199 関係: 占守島、占守郡、千島列島、南下政策、場所請負制、壬申戸籍、大宝律令、大隅郡、天領、天明、宝暦、室町時代、安永 (元号)、安政、寛永、寛文、寛政、小栗重吉、不平等条約、中川五郎治、万治、三県一局時代、平安時代、幌筵島、幕臣、幕末、久保田藩、久蔵、享保、享和、五畿七道、令制国、令制国一覧、仙台藩、伊勢国、会所 (近世)、弘化、弘前藩、佐賀藩、彦根藩、得撫島、得撫郡、修道司祭、土佐藩、北前船、北海道、北海道 (令制)、北海道の分領支配、北海道庁 (1886-1947)、北方地域、...、北方探検、ペトロパブロフスク・カムチャツキー、メナシクル、ロシア帝国、ロシア正教会、ヴァシーリー・ゴロヴニーン、ヴィトゥス・ベーリング、トビニタイ文化、ダニラ・ヤコヴレヴィチ・アンツィフェーロフ、嘉永、善六、和人、和人地、アイヌ、エカチェリーナ2世、オホーツク、オホーツク文化、カムチャツカ半島、クナシリ・メナシの戦い、ゴローニン事件、シベリア、函館市、元禄、元文の黒船、国後島、国後郡、国郡里制、噴火、箱館戦争、紗那郡、紗那村、継右衛門、羅処和島、炭素14、田沼意次、番屋、留夜別村、留別村、盛岡藩、花咲郡、鎌倉時代、蝦夷地、蝦夷管領、蠣崎氏、飛鳥時代、高田屋嘉兵衛、近藤重蔵、露米会社、阿倍比羅夫、蘂取郡、蘂取村、赤蝦夷風説考、赤軍、薩摩国、間宮林蔵、開拓使、藩、金刀比羅神社 (根室市)、色丹島、色丹郡、若宮丸、陣屋、択捉島、択捉郡、松平定信、松前藩、根室市、根室国、根室振興局、根室支庁、樺太、樺太・千島交換条約、正徳 (日本)、正保、正保国絵図、江戸幕府、江戸時代、泊村 (北海道根室振興局)、津波、温禰古丹島、本州、振別郡、最上徳内、戊辰戦争、明治、昭和、海国兵談、新知島、新知郡、文化 (元号)、文化露寇、文政、斉明天皇、日露和親条約、擦文時代、1635年、1644年、1661年、1662年、1700年、1711年、1712年、1713年、1715年、1721年、1731年、1738年、1747年、1754年、1766年、1769年、1772年、1773年、1776年、1779年、1781年、1783年、1786年、1788年、1789年、1791年、1798年、1799年、1800年、1801年、1803年、1804年、1805年、1806年、1807年、1808年、1811年、1813年、1816年、1821年、1845年、1854年、1855年、1859年、1869年、1875年、1876年、1882年、1884年、1885年、1945年、6月 (旧暦)、7月27日 (旧暦)、8月15日。 インデックスを展開 (149 もっと) »
占守島
占守島(しゅむしゅとう)は、千島列島北東端の島。ロシア名はシュムシュ島(о.Шумшу)、英語表記はShumshu。サンフランシスコ条約締結以来、領有権の帰属は未確定であるが、ロシアの実効支配下にある。 元禄御国絵図にある地名「しいもし」や鳥居龍蔵の記録にある「シュモチ」はこの島に当たるとされる。 島の名前の由来は、アイヌ語の「シュム・ウシ(南西・<そこに>ある→南西に存在する、或いは南西に入る)」からとする説があるものの、この島の語源を「シー・モシリ(本島)」とし新知島の語源を「シュム・シリ(西島)」とする説や、占守島を「シュム・シュ(油・鍋)」とし新知島を「シュム・ウシ(南西にある、入る)」とする説もあり、山田秀三は「判断がつかない地名」としている。 現在この島の住民は灯台守だけで民間人はいない。また島への上陸はロシア連邦軍の許可が必要で、ペトロパブロフスク・カムチャツキーからヘリコプターで約2時間かかる。.
占守郡
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千島列島
千島列島(ちしまれっとう)は、北海道本島の東、根室海峡からカムチャツカ半島の南、千島海峡までの間に連なる列島。クリル列島( Kuril Islands)ともいう。国後島、択捉島、得撫島、幌筵島、占守島などの島々からなる。総面積10355.61km2。 主に得撫島以北を北千島、択捉島以南を南千島と呼ぶ。また、南千島に対する日本の領有権を主張する立場から、これらの島々を北方四島(北方領土)と呼ぶことがある。日本政府は択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島を北海道の属島とし、千島列島に属さないとしている。 なお、得撫島から磨勘留島までを中部千島と呼ぶことがあり、本項でも便宜上.
南下政策
南下政策(なんかせいさく)とは、ある国家が南方に進出しようとする政策。単に南下政策といった場合はロシア帝国の南下政策を指すことが多い。.
場所請負制
場所請負制(ばしょうけおいせい)は、江戸時代の松前藩政下における家臣の知行形態である商場(場所)知行制から発生した、蝦夷地特有の流通制度。.
壬申戸籍
壬申戸籍(じんしんこせき)は、明治4年(1871年)の戸籍法に基づいて、翌明治5年(1872年)に編製された戸籍である。編製年の干支「壬申」から「壬申戸籍」と呼び慣わす。.
大宝律令
大宝律令(たいほうりつりょう)は、701年(大宝1年)に制定された日本の律令である。「律」6巻・「令」11巻の全17巻。唐の律令を参考にしたと考えられている。大宝律令は、日本史上初めて律と令が揃って成立した本格的な律令である。.
大隅郡
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天領
天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地の俗称で、このほか幕府直轄領、徳川幕府領、徳川支配地、幕府領、幕領など様々な呼称があり、必ずしも絶対的な単一の歴史用語ではない村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。幕府直轄領は元禄以降、全国で約400万石あった。その領地は日本全国に散らばっており、江戸時代を通じて何らかの形で幕府直轄地が存在した国は51ヶ国と1地域(蝦夷地)に及び、年貢収取の対象となる田畑以外に交通・商業の要衝と港湾、主要な鉱山、城郭や御殿の建築用材の産出地としての山林地帯が編入され江戸幕府の主要な財源であった村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。 幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代である。大政奉還後に幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのがはじまり。その後、この呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。よって、江戸時代に使われていた呼称ではない。江戸幕府での正式名は御料・御領(ごりょう)であり、その他、江戸時代の幕府法令には御料所(ごりょうしょ、ごりょうじょ)、代官所、支配所(しはいしょ、しはいじょ)とある。江戸時代の地方書では大名領や旗本領を私領としたのに対して公領・公料、また公儀御料所(こうぎごりょうしょ)とある。 大政奉還後の慶応4年(1868年、同年明治元年)には徳川支配地を天領と呼んだ布告があるが、同時期の別の布告では「これまで徳川支配地を天領と称し居候は言語道断の儀に候、総て天朝の御料に復し、真の天領に相成候間」とある。 幕府の直轄地についての呼称については、従来は「天領」と表記していたが、この「天領」という呼称が明治以降の俗称であるという点から、近年では「幕領」と呼ぶ傾向になっており、全国の歴史教科書なども「幕領」への表記の変更が進められている。.
天明
天明(てんめい)は日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。.
