!: 禅と興禅護国論 · 続きを見る »

蘭渓道隆

蘭溪道隆(らんけい どうりゅう、建保元年(1213年) - 弘安元年7月24日(1278年8月13日))は、鎌倉時代中期の南宋から渡来した禅僧・大覚派の祖。無明慧性の法嗣、建長寺の開山。 諱は道隆、道号は蘭渓。南宋の西蜀(現:中国四川省)の人。諡号は大覚禅師。.

新しい!!: 禅と蘭渓道隆 · 続きを見る »

阿難

阿難(あなん、アーナンダ、阿難陀の音写略、名前は後述)は、釈迦の十大弟子の一人。多聞第一(たもん・だいいち)と称せられた。禅宗は摩訶迦葉の跡を継いで仏法付法蔵の第3祖であるとする。.

新しい!!: 禅と阿難 · 続きを見る »

臨済宗

臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう)は、中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。 中国禅宗の祖とされる達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の1人である南嶽懐譲(677年 - 744年)から、馬祖道一(709 - 788年、洪州宗)、百丈懐海(749 - 814年)、黄檗希運(? - 850年)と続く法系を嗣いだ唐の臨済義玄(? - 867年)によって創宗された。彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。 宋代の大慧宗杲(1089 - 1163年)と曹洞宗の宏智正覚(1091 - 1157年)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。 日本には栄西(1141 - 1215年)以降、中国から各時代に何人もの僧によって持ち込まれ、様々な流派が成立した。黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派である。歴史的に鎌倉幕府・室町幕府と結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山・鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められている他、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。江戸時代の白隠慧鶴(1686 - 1769年)が中興の祖として知られる。.

新しい!!: 禅と臨済宗 · 続きを見る »

臨済義玄

臨済 義玄(臨濟 義玄、りんざい ぎげん、諡号:慧照禅師、?-867年)は、中国唐の禅僧で、臨済宗の開祖。曹州南華県(山東省菏沢市)出身で俗姓は邢氏。 彼の言行は弟子の三聖慧然によって『臨済録』としてまとめられており「語録の王」と称された。.

新しい!!: 禅と臨済義玄 · 続きを見る »

釈迦

釈迦(しゃか)は、紀元前5世紀前後の北インドの人物で、仏教の開祖である。.

新しい!!: 禅と釈迦 · 続きを見る »

金 (王朝)

金(きん、拼音:Jīn、女真語: 、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国の北半を支配した女真族の征服王朝。 国姓は完顔氏。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。『金史』、欽定満洲源流考には「金の始祖函普は高麗からやって来た」とある。『函普』は阿骨打(あこつだ、女真音:アクダ)の7代祖である。.

新しい!!: 禅と金 (王朝) · 続きを見る »

鉄眼道光

鉄眼道光、正字: 鐵眼道光(てつげん どうこう、寛永7年1月1日(1630年2月12日)天和2年3月20日(1682年4月27日))は、江戸時代前期の黄檗宗の禅僧。諡号は宝蔵国師。肥後国益城郡守山村(後の下益城郡南部田村、現・熊本県宇城市小川町南部田)の生まれ。最初、徹玄と号していた。.

新しい!!: 禅と鉄眼道光 · 続きを見る »

雪峰義存

雪峰義存(せっぽう ぎぞん、822年(長慶2年) - 908年(開平2年))は、中国の唐末五代の禅僧である。諡号は真覚(眞覺)大師。泉州南安県(福建省南安市)の出身で俗姓は曾氏。.

新しい!!: 禅と雪峰義存 · 続きを見る »

雪庭福裕

雪庭福裕(せつてい ふくゆう、?-1274年)は、元代初期の曹洞宗の禅僧。中国禅の系譜では五十二世で、嵩山少林寺の中興の祖。.

新しい!!: 禅と雪庭福裕 · 続きを見る »

雪竇重顕

雪竇重顕(せっちょう じゅうけん、980年 - 1052年)は、中国の北宋の禅僧。.

新しい!!: 禅と雪竇重顕 · 続きを見る »

雲門宗

雲門宗(うんもんしゅう)は、中国で成立した禅宗の一派である。禅宗五家(臨済、潙仰、雲門、曹洞、法眼)の一つ。唐末から五代の雲門文偃を宗祖とする。宋代には、臨済宗とともにもっとも隆盛を極めた。.

新しい!!: 禅と雲門宗 · 続きを見る »

雲門文偃

雲門文偃(うんもん ぶんえん、864年 - 949年)は、中国の唐末から五代の禅僧。五家七宗の一つ、雲門宗の開祖。.

新しい!!: 禅と雲門文偃 · 続きを見る »

老子

老子(ろうし)は、春秋戦国時代の中国における哲学者である。諸子百家のうちの道家は彼の思想を基礎とするものであり、また、後に生まれた道教は彼を始祖に置く。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする。道教のほとんどの宗派にて老子は神格として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。 史記の記述によると、老子は紀元前6世紀の人物とされる。歴史家の評は様々で、彼は神話上の人物とする意見、複数の歴史上の人物を統合させたという説、在命時期を紀元前4世紀とし戦国時代の諸子百家と時期を同じくするという考えなど多様にある。 老子は中国文化の中心を為す人物のひとりで、貴族から平民まで彼の血筋を主張する者は多く李氏の多くが彼の末裔を称する。歴史上、彼は多くの反権威主義的な業績を残したと受け止められている。.

