139 関係: 右大臣、参議、吾妻鏡、大納言、大阪市、大阪湾、大江山、天長、嫡流、官職、宇多天皇、安法、封戸、小口城、尾張国、山城国、山田渡辺氏、左大臣、左京、中央区 (大阪市)、中島宣長、常陸国、三潴郡、平安時代、平戸藩、二十一流、仁明天皇、弘仁、住吉区、御厨、従三位、忠良親王、地頭、嵯峨天皇、嵯峨源氏、カバネ、八十島祭、公卿、元慶、光孝天皇、四天王、皇女、皇子、皇別、皇族、秀良親王、筑後国、織田信長、織田信清、瀬戸内海、...、鞆城、荘官、親王、詔、貴族、藤原北家、蒲池、蒲池久直、蒲池氏、肥前国、臣籍降下、酒呑童子、陽成天皇、柳川市、松浦久、松浦党、松浦郡、松浦氏、業良親王、正子内親王、武功夜話、武家、水軍、淳和天皇、渡辺綱、渡辺氏、渡辺津、清和源氏、源定、源実、源安、源宛、源寛、源常、源希、源平、源建、源仕、源弼、源弘、源俊、源保、源信 (公卿)、源圓、源包、源善、源唱、源啓、源勝、源勤、源等、源精、源生、源直、源融、源鎮、源頴、源頼光、源順、源護、源興、源舒、源至、源恵、源氏、源清、源湛、源満仲、源満末、源潔姫、源有、源明、源是茂、源是恒、源昇、源悦、滝口武者、朝廷、朝臣、本貫、有智子内親王、摂津国、摂津源氏、承久の乱、承和 (日本)、814年、831年、840年、881年。 インデックスを展開 (89 もっと) »
右大臣
右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.
参議
参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.
吾妻鏡
『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。 編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。.
大納言
大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.
大阪市
大阪市(おおさかし)は、日本の近畿地方、大阪府のほぼ中央に位置する市で、同府の府庁所在地である。政令指定都市に指定されている。.
大阪湾
記載なし。
大江山
大江山(おおえやま)は京都府丹後半島の付け根に位置し与謝野町、福知山市、宮津市にまたがる連山である。標高832m。別称、大枝山・与謝大山・千丈ヶ嶽。 酒呑童子伝説で知られる。また、雲海の名所としても知られている。2007年(平成19年)8月3日には丹後天橋立大江山国定公園として国定公園にも指定されている。新・花の百名山に選定されている。.
天長
天長(てんちょう)は、日本の元号の一つ。弘仁の後、承和の前。824年から834年までの期間を指す。この時代の天皇は淳和天皇、仁明天皇。.
嫡流
嫡流(ちゃくりゅう)とは、氏族の本家を継承する家筋・家系のことをいう。正嫡、正系、嫡系ともいう。対義語は庶流という。敬って「御嫡々の家系」という場合もある。嫡流の家を宗家、総本家、嫡家、大本家、本家という。 ちなみに、「直系」を嫡流の意味で用いるのは誤用で、直系とは正しくは親の親もしくは子の子といった関係の連鎖で結ばれる生物学的関係をいい、直系・傍系はあくまで純粋な生物学的血統上の語であり家筋・家系とは関係がない。例えば、ある人物から見たときその子孫はすべて直系卑属であるから、分家・庶流の子孫も直系であるし、また、傍系は相対的な系統上の関係をいうから、分家からみた本家は傍系である。詳しくは、 親族を参照。 あくまで当家の祭祀を継承する家系を意味するのであるから、長男が継承者となることが多いものの、必ずしも長男が継承するとは限らず、次男以下あるいは養子の子孫が嫡流となる場合もある点に注意。.
官職
官職(かんしょく)とは、官吏の職のことをいう。具体的には以下の通りに分類される。また、官職の名称のことを官名(かんめい)という。.
宇多天皇
宇多天皇(うだてんのう、貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月19日(931年9月3日))は、日本の第59代天皇(在位:仁和3年8月26日(887年9月17日) - 寛平9年7月3日(897年8月4日))。 諱は定省(さだみ)。後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にもあたる(詳細は皇子女の欄参照)。.
安法
安法(あんぽう、生没年不詳)は、平安時代中期の僧・歌人。俗名は源趁(みなもとのしたごう)。嵯峨源氏で左大臣・源融の曾孫にあたる。内蔵頭・源適の六男。母は大中臣安則の娘。中古三十六歌仙の一人。.