宝暦
宝暦(ほうれき、ほうりゃく、旧字体: 寶曆)は日本の元号の一つ。寛延の後、明和の前。1751年から1764年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。.
室町時代
室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.
安永 (元号)
安永(あんえい)は日本の元号の一つ。明和の後、天明の前。1772年から1781年までの期間を指す。この時代の天皇は後桃園天皇、光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。.
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安政
安政(あんせい)は日本の元号の一つ。嘉永の後、万延の前。1855年嘉永から安政への改元が行なわれたのはグレゴリオ暦1855年1月15日であり、和暦が新年を迎えないうちに西暦だけが新年を迎えている期間であった。安政元年は西暦1855年1月15日から同2月16日までの短い期間であるため、和暦と西暦を一対一で対応させようとする場合、嘉永7年=安政元年=西暦1854年、安政2年=西暦1855年となって実際とはずれが生じる。から1860年までの期間を指す。この時代の天皇は、孝明天皇。江戸幕府将軍は、徳川家定、徳川家茂。.
寛永
寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.
寛文
寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.
寛政
寛政(かんせい)は日本の元号の一つ。天明の後、享和の前。1789年から1801年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。.
小栗重吉
小栗 重吉(おぐり じゅうきち、天明5年(1785年) - 嘉永6年1月2日(1853年2月9日))は、江戸時代後期の船頭である。史上最も長期にわたって漂流した人物として知られている。.
不平等条約
不平等条約(ふびょうどうじょうやく、unequal treaty)とは、条約の性質に基づいてなされた分類の一種で、ある国家が他の国家に、自国民などに対する権力作用を認めない条約である。.
中川五郎治
中川 五郎治(なかがわ ごろうじ、明和5年(1768年) - 弘化5年9月27日(1848年10月23日)は、日本における種痘法の祖。本名・小針屋佐七、別名・中川良左衛門。陸奥国生まれで蝦夷地に渡り、択捉島の漁場の番人を務めていたが、文化露寇の際にロシア側の捕虜となりシベリアに送られ、そこで種痘法を身に付ける。ゴローニン事件の際に日本に送還され、後に松前奉行・松前藩に仕え、箱館・松前を中心に種痘法を広めた。.
万治
万治(まんじ)は日本の元号の一つ。明暦の後、寛文の前。1658年から1661年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.
三県一局時代
三県一局時代(さんけんいっきょくじだい)とは、北海道の歴史における時代区分のひとつ。 1882年2月8日の開拓使廃止に伴い、函館県(はこだてけん)・札幌県(さっぽろけん)・根室県(ねむろけん)が設置された。また、北海道にはこの3県のほか、北海道事業管理局(農商務省の一部局)が設置されていた。 3県と事業管理局は、1886年1月26日の北海道庁設置に伴って廃止された。.
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平安時代
平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.
幌筵島
幌筵島(ぱらむしるとう、ほろむしろとう)は、千島列島の北東部にある島。波羅茂知島(ぱらもしるとう)と表記されることもある。ロシア名はパラムシル島 (о.Парамушир)、英語表記はParamushir。 島の名前の由来は、アイヌ語の「パラ・モシル(広い・島)」「ポロ・モシル(大きい・島)」から。千島アイヌは「ウレシパモシリ(人を多く育てた島)」とも呼んでいた。 ただ、漢字表記で「幌(ほろ)」を「ぱら」や「筵(むしろ)」を「むしる」と読ませるのは無理矢理ではあるが、いわゆる北方領土や北海道本島においてもアイヌ語由来地名の漢字表記にそのような例は数多くあり、こちらは「ほろむしろ」と読む例もあるが一般的には「ぱらむしる」と読むことが普通である。.
幕臣
幕臣(ばくしん)は、幕府の長である征夷大将軍を直接の主君として仕える武士のことである。 一般的には、江戸時代において徳川家の臣下のうち、1万石未満の禄を与えられた旗本および御家人と呼ばれる身分の者のことを指す。 彼ら旗本・御家人は、所領を与えられた者でも領地への下向を行わずに江戸に常時居住し(交代寄合として大名同様参勤交代を行うものもいた)、自身の知行高に定められた軍役を果たす準備を満たして将軍家の常備直轄軍事力としての役割を果たす一方で、江戸幕府の各種の役職(軍職の番方や吏務職の役方)を果たし、幕府の軍人・官僚として仕えた。 幕臣は幕藩体制のもとで特権を認められる世襲の武士身分であったが、江戸時代中頃から経済的に窮乏するようになり、下層の御家人の間では御家人株の売買による身分の流動が見られた。.
幕末
幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.
久保田藩
『天保国絵図』より「出羽国秋田領」 久保田藩(くぼたはん)は、江戸時代の藩の一つである。秋田藩(あきたはん)とも呼ばれる「秋田市史 第四巻」7頁。。久保田城を居城とした。藩主は佐竹氏で、室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封された。石高は約20万石(実高は約40万石)。家格は大広間詰国持大名。 支藩として、新田分知された家が2家有る他、2代義隆の実家亀田藩(岩城氏)が事実上の支藩となっていた時期もあった。.
久蔵
久蔵(きゅうぞう、天明7年(1787年) - 嘉永6年6月28日(1853年8月2日))は江戸時代の水主。種痘苗を広島県にもたらした。.
享保
享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.
享和
享和(きょうわ)は日本の元号の一つ。寛政の後、文化の前。1801年から1804年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.
五畿七道
西海道 五畿七道(ごきしちどう)とは、古代日本の律令制における、広域地方行政区画である。畿内七道(きないしちどう)とも呼ばれた。 1869年(明治2年)、北海道 (令制)が新設されてからは五畿八道と呼ばれる(道 (行政区画)#令制後)。 1871年(明治4年)の廃藩置県以降も、五畿八道は廃止されておらず、令制国も併用されていたが、1885年(明治18年)以降はすたれ、現在は、五畿八道としての地方区分はあまり用いられなくなっている。 しかし、現在の日本各地の地方名の多く(東海、東山、北陸、山陽、山陰、北海道など)は、五畿八道に由来している。また、東海道新幹線や山陽新幹線、北陸自動車道などの交通網や、今後想定される東海地震や南海地震、また地震発生帯の南海トラフなどの名称にもその名残が見られる。.
令制国
北海道11か国(ただし、千島を除く)追加を反映した。 令制国(りょうせいこく)とは、日本の律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である。律令国(りつりょうこく)ともいう。奈良時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位だった。 令制国の行政機関を国衙(こくが)または国庁(こくちょう)といい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府(こくふ)といった。また、国府は府中と呼ばれることもあった。.
令制国一覧
大宝元年)から702年(大宝2年)まで。黄色で示す地域が制度の及ぶ範囲。 鎌倉時代から1868年(明治元年)まで 明治初期の令制国の配置 令制国一覧(りょうせいこくいちらん)は、7世紀後半からの日本国内の地方行政区分、国(令制国)の一覧である。 令制国の改廃は、奈良時代までと明治時代になされ、その間の平安時代から江戸時代には長期にわたって変更がなかった。.
仙台藩
仙台藩(せんだいはん)は、江戸時代に陸奥国の仙台城(現・宮城県仙台市)に藩庁を置いた、表高62万石の藩である。現在の岩手県南部から宮城県全域までと福島県新地町の約60万石を一円知行で治め、現在の茨城県および滋賀県に合計約2万石の飛び地があった。 江戸時代を通じて外様大名の伊達氏本家が治めた藩であり、伊達藩(だてはん)と呼ばれることもある。.