新しい!!: 禅と老子 · 続きを見る »

耶律楚材

武夷山茶博園にある耶律楚材像 耶律 楚材(やりつ そざい、、1190年7月24日 - 1244年6月20日)は、初期のモンゴル帝国に仕えた官僚。字は晋卿。禅に深く帰依し、湛然居士と号した。モンゴル名はウルツ・サハリ、またはウト・サカル(「髭の長い人」の意)。.

新しい!!: 禅と耶律楚材 · 続きを見る »

虚無僧

尺八を吹く虚無僧。 虚無僧(こむそう)とは、禅宗の一派である普化宗の僧のこと。.

新しい!!: 禅と虚無僧 · 続きを見る »

陽明学

王守仁(王陽明) 陽明学(ようめいがく)は、中国の明代に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。陽明学という呼び名は日本で明治以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、宋明理学と呼び、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学(陸象山と王陽明の学問の意)ともいう。英語圏では朱子学とともに‘Neo-Confucianism’(新儒学)に分類される。形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた『大辞泉』。心即理・知行合一・致良知の説を主要な思想とする。.

新しい!!: 禅と陽明学 · 続きを見る »

柳田聖山

柳田 聖山(やなぎだ せいざん、旧姓:横井(よこい)、1922年12月19日 - 2006年11月8日)は日本の中国禅宗史研究者で多くの著作がある。.

新しい!!: 禅と柳田聖山 · 続きを見る »

東山法門

東山法門(とうざんほうもん)とは、中国の唐初、湖北省の蘄州黄梅県を中心として宗風を振るった道信(第四祖)・弘忍(第五祖)の師弟を中心とした禅宗の一門を指す言葉である。 東山とは、弘忍が住した黄梅県の憑茂山(五祖山)を言う。同じく黄梅県の双峯山(四祖山)が「西山」と呼ばれるのに対して、「東山」と呼ぶ。よって、東山法門とは、本来は、門弟子の活躍により広く知られるようになった弘忍の教法・一派を指す言葉であった。 しかし、今日一般には、確実な師弟関係を有し、活躍地域が密接していることなどをもって、道信の教法・一門をも含めて東山法門と称している。 Category:禅 pl:Północna szkoła chan.

新しい!!: 禅と東山法門 · 続きを見る »

東明慧日

東明慧日(とうみょう えにち、文永9年(1272年)- 暦応3年/興国元年10月4日(1340年10月25日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての曹洞宗の僧。中国・宋の明州からの渡来僧で、俗姓は沈氏。諱は慧日。道号は東明。 9歳で大同寺で出家し、17歳で受戒した。天寧寺の直翁徳挙に師事して学び、諸国を遊学の後、明堂の白雲寺に住した。1309年(延慶2年)、鎌倉幕府前執権北条貞時の請来により来日し、翌1310年(延慶3年)鎌倉禅興寺に住した。1311年(延慶4年)円覚寺に移り、その後は山内に白雲庵を建てて隠居したが、その後も寿福寺・建長寺の住持を歴任し、円覚寺に戻った。 Category:中国の禅僧 (曹洞宗) Category:日本の禅僧 (曹洞宗) Category:宋代の禅僧 Category:南宋の人物 Category:鎌倉時代の僧 Category:1272年生 Category:1340年没.

新しい!!: 禅と東明慧日 · 続きを見る »

松戸市

松戸市(まつどし)は、千葉県北西部の東葛地域に位置する都市。東京都(葛飾区、江戸川区)に接する。東京都特別区部への通勤率は37.3%(平成22年国勢調査)。 市域は明治時代以前の下総国葛飾郡の一部を占め、西部は江戸川の沖積平野、東部は下総台地が広がる。 市の中心部の松戸地区は、古くから水戸街道の宿場町として栄えてきた。1896年に鉄道(現在の常磐線)が開通。1943年に東葛飾郡松戸町・高木村・馬橋村が新設合併し、松戸市が発足した。長らく江戸・東京の近郊農村地域であったが、近年は東京のベッドタウンとして発展。千葉県内では千葉市、船橋市、市川市に次いで居住人口4位。.

新しい!!: 禅と松戸市 · 続きを見る »

橘嘉智子

橘 嘉智子(たちばな の かちこ、延暦5年(786年) - 嘉祥3年5月4日(850年6月17日))は、第52代嵯峨天皇皇后。橘奈良麻呂の孫、贈太政大臣・橘清友の娘。母は田口家主の娘で、贈正一位・田口三千媛。兄弟に右大臣・橘氏公がいる。諡号は檀林皇后(だんりんこうごう)。.

新しい!!: 禅と橘嘉智子 · 続きを見る »

檀林寺

檀林寺(だんりんじ)は、京都市右京区にある真言宗系の単立寺院。山号は松森山。本尊は准胝仏母。.