封戸
封戸(ふこ)とは、古代の貴族に対する封禄制度の1つ。特定数の公民の戸を支給するもので、「封戸を食む」という意味から、実際に行われた支給制度を「食封」とも呼び、封戸は食封にあてられた戸そのものを指す場合もあった。 中国では南北朝時代以後に制度が整備され、日本でも大化2年(646年)の「改新の詔」で初めて登場する。その後、白鳳5年(676年)以後の改変を経て、大宝・養老両令で整備された。令制では封戸のある令制国の国司が封物の徴収にあたり、租の半分と庸調の全部が封主のもとに納入されることになっていた。 封戸には位階に応じて(五位以上、慶雲の改革以後は三位以上)給せられる位封、大納言以上(後に参議以上)の官職に応じて与えられる職封のほか、五位以上の者で功績のあったものに給せられる功封、天皇より特に授けられる本封以外の別勅封、中宮・上皇・東宮などの院宮封などがある。寺院は封戸支給の対象外であったが、場合によっては支給期間5年に限定して寺封が与えられることがあった。更に令外の封戸として神封が存在した。 封戸は律令制度における公民制の存在を前提にしていたため、律令制度が動揺するとともに公民制の解体とともに封戸も衰退していく。更に地方制度も弛緩して封主による直接徴収が認められるようになると、封戸の田地が封主の私領と化して荘園に発展していくものもあった。(→封戸田を参照) 備後の国内には大安寺の封戸50戸、東大寺の封戸150戸があった。 長屋王邸跡から出土した木簡から、葦田郡葦田郷が氷高内親王(のちの元正天皇)の封戸であったことが分かる。安芸国では興福寺の封戸100戸、東大寺の封戸50戸、備後国の東大寺の封戸から年間100斛以上の米が運ばれていた。 Category:日本の律令制.
小口城
小口城(おぐちじょう)は尾張国丹羽郡小口(現・愛知県丹羽郡大口町小口)に存在した日本の城(平城)。.
尾張国
尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
山城国
山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.
山田渡辺氏
山田渡辺氏(やまだわたなべうじ)とは、現在の広島県福山市沼隈半島一帯を領有し、山田一乗山城主であった武家である。 彼らは嵯峨天皇の皇子源融の6代後渡辺綱の後裔であり、嵯峨源氏名門の家柄である。.
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左大臣
左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.
左京
左京(さきょう).
中央区 (大阪市)
OBPの景色 難波宮 大阪城付近 道頓堀 中央区(ちゅうおうく)は、大阪市を構成する24行政区のうちのひとつ。大阪府の府庁所在地。.
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中島宣長
中島 宣長(なかしま のりなが)は、鎌倉時代の尾張国中島郡中島村の中島城主。通称中島 蔵人(なかしま くらんど)。官位は左衛門尉。.
常陸国
常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.
三潴郡
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平安時代
平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.
平戸藩
平戸藩(ひらどはん)は、肥前国松浦郡と彼杵郡の一部、および壱岐国を領した藩。藩庁は平戸城(現在の長崎県平戸市)。.
二十一流
二十一流(にじゅういちりゅう)または源氏二十一流(げんじにじゅういちりゅう)は、源氏の21の系統。.
仁明天皇
仁明天皇(にんみょうてんのう、弘仁元年(810年) - 嘉祥3年3月21日(850年5月6日)、在位:天長10年3月6日(833年3月30日) - 嘉祥3年3月19日(850年5月4日))は、平安時代初期の第54代天皇。諱は正良(まさら)。 嵯峨天皇の第二皇子。母は橘清友の娘、皇后橘嘉智子(檀林皇后)。正子内親王は同父母の妹でありかつ同年の生まれのため、双子の妹と推測される。.
弘仁
弘仁(こうにん)は、日本の元号の一つ。大同の後、天長の前。810年から824年までの期間を指す。この時代の天皇は嵯峨天皇、淳和天皇。.
住吉区
住吉区(すみよしく)は、大阪市を構成する24行政区のうちのひとつ。.
御厨
御厨(みくり・みくりや)とは、「御」(神の)+「厨」(台所)の意で、神饌を調進する場所のことである。本来は神饌を用意するための屋舎を意味する。御園(みその・みそのう)ともいう。.
従三位
従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.
忠良親王
忠良親王(ただよししんのう、弘仁10年(819年) - 貞観18年2月20日(876年3月19日)は、平安時代初期から前期にかけての皇族。嵯峨天皇の第四皇子。官位は二品・式部卿。.
地頭
地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。 平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。.
嵯峨天皇
嵯峨天皇(さがてんのう、延暦5年9月7日(786年10月3日) - 承和9年7月15日(842年8月24日))は、日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月18日) - 弘仁14年4月16日(823年5月29日))。 諱は神野(賀美能・かみの)。 桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。 嵯峨天皇宸翰『哭澄上人詩』部分(最澄の死を悼む詩)釈文:(香煙は)像爐に(続く) 蒼生橋梁に少なく 緇侶(しりょ)律儀疎(うと)し 法軆何ぞ久しく住(とど)まらん 塵心傷みて餘り有り.
嵯峨源氏
嵯峨源氏(さがげんじ)は、第52代嵯峨天皇の皇子・皇女を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.
カバネ
姓(カバネ、可婆根)は、古代日本の大和王権において、大王(おおきみ、天皇)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号である。 以下、特別の補足がない限り「氏」は「うじ」、「姓」は「かばね」と読む。.
八十島祭
八十島祭(やそしままつり/やそじままつり/やそじまのまつり、八十嶋祭/八十島神祭)は、平安時代から鎌倉時代に天皇の即位儀礼の一環として難波津で行われた祭祀。現在は廃絶している。.