伊勢国
伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
会所 (近世)
会所(かいしょ)とは、文字通り解釈すれば、なんらかの会、催し物、寄合・会合が行われるところであるが、日本の近世期においては、主として町方において商人組合や地域の公的な集会所・事務所・取引所として用いられた独立した建物が「会所」と名づけられることもあった。また、七分積金の事務を取り扱うため、江戸浅草向柳原に設けられた会所も町会所と呼ばれた。中世期の会所については、会所 (中世)を参照。.
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弘化
弘化(こうか)は日本の元号の一つ。天保の後、嘉永の前。1845年から1848年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇、孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶。.
弘前藩
弘前藩の拠点であった弘前城 弘前藩(ひろさきはん)は、陸奥国にあった藩である。通称は津軽藩(つがるはん)。弘前改称以前を鷹岡藩(高岡藩)、鷹岡移転以前を堀越藩ともいう。藩主は津軽氏で、家格は柳間詰め外様大名、幕末に家格向上して大広間詰めもある国主に準ずる扱いを受けた。藩庁は 弘前城(青森県弘前市下白銀町)に置いた。.
佐賀藩
佐賀藩(さがはん)は、肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)。 藩主ははじめ龍造寺氏、後に鍋島氏。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩があった。.
彦根藩
近江彦根藩井伊家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 彦根藩邸址、京都市中京区木屋町 彦根藩(ひこねはん)は、近江国の北部を領有した藩。藩庁は彦根城(滋賀県彦根市)に置かれた(入封当初は佐和山城)。藩主は譜代大名筆頭の井伊氏。支藩として一時、彦根新田藩があった。.
得撫島
得撫島北東部にある見嶋湾。遠景の岬の日本が建てた灯台の周りには、ウルップソウの大群落がある。 得撫島(うるっぷとう)は、千島列島にある島。ロシア名はウループ島 (Остров Уруп)、英語表記はUrup。 島の名前の由来は、アイヌ語で「紅鱒」を意味する「ウルㇷ゚」から。知里真志保の著書にもこのことが記してある。.
得撫郡
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修道司祭
修道司祭(しゅうどうしさい)とは、正教会、カトリック教会、聖公会において、修道士かつ司祭である者を言う。.
土佐藩
土佐藩(とさはん)は、廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩。明治初年の正称は高知藩(こうちはん)。藩庁は高知城(高知市)にあった。大広間詰国持大名。一貫して山内氏が支配した。 高知城 土佐藩邸跡 京都三条木屋町下ル 山之内氏が用いた家紋『土佐柏(とさかしわ)』 伏見土佐藩邸跡 京都市伏見区.
北前船
北前船(きたまえぶね)とは、江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船(かいせん)の名称コトバンク。買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかう船のことである。西廻り航路(西廻海運)の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。.
北海道
北海道(ほっかいどう)は、日本の北部に位置する島。また、同島および付随する島を管轄する地方公共団体(道)である。島としての北海道は日本列島を構成する主要4島の一つである。地方公共団体としての北海道は47都道府県中唯一の「道」で、道庁所在地は札幌市。.
北海道 (令制)
明治時代の日本地図。北海道の令制国も記されている。 北海道(ほっかいどう)は、1869年9月20日(明治2年8月15日)に制定された日本の広域行政区画名である。 それまでの五畿七道に、北海道(令制) を加えたことで五畿八道の一つとなった。 その範囲は、北海道本島(江戸時代までは蝦夷地・北州・十州島などと呼ばれた)とその付随する島々を含んだ。(#行政区画) この名が制定されたのは、戊辰戦争(箱館戦争)終結直後であり、また、箱館府(箱館奉行の後身)を置き換えるように開拓使(「使」という名称は、律令制下で使用された臨時の独自な任務をこなす令外官である)を設置した年であった。この開拓使の開拓判官であった松浦武四郎の『北海道々国郡名撰定上書』をもとに命名された。 松浦のこの書から、北海道という名は、7世紀後半成立の律令制下の五畿七道における東海道、西海道、南海道などを踏襲し、命名されたものである。 なお、明治維新後の近代行政区画としての北海道については北海道の項を、近代行政機関については三県一局時代および北海道庁 (1886-1947)、北海道庁の項目を参照。.
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北海道の分領支配
北海道の分領支配(ほっかいどうのぶんりょうしはい)は、明治2年(1869年)7月から明治4年(1871年)8月まで、開拓使が管轄する北海道を諸藩、士族、庶民の志願者に分割して支配させた体制のことである。.
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北海道庁 (1886-1947)
旧本庁舎(赤レンガ)(2009年10月撮影) 明治期の北海道庁舎 北海道庁(ほっかいどうちょう)は、1947年まで存在した、内務省直轄の行政区画北海道を管轄する地方行政官庁である。.
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北方地域
北方地域(ほっぽうちいき)とは、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島及び内閣総理大臣が定めるその他の北方の地域。いわゆる北方領土のこと。 北方領土問題については、北方領土問題の項目を参照のこと。.
北方探検
北方探検(ほっぽうたんけん)とは、18世紀にロシアなどのヨーロッパ諸国の船舶が多く日本に来航し、目撃されたため危機を感じた江戸幕府や松前藩が間宮林蔵や伊能忠敬などの探検家に探検、測量させたことである。彼らは北海道、樺太、千島列島やアムール川まで旅をした。 Category:探検 Category:北海道の歴史 Category:樺太の歴史 Category:千島列島の歴史 Category:北海道 (令制) Category:江戸時代の外交 Category:毛皮貿易.
ペトロパブロフスク・カムチャツキー
ペトロパブロフスク・カムチャツキー(ピトロパーヴロフスク・カムチャーツキイ )はロシア連邦極東連邦管区カムチャツカ地方の都市である。.
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メナシクル
メナシクル(メナスンクル、メナシウンクル、)とは、静内以東の太平洋沿岸地域などに居住するアイヌ民族集団の名称。 「シャクシャインの戦い」でシャクシャインが率いていた集団が「メナシクル」とされるが、その指す示す範囲については諸説ある。.
ロシア帝国
ア帝国(ロシアていこく、 ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年から1917年までに存在した帝国である。ロシアを始め、フィンランド、リボニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、カフカーズ、中央アジア、シベリア、外満州などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。.
ロシア正教会
ア正教会(ロシアせいきょうかい、Русская Православная Церковь、Russian Orthodox Church)は、正教会に属するキリスト教の教会であり、数多くある独立正教会の一つである。 正教会は一カ国に一つの教会組織を具えることが原則だが(ロシア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、グルジア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳ではなく、同じ信仰を有している。 教派名は「正教」「正教会」であり、「ロシア正教」「ロシア正教会」は主にロシア連邦・近隣地域を管轄する一教会組織名である。 本項では日本正教会による訳語を断りなく用いる場合がある。 17世紀の奉神礼改革に反対し古い奉事方法を守ったために主流派ロシア正教会から追放された古儀式派は、自らこそが正統なロシア正教会だとしている。.