新しい!!: 禅と檀林寺 · 続きを見る »

正法眼蔵

正法眼蔵(しょうぼうげんぞう、正法眼藏)は、主に禅僧である道元が執筆した仏教思想書を指す。正法眼蔵という言葉は、本来は仏法の端的な、すなわち肝心要の事柄を意味する。禅家はこれをもって教外別伝の心印となす。著者によって大別すると、次の3種類に分かれる。.

新しい!!: 禅と正法眼蔵 · 続きを見る »

武士

武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.

新しい!!: 禅と武士 · 続きを見る »

武宗 (唐)

武宗(ぶそう)は、唐朝の第18代皇帝。穆宗の五男。.

新しい!!: 禅と武宗 (唐) · 続きを見る »

武則天

武 則天(ぶ そくてん)は、中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。諱は照()。日本では則天武后(そくてんぶこう)と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。古来より「則天」と姓名をはっきりさせず呼ばれてきたが、現在の中国では姓を冠して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている。.

新しい!!: 禅と武則天 · 続きを見る »

水墨画

水墨画(すいぼくが)または墨絵(すみえ)は、「墨」一色で表現される絵画である。墨線だけでなく、墨を面的に使用し、ぼかしで濃淡・明暗を表す。 中国で唐代後半に山水画の技法として成立し、宋代には、文人官僚の余技としての、四君子(梅兰竹菊)の水墨画が行われた。また、禅宗の普及に伴い、禅宗的故事人物画が水墨で制作された。明代には花卉、果物、野菜、魚などを描く水墨雑画も描かれた。 日本には鎌倉時代に禅とともに伝わった。日本に伝わった絵画は、『達磨図』・『瓢鮎図』などのように禅の思想を表すものであったが、徐々に変化を遂げ、「山水画」も書かれるようになった。.

新しい!!: 禅と水墨画 · 続きを見る »

永明延寿

永明 延寿(えいめい えんじゅ、904年(天祐元年) - 976年1月29日(開宝8年12月26日))は、中国五代十国時代の法眼宗の僧。「教禅一致」を説いた。.

新しい!!: 禅と永明延寿 · 続きを見る »

江南

江南(日本語:こうなん、中国語:チャンナン、朝鮮語:カンナム).

新しい!!: 禅と江南 · 続きを見る »

江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

新しい!!: 禅と江戸幕府 · 続きを見る »

江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

新しい!!: 禅と江戸時代 · 続きを見る »

池田書店

株式会社池田書店(いけだしょてん)は、東京都新宿区に本社を置く日本の出版社。「近藤信緒」のペンネームで知られる池田敏子が創業し、初期のミリオンセラー『性生活の知恵』(謝国権著)で知られる外部リンクの同社公式サイトの記述を参照。。 なお、書籍小売店の「いけだ書店」は株式会社くまざわが運営するチェーンストアであり、当企業とは全く無関係である。また、2014年まで東京都豊島区に本社を置いて活動していた出版社の「池田書店」は全く別の企業であり、資本関係や人的関連性は一切ない。.

新しい!!: 禅と池田書店 · 続きを見る »

沢庵宗彭

沢庵 宗彭(たくあん そうほう、澤庵 宗彭、天正元年12月1日(1573年12月24日) - 正保2年12月11日(1646年1月27日)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧。大徳寺住持。諡は普光国師(300年忌にあたる昭和19年(1944年)に宣下)。号に東海・暮翁など。 但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれ。紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開いた。書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残している。一般的に沢庵漬けの考案者と言われているが、これについては諸説ある(同項目を参照のこと)。.

新しい!!: 禅と沢庵宗彭 · 続きを見る »

波羅蜜

波羅蜜(はらみつ、、 パーラミー、、 パーラミター)とは、仏教において迷いの世界から悟りの世界へ至ること、および、そのために菩薩が行う修行のこと。到彼岸(とうひがん)、度(ど)、波羅蜜多(はらみった)などとも訳す。六波羅蜜と十波羅蜜があり、大乗仏教では実践を六波羅蜜にまとめている。.

新しい!!: 禅と波羅蜜 · 続きを見る »

法嗣

法嗣(ほうし、はっす)とは、師匠の教えを受け継いだ人のこと。 師資相承(ししそうしょう)により、師から仏の法と印可を継承し、またその法を後の弟子に伝える人。仏法上の弟子。主に禅宗や密教で用いられる用語。禅宗では「はつす」あるいは「はっす」と読む。また「ほっし」と読む場合もある。.

新しい!!: 禅と法嗣 · 続きを見る »

法四依

法四依(ほうしえ)とは、大乗経典に説かれる4つの法義をいう。 維摩経の法供養品や大智度論、成実論の第2にも見られるが、特に涅槃経の四依品では、仏滅後の末世(すなわち末法)に正しく依るべき4つの法義をいい、涅槃了義の観点から法四依を再説している。.

新しい!!: 禅と法四依 · 続きを見る »

法眼宗

法眼宗(ほうげんしゅう)は、中国で成立した禅宗の一派である。禅宗五家(臨済、潙仰、雲門、曹洞、法眼)の一つ。五代から北宋にかけて栄えた。創始者とされる清涼文益が、没後に南唐の李璟から「大法眼禅師」の諡号を与えられたことに由来する。.