公卿
公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.
元慶
元慶(がんぎょう、げんけい)は、日本の元号の一つ。貞観の後、仁和の前。877年から885年までの期間を指す。この時代の天皇は陽成天皇、光孝天皇。.
光孝天皇
光孝天皇(こうこうてんのう、天長7年(830年) - 仁和3年8月26日(887年9月17日)は、第58代天皇(在位:元慶8年2月23日(884年3月23日) - 仁和3年8月26日(887年9月17日))。諱は時康(ときやす)。 仁明天皇の第三皇子。母は藤原総継の娘、贈皇太后沢子。.
四天王
四天王(してんのう)は、仏教の世界観における須弥山の中腹にある四天王天の四方に住んで、仏教を守護する四つの神(東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天)のこと。四大王(しだいおう)ともいう。.
皇女
皇女(ひめみこ/こうじょ/おうじょ)とは、天皇または皇帝の女子(娘)を指す。日本においては、内親王号が成立する以前に存在した女性皇族の身位でもある。これに対して男子(息子)を皇子という。.
皇子
皇子(みこ、おうじ)は、皇帝または天皇の男子。広義には男女を問わない(皇室典範第6条参照)が、かかる用法はまれである。国によって「親王」「郡王」「王」「大公」などの称号が与えられることがある。これに対して女子を皇女(おうじょ)という。.
皇別
皇別(こうべつ)もしくは王孫(おうそん)とは、王家や帝家、とりわけ日本の皇室の一門の中で臣籍降下した分流・庶流の氏族を指す言葉である。皇室同様男子血統でつながらなければならない。皇別とは弘仁6年(815年)に朝廷が編纂した古代氏族の系譜集『新撰姓氏録』が、皇別(天皇・皇子の子孫)・神別(天津神・国津神の子孫)・諸蕃(朝鮮半島・中国大陸その他から渡来した人々の子孫)の3種に氏族を分類していることにちなむ用語である。江戸時代以降は王孫という呼び名も用いられた。.
皇族
女王旗)皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく)は、天皇の親族のうち、男系の嫡出の血族(既婚の女子を除く)およびその配偶者の総称。すなわち、皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃および女王の総称であり、天皇は含まれない。天皇を含む場合は「皇室」という。.
秀良親王
良親王(ひでながしんのう/ひでよししんのう、弘仁8年(817年) - 寛平7年正月23日(895年2月21日))は、平安時代初期から中期にかけての皇族。嵯峨天皇の皇子。母は皇后橘嘉智子。官位は二品・上野太守。.
筑後国
筑後国(ちくごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。7世紀末までに成立した。.
織田信長
織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.
織田信清
織田 信清(おだ のぶきよ、生没年不詳)は戦国時代の武将。通称は十郎左衛門、下野守。号は鉄斎。津田鉄斎、犬山鉄斎と称した。津田姓も名乗った。犬山城主。.
瀬戸内海
戸内海(せとないかい)は、本州、四国、九州に挟まれた内海。山口県、広島県、岡山県、兵庫県、大阪府、和歌山県、徳島県、香川県、愛媛県、大分県、福岡県がそれぞれ海岸線を持つ。沿岸地域を含めて瀬戸内(せとうち)とも呼ばれている(ただし瀬戸内海の名称源ではない。瀬戸内海は「瀬戸の内海」の意である)。 古来、畿内と九州を結ぶ航路として栄えた。気候は瀬戸内海式気候と呼ばれ、温暖で雨量が少ない。.
鞆城
鞆城(ともじょう)は、備後国鞆(現在の広島県福山市鞆町後地)にあった日本の城である。.
荘官
荘官(しょうかん)は、日本の荘園制において、荘園領主(本所)から現地管理を委ねられた者の総称である。荘園を開発した開発領主(かいはつりょうしゅ)が寄進先の荘園領主から荘官として荘園管理者の地位を保全されることもあれば、寄進を受けた荘園領主が自らの荘園支配を強めるために家臣を荘官に任命して現地へ派遣することもあった。.
親王
親王(しんのう)は、東アジアにおいて、嫡出の皇子や最高位の皇族男子に与えられる称号。もともと中国諸王朝(晋以後)において用いられ、日本や、朝鮮(大韓帝国期)、ベトナムにおいても採用された。 これらに倣って、非漢字圏の君主の親族男子を親王と呼ぶことや、プリンスの訳語として用いることもままある。.
詔
詔(みことのり)は、天皇の命令、またその命令を直接に伝える文書。御言宣、大御言。首都を移す「東京奠都の詔」などがその例である。これを文書にしたものを詔書(しょうしょ)(英:Imperial Rescript)と言う。主に、広く一般に天皇の意思を伝えるために用いられた。言葉としては秦の始皇帝が初めて造った。おおみせ、おおみこと、とも言う。.