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ヴァシーリー・ゴロヴニーン
ヴァシーリー・ミハーイロヴィチ・ゴロヴニーン(Василий Михайлович Головнин, Vasilii Mikhailovich Golovnin、1776年4月19日(ユリウス暦4月8日) - 1831年7月11日(ユリウス暦6月29日))はロシア帝国(ロマノフ朝)の海軍軍人、探検家、学者。ゴロヴニン、ゴローヴニン、ゴロブニン、ゴローブニン、あるいはワシーリー・ゴローニンとも。日本語ではゴロウニン、ゴローウニンとも。.
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ヴィトゥス・ベーリング
ヴィトゥス・ヨナセン・ベーリング(ロシア語:Витус Ионассен Беринг, デンマーク語:Vitus Jonassen Bering, 1681年8月 - 1741年12月19日この日付は、当時ロシアで使用されていたユリウス暦による。)は、デンマーク生まれのロシア帝国の航海士、探検家。 1725年から1730年まで、また1733年から1741年まで、2回のカムチャツカ探検を率いて、ユーラシア大陸とアメリカ大陸が陸続きではないことを確認した。また、アラスカに到達し、アリューシャン列島(アレウト諸島)の一部を発見した。 ベーリングの名にちなんだものに、ベーリング海、ベーリング海峡、ベーリング島、ベーリング地峡などがある。.
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トビニタイ文化
トビニタイ文化(トビニタイぶんか)は、9世紀ごろから13世紀ごろにかけて、北海道の道東地域および国後島付近に存在した文化様式の名称である。1960年に東京大学の調査隊が羅臼町飛仁帯(とびにたい)で発見した出土物が名称の由来である。.
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ダニラ・ヤコヴレヴィチ・アンツィフェーロフ
ダニラ・ヤコヴレヴィチ・アンツィフェーロフ (Дани́ла Я́ковлевич Анцы́форов,?-1712年)とは、ロシア帝国の探検家。ロシア人としては始めて千島列島に足を踏み入れたことで知られる。.
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嘉永
嘉永(かえい)は日本の元号の一つ。弘化の後、安政の前。1848年から1855年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶、徳川家定。.
善六
善六(ぜんろく、明和6年(1769年) - 文化13年(1816年)頃)とは江戸時代後期の船乗り(水主)である。ロシア帝国に漂着してロシアに帰化し、日本語の通訳となった。 また、確実な記録に残っている中ではデンマーク、グレートブリテン島、カナリア諸島、ブラジル、ポリネシア(マルキーズ諸島、ハワイ諸島)を訪れた最初の日本人の1人であるただしグレートブリテン島やハワイについては上陸していないため、最初にグレートブリテン島に上陸した日本人は天保3年(1835年)の音吉ら宝順丸漂流民3名、ハワイに上陸した日本人は文化3年(1806年)の平原善松ら稲若丸漂流民8名である。しかし両地域ともそれ以前に訪れた日本人がいるという異説もある。。.
和人
和人(わじん)は、アイヌ以外の日本人または大和民族が自分たちをアイヌと区別するために用いた自称である。和人は、アイヌの側からは「シサム」「シャモ」「シサムウタラ」(「隣人」の意)と呼ばれた百科事典マイペディア,コトバンク。類義語は、倭人。.
和人地
和人地(わじんち)は、近世の北海道における地域区分のひとつ。松前地(まつまえち)ともいう。主に蝦夷と呼ばれるアイヌが居住する蝦夷地に対して、もっぱら和人が居住する渡島半島南部の一帯を指した。.
アイヌ
アイヌは、北海道・樺太・千島列島およびカムチャツカ半島南部にまたがる地域に居住していた民族。母語はアイヌ語。 1878年(明治11年)、イギリス人旅行家・イザベラ・バードが北海道の日高地方でスケッチしたアイヌ民族の男性。 アイヌは、元来は物々交換による交易を行う狩猟採集民族である。文字を持たない民族であったが1923年(大正12年)に出版された知里幸恵のアイヌ神謡集では、その発音を、ローマ字で表記するなどの工夫がされている。、生業の毛皮や海産物などをもって、アムール川下流域や沿海州そしてカムチャツカ半島、これらの地域と交易を行い、永く、このオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた。 1855年2月7日(安政元年12月21日)の当時のロシア帝国との日露和親条約での国境線決定により、当時の国際法の下、各々の領土が確定した以降は、大半が日本国民、一部がロシア国民となった。21世紀初頭の現在、日本国内では、北海道地方の他に首都圏等にも広く居住している。.
エカチェリーナ2世
チェリーナ2世(エカチェリーナ2世アレクセーエヴナ、、1729年4月21日(ロシア暦)/5月2日(グレゴリオ暦) - 1796年11月6日(ロシア暦)/11月17日(グレゴリオ暦)は、ロマノフ朝第8代ロシア皇帝(在位:1762年6月28日(ロシア暦)/7月9日(グレゴリオ暦) - 1796年11月6日(ロシア暦)/11月17日(グレゴリオ暦))。夫はピョートル3世ならびにグリゴリー・ポチョムキン(秘密結婚)、子はパーヴェル1世ほか。 プロイセンのフリードリヒ2世(大王)やオーストリアのヨーゼフ2世と共に啓蒙専制君主の代表とされる。ロシア帝国の領土をポーランドやウクライナに拡大し、大帝 (ヴェリーカヤ)(Вели́кая)と称される。 帝政時代にが発行していた100ルーブル紙幣の肖像に描かれていたほか、沿ドニエストル共和国のが発行する500沿ドニエストル・ルーブルにも描かれていた。 日本では従来「エカテリーナ」の表記が多かったが、近年は原音により忠実な「エカチェリーナ」の表記が普及してきた。また、ドイツ語や英語由来の「カタリーナ」(Katharina II.)、「カザリン」、「キャサリン」などの表記も散見する。.
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オホーツク
ホーツク(ロシア語:Охо́тск、アホーツク)は、オホーツク海に面したロシアのハバロフスク地方に属する町(都市型集落)である。人口は1989年国勢調査で9,298人、2002年国勢調査で5,738人、2004年の推計では5,500人。.
オホーツク文化
ホーツク文化(オホーツクぶんか)は、3世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北海岸、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代文化である。この文化の遺跡が主としてオホーツク海の沿岸に分布していることから名付けられた。このうち、北海道に分布している遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推定されている。 海獣狩猟や漁労を中心とする生活を送っていたオホーツク文化の担い手を、オホーツク文化人、また単にオホーツク人とも呼ぶ。オホーツク人は『日本書紀』に現れる粛慎と考える見方が有力であったが、近年行われた人骨の遺伝子調査から、ニヴフ人やコリヤーク人との近似性が示されている。同時期の日本の北海道にあった続縄文文化や擦文文化とは異質の文化である。 なお、トビニタイ文化をオホーツク文化に含めるかどうかについては、現在のところ意見が分かれている。トビニタイ文化は9世紀から13世紀まで北海道東部にあり、擦文文化の影響を受け、海岸から離れた内陸部にも展開した。両者の継続性を認めてオホーツク文化の一部にする考えと、生活の違いを重視してオホーツク文化に含めない考えとがある。本項では煩を避けるためトビニタイ文化を含めずに説明する。.
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カムチャツカ半島
ムチャツカ半島(カムチャツカはんとう、ロシア語:Полуостров Камчатка パルオーストラフ・カムチャートカ、あるいはカムチャッカ)は、ユーラシア大陸の北東部にある半島である。南南西方向に伸びた半島であり、面積は472,300km2、長さ1,250km。気候は亜寒帯気候からツンドラ気候。全域がロシア連邦の領土であり、以前は南部がカムチャツカ州、北部がコリャーク自治管区に属していたが、2007年7月に両地域が合併してカムチャツカ地方となった。日本では、古くは勘察加(かむさすか)と呼んでいた。.