新しい!!: 禅と法眼宗 · 続きを見る »

法藏館

法藏館(法蔵館、ほうぞうかん)は、京都市下京区正面通烏丸東入にある、老舗の仏教系出版社。慶長7年(1602年)創業の仏教書肆・丁子屋の流れを汲む京都府立図書館館報「図書館きょうと」No.40。歴代当主は、西村七兵衛を襲名している(現在は五代目)。 浄土真宗の仏教書を基点に、多くの宗派・学問的立場に拠る仏教書全般を出版している。特に真宗大谷派式務部により編集された出版物の発行や、同部が校閲した出版物を発行するなど、大谷派(東本願寺)とのつながりが深い。.

新しい!!: 禅と法藏館 · 続きを見る »

洞山良价

洞山良价(とうざん りょうかい、807年 - 869年)は、中国の唐代の禅僧。俗姓は兪氏。五家七宗の一つ、曹洞宗の開祖。 高弟に曹山本寂(840~901年)がおり、宗派の名は洞山とこの曹山から一字ずつとって当初は「洞曹宗」を名乗ったというのが通説の一つだが、諸説異論ある(中国における曹洞宗参照)。.

新しい!!: 禅と洞山良价 · 続きを見る »

洪州宗

洪州宗(こうしゅうしゅう)とは、唐代の禅宗の一派を指す。禅宗史において、六祖慧能の南宗禅の系統の中で、南嶽懐譲の後継である馬祖道一に始まる系譜を、その活動拠点である洪州によって、洪州宗と呼ぶ。後世、その系統から潙山霊祐や臨済義玄が出て、潙仰宗と臨済宗として、五家七宗の一翼を担うこととなる。 その系譜は、馬祖道一に始まり、『百丈清規』によって禅院の規律を制定した百丈懐海によって、禅宗独自の教団制度を確立した。百丈の下から、潙山霊祐と黄檗希運(黄檗宗)が出て、黄檗希運の門下より臨済義玄が出て、その系統が、潙仰宗と臨済宗に受け継がれることとなる。 * Category:中国仏教 Category:仏教の宗派.

新しい!!: 禅と洪州宗 · 続きを見る »

涅槃

涅槃図(19世紀) 涅槃(ねはん、(ニルヴァーナ)、(ニッバーナ))とは、仏教において、煩悩を滅尽して悟りの智慧(菩提)を完成した境地のこと。涅槃は、生死を超えた悟りの世界であり、仏教の究極的な実践目的とされる。般涅槃(はつねはん)や大般涅槃ともいう。この世に人として現れた仏の肉体の死を指すこともある。仏教以外の教えにも涅槃を説くものがあるが、仏教の涅槃とは異なる。.

新しい!!: 禅と涅槃 · 続きを見る »

清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

新しい!!: 禅と清 · 続きを見る »

清規

清規(しんぎ)は正式には清浄大海衆 規矩準縄(しょうじょうだいかいしゅう きくじゅんじょう)と言い、仏教の一宗派である禅宗の集団規則である。 唐代中期に百丈懐海が制定したと言われ、内容はそれまでの戒律を基に、仏教教団としては異例の自給自足体制を確立させた禅宗教団に適合するような、主に集団生活を適正に維持するための規則である。 この百丈が制定した清規は、『百丈清規』と言われているが、散逸してしまい現存せず、『百丈古清規』として断片が再編集され、現在に伝わっている。.

新しい!!: 禅と清規 · 続きを見る »

清拙正澄

清拙 正澄(せいせつ しょうちょう、咸淳10年(1274年) - 暦応2年(1339年)1月17日)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の臨済宗の僧。俗姓は劉氏。諡は大鑑禅師。月江正印は俗兄にあたる。 中国・元の福州に生まれ、鎌倉時代末期に来日してからは北条氏の庇護を受け、南禅寺や建長寺ほか五山派寺院の住持を歴任した。大鑑派の祖である。 .

新しい!!: 禅と清拙正澄 · 続きを見る »

漢詩

漢詩(かんし)とは、中国の伝統的な詩。韻文における文体の一つ。狭義には後漢時代に確立した中国の国家芸術としての詩のこと。中華文明の伝来に伴い、8世紀から日本でも詠まれた。.

新しい!!: 禅と漢詩 · 続きを見る »

朝鮮の仏教

朝鮮の仏教(ちょうせんのぶっきょう)は、朝鮮半島周辺に展開し、特に華厳教学と禅の受容と展開について独自の特徴を持つ、現在でも同地で盛んな仏教の総称。.

新しい!!: 禅と朝鮮の仏教 · 続きを見る »

挨拶

挨拶(あいさつ、儐とも書く)は、新たに顔を合わせた際や別れ際に行われる、礼儀として行われる定型的な言葉や動作のことを指す。また、式典などで儀礼的に述べる言葉をいうこともある。また、日常生活には欠かせない人と人とが気持ちよく生活できる言葉でもある。.

新しい!!: 禅と挨拶 · 続きを見る »

末法

末法(まっぽう)とは、仏教で、仏の教のみが存在して悟りに入る人がいない時期のこと。または、釈迦の死後1,500年(または2,000年)以降の時期のことである。.