貴族
貴族(きぞく)とは、特権を備えた名誉や称号を持ち、それ故に他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団を指す。 その社会的特権はしばしば強大であるが、同時に国や地域により異なり、同じ国・地域であっても時代によって変遷する。また貴族階級は伝統的な概念ではあるものの、時に新たな人員を迎え入れ、常に人員は更新され続けている。 貴族階級は多くの場合は君主制の下に維持され、称号の付与や特権の保証なども君主によって行われる。一般的に、貴族などという特権階級を認めてしまうということは反民主主義とされている。フランスでは、貴族階級をものともしないヴォルテールの姿勢がフランス的民主主義の基礎となり、フランス革命でそうした考え方は公認のもの、正統なものとなり、ここに民主主義が実現したとされている。しかし共和制など君主の存在を持たない制度においても貴族制度が存在した場合もある。 西洋では特に青い血という言葉が貴族の血筋を意味する慣用句として用いることがある。ただし、これはあくまでもスペイン語由来のものであるため限定的ではある。日本の場合、貴族の起源について穀物の貯蔵が貴族制度の遠因となったと考える論者もある。.
藤原北家
藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.
蒲池
蒲池.
蒲池久直
蒲池 久直(かまち ひさなお)は、平安時代末期から鎌倉時代初頭の武将。掃部頭。蒲池氏(前蒲池)の祖。正式な名乗りは源 久直(みなもと の ひさなお)。 肥前国の皇室直轄荘園の神埼荘(鳥羽院領)に荘官として下向した嵯峨源氏の源満末の孫(あるいは子)。源貞宗の子(あるいは弟)。.
蒲池氏
蒲池氏(かまちし)は、鎌倉時代以来の筑後国の一族。鎌倉時代は地頭職、室町時代は大身の国人領主、戦国時代は筑後十五城の旗頭の大名分で柳川城主であった。 蒲池氏は歴史的に見ると、嵯峨源氏そして嵯峨源氏渡辺党松浦氏族の「前蒲池」時代(鎌倉時代~南北朝時代)と、藤原氏系宇都宮氏族の「後蒲池」時代(室町時代~戦国時代)がある。.
肥前国
肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
臣籍降下
臣籍降下(しんせきこうか)は、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることをいう。賜姓降下(しせいこうか)とも言い、そのような皇族を俗に賜姓皇族という。皇族女子が臣下に嫁すことで皇族でなくなる場合は臣籍降嫁(しんせきこうか)とも言った。また日本国憲法施行後は皇籍離脱(こうせきりだつ)の語が用いられる。.
酒呑童子
鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「酒顚童子」 酒呑童子(しゅてんどうじ)は、丹波国の大江山、または山城国京都と丹波国の国境にある大枝(老の坂)に住んでいたと伝わる鬼の頭領、あるいは盗賊の頭目。酒が好きだったことから、手下たちからこの名で呼ばれていた。文献によっては、酒顛童子、酒天童子、朱点童子などとも記されている。彼が本拠とした大江山では洞窟の御殿に住み棲み、数多くの鬼共を部下にしていたという。.
陽成天皇
陽成天皇(ようぜいてんのう、貞観10年12月16日(868年1月2日) - 天暦3年9月29日(949年10月23日))は、平安時代前期の第57代天皇(在位:貞観18年11月29日(876年12月18日) - 元慶8年2月4日(884年3月4日))。諱は貞明(さだあきら)。.
柳川市
柳川市(やながわし)は、福岡県の南部、筑後地方の南西部に位置する市である。市域のうち旧柳川市域、旧三橋町域は福岡都市圏に属している。.
松浦久
松浦 久(まつら ひさし)は、平安時代後期の武士。肥前国松浦氏の祖。渡辺綱の曾孫。.
松浦党
松浦党(まつらとう)は、平安時代から戦国時代に肥前松浦地方で組織された松浦氏の武士団の連合。一族は48つに分かれており、松浦四十八党とも呼ばれた。水軍として有名。.
松浦郡
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松浦氏
松浦氏(まつらし)は、日本の氏族の一つ。.
業良親王
業良親王(なりよししんのう、生年不詳 - 貞観10年正月11日(868年2月8日))は、平安時代初期の皇族。嵯峨天皇の第二皇子『日本三代実録』貞観10年正月11日条。.
正子内親王
正子内親王(まさこないしんのう).
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武功夜話
『武功夜話』(ぶこうやわ)は、戦国時代から安土桃山時代頃の尾張国の土豪前野家の動向を記した覚書などを集成した家譜の一種。ただし、成立年代や史料的価値には問題が指摘されている。.
武家
武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.
水軍
水軍(すいぐん)は、東アジアの漢字文化圏における伝統的な水上兵力の称である。西洋・近代の軍事における海軍に相当するが、東洋の水軍においては河川や湖沼における水上兵力の比重も大きい。水師、船師、舟師ともいう。集団化・組織化すると、海賊衆、警固衆(けごしゅう)、船手組(ふなてぐみ)、船党などの呼称もある。.
淳和天皇
淳和天皇(じゅんなてんのう、延暦5年(786年) - 承和7年5月8日(840年6月11日)、在位:弘仁14年4月27日(823年6月9日) - 天長10年2月28日(833年3月22日))は、平安時代初期の第53代天皇。西院帝ともいう。諱は大伴(おおとも)。 桓武天皇の第七皇子。 母は、藤原百川の娘・旅子。平城天皇、嵯峨天皇は異母兄。.