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クナシリ・メナシの戦い
ナシリ・メナシの戦い(クナシリ・メナシのたたかい:国後・目梨の戦いと表記されることもある)は、1789年(寛政元年)に東蝦夷地(北海道東部、道東)で起きたアイヌと和人の衝突。事件当時は「寛政蝦夷蜂起」と呼ばれた。.
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ゴローニン事件
ーニン事件(ゴローニンじけん、ゴロヴニン事件とも表記)は、1811年(文化8年)、千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン(Василий Михайлович Головнин, Vasilii Mikhailovich Golovnin)らが、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、約2年3か月間、日本に抑留された事件である。ディアナ号副艦長のと、彼に拿捕そしてカムチャツカへ連行された高田屋嘉兵衛の尽力により、事件解決が図られた。ゴローニンが帰国後に執筆した『日本幽囚記(原題:Записки флота капитана Головнина о его приключениях в плену у японцев в 1811, 1812 и 1813 годах)』により広く知られる。 ※日付は和暦。.
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シベリア
       シベリア連邦管区        シベリア        広義の(歴史的)シベリア シベリア(Siberia 、Сибирь )は、ロシア連邦領内のおよそウラル山脈分水嶺以東の北アジア地域である。漢字表記で西比利亜又は西伯利亜とも書く。かつては日本語でシベリヤという表記も多くみられた。シベリアの名称はシビル・ハン国に由来する。 一般的には極東分水嶺(サハ共和国東縁)より東の日本海・オホーツク海など沿岸地域(極東ロシア)は含まないが、広義には含めることもある。ロシア連邦所属の共和国・自治管区は存在するが、独立国家は存在しない。主な都市として、西から、オムスク、ノヴォシビルスク、クラスノヤルスク、イルクーツク、ヤクーツクがある。広義のシベリアはさらに、エカテリンブルク、ハバロフスク、ウラジオストクを含む。人口最大の都市はノヴォシビルスク。現在ではロシア語話者が人口の大半を占めるが、サハ語などのテュルク諸語や、ウラル語族に属する言語が多く分布している。.
函館市
函館市(はこだてし)は、北海道にある市である。渡島総合振興局所在地。札幌市、旭川市に次ぐ北海道第三の人口約26万人を有する中核市。.
元禄
元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.
元文の黒船
元文の黒船(げんぶん の くろふね)とは、日本の江戸時代中頃の元文4年(1739年)夏、牡鹿半島、房総半島、および伊豆下田などに、ロシア帝国の探検船が来航した事件である。アメリカ合衆国の黒船(米国東インド艦隊ペリー提督)による、嘉永期の黒船来航に114年先立つ、いわゆる「鎖国」期における、江戸幕府とロシア帝国との初めての接触であった。 ※本項における日付は日本側は貞享暦、ロシア側はユリウス暦によるものであり、現行のグレゴリオ暦とは異なる。.
国後島
国後島(くなしりとう)は、北海道知床半島の東にあり、千島列島(ロシア語地名:クリル諸島 Курильские острова)の最南に位置する島。ロシア名はクナシル島(Остров Кунашир)、英語表記はKunashirである。 島の名前の由来は、アイヌ語の「クンネ・シリ(黒い・島→黒い島)」または「キナ・シリ/キナ・シル(草の・島→草の島)」からであるが、どちらが本当の由来かははっきりとしていない。この島に先住していたアイヌ人はアイヌ語で「クナシル」と呼んでおり、日本語名もロシア語名も国際標記もこれに起源を持つ。.
国後郡
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国郡里制
国郡里制(こくぐんりせい)とは、古代日本において大宝律令により施行された地方行政・地方官制の方式である。.
噴火
火山噴火 リダウト山の大噴火 噴火(ふんか、)とは、火山からマグマや火山灰などが比較的急速に地表や水中に噴き出すことである。火山活動(かざんかつどう、)の一つで、マグマの性質によって、規模や様式にさまざまなものがある。気象庁では、火口から固形物が水平あるいは垂直距離でおよそ100 - 300mの範囲を越したものを「噴火」として記録することになっている。.
箱館戦争
永嶌孟斎画 箱館戦争(はこだてせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、戊辰戦争の局面のひとつで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘である。旧幕府軍の蝦夷地での根拠地から五稜郭の戦いとも呼ばれる。この戦いの最中に干支が戊辰から己巳に替わったことから、己巳の役(きしのえき)と呼ばれることもある。.
紗那郡
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紗那村
紗那村(しゃなむら)は、北海道根室振興局紗那郡に属する村。同じ択捉島内の留別村に次ぎ、日本国内で2番目に大きな面積を持つ村である。ただし、2017年現在紗那村を含む北方領土に日本の施政権は及んでおらず、法律上のみ存在する村となっている。 村名の由来は、アイヌ語のサン・ナイ(下る・沢)から。 当該地域の領有権に関する詳細は千島列島及び北方領土問題の項目を、現状に関してはサハリン州#クリル管区、択捉島#ソ連崩壊後の択捉島の項目を参照のこと。.
継右衛門
継右衛門(つぐえもん 、宝暦14年(1764年) - 没年不明 継右衛門文内とも)とは江戸時代後期の船頭である。.
羅処和島
羅処和島(らしょわとう/らしゅわとう/らすつあとう)は千島列島中部にある島。ロシア名はラスシュア島(о.Расшуа)、またはラスシュヤ島(о.Расшя)。英語表記はRasshua。 島の名前の由来は、アイヌ語で「ルシ・オ・ア(毛皮が・そこに・豊富にある)」「ルシュ・オ・ア(獣皮・そこで・豊富→獣皮〔海獺(ラッコ)の皮〕がそこで沢山得られる)」や、本島の別の表記である羅須古計の語源となった「ルシュ・コル・ケ(獣皮を得る所)」となっているが、はっきりとした語源は不明。 尚、正保御国絵図にある「ラセウワ」と元禄御国絵図にある「らせうわ」は本島にあたる。.
炭素14
炭素14(たんそ14、Carbon-14、14C)は、炭素の放射性同位体。.
田沼意次
沼 意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の旗本、のち大名、江戸幕府老中。遠江相良藩の初代藩主である。相良藩田沼家初代。.
番屋
屋(ばんや).
留夜別村
留夜別村(るよべつむら)は、北海道根室振興局国後郡に属する村。国後島の東半分を占める。択捉島の留別村、紗那村に次ぎ、日本国内で3番目に大きな面積を持つ村である。ただし、2017年現在留夜別村を含む北方領土に日本の施政権は及んでおらず、法律上のみ存在する村となっている。 現在は村内全ての集落が廃村となり、ロシアが設置した国立公園の管理官以外は無人の地帯になっている。 当該地域の領有権に関する詳細は千島列島及び北方領土問題の項目を、現状に関してはサハリン州#南クリル管区の項目を参照のこと。.