新しい!!: 禅と末法 · 続きを見る »

朱子学

朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれ、宋明理学に属す。当時は、程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学(Daoism)とも呼ばれた。 陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学(考証学)からは宋学と呼ばれた。.

新しい!!: 禅と朱子学 · 続きを見る »

最澄

最澄像(能福寺) 哭澄上人詩(嵯峨天皇宸翰)(部分) 最澄(さいちょう)は、平安時代の僧(766/767年 - 822年)。日本の天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られる。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する。 中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて天台宗の開祖となった。 先祖は後漢の孝献帝に連なる(真偽は不明)といわれる登萬貴王(とまきおう)なる人物で、応神天皇の時代に日本に渡来したといわれている。.

新しい!!: 禅と最澄 · 続きを見る »

明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

新しい!!: 禅と明 · 続きを見る »

明菴栄西

栄西が再建した東大寺鐘楼(奈良市) 茶碑、建仁寺、京都市東山区 明菴栄西(みょうあん えいさい/ようさい、永治元年4月20日(1141年5月27日) - 建保3年7月5日1215年8月1日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧。日本における臨済宗の開祖、建仁寺の開山。天台密教葉上流の流祖。字が明菴、諱が栄西。また、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られる。.

新しい!!: 禅と明菴栄西 · 続きを見る »

明極楚俊

明極楚俊(みんきそしゅん、弘長2年(1262年) - 建武3年9月27日(1336年9月28日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、元から日本へ渡来した禅僧。明極は号。法諱が楚俊。俗姓は黄。仏日燄慧(えんね)禅師。.

新しい!!: 禅と明極楚俊 · 続きを見る »

明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

新しい!!: 禅と明治維新 · 続きを見る »

春秋社

春秋社(しゅんじゅうしゃ)は、日本の出版社。仏教を主とした宗教書を軸に哲学、思想、心理、文学、音楽の各部門の専門・入門書を刊行している。ほかに音楽書の『世界音楽全集 ピアノ篇』シリーズで、井口基成編集による校訂版は1949年に初出版されて以来、現在もピアノの学習者にとって好評である。.

新しい!!: 禅と春秋社 · 続きを見る »

浄土教

浄土教(じょうどきょう)とは、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教え。浄土門、浄土思想ともいう。阿弥陀仏の本願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教え。.

新しい!!: 禅と浄土教 · 続きを見る »

方便

方便(ほうべん)には、次の3つの意味がある。.

新しい!!: 禅と方便 · 続きを見る »

文化大革命

文化大革命(ぶんかだいかくめい)は、中華人民共和国で1966年から1976年まで続き、1977年に終結宣言がなされた社会的騒乱である。全称はプロレタリア文化大革命(簡体字: 无产阶级文化大革命, 繁体字: 無產階級文化大革命)、略称は文革(ぶんかく)。 名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という政治・社会・思想・文化の改革運動だった。しかし実際は、大躍進政策の失敗によって国家主席の地位を劉少奇党副主席に譲った毛沢東共産党主席が自身の復権を画策し、紅衛兵と呼ばれた学生運動を扇動して政敵を攻撃させ、失脚に追い込むための、中国共産党の権力闘争であった。 これにより1億人近くが何らかの損害を被り、国内の大混乱と経済の深刻な停滞をもたらした。.

新しい!!: 禅と文化大革命 · 続きを見る »

日蓮正宗

日蓮正宗 総本山 大石寺 三門 日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)とは、宗祖日蓮を末法の本仏、三大秘法を宗旨三大秘法とは、本門の本尊(本門戒壇の大御本尊)・本門の戒壇(本門の本尊安置の場所)・本門の題目(本門の本尊に向かって題目を唱えること)の3つのことである。、静岡県富士宮市の大石寺を総本山とした、富士門流日興門流を自らまたは客観的に認定されるいくつかの宗派の総称。に位置づけられる仏教の宗派である。信徒数は、平成28年現在、668,000人である。.

新しい!!: 禅と日蓮正宗 · 続きを見る »

日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

新しい!!: 禅と日本 · 続きを見る »

日本の仏教

日本の仏教(にほんのぶっきょう)について解説する。約8470万人が仏教徒であるとされる(2013年統計)。伝統的な仏教の13宗は、華厳宗、法相宗、律宗、真言宗、天台宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗である。幕末まで、日本は仏と神を一体で不可分とする神仏習合の時代であった。.

新しい!!: 禅と日本の仏教 · 続きを見る »

日本達磨宗

日本達磨宗(にほん だるましゅう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶である大日房能忍が興した禅の一派である。.

新しい!!: 禅と日本達磨宗 · 続きを見る »

摩訶衍

摩訶衍(まかえん、蔵:)は、8世紀の唐の仏教僧の名で、招聘されて禅を吐蕃(チベット)に伝えた。 786年(貞元2年)、敦煌陥落の頃、ティソン・デツェン王は吐蕃に、この禅僧の摩訶衍(マハーヤーナ)を呼んで布教させた。 吐蕃でインド仏教系の僧は、シャーンタラクシタ(寂護、? - 787年)亡きあと、禅の教義に疑義を示し、文書による論争を重ね、禁教にいたらせた。 摩訶衍は無念・無想・無作意による悟得の教義を説いて791年には皇后(沒盧氏)を出家させた。 しかし、禅の信徒の抵抗で794年禁教が解かれた。 王はインドからカマラシーラ(蓮華戒)を呼び、サムエーのチャンチュプ院においてその面前で摩訶衍を論破させ、妙観察智を捨てた無念の禅を退けたので摩訶衍は敦煌に去り、インド仏教の正統性が認められ、主導権が確立されたと伝えられる(サムエー宗論、拉薩法諍)。.