渡辺綱
渡辺 綱(わたなべ の つな)は、平安時代中期の武将。嵯峨源氏の源融の子孫で、正式な名のりは源綱(みなもと の つな)。通称は渡辺源次。頼光四天王の筆頭として知られる。渡辺氏の祖。.
渡辺氏
渡辺氏(わたなべし/わたべし).
渡辺津
天神橋(渡辺津の推定地) 石山本願寺推定地 渡辺津(わたなべのつ)は、摂津国の旧淀川河口近くに存在した、瀬戸内海沿岸で最大級の港湾。「窪津(九品津)」とも呼ばれる。現在の大阪市の中心部、旧淀川にかかる天満橋から天神橋の間くらいの位置にあり、ここを中心とした北船場一帯が入り江で、上町台地の北端の西部一帯に街が栄えていたと見られる。かつて奈良時代まで難波津や難波京があった場所がそのまま首都・副都でなくなった後も港湾として機能し続けたものである。 大阪が歴史の表舞台に登場するのには、難波京、遣唐使の廃止(住吉津)から石山本願寺、日明貿易(堺)まで空白期間があるように見える。また、大阪湾の港も兵庫や神崎、堺が注目されるが、平安時代や鎌倉時代、室町時代の間も渡辺津がひきつづき淀川河口における港湾の機能を果たし続けていた。というのも、渡辺津が京から瀬戸内への交通の要所であったのと、堺、平野郷、夕陽丘(四天王寺の門前町)、住吉などが自治都市として古代から引き続き栄えていたためである。 ここは瀬戸内と京の間の水運の拠点で、海上・河川の船の積替え場であり、淀川を南北に渡る渡し場でもあった。また、交通や経済のみならず、宗教的にも重要な場所であった。京から四天王寺・住吉大社・熊野へ詣でる際は淀川からの船をここで降りていたため、熊野古道もこの渡辺津が起点だった。後日港の近くの台地の上に石山本願寺が築かれ、浄土真宗の本拠となった。 軍事的にも重要な港であった。平安時代後期には嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)がこの地に住んで渡辺を名字とし、渡辺氏を起こした。渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団に発展し、港に立地することから水軍として日本全国に散らばり、瀬戸内海の水軍の棟梁となる。その代表的な支族は北九州の松浦氏であり、松浦氏を惣領とする松浦党である。豊臣氏家臣の渡辺氏や徳川氏譜代の渡辺氏もまた子孫と伝える。 この地にあった有名な神社が坐摩神社(社号は「いかすり」と読むが、通常は「ざま」)である。かつての本殿は、渡辺津のあった場所(天神橋東南の渡辺町、現在の石町)にあったが、16世紀末に豊臣秀吉が大坂城を築城する際に土着の渡辺党の存在を嫌い、坐摩神社および渡辺党に退去を命じ、渡辺津の歴史は終わった。坐摩神社は現在地の船場(大阪市営地下鉄本町駅の南)に移転した。渡辺党も船場など大阪各地へ移転することになる中沢新一『大阪アースダイバー』講談社2012年、220-236頁。淀川南岸の坐摩神社および周囲の神官・武士・住民は船場の渡辺町に移転したが、淀川北岸の武具をつくる皮革職人や下級神官らは一旦は南岸の人々と同じ場所に移転したものの、被差別民として遠ざけられ、大坂周辺を転々とした後、木津村領内に渡辺村と浪速神社(坐摩神社の境外末社)を構え、皮革製造や大阪市内の刑罰・火消などに携わることとなる。.
清和源氏
清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.
源定
源 定(みなもと の さだむ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。嵯峨天皇の子(第六源氏)。淳和天皇の猶子。官位は正三位・大納言、贈従二位。四条大納言または賀陽院大納言(陽院大納言とも)と号した。.
源実
源 実(みなもと の さね、生年不詳 - 昌泰3年(900年))は、平安時代前期の貴族・歌人。嵯峨源氏、参議・源舒の次男。 官位は従五位上・信濃守。.
源安
源 安(みなもと の やすし、弘仁13年(822年)- 仁寿3年4月18日(853年5月29日))は、平安時代初期の貴族。嵯峨天皇の皇子。官位は従四位上・備中守。.
源宛
源 宛(みなもと の あつる)は、平安時代中期の武士。名は充とも表記される。嵯峨源氏、左大臣・源融の曾孫。.
源寛
源 寛(みなもと の ひろし、弘仁4年(813年) - 貞観18年5月27日(876年6月22日))は、平安時代初期から前期にかけての貴族。嵯峨天皇の皇子。官位は正四位下・宮内卿。.
源常
源 常(みなもと の ときわ)は、平安時代初期の公卿。嵯峨天皇の子(嵯峨第三源氏)。官位は正二位・左大臣、贈正一位。東三条左大臣とも呼ばれる。.
源希
源 希(みなもと の まれ/のぞむ)は平安時代初期から中期にかけての公卿。嵯峨源氏、大納言・源弘の六男。.