留別村
留別村(るべつむら)は、北海道根室振興局択捉郡に属する村。日本で最も面積の広い村である。ただし、2017年現在留別村を含む北方領土に日本の施政権は及んでおらず、法律上のみ存在する村となっている。 村名の由来は、アイヌ語のル・ペッ(道・川)から。 当該地域の領有権に関する詳細は千島列島及び北方領土問題の項目を、現状に関してはサハリン州#クリル管区、択捉島#ソ連崩壊後の択捉島の項目を参照のこと。.
盛岡藩
盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。 同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。.
花咲郡
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鎌倉時代
伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).
蝦夷地
蝦夷地(えぞち)は、日本人がアイヌの居住地を指して用いた言葉で、江戸時代に使われた。和人地の対語である。渡島半島周辺を除く現在の北海道を中心に、樺太と千島列島を含む。なお、アイヌ人はそれらの島々をアイヌモシリと呼んだ。.
蝦夷管領
蝦夷管領(えぞ かんれい)は、鎌倉時代に蝦夷関連の諸職を統括したと推定されている役職である。なお蝦夷管領の語は南北朝時代以降に見える名称であり、鎌倉時代には蝦夷沙汰職(えぞ さたしき)、蝦夷代官(えぞ だいかん)と呼ばれた。 鎌倉幕府草創期より蝦夷地は重犯罪人の流刑地になっており、蝦夷管領は流人達の送致、監視が主な役目といわれている。また、蝦夷との交易にも関与していたと推定されている。 建保5年(1217年)、時の執権・北条義時が陸奥守となったころ、安藤太郎堯秀を蝦夷管領に任命したのがはじまりといわれているが、安藤氏の系図には異伝が多く詳しいことは分かっていない。 この職は安藤氏の世職で、政務を行う役所・営所は津軽の十三湊にあったという。しかし、諸史料によると安藤氏は北条得宗家の代官として配置されたとなっているため、実際には得宗家のための役職であって、北条家の委託を受けた安藤氏が交易船からの収益を徴税し、それを北条得宗家に上納していたと推定されている。 鎌倉幕府滅亡後、安藤氏は安東氏と姓の表記を変え、「東海将軍」「日の本将軍」を名乗り蝦夷管領家の権威権限を実際に行使するかたちで蝦夷地を統治していたことが分かっているが、この安東氏とはまた別に安藤氏の子孫を名乗る家系もあり、その詳細は今後の研究に委ねられている。.
蠣崎氏
蠣崎氏(かきざきし)/松前氏(まつまえし)は、戦国時代から蝦夷地を本拠とした大名の氏族。糠部郡蠣崎(青森県むつ市川内町)を領して蠣崎氏を称する家系があり、その子孫との説がある。江戸時代に松前と改姓したが、庶流の中には引き続き蠣崎と名乗る者もいた。本姓は源氏で、清和源氏(河内源氏)義光流で甲斐源氏の庶流と称した。実際には陸奥の土豪が蝦夷へ移住して甲斐源氏武田氏を仮冒したとする説もある。.
飛鳥時代
飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つ。広義には、飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての102年間を指す。飛鳥時代は古墳時代、大和時代の終末期と重なるが、今日では分けて捉えるのが一般的である。 この時代、推古朝では飛鳥文化、天武・持統朝では白鳳文化が華開いた。また国号が「倭」から「日本」へと変えられたのもこの時代と考えられている。.
高田屋嘉兵衛
屋 嘉兵衛(たかたや かへえ、明和6年1月1日(1769年2月7日) - 文政10年4月5日(1827年4月30日))は、江戸時代後期の廻船業者、海商である。幼名は菊弥。淡路島で生まれ、兵庫津に出て船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出する。国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献する。ゴローニン事件でカムチャツカに連行されるが、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いた。.
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近藤重蔵
近藤 重蔵(こんどう じゅうぞう、明和8年(1771年) - 文政12年6月16日(1829年7月16日))は、江戸時代後期の幕臣、探検家。 諱は守重(もりしげ)、号は正斎・昇天真人。間宮林蔵、平山行蔵と共に“文政の三蔵”と呼ばれる。.
露米会社
露米会社(ろべいかいしゃ。Russian-American Company、Российско-американская компания)は、極東と北アメリカでの植民地経営と毛皮交易を目的とした、ロシア帝国の国策会社・勅許会社である。1799年、パーヴェル1世から、官僚・外交官のニコライ・レザノフへの勅許により成立した。.
阿倍比羅夫
阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ、生没年不詳)は、7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣。冠位は大錦上。越国守・後将軍・大宰帥を歴任した。斉明天皇4年(658年)から3年間をかけて日本海側を北は北海道までを航海して蝦夷を服属させ、粛慎と交戦した。.
蘂取郡
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蘂取村
蘂取村(しべとろむら)は、北海道根室振興局蘂取郡に属する村。同じく北方領土に存在する留別村、紗那村、留夜別村に次いで日本で4番目に大きな面積を持つ村であり、日本最北端の村でもある。ただし、2017年現在蘂取村を含む北方領土に日本の施政権は及んでおらず、法律上のみ存在する村となっている。 村名の由来は、アイヌ語のシ・ペッ・オロ(大きい川のところ)から。 当該地域の領有権に関する詳細は千島列島及び北方領土問題の項目を、現状に関しては現在の択捉島の項目を参照のこと。.
赤蝦夷風説考
『赤蝦夷風説考』(あかえぞふうせつこう)は、江戸時代中期の医師・経世家(経済学者)である工藤平助が著したロシア研究書。「赤蝦夷」はロシア人を意味する当時の用語。天明初年(1781年)ごろの刊行(上巻序文には「天明三年癸卯正月日」とある)。上下2巻。写本の中には『加摸西葛杜加(カムチャトカ)国風説考』の書名を持つものがあり(むしろこちらの方が多い)、また「魯西亜略説」などの異名もある。またのちに最上徳内が『別本赤蝦夷風説考』という書を著しているが、内容は全くの別物である。.
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赤軍
赤軍(せきぐん、ロシア語:Красная армия クラースナヤ アールミヤ)は、1918年から1946年にかけてロシアおよびソビエト連邦に存在した軍隊。1917年より始まったロシア内戦の最中に労働者・農民赤軍(ろうどうしゃ・のうみんせきぐん、Рабоче-крестьянская Красная армия ラボーチェ・クリスチヤーンスカヤ・クラースナヤ・アールミヤ、略称:労農赤軍、РККА エールカーカーアー)として設立され、1937年に海軍が赤軍から独立した後はソ連の地上軍(陸軍)を指す呼称となった。.
薩摩国
薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
間宮林蔵
間宮林蔵(松岡映丘・画) 宗谷岬にある間宮林蔵の銅像 間宮 林蔵(まみや りんぞう、安永9年(1780年) - 天保15年2月26日(1844年4月13日))は江戸時代後期の徳川将軍家御庭番、探検家。樺太(サハリン)が島である事を確認し間宮海峡を発見した事で知られる。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。名は倫宗(ともむね)。元武家の帰農した農民出身であり、幕府で御庭番をつとめた役人であった。生年は安永4年(1775年)とも。.
開拓使
開拓使(かいたくし)は、北方開拓のために明治2年(1869年)7月8日から明治15年(1882年)2月8日まで置かれた日本の官庁である。 樺太開拓使が置かれた明治3年(1870年)2月13日から明治4年(1871年)8月7日までは、北海道開拓使と称した。開拓使設置前の北海道行政は箱館府(箱館県)が行なっていた。開拓使の廃止後は札幌県・函館県・根室県が設立された。.