新しい!!: 禅と摩訶衍 · 続きを見る »

悟り

悟り(さとり、bodhi)とは、迷いの世界を超え、真理を体得すること。覚、悟、覚悟、証、証得、証悟、菩提などともいう。仏教において悟りは、涅槃や解脱とも同義とされる。 日常用語としては、理解すること、知ること、気づくこと、感づくことなどを意味する。.

新しい!!: 禅と悟り · 続きを見る »

愚中周及

愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう、元亨3年(1323年) - 応永16年8月25日(1409年10月4日))は、南北朝時代の臨済宗の僧。美濃国の出身。愚中は道号。周及は諱。諡号は仏徳大通禅師。 愚中は7歳で寺に入り、13歳で京都臨川寺の夢窓疎石に師事して出家した。その後春屋妙葩に学ぶ。比叡山において戒を受け、京都建仁寺を経て、1343年(康永2年)天龍寺船で中国元に渡った。1351年(観応2年)に帰国した後、京都南禅寺・丹波国天寧寺などを経て、1395年(応永2年)小早川春平の開基により、安芸国に佛通寺の開山となった。その後、将軍足利義持に請われて上洛し、1409年(応永16年)に紫衣を下賜された。同年、天寧寺にて死去。 Category:日本の禅僧 (臨済宗) Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:美濃国の人物 Category:日本の漢詩人 Category:1323年生 Category:1409年没.

新しい!!: 禅と愚中周及 · 続きを見る »

懐石

懐石(かいせき)は、日本料理の一種で、本来茶の湯において正式の茶事の際、会の主催者である亭主が来客をもてなす料理をいい、禅寺の古い習慣である懐石にその名を由来する(詳細は歴史の節を参照)。懐石料理とも呼ばれる。懐石を弁当にしたものを点心という。.

新しい!!: 禅と懐石 · 続きを見る »

慧可

慧可(えか、太和11年(487年) - 開皇13年3月16日(593年4月22日))は、俗姓は姫氏(きし)。幼名は神光。中国禅宗の二祖。正宗普覚大師。.

新しい!!: 禅と慧可 · 続きを見る »

慧能

慧能(えのう、諡は大鑑禅師、638年2月27日(貞観12年2月8日) - 713年8月28日(先天2年8月3日))は、范陽(河北省涿州市)の盧氏出身の禅僧で、中国禅宗(南宗)の第六祖である。.

新しい!!: 禅と慧能 · 続きを見る »

慈悲

慈悲(じひ)とは、仏教用語で、他の生命に対して楽を与え、苦しみを取り除くこと(抜苦与楽)を望む心の働きをいう。一般的な日本語としては、目下の相手に対する「あわれみ、憐憫、慈しみ」() の気持ちを表現する場合に用いられる。.

新しい!!: 禅と慈悲 · 続きを見る »

拈華微笑

拈華微笑(ねんげみしょう)とは、禅宗において禅の法脈を釈尊が摩訶迦葉に微妙の法門として付嘱したとする伝説のこと。禅宗の起源を説く寓話であり、公案の一つでもある。宋代以降の禅宗において、不立文字・教外別伝の立宗の基盤を示すものとして重用された。.

新しい!!: 禅と拈華微笑 · 続きを見る »

曹洞宗

曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。本山は永平寺(福井県)・總持寺(横浜市鶴見区)。専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴とするが、仏陀つまり悟りを開いた人・目覚めた人の教えであるので、出家在家に拘らず、求道者各自が悟りを開くことを標榜する。 中国禅宗の祖である達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638 - 713年)の弟子の1人である青原行思(? - 740年)から、石頭希遷(700 - 790年、石頭宗)、薬山惟儼(745 - 828年))、雲巌曇晟(782 - 841年 )と4代下った洞山良价(807 - 869年)によって創宗された。.

新しい!!: 禅と曹洞宗 · 続きを見る »

曹渓宗

曹渓宗(そうけいしゅう、チョゲジョン)は、朝鮮の禅系仏教宗団。韓国では現在、「大韓仏教曹渓宗」として、韓国の仏教界最大の勢力を有する。僧侶の数は約1万2000人、公式に登録されている寺院は1800(禅学院、大覚会などの未登録の寺院を含めると2800余り)を数え、国家が認定している伝統的な寺院870ヶ所余りの90%以上が曹渓宗の寺院である。曹渓宗の代表は「宗正」であるが、教団の実務行政の代表は総務院長である。.

新しい!!: 禅と曹渓宗 · 続きを見る »

普寂

普寂(ふじゃく、諡号:大照禅師、別名:華厳尊者、651年(永徽2年) - 739年(開元27年))は中国の禅宗の僧侶であり、神秀を継いで北宗の第二祖となる。 俗姓は馮氏、蒲州河東に生まれ、法華、唯識、律を学び、のち禅宗に転向し、荊州玉泉寺の神秀に師事する。中宗により、神秀の後を継いで両京の法主、三帝の国師に充てられる。法嗣は宏正(弘正)であるが、その他の弟子に最澄の師匠筋に当たる道璿ら多数がいる。.