源平
源 平(みなもと の ひらし/たいら、生没年不詳)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。嵯峨源氏、左大臣・源信の子。官位は従四位上・大膳大夫。.
源建
源 建(みなもと の たける/たつる、生没年不詳)は、平安時代前期の貴族。嵯峨天皇の孫で、参議・源明の子。官位は従五位上・相模介。.
源仕
源 仕(みなもと の つこう)は、平安時代中期の軍事貴族。大納言・源昇の次男。官位は従五位上、武蔵守、修理大夫。.
源弼
源 弼(みなもと の たすく、生没年不詳)は、平安時代前期の貴族。嵯峨天皇の孫で、大納言・源弘の四男。官位は従四位下・宮内卿。.
源弘
源 弘(みなもと の ひろむ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。嵯峨天皇の皇子(第二源氏)。官位は正三位・大納言。広幡大納言と号す。.
源俊
源 俊(みなもと の すぐる)は、平安時代中期の貴族。嵯峨源氏、大納言・源定の孫で、右大弁・源唱の子。官位は従四位上・近江守。.
源保
源 保(みなもと の やす/たもつ、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族。嵯峨源氏、左大臣・源信の子。官位は従五位下・若狭守。.
源信 (公卿)
源 信(みなもと の まこと、弘仁元年(810年) - 貞観10年閏12月28日(869年2月13日))は、平安時代前期の公卿。嵯峨天皇の七男(第一源氏)。官位は正二位・左大臣、贈正一位。初代源氏長者。北辺大臣と号した。.
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源圓
源 圓(みなもと の つぶら)は、嵯峨源氏渡辺党の松浦氏の武将。源三圓(げんざ つぶら)、源三固(げんざ かたし)。 承久の乱の後に筑後国の蒲池氏の娘婿となり、遺領を譲られ、松浦党蒲池氏の祖となる(『筑後国史』)。 松浦氏初代の松浦久の子の松浦直の六男の山代囲(源六囲)の三男で、山代系図にある源三固であるとされるが、『筑後国史』『蒲池物語』では、源三圓は渡辺綱の子あるいは孫の渡辺久(松浦久)の子の松浦正(源正)の子孫としている。松浦正は後に「源公頼」と改名していることから、蒲池氏初代の源久直(蒲池久直)が娘婿になった筑後橘氏の祖の橘公頼と後世において混同されたのではないかとも考えられる。 源圓には子はおらず、山代の家は、養子の源廣(源三廣)が継ぎ、蒲池の家は、圓の先代で承久の乱に朝廷側に参陣し、幕府勝利のため薩摩の所領で終生蟄居の身となった蒲池行房の子で、妻の実家の宇都宮姓を継いでいた久氏が継ぐ。 山代氏と蒲池氏の関係は、肥前国神崎の地にある。神崎荘は山代氏の本拠地であり、そこへ都から嵯峨源氏の源満末が荘官として下向。同地において源満末は都の下級貴族から地方土着の武士になるが、その背景に山代氏の影響や力があったものとされる。この源満末の孫の源久直が蒲池氏の初代。.
源包
源 包(みなもと の つつむ)は、平安時代初期の貴族。嵯峨源氏、大納言・源定の子。官位は従四位下・信濃守。.
源善
源 善(みなもと の よし、生没年不詳)は、平安時代初期、中期の貴族。嵯峨天皇の曾孫で、嵯峨源氏、参議・源舒の子。官位は従四位下・左近衛中将。.
源唱
源 唱(みなもと の となう)は平安時代前期の貴族。嵯峨源氏、大納言・源定の子。官位は正四位下・右大弁。.
源啓
源 啓(みなもと の ひらく、天長6年(829年) - 貞観11年8月27日(869年10月6日))は、平安時代初期から前期にかけての貴族。嵯峨天皇の皇子。官位は従四位上・越前守。.
源勝
源 勝(みなもと の まさる、生年不詳 - 仁和2年7月4日(886年8月7日))は、平安時代前期の貴族・僧侶。法名は由蓮。嵯峨天皇の皇子。位階は従四位上。竹田禅師と称された。.
源勤
源 勤(みなもと の つとむ、天長元年(824年) - 元慶5年5月16日(881年6月16日))は、平安時代初期から前期にかけての貴族。嵯峨天皇の皇子(第十三源氏)。官位は従三位・参議。西七条宰相と号した。.
源等
源 等(みなもと の ひとし)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。嵯峨源氏、中納言・源希の次男。官位は正四位下・参議。小倉百人一首では参議等。.
源精
源 精(みなもと の くわし、生没年不詳)は、平安時代前期から中期にかけての貴族。嵯峨源氏、大納言・源定の子。官位は従四位上・大和守。.
源生
源 生(みなもと の いける/なる、弘仁12年(821年) - 貞観14年8月2日(872年9月8日))は、平安時代初期の公卿。嵯峨天皇の皇子(第九源氏)。官位は正四位下・参議。.
源直
源直(みなもと の すなお)は、日本の平安時代初期から前期にかけての貴族。左大臣・源常の三男。.