藩
藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.
金刀比羅神社 (根室市)
金刀比羅神社(ことひらじんじゃ、こんぴらじんじゃ)は、北海道根室市にある神社である。.
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色丹島
色丹島(しこたんとう)は、北海道根室半島の東に位置する島である。ロシア名はシコタン島(Остров Шикотан)。島の名の由来は、アイヌ語の「シ・コタン(大きな村)」に由来する。古くは「斜古丹」「支古丹」とも表記された。.
色丹郡
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若宮丸
若宮丸(わかみやまる)は、仙台藩指定の廻船問屋米沢屋平之丞の持ち船で、24反帆、800石積みの千石船。.
陣屋
復元された兵庫県佐用郡佐用町乃井野の旧三日月藩政庁三日月陣屋 兵庫陣屋絵図/神戸市立博物館蔵 陣屋(じんや)は、江戸時代の幕藩体制における、大名領(藩)の藩庁が置かれた屋敷、また徳川幕府直轄領の代官の住居および役所が置かれた建物のことである。.
択捉島
択捉島(えとろふとう、)は、千島列島南部に位置する島。日本では固有の領土であるとしているが、現在はロシア連邦が実効支配している。 地名の由来は、アイヌ語の「エトゥ・ヲロ・プ(岬の・ある・所)」から。ロシア名はイトゥルップ島(ロシア語: Итуруп)。.
択捉郡
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松平定信
松平 定信(まつだいら さだのぶ)は、江戸時代中期の大名、老中。陸奥白河藩第3代藩主。定綱系久松松平家第9代当主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。1787年から1793年まで寛政の改革を行った。.
松前藩
松前藩(まつまえはん)は、渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。後に城主となり同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼ばれる。慶応4年、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称した。家格は外様大名の1万石格、幕末に3万石格となった。 江戸時代初期の領地は、現在の北海道南西部。渡島半島の和人地に限られた。残る北海道にあたる蝦夷地は、しだいに松前藩が支配を強めて藩領化した。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった。江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた。.
根室市
ア語が併記された道路標識 根室市(ねむろし)は、北海道本島の最東端にあたる市で、北海道根室振興局の所在地である。.
根室国
根室国(ねむろのくに)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つで、五畿八道のうち北海道 (令制)に含まれた。根室はもと「ねもろ」と読んだ。道東に位置し、領域は当初、現在の根室振興局管内の北海道本島部分と歯舞群島および色丹島で構成された。.
根室振興局
根室振興局(ねむろしんこうきょく)は、北海道の振興局のひとつ。振興局所在地は根室市。2010年(平成22年)4月1日、根室支庁に代わって発足した。.
根室支庁
根室支庁(ねむろしちょう)は、かつて北海道に存在した支庁のひとつ。支庁名は根室国に由来する。支庁所在地は根室市。2010年(平成22年)4月1日、根室振興局に改組。 本支庁に含まれる歯舞諸島・色丹島・国後島・択捉島の領有権に関する詳細は北方領土の項目を参照。.
樺太
樺太(からふと)、樺太島(からふととう、、)、サハリン、サハリン島は、ユーラシア大陸の東方、オホーツク海の南西部にあるロシア連邦サハリン州の島。広義の日本列島に含む場合もある。南北約948km、東西の幅最大約160kmで南北に細長い。面積76,400kmは世界第22位で21位の北海道(78,073km)より若干小さい。人口約50万人。最大都市はサハリン州の州都でもあるユジノサハリンスク(人口約18万人)。 樺太は、日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度線を境界に南北に分割され、それぞれ異なる沿革を経たため、ここでは北緯50度以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。 現在、サハリンプロジェクトが進められている。.
樺太・千島交換条約
樺太・千島交換条約(からふと・ちしまこうかんじょうやく)は、明治8年(1875年)5月7日に日本とロシア帝国との間で国境を確定するためにサンクトペテルブルクで署名され、同年8月22日に東京にて批准され締約された条約。 千島・樺太交換条約や、署名した場所からとってサンクトペテルブルク条約(Treaty of Saint Petersburg、Санкт-Петербургский договор 1875 года)と呼ぶ場合もある。.
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正徳 (日本)
正徳(しょうとく)は日本の元号の一つ。宝永の後、享保の前。1711年から1716年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川家宣、徳川家継。.
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正保
正保(しょうほう)は日本の元号の一つ。寛永の後、慶安の前。1645年から1648年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.
正保国絵図
正保国絵図(しょうほうくにえず)は、日本の江戸幕府が、諸大名に命じて国単位で作らせた国絵図で、これに基づき、正保日本図(日本総図)が作成された。 原本の大半と総図は、皇国地誌編纂中の1873年(明治6年)、皇城火災により消失したが、複製(国立歴史民族博物館所蔵)が伝わっている。現存する国絵図は、羽後、出羽、秋田、仙北、出羽六郡、庄内三郡、新庄領、奥州南部十郡、南部領、山城、摂津、安芸、対馬、筑後、豊後。また、提出もととなった各地の大名家ゆかりの原本の原本や、写本が残されている例がある。.
江戸幕府
江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.
江戸時代
江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.
泊村 (北海道根室振興局)
泊村(とまりむら)は、北海道根室振興局国後郡の国後島の西半分を占める村。2017年現在泊村を含む北方領土に日本の施政権は及んでおらず、法律上のみ存在する村となっている。 当該地域の領有権に関する詳細は千島列島及び北方領土問題の項目を、現状に関してはサハリン州#南クリル管区の項目を参照のこと。.
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津波
津波の発生原理を示す図 津波(つなみ、Tsunami)は、地震や火山活動、山体崩壊に起因する海底・海岸地形の急変により、海洋に生じる大規模な波の伝播現象である。まれに隕石衝突が原因となったり、湖で発生したりすることもある。強風により発生する高波、台風や低気圧が引き起こす高潮、副振動(セイシュ)、原因が解明されていない異常潮位とは異なる。 1波1波の間隔である波長が非常に長く、波高が巨大になりやすいことが特徴である。地震による津波では波長600km、波高5m超のものが生じた事がある(津波が陸上に達するとこの値は大きく変わる)西村、1977年、123-124頁。 津波という現象は、例えるならば大量の海水による洪水の様な現象であり、気象など他の要因で生じる波とは性質が大きく異なる。大きな津波は浮遊物と共に陸深くに浸入し、沿岸住民の水死や市街・村落の破壊など、種々の災害を発生させる。.
温禰古丹島
幽仙湖にそびえる黒石山 温禰古丹島(おんねこたんとう)は、千島列島の北部にある島。 島の名前の由来は、アイヌ語で「オンネ・コタン(大きな・村→大きな村)」となる。ロシア名はオネコタン島 (o.Онекотан)、英語表記はOnekotan。.
本州
本州(ほんしゅう)は、島国である日本の最大の島である島国(領土がすべて島から成る国)である日本を構成する6,852の島に対する『国土交通省』による区分け 6,852島(本土 5島 ・ 離島 6,847島)。 『国土交通省』サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識)2009年11月27日閲覧。ただし、島について地理学上はこのような分類・区分けはない。(島 :オーストラリア大陸の面積未満で、四方を水域に囲まれる陸地)。極東そして東アジアの沿岸沖に位置し、最高標高3,776m、面積227,942.85km2。世界の島の中では、面積はインドネシアのスマトラ島に次ぐ第7位、人口はジャワ島に次ぐ第2位である。 地質学や考古学などでは本州島という名称も使用される。 本州には34の地方公共団体がある(1都2府31県)。日本国内では、本州とその付随する島を合わせて「本州地方」と言うが、単に「本州」と呼称する場合もある。 「本州」という名は、日本の主要な島であることに由来し、古代の呼称は「'''秋津島'''」・「'''秋津洲'''」(あきつしま、あきづしま)などが知られる(本州#歴史書における呼称)。.