新しい!!: 禅と普寂 · 続きを見る »

普化

普化(ふけ、生没年不詳)は、中国・唐代の禅僧であり、臨済義玄(? - 867年)の語録である『臨済録』の中で、臨済がシテの立場であるとするなら、ワキの役どころを演じているが、その行動が異様なものが多く、風狂僧や神異僧の部類に属する。 馬祖道一の法を嗣いだ盤山宝積の弟子と伝えられるが、『臨済録』に登場する以前の経歴は明らかではない。ただ、師の入滅前の、門弟子たちに対する「私の本当の姿を描けるか」という問いに対して、普化のみが、ただトンボ返りをうったことで、師に喜ばれ、「風狂を演じあげて、世間を騒がせよう」と賞賛されたと伝えられている。 また、その名も、通称であり、本名はおろか、受戒の僧名も明らかではない。普化とは、神出鬼没の普化が、突然に街頭に現れ、道行く人の耳もとで鈴を振り乞食した、つまり「普く化を求めた」ことから付いた俗称である。この場合の「化」は、「施し、布施」の意味である。 また、その寝泊りする場所は、墓地であったという。日が昇ると、市場に現れたという。そして、鈴を振りながら叫ぶ「明るいのが来れば打つ、暗いのが来れば打つ」と。それを聞いた臨済が小坊主を使って探りを入れる。「全くどこからも来なければ、どうするんだ」と。普化の答えは、「明日は、大悲院でお斎(とき)があるよ」という意外なものであった。 翌日、普化が臨済院を訪れる。臨済は歓待する。普化の食べ方がおかずだけを平らげるという異様なものだったので、臨済が「まるでロバだ」と批評する。普化は「メー」と鳴く。臨済は絶句。すかさず普化が「小僧(=臨済)には、片目しかないね」と言って去って行く。 というのが、『臨済録』中の、臨済と普化の有名な逸話である。了然大悟した筈の臨済の上を行く存在として、普化は重要な役割を演じている。 その最期も、風狂僧にふさわしい話となっている。ある日、普化が「法衣をくれ」と叫んで、街中を歩き回る。それに対して、臨済が棺桶をしつらえさせ、それを普化に渡す。普化は喜び、「臨済が私に法衣をくれた。私は東門で入滅しよう」と言う。群集が東門に向かうと、「今日はやめた、明日、南門で入滅する」と言う。ということが続き、普化はなかなか入寂しない。四日目になって、誰も来なくなった。すると、普化は一人で城外に出て、棺の中に入り、道行く人に釘で蓋をしてもらった。すぐに城内にそのことが伝わり、群集が押しかけ、棺を開いてみると、中は空っぽであった。そして、ただ、空中に普化の、あの鈴の音が響くのみであった、というものである。 これは、道教の尸解(しかい)に類したもので、仏僧でも、高僧の最期としては、達磨にも見られるように、決して珍しいものではない。.

新しい!!: 禅と普化 · 続きを見る »

景徳傳燈録

景徳傳燈録(けいとくでんとうろく、新字表記:景徳伝灯録、全30巻)は、中国・北宋代に道原によって編纂された禅宗を代表する燈史である。 過去七仏から天台徳韶門下に至る禅僧その他僧侶の伝記を収録している。多くの禅僧の伝記を収録しているため、俗に「1,700人の公案」と呼ばれているが、実際に伝のあるものは965人である。 1004年(景徳元年)に道原が朝廷に上呈し、楊億等の校正を経て1011年に続蔵に入蔵を許されて天下に流布するようになったため、年号をとって、景徳傳燈録と呼ばれるようになった。これ以降、中国禅宗では燈史の刊行が相次ぎ、それはやがて公案へと発展した。 現在もなお、景徳傳燈録は禅宗を研究する上で代表的な資料であり、必ず学ぶべきものとされるが、内容は必ずしも史実とは限らない部分もある。 なお、撰者に関しては、元々は拱辰が編集したが、朝廷に提出する旅の途中で道原に横取りされて提出されてしまったとの説があるが、中国の仏教学者陳垣によって否定されている。.

新しい!!: 禅と景徳傳燈録 · 続きを見る »

1226年

記載なし。

新しい!!: 禅と1226年 · 続きを見る »

1254年

記載なし。

新しい!!: 禅と1254年 · 続きを見る »

13世紀

チンギス・ハーン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。.

新しい!!: 禅と13世紀 · 続きを見る »

1653年

記載なし。

新しい!!: 禅と1653年 · 続きを見る »

1654年

記載なし。

新しい!!: 禅と1654年 · 続きを見る »

1663年

記載なし。

新しい!!: 禅と1663年 · 続きを見る »

1744年

記載なし。

新しい!!: 禅と1744年 · 続きを見る »

1871年

記載なし。

新しい!!: 禅と1871年 · 続きを見る »

1876年

記載なし。

新しい!!: 禅と1876年 · 続きを見る »

20世紀

摩天楼群) 20世紀(にじっせいき、にじゅっせいき)とは、西暦1901年から西暦2000年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最後の世紀である。漢字で二十世紀の他に、廿世紀と表記される場合もある。.