源融
源 融(みなもと の とおる)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。嵯峨天皇の皇子(嵯峨第十二源氏)。嵯峨源氏融流初代。.
源鎮
源 鎮(みなもと の しずむ、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族。嵯峨天皇の皇子。母は女御・百済王慶命。官位は散位従四位上。.
源頴
源 頴(みなもと の ひいず/ひで、生年不詳 - 元慶3年10月29日(879年11月16日))は、平安時代初期から前期にかけての貴族。嵯峨源氏、左大臣・源常または参議・源明の子。官位は従四位下・但馬権守。.
源頼光
源 頼光(みなもと の よりみつ)は、平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍・源満仲、母は嵯峨源氏の近江守・源俊の娘。諱はしばしば「らいこう」と有職読みされる。 満仲の長子で清和源氏の3代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟に大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいる。.
源順
源 順(みなもと の したごう、延喜11年(911年) - 永観元年(983年))は、平安時代中期の学者・歌人・貴族。嵯峨源氏、大納言・源定の曾孫。左馬允・源挙(みなもと の こぞる)の次男。官位は従五位上・能登守。.
源護
源 護(みなもと の まもる、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。常陸大掾。素性は不明だが、一般的には一字名から武蔵権介の源宛(箕田宛)と同族の嵯峨源氏と推測されている。子に扶・隆(たかし)・繁(しげる)ら、娘は高望王の子、平国香・平良兼・平良正らに嫁いでいる。.
源興
源 興(みなもと の おこる、天長5年(828年) - 貞観14年11月19日(872年12月22日))は、平安時代初期から前期にかけての貴族。嵯峨天皇の孫。左大臣・源常の子。官位は従四位上・右近衛中将。.
源舒
源 舒(みなもと の のぶる、天長9年(832年)『日本三代実録』の享年50による。『公卿補任』では享年54とし、逆算すると天長5年(828年)生まれとなる。 - 元慶5年11月29日(881年12月23日))は、平安時代前期の公卿。嵯峨源氏、参議・源明の長男。官位は正四位下・参議。西七条宰相と号す。.
源至
源 至(みなもと の いたる、生没年不詳)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。嵯峨源氏、大納言・源定の子。官位は従四位上・中務大輔。.
源恵
源 恵(みなもと の ほどこす、生年不詳延長9年(931年))は、平安時代前期の貴族・歌人。名は忠とも記される。嵯峨源氏、大納言・源弘の孫。但馬守・源弼の長男。官位は正五位下・右衛門権佐。.
源氏
源氏(げんじ、みなもとうじ)は、「源」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。 日本において皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に名乗る氏の1つで、多数の流派がある。清和天皇の子孫である清和源氏が有名である。.
源清
源 清(みなもと の きよし、源淸、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族。嵯峨天皇の皇子。母は更衣秋篠高子。官位は散位正四位下。.
源湛
源 湛(みなもと の たたう)は平安時代前期から中期にかけての公卿。左大臣・源融の長男。.
源満仲
JR川西池田駅前にある満仲のブロンズ像 源 満仲(みなもと の みつなか)は、平安時代中期の武将。清和源氏、六孫王経基の嫡男。多田源氏の祖で、多田 満仲(ただ の みつなか、ただ の まんじゅう)とも呼ばれる。諱は満中とも記される。神号は多田大権現。.
源満末
源 満末(みなもと の みつすえ、生没年不詳)は、平安時代後期の武将。従五位下。嵯峨源氏・融流源是茂の子孫。父は源末行。子に貞宗。.
源潔姫
源潔姫(みなもと の きよひめ、弘仁元年(810年) - 斉衡3年6月25日(856年7月29日))は、嵯峨天皇の皇女。母は当麻治田麻呂女。藤原良房の正妻。清和天皇の外祖母。贈正一位。 臣籍降下後の結婚であるが、史料上確実な「臣下の妻となった初めての皇女」である。良房との間に生まれたのは、後に文徳天皇女御となった明子ただ1人であり、他に妻を迎えられず後嗣に恵まれなかった夫・良房は甥の基経を猶子とした。.
源有
源 有(みなもと の たもつ、生没年不詳)は、平安時代前期の貴族。嵯峨源氏、左大臣・源信の子。官位は従四位上・右馬頭。.
源明
源 明 (みなもと の あきら、弘仁5年(814年) - 仁寿2年12月20日(853年2月1日))は、平安時代初期の公卿。嵯峨天皇の皇子(嵯峨第五源氏)。官位は正四位下・参議。横川宰相入道と号す。出家後の法名は素然。.
源是茂
源 是茂(みなもと のこれしげ、仁和2年(886年) - 天慶4年6月10日(941年7月11日))は、平安時代前期の貴族。嵯峨源氏、大納言・源昇の子。光孝天皇の養子になり第十三皇子となる。官位は従三位・権中納言。.
源是恒
源 是恒(みなもと の これつね、生年不詳 - 延喜5年7月28日(905年8月31日))は、平安時代前期の賜姓皇族。光孝天皇の第8皇子だが母は不詳。官位は従四位上・美濃権守。養子に源衆望(嵯峨源氏源昇の子)がいる。 当初是恒王を名乗るが、貞観12年(870年)2月源朝臣の姓を賜与され臣籍降下。その後、出家して空性と号する。またその後、還俗して寛平8年(896年)11月に再び源朝臣姓を賜与される。延喜5年(905年)7月28日に卒去。.
源昇
源 昇(みなもと の のぼる)は、平安時代初期から中期にかけての公卿。嵯峨源氏、左大臣・源融の次男。官位は正三位・大納言。河原大納言と号す。.
源悦
源 悦(みなもと の よろこぶ)は、平安時代前期の公卿。大納言・源弘の子。.
滝口武者
滝口武者(たきぐちのむしゃ)は、9世紀末頃から蔵人所の下で内裏の警護にあたっていた武士。滝口の武士ともいう。.
朝廷
朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.
朝臣
朝臣(あそん、あそみ)は、684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓(カバネ)で、上から二番目に相当する。一番上の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる。読みは「あそみ」が古い。古くは阿曽美、旦臣とも書いた。 この朝臣が作られた背景には、従来の臣(おみ)、連(むらじ)、首(おびと)、直(あたい)などの姓の上位に位置する姓を作ることで、姓に優劣、待遇の差をつけ、天皇への忠誠の厚い氏(うじ)を優遇し、皇室への権力掌握をはかったと思われる。 『日本書紀』には、684年(天武天皇13年)11月1日に初めて朝臣を賜った52氏として、大三輪氏、大春日氏、阿倍氏、巨瀬氏、膳氏、紀氏、波多氏、物部氏、平群氏、雀部氏、中臣氏、大宅氏、粟田氏、石川氏、桜井氏、采女氏、田中氏、小墾田氏、穂積氏、山背氏、鴨氏、小野氏、川辺氏、櫟井氏、柿本氏、軽部氏、若桜部氏、岸田氏、高向氏、宍人氏、来目氏、犬上氏、上毛野氏、角氏、星川氏、多氏、胸方氏、車持氏、綾氏、下道氏、伊賀氏、阿閉氏、林氏、波弥氏、下毛野氏、佐味氏、道守氏、大野氏、坂本氏、池田氏、玉手氏、笠氏が記されている。 朝臣は、主に壬申の乱で功績の有った主に臣の姓を持つ氏族(古い時代に皇室から分かれたものが多い)に優先的に与えられた。その次に位置する主に連の姓を持つ氏族には宿禰の姓を与えていた。しかしながら、その後も朝廷に功績が有った氏族には朝臣の姓を下賜していき、奈良時代にはほとんどの氏が朝臣の姓を持つようになった。 さらに時代が下ると、大半の貴族や武士は藤原朝臣、源朝臣、平朝臣などの子孫で占められてしまい、また、武家台頭による下級貴族の没落もあり、朝臣は、序列付けの為の姓としての意味を失ってしまい、公式文書で使う形式的なものになっていった。 平安時代以降、公卿(三位以上及び参議)は、氏の下に朝臣、諱の下に公(大臣)ないし卿という敬称を以って称した。四位以下の者は氏、諱の下に姓をつけて呼称した。氏ではなく諱の下に朝臣とつけた者は特に名乗り朝臣という。.
本貫
本貫(ほんがん、ほんかん)は古代東アジアにおいて戸籍の編成(貫籍)が行われた土地をいう。転じて、氏族集団の発祥の地を指すようになった。 日本には律令制下の戸籍制度とともに概念が導入された。中世以降、武家の名字(苗字)の由来となった土地(名字の地, 一所懸命の土地)を「本貫」、「本貫地」(ほんがんち)と呼ぶようになった。 中国・朝鮮半島では、個人の戸籍の所在地の意味を離れ、氏族集団(宗族)の始祖の発祥地として使用された。とくに大韓民国では現在も家族制度上大きな意味を持つ。.
有智子内親王
有智子内親王(うちこないしんのう、大同2年(807年) - 承和14年10月26日(847年12月7日))は、第52代嵯峨天皇の第8皇女 。母は交野女王。平安時代初期の皇族、漢詩人。初代賀茂斎院。.
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摂津国
摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.
摂津源氏
摂津源氏(せっつげんじ)とは、摂津国の多田に根拠地を置いた清和源氏の嫡流(多田源氏と呼ばれることもある)。.
承久の乱
承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。 1185年に鎌倉幕府が成立した以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡した。その1219年以降、鎌倉は伊豆を収める世襲一族の北条氏が実権を握り、さらに北条氏は、幕府内で朝廷の代理人である執権であったが、幕府を実質的に手中に収めるに至り、日本を統治するのは朝廷であり朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きた承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも鎌倉幕府が影響力を持つようになった。.
承和 (日本)
承和(じょうわ、しょうわ)は、日本の元号の一つ。天長の後、嘉祥の前。834年から848年までの期間を指す。この時代の天皇は仁明天皇。.
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814年
記載なし。
831年
記載なし。
840年
記載なし。
881年
記載なし。