振別郡
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最上徳内
最上 徳内(もがみ とくない、宝暦4年(1754年) - 天保7年9月5日(1836年10月14日))は、江戸時代中後期の探検家であり江戸幕府普請役。出羽国村山郡楯岡村(現在の山形県村山市楯岡)出身。元の姓は高宮(たかみや、略して高(こう)とも)。諱は常矩(つねのり)。幼名は元吉。通称は徳内、億内。字は子員。鶯谷、甑山、白虹斎と号した。父は間兵衛で長男。妻はふで(秀子)、子は2男3女。生年は宝暦5年(1755年)とも。 実家は貧しい普通の農家であったが、学問を志して長男であるにもかかわらず家を弟たちに任せて奉公の身の上となり、奉公先で学問を積んだ後に師の代理として下人扱いで幕府の蝦夷地(北海道)調査に随行、後に商家の婿となり、さらに幕府政争と蝦夷地情勢の不安定から、一旦は罪人として受牢しながら後に同地の専門家として幕府に取り立てられて武士になるという、身分制度に厳しい江戸時代には珍しい立身出世を果たした(身分の上下動を経験した)人物でもある。.
戊辰戦争
戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。 明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。 以下の日付は、断りのない限り旧暦でしるす。.
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
昭和
昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.
海国兵談
『海国兵談』(かいこくへいだん)とは江戸時代中期に林子平によって書かれた政論書であり、全16巻から成る。.
新知島
新知島(しむしるとう、しんしるとう)は千島列島の中部にある火山島。ロシア名はシムシル島(о.Симушир)、英語表記はSimushir。 島の名前の由来は、アイヌ語の「シ・モシリ(大きい・島→大きい島)」から。.
新知郡
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文化 (元号)
文化(ぶんか)は日本の元号の一つ。享和の後、文政の前。1804年から1818年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。 町人文化が顕著に発展した時期であり、後続する文'''政'''期とあわせ、化政文化という。.
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文化露寇
日本側が記録したレザノフの船と部下 文化露寇(ぶんかろこう)は、文化3年(1806年)と文化4年(1807年)にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件(朝日新聞、2010年9月6日)。事件名は日本の元号に由来し、ロシア側からはフヴォストフ事件(Инцидент Хвостова)とも呼ばれる。.
文政
文政(ぶんせい)は日本の元号の一つ。文化の後、天保の前。1818年から1831年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.
斉明天皇
皇極天皇(こうぎょくてんのう)、重祚して斉明天皇(さいめいてんのう;齊明天皇、推古天皇2年(594年) - 斉明天皇7年7月24日(661年8月24日))は、日本の第35代・第37代天皇。 在位期間は、皇極天皇として皇極天皇元年1月15日(642年2月19日) - 4年6月14日(645年7月12日)、斉明天皇として斉明天皇元年1月3日(655年2月14日) - 7年7月24日(661年8月24日)。 舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から一代おいて即位した女帝(女性天皇)になる。.
日露和親条約
日露和親条約(にちろわしんじょうやく、Симодский трактат)は、安政2年12月21日(1855年2月7日)に伊豆の下田(現・静岡県下田市)長楽寺において、日本とロシア帝国の間で締結された条約。日本(江戸幕府)側全権は大目付格筒井政憲と勘定奉行川路聖謨、ロシア側全権は提督プチャーチン。 本条約によって、千島列島の択捉島と得撫島の間に国境線が引かれた。樺太においては国境を設けず、これまでどおり両国民の混住の地とすると決められた。この条約は1895年(明治28年)に締結された日露通商航海条約によって領事裁判権をはじめ全て無効となった。 条約の正式名称は、日本国魯西亜国通好条約(にっぽんこくろしあこくつうこうじょうやく)である。日露通好条約、下田条約、日魯通好条約とも呼ばれ、また条約締結当時の日本では日魯和親条約と表記していた。.
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擦文時代
擦文時代(さつもんじだい)とは、7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて北海道を中心とする地域で擦文文化が栄えた時期である。本州の土師器の影響を受けた擦文式土器を特徴とする。後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとってかわられた。(詳細は「蝦夷#えみし」の項を参照) この時代、9世紀(平安時代前期)までは擦文文化と並行してこれとは異質なオホーツク文化が北海道北部から東部のオホーツク海沿岸に広がっており、その後13世紀(鎌倉時代後期)まではその系譜を継ぐトビニタイ文化が北海道東部にあって、擦文文化と隣り合っていた。トビニタイ文化はオホーツク文化に擦文文化が取り入れられたものだが、後期には擦文文化との違いが小さくなった。そこで、トビニタイ文化を擦文文化に含める考えがある。.
1635年
記載なし。
1644年
記載なし。
1661年
記載なし。
1662年
記載なし。
1700年
17世紀最後の年である100で割り切れてかつ400では割り切れない年であるため、閏年ではない(グレゴリオ暦の規定による)。。.
1711年
記載なし。
1712年
記載なし。
1713年
記載なし。
1715年
記載なし。
1721年
記載なし。
1731年
記載なし。
1738年
記載なし。
1747年
記載なし。
1754年
記載なし。
1766年
記載なし。
1769年
記載なし。
1772年
記載なし。
1773年
記載なし。
1776年
記載なし。
1779年
記載なし。
1781年
記載なし。
1783年
記載なし。
1786年
記載なし。
1788年
記載なし。
1789年
記載なし。
1791年
記載なし。
1798年
記載なし。
1799年
記載なし。
1800年
18世紀最後の年である100で割り切れてかつ400では割り切れない年であるため、閏年ではない(グレゴリオ暦の規定による)。。.
1801年
19世紀最初の年である。.
1803年
記載なし。
1804年
記載なし。
1805年
記載なし。
1806年
記載なし。
1807年
記載なし。
1808年
記載なし。
1811年
記載なし。
1813年
記載なし。
1816年
記載なし。
1821年
記載なし。
1845年
記載なし。
1854年
記載なし。
1855年
記載なし。
1859年
記載なし。
1869年
記載なし。
1875年
記載なし。
1876年
記載なし。
1882年
記載なし。
1884年
記載なし。
1885年
記載なし。
1945年
この年に第二次世界大戦が終結したため、世界史の大きな転換点となった年である。.
6月 (旧暦)
旧暦6月(きゅうれきろくがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から6番目の月である。 天保暦よりも前の定義では、大暑を含む月を6月とする。新暦では6月下旬から8月上旬ごろに当たる。 6月の別名は水無月(みなづき)である。名前の由来は6月を参照のこと。異称は「きか(季夏)」。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、6月29日までで6月30日は存在しない年もある。.
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7月27日 (旧暦)
旧暦7月27日は旧暦7月の27日目である。六曜は先負である。.
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8月15日
8月15日(はちがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から227日目(閏年では228日目)にあたり、年末まであと138日ある。.
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