新しい!!: 禅と20世紀 · 続きを見る »

580年

記載なし。

新しい!!: 禅と580年 · 続きを見る »

601年

記載なし。

新しい!!: 禅と601年 · 続きを見る »

606年

記載なし。

新しい!!: 禅と606年 · 続きを見る »

638年

記載なし。

新しい!!: 禅と638年 · 続きを見る »

651年

記載なし。

新しい!!: 禅と651年 · 続きを見る »

674年

記載なし。

新しい!!: 禅と674年 · 続きを見る »

677年

記載なし。

新しい!!: 禅と677年 · 続きを見る »

684年

記載なし。

新しい!!: 禅と684年 · 続きを見る »

706年

記載なし。

新しい!!: 禅と706年 · 続きを見る »

709年

記載なし。

新しい!!: 禅と709年 · 続きを見る »

713年

記載なし。

新しい!!: 禅と713年 · 続きを見る »

740年

記載なし。

新しい!!: 禅と740年 · 続きを見る »

744年

記載なし。

新しい!!: 禅と744年 · 続きを見る »

758年

記載なし。

新しい!!: 禅と758年 · 続きを見る »

771年

記載なし。

新しい!!: 禅と771年 · 続きを見る »

788年

記載なし。

新しい!!: 禅と788年 · 続きを見る »

804年

記載なし。

新しい!!: 禅と804年 · 続きを見る »

807年

記載なし。

新しい!!: 禅と807年 · 続きを見る »

853年

記載なし。

新しい!!: 禅と853年 · 続きを見る »

864年

記載なし。

新しい!!: 禅と864年 · 続きを見る »

867年

記載なし。

新しい!!: 禅と867年 · 続きを見る »

869年

記載なし。

新しい!!: 禅と869年 · 続きを見る »

885年

記載なし。

新しい!!: 禅と885年 · 続きを見る »

890年

記載なし。

新しい!!: 禅と890年 · 続きを見る »

949年

記載なし。

新しい!!: 禅と949年 · 続きを見る »

958年

記載なし。

新しい!!: 禅と958年 · 続きを見る »

9世紀

船葬用の船体(オスロのヴァイキング船博物館蔵)。 イングランドを襲撃するデーン人(ヴァイキング)。画像は12世紀に書かれた『聖エドマンド殉教王伝』の挿絵。 マルウィヤ・ミナレット(サーマッラーのミナレット)。アッバース朝第8代カリフのムウタスィムが建築したサーマッラーの大モスク付属の螺旋式のミナレット。 ハールーン・アッラシード。アッバース朝最盛期のカリフで、『千夜一夜物語』では夜ごとにバグダードの街に繰り出す風流な君主として描かれている。 「知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)」。アッバース朝カリフ・マアムーンの治世にバグダードには翻訳事業や学問研究のための「知恵の館」が設置された。画像はここに集まる学者たちを描いた13世紀の細密画(フランス国立図書館蔵)。 インド最後の仏教王朝のパーラ朝。ダルマパーラ王により9世紀末に北インドの大半が支配下に置かれた。画像は9世紀に造られたパーラ様式の文殊菩薩石像(ホノルル美術館)。 敦煌文書。敦煌には3万とも4万とも数えられる膨大な古文書が収蔵されている。画像は大英博物館所蔵の「金剛般若波羅蜜経」。これは現存する世界最古の木版印刷の巻子本(書籍)で唐の懿宗の治世の868年に作成されたもの。 禁止出境展览文物でもある「八重宝函」。 密教招来。空海らによって日本に密教がもたらされ平安時代の仏教に大きな影響を与えた。画像は密教で用いる胎蔵界曼荼羅で京都東寺所蔵のもの。 応天門の変。藤原氏による他氏排斥が進んで摂関政治が確立し、律令国家体制から王朝国家体制へと政体が変化した。画像は12世紀に応天門の変の経緯を描いた「伴大納言絵詞」(出光美術館蔵)。 ラパス県の4000メートル近くの標高にある遺跡で、最盛期である9世紀には人口は1万人を越えたと想定されている。画像は半地下式方形広場で人面の装飾がなされている。 Galerie des Batailles蔵)。 ラドガにて東スラブ人と出会うヴァリャーグのリューリク一行を描いたヴィクトル・ヴァスネツォフの歴史画。 ハギア・ソフィア教会アプス半ドームにある聖母子のモザイク画。 スラブ人への宣教。東ローマ帝国出身のキュリロス・メトディオス兄弟はグラゴール文字を作成しキリスト教の宣教に努めた。画像は18-19世紀にロシアで描かれたこの兄弟のイコン(聖画像)。 プリスカ遺跡。 9世紀(きゅうせいき)は、西暦801年から西暦900年までの100年間を指す世紀。.

新しい!!: 禅と9世紀 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

五家七宗仏心宗日本の禅日本の禅の教義禅宗禅宗五家禅寺禅画臨済宗楊岐派臨済宗黄龍派達磨宗

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »